『老いの渇望』
 
12 最後の吉本隆明
                     2021/10/24
 
 思想家吉本隆明さんの本に、『最後の親鸞』という作品がある。それを思い出して、またそれをもじって、これから書こうとする文章の題名としてみた。
 何を考えてそうしたかというと、要は、吉本さんが好きで多くの著作を読んできたぼくが、吉本隆明の最後の言葉をどこにとるかについて考え、またそれについて語ってみたかったということである。
 膨大な著作の、また膨大な言葉群の中から、吉本さんの最後の言葉、読者へのメッセージを抜き出して書き留めようという魂胆である。そしてそれはもうずっと前から考えて来たことで、どんな言葉を拾い出すかも決まっている。それはぼくにとっては最後の吉本隆明ということになる。正確な引用、また記述ではないが、記憶に残るイメージの言葉としてそのまま書いてみる。。
 晩年近く、吉本さんが娘である吉本ばななさん(二女)との対談で、「人というものは、他の人から後ろ指さされることがあったとしても、家族仲良く暮らせる、そんな家庭が築けたらそれで十分なんだよ、それ以上のことは何もないんだよ」という趣旨の発言をしていた。正確ではないが、およそそんなことを語っていたのだ。大変凡庸な言葉であるに違いないが、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』をはじめとして、ほかにも膨大な論考があることを背景として考えた時に、この凡庸な着地の言葉、あるいは着地の言葉の凡庸さは逆に何事かに思えた。つまり、膨大に思考が積み重ねられた末に、それらの思考を背景に退かせた上でのその言葉なのである。「家族、仲よく」というのは、「知」の課題でも何でもない。ただ「無知」に向かって「非知」を行く時に、共通の課題、共通の理想として立ち上がってくるのではないか。人間にとって、最初にして最後の且つ最小にして最大の理想だよと、吉本さんは言いたかったのではないだろうか。いずれにせよ、「よい家庭を築くこと、生涯家族仲良く暮らすこと、これが出来たらほかのことはどうだっていいと言えるくらいすごいことなんだ」というのが吉本さんの最後の言葉、最後の読者へのメッセージ、というふうにぼくは考える。また、最後の吉本隆明はそういうところに立っていたと思う。
 
 世の中に、天才、秀才、偉才などと称えられる人はいろいろな分野、領域に渡ってたくさんいる。古くは孔子や釈迦といった、聖人、偉人に祭り上げられる人たちもいたし、現在では大リーグで活躍する大谷翔平選手のような有名人もいる。
 普通はそういう著名人を例にとって、それらの人々のような立派な人を目標に、頑張って努力しなさいなんてことを言う。言われる当人もそれら著名人の業績に感心しきりとなり、憧れ、また生き方を目標にして頑張ってみたりする。
 ぼく自身もまた、若い頃に太宰治や吉本さんに憧れ、文学に憧れた、という経験を持っている。ああいうような小説や詩を書いてみたいと思って、まねごとのようなこともしてみたことがある。そういうことは文学、スポーツに限らず、例えば音楽、絵画、あるいは学問、思想、哲学、政治、その他いろんな分野、領域において、日常茶飯のように見かけられることのように思える。他人の生き方、考え方に憧れ、それを目標にする。そこには向上心があり、社会の中で自分を有用な存在に仕立て上げたいという欲求もうかがわれる。
 誰もがすごいね、立派だねと感心するほかない生き方、考え方。あるいは人のために尽くし、世の中に尽くす生き方。それを世の中的には価値のある生き方のモデルのように見做すわけだが、吉本さんはそれに対して、いやいやもっとよくよく考えてみたら、それ以上に価値ある生き方というのは別にあるんだぜ、と言っていることになる。そしてそれが、良好な関係を保持した家族、家庭を築くこと、それなんだと吉本さんは言う。
 生き方の価値ということであれば、若い頃に吉本さんは「大衆の原像」という言葉をもって、ごく普通の生活者としての生活を全うする生き方がいちばん価値あることだと提唱していた。これにつなげて考えれば、ごく普通の暮らしをしながらさらに理想の家族関係、家族形態を築くことが出来れば、ほかにこれにまさる大事も価値もない、そう吉本さんは言いたかったのだろうと思う。
 
 ぼくはたしかに、「最後の吉本隆明」はここに述べているところに居るのだろうという確信がある。だがそれがなぜ家族(家庭)なのか、家族(家庭)でなければならないのかなどについて、はっきりと説明してみせることが出来ない。直感的にそう思い、そう感じているだけだ。
 戦後最大の思想家とか、知の巨人とか呼ばれることもあった吉本さんは、哲学、思想、文学、政治、経済など多岐にわたって鋭く思索を積み重ねた人だ。そういう人が、それまでの自分の全仕事、全業績をひっくり返すかのようにホントに大事なのはよい家庭作りなんだよと言う。世に評価されるのは前者だが、吉本さんは平気でそれを第二義のものと断定する。世に評価されることなんてどうでもいいことなんだとさえ言っているように聞こえる。常識的な考え方、言い方ではない。世間的には世の中での評価が優先的に考えられる。これに対して吉本さんは、よい家庭が築けたらそれは天下一品、と言うわけだが、こういう言い方もまた、ふつうの生き方にいちばんの価値があるという言い方に同列のものだ。
 ところで太宰治の小説に「家庭の幸福」と題した作品があり、末尾は「家庭の幸福は諸悪の本」というフレーズが置かれて終わっている。「家族(家庭)第一主義」のエゴイズムが諸悪の根源だという考えで、これは表層的には吉本さんの言葉に対立する。ただ太宰の表現は一種のイロニーと言ってよく、断定ではなく問題提起の域を出ない。太宰のいろんな作品を読むと、表向きはあまり家庭を顧みない人のように描きながら、内心では家族思いであることを想像させる記述が多い。だが家族第一主義かというとそうではなく、あえて言えば芸術(文学)第一主義で、別に言えば自分第一主義のようだ。
 自分、つまり自己、そして家族と来れば、あとは社会、共同性と言うことになる。観念の問題としてみれば吉本さんが主張した、個人幻想、対幻想、共同幻想の3通りに分類され、世の中的には社会事象、すなわち共同幻想に関する事項が第一義のように取り沙汰されることが多い。共同体第一主義とでも言うべきか、国益が最優先、企業利益の最優先、あるいは官公庁、学校などの組織維持最優先の考え方などはそれだ。
 自分の立ち位置で、個人、家族、共同社会の3つの側面の内のどこにウェイトを置くか。自己でもなく、組織体の共同性でもなく、性を基盤とした家族共同体が一番というのはどういう理由か。
 
 本当はここからそこを掘り下げたかったのだが、これをやり出すといつ終われるか見当もつかない。そこでとりあえずここで一区切りつけたいと思う。続きが書けるかどうか、いつ書き始めるか、皆目分からないのだけれど。