『老いの渇望』
 
12 「家族(家庭)問題の一考察」
                     2021/11/04
 
 吉本さんの言に倣い、家族(家庭)のために生き、親和的な家族(家庭)が形成できたらいいねと内に問いかけながらずいぶんと月日が経つ。もちろんそれ以前から普通の社会人、普通の家庭人になれればいいという考えはあった。特に自分の観念を第一義と考えることに抵抗があった。家族が出来てからは、これを優先しようという考えもあった。吉本さんの先の言葉を読んでからは、より家族の方を向くシフトをとるつもりだったが、結論から言えば達成度は5割くらいの出来で、全然自慢できたものではない。が、卑下するほどに駄目なわけでもない。最終的にどう転ぶか分からないところだが、現在も鋭意努力中なのだ。
 家族の中でも夫婦は他人の始まりである。夫婦と言ったが、本当は一対の男女、もっと言うと男女にかかわらずペアと言うほどの意味で、また、入籍しているかどうかも関係がない。性愛をもとにした一組の対であればいいので、その一対はおおむね他人同士である。
 この一組の関係は、とにかく濃密な関係であることが言える。そしてそこには一人の他者との関係の持ち方の、濃縮されたエッセンスが立ち現れてくる。そういう気が、ぼくにはする。そしてそこでよい関係というものが作り出せなかったとしたら、あるいは構築できなかったとしたら、ほかとの関係でよりよい関係はどういうものかという判断を誤るのではないかと思う。要するに家族問題は対他関係の要に位置する問題ではなかろうかとぼくは思う。またそれは個人がたどり着く最終の場所の一つ、普遍性を持った場所であると言うこともできる。そしてある意味共同性の最小単位としての家族、そこでよい関係を築けないものが、より規模の大きな共同性の中で共棲する時に、親和的、また協調的に存在(生活)していけるわけがない。
 このことは今現在の世界状況を前提にしているのではなく、仮に理想的な世界、理想的な社会が実現した時に、その社会の成員はどうあるべきかを考えた時、あり得べき大衆のあり方としてこう考えているというだけのものである。そしてそれを視野に入れた時に、よりよい家族(家庭)関係作りの中で本当の「他者」に出会い、それはそのまま世界(社会)に出会うことと同じだとぼくは思うのだ。 一組のペアにおいて、対手はしばしば世界の側からの使者のように感じられる時がある。もしかするとこれはぼくだけの感じ方かもしれないが、そんなときぼくは世界に直に向き合っていると思う。対手が世界大に変貌し、世界にどう向き合うかが試される。あるいは世界とどう折り合いをつけるか、そのことはペアとなる対手とどう折り合いをつけるかと同じなのだ。それは家族の他の成員との関係においても同様のことが言えると思う。
 
 太宰治はいくつかの小説作品で、芸術の苦悩に没頭するが故に家族に背を向け家族を顧みない主人公の、なお後ろめたさを吹っ切れずにいる弱さを描いた。ちょうど吉本さんの言葉とは真逆に、その主人公は家族(家庭)の親和よりももっと大事なことがほかにあるかのように思いなしていた。それはもしかすると世界全体の親和というものだったかも知れないが、考えてみれば、個人や家族(家庭)の親和や自由や平安を犠牲にして成り立つ世界平和など、実現したとしても早晩瓦解するほかないものと思う。太宰は、家族(家庭)の親和よりも大事なことがほかにあるという立場に立ち、吉本さんは逆に家族(家庭)の親和が人生の一番の大事、と言う立場に立っている。ぼくはそう考える。
 ここで一つ言いたいことは、世界の親和や平和は知識者の課題ではあっても、一生活者、庶民、大衆の課題ではけしてないだろうということだ。だから知識人でも何でもない普通の人は、直に接する他者としての連れ合いにどう向き合うかを考えた方が、あるいはこれを優先する方が実際的であり本質的であると思う。
 夫婦一体という言葉遣いがあるが、つい最近までの日本社会では妻が夫に100%合わせなければならないというような風潮があったと思う。ぼくなども、ふだんフェミニストぶった言動をしがちだが、肝心な事柄においては妻が自分に同調してくれないことに不満を抱くことが少なくなかった。要するにどこかで、一体ということは妻に合わせて一体ではなく、自分の方に合わせてくれなくては困ると考えていたようなのである。
 これに対し、相対する妻の方ではハイハイと応えながら、知らぬふりして自己流を通していることが少なくない。結果、生活習慣などは次第に妻の郷里のそれに沿って流れていることにはたと気づいたりする。婉曲にいろいろなことを要求してきたけれども、なかなか変わらぬ他者に業を煮やし、ならばとぼくは自分を変えて今に至ったものか。
 太宰治の小説の、家族(家庭)をないがしろにして外に出かける夫。また吉本さんが言うように家族(家庭)を大事にして、よりよい関係作りを第一義に考える夫。島尾敏雄の小説、家庭の事情小説、病妻もの、病院記など、いわゆる「死の棘」一連の小説群には主人公の両面の姿が描かれている。
 夫が外で浮気をし、それが妻の知るところとなり、しかもそれをきっかけに妻が精神に異常を来してしまう。そしてそれをきっかけに夫は妻の異常な言動に白旗を揚げ、かつての日常を取り戻すべく妻(家庭)に奉仕、服従する姿を描いている。
 こんにちの社会のありようでは即離婚となっておかしくない状況下であり、事実それが一般的な解決方法であり、標準的な対処の仕方であると言ってよい。そしてそれであれば後々後腐れなく関係を絶つことが出来、島尾の小説にあったような妻の心的な葛藤、心的なダメージは幾分か軽くすんだかも知れないのである。ところが主人公は、しばしば錯乱状態に陥る妻の精神に辟易しながらも断絶、すなわち離婚を決意するのではなく、逆に妻の精神の核、その内懐に潜り込むように向き合っていく。結果、自他の精神の境界を踏みにじるように互いに往来を繰り返し、寄り添い、溶け合い、時に激しく反発し合いという未曾有の対なる関係の心的世界が描かれる。
 夫婦の争いに翻弄された子どもたちも含め、家族再生の道がやがて現実的にも始まっていくのであるが、読者はそこまでの過程で幾度も疲労困憊を味わい、また以後の再生の道の険しさに思いを馳せ、声なき呻吟を深くせずにいられないのである。
 
 現在の日本の社会で、家族の場所、また家族そのものも大変危機的で壊滅的である。一つは離婚が多く、父子家庭、母子家庭が増えている。また長く付き添った末の晩年離婚というのも増えているらしい。それから結婚しない人、出来ない人が増え、そのことに伴って子どもの出生率も減少しているという統計が出ている。
 これらのことが何を意味しているかというと、現在の日本社会は家族にとってとても不適切なものになっている、その一点であると思う。高度な文明社会になったのではあるが、「家族」にとってはとても形成しづらい、維持しづらい、そういう社会になっている。さらに子育てしづらいという側面も際立っている。
 こういう社会で夫婦円満、親子円満など、テレビのCM以外でめったに出会えるものではない。それぞれの家族はそれぞれに問題を抱えているに違いないと思う。家族は本質的に内側に閉じるものだから、表層的にはわかりにくいが、みんな悩みを抱えていると考えた方が妥当だと思う。もちろん我が家も例外ではなく、航海に例えて言えば、荒れた大海原を今にも壊れかけのおんぼろ船で遭難しかかりながら、やっとこ航海しているようなものだ。
 だからこそ、テレビCMは理想的な家族の典型といった像を創り出して見せるのだし、特に若い層の家族はそれを目指して頑張るという構図ができあがっている。
 一般的に言って、今でも多くの人にとって家族(家庭)の形成は一つの到達地点であり、目標でもあると思う。それは個人が形成しうる普遍的で、根源的で、現実的な唯一の、そして最小の共同性である。しかも身体と心とを共に投入できる最大の共同性でもある。この家族(家庭)生活(もしかすると今後は個人生活と言うことになっていくのかも知れないが)を最大限に援助し、守り、しかも文化的な生活を提供していくのも大きな共同体(国家)の役目であるが、今はそれを成し得ず逆に家族解体の危機を加速、拡散させつつある。
 大きな共同体などあてに出来ないのだから、ここは自力で自分たちの望む方向に頑張っていかなければならないと思う。人類にとっての普遍的な生活とは何かということについてよくよく考え、まずは足場を固めていくことが大事と思う。ぼくの考えではそれは、世界を誤らずに認識する1歩でもあるからだ。これを取り入れない思想はすべて無効であるとぼくは思う。
 ここまで述べてきた以外に、例えば家族は生まれた子どもを育てる基礎的な場だという極めて大切な役割を担うもので、同時に根源的に親和や愛の発生場所であるとも言える。こういうところも語るべきところかと思うがこれを言い出せばさらに収拾がつかなくなりそうなので、この半端な文章はここで切り上げることとする。