『老いの渇望』
 
13 孤独や孤立に対してのとりあえずの言葉
                     2021/11/23
 
 島尾敏雄の小説で、主人公が妻に付き添って一緒に精神病棟に入院して暮らす物語がある。それらは入院から退院までを克明に綴った、シリーズ化した作品群で、「病院記もの」などと言われることもある。その中に、妙に記憶に残った記述がある。主人公の夫がある日夢を見るのだが、その夢は、精神病棟内で感染が心配される恐ろしい病原菌が見つかったというものだ。そして、患者を残して看護師などがあたふたと病棟から去って行き、病棟の出入り口は鍵がかけられてしまう。その時、妻と一緒に病棟に取り残される夫は、ある種の興奮状態の中で、「恐ろしく思う人は扉の向こうに出て行きなさい」とか、「早く出なさい。出たいと思う人は早く出てしまいなさい」というようなことを心に呟く。主人公の夢に出てくる挿話に過ぎないのだが、作者はこれを主人公の心境を象徴する言葉として記述したものに違いないと思う。世間と隔絶された病棟に残ることは、心的な隔絶の具現化でもある。世界との隔絶と言い換えてもよい。夢の中の主人公はそのことに意義を認めているように思える。
 ぼくはこれを読んだ時に、島尾敏雄本人と思しき主人公の覚悟のようなものを感じ、また読み取って、感動したことを覚えている。狂者としての覚悟、いや狂者としてみられ、また扱われることの覚悟。もっと言えば妻と生死を共にする覚悟。あるいはまた他の精神病患者と生死を共にする覚悟。
 しかし、こう記しただけではぼくの真意は伝わらない気がする。ぼくの表現技術の拙さということもあるが、そこで、もう一つの表現の例を挙げてみたい。
 もう一つは吉本隆明の詩の表現で、これはすぐに探すことが出来るのでその中の句を抜き書きしてみる。
 
「ぼくはでてゆく
 冬の圧力の真むかうへ」
 
「ぼくはでてゆく
 無数の敵のどまん中へ」
 
「だから ちひさなやさしい群よ
 みんなのひとつひとつの貌よ
 さやうなら」
(吉本隆明「転位のための十篇」の『ちひさな群への挨拶』より)
 
 島尾と吉本の異なる状況、異なる境遇で表出された2通りの言葉たちだが、ぼくはここにある共通性を感じる。それは言ってみれば、両者ともに自分の孤立の状況を宿命と言えるところまで掘り下げ、核ににぶち当たり、ぶち当たったところでその宿命を自分で引き受けるというような志向性だ。
 表層で受け取れば単なる社会的な孤立に過ぎないのだが、それぞれの当人たちにとっては宿命的な孤立であり、心の核の部分での孤立なのだ。
 漠然と生涯を振り返る時に、ぼくの心に一つの印象が繰り返し現れる。
 年齢も言葉も考えも異なる人波があり、ただ同じ方向に顔を向けて黙々と歩いている。けれども、見知った顔も見知らぬ顔も、いつの間にか一人去り二人去り、いつしか歩いているぼくの周りには誰もいなくなる。はるか遠くに人影は見えるものの、声をかけて呼び止める気にもならない。ぼくはスタート地点で顔を向けた方向をひたすら歩いていただけだ。どういうわけか、ぼくと同じにみんなも歩いて行くはずだと思い込んでいた。けれどもそうして歩いているうちに、一人消え、二人消えしていった。もちろんぼくだけが道に迷い込んで群れから離れてしまった可能性についても考えた。でもたとえそうだとしても、ぼくはスタート地点でゴールに向けた顔の角度を変えず、ひたすらに正面を見据えて歩いてきたはずだという確信がある。
 さて、最後のぼくの話はさておき、島尾と吉本の世間との隔絶、心的な孤立を想像させる表現にはしかし、衰退や衰弱のイメージにはほど遠く、逆にその孤独、孤立こそが逆襲の源泉だとでも言いたげな強い意志のようなものが感じられる。島尾も吉本も、見えない世界(世間)からの圧力の「真むかうへ」出て行こうとしている。一人は閉ざされた精神病棟という異なる位相空間にとどまることで。もう一人は心の内で、ちいさなやさしい群れに「さようなら」を言うことで。島尾の主人公の言葉にも、あるいは詩人吉本のその詩句にも、アドレナリンやノルアドレナリンが出まくっている。
 世界はさまざまなかたちで個に圧力をかけてくる。もしもこれに屈すること、屈服することを拒絶するとすれば、個はどのような戦闘モードで対すればよいのだろうか。吉本や島尾がとった戦闘態勢はそれを暗示するもので、追い詰められて不安と恐怖が入り交じる中、圧が強いる世界からの孤立化の内側に向かって進んで歩き出す。そしてその過程で表層の文明、文化に惑わされることなく人間本質の位相で人々との結びつき、その新たな地平を見いだそうとしている。つまりそこでは圧からの孤立が霧消することになる。存在の核で「つながる」場所。そこが見つけられたら表層上の孤立を恐れることはない。 
 吉本隆明の詩も島尾敏雄の小説も現在ではあまり取り上げて論じられることがないようだし、あまり読まれているようにも思われない。でも、1度くらいは読んでほしいし、一生に1度はぜひ目を通してほしいと思う。こういう詩人、作家がいるということ、こういう詩人と作家の詩や小説があるということ。それらに出会うことは、きっと大きな支えとなり、心的な救いをもたらしてくれるに違いないと思う。運良く大過ない生き方が出来た場合は別として、生涯のうちのどこかで大きな問題とか障害とかにぶつかった時、彼らのような存在そして表現はきっと救いになる。
 現在を過酷だと感じたり、苦しいと考えたりする時、もっと過酷で苦しい状況の中でもがき、苦しみ、乗り越えようと闘った人たちがおり、その渦中で言葉を綴った作品が残されているということは、きっとそれを読んだものを鼓舞してくれる。ぼくはそう思う。
 いまの多様化の進んだ社会を俯瞰すると、孤独や孤立の数は潜在的に増大しているのではないかと思われる。このことに直接の解を与えるものではないが、極度に不安に感じたり恐れたりする必要がないことを彼らの作品の言葉は教えてくれるはずだ。逆に同じように悩んだり苦しんだりしている人は大勢いて、自分だけが辛いというのでもないことも分かってくる。そして今度はいよいよきみの番が回ってくるのだ。普通に、毅然として自立して生きる。ただそれだけを成せばよい。少数派の増大は、そのまま多数派に変貌する。
 もしかして時代は、吉本や島尾の表現世界に近づこうとしているのかも知れない、と思う。引きこもりや無職の若者の増加、理解に苦しむ無差別殺人事件、親殺し、子殺し、高齢者の孤独死また格差や貧困などなどの増大は、そのことの兆候のように見える。人と人との関係に緩衝材に当たるようななにかが失われている。人間にとってそれは言葉だと仮定すれば、信じられる言葉に出会えないということを意味していよう。そして出会えない不幸を、そのまま不幸で終わらせたくないとぼくは思う。
 孤独や孤立を推奨する意図は全くない。真の思想や芸術はそこから始まると言いたいのでもない。ただ、孤独や孤立が社会性の欠損のように見られたり、或いは寂しくつまらない生き方であるというような、マイナスイメージでばかり捉えられることに違和感を覚えるのだ。個々の人間は表層だけで捉えられるわけではないし、深さや奥行きというものを持っている。そこまで焦点を降下させていけば、そこにもある種の豊潤さが見て取れるとぼくは信じている。表層部分でのコミュニケーションに対し、存在の核の部分でのコミュニケーションの可能性は、内コミュニケーションと呼ばれてしかるべき仕方であると思う。そしてそこまで突き詰めれば、誰に後ろ指さされようが自分は自分であると対世間に対して拮抗しうるのではないか。そうして静かに寡黙に生ききろうではないか、と言いたいのだ。