『老いの渇望』
 
14 「死」のこと
                    2021/12/23
 
 自分の死というものは体験できないものだが、自分にとっての死とは何かという問いはしばしば浮かんでくるものである。
 しばらく前にいっぺん死んでみるかと考えて、死んだふりをしたことがある。と言っても、子どもがふざけてやるような死んだふりということではない。単に頭の中で、この世界から自分が不在になったらどうなるのだろうかということを想像してみたまでのことである。すると、自分の頭の中でだけ考えているのだから当然といえば当然のことだが、自分が消失するだけでこの世界は何一つ変わらないものだと考えられた。もっとはっきりと言うと、自分がこれまで生きた形跡、痕跡はすっかり消えて跡形もないということになる。そしてただそれだけのことだと思われた。それで何か不都合だろうかと自問すると、特に何もなかった。生きた証などなくて結構。死ぬ前にやっておかねばならぬことなど何一つもない。
 折々に考えてきたこと、例えばこのホームページでの言語表現など、ずいぶん思い入れ深い記述もあったにはあったが、これらも死ねば死にきりで2度と更新されることはない。仮に思考に一貫性があったとすれば、とりあえずそこに中断が訪れる。つまり、自分にとって死は思考、意識の中断となって現れる。これはいま死んでも100才まで長らえても同じことだと思える。
 自分の意識、思考、そして文字表現などは砂の城で、死んだ後はただ風化し、朽ち果てるだけである。実は、こうした事態が圧倒的で現実的なのだろうと思う。それではちょっとつまらない、身も蓋もない、と考える向きもあるのかも知れないが、まあそういうものなのだとぼくは思う。そういうことが残念だとか無念だとか、考えない。そのように成り立っている以上仕方がない。
 畢竟、無名者の生と死ということに落ち着くことになるのかと思う。そして、たぶん今のご時世では、こうした無名の領域の生き死にというものはつまらないということになっているのではないかと思う。だが動物にしろ植物にしろ、その生き死にはこうしたところにあるのであって、その生き死にに対して意味あるとか価値あるとかを形容してみせる方がおかしいのである。植物が生き、動物が生きるそのことに対して、無意味でつまらぬと考えるとすれば、そういう人間界にしか通用しない考えや意識それこそが無意味でつまらぬものだと言える。それこそが人間に内在する壁と言っていいもので、人間はその壁に閉じこもって意外に自由では無いのである。
 ということで、ぼくにはまだ人間の生き死にのことがよく分からない。
 だから今現在を精一杯生きましょうと言ったって、人間は言葉通りに生きられるものではない。言った先からごろんと寝そべり、大きなあくび一つ口から出て、精一杯なんて口先だけなのだ。それでいい。それでいいよとぼくは思う。