『老いの渇望』
 
15 「法の世」の完成形態
                    2022/01/16
 
 文字が出来てからこれを読み書きできるものが重宝され、またその後には書字、学問、思想などが大いに興隆していくこととなった。さらに一般にも文字が広まることによって、人間社会も大きく変わっていった。
 漢字はおよそ3500年前に中国で作られ、これを借りて日本で用いられたのは5世紀頃と言われている。これを前後して日本では大和朝廷が成立し、どちらが先かは別にして統一国家の成立過程と文字を用いることとの強い関連性を考えることが出来る。
 江戸時代の安藤昌益は古代国家が成立し、文字が用いられるようになった以後の世の中を「法の世」と呼んだ。これに先立つ「自然の世」との大きな違いは、人間に掟を課し支配する主体が、自然から一個人、もしくはその個人が属する集団に切り替わったところにあると考えた。そして安藤はその一個人あるいは集団を、天道を盗むものと批判した。言ってみれば、以後の世は自然・宇宙の摂理によってではなく、大盗人の個人的恣意に支配されるようになったと考えた。
 単純に言えば、以後の世の中は支配する側と支配される側とに2分されたと言ってもよいと思う。そして「法の世」の始めにはごく少数であった支配層とその支持層、協力者層は、潜在的予備軍の形で少しずつ勢力を拡大して、こんにちではその数は逆転した感がある。誰もが支配する側に立とうとして画策するようになったからだ。さらに最近になると、インターネットおよびSNSなどの発達により、国民と政治家、国民と政府の距離も縮まり、情報発信が双方向的になってきている。こうした状況の中で特に感じられることは、一般の人たちの発言に国家運営担当の立場に立っての物言いが多くなっていることだ。悪く言えば、国家にまんまと釣り上げられている、そう見えなくもない。
 現在の日本国家、その社会は、文字出現以後の歴史的社会の流れを汲んだ最終形態のような気がする。近代に民族国家と呼ばれるようになったそれは国民国家へと移行してきて、これは「法の世」の完成形態と言ってもよい。長い年月をかけて意識的にまた無意識的に目標とされてきた社会が、ここに現前している。そういう意味では日本の歴代の国家運営担当者たちの腕前は優れていたと考えるべきかも知れない。彼らは権力の駆使、および巧妙な文字言語の駆使によって国家体制を護持し、さらに国民と国家の良好な関係をかなりな程度意図的に謀ってきた。
 今回のコロナ感染のパンデミックを持ち出すまでもなく、日本という国は有事に際して変にまとまって統率がとりやすいところがある。国家を統括する側と、統括される側とが、相互に意図を汲みあって、妥協点に近寄ることができている。これには学問、そして学校教育の徹底した取り組み、その成果が大いに寄与しているように思われる。現在の国家に対して悪い言い方をすると、公教育を通して子どもたちは完全に国家に取り込まれてゆく。その子どもたちが青年になり壮年になる。頭脳派が増えて、社会は賢いものだらけになる。これはいいことなのだろうか。「法の世」、つまりは国家社会にとっては、事態は目論み通りに進んでいると言っていいのだろう。実態はどうであれ、現在の社会では「民主主義を守れ」と主張していれば大抵のことは罷り通ってしまう。それはもはや信仰に近く、異議は唱えにくい。国家主導の主義、主張、立場や体制であり、これを標榜する限り国家の安泰は担保される。
 国家はその性質として社会を統制し、個人をも統制する。学校教育はそれを為すための最も効率的でまた効果的な手段であると思う。全体を通して国家は国家が望む方向での社会人の育成を目標とするのであり、はじめから国家に不都合なことは教育課程から除外されている。つまり、国家にとって都合のよいことだけが教授されると言っていい。悪く言えば国家のよいところだけを児童生徒に擦り込む洗脳のようなものだ。例えば歴代の統轄者を、安藤昌益が言ったように「天下の大盗人」であるとか「不耕貪食の徒」と呼ぶことはないし、彼らが創設し維持してきた国家はいずれろくでもないものだから解体しようと言うはずもない。 こうしていったん出来上がった国家体制は、何度も統括のトップの交代劇を繰り返しながら、1度たりとも国家であることを止めようとはしないで現在に続いている。
 国家支配、法の遵守、これらは教育を通してすべての人々に浸透し、認知され、社会生活環境の母体のように認識されるようになった。同時に世界は個々の国家の集合体のように考えられている。この図式は誰の目にも、当面の間動かぬもののように意識されているに違いない。
 すべての文化事象、そして文化的主義主張は国家という壁の内部に、国家の存在を前提として行われているように思われる。逆に言えば、国家解体の発想など誰も取り得なくなってきつつあるということだと思う。国家内部において絶えず修正の処置がシステムとして完成していて、いずれよくなる時が来ると人々に信じられている。壁の中の教育知がそれを信じさせているのだ。
 もちろん現在の日本について、日本沈没、日本崩壊などと批判する向きもないではない。さまざまな課題、問題が山積みだという指摘もある。それもまたその通りだと思うが、そういう批判や非難を内部に取り込み、いっそう堅牢な国家へと生まれ変わる、そういう可塑性を持った永久運動を国家自体が手に入れているという気がする。国民を取り込み且つ自身を進化させ続ける、国家システム自体がそういうメカニカルな部分を自作できているのではないだろうか。
 こういうことについて、本当は緻密につめていって論を展開しなければならないのだと思うが、気力もパワーも下り坂で、とてもじゃないがやってられない。 吉本隆明の「共同幻想」の世界と、もう一つは安藤昌益の「法の世」にありながら「自然の世」のごとき世界への組み替えの方法と、誰かうまく理路をつけてくれないかと期待するばかりだ。