『老いの渇望』
 
16 ロシアのウクライナ侵攻
                    2022/03/19
 
 現在世界においては、国家から誰も自由であることができないように見える。グローバルな場で自己紹介しなければならない時は、はじめに、日本から来ましたとか日本人ですとかと言うことが多いだろうと思う。オリンピック・パラリンピックで選手の応援をする時は、特別な場合を除いてついつい自国の選手を応援してしまう。社会生活をしていく中で、知らぬ間に自国意識、あるいは民族意識というようなものも培われる。
 ロシアのウクライナ侵攻の報道を見たり聞いたりしていると、まさにそのことがよく分かる。国名で呼び、民族名で呼ぶことが現在の現実だからである。ウクライナという国があり、ウクライナ人がそこに暮らしていると解すれば、とても分かりやすいし、また分かった気になれる。けれどもほんとうは、一人一人の視線の上に立てばそんなひとくくりで言えるほど単純なものでは無いはずである。
 ロシア軍がウクライナに攻め入れば、まずはウクライナ軍がこれに対応する。これは現実的な定石である。ここまでは相互に軍隊を保持する政府間同士の戦争と呼べる。逆の見方をすると、国家や狭義の国家と言える政府というものが互いに存在しなければ戦争は起こりようが無いとさえ考えられる。現実にはしかし国家が存在し、狭義の国家と言える政府がしばしば軍事行動を引き起こす。一般の市民、国民はこれに否応なく巻き込まれてしまう。戦闘が激化すればするほどウクライナはウクライナに結束し、ロシアはロシアに結束していく。否応なく自国意識が高まってゆく。そういう力学が働く。これはおそらく他のどんな国においてもそうなる。
 
 ロシアとウクライナの戦いはウクライナ領内で行われ、これはロシア軍が一方的にウクライナに侵攻してきて戦争状態を引き起こしたと映る。またそれが事実だろうと思う。先手はロシア側で、ウクライナ軍がこれに応戦しているというようにだ。
 戦況はロシア軍が攻勢で、ウクライナは防戦一方で一般市民までこの防戦に進んで参加し始めていると伝えられている。ウクライナ政府もこれを要請しているという報道もある。ここまでくれば戦争反対とか、こんな政府は認めないとかの問題ではなく、突然暴漢に襲われた時と同じでとりあえず武器になるものを手に取って応戦するか、あるいは逃げるしか方途がない。とっさの判断で、そこに正解などあるはずもない。
 
 人類は数万年からあるいは数十万年の年月を積み重ねて、いま民族国家、国民国家を単位とする世界という枠組みを形成してここに至っている。だが、国家単位で形成される世界が最上の形かと言えばそれは疑わしい。20世紀、21世紀と戦争、紛争、内乱などが頻発。そして今回のロシアとウクライナの戦争、ロシアのウクライナへの侵攻である。
 ウィキペディア(Wikipedia)によれば、国家とは
 
一定の領土と国民と排他的な統治組織とをそなえた政治共同体を指す。また同じことは、「一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会」とも言える。
 
と表記されている。
 繰り返して言えば、人類がやっと手にした国家、政治共同体は必ずしもわたしたち(ごく普通の生活者)にとって至高のものとは言えない。役立つこともあれば害ももたらす。数万年、あるいは数十万年とも言われる人類史からすれば、たかだか2千年前位に成立した国家という体制は非常に新しい形態で、また別の共同体形態に変わって差し支えないものだと言える。もっと言えばそれほど普遍的な形態ではない。現在のわたしたちはこういう枠組みの中に生きているから、これが絶対的な現実として受け止めているが、少しも永久不変のものではないと考えるべきである。国家がなくとも生きていくことができる。なぜなら、国家成立以前の数万年、数十万年を人類は国家なしに生き抜いてきたのである。現にまた、欧州連合(EU)は「超国家」を構想した一例とも見なせる。これが成功か失敗か、あるいはわたしたち(ごく普通の生活者)にとってよりよいものになっているのかどうかはまだはっきりとはしないが、国家形態の限界が見え始めての移行、その現れの一つではないかと考えられる。
 
 日本の報道を見聞きする限り、ロシアとウクライナ両国のどちらに正義があり、どちらに非があるか、その検討からどちら側を批判してどちらを支援すべきかを問うような文脈で語られることが多いと感じる。遠い第3国の報道としては常套の仕方であり、憲法に戦争放棄を謳っている国の報道らしさもある。
 一般の生活者の立場としてそれらの報道を見れば、戦争に能動的なロシア、受動的なウクライナのイメージが形成され、日ごとに増える一般市民の死傷者、数百万単位の避難民を出すことになったウクライナに、NATOを含めて近隣諸国の効果ある支援、ロシア軍の進行を止める支援策が早く講じられるようにと願うばかりだ。そしてたぶん、一般の視聴者の思いもこういうところに収斂すると思う。さらに言えば、このような悲惨さの元凶はロシア大統領であるプーチンにこそあり、彼の権限、権力を剥奪する動きがロシア国内から起こればいいのにと願う人々も、わたしを含め少なくない気がする。
 当事者ではあり得ないわたしたちは、視聴時にこうした思いや感想を抱き、しかし次の瞬間にはそれぞれの生活空間と時間とに戻らなければならない。あるいは仕事に出かけ、あるいは食事の用意をし、あるいはテレビドラマやバラエティを視聴するといういつもの生活に。これはわたしも全く同様であり、あえて言えばこの問題の熱心な視聴者でさえない。
 日本の世論と同様に、わたしもまた一般的な視聴者の心情としてはウクライナに頑張ってほしいと願う。同時にもう一人の自分は、現状のような国家が世界の形成の単位となっている限り、こうした紛争、戦争はなくならないのではないかと考えている。国家と社会との関係の中から国家を廃絶する。あるいは国家の枢要な部分、国家の本質部分を骨抜きにする、そういう論議が出てこなければならない。もちろん現実的な喫緊の課題は戦争の終結にあることは理解している。だがその任は、国連をはじめとする政府間調整に関わる諸機関、諸制度、及び関連する団体や組織、肩書きをもつ者たちの仕事である。そしてそれはすべて現在の世界秩序を構成する因子そのものであり、秩序を肯定し、秩序に向かって閉じるだけのものだ。わたしたちはそれらの動向に任すほかないのだが、現状ではその任に応えられているようには見えない。はっきりと機能不全に陥っているが、これもまたわたしたちにはどうしようもない。
 
 ここまでを振り返って言えば、ロシアのウクライナへの侵攻の問題は、2国間の問題でありながら、さらに詰めて考えれば狭義には2つの政府間の問題であり、本質的には2国間の問題でも2つの国民同士の問題でもないと言える。政府間同士で決着をつけるべきいざこざに軍隊が出動し、場合によっては市民も参加して戦争が行われる。こんなことはもう止めたらいいのにと地球上の多くの普通の生活者が考えているというのに、一方が軍事解決を望めば他方はこれに応えざるを得ない。こういう構図はどうしたら無くせるのか。愛国愛国と政権が国民に呼びかけるのは常にこうした懸念があるからだ。いい加減に、世界は、世界が国家で区画されている現状を瓦解していく方向に論議を向けていくべきではないか。