『老いの渇望』
 
17 人間にとって適切な共同体規模とは何か
                   2022/04/18
 
 世界が現在のように国家単位で区画されて存在することは、歴史的に見て自然な流れであり、当然、そこに必然性もあったのではないかと考えれる。それでよかったのかどうかは別として、古代に自然的に発生した共同体は規模を拡大し続け、紆余曲折を経て、現在のような国家単位で世界の秩序を形成するようになった。別の言い方をしてみれば、やっと現在の世界の区画化にたどり着いたのである。言うまでもなく長い年月を必要とした。
 近代国家の成立、また現代の国家への変遷は、人類の英知の錯誤や苦闘の結果というようにも言ってみることはできる。たとえ完全なる完成形ではないとしても、また欠陥の多い出来損ないのように見えるとしても、最高の知性の参画によって形成されたものであることは間違いない。人間社会はどうあればよいか、その追求と模索の末に現在に至っている。それがこんな体たらくのものか、と言う感想は別にして。
 国家は、現実的且つ具体的な社会(共同体)を母体に持ち、その政治的な側面を分化・分離して成り立っている。社会から独立した機関として組織され、その組織体が社会全体を監視・管理し、統制し、また全体の利害調整といった機能も持っている。現在、国家と言えば狭義には政府あるいは内閣府などを指し、広義には領土と領土内に生活する人々、その社会生活などの全体をひっくるめて、例えば日本の国、日本国家などと考えられている。
 いま、ロシアの一方的な侵攻から始まったと見えるウクライナとの戦争が続いているが、これは国民同士、あるいは2つの国に住む社会生活者が直接戦っているわけではない。ロシア側で言えばプーチンを大統領とする政府が自国の軍隊に発令してウクライナに侵攻している。対するのもまた、こうした有事に出動するために組織されたウクライナ軍が、ウクライナ政府の命令の下に応戦する構図になっている。そこは職業的に戦闘専門集団同士の戦いとなっていて、これを指揮監督しているのは互いの政府だ。極端に言えば政府間同士の戦争で、この2つの政府がそれぞれ自国内において以前から100%の支持を国民から得ていたかと言えば、まずそんなことはあり得ないだろうと思う。例えば日本政府が日本国民からどの程度の支持を得ているかというと、平均すると50%前後になるのではないかという状況である。逆に言うと国民の半数くらいが支持できないと考えたりしているわけだ。ロシアもウクライナも事情は似たようなもので、それぞれ賛成派もいれば反対派もいると想像がつく。
 戦争では、政府が行うことに反対するものも賛成するものも否応なしに凄惨な戦闘に巻き込まれる。これは国家成立後、歴史的に何度も繰り返されてきたことだ。そして恐れるべきは、時代を経るごとに人、物の破壊が大きくまた残虐さが増していることだ。一般人はもとより、赤ん坊やちいさな子どもたちまで巻き添えになる。こんなこと、誰がどう考えてもやってはいけないことと分かっているのに、人間の世界はまだこれを自身で食い止めることができないでいる。
 あっけらかんとした理想を言わせてもらえば、世界各国は一斉に軍隊を廃絶すべきであるし、各国政府が軍隊を組織せず、また組織して命令を下す権限も同時に放棄すべきである。もっと言えば、究極には法も政治も政府といった機関も、最小限に形骸化するくらいがよいと思う。
 言うまでもなく、これくらいのところは誰だって考えているはずである。ただ、そんなことは不可能だと思って言葉にしない。人間世界はしかし、そこを求めて進むのでなければあとは壊滅を残すばかりになるのではないのか。
 
 一般的に見れば、共同体の規模というものは家族、親族、氏族、そして地域共同体というようなものから部族、統一部族といったものへ徐々に拡大し、こんにちの国家規模に至っていると考えられる。現在でも、これは膨張したり縮小したり、あるいは独立したり、併合したりを繰り返していて流動的である。EUのように、国家間統合を行っているところもある。つまり、国家を単位とした世界秩序は決定的なものではない。今後いくらでも変わり得るということである。その方向性は、2択にすれば、大きくなるか小さくなるかの2つである。もちろん現状を維持するという行き方も考えられる。
 もう少し踏み込んで考えると、部族を統一するというところから始まった国家という共同体は、不安定で維持していくのに無理のある共同体規模ではないかと思う。血縁もなく地域性も超えていて、結束がしづらい。法、つまり唯一観念で結束する以外になく、身体性を欠く。これは自然的な存在の仕方というわけにはいかず、そもそも国民というあり方が諸個人に弊害をもたらさずにはおかないと思える。
 江戸時代の安藤昌益は、人としての生き方の規範を、親族ないしは地域社会という次元にまで引き戻して考えようとした。つまり国家規模の規範、法は個々人の生活する社会に添わないと考えた。これは角度を変えて言えば、国家の形骸化、無効化、あるいは解体を目指すことを意味するもので、規範の規模を親族ないし地域社会に縮退させて考えようとしたかに見える。
 EUのように超国家を目指すか、安藤のような国家以前を目指すか、これからの国家の変遷にはこの2つの行き方が考えられる。言ってしまえば現在の国家体制はけして不動のもの、絶対のものというわけではなく、変わってゆくものだし変わっていかなければならない、変えていかなければならないとわたしは思う。