『老いの渇望』
 
18 ウクライナ戦争の見方、捉え方
                   2022/04/25
 
 ウクライナ戦争について、自分の知識は主にネットニュースから部分的に拾って、それも見出しや小見出しのようなところをつなぎ合わせて概観しているだけだ。
 それだけでも今回の戦争はロシアの独裁者プーチンによるウクライナへの侵攻、侵略行為で、これは全く支持できるものではないと考えられた。
 このプーチンの愚行を愚行としてはっきりと批判し否定し続けているのは山本哲士で、ウクライナはロシアの仕掛けた愚行次元の軍事侵攻に愚行次元に降りて対処した応戦で、当たり前のことであるとはっきりと擁護している。
 テレビ報道の解説などで、一般市民の犠牲を避けるためにはウクライナには応戦しないという選択肢もあったという意見が出たが、よそ事として考えるとそうした意見も出る。しかし例えばあまり付き合いのない、そしてどことなく反りの合わない隣人が難癖をつけて急に襲ってきたら、咄嗟のことであれば相手と同じ次元で応戦するということは、これは是非を云々できるような問題ではない。
 仮に日本に同じようなことが起き、日本がウクライナの立場だとしたら、国家を運営する立場であっても一般市民の立場であっても、武器を取って応戦しようかくらいは考えるかも知れない。誰かに言われてなすのではない。誰に言われずとも、非常時には非常時の行動に出る。もちろんただ逃げ惑うかも知れないし、これはその場に立ってみないと分からないことだ。そして、応戦しようが逃げようが誰もこれを批判することなどできないことだ。
 日本国政府の立場であっても同じようなもので、何だいきなり来やがって、そんならこっちだって黙っていないぞということになるのは当然だと思う。山本が言うように、相手が侵略という愚行次元で襲いかかってきたら、同じく軍事行動という愚行次元でこれを切り返すことは正当な防衛行為である。もっと言えば存在するもの、生存するものの正常で正当な反応というべきである。もちろんその時の咄嗟の反応に、侵略者の言いなりになるという選択肢もあり得ないわけではない。それはそれでいいのだが、いずれにせよ当事国、当事者たちの咄嗟の判断にケチをつける第三者の言葉ほど、知ったかぶりの軽い発言と思わせるものはほかにない。
 山本はこのウクライナへのロシアの侵攻を取り上げて、自分のブログで21までの番号を振ったコメントを連載して書いている。その意味では強くコミットしている方だと思う。つまりある程度の力を注いでいる。特徴的と思えるのは1つにはプーチンへの徹底した批判。過去のソ連時代への回帰志向を持ち、妄想が肥大化した独裁者、権力者、虐殺者と痛烈である。
 同時に、NATO、EU、国連、アメリカなどに対し、プーチンの独走を許し、かつ思い通りにさせていることの責任を有すると批判している。この批判もかなり辛辣で山本ならではのものだ。プーチン=ロシアの侵略とその軍事的な激化を抑止できない低い政治性をなじっている。腰が引けている、腰砕け、そんな論調だ。そういう見方は一般の報道には見られない。劣化した政治性というようにも一括して捉えている。国家の統治方法、技術、さらにおしなべて世界知性が低次元に停滞しているという観点からも論述がなされている。
 わたしにはこうした山本の分析、解釈の仕方は、とても勉強になるなあと思うし、またとても分かりやすい気がする。文章的、文体的に癖もあり、リアルタイムに発言しようとしてか誤記なども少なくないが、内容的には参考にしたい考え方をしていると思う。
 もうひとつ読んで面白いと感じたのは、内田樹のブログの文章で「日本は帝国の属領から脱却できるか?」という題がついたものだ。これは雑誌社からのインタビューに答えたものらしく、それをブログに転載したと記されている。
 内田の観点は、例えば次の引用箇所に端的に表れている。
 
内田 ウクライナ戦争は「国民国家の底力」を明らかにしたと思います。冷戦後、国民国家はその歴史的役割を終えて、ゆっくり消滅していくと考えられていました。経済のグローバル化によって国民国家は基礎的政治単位であることを止めて、世界は再びいくつかの帝国に分割されるようになる。S・ハンチントンの『文明の衝突』(1996年)はいずれ世界が七つか八つの文明圏に分割されるという見通しを語ったものですが、多くの知識人がそれに同意しました。
 ウクライナ戦争は「ウクライナはロシア帝国の属領であるべきか、単立の国民国家であるべきか」という本質的な問いをめぐるものでした。プーチンは旧ソ連圏を再び支配下に置くことで帝国を再編しようとした。それに対して、ウクライナ国民は死を賭して単立の国民国家であることを選んだ。帝国の「併呑」志向と国民国家の「独立」志向が正面から激突した。そして、歴史的趨勢は「帝国の勝利」を指示していたはずなのに、意外にもウクライナは頑強に抵抗して「帝国化」のプランを挫き、国際社会は「国民国家の復元力」を見せつけられました。国民国家はそう簡単に歴史の舞台から消え去るものではなかった。
 
 言葉は違うが、国家の解体傾向、あるいは消滅傾向が言われ、帝国化、つまり超国家への方向と、国民国家にとどまるあり方とが語られている。
 内田の「国民国家の復元力」には、従来のままの国民国家というイメージはない。インタビューのあとの方になると、「上位価値」を持つかどうか、目指すかどうかが国民国家存続の分岐点になるという考えが示されている。
 わたしはこれを国家以前という言い方で考えてきているが、江戸時代の安藤昌益の、「法の世」にありながら「自然の世」を実現するという考え方のバリエーションとして、どこかで通じ合うものがあるような気がしている。ただ、内田には国家をどう捉えるかという時の概念上の差異と、肉体が資本の一般大衆に対するよりも頭が資本の指導層に、よりシンパシーを持っているのではないかという懸念を感じてしまう。いや、為政者に向かっての啓蒙の文体とでもいうような、そんな匂いを感じさせられてしまう。もっと言うと言葉の向こう側に大衆の息づかいが少しも聞こえてこない。これは山本にも感じることで、両者ともに知に対する嗜好が強いと感じられる。別の言い方をすれば「無知」や「非知」に対する畏怖がない。
 ただ、山本にも内田にも、さすがに考えることを生業にしている人たちは知識量を含め、すごいもんだなあと感じないではいられなかった。わたしのような趣味の次元とは違う。いずれにしても直接にそれらの文章を一読してみることをお勧めする。山本は心身一体となってのめり込むように論じ、内田はやや距離をとっているが、相互にウクライナの戦いに対する敬意をはらっての仕方だとわたしには感じられた。とりあえず今日はこんなところで終える。