『老いの渇望』
 
1 安藤昌益、吉本隆明について語りながら、末尾で愚痴が出る文章
              2021/06/03
 
 安藤昌益は、彼の言葉で言うところの「直耕」(人間的には直接田畑を耕して穀物などを生産すること)さえしていれば、人間はそれ以上のことは何もしなくてもよいと言っている。また、する必要はないのだと断言している。
 安藤は、このことを人間の身体的理由、感覚的理由、精神的理由から導きだし、そして結論づけている。
 思うに、安藤はこういう言い方で、これが人間にとって第一義のことで、この余のものは第二義かそれ以下の意味合いしか持たないものだということを言っているのだと思う。
 これ(「直耕」)は人間が生きることの根幹に位置するもので、たとえて言えば樹木の根や幹に相当し、その余のものは枝や葉や花のように、枝葉末節に属するものだという考え方である。
 一転して社会に目を転ずると、人々の耳目は葉や花の部分にのみ注がれ、さらに異常な好奇心でもって取り沙汰されることが多い。
 つまり安藤の考え方は、社会通念上の在り方とは全く対立する形で、全く逆向きに構成されている。
 一般的な見方考え方と、安藤の考え方とは反転していると言える。
 「直耕」ということを少し広げて考えて、直接田畑を耕すと解さず、飯を食うために働いて生活することと捉えると、これは吉本隆明の「価値ある生き方」の考えに似てくる。
 吉本は40代中頃に「大衆の原像」という言葉とその概念を打ち出し、生涯を生活近辺の諸事に身と心とを滅することのできる人たちがそれであるとし、それが最も価値ある生き方なのだと述べている。
 安藤も吉本も、人類史を想像的に振り返り、また個の生涯を考える時に、食を得て生活を繰り返すそのことが骨格になるという考え方をしている。あるいは根幹、人の生涯の根っこや幹に当たる部分がそれだと考えている。
 大なり小なり、人は価値あるその生き方から逸れていくものである。
 社会とは無縁に、「直耕」に専念したり、仕事と身辺雑事のみに身と心とを砕く生活に専念することは、本当は容易いことではない。いつの時代にも悪い遊びの誘惑はあり、そうでなくとも例えば知識・学問に関心を持ったり、芸術・芸能に興味を持ったりして、それが高じるということもしばしば見かけられることである。吉本や安藤の考え方からすれば、それは価値ある生き方からの転落を意味するが、世間的には向上心とか上昇志向のように解され、ある意味自然の成り行きのように受け取られることである。
 特に現在という社会、世界では、枝葉にばかり注目が集まり、あるいは目を奪われ、生きることの価値はそこにこそあるのだと考えられるようになっている。
 例えばタレントや芸能人、ユーチューバースポーツマン、アーティストたちへの関心は、若者たちの間では絶大である。また社会的に、学者、専門家、あるいは医者、経済人、法律家、政治家、その他の文化人への注目度も高い。彼らは価値を有する生き方をしているものと目され、意識的無意識的に上位の人として遇されている。
 そういう中で、もちろん安藤の時代は違うが、いずれにせよ本当に価値ある生き方をし、目標とすべき生き方をしているのは「直耕」の人であり、ふつうの生き方をする一般の大衆の内にこそそういう生き方があると、安藤や吉本は言っているのだ。
 華やかなのは枝葉であり、そこに咲く花であるが、本当の価値は一見すると地味に見える根や幹の部分にあるのだと、両者は口をそろえて言う。
 わたしは安藤や吉本に加担したい。
 なぜなら、わたし自身も花や葉に目を引かれる一人に過ぎないが、考えてみれば根や幹を持たず、枝が広がり、緑の葉が繁茂し、花が咲き乱れることなどあり得ないことだからだ。
 わたしならば安藤や吉本に代わって、あどけなくまた尊大に偉ぶる著名人に向かって、「そんなに偉ぶるなよ、きみたちは根や幹の力を借りて枝先に開いた花に過ぎないんだぜ」と言ってやりたいと思う。
 ところで、安藤や吉本にとって価値ある生き方をする人、あるいは価値ある立派な人とはどういう人を指すか。安藤的には「直耕」以外には特別のことをしないふつうの人であり、吉本的には生活に埋没するように生きるふつうの人、と言うことになるかと思う。両者とも、そうした形でごくふつうに生きる人がいちばん価値ある生き方を体現し、立派な人なのだと言っている。少なくともわたしにはそのように思われる。
 吉本隆明は、100の価値ある生き方をしている人も存在しないし、価値が0の生き方をした人もいないのではないかと語っている。安藤昌益も言葉にしてはいないが、同様のことを考えていたと思う。「直耕」し、生活近辺に埋没するように生きても、社会共同体の内にあってコミュニケーションを取り合っている以上、余計な考えも振る舞いもしてしまうものだと言える。まして現在社会においては学校教育というものがあり、否応なく知識も技術も注入されるように組まれている。言ってみれば誰もが知識人の卵の時期を通過する。これに抗して完全な無知でいることはあり得ないことになる。つまりそこですでに、価値ある生き方から逸れるレールの上に立つことになっていると言えるのだ。
 安藤も吉本も、実のところ、100%価値ある生き方をすべきだといっているのではないと思える。特に社会の内にあって100%の価値ある生き方を実践することは困難なことであって、幾分かそこから逸れざるを得ないことは了解されているように思える。ただ、価値ある生き方というものが枝葉にあるのか、そうではなくて幹や根の部分にあるのかを知ることと知らないこととでは雲泥の違いがあり、そのことを弁えておくべきだと語っているのだと思う。
 安藤も吉本も、長い間歴史的に構築されてきた偉人の像、立派な人のイメージを反転して、ごくふつうの生き方をする人の方が立派で価値ある生き方をしていると言って見せた。つまり、一見すると地味で退屈で、つまらぬように見える生き方に光をあて、無名の人の生き方に目を注がせた。彼らは偉人たち、聖人たち、あるいは英雄たちが為した偉業を何一つといって為してはいない。逆に言えば、偉人たち、聖人たち、英雄たちが成し得なかったごくふつうの生き方を、事もなげに行った人たちなのだ。そんなこと、誰だってできることであり、していることじゃないかと言う人はいるだろう。だが、そういう人は人の生き方をどこかで誤解している。吉本も安藤もそう言いたかったに違いない。
 理想の社会とは何か。そう考えてみた時に、人が人の上に立つあり方、人の犠牲の上に富を得るあり方、そういったあり方が罷り通る社会は理想とは言えない。知らず、人の上に立つ、他人の人権をないがしろにする、そういうことも駄目だ。往往にして、人間の向上心や上昇志向、自分を自分以上のものにしようとする行いは、他者との見えない関係の糸を引いたり緩めたり、なにがしかの影響を与えるものだ。つまり、極端な場合には犠牲を強いる。これを免れようとする唯一の生き方、唯一の方法は、ここまで述べてきたごくふつうの生活をするというところにしかない。
 安藤や吉本は、宗教とは違う形で一般大衆、ごくふつうの生活者の復権、また救済を図ろうとしたと言えないことはない。
 吉本隆明について言えば、晩年、糸井重里との対談を数多く行っていたが、その中で、生涯を振り返り、「ちっとも得することはなかった。損ばかりしてきた。つまらない。おもしろくない」、などと述懐していた。
 こういう言い方は吉本の過去の思想を裏切ることになったり、軽いものにしてしまうようで、わたしは少し動揺し慌てる気分になった。だが間をおいて動揺が静まると、わたしは不思議な感動を覚えた。
 自分の思想的営為を褒めそやすものも少なからずいるが、こういうことはやらない方がいいよと、後人の者たちに向けて語りかけているのだ。こういう思いは安藤にもかすかに感じられる。師や弟子を持たない、と言うことは、自分の思想的営為、思考という営為は自分に留めおく。なぜならばそれは報酬を求めない、ただ長くつらい営為だからだ。
 吉本や安藤には嘘がない。それは真であると言うことでもあろう。
 でも、この「真」という言葉の響きは、なんと悲しいものであろうか。少なくともわたしはそう感じる。こういうものを他者に向かっておおっぴらにすることに、少なからず抵抗がある。
 わたしは時折表現したい思いに駆られて表現し、そのあとではいつも表現したものを隠したい思いに駆られる。
 安藤昌益について触れた文章に一区切りをつけたあと、わたしは猛烈に、これは書いても書かなくても同じことだという思いに襲われた。そしてもう書くことは止めようと思った。心には先の吉本の述懐が繰り返し思い浮かんだ。
 もうすでに語るべきことは語り尽くした。書くべきことは書き尽くした。柔な速球かもしれないがストレートの質は共通し、現在そして未来に向かってはただコースを変えたり、変化球を交えて対応すればそれですむように思える。一から考え直さねばならない出来事は皆無にも思えた。逆に微調整の修正は永遠に続くことだろう。それに耐えられる自信が今のわたしにはない。
 老兵はただ消え去るのみであると、いつかどこかで言ってみたい。