『老いの渇望』
 
20 安倍氏襲撃事件の報道に感じること
                    2022/07/10
 
 安倍晋三元総理が街頭演説中に襲撃され死んだ。予期せぬ出来事という意味では、ロシアのウクライナ侵攻に次ぐたいへんショッキングな出来事ではある。テレビもネットもこの襲撃事件を大きく扱い、テレビは特に夜の番組を変更してほとんどがこの事件の特番になった。
 ところで、いつものことだと言えばいつものことなのだが、それぞれの局のアナウンサーや解説委員、あるいは政治批評家などのコメンテーター、有識者や各党を代表する政治家たちなど、画面に登場する面々と画面のこちら側とは大きな温度差で隔てられているように感じられた。
 こちら側では大きく驚きはしたものの、毎日見聞きする死者○名の報道に同等で、悪く言うと他人事だ。わたしもわたしの身近に存在する人たちも、みんなそんな程度の受け止め方だ。わたしたちを一般的な民衆と考えるとすれば、民衆の多くもまたそんな程度に受け止めているのだろうと思える。知ってか知らずか、報道は各局それぞれに力を注ぎ特集を組み、繰り返し詳細を伝えていた。民衆の多くはしかし、放送局側が期待するほどには事件の詳細に関心がない。また短時間に全容が明らかになるはずもないことは知られている。あまり進展も全体の理解もなされない繰り返しの報道など見るよりは、通常のドラマやバラエティーが見たいと望んでいるに違いないのだ。
 放送局や政治家や解説委員など、発信する側に立つ人たちはここぞとばかりに発言に力を込める。でも民衆はまともに聞こうとはしない。なぜなら、それらの言葉は民衆に向けられたものではなく、内輪に、つまり発信する側の世界に向かって発言しているに過ぎないからだ。そう思えるほどに、画面の向こう側の世界は、言語的な振る舞いも含め、異質な世界のように感じられた。
 
 NHKのウェブニュースでは【安倍元首相 銃で撃たれ死亡 各党が哀悼の意】として多くの発言が掲載されている。その中から各党代表の発言を引用する。岸田首相の発言に関しては記載がなく、これはテレビ会見があったからだろうと思う。自民党の筆頭には細田衆議院議長の発言が紹介されているので、代わりにこれを引用しておく。
 
細田衆議院議長
 「突然の訃報は、痛恨の極みとしか言いようがない。この国の理想を目指して献身的に尽力された政治姿勢は、与野党問わず多くの議員から称賛された。政界の重鎮として、後進を指導・育成してきた功績は、わが国の議会制民主主義にとって誠に大きい。これまでの貢献に深く敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げる」
 
立憲民主党の泉代表
 「心からご冥福をお祈りするとともにこのようなテロ行為が発生したことは許されず、断固として非難したい。立憲民主党とは異なる政治的スタンスを持たれていたが国政に多大なる歩みを残され、わが国をリードされた元総理大臣として心から哀悼の誠をささげたい」と述べました。そのうえで「このようなテロ行為に屈してはならず、言論や政治活動が萎縮することはあってはならない。立憲民主党は政治活動、選挙活動を継続し、あすも『テロ行為を許さない』『民主主義を守る』ということを含めて訴え、民主主義の根幹の選挙をやりきっていく」
 
公明 山口代表
 「心からお悔やみを申し上げたい。激しい憤りを感じており、暴挙を断じて許してはならない。言論封殺を跳ね返し、民主主義の本来あるべき姿を示していきたい。安倍氏と長く政権を担ってきた思いや成果について、今後とも充実を図るよう努力していきたい」と述べました。
その上で、安倍氏の業績について「ざっくばらんにいろいろな意見交換をしながら政権運営をしたが、消費税の軽減税率の導入や、幼児教育・保育の無償化など、後世に残る大きな社会の基盤を築いた。活発な外交活動も展開し、日本の国際社会における存在感を大きく高めることに寄与された。そうした業績も道半ばという悔しい思いをされたと感じている」と振り返りました。
また、安倍氏の死去が報じられたあと、岸田総理大臣と電話で連絡をとったことを明らかにし「お悔やみの言葉を申し上げた。参議院選挙の最終盤なので、安全に万全を期し、民主主義の根幹であることを踏まえながら、暴力に屈してはならないという姿勢を国民に共に示していこうと確認した」と述べました。
 
日本維新の会の松井代表
 「民主主義の根幹である選挙の期間中に暴力をもって言論を封じることは絶対にあってはならず、厳重に抗議する」としています。
そのうえで、「この国を良くしていこうという安倍元総理大臣の強い想いに私も同じものを抱き、強く共感していました。志半ばでこのような事態になり無念な思いです。個人的にも親しくお付き合いさせて頂き、政治家として大変尊敬しておりました。国家と国民の未来のためにという意志と想いを引き継ぎ、まい進をしていく所存です」
 
日本維新の会の馬場共同代表
 「非常にユーモアがあり、ウィットにとんだ会話もされる、心の広い、みんなのことを考えている理想的な政治家だった。国家・国民のために高い理想を掲げていろんな難問を処理されてこられ、日本に非常に貢献いただいた、けうな政治家で国益を逸し、非常に残念だ」と述べました。そのうえ「近代国家日本でこういうことが起こるとは誰も予想していなかったと思う。民主主義に対する挑戦で怒りしか湧いてこない」
 
国民民主党の玉木代表
 「大変残念で大きな存在が日本の政界から失われてしまった。まさに『巨星墜つ』で心の中にぽっかりと穴があいたような気がする」と述べました。そのうえで「今回の蛮行は民主主義に対する重大な挑戦であり、脅威だ。暴力に屈してはならないので、民主主義の最大の発露である選挙活動は継続し、言論や選挙活動の自由をしっかりと守り抜いていかなければならない」
 
共産党の志位委員長
 「心からのお悔やみを申し上げたい。政治的立場は異にしていたが、同じ年に生まれ、当選も同期で同時代をともに生きた者として大変悲しく寂しい思いだ」と述べました。そのうえで「卑劣なテロで言論を封殺することは絶対に許してはならない。ましてや、民主主義にとって最も大事な選挙のさなかの蛮行を心の底から糾弾する。言論を暴力で断ち切るようなテロのない社会にするために力を尽くす」 
 
れいわ新選組の山本代表
 「ショックしかない。安倍氏は私たちとは政治的なスタンスは対極にあるが、2度も総理大臣を務め、非常に大きな力を持った政治家だった。銃撃で命を失われたことにまだ自分の中で整理がつかない。言論を暴力で封じようとする動きに私たちが言論で徹底的にたたかっていくことを誓うしかない」
 
社民党の福島党首
 「安倍元総理が亡くなったという報道です。改めてテロに強く抗議します。そして心から哀悼の意を表します」 
 
NHK党の立花党首
 「本当に残念でならない。安らかに眠ってほしい。犯人を許せないという気持ちと同時に、こうしたことが二度と起きないようにするにはどうしたらいいのか考えなければならない」
 
 異口同音に、民主主義への挑戦、テロ行為暴力行為は許されないなどと、憤りを率直に表している。
 これらは安倍元首相の死亡後の発言だが、襲撃直後に思想家の内田樹氏がブログにコメントを掲載していたのでその一部も引用してみる。
 
 いかなる政治的立場にある人間に対しても、その活動を妨害するために暴力を用いることは絶対に許されない。「絶対に許されない暴力」の犠牲になった安倍氏に対しては、立場を越えてすべての国民がその無事を祈っていると思う。私はほとんどすべての政治的イシューについて氏の掲げる政策に反対してきたけれども、今はただ彼の健康の回復と政界復帰を願っている。
 
 残念ながら、わたしも国民の一人だが内田氏が言うような祈り方はしていない。なぜなら報道の初期の段階から「心肺停止」が言われていて、これはもう助からないだろうなと半ば確信されたからだ。内田氏は文筆を生業のひとつともしているだろうから、嘘はついてないのだろう。本当に自分でも安倍氏の無事を祈り、「彼の健康の回復と政界復帰を願って」いたのだろう。 
 
 わたしはこのような内田氏の発言も含め、政治家たちも、どこか内輪で内輪向けのコメントをしているような気がして仕方なかった。その理由を考えてみると、被害者である安倍氏のことばかりが念頭にあって、もう一方の加害者は一顧だにされていないからだと気がつく。すべての発言者の頭の中にあるのは元首相の安倍氏のことばかりである。
 わたしは違った。犯人(確定していると思うので)は事件前までは一人の主権を持った国民であり、ここ数日あるいは数ヶ月、危ないことを考えていようがいまいがごく普通の国民として生活していた。その彼が、これまでとこれからの生涯のすべてをかなぐり捨てるようにして犯行に及んだ。これはベクトルを逆行させた自殺だと考えてもよい。わたしはそう思った。政治家や内田氏の発言には、犯人、つまり事件前までには国民の一人に過ぎなかった、その国民に向かっての視線がここでは全く欠落して見える。彼らにとって犯人は単なる一犯罪者であり、第三者であって、その犯行の経緯は切実に受け止められてはいない。それは、彼らの中に本当には国民一人一人に対する思いの切実さがないことを物語っているようにわたしには思われる。彼らの中に切実にあるのはやがて小さな「偉人」(?) のように遇されるかも知れない安倍氏への思いだけだ。
 「民主主義を守る」、「暴力を許さない」。口をそろえてこれらの面々は臆面もなくそう言うが、わたしには笑止だ。誰も反対できそうもないことを声たかだかに宣言して、したり顔、自慢顔するのはお願いだからやめてほしい。暴挙への憤りなどと軽く言うが、民衆は政治への憤りを発言する場所さえなく、じっと内に抱え込んで生きている。選挙があると有権者の半数ほどは毎回のように棄権していることが知れるが、その中に国民の憤りの一端が沈黙として隠れていることは誰も問題にしようとさえしない。何が民主主義を守るだ、何が暴力を許さないだ。第一、独裁主義的な手法を守り、讃えてきたのは誰か。合法的な暴力、あるいは影の暴力で国民を抑圧し、国民に我慢を強いてきて、今も我慢を強いている連中は誰か。こんな連中はみんなだめだ。一人の国民をこんな蛮行にまで駆り立てた責任の一端はおまえたちにもあるんだ。こんな衝撃的事件を前に、異口同音、口をそろえて全く同じ見解しか言わないこんな連中に、人間や人間の生活社会を論じる資格は本当にあるのか。銃撃というとんでもない暴挙に出た犯人の行為はもちろん徹底的に否定されてしかるべきだが、生涯に人を殺すことなど思いもしない一人の個人も、たまたまの契機、要因によっては殺人をなし得る存在である。人間として元々が悪だからとか、劣っているからとか、性質が野蛮だからとか簡単に言うことはできない。人間性及び人間社会の奥深さのようなものに思いが及んでいれば、紋切り型ではない個々人の人格を反映するコメントがなされていたはずである。それは国民一人一人の存在をどのように受け止めているかを必然的に反映した言葉ともなっていたはずである。そういうものが全くなく、エリート層、リーダー層にどんと胡座をかいた発言に終始している。だが何度でもいうが、国民の過半は君たちを見限って君たちの後についていこうとはしていないのだ。何がエリートか、何がリーダーか。恥を知れ。
 大昔の原始社会の頃の王様は、絶対的権力を持って人々の上に君臨していたが、社会生活に大きな混乱を招いたり、社会生活に破綻を来すようなことがあったときには、人々の結託によって王様の首がはねられたということもしばしばあったそうである。これがいやなら、王は民衆の存在をおろそかにせず、一定度考慮して統轄者として振る舞わねばならなかったという。蛇足だが、こんなことを思い出した。今回の事件の犯人のように、国民存在というものも時として大きく変貌する可能性があることをゆめゆめ忘れるべきではない。
 さらにひとつだけ付け加えると、国家的な要人と一国民との対比において、かくも報道サイドの待遇は違うものかと驚く。もちろん政治家たちも同じだが、国家においては国民が主人であり、選挙で当選した議員たちは公僕、あるいは準公僕であるはずである。そこから言えば、主人である国民の一人がどうしてこういう暴挙に出たかについて、もっと関心が向けられてしかるべきであるように思われる。しかし実際は、そして本音のところでは、各界のリーダーたちの関心は同じようなリーダー層に存在するリーダーの動向に目が向くようである。国民や民衆の方には目を向けてはいない。もしも目を向けているときがあるとすれば、人々を啓蒙しようとしたり、教え導こうとしているときだけだ。そして選挙で票をくださいと懇願するときだけだ。そんなエリートたちやリーダーたちに目を向けない、あまり関心を持たない層は、逆に誰からも目を向けられないことになる。わたしたち下層にある者の運命である。こういうことがあると、上層と下層、支配層と被支配層、インテリゲンチャ層と庶民層との断層ははっきりと目に見えるように露出する。まだしばらくはこうした関係構造は固定したまま続くのだろうと思う。わたしたちはまだまだ忍従と忍耐の狭間で耐え続けることを余儀なくされているようだ。