『老いの渇望』
 
21 「マタイによる福音書10章28節」のこと
                    2022/07/20
 
 太宰治の小説「トカトントン」の末尾に、青年の苦悩に返答する小説家の手紙という形の中で、次のように新約聖書の一節が引用、挿入されている。
 
 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。(ネットからの転載ー佐藤)
 
 わたしは長い間、ここに引用されている「マタイによる福音書10章28節」の記述を誤って受け取っていた。
 当時、「ゲヘナ」とは「最後の審判」で裁かれた罪人が行く地獄のような場所だろうなと漠然と考えた。この「地獄のような場所」、あるいは単に「地獄」と解した末に、わたしはそれを勝手に「現実の生活世界」と読み替えてみた。そうした時に、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者ども」とは、現実の生活世界に身を置きながら精神の優位性に何とかしてすがりつこうとする、信仰者及び知識人のような存在のように思われたのである。
 言ってみれば福音書の記述を喩の表現のように見なし、これを我流に解釈したのだ。
 精神生活を優位に位置づけ、そこを牙城として生きる。
 世の中には密かに、そのように自らの存在の根拠を決定して生きている人たちがたくさんいる。福音書ではしかし、そんな人たちなんか尊敬したり、逆にまったく怖がったりする必要がないんだと言っている気がした。本当に畏れたり怖がったりすべきは、現実生活の中に身も心も埋没するように没頭して生きている人たちの方なのだと。
 人間というものは意識、精神を本領とする生き物だが、その本領をあまりにも優位に考えたがる生き物でもある。だがそれは意識の悪しき特性でもあり、意識優位は意識の自然な指向性と言ってよく、それはなんら人間的な過程と言えるものではない。人間的な過程とは、この意識の自然な指向性を反省的に捉えるところにある。つまり、精神や意識の無価値化を考える必要がある。
 意識や精神は実生活から遠く飛翔しようとする特質がある。一旦はそれでもよいのだが、やがてこれは退屈でつまらなく思える実生活の方に帰って行かねばならない。それはごく普通の生き方が人間の生き方としてある普遍性を貫くものだからだ。別の言い方をすれば、過去の第一級の宗教者や思想者の考えたこと、またその文章は非常に特殊なものであり、同時にそのこと自体が特殊なケースであって万人のなせる技ではない。偉いと言えば偉い人たちに違いないのだが、これをもって模範や理想とすることは間違いである。こういう人たちは人間という全体から見れば、脳の働きという一点で極限までこれを駆使した人たちであって、これが人間として最高の価値ある出来事かというとそうではない。あくまでも一点において突出した人であるだけで、本当に価値ある生き方というものは普通から逸れないで生きるところにある。そしてそちらの方がよほど困難であり、人間性という観点からも優性的であるからこその生き方と言うことが出来る。だから、一点を後生大事に突き詰めた後で、彼はこれを自らの手で葬るか、放棄するかしなければならない。
 太宰が「トカトントン」に引用したマタイの福音書の一節から、わたしは概ねこのような考え方をしてその記述を理解していった。しかしこの一節の本当の意は、「布教先で弾圧を加える人々は、せいぜいがあなた方の肉体の死をもたらすくらいで、あなた方の信仰や信心を消滅させることなど出来ない。そういう者たちなど懼れる必要なんかないのだ。本当に畏れ、敬うべきは、最後の審判において、肉体ばかりか魂までも焼き滅ぼしてしまう能力を持つ神をこそ畏れ敬うべきなのだ。」というものらしい。つまり、「身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者」とは「神」ということのようなのだ。
 わたしは長いこと誤解してきた。だがしかし、最初から誤解、誤読があったものの、この一節を目にした時から長い時間を考え続けてきた自分の思考過程にはどうしても愛着のようなものが残ってしまい、捨てがたい気持ちもある。
 身を殺しても魂だけは後生大事に守ろうとする中途半端な知識人。これに対してある意味地獄の顔も見せる現実生活過程に、自らの身と心とを捧げて悔いない覚悟を持った生活者一般大衆。わたしはこんな構図をイメージし、また気に入っていた。もちろん、太宰は同様に考えて引用したものとばかり考えていた。
 そのように考えた根拠は、たぶん次のような箇所にあった。
 
 いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。
 
 醜態を避けようとするのは、人に心があり魂があるからであろう。羞恥心。これがあるうちはかっこ悪いことが出来ない。だがかっこ悪くてもどうしてもやらなければならないこと、またそのタイミングは一人の人生において2度3度くらいはあるはずである。そういう時は羞恥心を自らの手で葬り去り、そして事を進める必要がある。すなわち自分で自分の魂を滅ぼし得なければ先に進めないのだ。 作中の小説家は青年に、君はまだ魂を自分の手で葬り去ることが出来ない中途半端な人間じゃないか。それではだめなんだよと、やんわり諭しているように思われる。
 たぶんこのあたりがわたしの誤解や誤読の発端で、しかし太宰の記述にはそう思わせるなにかが漂っていたような気が今でも、する。