『老いの渇望』
 
23 安藤思想を巡る与太話
2022/09/22
 
 安藤昌益の「自然真営道」には、現在ではあまり使うことのない「正人」という言葉が使われていた。辞書では「心や言動などが正しい人」と書かれている。同じ「せいじん」という読み方の「聖人」もあるが、これは辞書では「知識や徳望がすぐれ、世の模範と仰がれるような人」となっている。「正人」は文字通り正しい人であるし、「聖人」は「聖なる人」ということで、尊い人、模範と仰がれるような高潔な人ということになる。意味合いも似ていないこともないが、少しだけ違う。
 安藤は、「聖人」については、「偉人聖人」のように「偉人」と込みで使っていることが多い。世の中的には「偉人聖人」と言えば尊敬の対象となるが、安藤昌益は否定的な見方をしている。頭のおかしな、気違いみたいな連中だ、くらいに落としめたりしている。一方、「正人」については文字通り「心や言動などが正しい人」のように解していて、もしもこういう人が統治者として立つことがあれば世の中の悪しきことは一掃されされるだろうと述べている。安藤の言葉を使って言えば、「法の世」を廃し「自然の世」に立ち返る、それを実行できる人という意味合いになるかと思う。彼の言う「自然の世」とは、分かりやすく言えば権力者のいない世の中というくらいの意味で、もしも「正人」が統治者になったとしてその時は自ら権力を放棄する、そういう人でなければならないということになる。もちろんそんな人など今だ存在した試しはなく、このことには安藤も懐疑的であった。
 「自然真営道」を読み、「正人」すなわち「心や言動などが正しい人」と言われても、「正しさ」の基準は結局のところ作者である安藤の判断に掛かっている。何が正しいか正しくないか、世の中にそうした議論は山ほど存在する。だがどちらが正しくてどちらが正しくないか、これをはっきりさせた議論はほとんど見かけることがない。表向きそう見えてもどこかにグレーな部分が内在してしまう。100%こちらが正しいという例はまず無い。その意味では安藤の主張も絶対的なものではない。逆に多くの人にとっては「偉人聖人」と遇される人の方が「正人」と見えるかも知れないし、実際そう考える人の方が多いのだろうと思う。これに対して、安藤の考え方の方に分があると言うためには、その根拠が示されなければならない。安藤自身の著作には残念ながら反対意見を凌駕するだけの根拠は見当たらない。いや、わたしには見いだすことができなかった。
 わたしの主観では、安藤昌益の考え方、またその思想はたいへん優れたものでよいものだと思える。だが世の中的にはその思想は不遇であるし、後継者も存在しない。なぜかと言えば、日本人としての最後の思想者だからだ。日本語で思想した日本近世最後の思想者と言い替えてもよい。より厳密に言えば古代アジア発祥の思想を同じ思想で否定することで、それ以前の日本に立ち戻ることを考えた初めての日本の思想者である。安藤以後、思想は欧米の影響を受け、明治以前の日本語にはなかった西欧の訳語、概念をもって語られるようになった。それが現在にまで続いている。まして安藤は、安藤が生きた当時においてさえ、日本の観念世界を席巻していた仏教、儒教などをはじめとする中国的世界観の影響を己の身から引き剥がそうと孤軍奮闘した人である。その意味から言えば後代のものは、観念の上に覆い被さる中国と西欧との二重の影響を引き剥がしてでなければ、安藤昌益の見た日本の「自然の世」の姿を実感として捉えることができないのだ。
 古代には中国、近代には西欧の言語また概念や思想の影響を蒙り、原日本(人)的な言語、概念、思想、また心情などはほとんど壊滅したと言っていいのだろう。安藤の思想が忘れられて地に埋もれると同じく、それも仕方がないことかと思う。 たぶん、安藤が使った「正人」の言葉とその意味は死語と化している。だが現在においても、どちらが正しくてどちらが正しくないかの判定は、時に社会に浮上して話題になったりしている。だが、どこかで折り合いをつける以外に、人間の観念上の戦いの上で、他に決着の付け方というのは無いのではなかろうか。
 正しさよりも、世の中を制するのは力である。力は力で多数を獲得し、この多数が正しさとして仮構される。それは虚構だが、それで罷り通る。それに我慢がならず、「正」の字をもってこれに対抗し、反逆し、今ある体制を倒そうとしたものは少なからず存在した。だがいつもそうしたものは少数派で、真の多数を獲得するには至らない。たぶん多数派としての大衆は、そうした観念上の抗争に巻き込まれたくもないし、巻き込まれもしないのだ。大衆は権力に従属する。そして権力が別の権力に移行すると、こんどは移行した権力に従属するようになる。その、ある意味での節操のなさは、大衆が絶対的に依拠しているところの所在を暗示している。観念ではない。生活である。おそらくそのうちでも最も重要なものとして無意識裡に依存するのは「家族生活」である。大衆がそう考えているというのではない。ひとりでにそうなっている、ひとりでにそれに縛られている、そういうレベルでの引き剥がせない結びつきが、「人」と「家族生活」との間にはある。現在社会において、家族崩壊が雪崩のように引き起こされている現象が日常化しているが、これはおそらく思想的また観念的な闘いや争いの比ではなく、根幹から大衆を揺さぶる前震のようなものだ。やがて本震が始まれば、その時は大衆が自ら動き出すことになる。