『老いの渇望』
 
24 「国葬」についての私見 
2022/09/24
 
 日本の元首相である安倍さんの国葬について、基本的には関心が無くどうでもよいと思っている。ここでも賛成派、反対派があって、議論がテレビニュースで報道されたりしている。議論としては反対派に加担したいが、その理由はひとえに掛かる経費の問題で、一説には数十億と言われていて、金のかけ過ぎだろうと思う。それだけの金があるならもっとほかの使い道があるだろうと思ってしまう。わたしに言わせたら、賛成派は馬鹿だし、反対派はどうせいつものように政府とかに押し切られて終わり、そんな議論に加担する気など毛頭無い。
 安倍さんについては一度目の首相になった前後に否定的な文章を書いたことがある。この人は発する言葉と内容とが乖離している人で、根本から信用できない、また悪しき政治家2世の典型だ、というようなことを書いた記憶がある。例えば、北朝鮮の拉致被害問題、「美しい国」発言、従軍慰安婦問題や「戦後レジームからの脱却」発言に関連した強引な歴史解釈など。安倍さんは不倶戴天の決意でこれらを解決したり実行したりする旨の発言を繰り返していたが、あまり成果を上げることができなかったように思う。そればかりではなく、それらのことについての反省の弁がひとつも無かった。彼の嘘まみれは病理の域に達していたと思う。嘘を強引にねじ曲げて本当のことにしてしまう。自分に対してもそういう力業を発揮して、虚偽であるのにそれを真であるというように納得させていた。こういう言い方は少しも客観的な真ではない。ただ映像に見えた安倍さんの言動から、わたしはそういうことを印象として抱いた。わたしはそこで見切って、以後批判や否定は繰り返してはいない。自分の中ではそれで十分だったからだ。外交にしろ、経済にしろ、あるいは原発や復興の問題にしろ、はたまた加計学園問題にしろ、安倍さんは単純に同じパターンを繰り返すだけだった。批判にも価しない。わたしはそう考えていた。
 就任当時の少し前頃だったと思うが、石原慎太郎を総理に推す声が上がったことがある。世間的にけっこう人気があった。前後して吉本隆明さんが、経済低迷の時期には石原さんのように強いリーダーシップを持った保守政治家に人気が集まるという趣旨の発言をしたことがあった。安倍さんも強いリーダーシップという点では似たところがあり、石原さんよりも政治家的粘り強さがあることが功を奏したのか、首相に上り詰めた。強いリーダーシップは強力なトップダウン体制を構築し、ごり押しとカモフラージュになってくれる忖度などを有効に活用しながら、2度総理大臣を務めた。だがその期間中も、停滞した日本経済は停滞したままで、大本営発表のような景気回復のゴシップ、疑わしい数値を使った統計や偽情報、あるいはまた情報操作が先行したが、必ずしもよい結果を残していない。
 吉本さんが言う「強いリーダーシップを持った保守政治家」というのも、実際の力はこれくらいのところなんだなと思った。ただ、停滞期にはこうした連中が人気を博すという吉本さんの見立ては間違っていなかったと思い、そのことだけが強く心に残っている。
 ところで、さて、安倍さんの国葬が取り沙汰されている渦中で、イギリスでエリザベス女王が亡くなり、数日前に国葬が執り行われているところがいろいろなメディアで報道、紹介されたりしていた。これもほとんど関心が無いので横目でチラリと見た程度だが、イギリス国民の弔意、献花、そのほか来賓と一般市民の参列の数の多さや規模などをチラ見しながら、さて日本の安倍元総理の国葬はどんなになるのだろうと、ちょっと心配になった。安倍さんはエリザベス女王のように国民に愛されていたんだろうか、第一にそう思った。
 時期的に近いところから、どうしてもあちらとこちらの国葬は比較されるに違いないと思う。比較されれば、あちらの一体感とこちらのそうでもない感が露わになって、わたしたちは恥ずかしくなってしまう気がする。別に恥ずべきことではないと思うが、なんとなくそう思う。そしてもしもそうなったら、それは安倍さんの責任ではなく、岸田政府の責任であろう。またそうなったとしたら、間接的に安倍さんに恥をかかせることにもなる。そのように恥ずかしくなるような国葬ならば、それははじめからやるべきではない。ごり押しでやる国葬が、はたしてどんなものになるのか、岸田首相をはじめ、現在の政府の政治力、見識などが試される。一般の国民としての今のわたしの判断では岸田さんは首相の器ではないという気がするが、それでも国民のために頑張ってほしい、少しでもよいことをしてほしいという気持ちは持っている。
 
 上記に関連したことで、もうひとつ疑問に思っていることを少し付け足しておきたい。率直に言って、どうしてエリザベス女王の国葬がイギリス国民の間でも高い注目度と関心度とをもって受け入れられているのか、ということ。これは日本の皇室の場合にも当てはまるが、このように相も変わらず王室や皇室の存在が敬愛の対象で居つづけられる理由、支持される理由がわたしにはよく分からない。
 21世紀である。科学の発達はめざましく、そこで、皇族だろうが王族だろうがはたまた極貧の貧乏人であろうが、人間として同じ、あるいは同じ人間であるということは誰にとっても常識となっている。たぶんほとんどの国の学校でも、人に上・下なく、高貴・卑賤もないと教えているはずである。だが、いまだに皇室、王室を見る国民の目は憧れや敬愛に満ちて見える。多分に報道のせいもあるだろうが、報道の仕方自体がそれをあおるようになされていると思う。特に国葬などという一大イベントの際は、これを終始批判的に報道するという状態を見たことがない。また、現在においてもなお国葬が続けられていること自体にも、わたしには納得がいかない。もっとはっきり言えば、もう皇室だ王室だと言っている時代ではないのではないのかというのがわたしの本当の気持ちだ。
 いずれ数十万年とも数百万年とも言われる人類史の、今から言えばたかだか数千年に足りない時期にとある共同体を掌握した一族の末裔の彼らを、民族の頭として遇するような遇し方をいつまで続ける気なのか、わたしにはよく分からない。 皇室も王室もおそらくはその維持のための費用は税金から出ていると思う。国民が存続のために税金でそれぞれを支え続けている。そして国民からの支持を失えば、当然のように廃止論が再燃したり浮上したりするものだろうと思う。今のところはどちらも過半数以上の支持を得ている気がする。だが悠々と安泰というわけではなく、ゴシップや不正というようなもので存続の危機に瀕するということはあり得なくはない。できればそういう醜聞まみれの終末を迎えるというのではなしに、自ら一般の生活者の次元に降っていくことを決断されたら、それは国民のための存在と自らに課してきたその目的を、最もよく実現することになるのではないかとわたしは思っている。そしてその時期が今なのか、それとももっと先であるべきなのかはわたしには分からない。いずれにしてもその時は国民に試練が訪れる。わたしは依存しあう関係が断ち切れてこそ、国民がより自立的になっていくものだと思うが、それ以上のことをわたしは言う立場にはない。
 最後に、国葬に関して言うならば、大統領、総理大臣、首相、国家主席などどんな呼び名でもよいが、国のトップの国葬に対しても同様で、そんなことはする必要がないとわたしは思っている。一個人の死はあくまでも一個人の死で、これは一般の人と変わらない。親族を中心に、せいぜい地域、職域くらいにお知らせを回し、それなりの厳かさでこれを執り行えばそれでよいのではないかと思う。否定とまでは言わないが、個人の死を政治的なもくろみの渦中に放り込んで良しとする考えは、わたしにはどうしても採りようがない。またいずれにしてもやがてそうなって行くに違いないとわたしには考えられる。それが普通のことで、普通に回帰して行くことが、誰にとってもよいことになると思うからだ。それくらいにはわたしは人間というものを信じたい。