『老いの渇望』
26 いま本気で危惧していること
2022/10/11
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経済と科学は現在社会の両翼である。そこでは常に合理性や効率性が問われ続けている。若者たちには慣れ親しんだひとつの環境だが、すでに退職を迎えた爺婆世代にとっては非合理や非効率の環境からの急速な、そして過激な変化に感じられているに違いない。肯定したり否定したり、半信半疑のまま流れに沿うことを強いられてきた。都市の利便性、快適性を追求した老後生活を満喫するシニア夫婦がいる一方、田舎に降って自然まみれの生活を選択する人々も多く存在するのは、同じ世代ながらそこに分裂が生じていることを感じさせる。
ただ、いずれにしても経済と科学、合理性と効率性は時代の推進力となり、現在社会に生きる人々の揺るぎない基準のように機能することとなっている。無論それはメディアが発信する表向きの言い方であり、本当はそこで人々のありのままの人格や人間性や人間力が不要のものとして扱われる事態となっている。実際に職場でも団地やマンションでも、それらが顕現する場が失われていることは多くの人々が実感するところだ。いかにもAI社会と呼ばれる如く、人は自らをAIに寄せて行き、当然に生じてくる自覚症状のない不満やストレスを抱えてどう解消するかに行き惑っている。
現代社会に不要のもの無価値のもの。AI社会化によって社会から撤退し後景化し鬱屈して行くもの。人々がそれこそ自分だと認識している、つまり人的な意識が社会からは邪魔者扱いされるようになった。これで心ある人が戸惑いを感じずにいられるわけがない
こうした事態が子どもをも巻き込んでいる。子どもは人間として未完だと考えられ社会人予備軍として囲われている。大人が設計し、スケジュールを立てて描いた幸福な子ども像は、調教されたペットやプログラミングされたAIロボットのようであり、そこに見られるのは徹底した自然性の排除だ。愚昧であり、未明であり、無秩序であり、混沌であるものは徹底的に否定される。子ども(自然)が子ども(自然)のままでいることが実は許されていない。敷衍すれば、人間(自然)が人間(自然)のままでいることが許されないのがこんにちの社会なのだ。そう言ってみたいほど、現在はそうした見えない危機にさらされている。
けして後戻りすることのない文明の進化発達がもたらした都市化、人工化は、今まさに人間をもそのように変えてしまおうかとしているように見える。
非合理と非効率の神秘の森。合理と効率を極めようとするガラス張りのビル。相反する大自然と都市との狭間で、わたしたちは蟻のように右往左往しているに過ぎない。文明の進展に身を委ねるか、舞台からひっそり身を引くか、悩ましい選択が強いられる。もちろんどっちつかずに行き惑う人々が大半だ。
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子どもの日常は、感覚(入力)、運動(出力)、その繰り返しである。それで子どもの日常生活が成り立っている。本来は、子どもの生活はそうであるべきであり、それでいいのだと思う。
ところが、現在の日本社会は大人が牛耳っている大人社会で、感覚よりも概念が優先する。頭で考えるということは概念的思考であり、これが出来るようになるためには本当はある程度の生活年数とそこでの経験が必要となる。言うまでもなく概念の形成は生まれてすぐには獲得できない。生まれてしばらくは感覚頼みの生活を繰り返し、徐々に概念的な獲得が積み重ねられていくものである。そしてその際、感覚(入力)と運動(出力)を繰り返す子どもの体験が豊かであればあるほど、概念獲得に資するものとなるはずである。子どもの生活は土台として重要なのだ。
現在の社会は、概念で埋め尽くされ、概念によって決めつけられた大人社会が隅々にまで行き渡り、実は子どもが子どもらしく感覚を解放し、また感覚を鍛える空間が狭められた状態の中に生きることを強いられている。昔は大人の目が届かない野原や空き地に、子どもだけの世界が存在した。それは大人たちの住む概念的な世界とは異なり、自然の中に子どもの感覚が跳梁跋扈する世界である。それは子どもだけの世界であり、大人たちはそこに足を踏み入れなかった。大人たちはそのことを知っていたし、それが貴重な時間であり空間であることも知っていた。そこで十二分に遊ばせてもいたのである。
現在ではしかし、子ども独自の世界に大人世界が侵入し、子どもの世界の独自性のかけらもなくなってしまった。監視、監督、指導の手がくまなく行き渡るようになり、日々概念化を働きかけてくる。本来感覚で生きる時期に、そんなものは下等で意味も価値もないという風に概念を注ぎ続けられるから、その齟齬がストレスともなり、大人には分からない不安や苦しみのようなものを抱えることになっていると思う。
動物の一生は感覚に始まり感覚に終わる。そう言ってみたいほどだ。そうして、同じ動物種から派生したと考えられる初期人類も全く同様であったと推測できる。感覚に左右され、感覚に翻弄される日々を生きていた。
現代に、その面影はどこに探すことができるかといえば、乳胎児期に重ね合わせて考えることができるように思われる。感覚に依存して生きる生き方から人類の歴史も個人の生涯も始まり、発達、進化というものを積み重ねてきて、人類は現代に、人の個人は大人に、それぞれ到達する。この時、到達点においては、感覚所与よりも頭の中、つまり圧倒的に概念が優先される世界に変貌している。簡単に言えば感覚から概念への変遷だが、もちろん一足飛びにそうなったわけではなく、そうなるまでの過程があったのであり、徐々に徐々にそのように移行して来ての現在世界であり、個人で言えば大人である。
子どもたちも本来ならば同じ過程を踏んで徐々に徐々に成長発達することが望ましい。しかし圧倒的に概念優先の世界となったこんにち、その早急な流れは、子ども本来の感覚的に生きる生き方を捨象するように概念形成を子どもたちに働きかける。そこに無理や矛盾が生じないわけがない。
だが、こんにちの子どもたちにとっては、これが現実であり環境であるのだから、これを無防備に受け止める以外方法がない。
現代の子どもたちは口が達者で賢くなったと言われる反面、一方で発達障害と判定される子どもの数が激増している。わたしは専門化ではないからこれがどんな理由で、また何が原因なのかを断定的に言うことはできないが、少なくとも日本の現在社会が子どもたちにとって住み心地のよい、安心して生きられる社会となっていないからとだけは言える気がする。そして強いて言えば、上記のことが強く関わっているのではないかと、わたしは考えている。概念化で囲い込み、概念化を強いて、促成栽培で早く大人化しようとする。もう子どもが子どもでいられなくなって、その矛盾を抱え込む。少し前は暴れる、暴発する、社会にはそういう隙があった。だが今ではそういう隙間もきっちりと閉じられている。はけ口が見つからなくなったら、自分の内側で暴れ、内側から自分を壊す以外になくなる。静かに、冷静に、そうして行くものも出てくるのではないか。