『老いの渇望』
 
2 コロナのこと、オリンピックのこと
              2021/06/07
 
 先日、コロナワクチン1回目の接種をやってもらった。申し込みから接種までスムーズに事が運び、接種のために訪れた個人病院でも待ち時間はほとんどなかった。
 テレビなどではあれこれ騒がれていたから、待たせられることは覚悟していた。
 受付は8時半となっていて、朝一で行くのがよいかとも思ったが、のんびり9時半頃に出かけた。案の定病院の駐車場は満杯で、「これは・・・」と覚悟した。病院の受付兼待合室もたくさんの人で混雑し、順番通りだと考えると、1時間以上待たねばならないと思った。腹を決めていざ受付をしてみると、5分後くらいに名前を呼ばれ、接種場所に案内された。それは通常診察に使われる小部屋の前で、3人掛けくらいの椅子が置いてある。座って1分くらいたったかたたないうちに、仕切りのカーテン越しに名前を呼ばれ、中に入って問診の確認をしたあと医師によって注射が行われた。実にあっけなく終了の運びとなったのだ。
 待合室、それから立ち替わり入れ替わりしていた受付、30人前後のあの人たちは、おそらくは通常の患者さんたちで占められていたのだと思う。土曜日の午前。仙台近郊のこの町では、ワクチン接種でごった返すほどに逼迫した状況にはない。
 市からのお知らせのままに申し込みをし、接種してもらったが、わたし自身もそれほどコロナ感染に対して逼迫した恐れはもっていなかった。ニュースなどで感染の強さ、症状が悪化した時の怖さ、世界各国での状況が毎日報道されるが、何せコロナウィルスへの感染自体が未経験だから、頭に恐怖の文字は浮かんでも、その実感がわいてこない。
 これまで、インフルエンザワクチンの予防接種は2、3度受けたかどうかである。要するに、マメな人ではない。アレルギー症状が出るわけでもないし、受けないことを信条としているわけでもない。面倒なことが嫌いなだけである。
 今回の接種で気づいたことが2つある。1つは、この個人病院の運営体制がとてもよく整っているように見えたことだ。医師も看護師も慌てる様子がなく、変な言い方になるが、訓練がよく行き届いているように見えた。そして実に淡々と業務を進めている。つまり、通常時とさして変わらない感じがした。このことから、今回の国と自治体によるワクチン接種事業および、自治体の担当者と各病院との連携、協議がスムーズにできていたのではないかなと思った。これが2つめである。
 ワクチン接種をはじめ、一連のコロナ感染の問題に関して、関係する国や自治体、また病院ほかの医療従事者たちはよくやっているのではないかと思う。一般の生活者の目線からはそう見える。
 コロナ問題全般に関して少し立ち入った言い方をすれば、緊急事態宣言を打ち出したことの是非、またその内容とタイミング、さらにはまたゴートゥートラベルといった経済政策など、見方によっては問題がなかったわけではない。しかしそれらは当為者たちの問題で、いつもの如くごった返しの、小手先で事態の収拾を図ろうとする観が否めないものだった。
 わたしたち国民ができることは、唯一感染の予防、つまり自衛である。政府と専門家会議などが打ち出す対策がブレブレになることは予想できることであった。わたしたちには生活があり、それに沿って自衛の手立てを講じる以外に無い。万が一感染してしまったら、その時はその時の状況に準じて、なるようになることを覚悟するほかにないのだ。
 感染症との戦いはそういうものである。政府及び関係機関は、国民の命を守るという責務の元にいろいろ手立ては講じるだろう。しかし、そのすべてが正解かどうか、適切かどうかなど予見できるものではない。また、あてにできるものではない。
 ここまで、日本は、また国民一人一人はまあまあよく対処してきたほうだという気がする。感染者数、死者数はもちろんゼロではないが、最小限に食い止めてきたという感じはする。唯一懸念が残るとすれば、やはり医療体制の逼迫の問題であろう。緊急事態の時に、従来の医療施設を拡充して新たな施設を建てるとか、今の医療体制では拡張性、柔軟性が乏しくそれが不可能に見える。政府、医師会、専門家会議などが考えるべきことでとやかく言っても始まらないが、現行の医療体制を守ることに必死の様相は、順序が逆だろうとわたしなどには感じられる。
 順序が逆と言えばオリンピック問題もそうで、日本においてこの大事業を行おうと決めた遂行者たちが、何が何でもやろうと決意しているところがはっきりと見える。
 だいたいがこういう大イベントは国民を巻き込み、雰囲気を盛り上げて盛大にやるのが常套である。現在のコロナ禍では、オリンピック開催を望んでいるのは国民の日本でも半数くらいだと思う。
 わたし自身は最近のオリンピックは、オリンピック憲章に掲げられた内容は形骸化し、事業主体者側にとっての「金のなる木」と化していると思っている。加えて主催の当事国の経済効果、地域事業の活性化も促されるから、時の政権にとっても都合がよい。
 オリンピック憲章の趣旨は二の次になるが、面の皮を厚くして前面に打ち出す体裁をとったならば、易々と丸め込むことは容易である。 わたしのような無関心派は、批判することにも無関心だから、主催者側には何の脅威もない。安々と今可能な限りの環境を整え、実施していくことになるだろう。わたしたちは反対も賛成もしない。なぜなら端からそうした意見が通る圏外にいるからだ。
 わたしたちは統治の側にも回らないが、統治の側を肯定もしない。ただ無縁に、そして個別に、現在世界を超えるあり方というものを明らかにしたいとだけは願っている。