『老いの渇望』
 
4 国家とか教育とか、なんやかんや
              2021/06/24
 
 人間は陸上生活が可能となる一定のところまで母親の胎内で過ごし、またその中で心身の成長を遂げる。これにはおよそ10ヶ月の期間を要する。胎児から乳児に切り替わる出産は赤ん坊にとって大転換で、特に羊水の中の生活にはなかった肺呼吸を出産直後から行わなければならない。産声という言葉はこれを意味している。
 こうして乳児の陸上生活は始まるのであるが、他の生き物に比べ人間の赤ん坊はその後も両親、特に母親の庇護や世話を必要とする。 母乳を与え、排便を処理し、抱きかかえてあやすなど人間の赤ん坊は手がかかる。このように大切に育てられて、幼児期、少年少女期と成長していく。
 この時期、身体的な成長もそうだが、心的にも特に母親との接触を介して成長する。言葉の発達もそうだし、母親の中に意識的、無意識的に蓄積された人間史の概要、及びその現代版に至るまでが写し込まれる。
 人間が現実に直面し、これに対峙して一人前に生きていくためにはそれだけの準備と期間が必要なのだ。古代には、これだけのことを経れば一人前として通用した。あとは狩りや耕作に携わり、上手、下手の差異に直面し、それをどう克服するかの問題だけが残る。
 現代ではしかし、社会そのものが高度に発達して、子どもの自然な発達、自然な成長では間に合わなくなった。つまりもう一段階、高度化に適応するための準備期間が必要になった。これが近代の公教育制度の始まり、その理由である。そしてそれはさまざまに改善されながら今日につながれ、今や国家の一大事業として定着した。
 教育基本法の第一条は次のように記されている。
 
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
 
 ここで社会を、さまざまな人々のさまざまな生活の営みの総和と考えれば、国家とは主として社会に生起する利害関係の調整を行う
機関と考えることができる。これをひとりの人間に例えて言えば、社会は身体そのものであり、国家は脳にあたると言えるだろうか。神経を介して社会の隅々まで監視したり管理したりして、あるべき社会の方向性に向かって指示や指令を出す。
 学校教育は、社会人また国民として必要な資質をすべての子どもたちに身につけさせることを目的とする。逆に言えば、これを経なければ望ましい国民、あるいは社会人に育つことは難しいと考えられている。国家はこれを国家的事業として行うことで可能にしようとする。
 近代以後の学校教育制度は、国家・社会の繁栄に寄与したと言えるし、繁栄によって高度化した国家・社会はさらなる高みを目指して教育のいっそうの充実を図ることになる。結果、義務教育課程ばかりでは国家・社会の要請に応えられなくなり、高校、大学への進学率は年々伸びていくこととなった。
 このことは、社会人への巣立ちが、年々引き延ばされるということでもある。昔は中学を出れば就職することが多かったが、現在では高校、もしくは大学、さらには大学院などと高学歴を経て社会に出て行くようになった。このように、個人が一人前になるのに昔以上の歳月を費やさなければならなくなった。
 わたしたちはこうして、家族や親族、あるいは地域からの生活に役立つ知識、技能を教わるばかりではなく、公教育なる第三者からの手で外部の知識、技能、道徳まで幅広く注入されることとなり、知性、人間性、その他文化、教養全般にわたって高められた存在になったと言えよう。
 わたしたちが今、このようなことを考え、またこのように考えることができるということは、とりもなおさず学校教育制度の成果であろう。それがなかったとしたら文字の読み書き、単純な加減乗除の計算すら危うかったに違いない。だから、こうした意味では公教育の利点というものは明らかに存在するとわたしは思う。
 だが、学校教育の弊害はある。
 そもそも学校教育は健全な社会人の育成などを謳っているが、この場合何を健全と見るかの尺度は国家・社会の側のそれが用いられている。これを要約してかつ端的に言い直していえば、学校教育は国家・社会にとって望ましい人材の育成を図るものだと言い直せる。つまりそこには国家や社会というものからの暗黙の要請のようなものが含まれていて、これこれのような知識・技能を持ち、道徳をわきまえた人材の育成、が目標の一つにもなっている。
 子ども一人一人がそれに対してどういう段階にあり、またどんな可能性を残しているかなど克明に調査され評価される。わかりやすい例でいえば知能テスト、学力テストなどが実施され、子どもの水準が数値化して表される。
 人間の測り方としては原始的であり、そして部分的なやり方であると思う。
 こういうやり方で勉強ができるできないが決定され、頭がよい悪いが決定される。下位のものは行きたい学校にも行けず、入りたい会社にも入れない。もう先行きが決まってしまう。小学生にだって、自分がどの位置にランクされているかは察知できる。もしも下位にランクされていたとしたら、それは一生の負い目になるに違いない。現場の先生たちがどんなにフォローしようとしても、フォローしきれるものではない。それでも清く正しく生きよとは、あまりにも残酷である。人間の尊厳も何もあったものではない。そこそこの学歴を有する学校の教員にはその痛みがわからない。ぼんやりわかったとしても、見て見ぬふりをする。
 こういう実際の現状の、どこに希望を持てばいいのか。
 一方では高度の知識、技能を身につけ、心豊かでヒューマニズムにあふれた人材、スポーツや芸術に優れた能力を発揮する人材が輩出され脚光を浴びる。また一方では高度化社会への適応能力に問題があるとして診断され、以後は脚光を浴びる世界とは正反対の、不如意な待遇の世界に生涯身を置くことになる。意欲を失い、やる気を無くし、自暴自棄になって負のスパイラルに陥り、どうあがいても社会の底辺から逃れられない。
 やさしい性格を持ちながら、生活保護すれすれのところに長いこと暮らし、生活保護の申請を屈辱として行わなかった一つの感性が、ある日限界に達した。この物語とこの物語の結末とを想像できるものが、どれだけいることだろうか。
 教育はきれいな理念を並べ立てながら、差別の定型化に与している。これが国家主導の教育のせいなのか、あるいは教育が本来もっている性質によるものなのか、わたしはまだはっきりとは理解していない。ただこうした教育への不満、疑念が一掃され、国家主導のもとに教育の無謬性神話が構築された時、国家の無謬性神話も完成されるに違いない。
 そうなれば、教育からの落ちこぼれや不満分子は、社会内で淘汰され、あるいは庇護の名目の元に完全に隔離される。
 国家は国家の理想とする超強大国家へと昇りつめ、社会にはこれを支持する者たちだけが国民として存在することになる。栄華を極めて大変結構な世界だといえば言える。そこにはもう弱者もいなければ不満分子も存在しない。すべて完璧に排除されたあとの世界だからだ。さまざまな能力を兼ね備えた少数精鋭の国民たち。
 これはわたしにとっては最悪のシナリオなのだが、現在の国家社会のシステムには、やや誇張した見方をすれば、はっきりとこうしたベクトルが内在するように思う。そしてこれが未来から眺めた時に、過渡的な世界での混乱の1例に過ぎないとするならば、何をか況んやで、わたしたちの思いは雲に埋葬された骨片として永遠に閉ざされるだろう。
 その前にわたしは言っておきたい。現在の世界は間違っている。国家も公教育も無謬ではない。個人としての人間は、もっと自由気ままに生きたいし、存在していたいはずである。個人としての人間はまた、これも人間が作り出したどんな概念によっても評価されたくないし、評価できるほどちゃちな存在ではない。だが、国家や公教育の物差しをもって測ると、標準以上だとか以下だとかと差別化が生じる。国家社会は暗に有能な人材を望み求めるから、そういう素材は以後優遇されるシステムが働く。
 結局のところ、国家社会が導入する教育制度は、国家社会の手になる望ましい社会人という雛型を成型として、小学生以降の子どもの成長と発達を方向付ける。
 社会に適応する力を身につけるという名目で、人間の子どもは国家社会の意向を背負って成長、発達を遂げていくことになる。いやな言い方をすれば、良くも悪くも赤の他人に作られた人間の誕生ということになる。
 このことはわたしには、方言を切り捨てて標準語化する行程によく似た構造のように感じられる。
 方言まみれだった頃の自分に比べて、標準語を話すようになって以後の自分はどこかよそよそしく感じられる。同じように学校に行く前に家族や近所という場所、空間で暮らしていた自分と、学校を通過した以後の自分とでは何かが違ってしまっている。もちろん後戻りできないし、1歩を踏み出した以上、その道を歩いて行くほかはない。
 国家という壁で境界が引かれたその中に自分の身を置くと、国家も学校もなくてはならないもの、あって当然のものに思える。自分を外に置けば、国家も学校も関係ないもので、どうでもよいものになる。同時に、自分を孤独と自由と飢餓の環境へと放り込むことになる。
 もう一つ、これも大いに孤独だが、サーカスの綱渡りのように壁の上に身を置くやり方がある。壁の内側も外側も見渡せるが、クラクラめまいがしてどちらかに落っこちるという危険がいつもつきまとう。
 わたしはというと、どうも壁の上を好む習性があるような気がする。というより、はじめは輪の中に加わっていたのに、いつの間にか壁際に押しやられ、終いには壁の上に立ち尽くすということになっている。別に好きでそうしたわけではない。しかも器用ではないから何遍も壁から落ちて、そのたびに傷をこさえて満身創痍である。実際にそうかどうかは別にして、そう言ってみたい。
 新型コロナやオリンピック開催などで世の中が賑わっていると、国家ありき、学校ありきが前提となって全体に浸透しているから、わたしには面白くないことである。
 そのくせ、異母兄弟ほどの差異でしかない本質的には同類の、中国や北朝鮮や韓国といった隣国の国家や教育については盛んに批判してみせる。主義に違いはあれ、国家は国家として本質は同じである。目くそが鼻くそを笑ってどうする。目くそは目くそを笑えばいいし、鼻くそは鼻くそを笑えばいいのだ。
 国同士の言い合いを聞いていると、お互いに鋭く弱点を突いて争うからよくわかる。つまるところ、国家や公教育はどんな形態をとろうとも私的恣意の投影、恣意的支配の分散化そのものだから、ごまかしやトリックが使われ、その上で成り立っている。人が人の上に立ち、人を支配するということはそういうことだ。
 わたしは支配されたくもないし、人を支配することもしたくはないと思う。意識せず、そういう立場に立たされることもあるのかもしれないが、自分を騙したくはないし、自分に騙されることもしたくない。
 わたしの中にすむ一人の古代人は、悲しむことも嘆くこともなく、ただ自然の沈黙の光景の中にたたずんでいる。彼には命だけがあり、立ち尽くす姿は生きることそのもののようでもある。生きるということは特別に意味あるものではなく、ある日ある時そんな姿でいたというようなワンカットの、無意味な連写のようなものではないのかと、ふと思う時がある。また、そういう無意味ということを、古代人は恐れずに生きていたと、わたしは時折思うことがある。