『老いの渇望』
 
5 言葉、精神についてのグダグダ
              2021/06/30
 
 子どもの頃、一人でじっと蟻の動きを眺めている瞬間とか、縁側から軒下に垂れる雨水をずっと見つめている時があった。いま思い返してみると、そういう時は心が無になっている状態で、一種至福の時間だったという気がする。なぜそれを至福と感じるかというと、たぶん心がない状態、言葉が必要ではなくて心に浮かばない状態だったからだと思う。言い方を変えると、覚醒しているけれども無意識の状態。それがとても心地よかったのではないかと思う。
 過去を振り返って、第一にこんなことが思い浮かぶということは、「俺は本当は言葉が嫌いだ。言葉なんか覚えなければよかった。」と述懐しているようなものだ。こんな自分が詩を書いたり、文字表現をしたりしていることはおかしい。何万言費やしても、あの無言の至福に至ることはできない。ましてやあれを超える心境に至ったことなどないのだ。
 言葉がある世界と言葉がない世界と分けて考えると、言葉がない世界は釈迦の手のひらで、言葉がある世界は孫悟空のように感じられる。言葉がない世界の方が遙かに規模が大きくて、言葉はどうしても世界を言い尽くすことができない。
 今のところ言葉は人間界のみに顕著に発達してきたもので、他に類例を見ない。言葉は人間の精神の発達と同期し、同調している。だが人間の精神は、無心である時に言葉が介在しない状態をもっている。この状態を、わたしたちはなんとなく動物に近いように見做したりしている。
 言葉に関して一つ思うことは、その種類も数も言葉を使い出した当初からは格段に増加したと思うことだ。そしてそれは単なる増加というだけではなく、精神に同期しながら、次第に緻密で精緻な方向へ向かってきているという気がする。世界をまるごと把握したい精神と、世界を埋め尽くしたい言葉とは重なり合い、数や領域を拡張したり増殖したりしてきた。この時、日本の古来の和歌と現代詩とを単純に比較してということでもいいが、二つを比べて、言葉も精神も進歩、発達した現代の作品がやはり優れているとか、立派だとかということになるだろうか。わたしは現在に近くなればなるほど、袋小路に入り込み、表現がチマチマしたものになっているという印象を受ける。そして和歌の時代の言葉や精神のほうが、素朴さ、単純さと背中合わせに、力強く集中度が高い表現になっているという気がする。別の言い方をすると、昔に遡ったほうが言葉にしても精神についても、共同体の中における共有性が高いと感じる。現在は全く逆で、共有するところが小さく、またマニアックなところにしかなくなってきたのではないかと思う。
 うまく言い切ることができないが、印象として、時代が経るにつれて分業や専門化と相俟って、元々のものから分離、分化を繰り返し、個々人には世界全体を把捉する力さえなくなったように思える。極微の世界だけが濃密に迫り、言葉も精神もそこに押しやられている。
 観念や幻想の世界は、その主たるところ、樹木の幹や根にあたるところは古代に完結してしまっていて、現在はそれの解説や修正に終始しているだけに過ぎないのではないか。極端に誇張して言うと、「あ」と発語すれば成り立っていた共同性が、現在では百万語費やしても繋がりを持てないというような、人間の歴史はそういうスパイラルで進んでいるような気がしてならない。
 仏教の祖である釈迦と、現在の仏教の総本山の高僧とを比較すると、一般生活者のわたしたちにはどうしても釈迦のほうが器として大きな存在に思える。またイエスと現在のローマ法王とを比べても、イエスを上位だと考えている。
 このように、なんとなくだが、人として、時代を遡った方が完成度が高いとわたしたちは思い込んでいるところがある。これは他の伝説、説話、神話の登場人物たちについても言えることである。こう考えた時に、であるならば、これをさらに歴史以前、先史の頃やさらにそれ以前に遡れば、釈迦以上の釈迦、イエス以上のイエスは存在したのではないかと想像される。
 人も、言葉も、精神も、仮にこのようなものだと考えると、いったい歴史とは何なのだろうか。言われてきた進歩、発達とは何か、そんなことを考えずにはいられない。