『老いの渇望』
 
6 詩について
              2021/07/04
 
 詩というものを本気で意識するようになったのは、大学生の時に吉本隆明の『固有時との対話』に触れてからだ。それまでに読んだ詩や短歌のようなものとは趣が隔絶していた。
 はじめの数行を読んで「これは何だ」と思い、ふつうはそれで、2度と手にしないとなっておかしくなかったと思う。それまで全くなじみのない文字世界がそこにあって、わからない、難しい、これが詩なのか、何を表現したいのか、などなど、わかりやすく言ってしまえばチンプンカンプンだった。
 そういう自分にとっては衝撃的な出会いから、おそらくは数十回読み返したはずだ。しかも期間的には一年、二年の話ではない。
 とりあえずそうして何度か読みながら、それが詩人の心的な世界のあからさまな表出だということはわかった。詩の書き方の方法としては、宮沢賢治の「心象スケッチ」の方法との近縁を感じた。ただ、そこから抒情性、情緒性の一切を排除して成り立っている気がした。
 心象を克明に、そして内省的に、しかもどこまでも追い詰めるように徹底して書き進められたその散文詩は、詩人の詩人としての誠実さみたいなものとして、わたしには伝わった。
 詩の一つの方法に過ぎないのだが、己の心象を見据えて、ひたすら克明に書き写してみせるそれが、詩の一つのあり方として成立するということはわたしには発見であった。以後、趣味としてわたしは断続的だが詩を書くことを続けてきた。心象をできるだけ正確に、そして克明にまた誠実に書き写すことをテーマとして。そしてそれがどれだけ真に近づけているかどうか、だけが、わたしの詩の方法であると言ってよい。
 わたしはそういう以外の詩の書き方を知らない。だから本当は詩を書こうとして詩を書いてきたのではないと言えるかもしれない。こういう書き方をして、これがわたしの詩です、わたしの詩はこういうものです、と開き直るほかなかった。いや、本当はそれを詩と呼ばれなくてもかまわないと思っていた。
 古代の歌謡、和歌、俳句、そして日本の近代詩(自由詩)から現代詩や外国の詩まで、時に興味関心を抱くことはあっても、基本的にはあまり関心がない。もともと詩的な環境に育っていないということもあるだろうし、詩的な素養も才能もないと自分を考えていた。
 そういうわけでわたしには詩というものがよくわからないし、詩的でさえない。詩的な装いをすると、詩的な素養のなかった幼少の頃の自分を裏切っているような、あるいは浮気をしているような、後ろめたさがわいてくる。何者でもなかった頃の自分を否定するのかと、過去の方角から声が聞こえてくる。
 誠実に心象に向き合い、それを言葉化していくやり方は、しかしいくらやり続けても吉本の『固有時との対話』を超えることができなかった。わたしはその比較の基準を誠実さに置いていたから、『固有時との対話』の誠実さに及ばなかったということになる。
 以後の吉本の詩を含めて、わたしは『固有時との対話』以上にインパクトをもたらした詩を、ほかに読んだことがない。