『老いの渇望』
 
7 学校のこととか
              2021/07/11
 
 いまの日本の国から学校から、すべてぶっ壊して、安藤昌益ではないが「自然の世」から全部やり直した方がよいと思う。わたしはそう思うし、それ以外に方法は無いとも思っている。そんなふうにすべてチャラにしないと、何事も始まらない気がすると言うか、考えても無駄だと思ってしまう。そしてもちろんそんなふうになることなどあり得ない。
 逆に、多くの人々は老いも若きも同じで、国も学校も人の生涯や人生を左右する大事なもの、必要なものだと考えている。しかし、学校について、国について、考えていることは些末なことばかりで、ほぼその組織の延命と、これまでの教育の流れの延長上にあって、わずかな修正に終始している。本気に、そして本格的に、本質的また根本的な議論などしていない。いや、できなくなっているのだ。
 東日本大震災や新型コロナ感染によって、例えば学校教育に空白が生じたが、懸念されたほど決定的なものではなかった。逆にその期間の経験をバネに、たくましく成長した子どもたちの姿を我々は目にすることがある。
 不登校の子どもたちを集めて活動するNPO法人などでは、脱学校的に、学習、規範めいたことなしに、一日中遊ばせたり、好きなことをやらせているところもあった。こういうことも支援教育の一環として認可、公認されてきた。
 はやい話が、本来の標準的な教育課程を経なくても、なんら支障がないという話になってくる。ならば小学校段階はすべてNPO法人に任せてもいいじゃないかとなる。できるだけ自然の中に飛び出していく活動が多くなったら、きっと養老孟司さんなんかは喜ぶ。
 以前取り上げて論じたこともある解剖学者の三木成夫(1987年没)さんは、「読み書きは10才から」と語っていた。この先輩の影響か否か、同じ解剖学者の養老さんも、近年、「学校は中学から始まっていいんじゃないですか」と言う趣旨の発言をしている。その年齢になれば、小学課程の6年間で学ばされる内容など1年で通過できるという考えからだと思える。10才というのは、読み書きに対応できる心身の準備性が個人の中に整うことを指している。
 学校の影の働きの観点から学校批判を展開したイヴァン・イリイチ。彼の「脱学校論」の影響の下、日本では山本哲士が急先鋒となって学校批判を繰り返してきた。言うところはイリイチと同じで、「学校、交通、医療」といった社会的サービスの業態の過剰、またその権力化により、人間の自立、自律が喪失させられるのだとして大きく文明批判に向かっている。最終目標は、脱学校、さらには脱国家、というところに向かう考え方をしている。
 
 現在の世界は、民族国家を単位として成立していると言ってよいと思う。こういう現在の時空を前提において考えれば、国家形態は必須となる。国家が成立しないとなれば、他国からの侵入に対してこれを防ぐことができない。
 国家の起源や発生に遡れば、単純な言い方をすると、力をもって他集団を制圧する、そこに始まる。それが武力によるか知力によるか、あるいは他の能力によって達成されたものかは、いまはどうでもよいとしておく。とにかく歴史的なある時点で、民衆を支配する王様と支配される民衆という関係が誕生した。それ以降、何度もトップの権力者は交代を重ね、世襲であれ反乱であれ、国家そのものはより堅固にそして強大なものへと成長を続けた。
 わたしは、結局のところ、原動力は私欲によるものでしょう、と思う。これが現在の議会制民主主義と言った形態をとって見せたところで、出自は私欲と力による国家に過ぎないのだから、本質は変わらないと思える。峻厳な国王だろうが優しい国王だろうが国王には変わりなく、これが大統領になったり、首相になったとしても変わりない。一般の民衆、生活者住民からすれば、国家の存在は自分の意志に関わりなくすでに存在しているものであり、異議を唱える術もわからないことである。
 考えてみれば国家なんてものはもともと喧嘩の強い奴が腕尽くで作り上げた支配機構に他ならず、そんな黒歴史を持つ国家をいまもみんなで支え続けなければならないという理由がよくわからない。
 いまも人気のある戦国武将たち。信長、秀吉、家康と、争うことが好きで、争いに強く、戦国時代に名をはせた。NHKほか民放各局でも、いまもなお英雄視され、彼らの功績が語り継がれている。喧嘩に強く、平気で人を殴り倒せる連中がそんなにえらく、人間として模範とすべき人たちだろうか。英雄、偉人と騒がれ遇されてきたが、結局のところ、人間社会が戦いの場であり、そこでは勝ち抜いていくことが大事だという考え、統治者、覇者を肯定する思想が根底のところに居座っているように思う。
 民主主義を標榜する国家と言えども国家という機構、形態をとり続ける限り、そこからの規制が働く。それがあからさまなのが学校で、子ども及びすべての国民に開かれているようでありながら、本当は国家の枠組みとか国家意思の枠の中に閉じられて存在している。統治の一機構として、統治のための大事な役割を担っている。学校で行う社会人の育成とは人工的な人作りと言ってよく、人の自然な成長、発展とは違う。そこに国家意思の規制が働いている。わたしもまたそのように教わってきた一人なのだが、キャパシティーの問題なのか、そこから落ちこぼれた一人であると言ってよいと思う。そういうものがどんなに国家や学校教育を相手に批判を重ねても、問題にさえならない。だが、それはやはりどうしても言っておきたい。国家や学校は人類の歴史上、絶対的に存在するもの、しなければならないものではなくて、この先の未来に向かって現在という時代に必要とされた一時しのぎの形態である。消滅すべきもの、なくなっていかななければならないもの、である。わたしはそう思っていて、そして予言通りに無くなっていくとしても、おそらくはるか未来のことだから、いま現在のわたしの生存にはあまり関わりなく、その点でわたしはこの考えに精力を費やそうという気にはなかなかなれないでいる。