『老いの渇望』
 
8 中断するしかなくなってしまって、
              2021/07/26
 
 生命及び生物の進化を単純に捉えると、単細胞から多細胞のように、シンプルで極微のものから、複雑でより大きなもの、組織的なものへと変わってきたようにイメージされる。そして同時に、それは下等なものから複雑で高級なものへの進化であり、発達だというように考えられている。
 子どもは未熟で成人となって一人前だという見方、考え方も、構造的にはこれと同じで、時間の経過に伴って起こる変化は、よりよいほうとかより望ましいほうに向かうというのが、なんとなくの現代人の考え方であると思う。漠然と、そういうイメージを持っているということでもよい。
 最近、こういう物事の捉え方に疑問と不満を感じてしまう。人間が、自分の都合のよいように勝手に考えているだけではないかと思うのだ。そしてそういう考え方、意識の持ち方に自己満足して、人間はずいぶんと傲慢なのだとも思う。
 
 大人は子どもよりも偉いか高級かというと、単に子どもの頃の感覚全開の生き方を抑制して、知的だがつまんない生き方をするようになっただけではないのかと思う。またそういうほうが偉い、高級と思い込んでいるだけだ。だいたい、偉い、高級などという価値観も、人間界だけの狭く、閉じた概念の世界だといえば言える。
 言葉も同じで、歴史が降るにつれてその数は膨大に膨れ上がったが、言葉の発生の初期にはその数はわずかで、それで充分に足りるものであったろう。それだけで世界を表現することができていた。なぜかというと、言葉自体が比喩的なものだからだ。うまい例が見つからないが、たとえば「し・ぜ・ん」と発語したものと、それを聞いたものとの間に生涯に体験したさまざまな自然現象が共時に想起される関係が成立していたとすれば、その一語であらゆる自然現象を総合して言い尽くしたことになる。
 最初に言葉が使われるようになって以後、正確に、緻密に、という方向でたくさんの言葉が発明されたと思われるが、緻密さや正確さを膨大に積み重ねてなる学者の論文と同じで、本当は使わなくてすむ程度の言葉が大量に産出されてきたに過ぎないのではないか。言葉が比喩であれば沈黙も比喩であり得る。
 言葉以前の言葉を内コミュニケーションと呼ぶとすれば、言葉の発達は内コミュニケーションの退化と考えることもできる。
 
 わたしは、進歩、発達といった史観的なものの見方に、うさんくささを感じる。19世紀から20世紀にかけてのその時代に生きた人々にとって、単に都合のよい考え方に過ぎなかったのではないのかと思える。原始、太古代がお粗末だったという考え方もどこか疑わしい。成人に比べて幼児はかわいいけれども無価値で役立たずだという考え方も嫌いだ。そういう比較ということも意識の特徴の一つではあるが、そんな性質に閉じられて何事かを言っているように錯覚しているということも嫌いだ。
 わたしは初期や根源ということが好きだ。そこでは意識、頭の働きは微弱だったかもしれないが、その分、身体、感覚、そして未明に見える心の動きは活発に、豊かに、あるいは強大に働いていたのではないかと思える。逆に言えば、人間は意識や頭の働きという、狭い露地の一方向を駆け抜けてきたという気がする。それでもいいといえばいいのかもしれないが、狭い露地にはいくつもの行き止まりが待ち構えていて、わたしたち人間を窮地に誘い込む。だからわたしたちはここいらで、心も意識も、また社会の歩みも変えなければならないのではないか、などと思う。
 
 生物進化が事実とすれば、多細胞生物は単細胞生物から進化したと捉えられる。この進化にはおそらくは環境の変化が大きく寄与しているのであろうが、見た目には単細胞の単純なシステムから多細胞生物の複雑なシステムの形成へと高級化したように考えられがちだ。けれども、本当は進化の条件として、単細胞生物にはその後の進化に見合う要件が完備されていたはずだとわたしは思う。つまり、大本のところに、すでに、進化に見合う可能性は潜在していたはずである。でなければ、進化など起こりうるはずが無い。
 そうすると、多細胞生物は単細胞生物から派生したことになるし、さらにどちらが合理的で省エネかを考えると、わたしには単細胞生物の方に分があると思える。つまり生命体の完成形としては、複雑、高度化した多細胞生物より、単純で単調な単細胞生物の方がより完成形に近い気がする。余計なものをすべて剥ぎ取ったシンプルな生命体がそこに存在している。それでいったい何がまずかったのか。
 
 感覚器官の進化、いわゆる分化と分離の行程にも同じような傾向が考えられる。素人の率直な言い方をそのまま通していえば、単細胞生物にも感覚機能はあり、それは進化の過程で分化と分離を繰り返し、触覚や視覚や聴覚や嗅覚などを産み出していったと想定されるのである。つまり、分離分化して一つの機能として確立されていったそれらのひとつひとつは、もとをただせば原生生物の感覚機能から派生した器官と言えるように思う。であるならば、例えば人の臨終の間際、あるいは瀕死の状態に陥った時に、各感覚機能は麻痺し、衰退し、進化の逆行、すなわち退化の過程をたどっていくのではないか。つまり分離や分化ではなくて融合の方に向かう。そこでは聴覚の刺激が視覚化されたりと、さまざまな混乱が生じうる。
 いずれにしても、驚嘆すべきは進化発達した各器官の機能の高度な働きや精密さにあるのではなく、元というべき単細胞の感覚機能が内在的に持つ可塑性のほうに驚くべきであるとわたしは考える。未熟かもしれないが、単純な感覚機能の中に後に各器官などに分化、発展する機能が、集約的に内包されていたという考えが成り立ち得るからだ。
 そしてここでもまた、どうして単細胞生物の初期的な感覚機能が、高度で複雑な感覚器官へと進化、発展を遂げなければならなかったか、いったい何がまずくてそうなったのか、という問いがやってくる。
 
 もちろん、環境の激変が進化を推し進める原動力であったことは想定できる。となれば、進化は本当は必ずしもよりよい方向、望ましい方向に進んできたとは言えず、単純さや未分化が劣っていることだとも言えないことである。歴史の進展にも、進化の歴史にも、人間が考えたがる意味などは本当はないことである。そしておそらくは人間の生涯についての発達や進歩という考え方も、時間軸で捉えた偏狭な考え方であると思える。空間的に見れば、ただ同列に存在する何かである。
 
 進化は、宇宙や地球環境の変化に対応する、いわば生命自体に内在した戦略で、これに進歩とか発達とかの概念を付加することは無謀だ。同じように時間的経過がもたらすあらゆる現象の変化は、必ずしもよりよいとか望ましい方向に進むとは言い切れない。優れるとか高級になるという問題でも無い。