『老いの渇望』
 
9 「いじめ」について考える
              2021/08/03
 
 いまから3、40年前になるだろうか、「いじめ」が社会問題化して、学校でもまたその周辺でも「いじめの根絶」が叫ばれるようになった。あれからずいぶん経ったが、その後この問題は何度も繰り返し社会問題に浮上し続けている。「根絶」などあり得ないことだし、これを学校ぐるみ、地域ぐるみで根絶できると考えることは錯覚だ。
 まず、人間の言動には全くのオリジナルというものはない。人間社会、人類史にかつてなかったものが、突如現れることなどありえないことだ。すべては真似と継承とから出発するのであって、隔絶された環境に育たない限り個人には社会の要素がそのまま注入されることになる。だからどんなことも、いまあるもの、かつてあったものが形を変えて反復されるだけなのだ。当然だが、「いじめ」は昔から存在した。「いじめ」が起きるのはそれ以前にすでに共同体の内に「いじめ」が存在しているからで、これは初期社会が産出した人間社会の特性として、それだけの古い由来を持っていると考えるべきである。
 昔からあった「いじめ」が、現在、ことさら社会問題として大きく取り上げられたのは、その質と内容が過激になり、また多数の自殺者を出すほどに被害が甚大になっていったからだ。その原因は、戦後、そして高度成長期を経て、日本社会がかつてないほどの大きな変貌を遂げたからだとわたしは考えている。専門家ではないからそのメカニズムを証明しようもないが、「いじめ」の質と内容の変化の原因を、同じように急激な変貌を遂げた社会に求めるしか手がない。高度に成長した社会が、「いじめ」をも高度化、複雑化させていったと考えると、まずは大きく間違ってはいないと思う。それによって家庭生活も生活スタイルも、あるいは恋愛の様式も大きく変わっていったことを、わたしたちは目の当たりにしてきているはずだ。
 ところで、こんにちの日本の社会では、あいかわらず、「いじめ根絶」のスローガンのもと、これを徹底すればなくなるかのような幻想を抱いている。これに協力、賛同しないものをしらみつぶしに潰してしまえば、根絶できるに違いないと錯覚している。いわゆる対症療法の典型で、抑制効果は持つが抜本的な解決には至らない。もちろん根絶などできるはずがない。
 こういう発想をする連中は、一部のものの無知、無理解が「いじめ」がなくならない理由だと考えがちである。それで一生懸命ローラー作戦に夢中になる。だが、何度も言うがこれが功を奏するのは一時的な抑制効果としてであって、しかも統治者がよく行う押さえ込みの手法にすぎないから、ことの裏側で事態を悪化させていくだけのことでしかないことが分かっていない。抑圧されたものは地下に潜り、より陰湿になり、陰惨になり、あるいは別の形、別のものに変貌する可能性として堆積する。
 先日、オリンピックの開会式の演出に携わっていた一人が、過去に雑誌の対談で壮絶な「いじめ」の加害者であったことを告白した記事がネットに流出し、大バッシングを受けて辞任する羽目になったことが報じられた。
 わたしはこれは文科省をはじめとする教育機関、教育行政、学校関係者の「いじめ」撲滅、根絶のキャンペーンの大きな成果の一つとみた。もちろん揶揄して言っているわけだが、「いじめ」をしてはいけないという指導の徹底が、小山田という人の過去の「いじめ」加害への大バッシングとなって現象化した。逆に言えば、本当に多くの人が「いじめ」はよくないことだ、「いじめ」をする人間は「クズだ」、「アホだ」、「最低だ」などと本気で思っているようなのだ。
 強者が弱者をいじめる、多数が一人をいじめる、それがよくないことだというのは小学生でも分かる。先生に教わらなくても、大人に教わらなくても、感覚的に分かるはずだし、分からなければならないはずのことである。こういうことは頭で分かっても本当は意味がない。頭で分かることは、言ってみればコンピューターが数式を理解するのと同じである。
 感覚的に分かるということは、「いじめ」の現場を感覚的に捉えることが必要で、間近に見たり体験しなければならないことだ。
 直感したことを自分の頭で捉えなおすことは有意義なことだと思うが、直感に蓋をするように外部から「いじめは悪」と注入され続け、それを自分の考えのように言うようになってしまうのでは意味がない。まして経験のない、感覚的にも分からないのであれば、「いじめ」批判の言葉は教えられたことをオウム返しのように言っているだけだ。加害者側の動機も理由も、あるいは問題の原因もよく探りもせず、「いじめ」の言葉だけに反応してこれを否定する。それもまた「いじめ」の萌芽になるなるかもしれないことに気づかない。
 
 最近わたしは仕事上、小学生とよく接する。そこで第一に思ったことは、いまの子どもたちは、話し方が上手で、理路整然としゃべるということだ。大人顔負けのその話しぶりに、驚いた。もちろん知識も豊かだ。自分の子どもの頃とは雲泥の差がある。おそらく、そこには現場の先生たちの努力と研修があるのだろう。その成果が顕在化していると見えた。
 がしかし、子どもたちが話す言葉の内側に、実感の裏打ちというようなものがどうにも見えてこない。コミュニケーションとしての言葉遣いは巧みになったが、それらはみな体験、経験を要しない言葉群の羅列のようにも思える。もっと言えば、言葉の背後に控えるはずの生活、あるいはその匂いが少しも感じられないのだ。彼らの生活が見えてこない。生活や生活臭のない言葉ばかりが口をついて出てくる。体験、経験に付随する感覚の言葉が極端に少ない。誇張して言えば、実感の伴わないコンピュータ言語を聞いているようなのだ。
 これは「いじめ」批判、「いじめ」加害者をバッシングする言葉にどこかで相通じているような気がするのである。わたしは一人で「教育の成果」と心に小さくつぶやき、共時に、ぽっかりと口を開けた深淵に向き合っているような孤独と寂寥とうそ寒さとを感じた。
 
 わたしは「いじめ」の問題は自分の問題と考えてきた。もしも「いじめ」にあったときは、一人で社会に抗すると同じように、一人で抗するものだと考えている。子どもの頃の喧嘩では、泣いたりわめいたり、終いには相手に思いっきり噛みついたり、髪の毛を引っ張ったりと、喧嘩の邪道で対抗した。いまも、いじめに対抗するにはそうする以外に無いと思っている。
 そして、もしも「いじめ」の加害に回った時は、対自分に抗すべきだと考えている。どちらも徹底することは難しいのだろうが、原理的にはそういうものだと思っている。
 自分以外の「いじめ」は、原則、よそ事である。無関係、無関心と言うことではなく、自分の対処法から言って、当事者間で解決するのが望ましい、あるいは理想的と考えるからだ。
 小さい頃の「いじめ」や「けんか」は経験しておいた方があとで得だとわたしは思っている。後味の悪さ、不毛さが思い知らされて、できるならしない方がいいと思うようになる。また新型コロナのワクチンではないが、抵抗力、対抗力もつく。ところが、時代は、後に生きる力として働く要素をもったあらゆる行い、また環境を子どもたちから遠ざけ、奪ってきた。毎日学校で6時間ほど机に縛り付け、家に帰れば宿題をし、テレビを見たりゲーム機で遊んで過ごす。そんなことで赤裸々な人間同士のぶつかり合いが経験できるはずがない。
 
 現在の「いじめ」が問題なのは、いじめる方もいじめられる方も、そのいじめ方いじめられ方が極端になってきたことだ。わたしのような年寄りには考えられないようないじめ方をするし、同じように考えられないようないじめの受け取り方をして自殺にまで至っている。
 昔の「いじめ」は、いじめ方もいじめられ方もそこまで行ききらずに解消するものであった。言ってしまえば双方にリミッターが働いていた。現在の「いじめ」においては、その機能が弱まっているか、あるいは解除されてなくなってしまったかのように見える。結論から言えばその原因は、あまりにも人工化した社会にあるとわたしは思う。逆に言うと社会の中から自然が排除されすぎたということである。別に言えば頭中心の社会、また養老孟司の言うところの脳化社会が遠因だと思える。脳、意識、精神、どれをとってもよいが、これには制限機能がない。つまりリミッターがない。リミッターを有するのは心である。心は直接的には内臓の働きや動きが反映したり関与したりするもので、頭の働きに対してより身体的な側面をもつ。身体は心に寄り添い、心は身体に寄り添う。また心は身体的生活、実生活に寄り添う。心は他の心にふれあい、絡み合う中で成長を遂げる。たとえそれが忌むべき体験であったとしても、大事な成長の糧になる。この心の後方支援がなければ、理性は十全の働きを発揮しない。
 
 幼児期、また少年少女期は特に、自身が自然の一部として存在していて、自然まみれの生活をすべき時期に当たっている。そして本当はそこに大人社会のルールを持ち込むべきではない。子ども同士で原始社会の未明と混沌の時期を充分に体験すべきなのだ。大人から見て支離滅裂でもこの時期をそのようにくぐり抜けることが大切だと思える。そこでは心にも身体にも、ケガや生傷が絶えないということになるのかもしれない。だが、その体験が心を成長させると考えるべきだ。 現在の子どもたちにはその部分が希薄だと感じられてならない。いじめるとかいじめられるとかの機会に遭遇しなければ、それはそれで大過なく過ごしていけるからよいと言えば言えるのだが、絶対遭遇しないとも言い切れない。唯一、最悪の結果を避けるためにはいじめられる側も、「いじめ」に対する抵抗力を持っていた方がよい。その力が希薄であれば、どんな対策を講じようとも効果を発揮しきれない。逆に、こうした抵抗力が備われば、どんなキャンペーンも対策も講じなくてすむはずである。