吉本隆明の「アジア的ということ」
 
 「けれど問題はこうなのだ。英国の国家的な規模の財商たちによってもたらされたインドの最初の近代化の衝撃は,即自的に『土着社会における偉大であり高貴であるもののすべてを平準化する』ところのヒンズー文明の破壊であったこと。さらに徹底的にいえば『偉大であり高貴である』ヒンズー文明と文化こそはヒンドスタン‐アジアの自閉的な村落共同体と小分封国家の群立をもたらした原泉であること。だからヒンズー文明が『偉大』で『高貴』であればあるほど,また永生的で強固なものであればあるほど,ヒンドスタン‐アジアの停滞した内閉的な共同体社会とアジア的専制とを強固に存続せしめたものであること。アジア的または古代的な文明は,それが偉大で高貴であればあるほど『近代化』という概念における歴史の展開に対して拒絶的であること。これらのすべての結論こそが問題なだけである。これらのことはただアジア的または古代的な文明と文化とが,自己完結的なものであり,人類の考えうることの全域にわたってすでに完結した解答を与えてしまっていたこと,そしてただ『近代化』と呼ばれている視点の転換だけが,新たな課題―歴史という課題にとって残されていたにすぎないことを語っている。」
 
 吉本隆明の−アジア的ということ−という論は,「試行」五十四号の「情況への発言」に始まっている。
 英国の東インド会社のインド支配の経緯を分析しながら,マルクスは社会的な勢力は国家の政治的な勢力とすくなくとも原則的には異質のもであり,異質の根拠をもって挙動することを明示すると共に,インドのアジア的な,社会政治的な制度の特質を鋭く抽出し,英国の支配によってもたらされた決定的な近代の悲惨とそして近代化の不可避性とを摘出したとして,論の始めに述べている。
 冒頭に引用した文章は,その後に続く。
 ここで吉本の考察しようとしていることを概括すれば,歴史の発展における近代化とは何か,アジア社会の近代化はアジア的な特質を持つ国家や社会の何を破壊し,何を残したままにしているか。また西欧によって生み出された歴史概念,近代化は普遍的なものであるか。それはどこまで正当なものであるのかを究明しようとするものである。
 この考察を促したものは,「西欧的社会の展開自体がそれほど魅力的なばかりではない」ことと,ロシア政治革命の悲惨な結果とが大きく起因していると思う。
 要するに,現在的には西欧社会を模範として真似ることはしたくないし,かといってアジア的な特質の中に停滞するわけにも行かない。それではどうすればいいか。それを,アジア的という視点を深化・拡大させながら,ロシアマルクス主義を批判検討することによって,さらにヘーゲルやマルクスの誤謬,彼らに代表される歴史観・文明史観の過ちを明らかにしつつ新たなる歴史観の構築に向かおうとするものであるとぼくは思う。
 ここで「アジア的」というのは,ヘーゲルなどが言っている,西欧近代社会を第一社会とし,近接するアジア社会を第二社会,その他の未明の社会を旧世界として歴史の枠外においた,その歴史観がいうところの「アジア」の特質を含んだものを指している。
 
 先進資本主義国となっているこの日本の社会を見ても,いったいこの先どこに行こうとしているのか,どこへ向かえばいいのか,ぼくには皆目分からない。
 多くの識者がなんだかんだといっているが,そこには包括的な視点がなく,十分に納得できる原理的な考察もない。あるとしても相も変わらぬヘーゲルやマルクスの焼き直しにすぎない。また,フーコーやボードリヤールなどといった人は,それこそ西欧的な特質の中にある人たちであって,これをそのまま移植しても始まらない。アジア人はアジア人なりに,やはり自分の身体(この場合国家や社会,共同体など)を正確に認識するところから始められなければならないものなのだと思う。
 
 二十年前に書かれた吉本の「アジア的ということ」の文章を久しぶりに読んで,「アジア的」の重要性を今更ながらに感じた。それを抽出することは,自分のためにも,人々のためにもなると考えた。素人の,素直な文体で書き続けることができたらいいなあと思っている。
 
 さて,1回目の「アジア的ということ」には,レーニンの理想の「近代化」の理念に対しての言及もある。
 レーニンにとって絶滅し止揚されるべきロシア社会のアジア的な構成は,また最も大きな観念的な基礎を与えるものであったと同時に,レーニンらの政治的な意志の構造の中にアジア的心性が巣くっていたと分析されている。その為に,レーニンらの理念にあった理想の「近代化」(近代の止揚)の過程を,人類史上最も強力に推進された大衆による大衆の弾圧と殺戮のさきがけにしてしまったのだとも言えると述べている。
 「インド」「ロシア」における「アジア」の絶滅。その廃墟の上に現れたものは西欧近代でもなく,ユートピア社会でもなかった。
 敗戦後の日本は,見事に復興を果たし,先進資本主義国の仲間入りを果たすまでになった。現在は超資本主義,消費資本主義社会の道をひた走っている。しかし,日本古来の文化文明が壊滅的状態にあること,道徳心,美意識等が破滅しかかっているとともに,それらを懐かしむ声があちこちで聞かれるようになっている。情緒たっぷりのアジア的な心性に懐旧の念を抱きながら,非アジア的な生活を歩んでいるところから来ているのだろうか。
 西欧社会の物質的土台は構築された。だが,失われた「アジア的」に代わる<こころ>は,夢から覚めてみれば実は今も焼け野原の前に立ちつくしていて,ただ喪失に向き合っているだけではないのか。                            
 都会と田舎の違いのように,西欧近代とアジア的社会とにはそれぞれに長所短所が混在する。絶対に都会がいい,絶対に田舎がいいとは言い切れない。自然な流れでは,田舎は少しずつ都会化するだろう。都会は超都会へと向かうに違いなく,田舎化を目指すことはあり得ないことは明白だ。だが自然な進展に身を任せなけばならない理由もない。
 ぼく自身は,田舎の共同体意識が煩わしく感じられるときがある。田舎を出たことがない人々には,幾年か煩わしい人間関係が希薄な都会暮らしを勧めたい気がする。都会人にはまた,田舎暮らしも体験させてみたい。他人を我がことのように理解しようとする情緒のぶ厚さに触れて,何を感じるだろうか。
                               以上まで 2003.6.9
 
 前回の続きから言えば,ヘーゲルの時代の史観からいってアジア社会の高度化は,西欧社会に近づくはずである。にもかかわらず,アジア社会は拒絶的であるとともに,西欧近代とは異質の高度化を進んでいる。そこには,アジアの特質が残存し,どこまで行っても西欧にはなりきれない。また,先に立つ西欧の姿を見れば,決して理想の社会を確固たるものとして構築してきているとも思えない。
 だが,西欧はともかく,アジアは西欧に導かれ,あるいは西欧の後を追ってアジアを脱却する道を進んできた。ある意味で,アジアはアジアを脱皮する過程にあって,アジアの古さと良さとを同時に脱ぎ捨てながら,どう変身するか,模範もなければもう一度旧来のアジアにもどることもできない,そんな事態に直面しているのだと思える。
 
 いちばん発達した場所である西欧社会において,その資本主義的な弊害と矛盾からの脱却を思考し,多大な影響を与えたのはマルクスたちの革命理論だった。西欧社会に内在する課題の発展的な解消を目指すそれが,その後の歴史的な展開をどう進めたかは記憶に生々しい。中でもアジアの一画であるロシアに残した爪痕は,ロシアの身体と脳髄を深くえぐり取り,再起不能を思わせるダメージを与えたように見える。
 その経過は,ロシアの崩壊をもたらしただけではない。ある意味で,世界が痴呆化したのだ。世界はただ,同じひとつのことを繰り返し呟き続けている。「変えなければならない,変わらなければならない。だがいったいどんなふうに…。」
                                  つづく
 「アジア的ということ」の}では,レーニンの中には,マルクスがいうコンミューン型の国家,プロレタリア独裁に対する誤解や誤ったイメージがあると,吉本は指摘している。マルクスのことばが引っ張り出され,レーニンの受容の仕方が分析される。
 その核心的な部分は,レーニンの『国家と革命』にふれた次のような箇所にある。
 「レーニンはマルクスの著作の引用箇所と対応し,そこから理念的な緊張を強いられている間はあまりボロは出さないが,少しマルクスとエンゲルスの引用から離れて,本音をいうくだりになると,重苦しい封鎖性を露出しはじめる。『計算と統制』が共産主義の第一段階などと,マルクスは(エンゲルスでさえも)ひとつも云ったことはない。云ったことがないことを云っても,少しも差し支えはないのだが,ここでレーニンが描いている武装した国家権力によって覆いつくされた全体的な『統制』の画像は,国家権力が武装した労働者(の『前衛』)であろうと即自的な労働者であろうと,まったく国家を異常なほど全体化する<アジア的>な専制の画像の再版のようにしかみえない。マルクスは『すべての市民が,武装した労働者である国家にやとわれる勤務員に転化する。すべての市民が,ひとつの全人民的な国家的《シンジケート》の勤務員および労働者となる。』といったような<アジア的>専制国家の画像で,共産主義の第一段階を描いたことなどなかった。レーニンは知らず知らずのうちにコンミューン型の国家の画像を,ロシアの<アジア的>な専制国家の伝統的な画像に重ね合わせ,『武装した労働者である国家』を専制君主とする『息のつまるほど有難い』『統制』国家に仕立て上げてしまっている。そこでは『資本家』と『資本家的習癖』をのこした『インテリゲンツィア諸君』が鉄の『統制』であっぷあっぷする見世物が主要な興業物というわけだ。
 このレーニンの貧弱な歪曲されたファッショ的な国家画像にこそマルクスが<アジア的>に受容されたときのひとつの典型が,ロシア的な典型が象徴されている。」
 そして,レーニンによるマルクスの矮小化は,「徹頭徹尾<アジア的>なものであった。」
と結論されている。
 また,「要するに原則は,すべての大衆の<自由>と<解放>,そして価値法則からの離脱以外の課題ではない。それは『計算』や『統制』とは何のかかわりもないことだし,人類社会が資本主義社会にいたるまでに積み重ねてきた<知識>やその担い手である<知識人>を無知のこん棒でなぐり倒すこととも,『ひとにぎりの資本家』を強制収容所にぶち込むこととも何の関わりもない。またプロレタリアートに<知識>にたいするいわれのない侮蔑を教え込んだり,<知識>の獲得のための努力を免除することとも何の関わりもない。全大衆の個々人の<自由>と<解放>にとって必要なかぎりにおいて,また必要な範囲においてのみ,<生産手段の社会化>が強制されるだろうという原則のほかに,どんな原則も存在するはずはない。」と述べられている。
 レーニンが誤解し,または曲解した箇所をマルクスの叙述や記述に沿って正しく読み取ればどうなるのかは,この項に明確に述べられてはいるが,これについては吉本の言説の至る所で繰り返し述べられているところで,ここでは紹介する労を省きたい。いずれ,この先否応なく出てくることとも思うので,次の~の文章へと進んでいきたい。
                                   つづく
 
 「アジア的ということ」~では,最初に,レーニンらとヨーロッパの第二インターの指導者たちとの対立に言及している。そして,「わたしたちがここで真に問いただすべきは,レーニンらとロシア社会民主主義者たちと第二インターの指導者であるヨーロッパの社会民主主義者たちを根柢から襲った課題,労働者たちの<階級>という世界統一性は,資本主義的な民族国家のあいだの市場の世界性に基いた世界統一性(それは主としてまず経済的にと感性的な形とでおとずれる)を超えうるかという課題である。だがそのためには,なぜヨーロッパの社会民主主義が民族国家の擁護に転じたのに,レーニン(ら)に嚮導されたロシアの社会民主主義,古典近代期に形成された社会主義の原則,いいかえれば<階級>という概念の世界統一性を固守したのか,その理由が問われるべきである。」といっている。
 そして,レーニンはこれを合法的な社会民主主義的な議員たちの挙動を例にして「ヨーロッパ主義」と「ロシア主義」の相異に帰し,その中で,ヨーロッパの社会民主主義がモダンで柔弱なのにたいして,ロシアの後進的な社会の作り上げている労働者や大衆との密着性と地下性とを美質として描き出していると述べている。またそういうときのレーニンの思いの中には,ロシアのアジア的要素の卓越性が認められるとも述べられている。
 それはしかし,「つまらぬことをいっている」のではないかと吉本は云い,「原則を強固に持続する要素は,原則に反するものを強固に排除する要素でもある。レーニンらがヨーロッパの社会民主主義を嘲笑した地点は,嘲笑されるロシア的な社会民主主義の地点にもなりえたのである。」と結んでいる。
 簡単に言えば,レーニンはエンゲルスが云うところの階級という世界統一性が,国家と国家の境界,別のことばで言えば資本主義の民族国家の枠組みを越えて形成しなければならないという原則に固執していたし,彼からみればヨーロッパの社会民主主義者たちは社会主義の原則の放棄として映っていたと云うことである。だが,ことはそう簡単ではなくて,資本主義社会制度や民族的な国家は当初に考えられていた以上にはるかに強固なものではないのかと云うこと。また,ヨーロッパとロシアとの資本主義の段階の差異。あるいはロシアのアジア的な停滞の枠組みといったものが,先のヨーロッパの社会民主主義者たちとレーニンらロシア社会民主主義者たちとの対立の根底にあったのではないか,と吉本には考えられている。
 そこから先に引用した,「原則を強固に持続する要素は」云々が導き出されている。
 ヨーロッパの社会民主主義者たちには,資本主義的な民族国家,制度の強固さが,皮膚感覚的に感得されていたかもしれない。原則は原則のままでは通用できない,というように。レーニンたちが直接ふれているロシアの資本主義の段階においては,それが感知できなかった。またそこには,原則とか決まりとかを必要以上に固守するアジア的な強固な精神の枠組みが存在したのかもしれない。
 吉本が「原則を強固に持続する要素は,原則に反するものを強固に排除する要素でもある。」というとき,その云うところの意味がよく分かるような気がする。それはスターリンの「粛清」やヒトラーの「大量虐殺」を思い起こさせるし,日本型の勤勉や会社とか職業への忠実な貢献を思い起こさせる。いずれにも「原則に反するものを強固に排除する」力学が働いている。ある意味での美質が,一転して,おぞましい排除の顔に取って代わる。
 人間は,本当はそんなふうにできていないのではないか。ある場合は,怠惰であり,ケースバイケースで自分を変えることができる。善であったり悪であったり,一生を同じ色で過ごすことはあり得ない。どんな大悪人であっても一生を悪一色で塗りつぶすように生きることはできない。肉親や自然,動植物に対して,善として振る舞うことはあり得るのではないか。
 こう考えてくれば,だいたいのところで善悪を往き来しているのが人間だと思われてくる。進歩,保守といっても,その時々の表象があるばかりで,陣営を張ること自体がどこかおかしい。
 世間的に立派だと思われている人々も,逆に言えば,「立派でないものへの強固な排除の姿勢」を根っこに宿しているのかもしれない。もちろん,その人を立派だと云い,担ぎ上げている人々の心の中にも,そうした思いが宿っていないとは限らない。
 悪を排除しない善は矛盾である。だが,排除において,善は悪以上の悪を為す可能性を秘める。
                                    つづく
 
 さて,この後吉本はレーニンらの<戦争>と<平和>についての言説を取り上げている。そしてそれらの言説の中に,二つの大きな欠陥を見ている。
 ひとつは,レーニンらの見解が,戦争の直接の担い手である兵士や大衆とは無縁の,いわば指導者層,権力の推進者の地平にたった理念にすぎないということだ。これはクラウゼヴィッツの『戦争論』の中にある,「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」ということばの通りであって,大衆の死活の問題が軽薄でむごたらしい理念によって左右されていることを吉本は指摘している。
 現在,日本ではマスメディアを通じて様々な党派の様々な自衛隊のイラク派遣問題に関する言説が紹介され,また一時的な措置法が国会を通過した。そこに見られたのもまた同様のあほらしくもむごたらしい政治的な茶番劇だった。世界のなかで物笑いになっているから,とか,みんながやっているから自分たちも危険でもボランティアをしなければならない,とか,テロに対抗するのだ,とか,国の自衛だ,とか,云々。
 聞いていてわっと叫び出したいほどに恥ずかしい発言の数々だ。
 それならまず,おまえたち政治家が「いの一番に志願して行ってこいよ」と言いたい。 そうした上で,ものを言ってもらいたいものだ。
 ぼくら大衆は,日本をどうしようとか言う,つまり政治家や有識者のような世界を鳥瞰して物言いをする人たちと違って,高さ2メートル,幅はせいぜい数キロの範囲でしか物事を考えないくらしをしているけれども,そのかわりに他者を自分の姿形と同等のものとして認識することができている。つまり,殺し合いもいやだし,銃を担いで戦場に行くこともいやだという自分の思いは他者も同じだと知っているし,他者に向かってそんなところに行けなどとはとても言えない。国とか国家はその後のその先に出てくるものであって,国や国家は大衆のこんな思いを理念に変えて,毅然として世界に向かうべきではないのか,と思う。逆に世界の陰口やうわさ話に過剰反応して,あわてふためく政治家や有識者の様こそ,恥ずかしい。威張っていられるのは,国内の中でだけだ。外に向かって威張れないから一般大衆を生け贄に差し出すというのは,愚劣以外の何物でもないのではないか。
 政治家は国民の命を預かり,国を守るために考え行動しているのだから,政治家の言動は尊重されてしかるべきだし,指導は正しく,大衆は決まったことに従わなければならないと考えているのではないか。それはしかし間違った認識である。国民や大衆の前衛として君臨するような政治家や有識者は悪しき存在である。最も後衛にあって,且つ国民や大衆の心を政治や理念のことばに翻訳するものこそが,本当の政治家であり,有識者と呼ばれるにふさわしい者たちなのだ。
 こうした意味では,レーニンらも現在日本の政治家も,悪しき指導者の片鱗をかいま見せることになっている。
 ところで,第二の問題は,レーニンらの見解には<戦争>を歴史的に進歩的であったかどうかで見ようとする考えがあったことである。そこでは人類の発展に寄与したと見なされれば,正当な戦争であったと見なされる。こういう考えは,ヘーゲルの歴史哲学の考察の中にもあった。つまり,人類史あるいは精神史の進歩に寄与した過去の歴史的な事象,またその歴史上の人物を正当化したり,善や正義であると考える傾向である。
 レーニンらの<戦争>観はしかしマルクスのインド問題への見解と対比される。
 「マルクスはイギリスの東印度会社によるインド支配は,その意図と結果がどのように根底的な印度のアジア的共同体の破壊であっても,印度に近代化をもたらした<進歩性>をもつがゆえに歴史に<善>と<正義>をもたらしたなどというお粗末なことを決して云わなかった。印度のアジア的な村落共同体の自閉的で独立的な構造こそが,偉大な完結された印度古代思想を生みだした母体であり,同時に牛の頭や猿の頭を人間以上に尊重するような迷信を生みだした蒙昧の根拠であること。それが鉄壁のようなカーストの身分制の呪縛を作り上げたと同時に,平和な,親和にあふれた,自足した,だが貧困な停滞の安らぎを夢見させた村落の理想郷でもあったこと。イギリスの東印度会社によるインド支配は,インドのアジア的な村落共同体の経済基盤であった農業と手織りものの家産的な構造を徹底的に破壊した<近代化>をもたらしたが,このことは同時にインドの苛酷な貧困の自由をももたらし,伝統的な美質の基盤を奪うことで,偉大なインドの古代文明を破壊するものでもあったこと,等々。要するにイギリスのインド支配は利益を収奪する植民地支配以外のものではないにもかかわらず<近代化>をもたらしたという意味では不可避であり,インドの<近代化>と開明をもたらすものとしては,偉大なインド古代文明の伝統的な基盤と,平穏な理想郷的な村落の平安を根底から破壊してしまった,そういう錯綜した歴史の矛盾を分析し開明してみせている。
 <アジア的>と言う世界史的な概念のなかで,マルクスはあたうかぎりの陰影を含めて,アジア的な停滞や保守的(ある場合反動的)な村落共同体の構成が,逆に歴史に偉大な理念と文明をもたらすことがありうるし,また<近代化>の衝動が治癒しがたい病根をもたらすこともあり得るという歴史の実態を明らかに示した。そしてイギリスの東印度会社がインドのアジア的な社会に加えた,冷酷な利害に駆られただけの<近代化>の衝撃を,歴史のやむを得ない惨劇としてみとめる場合にも,なおそれがインドのアジア的ないし古典古代的な偉大な文明の破壊であることに言及せずにはおかなかった。ここにはマルクスが世界史のひとつの段階として<アジア的>という普遍性を設定した真のモチーフが匿されている。」
 「レーニンらは,このマルクスの歴史理念の最も本質的な個処を単純化して,歴史の<進歩>や<発展>に沿う理念でなされる<戦争>は,たとえどんな惨禍や残虐や災厄や苦悩や殺戮がともなっても,「人類の発展に利益をもたら」すがゆえに是認されるというように歪曲した。」
                                   つづく
 
 「アジア的ということ」
 ここで吉本はレーニンの弁証法的「唯物論」と史的「唯物論」について検討し,それが虚偽ではないにしても無意味な点を強調していると批判している。また,同時にその「唯物論」が,レーニンのロシア資本主義における農業問題の考察で,おなじく誤りとは言えないが無意味な点を強調して,ことの本質を見誤ったと論述している。
 吉本の,レーニンを批判的に検討しながら,その背後にねらいとしてもっていたものは次のような箇所に表れていると言える。
 「マルクスはアジア的な共同体規制の強固な農民たちが,じぶんたちを主体にして(いいかえれば農本主義的に),政治的な革命を企図するとすれば,必ずディスポット(専制君主)をじぶんたちの見方のように考えて頂点に戴き,ディスポットの周辺で政策を壟断する貴族支配層たちを排除して,直接的で平等な農業共同体を基盤とした専制ユートピアを目指そうとするだろうことを指摘している。」
 ここには日本の農本主義者たちの構想した革命の典型を見,また「レーニンらの党派による政治権力が,いかにアジア的な支配共同体の性格を持ち,いかにレーニンやスターリンがディスポットの代理として意味づけられ,マルクスのいう『半アジア的な農奴の恐怖政治』に類する側面に,絶えず収斂しようとした」かの原因を考えていることが窺われる。
 もうひとつ大事なところは,マルクスの考察から導き出された次のような見解にある。
 「マルクスは,もちろんロシアでもアジア的な農業共同体は不可避的に徐々に解体してゆくだろうとみなしている。そしてその根拠となるのは,西ヨーロッパでもいたるところに,かつて存在した古代的な共同体が,社会の進歩とともに消滅してしまったからであると述べている。このマルクスの見解は,レーニンの主張であるロシアにおける農業の資本主義化は『進歩的』な意義をもつものだという評価に対応している。けれどマルクスがロシアにおける資本主義と,村落のアジア的農業共同体の併存に見た核心は,そこになかった。かれは都市と農村における,あるいは主要には工業と農業における,あるいは資本主義と農業共同体における対立,矛盾,軋轢の併存する場面で,農業のアジア的共同体の残存は,資本主義の危機に対面し,資本主義を超えるための,そして資本主義がじぶんを超えた挙句に到達すべき画像の範型の役割を果たすだろうとみなしたのである。」
 「マルクスは当然のようにアジア古代的な共同体の特質―家屋や庭畑地てきなものを私有地とみなす以外には,すべての土地が共同体所有とかんがえるような所有様式と農民の所有意識―はもしかするとその長所とみなされる側面において,高次な規準線の段階で,資本主義の危機を超える範型となりうるのではないか。これがマルクスのたどった洞察の経路であった。」
 吉本はレーニンを論じながら,実はマルクスの見解を論じている。ロシアにおいて,マルクスがどう曲解され,流布され,無惨な社会体制や恐怖政治を築きあげたか,その経緯を検討することによってマルクスの救抜を試みているのだ。
 上に挙げた引用の中で,「危機を超える範型」という吉本の指摘は重要である。「どこへ行けばいいのか」という思いを胸に抱く人々には,検討に値することばであるとぼくは思う。
                                   つづく
 
 「アジア的ということ」
 これは,講演の記録として記載されていて,今までとは異なっている。その分,図式的に説明されていたり,分かりやすくなっていると言える。
 はじめに,「アジア的」という問題提起がなぜされなければならないのかが述べられている。その要因は二つあると言われている。
 ひとつは,日本において世界を認識するという場合,かつては西欧について考えればよかったのだが,現在は,世界の水平線上に,アジアもアフリカも,原始にある地域の問題も同じ視界に入ってきて,全体を考えなければならないこと。もうひとつは,欧米の資本主義社会の文明が,どこへどう行きつつあるのかはっきりつかまなければならないことが,課題として浮上してきたこと,などを吉本は挙げている。
 そして,「アジア的なもの」の解明を世界史的な意味で把握することが,欧米の社会,文明の推移を見守ることと同じく,世界を把握する場合の重要な軸となっていると述べている。
 また,世界思想的な意味で「アジア的なこと」を考えるときに,三つの問題があり,それはアジア的な共同体,アジア的生産様式,アジア的制度(政治制度・政治形態・権力形態)=アジア的専制,であるとされる。
 はじめの,共同体としての「アジア的」ということでは,それは農耕の共同体という枠組みにはいることがいわれる。その特徴は土地所有の観念において,全部が共同体の所有するものという考えにある段階にある場合,それをアジア的な共同体,あるいはアジア的な農耕共同体と呼ぶという。これは,その前段階である原始共同体も同じであって,そのちがいは共同体内におけるそれぞれの家族規模,所有する道具などの多寡によって生まれた差異が顕著化してきたところで「アジア的」な段階に入ったとみなすことができる。
 ヨーロッパにおいては,ヘーゲルの考察にもあるように,なぜかとても速やかにこの段階を通り過ぎ,「ゲルマン的」共同体,つまり封建的な共同体へ移行していった。
 アジアにおいては,しかしヨーロッパのようには進まず,「せいぜいじぶんの庭畑地とか宅地とか,そういうふうなものだけが私有地で,あとは全部共同体所有の土地で,本来は共同体のものだとかんがえた段階で,停滞してしまった」。
 吉本はこのようなアジア地域における,数千年をアジア的農耕共同体の段階のまま過ぎた特徴を,良くも悪くも,重要なものだと捉えている。
 このあと,「神人」は農耕共同体のメンバー以外の,農耕共同体の掟と法則に従わず農業以外の仕事に携わった人々を言うのだと言い,被差別部落や山窩は残された典型と考えられると言っている。
 たとえば山窩は,農耕の用具を作ったり修理したりしていたと考えられるが,大切なことは,社会の発展,文明の発展には,彼らのような農耕に携わらない人々の方が寄与したという考えである。逆に,農耕に携わる人々は,同じ生活の姿,生産の方法をもっていることによって精神の発展という意味では寄与したとは言えず,せいぜい時間をかけて伝統的な様式を形成したり,ゆったりした精神の様式や生活の安楽を築いてきた,つまりは熟成し味わい深い生活を構築してきたとは言えると述べている。
                                  つづく
 
 被差別部落や山窩を考えるにあたって,吉本は徳川時代から考えはじめたりする愚を一笑に付す。それらは,何千年も前にアジア的農耕共同体と付随して発生したもので,あくまでも共同体間,共同体外における血族的,氏族的な制度の問題で,本質的には政治制度の問題にはならないと述べている。
 差別の解消と言うとき,倫理的,政治的に論じることの不毛を吉本は体感している。歴史的にその発生当初に遡って明らかにしていくときに,差別の根拠の無化を自然的に招き寄せる。吉本はそういう方法を意識的にとっているのだと思う。これはある時期からの吉本の天皇制に対する姿勢でもあった。
 吉本によって,山窩の瀬振り数の分布と,被差別部落の人口の分布を日本の地図上に表したものを見ると,イメージ的には支配共同体の周縁,外縁に集中地域があり,それは重なって存在するように見える。
 以上のように,吉本は日本におけるアジア的な共同体の特質を知るときに,ひとつはその農耕共同体の在り方,変遷を見ることと,もうひとつは種族的氏族的な形で農耕以外の職業にたずさわった人たちの在り方を明らかにすることが大切と結論づけている。
 
                                  つづく
 
 つぎに吉本は,アジア的な政治制度,アジア的専制という観点から,支配的な共同体は,ほかの共同体とどういうふうなつながり方をするか,あるいはしていたかを考察している。
 まず,アジア的な「専制の政治制度では,支配共同体と被支配共同体との関係は貢納性といわれる形を」とることが述べられている。農耕共同体の余剰農産物を貢ぎ物として提供する,それがアジア的な専制における制度的な特徴であるというのである。「御屯家」,「御屯家田」,さらに「国造」「県主」「稲置」などの制度的な在り方などがその上から考察されている。
 さらに,日本の支配共同体及び個々の農耕共同体にとって,水利灌漑用水をどうとるかが大きな,そして大切な事業であることが考察されている。これもアジア的な専制の政治制度にとって,大きな柱であり特徴であることが述べられている。
 数千年前に発生した,こうしたアジア的専制,アジア的政治制度は本質的なところは大きく変わることなく,長く日本に定着してきて,つい最近まで日本の精神性の柱のひとつを形成してきたと考えられる。たとえば,村落内部での相互扶助性とか,親和性とかである。反面,現在の「いじめ」につながるような意味での「村八分」というような問題もあったのではないかと思われる。この欠点と利点は,現在でも考えるに値することだとぼくは思う。また,支配共同体と個々の共同体との関係は,ある意味で役割分担的なところがあって,支配共同体が個々の共同体の内部構造まで制度的な押しつけをしたりむちゃくちゃにかき回したりしない,逆に,個々の共同体は支配共同体の内部的なことに無頓着でいられるという関係が特徴的ではないかと考えられる。これは,何をやられても個々の共同体の成員の声は届かないよ,ということでもある。そういう関係では,ないのだ。ここがまた大変特徴的である。トップが馬鹿でも利口でも,生活者層にはたいした影響がない,相変わらず親和的で隣人と仲よくして摩擦が起こらない,そんな在り方になっている。ここにもまたこの制度の在り方の欠点と利点がある。
 吉本はこれらの考察のあとで,つぎのようなことを述べている。
 「たんにアジア的共同体の遺制を絶滅してヨーロッパ化すればいいという問題でもありません。ヨーロッパ化は自然過程のままに徐々に実現されてゆくという意味にすぎませんが,いわば精神構造の中で残っているアジア的な構造の利点と欠点は今まで数千年来残ってきたのとおなじように,これからも長い間残ってゆくだろうと思います。
 また逆に,先進的な資本主義国の精神や文化現象は頽廃的だからというので,アジア,アフリカ,ラテンアメリカに目をつければいいことだらけになるかといったら,そんなことはまったく裏返しのうそです。」と述べている。
 そして最後をつぎのように締めくくっている。
 「マルクスたちは<アジア的>専制では国主が唯一で単独の土地所有者であり,政府のなすべきことは,貢納,租税を収納する省と,武力を行使する省と,治水灌漑をつかさどる省の三つがあるだけだと云っています。一般的にそうにちがいないのですが,池や井戸を掘ればよかったわが国の初期王権は,それほど治水をつかさどる省が必要だったとはおもわれません。またさしたる武力を養うことが,必要だったともおもえないのです。たぶんその分だけわが国の初期王権の<アジア的>専制は,祭祀をつかさどる省を発達させたでしょうし,地域の被支配共同体の武力を増大させたにちがいありません。これがわが国の支配制度の成立をとく鍵であるとおもいます。」
 ここで,「地域の被支配共同体の武力の増大」が何を指すかは明瞭であり,現在の日本の歴史の「学習」が主な内容とする時代の範囲に結びついてくるのである。
 
                               つづく
 
 「アジア的ということ」
 ここからは,「わが国におけるアジア的な農耕共同体の起源,構造,その展開などの具体的な像を」得るための方法や,それを実際に当てはめた考察がなされている。
 ここで吉本は,青森は下北半島の尻屋崎に近い尻屋部落と,沖縄の久高島の村落を取り上げて論じている。
 ぼくにはここでの吉本の考察を要約したりまとめるなどの力がないばかりか,理解することにおいても心許ないことをまず言っておきたい。
 歴史資料や遺物の考察,民族資料や習俗,祭祀などについて,どう立ち向かっても太刀打ちできない。全くのお手上げで,それぞれが目を通して読んで下さいと言うだけで終わってしまいたいくらいだ。第一に面倒くさい。第二に専門用語が分からない。それ以上にこれを理解して何が見えてくるのかというイメージが湧かないことが致命的だと思える。何でこんなことが大事なの?こんな細かいことまで考えなければならないの?まずは読みながらそんな思いがこみ上げる。
 二十年前に読んだときも皆目分からないという印象ばかりで,ただひたすら苦行のように呻吟しながらともかくも読み通したことを思い出す。
 現在は言葉自体,文章自体は理解が容易になっている。だが,吉本にとっても専門外であったはずのこれらの考察を,こつこつと進める吉本の意図が,今でも本当はよく分からない。だが,無理矢理にでも,ぼくのこの文章は完結させなければならない。とりあえず,最終に近い箇所から,そのまま引用することで乗り切っていくほかはない。
 
 「わたしたちは南東沖縄地域で,いちばん典型的で,いちばん古層を保存した久高島における村落共同体の形成過程をトレースし,整理した。そこからいくつかの関連性を東北辺境地域における村落共同体の形成過程とのあいだに想定することができる。
 まず第一に,原生地に700年以上以前に住みついて集落をつくった数戸の家族が,どのように門族を展開し,家族の分割などをテコにして村落共同体を形成したかという過程についていえば,ほとんど同一の過程と結果に到達したとみることができよう。原生地に当初に住みついて数戸の家族はそれぞれじぶんの親族を前氏族的な門族として展開させる。当初に住みついた原生地と目されるもの,あるいは擬制的に原生地として伝承された場所は,小高い丘陵地の御嶽として聖化された場所である。それから丘陵地の台上や中腹に「城(グシク)」という集落を囲い込むようにして住み,しだいに平地部に移りつつ村落共同体を形成する。こういう村落形成までの地理的な条件は,沖縄のような離島と東北辺境のような山間地,盆地,谷間の狭地とではたしかにちがっている。だが強固な門族を保存したまま族縁的に展開されて村落共同体にいたるということでは,ほとんど両者に差異が見つけられない。そして土地所有形態としては,原生地を当初の門族が占有し(後代の「根地」),ついで部落共有の農耕地を展開させ,そのはてに開墾された新たな私有地が拓げられるといった変化がこれに対応することもほぼかわらない。いいかえれば村落共同体「内」の展開過程は,ひとしくわたしたちが「アジア的」と考える構造をもつことがすぐに納得される。」
 ただし,沖縄と東北辺境にも差異があって,それは沖縄では母系制的な氏族慣習が強く,部落祭祀と耕作のための土地の管理が女子によって掌握されるが,東北辺境地域には見つけることができないところにあるという。
 また,共同体「外」制度のかかわり方も主要な点で異なっているとされる。それは,沖縄における琉球王朝,及び後に島津藩による<アジア的>専制関係の強要があったことから来る。王朝との貢納責任を負った専制関係。ここでは内部の地縁的な「組」が責任の単位に充当された。
 村落祭祀においても,村落共同体「内」的に自然発生的に編成された巫女の編成に見合い,覆いかぶせ,対応させる形で各村落,間切にノロという神女の組織を制度化しその頂点に聞得大君を制度的な神女組織の大祭司として任命した。
 こうした村落共同体「外」からもたらされる政治制度や祭祀制度のせめぎ合いは,東北辺境には見られなかったが,それは中央の支配共同体から遠隔にあり,原生的な展開を遂げたからだと結論されている。これに対し,南島では,中央の支配共同体は大和あるいは中国大陸にあったが,少しも遠隔辺境にあるとは言えない琉球王朝の直接制度的な支配を蒙ったのであると結ばれている。
                                つづく
 
 「アジア的ということ」
 雑誌「試行」61号においてこの文章が掲載されて以来,「試行」巻頭「情況への発言」に再びこの副題のついた文章が掲載されることはなかった。
 ぼくは,あと数号をもって直接購読者であることをやめたのであるが,たぶんその後十余年を経ずして「試行」もまた廃刊に向かったのであった。
 「アジア的ということ」という文章は,この号で終わっているが,村落共同体の考察は「南島論」という,いわばスタンスを変えたところでたぶん継続している。
 アジア的特質の中で,さらに日本的な特質を追究するところで,日本における国家以前,そして国家の成立過程を明らかにしていこうとする。ここに戦中派の粘りと凄みを感じるのはぼくだけだろうか。たとえばこうした吉本の営為と,大江健三郎のように「ヒロシマ」にこだわり,その凄惨な地獄図に対峙し,神の啓示を追い求めるかのような姿とは極めて近くそして異質である。
 憑かれたように動けなくなったものと,即座にその場から立ち去るものと,両極の在り方を示している。どちらにしても,二度とあってはならないという認識においては同じであるはずなのだ。大江には,<知性>を絶対視するような信仰的な姿勢があり,生きざまは自己撞着的である。
 翻って,吉本は遠く原理的な考察を一から積み上げる道をたどった。先行する西欧の「知」を蓄積することからは得られない,手づくりの日本的な思索が積み上げられなければ,日本の精神世界は不毛に陥る。それは西欧の道具を使って日本的な土壌に挑むことであった。自前の思想を作り上げることは,しかし,当たり前のことであるのに見渡せばただ西欧の精神世界における思索の成果をちゃっかり借用して,自分の考えであるかのようにすまし込んだ奴らがほとんどだ。ある場合には,それが借用の思想だとは気付きさえもしない連中がいる。
 
 ところで,ぼくは日々の仕事に疲れていて,年だなと感じないではいられない日々を送っている。夕飯後のこんな時間帯では,もう目を開けているのがやっとだという中で,もう水準などあったものではないこんな文章を書き殴っている。いや,書き殴ることばさえ出てこないときが多い。もちろん,頭の回転はバラード調になっている。
 
 さて,気を取り直して最後の「アジア的ということ」の文章に立ち向かおう。
 はじめに,南島沖縄地域で村落発祥の地のひとつとみなされている久高島を例にとって,全ての男女の成員について年齢階程的な組をもつ村落共同体の特質がまとめられている。
 簡単に言うと,次の4つにまとめられる。
 @土地所有や婚姻について,個人の意志と共同体の意志とが矛盾しない形で存在するという  こと。言いかえると,共同体の統制が,そのまま個の心性に反映する段階にあること。
 A母系制を構成し,共同体の意志は,女性の長によって統御されていること。
 B氏族,あるいは前氏族的な内婚制をもっていること。
 C共同体の意志に同致しうる対幻想は,夫婦よりも近親の男女,つまり兄弟姉妹とか,従兄  弟姉妹のあいだにおかれていること。
 次に,久高島の始祖入島の伝承譚の二つを取り上げ,いずれにおいても共同体において族内婚的な時代,すなわち共同体が自分たちの意志に合致するとみなしていた対幻想が,兄弟姉妹や従兄弟姉妹のような最近等親にあったことを象徴するものとしている。
 さらに,このような伝承譚の上には琉球開闢の神話が重ね合わされているとして,単なる伝承譚と開闢神話との異なる点を3つ上げている。
 @開闢神話においては伝承譚が空間的に拡大され,同時に制度的に整備されている。
 A開闢神話では,伝承の中にあった婚姻制度的な意味は無意味化されている。
 B伝承では御嶽信仰や樹木信仰としてしかあらわれない,天空から神が降りて来るという観  念が,神話では始祖神が天の世界から天の最高神の命を受けて地に天降りしてくるという  観念に変更される。
 そして,この差異とズレとを繋ぎ止めるものが場所の<聖化>であるとされる。
                           つづく
 
 以上の村落共同体の特質についての考察は,次のような文章に結びつく。
 
 「一見すると奇異におもわれ,誤解されるかもしれないが,『古事記』や『日本書紀』にあらわれた神話時代や,伝承の初期天皇群の時代は,家族ー親族ー氏族という展開が,始祖の土地への入植と村落共同体へと展開されてゆく共同体の制度と対応してかんがえられるときには,久高島における村落共同体の男女別の年齢階程的な内婚制にくらべて,より新しい段階にあるものばかりである。
 島嶼であることと,狭い平地と貧弱な水利しかかんがえられないことが大きな条件になっていたかも知れないが,久高島では氏族内婚的な母系制度が保存され,この内婚的にかんがえられるかぎりでの共同体の成員は,ことごとく女性は年齢別の神女組織の組に,資格儀礼を経て加入し,男子は土地の共同体所有の配分にからめて年齢別の男子だけの組をつくっている。この構成は村落共同体の[内]制度としては,最も原型的な最も古い形を保っているということができる。」
 
 そして,『記』『紀』の神話や伝承は,
 
 「原始的な,あるいはアジア的な段階の母系的な共同体,あるいはその連合体のあいだの,共同体的な外婚制を象徴的に語るものばかりだと言っても過言ではない。少なくとも久高島に保存されてきた母系的な内婚制の遺制よりも,古い時代を象徴するものは,少しも見あたらないといってよい。」
 
と,言及される。
 このあとさらに,『記』『紀』の神話や伝承の中の神婚説話に言及し,いずれも族外婚的な共同婚のようなものを象徴するものであり,久高島における村落構成が潜在的に象徴する婚姻形態よりも,後の段階に属する新しいものだと述べている。
 そしてこの神話や伝承の考察は,『記』『紀』の初期天皇記を解読する作業へと結びついてゆく。これについては,もはや素描できる領域ではない。ただ初期天皇群について,どんなベールで覆い隠すことのできない地平が,その考察から露出してきたことは確実である。と同時に,多くの天皇制の論究が色あせて見えてしまう結果を生じたことも明らかである。「天皇制打倒」等のことばはおくびにも出さずに,天皇制については言い切ってしまった。そういう方法に,ぼくたちは立ち会うことができた訳である。
 
                                     了
「おわりに」
 出来損ないの酷い文章になったと思う。そしてたぶん,こんなことをする意味は誰にも理解されないだろう。
 吉本は戦後最大の思想家,等のレッテルを貼られながら,一般にはその言説はあまり取り上げられることはない。思想というマニアックな世界で,政治党派的な非難中傷がなされているくらいしかイメージできない。ぼくからすれば至極尤もなことを尤もに書き,話す表現者だと思うのだが,表世界でまともに取り上げて論じられることは少ない。
 一般に論じられ,流布される判断や関心には同調できずに,だが,自分の判断のほうに妥当性があるという思いが原動力となって,こういう営為を積み重ねてきた。この思いが伝わらなければそれまでなのだ,という覚悟だけはある。
 不毛と徒労でも良いじゃないか,ぼくは楽しいのだし,この生に十分感謝し,成し遂げたいことを成し遂げようとしてきている,といっておきたい。
                              2003.9.20