『清貧譚』
 
 「以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。」という書き出しで始まるこの作品は、原文が原稿用紙にして四枚半ほどの小品で、これを骨子として、太宰が読んで空想したところの物語に改編して成ったものである。
 これを、改編と言っていいのかどうかよく分からない。原文を知らない。今は、改編というこの言葉しか思いつかないのである。
 さて、この作品もまた、大変面白い。こういう作品を読むと、天性の物語作者としてのすぐれた資質というようなものを感じる。江戸時代の、まだ娯楽が少ない頃、いや、それなら明治、大正であってもよい。そういう時代に、どれ退屈だから、と言って取り上げて読むにはもってこいのもの、そんな気がした。気がするだけで、当たっているかどうかは分からない。
 筋書きとしては、江戸時代の独身の、大変菊の花が好きな男の物語になっている。この、32歳にもなる男がよい菊の苗の噂を聞きつけて江戸から伊豆の沼津に出かけてこれを求め、帰途につくところから物語は始まる。
 帰り道、ふとしたことから男は二人の姉弟と近付きになる。姉弟は、本当は菊の精である。菊の精は、ただただ菊の花が好きなこの男を、標的に選んだ。それはおしまいまで読むと分かる。本当に男は菊の花が好きなだけなのだ。菊作りをし、立派に育ってもそれを売るというようなことはしない。男は祖先の遺産で生活する風流の人である。あるいはその遺産で派手な生活をするわけでも、その遺産を元手に富を増やそうとするわけでもない、言ってみれば社会の流行に少しも迎合しない清貧の人である。
 菊の精は、どういうわけか風流の人、清貧の人である彼を手助けしようとし、終わりには男も菊の精のなすがままに、贅沢ではない程度の生活に身を置くことになる。 
 まあ、一言で言ってしまえば、めでたしめでたしの物語なのだ。
 読んでいて、肩がこらない、深刻にならない、疲れない。読み終わって、何となく、ふーんと感心してしまう。かといって自分の生き方に参考になるわけでもないし、清貧や風流の思想が盛り込まれた作品でもないから、同意や嫌悪の情が起こる心配もない。
 
 人間の頭というものを、いくつかの層からなっていると考えた時に、この作品は太宰の核にあるところの問題に少しも抵触しない作品だ。深層でもなく、中間層でもなく、どちらかといえば社会の意識が直に伝わるところの表層に足場をおいて、こういう作品は成り立ったものだと思う。太宰の、深層や核にある問題は解決されたのではなく、深層や核に眠らされたまま、表現は表現としてなし得ることを太宰は発見した。もちろん、これが可能となった背景にはすでに多くの評者から指摘されているように、この時期の生活の安定、あるいは心身の安定といったものが必要不可欠だった。身辺及び環境に、自分の中の深層や核に突っ込んで追求しなければならないような、そういう要因が無くなった。あるいは深層や核に突っ込んでいくことを回避したと言っても良いかもしれない。そういう生活が何とか保たれた時期なのだ。
 生活者の多くは、生活に地続きの表層の中で多くの時間を費やす。つまり頭は、表層での知覚と運動に大わらわで、自分の頭の深層や核の問題に関わっている暇がない。社会とのやりとりが表層ですんでいるということは、彼がその社会で安定した生活が出来ていることを意味する。たとえ仕事が忙しいとか仕事及び生活上に問題が山積しているとしても、この表層で対応している間は、大変健康な苦労だと言っていい。
 反対に、この社会に生き、何もしなくても常に自分の深層や核を呼び覚まされ、内向し、それと対峙し、格闘しなければならない人は経済的理由とは別の不幸を背負っている。
 太宰治は、人生に相渉る、社会に相渉る場面で、表層や中間層を飛び越え、直に深層や核で受け止めてしまう資質を持った作家であった。そこでは社会に飛び交う全ての意味は、改変し、モノクロ写真のように、生か死か、白黒をつける匕首の刃のような鋭い問いとなって自分を脅かすものとなる。この資質的な不幸が生涯にわたって何度も太宰を訪れたことは、太宰の小説群を読めば分かる。彼の作品は、その戦いの記録である。
 頭の表層に価値をおいて、太宰治の作品を眺める時、あまり役立たない小説群であることは間違いないと思う。つまり、あまり読みたいとは思わないのではないだろうかと思う。深刻で、大げさで、独り相撲で、というように、表層で彼の作品を切り取れば弱点ばかりが鼻についてしまうことになる。けれども、深層や核に囚われ、のっぴきならない形で対峙せざるを得ない人々にとっては、あるいは、その意味が問われなければならないと考える人々にとっては、太宰の作品は今なお色あせていない先人の記録であり、戦いの記録として今なお宝庫のように妖しい光を放ち続けている。少なくともぼくはそのように思い、こんな試みを続けているのだと言ってよい。
 ところで、ここでぼくはフロイトや吉本隆明の概念を緩用して表層や深層などと言っているのだが、たぶんに曖昧であることは承知している。これについては太宰を読みながらさらに詰めていくつもりである。途中、目障りであり耳障りではあると思うが許していただきたい。「清貧譚」については、これで終わる。
 
 
 『東京八景』
 
 この作品で太宰は、過去の心中未遂、非合法活動、薬物中毒からの脳病院への入院など、東京生活での一切を告白、事実に即した振り返りを行っている。
 その文体は飾りを削り取って、素朴でさえある。曖昧なところは少しもない。語句に、文に、段落に、後ろめたさのない自信といったようなものが感じられる。この書き方は、これまで幾度と無く過去を振り返り、精算して再出発を期しながら、容易に手に入れることの出来なかった書き方である。
 何がそうさせたかは、文中の言葉から推測出来る。
 
「何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。」
「相続く故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起こしてくれた。私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持ちの子というハンデキャップに、やけくそになっていたのだ。」
「一夜、気が附いてみると、私は金持ちの子供どころか、着ている着物さえない賤民であった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れる筈だ。既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。」「その自覚と、もう一つ。下宿に一室に、死ぬる気魂も失って寝ころんでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来たという事実をも、大いに重要な一因として挙げなければならぬ。」
「なお又、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げることも出来るであろうが、人の転機の説明は、どうもなんだか空々しい。」
 
 つまり、何がそうさせたかは明確ではないにしても、太宰自身に大きな変化が生まれ、その変化によって創作自体に変化を生じたといっていいと思う。
 「多くの場合、人は、いつのまにか、ちがう野原を歩いている」。少し後の箇所に書かれたこの文から、ドストエフスキーの「罪と罰」に記された一文が彷彿とする。それは、「今一切が変わってはならないのか?変わって悪いというのか?」というもので、主人公ラスコオリニコフの魂の再生にあたって、たぶん作家が自問自答の末に読者に向かって投げかけた言葉だ。
 太宰のこの作品においては、自身が自身の再生について語ってみせなければならない。そしてそれは上記のような言葉になる他はなかったのである。
 
 再生に向かって未来にどんな物語が用意されているのかは、同じく引用した文章に暗示されている。作家太宰治でもあり、作中の主人公でもある「私」に残されたものは、「マイナスだけである」。とすれば、たとえプラスに転じることが出来ないにしても、このマイナスを消すことに向かって生きるというあり方はあり得るのではないか?
 これは太宰の中で、太宰がこしらえた民衆とか大衆とか庶民とかで表されるところの実存する人々のイメージ、その無名の人々のイメージに向かって生きることを意味していた。それはあくまでもイメージに過ぎない幻であり、幻想の像である。追えば影のように逃げ、おそらく意図してそこに辿り着くことは出来ない。
 同じ作品中に、太宰は、「芸術は、私である。」ということも書いている。こういうベタで骨太な言い切りは、他の作家には容易に見ることは出来ない。しかしこのとき、太宰は芸術家として、自分の作品への自負を語っているのではない。芸術のみならず、科学もあるいは教育も、どこへ向かっていくべきか、そのベクトルについて、自分の発見したところの密かな自負を語りたかったに違いない。すなわち、プラスマイナスにおけるゼロ存在に向かって歩むのが、最終の課題であるのだと。
 他人よりも偉く、他人よりも立派に、より大きく社会に貢献する生き方を望むことは、つまり、プラスの生き方をしたいと願うことは、太宰にはマイナスを生きる裏返しに過ぎず、ゼロ存在に堪え得ないもの、ゼロ存在からはじき飛ばされたもの着地する両極のひとつに過ぎないと見なされた。それらは社会や文化、文明に影響を与えたかも知れないが、歴史を構成した主因であったわけではない。人類におけるもっとも偉大なものたちは、言葉によって編まれた歴史の底に影のように隠れて、しかも彼らの存在がなければ歴史自体があり得なかったように存在した、云わば「縁の下」をまっとうした人たちである。その価値を、芸術も科学も教育も宗教も政治も、本当は取り上げて光を当てる使命を担っている。
 太宰治が本当にこう考えていたか、検証したわけではない。作品の中にその根拠を探し当てたというわけでもない。その意味では、ぼくの文章は独りよがりの印象にすがって、あるいは太宰はこういうことを言いたかったのではないかと思うところのそれを語ってみせているに過ぎない。適当なご託を並べるだけのこんな文章に何の意味があるか?だが、彼の作品を読み、かつて印象されたところを現在のぼくの言葉で表せば、どうしてもこんなふうに言ってみたくなる。太宰は確かにこういうところで孤独に戦っていたのだということが、あながち見当はずれなことばかりとは思えない。そして、こういうところを言葉に表してみたいとぼくはこの試みにおいて希求している。ぼくの中で、太宰が終わらない理由の一端である。
 作品の最後のところで、
 
 人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだことがあります、と言いきれる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、今は遠慮することはない。東京名所(作中の私自身のことをさしている―佐藤)は、さらに大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で万一むずかしい場合が惹起したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。
 
と私に言わせている。
 高校生の頃にこういう箇所を読み、ぼくは太宰が格好良く思え、大いに憧れ、自分もそういうものでありたいと願った。権力や権威を持たない者への、正義の味方であり続けたい、そう純粋に思った。これについては若者特有の夢で、この年になれば影も形もなくすっかり潰えたと言っていい。その気はあっても誰の力にもなれない。それをしみじみ知らされる一生であった。それに異議申し立てをする気力もない。
 太宰治といえども、この作品にあるようなすっきりと又毅然とした態度で立ち姿を演じる事が出来たのは、この頃のほんの一時期であった。マイナスのどん底からはい上がり、もはや怖い物無しといった一種の開き直りとも言ってもよさそうなこの時期に、太宰は多くの明るく健康な作品を書いたと言われるが、この作品はこれぐらいで以後、それらの小説群に付き合っていきたいと思う。
 
 
 『みみづく通信』
 
 この作品は新潟高校に講演をしに行ったときのことを書いた短編で、何となく印象に残っていた作品の一つである。
 どんなふうに印象されていたかというと、一つは、かつて芥川龍之介も同じくこの学校で講演を行ったという事が書かれていて、ほう、とその時思った事だ。芥川と太宰の神経、意識、その繊細さ、傷つきやすさ、そういうものに共通の匂いをかぎ取って、ぼくはどちらも好きだったから、小説のその後の展開に興味を持った。しかし、小説の中で、太宰は芥川がこの学校の講堂にあった彫刻を褒めていったことを生徒から聞き、自分も何か褒めようと思って周りを見たが特段褒めたいものもなかったという記述で、芥川との接近はあっけなく終わっている。そして、それだけのことだった。一読者にとっては、太宰の芥川評なりを少し期待する場面で肩すかしを食ったような、そんな印象が消化不良のまま残ってしまった。ここに、芥川の都会人としての如才なさ、実社会における姿勢を見ればよいのかどうか分からない。また、太宰の中に、田舎人の無骨さを見るべきものなのかどうかも分からない。なぜこんな挿話を作品の中に入れたのか、そしてどうしてこんなに素っ気なく入れているのか。作家としての計算が、どう働いているかについて測りかねるところがある。
 ぼくは仕方がないから勝手に、ここに書いてあることをこんなふうに読み解くことにした。つまり、ここで太宰は芥川の真似をしようとして、何かを褒めようとした。周りを見回したが、何も見つからない。見つからないので褒めることはしなかった。簡単に言うと太宰はその時、自分のままに振る舞ったということになる。
 かすかに、ぼくはここに太宰の自立した作家としての自信を見たような気がしたのである。自分は、こんな時にお世辞の一つも言えない野暮で何の機転も発揮出来ない人間だ。そういうことを素直に認めてありのままにそれを表現している。文章に表れたこういう姿勢は、この作品全体のトーンを低く抑えたものにしている。
 これまでの太宰の小説を読んできたものにとって、この講演の場面は言いつのり、御託宣を思うがまま並べ立ててもよいところだ。だが、当の太宰はどうも気乗りがしない様子で、淡々と講演をこなして済ましたというように見える。
 ただ一カ所、全体のトーンを破るように、太宰の熱い思いが突き上げてしまう部分がある。それは講演が終わり、その夜のお疲れさん会をかねた夕食時のことだ。会の運営に携わった生徒たちも、太宰も、気分がほどけるとともに互いに馴れてきた頃、生徒のひとりが作家になりたくても他の仕事に埋もれる人がいるのに、自分ひとり作家面して生きていることを何とも思わないかと尋ねる。それに応えて太宰は、「他に何をしても駄目だったから作家になったとも言える。」と言う。すると、生徒は、自分も何をしても駄目だから作家になる資格があるというような意味合いのことを述べる。
 この時太宰は、すかさず、「君は今まで何も失敗していないじゃないか。駄目かどうかは実際に自分で行動し、挫折して、それからでなければ言えない言葉だ。何もしない先から自分は駄目だと決めてしまうのは、それは怠惰だ。」というようなことを言った。
 この場面も、長くぼくの印象に残っていた箇所の一つだ。
 これまでの作品からうかがわれる太宰の半生は、思想、恋愛、言ってみれば青春の挫折そのものだった。それだけに、この短い言葉にも実感がこもり、ぼくには大変説得力のあるものに感じられた。
 
 こういうところをまともに受け取って、ぼくは教育とか、文学とか、はじめから目指すべきところではないのではないかなと、漠然とそしてしだいに強固に考えるようになってきたような気がする。
 ぼくは、生活の中に身を埋めることが出来る。太宰をも一つの手本に、太宰よりも少し上手な生き方をしてきた。いわば、俗を身につけることにおいて、それほどの抵抗がなかったといえば言えそうだ。これで何が悪いか、そう思うが、わずかに文学への残り火が消せず、ぼくはこんなことをしている。多くの人々が向かうところとは別に、身と魂とを無為の中に消滅させることを懼れるな。そう、ひとりの時、自分を勇気づけている。そうしなければ、少しも立っていることが出来ない。
 
 
 『佐渡』
 
 先の「みみづく通信」に書かれた新潟高校での講演の後、太宰は佐渡に足をのばした。新潟を出帆し、佐渡に二泊。船の中で、あるいは佐渡の町中、宿において見聞きし、体験し、感じたことが書かれてある。
 作品そのままに読めば、用事のないひとり旅であり、気持ちが弾みそうもないことばかりの旅であったように思える。読み進む中で、大きな出来事もない旅行を、しかし、ついつい先へと読ませてしまう文章のうまさは感じた。読後は、けれども、本当のことを言えばさしたる感想を持たなかった。
 ただ、少しだけ言えば、大きな動機もなく、発見もないに等しい太宰のこの旅の文章は、愛想のない荒涼を余韻として残すだけで、それだけに逆に深読みが出来るかもしれないと思わせられるところもある。いくらでも広げて言ってみたい誘惑はあるのだ。それは出来そうだが、それを始めればキリなく深読みしてしまうという怖れも感じる。出来れば、触らぬ神にたたり無しで、やり過ごした方が賢明かも知れない。そんなことも思っている。その意味では、本当は太宰にとっては意味ある作品であるかも知れないのだ。そうでなければ太宰の作品の中でもくそ面白くない作品の部類に入るこの作品が、ただただ原稿料を手に入れるためだけに書かれて残された作品ということに過ぎなくなる。そんなことは、ぼくにはあり得ないことだと思える。
 この作品に珍しいのは、太宰の無意識が充満しているところだ。言い方が悪ければ、作中の出来事を一生懸命意味づけるいつもの作業が欠けていると言い換えてもいい。全体がどこか無意識を流れ、旅しているようなのだ。これはぼくの体験からいえば、島尾敏雄の旅の文章の感触を思い出させる。そこに圧倒的に感じられたものは、行く先々での「居心地の悪さ」であり、それはまた人生そのものを暗示させる言葉であった。
 思えば、この国の先人の多くは、人生を一つの旅になぞらえ、旅の中に己が人生を映し出してみせることが多かった。その典型として思い浮かぶのは芭蕉である。芭蕉にはしかし、返りゆく場所があり、美意識の収斂する場所もあった。
 芭蕉とは違い、太宰や島尾には本当はどこに行けばよいのかの確かな目的というようなものは持ち得ようがなくなっている。その旅は、ひたすら、自分が求め探すものは、ここにはない、ここにもない、それを確認する旅であり、人生であった。
 人生を経験し、その経験の中に「見てしまった空虚」。また、無い筈と知りながら、「何か」を期待し、見ずにはおれない「不安と焦燥」から、迎えてしまわずにはおれない「明日」。もしかすると日々はこの連続で、人は年を重ねていく。そしてもしかすると、その旅に疲れ切った時、「ああ、あの時が幸福との出会いだった」と、老いを慰めるように述懐する。
 なぜぼくたちは生きているのか。そこに高邁な目的はない。ただぼくたちの脳の働きが、まだ見ぬ明日を、気がかりに感じる性質を持っていて、どんなに辛い目にあってもその機能に従うほかないから生き続けているのだと言えるのかも知れない。しかしこれは人生の始まりにある問題であって、帰結すべき場所ではない。ずるずると、日々を引きずられるように生きていると感じるか、生命の逞しさに乗じ、生命が生命であることを楽しいと感じるように生きようと欲するか、それは個々の姿勢にかかっている。
 作品「佐渡」は、深い穴の入り口に出向き、そして意外なほどにあっさりと引き返した印象の残る作品である。そこを詮索するには、もう少しぼくは「時間」を必要としている。
 
 
 『服装に就いて』
 
 不必要に自分の身なりにお金を費やすことや、こだわってあれこれ考えすぎることは下品なことだ。洗い立ての、こざっぱりとしたものを着ていれば、それでいいのではないか。そう、思うところがある。
 そう思いながら、しかし、服装については曖昧な考え方しかできない自分というものに気がつく。なぜなら、外出の必要がある何かの時に、ああでもないこうでもないと何度も取り替えて、どれも気にくわなくて外出をやめたくなった経験をいくらもしてきているからだ。
 こざっぱりしたもの着ていればいいという、どこか格好をつけた考えは、本当はいざというときに役に立たない。
 こざっぱりの立場に立てば、着ていくものがないと半泣きの自分は駄目な自分だ。逆に半泣きの立場に立てば、服装についてこざっぱりで済まそうとする自分は怠惰に思えてくる。こだわり派から無頓着派まで、つまり服装についてもピンからキリまで考え方の幅はあるのだろう。そして、ぼくなどはどうも、いい加減なところで今日まで済ましてきたひとりではないかと思うところがある。これを反省すると、本当はもっと掘り下げて考えて然るべき、大事なことではないかという思いに辿り着く。
 太宰治がこの作品を書いたというのも、遠からず、そういう思いがあってのことではないか。そう思う。これは、意外に難しい問題なのだ。この難しさを反映するように、太宰のこの作品も、なかなかに歯切れが悪い。服装について、失敗した体験、戸惑った体験、自分の体験を振り返ればそういうことが多くなる。果たして、うまく着こなしたとして自信を持って言える体験というのは、個人の中に成立しうるのだろうか。
 考えようによっては、これは人生のあり方に似て感じられる。自信を持ってすっくと立っていられた時はあるのか。いつもどこか、その場にちぐはぐな違和感を感じながら、すっきりしない思いの中にあり続けたのではないだろうか。
 頭の服装、と、とりあえず考えてみれば、頭をどう装ってその場に出向けばいいのか、それは身にまとう服装と同様に、着ていくものがないと半泣きしながら出向くということになりがちなのではないか。
 もちろん、現実には服装についても頭についても、どうでもいいやと開き直って社会という外側に向かって出かけていくことが多い。いやもっと言えば、経験の積み重ねの総和から導き出された無意識の判断を行使することによって、あれこれ悩まずにすっと出かけることが多い。それでぼくたちの日常は済んでいるのだ。
 いっそのこと国民服というようなもので統一してもらえば、個人はあれこれ悩む必要がなくて楽である。太宰は作品の最後に、宿題と書いて、それを読者に問いかけている。当時で言えば、これは思想の統一という問題も含ませた問いなのであろう。ぼくのように怠惰な者が、うっかり、その方が楽でいいですね、などと言ったら大変なことだ。
 今考えつくことはこんなところでしかない。ぼくの考え、つまり頭の装いが、どう受け止められるか、それはもう、考えても仕方がないことに違いない。 
 
 
 『千代女』
 
 この作品は、十九になる女流作家志望の女性の物語ということになっている。その女性の独白というスタイルで、生い立ちや作家志望に至る経緯、それが身辺雑記ふうに描かれている。
 ひとりの子供の才能をめぐって、家庭と周囲とそして本人とが、大きな渦を産みだし、そして自分たちが創り出したはずのその渦に巻き込まれて翻弄される。現代においても、その種の話はあちこちで見聞きすることが出来る。この作品は、そういう事例を思い浮かばせる。
 主人公が小学生の時に、何気なく書いた作文で思いがけず大きな賞をもらう。選者の偉い先生にひどく褒められる。担任の先生、両親、文学好きの叔父たちの思いが交錯する。本人には、友だちが去っていくなど、迷惑なだけであった。加熱する母親と叔父、反比例するように、冷え、引いていく少女の心。しかし、どこかでもしかすると自分には文学の才能があるかも知れないという思いが芽生え、その芽が膨らんでくる。
 作品の終わりで、自分の書いたものが読んでも面白くないことから、主人公は小説家としての才能が自分にはないと思いこむ。逆説的だが、その時はじめて主人公に、小説をうまく書いてみたいという思いがやってくる。
 いかにもありそうな話を、いかにも居そうだなと思える女性を主人公として、作品は形成されている。内向する心と屈折。その表現は、どういうわけかリアルで巧みだと思えてしまう。主人公は女性なのに、男である自分の心が、そこに投影され、共鳴し、共振さえしてしまう。男が作った女性、太宰がこしらえた女性、にすぎないのに、そこに本物の女性が立っているように思えてしまうのが不思議だ。
 太宰の作品には、女性を主人公として、その女性が物語るようにして語るそのままを、文章スタイルとした作品が結構多い。その全てがうまくできたとは思わないが、どうしてそういうスタイルを得意とし、多く手がけたか、そのうち取り上げて考えてみたい気がしている。
 
 
 『令嬢アユ』
 
 この作品の内容は、記憶には残っていない。もしかすると、以前には読んだことがなかったも知れない。短編ということもあり、おしまいまで、すうーと読み通すことが出来た。面白いな、と思った。
 主人公は作者の友人ということになっている。その友人の言動を、作者が語ることによりこのお話が進む。中心となるのは、その友人が語る恋愛感情の打ち明け話である。
 あらましをいうと、作家志望の若い学生の友人が、文人を気取るためであるかのように、釣り旅行を試みる。もとより、釣ることが目的ではなく、そんなに釣りが好きなわけでもない。水面に釣り糸を垂れる、その心境に遊ぶためのものだ。
 行った先で、その釣りがきっかけで、ひとりの女性と知り合いになる。
 若い友人である「佐野」君と、彼が言うところの「令嬢」との出会い、それは釣りがきっかけではあるが、その場で一目惚れし、おおいに「佐野」君の情熱が燃えさかったというのではない。
 「佐野」君は旅先四日目の帰京の日の朝に、自転車に乗る令嬢を見かけた。また、宿を引き上げ、バス停までの道を歩くその途中でも、彼女に出会うこととなった。その時、「令嬢」はひとりのいかにも田舎の実直そうに見えるじいさんと一緒だった。
 じいさんは可愛がっていた甥が出征し、寂しくて、飲み過ぎて、昨夜この地の宿に泊まったらしい。「令嬢 」は、このじいさんに同情し、励まそうと必死である。朝、自転車に乗って駆け回っていたのも、このじいさんに花束をあげるためだった。バスに乗ったじいさんに、旗を振りながら一生懸命励ましの言葉を掛けていた。
 「佐野」君は、泣きたくなるくらい感激し、彼女はいい人だ、結婚したい、そう思ってその思いを「私」に語って聞かせた。
 「私」は、「佐野」君の話を聞いてすぐにぴんと来た。彼女は旅館の「令嬢」でもなく、カフェの女給でもない。その実体は、娼婦なのだ。
 その真実を「私」から示唆されて、「佐野」君は見抜けなかった自分を大いに悔しがり、落胆する。
 話の落ちはここに完成し、落語ならばお囃子が聞こえてくるところである。だが、作品はもう一つ、「私」の述懐を付け加えて終わる。この、蛇足にもなりかねない付け加えは、太宰の作品の特徴の一つにも数えられる。
 
 令嬢。よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ、とも思うのだけれども、嗚呼、やはり私は俗人なのかも知れぬ、そのような境遇の娘さんと、私の友人が結婚するというならば、私は頑固に反対するのである。
 
 この最後の部分がなくても、作品は十分に作品として成り立つと思う。では、なぜ太宰はこの部分を敢えて付け加えねばならなかったのか。この秘密を解くことは、太宰ファンには必須の条件になる。
 問題の一つは、娼婦に過ぎない女性に、いい家庭のお嬢さんよりもはるかに人間的な価値を見、本当の令嬢であると考える太宰の考え方である。これを受け入れるか受け入れないか、容認するかしないか、その是非を振り分けるフィルターの作用が働いている。
 作品の中の「令嬢」は、境遇に対して無意識である。また、自分の「善意」に対しても無意識である。別の言い方をすれば、なるがままに生き、思うがままに生きている存在を象徴している。太宰は、娼婦という世俗的な現象はいずれ相対的なもので、その現れとして見えるところで人間の生き方の価値を云々すべきではないことを言っている。個人の無意識の層が他者と関わる時に、そこにどんな関わりの様態が生じるか、その深層のところで判断しなければならないという目論見が見える。
 決して娼婦だからいいというのではない。娼婦だから悪いというのでもない。そんなものは個人の意志を越え、あるいは肉親の意志を越えてなる現世の表れの一つに過ぎない。いずれ、何かとして人はこの社会の表舞台に押し上げられる存在なのだ。
 本質は、そんなところには存在しないことを示唆しながら、太宰はそれを言葉にして表すことが出来ていない。そうして、そういう思いは思いのままに、さらなる問題点を提出する。それは、人間として美しいと評価はしても、友人の結婚の対象としては、自分は反対を表明するほかないという態度である。ここに太宰は引き裂かれ、引き裂かれる生身をそのままに読者に提供する。ここに太宰のサービス精神があり、作家としての倫理がある。太宰の考える芸術の倫理といってもいい。
 建て前と本音という表層の問題ではない。人間としてよい存在が、どうして結婚の対象として友人には勧められないのか。
 太宰は反対を表明しながら、「やはり私は俗人なのかも知れぬ」という言葉を添えている。逆に言うと、そういった自己卑下を経てからでなければ「断固反対する」という態度は表せなかった。あるいは自己卑下とみせて言いにくいことをズバリという。仮に結婚出来たとして、遠くない未来に破綻が来ることは目に見えている。だから、「断固反対する」と。
 これらの内容について、正直なところ最早ぼくの手には負えないところまで進んでいる。 取り繕いに過ぎないことを承知で言えば、先の引用は、突き詰めればこういうことを考えさせるように作用する。これが小説にとってどうであるのか、何であるのか、まだぼくには分からない。ただ、とても太宰的だと思えるところという他はない。
 
 
 『ろまん燈籠』
 
 この作品は、以前、「愛と美について」という題で書かれた小品の続編というか、長編化というか、要するに同じ家族が登場してくる物語である。
 冒頭には、かつての作品の冒頭部分がそのまま引用されるなど、小説としてあまり例のない試みが為されているが、そこには5人の兄弟と母とが紹介されている。今回の「ろまん燈籠」には、それに加えて祖父と祖母と女中が登場してくる。父は既に他界していることが前作では知られているから、この入江家が実際には8人家族、そして女中がひとり加わって9人の世帯数であることがここで証される。そして、作品の中では、その家族構成は4年前の入江家であって、現在は亡くなったり結婚して家を離れたりなどでちがった構成になっているということ、またこの小説では現在の入江家ではなく、4年前の入江家の姿を書くのであることが言われている。
 考えてみれば、作者のこういう前書きは、本当はなくても作品は成り立つような気がする。他の、大家と呼ばれるような作家の小説には、こういう、ちょっとしたふざけたような、遊んでいるような、そういう部分は、無い。どこか読者に、嘘のお話だと気づかせながら、心地よくその嘘を受け入れさせてしまう愛嬌が、太宰の文章には漂って感じられる。 「愛と美について」がそうであったように、この「ろまん燈籠」という作品においても、中心となるのは子どもたち5人による物語の連作である。つまり、兄弟姉妹たちの誰かが口火を切ってある程度のところまで物語を創造し、それを受けて次々に兄弟たちがその物語を発展させていくというものである。もちろん、その間には、作者の、物語そのものや兄弟姉妹たちへの註釈、他の登場人物たちの紹介がところどころに挿入される。物語の中に、別の物語が進行し、表現の複雑化が作られていく。
 
 作品は、面白い。しかし、今ここでこの作品について言ってみたいことは、作品の面白さについてではない。それは読めば分かる。また、読んで、なあんだ、面白くない、そう思う人もいるに違いない。ここでこの作品の面白さを、強要する気はないのだ。
 言ってみたいところは別のところにある。
 作品が面白いことは、書いた。読み進み、読み終わって、確かにぼくは面白いと感じた。だからといって、内容が印象に強く、読後にも忘れずに残っているというわけではない。その逆で、何一つ残っていないと、そう言ってもいいほどだ。物語の筋は忘れた、しかし、面白かったという余韻だけは、意外にはっきりと残っているのだ。小説を読んでのこういう体験は、少なくともぼくには稀なことだ。このことをまたぼくは面白いと思っている。 作中の、作者の言葉として、かつての作品「愛と美について」を、愛着があり、忘れられない作品だと述べている箇所がある。作者自身の言葉によれば、軽薄な作品、だらしない作品、たわいのない小説、最上質のものとは思えない作品なのだが、どういうわけだか忘れられないということである。
 だからといって、そうした言葉をそのまま鵜呑みにしようというのではない。これも作者の手ではないかと思うくらいの用心はある。そう用心はした上で、でも、その言葉に嘘はないのだろうなと、思うところがある。
 読んでいて、作者の楽しそうな気分が伝わってくるのだ。何が楽しいのか。架空の物語を創造している時の楽しさというものか。それも少しはあるかも知れないが、そればかりではない。というよりも、本当は作者がこしらえた空想の家族に過ぎないのに、その空想の家族に作者太宰が憧れ、あるいは親しみを感じている、そういう様子が大変実感されてくるのだ。この空想の家族を、誰よりも作者である太宰自身が気に入っている。そういうところが読み取れ、それが読後の面白さの余韻、暖かみの余韻として伝わってくる。そして書いている作者自身が、幸せそうなのだ。
 作品を書きながら幸せを感じ、幸せを感じながら作品を書くということなどあり得ることなのだろうか。小説家でもないぼくには永遠に分からないことだが、確かにこの作品からぼくは作家の幸福感を感じとっている。ここにぼくの好奇心の針は、大きく左右に振れている。
 
 作品中の家族は、他と少し変わっているところはありながら、どこにでもありそうな、たわいのない家族である。天才もいなければ偉人もいない。社会におけるすぐれて成功者がいるわけでもない。家族の一人ひとりは、短所もあり長所もあり、家族の中での相似とふとした個性の違いも持ち合わせている。社会において、挫折を味わった経験を持つ者もいる。そしてそれらはぼくたちの生活の周囲に、あたりまえに見かけられそうな人物たちに他ならない。その家族が醸し出す空気が、少しだけ普通の家庭とのそれとちがっているとすれば、その違いは、ただ幸福感が漂っているというそれだけの違いである。性格に違いがあり、互いに侮る面を持ちながら、どういうわけかこの家族は決定的な反発や崩壊感を感じさせない、揺るぎない家族の一体感を持ち合わせている。そしてなぜそうなのかは分からないにしても、ある羨ましさを感じさせてしまうような家族なのだ。
 理想的な家族像と言ってしまえば、あまりにも身近でどこにでもありそうなところから、とても理想の家族という言葉を冠することが出来そうに思えない。けれども、実際にこういう家族のあり方は昔も今も不可能に違いないという点からは、理想的と言っていいかも知れない。そして少なくとも、太宰治の夢見た家族像は、この入江家の家族が醸し出す空気の漂うことが必要にして十分な条件だったのではないかと、ぼくは今推測している。
 太宰治の束の間の夢、ひとときの幸福を、ここに見ようとするのは間違っているだろうか。ぼくには、「たったこれだけの家族の生活があればそれだけでよかったのだ」、そう、太宰が語っているように思われてならない。恋にも革命にも、そして人生の生活そのものに挫折を経験してきた後に、無警戒に、無意識に、表出された「念願」が、幽かなユートピアが、ここには描写されてある。ぼくはそう思う。
 
 再び、初期の作品からここまでを訪ね歩いてきて、太宰治という作家の、家族への思い、そしてそれは今の世帯主となった自分の家族ではなく、過去の、子どもであった時の家族への思い、その郷愁の強さを想像しないではおられない。家族への愛、兄弟への愛、現実にははるかに遠ざかってしまった、それ故に行き場のない心の中だけに亡霊のように漂う愛の感情が、家族への親和の情が、自分を慰めるためのように架空の家族の物語をこしらえ、そこに憩っている。これは、本当は悲しいことではないのか。
 いつから、現実の家族は、こうではなくなってしまったのか。
 どうして自分は、遠くまで来てしまったのか。こうなるはずではなかった。だが現実の作家太宰の家族は、今はこの作品に描かれた家族とは全くの別物に変貌した。そういう家族にしてしまったのは、自分にも大いに責任がある。でも、そうしたくてこうなったのではない。その思いは、たぶん家族の誰もが感じている。いつの間にか、よそよそしい、遠慮しあう間柄になっていた。現実の家族の物語は、大なり小なりそんなことになりやすい。 太宰が、自らの創作の手で入江家の家族に与えた空気に自ら愛着を感じるのは、常に渇望しながらそれを手に出来ない、その何かが、描写の無意識の向こう側に展開されていたからに違いない。これらの作品には、それが予感のように映し出されている。太宰はそれに気づき、「愛と美について」という作品に愛着を感じたのだし、その愛着の本質を探って「ろまん燈籠」を書いた。そしてたぶん自分という人間の本質に関わる問題の所在を、突き止めたとはいわないまでも、どこからやってくるかに幽かに啓示のようなものはつかんだのだ。
 そのあたりを暗示させるものであるかのように、作品の終わりに、太宰は恒例となった祖父からの勲章の授与の場面を描いている。
 兄弟姉妹の創作物語が終わり、祖父が批評めいた感想を述べるが家族の誰にも相手にされない。祖母からは、叱られ、飲み過ぎだと、ウイスキーとグラスを取り上げられる。しょげたところで、母が祖父を元気づけるように例の勲章を持ち出し、祖父に兄弟姉妹の中で物語がよくできた誰かに授けるようにと促す。
 祖父はちょっと考えてから、勲章は母親にあげてしまう。そして、それを見た子どもたちはなんだか感動した、というところで作品は終わる。
 
 作品全体に漂っていたのは、家族間の愛と信頼である。そしてその要となっていたのは母親なのだ。母親の子どもたちへの愛と信頼、そしてそれを受けて子どもたちもまた家族相互への愛と信頼を育んでいる。そしてまた祖父母と子どもたちの間を配慮し取り持っているのも母親である。家族が、母親を中心に、親和を形作っている。だから、勲章は母親にあげなければならなかった。
 太宰は、この時期の作家としての安定した生活の中で、いわゆる夢見るようなロマンティックな、自身で言えばだらしない作品を発表してみせた。それは太宰に独特な、批評精神を封じた、言ってみれば自身に無意識の作品の創作を許したのだと言える。出来上がってみれば、それは母親を希求する願望の作品であった。無意識に、こういう家族、こういう母親の存在、を太宰は願っていた。それは全てを受け止める母なるもの。自分を全的に支え、肯定してくれるものの存在を象徴した。
 幾度もの生活と精神との危機に当たって、少しずつ太宰に気づかれていったのは、自己存在の否定、その精神的な傾斜だった。埋没したい、消滅したい。存在していることのいたたまれなさが、そこにはあった。何故自分は存在を消すような方向にしか行かないのか。太宰にはそれが謎であり、自分なりにいろいろな註釈を試みた。正義、真実、芸術と美、等々。藁をもつかむ気持ちで訪ね歩いたそれらは、しかし自分にとって決定的なものとは言えなかった。
 どこかに自分の生の全体をうかがう目がある。その目が、生きよと、自分をあたたかく励まし、包み込んでくれるようではない。どこかよそよそしく、危機に当たってかえって目をそらしてしまう。その目はどこから来るか。それ自身が全世界を意味する、乳幼児期における母親の目の象徴に他ならなかった。そしてこの「ろまん燈籠」には、いつも家族にその母親のあたたかな目が注がれていたと言っていい。それは太宰が長く望んでいたものに他ならなかった。そして太宰にこれらの作品が愛着はあるが、決して最上質のものではないという自覚が生じたのは、自分の生涯の根源に、生まれながらにしての母の不在、母の喪失があったというところまで、辿り着いていないことを意味していた。ただ、ここまで来ればそういう懐疑が大きくなり、中心に向かってまっしぐらに突き進むのは時間の問題であった。ここから数年、いわゆる太平洋戦争の終結に至るまで、時局は、つまり戦時の非常態勢は、逆に太宰の非常時を吸収し、消した。周囲の困難と混乱と昂揚の中に、かえって埋没してしまい、その結果太宰自身は平静に、着実な生活を手にすることが出来た。この健康で明るい生活の破綻は、皮肉なことに、戦争が終わり、人々の生活が平穏になりかかった頃に訪れた。その時まで、そり会えずこの問題は延命したのである。ぼくは、そういう文脈の中で、この作品を見てきたことになる。
 
 
 『新ハムレット』
 
 もとになるのはシェークスピアの「ハムレット」に違いないのだが、本文前のはしがきに、人物とだいたいの環境だけを借りて一つの不幸な家庭を書いたとあるように、中身的には太宰のオリジナルと言っていい。その分、ハムレットは東洋の偏狭な島国の、論理的というよりは感性的な、しかも現実に対してネガティブにその感応する針を小刻みに震えさせる人物になっている。作者太宰自身が、この作品を原本になる「ハムレット」に比して、「かすかな室内楽」に過ぎないと言い、読み返して淋しいと書くのは、このためだと思える。
 うまく言えないのだが、日本の小説にしても劇にしても、太宰流に言えば情熱の火柱が細い。西洋のそれらに較べて、ドラマティックではない。ドラマティックであっても、どこかちまちましている。
 例えばドストエフスキーやヘンリーミラーにしても、彼らの作品を読んでいると太い棍棒のような腕が頭に浮かんでくる。言葉が、文章が、荒削りと冗舌と違和感とを感じさせながらしかし太い腕のように、この頭の中を縦横無尽に切り裂いていくような衝迫を感じさせる。この力業という他はない圧倒的な迫力は、日本の作家たちには到底要求出来ない質のものである。
 別な言い方をしてみれば、一方は粘土をこねくり回し、出来た形、出来た茶碗を四方八方にかざして見ているのに対して、もう一方はどうして2+2が4になるのかを懸命に考えている。そして、それだけで一生を棒に振ることが出来ている。美的感性は鋭く研ぎ澄まされ、抽象的概念はどこまでも遠く広がって行こうとする。必然的に、静と動の対比が見えてくることになる。
 
 「新ハムレット」は、こういう見方からすれば、同じ環境の中からも、違った方向で物語が展開することは必然であり、元々が西洋的な枠組みのことであるからその展開がちゃちに見えることは否めない。もっと言えばそれぞれの登場人物が、外形は西洋人だが内面は東洋的であるというような不自然さを併せ持っていて、どうしても違和感を生じる。これについて太宰が無知であったとは思えない。知っていながら、それを窮極にまで引っ張ってみせた。ある意味では一つの力業である。
 東洋的あるいは日本的な感性を、西洋の舞台にのせて精一杯語らせれば、こういうことになる。それを「新ハムレット」はみせてくれたのかも知れない。東洋的なハムレット、東洋的なクロージャス。繊細だが、現実や周囲を見る目は陶器を見る目と同じで、見ることで、物の真贋を見極めようとする。競い合うのは、鑑定眼と呼ぶ他はない目の確かさだ。
つまり、他者の嘘と本当の見極めを、こういう目で行っていて、確かだと居直ってみせるほかに根拠らしい根拠はどこにも見あたらない。見方を変えれば現実を見て判断する時に、そういう見方をするということだ。
 ここではしかし、この問題にこれ以上深入りはしない。長編であり、語れば話の種は尽きないとも考えられるが、どうしてもここでこの作品について語らなければならない何かが2,3を除き、ぼくにはないのだ。また語りたいと思うもの2,3は今後の別の作品で取り上げることも出来ると思っており、今は、先を急ぎたい。
 
 
 『風の便り』
 
 いよいよ第6巻に入る。
 さて、作品論、作家論ということではなしに、作品を読み、その時の自分の感応を素直に書き留め確認し、ということでやってきた。太宰作品が、はじめに読んだその時ばかりではなく、その後の自分にどういった影響を与えたのか、それを訪ね歩く旅のつもりでもあった。
 ひとりの作家が海辺の断崖から水平線の彼方に視線を預けていたとしよう。ぼくは視線の彼方と、作家の横顔とを同時に眺めている。それはぼくにとっては忘れられない光景となった。彼方を言葉にすることは出来なかった。同じように、作家の横顔を言葉にすることも出来なかった。けれども、そこには大切な何かが秘められているように思われた。作家は、作家の真実を、言葉にしようと苦闘していた。ぼくはその姿に打たれた。
 作家の言葉が、作家の視線が見つめる彼方と作家自身とを全て語り尽くせているとは思えなかった。断片的な、時々の試みが作品上に残されているだけだ。言ってみれば、「生きるとは何か」という単純な問いを、愚直なまでにそれは繰り返し問うているように思われる。その問いを、だれしもが問うて生きなければならないとは少しも思わない。だが、気がつけば、いつの間にか自分もその問の答を見いださなければ安心が許されない、そういう種類の人間になっていた。そして、そういうことを考えることが、人間の価値だと思いなした一時期もあった。「何故生きるか」、太宰は、ある意味では愚かであるその問いを抱え込み、あるいはその問に捕らわれて、自死に至るまでを生ききった。徹底して考え、答を見いだす前に散った。そこには、人間の夢も理想も未来も、あるいは可能性もないのかも知れない。願わくば、そういうところに捕らわれない生き方が出来れば、そのほうがよいという思いもある。その後、ぼくはその問いの不毛さ、そして不幸の影を思い、生活の中に心と身とを浸らせる、そういう行き方を選んだ。
 その選択を、ぼくは間違っていたとは思わない。ただどうにも、浸りきることが出来ない、何をどうやってもその現実の場、生活の場に、自足する思いを手にすることが出来ず、何度も何度もところてんが押し出されるように、「生きるとは何か」を問う場に押し戻されるようであった。
 無垢な子どもの時から、人たちの中に安息することが出来ない。どう生きたらいいのかと、群れを離れて自問し、群れの中に潜り込もうとしてはその度に跳ね返される。自分の何がどう悪いのか。あるいは群れそのものの中に悪の要素は有りはしないか。等々、考えることは尽きなかったと言っていい。
 五十を過ぎて、残された時間は少ないという思いと、とりあえず生活に努めてきたという思いが、自分の「本当」を開放することを許してもいいのではないかという考えに繋がった。余生という考えはあり得ないと否定するけれども、頭は身とは別に、自分の一生というものを整理してみたいという欲求を、どこかに持っているものなのかも知れない。
 
 脱線が長すぎた。「風の便り」にある関心の触れる言葉を取り上げてみる。作品は、作家二人の往復書簡といった形をとり、しかし読者には、形を借りた自問自答に見え、立場を変えて、太宰自身が自分の考えを掘り下げる試みのようにも思える。
 
 私は、農民のことを書いている「作家」に不満があるのです。その作品の底に、作家の一人間としての愛情、苦悩が少しも感ぜられません。作家の一人間としての苦悩が、幽かにでも感ぜられないような作品は、私にとってなんの興味もございません。
 
 告白すると、私は、ショパンの憂鬱な蒼白い顔に芸術の正体を感じていました。もっと、やけくそな言葉で言うと、「あこがれて」いました。
 (中略)
 大工のせがれがショパンにあこがれ、だんだん横に太るばかりで、脚気を病み、顔は蟹の甲羅の如く真四角、髪の毛は、海の風に靡かすどころか、頭のてっぺんが禿げてきました。そうして一合の晩酌で大きい顔を、でらでら油光りさせて、老妻にいやらしくかまっています。少年の頃、夢に見ていた作家とは、まさか、こんなものではありませんでした。本当に、「こんな筈ではなかった」という笑い話。けれども現在の此の私は、作家以外のものでは無い。先生、と呼ばれる事さえあるのです。ショパンを見捨て、山上憶良に転向しましょうか。「貧窮問答」だったら、いまの私の日常にも、かなりぴったり致します。こんなのを民族的自覚というのでしょうか。
 
 ここには二つを引用したが、先の部分には、文学は、必ずしも題材やテーマの優位性を持つものではなく、作家の人間的意識が作品の中に感じられるものでなければならないという考えが出されている。貧しいものを主人公にすればいいというものでもなく、資本家を主人公にして悪いという法もない。何をどう書こうが、作家の、一人間としての苦悩が感じられてこそ興味を持つのだという主張である。それはまた、作品上で表面的に苦悩を扱うということでもない。極端に言えば、通俗の官能小説の形をとっても、作者の人間的な苦悩が感じられるならば、評価しなければならないというようなことを言っているのだと思う。一人間としての苦悩、それは、作家個人の、個的な苦悩と言うよりは、外側からやってくる普遍的苦悩であり、それは個を借りて、個の口からしか語られることのないものである。矛盾するようだが、普遍的であって個別的である。そういう苦悩がにじみ出る作品にしか、興味を覚えないと言っている。
 二つ目には、西洋にあこがれながら、西洋を真似ても、結局は日本的な骨格というものは露出するものであるというようなことを言っていると思う。これは文学に限らず、西洋にあこがれ、西洋に学び、やがて日本的風土に回帰する全てのことに通じる。それならいっそ、全ての西洋なるものを捨てて、山上憶良に戻るか、作者である「私」は、そう言ってみせる。事実、時局は作品を書かれた時代を前後して、真っ逆さまに、古代日本の精神へとその支柱の在りどころを訪ねて行くことになったのである。
 大工のせがれが、ショパンにあこがれたのがそもそもの間違いだったのだろうか。あるいは年を経て、「こんな筈ではない」姿に変貌した自分自身を見捨てずに、さらにショパンを目指すべきだったのだろうか。
 形的には、西洋の頭を首根っこに据え、首から下の身体には東洋が居座って離れない。今では、それが元々日本人の姿であると見違えるほどに、内外になじみになった。だが内にはいまだに試行錯誤が続き、ストレスから極端に走る亀裂の痕は残ったままなのである。 太宰は、こういう問題意識を抱えたまま、鋭く発展させたり、解決の道筋をつけたりはしなかったけれども、手放さずに自分の生活の中に解決のあり方を本気になって求めた作家のひとりであった。ここの文脈で言えば、「転向」ということを、思想的に本気で考えた知識人のひとりであった。
 文中では、「私」自身のこととして書いているが、本当は世相全体を見て、世相全体を「私」に投影して語っていると見た方がよい。こういう、作品における「私」の作り方がなされていることを読者は考えておかねばならないと、ぼくは思う。
 続けてこの作品を見ていく。
 
 きみは作品の誠実を、人間の誠実と置き換えようとしています。作家でなくともいいから、誠実な人間でありたい。これは大変立派な言葉のように聞こえますが、実は狡猾な醜悪な打算に満ち満ちている遁辞です。君はいったい、今さら自分が誠実な人間になれると思っているのですか。誠実な人間とは、どんな人間だか知っていますか。おのれを愛するが如く他の者を愛することの出来る人だけが誠実なのです。君には、それが出来ますか。いい加減の事は言わないでもらいたい。君は、いつも自分の事ばかりを考えています。自分と、それから家族の者、せいぜい周囲の、自分に利益を齎らすような具合のよい二、三の人を愛しているだけじゃないか。もっと言おうか。君は泣きべそを掻くぜ。「汝ら、見られんために己が義を人の前にて行わぬように心せよ。」どうですか。よく考えてもらいたい。出来ますか。せめて誠実な人間でだけありたい等と、それが最低のつつましい、あきらめ切った願いのように安易に言っている恐ろしい女流作家なんかもあったようですが、何が「せめて」だ。それこそ大天才でなければ到達出来ないほどの至難の事業じゃないか。
 
 この作品がそうであったかどうかは確信がないが、作品の中の言葉が信じられるかどうか、そしてこれなら信じられると思わせられた言葉は、ぼくの場合はこんなところにあったと思っている。この人の言葉は、信じてよい。読んで、そう、思わせられた。
 誠実な人間とは、「自分を愛するように他人を愛する」事の出来る人だ。さらに、「善い行いは人の目に見えるところではしてはいけない」。そういう事を太宰は言っている。実践出来たかどうかは別にして、太宰は、本気で、これを生活上の実践の問題として考えた。こういう問題を、本格的に、自分の生きる上での問題として真正面から格闘してみせた文学者は、思うほどには数が少ない。それは、生涯の彼の作品が証明している。こういう問題について、繰り返し繰り返し、解決がつかない形で作品に取り上げ続けたからだ。一過的に、ある時期、この問題を考えたというのとはちがっている。常にこういう問題意識を持ちつづけた。誠実に生きる、それが至難の大事業だということは、実践してみてはじめて分かる事柄に属している。
 ぼくを含めて一般には、こういう問題について一時期考える事があっても、考えても解決がつかない問題だとして、いつの間にかそれ以上深く考える事は放棄してしまっていると思う。つまり、それは頭の問題、言葉の問題として、日々の実践の問題として引き受ける事は稀なのだ。太宰の場合は、そこが特異である。言葉が、生きる場に直結している。そういう意味では、言葉の人なのである。頭と身体の遊離を嫌った人である。
 
 さきにも述べたように、「風の便り」は、二人の作家の往復書簡の形をとっており、作者は交互に立場を変え、それぞれの立場に立って思い切り考えるところを述べている。意見の対立は、螺旋のように、上層へとのびていく。太宰の批評精神が、遺憾なく発揮されてもいる。揺るぎない自信のようなものも感じられ、安定した、よい作品だと思う。作品論という事であれば、もっともっと言えるところはあると思う。時代との関わりという点についても、うっすらと透けて見える作品という気もする。いろいろな意味で魅力のある作品であることを言って、次を急ごうと思う。
 
 
 『誰』
 
 この作品は、記憶にない。読んだことはなかったかも知れない。読んでみると、面白かった。短編で、「悪魔」を話題としながら、ユーモアを交えて軽妙な作品に仕上がっている。
 書き出しはこうである。
 
 イエス其の弟子たちとピリポ・カイザリアの村に出でゆき、途にて弟子たちに問いて言いたまう「人々は我を誰と言うか」答えて言う「バプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人は預言者の一人」また問い給う「なんじらは我を誰と言うか」ペテロ答えて言う「なんじはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)
   (中略)
 かれ、秋の一夜、学生たちと井の頭公園に出でゆき、途にて学生たちに問いて言いたまう「人々は我を誰と言うか」答えて言う「にせもの。或人は、嘘つき。また或人は、おっちょこちょい。或人は、酒乱者の一人」また問い給う「なんじらは我を誰と言うか」落第生答えて言う「なんじはサタン、悪の子なり」かれ驚きたまい「さらば、これにて別れん。」
 
 聖書の中のキリストと、作家太宰自身と思われる文中の私とを、重ねて対比させるあたりはとても太宰的であるし、よくこういうアイデアが生まれるものだと感心する。誰にでも出来ることではない。大きな、勇気がいる。
 ある時期において、自分を完全に見失う。自分が誰だか、何だか、分からなくなる。死にたいと思うほどの疲労、苦悩が重なった時、人はそんな状態になるのかも知れない。聖書の中のイエスに、太宰は危機的に衰弱したイエスを思い、けれどもイエスとの違いをコント風に演じてみせる。ペテロの答とは逆向きに、落第生が「なんじはサタン」と言い、それを聞いて作家は驚き、「さらば、これにて別れん。」と必死に威厳ありげに言うところなど、思わず心がクスリとしてしまう。
 ここから、「悪魔」という言葉の考証があって、続いて自分を「悪魔」ではないと証明するために、「私」はいろいろ難儀するのだが、「私」の推論や考察、先輩とのやりとり、そのいずれにもユーモアが漂っている。だからといって根底からふざけた調子の作品かと言えば、そうとは言い切れないところがある。
 もしかすると自分は悪魔なのかも知れない。かすかにそう自分を疑う「私」の気の弱さの向こうには、「善いことをしようと思って生きてきたはずなのだ」という精一杯の無言が詰まっている。読めば、それが聞こえてくる。消去法の果てに、先輩の言葉から、やはり自分は悪魔や悪鬼ではなく、ただの「馬鹿」であったと喜び、先輩に感謝するあたりには、しんみりとした悲しささえ漂う気がする。これはやはり文学であろう。
 最後に、どんでん返しが用意されている。
 初めての熱烈な女性ファンからの手紙攻撃があって、「私」はその女性が入院している病院へ、ためらいにためらい、また考えすぎるほどに考えたあげく、お見舞いに行くことになる。ファンである女性の夢を壊すまいとし、彼女の夢をいたわり、傷つけまいとして、「私」は病室の戸口で「お大事に」とひと声かけて、あらかじめ予定していた通り長居はしなかった。
 次の日、女性から手紙が来た。「私」の思いとは裏腹に、彼女は「私」が「まずしい病室と、よごれて醜い病人の姿に幻滅して」、くるりと背を向けて帰ったのだろうと思い、強く恥辱を感じていた。手紙の最後には、「あなたは、悪魔です。」の文字が記されていた。作者はその後に、「後日談はない。」そう記して終わっている。
 
 
 『恥』
 この作品には、先の作品の結末にあった、作家と一人の女性ファンについて書かれている。読んで、続きのような気分になったり、当時太宰にはこれらに似た体験が本当にあったのかも知れないなどと考えた。
 真偽はともかく、この作品では興ざめなくらい何のトリックもどんでん返しもなく、一方的に女性ファンの立場から作家を酷評している。
 作品の筋書きを大まかに言えばこうだ。すなわち、小説を読んで、そこに書かれている作家のだらしのない生活、まずしい暮らし、荒んだ蛮行、醜い風貌。とても好きにはなれそうにはないのだけれど、それでもどこかに一点、作品の底には哀愁のようなものが漂っていて、その作家を支持し、応援してあげたいと思う女性がいた。女性ファンは自分こそがそのさえない作家のよき理解者であると思いこみ、手紙を作家宛に書く。返事はなかったが、作家の新作を見ると、まるで自分のことが書かれていると錯覚して、女性はついに作家の家を訪れることになる。実際に見る作家の家も、作家自身の風貌、人格、彼の妻、その他一切が、女性が想像していたものとはまるでちがっていた。
 女性は騙されたと思った。作家は嘘つきだと思った。要するに、女性ファンの一方的な思いこみは、瓦解したのだ。
 作家側からすれば、誰ともよく分からぬ、見も知らぬ人が家に来て、それなりにそうとしかできないようなかたちで応対した。その女性は、自分の一人合点に気づき、自分の書いた手紙を返してくれと言った。作家は後で探して返してよこした。封筒に、女性の出した二通の手紙だけが、ぽんと入れてあった。その他に、作家の手紙らしきものも、メモ的なものも、一切なかった。
 作品は、最後まで一方通行のままで終わっている。関係のちぐはぐさを描く、この小説はそれをテーマにしたものかも知れない。
 女性ファンを主人公としているだけに、読後は、作家はもう少し読者である女性ファンに思いやりをかけてもいいのではないか、と感じるように作品は作られている。描かれる作家は、実務的で、少しもロマンティックなところはなく、小説家であるよりは、一人の社会人の姿だ。確かに現実はこんなものだろう。そこには、弱い者の見方である小説家の姿はない。けれども、これがまた、逆に女性ファンの来訪を歓待し、夫婦でお見送り、思いやりのこもった丁寧な感謝の手紙を出す姿に描かれていたらどうだろう。今時のタレントとファンとの関係のように、作品の中ばかりではなく、最後まで、私生活においてまでも騙すということになってしまうのではないか。その意味ではもしかすると、太宰は作家の思いやり、親切を、この作品ではテーマとしていたのかも知れないと思った。同時に、穿った見方をすれば、作家の自衛が幾分か働いているに違いないとも考えた。
 
 
 『新郎』
 
 この作品の末尾には、「昭和十六年十二月八日之を脱稿す。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。」の文字がかっこ書きで付されてあり、太平洋戦争開戦、真珠湾攻撃の日に完成された作品であることが分かる。
 作品の題名の「新郎」は、本文の最後に、「ああ、このごろ私は毎日、新郎([はなむこ]のルビ)の心で生きている。」とあるから、まあ、そんなところからとられたものだろうと考えていいと思う。
 結局、この作品で作者が何を言おうとしているかと言えば、というよりも、読者としての自分が何を見ようとしているかと言えば、時代に逆らえない個人としての作家太宰が、開戦の報を、肯定的に受け止めようとしたと、そういうことになる。
 よいも悪いもない。作中で、太宰は、我慢をして一日一日を清く正しく精一杯生きましょうと、そういうことだけを言っている。あるいは、大臣や、開戦の指導者たちの言葉を、信じましょうとだけ言っている。
 開戦の日に、やっとこれだけのことを書いた、たったこれだけのことしか書けなかった。それをどう、ぼくが考えるかだ。
 この作品を読んで、何日間か、「新郎の心。新郎の心」と呟いて過ぎた。太宰に、本当はもっと何か言ってほしいのに、行間からも何も伝わってこない失望があったといっても良いかもしれない。何も言ってはいない。言葉を失っている。作家として、プライドをかけて、やっとこれだけのことを書いている。無様なのか。毅然とした態度か。それが分からない。
 「俺だったらどうなのだろう」と思う。もちろん、作家ではないから言葉は唇から遠くには放たれない。でも、何を考える?
 文中に、「天意におまかせする」という言葉が見える。あるいは「戦地の人々も、おそらくは同じ気持ちだと思います」という言葉もある。
 何もわからぬままに、また一つ思いついたことがある。それは、新郎がいれば新婦もいるということかな?という疑問だ。つまり、新郎の心の太宰にとって、ならば新婦は何であるかということだ。戦地の人か、「日本」ということか?
 こんなことはいくら考えても分かるわけがない。とりあえずはこの作品からは離れることにする。グッバイだ。
 
 
 『十二月八日』
 
 やはり開戦の日のことを題材とした作品である。
 
 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、少しは歴史の参考になるかも知れない。
 
 こんな書き出しで始まっている。まあ、太宰が、奥さんの立場に立って日記風に書いてみたということでいいと思う。
 この奥さんの目に映った、太宰本人のように思われる「主人」のこの日の様子を文中から少し取り上げてみる。
 早朝のラジオの声、「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」を聞いて、主人公の「私」は、すかさず夫に知らせようとすると、夫は、
 
「知ってるよ。知ってるよ。」
と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張のご様子である。
 
 また、朝ごはんの時、
 
「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」
 と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」
 と、よそゆきの言葉でお答えになった。
 
 昼近くになって、ラジオから、「マレー半島に奇襲上陸、香港攻撃、宣戦の大詔」などのニュースが流れ、それを仕事最中の主人に伝えると、
 
「そうか。」
 と言って笑った。それから、立ち上がって、また坐った。落ち着かない様子である。
 お昼少しすぎた頃、主人は、どうやら一つお仕事をまとめたようで、その原稿をお持ちになって、そそくさと外出してしまった。雑誌社に原稿を届けに行ったのだが、あの御様子では、また帰りがおそくなるかも知れない。
 
 まあ、こんな具合である。太宰は、ほんのちょっと登場するだけで、ほとんどは夫人から見られたこの日の出来事の様子が描写され、語られている。ただ最後に、夫人と六ヶ月ばかりの幼い長女が銭湯に行った帰り道、真っ暗闇の中を難儀しながら歩いていると、背後から太宰らしき作家である夫が登場する。文末になるが、こんな風だ。
 
「園子が難儀していますよ。」
 と私が言ったら、
「なあんだ。」と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
 と、どんどん先に立って歩きました。
 どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。
 
 
 こうした太宰の姿からは、戦争に肯定的だとも、あるいは反戦的であるとも言えない気がする。そしてまた、出来れば反戦の声を聞きたいと願う願いは、無い物ねだりなのかも知れないと思う。太宰は緊張し、何かに身構えているようでもあるが、戦争については何も言ってはいない。まして、戦争反対の声は聞こえてこない。だらしがないと思うけれども、そう言う方面での修養はしてこなくて、ただ大衆が行く方向を肯定するほかにないとだけ覚悟を決めているかに見える。ここでは少なくとも、大きな反対も大きな賛成の声もあげてはいない。判断を留保し、分からないのだから、分からないままを引き受けている気がする。自分の分を守る、そういうあり方だが、それはそれで徹すればたいしたものだと思うほかはないと思う。少なくとも、そういう時局にあって、個人的であろうとしていたとは言えるかも知れない。
 
 
 「律子と貞子」
 
 この作品は、一人の青年が遠縁にあたる姉妹のどちらと結婚するか迷っている、それを題材としたお話である。作品では、妹のほうが青年に対して積極的な働きを示している。 「私」は青年に意見を求められて、聖書の中のある箇所を示し、暗に、妹のほうに決めるべきではないかとほのめかすが、結局青年は姉のほうを選ぶことになる。「私」はそれを知って、ちょっと違うんじゃないかと思い、「義憤に似たものを感じ」るとともに、読者はどう思うかと問いかけて終わっている。
 細かく見れば、いろいろに取り上げ言ってみたいこともないではないが、とりあえず、どっちを選んでもいいじゃないか、といった程度に見ておきたいと思う。他人の、しかも文字の上だけの艶聞には興味が湧かない。そんなところかも知れない。
 
 
 「待つ」
 
 この題には、記憶がある。作品の内容は、よく覚えていないが、「待つ」というその言葉だけは、いやに鮮明に残っている。この作品を読んだ16,7の頃、自分にも、何かを「待つ」ということがあったのかも知れない。
 この作品は、原稿用紙6枚くらいの短い小品だ。主人公は二十歳の娘で、毎日買い物の後に駅に立ち寄り、ただ「待つ」ということをして、そしてむなしく家に帰ることを繰り返すという設定になっている。何を待っているのかは、当の本人にも分かってはいない。駅のホームのベンチに座って「待つ」ことは、決して本人にとって愉快なことではなく、内心びくびくしてさえいる。
 主人公の「私」は、人間嫌い、人間恐怖症の素質があって、どちらかと言えば外に出て行くことが苦手である。友だちのところに遊びに出て行くよりは、家にいて母親と縫い物をしているほうが楽な気持ちでいられる女性なのである。
 そんな彼女が、戦争が始まり、周囲の状況が緊迫感を感じさせるようになって、自分も何かしなければならないような居ても立ってもいられないような気になり、不安と落ち着きのなさと今までの生活への自信喪失とでいっぱいになる。
 彼女は家に黙って坐っていられない思いで外に出てみるが、出てみれば、自分の行くところがどこにもないことに気づく。そこで、買い物をして、その帰りに駅に立ち寄ってベンチに腰掛けているという毎日になってしまうのである。
 この、「自分の行くところがない」という主人公の気づき、思いに、これを読んだ当時のぼくは、素手で首根っこをつかまえられたような気がする。そこに共鳴し、共感し、あるいは震撼したと思う。
 場所の、問題では、ないと思う。自分の身体を落ち着かせる先の場所、ということではなくて、自分の頭の場所、頭脳の場所、その「行き場」の無さが、問題なのだと思う。
 だから駅のホームなので、そこをぞろぞろと往来する人の流れは、戦争という現実を前にしての、思想や理念、もっと俗に思惑などと呼ばれるような人々の思惟の流れや淀み、そして合流や分流を形成する図的な暗喩になっていると思う。
 
 太宰は、戦争という現実を前にして、ああでもないこうでもないと、自分の思想の立ち位置に苦慮していた。戦争反対も、賛成も、理念として表明してはいない。苦慮していることで、そう簡単に、賛成出来るものではないことを暗に示していると言うことも出来る。また、「私の待っているのは、あなたではない」と言明することで、戦争に関する誰の意見、考えにも同意出来ないことを言っていると思う。もちろん、自分の考えを明らかにするために、多くの人の考えを参考にしようとあれこれ検討したには違いないが、まとまった考えは持ち得なかった。それがこの小品の中の主人公の不安の内実を表すものだと思う。自分には、判断するだけの力量はない。しかし、戦争を云々する指導者の言葉も、あるいは反対の立場の言説も、すっきりと支持出来るものではない。この感覚だけは、何かしら真実であり、確からしく思われる。根拠というならば、自分の全生涯であり、自分という名の真にあるという以外にない。
 
 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。目の前を、ぞろぞろ人が通っていく。あれでもない。これでもない。
 
 「あれでもない、これでもない」と否定し続けたり、妥協を注意深く拒否続けることは、本当はむずかしいことではないか。「あれかもしれない、これかもしれない」から、「あれにちがいない、これにちがいない」へと、そして「きっとあれだ、きっとこれだ」へ至る精神の合理化の道筋は一直線だというのがぼくたちには通例である。留保の状態にあること、懸垂状態にあること、それは、精神にとって極めて力業の部類なのだ。敢えてそれを為すべきだとは言えないが、そういう場所に生きるほか無かったと思えるような人は確かにいた。ぼくにとって、太宰は数少ないそういう人の中のひとりとして、今も存在する。
 
 
 「水仙」
 
 ここのところ、どうと言うこともないような出来の短編が並ぶ。読み解きに困る。あっさりと読んで、さてそれから何を書く気にもならない。
 この小説「水仙」も、どこに太宰の書かなければならない必然があるか、見えてこない作品である。もちろん、生業上、何か書かなければならないのが作家の宿命で、とにかく何かの雑誌の紙面を埋めるということなのかも知れない。それでも、あんまりひどいものは、さすがに書けないだろう。次の注文に、影響する。そこで、個々の作家としては頭を痛め、まあまあ編集者に認められるだけのものは書き続けなければならない。
 このあたりの作品は、そうして出来上がったという印象を受ける。傑作ではない。だが、全くの駄作というわけでもない。期待させながら読ませ、読後に、感動が得られなければ読者が自分の読み方を反省させられるような、そういう書き方の技術というものもあるのかも知れない。「水仙」も、そうだ。天才は自分の天才を知らない、というテーマだけで、筋書きも、知人の夫人が周囲のおだてから自分が天才画家だと思いこんで、そうして自分を見失ってしまって最後には自殺してしまう、そういう出来事を太宰らしき小説家の「僕」を通して語るだけのものだ。ちょっと読ませるところは、夫人の描いた絵が全部破り捨てられて、最後の一枚の「水仙」の絵を、「僕」が夫人の師匠筋の老画伯の前で破り捨てたところだ。本当は「僕」はそれを、見事な絵だと感じながら、何故それを引き裂いたか、「それは読者の推量にまかせる」と作者である「僕」が綴る。これは、狡い書き方だ。おかげで僕は懸命に推量する。が、何もうまい言葉が浮かばない。そうして、長い時間をかけて諦めて、こんな文章で済ましてしまおうという気持ちになる。これもまた、書く必然のないことを書いているという結果ということになるのだろう。
 
 
 「小さいアルバム」
 
 この小説もまた、先の作品と変わるところのない、身過ぎ世過ぎのために書かれた作品という印象が持たれます。でも、どこか先のものよりも読み応えがあると感じさせるのは、例の如く太宰自身の過去の影を題材としているからなのでしょう。
 アルバムに収められた写真を使って、その時々の出来事や心境を述懐しています。それはたぶんに親しい訪問客に話す時のように、くだけた調子で、いつもの振り返りとは違う軽い過去の振り返りになっています。たとえば離婚や自殺未遂、ヒロポン中毒の時期なども、とても軽い口調で扱っています。その分、客観的な表現と言えば言えます。
 自分の生涯というものに、素直になるというか、諦めるほかないと悟るというか、そういう心境で綴られているような気がします。やや戯作的でもあり、自虐性もあるのですが、まあ、軽く自分を揶揄しています。
 最後は、一番最近の写真で、乳母車に乗せた娘を公園の孔雀を見せに連れて行く幸福そうに見える写真なのですが、次のページに貼られる写真はどんな写真か、「意外の写真が」という言葉で結んでいます。これは、まあ考えた結びなのでしょう。幸福な風景の後だから、次のページには不幸な風景の写真が来るのかとも思いますが、「意外」というところからより幸福な風景かとも考えます。いずれにしても、作者には予感めいたものもありながら、現実には、そんな予感などは通用しないことを作者もまた熟知しているようです。ここには、作者の、「確信」のないことが、太宰的です。この確信の無さは、「意志」の無さを意味しているのかも知れません。幸福な風景を維持し、持続しようとする意志。そういう意味で自分が動いたり出来ない運命を、かすかに作者は察知しているかのようです。思いはあってもそれで動くことが出来ないという事実が、作者には運命的なのです。だから、自分にとってもそれは「意外」のものになるほかは無いということなのかも知れません。ただ、ここには、諦めという消極的な気分ばかりではなく、未来にどんな「意外」が待ち受けているにしても、それは全て引き受けるぞ、とでもいいたいような、そういう骨太な雰囲気も漂って感じられるといえば、言えます。
 
 
 「正義と微笑み」
 
 この作品はある俳優の日記をもとにして書かれた創作だそうである。作品では、十六、七の俳優を志した少年の日常、身辺雑記が描かれており、まあ、これまでの自己史的作品、芸術家の信条を突き詰めて考えるような、そんな作品とは違って、若さがあふれかえっている。
 オリジナルの日記がどのようなものか、分からない。どの程度日記に依拠し、どの程度創作の手が加わっているのか、それも分からない。そういう中で、兄の存在の大きさ、頻繁に出てくる聖書、そういったところに、事実はどうか分からないが、太宰的なところが感じられる。
 長編である。読み物として、悪くはない。ただ、読後、感ずるところはあまりない。日記の作者である少年への、共感も、どこか遠い出来事のように感じる。太宰からすれば、こういう若者の気持ちもよく分かる、そういうことを示したかった作品かも分からぬ。大学をやめ、俳優を志すといった当時の、ある意味時代を先取りするような先端的な若者達の感性、それをいち早く取り上げて見せたといったところか。清潔で、正義感に溢れ、自分の希望に向かって前進する若者の姿から、亀井勝一郎は、新しい型の「坊ちゃん」の創造と呼んでいたが、まあ、僕にはそんなことはどうでもいい。本音を言えば、退屈な作品だった、というのが僕の印象である。