『日の出前』
 
 この作品は、気味の悪い作品だ。何となく、そう思われる。
 一つの家庭の、言ってみれば崩壊の物語である。父は高名な洋画家、その妻とそして長男、その妹の4人家族が登場する。簡単に言うと、その長男が、ぐれる話である。挙げ句の果てに、酔って泥酔し、沼に落ちて死ぬことになる。それが、事故か、自殺か、はたまた彼の父がボートから突き落としたためか、作品でははっきりしない。何となく、父がやったのではないかと読者に思わせるような書き方が、作品では為されているように思える。 気味が悪いと感じるのは、そこまでの経緯の中にあるのではない。作品の最後で、検事が妹に慰めの言葉を掛けたことに対し、妹が、「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」と答えるところに、何かしら不気味さを思う。
 妹の、正直な言葉と受け取って良いのかもしれない。けれども、この言葉が正直なものだとして、それではこの時のこの言葉に含まれた正直さとは、いったい何であるのか、そういう疑問が、立ち上ってくる。
 作品中に見られるドロドロの家族感情、破局に向かうための要因の数々は、現実は小説よりも奇なりと言われるほどに、現在のぼくたちにも、頻繁に目にし耳にするところとなっている。親の子殺し、子の親殺しは最早珍しい出来事ではないとさえ言える。この作品に、そういう未来の予言が見られるということなのか。そのようでもあるし、そうではないようにも思える。
 「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」という言葉は、いや、これに近い言葉は、もしかすると現実に聞いたことがあるかも知れないと、ぼくは考える。知り合いのおじいさんか誰かが死んだ時に、つれ合いのおばあさんが酒を口にしながら、「ああ、よかった。」と、もちろん、それまでにさんざん悪態をつくばあさんであることを知っている親族の間で洩らす言葉を、聞いたような気がする。みんな、そのおばあさんが、そういうことを言いそうなことを知っている。そういう中で、おばあさんはそれを口にし、誰かがそういうことは言うものではないとたしなめる。たしなめられたおばあさんは、だって昔こうだった、あんなことがあった、それなのにこうでああでとあらいざらいをしゃべりまくる。
 この作品の先の妹の言葉は、こういうニュアンスとは少し違う。違うと思う。
 検事の取調が済んで、一段落した後の、気持ちが落ち着いている時のひと言である。聞きようによっては、さわやかに口をついて出てきた言葉である。「兄さんも、やっと兄さんらしくなって、微笑みながら私たちを見守っていると思います。」と、そう先の言葉に付け加えそうな気さえしてしまう。
 死が、遺族にも当人にも救いである。そういう局面が人生にはあり得るのだろうか。そう、ぼくは問われているように思い、そうしてこのような問いはなるべく避けたい、考えたくない、そういう部類の問いに属している。
 
 太宰は、この作品を書く中で、「自分が死んで、周囲の人々が幸福になりました。」そういう物語を想像しはしなかっただろうか。いや、想像したに違いない。そうして、あえて妹に、この言葉を言わせたに違いない。現実の物語としても、架空の物語としても、こういう時にこういう言葉を使わないことでぼくたちの社会の暗黙のルールが成り立っている。言ってはいけない言葉。妹の言葉は、脳裏に浮かんでも口にしてはならない言葉ではないのか。そう思う端から、よせよ、言っちゃいけない言葉なんてあるはずもない、そんな否定の言葉も同時に浮かんでくる。
 
 兄は自分を見失っていた。いけないと知りながら、いけないことをつんのめるようにして為していた。加速し、もう誰にも止めようが無くなっていた。滝に流れる水の如く、破滅に向かって落ちていくほかなかった。どうしても、この破滅に向かっていく道が不可避である、そういう人生を、ぼくたちはニュースや報道を通じてこの現実社会の中にあることを漠然と感じとっている。つまり運命的なもの、をである。そうして、自身がこの運命的なものに飲み込まれないように、滝の落下に吸い込まれないように、藁をもつかむ思いで必死に、フル回転で脳を働かせているに違いない。もちろんそうしながらも飲み込まれるのが運命なのだとは思いながら。
 
 たぶん、多くの評者は、妹のこの言葉を大きく取り上げなかったろうが、太宰自身は次のように表し、大いなる誇りと自信とを抱いていた。
 
 (妹の)その言葉は、エホバさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。
 
 この新しい言葉は、新しいと同時に狂気の言葉であり、サタンの言葉であろう。それを現世に出現させて見せた点は、確かに新しいものであるだろうが、現世の秩序は、その真実に気づかず、あるいは気づかぬ風を装い、または打ち消すことによってのみ成り立ってきたことを忘れるべきではあるまい。ぼくはそう思うのだが、読者は如何に。
 翻って考えると、昨今の、現実に起きる陰惨な事件の当事者達の言葉には、物語性の抜け落ちた、意外と同時に不可解な言葉が多い。どこか、周囲からも歴史からも切り離れた点の存在としての個人の洩らす言葉、そういう印象が残る。太宰のこの作品の妹の言葉は、それとはまた別物にはちがいないのだが、どこか近しい臭いもする。それはよく分からない。まだまだその他の疑問も大いに生ずるのだが、ここはこれぐらいにして次の作品へと進むことにする。
 
 
 『帰去来』
 
 人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば流石に少しつらいのである。
 
 作品の冒頭の一節である。
 この一節に、どんな意味があるのか。あるいはこの一節が文学の、芸術の、燦然と輝く価値を蔵しているだろうかと考えれば、何も、ないのだろうと思う。
 作者が、物思いにふけって、その時の思いをたまたま文字に表してみればこんな言葉になった。それ以上でも以下でもないように思える。
 これを読んで、しかしぼくは、自分の言葉が先取りされているような錯覚を覚える。作者は、ぼくのこころを書いているのだ、というように。そう錯覚させるほどに、この一節は、読者であるぼくがふとした時に物思いにふけるその時の思いを代弁しているように感じる。
 この作者は、ぼくと同じ思いを持った人なのだ。かつて、初めて太宰の作品を読んだ時にぼくはこういう箇所を読んでそう思い、すっかり虜になってしまったのだと言っていい。そうしてそれ以来、この同じ気持ちが、自分のオリジナルの思いか、あるいはこうした作品に無意識に囚われてそう思うようになったのか、不分明になるくらい分からなくなってしまっている。
 
「多くの人の世話になった。その人たちに報いる事が出来ない。」
 ひとりの時、ぼくは何度も何度もそんな事を思って生きてきた。そうして、黙って、生きてきた。この「気持ち」というものは、滅多に「個」の外へと出て行くものではない。個の内側に、年輪のように積み重ねられていくに過ぎない。
 内省とも呼ぶべきこの生の声を、作品の一節に、形を崩さずにそうっと置いて見せた作家は、珍しい。ぼくはそう思い、太宰は唯一、それが出来た作家なのだと考えているのだ。
 
 あたかも感性のDNAが近似して、取るに足らぬ一節を読むだけで安堵感や親しみやなごみを感じさせてくれる作家が、ぼくには太宰治である。読者に、こうまで感じさせてしまう魅力が、太宰の文章にはあり、この一節もまたそんな力を備えているのだと思う。
 そういうぼくの目には、この作品の続きの部分は、実はどうでもよくなってしまう。作品は恩人の話であり、どんなに世話になったか、それを太宰が半ば絶縁された故郷に久しぶりに出かける前後のエピソードを交えて綴られていく。もちろん、そこの部分にも読み応えのある面白さは十分にあるのだが、そうしてやはりあちこちに太宰の本音がちりばめられてもいるのだが、まあそれは当然の事として、最後にやはり冒頭の一節に立ち返る。 ぼくもまた、人の世話にばかりなって来た。そうして、誰ひとり、お世話をしてあげる事も出来ずに生きてきた。これからもそうなのかと思えば侘びしく、しかしこの思いは呑み込むほかに行き場とてなく、黙ってこれからも生きて行くほかにない。いや、太宰という作家がいて、その人だけは同じ思いを感じていた事が分かっている。それだけでも、ぼくは幾分慰められる。文学は、その一瞬に生き、その一瞬に滅びてもいいのではないか、そう、言ってみたくなる。
 
 
 『故郷』
 
 作家太宰は東京で数々のスキャンダラスな事件を引き起こし、故郷の実家にも迷惑を及ぼして絶縁に近い状態にあった。東京と故郷青森の北さんと中畑さんという縁故ある二人の好意により、生家の主となった長兄の許しを得ないながらも、一応生家の敷居をまたぐ事が出来たというのが前作「帰去来」に語られていた事だ。
 この「故郷」という作品では、その1年後に、生家の母が重い病に伏せ、それを今度は太宰ひとりではなく、妻と子どもを一緒に連れて見舞うという顛末が書かれている。封建家族の名残を止める生家との複雑な関係という陰影を背景にしながら、しかし太宰の側から見れば、暗黙のうちに長男をはじめとする兄弟姉妹との距離は少しずつ狭まってきているように見える。
 
 家の中は、見舞いの客で混雑していた。私は見舞客たちに見られないように、台所の方から、こっそりはいって、離れの病室へ行きかけて、ふと「常居」の隣の「小間」をのぞいて、そこに次兄がひとり坐っているのを見つけ、こわいものに引きずられるように、するすると傍へ行って坐った。内心、少なからずビクビクしながら、
「お母さんは、どうしても、だめですか?」と言った。いかにも唐突な質問で、自分ながら、まずいと思った。英治さんは、苦笑を浮べ、ちょっとあたりを見廻してから、
「まあ、こんどは、むずかしいと思わねばいけない。」と言った。そこへ突然、長兄がはいって来た。少しまごついて、あちこち歩きまわって、押入をあけたりしめたりして、それからどかと次兄の傍にあぐらをかいた。
「困った、こんどは、困った。」そう言って顔を伏せ、眼鏡を額に押し上げ、片手で両眼をおさえた。
 ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり坐っていた。
 
 母の、病がもたらした兄弟の一室に集まった構図が、此処、作品の末尾に描かれている。母の重体という不幸がなければ実現しなかった構図だ。
 こういうところでの太宰は、表現上の技巧はおさえ、ただ見えた事感じた事を素直に書き表そうとしているかのように思える。私小説の典型と言っていいような仕上がりになっている。飾りなく、淡々と描く筆致は、日本現代の伝統的な文体の技量が、確かな形で身に付いていると感じさせるものになっていると思う。
 
 
 『禁酒の心』
 
 この作品も、大変短い作品である。
 主人公の私は、禁酒をしようと思っているが、なかなか実行出来ないでいる。何故禁酒をしようと思い立ったか、それは直接には語られていないが、どうやら酒が配給制になった事と関係があるらしい。作品を読むと、どうもそこにしか原因が見あたらない。つまり、配給制になって、自分も含めてみんながけちけち飲むようになった。そのことが気にくわないらしい。少なくとも、自分もそういう一人である事がいやだと言う事なのだろう。
 そんな私から、家庭での晩酌、ビヤホール、あるいは居酒屋などに見られる光景が、風刺を交えて描かれる。
 たとえば任意の箇所を取り上げてみようとするとこんな記述に当たる。少しでも店の親父に気に入られて、酒を多く飲もうと算段して、
 
さらに念入りな奴は、はいるなりすぐ、店のカウンタアの上に飾られてある植木鉢をいじくりはじめる。「いけないねえ、少し水をやったほうがいい。」とおやじに聞こえよがしに呟いて、自分で手洗いの水を両手で掬ってきてシャッシャと鉢にかける。身振りばかり大変で、鉢の木にかかる水はほんの二、三滴だ。ポケットから鋏を取り出して、チョンチョンと枝を剪って、枝ぶりをととのえる。出入りの植木屋かと思うとそうではない。意外にも銀行の重役だったりする。店のおやじの機嫌をとりたい為に、わざわざポケットに鋏を忍び込ませてやって来るのであろうが、苦心の甲斐もなく、やっぱりおやじに黙殺されている。
 
という具合である。
 これはちょっと、作った話であろう。大げさに、世相を揶揄している。他の、全ての場面が同様だ。
 太宰が語りかけるように書くこの手の小説を読むと、どこかしら講談や落語を聞いている時のような雰囲気を思い浮かべる。読みながらイメージが喚起されて、いかにもありそうな事のようにこちら側にイメージが出来上がる。
 これはしかし、今時の漫才ではないが、「そんな奴、おらへんやろー」と言う事になる。とはいえ、それがまるっきり架空の事とも思えない。
 ある、それに近い事実や事象があって、それを膨らませたり変形させたりして、おもしろおかしく仕立てる。太宰は、それが大変巧みな作家である。
 続きを引用すると、こう書かれている。
 
けれどもお客も、その黙殺にひるまず、何とかして一本でも多く飲ませてもらいたいと願う心のあまりに、ついには、自分が店のものでも何でも無いのに、店へ誰かはいって来ると、いちいち「いらっしゃあい」と叫び、また誰か店から出て行くと、必ず「どうもありがとう」とわめくのである。明らかに、錯乱、発狂の状態である。実にあわれなものである。おやじは、ひとり落ちつき、
「きょうは、鯛の塩焼きがあるよ。」と呟く。
 すかさず一青年は卓をたたいて、
「ありがたい!大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はないのである。高いだろうなあ、そいつは。おれは今迄、鯛の塩焼きなんて、たべた事がない。けれども、いまは大いに喜んだふりをしなければならぬ。つらいところだ、畜生め!「鯛の塩焼きと聞いちゃ、たまらねえや。」実際、たまらないのである。
 
 ここでは、こういう経験がないものにとっても、この一青年の心理の動かしかたには、いつかどこかで自分もこういう心理の動かしかたをした事があるという記憶が呼び覚まされる。そうして、「さもありなん」という思いを持ったり、ああこの作家は我々のこういう心理について実によく分かってくれているのだと感心する。いや、たぶん、感心するにちがいないと思う。太宰作品の、大きな魅力の一つは、これだと言っておきたい気がする。
 
 
 『黄村先生言行録』
 
 作品のはじめに、括弧書きで次のような事が書かれている。
 
(はじめに、黄村先生が山椒魚に凝って大損をしたお話をお知らせしましょう。逸事の多い人ですから、これからも時々、こうして紹介したいと思います。三つ、四つと紹介しているうちに、読者にも、黄村先生の人格の全貌が自然とおわかりになるだろうと思われますから、先生についての抽象的な解説は、いまは避けたいと思います。)
 
とまあ、この通りの事である。
 これだけの作品で、他には特にどうという事もない。あえて言えば、太宰は実生活が安定する時期に、深刻さを排するとこういう作品が多くなって、もしかすると文学的にはこうした作品こそが太宰の真骨頂かもしれないと思われてくる事だ。
 軽い。ユーモアがある。ほのかにおもしろおかしく読める。肩が凝らない。くすぐりがある。大衆的な読み物。この手の作品にはこういう特徴がある。
 人を喜ばせる作り話といったらいいだろうか。決してためになる話ではない。役に立つ事が書かれているのでもない。どちらかといえば暇をもてあます時に、ちょっと手にとって読み、面白いと、そういう気分にさせるためのお話作りなのだという気がする作品だ。作者の遊び心。そういうものが、読んで伝わってくる。
 
 昔話などには、どこかしら教訓めいたところがある。その教訓めいたところを除いて、昔の古い農家の炉端でおじいさんやおばあさんが嘘の物語をすれば、この種の作品に近いものになるのではないか。もちろん物語っているのは太宰で、彼自身がすでにおもしろがって、笑みをたたえながら話しているのだ。そういう光景が思い浮かんでくる。
 聞き手を喜ばせる。読者を喜ばせる。太宰には、根っこのところに、そういう東北の農民の素朴な人なつっこい人間性が原点にあって、そこに立脚した時にこの手の作品が書かれたのではないかという気が少しする。そして本当はここにこそ太宰の本当の姿があるのだと、考えたいところだ。しかし、ぼくをふくめ、多くの読者が太宰を強く印象するのは「人間失格」や「斜陽」の作者としての太宰である。そこに痛ましさを感じないではないが、それを考えるのはもう少し先のことになる。
 
 
 『花吹雪』
 
 この作品にも、前作と同様「黄村先生」が登場する。文中の言葉にならえば、「先生の花吹雪格闘事件」ということになる。
 作中の「私」が、黄村先生のお宅に伺うと、黄村先生は学生四人を前に話をしている。その話を「私」が懐から手帳を取り出して速記をはじめる。その全文がまず紹介される。そこには、骨子だけ取りだして言うと、男子たるもの武術に長けていなければならない、と、まあそんなことが語られている。肝が据わる、精神に確乎たる自信がつく、それが武術の鍛錬を薦める理由である。
 「私」は、黄村先生が言うように、文人であっても武術の錬磨が大いに必要であると感じる。そして黄村先生が話の中で言っていた「鴎外の喧嘩」について、鴎外の全集を片っ端から調べて、第三巻の「懇親会」という短篇にその折りの記述を発見する。さらに日記にも目を通して、その裏付けとなる記述を見いだすのである。その他、さまざまな歴史上の人物にあてはめて考えて、黄村先生の説の正しさを追認していくことになる。キリスト、釈迦、源氏の武将たち、漱石、宮本武蔵等々。
 もちろん作中の「私」は、酔っぱらった大学生に喧嘩を売られても、履いている高下駄がカタカタ鳴る程の、小心の、肝の据わらない男として描かれている。そうして、近所の道場の窓の下で、背伸びをしてその内部を覗いて羨ましいと熱く思いながら、かといって実際に道場に入門しようとするまでには至らないのである。
 そうこうするうちに、黄村先生からの手紙が届く。
 手紙によれば、黄村先生はあの話をした後に、実際に武芸に励もうとして弓術の道場を訪れることとなった。その一日の修行の後に、屋台にはいるところまではいいのだが、旧知のあまり親しくはない画家と出会い、彼の無礼な振る舞いに我慢がならず、喧嘩ということになってしまう。気持ちだけは武芸者になっているのだが、黄村先生の実力がともなわない。まず、入れ歯を外し、道路の片隅に丁寧においてから相手の顔をぱんぱんと三つほど殴るが、非力なるためか相手はあっけにとられるばかりの様子であった。
 相手が何もしてこないので黄村先生は外した入れ歯を取ろうと腕を伸ばすが、入れ歯は間断なく落下する桜の花の下に埋もれ、見えなくなってしまっている。そうして、終いには喧嘩の相手にも一緒に入れ歯を探してもらうという、まあ一種の滑稽話のような作品に仕上がっている。
 
 この作品も、読んでいて面白いなあと思う。同時に、書き方が上手だなあと思う。独りよがりの作品ではなく、読者への心づくし、その面白く読める工夫がよく錬られているという気がする。
 変なたとえだが、高価な素材を集めて豪華なラーメンをつくり、客に文句を言わせない今流行のラーメン屋とは違い、安価な素材ながらその素材を十分に生かして客好みの麺とスープを作って、安価でしかもおいしくラーメンを提供するラーメン屋さんだという気がする。ぼくには、後者のラーメン屋さんがいることのほうが、ありがたいように思えるのだが、どうだろうか。
 そうは言いながら、しかし、太宰を太宰たらしめたのは、こういう作品群ではないことも確かである。これらの作品は、面白いが、大きく取り上げられることのない、小品に過ぎない。読んですぐに忘れられる作品群の一つと言ってもいい。
 
 結局のところ、作品の評価とは何か、ぼくは今ふとそんなことを考えるのだが、それを考えたらきりがないし、今はその準備もない。とりあえずそんなことを思っていることを記してこれを終わる。
 
 
 『不審庵』
 
 これも黄村先生ものである。黄村先生が、今度は茶道に凝って、「私」と二人の学生を自宅に招く。茶席に招待しようということである。しかしこの企ては当然の如く失敗に終わり、さんざんな茶会となってしまった。これだけのものである。
 作品を見ると、はじめに茶道について概要を記している。これなどは、文献を調べ、そこから取り入れたものであろう。
 この時期の黄村先生ものには、このように文献を掘り起こし、これを作品に活用する方法がよく使われている。それだけ本を読んでいたということもできそうである。
 この時期はまた、太平洋戦争の初期でもある。太宰は、そういう時期に、戦争とは関係ない書物をよく読み、そこから題材やヒントを得て作品を構成したものでもあろうか。想像すれば、最も職業作家的な生活に没頭出来た時期という見方もできそうに思える。
 初期の作品群からすれば、「太宰も、駄目になったな」と見る向きもあったかも知れないが、この時期にこそ、本当の作家的修行があるような気が、ぼくにはする。
 作家は安定して作品を書き続けなければならない。書けない、書く動機がない、書きたいものがない、そういう時に、どう作品を書き続けるか。売文業に携わるかぎり、それは仕方のない業なのであろう。
 この作品は、決して成功しているとは思えない。しかし、そうだとしても、雑誌に載せる最低のレベルには到達しているように思える。そういう、技術が、身に付きはじめている。何とか作品として成り立つそういう書き方ができるようになった。つぼを押さえて書く。黄村先生ものは、そうした例の一つであるように思う。もちろん作家というものは、初期から継続して書き続けることによって、そうした書くことのコツといったものを、いくつか引き出しに蓄えておくものに違いない。これはしかし、そうそう使い続けることはできない。読者に、マンネリが見破られるからだ。そこでまた新しい書き方を探り、身につけ、そしてそれらの書き方をさらに複合していく。作家の成熟とはそのことに尽きるであろう。そんなことを、ぼくはここから感じとった次第である。
 
 
 『作家の手帖』
 
 七夕の話題から、牽牛と織女の話になり、男女の問題へと進み、さらに竹の飾りにかけられた子どもの素直な願いに作者の目がとまる。短冊には次のような文字が見えた。
 
 オ星サマ。日本ノ国ヲオ守リ下サイ。
 大君ニ、マコトササゲテ、ツカヘマス。
 
 そうして作者は、何度もこの文字を読み返して、すぐには立ち去りかねたというのである。
 戦争について太宰は、あまり多くを語っていない。けれども、戦争は日常生活のいろいろなところに影を落とし、たとえばここに掲げられた幼女の、七夕の願い事に戦争が取り上げられるほどに人々の身辺に迫り、太宰自身無関心ではいられなかったはずなのだと思う。かつて、共産主義の活動家として調べを受けたこともある太宰は、痛くもない腹を探られる煩わしさからか、政治的な発言にはいたく慎重であったのではないかと思う。ここでも、取り上げるのは純粋無垢の幼児の言葉であり、さらにまたその言葉に、自分の思いを上乗せしようとしているように見える。「日本の国をお守り下さい」の言葉は、それ以上でも以下でもない意味でありながら、どんなに過剰に思い入れを込めても、ついに解説し尽くせない「願い」の重たさを含んでいる。
 戦争について、これだけのことしか表現出来ないのかと、嘲笑しようとすればできないことはないのかも知れない。だが、ぼくもまた作者と同じくこの言葉から去りがたく、作者の気持ちになってしばしこの文字を読み返してみているのだ。大の大人であっても、幼女の言葉以上の言葉を紡ぎ出せない心情に捉えられる場合もあるのではないのかと考えながら。
 それにしても、この幼女の言葉は、現在の北朝鮮に住む幼女の言葉としてイメージすると、とてもしっくりするなあと思われる。そういう時代が、日本にも、あったのだと。
 さて、作品の後半は、民衆の一人になりたいという思いを生涯持ちつづけた太宰の、民衆の一人になり得た瞬間の体験のような出来事が紹介されている。それは工員のような職業人に煙草の火を求められて、それを貸すというたわいのない出来事である。たわいのない事ながら、作者には、ありがとうと返された時の挨拶に、独特の苦手意識があり、一人あれこれと思い迷う性癖がある。そこから、姿形は完全に民衆の一人でありながら、民衆から疎外されているような疎外感が生じている。しかし、ここではそれが杞憂に終わり、すっきりと挨拶を返し、気持ちのよいせいせいとした気分になることができたのであった。 それは何故かといえば、戦時であったからというのが、ぼくの考えてみたいことなのである。当たっているかどうかは分からない。当たっていないかも知れないが、当たっていなくてもどうでもいい。ただ、ぼくはそう考えたいのだ。外側に、大きな不安があって、自分の中の小さな不安はさしあたって無視することができる。太宰にとって、戦争というものは、その意味で民衆と自分の距離とを客観視させられることによって、その差を感じないで住む状態に近くなったということなのではないだろうか。大きな不安の前に、彼我が平等になったと考えるのである。この作品に描いた一つのことは、そういうことなのではないだろうか。
 最後に、近所の奥さんが井戸端で洗濯しながら同じ歌を繰り返して歌っている話が書かれている。それは「ワタシノ母サン、ヤサシイ母サン」という歌を聴いてのことだが、結局、その歌には意味が無く、ただ無心に洗濯を楽しんでいる結果として唄っているのだろうと主人公は合点する。
 これは戦争の真っ最中の出来事である。そういうさなかにあっても、人は洗濯をし、しかも体を動かすことが楽しくて仕方がないというように、意味のない歌を繰り返し唄いながら作業をするという日常は息づいているのだ。太宰は、「アメリカの女たちは、決してこんなに美しくのんきにしてはいないと思う。(中略)女が、戦争の勝敗の鍵を握っている、というのは言い過ぎであろうか。私は戦争の将来について楽観している。」と締めくくったが、先にゆとりを喪ったのは日本の女たちのほうであった。太宰は、アメリカという国を、知らなかったのかも知れない。
 
 ぼくはここで、戦時中でありながら、戦争に関係のない文学を生み続ける自分を肯定しようとしているのではないかという気がした。自分が、見方からすればのんきに「もののあわれ」や「恋愛」について書き続けられる間は、戦争の将来について楽観出来るのではないか、というように。生きる喜びといっては大げさだが、どこか、戦争のさなかにおいて、太宰は「生きるとは何か」に向かって正面から対峙し、精神の強力を発揮しようとし続けているように思われて仕方がない。テーマや題材は地味になっていく印象だが、この期に、見えないものを見る太宰の視線は、大変生き生きと活気を感じさせる視線になっているというのが、とりあえずここで言っておきたいぼくの一つの思いこみである。
 
 
 『鉄面皮』
 
 「鉄面皮」は中期の傑作といわれる「右大臣実朝」が完成する前に書かれた短篇で、作中に「右大臣実朝」の、その一部が紹介されている。作者によると、予告篇、広告などと自嘲めいて語られるが、この作品はこの作品として、どこかぼくには気にかかるところの作品である。
 だいぶ前から、何故実朝を太宰が書かねばならなかったかが分からなかった。何故、
実朝なのか。
 この「鉄面皮」を書くに当たっても、太宰は
 
私の生まれつきの性質の中には愚直なものもあるらしく、胸の思いが、どうしても「右大臣実朝」から離れることが出来ず、きれいに気分を転換させて別のことを書くなんて鮮やかな芸当はおぼつかなく、あれこれ考え迷った末に、やはりこのたびは「右大臣実朝」のことでも書くより他に仕方がない、いや、実朝というその人に就いては、例の三百枚くらいの見当で書くつもりなので、
 
などと作中に書き、その思い入れの程が想像される。
 
 くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。(傍点−佐藤)
 
 あの実朝、とは、どんな実朝像なのか。
 それは当然ながら「右大臣実朝」の中に、描かれる実朝ということなのであろう。ぼくは、その「右大臣実朝」を丁寧に読んで解き明かす前に、実はある想像をしていて、それはこの作品の「鉄面皮」という題名に由来している。
 実朝と鉄面皮。鉄面皮と実朝。そしてここで完成前の「右大臣実朝」の一部を引用する自分の鉄面皮振りをさらけ出す太宰。鉄面皮を介して、太宰と実朝とが、ぼくには近しいものに映ってきてしまうのだ。
 はっきり言ってしまえば、「生」の場面での喜怒哀楽の姿を放棄した、そういう精神の位相ということで、実朝と太宰の接点を考えようと、ぼくはしている。
 時代や状況が強いる「こうでしかいられない」という役割に、鉄面皮の貌でのぞむ。生活のいちいちにおいては小刻みに震える繊細な心の動きは動きとして持っているのに、その心自体を眺めるもう一つの心があって、その心は喜怒哀楽を喪ってただ己の心の動きを動きとして眺めているだけだ。悲しいという心があって、その心をもう一つの心が、「ああ、かなしいのだなあ」と追いかける。けれども、追いかける方の心には、すでに悲しさの実態は存在しない。実朝にも、太宰にも、そういう心の無表情が、時として立ち現れてくるように思われる。
 ここでは、この事を言えば、まずはいいのではないかと思っていた。
 ところで、もちろんぼくはここで、太宰は自分を実朝に擬していると言おうとしているのではない。どちらかといえば、太宰にとって実朝は理想として捉えられている。気高い無表情と孤高の姿。
 太宰は、実朝のようにはよく孤独に耐えられない自分を知っていた。そしてそういう自分を脱したいという気持ちと、この時期にそれなりの修練を重ねようとしたことは、作品の端々から想像されることでもある。「鉄面皮」にもまた、そういう思いの強さはよく滲んでいると思われる。さて、そろそろ「右大臣実朝」を読み始めよう。
 
 
 『右大臣実朝』
 
 この作品については、先の「鉄面皮」の中で
 
実朝の近習が、実朝の死とともに出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向だ。史実はおもに吾妻鏡に拠った。でたらめばかりを書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように案配したわけである(略)
 
と、太宰自身が書いている通りの作品である。
 そしてこの近習に見られた実朝は、おっとりとして、しかし聡明で、精神の度量が大きく、民のものたちへの配慮、身辺に使われるものたちへの思いやりも兼ね備え、また家臣たちとの関係にも反目などあり得ない関係を保ち、言ってみれば将軍として非の打ち所のない理想的な姿として描かれている。
 一読して、ぼくが感じたイメージは、「貴種」というものであり、それは制度上というよりも、天に選ばれた人種といった意味での「貴種」の人という実朝の印象であった。
 
 太宰が、その時期になぜ実朝を書かねばならなかったのかは、ぼくには本当はよく分からない。強いていえば、かつて滅亡の民を自認した太宰にとって、実朝もまた自身の生の向こうにある滅亡、すなわち死を予見しながら、よくその状況を生き抜いた、ひとつの理想の姿として彼の目に映じていたのかも知れない。
 兄頼家の失脚と暗殺から、実朝は自らもまた同じ運命を招きかねないことは十分に承知していたはずだ。関東武家層の頭としての存在の意義と、武家層からの支持とが失われた時、将軍といってもその身は簡単に切り捨てられる運命にある。実朝は、そうした自身の危うい身の上を十分に熟知していた。そして、なお知らぬ素振りで生き通さなければならなかったように見える。「鉄面皮」のように、表情が表れぬ顔を、終始作り続けねばならなかったのではないか。ぼくはそのように思い、太宰もまたその「鉄面皮」としての実朝を想い、それに憧れを抱いていたのではないかと想像した。
 
 しかし、先の「鉄面皮」の中に、次のような言葉がある。
 
何百年、何千年経っても不滅の名を歴史に残しているほどの人物は、私たちには容易に推量できないくらいに、けたはずれの神品に違いない。
 
歴史の大人物と作者との差を千里万里も引き離さなければいけないのではなかろうか、と私はかねがね思っていた
 
 これらから考えると、ぼくの想像とは違い、太宰ははじめから作品の中の実朝像を、俗的な自分からかけ離れた存在として描こうとしていたと理解できる。
 作品の中で実朝を語る近習は、もう一人の作者である。
 言ってみれば、歴史上の人物に対してそれくらいの距離を保たなければ歴史上の人物に接近できないのだというのが太宰の主張であり、歴史小説を書き始めるにあたっての太宰の自戒であったに違いない。
 作品の中の実朝は、だから私たちの心の動かしかたからは推し量ることのできない心の動かしかたをする人物として描かれている。
 
どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生まれつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し量ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、何という浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。
 
 作品の始めのほうで語られた、近習の実朝への思いである。「凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し量ってみたりするのは、とんでもない間違いのもと」。これが作品「右大臣実朝」を書くにあたっての、作家のとったスタンスであったに違いない。このスタンスを得て、作品を書き始めることができたと言い換えてもよい。
 
 太宰治は、この「右大臣実朝」をオーソドックスな手法で歴史小説に仕上げる努力を傾けていたように思える。主として吾妻鏡を素材として用い、背景や人物像に肉付けに関しては、現代的な解釈を排し、当時の近習の立場に立って近習の目に映じたあるがままの実朝の姿を描こうと苦心した。史実を、現代に引き寄せるのではなく、自分を逆に過去の歴史の方に開放して、その中に生きさせてみる、そういう方法をとったと言ってみてよい。そういう方法がうまくいっているのかどうか、作品として価値があるのかどうか、ぼくにはよく分からない。
 ぼく自身の中では、この作品はよくできていると思いながら、しかしそれほどのインパクトは覚えない。長編を書きつづる作家の集中力と持続力とが、何処に起因するのか見えてこない。何が太宰をしてこの作品を完成させることに夢中にならせたのかが、何度読み返しても分からないのだ。ただ、自分にもこうしたある意味では本格的な歴史小説がかけるのだと言うことを示したかっただけのようにも思えた。もちろん、随所に太宰らしさを感じることはできる。たとえば有名な、
 
平家ハ、アカルイ。
 
アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハまだ滅亡セヌ。
 
というような言葉の中に。
 また、若き公暁に、実朝をして
 
学問ハオ好キデスカ
無理カモ知レマセンヌガ
ソレダケガ生キル道デス
 
と言わせるところや、あるいはまたその公暁と近習とが浜辺で語らう場面にほんの少し太宰の顔が覗いて見える気がする。
 しかし、全体的にはやはり自分という者を極力押し殺し、露出しないようにしないようにと努力しながら書き上げていったという印象を持つ。それでいて、たぶん実際とはかなり異なる実朝や他の人物像ができてしまったに違いない。それがまた、太宰的であり、他の人には書けない作品のできあがりを見せたといってよい。
 
 吉本隆明は、自著「源実朝」の中で、
 
太宰の「右大臣実朝」は、ひとくちにいえば太宰の中期における理想の人物像を実朝に托したものといっていい。「駈け込み訴へ」にはっきりと描かれているように、太宰の中期の理想像はキリスト・イエスであった。聡明で、なにもかも心得ていながら口にださず、おっとりかまえているといった人物像は安定期の太宰のあこがれた理想像であった。こういう人物は現実では敗北するのだが、その敗北はよく心得た敗北であり、もし人間性に底知れない深い淵のようなものがあるとすれば、真にそれを洞察できる人物は、こういう敗北を、あるいは敗北と感じないかもしれない。そこにいわば太宰治の人間に対する祈願のようなものがあるといってよかった。実朝がじっさいにそういう人物であったかどうかはべつとして、北条氏執権の陰謀のうえにのりながら、暗殺まで耐えて、けっしてぼろをださなかった「吾妻鏡」の実朝から、太宰はそういう実朝像をこしらえあげたのである。もちろん太宰治の実朝像は、「吾妻鏡」からうかがえる実朝像を極度に拡大してみせたものであった。だから実朝と北条氏時政あるいは義時とはじっさいは反目などはなく、よく心得て了解しあったものどうしの主従であった、というところまで解釈を拡げてみせなければならなかった。陰険な策謀のできる北条氏にたいして、いささかでも冷たい暗黙の反感をしめす実朝を描くとすれば、おそらく実朝の実像にはちかくなったかもしれないが、太宰治の理想の人物像にはかなわなかったのである。心得てだまされながら悠然としていられる人物、裏切られても悄げかえらないで、平気で滅亡できる人物が、太宰のひそかに願いつづけた自我像であったといってよい。
 
と述べている。
 
 太宰治は戦争時に、反対も賛成もはっきりとは表明しなかったように思える。しかし、その戦争のただ中にあって、大いなる不安に対峙していたことだけは確かであると思える。この、不安との対峙は、太宰から言葉を失わせるものであった。少なくとも軽々に非難したり賛同できるというようには太宰には受け取られない性質のものであった。戦争という現実が、すでにそこにあり、それは個人の意志を超えて、目の前に展開している。
 この時、太宰には実朝の置かれた立場が、そして実朝が自分の置かれた場所をどのように生きようとして、生きたか、そのことが理解できるように思われたのではないだろうか。
 
 太宰の描いた実朝を読むと、ぼくには実朝のその生涯が「緩慢なる自殺」ならぬ「緩慢なる自死」の姿として映る。太宰の実朝は、別に、公暁の暗殺行為まで予見できていたわけではなかったろうが、自身に幸福な死が訪れようなどとは努々思えない境涯にあったという他はない。つまり、暗い死を予感しながら、自分の強いられた現世での役割を、よく全うしたように思える。そう太宰は描いているといってもよい。
 そして、太宰の「右大臣実朝」には、決定的な何かが不足している。全編を通して読み、読後の印象には、時に暴力的なまでの生への執着がない。いや、違う。生きるということが、楽しく、また時に美しいものだという、いわば生を肯定する響きが、ない。
 はじめから実朝という人物には、背後から死の影が覆い、実朝が歌会や宴などの楽しげな催しをしてもその影を払拭できない印象として残る。
 これは、太宰の資質の投影だと見なしてもよいのかもしれない。
 ぼくには、太宰はこの作品で「緩慢なる自死」のあり方を見つけ出そうとしたように思われてならない。
 ぼくの印象では、太宰という作家は到底この社会に生きられる資質の人ではなかった。少なくとも彼のこれまでの作品は、彼がどう生きようかと社会に立ち向かい、その度に社会の側からこっぴどくはねつけられて、傷をさらに深くして自分に立ち返るという、そういう繰り返しを描いてきたようにさえ思える。
 この作品で太宰は、前向きな生き方をむろん構想したわけでもないが、かといって積極的な「自死」や「自殺」ではなく、その彼岸にある「自死」のあり方を構想したように思える。それは、自らの「自殺願望」を抑えるためのものだ。ぼくには、そう、思える。それは「緩慢なる自死」のあり方を「発見」したといってもいいのではないか。
 生きられぬ資質。だが、自殺は肯定したくない。それならばどう生きてみせればよいのか。「吾妻鏡」の実朝の中に、太宰はその在り方を探り、あるいは実朝の中にその姿を託した。この、「緩慢なる自死」の発見と企てによって、この期の太宰ははじめて「生き延びる術」、「延命の術」をかろうじて見いだせたといってよいかもしれない。これは太宰の、社会に自分の居場所を自力で獲得しようとして、はじめて見つけ出せた納得のできる「生きる姿」であった。作中の実朝が、公暁による暗殺にまでその生涯を耐えたように、太宰は、「滅亡の時」までを耐えなければならない。
 この、太宰の社会との折り合いの付け方は、ぼくには悲しい。太宰が、「生」の側に比重をおいて考えた時に、やっと成り立ち得たのが「緩慢なる自死」のあり方である。緩やかに死に向かって延命する。それは、生きる姿では、ない。ぼくはそう思う。けれども、今この時の死の願望を拒絶し、放棄するならば、太宰にとってそれ以外の道はなかったように見える。太宰にとって、生きるとは何か、とは、ここでは、死なないという思想である。自分に死を運ぶものに、死を運ばしめよ、という声でもある。どのように生きるかは、あまり重要なことではない。なんとなれば、このように生きたいと願ってそれがかなうほど現実は甘くないことを嫌というほど熟知しているからだ。どちらかといえば、太宰は、こうしてはいけない、ああしてはいけないというように、「〜してはいけない」と考える側のタイプである。あれも駄目、これも駄目、ならばこうするほかにない。それが太宰の生涯であったと言い切ってもよい。
 太宰はこの時、自分の狂気を生き延びさせる道、言い換えれば資質が生き延びる道を考えていたと思う。それは、この作品に表れたように、おっとりと、だが内実は全身全霊で「生に耐える」道であった。言い換えれば、自殺の放棄である。
 数年後、太宰は心中という形であっけなくこの世を去った。そういう死を、この時想定していたかいなかったかは、まだぼくにはよく分からない。