『新釈諸国噺』
 
 井原西鶴について辞書を見ると、
 
(1642-1693) 江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者・俳人。大坂の人。本名は平山藤五。別号、鶴永・二万翁など。談林俳諧で、自由奔放な句を詠みオランダ西鶴といわれ、また、一昼夜独吟二万三千句を詠み、矢数俳諧に終止符を打った。西山宗因没後、もっぱら浮世草子作者として雅俗折衷の文体で性欲・物欲・義理・人情などをテーマに好色物・武家物・町人物などに多くの傑作を残した。著「西鶴大矢数」「好色一代男」「好色五人女」「武家義理物語」「日本永代蔵」「世間胸算用」「本朝二十不孝」「西鶴置土産」など。
 
と書かれていた。
 太宰はこの西鶴が好きでよく読んだものらしい。凡例に、「西鶴は、世界で一ばん偉い作家である」という言葉さえ見えている。
 この『新釈諸国噺』は、「西鶴の全著作の中から、私(太宰−佐藤註)の気にいりの小品を二十篇ほど選んで、それにまつわる私の空想を自由に書き綴」ることを計画してできたものであるという。凡例の末文のあたりには、「この際、読者に日本の作家精神の伝統とでもいうべきものを、はっきり知っていただく事は、かなり重要なことのように思われて、私はこれを警戒警報の日にも書きつづけた」とある。
 目次には実際に書き上げ得た12編の題名と出所や西鶴が書いた年代、物語の舞台となった地方の名が記されている。
 ぼくは原作である西鶴の文章を読んだことがない。あるいは学生時代にテキストとして目を通すことがあったかもしれないが、内容についての記憶がない。だから原作との違いなど考えようがない。
 太宰は「日本の作家精神の伝統」というものを意識してこれらの作品を書き上げている。つまり、西鶴の神髄といったものに迫りうる自負を抱いていたことになると思う。比べようがないから何処まで迫り得ているかを言うことはできないが、では、太宰がその伝統をどのように見いだしているかは、作品から窺うことは出来るはずである。
 そう思って12編の作品を眺めると、どうにも登場人物たちの振る舞いが、「愚かしくやがて悲しき」といった趣を持った印象が強く残るのである。喜劇になりそうで喜劇ではなく、悲劇になりそうでまた悲劇にはならない。そういった一種独特の余韻がどの作品にも漂う。
 武士社会、町人社会の人間模様が生き生きと描かれているように感じ、そこに生きる人々の人間性や倫理、道徳、そういうものが渾然一体となって、読後、物語の舞台となった舞台空間そのもの、あるいは登場人物たちが妙に懐かしく、且つ愛おしく感じられてくる。それは作家がそこに目をとめて、それを表現しようとしたからに他ならない。太宰は西鶴の作品にそうした西鶴の視点を感じとり、そこに西鶴の人間愛というものを見た。
 そういう人間愛の視点が西鶴にあり、太宰にもあり、太宰はそれを「日本の作家精神の伝統」と呼んだのではあるまいか。もちろんそれを見る西鶴の目は、ぬるま湯のような暖かさだけに満ちているのではあるまい。かえって冷徹であるかもしれず、冷徹ゆえに見えてくる愛というものもあるにちがいない。言葉にはならぬ。ただそれを見ることのできた作家が、それを見たことで筆を執って紙に書き写したまでのことだ。
 大変根拠のない言い方ではあるが、ぼくはそのように思った。
 
 12編の中で、ぼくには最後におかれている「吉野山」という作品が一ばん親しみやすく感じられた。いかにもぼく好みの太宰の作品と感じられるところがあるからだ。
 この作品は、出家して山深い庵に居をかまえた僧が、かつての友人に宛てた手紙という形で書かれたものである。一言でいってみれば、この男は俗を厭いながら、無意識には人一倍俗にまみれた人物として描かれている。
 この作品の面白さは、一部を特定して伝えることはむずかしいが、あえて言えばぼくは次のような箇所などに面白さと太宰の天才を感じる。
 
まことに山中のひとり暮らしは、不自由とも何とも話にならぬもので、ご飯の煮たきは気持ちもまぎれて、まだ我慢もできますが、下着の破れを大あぐら掻いて繕い、また井戸端にしゃがんでふんどしの洗濯などは、ご不浄の始末以上にもの悲しく、殊勝らしくお経をあげてみても、このお経というものも、聞いている人がいないとさっぱり張り合いの無いもので、すぐ馬鹿らしくなって、ひとりで噴き出したりして、やめてしまいます。
 
 出家といえば俗世間が嫌になって、仏道に入り、山深くに精進潔白、餓死をも厭わない大変神聖な道を歩むものと、一般的には流布されているように思う。
 見る人が見ればカンカンになって怒りそうなことを、太宰は平気で書いている。十七、八のころのぼくは、「ああ、こういう見方、とらえ方があるのか」と驚嘆したことを覚えている。この作家のものの見方は、ものの見事に世間の見方に逆転していると思った。こういう逆転した見方をする作家は、後にも先にも太宰を超える作家はいないと思う。
 作品はこの後にも、季節が過酷で都の歌人が読んだような優雅な趣はなく、雪の季節はただ寒いばかりで、歌人たちに嘘つきめと腹を立てたり、里人が諸行無常を観じて世を捨てた自分に米みそを法外な値段で売りつけること、野菜作りのために尻っぱしょりで肥びしゃくを振り回さなければならないこと、等々、出家した法師に愚痴っぽく語らせている。 手紙の主は、出家などするのではなかったとほとほと後悔し、親が迎えにきて連れて帰ってくれないだろうかとさえ願うようになっている。これほど出家者を徹底的に道化にこき下ろして描いた作品も他にはあるまいと思えるほどである。
 
私は、もうここの里人から、すっかり馬鹿にされて、どしどしお金を捲き上げられ、犬の毛皮を熊の毛皮だと言って買わされたり、また先日は、すりばちをさかさにして持ってきて、これは富士山の置き物で、御出家の床の間にふさわしい、安くします、と言い、あまりに人をなめた仕打ち故、私はくやし涙にむせかえりました。
 
続いて、
 
それにつけても、お金が欲しく、そろそろ富籤の当り番号がわかった頃だと思いますが、私のは、たしか、イの六百八十九番だった筈です。当っているでしょうか。あの富籤を、京の家の私の寝間、床柱の根もとの節穴に隠して置きましたが、お願いですから、親父に用ありげな顔をして私の家へ行き、寝間に忍び込んで床柱の根もとの節穴に指を突き込み、富籤を捜し出して、当っているかどうか、調べてみて下さい。当たっているといいんですけれどもね。たぶん当たっていないかと思いますが、でも、とにかく、念のために調べてみて下さいまし。
 
というくだりには、思わず声に出して笑ってしまったという記憶がぼくにはある。
 浮世を厭うどころではない。出家してかえって浮世への執着、俗まみれの性格が露見してしまっている。こういう戯画化の手腕はぼくには天才的に感じられたものだった。
 出家者がみなこういう有様であったわけではあるまい。それどころか、ここに描かれたような出家者は架空の創作であり、逆にあり得ないと言ってもいいだろう。けれども、現実の出家者たちの境遇の、一面を確かに突いている部分はあるのではないだろうかと感じさせられるところがある。ちょうど美化する表現とは対極にあるこういう表現を、太宰は時折垣間見せる。
 西鶴の原作に、こういう戯画的な部分が含まれていたのかどうかは疑問だ。あったとしても、おそらくは太宰がそれを極限にまで拡げてみせて、もはや原作の視線を突き抜けてしまっているにちがいない。
 出家を志しながら出家者になりきれない、俗の部分が透けて見えるこういう人物を、太宰は否定するのではなく、かえって愛すべき人間のように、堂々と公表しているようにぼくには思われる。人間の、こういうもろい部分を、隠すべきではない。
 「かくめい」と題するエッセイで、太宰は、
 
じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などどおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
 
と言いきっているが、ここには通常こころの奥底にしまい込んで表に出さないという暗黙の共通理解、それに対する果敢で挑戦的な姿勢が貫かれている。その骨太で愚直なまでの洗いざらいをさらけ出す筆致こそ、太宰が「日本の作家精神の伝統」と呼ぶ内実であるともに、太宰の詩心そのものでもあったとぼくは思う。
 
 
 『津軽』
 
 8巻に収められている作品は、先の『新釈諸国噺』とこの『津軽』の2編である。全く趣の異なる2編である。しかし、読んで、作家の充実ということを感じさせられるという点では共通している。文章にほころびが無く、また作品におけるトーンというべきものに、不安なアップダウンが無く、作家の精神が安定した平常心を保ち、書き始めから書き終わるまでその安定を保っている。そう印象された。
『津軽』には殊に、作家の太く熱い思いが、あるいは並々ならぬ意気込みが反映して、文章にもよい緊迫感をもたらしている。太宰作品の中でも、代表作の一つとして数えられていいのではないかと思う。
 年譜を見ると昭和十九年、太宰三十六歳の時の作品とある。
 この作品は出版者の依頼により、故郷津軽を旅行し、金木の生家、旧友、知人、そして育ての親ともいうべき幼時の女中たけを歴訪し、思い、感じたことを文章に表している。また、所々に、太宰のかつての作品の中で、自分の幼少年時の思い出を綴った文章が引用され、あるいは青森の歴史、地勢について述べられた先人の文章が取り上げられ、各所に埋め込まれている。
 この作品を語るのに、解説の亀井勝一郎の文章はよくこれを代弁してくれるもののように思われるので、ここに引用してみたいと思う。
 
「津軽」は言うまでもなく太宰の故郷の風土記であり、またすぐれた自叙伝でもある。彼の故郷や家への心づかいは、すでに幾多の短篇でみてきたが、この作品はあらためて自分の故郷の全体、言わば津軽のいのちを抱き込もうとするような意力と、同時に何とも言えない愛情にみちた作品である。太宰文学全体を通して、もし代表作一篇だけをあげるとするなら、私は「津軽」を推したい。太宰文学を説く最大の鍵であるとともに、彼の最も深い意味での自叙伝と言っていいだろう。
 津軽の歴史、風土、気質、風習など、彼なりに詳しくしらべて描いていて、その点もむろん興味ふかいが、ここに登場する「忘れえぬ人々」の姿はとくにあざやかである。しかも「忘れえぬ人々」とは、彼の幼少の頃の乳母をはじめ、そのほとんどすべてが彼の家に仕えた人々だ。そこに太宰は自分の人間形成の素地を感じている。
(中略)
 この作品上のクライマックスともいうべきところは、「西海岸」のなかで、幼少の頃世話になった乳母のたけを訪ねてゆくところであろう。忘れえぬ人々の中でも、最も忘れえないのは乳母であった。自分の一生は、この人によって確定されたと言ってもいいかもしれないとさえ述べている。
 運動会場で、三十年ぶりで出会って、その傍に坐って無心に運動会を眺めながら、「私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。」と語っている。彼の幼い心に、消えない痕跡を残した人であり、同時に生みの母の与えなかったふしぎな安堵感を与えてくれたのはこの乳母だ。太宰は自分の生命のみなもと、何か永遠の母性とでも呼びたいような気持ちでこの再会を描いている。
 
 またこの作品で注目すべき点は、津軽人の性格の見事な描写であろう。無骨で、一見荒っぽくみえるが、その反面には、行きとどいた繊細は神経がある。繊細であるために却って愛の表現において拙い。愛情の表し方が無器用なのだ。太宰が心から愛したのは津軽人のそういう性格であり、またそこに自画像を求めたと言ってもよかろう。たとえば「蟹田」のなかに出てくるSさんのサーヴィスぶりなどがその典型である。珍しい客をもてなすときの、疾風怒濤のような行動、それは気もてんとうせんばかりの愛情の表現なのだ。狼狽せずには愛の表現は出来ないのだ。しかもあとで、自分でそのことをはずかしがるといった内気な神経の持主である。
 要するに「津軽」のなかで、太宰は忘れえぬ人々の姿を通して、自分の出生と成育の根源、いのちの根源をつきとめようとしているかのようだ。しかし、自虐的な筆致はここにはない。故郷のすべてに、なつかしさと愛情をささげ、忘れえぬ土地と人々の全部をそのまま抱擁しているような作品である。彼の生涯のなかで、もし、「幸福」がありえたとするなら、「津軽」を描いた瞬間ではなかったろうか。長い苦渋の旅の涯にふと訪れた光のようにまどかな作品である。
 
「津軽」を語るのに、だいたいこんなところで過不足無いとぼくは思う。
 
 あらためてこの作品を読んで、意外に思ったことがいくつかある。まあ、一度は読んでいるのに見過ごしているところがたくさんあったのだなあ、ということである。
 一つあげてみると、田んぼの仕事の話があって、太宰は子どもの頃にはほとんど馬が使われていたように記憶しているのに、今回の旅を通してずいぶんこの仕事が牛に取って代わられていることを発見し、昔は牛を使役することはほとんどなかったのに、と感じている、そういうところだ。話し相手は、「そうでしょう。馬はめっきり少なくなりました。たいてい、出征したのです。(以下略)」という。
 あっと思った。ぼくは戦後生まれであるが、田んぼの仕事に馬や牛が使われているところをよく見て育った。といっても、牛馬の仕事はまたたく間に機械に取って代わられていった。耕耘機といったものが、出始めた頃である。
 ぼくの印象では、牛馬がまだ使われていた頃、馬を使っていたのはやや広く田んぼを所有していた富裕の層で、牛は、あまり金持ちではない農家が使っていたように、これまで思っていた。そして、当時、馬は買えば高く、牛は安かったのだろうと考えていたのだ。そういうこともあったろうが、戦時に出征で、国内の馬が少なくなったということはもちろんあったのだろうなと考え直した。まさか戦地に牛がかり出されたことはないだろう。あるのかな?いや、たぶん、無いだろう。
 戦争のために、どの程度馬が減ったのかはわからない。ただ、農家から馬が消えていったことについては農作業の機械化によるばかりではない理由も考えてみなければならないと思った。まあしかし、ぼくがこんなことを思ったところでたいした意味はない。
 もう一つ、えっ、と思う箇所を次に引用してみる。これはあまりページを探さなくてもすぐに指摘できる。太宰が生家にあって、
 
 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変わっていない感じであった。こうして、古い家をそのまま保持している兄の努力も並たいていではなかろうと察した。池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかった。どこがいいのか、さっぱり見当もつかなかった。(中略)どぶうん、なんて説明するから、わからなくなってしまうのだ。余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしている。謂はば破格の着想である。月も雪も花もない。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。
 
 太宰のこの解釈が当たっているのか、あるいは太宰本人の発明なのかはよくわからない。しかし、ぼくは、今回これを読んでみて、へえーっ、こんなことも書いていたんだと思うとともに、太宰のこの解釈に共感を覚えた。
 実はぼくも有名なこの句の理解が出来ないでいた。あまりに有名なので、句としてはよい句なのだろうけれど、なぜ評価されるのか本当のところはよくわからないでいた。ただ人がそう評価するので、そう思う程度であった。
 けれども、太宰がこういう読み時をしていて、これを詠むとなるほどと合点がいったのだ。崇高なものが何もない。深閑とした静けさとか、余韻とか、鼻持ちならない芸術的な一切の固定観念を排除して改めてこの句を見ると、なるほど、解釈の広がりと深まりは全くの別の句のように成り立つと思えた。
 
「津軽」の作品としての完成度の高さには、しかしどこかしら危惧を感じさせるところがある。それは昭和十九年という敗戦間近の時期ということがあり、どうしてこの時期にこそ太宰文学の充実が感じられるのかという点。ここに不思議さと、ぼくらには周知のその後の太宰の自殺へと向かった軌跡の、これは始まりにすぎないのではないのかという危惧を覚えるのだ。
「津軽」本編の冒頭に、芥川をはじめとする夭折の文学者の名前があげられている。また、文末には、「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」と結ばれてある。
 要は、みんなが元気を無くしそうなところでの、太宰のこの「元気」は何かということだ。「絶望するな」とは、明らかに敗戦の色濃い状況の中でいわれている言葉である。「死」とか「敗戦」とか、「マイナス」を前にしたときの、太宰の精神のこの種の高揚はなぜなのか。とても健康的で、力強く、生き生きとしてみえる。この謎は謎としたまま、今は先の巻へと読み進むこととする。
 
 こう書いて、つまり「津軽」を終えて離れようと思ったわけだが、次の巻を読み進めながらまだ触れておかなければならない箇所があるような気がしてきた。
 それは、幼少の時の太宰を子守した「たけ」との再会を記述した箇所だ。あまりにも有名な件で、あえて取り上げるまでもないようにも思われるが、全く触れないで済ますわけにもいかない。そんな気になってきた。すなわち運動会場で「たけ」に出会い、その傍らに坐って、
 
足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちのことをいうのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんなありがたい母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。
 
 太宰のこの述懐から、亀井勝一郎の解説以上の何かを付け加えることが出来ると思っているのではない。ただ、「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。」という言葉に、ある引っかかりを覚えたと言うだけのことだ。
 甘い放心の憩い?いつか、どこかで、味わったような気がする。それはしかし、本当にあったものだったのかどうか、無意識の中でぼくは自分の過去にそれを訪ねるかのようである。あったにちがいない。かすかに、ぼくの中にも親孝行の情は漂っている。けれども、ぼくの生き方は、この親孝行の情を裏切ってばかり過ぎてきたようにおもえる。肉体を痛めつけ、精神を虐め、人一倍怠けることも自分に許してきた。
 自然の情が自然の情として少しも発揮されて来てはいない。
 現代を見渡して、さて誰がこの自然の情のままに振る舞うことが許され、あるいは自分に許すことが出来ていると言えるのか。
 母たちは、この「甘い放心の憩い」を与えることが出来ているのだろうか。子たちはこの「甘い放心の憩い」をしっかりと感受し、受け止めることが出来ているのであろうか。自然の情を自然の情として、その発露を、誇りを持って、言動に表せる人はあるだろうか。 倫理とは、「こうしなければならない」という一つの思い計りだ。自然の情は、この「思い計り」の外側に存する、「思い計り」を超越した根源の心に由来する。これがしかし、行き場を失い、一人ひとりの人間の中で、永遠に彷徨い続けている。「こうしなければならない」、「ああしなければならない」の影に隠れ、いつしかその存在さえ見失われている。いや、それは「私」という存在にとって、邪魔者であるとさえ、感じられるようになってきているのではないか。
「甘い放心の憩い」という記憶。それを思い出し、次にそれを受け継ぐ、それを施すということが、もっともっと大切に考えられなければならないのではないか。
 現代の社会に欠けているものは何か。それは、この「甘い放心の憩い」の記憶であろう。これがなければどんな立派な教育を施しても、人間社会がよくなるわけはあるまい。
 ぼくは引用箇所を読んで、太宰が、「きみには愛が与えられているではないか。迷わずにまっすぐに行け」と、そう言っているようにおもえる。そしてまた、太宰自身、自分の中にそれを再発見し、大いなる勇気を得たのだと思う。後は努力を傾け、まっすぐに生ききるだけだ。そういう、岐路にあたっての愛の記憶の果たす役割は大きいと言うべきである。少なくとも、人の道を大きく外れる逸脱を、「甘い放心の憩い」は赦さないのだ。こういうことを一言、ここで言い置いておきたかった。これで、次へと進むことが出来る。
 
 
 『佳日』
 
 第9巻に収められた最初の作品である。読んでみると、ぼくがこんな粗筋だったと思いこんでいたものとは全く別作品だった。あるいは、以前には読んでいなかったかもしれない。
 友人の結婚の話である。行きがかり上、主人公の「私」が、その中国で仕事する友人の結婚を取りまとめるために奔走することになる。物語はどういうこともなく、ひととおり無難に事が運んで、やがてめでたく結婚式当日となる。
 友人のお相手の娘さんには二人の姉がいて、一番上の姉の婿は戦死、次女の婿は出征ということで、当時の世相を反映している。
 この二人の姉が、どう言えばいいのだろうか、銃後の女性のあり方の典型として、幾分理想的に描かれている。冒頭に、
 
 これは、いま、大日本帝国の自存防衛のため、内地から遠く離れて、お働きになっている人たちに対して、お留守の事は全くご安心下さい、という朗報にもなりはせぬかと思って、愚かな作者が、どもりながら物語るささやかな一挿話である。
 
とあるように、戦争、そして出征した兵士を意識した作品である。
 純粋な芸術作品ではないが、純粋な宣伝広報の道具ともなってはいないと思う。作家として食いつないでいくための妥協点、それがこの作品にも籠められているという気が、しないでもない。
 ここで、島尾敏雄の次のような文章が思い出されてくる。
 
 すでに戦争の季節がはじまっていた。かげりが深くなるにつれ、彼(太宰治のこと−佐藤註)のどんな断片的な文章をも私は探して、恐れと期待の複雑な気持ちを交えながら、よんだ。しかし昭和十六年の十二月八日のあとは、私は戦争にひっぱりこまれた。海軍にはいった。旅順の町で、まるでパンフレットのようにうすくなってしまった「改造」を買い、彼の「佳日」をよんだ。私には何も見えなかった。
 戦争が終わったとき、私は彼の文章を挑みかかるように待ち構えてよんだ。そして次第によまなくなった。彼はやがて広い場所で身振りの大きな仕事をするようになり、そして死んだ。
 
 これを読むかぎり、島尾は太宰の作品に何かを期待し、そして「佳日」という作品はそれを裏切るものとして見えた事がいえると思う。
 島尾は何を期待していたのか。
 太宰は出征した兵士たちへの朗報を、という思いを持ちながら書き上げているのに、兵士となった島尾には伝わってくるものが何一つなかったというのだ。
 敗戦間近ということと、軍部の検閲ということと、いずれ作家には内外に厳しい制約が感じられていたものかもしれない。
 読者は、本当はこういう時にこそ、心の支えとなり指針となる言葉に接したいと望むものだと思う。その意味では、そういう思いに立ってこの作品を読むとき、ぼくもまたこの作品には「何も見えなかった」。変に明るく、変に楽観的に取り繕うような、そういう作為性ばかりが感じられる。それはしかし、言いたい事が言えなかった庶民の暮らしの中の言葉の質、そのものであったかもしれない。作家は、その場所に降りて、物言おうと覚悟していたのかもしれない。
 
 
 『散華』
 
 散華とは戦死を美化していう語、と辞書にある。この作品の冒頭には、
 
 玉砕という題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華と改めた。
 
とあり、それはそのままアッツ島に玉砕した友人についてふれて書かれた作品の中身を告げている。
 ただ、内容は戦争そのものを扱っているわけではない。詩人でありながら一兵士となってアッツ島に玉砕した友人の、太宰に宛てた手紙、それに太宰が感動し、紹介しているといった作品だ。
 
御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。
 
 これが友人が太宰に送った便りだということになっている。
「私」、すなわち太宰は、「大いなる文学のために、死んで下さい」という一言が、「ありがたく、うれしくて、たまらなかった」ようだ。
 文学のために死ぬ。太宰は、戦争のために死ぬ、兵士と、明らかに連帯する意識の中で、文学のために死ぬ覚悟を、語っているのだと思う。太宰治という作家は、よかれ悪しかれ、そういう作家であった。
 太宰は、友人の先の便りに、真の詩心を感じとっていた。
 他人に、それこそまっすぐに、「死んで下さい」と言葉にしていうことは、なかなかにできることではない。できないことを言葉にしたのだから、これは詩であろう。表現された言葉としての詩の問題ではなく、それを表現した詩心というものにより心を動かされたにちがいないと、ぼくは理解している。
「死んで下さい」という言葉の重さに近い、重い言葉を、ぼくはかつてドストエフスキーの小説を読んで感じたことがあった。
 それはよく記憶していないが、ある明らかに不幸であると見える人々を前にし、「ああ、早く私の前から去って下さい。私の幸福を許して下さい」と語る、そんな印象で覚えている。
 太宰とドスト氏の言葉のベクトルの向きは正反対なのかもしれない。しかしぼくには同じくらいに重い言葉として感じられる。そしてもしかすると、見かけの向きは正反対でも、本当は同じ方向を向いた言葉かもしれないという気もしている。
 友人は、「幸福権の使用」とでもいうべきものを、太宰に向かって、最大限に行使せよと言っているようにも聞こえる。太宰はそれに応えて、「そうします」と言っている。
 太宰が、戦時にあって突き詰めたことは、こういう事であった、とぼくは思う。
 すこぶる曖昧なままではあるが、今はこれ以上、語ることができない。次の作品に進もうと思う。
 
 
 『雪の夜の話』
 
 作品にはある夫婦と、その夫の妹とが登場する。妹が、ある日の出来事を友人か知人に語りかけるという調子で物語が進む。雪が降った夜のことだ。
 妹はその美しい夜の雪景色を目の底に写しておいて、それを妊娠している義姉に見せ、胎教に役立てようとする。その時、兄は、東京のちゃちな雪景色で騒ぐくらいなら、二十年も山形に住んで雪景色を見てきた自分の目を見た方がよっぽどましじゃないかという。嫂は、夫の目は確かにきれいな景色をたくさん見たかもしれないが、汚いものもたくさん見てきた目だから、胎教にはどうかと疑義を挟む。
 まあ、簡単にいうとそれだけの、太宰にしては珍しくメルヘンチックをよそおった作品である。どうということもない作品だといえば、言える。
 ふと、自分にも、美しい景色を見てきた経歴はあるのだと思った。それは写真のようには取り出してしめすことはできないのだけれども、脳のどこか奥深くに記憶され、ため込まれているのかもしれない。時々に、感動の付箋紙も貼り付いているはずだ。
 それを通常は忘れている。そればかりか、悪い景色や思い出ばかりが意識の波間に浮かんだり沈んだりを繰り返しているような気がする。どうしてなのだろうと思う。そう思うと、やおら自分の見てきた多くの美しいものたちを、みんなにしめしたいという気持ちに駆られる。
 ほらこんなに美しいものがあるじゃないか。君たちだって見てきているだろう。世界は、そんなに悲観しなければならないものばかりではないんだよ。そう、言ってみたくなる。 ああ、本当に、人間ってどうして悪いことばかりを多く思い出したり考えたり注意を向けてみたりしてしまうものなのだろう。生命の、性、かな。用心。危険回避の本能。
 ぼくたちは幸福の感受を、もしかしてゴミ入れに捨てるように捨てているのかもしれない。もっと大切にしよう。少なくとも、不幸と幸福の感受が釣り合う程度には。
 この作品を読んで、そんなことを考えた。
 
 
 『東京だより』
 
 作家は仕事の関係から、とある工場を2,3度訪問する。その工場の事務所には、十人ばかりの少女たちが勤めていた。
 少女たちは、戦時ということもあり、同じような顔つきと服装と雰囲気とで、ともかくお国のためというように仕事に精を出して励んでいる。
 映画や当時のドキュメント映像、また直近では北朝鮮の女子応援団の映像などにうかがわれる、ああいう感じだと思えばいいだろうか。
 「私」は、そんな没個性の少女たちの中で、異彩を放つように注意を引きつける少女を見つけた。彼女は周囲の少女たちと同じ服装で、髪の形、顔の特徴なども特に変わっていたというわけではない。それでも、「私」には、その少女だけがまるで他の少女たちとはちがって美しく感じられたというのである。
 はじめ、「私」は彼女の先祖の高貴な血が、彼女にそのような不思議な匂い、不思議な美しさを与えるのだと思った。けれどもそれは、「私」の勝手なひとり合点で、間違っていた。実際には生まれつき足が悪くて、松葉杖を離せない少女だったのである。
 彼女は、作業を終えて他の少女たちが二列縦隊になり、生産の歌を唄いながら中庭を横切るときに、ひとり遅れて歩いて出てきたのである。「私」は、あっと思い、愕然としながら、目頭を熱くし、少女はまたそんな「私」の前を黙って歩いていった。
 物語はそれだけの、大変短い文章である。
 太宰は、この中で、
 
美しい筈だ。その少女は生まれた時から足が悪い様子でした。
 
と何気なく、そして当然であるかのように書いている。しかし、「美しい」ことと、「生まれつき足が悪い」こととは、こんなふうに当たり前のように結びつく事柄だろうか。この文をそのままに受け取ると、少女は生まれつき足が悪かった、だから美しいんだ、と言っているように読める。
 太宰のように言うためには、美とは、憧れよりも驚きとして胸を打つ何かだという考え方がなければならないと思う。通常は、目鼻立ちが整い、スタイルがよいものを美人と言い、美しいという形容詞を被せるものだ。ここでは、いわゆる、身体の障害をもって、美しいという言葉が言われている。
 あれこれ言うまい。太宰は、本当に美しいと感じている。その価値観は、一般的な感じ方と逆転している。詭弁ではない。心底そう思っているのだと思う。そういう感性が太宰にはあり、それが太宰らしさを代表しているものでもある。これを解くことは簡単ではない。親鸞の「況や悪人をや」の逆転に通じている。
 松葉杖の少女が、何事でもないかのように、生まれついてまた今日まで背負ってきているもの。それにひとりの作家が美しいという形容詞を使い、眼を熱くさせたとして、それが何になるか。自分の善意、善良に自分で酔いしれてみているだけではないか。そう言ってみることもできる。要するにその時かぎりの思いつきじゃないかと。あるいはまた、身体に障害を持ちながらもけなげに、お国のためを胸に抱いて、奉公する姿を美しいと形容して、もって戦時の国民の鼓舞に一役買おうとしているのではないかと考えることも可能だ。
 けれど、仮にそうだとしても彼の選択において、そういう場所のそういう人にこそ彼の目が向けられているということは、忘れてはならないことのようにおもえる。言ってみればぼくには、この作品において、「生活」をぎゅっと凝縮して、その場所からものみなを見る作家の目が、強く感じられたのだ。目頭を熱くする作家の前を、だまって松葉杖をつきながら通っていく少女の絵柄は、この作家の孤独の質を無意識にあらわしているようにも思う。
 
 
 『竹青』
 
 この作品は、「魚容」という名の中国の貧書生を主人公にして、彼の不遇で不運な現実と夢とを変身譚として描いたものである。
 幼くして父母に死別し、親戚のあいだをたらい回しにされて転々としたあげくに、無理矢理伯父の妾とも噂された年上の醜い女と結婚をさせられた魚容は、妻にも周りにも馬鹿にされ、侮蔑される毎日だった。ある日、発起して郷試を受けるが失敗。湖の畔で愁嘆にくれていると、ふと烏の群れが嬉々として大空を飛び回っている様が見えた。魚容が羨ましく思いながらうとうとすると、黒衣の男に揺り動かされた。男は、呉王様の言い付けだと言って黒衣を魚容に被せ、たちまちのうちに烏にしてしまった。
 烏になった魚容には、これも呉王の取り計らいということで、「竹青」という一羽の雌の烏が世話係となって傍に従うことになった。
 烏となった魚容の新婚生活は楽しいものだった。半生の不幸をいっぺんに吹き飛ばすようにも思った。しかし、兵士を乗せた船にたわむれていたとき矢を放たれ、魚容は胸を貫かれ、人間界に戻る。
 魚容は人間界に戻りながらも、やはり以前と同じように周囲から疎んじられ、ある日また再度発憤して試験を受けるが不合格になり、今度は思い出の洞庭湖畔で竹青を思いながら死を覚悟する。
 愁思まさに絶頂に達したとき、今度は人間としての竹青に出会うことになる。そして二人は雌雄の烏に変身し、漢陽を目指して飛び立つ。
 漢陽の家に着いて、窓からの外の景色を眺めていると、魚容はふと、「くにの女房にも、いちど見せたい」と言って、まだ妻のことを思うその言葉に、自身驚く。
 これを聞いて、竹青は、まだ現実界に未練が残っているのだから、魚容に、国に帰るようにと諭した。
 竹青の言葉に従い、しかし、すこぶる悄げて帰った魚容を待ち受けていたのは、何と、竹青と同じ容姿、同じ心根に変わった女房であった。
 その後、魚容は、烏になったことやその時の出来事の思い出は女房にも誰にも語らず、相変わらずのまずしい暮らしと周囲の蔑視を気にすることなく、しかし、妻を愛しながら平凡な一田夫として一生を終えたとされる。
 粗筋はこんなところだが、作品として、大変よくできていると思う。スムーズに読ませる書き方ができている。また、読んでいても、面白いと思いながら読み進められた。
 内容からいえば、自分の不遇や不運に不満を持ちながら、そのことでまた孤立し自分の生を狭めていく人生というものが描かれているのだろうと思う。そして、結局のところ、自分のおかれたそういう境遇を、何とかしようと焦らず、その現実をもう一度見直すことによって、あるいは現実の見方を変えることによって、そういう境遇にある人間というものの救済があるのではないか、と問題を提起しているという気がした。
 
 この作品を読んで、一番気にかかって今も考えていることは、自分の中の「知」の処遇、というようなことである。
 魚容は、貧書生であった。そして妻からも周囲からも、彼の持っている「知」に対して、正当な評価を受けられないでいた。彼はその「知」を、彼の最後のよりどころとしていた。そして結局の所、彼の「知」が、彼を苦しめたのである。
 人間をやめるかどうかの土壇場で、魚容は妻に対する惻隠の情を、竹青から指摘された。それは、現世に対する、ある離れがたい思いだといってもよい、とぼくは思う。歎異抄にもあった、「苦悩の旧里」の捨てがたさに、通じる。そうであるならば、娑婆の縁が尽きるまで、人は生ききるべきではないか。
 何故人を殺してはならないか、何故自らの命を絶ってはならないかの答えは、ここにある。人間の本能は、感情はと言ってもよいが、人間の「知」を超えたところにあり、身体に宿っているといってよい。「知」は、土台となる身体の上に築かれた幻想にすぎず、すなわち、生命的なものを超えて生命的であることは、厳に警戒すべきことのように思える。 竹青は言っている。
 
人間は一生、愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出ることは出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を哀惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。
 
 そして魚容は、
 
れいの御自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と相変わらずの貧しいその日暮らしを続け、親戚の者たちにはやはり一向に敬せられなかったが、格別それを気にするふうも無く、極めて平凡な一田夫として俗塵に埋もれた。
 
のであった。
「君子の道」を口にせず、敬せられないことを気にせず、相変わらずの暮らしを続け、俗塵に埋もれる。このもっとも壮絶さからかけ離れたように見える凄絶な生き様を、ぼくの心は畏怖して止まない。
 魚容は、“平気な顔で”、その後の生をそのように生きて見せたのである。これ以上の力みのない力業はあるだろうか。今のぼくには、これ以上にない理想の姿であると映じている。
 ここには、宮沢賢治のデクノボウをはじめとする、日本人が追い求めた理想の人間像、その典型の中の一つの像が集約されている。あるいは、この場所の周辺により集まっていると言い換えてもよい。そこで、その価値の見直し、その価値への気づきこそが、現在の社会によってなされなければなるまいというのが、密かなぼくの願いであることを告げてこの作品から立ち去ろうと思う。
 
 
 『惜別』
 
 この作品は中国の文豪魯迅が、日本に留学し、医学を学ぶために仙台に滞在した時期を取り上げている。そのころの魯迅を、級友であった主人公が振り返り、いろいろなエピソードを紹介するということになっている。もちろん、魯迅らしき人物は、小説では「周さん」ということになってはいるが。
 学生の頃、魯迅の小説をいくつか読んだ。魯迅の情熱に、自分の胸も熱くされたという経験も持つ。内容は、だいぶ忘れてしまったのだが、その熱情的な精神だけは忘れることが出来ずに心に刻み込まれている。
 その経験からいえば、太宰の、魯迅の受け取りは、ちがう、という思いがする。少なくとも魯迅を読んだときの感動や激情が少しもよみがえってはこない。小説に対して、魯迅は直情的であるが、太宰は自虐的であり、婉曲的である。また、太宰の作品には、魯迅の思想が少しもくみ上げられていないようにも感じられてならなかった。
 亀井勝一郎の解説にもあったように、内閣情報局と文学報国会から大東亜五大宣言の小説化を委嘱されて出来上がったという経緯もあって、時局をそのまま肯定的に書き上げている点も気になるところだ。戦争に対する抵抗も、反発も、ない。しかし、同時に積極的な戦争への賛美も、ない。戦争に対しては、庶民的な感情に準じようとしているかのようだ。
 この作品は、魯迅をモデルとしてはいるが、魯迅の思想を掘り下げた作品ではない。どちらかといえば、「藤野先生」との師弟愛、あるいは級友との友情に心を向けた作品であると思う。亀井は、「或る深い沈黙ともどかしさのうちにひそむ愛というものを、大切にしようとしたところから生まれた作品だ」と言い、この作品を太宰の長編の代表作の一つに数えている。ぼくはしかし、そのようには考えられない。評価のしにくい作品の一つだ。愛かもしれないが、それが主としたモチーフであるとも考えにくい所がある。太宰のモチーフ、テーマ、ぼくにはそれらがよく見えてこない。
 また、周さんが、自国中国や中国の民衆について述べたり、革命についての志を吐露する部分では、太宰は本音で語っていない、上辺だけを取り繕った文章だという気がしてならない。では、それを書いているときに太宰にあった本音とは何かと言えば、後にも先にも作品の中に昇華されたことはなかったように思われる。しかし、言葉にしなかった、あるいは出来なかった本音は、太宰の胸の奥深くには実在したに違いないのだ。たとえば自殺間際に太宰はよく「義」という言葉を用いたが、曰く言い難い思いを「義」に象徴させてみたにすぎない。太宰がもっと長生きをすれば、そこにふれた作品が、書かれることになったかもしれない。もしそうであったなら、日本の戦後文学も、戦後思想も大きく変わっていたかもしれない。その意味でも、ぼくにはこの作品が太宰文学の過渡的な意味合いしか持っていないのではないかと思われてならないのだ。
 
 
 『お伽草子』
 
「お伽草子」には、「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の4篇が収められている。「新釈諸国噺」は井原西鶴の文章を元にしたものだが、こちらは今に伝わる日本の昔話に題材をとったものである。
 お伽噺の、本体の筋を、茶目っ気たっぷりに曲解し、新たに展開のストーリーを発展させたり、実に太宰の面目躍如たる作品であるとぼくは思っている。
 初めてこれらの作品を読んだときの衝撃は忘れられない。ことに、「カチカチ山」を、面白く読んだと記憶している。こういう、お伽噺の読み解きがあるのかと、その斬新さに舌を巻いた。あるいは、参った、万歳、などと、読みながらこの作家の天才を手放しに喜んだという記憶がある。理屈ではない。それほど当時は面白く読んだ。
 
「瘤取り」では、太宰は文末に、性格の悲喜劇をテーマとして書いたことを明かしている。一般的な「瘤取り」のお話では、よいおじいさんと悪いおじいさんとに色分けされて、よいおじいさんには善いことが、悪いおじいさんには悪い結果が待つものだと教えている。まあ、道徳的な粉飾が、幾分か、なされているわけだ。太宰の「瘤取り」は、そうではない。これを、性格の悲喜劇のドラマとして読み、そのように描いて見せた。
 通常、よいおじいさんと言われるおじいさんを、お酒好きな、楽天的な、明るい性格のおじいさんとして描いている。しかし、家庭的には、まじめで堅物の息子や無口で無愛想な奥さんに挟まれ、このおじいさんは窮屈そうに生活しているのである。立派な家庭ではあるが、おじいさんにはこの立派さがつまらない、ということになっている。
 おじいさんには、頬に大きな瘤があって、実はこれを無聊の慰めとしておじいさんは哀惜していたのである。しかし、誰もが知っているとおりの、あの例の鬼どもとの遭遇があり、おじいさんはある意味大切なその瘤を失ってしまう。またしかし、このおじいさんは大切な瘤を失ってしまったことにも深くは頓着しない性格の持ち主である。無ければないでいいか、とそのようにも思いなすことが出来る。あまり、物事に、あるいは結果などに、こだわらない性格なのだ。
 一方、もう一人の近所のおじいさんは、通常の物語では悪いおじいさんとして形成されているが、太宰の作品では近所の人たちにも一目置かれ、旦那とか先生とか呼ばれる、いわゆる教養人といった趣を持つおじいさんである。
 こちらのおじいさんはしかし、日々、自分の瘤の処遇に困り、これさえなければと鬱々として、毎日を楽しくない様子で暮らしている。そして、隣のおじいさんの瘤がとれた風評を聞き、その経緯を明かしてもらうためにお隣を訪ねるのである。
 こちらのおじいさんは、まあ、ある意味でまじめな人で、武骨なところのあるおじいさんである。鬼との遭遇においても、出陣の武士のごとくで、肩にも力が入りすぎ、鬼たちに喜ばれない踊りを披露してしまい、挙げ句の果てには隣のおじいさんの瘤までくっつけられる悲劇に見舞われてしまう。
 このおじいさんが、瘤の一つも二つも同じようなものだと思える人物なら、全く何も問題はない。だが、こちらのおじいさんは、一つの瘤でさえ邪魔に感じてならなかったのである。まして、二つになってしまった今、このおじいさんの嘆きはいかばかりか、ということになる。
 このおじいさんは、何も悪いことはしていない。こちらのおじいさんの奥さんは、大変若く、陽気である。娘はこの母と気が合って、二人いつも笑い合いはしゃぎ合っている。明るい家庭なのだ。これまでの瘤一つのおじいさんの不幸を、まるで他人事のように、理解してはくれないのであるが、それだって世間を見ればありふれた光景であるといえば言える。
 こちらの家庭も、隣の家庭も、それぞれの家族の一人一人にも、さしたる悪人はいない。鬼たちだって、何も悪いことをしようとしたわけではない。それなのに、確かに不幸らしさは起きてしまった。
 太宰はこの作品を通して、心底悪い人間というものはいないものだということを言いたかったに違いない。また、人間社会において不幸が起きてしまう理由の一つに、性格の悲喜劇というものが存在するとともに、これは単純に社会や政治の変革に短絡させて考えることの出来ない、永遠の問題だと言いたいに違いない。
 自分のこれまでの人生を振り返っても、どうしようもない悪人に出会った試しはない。社会的な事件の報道では、しかし、根っからの悪人はいるように取り沙汰されることが多い。そういう悪人に、接した経験はないのに、そういう悪人はいるように社会的には形成されているところが、何か変であると長い間思ってきた。身近に接していると、悪い部分はあっても、よい部分もあるというのが、他人を理解するときのぼくたちの実感というものである。その距離が遠く、接する機会を持たなければ、心底の悪というものをぼくたちは認めてしまうものなのかもしれない。
「瘤取り」を読んで、まあこんなところが、ぼくの考えたところである。
 
 お伽噺の「浦島太郎」の物語は、助けた亀に連れられて太郎が竜宮城に行って遊んでくる話だ。そこまでは、よいことをすれば報われるという教訓を、子供心にも感じ取ることが出来るのでは無かろうか。しかし、玉手箱の土産を手渡され、それがただの煙、いやそればかりかその煙を浴びることでたちまちおじいさんになってしまうという結末は、子供にもあるいは大人にも本当にはわかりにくいところでは無かろうかと思う。
 学生の頃、竜宮城は、今で言う「キャバレー竜宮城」といったところかと、まあそんなふうに考えて得意がっていた。太郎は接待にのめり込みすぎて、その結果、玉手箱という土産によって、乙姫にちくりとやられた。図に乗って、やたらに供応を受けてはならないという戒めかもしれないと言うぐらいにも考えていた。これにはしかし、やや矛盾があるようにも思われた。せっかくよいことをしてよい報いがあるという、お話のまとまりとしてはそこで終わっていいようなものの、その先に、どうして太郎を白髪のおじいさんにして悲しませて終わらなければならないのか。どうしてもその部分が余計ではないかという思いがぬぐいがたく残るのである。
 どうして、その最後の部分は、切り捨てられずに語り継がれてきたのか。わかりにくいながらも、伝承を続けた意図はあるはずである。
 太宰はこれを、次のように解釈してみせる。
 
 つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとって不幸であったという先入感に依って誤られて来たのである。絵本にも、浦島は三百歳になって、それから、「実に、悲惨な身の上になったものさ。気の毒だ。」などというような事は書かれていない。
  タチマチ シラガノ オジイサン
 それでおしまいである。気の毒だ、馬鹿だ、などというのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかったのだ。
 貝殻の底に、「希望」の星があって、それで救われたなんてのは、考えてみるとちょっと少女趣味で、こしらえものの感じが無くもないような気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救われているのである。貝殻の底には、何も残っていなくたっていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、
  年月は、人間の救いである。
  忘却は、人間の救いである。
 竜宮の高貴なもてなしも、この素晴らしいお土産に依って、まさに最高潮に達した観がある。思い出は、遠くへだたるほど美しいというではないか。しかも、その三百年の招来をさえ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到っても、浦島は、乙姫から無限の許可を得ていたのである。淋しくなかったら、浦島は、貝殻をあけて見るような事はしないだろう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救いを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である、これ以上の説明はよそう。日本のお伽噺には、このような深い慈悲がある。
 浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。
 
 つまり、いたずらっ子たちから亀を助けたというだけで、竜宮の高貴なもてなしに遊んだばかりではなく、年月と忘却というそれ自体が人間の救いとなるところの、その大いなる慈悲までが、太郎には用意されていたというのである。
 批評家桶谷秀昭は「太宰治の戦争期」という文章で、ここで太宰は、「どんな希望も救度しがたい寂寥を語っているように思われる」と述べていた。そして、
 
彼は(太宰のこと−佐藤:註)ずいぶん遠く迄歩いて来たのである。すべては過ぎてゆく。過去を振り返る必要もなく、未来を思いあぐねることも不要である。過ぎゆく時間の中に自分が消え、忘却が救いであるようなところ迄。
 振り子は大きく戻り、十五年の時間を逆流させる敗戦の瞬間がやってくる、直前であった。
 
と、その文章を結んでいる。
 桶谷は、明らかに戦争という緊急事態の中で、前期の太宰文学が戦争という時間の中に消え、新たな太宰文学が起こっているという文脈の流れでこれを書いているように思われる。ぼくは、桶谷ほどではないが、確かにそれに近いようなことを感じているのは間違いのないことである。ただここではこれ以上、このことについてはふれないでおこうと思うだけである。
 
「カチカチ山」は、以前読んだ時に、お伽草子の中ではもっとも面白く印象に残った作品であった。今回読み返してみても、相変わらず面白く読める。そして太宰の才能に、改めて感心する。
 兎を少女に、狸をその兎を恋する醜男に見立てる、そのことが、もはや太宰をおいて他には誰にも出来ない芸当のような気がしてしまう。あるいは、誰がやっても二番煎じとなり、なおかつ太宰を超えることは出来ないに違いないと思える。
 兎の、執拗な狸に対する攻撃は、処女の残忍性によると太宰に言われれば、なるほどと納得してしまう。背中に火をつけられ、練り込んだ唐辛子をさらに焼けただれた体中に塗りつけられ、挙げ句の果てに泥船に乗せられて湖に沈み込む狸は、警戒心の希薄な、おっとりとした醜男を連想させる。いや、太宰の文章を読んで、確かにそうに違いないと思いこんでしまう。
 
 ところでこれは、好色の戒めとでもいうものであろうか。十六歳の美しい処女に近寄るなという深切な忠告を匂わせた滑稽物語でもあろうか。或いはまた、気にいったからとてあまりしつこくお伺いしては、ついには極度に嫌悪せられ、殺害されるほどのひどいめに遭うから節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。
 或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌いに依って世の中の人たちはその日常生活に於いて互いに罵り、または罰し、または賞し、または服しているものだという事を暗示している笑話であろうか。
 いやいや、そのように評論家的な結論に焦燥せずとも、狸の死ぬるいまはの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
 曰く、惚れたが悪いか。
 古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかっていると言っても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であった。おそらくは、また、君に於いても。後略。
 
 作品の最後に書かれたこの文章は、よくこの作品を言い得ている。作者自身の手になるものだから当然というかも知れないが、人を好きになるというそのことが、往々にしてこういう結果をもたらす。それが人間の社会だと言っている。そして、それ以上のことを決して言っているわけではない。
 つまり、作品は人間社会によくある光景が象徴的に描かれていると言えば言える。そして最後の文章によって、ある種のフィルターがかけられ、それによって、この作品が単なる象徴を越えて芸術に昇華している。
 けれども、ここで注意したいことは、太宰という作者が、作品の中に完全に消えているように見えるところだ。その分、作品に自在感が漂っている。もっと言うと、太宰本人は兎にもなり狸にもなりして、おのおのの心情の中に自身を吐露できている。
 この表現における、自由自在な感じは、前期の太宰の文章には見つけられなかったもののように思える。そしてこの種の自在感は、この「お伽草子」および、少し前に書かれた「新釈諸国噺」に特に特徴的に感じられる。
 水を得た魚、の例えのような、これらの作品の中に存在する自在感はどこから来ているものなのだろうか。
 これらの作品のおもしろさは、講談や落語などのおもしろさに通じていると思う。話者が身振り手振り、あるいは顔の表情で噺のおもしろみを一層面白くする時、当然太宰の文章は文章自体でそれを行っていることになる。それもまた興味あることではあるが、ここでは、講談や落語に通じる、ある種の肩のこらないおもしろさが、太宰の小説にはあるということを言っておきたいと思っている。それはしかし、おもしろさとして、講談や落語と同じだと言いたいのではない。
 読んで、悩まずに面白いと感じられるおもしろさ。それが講談や落語などを聞く時のおもしろさに似ている。読み手に、倫理や道徳の選択を強いない文章だと言えばいいだろうか。それが先の自在感と併存し、独特な味わいを感じさせる。それでいて、文学性、芸術性は少しも水増しされたという感じがない。これはなかなかの事ではないか、と思う。
 この問題は、もう少し本格的に考えなければ解けない問題だという気がする。そして、ここではこれを論ずるだけの準備が何もないことを告白しておかなければならない。だが太宰治を考える時には、大きな問題になることを指摘することだけは行っておきたいと思う。
 
 最後に、「舌切り雀」を取り上げることになるわけだが、これはやや4篇の中でも地味で精彩を欠いた作品だという気がする。
 特に他の3篇と大きく違うのは、文末部分に顕著である。3篇とも、物語が一度終了したあとで、物語全体を見渡した上での作者の一言が、付け加えられている。そしてそれは、作品にある奥行きを与えたり、含みのようなものを持たせたりして、いわゆる単純な物語ではないと感じさせるだけの効果をもたらしている。それが、この「舌切り雀」だけに関しては、最後のひねりが、どうも十分ではない。あるいは、3篇とは明らかに違っている。そう感じさせるようなものになっているのである。
 
 たそがれ時、重い大きい葛籠を背負い、雪の上に俯伏したまま、お婆さんは冷たくなっていた。葛籠が重くて起き上がれず、そのまま凍死したものと見える。そうして、葛籠の中には、燦然たる金貨が一ぱいつまっていたという。
 この金貨のおかげかどうか、お爺さんは、のち間もなく仕官して、やがて一国の宰相の地位にまで昇ったという。世人はこれを、雀大臣と呼んで、この出世も、かれの往年の雀に対する愛情の結実であるという工合いに取り沙汰したが、しかし、お爺さんは、そのようなお世辞を聞く度毎に、幽かに苦笑して、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」と言ったそうだ。
 
これで終わっている。つまり、ここには他の3篇にあった、お伽噺それ自体への批評がない。
 簡単に言うと、こういう試みに飽きたということかも知れないし、意欲が減退したということがあったのかも知れない。
 ひとつだけ、どうしてもすんなりと受け取れないというか気になるというか、奇異に感じて素通りできないところがある。それは、最後のお爺さんの言葉、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」という部分だ。
 この作品を読んできて、どうにもこの最後のお爺さんの言葉が白々しく感じる。そればかりではない。額面通りに受け取っていいのかどうか、何か太宰が、トリックを仕掛けているのではないかという気になってしまう。
 もっとはっきり言えば、この部分はどう受け取っていいか分からない。なぜ、お爺さんにこんな言葉を言わせたのだろう。
 お婆さんは、現実主義的で、確かにお爺さんの無欲の精神を理解してあげたことはなかった。だが、長い間、下着さえ着替えることをおっくうがるお爺さんに連れ添い、生活のすべてにわたって一人で黙々と立ち働いてきた。そんな女房に、「苦労をかけ」てきたのは、分かりすぎるぐらい分かっているはずだ。言ってみれば、お爺さんは、それまで「平気」で、お婆さんに苦労をさせてきている。そうしておいて、ちょっとした欲張り心から大きな葛籠を選んだがために、金貨をいっぱい詰めた葛籠を背にして凍死してしまったお婆さんの、その金貨だけを濡れ手に粟のような形で手にして恥じない姿は、どうにも理解のしようがないのである。
 それとも、お婆さんが単に自分の欲張りのために大きな葛籠を手にしたのではなく、その背景に、お爺さんを喜ばせたいという思いを秘めて葛籠を背にし、そのことを理解していたがために先のお爺さんの発言になったと解すべきなのだろうか。お婆さんは自分が死んでも、あとでそのようにお爺さんが出世したことを喜んでいる、つまり、お爺さんの中に今もお婆さんが生き、二人分をお爺さんが生きていると解すべきだろうか。
 
「舌切り雀」と言う作品を振り返ると、どうにもお婆さんの孤独が際だって感じられる。無学で、いかにも洗濯や掃除をするだけのために生まれてきたように、働いて、そして死んでいった。「優しい言葉がほしかった」、「私だって何も、洗濯をしに、この世に生まれてきたわけじゃない」、お婆さんの、お爺さんに向かって発した、そんな言葉が余韻のように心に残っている。
 お爺さんは、そんなお婆さんの気持ちを踏みにじり、あるいは一刀のもとに切り捨ててきたはずだ。世捨て人、無欲の実践。それがお爺さんの根拠であった。
 お婆さんは、恨みや無念を残して死んでいったのであろうか。そういうところが今ひとつよく分からない。言えることは、お爺さんはお婆さんに表向きは理解されなかったが、お照るさんという雀の化身の理解者は得られたのである。お照さんはまたお爺さんという理解者を得ている。
 作品の中で、お爺さんもお照さんも、あるいは作者さえも、このお婆さんの孤独を一顧だにしない。この、非情は、何なのだろう。作家の無意識か、あるいは周到な計算の上になっているものか。
 ぼく自身は、明らかに太宰の計算の元に書かれた、お婆さんの孤独ではないかと思っている。これは、別の見方をすれば、名もない民衆の孤独であろう。生活の中に己を消して、誰にその生を讃えられることもなくひっそりと死んでいく無数の人々の労苦の上に、このお爺さんのような幸運は生まれてくる。これに、太宰が無自覚であったはずはない。となれば、「いや、女房のおかげです。あれには苦労をかけました。」の言葉は、お爺さんの言葉という次元を超えた、批評の言葉となる。生活に身を殺しておそれない者たちをおそれよ、そういう言葉が、今ぼくの心には浮かんでくる。
 
 
 『パンドラの匣』
 
 この作品は宮城県仙台の河北新報に連載された、太宰の戦後の第一作であるようだ。この作品で、太宰は「希望」を語っている。
 主人公は二十歳の青年。彼が友人に宛てた手紙という形式で書かれている。弱冠二十歳の青年が語る戦後の「希望」。それは純粋でもあり大変美しいもののようにも見えるが、ぼくにはどこか危うさの残るようにも思われた。それはそのまま戦後の太宰の、出発の時の危うさ、美しいがもろい、見通しのようにも感じられてならなかった。
 この作品を読むと、太宰にとって戦後は、ある開放感を伴って感じられていたのではないかと思う。そこには、いち早く、読者に自分の旗印を見せなければならないという作家としての使命感があったかも知れない。とにかく、それを、「パンドラの匣」の「希望」という言葉で指し示したと言える。
 では、戦時中はどうであったか。ぼくは、太宰は、生活者や一般大衆、もちろん兵役を課された人々に対しても同様だが、彼らと歩調を同じくする同伴者のように自分を位置づけていたのではなかったかと思う。
 太宰の、少なくとも作品群から、高らかな戦争の否定も肯定もぼくは聞かなかった。もちろん、理念としては否定的であったに違いないが、それに対して積極的にコミットするようではなかった。銃後の母、銃後の女性たちの中に混じって、わずかに女たちには出来ないことを引き受ける消極的な立場に終始した。
 太宰の戦後のスタンスを想像させる言葉を、少しこの作品の中からとりだしてみる。もちろんちょっと目についたところを任意に上げてみるだけで、詳細な読み込みの上に指摘しようとしているわけではない。
 
もう僕たちの命は、或るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。それゆえ、僕たちは、その所謂天意の船に何の躊躇も無く気軽に身をゆだねる事が出来るのです。これは新しい世紀の新しい勇気の形式です。
 
本当に、いま、愛国思想がどうの、戦争の責任がどうのこうのと、おとなたちが、きまりきったような議論をやたらに大声挙げて続けているうちに、僕たちは、その人たちを置き去りにして、さっさと尊いお方の直接のお言葉のままに出帆する。
 
「(略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。」(略)「天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」
 
いまはかえって、このような巷間無名の民衆たちが、正論を吐いている時代である。指導者たちは、ただ泡を食って右往左往しているばかりだ。いつまでもこんな具合では、いまに民衆たちから置き去りにされるのは明らかだ。
 
 君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ。芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しをり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のそよ風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生まれ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取り残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理屈も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
 
女が女らしくなったのだ。しかしそれは、大戦以前の女にかえったというわけでは無い。戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ。何といったらいいのか、鶯の笹鳴きみたいな美しさだ、とでもいったら君はわかってくれるであろうか。つまり、「かるみ」さ。
 
僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、きわめてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道はどこへつづいているのか。それは伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」
 さようなら。
 
こんな所であろうかと思って、ざっと挙げてみた。
 知識人が愛国思想がどうのこうのとか戦争責任とかを論じても、日本は敗戦し、すべてを失った事に違いはない。すべてを失い、すべてを捨てた者に、しかし残された希望のように平安がある。いろいろな呪縛から解かれた身軽さとでもいうのだろうか。それを太宰は「かるみ」という芭蕉の言葉で象徴させてみている。
 新しい時代。自由思想。かるみ。そして根底には、天皇制の護持というべきか、そこにすべてを捧げて身をゆだねるという思いが語られている。 
 もう一つ、指導者たちは民衆から置き去りにされるという言葉が言われている。
 天皇の玉音放送があり、その声に促されるようにして民衆は立ち上がって歩き始める。ひとり、ふたり、そしていつの間にか大勢の民衆が歩き始める。指導者に従っているのではない。行き先は誰も知らない。しかし、行き先をわかっているかのように、歩いていく。民衆の歩いていく先に、陽が当たるのは間違いない。民衆の無意識裡の判断、選択の正確さ、その植物の向日性的な本能を軽んじる指導者は、民衆から置き去りにされるだろう。太宰はそう予言しているのだ。
 
「かるみ」を伴って歩き始めた民衆は、今、どこに向かって歩いているのか。太宰が予想した方向に向かっていると言えるだろうか。
 天皇制はどうなったか。自由思想はどうなったか。女性はどう変わったか。「かるみ」はどんな様相を呈しているか。指導者は置き去りにされたまんまか。
 いろいろな事を考えさせられるが、この作品で太宰が提出した問題は、いまだ過渡的な過程にあって、まだ答えられないような気が、ぼくはしている。とりあえず、太宰は戦後をこのような思いを持って歩み始めたことを了解しておきたいと思う。
 
 
 『津軽通信』
 
 ここには疎開中に書かれた短篇、「庭」「やんぬる哉」「親という二字」「嘘」「雀」の五篇が収められている。
「庭」は太宰の長兄との草むしりをしながらのちょっとした会話を、「やんぬる哉」は疎開の実際というものについての実感を書いているように思う。「親という二字」は罹災し、疎開先でたびたび郵便局に用事で出向いた時に出会った老人とのエピソードである。老人は死んだ娘の貯金通帳からちょくちょく酒代を下ろしに来ていた。娘は、空襲で大やけどを負い、それが元で死んでしまったのだという。そこで、主人公はちょっとした戦争批判をして見せている。
「まったくですよ。クソ真面目な色男気取りの議論が国をほろぼしたんです。気の弱いはにかみ屋ばかりだったら、こんな事にまでなりやしなかったんだ。」
 こうした批判は、日常生活レベルの中に埋没する批判に過ぎないと思える。しかし、ここには太宰の本当の思いも託されているような気がしてぼくは読んだ。「クソ真面目な色男気取りの議論」とは、指導者、エリート、そういった人種の言説全般を指すものだろう。いつの世も、そういった連中は社会の表舞台にしゃしゃり出て、ああだこうだと出しゃばって社会の混乱をのっぴきならぬ方向に引き連れていく。それに反して、「気の弱いはにかみ屋」は、「気が弱い」ゆえに、馬鹿な指導者たちのようには大きく社会の舵を曲げることは絶対にない。まあ、負けそうだと見えたら、適当なところで白旗を上げられる、そういうことなのだろうと思う。
 このことは、本当は、戦争体験を語り継ぐことや戦争の悲惨さを訴える前に、しっかりと民衆の間に根付かさなければならない大事な点であったのではないかとぼくは思う。正面切って、この問題を論議すべきであった。端的に言えば、「気の弱いはにかみ屋」を自分の内に内在させない革命家、世直し論者は、疑ってかかるべきだという点に帰する。それは、今最も忌み嫌われているテロリストに同型の、資質的な双生児だからに他ならない。太宰は、大変易しい口調で、言いかえれば生活レベルに飛び交う言葉を使って、実は最も本質的な、そして困難な問題について、核心を述べる作家であった。そのことをもっと評価できる視点を、戦後文学、戦後の思想界は持つべきではなかったかと思う。
「嘘」という作品には、のっけから太宰の戦後の思潮に対する苛立ちや本音が披瀝されている。
 
「戦争が終わったら、今度はまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要らない。男は嘘をつくことをやめて、女は欲を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。」 
 
 男を政治家として、女を経営者とでも言い換えれば、現在の政治不信や無関心、社会への不参加の思いを代弁するように思われる。そう、「何一つ信用できない」というのは、今に始まったことではなく、それ以前からもあり、また戦後の出発からもあり、戦後60年も、「信用したい」という思いをだまされながらだまされながら引きずってきた60年であったと見てもよい。
 そう見ると、これはもう永遠の課題であって、太宰が考えるように、日本の新しい建設がその時点で出来ると考えるのは、甘い見通しであるというべきなのかも知れない。事実、そんなことにはならなかった。そればかりか、太宰の言説、太宰の立場の方が時代の底に埋もれていったのである。
 ところで、「嘘」というこの作品は、主人公の上の発言に対して、彼の小学校時代の同級生が、「男が欲を捨て、女が嘘をつく事をやめる」と、正反対の意見を述べるところから始まっている。そして自分の体験の中で、女につかれた嘘の体験談を語り始めるということになる。最後に、主人公が同級生に向かって、その嘘をついた女は彼に惚れていたのではないかというのだが、その辺の、男と女の関係については、ぼくは全く苦手としてついて行けないところである。だからこの作品はよくわからない、そういうことになる。
「雀」という作品は、主人公と幼なじみの傷痍軍人と疎開した故郷で出会った時の話である。もちろん酒の席がもたれるのは、太宰の作品につきものの恒例の行事で、その席での友人の話が主である。
 そのなかで、話し始めの次のような箇所がぼくの注意を引く、それは、
 
 中支に二年、南方に一年いたが、今思うとまるでもう遠い夢のようで、それにまた、兵隊として走り廻っているのが、この自分では無いような気がして、あの当時のことは、まったく語りたくない。語っても、嘘をついているような気がしていけない。
 
という箇所だが、大変素直な、率直な思いではないかと思われた。というのも、戦後五十年前後から、よく戦争体験を語り継ぐということがメディアを中心に盛んに呼びかけられ、取り上げられ、また方々で実践されてきている流れがあるからだ。にもかかわらず、親を含めて親戚筋の戦争体験者から、ぼくはその体験を生で聞いたことはない。それはなぜかということを、ぼくは、ぼんやりとぼく自身の中で考えてみているだけであった。そしてもちろん、答えは出てこない。
 上のような述懐にふれると、ああ、と、了解できるような気がした。そしてそれで十分だという気もする。
 ニュースに流れたり、あるいは生で聞いたこともある戦争体験者の話は、どちらかというと被害体験が多かったように思う。それはそれで貴重なのだが、上の本音に類するような述懐は、また格別な気がする。自分の体験を、そのままに人に伝えることは不可能だ。たとえ、恋愛の体験であってもそうだ。そう思うから、上の言葉は、まじめな、そして真摯な発言であろうとぼくには思われる。おそらく、同じ体験をしてみなければ通じないものがそこにはあるのに違いない。これに比べ、被害体験ははるかに言い易いに違いない。だからそういう体験だけは、たくさんメディアに登場する。そこの事情がわからないと、戦争体験も、「怖いから戦争はしない」と、一面的な考え方をしかもたらさないだろう。こうなるともはや想像力しかあてにできない。
 作品の中心となるのは、幼なじみの傷痍軍人が温泉場で過ごした六ヶ月の療養生活の中でのことで、彼が療養所の筋向かいの射的場に勤める娘さんにけがを負わせた時の話を物語っているところにある。
 最後に、彼の細君が足を引きずっているのを見て、「私」はその細君が傷を負った娘さんではないかと疑うところが「オチ」となって作品は終わっている。
 娘さんとのことは、ぼくにはよくわからないことである。ただ、幼なじみの言いたかったことは、あるいは太宰が書きたかったところの核になるものは、次のような所にあったのではないかと考えている。すなわち、娘さんをけがさせた後で幼なじみが考えたこと、
 
しかし、僕の思想は、その日の出来事で一変させられたと言ってもよい。僕はその日から、なんとしても、もう戦争はいやになった。人の皮膚に少しでも傷をつけるのがいやになった。人間は雀じゃないんだ。そうして、わが子を傷つけられた親の、あの怒りの眼つき。戦争は、君、たしかに悪いものだ。
 僕はべつにサヂストではない。その傾向は僕にはなかった。しかし、あの日に、人を傷つけた。それはきっと、戦地の宿酔にちがいないのだ。
 
 アメリカの帰還兵が、社会生活に戻って適応できず、カウンセラーを必要とすることがあるのを報道などで見聞きしたことがあるが、そういうことから想像できる話だと思った。戦地では、やはり、平常ではいられないということなのだろう。
 
 
 『貨幣』
 
 この作品を物語るのは、百円紙幣、しかもそれが女性である。そういうユニークな設定で、その女性のお札の視点から、戦中の混乱する社会情勢の一齣を映し出して見せている。といっても、まあ、どんな人たちの間を渡り歩いたかという、お札の遍歴があって、それが大工であったり、大工の女将さんであったり、医学生、闇屋のブローカー、婆さん、陸軍大尉等々であることが物語られている。
 その中で、太宰らしいなと感じられるところを少し抜き書きして紹介しておきたいと思う。まず、この作品を物語る「百円紙幣」が印刷され、世上に出回った時のことである。
 
はじめて私が東京の大銀行の窓口から或る人の手に渡された時には、その人の手は少し震えていました。あら、本当ですわよ。その人は、若い大工さんでした。その人は、腹掛けのどんぶりに、私を折り畳まずにそのままそっといれて、おなかが痛いみたいに左の手のひらを腹掛けに軽く押し当て、道を歩く時にも、電車に乗っている時にも、つまり銀行から家へ帰りつくまで、左の手のひらでどんぶりをおさえきりにおさえていました。そうして家へ帰ると、その人はさっそく私を神棚にあげて拝みました。私の人生への門出は、このように幸福でした。
 
 作品の語り手である百円紙幣の彼女にとって、何が幸福感として感じられたのかは、うまくこれを言い表すことが出来ない。しかし、作家太宰の生涯の作品を考えた時に、主人公や登場人物に、いつもこのような人知れず小さな幸福感といったものを感じさせるように出来ているという印象を、ぼくは持っている。ここで言われている幸福感も、他に共通していて、小さな小さな幸福感であり、自足感である。
 貧しい大工が、後生大事にお札を抱えて、そして家に帰ってそれを神棚にあげて拝むという、ただそれだけのことではあるが、語り手をして「幸福でした」と作家太宰は語らせる。この時の、大工の幸福に、百円紙幣である彼女もまた幸福を感じているという事になるのだろうと思う。
 太宰治は、「炉辺の幸福」を痛いほどに希求する作家であった。しかし同時に、「炉辺の幸福」に、居座ることの出来ない人間であった。おそらく、「炉辺の幸福」は「針のむしろ」のようにも感受されたはずである。自分は「幸福感」として感じられないために、作品では登場人物たちに「幸福感」として感じさせ続けたと言ってもよい。
 本当は、太宰はこの作品における大工のように、百円紙幣を手にして神棚にまつるような、そういう民衆の一人でありたかったのだと思う。それで自足できれば、それが一番いいのだと、言いたかったに違いない。ささいなことではあるが、こういうところが太宰を読む一つのあり方であるとは言えると思う。
 次にこんな所も挙げておこう。
 
今宵死ぬかも知れぬという事になったら、物慾も、色慾も綺麗に忘れてしまうのではないかしらとも考えられるのに、どうしてなかなかそのようなものでもないらしく、人間は命の袋小路に落ち込むと、笑い合わずに、むさぼりくらい合うものらしうございます。この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、(いいえ、あなただって、いちどはそれをなさいました。無意識でなさって、ご自身それに気がつかないなんてのは、さらに恐るべき事です。恥じて下さい。人間ならば恥じて下さい。恥じるというのは人間だけにある感情ですから。)
 
 戦争も末期の頃の世相から、百円紙幣である彼女は、こう述懐しているのだが、ここから、まあ、太宰が当時をどのように印象していたのかを窺い知れるように思う。この中で、「この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに」と述べている件は、ちょっと注意が引かれる。太宰も、作品の中にこういう言葉を漏らすことがあるのだなという思いと、これはもう宮沢賢治の言葉ではないかという思いと、少し錯綜して感じられた。
 カッコの中の「いいえ、あなただって、いちどはそれをなさいました。無意識でなさって、ご自身それに気がつかないなんてのは、さらに恐るべき事です。恥じて下さい。人間ならば恥じて下さい。恥じるというのは人間だけにある感情ですから。」という部分は、さらに太宰的だと感じる。これを言っているのは「百円紙幣」で、「あなただって」というのは、すべての人に向かって言っているとともに、どこか強く、太宰自身に向かって、刃のように突きつける言葉でもあるような気がする。
 こういうところは日本人の倫理意識として、誰もが抱く普遍的な問題で、解決がつかない。というか、解決がつかないように日本人は悩むのだと言ってよいかも知れない。
 ここで太宰は、自己自身と家族と、言ってみれば「私的」な立場に立って利益を得ることを批判している。けれどもこの批判は、「恥じて下さい」という言葉によって、その強度を弱められている。人間は往々にしてそういう選択をするものであるという認識があり、一概にそれを否定できるものではないと感じるとともに、しかし、それでもなお、そこに恥じるという人間の感情が生じなければ人間ではあるまい、というその一点に、太宰の渾身の主張は込められているという気がする。
 現実から見れば、そこに恥の感情があろうがあるまいが、生じた損得の事実は変わらない。いっそすっきりと、自他の利害の冷徹な関係であったほうがよい場合もあるにちがいない。相手が恥の感情を抱いていたからといって、損害を被った側は、あっさりとこれを許すことが出来るだろうか。
 太宰は、一方は恥を抱き、その相手は、恥を抱いた隣人を許せ、というのだろうか。たぶん、そうなのだろう。
 だが、これでいったい何が解決するだろうか。
 
 少し、深入りしすぎた感がある。いろいろな考えも出てくるが、ここは自重して、作品に立ち返り、続きを見ていく。
 この後、作品では百円紙幣の、「生まれてきたよかったと思」った体験、忘られぬ楽しい思い出の一つが語られる。それは、闇屋の仲間である陸軍大尉と、小料理屋のお酌の女とのエピソードだ。
 二人は、客とお酌の関係だが、お互いに心がすさんでいるせいか、それぞれの立場で侮蔑し合う。しかし、空襲があって、お酌の女は赤ちゃんをおんぶし、酔った大尉の手を引いて近くの神社の境内まで逃げることになる。そこで、大尉の懐に入っていた百円紙幣の次の言葉となる。
 
 人間の職業の中で、最も下等な商売をしているといわれているこの蒼黒く痩せこけた婦人が、私の暗い一生涯において一ばん尊く輝かしく見えました。ああ、慾望よ、去れ。虚栄よ、去れ。日本はこの二つのために敗れたのだ。お酌の女は何の慾もなく、また見栄もなく、ただもう眼前の酔いどれの客を救おうとして、こん身の力で大尉を引き起こし、わきにかかえてよろめきながら田圃のほうに避難します。避難した直後にはもう、神社の境内は火の海になっていました。
(中略)
 その夜は、その小都会の隅から隅まで焼けました。夜明けちかく、大尉は眼をさまし、起き上がって、なお燃えつづけている大火事をぼんやり眺め、ふと、自分の傍でこくりこくり居眠りをしているお酌の女の人に気づき、なぜだかひどく狼狽の気味で立ち上がり、逃げるように五、六歩あるきかけて、また引き返し、上衣の内ポケットから私の仲間の百円紙幣を五枚取り出し、それからズボンのポケットから私を引き出して六枚重ねて二つにおり、それを赤ちゃんの一番下の肌着のその下の地肌の背中に押し込んで、荒々しく走って逃げて行きました。私が自身に幸福を感じたのは、この時でございました。貨幣がこのような役目ばかりに使われるんだったらまあ、どんなに幸福だろうと思いました。
 
 先に侮蔑し合っていた女と客が、そんなことをけろりと忘れたかのように、私利を持たない他利という善行を、それこそ無欲で行っている姿がここにはある。
 善を意識せず、思わず善を行ってしまう人間。人間の美しさというものは、こういうものだと太宰は語りたかった。ぼくは、こういうところで、いつまでも、太宰のファンでありつづけてきたのに違いないと感じている。太宰治にどんな人間的欠陥があったとしても、あるいは彼の文学の持つ欠点に見過ごせないものがあるとしても、こういう箇所に現れる彼の人間的な精神の価値を、どうしても、いいものだと言わずにはおれないのである。少なくとも彼の提起する人間精神の問題を、ぼくはまだ乗り越えているとは言い切れないのだから。
 
 
 『薄明』
 
 この作品は、太宰が住んでいた東京三鷹が空襲にあって壊れ、妻の実家の甲府に移住し、そしてそこでもまた空襲にあい、焼け出された時の様子を身辺雑記ふうに書いたものである。この中で、体験としての疎開の煩わしさについて語っているところ、娘の結膜炎がひどくなっておろおろする気持ちを表現している所などに、太宰らしさ、太宰の心の揺れなどが垣間見られて興味が引かれる。父親として、夫として、生活人として、まあ当たり前のことだが太宰もそれなりの気持ちを持って対していたことがわかる。
 これを読みながら、島尾敏雄の作品の、主に子どものことにふれた部分の表現を思い浮かべた。似ていると思った。文章や作品が、というよりも、父親としての姿が、だ。子を思う心が、必ずしも思うとおりにならない、そんな父親の悲哀というようなものを共通に眼にしていたとぼくには感じられるのだ。
 この二人の作家は、ぼくが一番よく読んだ小説家であるが、文学と生活の両立において、生活に不安定を来たし、そしてまたその部分をえぐって作品を書いたという点で共通するものがある。ごくふつうの読者の立場で、ぼくは文学って大変なものだなと思ったし、文学への情熱は生活を食い破るものだな、などというようなことも考えた。
 ここでは、これくらいのところを言って終わりにしようと思う。
 
 
 『苦悩の年鑑』
 
 昭和二十年の敗戦から、戦後、太宰には当初ある期待があったように思う。その期待は、たとえば作品「パンドラの匣」にもうかがえた。ぼくはそれを危うい期待だと感じた。
「苦悩の年鑑」の中で、太宰は早くも戦後の出発に失望を感じている。作品の書き出しは、「時代は少しも変わらないと思う。」の言葉である。この一句に込められた思いは、並大抵ではなかったろうと思う。憤りや絶望感さえ伝わってきそうだ。
 この作品は、小説としての体裁や形式に少しもこだわっていない。それどころかそういうものをすべてかなぐり捨てて、その上で言いたいことを性急に言いつのっていると、そのようにも思われる。
 何が言いたいのか。それは冒頭の言葉にあるように、「何も変わっちゃいないじゃないか」と言いたいのだ。何が変わらないのか。社会やシステム、それから諸々の関係に見られる「構造」がだ。太宰はそういっているのだと思う。
 ここには面白い問題がたくさん隠れているけれども、ここではそれを詳細に論じようとは思わない。ただ、戦後の出発にあって、太宰の目には、あちらこちらに雨後の竹の子のように現れて幅を利かし始めた言説が、何一つ本当には新しいものではなく、焼き直しであったり便乗に過ぎなかったりと、ただ訪れる四季の繰り返しに過ぎないかのように見えていたのだろうと思う。それから、個人史を振り返ると、「デモクラシー?そんなもの十歳の頃に考えていたことじゃないか。今さらどうして時代はそんな旧態依然とした旗を掲げようとするのか?」といった、個人と時代との、そのリズムの違いという点にも注意してみなければならないということがある。自分史の変遷と、時代の変遷との相違だ。個人は自分の変遷になぞらえて時代の変遷を見ようとする傾向があるといっておかなければならない。さしあたってこういう問題を思いつくが、太宰は文末に次のような言葉を残して作品を閉じている。
 
 まったく新しい思潮の擡頭を待望する。それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。
 
 この言葉が、さしたる説得力も衝撃も影響力も持ち得なかっただろうことは想像に難くない。ここで目を引くのは、「まったく新しい思潮の擡頭を待望する」という点だけだ。長く太宰を愛読するものには、その後の言葉がどのような過程を踏んで、言葉として書かれることになったかは了解でき、そういう個人の体験の重みが込められた言葉であることも了解されるにちがいない。だが、それにしても、この作品の末尾に置かれたこの言葉はとってつけたような印象も免れない。力が弱い。それはまた太宰自身が一番よくわかっていて、けれど、なけなしの言葉からやっと拾い集めることの出来た言葉でもあったろう。対抗できぬまでも、沈黙によって戦後の出発を旧態のイデオロギーの綱引き合戦の場で終わらせてはならないとする、それを許すわけにはいかないとする太宰の「必死」が、ぼくには聞こえてくる。つくづく、孤立無援を貫く、骨太な作家であったと、ぼくは思う。
 
 
 『十五年間』
 
 太宰はここで言いたい放題を言っていて痛快である。
 戦時中の、太宰の、あまり詳らかにはしなかった本音も、垣間見える。
 
 戦時日本の新聞の全紙面に於いて、一つとして信じられるような記事は無かったが、(しかし、私たちはそれを無理に信じて、死ぬつもりでいた。親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子どもがそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて黙って共に討死にさ。)
(中略)
 私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。この戦争には、もちろんはじめから何の希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。
 
 やっちゃったものは仕方ない。同胞が、次々に戦場に繰り出されていくのだ。当事者の一方の共同体の一員として、運命を共にすると覚悟するほかはない。自分は間接的にせよ、戦争に荷担した。太宰はそう告白しているのだ。
 当時の文学者や文化人に、戦争を押しとどめるほどの力の無かったことは事実である。これは現在も同様で、個人の思想や主張が時代の流れを左右する働きとは元来が無縁であると思われる。もちろん、それが数を獲得しても、それとはまた別の異質の力が、時代に働きかけて流れを構成していくものだという気がする。
 この時の、戦争と敗戦が太宰に残した傷跡は、意外と深かったのではあるまいか。ここまでの戦後の作品を読みながら、ぼくはそう思うようになってきた。これらの作品で何か太宰が、きりきり舞をして、大変切迫した言葉を息せき切って並べ立てているように印象されてならないのだ。お伽草子や、新釈諸国話に見たような余裕さえ感じられた書き方が見失われてきて、少しずつ急迫の度が増していくようだ。
 
 私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかったのである。
 それは知識の淫売店である。いや、しかし、淫売店にだって時たま真実の宝玉が発見できるだろう。それは、知識のどろぼう市である。いや、しかし、どろぼう市にだってほんものの金の指輪がころがっていない事もない。サロンは、ほとんど比較を絶したものである。いっそ、こうとでも言おうかしら。それは、知識の「大本営発表」である。それは、知識の「戦時日本の新聞」である。
(中略)
 私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言わせてくれ。そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚に私の著書を並べているサロンは、どこにも無い。
(中略)
 もっと気弱くなれ!偉いのはお前じゃないんだ!学問なんて、そんなものは捨てちまえ!
 おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりゃしないのだよ。
(中略)
 ここに芸術家の悲惨な孤独の宿命もあるのだし、芸術の身を切られるような真の美しさ、気高さ、えい何と言ったらいいのか、つまり芸術さ、そいつが在るのだ。
 私は断言する。真の芸術家は醜いものだ。喫茶店のあの気取った色男は、にせものだ。アンデルセンの「あひるの子」という話を知っているだろう。小さな可愛いあひるの雛の中に一匹、ひどくぶざまで醜い雛がまじっていて、皆の虐待と嘲笑の的になる。意外にもそれは、スワンの雛であった。巨匠の青年時代は、例外なく醜い。それは決してサロン向きの可愛げのあるものでは無かった。
 お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾すべきか。自分である。私である。太宰治とか称する、この妙に気取った男である。生活は秩序正しく、まっ白なシーツに眠るというのは、たいへん結構な事だが、(それは何としても否定できない魅力である!)しかし、自分ひとり大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪していたサロンにも出入りし、いや出入りどころか、自分からちゃちなサロンを開設し半可通どもの先生になりはしないか。
(中略)
 私は既に三十七歳になっている。そうしてまたもや無一物の再出発をしなければならなくなった。やっぱり、サロン思想嫌悪の情を以て。
(中略)
しかし、私は何もここで、誰かのように、「余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり」などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言い、戦争責任云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義を発揮するつもりはない。いまではもう、社会主義さえ、サロン思想に堕落している。私はこの時流にもまたついて行けない。
(中略)
 またもや、八つ当たりしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。
(中略)
それらの主義が発明された新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。
 新現実。
 まったく新しい現実。ああ、これをもっともっと高く強く言いたい!
 そこから逃げ出してはだめである。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。
(中略)
 私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの、それをいまの日本の「新文化」は、素通りして走りそうな気がしてならない。
 
 要領の悪い引用だが、これだけ読めば、太宰が何に苛立ち、戦後の出発の何に危惧を抱いていたかは察知されるにちがいない。また、当時の日本の「新文化」が、太宰のこうした必死の抵抗にもかかわらず、太宰の爪痕の痕跡を残すことなく素通りして走り去ったか、あるいはまた現在その「文化」がどのように形を変えて、素通りを決め込んでいるか、僕たちの現在が立ち会っているとこである。
 ところでさて、玉砕にも、覚悟を決めた特攻のようにも見える太宰の本音の激白の根底に何があるかと見れば、ここにはたとえば次のような皮一枚のよりどころしかないのが拙劣であり、いかにも太宰治らしいというほかにない。
 
 私は、やはり、「文化」というものを全然知らない、頭の悪い津軽の百姓でしか無いのかも知れない。雪靴をはいて、雪路を歩いている私の姿は、まさに田舎者そのものである。しかし、私はこれからこそ、田舎者の要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもって、押し通してみたいと思っている。いまの私が、自身にたよるところがあるとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。
 
 エリートや指導者や文化人らが、こぞってでたらめな戦争を起こし、日本を敗戦に導いたのだとすれば、戦後は、一見「要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問」という逆転した価値を認めるところから出発しなければなるまい、というのが、太宰の本当の思いだったのかも知れない。
 敗戦少し前、太宰は出版者からの依頼を受け、故郷である津軽地方に旅したことがある。
この時の事にふれて、
 
結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生まれるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生まれるのではなかろうか。私は、自分の血の中の純粋の津軽気質に、自信に似たものを感じて帰京したのである。つまり私は、津軽には文化なんてものは無く、したがって、津軽人の私も少しも文化人ではなかったという事を発見してせいせいしたのである。
 
と書いている。
 太宰は、拙劣さ、不器用さ、文化の表現の無い戸惑いに、「健康」を感じたという。そこにかえって、「濃厚な人間らしさ」があるのだ、という事なのだろう。
 人々はひどい勘違いをしている。あるいは、気づきながら、気づかぬふりをして自分にも嘘をついている。人間として、どんな人たちが本当に人間らしい生き方をしているかという点について。
 太宰は、こういうところを剔りながら、文化の流行に無頓着ではいられなかった。ために、焦燥と絶望と孤独を加速して引き寄せていったにちがいない。
 進歩した文化は停滞する文化を駆逐する。太宰がここであるいは無意識に提起している問題を、言葉よりも深く受け止めれば、西洋の知一般や文明史観について言及しなければならなくなる。もとよりそんな力がぼくにあるはずもなく、ここではただ、太宰の戦いがいよいよ核心にちかく迫ってきている事を予感して、先に向かう事にしたい。
 
 
 『冬の花火』
 
 この作品は、太宰にとって初めての戯曲である。他の小説作品もそうだったが、現在の社会生活に注いだ視線をそのままに、ただその視線の先を変えて読めば、たいへん古めかしい感じがするのは否めない。が、これは致し方がない。時代背景が違う。
 内容はというと、田舎の婦人の不倫問題が少し入っている。不倫とはべつに、主人公数枝の波風のある生涯からもたらされた罪意識のようなもの、それがテーマとして中心になっていると見てよいかも知れない。その主人公の数枝のいくつかのセリフに、注意が引かれる。
 
あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮らしの事で一ぱいなのでしょう?そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆れるじゃないの。文化ってどんな事なの?文のお化けと書いているわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですわね。おそろしい事だわ。
(中略)
ねえ、アナーキーってどういう事なの?あたしは、それは、支那の桃源郷みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそおのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるような気がするわ。まずまあ、あたしがお百姓になって、自信でためしてみますからね。雪が消えたら、すぐあたしは、田圃に出て、
 
 こういうところの数枝は、太宰の化身のようで、劇としてみると無理を感じる。太宰が言いたかったところを数枝に言わせたという感じだ。少し強引である。
 
 数枝はこのセリフの後、優しい継母「あさ」の不倫を知る事になり、
 
桃源郷、ユートピア、お百姓、(第一幕に於けるが如き低い異様の笑声を発する)ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。(高くあははと笑う)さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救って下さい。出来ますか、出来ますか。(と言いながら、手紙を拾い、二つに裂く、四つに裂く、八つに裂く、こまごまに裂き)えい、勝手になさいだ。あたし、東京の好きな男のところへ行くんだ。落ちるところまで、落ちていくんだ。理想もへちまもあるもんか。
 
とまあ、捨て鉢なセリフをはく。
 これらのセリフを表出させる数枝の心境は、そのまま太宰の心境であったろうと想像されるが、たいへん共感を覚える。
 戦後の混乱とはべつに、現在の社会もまた平和と繁栄のただ中に目標のようなものを見失い、大きく混乱し、ただ指導者然とした厚顔無恥に見える連中が盛んになんだかんだを言っている。けれどもさっぱり景気もよくならなければ社会から犯罪が減らないばかりか増大し続けている。そうして、さみしさや孤独や辛さから、右も左も不倫という事になっているのかも知れない。
 数枝のセリフではないが、「これが日本の現実だ。さあ、政治家さん、学者さん、経営者さん、お医者さん、評論家さん、だれでもいい、私たちを救って下さい。出来ますか、出来ますか。」と、若者からお年寄りまで、多くの国民が、市民が、庶民が、民衆が、心でそう思いながら生きているにちがいないのだと思う。そうして、頼れる何ものも見いだす事が出来ずに数枝が落ちていく事を決意したように、落ちていこうとする人は今も生まれ続けているにちがいないという気がする。
「下降」「負の十字架」などの言葉は、太宰を評する時に聞かれる言葉だが、現在の社会では無名の人々にさえ当てはまる。負け組?そんな事はわかっている。だが、負けてもなお守らなければならない秘めたる何かを失った勝ち組社会は、それほどあこがれなければならない社会であるか。また、本当に生きるに値するか。そうして、ひとは、藁をも掴む手を、力無く引き戻すのだ。
 
 戦後の出発に当たって、太宰は桃源郷のような構想しか打ち出せずに、それは夢物語に終わるものとなっている。まさに冬の花火だ。季節はずれだが、花火に点火してみせるほか無かった。
 ここからはしかし、もう一つ、家庭の崩壊、家族の解体が予言せられていたような気がする。夫と妻、夫婦と子どもの関係は、まさに現在の家族の風景そのままではないか。太宰は何もそこまで意識的ではなかっただろうが、体験的に語り合う事が出来ない、理解し得ない世代的な断絶があり、家族の中でひとりひとりが切り離れて存在する現在の家族の解体の萌芽がここには見られると思う。
 もうすこし、この問題を掘り起こしてみてもいいのだが、家族や家庭の問題に真っ正面にぶつかった作品が後に見られるはずである。その時にまた考えたいと思う。
 
 
 
 『春の枯葉』
 
 この作品にもまた、太宰の戦後の出発における心象風景とでもいうべきものが明らかにされている。国民学校教師である主人公「野中」が、教室を訪れた「菊代」と外を眺めながら語る言葉。菊代の「春の青草」という言葉に対し、
 
(相変わらず外の景色を眺めながら)青草?しかし、雪の下から現れたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう、一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現れて来た。意味ないね、この落葉は。
 
 こう言って低く笑う野中の言葉に、どんな含みを持たせているかははっきりしている。敗戦によって、その苦しみを糧としながら、戦後を真っさらから始められるかも知れないと夢想した太宰の眼に、見えてきたのは希望の青草だけはなく、かえって、去年に散った枯葉が現れた。何にも変わっていないじゃないか。旧態依然として、元の姿に戻っただけだ。戦時という長い冬の間、雪の下で我々は何を辛抱していたのか。
 戦後の出発に当たって、太宰には最初から絶望的な状況が眼に飛び込んでくる。
 この辺の事情は、規模が小さいながら自分が七十年代の大学紛争の渦中にのみこまれ、きりきり舞いしながら、紛争が沈静化して行きつつある中で、何も変わっちゃいないじゃないかと思った体験から類推されてくる。一口に言って、社会の仕組みや体制というものは、得体が知れないほどに堅固なものだと思った。
 
 この作品を読んで、ほかに思ったところを言ってみれば、一つは太宰自身の疎開経験が根底にあるのかなと思った。そしてその体験は、意外に太宰にとって強烈なものだったのかなと思われた。作品の端々から、ふとそんな事が感じ取られるのだ。もちろんあまり根拠があるものではない。が、その経験を抜きしてはこの作品は成り立たなかっただろうと思う。
 作品全体の流れは、地元に根を置く夫婦と疎開してきた兄妹との、二つの家の交流と嫉妬やらのぎくしゃくとした人間関係である。特に女たちが互いに男たちへほのかな思いを寄せる形で劇の進行がある。
 所々関心を持つところはあるのだが、それを掘り起こしてというまでの意欲は喚起されない。ひとつ、面白く感じたところを引用して終わりにしたい。
 教師野中が自嘲めいて口にした言葉だ。
 
ぼくは今罪人なんだ。人を教える資格なんか無いのに、どうも、永く教員なんかしていると、教壇意識がつきまとっていけねぇ。
(中略)
なんにも知らねえ癖に、それでも、教壇に立って、自信ありげに何か教えていやがる。学問が無くても、人格が立派とでもいうんならまだしも、毎日の自分の食べものに追われて走り廻っている有様で、人格もクソもあるもんか。学童を愛する点に於いては、学童の父母に及びもつかぬし、子供の遊び相手、として見ても、幼稚園の保母にはるかに劣る。校舎の番人としては、小使いのほうが先生よりも、ずっと役に立つし、そもそもこの、先生という言葉には、全然何も意味が無い。
 
 これは小学校教員であったぼくが、教員である事をいやに思っていた、その時の心情にとてもよく似ていて、あらまあ、太宰がこんなことも書いていたのかと思った。よく分かっているじゃないの、という感じだ。先生でいる資格がない。だからぼくは辞めた。辞めた意味の一つはこんなところにもあったなと感じて、そして引用してみただけだ。
 
 野中の妻、節子の描き方を見ると、とても気分が息苦しくなる。息苦しく感じさせるような描き方をしている。欠点のない良妻のようで、しかし、野中には社会の体制の堅固さのように堅固に立ちはだかる存在のように見える。作品中の言葉を使えば、「有史以前から、お前たちには、そんな強さ」があると感じさせる存在である。
 これは分かりにくいのだけれども、世の夫たちは、意識するにせよ無意識にせよ誰もがみな似たような感じを持っているものだと思う。
 女がなぜ強いかは、最近読んだ養老孟司さんの「超バカの壁」に、「男性は女性をわざわざホルモンの作用でいじって作り上げたものです。元になっているのは女性型なのです。」とあったことで理解できた。これでは太刀打ちできない。作中、野中が盛んに挑んで敗退を続けるのも仕方がないわけだ。太宰は生物学的な根拠については知るよしもなかったろうが、直感的に女性の強さの根拠の、強固によってたつところの、深遠なる事に関してはアンテナが行き着いていたのかも知れない。もともとが男は出来損ないなのだ。その意味では太宰は優れて男性的であったと言えるかも知れない。