近況報告
 
 しばらくぶりで職にありつけた。時給七百五十円の契約社員という待遇である。今日で十一日目。まだ何とか勤まっている。というか、新人なので、周囲が遠慮をしてくれているのだろう。
 プライドという言葉があるが、私は元々周囲にひけらかすようなプライドは持っていない。いつの頃までか持っていたかもしれないが、だいぶ以前からなくなったように思う。ひけらかすプライドはないが、内にこもるプライドは皆無ではない。そのプライドは世間の人々とは違って、逆向きに発揮される。私は間違っても人の上に立つような人間ではない。
 大学を出て、教職を経て、しかし現在の年になって民間で仕事をしようとすれば、警備や交通誘導や、そんなたぐいのパート労働くらいしかない。それまでに培ってきた世間に必要とされる力能など何もない。だからこんな仕事が妥当だと思うところがある。特殊な資格や技能を必要としない施設管理の仕事。エアコンの温度調整、電球の交換、そんなだれにでもできそうな仕事だ。
 特殊なのは、詰め所と呼ばれる四畳半くらいの個室に、一人、一日待機していなければならないことだ。二、三の前任の人たちは、気が狂う、とか冗談半分に言う人もいたらしいが、私はこれを願ってもない環境と考えることにしている。
 というわけで、私は本当のところ、当分はこの仕事をいい加減にこなしていきたいと考えている。気負いはない。何をやっても物にならない人間である。こういう仕事で物になる保証もない。一ヶ月十万そこそこの金をもらって、そしてそれが、今は私にふさわしいこの世界でのあり方のような気がする。それだけの人間なのだ。それで何が悪いか。何もないだろうと思う。
 私のような者を、高い賃金を払ってまで社員として雇ってくれるところなどどこにもない。だが、取り柄はなくても、何となくの数あわせのように凹を埋める人間を必要としている会社や事業所といったものは少なくない。私見では、たいへん多くなっていると思う。そういうところは賃金が安い代わりに、高度なことを要求してはこない。労働の内容や質からいえば、単調で単純な作業であることが多い。これを逆手にとらない手はないではないか。とてつもなく役に立つわけではないが、それでも、そこに不特定多数の中の誰かがいなければならないとするならば、私がその不特定多数の一人になって、その凹みをカバーすれば、少なくとも道であれば平坦を保てる。ささやかな社会への奉仕にも繋がるというものだ。肩肘張ってやらなければならないことなどない。私はそう思って今ここにいる。
 私は教育世界をリストラしてやるつもりで学校をやめたが、リストラされた会社員と代わりはない。打ちひしがれた思いを抱いて、未来に不安するばかりの生き方ではない生き方ができると考えている。まだ模索の途中ではあるが、「諦めるのは早い」、そう同士に向かっていいたい思いが心の底からわき上がる。
 この世界でうまくやっているように見える連中を、横目で見て羨む必要はないのではないだろうか。そう感じてしまう瞬間があったとしても、いやいや人間というものはそういう生き方を選択しなければならないというものじゃないんだ、そう心の深みで自分に言い聞かせる内なるプライドの発する言葉が意識に浮上する。
 とてつもないデクノボウ、とてつもなく人に侮られる人間、私は心底そういうものになりたいと思う。奉仕を捨てた宮沢賢治。他のためにかけずり回らない宮沢賢治。それが私の理想かなあ。というところで、近況の報告はおしまいとする。
   

近況報告2
 
 働き始めたのは民営のギャンブル場である。公営ではない。たぶんそうだ。よく分からない。ビル等の設備管理の会社に採用され、勤務がその場所というだけだ。だから、まだ仕組みがよく分からない。
 朝から、客がぞろぞろやってくる。年輩者が多い。そこに若者や女性がちらちら混じる。まあ、パチンコ店と変わりがない。
 客層的には年金生活者が多いのだろうか。だが上品というよりは、身辺に生活や心の疲労感や荒んだ雰囲気を漂わせた感じの客が多い。幾分私自身がその匂いを共有するから、離れて見ている分には愛すべき人たちと映る。何故か、スーツ姿の客もいる。携帯電話で、仕事の話をする人もいる。まあしかし、客と従業員という関係以上に親しくなりたいという気は起こらない。中には強面も混じっている。帰った後には紙コップやレースを予想した新聞が散乱している。マナーは、決してよいとは言えない。
 パチンコやこの施設のような場外券売り場に、結構人が集まるのは何故なのかと思う。自分のパチンコ通いの経験からいうと、遊技代くらいはあるが、もっとお金がほしいと考えるからだと思う。予想し、的中するか外れるかの面白さもあるには違いない。遊びの一種なのだが、どうせ遊ぶなら儲かるかもしれないという種類を選ぶ、ということなのか。
 ギャンブルは、たまに当たっていい思いをし、けれども長い期間で見れば持ち金が目減りしていくシステムだ。そうでない人も中にはいるかもしれないが、ほとんどはそうに違いない。それでもギャンブルに精を出すというのは、まあ病気の一種なのだろう。自分自身がそうである。儲からないと分かっていながら通う。ざっと見渡して、他にさしあたってやらなければならないこと、やりたいことがないからに違いない。
 こう言うと不謹慎と思われるのかもしれないが、人間、聖人君子ばかりじゃおもしろくない。私などもぐうたらには違いないが、ぐうたらなままに生きていられるんだから仕方がない。大抵、誰も文句を言わない。いや、文句は妻や家族が言う。それでもまだ離婚や勘当を言い渡された覚えはない。ここまでは大目に見るということなのだろう。
 こうやって一日を暮らしていけるんだからいいじゃないか。ギャンブラーは多分そう思っている。世の中に、こうやって生きなければならないという決め事はない。いや、法律などに引っかからない限りはどうやって生きて行ったっていいのである。ニートもパラサイトも、そうやってどこまでも行けるならば、そうやって行っていいのである。つまりは人それぞれの考えで、その考えは自由で尊重されなければならないと憲法にも謳われている。 ニートや働かない若者が増えて困ると政治家や有識者が言うが、そんなことは知ったことではない。ギャンブラーはそう思う。だって、会社に勤めてふつうの暮らしをしたって理不尽なことも多いし、面白くないんだもの。で、以前は、それは我慢をしなければならないものだったし、自分の思いというものは抑えて当たり前の時代であった。
 今は、自分の思いを抑えなくてもいいし、世の中の面白くなさというものにも私たちは気づいてしまったといえる。世の中に自分を合わせていくなんて馬鹿馬鹿しい。
 多くのエリートは政治、経済、学問等に従事し、取り巻き、同心円の中心から離れて私たち一般大衆、裏社会の住人と分布が多様化している。どこで生きるかはそれぞれで、決してどこで生きようと人間の生きる意味と価値には違いがない。そう思いたいし、そう、思ってもいる。
 先日宇宙ステーションからの画像をNHKを通して見たが、地表は思うほどでこぼこが少ない。もしかすると私たちの人生もまた。   

ワーキング・プア
 
 働いても貧乏、とでも理解しておけばいいのだろうか。このごろ、「ワーキング・プア」という言葉をよく耳にする。
 契約社員、派遣社員、パート、アルバイトという形でしか働けない人々には、ボーナスはもちろんのこと時給千円以下の低賃金の働き口しかない。すべてではないが、新聞やテレビ等を通じて、安い賃金で働く人の比率が高くなっていることをよく見聞きする。
 ひと頃の企業の人員削減により、実感からしても、街には労働力があふれ、働きたい人、働かなければならない人たちは買いたたかれる。
 若い人、高齢の人、いろんな人が、今や低賃金で働くことを余儀なくされ、食べていくことがやっとという生活が当たり前のようにさえ感じられるようになってきた。求人広告のチラシ、新聞の求人欄、その他。
 景気が上向きだとか、企業の経常利益がプラスに転じたとか好況だとか言われているが、そんなものはどこか遠い国の出来事のようだ。 先日、企業が収益をあげて懐具合がよくならなければ、いずれにせよ国民一人一人におこぼれは回らないのだから、法人税の引き下げは妥当な政策であるという旨の発言をしていた大学教授がいた。
 もちろん、ひでえもんだなと思いながら聞いた。
 ながーい不況の中の一連の政府の政策を見てきて、弱者切り捨てに取りかかってきたことは間違いのないところだと思う。銀行に公的資金を投入し、年金や医療負担などは生活者にしわ寄せし、税金の無駄遣い、その無駄になった分の金を巡って一部の特権者が群がって取り合いをしている。
 法人税の引き下げによって、大企業の社員たちには多少の利益の還元もあるかもしれない。だが、それによって、非正社員が、あるいはパート労働者たちが正社員として雇用される流れは作られていくだろうか。
 私はそんな期待はとても出来ないと思う。 安倍総理は、再チャレンジを、などと坊ちゃん総理らしいきれい事を言っているが、私を含めてワーキング・プアに近い層の人たちは、もはや腹をくくっていると思う。
 一言でいえば生活の自衛である。それぞれの生活を何とかしのいでいくということである。だれもあてにしない。そういう決意である。
 ニート、働かない若者、バイト生活、パート労働、そしてワーキング・プアときて、これらは社会問題として大きく取り上げられてきた。そして同時に、社会にとってゆゆしき問題のようにいわれている。
 私はしかし、こうした「負」の現象の中に、意外に大きなパワーが潜んでいるように思われて、密かに、幻想の中で肩を組み合うことが出来ないかと夢想するところがある。
 社会の中にこうしたあり方をしている人々の中に、一様に、何かしらの「気付き」が訪れている。そう、考えてみるのだ。
 大胆に言ってみれば、「拒否権の行使」とでも言うべき権利の主張。
 どんな、何に対しての拒否権なのかは今明らかには出来ないとしても、現状への、消極的な「否」の意思表示にはなるのではないかと思っている。そればかりではない。消費の停滞を増長し、やがて社会に大きなうねりをもたらすに違いないと私は思う。
 食い分だけを働いて、後の消費は放棄する。生き甲斐は消費によってではなく、他のものに求める。この、消費に関わらない他のものを私たちが発見したら、いったい社会はどういうことになるのか。企業は、政府は、どういうことになるのか。
 弱者切り捨ての好況など一過的なもので、貧しいものが増えることは、この国全体の景気を沈ませるに違いないと私には思える
 
 
社会に向かって、ひきこもる
 
 数日前に、いつものように車で通勤していた途中、なぜか見慣れた混雑のなか、目に映る光景の中に、見えないトンネルがいくつも重なってあるのだと想像された。
 それは車の数ほどもあって、ごった返す交差点にあっても、実は、それぞれのトンネルのなかを、車は孤独に走っているに過ぎないという想念に繋がっていった。
 道の両側にはのどかな田園と、その奥の方には小高い丘のように稜線をかたどり、地平線を構成する風景がおかれている。空には雲と青空と、時に鳥たちが視野の片隅を飛んでいる。
 けれども私たちは風景を、まるでテレビ画面を眺めるように眺めているに過ぎない。バックグランドピクチャー。それぞれの透明なトンネルの両側に映し出された、それは流れていくだけの風景といえるに過ぎなかった。
 余韻は仕事場にも持ち越された。
 
 見慣れた光景が、まるで夢のように手が届かないという思い。
 職場の中の、いつもの人たちとすれ違うたびに一言二言交わす言葉。それも何か夢の中の出来事のように思える。
 詰め所に戻り、私はその気分を表そうとして、今、ワープロに向かっている。
 脳が空回りをしているのかもしれない。もはや脳は、現実を必要としていない。もしかすると、そういうことなのかも知れないと思う。
 意識も身体も、長く独房にあり続けたせいかもしれない。脳の中で何かがぐるぐる回り続けていて、外界の刺激を刺激として受け付けなくなってしまったのだろうか。
 
 無私とは、脳のなかをぐるぐる回転し、ループする<私>的想念を放棄して自分を型に嵌め込むことかもしれない。他者の目に映るように、その姿に自分をとどめることだ。立ち位置をそこにとれば、ある苦しみから逃れることが出来る。
 
 私は、職場では「設備」の男である。私がなにを考えているか、どんな人間か、職場の人たちも客たちも何も知らない。それは知る必要もない。多分そう思っている。私自身、そう考えてそこにいるから、それが分かる。知ることや知らせることは億劫なことだ。ある距離を持って接していれば、利害にかかわる問題は生じない。エネルギーを消費しない知恵、かもしれない。だが、時折、いたたまれない寂しさにおそわれるときがある。家族や友だちの温もりが欲しくなるのはそういう時だと思う。
 私は愛とか友情とかについて懐疑的に詰めていって、自分的には不可能と考えるようになった。だが、希望まで失った訳ではない。
 
 社会の中で孤立していくということはよくないことだろうか。私はしかし、是非を云々する前に、本当は誰もがそうであるに過ぎないと思われてならない。孤立が怖いから人は群れたがるのではないか。そして何かをきっかけに、人は否応なく、またあからさまに、孤立してしまうことはいつでも起こりうる可能性として身近に存在する。
 ひきこもり、その他の対人関係障害と呼ばれる状況は、怖れ、回避しなければならないことなのだろうか。私は先進諸国に現れたこうした状況を、容易く人為によって解決できるものだとは思わない。それは生命にとって自然の過酷さからは解き放たれたとはいうものの、人工に姿を変えた過酷さとしてあらわれざるをえない現実ではないかと直感する。そして、いつの時代も、経験者の声からしか、過酷を超えて未来を開く手がかりは得られないものだという気がしている。
 
 
はげ男
 
 寒がりの客がいる。はげ男である。さっきも、ロイヤル室の客席係から詰め所に電話がかかってきて、温度を上げてくれといってきた。ちょうど温度計測の時間だったので二階を周り、それから三階に上がってロイヤル室にいくと、そのはげ男が、
「おい、こら、コノヤロー、寒い。」
と言ってきた。『コノヤロー』はないだろうと、むっとしながらつい見返してしまった。愛想笑いするのも、謝ってみせるのも癪だから、早々に無言でそのロイヤル室から退出した。「悪いがもうすこし温度を上げてくれないか」くらい言えないものかと、そのマナーの無さにうんざりする。馬鹿としかいいようがない。
 幸いなことにこんな奴はそんなにはいない。しょっちゅう来ている客だから、はじめからもうすこし着込んできたらいい。
 このロイヤル室にはあと二、三人寒がりがいて、そのためにほかのところよりはいつも温度を高めに設定している。昨日も、今日のはじめの設定と同じにして文句は言われなかった。天気もむしろ今日のほうがよくて、もしかすると午後には設定を下げなければならないかもしれないとさえ考えていた。
 計測では、二十五度を超えていたのである。それでも寒いと言うのだから、「お前は病人だ。こんなところに出歩かないで家でじっとしておれ。」くらいは言ってやりたいものだと思う。
 キレルまでにはいかないけれども、動揺は静まらない。私は小心で、こんな時、心の中でわなわな震え、どうやって心を鎮めるかに腐心することになってしまう。蹴りつけようか、叩きつけようか、凄んで「うるせー」と言ってみようかなど本気で考えてしまう。しかし、いつもそんなことは出来ないで、時間が経つことを待つということになってしまう。 第一、このはげ男は最近ロイヤル室には姿を見せなかった。あいつがいなければ、どうということもない。たった一人の男のために、他の客に暑い思いをさせることも癪だ。あいつは二階の一般席にいることもあって、その時はロイヤル室よりは温度を低めにしているのに騒がない。ロイヤル室では二千円の席料を多く払わなければならないために、言いたい放題を言うのかもしれない。客席係も、迷惑な客だと思うことがしばしばあるに違いない。こんな奴は出入り禁止にすればいいと思うが、こんな奴でも客は客で、そう簡単に追い出す訳にはいかない。逆に、対応を誤れば、私が解雇ということになってしまうだろう。そういうことを、あいつらはよく知っている。ギャンブル好きのこういった手合いは、しっかりと狡賢く陰険な面を持っている。喧嘩になれば、どうしたってこちらが負けそうだ。
 こいつらは、何かあればすぐにオーナー側の偉い奴に言いつける。金を落とす客が大事で、大抵、私のような下っ端の要員は叱られ、切り捨てられることになると思う。そんなふうに、今や雇う側は、雇った人間を守るという意識さえもっていない。もとより私は直接雇われているのではなく、請負業者の側で雇われているに過ぎない。オーナー側からあいつは要らないといわれれば、即刻首ということになりかねないのだ。
 首になったってどうってことねえや、くらいの気持はいつだって持っている。最低でも、私に手を出した奴は道連れにしてやる、と、まあ気持だけはそんなふうだ。だが、実際には、やられ損ということになるのかもしれない。これまでの人生を振り返ると、思い通りにならなかったことが多い。どうしてか、子どもの時のように、何が何でも負けまいとする気概は弱くなっている。ああいう連中だってどこかで何かに勝ちたいと願っているに違いないと思うと、負けに耐えられる自分がもう一つ耐えてすめば、それでいいとも思う。
 
 
初源に殉じるということ
 
 生き物というものは、植物であれ動物であれ、成長し、子孫を残す作業を終えて現実世界から消えてゆくというパターンを持っています。何のためにそうするかは分からないで、ただただそれを繰り返しています。
 分からないということはどういうことかというと、初源がそうであったということだと思います。つまり、同一であり続ける、存在しつづけるということが出来ないという制約の中にある、あるいはあったということだと思います。変化が前提としてあったということです。始まりがあった以上、どうしたって変化から逃れられない。そしておそらく宇宙的な規模で考えると、終わりというものはありえないのだと思います。その中にあって、例えば種の絶滅とか生成とかはいくらでも繰り返されると考えられます。
 もう一度生誕と死に立ち返って考えてみたいと思います。そこにある、気の遠くなるほどに単調なそして永遠の繰り返しの意味とは何でしょうか。
 私には自動的に繰り返しているとしか思えません。そこに、種の繁栄とか、個を肥大化させようとする意志などは存在していないと思うのです。すると、それはただ自動的に繰り返されているに過ぎないことだと思います。 それは、現実の誕生というものに、その初源に遡って考えてみても、意志は存在しなかったことを意味するのではないでしょうか。 人間以外の生き物、あるいは無生物をふくめて考えても、淡々と殉じています。つまりそういうものであることに殉じているということです。
 人間は、自分たちを例外的なものとして、他のいっさいと区別して、いろいろなことを包括して考えることの出来る生き物だと考えていると思います。けれども、本当に宇宙的規模の現在の枠組みから例外的に存在していると言えるのでしょうか。ただそういうように、人間の種の特殊な思いこみの中で、世界をそう捉えてみているに過ぎないのではないのでしょうか。つまりなんだかんだと意味づけてはみているが、大局的には、結局他のすべての存在と同等に、宇宙の法則の、その埒内に殉じているのかもしれない。そう私は思います。ただ、これも神的な視線で眺めるからのことであって、はるかな宇宙のさらに深く遠い宇宙視線からは、人間など、存在さえ認められないに違いないという、屋上屋を架す人間的思考のなせる技に過ぎません。
 こういう思考の肥大化を推し進めて、いったい私たちの脳髄は、何を企んでいるのでしょう。
 発生史からみれば最も後発の脳髄はしかし、DNAや細胞といったより基底の存在の元に成長したものであって、そうであることによって、初めから埒内という制約の枠は超えられないものだというほかはない。結局のところ、仏の掌を出られない孫悟空ということになるのではないでしょうか。
 とはいっても、考えるということ、生きて人間的な思考をすることが無意味なことだというつもりはありません。人間は、考えるように出来ているのですから、考えることに殉じていいのだと思います。ただそこに、傲りのようなものがあってはならないのだと言いたいのです。取り立てて高級なことでは決してないんだよというような意味合いのことが、ここでは言ってみたいことなのです。つまりこういう文明を築き、宇宙の解明に届きそうな思考を推し進める特異な生き物には違いないのですが、他の存在を超えたものではないことを私たちは考えておかなければならないということです。バラエティーがあるなかの、あるいは最もバラエティーに富んだ一種に過ぎないかもしれないということです。そういう視点からは、蟻さんとも兄弟に過ぎないじゃないかということです。
 
 
仕事の合間
 
「働く男のぐだぐだ」のテーマは、仕事する人間の、日々の率直な思いを表現してみようというもので、前回の「初源に殉じるということ」は趣旨にあわない文章になってしまいました。書き始めは、エアコン運転のための温度計測の傍ら、待機場所の詰め所内でこんなことも考えてますということを言うつもりでした。日々、どういう思いを思いながら仕事をしているのか、世間的には、そういう情報はたくさんありそうで、意外に多くないような気がしていました。また、自分のような人間の、そういう仕事中の過ごし方をしている情報もあまり見かけたことがないと思っていました。へえー、こんなこともあるのか、と思われるような情報を流してみたかったのです。もちろん、そんなこと誰も気にもとめないだろうことは重々承知していますが、あってもよかろうくらいの気持です。
 それで、世間一般には、前回に書いたようなことを考えながら労務という仕事に従事しているとは考えにくいことではないかと私は思います。けれども、私は自身がそうであるから、もしかすると同じ施設に働く例えば警備さんのなかにも、私のようなことを考えながら仕事をしている人がいるのではないかと、この頃は思うこともあるのです。何を考えているかというと、私は大衆の、中でも最も下層の住人ですが、それでも文学的なこと、思想的なことなどを手放さず考えることが出来ていることの中に、時代の変化、その予兆めいたことを感じているということなのです。
 大衆の知的レベルの上昇。それがリストラ、あるいはフリーターやニートの増加という形に付随して、いま進行していると言えるのではなかろうか。そう私は感じているのです。 フリーター、ニートと言えば、国民総生産力のダウンの文脈で読み取られ、批判的言辞が声高に主張されることもあるようですが、そしてそう主張するのは幻想的現実主義者に過ぎないのですが、私にはフリーターやニートと言えば少しも否定されるべき存在ではなく、かえって良心的勢力として増えて欲しい気がしているくらいです。
 何といっても彼らを批判する論点は、つまるところいまある秩序が保てなくなるといった程度のことで、はっきり言うと、社会の上層にある連中が下支えがなくなるので困るといっているだけのように思うのです。もっというと、そう批判する連中は、自分たちは真っ当なのだと、自分たちの思考の範囲内で酔いしれているに過ぎない連中です。たいがいは弁は立つが馬鹿な連中です。例えば評論家でハゲの三宅などがそうです。最近は先生、先生と持ち上げられて妙にテレビ画面で威張って見せていますが、視聴者には形骸化した履歴だけにしか見えないことが分からないのです。政治ジャーナリズムの世界で泳ぎ渉っていただけに過ぎないのに、どうしてあんなに威張りまくるのか分かりません。国造りにインパクトがあったのは龍馬などが活躍した明治時代までのことであって、以降は、小人が大人気取りで国を動かそうとしても、実際のところは時代が時代を産み、国を動かす原動力であるほかはない、そういう領域に入り込んでしまっています。まあ、どうでもいいでしょう。
 フリーターやニート、そして派遣社員、あるいは私のような契約社員の増加は、現在、社会の歪みの結果生じた形態のように思われ、本来なら正社員として会社に帰属することが理想的なことだと考えられているように思われます。今の私は少しそれに懐疑的です。
 社会の大きな変動が進行しつつあることは、間違いのないことです。格差の広がりも大きな問題かもしれません。しかし、頼れるもののいない今、下層の私たちは生き方を変える必要があるのかもしれません。苦しいけれども、考える価値はありそうです。
 
 
  「晴れ時々ギャンブル」
 
 世の中はつまらん。貧乏だからそう思うのかもしれない。金があり、地位があり、名誉があれば、楽しいのかもしれないが、そういうものがあったためしがないから分からない。 先日、金も地位も名誉もある松岡農水省大臣が自殺したとの報道があり、世間に衝撃が走った。私もびっくりした。金や地位や名誉やたくさんの人脈が有りと見えても、世の中は楽しいことばかりではないようだ。
 ニュースの中で、石原都知事が取材を受け、松岡さんはやっぱり武士だった、とかの感想をコメントしていた。都政をあずかっていても、本音は侍の起居進退が核にあるんだね。それって江戸時代の武士たちの、今でいえば政治資金規制法みたいなつまらない自縛だと思うけど、不自由なもんだなというほかはない。石原さんは、かつて「太陽の季節」で、太陽族とかいう社会現象をもたらしたみたいだけれど、今見ればその面影はないね。小説作品はそれっきりみたいで、それ以上に話題になったものはないのじゃないかな。読んだこともないし読む気もしないからわからないけれど。
 最近、詰め所の中で本を読むことが多い。太宰治を読み、今は島尾敏雄を読んでいる。で、「病妻物」を読んでいるので、じっくり読めて充実感みたいなものもあるが、どうも、心身共に穴蔵の中に暮らしているみたいだ。それが嫌だとかではないけれども、いやかえって、そんなふうな状況を望んでいたような自分を発見して、それが少しばかり気持ちを暗くさせる。
 これって、とても世間に向かって、楽しい生活が出来ていると大声でいうわけにはいかない。世間の方から見たら、生活不能者とか不具者とかに見られるのじゃなかろうか。そう考えることは、しばしば焦燥を運んでくる。 生活の中で、他にしたいと思う事柄が浮かんでこない。庭をきれいにするとか、庭木の手入れをするとか、部屋の模様替えや物の配置換えをするとか、もちろん旅行や温泉巡りなどということにも触手が動かない。
 友人、知人と酒を飲み交わし談笑するという喜びは、とうの昔に放棄した。
 大学を出て二十数年、仕事に就きながら断続的に何かしょうもないことを考えるようであった。下の子が二十歳を過ぎて、矢も盾もなく、考えることに没頭して死んでいきたいと考えるようになった。私は何かに取り憑かれてしまった。もはや誰の言葉も聞こうとはしなくなっていた。そうして考えることは、行き詰まって、にっちもさっちもいかないそんな閉塞状況に陥っているような気がする。これは流行のひきこもりに似ている。ただ少し違っているのは、仕事もし、社会生活を送りながらのひきこもりだ。
 ひきこもりといえば、社会復帰が勧められるが、私の場合は社会にありながら、その中心でひきこもりと同じ状況を呈している。私の場合、単に孤独な人、人付き合いに消極的な人、ということになるのであろうか。しかし、付き合いを拒んでいるというわけではない。むしろ、付き合っても何の得にもならないから、誰からも相手にされなくなっているのだろうと思う。
 それで本人の気が済んでいるならそれでいいじゃないか。そういう次元の問題かもしれない。
 今、強いて他にやりたいことといえば、パチンコくらいのものだ。金を食うギャンブルだから給料が出て一、二度くらいしかできない。負けたら最後、次の月までおとなしく仕事場と家を往復して過ぎるということになる。
 晴れ、ときどきパチンコ。これが、私の、ささやかながら今の精一杯の願望だということが出来る。穴蔵の底から、これとて遙か天空の消えかかる虹のようなものでしかない。だが、虹は、見えないより見えた方がよい。
 
 
  「亀裂からの誘い」
 
 最近、仕事場である詰所の中で、島尾敏雄全集を読んでいる。一時間半の間隔で温度計測に巡回に出る合間を縫って、ということであるから、結構読み続けていられる。
 ここのところ調子に乗って読み続けていたが、さすがに気が滅入りはじめた。
 昨日からナイターが始まり、朝の八時半から夜の九時まで勤務だから、そういうせいもあって今日は鞄から本を取り出すこともしていない。疲れた。気が塞ぐ。そんな気持で午前中を過ぎた。
 こんな時に限って、客から暑いとか寒いとかのクレームが入る。その度に二階にある詰め所から一階のコントロール室に降りていって、エアコンの設定温度の調節をしなければならない。ただこれだけのことだが、嫌なものだ。嫌だけれども、これが仕事といえば仕事だから、黙って、心をしばし詰所に置き去りにするようにして階下に向かう。
 客はいつでも横柄に寒いとか暑いとかをいう。もちろん、私は、こんな仕事は嫌だなあと思う。しかし、他にやらせてもらえる仕事がないんだから仕方がない。そういうときどきを除けば、私は部屋にこもっていられる。 警備さんは、みんなに見られながらずっと姿勢よく立っていなければならない。それはそれで大変で、しかし、コツを呑み込めばそういう姿勢で休んでいられるのかもしれない。 どちらにしろひどく単調な仕事で、このような仕事に携わる人々は、みんな嫌だなあと思いながら我慢をしてやっているに違いない。 私の場合はたぶんそういう気分が表に現れる。顔付きと動作が、不機嫌そうになっているに違いない。明るくということがむずかしいので、せめて嫌という姿勢が出ないように淡々と努めて無表情に仕事をこなすように努力はしているが、さてそれがどれほど効果を表せているかどうか。
 島尾敏雄の小説は、人間関係の異和という深い亀裂に落ち込んで、しかもそこに留まって人間の負の面ばかりが誇張されて表現されている。そうして、恥や、精神的な弱さや、劣等感や、焦燥や不安や、そういうものがふんだんに、主人公の姿を借りて描かれている。これは正直、うんざりするほどだといってもいい。そうしてまるで負の鉱床を掘り続けるが如く、深い亀裂から逃れようとはしない。 この執着は何故と思いながら、私もまたその場所に誘われ、気がつくと日が暮れていたように、外界からぽつんと取り残されて今ここにいるというような切ない気持にさせられる。これは危険だ、と、思わず亀裂からはい上がろうと心に風を送り込もうとするのだが、風はどこからも起こってきそうにはない。
 子どもたちに電話をすれば声を聞くことが出来るじゃないか。仕事から帰れば妻とテレビを見る平穏の時があるじゃないか。そう思うのに、喜びは幻となって後ずさっていく。