いじめについて考える
 
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ぼくの「いじめ」体験
いじめと自殺
古典的ないじめ
いじめの現在
いじめの現在 パート2
いじめをやわらげる方策
 
 
ぼくの「いじめ」体験
 おとなの世界にもいじめはある。ぼくの経験したことで言えば、大学を卒業して入った会社で先輩にあたる人にいろいろ教わったが、しばらくしてぼくが大阪の営業所で所長代理くらいの感じになったときに、その先輩にあたる人が部下のような形で配属されてきました。先輩はもともと東京の本社にいて、仕事的に大きなミスをしたとかではないなのですが、上司から厄介者扱いされ、使えないから営業に回すと説明を受けました。ぼくにはちょっと厳しい転勤のように思えました。しかも行った先は後輩筋のぼくの下ということになりますし、もう「辞めてしまえ」と言わんばかりの転勤辞令だという気がしました。先輩はおそらくずっと化学の研究畑を歩いてきたような人で、営業が出来るようには見えません。それでぼくの方でも不安でした。また、会社というものはいざとなるとえげつないことをするなあと、はじめてその時に思いました。
 会社と言いましたが、もしかするとそれは会社という組織の中の一部の上司は、ということなのかもしれません。先輩の転勤に関わっていたのは、ぼくの直接の上司でもあったわけです。その上司は先輩のことについてなんだかんだと尤もらしいことをぼくに言うわけですけれども、ぼくはぼくで、その上司が上司としてさっぱり使えない役に立たない上司に思えていたので、仕舞いには陰険でいやなやつだなあという感じを強くしただけでした。それで、結局は、こんなやつの下で仕事するのはまっぴらだと考えて早々にその会社は辞めてしまいました。しばらくあとで彼が社長になったことを知り、思わず声を出して笑ってしまいました。
 いじめを、繰り返しの意地悪、度の過ぎた意地悪のように考えると、ぼくは小学校の時にいじめられたり、あるいは逆にいじめたりしたことがあったかもしれないと考えます。自分ではいじめられたという実感はなかったのですが、あるときの同級会の席で、ある一人の同級生が「君をいじめていた」と言うわけです。ぼくは彼が、ぼくがずっと敵対していた二人の同級生の腰巾着のような存在ということは覚えていましたが、少しも意地悪を仕掛けてくる主体として考えたことはなかったのでびっくりしました。
 当時何かとぼくに文句をつけてくるのは二人いて、ぼくはたぶん一人で応戦していました。その頃はいじめられているという自覚はなく、こちらはこちらでとにかく気にくわない奴らだというくらいに考えていました。二人、あるいは三、四人くらいで来ても、ぼくは少しも言いなりになるということはなかったと思います。向こうは向こうで、あいつは気にくわないからちょっと因縁をつけてやろうくらいに思っていたのかもしれません。そしてそれに同調する同級生が常に何人か加勢していたと思います。それはいじめと言えばいじめで、ぼくはいじめの対象になっていたと言うことかもしれません。
 ただ、今考えると、そういうように敵対したり、そういう目で見られたりということには、きっとぼくの側にそれなりの理由なり原因なりがあったのかもしれません。つまりぼくの側に嫌われる要因があったに違いないと思います。当時は、しかし、そういった自覚が全くなかったのです。
 学校の休み時間にはみんなで野球をしたり、相撲をしたり、雨の日には教壇を使って卓球をしたりとか、とりあえず、楽しく夢中で遊んでいました。変な話ですが、そういうときにはその場を仕切ることや、自分の主張を押し通そうとする、ぼくにはそんな姿勢があったように思います。おそらくそういう姿勢が強すぎて敵対関係も生まれていたのかもしれませんが、振り返ると、ぼく自身はちょっと手のつけられないわがままな小僧だったかと反省されます。
 6年の時に、同じ地区の、いつも遊んだり登下校をしていた友達の一人を家に誘ったときがあります。たぶんぼくの言うことを聞いてくれる、最もお気に入りの仲のよい友達だったはずですが、その彼から、「好きで一緒に遊んでいたわけじゃない。もう言いなりになって遊ぶのはいやだ。」というような宣告を受けました。愕然としました。思わずそばにあった竹箒を手にして、「言うことを聞かなかったら叩くぞ。」みたいな威嚇をしたと思います。その時も彼は見事で、「叩くなら叩いていいよ。でも、もう遊ばないから。」ときっぱりと言い切ったのでした。
 考えてみると、常にそうだったというわけでは決してなかったと思いますが、他人が自分の思い通りにならないと強く不満を感じるタイプであったかもしれないと思います。当時は、自分はこうしたいと思うのにどうしてみんなは同じように考えてくれないのか、不思議で、腹が立つようで、仕方ありませんでした。俺はこう思う、そう思ったことがどうして実現しないのか、その実現しないことが不可解でまた不満で仕方なかったものでした。まあ、馬鹿だったと言ってもいいし、無意識が荒れていたとか心が未熟だったと言ってもいいかもしれません。とにかく、変なやつだったということは確かだったと思います。
 いじめとは、このように誰もが承知していると思いますがおとなの世界にも子どもの世界にもあるわけです。
 で、ここで考えたいのは子どもの世界のいじめについてなわけですが、子どもの世界のいじめとおとなの世界のいじめとは違うんだということをまずはっきりさせておきたいのです。いじめということでは同じですが、また一部区別の出来ないところもあると思いますが、はっきりと相違する点もあると思います。それはどう言ったらいいでしょうか、ぼくの子ども時代の体験から言わせてもらえば、子どものいじめには相当無自覚なところがあるのではないかというものです。
 小学生の子どもの内面の世界というものは、自分自身の世界というものも芽生えていますし、家族的世界、血族以外の全く赤の他人が構成する集団の世界ということにもやや自覚的になってきています。しかしまだ未分化な部分も残っていて、リアルな現実社会をそういうものとして捉えるところまでには至っていないと思います。リアルな世界を把握する途上にあって、そのための様々な体験を積み重ねる段階にあると考えられます。言い換えると、この世界に対してまだメルヘン的な部分を残していると思うのです。さすがに二十歳以上になるとそういう部分は消失していきます。これも逆に言うと、今度は子どもの頃のことを忘れてしまうとか、無意識の方に埋没させていくということになると思います。まず、3〜4歳以前のことを大人になって思い出すことは難しいでしょう。小学生時代のこともよほどのことでないと忘れてしまっていることがほとんどだと思います。人は内面にずっと変わらぬ自分がいるように錯覚しますが、おそらく頭の使い方は子どもの頃と大人になってからでは変化していることをそれは意味しています。
 もう少し言ってみれば、例えば全く同じ風景を子どもの時とおとなになってからと見たとします。視覚には全く同じ光景が映るのでしょう。しかし子どもの心にはそれは輪郭のはっきりしない、霞がかかったような状態として感じられると思います。それは子どもの心が風景を客観的な対象として見ることが困難だということを意味しています。心にその対象に対しての興味がないと、つまり主観に遮られて風景の隅々を把握することが難しいのです。子どもにとってその風景は意味がない、よく分からない風景にすぎないのです。大人になると風景に対する興味は明らかに違ってきます。よく家族旅行で観光名所を訪れたりしますが、おとながじっくり鑑賞するのに対し、子どもがすぐ飽きるというのはそういうところから来ているのでしょう。全体の把握はまだ出来ないのです。
 さて、ここで、いじめというものは「違い」から派生するものだと言うことを考えてみたいと思います。大きな意味で言えば、いじめは全部、何らかの「違い」が自覚されたところで起きてきます。性格の違い、育ち方の違い、考え方の違い、能力の違い、その他様々の「差異」が原因になっています。そして時に、「違い」としての他者に向かって攻撃的になることがぼくたちであり、子どもたちであります。
 ぼく自身のことを考えてみても、小学生時代には何か「違い」というものにひどく注意が向いていたような気がします。また他人の短所・欠点にすぐに気づき、そういうところに注意を向けるという傾向ももっていたような気がします。同級のクラスの女の子で、首が短くがっしりとした体型の、彫りの深い顔立ちの子に「ゴリラ」とあだ名をつけるなど、それはそうなんだけどちょっとね、というところがたくさんあったような気がします。
 どう言ったらいいでしょうか。当時の体験を客観視して言うと、行動も言葉も考えも、まるで大人になったときとは別の原理で動いていたとしか見えないのです。特に自分の場合は、全てが「自分」「自分」で、誇張して言うと「失敗」、「過ち」など、他者からつけいられる隙を持つなど空恐ろしいことで我慢のならないことのようでした。そのために糊塗に糊塗を重ねる論理を行使して、言いくるめる手法を集団生活の中でとっていたように思います。つまり、そうやってでも自分の思い通りにしたかったようなのです。
 その頃はそれだけで必死です。
 学校では道徳的な教えや、集団生活の中で個人はどうあるべきかなど、いろいろに指導されていたはずです。そしてその時にはそれなりに理解できていたと思います。「こういうときはどうすればいいですか」という発問に、手を挙げて、「こうすることがいいと思います」などと応えていたはずなのです。でもそれはどうすべきかに応えた言葉にすぎず、自分がしてきたこと、あるいは現に今自分がしていることを応えたものではないのです。こうすべきだということは頭ですっかり分かっていたとしても、子ども時代というのは、その行動や発言を全て理性にしたがって行えるものではありません。かえって地のままの自分をぶっちゃけ、さらけ出すようにして生活しているものです。そういう衝動的な生き方をしているのではないでしょうか。そしてその衝動は、ぼくの考えるところでは、胎児期、乳児期、幼児期と形成されてきた「自己」なるものが、その形成過程の中に生じさせてきた衝動で、およそ5、6歳から10〜12歳のところまでの間では、これを外に向かって放射するというように出来ている気がします。
 逆に言うとこの時期というのは、自分というものを無自覚に外に向かってさらけ出す時期として、必要な時期、あるいは不可避な時期なのだと思えます。ここには、いじめる、いじめられるを含め、様々な失敗、過ちが展開され、試行錯誤されるべきと考えていいように思います。
 おそらく核家族化した今日のこの時期には、いろんな差異のオンパレードといえる子ども集団は、放っておけばこれでもかと言うほどの「悪」の展開を見せるに違いないとぼくには思えます。昨年、低学年の子どもたちと児童館で過ごしたとき、目に飛び込んできたものはそれでした。とんでもない悪意、狡猾がぼくらの監視の前でも展開されていたものです。けれどもそれは、はっきりと言えば、放って置いてもよい悪意や狡猾にすぎません。なぜかというと、その悪意や狡猾の裏には天使が同居しているからです。一定の時を一緒に過ごした我々おとなにはそれが見えます。
 おとなのいじめははっきりと自覚されています。悪意を自覚した上で攻撃します。そこが子どもと少し違います。子どもは悪意を自覚していますが、その自覚そのものがまだ幼くて、結果予測も未熟な中で悪魔的だということなのです。回りのことはよく見えていません。自分の欲求をどこまでも通したいという、そのことにしか目が行かない時期と言えます。
 とりあえずこの辺のところを話の皮切りとして、少しずつ「いじめ」についての考察を深めていきたいと考えています。
 
いじめと自殺
 小中学生のいじめが社会的問題として大きく取り上げられるようになったのは、いじめが原因であることを遺書に書いて自殺する小中学生が出てからです。あるいはその前に、いじめを苦に自殺したのではないかという憶測があったり、少年少女たちの間の過激ないじめが、ある一人の少年を死に追いやったという報道があったのかもしれません。そのことの真偽や前後について、最早ぼくの記憶はあやふやです。ただ、子どもの世界に、いじめによる死、いじめによる自殺が生じたことは、世間の人々に衝撃をもって受け止められました。もちろんぼくらもその一人です。いじめが高じて死をもたらすというようなことは、ぼくらの年代には信じがたいことでした。
 当時現役の小学校教員であったぼくは、いじめの悪質化と、超暴力化をイメージしました。数人がかりで一人の子どもをつるし上げる。そういう過激さを想定したと思います。前後して、暴走族や非行少年のグループ犯罪があり、校内暴力、家庭内暴力なども花盛りでしたから、その延長上にとうとう子どもの世界にも命の軽視傾向が波及してきたかという感じでした。そういう意味では、社会的にもあるいは教育世界においても、倫理的に、また倫理的な問題として受け止められたと思います。
 日常的には、校内生活全般、そして学級運営にもとても鋭敏になりました。子ども同士のちょっとしたけんかや争いごとにもいじめの芽を見つけ出し、早くその芽を摘むことを心がけました。特に複数で一人に対しての侮蔑、差別の兆候を見かけたときには、強めの叱責をしたりしたこともありました。今考えると、それは過敏な反応であったかもしれません。最初はだから、いじめはなくさなければとか、いじめを無くしていこうという発想をとったんだと思います。
 けれども、自分たちの子どもの頃とはずいぶん様変わりしたと見える子どもたちの言動に接しながら、でも、小さな田舎の町の小学校段階では、自殺とか事故死とかに結びつくような陰険ないじめや暴力沙汰はありませんでした。テレビの報道で伝えられることや教育評論家たちの話と、ぼくらの実際の身の回りの現実とは、ひとつ幕を隔てて違っているような気がしてなりませんでした。どこにも、言われるような芽や兆しは見つけられません。もちろんそういったことが現実に起きてしまってからでは何をやっても遅いわけで、その後もそういう警戒を持ち続けて仕事に当たってはいたのでしたが。
 社会の、いじめ理解、そのセンセーショナルな捉え方というものは、いじめる側の悪質さを誇張するものであったし、その捉え方にぼくなども影響を受けたと思います。いじめる側が悪質な加害者で、いじめられる側は被害者という構図です。この構図に間違いがあるわけではありません。しかし、ぼく自身はかすかにこういう考え方に疑問を感じるようになっていきました。現実的な子どもの生活世界は、子どもの関係世界としてぼくたちの子ども時代の頃とそんなに違うわけではない。ぼくたちの子どもの頃もいじめはあり、けんかはあり、激しい罵り合いもありました。もちろん社会や文明の高度化に見合うように、いじめの高度化とでも言ってみたいような、複雑にそして急速に発展したいじめの形態的変化はあったわけですが、それがそのまま死に至るとか自殺に至るとかに直結するようには、どうしても思えないのです。
 いじめという形態から死に至る、あるいは自殺に至ったことがはっきりした場合、加害者の側の凶悪さ、悪質さは大いに話題に上ったと思います。どちらかというとそういう側面ばかりが強調され、被害者側については同情一色で、深く取材されたり、考察されるところがなかったように思います。
 しかし、よく考えてみると、昔からいじめはあったわけで、それが原因で自殺にまで発展するということは最近の出来事と言っていいわけです。だとすれば加害の側と同等に、被害の側についても最近の傾向をよく調べたり考えなければいけないことになると思います。
 そうして考えてみると、いじめが過激になってきたことと対応してというか、まるで反比例するようにして、被害者とされる側において、最後の支えというかつっかえ棒というか、あるいは壁のように立ちふさがるというか、そういうものが消失してしまっていたり、壁ならば極端に低くなって容易に乗り越えられてしまうくらいのものになっているのではないかと疑問が湧いてきます。つまり、死を思いとどまらせるような力が、以前は作用していたのに、現在ではその力が縮小してしまっていると推測されてきます。
 たった一人の親友がいれば、あるいは100%の信頼に足る家族があれば、少なくとも死ぬことだけは防げたのではないのか、そんな気がしないではありません。
 いじめにより死に向かわざるを得なかった子どもの側について、その周囲の人間環境に目を向けた発言は、ぼくの知っている限りでは吉本隆明さんからのものしかありませんでした。ぼくらの見聞きした中で、いじめに関して最も真っ当な意見というのは、本質を見る(科学的)という点からも、変に倫理、道徳的(宗教的)にならないということからも、吉本さんのものが核心を衝いたものであって、その他のものは状況的であり情緒的なものでした。
 ここまで言ってきたことに絡めて言えば、吉本さんの考え方は胎児期、乳児期の育て方に問題があったんだということになります。その時期によい育てられ方をしていれば、外部、言いかえると全世界に対する基本的な信頼を獲得していて、性格的にも他からいじめられる要素を持たない性格が形成されていて、決して強烈ないじめに遭うことはないんだと言っています。また、仮にいじめられるようなことがあっても一時的で、これをすぐに回避する力を持っているということになります。
 逆にあまりよくない育てられ方をすると、全世界に対する基本的な不信が乳児期までに形成されて、人と人との関係の世界において上手く付き合えない、そういう基本形が成立してしまうということになります。
 吉本さんの考えを敷衍して考えていくと、結局いじめる側の中心にいる子どもと、いつもいじめられる側に回ってしまう子どもとは、どちらも胎乳児期の育てられ方に問題があったということになります。よい育てられ方をしなかったために、心的な形成の根本のところで傷を負っている。他者との折り合いの付け方に、ほかの人のように上手くやっていけない障害を持ってしまったということになると思います。その根本の原因は、母親もしくは母親代理との一対一の元基のところで、十分な愛情と安心が与えられなかったからということに尽きます。その理由はさまざまにあって一概には言えませんが、経済的に逼迫していて子育てどころではなかったとか、子どもに愛情を注ぐことよりも自分の生き方のあれこれを考えることを重要視していたとか、旦那や旦那の家族との関係が継続的に不和にあったとかいろいろ考えられます。
 いずれにしても、胎児から乳児までの母と子の間で親和的な関係が築かれてなかったとすれば、その後の人間的な関係においても親和的な関係を築くことは難しくなります。基本的な原型を持っていないのですから、これは当然と言えば当然と言えましょう。
 いじめというものは、元来が「違い」というものを媒介として、どんな時代にもどんな社会にも、またどんな個人にも起きうる可能性を持つと考えられます。いじめる側に回ることもあれば、いじめられる側に回ってしまうこともあり得ます。これは人間界にごく普通に起こりうることだと言っていいと思います。もちろん動物界にも有り得ることかも知れません。しかし、現在の、「死」に繋がっていくいじめというものは、従来からあるいじめを逸脱するものだと言うことができます。この逸脱を何が押し進めているのかと言えば、胎乳児期の母と子の関係に、その第一の要因を見るほかにないと思われます。つまり、一言で言えば母親の愛情不足なのですが、これには本当は母親としての生きにくさという、現在的な事情が加味されて考えられなければなりません。女性がダメ、母親(代理)がダメという問題ではありません。逆にこれらのことをしっかりととらえて、女性はもちろんのこと社会全体が、母親と子育て環境とをどのようにしたらよいのか、どのようにバックアップしていかなければならないかを考えることが急務なのだと思います。
 そこがきちんと整備できれば、とりあえず死に至るいじめ、自殺に至るいじめの問題は回避していけると思います。
 ここから少し我流が混じるのですが、いじめによって自殺してしまう、徹底的にいじめられることによって死の淵まで追い込まれてしまうといった場合、ぼくにはそれは異常なことだと思えるのです。何が異常かと言えば、自分をその身に置いて考えたときに、どこにも救いがないと感じられることが異常なのです。打ち明けて自分を救ってくれる友だち、肉親、父親、母親、いやそれらの影さえも見当たらないのです。見当たらない、不在である、だからこそ一挙に死を超えるところまで行くと言えるわけですが、そこまで人間を、子どもを、孤立させてしまうのは何かと思うわけです。
 普通、どんなに孤立し、孤独を味わっても、過去に一片の愛された記憶、他を愛し好きだったという記憶はあるものです。それは一片の、世界への信頼に相当します。それが例え影のように不確かなものであるとしても、それがあるかぎり死を肯定することはないはずです。つまり、あらん限りに抗うはずなのです。抗いがないとすれば、すでにそれは周囲に絶望していることを意味します。抗ったんだけれどもそれを周囲が察知できなかったとすれば、それは友だちや肉親の察知力の低下を意味することになります。そこまで考えていきますと、単にいじめた側の責任というばかりではなくて、死および自殺をくい止められなかった周囲の責任、とりわけ父母の無力さは、ある責任の形で浮上するように思うのです。ここのところが今日では現象としては不問に付されているように見えます。報道を見ていますと、自殺した子どもの親は一方的にいじめの主体の子どもや学校の対応に責任を丸投げしているように見えます。自分の子どもとの関わりにおいて、自らの非力や無力に言及する見解は皆無と言っていいくらいです。もちろんそういう部分を報道が取り上げないからかも分かりませんが、それにしてもいじめを取りまく周囲の子どもたちの存在感の無さ、肉親および両親の存在感の薄さは際立っていると思えてなりません。周囲がそのようだったら、つまり報道からイメージされるようないじめの当事者たちにとって希薄な存在感しか持っていなかったとすれば、それは「死んじゃうより仕方ないよな」とぼくなんかは思います。少しもあてにならないし、救いにならないし、助けにならない。自殺した子どもから見れば、どうしたって救いを求められる状況にはないよな、と言うことだったとしか考えられません。もちろん学校や教員などは論外だったに違いありません。
 そういう状況ができている、そういう状況が作られている、ということは誰も深く考察しようとしないし、言及もしない。あるいは重要視せずに、いじめる側の問題に帰着させて、これを抑止させることばかりに論議を集約させていく。挙げ句の果ては、学校では、いじめはよくない、悪いことだとか、命は尊いものだとか、まるでとんちんかんなことを子どもを体育館に集めて生徒指導の先生とか校長先生とかが言う。そんなことは子どもは頭の中では分かっていると思っているし、そんなことでいじめが無くならないことも分かっているから、飽きちゃって早く止めて欲しいと思っているに違いないのです。中には、授業がつぶれるから、黙って聞いているふりをしておこうという子どもたちもいるはずです。そういう場面は先生と子どもと双方が、それぞれの思惑の元に、すれ違いを内在させて成り立っています。そしてそれぞれが、それでいいと許し合っているというか、認め合っているというか、妥協しあっているのだと言うこともできます。もちろんそんなことはアホらしいことなのですが、全く効果がないと言い切るわけにも行かないので誰からも文句が付くことはないのです。そして往々にして誰からも文句が付かないことは、無害の程度に応じて無益だということは言うまでもないことです。ただそのために本質的で苦い考察は見送られることになるわけですから、ぼくらには間接的な意味合いではいじめ問題を先送りにするだけのことだ、と考えるほかないことになります。
 とりあえずここでは、いじめによる死とか自殺とかの、これをくい止める砦、あるいは手立てというものは、最初にして最大のものは胎乳児期の子育ての時期にあるということ。このことが認識される必要があるということを言っておきたいと思います。
 
古典的ないじめ
 いじめる子どももいじめられる子どもも、どちらも、それぞれの日常が折り合いのつけにくい形で存在していると思います。日常的に折り合いがつくように存在できていればいじめっ子にもいじめられっ子にもならないですむわけですし、そうできないとすれば二人には今の世の中には住めないような、何処かはみ出した部分があるということになるのだと思います。いじめる子といじめられる子と逆向きだけど、この社会に普通に生活する子どもにはなりきれない、言い換えると標準的とは考えにくい子どもたちということになるのではないでしょうか。これはいじめる方もいじめられる方もそうだと言えるわけで、これがいいか悪いかと言うよりも、生きにくい形で生きているのだからこれを一種のセイント、聖なるものと考えた方がいいんじゃないのかというのが吉本隆明さんなどの考え方なわけです。
 いじめっ子といじめられっ子、その典型をテレビ漫画の「ドラえもん」の中のジャイアンとのび太に見ることが出来るとぼくは思います。それ以外の登場人物たちは、その時々でいじめっ子になったりいじめられっ子になったりすることがあります。しかし、ジャイアンとのび太だけはいじめっ子といじめられっ子とに固定されています。もちろん、時と場合によっては立場が逆転することもあるのですが、でも一応はそれぞれ典型として描かれています。そして二人の関係はずっと継続していきます。言ってしまえば、二人とも、いじめっ子やいじめられっ子以外になることが出来ません。これはもう宿命だというような描かれ方をしていると思います。ジャイアンものび太も、そういう宿命を背負っているというように描かれています。
 こうした「ドラえもん」の中に描かれていたいじめというのは、一応昔から子どもの世界にあった古典的ないじめということができるのではないでしょうか。そしてこれはまあ子ども向けのテレビ漫画と言うことでもあるし、いつも救いとか救済とかは用意されていました。
 ひとつは未来から来た猫型ロボットであるドラえもんが、いつものび太の側に立って窮地を救うというように作られています。またもう一つは、「しずかちゃん」をはじめとする他の登場人物たちが正義感を発揮して、いじめ的な場面のところで止めにかかるというようになっています。先生や大人たちはよほどのことがない限りそういう場面に立ち会うことがありません。またそういうように描かれ、作られているように思われます。だいたいのところはそれでいじめの関係は収束を迎えます。ですが、それは永久に収束するということではなくて、この漫画の世界ではそのいじめのパターンは繰り返し続くというようになっています。こうした意味では「ドラえもん」という漫画の世界は、子どもの世界における古典的ないじめとその解消の仕方を、見事にパターン化して描いている作品だなと考えることが出来ると思います。先生や親たちも介入しないで、子どもの世界だけでいじめが起こり、また解消するという、古典的ないじめとしては、とても優れた描き方をしていると思います。
 もしもその世界に、大人や先生が積極的に介入して来て、「そんなことをしてはいけないんだよ」と言うようなことをこんこんと説教するような場面を想像すると、ぼくなどはちょっとゾッとします。
 子どものいじめというのは、子どもの世界で起きてその世界で解消するからいいので、ここに大人が入ると、急に逃れどころのない本気のいじめという位相に転換してしまいます。いじめっ子もいじめられっ子も、それぞれいじめっ子、いじめられっ子という立場に追い詰められてしまいます。どう言ったらいいでしょうか、いじめっ子という社会的評価、いじめられっ子という社会的評価がくっつけられるような、ちょっとマジだぞこれはという感じになってしまうと思います。子どもの世界に閉じられた中では、まだ少し「ふざけ」という部分が残っていたのに、それが取っ払われてしまいます。そういう解決では表面的には解消したように見えるかもしれませんが、目に見えない部分では遺恨が残ったり、くすぶり続けたり、実際にはどちらにとっても良くない中途半端な解決に終わるんじゃないかと思えます。
 ジャイアンなんかは内心怒りの炎を燃やすかもしれないし、のび太はのび太で身辺周囲の狭い空間だけではなく、一挙に世間的な空間の中に放り出されていじめられっ子のレッテルを貼られることによって、複雑な傷付き方をしてしまうかもしれません。それでは良い解決とは言えないのではないでしょうか。
 いじめというのはそんなに簡単に解消できるものではないと思います。いつの時代にもあったことだし、これからもそれを完全になくすことは難しいことだと思います。このことは宮沢賢治の童話を読み返すとすぐに分かることで、賢治の童話にはたくさんのいじめの場面が描かれています。そしてそれは古典的ないじめと言っていいのですが、賢治の時代からいじめが今に続いているということは、いじめがどんな時代にも変わらず存在する普遍的な問題なのだと言えるように思われるのです。つまり賢治はいじめをテーマにたくさん書いていますが、これによって読者はいじめについて意識的になり、「この世からいじめがなくなればいいなあ」と考えはするでしょうが、それでもって完全になくなるというようなものではないということです。昨今、「いじめ根絶」というようなスローガンも見かけられるのですが、ぼくなんかには「とんでもないことを言うもんだねえ」と思われてなりません。こんな「大うそ」がそのまんままかり通ってしまう社会は、健全な社会ではないと思います。
 ここまでに考えてきたところからも言えるように、いじめっ子もいじめられっ子も自分でそうなろうとしていじめっ子やいじめられっ子になったわけではありません。また、逆に言えば、成ろうとして成れるものでもないのです。成らざるを得なかったところで、あるいは成ってしまうという事情のところで、根絶など端から可能になるわけもありません。そんなことは誰が考えても自明のことでしょう。いじめを古典的ないじめと考えている範囲のところでは、大人や先生たちの介入はないほうがいいとぼくは思います。 宮沢賢治の童話では、描かれたいじめが理想的な解決の仕方をして、いじめの関係の当事者たちをも含めて全体が万々歳というようには作られてはいません。場合によっては、いじめる方が反撃に合って死んじゃうとか、反対にいじめられた方が死の方に飛び込んでいっちゃうとか、結末の付け方としては結構恐ろしいところがあります。あまりハッピーエンドではありません。ハッピーではけしてありませんが、でも何処かに必ず一縷の望みとか希望とかを感じさせる描写が、残されているように思われます。しっかりと分析したところで言うのではないのですが、何処かしら全体を見ている目というか、どちらの側をも理解している目というか、察知に長けた菩薩の視線とでも言うようなものが、うっすらと感じさせるように出来ている気がします。これも古典的な言い方を借りれば、「ひとの世のあわれ」を見つめる視線が感じられます。どうしようもない不可避の悲劇。宮沢賢治は、そういうものはあるんだよと言っているのだと思いますし、単純に、いじめる方が悪いんだからいじめはなくならなければならないと、教訓を語っているのでもないように思います。
 いじめる側がいつも悪人かというと、賢治はそういうようには見ていないと思います。いじめる側を突き動かしているのは煩悩みたいなものとして描かれていますが、何処かしら承認しているような気がします。そうしますと、作品の中ではそういうことは取り挙げられているということはありませんが、どこかに「歎異抄」が言う「悪人正機」の説が浮かび上がってくるような気がぼくにはします。
 こうなってきますと、結局は元に戻って、いじめる方もいじめられる方も責任は無いよなと考えたくなってしまいます。そういうようにさせられてしまう、なってしまう、そしてそういうことは大人になったぼくたちにもあり得ないことじゃないよなと、反省的になって終わってしまいます。
 賢治童話の中に「猫の事務所」というお話があります。この事務所というのは住民の役に立つことをしている立派なお役所的なところですが、けれども内側では身なりが悪いことから一匹の猫がいじめに合う設定がされています。いかにも猫の人格者たちが勤めていそうな仕事場なのに、それでも差別的な雰囲気が醸し出されてそれはついにはいじめの関係に結びついていきます。人格者たちが大勢の職場なのにそんなことになり、その猫たちだけではいじめの構造を自ら解体することさえ出来ません。結局のところこのお話では最後に、そういういじめ的な雰囲気の全体を窓の外から覗って何もかもを知った超越者としての獅子が登場し、ふだん立派なことを言ったり考えたりしながら自分たちのするいじめひとつ解決できないんだから、こんな事務所なんかなくしちまえみたいに一喝して終わりになります。
 このように、ほんとは物語の世界だけではなく、現実世界においても獅子のような超越者がいると愉快なわけです。一瞬でいじめの当事者たちは誰もがシュンとなって反省的になって終わりということに成ります。たぶん、子どもの世界におけるいじめに対し、獅子の役割を演じるとすれば大人や先生たちということに成るかと思います。でも、大人といい先生たちといい、どう考えてもこの時の獅子の代理になり得るとは思えません。どちらかというとやはり「猫の事務所」の猫たちという存在以外ではあり得ないからです。
 結局、いじめを解決できるのは獅子のような超越者以外にはないのですが、この世界には超越者は存在しないのです。せいぜいが、超越者ではないのに超越者のように振る舞ってみせるとか、あるいはそのように勘違いする個人がいるだけだということになります。
 いじめが良くないことだということは誰もがよく分かっていることです。実感的にもよく分かられています。けれども、真の意味で裁定を下せるものはこの世界に存在しないと言っていいと思います。
 現在、社会的にはいじめということは悪いことで、これは止めさせたり、解消させたりすることは良いことなんだと先験的に思われていると思います。けれどもこの考え方は理性に根拠を置いたもので、我々がそちらに重点を置いたときには、生身の自分たちの生活の在り方というものは後景に退かせられてしまいます。極端に言えば、何かの場面でご本人がいじめの当事者になっているのにもかかわらず、そんなことには無関係に、対面するいじめに対してだけは悪いことだから止めろと言っていることになります。もちろんここには矛盾がありますし、小学校では高学年になりますと誰もが鋭敏にそのことを察知できるようになっています。つまりぼくには大人がそんなことを言ったって、ちっとも効果がないよと思われてなりません。それどころか、言われれば言われるほど逆に世の中やその人間関係に、嫌気がさしてしまうのを増幅させるだけのような気がします。百害あって一利なしとまでは言えませんが、出来るだけ介入しないで済ませられるところまでは介入しない方が良いと思えるのです。
 最近は社会的関心から、学校ではいじめの芽を早く摘むことに重点を置いて、早期の指導が当然のように行われているように思われます。それで見かけ上は何となくいじめは無くなってきたかのような錯覚があるかもしれませんが、それは子どもたちがちょっと遠慮しているだけであって、表面的にそう見えるだけのことです。悪いことに、大人たちは、もっと言うと、そういう子どもの世界につながりをもった職業に従じる人々の間では、表面的に成果があればそれで満足する傾向があります。とりあえず表面化しなければ、いじめは無いのだと合理化されて結びつけられます。これ以上言うと悪口になるから止めますが、ぼくの考えではいじめのようななかなか解決のつかない問題においては、西欧的ヒューマニズムの論理的整合性一辺倒の考え方を適応してっていうのは、これは良くないんじゃないかなとか、大うそが入り込んでいるよと思われてなりません。
 ぼくなどはとても超越者どころではなくて、単にじくじくといつまでも考え続ける一種優柔不断な人間ということになるのですが、この種のタイプは良い指導者には成れないと思います。けれども、さっそうと解決策や処方箋を示し得ないとしても、あたかも賢治童話のように繰り返しいじめということに関わって作品を作ったり考えたりすることでしか、いじめそのものを開いていく、解体していく、そういうことは成し得ないと思われます。いじめは我々の想定以上に難しくて、本格的な問題なのだと思います。人類史上の初期から、あるいは数万年を超えて積み重ねられてきた問題が、現在、一斉に止めようと言えばなくなってしまうというような、そんな簡単な問題ではないと思うのです。ぼくなどははっきり言って、千年後、二千年後にも解消しているかどうか怪しいなと思っています。そう思いながら、もう少し深く、広く、考えてみたいと思っています。
 
いじめの現在
 いじめは遥か昔からあり、また遠い将来にも持ち越すものだろうと考えてきました。人間の性格の違い、育った環境の違い、経済的な格差、そうしたもろもろの違いがある限り、根絶することは無いだろうと思うのです。それらの根源的な差異から発生するものとしてのいじめには、しかし、時代によって多少の脚色が生じる気がします。ここでは現在の子どもの世界でのいじめには、どのような現在的な時代背景が考えられるのか、といったところを考えてみたいと思います。
 まず、大きくいって戦後、つまり敗戦を境に日本社会は、隅々までに至って日本的なものを振り落としてきたと思います。その中でも一番の大きな変化は家族の形で、核家族と呼ばれるようになり、それまでの大家族から小家族へと変貌を遂げました。そしてその小家族そのものが、もはや家族と呼べないまでに解体しかかっているというのが今日的な情況であると思います。
 ひとつの家族の中で、夫と妻あるいは親と子は関心から価値観までを異とし、誇張して言うと家族というよりはそれぞれ個人個人の集合のような形で、経済生活だけを共にしていると言った方がいいかもしれません。テレビのCMに流れるような幸福な家庭の像は、一時期にはあり得ても、永続することはまずあり得ないことだと言っていいと思います。
 これが現在と呼ぶ時代の特徴のひとつだと思います。具体的には離婚の増加、家庭内暴力、夫婦間殺人や親殺し子殺しの増加に表れていますが、水面下ではこうしたことの予備軍的傾向がかなりの数に上るものと思われます。急激な社会変化による世代間の感覚のズレ、溝の深さはその差異の代表と言ってもいいと思います。こういうことはどの家庭でも隠したいことに属していますから、たいていは一生懸命隠すわけです。またそういうものがないかのように一生懸命振る舞っているわけです。我慢しています。それでも、我慢して必死に隠して、その上で様々な事件となって表層に浮かんでくるわけですから、今日の家族の全部が全部、実際には解体の危機に瀕していると考えていいのだと思います。そして、多少のぎくしゃくがあり努力を要しながらも大過なくやって行けているとすれば、かなりの程度に良く出来た家族だと言えるとぼくには思われます。
 もう一つ日本の社会に即して言えるとすれば、ものを作る、生産することよりも、消費が主となった社会が到来したということだと思います。資本のはじめを農耕の初期に考えれば、農業、工業を経て、教育や医療や情報、運輸、サービスなどの第三次産業が主体となった、かつて人間の歴史が体験したことがない社会への移行がおよそ45年前頃から始まりました。消費資本主義社会の到来です。
 本当はその時点からいろいろの制度は古いものになったわけですが、急激な社会の変化に対応できずにそのままで来ていることがほとんどです。また、子どもや若者たちはその変化を体感していると思いますが、その上の者たちあるいは老人たちは、同じように若い頃の心身に感じたことがそのまま残っていますから、世代によって感覚や思考に大きなずれが生じます。資本主義時代の制度の古さと年配者の感覚、観念の古さに対して、全く新しい段階としての消費社会の出現と、若者の感覚や思考の新しさがせめぎ合っています。これもまた現在的な特徴と言えると思います。
 今まで述べてきたところを一言で言ってみれば、社会構造が大きく変わってきたと言えるかと思います。そしてその変化に敏感な層と鈍感な層が存在すると同時に、古い制度を守ろうとする層と反発する層とが混在することになっています。
 こうした移行期、過渡期と言える時期には様々な不安要因、混乱の要因が生じて、実際に社会を混乱させる事件などが起こりやすいものです。
 大ざっぱに言って、最近起こった社会構造の変化に伴って変化したと思われるいじめの形態の変化は、ここに述べてきたところに関係しているかと思われます。
 ぼくの考えるところでは、子どもの心的な世界に現在的な影を落としていると言えるのは、ひとつは家族の変質であり、ふたつには教育的権威の低下という問題であり、みっつめには受験競争を継続させる社会の体質そのものだという気がします。これらのことが陰に陽に子どものこころに大きく影響して、不安や苛立ちや、時に予期しない興奮をもたらしていると思われます。
 この事について、ぼくにはどんな自信も根拠もありません。専門家から無知だアホだと指摘されたらそれまでのことです。ですが、学習支援員として子どもたちのそばにぼんやりと突っ立って眺めていると、どうしてもこんなふうに思われてならないのです。
 まず家族について考えてみたいと思いますが、離婚する家庭がかつて無いほどに多くなっていることに表れているように、家族の存在様式が不安定になっていると思います。子どもにとっても憩いの場どころではないということです。父子家庭、母子家庭も多くなっていますし、当然父子密着、母子密着型の子育てになる可能性も大きくなります。
 核家族の場合共働きが多く、家事分担などをめぐって小さな諍いも多いかと思います。また男親女親それぞれが、自分の生きがいだとか生き方だとか愛情の持ち方などをめぐって考えるようになっていて、配偶者や子どものことを中心に考えるというよりも、自分のことを中心に考える傾向が強くなっていると思います。太宰治の「子どもより親が大事と思いたい。親の方が心が弱いのだ」という、アレです。子育てのことも含め、親の世代が自分の生き方に自信が持てなくなっているのです。こんな情況の中で子どもがすくすくと育っていくようにはどうしても思えません。家族の問題はとても大きな、そして喫緊の問題なのだと思いますが、ここではこれを深く考える余裕がありません。ともかく、今日の日本社会においては家族の在り方が大きく変わってきていて、常に解体の危機が傍らに存するということ。そしてその危機感が子どもをおおらかに見守るまなざしというものを減衰させ、子どものこころを不安定にさせる要因となっていることを述べるに留めておきたいと思います。
 次に教育的な権威の低下という事態を考えてみたいと思いますが、これについては経済的な場面での今日的な価格破壊という文脈の中で考えてみたいと思います。つまり、現在、ものの値段というものは従来のように生産する側で任意に決めて、というようには成り立っていません。価格設定の権限は消費者の側に移行してきています。原材料がいくらで加工費がいくら、それに人件費や諸経費を入れてこれくらいが適正価格といっても、消費者がオーケーしないと商品は売れません。各企業は消費者の心づもりに敵う商品を作り、また価格を設定しなければならないというようになってきています。
 この事は教育の世界、学習の世界にも当てはまるようになっていると思います。どんなにこれがよいものだと国や学校が提供しても、需用者であり消費者とも言える子どもたちがこれを受け入れなければ、早晩その供給内容は変更されることになると思います。力と立場が、潜在的には逆転しているのです。これはたぶん供給側の国や学校も、需要側の子どもも家庭もはっきりと自覚していないかもしれません。しかし、子どもにはうすうす感じられているような気が、ぼくにはします。
 学力が低下し、子どもが勉強できなくなって困るのは誰か。今時の子どもたちの多くは、特に小学生段階では自分が困るとは考えられていません。勉強をいやだという子どもに、進んで勉強させるようにする力は今の学校にはありません。困るのは社会であり国であり文科省であり、教育委員会であり学校であり担任を持たせられた先生であるということになると思います。何らかの形で責任をとるか分担するかということになります。それに較べると子どもたちは、勉強が出来ないと言われたり、進学できないというだけですむわけです。いい会社には入れないぞと脅されても、もしかすると今時の子どもは働かないで生きていく方法を、すでに考えはじめているのかもしれません。それくらい、提供される学習に意欲を失っているように思われます。これは生命意欲の根幹に関わる問題になっていますから、小手先の対応でどうにか出来るものではないとぼくには思われます。やがて今の子どもたちが成長して、親の世代に変わって行くわけですが、そうするとこういう流れはますます大きくなっていく以外にないのだろうという気がします。
 もちろん現在でも進んで勉強する優等生もいますし、中間のところで勉強をしたりサボったりする子どもも大多数います。そして小さなグループという形で離合集散していたり孤立していたり、あるいはそれらが入れ替わり立ち替わりしています。その存在形式は不安定であると言えます。でも大きな流れとしては、教育の動向を決める決め手としては子どもたちの方に潜在的能力は移行しているのは間違いの無いところです。全国的に一斉に子どもが登校拒否を行ったら、学校や教育は終わりです。子どもたちはそのことを少しずつ気づき始めているかもしれませんし、しかしそのことは逆に子どもたちの日々の生活に、心的な支柱とか指針とかいうものがなくなっていくことを意味すると思います。子どもの世界からある共通事項が引っぺがされて、価値観から何からバラバラになってしまいます。自由さは増しても、何をしたらよいか戸惑うことが多くなると言えるかもしれません。そうなると、あちこちで悪さを働きたくなるということもあながち考えられないことではないという気がします。
 一方でこんなような情況を迎えながら、小学生では遙か彼方の大学受験という関門がその先に待ち構えています。小学校段階ではまだまだ考える対象ではないのですが、ゆくゆくはそういうものがあると言うことくらいは聞かされたりしているわけで、しかもそこまで行くことは何か人間の価値というようなことに結びつけられて聞こえ知っていると思います。切実になれない、しかし陰のようなプレッシャーとして彼方にそびえ立っていることになります。子どもにとっては最上級のゴール地点ということになるでしょうか。これがまた社会に作られた幻想のひとつの柱で、ここにはまた超一流大学から三流四流といったように順番がつけられ、悪しき種類の権威と権限が生みだされています。中にいる教授たちは、全く権威や権限には無関係のように、あるいは頓着しないかのように振る舞っているようですが、社会的に作られたそうした幻想を否定したり崩壊すべしと行動したりはしません。つまり遠回しにそれを認めその上に胡座をかいているように見えます。東大や京大に勤める先生たちは、学問に優れることが人間として優れていることだと誤解しているかもしれません。何しろ勉強が良く出来て、勉強に携わっているうちに周囲からすごいだのと煽てられ、そのうちに威張ることが当然のように感じられてきますから「勉強が大事だよ」と言い出すようになります。何せ勉強してうんと出来るようになると、回りから偉いといわれ、威張って生活できるようになるわけですから、「人生に勉強は大事」と考えるようになることは無理もありません。小学生の子どもと大して変わらないのです。
 こういった大学の先生たちが、まず大学の教育課程を考えます。国際的な学問のレベルにも触れていますから、当然そういうことも加味するでしょう。大学ばかりではなく、高校や中学、果ては小学校の教育課程に口を挟むことにもなるわけです。大学ではここまで行く必要があるから高校ではこれくらいまで、高校ではこうだから中学ではこのように、小学ではこれくらいというように順次下っていくことになります。しかもこれが各教科ごとにやっていきますし、数学の専攻の先生は一番数学が好きで大事だと思っているのですからあれこれを詰め込むことになります。全ての教科であれこれ詰め込まれますから、全体を総合しますと相当にぎゅうぎゅうに詰め込まれたものになることは当然です。あれも捨てられないこれも捨てられないとなると、知識と技術のゴミ屋敷になります。本当にごく普通に生活するのに必要な知識、技術は誰が考えたってそのうちの一部で間に合います。こういった教育世界の実態のおかげで、小学生からぎゅうぎゅう漬けの学習を強いられ、出来るできないを選別され、クラス内での順位を覗い、隣の子どもの点数を見て一喜一憂し、早々と勉強は無理だと放棄したり面白くないものだと断じてしまうのでしょう。
 本当は人間の子どもは知的好奇心にあふれて生まれてきます。幼児期の「コレナーニ」「アレナーニ」が、どんなに自発的好奇心にあふれたものであったか、だれだって分かるはずです。ぼくらの社会はその意欲を摘み取ってきたにすぎないのではありませんか。親が学校が先生が、子どもたちのランダムに発する問いに答えきれずに、覚え知るべき事項という形で勝手にマニュアルをこさえて、これを押しつけてきた結果、意欲(本能)さえ削いできてしまった。残ったのは強制労働に等しいような、学力向上などに向けた頭の酷使だけです。全体の学力が少し上がることがいったい何なのでしょう。ぼくには全く理解できません。大人たちがよかれと設計したことは全て破産している。あるいは一部のエリートを養成するだけのものとして機能するにすぎない。ぼくにはそう思われます。
 はっきりと言い切ってしまえば、いじめの根原は大人社会の、しかもより具体的には文科省や大学教授並びに関係する指導層が子どもの世界を間違って捉え、間違った方針と施策の元に教育するからだと言えると思います。意欲満々に生まれた子どもたちが、こうしよう、ああしたい、と望む方向を制限し、逆行し、大人自身が都合のよいと考える方向にだけ誘導しようとしていることが、いってみればもう時代に合わないと言えると思います。よかれと思っていることは、全て対立し、何とかそうさせようと遠回しに、そうする以外にないように環境を整備する自体がすでに真綿で首を絞めるようないじめに変換します。誇張していえば社会そのものがもう、子どもをいじめる装置そのものになっていると考えることも出来ます。
 子どもの世界にどうしていじめが入り込んでくるかといえば、それは周囲にあるからだし、社会にあるからだということは考えるまでもないことでしょう。端的に言って、なぜいじめるかといえば、いじめられたことがあるという経験を元にする以外にないはずですし、そのことが元になっているというほかに考えようがないのです。そしてここまで考えてきたことを思い起こすならば、子どもの世界全体が、大人社会という顔の見えないいじめっ子に向かって、激しく苛々を募らせていることは想像に難くありません。これはもう何かあれば、各人の身近な周囲に向かってぶつけて発散する以外に手はないでしょう。
 少し論を急ぎすぎたし、ぼくの考えに反論する声も自問自答の中で当然耳に聞こえてきてはいますが、今それに応える余裕はありません。
 ここまで、現在的ないじめについてひどく大ざっぱに素描してみましたが、一度ここまでを読み直して、補充や発展させるべきところがあれば次にそれをやってみようと思います。
 
いじめの現在 パート2
 前回考えたところは大変難しい問題です。思いつくところを、しかも大ざっぱに述べてきたにすぎないのですが、本当はもう少し丁寧に、そして緻密に考えていかなければならなかったところだと思います。しかし今のところはこれくらいの力しかありませんし、社会全体が誤った対策を講じているような気がして、最近のいじめの過熱や常態化を考慮する時に与件と見なし得るところを、とりあえず3点に絞って挙げてみたというわけです。
 前回の言い回しを踏襲すれば、その前に戦後大きく社会構造が変化したことを言い、具体的には家族の形が変わったこと、そして高度成長期を経て日本の資本主義社会が高度資本主義社会、消費資本主義社会というべき段階に突入してきたのだということを考えました。その結果、子育て、教育サービス、それから学問・学術という領域で大きな変化を被ってきて、およそこの3つが現在の子どものこころに大きな影響を与えるようになっていると考えたわけです。
 この3つは、現在のいじめが、半ば永続的な昔からある子どものいじめにプラスアルファされて展開されていると考えれば、プラスアルファの部分をもたらす元凶と考えられるように思います。これをもう一度簡単にまとめてみれば、子育てが不安定になってきたということ。教育サービス面では提供する側の学校や教員より、サービスの受容者であり消費者とも考えられる子どもの側に、サービスを受けるか否かの決定力が移行してきたということ。それから学問・学術というものが、人間力の向上といったところを離れ、上昇意識、エリート意識からなる権威化を極度に作り上げてきたこと。これら3つのことに尽くせると思います。
 子育てについては、これも端的に述べれば、胎乳児期の育てられ方、かまわれ方に不満を持つ子どもが増えてきたのだと思います。その不満(胎乳児期の)は、幼児期を過ぎたあたりから、外界にぶつかるごとに発現するものです。小学生あたりから、性格的に荒れているとか、逆にひ弱いとか、極端に神経質に見えるとかはそのことの表れと言ってもよいと思われます。これはいじめる、いじめられるという方向での性格の幅を広げ、それぞれを過激にしていると思いますし、親や先生が説教しても聞く耳を持たないということになりがちです。全国的に児童虐待の件数が増加しているようですが、この事は、現在の子育ての難しさを暗示するものだと思います。
 次に教育サービス面での構造的な変化をきたしているという点では、忍耐力が無いとか我慢できないとか、耐性のなさを子どもたちに許容してきているように思われます。逆に見れば、供給側の押しつけが通用しなくなってきたことを意味しています。先生の指示通りに動かないし、ちょっと強制的に働きかけるとふて腐れたり反抗的になったり、挙げ句の果てにすぐに学校を休んだり不登校気味になったりします。昔だったら許されなかったことが、現在ですと子どもの要求がそのまま通るということになります。これは、繰り返せば消費資本主義社会に入って当然起きうる出来事で、いいとか悪いとかの問題ではなく、強いていえば子どもの要求に沿った子ども主体の義務教育課程に書き換えないと、学校の存続すらが危うくなる前兆に見えます。消費社会への転換は大きな出来事ですが、これは特に公的な教育世界ではうまく捕まれていないような気がします。過渡期、移行期として様々な混乱が生まれていますが、このことは子どもたちの在り方に多大な影響を与えていると思います。ぼく自身は、長い目で見ればこのことは子どもたちにとっていいことではないかなと思えています。あと四、五十年をかけて義務教育の世界は「遊び」が主体となるような、劇的な転換を遂げていくことになると思います。そうでないと学校が成り立たなくなるし、またそうなることが子どもたちにとってもよいことだと思います。
 最後の問題は簡単に言えば大学の序列化に集約される出来事です。現在日本で最優秀とされているのは東大です。何が最優秀かというと、学校でする勉強の一番の高みにあるということです。全国で一番に難しい試験問題が課され、成績のよい順番で入学できる。つまり、学校でする勉強の成績が最もよい者たちの集まったのが東大というように、一応は考えられています。そしてまた、学問の業績のトップクラスが東大の教授になるというように、世間的には東大は生徒も先生も成績優秀の人たちと見なされています。
 たしかに、学校でする勉強については成績優秀と言えるのだとは思います。でも、それは人間として優秀なのだということとは全然違います。学校でする勉強、学習には適応できた人たちとは言えますが、ただそれだけです。ただそれだけですが、社会全体としてはそのことがすごい価値あることなのだと見なされているように思われます。熱狂的な知識の信奉者がそう考えるならまだしも、普通の庶民までもがそんなふうに思い込んでいるということは不思議なことです。人間の持っている能力の一部分だけを取り上げて、それだけで何か超越者ふうにあがめられているのを見ると、いかにも日本的な光景のように見えます。
 しかし、日本社会全体がそうした価値観で統一されているということは異様なことで、これは逆向きに下るように降りて考えていきますと、二流三流の大学に進むものはちょっとダメなやつで、さらに大学には入れないやつはもっとダメなやつということになってしまいます。中学で、進学できる高校はないなどと言われたらもっと悲惨で、もうお先真っ暗になります。学校の勉強に合わない、追いつけないというだけで、選択肢はなくなってしまいます。大げさに言うとやることが何もなくなって、こんなくそ面白くない社会なんか無くなってしまえと考えるに違いないのです。暴れてやろうかと言って暴れます。それは当然ではないでしょうか。ぼくなんかは、ぎりぎりのところで、多少なりとも学業面で折り合うところがありましたから、かろうじてそうならずにすんだと言うだけです。
 つまり社会の構造というか仕組みがそういう形で硬直化していて、このことは高校生、中学生、そして今日では小学生にまで降りてきて、漠然とながら了解されているように思われます。
 さすがに文科省あたりにも、度重なる高校や中学での校内暴力や非行などからこうした事態は把握されて、最近では勉学以外の道、すなわち多種多様な職業の道があることを小学生段階から紹介していくというようなことを行ってきています。このようなことで緩和の方向を探っているわけです。ですが、受験自体、知識の多寡で序列を競わせる、あるいは上昇志向やエリート志向でもって作られた「権威の塔」を解体していくようなことは何も行っていないわけです。
 どう言ったらいいでしょうか。社会に蔓延するこうした硬直化は成人には暗々裏に認識されていくことですし、そうした大人たちの言動や気配を察して子どもたちにも空気感という形で伝わっているように思われるのです。そのことが重苦しく子どものこころにのしかかって、ある種の閉塞感を感じさせていないとは誰にも言い切れないのではないでしょうか。少なくともぼくにはそんなふうに見えて仕方の無いところがあります。ぼくは子どもたちがはっきりと理解しているとは言わないまでも、感覚的な察知というところでは大人顔負けの能力を発揮するものだと思っています。つまりいろんなことを分かっていると思います。それを言葉に表せないだけで、言葉以前のこころで了解しているのだと思います。
 以上、もしも今日的ないじめの中に従来に見られないような過激さとか、残忍さとか、執拗さ、そしていじめられる側にひ弱さという面があるとするならば、過去に無い現在的な社会構造上の問題があるのではないかと考え、そこからさらに、子どもをいじめに向かわせる3つの特徴を取り上げてきました。ただしこれは綿密な調査や分析の元に行われたものではなく、やや即席のように取り上げてみたものに過ぎないものです。だからはじめから無効かと言えば、ぼくはそうは思っていないわけで、大事なそして参考になるような視点は提出できているのではないかと思っています。
 いじめ問題に関して、一応、大学教授の著した論文調の書物を参考に読んだりはしました。そこには調べられた過去のいじめの事例が挙げられ、詳しく分析されたりなどしていました。また分かりやすく読みやすく解説されていたとも思います。ぼくから見ると大変良く出来た文章でした。ですが、入り口は大変まともな優れたものだとは思いましたが、出口はダメだと思いました。その本の結論は、結局のところマスコミやマスコミ知識人の捉え方はダメで、それを変更していかなければならないと言っているに過ぎませんでした。論理の展開の仕方、文章の技法には感心させられましたが、残念ながら最も大事な論ずべき核心を突いていないと思えたのです。道具仕立ては立派だが、ぜんぜん対象を裁けていないと印象されました。これはぼくの主観に過ぎないからどうということもないのですが、こっちの方が言いたいことは言い得ているよなとも思いました。
 それはさておき、では現在のいじめ問題、自殺や命のやりとりに発展しかねない今日的ないじめを、少しでも緩和していくというようなところでどんな対処が考えられるかを言ってみたいと思います。
 原理的なところで考えますとこれはものすごく簡単なことで、いじめが深刻化した、凶悪化した元凶が、何はともあれ社会の変化に伴って産み出されたとするならば、変化する以前のところに立ち戻ればいいのだと思います。近いところでは戦前にということであり、もう少し時間の幅をとれば明治の開国時期にということになると思います。ここでそのことを考えるための参考として、これまで何度か文章に引用したことがある明治期の外国人旅行者の手記を見ておきたいと思います。
 
子どもたちは両親と同じようにおそくまで起きていて、親たちのすべての話の仲間に入っている。
 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情を持って世話してやる。父も母も、自分の子に誇りを持っている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時頃、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集って腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。その様子から判断すると、この朝の集会では、子どものことが主要な話題となっているらしい。夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒のなかに囲まれてマロ(ふんどし)だけしかつけてない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むがそれと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T高梨健吉訳)
 
 これは明治期の外国人旅行者の目に映った日本社会の、そして子ども世界の諸相の一部分に過ぎないわけですが、そのことを考えた上でも、現在に起きている子ども世界のいじめとは無縁な世界であることが想像できると思います。つまり、時代を逆行してこの世界に戻ることが出来れば今日のいじめ問題は全て解決されるわけです。だから、戻ればいいだけのことです。そうはいっても実際に明治期に戻ることは不可能なことですから、ひとまずこの時代の子ども世界を現在のいじめ問題から見ての仮の理想空間として、近づいていくことを考えていくべきなのだと思います。
 すでに、不十分なものではありますが戦後の変化と、それが子ども世界の変容にどう関係したかについては考えてきました。時代が子ども世界に付加してきたものを引っぺがしていけば、戦前から明治期に向かっての子ども世界に近づいていけるわけなのだと思います。そしてそれは現在的ないじめを根絶するとまでは言えないまでも、緩やかにするだろうとは予測できます。
 こうした考え方からの道筋として、ぼくは先に述べたように、いじめ問題に関連する3つのことを考えました。これはいじめ問題の解決の方向に向かっての言い回しに直しますと、ひとつは母親(代理)と子どもの親和力を濃くするということ。2つ目には大人好みの教育というようなケチな考えは止めにして、子ども主体の、子どもの欲求に沿った教育課程に切り替えていくこと。3つ目には受験競争の過熱化の元になっている大学の序列化、権威の無価値化、無化を図っていくということになります。これについては次節で詳しく検討してみたいと思います。
 
いじめをやわらげる方策
 ここまでに、現在のいじめが昔からあるいじめに何を付け加えたのか、そして主にどのような変化がその要因となり、考えるべきことなのかを探ってきました。前節までにはそれを3つに集約させて考えて、そこがうまくクリアできれば少なくとも大事に至らない状況に引き戻しうるのではないかと考えてきたわけです。ここでは次に問題点として洗い出された3つのそれぞれについて、ではどうすれば、現在的ないじめの緩和や解消に繋がっていくのだろうかということを考えていきたいと思っています。つまり、いじめの根源的な解消は無理だと考えているのですが、せめて、時代が付け加える過度ないじめ方とか、いじめがあっても自殺に至らないようにするにはどうしたらよいかとかを考えてみたいわけです。
 まずはじめに、前節に述べた3つ目については、大学はどこに入学しても同じだということになることが理想です。これについて吉本隆明さんは、東大の教授になったひとは4年間を他大学で講義することを義務化し、また他の私立大学で先生になったひとは東大で同じく4年間講義することを義務化すればいいと述べていました。そういう制度を作ればよいということです。これによって格差がなくなったり、先生たちも、優越意識や劣等意識から解放されるんだと考えていたように思います。また激しい受験競争も緩和されると考えていました。 私立の三流大学に入っても東大クラスの先生に教わることが可能だとなれば、別に大学はどこに入っても同じだということになります。東大には三流大学の先生が生徒を教えに入り、自らも学んで、4年後は元の大学に帰るわけですから、それはそれで誰にとってもよい経験となっていいということになると思います。それで、全体が少しずつ均等化されます。受験競争は緩和されて、学者さんだけに必要とされるような基礎知識や技術を、全ての受験生が詰め込まなくてもいいようになっていきます。受験というものが果たした厳しい選別は無用になります。大学はどこだっていいとなれば激しく競争する必要がなくなり、そうすると高校なんてどうでもいいやとなり、中学もどうだっていいとなっていくと思います。さらに受験競争が緩和されてきますと教育課程も変わっていくはずです。
 そもそもが大学の学業を基準に、高校、中学そして小学へと下って考えられてきたところがありますから、各段階で少し背伸びした教育課程が実施されてきたところはあったと思います。それは弊害にはなっても、子どもの全人間的な成長と発育に益するものではあり得なかったのです。今日の若者の実態をつぶさに観察すれば、そんなことはすぐに分かることです。若者は自由で我が儘なだけとみるのは早計で、本当は苦しみながら成長・発達していると見るのが正しいと思えます。
 これらのことは2つ目に挙げた問題と関連してきますが、学者サイド、指導層サイドが無意識かつ一方的に決定していた教育課程、教育の全体的な計画に、少しずつ子どもサイドの欲求や願望が入り込む余地が出来てくるということになると思います。消費者主体、子どもが主体の、教育計画が組まれていくことになります。
 これまでの学校制度、システムは、教育を供給する側でその内容を作ってきましたが、消費資本主義と呼ばれるような社会への移行を迎えたところでは、受け取る側の子どもの方に主権が移ってしまうのです。経済のいろいろな領域、段階で価格破壊などが見られるように、教育の世界では子どもが受け入れなければ教育内容が破壊されることになります。つまり、子どもの側ではそれだけ学習そのものに対する切実さが失われてきているから、そのように変わっていくほかないのです。実際に今日の子どもの学習状況においては、学習に向かう場合の動機が希薄になっていると思います。意欲的に学習に取り組んでいるように見える場合でも、本当は身体的にか心的にか、「やらなくてもすむものならやりたくない」という思いが潜んでいるように思われます。子どもたちは直感的に、自分たちの将来に目の前の知識や技術、あるいは道徳的な修得が必要ではないことを見抜いているとぼくは思います。
 そのことは、テレビなどで取り上げられるユニークな教育実践が、実にバラエティーに富んだものになってきていることからも予測できると思います。それくらいの、奇抜なことを盛り込んだものでないと、もはや子どもを学習に引きつけることが困難になってきていることを、逆に物語っているのだと思われます。つまり、どう言うのでしょうか、マスコミがどんなに褒めたり推奨したりしていても、結局は供給者側が四苦八苦している図としてしかぼくには受け取れません。子どものやる気を引き出すために必死なのです。必死にやらないと子どもたちを学習世界に留めておくことが出来なくなってきたのです。本当ならそこで、子どもたちがやりたくないと言っているんだから、遊びたいと言っているんだから、「遊んでいいよ」と言えばいいだけなんです。それだけで教育世界に生じてきた問題点は全て解消してしまうのです。何も問題はなくなってしまいます。いじめというのもほとんどなくなってしまいます。だからそうすれば一番いいのですが、そうするためには社会全体の意識が変わらなければならないので、なかなかそういうように一足飛びには行きにくいのです。本当は幻想に過ぎないのですが、子どもたちが勉強しなくなって遊んでばかりいるようになったら、社会が成り立たなくなり混乱してしまうとほとんどの大人は思っていると思います。子どもたちを信頼できていないのです。恐れているのです。ぼくは逆です。先に引用した外国人旅行者の手記を読み返すまでもなく、子ども時代にいっぱい遊ばせてもらえたら、そのあとはもう満足して不満は持たなくなります。そして思春期を迎えますと、徐々に本格的に考えるということが身についてきます。自ら動き出してよい方向に自分を変えていこう、というような気持ちを持つようになります。あとはもう何でも自発的に取り組んでいくことになると思います。それを信じればいいと思うのですが、それが信じられないものだからあの手この手と苦心して、必死になって子どもたちを学習世界に食い止めようとするのです。そしてその必死さは社会全体からは、幾分肯定的に受け止められているような気がします。教育は子どものためになるものであり、そのために先生たちが、学校が、一生懸命アイディアを絞り出し努力している姿をよしとしているところがあります。
 たしかに、各地の各学校に見られるそうした類いの試みは、一時的には効果がありそうに見えます。目先を変えた試みは、子どもの興味を引くということもあります。ですが、そうした小手先の改革がどれほど通用するものなのか、ぼくには疑問に感じられます。また、一時的に、たとえば中学なら中学の3年間にものすごく学習に打ち込んだとして、そこで燃焼しきってしまったとなれば、長い生涯の中で何ほどのことかとぼくには思われるのです。
 ここまでに述べてきたところは、つまり今行われているようなぎゅうぎゅう詰めの学習や道徳的な教え込みが徐々に解体するだろうことは、ぼくには、未来に向かって、不可避にそうなっていくだろうなと思われます。そうなっていくよりしょうがないだろうと思い、そうなっていくことがいいだろうと思っています。なぜかというと、ぼくは子どもの内面はこころ(心情)の系統と頭(理性)の系統と2つの系統があって形づくられていると考えていますが、今日ではゆったりと心情を育むいとまもなく頭の開発がせかされています。つまり早期の学習の導入によってです。特に戦後の文明の進展に伴う教育のレベルアップは頭の開発に偏り、子どもの内面はバランスを欠くことになりました。このアンバランスは限界に近づきつつあり、子どもの自然な成長と発達に変調を来すようになってきていると思います。無意識に荒れてみせるしかないところまで来ていると思うのです。これはもう過剰な、人工的な教育、飼育を止めろというように、警鐘を鳴らしていると言っていいと思います。それを緩和することや取っ払うことはいいことだし、それ以外に方法はないとぼくは考えています。
 今は最後のあがき、最後の抵抗の時期で、けれども最悪、そのあがきや抵抗が長く長く続く場合も想定されます。社会をざっと見渡すと、そういう勢力が多数と見えるからです。経済人から政治家から知識人から、そして庶民に至るまで、学校教育は普遍的おなもののように思いなしていると思います。勉強することのいい点ばかりを見ているからです。ぼくらが通過儀礼の意味合いしか持たないよと言っても誰も耳を貸しません。けれども、もしも現行の学校教育制度を守ることばかりに意識を向けているとしたら、また実際に文科省は学力向上を目標に掲げいっそうそういう方向での囲い込みが検討されているようでもありますから、今日のように死に追い込み自殺に追い込むいじめというものは、もう少し長く存続することになるでしょう。時代は、明治の開国期とも戦後の高度成長期とも違い、富国強兵や経済発展のために強制される学習に、本当は積極的に立ち向かう意義を見失っています。また、子どもたちにはがんばって学習すれば幸福に暮らせるという実感も持てないし、がんばって学習しないと生きていけないという実感も日々の生活の中では実感し得ないことですから、学習はただ強制される相手の貌が見えないいじめと同じことになってしまいます。いじめられるばかりではいやだから誰かをいじめたくなります。
 吉本隆明さんは、ここまで述べてきた2つのことについては制度や組織の問題であり、知識層、エリート層の意識の問題と関連するところだからすぐに変えることは難しいだろうと考えていました。そして手っ取り早く今日に見られるいじめを改善していく方途として、もう一つの、「母親と子どもの親和力を濃くする」という方法を提唱していました。
 これは何かというと、ぼくの理解の仕方では、家族的なところでいじめ問題を克服していこうとするものです。子どもの場合、いじめる側もいじめられる側もいずれにせよ性格的な側面も関係するから、家族や家庭を砦として、子どものこころに壁を作るということです。この壁を高くすることが出来たら、それを乗り越えて自殺することは簡単にはできなくなります。また高い壁があると、ある限度を超えて他者を追い詰める時でも、それが自分の衝動を押しとどめる壁として立ちふさがることになります。社会的な構造の改革を待っているよりは、家族内で出来る防衛策として、それは実効性のあることだとぼくには思えます。
 その壁はこころの中に、目には見えないものとして作られます。胎児期の時、乳児期の時に、胎盤の中や授乳時に母親とのコミュニケーションを通して個々のこころに作られると言っていいのです。言葉を換えれば、その時に安心や信頼が子どものこころに植え付けられれば、そのことが多少の困難に遭遇した場合にも生の側に立って歩み続けることを強いる、ある種、生と死の境界に立つ壁として機能することになります。
 たっぷりと愛情を注ぐこと、といえばそれまでなのですが、絶えずこころを胎児や乳児に向けてあげること。向けている時間をケチらないこと。自らもこころをゆったりと保って、胎児や赤ちゃんが居心地よく過ごせるように世話してやる、かまってやることが大事なのです。そんなことで機嫌良く過ごせたら、赤ん坊には不満も文句も言いようがないのです。言いようがないから満足します。そうやって育つ子どもが、性格的に荒くなったり残忍になったり、逆に人見知りになったりひ弱になったりするはずがありません。万一少しはそういう傾向があったとしても、その後の幼児期や児童期に、いつも何気なくゆったりとして傍らにいてあげられたら、それで十分なのです。あるいは一緒に本気で遊ぶ時間を、今よりも多く意識的にとることが出来たらそれで良いのです。無理に何処かに出かけるなんていらない。家の中でも庭先ででも、一緒に楽しく過ごす時間が大切なのです。そうして育った子どもは、多少勉学を怠けたり、引っ込み思案だったり乱暴者になったりしたとしても、自殺するとか、反対に誰かを殺めるというところまでは行かないのです。つまり、最悪の事態を防げる方法としては、このことは有効になり得るのです。他に期待できることがなかったら、そして現実には先に述べたようなことは何一つ変わりそうにない気配もありますから、それこそ緊急の対処としては一番効率のよい方法かもしれません。
 このことでさえも現在の若い父親、母親には難しいことかもしれません。きちんと調べたわけではありませんが、現在の若い夫婦は恋愛を通しての結婚が一般的だと思います。残念ながら、恋愛感情というのはよほどのことがないと賞味期限は3年くらいのものだという気がします。さらに子どもが生まれますと、家族を運営していくという新たな次元に入っていきますから、恋愛感情も当初のままではあり得なくなってしまいます。経済的に共働きをしなければいけないとすれば、忙しさも倍増します。今の核家族というものは昔の大家族の時に較べて自由で気を遣うことがないように見えて、内実は相当に大変な気がします。糸の切れた奴凧と同じで、風が吹くとどこに飛ばされてしまうか分かりません。 早い離婚というのは、たぶん男も女も自分の性愛という面を重視するようになってきていることが原因だと思います。結婚してまもなく、ついうかうかと、性愛の対象を他に求めてしまうことも今日の社会では少なくないのではないでしょうか。
 子どもが学校に入学するようになると、また心配の種が増えます。勉強について行けるかどうかが気になります。また子どもに不自由な思いをさせたくない思いも強いから、収入面で柄にもない費用を子どもに費やしたりするかもしれません。ぼくらもそうだったから思うのですが、おそらく計画的である家族は少なくて、場当たり的な生活をしつつ、ことあるごとに初めての経験を迎えて、その度ごとに対処を考えるということになっているのではないかと思います。
 ぼくらも夫婦と子ども二人の、言ってしまえば核家族だったわけですが、ふだんの生活について誰からも口を挟まれることがないかわりに、教えてもらこともないのです。誇張して言うと、何も道具や武器を持たずに大海原を航海していたのと同じです。そんな事情は今時の若い家族にも共通するところがあるのではないかと思っています。
 いつ頃のことか忘れてしまいましたが、ある時にぼくは自問自答したことがあるのです。「もしかして、オレは心の片隅で子どものことを邪魔に感じている部分があるのではないだろうか」と。それは肯定したくないけれども、そう考えないとつじつまの合わないことがあったのだと思います。もちろんそのことについては自分に蓋をして外に漏らすことはなかったのですが、その時は密かに、自分の妻にも、他の親たちにもあるのではないかという疑いを持ちました。最近、よく児童虐待や若い親たちの子どもを殺してしまう報道に接しますが、それは極端に子どもが邪魔に感じられたところで起きる事件だと言っていいのではないでしょうか。親はそこで我慢しなければなりませんし、幾分か自分を犠牲にしないとうまく子どもを育てられない面があると思います。
 ぼく自身はその自問自答のあと、究極の選択として、自分のやりたいことと子どものためにはそれを放棄してもいいということのどちらをとるかと問うて、自分のことは二の次にすべきだと考えました。実際にそのように出来たのかどうかは別として、自分の中ではそういう自問自答を必要としたことは嘘ではないのです。
 太宰治は、「子どもより親が大事と思いたい」、「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉を残しましたが、家族の営みを背負うことになったものには、特に現在においては一度は訪れる厳しい自問の形だという気がします。もちろん太宰はすっきりと先のように考えることが出来たわけではなく、逆説的な意味合いをこめていました。
 吉本さんはおそらくはこういうことも考えた上で、胎乳児期と思春期前のところで、両親は自分を少し犠牲にしてでも子どもに寄り添えと言っていました。そうしたら人を殺めたり逆に自殺したりというような、極端な結果をもたらすパーセンテージはグンと低下するんだよということだったと思います。それが「母親と子どもの親和力を濃くする」という言葉の意味合いだったように思います。
 吉本さんの子育て論は、世間一般の関心を引く子育て論とは隔絶したものです。どうしたら勉強が出来る子に育てられるかとか、人の上に立つ人間を育てるとか、そういう次元のものではありません。吉本さん自身がごく普通の生き方を理想としていますから、勉強が出来る、運動が良く出来るなどということはあくまでも結果であって、そんなことはどうだっていいと考えていました。最悪のことが防げたら、それで良いじゃないかというものです。ぼくもそう思っています。だいたいが、普通の生活がつまらないもので退屈なものだとは言えないわけで、人間としての本源は本当はそうした普通の生活の中に詰まっているものだと思うのです。だからそれでいいと思うのですが、今日の世相一般はそうではありません。勉強が出来ることから始まって、運動が出来る子、何かひとよりも秀でたものを持っている子ども、輝いている子ども、夢を持っている子ども、何かにひたむきに努力している子ども等々、そういう子どもがよいとされています。反対に、夢がないとか、勉強や運動に努力していないとか、不登校だったりいじめっ子、いじめられっ子だったりするとダメなもののように見られます。それはある種の社会的な枠組みのような形で幻想的に作られているものなのですが、本当はそんなものに何の根拠も価値もありません。だから、何がよくて何がダメかを規定している、社会の幻想の枠組みから親は降りてしまえばいいわけなのです。その上で直に子どもを自らのまなざしで見て、何もあえて言うことをせず、無条件で子どもを支えていけばいいのだと思います。そして、そのことによって生起してくる様々な現実を責任を持って引き受けて行くんだと考えれば、もうそれ以上のことはないのではないでしょうか。前に見た明治期の外国人旅行者の手記に描かれてある親たちの姿というものは、そういうところに近い場所にあったと思われます。
 さて、いじめ問題に関してぼくが考えるところはここまでです。いじめはなくならないと思っているし、なくそうという考え自体がおかしいことだと思っています。社会はしかし「いじめを無くそう」と言いますし、もしもそんなことができたら極端に理想的なことではあります。理想的なことだし通りがいいことだから誰かがいじめを根絶しようと言えば、これに異を唱えることはとても難しいことになります。世の中では誰も口を挟めないような、倫理的にいいと思われることを言う場合が多いのですが、これもそのひとつで、その場合、いじめはどうして起きるのか、何が原因なのか、大人社会のいじめは解消されたのか、等々の疑問とそれらのことに対する考察は不問に付されてしまいます。「たばこ問題」の時もそうでしたが、「無くそう」ということが先行されてしまいます。そうして社会全体が「明るく健康的であること」を無意識に自他に強制し始めます。暗くて不健康なことは「悪」だと切り捨てられがちです。
 こういうやり方は「考える」ということを停止させてしまうもので、言葉を換えれば「善の強制」ということになり、ぼくはけしていいやり方ではないと思っています。特に言ったりやったりする側は、最初からいじめは悪だという規定に乗っかり、おそらくそれについて思い迷うことがないと思います。ほんとはそれは考えることの放棄を意味しています。周りがダメと言っているから、あるいはWHOがそう言っているからというくらいのことしか考えないのです。周りのことやWHOのことを疑ってみることすら出来ないのです。それは大本営発表を疑わないことと同じなのです。
 実際は、昔からのいじめが本当に悪いことばかりなのかどうかについては疑問があります。例えば宮沢賢治というひとはどう考えてみてもいじめる側に回ると言うよりも、いじめられる側に回るひとだったという気がします。そうだったからこそ、彼は童話作品においていじめられる側の心情を星のように美しく光るものとして、芸術的に昇華し得たのではなかったかと思えるのです。時にはまた、いじめられるものの心情を、この世には存在しない天使のこころのように表現することも出来ました。いじめられたことによる苦しい体験は、そのように個人の中で個人の力によって描き出され、読者としてのわたしたちは、「何と美しいこころが存在するのだろう」と深い感銘を覚えることができるのです。つまり、いじめを経験することはその時はたしかに苦しくとも、他者の心をどれだけ深く理解するようになるかということでは、けしてマイナスの体験とばかりは言えないような気がするのです。
 いじめの解消というものは、「止めろ」といって止めさせることの出来るものではないと思います。また、道徳を教えたりというような頭の働きで理解させて解消できるとも思えません。大事なことは体験したことを深く考えることで、自分の中で自問自答を繰り返しそっと内面に解を見つけていくことだと思います。
 学習支援員として去年児童館で子どもたちを見守った時に、長短、強弱のあるいじめの実態に触れました。その時に、まだ幼い子どもといえどもきついいじめ方をするなあと思ったことも幾度かありました。けれども注意もせずに観察すると、いじめる子どもにもいじめられる子どもにも心の中にちょっとした変化の兆しが見えたような気がしました。小さな小さな発見をそれぞれの子どもたちがしていると映ったのです。言ってしまえば誰に言われるまでもなく、子どもたちは自らこころを動かしているのです。それはかすかな気配のようなものに過ぎないのですが、ぼくはそこに自然に備わったものとしての人間力の兆しのようなものを見つけたと思いました。何がよくて何がよくないかを判断する力と言い換えてもよいかもしれません。
 それを見た時に、これはもう大人がしゃしゃり出てあれこれ訳知り顔のことをいうべきではないと思いました。それは害だと思いました。子ども自らが変わろうとする力をそこでストップさせることは、目先の善悪にこだわって、実は本人のもっている変わる力を削ぐことだと思えました。ちょうど蛹が脱皮する時に、人間が手を触れると変身が不完全になってしまうからそっとしておいた方がよいように、そっとしておくべきだと思いました。小さな子どものうちはその力があり、手を加えてかえってその力は変なものになってしまう、そんな風な気がします。我々は直接的に子どものこころに手をかけたりせず、間接的なところで、つまり周辺の環境、条件をよくしてあげるというところで大いに工夫すべきではないかと思います。ぼくは今の大人たちはそういうところを少しも考えていないと思いますし、本気で努力しようともしていないと思います。なぜかと言えばそれは大変なことでもあり、難しいところでもあるからです。しかし、そういうところを回避することを続けていれば、子どもたちはそういうところを見習って成長して行くに違いないのです。ぼくはここで精一杯考え、自分の考えるところをまとめてみました。少しも自分の考えが正解だと思っているわけではなく、同じように考えてほしいと思っているわけでもありません。ぼくの側に願望があるとすれば、考えるのが面倒だから世の中に流通する健康的で明るい考え方にすぐに飛び移って、それをさも自分の考えのように取り繕うのではなく、本当に自分で考えてほしいということなのです。そうするとぼくがここで例に挙げた3つのことのように、周りのこんなところを抑えて考えていく方がいいんじゃないかみたいな、自分なりの考えやイメージがでてくると思うのです。そうすると硬直化した思考というものは少しほどけていくと思いますし、今よりもよい考えというものも出てくるような気がするのです。
 これはちょっと理科の実験に例えたいのですが、実験の結果とその正解はあらかじめ存在しています。けれども往々にして実際に実験すると正しい結果が得られません。そこでぼくなんかはちょくちょくそういうことになりがちだったのですが、正解はこうなんだということ、こうならなければならない、ということを伝えて終わりにしたものです。つまり絶対的な真というものは条件がすっかり整わないと辿り着かないのです。何か余計なものが混じったり余計な条件が付加されてしまうと結果は予測されたものとは違ったものになるのです。それで、時間的な制約もあって、実験はこうだったけど本当はこうなんだと言ってすましてしまいます。
 ぼくなんかがやってきた子どもへの指導というのは、大概はそんなことに類似してしまっています。本当はなぜ原理的なことがその通りに実現しないのか、そのことを考えることがとても重要なことですが、そういうところは追求しないですましてしまうのです。つまりはじめから答えありきのところで出発して、本当に重要な、「考える」ことはしないですましてしまいます。いじめの問題もまた「悪」という規定があって、そこからはじめてそこに戻るということを繰り返しているに過ぎません。実際には現実社会、そこでの人間関係には絶対的な正義、絶対的な正しさ、反対の絶対に「悪」であるというものも表れ得ないはずですが、あるものとされてそればかりが主張されます。本当はこれが正しいとか悪いとかと言われたって、実際の実験で違ったら納得できるはずはないでしょう。納得できないのに「はい」と言わないと許してもらえない、「分かりました」と言わないと授業が終わらない、だから「はい」と言い「分かりました」と言う。そうなると本音を言わない優等生になっていくか、おちゃらけで制度に背いてみせるしか手はないでしょう。うまく伝わるかどうか分からないところですが、一応ぼくなりに手を尽くした主張はこういうところです。   了