貯金が底をついた
 
 今、しなければならないことは何もない。パソコンの白紙の原稿用紙を開き、その前に座って煙草を吸っている。
 作家でもなければ文筆家でもない。何を書くかというあてもなく、ただ何かを書いてみたいという思いだけがかすかに心に浮かんでいる。
 ついさっきまで、居間で妻と話をしていた。このまま職が見つからなければ、ほぼ二ヶ月で貯金が底をつく。その後どう暮らしていけばいいか、妻は暗澹とした口調でそう言っていた。
 私は保険を解約し、場合によっては家を売却するしかないだろうというようなことを言った。その間に、職にありつけたらいい。そう言って二階の部屋に避難してきた。それ以上、どんな知恵も出ないと思った。
 そう言いながら、実は、私は自分の家庭の貧乏を実感出来ないでいる。このままでいたら二ヶ月後にどんな暮らしが待っているのか、見当がつかない。蓄えの食物が底をついたら、腹が減る。そこまでは分かる。水道やガスや電気が支払い出来ないために、供給ストップになるだろうということも想像出来る。そうだけれども、それがどうだということが実感出来ない。それはその時になってみないと分からない。そう、思っている。
 それでは遅い。普通の生活人なら、そんなことは分かり切っている。だが、私には分からない。私は馬鹿である。馬鹿でなければこんなことはしない。
 
 昨年の三月、二十一年勤めた小学校の教員の職を、抛った。理由は簡単である。下の子どもが二十歳を過ぎ、これからは何とか自分でやっていけるだろうと思ったことと、単純にこんな「村」いやだ、そう思い続けてきたからだ。職場というものはどんな職場も「村社会」に通じる。その「村社会」がいやで、行くところがないが、とりあえず「村」を出た。そんなところだ。そんなことだから暗澹となるに決まっている。けれども、この暗澹は、苦しいことを意味していない。未来は見えないが、今は失業前とそれほど違った暮らしをしているわけではない。
 蟻とキリギリスのキリギリスではないが、この一年、好きなことをして暮らしてきた。好きなことと言っても、酒池肉林に身を投じたというわけでもなく、高尚な趣味に没頭したり、あるいは起業したり、あるいはまた外国旅行をしたというのでもない。言ってみれば、ただ好きな時に起きて、好きなテレビを見たり本を読んだり、思うままに毎日を過ごしてきたというだけだ。それはつましい程度のものだったと思う。
 ある趣味を持った人が、定年退職を迎え、晴れてその趣味に没頭する、そういう、何をおいてもという趣味は私にはなかった。ただ、「村社会」において、そこのシステムからの声、言葉が、一切なくなるということが自分にとっては何ものにも代え難いことだった。何をするかは二の次で、自分の考え、行動が、何からも左右されない、影響されない、そういう煩わしさの影のなくなることが何よりも気分的に「快」だったのだ。
 さしたる贅沢もせず、退職金は底をついた。これからどうなるのか、自分にも分からない。仕事はしなければならないとは思っているが、それほど就職活動に気分が乗らない。そんな甘えた気持ちでいられるのもそろそろ限界であろうが、かといってこの年で本気になって職を求めてもおいそれとは見つからないだろう。妻には、きみも働けばいいじゃないかと言ってきた。最低の男であり、旦那だ。そんなことは分かっている。飢えて死ぬとしても、それを待つつもりもないし、飢えて死ぬつもりもない。とりあえず、家を売るという最後の手段までは考えている。
 
 
   夢を持って仕事をしたことがない
 
 アルバイトは、学生になって上京してから経験した。喫茶店、中華料理店をはじめとして、飲食店によく勤めた。そのほかに印刷会社での製本作業。ボウリング場の裏方。精力剤の販売。人形劇団に入り、大阪万博の住友童話館でぬいぐるみを着たり、指人形を演じたりもした。夜勤でビニール袋の検査という仕事もあった。
 卒業をして入社したのはタオルの工場とタオル問屋、そしてタオル専門の直営店を経営する会社だった。製品管理として、倉庫の中で製品の出し入れを一年やった。二年目に直営のお店の店長をすることになった。静岡、そして大阪へと転勤が続いた。やがて直営店での店頭の販売から、百貨店に卸すための部署に転属し、はじめは出張所にひとりという形で、注文を受け、商品を準備し、配達した。百貨店は土日が忙しく、納品が無くても行って包装や店頭販売などのお手伝いをしなければならなかった。強制ではないが、それをしないと、売り上げに響くことになり、毎日数店舗を掛け持ちした。
 暑い日の納品は大変だった。ネクタイにワイシャツ姿で、時間に追われるようにハイエースに商品を積み、また商品を降ろして届け先の倉庫のスペースに収める。時にはエレベーターを使わずに、4、5階を上り下りしなければならなかった。汗だくでワイシャツをべとべとにしながら、何か屈辱のような感情と自己満足とが交錯するような、そんな変な感情が掠めたことを覚えている。
 体を動かすことや、考えたり、帳簿をつけたり、仕事そのものを嫌悪したことはないし、自分には出来ないと思ったこともない。そこで満足することが出来たら、どんな仕事でも出来たろうと今でも思う。仕事がきついこと、心身共に大変であること、そういうことには我慢が出来ると、自分について自信を持って言うことができる。
 だが、今思えば、どうも、やりたくてやり始めた仕事ではなかったのだろうという気がする。もちろん、多くの場合、働かなければならないから仕事に就き、その仕事に従事する過程で、その仕事に対する誇り、またその先の「夢」のようなものが生まれてくるものなのだろうと思う。その「夢」を、はっきりと見、つかむ前に、その会社をやめることになった。
 その次の就職先は、公立の小学校教員という職だった。
 東京、大阪や神戸という都会での生活を経験し、仕事を通して実社会も見て、言ってしまえば、「生きる」ということの何であるかの一端は体験してきたという自信があった。教員の資格試験、採用試験を通ったという以上に、子どもたちに教えるという資格を自分は持っていると自負していた。
 そこでもしかし、思えば「夢」が無かったのであろうという気がする。やろうと思ってやり始めた仕事ではない。妻も子もいて、働かなければならないから、ちょっと手を伸ばせば届くところにあった仕事だからその仕事に手を伸ばした。そんな感じだったかも知れない。
 一日中声を張り上げ、子どもたちと鬼ごっこなどもし、家に帰って採点や明日の授業の下調べや準備をし、ろくに睡眠時間もとれない。そういう、先生なら誰もが経験することは、私も人並みにしてきたと思う。試行錯誤の毎日で、楽しさも、苦しさも、あった。そんなことはあたりまえである。民間の会社にいた時もそうであった。だから、それはいい。
 内容は違っても、働くということは、どこか共通する部分がある。そして自分は、働くことは働くのだが、そこから「夢」を見いだしていくという資質に欠けている。そういうことをここでは言ってみたかった。だから今、働くために就職することに逡巡がある。
 
 
   働きたくない
 
 「夢」が持てない以上、働きたくないと思っても仕方がないのではないか。密かに、心にそう思う部分がある。密かに、というのは、そうは大っぴらに言えないことを意味している。新聞、テレビといったメディアを見ていると、労働意欲を持たないことに、否定的な論調をよく見聞きする。そうであるならば、それは世間一般の見方、考え方を反映する部分もあるのだろう。だから、ストレートにはなかなか言い出しにくい。
 こういった意味では、フリーターと呼ばれる若者や、青テントぐらしの人々の感性に、自分の感性の類縁があるのかも知れない。
 これまでは、そこそこ定職について働いてきた。五十を過ぎて、少し早い定年を迎えたという解釈の仕方をとれば、現代の金銭的に不安な、収入のない隠居生活のその現実を象徴していると言うことになるのだろうか。多くの人々は、その時のために現役時代に多くの蓄えをしていなければならないと同時に、堅実な老後の生活設計をしっかり立てておかなければならないということなのかもしれない。
 いずれにせよ、自分にはそういう計算が無縁であり、苦手であった。童話やことわざを通して、それではいけないのだという先人の知恵を何度も教わっていたにも拘わらず、である。ここでも馬鹿と言うしかないことは十二分に分かっている。分かっていながら、こうなのだ。誰か俺の脳を取っ替えてくれ。最早そう叫んでみたくなる。
 働きたいと思う職場が見つからない。少し自分を甘やかして言えば、そういう言い方も出来る。
 どういう会社の求人広告を見ても、「意欲のある方」、「熱心に働く気のある方」という文言に似た言葉が並ぶ。これなどは、場合によっては徹夜を辞さない、無報酬のサービス残業をする、そういうことを暗黙のうちに含んでいるような気がして、つい腰が引けてしまうことになる。実際には前のどんな仕事にもそういうことはつきもので、男気みたいなもので引き受けてきた。だから特別のことではないという思いがあるが、この年になって今さら、という思いが強い。また、こんな建て前の言葉は世間の常識で、職を求める側の常識としては、その場限りにせよ面接でやる気のあることをアピールしておくという装いもまたもう一つの常識であろう。入社してしまえばこっちのもの、ということだ。そして、それは多い。
 「労働は緩く、拘束時間は短く、また定年がなく、給料は高い」という職場はないか。馬鹿みたいに、求人欄にそんな条件を探してきた。妻がため息をつくのは無理もない。そんなとき、私は馬鹿のように明るく笑ってみせる。それしか、仕方がない。生きることを舐めているのだろうか。こんな年になっても、生きることがどういうことであるかの分別の出来ない、大馬鹿者であるのだろうか。そうには違いないが、仮にそういう会社があって、そういう会社がここぞという時に、私は身を粉にして貢献出来るという自信は持っているのだ。ただそういう会社がない。
 働きたくないと思いつつ、しかし密かにだがこれで収入に結びつけることが出来ないかとこつこつ実行してきたことが一つある。それは詩を書くという行為だ。一度こんなことはやめようと思い、中断したが、諦めきることは出来なかった。読者は一人もいない。だが、細々とながら書き続けてきた。これが認められないだろうかと、また虫のよい思いだけがいつまでも心の隅に去来していた。
 そんな「夢」みたいなことがあり得るはずがないと、本当は自分が一番よく知っている。書いたものを読んで、心躍ることがなく、第一に面白くないのだ。絶体絶命が真綿をくるむように、迫っていると感じる。
 
 
   社会的ひきこもり症状
 
 職場を離れ、他人との接触はすっかりなくなった。仕事を離れて遊びに行き来出来る友だちは、身の回りには誰ひとりいない。
 自分の人格として不徳の致すところ、と言うべきことなのだろう。一年以上、きれいさっぱり交流はたたれた。
 もともと友だちは若い時から少なく、愛されない質なのだろう。それは最初から諦める傾向にあった。また、そういう表層でのつきあいを選んでしてきたのだと思う。
 だから、そのことで後悔したり、寂しくて仕方がないと思ったことはない。今でも、煩わしさが無い分、自分にとってはよいことではないかと思っている。たぶん、自分が死ぬことがあっても弔問客は数人の家族、親族しかないだろうと予測出来る。それで自分には少しも不足はない。ただ妻や子どもたちが寂しい思いを持つかも知れない。だがその時はそうであっても、やがて忘れる。だから、まあ、どうということもないだろう。
 もうずいぶん前、ある会社の重役の葬式にたまたま出席することになった時に、その弔問客の多さに驚いたことがある。人間の、社会的な役割というものが、そこには反映されるものなのかも知れないと思った。まあ、よく言って、人間の器がでかい、そういうことがはっきりするといえば言えるのだろう。だが、こんな弔問客の数の多さがなんになる。死者はそれを確認することは出来ないし、生者はたとえ生前憎しみを感じていた者であっても、死ねば線香の一つも手向けるというのがこの国の風習である。そういう己の憎しみをご破算にする、その目的で参集している人も少なからずいるに違いない。私はそう自分を慰めて、そこを去ったことを覚えている。
 好むと好まざるとに関係なく、ただ今現在の私の生活は、社会的ひきこもり者と同等のものがある。いや、そのものであるといってもいい。定年にはまだ遠い年齢で退職すること自体が、不登校であり、退学であり、ひきこもりに通じる道であった。そこに、好んで遊びに来る者も無かろう。
 だから、それはいいのだ。私をひきこもりの一員に数えてもらってもいい。
 社会との交渉。それは現象からいえば必要最小限と言える。コンビニに買い物に行く。映画を見に行く。車を運転し、高速道路を使って実家に顔を出す。他県に住む子どものアパートを訪ね、ついでに近辺をドライブする。たまに旅館に泊まる。そんなところだ。私はそれを一方通行のように思いなしている。私が行動しなければ、社会は私を訪れることが無く、一切の接触の機会はなくなるだろうと予想される。社会は、私など、全く必要としていないのだ。
 それは寂しいのかと問われたら、そうでもありそうでもないと応える。社会のそんな相貌は私にはあまり魅力あるものとは思えない。 惨めなたった一人の男が、ひきこもりはじめたからといって、誰も関心を持たないことは分かっている。当然のように、社会は動き続けていくだけだ。私のような者が、あちらで、そしてこちらで生まれ続けても、それは夜空の星の誕生と消滅ほどにも人々の関心を集めまい。仮に何かのきっかけで関心を持たれたとしても、少しもロマンティックではなく、また星々と同じく、進みゆく社会の歩みを、一瞬ほどもとどめはしない。
 そんなことも少しも悲しくはなく、辛くもない。最早社会がどうであろうと知ったこっちゃない。
 自爆テロを、どんなに報道が危機だ何だと叫んでみせても、なるようにしかならないだろうことを全世界が知っている。努力が全て無駄だとは言わないが、私たちはそんなところでも歴史の外に追いやられようとしている。華やかな銃撃戦真っ盛りの文明社会の片隅には、いつも言葉を奪われるものたちがいる。
 
 
   生きる意味の変換
 
 金もなければ社会的地位も名声もない。近隣とのつきあいも、出会い頭の挨拶程度しかない。
 仕事を通した子どもたちや同僚とのつきあいが無くなってしまえば、こんなあっけない自分の人生かと思う。だから、同好の士とかサークルの活動とか趣味の集まりを持っておくべきだと今さらながらに気づいた。私のようであっては遅すぎる。と、そういう話ではない。実は、そうではなくて、なんだこんなものか、という話である。ある装いが取り払われてしまえば、人間、裸である。そういうことが言いたい。
 文明の発達のおかげで、わずかの時期かも知れないが、働かず、人との交わりもなくして、人は生きることが出来るようになった。そういうことである。
 時々、私は今現在の自分のあり方が、幼児であり、あるいは縄文の人、さらに遡って日本に住みはじめた太古の原住民のようではないかと思いなすことがある。
 要するに、明日どう生きるか、そのことだけに直面している。
 極端に言えば、明日私は山を目指して歩き、木の実を得るか罠を仕掛けて鳥や小動物をつかまえるか、食料を調達しなければならない。私には、今現在の文明社会が、あってないが如くに感じられて仕方がない。文明は透明なものとなり、その底から太古の自然だけが浮かび上がって、私は孤独な古代人となってひとりそこに立っている。
 私は水辺からそう遠くない場所を根拠地とするであろう。昼は狩りを行い、夜には火を絶やさないようにしながら満天の星を眺めて眠りにつく。他にはなすべき何事もない。
 文明の直中にあって、原始を生きる。心境だけに限って言えば、私はまさにそういう状況にある。
 生きることの基底にあるもの。友人が去り、職を無くして同僚もなく、社会とのつながりは細く、地位も名声も金もないとして、それは絶望と感ずべき状況であるのか。
 私にはそうは思われない。
 私たちが失って寂しいと感じるもの、それらの全ては古代においては元々が無いものだと言って良い。古代人は、そういう境遇に、十分に生きることをしてきた。私はただ、生きることの原点に立ち返ってしまったというだけの話だ。
 退職することによって、私はたくさんのものを自ら捨てたということになるのかも知れない。だが、それらが全て貴重なものかと考えれば、無ければ無いですむものにしか過ぎなかったと言えば言える。それらが全て無くなっても、私は現に生きている。そしてその生き方は、古代の人と同様、明日はどうなるか分からない状況に似通っている。
 世のリストラされた人々、あるいはひきこもる人々、青テントに暮らす人々の心境はいかなるものか、私は知らない。けれども、どこか共有する部分があるのではないか、そう、私は思うところがある。そして、そういう人々に、なぜかエールを送りたい、そういう気持ちになって仕方がない。
 社会というシステムに乗っかり、そのシステムの内部で悲喜こもごもの暮らしを生きる人たちに文句はない。システムから無用を宣告され、あるいはシステムから外されようとする人々にこそ、はじめて、原点としての生きるとは何か、の問いが表れる地平が浮かび上がってくるように思う。あるいはその問いに直面しながら、その問いと向き合って生きているのかも知れない。システムからすれば意味ある生き方ではないかも知れないが、価値ある生き方という縦軸を想定してみれば、その問いを問うこと自体が価値に結びつく契機を持つものだと思う。そういう生き方が、このごろは、よいのだと、思える。
 
 
   仕事って何だ
 
 このごろつくずく仕事って何だ?と思う。大昔なら、それは狩猟であり、栽培であったろう。それは、「食べる」ことに結びついたものだ。今は、働かなくても食べていけるという状況が出来てきた。
 若い時にたくさんの収入を得て、たくさんの蓄えが出来た人は、早くから仕事をやめても困ることがないということはあり得るだろう。私のように、わずかな退職金では、二年と持たない。年金というものをもらえる年齢になれば、場合によっては、老後はそれだけで食べていくことが出来る。
 「食べていけない」条件の下になれば、やはり今も働くという手段を取らざるを得ない。 食べるだけの仕事ならば、どんな仕事でも同じだ。賃金を得て、食べ物を手に入れてそれを食べる。その繰り返しを延々と続けておればよい。その意味では、現代は職種が多すぎて、目移りがする。狩猟か栽培かの選択だけならば、いずれどれかに決めなければ仕方がないし、一つが駄目ならもう一つで頑張ってみる他はない。
 若い時に、自分もやがて仕事に就かなければならないということは分かっていた。高校とか大学は、仕事に従事するという観点からは、先延ばしにするという意味合いを持っていた。数年間のその無為のうちに、自分の先行きをある程度決定出来た人はよい。
 私はそうではなかった。いや、高校の卒業時には、漠然と、小さな工場のようなところで働きたいと考えていた。幼なじみの先輩が勤めていた会社を訪ね、その先輩が同僚たちと談笑し、寮の部屋でギターを弾く姿を見て、何となくこんなところで働きたいと思った。 私は高校生の時に、勉強を放棄し、家出の真似事もした。心的な自殺と言っていいだろうか。前向きに社会に関わろうという気持ちは消えていた。ただ社会の片隅で、ひっそりと暮らしたい、そういう願望があった。
 家族や親戚の説得にあい、大学に進学ということになった。
 当時は学生紛争がまだ衰えてはいない頃で、私はそうした紛争が遠心力と求心力をもつその狭間で、とにかくその強い風の煽りをまともに身に受けてしまったと思う。
 私はいつも、中間に、ひとり置いてけぼりにされてしまう。そうして言葉を奪われてしまう寂しさを味わう。
 私は学校をやめたいと思い、アルバイト生活をするが、所詮空っぽの心で、そういうあり方を支える何ものも見つからないことが分かっただけであった。一年して学校に復帰し、形骸として、講義に足を運ぶことだけが目的となった。生木に締められる苦痛。見方によっては、マゾヒズムと言われても仕方がなかったかも知れない。
 関係者に迷惑をかけながら、何とか卒業にこぎつけ、私は教務部に掲示されたわずかに残された二つの求人の張り紙を見て、その一つの面接を受けた。アルバイトに応募する気持ちと、さして違いはなかった。
 正直に言うと、その頃友人たちと同人誌を続けていて、詩や小説の類を書いていた。卒論の島尾敏雄論が、担当の教官に褒められ、持ち上げられたこともあって、心のどこかに文学への密かな傾斜もあった。だが、正面切ってある一つのことに取り組むという、勇気と、向こう見ずと、冒険心と、情熱とに、私の資質は欠けていた。そして、環境とたぶん才能も。
 私にはどこか、ごく普通の人の立場でありたいという願望が根強く生きていて、就職もまたその動機によってなされたような気がする。何を、どうしたい、という積極的な関わりが当時も出来ないでいた。私には、五十を越えた今も、本当には、生きるとはどういうことか、分からないでいるのかも知れないのだと思う時がある。
 
 
   仕事って何だ パート2
 
 民間の会社に就職するところまでは書いた。 そこでの仕事、生活全般は、自分にとっては満ち足りたものだったと思う。給料、そして仕事内容、自分に対する待遇に不満はなかった。それ以上を望まなければならない理由が、自分には何もなかったからだ。
 仕事を終えて同僚や先輩たちと酒を飲む。ストリップ好きの先輩に連れられて、よくストリップ小屋に出かけたことなどもあった。仕事以外では、当時はまあそういう生活をしていた。部屋の中で、本を読み、こっそり書き物をするということもあったけれども。
 ストリップは結婚後行く機会が無くなったが、私は今でも好きだ。年配のストリッパーが厚化粧をして、でもライトを浴びることできれいな顔立ちとなり、妖艶に踊ってみせる。その目元には、騙されているのだとは知りながら、引きつけられるものがあった。
 また、一部には非難されるに違いないが、たぶん成り立ての若いストリッパー壌であったと思うけれども、足をがくがく震えさせながら踊っていた姿も忘れられない。
 私ははじめの頃、舞台から離れたところに座り、言ってみれば斜に構えて見ていた。けれども数回足を運ぶようになって、それではいけないと感じ、敢えて舞台の真ん前に座るようになった。そして本当は顔をそらしたいのに、その思いに抗するように、踊り手から目をそらさないようにしながら見つめた。私をそうさせる力が、ストリップにはあったと思う。本当に出来たかどうかは別にして、私は楽しまなければならないように思ったし、楽しいと感じることも出来るようになったと思う。
 文学や学問をはじめ、一方に脳を究極とした仕事があるとすれば、ストリップは身体を究極とした仕事と言えるのではないだろうか。恥部をさらけ出した文学があるように、身体の恥部を、究極の問いを突きつけるように観客にさらけ出してみせる。私はそういう受け止め方をした。角度を変えて言うと、それだけの覚悟で、あるいはそれ以上の覚悟で脳を使った仕事、文学を、私は仕事として自分の身に引き受けることが出来るかという問いとして私は自問した。いや、本当は、それほどの思いで文学や学問に打ち込んでいる人々がどれほどいるのか、と、そうした世界への疑問を抱いた。
 ところで、究極の場に生きる人々にとって、願望はど真ん中に生きることではないかと私には思われていた。そして、そういう思いとしてだけは私も同行者でありたいと考えた。 その後私はその会社で販売にも携わり、営業も行うようになった。可もなく不可もなく、私は仕事をこなしたと思う。ただ仕事というものには、それ以上の関わり方が、どうしても出来なかったという気がする。
 そこの会社をやめ、小学校の教員という職に就いてからもそうであった。やるべきことは一生懸命やるが、どこかで、自分にそれ以上の能力を蓄える、高める、そういう意志が芽生えてこない。簡単に言えば向上心が、あるいは上昇志向が、不足している。それは、覇気がないと他人には見えたに違いない。
 これまでのところ、私にとって仕事とは、とりあえずしなければならないからするものであった。我慢が出来ない何かがあれば、即その場を離れることになった。自分が田畑を持つ百姓であれば、どんなことがあったにせよ、それがそのままその仕事から離れることにはつながらないに違いない。そういう意味では、そうした仕事に従事する人々が羨ましい。前にも書いたが、結局私は、自分が好きなことをして、それで収入が得られたら長続きもするだろうし、一番いいと思っているようだ。好きかどうか別にして、気がつけば考えることをしているのでそれが仕事になればいいのだが、収入に結びつきそうにない。
 
 
   人は何に苦しむのか
 
 飢えや病気、戦乱、失恋、貧しさ等々、人間を苦しめるものは多種多様だが、たいがいのものは現実的な解決を必要とし、現実的に解決されればとりあえずその種の苦しみは緩和される。そういうものとは別に、現実的な解決がつかず、私たちをとらえて放さない苦しみというものがあると思う。
 それは「他人の目」であり、自分のことをどう見ているかという問題である。一笑に付されるかも知れないが、私は長い間この問題に悩み、苦しんできたと思っている。先人の言葉によれば、そんなものに苦しんでも無駄だから気にしないようにせよということになる。気にするなと言われても、現にそのことで身もだえすることもあるのだから仕方がない。
 仕事をやめる時、仕事をやめてから、要するに孤立する状況の時に、「他人の目」の重圧は大きくなる。他人からの評価は考えても仕方がない、という文脈で話しているつもりではない。「評価」とは何かということであり、「物差し」とは何かという問題のつもりなのである。
 私たちがある活動、ある行動を起こす時に、脳裏を掠めるように、そうしてはいけない、そうすることがよい、などという無意識の判断が働いていると思う。それは自分の内部的な判断とも言えるが、外部の「評価」もまたそこに荷担して来るのではないかと思われて仕方がない。そして時にそれがうるさく感じられる。
 どうして、よい、悪い、がこうも私たちの行為を規制してくるのか。そしてまたその、よい、悪いの根拠は何か。私はこのことと戦ってきた。そのよい、悪いの基準はどこでどう作られ、そして本当に普遍的な基準であるのか。そういう疑問のもとに、その基準を意識の上で解体し、自分の価値判断、評価基準に変更を加える作業を延々続けてきたという思いがある。私の中で、しかしこうした変更を加えられた価値判断、評価基準は、一時の定まる間もなく、流れる川の水のようにすぐにまた変わりゆくものであった。そういう永遠の運動のように解体と構築を繰り返していた。心的には、これがとても苦しいことであった。
 もう少し簡単な言い方をすれば、「お前は能なしだ」、「お前は生きていく価値がない」、そういう言葉に抗してきた。これは反対に自分の中に優越意識が生じた時に、その意識とも戦っていることを意味している。
 とすれば、私は絶えず「意識」との戦いに明け暮れてきた言えるのかも知れない。そしてこの「意識」というものは、自分の「意識」であってまるっきり自分だけのものということはなく、他人の「意識」というものはまた他人のものでありながら自分の意識が存在しなければあり得ないものであるというところがややこしい。
 「人間を天秤で較べて測るような物差し」。本物か偽物か、正しいか正しくないか、この世の中にはこういう視線がそこかしこに充満していると思う。それは私の妄想というだけではなく、たしかに存在すると思う。その視線は時に、例えばひきこもりを問題であるとか可哀想という次元で、裁断しようとする。その場合にもちろん、私自身がその視線の立場をとる場合もあり得る。
 なぜそうであるのか。これは私たちの「脳」の特徴であると、今のところ言うほかに術がない。私たちの「脳」の中に、それをする起源があるに違いない。そこで私は自分の脳を呪うことになる。
 私は私の意識にあまり信用をおかないようにしている。意識に苦しむことはゴメンとして、時に抛つ。どうしようもない時は、意識的に「心に風を送り込む」という言葉によってちゃらにする。私は、負けられない。
 
 
   勉強は何のためにするのか
 
 小学校の勉強は何のためにするのか。綺麗事を除けば、中学の勉強について行けるようにするためである。では、中学の勉強は何のためにするか。これも高校の授業について行けるようにするためであり、あるいは受験という競争に勝つためである。仮に就職をするとして、そこでも一般的な常識なり、人柄なりが審査されて、応募者の中から必要人数だけが採用される。そういう競争にも、勝てる力をつける。学校はそういう力をつけることが期待されているものだと思う。
 ところで、この過程で教わることは何かというと、不特定多数の競争者がいて、何はともあれ、自分は勝つ必要性があるという一事である。自分は勝たなければならない。学校に通って覚えるのはそのことである。
 何と競争しているのかは分からないながらも、知識の量にせよ質にせよ、とにかくやたらに勝たなければならないような脅迫感だけは膨らむ。それほど競争心を持てなかった子どもでも、低レベルのところでやはり競争は強いられ、そこでは勝ちたいという思いは湧いてくるものだと思う。
 自分が勝つことが先決だから、負けるもののあることや、負けたものがどうなるかというところまでは考えない。
 根本の問題は、席の数が決まっているということであり、あぶれるものが生ずるという、そういう前提のもとに、競争があるということだ。あぶれたものがどうなるのかを考えていたら、競争に勝ち残っていくための労力と時間を無駄にする。見ざる聞かざるではないが、とりあえず、そっちの方は考えない。
 そんなふうに切り捨てる。
 つまり負ける他者は切り捨てる。現実がそうなっている。自分の知ったことではない。負けるということでは、もしも自分がそういう立場に立ったらどうなるのかという、恐怖としてしか考えることがない。
 教育、学校は、今や真っ向からこれを全面的に肯定してしまった。
 教育や学校が悪いのではない。
 食うか、食われるか。そうした現実の厳しさが、太古の昔そのままではなく、今は亡霊のように、しかし厳然とこの世界を支配していることが問題なのだ。類の中の食物連鎖。地獄の池に棲む無数のカンダタ。
 にこやかな善意を湛えた笑顔の意味は不可解である。心を背け、目を背け、地獄の血の海に沈む隣人の存在に気がつかぬ振りをする。いや、振りではなく、脳がそのことを認めないようになっている。脳にとって大変都合の悪いことだからに違いない。
 とまあ、都合の悪いことは切り捨てて、私たちの社会の仕組み、私たちの生活は維持されている。
 民主主義という枠の中での表層の生き方は、大変みごとに綺麗事に出来ている。しかし、中間層から深層へ、さらに核へと目を転ずれば、その光景は陰惨で、あまりにも重苦しい光景である。
 私たちのふだんの暮らしは、この表層のところで成り立っている。
 そこでは、勉強も教育も学校も役立つものであり必要なものとなっている。この表層の世界が大事であることは言うまでもない。争わず、悪のないことはさしあたって理想である。自分のために、隣人のために、社会のために、先人が営為積み上げた知の財産は有用であり、またそのように流用していく必要がある。それを学ぶ。
 しかし、表層の理念を学べば学ぶほど、表層に生活する個々人の言動に矛盾を見、己と他者に共通に内在する心の闇、その深層や核の存在に気づかされてしまう。
 この気づきからは、表層に流布される言葉は全て「嘘」に見えてくる。学校の「勉強」で、ここを読み解く力はつけられない。
 
 
   パチンコで飯が食えるか
 
 辛かったり苦しかったりするとパチンコで時間をつぶす、言ってみれば遊びを覚えた。 元々は、高校の卒業前に、地元の田舎町のパチンコ店に、一人で入ったという経験がある。その時は運悪く警察官に注意された。大学の時にも、何回かパチンコをした記憶がある。就職し、会社に入ってからも、退社後に何回かやった。
 だいぶやったなと思うのは、会社を退職し、失業手当をもらっている時だったと思う。すぐには仕事が見つからず、この先どうしようかと不安を持ちながら、運がよければ景品が持ち帰られるパチンコに、少しだけ入り浸った。当時は、百円玉一個から遊べるシステムだった。投資が二千円を超すと、ドキドキして顔が青ざめるくらいだったかも知れない。遊びで金を使うのは、飲む以外には、それぐらいしかなかった。
 再就職が決まって、それが学校の教員だったから、仕事や生活に少しの余裕が感じられるようになった時に、人目につかぬように仕事帰りにやったりした事もあった。仕事にも生活にも、どこか晴れ晴れとしない、鬱屈した気分になる時は誰にでもあるに違いない。たぶん、そういう時に、仕方が無くてそんなところに逃げたと言えるかも知れない。楽しくて、好きでというより、日常から、生活の往復のルートから、少しはみ出た時間を持ちたかった。そんなところだったと思う。累計して考えれば、だいぶ投資につぎ込んだと言えるかも知れない。まさかそのために借金はしなかったが、いま思えば、せっかくの稼ぎを垂れ流しにしてしまっていた。
 少し前退職した時、正確に言えば退職を決意する前に、パチンコ屋に行く機会は大幅に増えていった。迷い、苦悩する時、人はいつもとちがった行動をとる。その典型と言えそうだ。退職が決まってからは、毎日のようにパチンコ店に出かけるようになった。パチンコを打つ事を仕事として、生活が成り立たないかと本気に考えた。それ以前の投資の経験から、全力であたれば出来そうに思えた。そう思えた根拠を、一から説明するのは面倒だ。
 ここでは簡単に言ってみる。
 何となく相性のよい店ができて、何回も足を運んでいる内に、その店によって人気があり、人も集まって大当たり回数の多い機種の傾向も、おおよそ分かってくる。機種が絞られると、後はその機種をどう打っていけばよいのかの情報を出来るだけ多く仕入れて、先ずはその日大当たりがたくさん来そうな台をさがして打つという事になる。足繁く通っていると、二回に一回の割合くらいには自分の勘が当たるようになる。外れても、台を移って二つ目の台で大当たりを獲得する率も向上する。後は勝っているところで、さっとやめるタイミングをうまくつかめばいい。これで、まず、負け続けることはない。
 おおざっぱに言えばこんな事だが、これがいつもこちらの目論見通りに行くとは限らない。お金を入れても入れても大当たりが来ないことはある。台を変えて、さらにつぎ込んでも、来ないなんてことも考えに入れておかなければならない。要は少ない投資で早い大当たりをゲットし、短時間で次の大当たりが来てほしいのだ。先ずはそれを目指す。そして、次にやめ時を誤らないことだ。そのためには一度にあまり多くのもうけを期待しすぎてはならない。早めにそして連続して大当たりが来て、よい台と見込んで打っていたら、やっと手にしたドル箱六杯分を全て飲み込まれてしまうということもざらにある。
 結論から言えば、私は少しずつ蓄えを減らしていった。収支はとんとんに近いところまでいったが、光熱費その他の支払いに回せるような利益は得られなかった。自分では、プロに徹することが出来なかった、そう反省している。ビジネスとして、打てなかったのだ。
 
 
   それでもパチンコが好き、か
 
 ここ二ヶ月ばかり、案外拍子抜けするほどにぷっつりとパチンコ通いを断って、妻と二人求職活動にいそしんだ。インターネットであちこちの求人欄を見渡し、また近くのハローワークに足繁く通った。
 短期間の内に私は六ヶ所ほどの会社に採用を問い合わせ、履歴書を送ったり、また面接を受けたりした。妻のほうは二ヶ所ほど、あまり気乗りせずに問い合わせていたが、あれよあれよという間のその一つに採用が決まってしまった。いざとなれば、私だってどんな仕事にも前向きに取り組もうと思い、そう思っていれば採用してもらうことが出来るに違いないと考えていた私は、度重なる不採用に嫌気もさしてきた。
 私には、再就職の相談に乗ってもらえるような友人も知人もいない。そういう間柄の人が皆無だとは言わないまでも、そういう考え方をするほうではない。個人として、何の関係もなかった事業所に、求人広告だけをあてに飛び込みで申し込みをし、断られればそれで終わり。それを何度でも繰り返すほかに方法はない。愚かしく、迂遠なことと思う向きもあるかも知れないが、私は意外にこの方法を気に入っている。少なくとも、今以上にどうしようもなくなるまでは、この方法で通していこうと思っている。偏狭だが、人生に貸し借りを作らない、そういう姿勢で、私は今も裸同然で人生に向き合っている。出来ればこれで生涯を通し、やはり一人として死んでいきたい。私の精神は、私自身から生じ、私自身に還っていく。私はそういうように私の始末をつけたいと思う。
 こう言いながら、しかし、負い目がないというわけではない。それどころか、返しても返しきれないほどの親切や、配慮、恩恵などをたくさんの方々からいただいてきた。私はそれに報いたり、それに対するお返しなど出来そうもないことに絶望し、以来、自分をそういう場所から遠ざけるようにしてきた。そうすると私はいつしか透明になってしまった。そういう力学が通用しない場に身を置いて、生きるようになったといっても良いかもしれない。これにはさして重要な意味など無い。個人の嗜好があるばかりだと、私は思っている。我が儘、言葉を変えればそういうことで、私はそれを通そうとしてきて、今も通そうとしているのだ。本当に私は今も、我が儘に生きてやる、と頑なに思っているところがある。客観的に見れば少しも我が儘には見えないだろうが、自分の中ではこれ以上ない我が儘の縁を選んで歩いている、そんな思いこみを抱いている。
 そんなわけで、とも言えないが、私にはまだ就職先が見つからない。不採用が、年齢から来るものか、元小学校教員の肩書きが敬遠されるのか、はたまた私個人の印象が悪いのか、とにかく不採用が続いている。
 妻が勤めはじめるようになって、朝に食器を洗い、洗濯物を干して、さてそれから私は一人っきりになって何もすることがない。テレビを見てもつまらない。本を読み始めても何故かすぐに飽きてしまう。何となくそわそわして、わずかな小遣いをポケットにねじ込んで、私はまたパチンコに通い始めた。
 台に向かっていると、私は本当にパチンコが好きなのではないかと思う。小さい頃、釣りを覚えて、よくひとりで川で釣り糸を垂れていたが、その時の気分によく似ていると思う。魚が餌に喰いついて、浮きがすーと水中に沈むのを待つ。うまく会わせることが出来て魚を釣り上げた時の気持ちは、パチンコで当たりを引いた時と似ている。
 これを私は勝手に「狩猟の血」と呼んで、密かに縄文の血の記憶の再生と考えることにしている。私は縄文古代の人のように、釣り上げた魚を得意そうに家族に見せたが、パチンコの収穫はたまにしか妻に見せられない。
 
 
   有形無形の危機
 
 先月の後半に、四つほどの会社の求人に応募し、面接に出かけたが合格の通知がない。 手持ちの金はとっくに底を尽き、妻の給料だけが支えとなっている。仕方がないので、生命保険を解約し、当座を乗り越えていこうということにした。もう、本当に後がない。何でもいいから、まずは働かなければならない。
 このごろ、洗濯とご飯炊きをまめにするようになった。洗濯は全自動で、電源を入れ、ボタンを押すだけで脱水されたものを干せばいいだけである。洗い物が多い時は、二度繰り返すだけでいい。
 炊事は、洗濯に較べれば少し面倒だ。まず食器を洗わなければならない。そしてきれいになった台所で、はじめにお米をとぐ。次にみそ汁やおかずを作る。
 妻が外で働いているので、一緒に食事が出来るのは夜だけである。朝は妻がトーストを焼いて食べて、忙しく出て行く。その後で、朝と昼と、自分で作っては一人で食事を摂るのだが、味気なく感じる時もあれば、なかなかいい出来だと自画自賛しながら食べる時もある。
 子どものころ、親は共働きで、そのせいかよく家事を手伝い、包丁は使い慣れていた。学生時代も、自炊が基本だったので、簡単な調理は出来る。でも、本格的な煮込み料理などはできるものではない。まあ、手間ひまかけずに、手早く食卓に並べられる簡単料理なら何とかなる程度だ。
 結婚してからは、本当に台所に立つことは稀になった。全部妻に任せ、頼り切っていた。 最近またはじめるようになって、最初こそはいろいろ意気込んだりしたが、毎日の繰り返しというものは本当に魔の物で、またかという思いになる。これがもっと続けば、今度は習慣として何の苦も感じないで出来るのかも知れないが、今は少し負担に感じる時期となっている。特に食後の後始末と食器洗いが、少しずつうんざりし始めてきている。日に三度は、苦しい。これを、世の主婦たちは、食器の量からいってももっとたくさんの数をこなしている訳だと思うと、つくづく感心する。 特に、隣近所との行き来がない団地の中で、陰にこもったように一人、ただ黙々と作業をするというのは、これは辛いことだ。やってみて、初めて分かる。
 けれども、考えてみればこれにも逆の効果もある。一人、本を読み、あるいは鬱々と考え事をする。思考の窓が開かず、自己嫌悪から絶望感に駆られたりした時に、洗濯や炊事といった、とりあえずの、体を動かす行為によって、気持ちを切り替えたりすることは出来る。また、炊事や洗濯に行き詰まったら、買い物に出かけるという手もある。
 
 年が明けてから最近まで、読んだり書いたりすることに意欲が湧かなくなってきている。社会的事象への関心は皆無ではないが、テレビの報道を見てはまたかと思い、うんざりし、どうこうという思いもなく、また同じように見続けているだけだ。
 洗濯、掃除、炊事、そしてテレビを見ることで一日が終わる。それが毎日繰り返される。心の中に、黄信号が灯る。この黄信号がまた、一つの罠であるようにも感じられる。じっとして、ただ繰り返しに耐えてみる。
 こんなところが自分の最近の姿である。
 はっきり言えば、これは行き詰まった姿だ。何に、どう行き詰まっているのかは、うまく言い表せそうにもない。この、言い表せないということに、行き詰まった姿の本質が見え隠れしているかも知れない。これに風穴を開けるには、やはり、言い表すための試みを苦しくても続ける以外にないことも分かり切っている。だから、自分のために、今、書いている。
 
 
   就職、そして離職パート1
 
 少しだけパソコンの扱いが得意で、サポート業務などの求人がないかと探していた。あった。給与は極端に安いのだが好きなことをやれるだけましである。
 早速面接を受けると、給与の低いのが禍して応募が少なかったのか、採用されることになった。ちょっとばかり話が上手すぎやしないかと訝しく思ったが、とりあえず働いてみることにした。
 面接の時に、そこの会社は大手の家電量販店の中でパソコンのサポートをやっているのだと聞いた。勤務もその中でということであった。少し、嫌な気がした。しかし、独立したサポートのコーナーがあって、そこでの仕事ということであれば何とかなるかなと楽天的に考えた。
 大型家電のその店は、近くにあった前の店を閉じて、その近隣に装いも新たにオープンしようとしていた。私は採用されたその会社から二度ほど勤務にあたっての注意をメールで受け取っただけで、オープンの当日にその店に出かけていった。
 サポートコーナーは、パソコン売り場の真ん中にあった。レジがあり、カウンターがあり、初日はその中がパソコンを売る店員とメーカーからの応援のセールスたち、そしてパソコン購入と同時にインターネット加入を勧めるプロバイダーからの派遣とで、戦場のようにごったがえした。もちろん売り場全体も、客で溢れていた。独立に、売り場からは少し離れてサポートコーナーが設けられているのだろうと予想していた私は、当惑した。
 私の会社の人間は、私の他に三人いて、その仕事ぶりを見て覚えるように朝一番にいわれていた。
 けれども何の研修も受けていない私には、三人の動きや作業は見えていても、仕事の全体像が見えず、よって、その一つ一つの動きや作業にどんな意味があるかが分からなかった。私はそこにいるのが場違いのように、ぼんやり突っ立っていた。これは、辛いことであった。
 二週間ほど勤めて、私は音をあげた。私の会社は大型家電にとってパートナーなどではなくて、単なる下請けである。何かミスがあると、前の店舗から引き続きサポートに携わっていた人たちも、フロアマネージャーなどからこっぴどくやりこめられていた。こちらの会社そのものは、少しも私たちと家電の間に立って守ってはくれない。要するに、私たちは一人一人が、それぞれに店側に対し、またお客に対しているようであった。
 受注作業伝票の書き方、レジの通し方、等々、本当に分かりにくいことだらけだった。サポートの仕事に関係なく、家電の修理や時に他の商品の販売にも関わらなければならなかった。
 店員はじめ私たちも常時トランシーバーを使用して、指示を受けたり、問い合わせたり、作業の報告をしたりしていた。私のような者には、その使い方自体がはじめは分からなかった。接客をしていると、トランシーバーからの声が聞こえず、怒鳴られることもしばしばだった。お客の電話に出る時に、邪魔なので外して話していて、呼びかけに答えないとまた叱られた。
 トランシーバーではまた、上司の部下への叱責が激しく飛び交っていた。時には、「死ね」、「殺すぞ」みたいな言葉が、日常茶飯のように流れている。以前客として家電売り場を歩いていた私には、想像も出来なかったことだ。
 戦争なのであろう。
 売り場は戦場なのであり、店員たちは兵士たちなのであろう。
 家電売り場の状況が分かりはじめ、飲み込め始めた一ヶ月を経過したころ、結局私は職を辞して去った。
 
 
   就職、そして離職パート2
 
 私は現代の、民間での仕事の一端ではあるけれども、その一つの典型にわずかながら触れ得たと思っている。ある意味、最前線の兵士たちと一時をともにすることが出来た。
 若い時ならば、もしかすると私はその渦中にもっと身を沈めようとしたかも知れない。老いた今でさえ、もっと我慢してみようか、と考えもした。けれどもやはり、こんな年になってまで困難を買うことをしたくないという思いや、火中の栗を拾う蛮勇のようなことは、すべきではないと思ったし、したくないと思った。
 売り場の表向きの華やかさの影で、「アホ」「カス」「死ね」などのやくざまがいの言葉が飛び交う中で、本当に自己中心の非情な馬鹿がいるかと思えば、心根の優しい若者たちもいることはいた。企業も社会も、そういういろんな人間で構成されているのだと思う。 以前小学校の教員であった私は、密かに売り場に立つものたちの小学校時代を想像してみたりした。すると、小学校時代の姿が彷彿としてきて、誰もがその二重写しの中に、つまり大人としての装いの貌と、子ども時代のあどけなさとが交互に浮かび上がるように見えてくるようであった。
 突っ張って我を通そうとするもの、人の気に入られそうなことを無意識にも出来る人、誰に対しても公平に接するもの、体が大きいのに気が小さいもの、筋道の立ったことをいうのに思いやりがかけた人、等々。見ようによってはその売り場全体が、一つの学級のように見える気がしたのであった。
 
 私がここで何を言いたいかといえば、実は取り立てていいたいことは何もないのである。もっと仕事を続けるべきだったとも思わないし、やめて正解だったと思っているわけでもない。その職場が、非人間的だと糾弾したいわけでもないし、その職場の在り方を肯定したいというのでもない。所詮人間たちの作る組織であり構成であり、そこに醸し出されてくる倫理も道徳もルールも善悪も、良し悪しの程はたかが知れている。つまり、ありふれた中の一つに過ぎないと思う。だからそこに居続けることは、いいことでも悪いことでもない。いようと思えばいて、いたくないと思えば去ればいい。それだけのことだと、私は思う。
 今、ニートの問題が騒がれ、メディアなどにもあれこれ取り上げられる機会が多い。そこからいえば、私の現在はニートそのものか、その縁に点在する予備軍のような位置にあると言えるかも知れない。
 ニートを問題視する人々は、長年しっかりした職業に就き、その地位も安定した人たちなのであろう。問題視する理由も分かる。けれども、本当に長く仕事に就き、税金を納め、他に迷惑をかけない行き方をしていればそれでいいのだろうか。それでよいのだろう。多くの人々はそうして暮らしている。
 私はしかし、ある一定の辛抱をした後に、定年退職を待たずして公務員の座を捨てた。理由はいろいろあるけれども、退職までその座にいることが別に正しいことでも、人間としての責務であるとも思わなかったからである。ある一つの職にあり続けることが、そんなに立派なことか。そんなに大事なことか。 結果的に社会から後退した生き方につながりやすいとはいえ、それが全てだとは思えない。
 最近の選挙の報道では、投票率は概ね半数を前後している。約半数の住民が棄権している。社会参加、社会参画などの視点から見れば、日本国民の半数は参加も参画もしたくねえ、という思いを持っているものと見ることが出来る。棄権しないで投票しましょう、というものは、別の半数の中にしかいない。今ではこれが常態になって問題視さえされない。
 
 
   貧しさのゆくえ
 
 貧乏が長く続き、精神的にも追いつめられてくると本当にきつくなる。
 この先は自殺か犯罪か、冗談ではなく、そんな気持ちになる。世の中の自殺者や犯罪者の多くは、いずれにせよこうして次第に追いつめられて、自殺者になり犯罪者になりするものかと思う。私はいま、そういう道を辿らないですませられると断言できるところにはいない。本当に明日、首をくくらないでいられるかどうか、分からないというのが実状である。だから私は、こう言えば顔を背ける人もいるかもしれないが、自殺者や犯罪者に対して共感的である。
 こういう予備軍的な位置ということで言えば、私にはもう一つ精神異常という面での予備軍的な位置がある。そういう診断を受けたことがあるというのではなく、これはあくまでも自分の勝手な思いこみなのだが、長い間私は精神の異常者たちに近接していると考えてきた。
 そう考えてきた理由は、貧乏に追いつめられる現在と同じように、精神的に苦しい軌跡を歩み続けたからに他ならない。本当に苦しくて、逆にどうして自分は「異常」へと一歩を踏み出さないかと、不思議に思えて仕方がなかった。
 ある時期、精神病と診断され、入退院を繰り返す友人がいた。私は彼が異常で、私が正常であるという境界がどうしても納得できなかった。
 私には、自殺も犯罪も、あるいは異常さえも、閾をまたぐようにある何ものかをまたいだ結果のように思われてならない。そのまたぎが、私よりも少し容易であった。言いかえれば、私よりも心の壁が低かったのかもしれないと思っている。この心の壁の高さだけは、自分の力ではどうすることもできない、「関係」の産物かもしれないと思うところがある。 自殺も犯罪も、そして異常への道も閉ざされて、それでも私には生きて行くことが可能なのだろうか。これが私の自分に突きつけた最終の問いであった。これが生ききることができなければ、自殺も犯罪も異常への逸脱も食い止めることはできない。何故か、そう思いこんだ。私なりの、「愛」といってもよい。私には、傲慢かもしれないが、彼らの「生」が痛ましくてならなかった。
 私たちは耐えて生ききるべきである。
 悲愴にではなく、にやにや笑いの中にでもなく、堅い鱗や旧い角質層のようにでもなく、できれば柳の枝先のように、瑞々しくしなやかに。
 必要なのは想像力であり、人間の理想を構想する力だ。これが結集することなしに、何事も変わることはないだろうと思う。ただ形を変えた時代の無意識の変態に、翻弄されることを繰り返すばかりにちがいない。
 だから、私は私に向かって語りかける。平然と、貘の如くに時代を呑み込むがよかろう。 きみには大きすぎて立派すぎる家屋は掃除しきれないし、ブランドものの洋服を着ては怠惰に寝ころぶことができない。莫大な金があれば、使い道に困り、寄付すべきか貯め込むべきかに頭を悩ますことになる。多数の愛人があれば、平等に愛することに悩み、公平や公正に悩む。また多すぎる友人には、我が儘を控えなければならないという損失も生じる。権力を手にしたら、きみは大勢の人々を苦しめる。
 結局のところ、私は私の居心地のよい場所に、吹きだまりに引き寄せられるように、辿り着いただけのことなのかもしれないのである。お似合いの場所、ということだ。
 であるならば、誰に遠慮も、卑屈も、要るものではない。
 とりあえず、生きてあるこのひとときに、身体の毛穴を解き放ち、感じる鏡となって輝こうではないか。たとえ明日、死のうとも。
 
 
   最近を振り返って
 
 この頃、追いつめられただの、死だのと、物騒な事を口走っているが、そしてそれは正直な思いでもあるけれども、適当に昼ご飯を用意して、食べ、テレビを見ながら横になって、そのまま昼寝などをしている自分を振り返って考えると、つい苦笑いも出、生きるも死ぬも思うようにならないものだと思い知る。 小一時間ほど、あるいは二時間くらい寝て起きると、妻の帰ってくる時刻に近く、あわてて台所で流しいっぱいになったお茶碗を洗い、ついで米をとぎ、炊飯のスイッチを入れる。
 明るさも憂鬱も、どちらも長くとどまってはいない。
 こうして時々書き物をしているが、本当はもっと軽快に、明るく、軽やかにユーモアにあふれた文章を書きたいのだ。冗談でいい。ふざけた調子で構わない。とにかく書いて楽しくなるような、読んで笑いが出るような、そんな文章が理想なのだ。それがどうにも書けなくて、不本意ながらこんな鬱々とした文章ばかりを書いている。情けない事だ。ちっとも進歩がない。テレビのワイドショーのコメンテーターに時折毒づいてみせるのが関の山だ。所詮犬の遠吠えか。
 お茶碗洗いながらルンルンルン、お洗濯しながらランランランは、五十五歳のいい年をしたおじさんとしては照れるが、なに、家には誰もいないし、訪問客も回覧板を持ってくる隣人か、新聞代の集金人だけである。それも滅多に来るものではない。
 欠伸をし、つつと涙がほほを伝っても、一つ大きな音の屁をたれたって、いたって平気である。
 妻から見れば、こちらがどうも本気になっていないように見えるらしい。自分でも少し、そんな事も感じるが、その上でなお、自分としては必死なつもりではいるのだが。
 捨て身が捨て身にならないといえばいいだろうか。どこまで行けば捨て身なのかがよくわからない。こういう事をぐだぐだ思っているという事が、すでに捨て身になっているとは言えないのだろう。動物が餌をとる時のように反射的に、言い替えれば、一切の考えるという事を抜いて、目前の餌にありつくように職を求めているようではないという事なのだろう。頭ではそうしようと思っていても、行動が伴わない。相変わらず、ライオンの雄のような、無用のたてがみをなびかせている。結果としてだが、そういう事になっているのではないかと思う。
 ライオンの雄も、いざとなった時には狩りをするそうだ。悲しいかな、必死になっても狩りが下手で、自力で獲物を手にする事は難しいそうだが、どことなく似ている。たてがみも、百獣の王たる風格のあの顔も、そう思ってみれば、大いなる虚勢と虚栄の張りぼてに過ぎないと見えてくる。もちろん自分には見かけだけの風格さえ伴わないが。
 まあ、とにかく、こんな体たらくでまじめくさった文章を書いたところで仕方ないのだ。ふざけて、玩具にして、そして運が向いてくる事を待っているほかはない。ほかはないのだが玩具にするだけの力量もない。
 こうして、後は再放送のテレビドラマでも見て時間をつぶすしか仕方がない。そしてそれがまた面白くもあるのだから、我ながら救いようのないダメ人間かも知れないのだ。
 知れないのではない、正真正銘のダメ人間なのだ。
 それがどうした。それでいったい何が悪い。即座にそう反論する事だけは得意である。
 たしか、冷蔵庫に賞味期限ぎりぎりのヨーグルトがあったはずである。そして階下に降りてヨーグルトを手に取ると、スプーンと一緒に持って、いそいそと階段を上る。カギっ子の小学生のようなものだ。
 生きるというものはいやなものだ。だが、死ぬというのも、どうにも現実的でない。