イノチハ進退トサダメラレテイル
フトクソシテナガクアリツヅケヨウトイウショウドウニ
シュガ シュウダンガ コガ
ウナガサレザルヲエナイモノデアルナラバ
ケワシイコトコソガジンジョウデアル
 
アア 優しさこそは人間の力でありたいと希求することは
歴史の最終の課題ではないのか
 
ソレナノニ ワタクシノヤサシサハフヌケテイテ
ヒトニムカワズ
ゼンニホウシセズ
セイギニモエズ
アラユルクルシミニムカッテチヂカンデ
 
ヤクニタツカタタヌカノ
チンロウドウノサギョウガヤットノヨウニハタライテ
マイニチマイニチカネガナイコトヲナゲキ
ソノナゲキノミニクサカラトキハナレタイオモイヲ
ココロニアフレサセテ ソレダケデ
ヒヲスリヘラシテイク
 
タレニモココロヲアカサナイ
タレニモココロヲヒラケナイ
ソレハワタクシノツミナノデアロウカ
 
 
 
 
   バランス
 
 
 どうしてもっと明るく楽しげに生きられないのだろう。それはいやいや仕事をして、毎日つまらないと感じているからなのか。
 好きな仕事ってなんだろう。どういう時にぼくはつまらないと感じないでいることが出来るのだろう。「今」というこの時、この状況から抜け出せたなら、「それ」が手に入れられるように思えるけれども、いつだってそんなものが手に入ったためしなどはないのだ。 意識が、苦しいだけなのだ。そう考えて、何度も何度も心の向きを変えることを繰り返してきたけれども、やっぱり立ち戻ってこの意識を変えることはできない。苦しい。苦しい。だから文章を書こうとする。詩を書こうとする。あまり役立っているようには思えないけれども、曰く言いがたいバランスをとるために。
 
 
 
 
   詰所
 
 
 煙草を吸って一日が過ぎる。ただ一人の詰所の中は退屈で、これに耐えることが仕事であるとでもいように、本当にそれだけで賃金を受け取り、ぼくの一日は過ぎてしまう。
 朝、エアコンを稼働させる。営業前に切れた電球を取り替えたり、壊れた備品を修繕したり、それが済めば日中は施設のあちこちで温度を計測して回ることを五回ほど繰り返す。 詰所の中では寝ころんだりテレビを見たり、お菓子を食ったり飴をなめたり、何杯だってお茶を飲んでいることも出来る。その気になった時は本を読み、パソコンを使って文章を綴ったりする時間もたっぷりある。理想的な環境ではないか。賃金の安いことに目をつぶれば、ぼくもそう考えている。
 ただぼくの仕事には、義務があって愛がない。そのことで、なんだか体の中心がぽっかりと穴が開いたように空虚だ。
 じっと天井や壁を見つめていると、蓄えのない目先の生活への不安がどっと押し寄せて、まるで未来のない牢獄生活と変わりないように思える。いっそドアの向こうのたくさんのギャンブラーたちが運んでくる、娑婆の匂いも消えてしまえば楽かとも思う。
 一庶民が、思想を確立する、あるいは確立した思想を保持して生ききる、そんな途方もない夢を隠しに隠して現実と思想の狭間に息絶え絶えでいる。誰にも、そうして生きよと言われたわけではなかったが。
 
 
 
 
   愛とはなにか
 
 
愛とはなにか。
その答はさまざまな先人たちのさまざまに残された言葉があるが、そうしてそれに付け加えたり、若しくは斬新な答を私が用意できるわけではないが、
問われれば、
「無様を生ききることです。」
とでも答えるほかにいい考えが浮かんでこない。
どうしてこんなつまらぬ言葉で愛を語ろうとするか。
私はただ、それを世の中の少しばかり不遇そうな、少しばかり他人よりも口ごもりがちな、そんな人たちから教わった気がします。そうして、私はそれを身にしみて感じることにより、また人間として生まれたことに、誇りとか幸福とかそんな類の言葉にしては表せない感情を心の奥底に感じとった時に、
「こんな生き方でもいいのだ。」と自分の生を肯定できるのです。
 
人は、価値ある生き方に辿り着かなくても、日ごとの負債を増やさぬために、密やかににっこりと悲しげに暮らし、娑婆の縁が切れるまでにたくさんの溢れる想いを思い、枕元の電気を消すようにその思いの全部を消して、旅立っていくのが尋常です。その時、最後に旅立っていく思いがまた一つの「愛」であるならば、私にはそれが生を全うしたことになるのだろうと思われるのです。
 
 
 
 
   花を育てるでもなく
 
 
一つのきれいな花を育てるでもなく
ただ机にしがみついて言の葉をちぎっては捨てちぎっては捨て
シニカルに自分を見詰め
わざと生きにくい道を歩いてきた
父母を欺き
妻子を苦しめ
それでも能面のように何喰わぬ顔付き
で 世間に席を置いて無欠席
 
昨日よりも今日
今日よりも明日と
負債と約束破棄とを年齢のように積み重ね
身を重くする
そしてただ座していること
ただ歩いていること
ただ世間の人並みに口を開くことが
老いたことの証のように辛くなる
 
一つのきれいな花を育てるでもなく
一篇の詩を書ききるでもなく
私はただ時とともに移ろいゆくだけだ
 
もしも弔辞がもらえるものならば
その時は記して欲しい
きれいな花を育てるでもなく
意味無く生き そして死んだと
珍重されない虫けらのようであったと
なぜなら 私は虫けらのように誇り高く生きたかったのだから
 
 
 
 
   空を眺めてきた
 
 
空を眺めてきた
樹木を眺めてきた
それは 心がいつも空っぽだったから
それは いつも一人だったから
 
「心から話せる友がたった一人でもいたら」
と ノートに綴った少年がいたが
その少年は首を吊ったが
私はその前に
「心から」ということに自信がない
心を 言葉にすることが出来ない   
 
昔、私も少年のようにたった一人の友を求めた時があったかもしれない
しかし、私はそんな心の持主だったので
「心から話せる友」のないことは
その原因を私に求めるほかなかったのだ
 
少年がそのことに気づいたら
その理由を探す旅に出て
ひとまず首を吊ることはなかったのではないか
 
だからどうと言いたいわけでもないのだが
少年の行為によって
心が断たれて深い悲しみに沈んだ人もいたに違いない
私たちはたった一人っきりのようで一人ではなく
心を摺り合わせられるようでそうでないことも多い
それだから私たちは時として
黙って空を眺めるのだ
 
 
 
 
   自然世界の異変
 
 
自然世界の異変はあまりおかしな事ではなくなった
それは人間の社会のここ数十年の変貌に見合っている
おかげで人間の世界にも異変は次々に起き始めていて
まともに影響を被っているのは虫たちに同類の子どもたちからだ
と私は考えているが
 
おそらくその関係性に気づいているものは少なく
多くは高を括っていると思う
 
人間の内なる自然世界の異変は 母たち 女たちに
兆候が見られた時に
取り返しのつかない混沌に突入する
と私は考えているが
それは標準的なものが打撃を加えられたということだ
少子化や子殺し
女が女から抜け出そうとする時
それは終わりでもあって始まりでもある
ここで始まりとはガラガラポンである
と私は考えているが
 
人間の欲望はいわれてきたことと違って理性のうちにある
そして現在的な異変に辿り着いた この時
人間の招いた自然世界の異変を口にすることは容易い
しかし過去に最も自然世界の異変を招いたものは
宇宙規模の自然世界の内実にあったのであって
それに比べたら人間の招く惨事など高が知れていると言うべきかもしれない
もう一度熱帯期が来て
もう一度氷河期が来て
それさえ太陽にとって見れば
指先の炎症が起きた程度の時間に過ぎまい
 
私たちは
理性におごることなく
理想とは遠い生活に汗しながら
やはり理想を
理想の生き方を模索していきたいと思う
時代の速度がどんなに先に進もうとも
地球は丸い
やがて私たちの後ろから
追いついてくる事があるのかも知れない
その時のために
 
 
 
 
   重力と老い
 
 
私たちには余計に重力がかかっていて
すっくと立ち
颯爽と歩くことが出来ない
坐っていても首の支えが弱く
だらりと顎を落としている
若き日の
重力に屈しない強靱さとしなやかさが
今となってみる影もない
 
そう思う思いが
いっそう重力に荷担して
私たちはさらに押しひしがれる
 
俯せになっていっそ眠りにつくことだけが救いだ
その間
黙って耐えている時の長さを
私たちは誰もが共有するはずなのに
重たさのあまりに
ボソボソと口にだして語り合うことが出来ない
 
老いていくということは
つま先立ち遠望する力を失うということ
地に近づき
子どもの視線や虫の視線に帰るということ
遠く旅した思い出を
ことばにならない呟きに残すこと
 
お茶一杯に微笑むこと
 
それから
静かに横たわること
 
 
 
 
   たどり着けない岸辺
 
 
理想とはたどり着けない岸辺である。そう分かっていて、波をかき分け泳ぎ続けることが時として私たち人間を駆り立てる。
たどり着けないものはたどり着けないが、証明されてはいない。
ただそれだけを頼りに、波間に衰弱し、横たえた体を鼓舞して、どうにかまた重たい四肢を動かしはじめるのだ。
 
 
 
 
   私の詩私論
 
 
 毎日、新聞の求人欄を眺めてみているが、その数は五本にも満たず、相変わらず景気のお寒い現状しか窺うことが出来ない。
 インターネットのハローワークでは新着情報が十件くらいあるが、介護士とかパソコン関係のプログラム開発だとか、資格や相当の技能が要求される仕事が多い。そうして五十を越えた年齢と、さしたる技能を必要とされない仕事としては、清掃員、警備員、スーパーのお総菜の裏方などが目にとまるくらいだ。
 二、三年こうして見てきていると、貧しさから抜け出すことはむずかしいことだなとつくづく思う。それに私のような心の荒んだものは、ますます窮地に陥っていく他はない。 人生に美しいものは何もないと、・・・人生の過酷さにはついて行けないと、・・・黄昏のように少しずつ落伍していく、・・・土砂のように滑り落ちていく、・・・そんな人生に、つまり、傍らを行くものに、手をさしのべる余裕のようなものは私にはない。私たちは、同じ姿形で、ただ後であるか先であるかの違いでしかないではないかと思う。
 私は弱さ、欲の少なさ、努力の足り無さを背負い込んだ人生その人を愛おしく思える。
 花開く前に枯れる草花。大木に光を遮られ、細く若いうちに風に倒され朽ちる樹木。軒下に凍え落ちた小鳥の雛。
 私はそれらの命をため込んで、一瞬でいい、花火のように煌めきたい。いや、落雷のように降臨するものを、言葉に定着させたい。せめてそれだけを生きているうちに成し遂げたい。
 
 
 
 
   「宇宙善意」と「宇宙悪意」で一つ
 
 
 ある詩人の詩に「宇宙善意」をいうことばを見た。私はすぐさま「宇宙悪意」ということばを思った。このあたりは私の悪たれの真骨頂かも知れない。それからすぐに最近読んだ安藤昌益の著作をなぞり、「宇宙善意」と「宇宙悪意」とで一つ、という考えに導かれた。「善」と「悪」とで一つ。それが宇宙なのだ。
 もっといえば、宇宙には人間がいう意味での「善」や「悪」といった概念じたいが存在しない。人間だけが勝手に脳の中でそういう概念をこしらえているに過ぎない。
 地球の中だけでも、自然は人間の概念をはるかに超えて存在している。旱もあれば豪雨もあって、なにが「善」か、なにが「悪」かはそう簡単に決められることではない。
 私は詩人の「宇宙善意」に、育むものの、恵み、などの意を受け止めて感じたのだが、同時に破壊するもの、奪い取るものの意の存在も認めるのでなければ、育まれてあること、恵まれてあることに気づくことさえ出来ないのだと感じる。
 私たちにそんなことを感じさせる自然や宇宙の大きさを、先人や古人は「慈悲」と名付けてその前に傲慢無礼であってはならないことを教え諭したものと思う。
 人間社会が「善」ばかりを押しつけるようになったら、こんなに恐ろしい世界はないと思う。詩人のことばをはなれて、私はそんなことまで考えた。
 
 
 
 
   うつの時代に
 
 
システムの声に踊らされて浮かれたり沈んだり
呆然と立ち尽くしてみたり
悪意や殺意を増幅してみたりして私たちは生きることを強いられているのだが
その中で
今日の生活、明日の生活を煩い
その煩いから発して考えたり行動したりすることこそが
生きることの本義ではないのか
 
「明日の生活を思い煩うな」とはキリストのことばだが
虫けらほどにも名もない貧乏人の一人である私は
それもその通りだが
このうつの時代と呼ばれる時代に
一日一日をもがき苦しんで過ごすことも一つの救いであるといいたいのだ
 
 
 
 
   寝たきり
 
 
「たまにはお弁当を作ってくれればいいのに」と妻がいう。
「食事を作って下さい」
「お茶碗を洗って下さい」
「洗濯しといて下さい」
「部屋の片付けをして下さい」
 
共働きをするようになって、すこぶるぼくの立場は安定しない。
ちゃぶ台の前で、「俺だってそのつもりでいるんだ」と豪語して見せたいが、
現実がぼくの口を封じに来る。
 
考えとしては、家庭の仕事を暗黙の形で分担し、コツコツとそれらの仕事をこなしてみせる自分の姿を、本当はぼくは好きなのだ。昔、母の家事の手伝いを喜んだやったように、妻が喜ぶことをぼくはやって見せたい。
けれども、言われるぼくは黙ったきり、肯定も否定もせず、返答に詰まったまんまで妻の心の風向きが変わるのを待っているようなものだ。そして、
『卑怯者』
と言われても仕方がないような気になっている。
 
生きていると誰かに迷惑をかけてしまう。
きっと、心が寝たきりになってしまったんだ。
そこでは介護を受ける人の気持ちが少し分かる。
『ごめんね』と
心に呟いてみることしかできない。
・・・そうして、また遊ぶことばかりを考えてしまう。
 
 
 
 
   非教育的な昔話
 
 
小学一年生とはいえ
しこたま幼稚園教育の洗礼を受けており
装ったりねじ曲がったり
正しかったり可愛かったりで手に負えないほどに
「向こう側の人間」だ
 
まだらな隙間には家庭の色づけが透けて見えて
これもまた手の施しようがない
 
これ以上子どもに色を付けてどうするか
とは担任の時のぼくの気持ち
悲しいことに十分に大人の条件は整っている
 
嘘の未来なんか言えなかった
きみたちの未来には幸福も不幸もないんだ
と言ってみせることも出来なかった
自分には出来ないくせに
「みんななかよく」とか
「いのちをたいせつに」とか
「よいおこないをしましょう」とか
ありとあらゆる意味での「こうしなさい」ということばを
口にだすことが出来なかった
 
「あそぼう」
本当はそういって
子どもたちの誰よりも夢中になって
遊びに興じて見せたかった
生きることが
猛烈に楽しいことだと感じさせたかった
そうして、ぼく自身にもまた
 
けれども現実には文字の書き方
数の数え方
生き物との接し方などを教えていたっけ
そうしてぼくにとっての貴重な時間は
全部彼方に吸い上げられちまった
 
ぼくがかつて先生だったなんて
笑い話のような昔話さ
 
 
 
 
   遺詩
 
 
死ぬ前に言い残したいことが何かあるだろうか。
何度も問いかけてみて、その度にいくつかを思い浮かべてみるが、どれもこれも結局は言い残さなくてもよいように思えて、今だ、これといったものが定まらない。それに臨終の間際まで痛みが伴うものであれば、きっと私は呻いたままで息を引き取ることになる。
妻に、子どもに、そう遠くはなさそうな死を想定して今のうちに言っておこうかと考えてみても、今ならばきっと別のどうでもよいことばに変わってしまうだろう。
また、死ぬ前に何か書き残したいことがあるだろうか。
何度も問いかけてみて、これもまた、書いても書かなくてもどうでもよいという気がしている。結局は書き残したいことは何もないと言ってもいい。・・・ありそうな気もするが、なさそうな気もする。・・・それに、書き残したいことがあれば、死の瀬戸際にならなくても書きたい時に書けばいいことだ。
死の瀬戸際に言い残したいこと、書き残したいことを考えるのは、死の瀬戸際かどうかも何もわからない現在ではそのこと自体が無駄なことかも知れない。
 
よい詩には、詩人があたかも死の瀬戸際にいるかのような、ある絶体絶命の場所に居てことばを紡ぎ出している印象がある。選び出されたことばにも、またリズムにも、その詩にはそれしかないのだというような・・・。
私には師もなく仲間もなく、詩の世界から孤立しひきこもって詩を書いているが、いまだにそんな詩を書き得たためしがない。これは私の詩にとって不幸なことかも知れないが、生き方の上ではそんなに不幸な生き方ではなかったことを意味しているのかも知れない。
 
私にはこの世界に、ことばにして言い残したいこと、書き残したいことがあるらしいのだが、それはことばにならないらしいことも私は知っている。それで何も残さぬ事が残したことになる、つまり無言を読み取り、聞き取る、受け手の目と耳を信じたいと願っている。この厚かましい願いを信じているからこそ、とぎれとぎれにでも詩を書き、生きてあなたに出会おうとするのだ。
 
 
 
 
   「末人」
 
 
地方財政悪化を受けて、生活保護が打ち切られた男性が餓死したという。
小役人が、「あの手の人間は死んだ方がましだ」と言ったとか言わなかったとか。
それから、また一人の小役人は「運営を見直さなければ」と、こともなげに言っていた。
 
突きつけられているものが何か、誰も何も分かってはいない。
一つのちっぽけな死に、責任をとるものも、人間的に悩むという精神の力こぶを発揮させる良心も、この社会には不在だ。
地方自治だ。財政と権力の委譲だと、まるでそうなればすべての閉塞が打開されるかのように喧伝されもするが、笑わせてはいけない。
 
負の遺産のように形骸化されたシステムだけが生き残っている。そしてそれが私たちの生活、生き方、考え方、他者との関係の仕方などのスタイルを決定している。
 
「精神の無い専門人、心情のない享楽人」とは先哲の言葉。
私たちが実はその一人一人であることから、私たち自身が目を背けている。
すべてが完備されてあるように思える絢爛豪華な機械的化石。
あるいは尊大なシステムに寄りかかった私たちの空虚よ。
どこにもないものが私たちをひどく貧しくさせている。
 
人間として悩む力。人間力。どう言ってもいい。
マックス・ヴェーバーの描いた空虚を、抜け落ちた精神を、何かで埋め合わせねばならないのではないのか。機械的空虚が、温暖化のように私たちの頭上に覆い被さっている。
 
末人たちよ。傲ってはいけない。
人間社会のかつて到達したことの段階に我々は君臨している、
と自惚れてはいけない。
その絢爛たる機関組織の内実は、
餓死者を出して不名誉と感じない鉄面皮であり、
私たち一人一人の人間にもそれを強制し、
転倒した主客という現象をもたらしている。
 
 
 
 
   体調の悪い日に考えた事
 
 
ぼくたちの人生を超高速のコマ送りにしてみたら、きっとアメーバのような反射で生きているとしか見えないのでは無かろうか。言葉とか思考とかは、いたずらに時間を引き延ばしているだけに過ぎないのであって、ぼくたちの中の原生的な部分を意識は、あるいは脳さえもが、後追いをしているのかも分からない。
逆に考えてみれば、原生的な動物の動きには、たくさんの言葉や思考を付加して考えてみることができるのかもしれない。恋愛感情もあり、憎悪や空虚さえもが存在すると見なすことができるのではないか。原生的な動物がそれをしないのは、あるいは持たないのは、今的にいってみれば徹底した省エネということか。
それはとてもすっきりとした無駄のない生き方のようにも思える。
 
ある日、宇宙から巨大な顕微鏡の筒がのびてきて、ぼくたちの暮らしぶりをのぞき込んだら、とりあえず、地表にうごめいて、さえない活動に追われているとだけ見えるのだろうな。もちろん意識や思考などは見えるはずもない。そしてぼくたちの短命ぶりに、哀れみを感じるのだろうな。
 
 
 
    体調が悪い日に
 
 
毎日の通勤の途次に、山が見え、田圃が広がり、
水のように緑の滴りが溢れ、時に、陽の中の澄んだ青さに一瞬顔がほころぶ。
ああそれは手の届く、ほんの間近に感じられはするのだが、
心の触手を伸ばせば彼方に退ってしまう蜃気楼。乾きをいや増すばかりだ。
 
 
少年の日のように、もう風土に溶け込むことができない。
家と勤め先とをトンエルにして、その間を車で移動するぼくを、
自然はやっぱり冷たく突き放す。
こんなにも乾き、餓えているというのに、
ぼくは自分を日々の繰り返しの中にすり減らして、
声までもがかすれ、波長さえ作れなくなってしまいそうだ。
 
壊れそうなのはぼくたちである。
大きな意味での環境をいう前に、ぼくたち貧しいものたちの社会環境を何とかしてくれ。ぼくたちをそっちのけで、虫を守れ、自然を守れ、地球を守れって、あんまりだ。
ぼくらは宇宙一、価値のない生き物であるか。
 
ただ、貧しいというだけで。
 
 
 
 
   帰る
 
 
ミミズのようにモグラのように、
自分ひとりが通れるだけの坑道を掘り進んできたに過ぎない。
と考えれば、ミミズやモグラとどれほどの違いがある事か。
岩盤もあり砂地もある中を掘り進んできたのではあるが、
残された暗い坑道は、ただそれだけのもの。
ただそれだけのもの。
あっちがいいか、こっちがいいか、など比べても、
所詮穴は穴。中は空である。
いつも目の前には障害が立ちはだかっているから、
さしあたっての障害を取り除く事に懸命で後戻りしない。
気が変わって後戻りしても、やがてまた障害の前に突き当たる事になる。
 
いいんじゃないか。雨がしのげれば。風がしのげれば。
いつか道連れも訪れよう。
楽しい事はどんなところにも転がっている。
後に残した坑道は、やがて自然にもとの姿に戻されよう。
きみにもまた、帰れる世界がある。急がなくて、いい。
 
 
 
 
   贈り物
 
 
若い時からぼくは贈り物という贈り物をあまりした事がない。
半人前であり、けちであり、ひとを喜ばせる心が足りないのかもしれない。
いっそう貧しくなった今は、余計に贈り物どころではなくなった。
頭からそういう考えが抜け落ちてしまっていると言ってもよいかもしれない。
 
 
 先日も、めずらしく妻の誕生日前に何か贈り物をと思った時、ぼくはパチンコで景品をとる事を考えて、わずかな有り金をすっかりはたいてしまった。妻は誕生祝いを期待してはいなかったし、ぼくも感謝されない事になれてしまっているので、ただ自分の中で寂しい思いを思っているほかに仕方がなかった。
 妻も他の女の人たちも、プレゼントは「少額でも心のこもったものを」と思っているようなのだが、ぼくには心を込めるという意味がよく分からない。
 ぼくにとって心は高額なダイヤにも代えられないという思いこみがあり、そこではダイヤもただの石塊とみる世界が銀河のように浮かんでいる。心を込められるものが、心以外にあるか。そうしてぼくは、長い間その銀河を美しいものに育てて、そしてそれをプレゼントしようと企ててきたのに、誰もそれを欲しないばかりか、差し出しても紙くず同然のように眺めるだけなのだ。
結局、誰もぼくのこころを欲していないという事ではないのか。
地球のものすべてがぼくのものだったら、ぼくはそれをあげて悔いがない。
宇宙のものすべてがぼくのものだったら、ぼくはそれをあげて悔いがない。
ぼくは「信」についてぼくの覚悟を述べているつもりなのだが、
誰にも、通用しないんだろうなあ。
 
 
 
 
   「豊葦原瑞穂の国」
 
 
 カーブを描く川の西側一角には、茅や葦の類、それに猫柳などの低木がびっしりと生えていて、どこか心惹かれる趣がある。昼時、私はときおり二階のレストランの窓から、注文した食事が用意されるまでの間見るともなくその景色を眺めるのだが、晴れた日などには、風に吹かれてそよぐ葦の根元から今にもひな鳥の鳴き声が聞こえてきそうに思う。これまでに、一度もそのあたりを行き来する小鳥の姿を見たわけではないのだが、そこにはどうしても幾つかの巣が隠されていて、秘やかに、だが小鳥たちの古代からの違わぬ暮らしが営まれているに違いないという気がしている。
 
 その川は、昔は大雨のたびに氾濫し、周囲の田圃を広く飲み尽くしたと聞く。今は幾度かの工事を経て、どこまでも今時の整った川の姿をしている。そしてこの一角にだけ、その度重なる氾濫の名残がとどめられているようなのだ。幾つかの種類の樹木は、きっと上流から流れてきた実が種となり、そこに根を張り、今に至っているのではないか。私はそんなことを考えて、空想に浸る。
 
 葦の茎、低木の葉や枝々をかき分けて入り込んだら、どんな世界を垣間見ることになるのか。いろいろな生き物たちが生息しているのかもしれない。私が生物学者だったら、きっと一人でもずかずか入り込んで行くに違いないが、私は学者ではない。道路を隔てたこちら側にある場外車券売り場の建物の空調を監視する、低賃金の労務者で、詩集を出せないアマチュア詩人で、今は己ひとりの「豊葦原瑞穂の国」を発見し、興奮し、そこで満足している。
 
 
 
 
   不安、その質的な変化の兆し
 
 
 昨夜は雨が降り、風呂上がりの体に熱がこもったせいか寝苦しくてなかなか寝れないでいた。それに布団にはいると変に咳き込んで、喘息にでもなったようにいつまでも眠れない。次の日はナイターがあって四時間の勤務の延長があるので、本当は早めに寝て十分な睡眠をとっていたかったのだ。
 以前、寝苦しい時は、寝ようと努力するよりは、即、起きて本を読んだり考え事をするのに躊躇しなかった。最近は心身に自信が無くなったのか、余程のことがないと夜更かしはしないようにしている。
 水を飲み、煙草を吸いなど、幾度か寝たり起きたりを繰り返していると、悪性の病気が進行しているのかもしれないとか、蓄えのない家計の現状をこれからどれほどの期間耐えていけるのかなど、不吉な思いが頭の周辺にめぐり、ますます寝るどころではなくなっていった。私には、「生きる」ということがよく分からない。五十六にもなって、そんなことをまじめに思い詰めているのだから、どうしたって救いようはないに違いない。不惑とか悟りとか、言葉にできる人が羨ましくて仕方がない。
 若い時には貧しくても明日が来ることを疑わなかった。つまり、何とかなるものと高を括っていられるところがあった。そして実際、何とかなったために今日こうしている。だが現在の不安は若い時よりも、もっと何かこう息苦しい感じが伴って、孤独が募っている。そして自分のその孤独感が、妻をはじめとして自分以外のものたちにも投影されて、まるで宇宙の名もない星たちのように誰もが真空の中にぽつんと在り続けているという想像が私をいっそう辛くさせた。みんな、こんな思いの中で、耐えていることなのだろうか。
 本当は、支えになるべき筈の私が、支えになるどころではなく、支えを必要としているというような状態は、どうしたことなのかと思うばかりで、さらに気持が萎えていく。
横に寝ている妻は起きているのか眠りについたのか、しっかりと抱きとめ、この腕の中で安らかな眠りを与えたいと心は思うのに、私は世界に対しているように、資格に欠けているように思い、寄りそっていくことができない。
 仕方なく、私はテレビをつけ、お笑い番組を見て、ある静まりを待ったのだ。夜更けて、ふと肌寒さを感じると眠れそうな気がしてきて、やがて布団にもぐり込んで眠りにつくことができた。目が覚めれば、こんな思いなど跡形もないように心の底にもぐり込ませて世間に身を置かなければならないことを、何か不条理のように思いなしながら・・・。
 
 
 
 
   ある場所
 
 
貧しいばかりで
耐えきれないほどの苦しみに苛まれるわけではない
この世界は全部きみたちのものだと叫んでみせたいほどに
ぼくたちの自由や望みが叶えられる余地がない
そう 意識に刻印する日々を
日めくりのようにめくっているというのがぼくたちの生活である
 
きみたちに文句は言わない
ぼくたちに力を 権力を 椅子を 公正な分配を
などとぼくたちは叫んだりしない
この世界はきみたちのものだから
 
行くも居座るも地獄であると
ある日脱北者のように悟ったぼくは
椅子を蹴飛ばして立ち上がった
それから急に目の前には帳が下りて
あちらでもこちらでもないある場所に
横っ飛びに飛んで
とんだことになってしまったというわけだ
たぶん
同じ時空に位置しながら
同じ時空に共生しながら
透明な膜一枚を隔てた世界を生きている
ぼくにきみが見えても
きみにはぼくが見えない
この視線の獲得が唯一ぼくたちに与えられたものだと言える
つまり もしかすると世事一切と引き替えにしてはじめて手にしたものだ
 
どちらが握り飯であるか柿の種であるか
猿なのか蟹なのか分からない
ただ 一切を無くしても獲得したものがあるからには
決してきみたちの世界に救済を求めはしまい
君たちが薄い膜一枚の中に生きていると
ぼくが真実を語ったら
きみたちの世界は確実に凍りつく
 
 
 
 
   水を運ぶ
 
 
釈迦やイエスやマホメットの子孫たちが
頭突き合わせ角突き合わせ
よってたかって世界を指導している
のだとすれば
小さな釈迦や小さなイエスや小さなマホメットや
それから小さな小さな弟子たちでこの世界の半分以上は占められて
人間の頭上数十メートルは電波のように
「私法」だらけになっているのだろう
 
彼らの優れた理性と悟性と慈悲と情熱とを支えるために
彼らの栄華と繁栄を支えるために
後の半分は熱力学に合致した生活を余儀なくされているのだろう
「立派な」人間が多いということは
社会的にいえば「立派な」病気だ
高齢者ばかりの世界で
聖人君子ばかりの世界になって
指導好きな人間ばかりの世界になって
先進国世界は
人間の砂漠地帯になりはしないか
 
なんてこれはほんの気休めの冗談さ
うざったくて
胡散臭くて
下層のぼくたちには彼らが下層の元凶に思える
 
見抜かれるな
気づかれるな
斧は手に入れたか
夜はまだ来ないか
誰か診断を下せ
根拠を探れ
決行せよ 親殺しを
なんて
ことは
彼らの常套の
論理であり主張である
 
ぼくたちはただ
遺伝子を絶やさぬように歯を食いしばらなければならない
緑の種子のようなそれを
地に播き
水を運んで暮らす
 
 
 
   無力無言の思想
 
 
 少し前、年老いた母から電話があり、私にとってはいとこにあたる○○が、ちっとも仕事をしたがらないので困っているという話をされた。ついては、私の勤め先に空きがあれば紹介してもらえないか、ということであった。彼も四十を過ぎた筈である。
 もちろん私は契約社員という身分で、どんな形ででも斡旋したり紹介したりできる力はもっていない。たぶんそのことは承知の上で母は私に相談を持ちかけたのだが、余程相談相手に困ってのことであったろうと思う。私は、「ちょっとむずかしいね」と答えただけであった。
 
 ○○は、小さい頃から口数も少なく、遠慮がちな、私から見ればやさしい子であった。年が少し離れていたので、一緒に遊ぶことも数えるほどしかなく、私の思いからすればかまってあげたことがあったというくらいのところだ。大きくなってからも、彼についてのたよりは母から聞かされるくらいのところだった。だから、現在の彼については何ほどのことも知らないできたと言っていい。
 
 私はしかし、彼のことを心の奥底のところで応援したい気持というか、支えたいという思いを持っているらしいことを否定できない。「血縁」とでもいうのだろうか、あるいは遺伝子のある部分で共通するものがあるというような、曰く言いがたい共生の感覚、分身の間柄、そんなことさえ彼に対して感じてきた。もちろんそれはすべて私の勝手な思いこみで、その思いを彼に伝えたことも他の誰かに語ったこともない。また、彼のために何かをしてあげたということも一切ない。彼にとってみれば、私はいとこの中でも縁遠い一人という、ただそれだけの存在に違いない。
 
 私は彼と彼の母とが、たいへん不遇な暮らしをしてきたことを知っている。鋳物工場などに勤めていた彼の父が亡くなってから、彼の母は少しの田畑を耕し、日雇いの仕事に出かけ、世間的にいえば、苦労をしてきた。母を助けるはずの彼は、欲がなく、他人と競争することを嫌い、また周囲からみると覇気がないと見える性格で、知人の口利きでせっかく手にした職もすべて長続きしないで辞めてしまったと聞かされていた。田舎の貧しい母と息子は、生活保護も受けずに細々と暮らしてきている。息子は多少頼りないが、悪いことをする人間ではない。
 彼に比べればわたしは少しだけ運のいい生き方をしてきたのかもわからない。だがそれにしたって彼らの窮状を何とかできるだけの力を持っているわけでもないのだ。それどころか、これまでも、そしてこれからもおそらくは見て見ぬふりをするか、無関心のふうで彼らとの距離を縮めるということもしないで行くだろうと思う。
 世界のあちらこちらには戦乱に傷つく人たち、子どもたちがいて、貧しい人たち子どもたちもたくさんいると見聞きする。また豊かな国々の中にも病む人たちがいて、そこでも、私はもちろん呆然とそれらの不幸や不運を見送っているだけなのである。そうして自分の危うさと必死に戦っているという現状なのであるが、選択の余地ない生き方をどう考えていくか、その考え方だけはまだ突き詰めていけるのではないかと思うところがある。
 私を突き動かすのは、たぶん負のエネルギーとでもいうべきもので、それらから力をもらい、それに突き動かされる間は、私は決して考えることを止めないで行くと思う。そしてあまりに無力で口にすることも憚れることだから、無言でしかすることができないのだが、変わらぬ声援の「気」だけは送り続けていきたいと思う。
 
 
 
 
   秋とタンポポと
 
 
秋に咲いたタンポポは小さくて
空き地に散らばっていてもどこか淋しげである
ぼやけた黄色い点のように
道のむこうに揺れるセイタカアワダチソウやススキに注意は奪われ
人たちに見向きもされないだろう
 
気まぐれにふらりと道草喰えば
茎も細くて頼りない
放射状の葉も
白い綿毛も
秋という季節には外れたよそ者?
私にしたって
このたんぽぽの花一輪を
机上に飾る風流までは持ち合わせない
その貧相さゆえに
 
見上げれば
風は澄み雲がわずかに高所を渡っていくよ
それだけの午後の淋しいひと時
悠久の時の流れの中を
中断する私の意識の横を
真空を切り裂く稲妻のように
文明の喧噪が一台の車となって走って行く
 
 
 
 
   戦友を一人
 
 
生活がどうにも厳しくなったですね
異物に触れた原始生物の反射的な縮小のように
私のすべても縮かんでしまうようです
お笑いやグルメや旅などのテレビ番組が
遠いよそ事のように思われ出しました
とてもそんなことに笑い興じてはいられない
そんな余裕の無さに
いま深く気づかされる日々
小さく呼吸を刻むのにも精一杯で
きみとあれこれおしゃべりをする
そんな暇もないほどの逼迫感なのです
 
私にできることは
身を縮めることだけです
自分にひきこもってやり過ごすほかに
どんな手だても思いつきません
環境がどうの
人権がどうの
平和がどうの
などということは
心配には違いありませんが
命あっての物種
生活があっての物種
というようにしか今は思えません
 
明日
さしあたっての支払いをどうやって済ますか
期限の過ぎた支払いの滞納は
いつまで引っ張れるか
その先の自動車税や車検は
クレジットのキャッシュローンでしのげるか
胃の再検で異常があったらどうする
なんて事を心配したりしなかったり
何とか成るさと高を括ったり括らなかったり
眼鏡を外したりかけ直したり
椅子の背もたれに身を預けて天井を仰いだり俯いたり
頬杖をついたり
ため息をついたり
 
働いても暮らしてはいけない
世間はきっぱりとそのことを公表して無表情なのに
私はそれでもどこかに隙間を探して
暮らしていく道を辿ろうとしている
そんな道はないのでしょう
身を削りましょう
お米は標準米を
おかずはふりかけと梅干しに
明日ならあじの開きが買えそうよ
なんて 少しも淋しいことではない
少しも切ないことではない
明日がないなんて 意識が「パニくる」のでしょう
本当に明日がないかどうかは
明日になってみなければ分からない
だからそれを証明できるのは愚か者でなければ出来ないことなんだ
 
衰える肉体のように 時代にしがみつきながら
ゆっくりと落ちていく
 
きみよ
私が思うに 最終に必要なのは
利を分かち合う仲間なのではなく
信ずるに値する戦友が一人
落ちていく私たちの傍らに認められるのでなければならない
 
 
 
 
   秋の日のある日の歌
 
 
色づいた里の林に
秋の陽の視線が深く突き刺さる
それは驚くほどの一枚の画布
一つの郷愁
あっと悲鳴を上げる魂をその場に落として
歩み去る影は私
 
その一瞬はいつかの日
たとえば山道を登坂の途次
忘れてきた人型の影絵
あそこからここまで
体型をなぞって掘り進めた坑道
背後には無言と闇ととが積み重ねられてきた
 
町に出て海に出て
ひとしきり迷い道を歩んだこともあった
雑踏や明かりや猥雑な音が錯綜して
バレエのようにクルクルと舞い踊って見せた
泣きながら笑った
―時もあった
 
今日はひとしきり山からの風が衣服を泳がせた
黄昏近く斜めに傾いだ落日の手前
土手に伸びたススキの穂が
それはもうなんだか楽しいばかりの
一列に並んだ子どものように
小さく乱れて揺れている
 
もう少ししたらお日様は隠れて
このあたりも暗く寂しいばかりの光景に変わり
温もりのすべてが吹き飛ばされる
虫たちの悲しい音色が月の明かりを待ち望むのだろう
身を縮めて風景を突き抜ける
今日の日に何か大切なものを忘れ物した気になりながら
燃える目の赤い視線に灼かれ
焦がれるままに家路へと
獣の帰りを還る
 
 
 
 
   夢の中での夢
 
 
 仕事場の詰所は建物の中の狭い一部屋に過ぎないのですが、そこに待機する私にとっては貧しさの象徴であり、関係の隔絶の象徴と意識されます。
 閉じた部屋の中で椅子に座り、机の上に頬杖をついていると、頭の中ではまた、自分が深海の底にいるように感じられます。呼吸を我慢し、重力を耐え、じっとしていることが精一杯だなどという考えに捕らわれるようなのです。それはほんの気まぐれな思い過ごしというようなものではなくて、繰り返し繰り返し襲い来る絶対と言ってもいいほどの固定した想念ではあるのです。
 私は、もはやこの場所そのものが私の意識の外化した姿ともいえるような思いにもなり、四囲を堅い壁に囲まれた空間に閉じた私の意識の無機的な表情と、捕らわれて身動きのならぬ不快に、ひたすら声にならない呻吟を繰り返しているに過ぎないといえるのかもしれません。
 私のこんな意識が世間に、あるいは個々の誰かに届きようもなく、同じように世間の思いも他の人間の肉声も無機的な私のこの空間にまでは届かないといえます。あるいはもう少し正確に言うと、情緒的な言葉としては断絶していて、ただ壁をこするような叩くようなかすかな音として伝わるといえばいえそうです。
 建物内の各所の温度を計測するために詰所を一歩出ると、そこには湿って温もりのある騒音があふれているのです。私の内部にも、かすかに懐かしさや親愛のうぶ毛のようなものがそよぐ気配があって、見知った常連に挨拶を交わすなどしながら巡回し、しかしまた同時に無機的な意識のひきこもりという思いも抱きながら歩みを進めるということになるのです。
 私はただこうして時の経過を、時が運び去り、運び来る一切を呆然と見送っている虚無的な化身に過ぎないのだろうかと考えてしまうことがあります。
 追い込まれてそうした考えを肯いそうになるにせよ、私はまだ深海の底でそれに頭を振る余力を残しているといえばいえるのです。
 私が未だ人間として存在している間に願っているところは、意識の自在を手に入れることだとかすかな声で言うことができます。欲すれば全ての存在の内側に瞬時に到達し、内なる意識と無意識に照準を当てることができたら。私はたぶんその時に宇宙意志に同致することさえできるに違いないとさえ考えています。それが私の唯一の望みであり、私はその望みを叶えて、傲慢不遜を許してもらうならばその時瓦解のような赦しのような、泪の一滴をこの世界に落として、そうして何事もなかったかのように再び時の経過に沈んでいきたいと、そう思うのです。
 
 
 
 
   ある詩評
 
 
どんなにあかるさやよろこびにみちあふれていても
なみだのいってきがまぎれていないふうけいはないと
たしかに詩人はそのようにもかたるのだろうが
そこに詩のちからをかんじとれもするのだが
ほんとうになみだするがわにたってみれば
そううたわれることによって
なみだにこめられたいっさいの心のひょうじょうはうしなわれることになる
かの詩人のことばのひとかけらには
血と肉とからしぼりでるなみだをおとす
にんげんのにんげんてきなかなしみがかけている
 
 
 
 
   過激なる静寂の中で
 
 
詰所にて一人弁当を広げて喰う
味気ないこと甚だしい
新聞を読みテレビを見て黙々と喰う
ドアの外にはギャンブラーたち
引きずる影に悲喜劇は見えない
 
これが私の人生の一こまであるが
取るに足りない日常の一こまではあるが
生きるとはこんな日々の繰り返しであり
不快の刺激が少ない時に
ひとはこれを平穏と呼び幸せな状況と歌う
 
たとえどこか遠くに愛するものがいて
愛するものに会えない寂しさがあり
思うところに生きられないとしても
踏み外せぬロープの上の案山子のように
何気ない顔と顔とはすれ違う
 
見るものすべて明るく澄んでいると
角膜の手入れでもすれば変わった目線が得られるものか
一枚の灰色の膜が視床の焼け付きが
ぬぐえない過去のようにどこまでもついてくる
息を吹きかけて欲しいのは心
 
「そうではないよ」
詰所の中で私は私に語りかける
寂しさの中に生きている
と思えるように生きているということ
それは救いである
それが何によって何のために為されるかは分からないとしても
それは救いであり
すべてのものが救われてあることなのだ
それをひとは無意味とか無駄とか
無ということばを使って片づけるが
慈悲とか無慈悲とかが時の形を借りて交互に刻み
目の前の現れの一切を
ただそのようなものとして映し出す瞳の中を
潤す仕掛けは用意されてある
私たちにとってそれはことばであるとは
誰が信じようか
過激なる静寂の中で
私は生き死ににいそがしい
 
 
 
 
   暗黒の星
 
 
 幼いころに父の背で仰ぎ見た星空は、すぐ手の届くところにあるように思われ、星々の光は私の瞳の中に反射した。星たちはどうして輝くのか。それは正しく私たちの周囲から光が失われるからだと、今ならば考える。決して怖くはない闇の中で、私たちもほとんど星たちと同じ原理で光り輝いていたはずなのである。
 星たちの光は涙の輝きと同じか。子どもの頃はあんなに間近に見えていたのに、本当は想像してみることさえできない距離が相互に横たわっていると、どこまでも深い孤独があんなにも星たちを煌めかせていたのだ。
 それはしかし、私たちのする空想なのであって、星たちは私たちのような瞳を持つものではない。盲目の植物のように、植物が光や水や大気に感応するように、引力や冷気に従ってそこにあり続けているだけだ。
 私は星を見なくなった。子どもたちに、星を見せる機会も数えるほどしかなかった。季節を、風景を、光や風や影をなくしてから久しい時が経った。今星を見上げたら、光が光としては見えずに、何か宇宙の漆黒に針の穴をぶつぶつ開けたような、白い空虚と感じてしまうものかもしれない。まるで愛の中身が空っぽの真空であったように、私自身への不信が募ってしまうのだろう。
 私はこの真空を何かで満たさなければならないはずだが、さて、さしあたってその解は見つかりそうにもない。だがそのことでかえって私が光り輝けるとしたら、私は光の射さない宇宙の果ての暗黒の星の孤独こそを愛したいと思う。
 
 
 
 
   がいこつさんのうた
 
 
きみはかなしいがいこつで
ひとりぼっちはあたりまえ
いつもひとたちのあいだをすりぬけて
うつむきかげんにいきていた
 
あるひまちなかをあるいていたら
たくさんのなかにがいこつさん
あっちこっちにあるいていたよ
うたっていたよ
おどけていたよ
おこっていたよ
ほねをきしませわらっていたよ
 
きみはかなしいがいこつで
ひとりぼっちはあたりまえ
いつもみんなにほほえんで せをむけて
なみだをひとつながしてた
 
がいこつさんもにんげんも
いまはいっしょにいきていて
あっちもこっちもくべつがないよ
うたっていたよ
おどけていたよ
おこっていたよ
ほねをきしませわらっていたよ
 
きみはかなしいがいこつで
ひとりぼっちはあたりまえ
きょうもやっぱりひとりだけれど
のびしてぐんとみあげたね
 
おそらにせかいがみえてくる
がいこつおどりはたのしそう
カキカキカックン
カキカキカックン
ガチャガチャバラバラ
ガチャガチャバラバラ
コキコキカッシャン コキコキカッシャン
カックンカックン
がいこつさんもにんげんさんも
なんだかとってもたのしそう
おどりのむこうにきせつがみえる
ひかりがとどいてゆれるかげ
かぜがやさしくふきぬける
 
きみはやっぱりがいこつさ
ひとりぼっちのがいこつさ
それでもゆうきがわいてきて
ちっともひとりがこわくない
ひとりひとりがみんなだよ
みんなはひとりひとりだよ
 
かがやいて おちこんで
おちこんで かがやいて
ひるとよるとのくりかえし
ひるとよるとのくりかえし
よるとひるとのくりかえし
よるとひるとのくりかえし
なみだとわらいのくりかえし
わらいとなみだのくりかえし
 
カキカキカックン
カキカキカックン
ガチャガチャバラバラ
ガチャガチャバラバラ
コキコキカッシャン コキコキカッシャン
カックンカックン
 
カキカキカックン
カキカキカックン
ガチャガチャバラバラ
ガチャガチャバラバラ
コキコキカッシャン コキコキカッシャン
カックンカックン
 
 
 
   みんなで一つの絵になった
 
 
銀杏が黄色く色づいて
心の模様に映えている
秋だよ秋が訪れた
瞳の中でいっぱいに
さわいで揺れて
たのしそう
 
紅葉が赤く色づいて
心の模様に映えている
秋だよ秋が訪れた
お空の下でいっぱいに
さわいで揺れて
たのしそう
 
街路のむこうの松や杉
なんだかとても淋しそう
秋の日射しをはね返し
じっと寂しさ耐えている
秋だよ秋が訪れた
いろんな色でいっぱいの
秋は一つの絵になって
瞳の中で絵になって
心に描く絵になった
みんなで一つの絵になった
 
 
 
   いちょうのはっぱ
 
 
いちょうのはっぱがね
きいろくなったのね
それでね
それで いっぱいゆれてたの
 
きいろいはっぱがね
おんなじいろなのね
それでね
それで かたちもおなじなの
 
ゆれるはっぱがね
みんなゆれてるの
だけどね
だけど おなじじゃなかったの
 
あっちむいて
こっちむいて
したをむいて
うえをむいて
ばらばらばらんて
ちゃらちゃらちゃらんて
あかちゃんのね
がらがらみたいにゆれてたの
みんなちょっとずつちがってたの
かぜさんのいたずらだね
かぜさんはいじわるだね
でもちょっとはやさしいよ
だって そっとゆらしてただけだから
 
 
 
   頭のこと
 
 
 世界の平和を誰もが望んでいるかどうかは分からない。ただ、旨いものを食べたいとか、自分にぴったり合う服を身につけたいとか、家族とか気のおける人の中で過ごしていたいとか、いつも恋人と共にいたいとか、そういうことなら誰もが望んでいることに違いないことは分かるような、気がする。
 よい車に乗りたい。鮮明で性能のよいテレビを見たい。よい環境に暮らしたい。こういう欲望は、自分自身でも、あげたらきりがないほどだ。けれどもこういう欲望の充足には、経済的な裏打ちが必要である。要するに必要とされる仕事を十二分にして、たくさんのお金を稼ぐことが前提になる。こうしてお金持ちになった人たちは相応の欲望の充足が可能になるのだが、私はその才覚と努力とに欠けた。その日暮らしのような毎日を過ごし、最近では肉や魚を買うことすらままならないことも多い。
 詩人や哲学者といえども、働きにあった生活ができることに例外はない。旨いものをたらふく食べている詩人や哲学者を羨んではいけない。いや、羨んでもいいが、怨めしそうに恨んではならない、のだと私は、思う。
 よい天気の日に、庭の樹の下のテーブルを囲んで妻の手料理を食べるひととき、詩人はたまらなく心やすぐ思いでいたのであろう。なりすましを試してみると、その時間の豊かさが自分のもののようにさえ感じられる。それは彼にとってはまことに喜ばしいことに違いない。私は心から祝福したい。そして彼の幾分かに過ぎなくてよいから、私の身にも安らぎの時が訪れてほしいものだと願う。
 これらに反して、世界平和の望みは働いて手に入れられるというものではない。また私たちが本当に世界の平和を望んでいるものかどうかも不確かである。これは要するに「頭」が望んでいることであろう。
 私たちの誰もが、世界平和を体験したことは無いに違いない。誰も体験したことがないならば、どんなことをもってして世界に平和が訪れたと判断するのかよく分からないところだ。戦争や紛争が地上から無くなること。貧困や飢餓が無くなること。「頭」ではそう言えるが、実は私たちの目や耳や、あるいは気配の感受とかでは確かめようがない。
 私はときおり、「世界平和」を脳裏に思い浮かべたりするが、それはことばや文字として思い浮かべるので、イメージとしては貧困なものしか浮かばない。ことばに酔いしれ、何か崇高な概念であるかのように錯覚するらしいが、近頃はどうも何か「頭」の癖であるかのように思いなされる。旨そうな食べ物を前にすると、おそらく脳が即座に反応するに違いないが、「世界平和」のことばを前に、私の脳はおそらくなんの反応のしようもなくて戸惑っているに違いない。そんなことなら、無駄なことに時間を費やさないで、私たちに豊かな安らぎのひとときを与えて欲しいと、私の妻や子らは言いたくなるに違いない。
 
 
 
   ある日の歌
 
 
生きてる間に遊ばなくちゃと言う男
生きてる間に楽しまなくちゃと言う女
なるほどねえと思うぼく
 
飯喰って寝っ転がって
何が不足なのかと犬猫ならば問う
ぼくも自問する
 
草木のように生きられぬ
獣のように生きられぬ
厄介な脳を神棚のように肩の上に背負いあげて
近頃はその重さがやけに肩に食い込み
肩の重みが胸に食い込み
さらに厄介が身にしみる
 
「いいんじゃないの」と誰かが言う
いや 言うはずだ
言っているに違いない
なぜなら 空耳がはっきりと聞こえるから
 
人間界を捨てて捨て得ぬ心地して
身体を捨てて捨て得ぬ心地して
遊ばなくちゃ
楽しまなくちゃ
応えて曰く
金がすべてさ
 
何かがループする
目覚めている間はループし続ける
制御不能の厄介なお荷物
こんなもののために人生を台無しにする
それがぼくにとって
生きるということなのか
なんて
そういうことなのかも
 
きみを愛したことを ごめん
 
 
 
   きみに恋している
 
 
 きみに恋している。きみ?きみとは誰か?そこにいるきみか。いや、そこにいるきみではなく、きみの中のきみに。
 たしかに、かつて憧れは遠くにあった。若き日に遠く旅立ち、遠いものたちとの出会いと幻滅。それは非凡な才能として、遠くにあるから憧れたに過ぎなかった。
 分布図や偏差値を見る見方からすれば、それらは所詮本流ではないのではないか。そう考えて背中の側に視線を移すと、無数の点で混み合っていて、そちらの中心あたりに標準というものを考えられそうに思われた。
 平均的であるということ、標準的であるということ、もしそこに多少の推移や変遷というものがあるものならば、そして同時にそこには原形というものが保存されているとするならば、私はそこに向かって錘鉛を垂らさなければならないのではないかと考えられた。 それからというもの、私は年月を重ねてきみを訪ね歩いているのだが、時にきみに出会えたと思い、まじまじとその顔を眺めてみるが、きみがきみであるかどうかを確信できずにいるというところなのだ。
 きみには、人間の原形的な遺伝子がなければならない。人間が変わりゆくものであるにせよ、ないにせよ、私はそれを知っておきたいという願望を強く抱く。
 ふつうの人である。私の瞳に映るきみは、いたってふつうの人である。だがいったい、その場合のふつうの人とは何かが私にはよく分からない。・・・秀でたところも劣ったところもないということ。プラスでもないマイナスでもない。善でもなく悪でもない。存在だけというのでもない。偉ぶらないこと。注目されないこと。過激でないこと。過剰な消費でないこと。・・・しかし、わずかずつだがそれらがあること。
 私の苦しみを知らぬ人。私の悩みを気づかぬ人。私の考え方に無関心な人。
 
 
 
   空を飛んだ
 
 
 子どもの頃にぼくは空を飛べた。家の屋根に登り、ちょうどプールに飛び込むような姿勢で一気に体を傾けると、少し下降するけれどもすぐに浮力を得て、それからは自在に行きたいところに向かって飛び続けることができたのだった。
 初めのうちは落下の恐怖もあって、全身への力のいれ具合や息を詰めたりすることなど、神経を使う必要があるが、時間が経つと余裕が出てきて、力まずに実にゆったりと飛び続けることができるようになる。その時の気分の良さは体験してみれば分かる。
 はじめは家の周囲の上空を旋回し、調子が整うと、領域を広げて、学校の上や友だちの家々の上空を飛び回るのが常だった。もちろん空を飛ぶのは夜に限っていたから、地表の様子が分かる程度の高さを飛ぶのだった。高度を上げる時は、意識的に体に力をこめ「上へ」という思いを持たなければならない。それさえ、決して難しいことではなかった。
 水平に飛び続けていると、少し疲れが出てくるのか失速することがあって、高度が落ち、ときどきそのまま失速して墜落する危険はあった。その度に恐怖と戦慄におそわれたのだが、丘の斜面、家々の屋根、草木の生い茂る原っぱに叩きつけられたことはなかった。ぎりぎりの直前まで行ったとしても、必ず墜落は回避できた。それがどういう幸運によるものかは分からないが、ともかくも願いのような祈りのような、それはもしかすると呻きにさえ似ていたというべきかもしれないが、要するにそういう思いと、全身に力を込めるということしかぼく自身は手段の取りようがなかった。今考えてみても、本当に幸運だったというほかはない。
 いずれにしても、この飛行はぼくだけの秘密であったし、両親はもちろんのこと、全く他人の気配のないところで行われていた。この時間の中で、ぼくは飛行のことと飛ぶことに際しての自分のことしか頭になかった。ぼくは飛び続けるだけだったし、墜落の危険を回避する、そのことだけに夢中であった。
 飛行になれてくると、いつしかぼくはちょっとした高さの高低、段差があれば、それを利用してどこからでも飛ぶことができるようになっていった。膝をバネのように利用して、いとも簡単に水平に体を浮かすことができたし、その姿勢で少し助走をつけるようにして、それから一気に上りつめることができるようになった。
 ぼくはその秘密を肉親や友だちにも話したことがない。秘密にしておくことはなかったのかもしれないし、自慢してもよかったはずなのに、打ち明けられないでいた。だから、飛べることは、ぼくにとって孤独を象徴するものであったと言っていい。ひとり、墜落の危機に面した時の無類の頼りなさと悲しさとは、今もぼくのこころの壁に影として貼り付いているような気がする。
 
 
 
   格子の奥
 
 
 瞳の奥には格子があり、その格子の奥にまた瞳がある。その瞳で見てきたのである。私が世間を生きて来た時に映るすべてのものを。私はそれらを人々との会話のために、ことばにすることをいつからか諦めた。会話の中で、ことばは同じものを指し示すようでいて、決してそうではなかった。また、外界の光景がどのように瞳に映じるかというところでも、私は他人のそれにつまずいた。ことばは同じでも、瞳には「個」が刻印されていると感じられる。結局、誰かと対峙する時に、私は互いに異質であり異和であるものどうしがことばを介し、たとえひとつのことを話しているにせよ、誤解しながら話し合っているというようにしか受け止められない。
 格子が問題なのであろうか、格子の奥の瞳の存在が問題なのであろうか。それはおそらく意識にひそむ癖であるとか、脳器官の癖であるとか、そういう類のものであるとひとまずは考えている。脳や意識ということであれば、おそらくはどれひとつとして同一のものはないのであって、それを考えるとその裂け目は私を絶望の方向に導く。
 その上でなお、私たちには明らかな共通があるのであって、私にしてもその共通の確信無くしては一時もこの世におられない。つまりそれはあるパターンの共通というようなものだ。私たちはそれを介して、種、あるいは類という概念で包み込もうとする。
 
 
 
   ひかり
 
 
「ひかり」は白いもので
夢のように淡く包み込む
 
「光」とはまぶしく
闇を切り裂くほどに強烈な力
 
「光」はなじみがなく
「ひかり」は幼い日の遠い記憶
 
「ひかり」はさみしいもの
ふとした街角に
枯葉舞う林のきれる道端に
賑わう駅の階段の途中に
吹きだまりのように落ちているもの
空に貼り付けられているもの
浮かんでいるもの
あるいはきみの魂から落ちた
ひとかけら
行き場をなくして戸惑う
「水」になりきれなかった
なみだのかげ
 
 
 
   きみから笑顔が消えていった日
 
 
幼い日絵に描いたように天真爛漫だったきみは
あちこちに天使の笑顔のかけらを落とし
散らかったおもちゃを蹴散らすように
我が物顔に日々を送っていた
 
幼稚園に学び
小学校に学び
中学校に学び
きみは逞しさを増しながら
けれども少しずつきみから笑顔が消えていった
その時の両親の
言いようのない寂しさに
きみはまだ気づくことはなかったろう
 
社会に適応させるシステムを
どうしても通過させなければならないその時の
「任せる」というひとつの契約が暗黙のうちに履行されていくのだが
それは たとえその過程できみがどうなっても
不服をとなえるなという何ものかの意志に「任せた」ことを意味するようなものだ
 
今ここで特別なことを言うつもりはなくても
子どもから少しずつ笑顔が消えていったそのことに
心のつまずきを感じなかった親たちは一人もいないだろう
きみから笑顔が消えていった日
もしかすると親たちはその一部始終を見届けている
そしてそれがために
さいなまれ
ことばをなくし
険しい顔付きになったきみの前から後退し
ただ 祈るだけのものになり
ただ 死なぬものであろうとする
 
 
 
   あかり
 
 
あかりが漏れてくる
あかりが壁をすりぬけて
わたしのもとにたどりつく
この感受の正誤をとりあえず破棄することにしよう
すると感受が救済の唯一の
私たちに与えられた何かであることが理解される
 
独房に沈み込んで息絶え絶えであろうとも
ものみなが遠く見えようとも
明かりは温もりを伴ってすぐそばに浮かんでいるのだ
脳裏にそれを直感して
明日私は心をして座禅を組もうと思う
 
透明な水があふれる
透明な水がいっさいを沈める
闇が現れる
闇のむこうから
ぼんやりとあかりが漂いはじめる
感受は語る
あかりを求めるな
その先に見えてくるあかりが
きみに与えられたものだと
 
 
 
   見送る
 
 
水の中に血の一滴を落としてみる
水の中に泪の一滴を落としてみる
水の中に怒りの青さを離してみる
水の中に
水の中に
狂気をそっと浮かべてみる
人知れず
流れて消えるそれを
見送る
 
 
 
   透明な膜
 
 
透明な膜をそっと被せる
厚みのある平面状のそれを
 
自在に飛翔し自在に取り出し
地表を覆う
膜は冷やし膜は温め
自我を鎮める
 
そんな透明な膜が
科学の発展と発見によって
創造されなければならない
 
 
 
   なだめる
 
 
起きがけの厭世的な気分を なだめる
世間への憤りを なだめる
打ちひしがれて無力を なだめる
重く閉じたくちびるを なだめる
なだめる
少年を なだめる
苛立ちを なだめる
 
なだめたい
生きとし生けるものを なだめたい
きみを なだめたい
なだめればおさまる何かを なだめたい
自分を なだめたい
地球も宇宙もやさしく なだめたい
傷ついたその箇所に
掌でそっとふれて
なだめてやりたい
 
できないこととは知りながら
打ち消せないその思いを
その思いのあてどない浮遊を
おそらくは土中に堅く埋めて
叩くように
あやすように
なだめ続けなければならないと思える
 
 
 
   とある了解に向かって
 
 
 葉を落とし、系統樹のように末端を広げる木々の枝先が剥き出しの神経となって冬の大気に絡んでいる。それが何故か、妙に懐かしい光景と映る。裸木の寂しさのようなもの。それがひどく私の目線を引きつける。
 物言わぬもの。その姿形が思想といえるならば、それは私の失った情緒、その不在を告げようとしている。すなわち、私の精神は長いこと真冬のただ中にいる。そしてことばも情緒もなくして、そこでただ在り続けているに違いない。雲間からのぞく日の光さえ、熱を失って注ぐものでしかない。繁茂する緑の季節さえなく、花の季節も訪れようとはしない。在り続けること。それが快であるか不快であるか、私はただそのことばかりに苦しんできた。そしてわずかに風が巻き起こり枝先をゆらして過ぎる時に、悲鳴ともつかない振動を音にして私の精神は震えてみせるばかりだ。
 そのようにして在り続けて、その姿形で呻き、その姿形で叫び、その姿形で憩っている。時折、裸木には訪れる小鳥もあるというのに、私の神経の枝々を訪うものはなく私はただ待ちわびていた。剥き出しの情緒を露わにした誰かを。私の神経が交流を許される相手を。そうして私はただ私の季節が命ずるままに、在り続けられる姿であり続けてきたに過ぎない。
 私はもしかすると自分というものをもてあましてきた。この世界で、過剰な存在ではないのかと。あるいは調和を乱すものではないのかと。のろのろと影のように私は世の中を歩いて見せた。剥き出しの情感を表皮として、内面にはごつごつとした手触りのような樹皮が差し替えられていた。おそらく誰もそのことに気づいたものは居るまい。私は静かに敬遠されて過ぎたようなものだ。人間とは何か。それは肩寄せ合う湿った温もり。私が捨て去ったものの一切。そうして私はもうすぐ「そこへ」、急がなければならない。湿った温もりの中に、身を埋めなければならない。
 
 
 
   私を愛せ
 
 
温かな食卓がひび割れる
吹きっさらしになった家族のそれぞれの
冗舌と寡黙とが砂塵となって傷つけ合う
柔らかな愛に始まった心が
いつの間にか冬の樹皮のように荒れている
引き裂くものの正体を
私は知っているのだが
運命と呼ばれるそれに抗うことができない
たしかな隔たりを気付かぬふうによそおい
ああ いつかまた
温かな食卓を囲む日の来ることを望む
 
人間の社会よ
日本の現代社会よ
私のありふれたたったこれだけの願いは
多くの家族の持つ声に出さない願いであるはずだ
ささやかな幸せが
水車にはじかれる飛沫のように
はじかれて暗い影を落とす
時代よ 時よ
私たちはお前を憎む
時に翻弄される私たちの無力と愚かさとを憎む
 
愛するものたちよ
私から遠ざかってはならない
決して私を疑ってはならない
私が非知へ辿り着くまでは
私の引きこもる【ことば】を
愛せ
 
 
 
   独白若しくは毒吐く
 
 
四囲を壁に囲まれたこの詰所の中では
私は異物ですな
壁が[善]であるならば
私は無力な[悪]というところか
壁が[健全]であれば私は[不健全]
煙草の煙をくゆらせて時を過ごしておりますです
 
時代はまさに極北の正義ですな
[悪]を切って切って切り捨てる
[法]という名刀が
とても偉そうに人間界を
容赦しないで切りまくっていますな
 
詰所の中で私はにっちもさっちもいかなくて
ひどい嫌われ者であったり
悪党であったり
ダメ人間の塊であるように思いなされて
だからこそ獄舎につながれているというような気分も強いられて
―あなた
あなたは本当に大丈夫ですか
こんなのっぺらぼうにきれいになった時代に
あなたは口をぱくぱくさせて浮き上がる
魚のようになっていやしませんか
 
綺麗すぎますな
綺麗に割り切りすぎているような気がしますな
そこではそう言い
あそこではああ言い
舌の根の乾かぬうちに
よくもまあ建前がぽんぽん飛び出しますな
[正義]はどこまでも毅然としておりますですな
 
二酸化炭素の排出を減少させるために
庶民も生活の呼吸を遠慮しなければならないようです
比内鳥の肉にプロイラーの肉が混じっていたことが
そんなにも驚くべき事でしょうかねえ
子どものいじめには厳罰を用意して
いたずらの入り込む隙もなくなりそうです
これからどんどん[良い社会]に生まれ変わっていくのでしょうな
頼もしい時代の到来ですなあ
どんどん[悪]という[悪]は排除され
誰も彼もがこぞって[絶対正義]の側に立って
私にはとてもとても
真似の出来ないことをおっしゃって
すっきりと澄まし込んでおられます
賞味期限の嘘や製造月日の偽装には
そりゃあお腹立ちもごもっともなことですが
私も[機会]があれば
そうやってでも金儲けしてみたいものだなどと
恥ずかしながら
全く思わないでもないものですから
四囲を綺麗事で囲まれた中で
目を伏せ顔を伏せ
異和のように生きておりますです
そしてこんなにも美しい社会の到来で
四畳半の独房が
身に相応と考えております ハイ
 
 
 
   日々という名の戦場
 
 
生きるということは
日々の繰り返しを繰り返すことであり
そこには一喜一憂があり
遠大な構想や計画があり
希望や挫折があったりもするのであろうが
いずれにしても
日を繰り返すことの他に
繰り返しを耐えていくほかに
小さな喜びにさえ出会うことはできないのだと思われる
 
耐えるといっても歯を食いしばることばかりを意味しない
じっと手を見るとか鏡を見てため息をつくとかの後で
予期せず笑いに誘われることや
人たちの優しさや
風に向きを変える心の力強さのようなものにより
呼吸のような平穏は誰にも与えられる
 
日々に生まれ変わる細胞のように
私たちを私たちのままに
出ては入り出ては入りして入れ替わる
そのようなものを循環と呼べば
それはやはり喜ぶべき事ばかりではなく
一滴の悲しい涙のようなものも
私たちの姿形をなぞるようにして
通過することこそが
私たちをして「人間らしさ」に駆り立てて行くに違いない
 
嘆くなといっても
無理なことに違いない
絶望するなといっても
耐えられないと思う瞬間をなくしてしまうことはできない
きみよ
きみのその呻きが
「らしさ」の象徴である
すり切れてぼろ雑巾のようなそれが
本当は私たちの明日に必要な手形ではないのか
きみは考えなければならない
未来に受け継がなければならないものが何かを
きみはそれをどこに秘めてきたのかを
きみは構想しなければならない
明日どんな世界が構築されなければならないのかを
未来にどんな夢を託さなければならないのかを
飢えをなくし
戦禍をなくし
「らしさ」に充ちた世界を
遙か彼方に見通さなければならないのではないのか
きみこそが 無名のきみこそが
そのためにこそきみの今日の一日が試されるとすれば
砂を噛む今日の一日は
決してただそれだけのものではない
 
もしも平穏の中にも戦場があるとすれば
いま私たちは
一人ひとりが銃を抱えて野戦の中にある
私たちの使命は抗った後に敗れ去ることである
 
 
 
   生きるとは四苦八苦
 
 
四肢を働かせ
意識を転がし
めまぐるしい時の勘定の中に入る
理由はからくりの中に眠る
それが「生きる」ということであった
 
いずれ停止は約束されてある
ひとはそれを「楽になる」という
土塊に帰る
帰れば
大地になり風になり雨になる
生き物たちの傍らにあって
生き物たちの「四苦八苦」に立ち会う
 
生き物たちはどこから生まれ出てくるか
もちろん地球というまあるいお餅をちぎって出来た
無数の分身たちだ
わずかな間
本当にわずかな間
水しぶきの一点の飛沫の影のように
一瞬地表に現れては消える
その一瞬とは
実はすべて「四苦八苦」にほかならないのではないのか
 
生きるとは苦しみを与えられたわずかな期間である
草木を始めいっさいの動物たちの姿も
永遠の眠りの中に与えられる一瞬の試練である
そうしてこの試練は
宇宙規模においてさえ滅多にお目にかかれない
この上なく貴重な一瞬であるといえば言える
いずれ「楽になる」
その「楽」は永遠が約束されている
それを考えると
「四苦八苦」を味わい尽くし
しゃぶり尽くすのもいいと
わたしは思う
 
 
 
   糞ころがし
 
 
小銭を抱えた糞ころがしの一生は笑えない
そこには五十年あまりの生涯がある
夕陽を浴びた糞ころがしの長く伸びた影には
まぶしさに隠れて いってきのかなしいなみだが
紛れていないとも限らない
 
糞ころがしは今日も行く
小銭をころころ転がして
向かう先はいつものギャンブル場
かなしいかな
寂しさを突き抜けて心躍るのである
席についてハンドルを握れば
思いは走馬燈のように巡る
コンナコトシテイテイイノカ
ナニカマワナイ
アソベルトキニアソブコトモマタジンセイ
アスモマタアソンデイラレルトイウホショウハナイ
ソレニイマ
アソビノホカニシナケレバナラヌダイジナコトハ
ワタシニハミツカラヌ
アレモコレモ
アスニノバシテシンデナニガワルイカ
 
人生は継続である
糞ころがしにとってたったひとつの継続は
ころころころころ自分を転がすことである
転がし続けることである
成功もなければ敗北もない
人生をそのように眺める視点を避けて
たった一人の一筋の道を
ああ 獣道のようにいつしか草木にかき消されてしまうと知りながら
それでも一筋の道をつけていきたいのだ
考えること
考えたことを懐疑すること
 
 
 
   私にとっての「生きる」
 
 
生きるということ
地べたに這いつくばるということ
植物の心を知り動物のそれを味わうということ
人間らしい悩みを悩むということ
死にたいと考えること
辛くかなしく苦しいと感じること
生きていないと思うこと
他人は分からないと寂しく感じること
暗いとか
笑えないとか
引きこもるとか
賑わいに背を向けるとか
それらのことを重圧と感じ
どこかに逃げてしまいたいと考えること
 
生きるということ
ちょっとした微笑みに心をかざせるということ
明るい町を胸を張って通りすぎること
交錯する次元の先の出会いを信じること
幸せな他人を応援すること
不幸な他人を応援すること
くずおれそうな時に
心に風を送り
運ぶ薪を探すこと
生きるということ
温もりを諦めること
灯りに寄って行かぬこと
考えることはみんな嘘だと思うこと
身と魂とが
流れの中に埋没することを
一人で見届けるということ
生きるということ
ただそれだけで
限りなく難しいこと
人間であろうとして
人間を捨てる旅に出るということ
 
 
 
   生きる
 
 
 仕事場近くを縄張りとする二羽のカラスは、電線の上や雪混じりの枯れ草の上を行き来しながら、のんびりと、誠にのんびりと日々を繰り返している。ここしばらくはどんよりと暗く重い曇り空の下で、餌を探してそうしているのか、離れてとぼとぼ歩いたり、雪をのける仕草をしたり、また電線に肩寄せ合って停まったりしてカラスらしい生活を繰り返している。二羽は番らしく思われる。
 私は正直、今の私の生き方に似ていると思った。妻と二人きりの生活は、朝お互いが仕事場に出かけ、それぞれに仕事をして夕方家に戻ることを繰り返している。
 変化の少ない生き方であり、変わり映えのない生き方だと言える。
 私たちがしばしばパチンコに出かけて遊ぶことをしているように、先のカラスの日中での過ごし方の中にもどこやら遊びの部分があるように私には感じられる。それは不確かなことだけれども、どこか寂しげな中に、知恵もののカラスのいたずら心が見え隠れしている気が、観察者の私にはしている。そして、考えることをしないカラスたちの生き方の方がどんなにか潔い生き方であろうかと、私はいくらか羨ましく感じた。
 生きるということは、と大きく振りかぶっていえば、こんなことなんだろうなと私はカラスから教わる。おそらく人間以外の生き物たちには、くよくよするところもなければ後悔もないに違いない。日々のあり方、姿が生の燃焼である。彼らにとって生きるとは百パーセントその姿である。
 人間である私は、他の生き物たちと同じような生き方に少しばかり近づけた気になっているのだが、同じ目で人間の暮らす社会の方を見ると、これもまた少しばかり後悔の気持ちの湧くことが不思議な気がするのである。見栄も欲も、無くなったと思うその底に、そしてまたその底に、無尽蔵に隠れていそうなのである。
 私はどこへ行けばいいのだろう。そう問い続ける心の声を聞きながら、私にはやっぱり今の生活の繰り返しを繰り返していくほかに行くべきところとて無いような気がしている。
 
 
 
   原点回避
 
 
ただ生きている二羽のカラスは
朝に仲間たちとともにねぐらを出て二羽だけのの縄張りに降り立ち
夕方にはそれぞれの縄張りから
ねぐらに向かって飛び集まる群れに吸い込まれるように去っていき
それを繰り返しているだけのように見える
 
南米アマゾンに住む原住民の一種族は
家族との食事
部落のものたちとの狩りや採集
事あるごとの歌やダンスに興じて
「さびしさ」という概念がないのだと笑みをこぼす
そうして遠方からの客のことばを器用に真似て見せ
すべてを笑いに誘うかのように
陽気に暮らしていると見えた
 
おそらく暮らしには
楽しむための工夫が生きていて
食べて作業して寝るというそれだけの毎日にも
充分に楽しいと感じるだけの
何かが備わっているに違いない
カラスとて同じだろう
生きているそのことが楽しくなければ
あるいは楽しいものとして振る舞えなければ
繰り返しと見える毎日を続けていられるはずがない
きっと私たちに知られないところで
楽しいと感じられるような工夫が為されている
 
単純な日々の繰り返しで済んでしまうなら
私たちが享受している文明など
急激に発達する必要など無かった
便利さに気づけなかったら
不便な中でそれを不便と考えなかった
 
二十一世紀の地球にはもしかすると古代も未来も共存している
自分の生き方のどれを選ぶかは
選択可能になる時が近い将来来るかもしれない
太古も捨てがたいが私のような怠け者には
超未来の便利さが誘惑としてのしかかる
「孤独」を厭わないということは
暮らしを楽しむというよりもさびしいものに変えてしまい
ある意味では
太古からはずいぶんと離れてしまったことを意味するのかもしれない
 
 
 
 
   瞋恚
 
 
せっぱ詰まり
暮らしひとつ変えることができない
下層に埋もれて
埋もれたまんま声をなくしていく
一羽のカラスのように背を向けて
文明の合間にある地平を徘徊する
「カア」とひと啼きくれて
「アホー」とひと啼きくれて
凍土をついばむ姿は
愛の欠片を探すに似ている
まさか陽が差しはしまいという怠惰
小雪のように降りかかる中
陽が差し込むことを望む弱さ
黒傘の下に沈む
呪詛の影は昔
昔から
鬼はこの地に居座り続けた
「ねえ あなた」と微笑みかけながら
鬼は鬼で乾き目を病んでいる
 
生きることは耐え難い
という文字に信と芯はあるか
カラスなら使わない
容易とも至難とも言わない
「カア」か「アホー」でまにあう
それなら自分もカラスではないか
ことばを失うことは文字を失うことではない
ことばを失った分だけ
虫の世界に下りていく
虫の世界
無視の世界
虫が無視するのはつまり
修辞若しくは概念
要するにたわけた世界をだ
 
 
 
   生きて去る
 
 
旨いものを食べるため
よき異性と暮らすため
よい仕事を為すため
 
ざっと見渡せばこんなところを目標に
人間は生ある間右往左往を繰り返している
いたって単純なものである
いたって単調なものである
そして後はどうやって楽をするかばかりを考えているようだ
 
「俺に分け前を」
聞いてみれば肉体は奥底で叫んでいる
「俺は生きたいのだ」
そうも叫んでいる
 
生きているのに生きていない
いたって簡単な命題なのに苦吟しているわけは
誰も解決策を見いだせない一点にかかっている
 
目的地ははっきりしている
せっかく授かった生なのだから
せっかく消えていくことが約束されている生なのだから
自分の幸せとみんなの幸せを願って
そうして少しばかり努力して生きて行きましょうや
やりたいことをやっていくその中に
わずかな忍耐を忍ばせておく
その程度で取り敢えず
おさらばを許してもらえる
暗黙の了解が成り立ちそうだ
 
 
 
   森にて
 
 
幼年の未明の闇から暁を迎え
青く視界が開け物象の輪郭もはっきりとしてくる
感覚は確かにそう告げたはずなのに
精神の認識は深い森へと彷徨い
森はすべての視界を遮るものであった
 
私たちは重ね合わされた二つの世界を
共時に生きなければならなかった
増していく明るさの氾濫と
増していく闇の深まりと
超近代的な蟻塚の迷路で
超古代的な未明とが交錯して
感じることと認識することとが
背中合わせに
永遠に立ち去る光景を見たのだ
 
 
失われたのは情緒という湧き水
干涸らびた細胞の一つ一つに
どうやって液を充たせばいい?
 
万華鏡のように深まり行く謎の扉が
宙空のいくつもの箇所にめくられて
歴史とともに加速する
美しい錯乱が脳髄の中を跳梁する
悪酔いした私たちは
胃の腑を渓流の清水に晒し
苔むした岩陰に広げることを夢見た
日は陰り
日はどこまでも陰る不安に怯えた
 
森の中の冷たく蒸された匂いにむせる
すでに私は見失っていた
広葉樹の太い幹の間に
不気味な二足歩行の影が見え隠れする
尋ねようとする視覚が凍え始め
瞳の中で私は静かに立ち竦んだ
 
 
 
   森へ
 
 
通い慣れた秘密の通路のこちら側に
ぼよんと膨らんだ日常が膨張し続ける
怪しいことは何もないとうそぶいて
私は見えない檻となった不安に怯える
目にすることはみんな疑わしい
耳に聞こえてくる意味という意味はみんな疑わしい
私は数学者のように仮説に埋もれ
解をとくのにいそがしい
現実はひたすら膨張し続ける
距離を引き延ばす因子は
不明と不可解
そこまでは私にもわかってはいるのだが
 
すべての理由によって
いながらにして秘密の通路を辿り森へとワープする
日常や現実が重力を無くしてしまい
引き裂かれた異次元の亀裂が生じている
半端でない寒さに襲われ
襲われたまま私は
共有のない疼痛の中に産み落とされる
悲しみはいつも一人で咀嚼して
つかえながら呑み込む
そうして幾万と幾千の夜を過ぎてきた
 
意味あるものがおぼろに霞む
唐突に私は森を彷徨う
森は鬱蒼として過敏な神経がからまりあっている
空をつかむ抹消の神経が小枝の先となって
おそらくは悠久の時を交流してきた筈だ
私はしかしそこでも疎外されている
感覚が隔てられ意識があてど無く迷走していく
森は私に何も明かしてはくれないし
私もまた留まれば苛立ちがつのることを知っている
私にはしかし
生と死の狭間のようなその場所にしか
すっかり行く場所とてなくっていたから
意識が身震いのように動き出せば
そこに至らざるを得ないことになっていたのだ
 
私は疲れているか
すでに酷く疲れ切っていた
そこで湿った草と苔との間に身を横たえて
なかば呼吸する死者のように
眠りにつきたかった
ここがその場所であるかも知れぬとひとりごちて
 
森の中に私の中に
現実の匂いがかすかに漂うと
私は急に現実の方に立ち返らねばならなかった
行き来が頻繁になるとすべては希薄になっていく
なんの前触れもなく
「救済」の方程式は解かれていた
手前には「≦」若しくは「≧」の記号が使われる
 
 
 
 
   無意識の森の神話
 
 
 希望が無くても紛れて生き抜くことは出来る。世紀のゲリラ戦てやつだ。ジャングルの森の中。敗走、迷走、何でもいい。マチュピチュのような、ヒューマニズムの遺跡には無数の蔓が寄生し、荒れ果てて太古が押し寄せている。
 何だ、こんなものか。そうさ、そんなものさ。これが文明の実態か。文明の実態だ。これが高度といわれる文化の実態か。そうだ、高度といわれる文化の実態だ。空豆の枝が一夜にして天空に届く。振り落とされないようにしがみつけ!スルスルと天空へと辿り着くことが出来る。
 辿り着いたなら、せいぜい世界の平和について、ああでもないこうでもないとわめき散らすんだな。片っ端から思いつきの対策を実行して、思った通りにいかなかったら舌打ちするかつばを吐きかけたらいい。どうでもいいんだ。少なくとも仲間だけは喝采してくれる。地上を這いずり回る、そのことが嫌いだったんだから仕方がない。そのことに絶えられなかったんだから仕方がない。それだけのことか。それだけのことさ。
 ヒューマニズムの森に彷徨い、出口を見失う。光線が閉ざされて入る隙間もない恐れの中で、白昼夢が一筋の明かりのように思いなす。ヒューマニズムがこんななら、まっしぐらに反対方向に向かってみせればいい。そうさ、森が幻想なら、幻想の向こう側に出て行けば、そこには夢と希望とがあふれる光景が見えてくるはずなのだ。そう言って、深い谷底に逃避したものも数知れない。
 そうして森には人っ子一人いなくなった。無数の敗残の影が、木立の影を無言で徘徊する。ここは、生きるところではないな。そうだ、ここは人間が生きるところではない。けれでも、本当は古代から今日まで、人間が生きてきたところはいつもこんな場所だった。ここで木の実を求め、訪なう鳥や獣に罠をしかけ、小川に身を伏して小魚を掬った。
 ぎらぎらとした目は、野生の輝きを秘めていた。
 すばしっこく、力強く、聡く。
 それでいいのか。それでいいさ、こんな不明の森の中、それが由緒ある原始というものさ。群れを必要としなくていいか。いいさ。愛を謳わなくていいのか。いいさ。さびしくはないのか。さびしいのだ、寂しさを感ずるように出来ているから。つまらなくはないのか。きっとつまらないことが多い。でも、実際にはそう感じている暇はないはずさ。苦しいのか。苦しいのさ。耐えられるのか。耐えられるに決まっているさ。
 コンクリートの山。情報のジャングル。派手ににぎやかに着飾った廃墟。行き先を見失った魂が、あちこちで狼煙のような遠吠えの声をあげる。ヒューマニズムが短絡したんだ。ヒューマニズムが短絡したのか。そうさ、綺麗事はみんな犠牲を強いているんだ。森は全て幻想の中か。幻想が現実で、現実が幻想なんだ。分からないな。分からなくていい、それが現在のところ唯一の真に他ならないからな。
 信じるな。全てを信じるな。ここは太古の森の中。以前として原生が支配する世界。アメーバのような触手を頼れ。不審の目をぎらつかせよ。過剰な、富と貧困の色分けを拒否しろ。そうして積み上げられた歴史、知の粉飾を切り崩せ。すでに意味あるものは消えた。意味は消えた。現世のありようは裸木のままだ。そうさ、生きるという神聖な領域に、決して意識を持ち込むな。意識によって無意識を統御しようとするのではなく、無意識に向かって意識を拡散させることが必要なのだ。比較など意味を持たない。無意識の欲するところを欲せ。無意識の発する声が我々を導いてくれることだけは、まず間違いないと言っていい。
 
 
 
 
   タンポポに教わった私的な魔法
 
 
小さな小さなタンポポの花が黄色一色に咲き誇る
それはね 雲一つない晴れた日のことなんだ
 
曇った日はね つぼみのようにすっかり閉じて
まるでただの草むらのように緑一色になっちまう
 
実はね 近くの空き地に
少し前 タンポポの開花を見たんだ
ところがここ数日空き地は緑一色で
あっ タンポポの花が消えた
と思ったさ
自然はこうも不意をつくものかとがっかりしていたら
今日のこの上天気さ
葉っぱの緑が隠れるくらいに一面の黄色い絨毯さ
 
自然は見事だね
いくつもの魔法を用意して
それはそれは
太古の昔から祖先を楽しませてきたってことなんだろう
 
おどろいて がっかりして
がっかりして おどろいて
昔も今も変わらない何かだね
そうさ 今も昔も変わらない何かさ
繰り返しなのかな
繰り返しなのさ
おもしろいのか
おもしろいのさ
 
もう一人のぼくが時間を超えて太古に佇む
瞬時 これはぼくたちに出来る魔法
 
 
 
 
    自同律を<快>へ
 
 
大きくのびをする
詰所の中は自由
テレビを消して
タバコを吸って
ほかにはもうすることがない
 
考えることは暗く重いことばかり
軽快に時の波に乗るには手遅れもいいところさ
独居房の真ん中で微笑んでみたり
あっけらかんとした顔付きをつくってみたり
さらにすることがなくて
目をつぶったり
社会の雑事から遠のいて遠のいて
ふと 瀬戸際を知らされる神経
 
軽快に
という言葉は実によい言葉だ
しなやかに
したたかに
という言葉もよい
 
小さな枠の中の自由人
やりたいことはもうない
やり残したこともない
そういえばひとつ
<かけがえのない命>というフレーズに
ペテンの臭いを嗅ぎとっていた
 
<かけがえない>という割には
ごみくず同然に散らばっているぜ
<かけがえない>なんて感じられないじゃないか
だいたいが<個>として生きることはそんなに価値あることか
<かけがえない>といわれて生きてみても
自分のどこが<かけがえない>んだか実感がない
<かけがえ>あろうがなかろうが
言うほどに尊くもなければ
考えられるほどの無意味なことでもないと私には思える
つまり命は厳然として命であり
命という言葉の軽さとは無縁のものさ
宇宙の一切のものの生成と消滅のように
意識には計り知れない何かだと考えるほかはない
消えかかる<個>が消えかかるとき
祈りともつかない沈黙に
世界を停止させてしまわなければならない
瞬時の後
世界はまた何事もなかったかのように
流れる時間に自らもまた同調していく
私たちもまた
<個>が消え入るときに消え
 
<個>の生成の如くおのれを生成せよ
その時 瞬時
意識と訣別せよ
 
 
 
 
   私の立場
 
 
できても よい
できなくても もちろんよい
 
勝っても 悪くない
負けても もちろん悪いわけではない
 
若いときには
生きることはあとからやって来る
老いたときには
生きることが先にあって後からそれを追っている
追いつくことがしんどくて
息も絶え絶え
苦しさとの我慢比べだ
そこでもきっと
追いついてもいいし
追いつかなくたっていいのだ
ただ どうやら追いつこうとすることが
自然な振る舞いとは言えそうだ
息が切れてかすかになっていくとき
目もまた自然に閉じていく
 
それ以上でもそれ以下でもないんじゃないか
 
私ならば生と死とのそうした自然に殉じるほかに
何も強いて考えることはないな
 
 
 
 
   敗走のススメ
 
 
翼のために 大気がある
考えるためには
障害が必要なんだな
 
不幸とか不遇とかが無くなれば
人間はもう考えることを止めて
ついでに人間である必要もなくなるんだな きっと
 
沢庵をかじってお茶を飲んで
沢庵をかじってお茶を飲んで
 
どっちみち生きがたいところに生きるんだから
これ以上に生きがたく考えたり
これ以上に生きがたく生きなくてもいいんじゃないのか
と ぼくならば思う
それに 考えることは生き死により狭く
生き死によりも軽いことだ
三分の一は意識が眠り惚けていても
しっかりと命は継続しているんですからね
意識が命に向かうのは
おこがましいことだと思うんです
 
かんたんに手を挙げて
お手上げと言えばすむことです
そう言っても
本当にお手上げする必要はないし
できっこないし
それでいて
誰に咎められることもまず無いですから
仮に咎められても知らん顔すればすむことです
 
あの
 
無意識に戦っているのはシステムですから
そんなものに温もりは通用しませんから
どうせ半分は 生きよと命じる声に従っていくだけなのです
どうせ主体ではないんですから
かえって偉そうにふんぞり返って
生きてあげましょうと応えて何の問題もない
 
とにかく ぼくは逃げますから
きみも逃げて逃げ切ってください
 
 
 
 
   投書欄
 
 
やけに最近はじじいとばばあが張り切っていやがる
高次化する文明に引き出されるように起きる
高次化した事件の数々を前に
明るく前向きに発言するじじばばが増えてきた
じじいには少し刺がある
たぶん昔とった杵柄とばかり
指導者面を消してしまうことができない
その点ばばあは死んだふりが出来る狸のようで
刺を隠しながら健康を振りまくことが出来る
このじじいとばばあの背景には
大文字の導きの糸がほの見えて
操り人形のようであることが明らかであるのに
本人たちには自覚がないものだから
ずいぶんといい気な投書になる
 
新聞社はこんなものばかり集めて
そして これ見よがしに
白く塗りたる墓いっぱいに埋め尽くして
本当は何を埋葬しようとしているのだろう
 
時折おあつらえ向きのように
少年少女の投書が挿まれていたりする
おあつらえむき おあつらえむき
担当者は単純に喜んだりしているんだろうな
 
三十、四十代の投書は極端に無いぜ
破滅的であったり毒舌であったり
ネットをにぎわす今時を代表する本音もどこにもない
どうしてこちらにあってあちらになく
あちらにあってこちらにない状況が出来てしまうのか
 
綺麗に蓋をしているもんだな河北新報よ
あるいは大手新聞社各紙よ
あるのは形成と操作の企みだけじゃないか
それが公共の良識ってやつか
 
一面ではミャンマーや中国の
報道姿勢や政災軍災を批判しながら
同じ事をただソフトにやっているに過ぎない
 
白く塗りたる墓に
今日もじじいとばばあが集ってくる
学校の作文教育じゃあるまいし
何をどう書いたら掲載されるか
そんなノウハウだけが身に付くばかりの投書欄に
永遠に大衆の利害に関する本音は投影されないさ
ただし本音発見器という
読解の方程式さえ見つけられたら別かと思い
身辺雑記から政治的苦言まで
ざっと見通してみたら
これが意外と悪くない
 
 
 
 
   失策
 
 
平均寿命のあと二十年を生きるとなると
ちと苦笑いですな
でも 世間的出来事に否応なく対処しつつ
振り返ればあっという間かもしれないし
また何となくの不満足を抱えつつ
振り返り あるいは
先細りの未知にこっそりとおののいたりもするのかな
 
過去に遅れてきた願望には届いたが
現在の願望には遠く及ばない
そんな生活の一進一退の中で
私たちはきっと無意識の役割を果たすのだろう
 
ああ おそらくはねえ
ああいった生き死にのあり方もあり得たのだろうが
結局はそれを望まなかったという一語に尽きて
彼我のちがいに差異を覚えなかった
ちょうど天災や人災の犠牲者になりきれなかったように
運や作為の中に輝くことがなかっただけのことだ
 
臨終の際は
「まだ死にたくない」などと言ってみせたいものだ
偉大なほどに平凡な教養の成就が果たせないから
もっと平らな平らな思想を末期の心電図になぞらえて
ああそれから意味もなくにやりと笑う
にやりと
笑えたらねえ
 
 
 
 
   秘密
 
 
ぼくの知らない間にぼくは生まれていて
ぼくの知らない間に何かに組み込まれ
ぼくの知らない間に仕事が始まっていて
ぼくの知らない間に生活は進んでいて
ぼくの知らない間に世界は黄昏れている
 
ぼくはいつも準備が出来ていない
そして明日という日の今日に立ち会うばかり
今がどうあるべきかぼくは永遠に知らない
決められた約束事という一本の紐にぶら下がり
かろうじて深夜零時を跨ぐそれは
ブランコの曲芸に似ている
 
けれども一体ぼくは明日どこに出かけ
どんな人たちに出会うのか
見知ったような見知らぬような人たちの間を彷徨い
誰に声をかけ
「暑くなりそうだね」
「生ビールがいいね」
なんて
 
手足を藻掻かせていると
不意に感触のない水の中に溺れかけている
呼吸が不規則に荒くなり
これはどうしたことかと思う
『嘘だ』と叫び出す前に
精神の異常の有無を確かめる
一人でこんなことをするつまらなさと
不可避の高波とに
本当は何度溺死を繰り返してきたことか
 
何食わぬ顔がみんな秘めていると思える
きみはそうして秘めたまま
やっぱり世の習いにならって
言葉を呑み込んでぼくの前を立ち去っていくに違いない
その重い おもーい無言が
ぼくが吐き出す息を止めようと覆い被さる
それがぼくに対する復讐であるのか
鋭い殺意であるのか知らない
なんとしたことなのか いつの間にか
声帯が抵抗を失っている
仕方なくてぼくは彼らの重い無言を真似るのだが
憤怒にかられて
頭上から嫌悪を降り注ぐ
 
はっきり言ってぼくは生きたまんまで
ぼくが生きているこの場所と時間の中で
彼我の秘密といえる無言を口にしたくてたまらないのだ
たとえ宇宙の果てに吹き飛ばされようとも
たとえ宇宙が果てに吹き飛ばされようとも
 
 
 
 
   ブリーフ
 
 
ブリーフから金玉がはみ出すように
人間の概念から人間がはみ出した
ブリーフを替えるように概念は替えられるのか
 
新しく金玉がおさまるブリーフを捜し出してからブリーフを替えるか
いったんブリーフを脱いでから新しいブリーフを捜すかは
自由だ
おさまるブリーフが見いだせないとき
穿いたまんまで捜すか
脱いで捜すか
それも自由だ
 
私は使用中のブリーフは脱いで
いったん裸になってから
別のブリーフを捜そうと思う
 
自分は自分にのっとって
そうして行こうと思う
 
 
 
 
   子どものいない楽園
 
 
 環境、省エネ、スローフードなどなど、田舎暮らしを勧めたり進んでそうしようとする人が多い。おかげで私なども緑の山はいい、田んぼのあぜ道はいい、自然はいいなどと自分に思い込ませようとしてきているようだが、どこかにすきま風が吹く思いが禁じえなかった。それが今日、何となく了解できた気がした。発見したといってもいい。
 思い描く風景には、実は子どもが不在なのである。
 畑があり、田んぼがあり、風景に溶け込む形で民家が点在し、水と緑と風と日射しとがとても豊かな景色を演出するのだが、どうもそこには子どもたちの日常的に賑わう声がない。お年寄りたちが、ゆっくり、のんびり、情緒たっぷりの親和的な空間の中でおだやかに語りながら生活を楽しんでいるように見えるが、何としたことだろうか。楽園と思われた田舎暮らしは急に色あせていくような気持になった。
 小さな子どもたちのいない楽園。これはお年寄りたちの願望の表れなのだろうか。案外そうかもしれないと思うし、いやいや本当は子どもたちとふれあいたいのに現実的にそれが不可能というだけなのだと考えてみたりした。いずれにしても子ども不在というのは、歴史的に見ても現実的でない初めての共同体の姿ではないかと思う。そしてそれは極めて病弊的ではないかと思えてきた。
 私は老人の施設などは保育所とか幼稚園とか小学校とかに隣接しているのがいいなどと漠然と考えてきたから、子どものいない田舎暮らしで、いにしえの中国の詩人たちを思わせるような生活などまっぴらだと思う。もっとふざけていえば、女子高生のスカートがひらひらすることのない緑ばかりの生活など、生きる気持を萎えさせるだけだろうと思う。
 悪ガキどもや未熟なお色気を発散するお姉ちゃんたちがいっぱいいるのは都会だ。私は取り立てて都会が好きだということもないが、子どもたちや若いお姉ちゃんたちがいつでも視界を横切っていくに違いない都会の生活のほうが魅力的に思う。臆病だから見知らぬ女子高生に声をかけるなどということは金輪際出来ないことだが、風のように視界を掠めていくに違いないなどと考えると、その魅力には抗しがたい気がする。
 
 
 
 
   改訂 蜘蛛の糸
 
 
 豊かさも知恵が足りなければ長く続くものではないようである。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品には『地獄の池』が描かれていて、私はそれが当時の社会の一面を象徴するものであると考えるとともに、現代をも象徴するように考えてきた。金や幸福の享受、自分さえよければとひしめく亡者たち、私たち人間は所詮その欲望の池から逃れることは出来ない。否定しきれない現実という足枷。
 このごろ、その『地獄の池』にちょっと修正を加えたい気がしている。池の上には、というのは空間に浮かぶというイメージなのだが、ザルのようなクモの巣のような、そういうものを一段置きたい気がする。そちらには何となくだが『地獄の池』までには落ちきらない人たちがせわしなく行き来している。だが、いったん一歩足を滑らせると、ザルの目の間から、クモの巣の糸の間から、血の池に真っ逆さまということになる。
 最近の、職を捨てたり失ったりした人たちの運命はまさにこういう事態ではないかと思うのだ。間に緩衝地帯が無く、一気に低所得の労働、フリーター、生活の成り立たない地獄に叩き込まれ、二度とはい上がれない。若者であってもそうなのであり、まして中高年になると再就職すらかなわない。企業や雇い主は経営を主体に考えて、最低限必要な幹部候補社員のことしか考えなくなった。全ての社員の生活を抱えているという意識は捨てたのだ。逆に働く人たちの生活を食ううま味を覚えさえもした。
 何のことはない。古めかしい「地獄」という言葉が、突如若者たちにも現実的な環境を示す言葉として立ち現れているのである。低賃金、無報酬で過重労働が強いられたりする。これに逆らえば、即刻切り捨てとなるから、気を利かせて余計な負担を抱え込んだりする。悪循環である。挙げ句の果ては路上生活、最悪は餓死寸前の生活が待っている。
 経済大国。文化国家。先進国。
 おやおや、と誰でもが思う。思うに違いない。いや、思わないものもいるのだろう。このところこの国は弱った高齢者にもザルでふるいにかけるような政策をとるようにもなった。おやおや、である。恥も外聞も、美しさも見失った。
 さて、人間は地獄にも生きるものである。さしあたって地獄を地獄と認識せねばならない。おそらく若者は認識しているのであり、不可解にとどまっていても触知だけはしていよう。その上で、暗くなりきれないことだけが、新しい。あくまでも明るく病んでいこうとするそれは、いたく知的でさえある。「地獄」とは死語に近い言葉である。それが若者たちの間にも甦りつつある。若者たちはやけにそれを静かに受け止めている。祖父母の世代にも、親の世代にも、その現実を伝えようとはしない。世間に投げかけたり、路上で大きな声で叫んだりもしない。ちょうど炭坑夫が坑道で仮眠するように、自分をじっと抱きしめて、恐怖に耐えようとしているかのように、寡黙に耐えている。見上げれば、いくらでも空から落ちてくる人間がいるので、つまらぬ世の中を設えたものたちに怒ることさえ諦めようとしている。
 しかしである、再び、人は地獄にも生きるものなのである。地獄にも地獄なりの生活があるのだ。目標はささやかながら明白である。
 
 
 
 
   非詩的な貧困考
 
 
 ガソリン高騰が原因して軒並み諸物価も上がり始めたね。バイオ燃料のために穀物が使用されて、これも世界的に不足しているそうだ。途上国の食生活が豊かになって、反面、第三世界の食糧事情は悪化しているらしい。
 世界経済はサブプライムローンの騒ぎ以来、深刻なようだね。経済の氷河期がここ日本にやってくるのかな。いや、すでに貧困層、低所得者層から氷結は始まっているらしい。もうすぐぼくたちの手足も凍りそうだ。救済はないのか。救済はないね。みんな、腹の中では「自己責任」の言葉で我々を見ているようだよ。あてに出来ないか。あてに出来ないね。自己責任か。自己責任だと。都合のいい言葉だね。彼らにとっては都合のいい言葉さ。
 憲法にはたしか文化的な最低限の生活を保障するみたいに謳っていると聞いたことがあるが、聞き間違いだったか。聞き間違いだろうな。普通の暮らしが出来ていたときだって、少しも文化的な豊かさを享受できているとは感じなかったもの。まして、こんな貧しい暮らしの中では生命の安全さえ脅かされる毎日だ。病気で倒れたら一貫の終わりだぜ。一貫の終わりか。一貫の終わりさ。儚いもんだね。儚いもんさ。後期高齢者医療制度も、ずいぶんと思い切った手を打ったものだと思ったが、どの政策を見ても全て場当たり的に感ずるね。資本主義を越えた超資本主義、あるいは消費資本主義の時代の到来に、旧来の社会システムが悲鳴を上げているんだろうな。政治家や役人の頭も古くて固い。とてもこの困難な時代を乗り切れないさ。
 貧困、高齢の我々はどうなる。それこそ自分でどうにかして乗り切っていくしかないのだ。体をこわさぬ程度に今まで以上に働き、出来るだけ支出を少なくするようにしていくほかはない。かつての氷河期に生き物が冬眠して乗り越えたように、ぼくたちもまた冬眠して乗り切ってみせるさ。氷河が溶け始めるまで生き延びられたらまた会おう。それじゃあな。
 
 
 
 
   「父」の告白
 
 
子どもを育てた長い間には
もしかすると子どもを邪魔に思ってはいないかと
自問する日がないではなかった
真っ先に妻の生活が変わり
それとともに自分が巣に引き寄せられるその瞬間のことだ
人間の生活とは何かが実感されるときのことなのだが
決してそこには幸福だけが待っていたのではなかった
かといって不幸が待ち受けていたのでもない
営巣の舞台には責任がまつわりつくことを
私たちは考えたことがなかった
考えないうちにいつも現実は先を歩いていた 
 
私が前を歩こうとすると
妻と子どもとは前後左右にまとわりつくようで
前を見て歩くことに専念できなかった
私だけの道と考えていた道がぼんやりと
フェイドアウトしていくように思えた
それはそれで
やっとこの身を収め
この身を啄んでくれる対手が出来て
そのように生きなければならないと思いながら
私の心は怪訝な顔付きを隠せなかった
役立つ命という位相から
内面を守ろうとする狡猾が
蟷螂のように身を擡げた
 
愛と呼べば愛だが届くものではない
子どもの誰もがするような
じっとしていることの無い活発さと
死体のようにぐったりと眠る無邪気さと
この世に生きる幸せとは
子らよ
いつまでもそうしていられることだ
 
学校とか教育とかのことばに引き寄せられる過程において
遂げた変貌の無残さを
ことばにすることが出来ない
笑いとともに無邪気さは消えて
私は根底から空洞と化していった
最も大切なもの
最も大事にしていた宝箱
守り抜かなければならなかったもの
かろうじて残っていた私の生きる意味
それら一切が
防ぐ術なく容易に奪い去られたあとの空虚
父であることの悲哀と無力
全ての父の元気の無さがもしも現在一般的と言えるならば
おそらくはここに根源的な理由があるのではないかと思う
つまり社会的存在となるための通過儀礼の中に
全ての父は子別れを演じるほかになかったのだ
すなわち絆という糸を
断ち切ったことをそれは意味した
 
子どもの頃私は夢の中に生きていた
しかもその夢は
空中を飛翔し急降下を繰り返す夢であった
落下の恐怖と不安とに毎夜心を震撼させていた
また草原にひそむ蛇を踏みつける感触から逃れようとして
走り続けては踏みつける恐怖にへとへとになった
一人っきりの夢の中の生活に
私の孤独はつのった
そしてそこには誰ひとり入り込んでは来ないのだった
日常の中で
遊び仲間と繰り広げるから騒ぎにおいても
私は夢の中の孤独をすっかり追いやってしまうことは出来なかった
私は夢と日常の狭間に引き裂かれていたと思う
そしてこれを扱う術を知らなかった
また誰に聞くことも出来なかった
たとえそれが肉親であり父と母であっても
 
要するに私の過去のそれは
私と子どもたちの間にある溝をいっそう深いものにした
子どもらの夢と無意識は全く別物であるのだと
全く別の人格が埋蔵されてあるのだと
私は密かに訣別しなければならなかった
そうして一切の私からの自由を
彼らの頭上にかざさねばならないと感じたのだ
そうしていざというときにのみ父の姿を装い
そのほかでは
私という個を生き抜く
それが私というものがわずかに指し示すことの出来る
ささやかな範であると
透明な皮膜のこちら側で
懸命に身振り手振りをしている
というものだ
 
 
 
 
   逃亡のススメ(貧困の若者世代へ)
 
 
気がつくと社会的貧困の前線に立っている
これはもう
ぐれるしかないなと考えても
精神のない専門人の顔付きと
劣悪な労働条件と
人間疎外のシステムとに周囲を取り囲まれて
ぐれた仲間をつなぐ隙間さえ見あたらない
どこでぐれてみせればいいか
きみは必死にそれを探し続けてきた
 
群れないで生きて行くためには
さしあたっていくつかの条件がある
大きくはリズムある生活を樹立してこなしていけること
効率よく料理と片付けができること
中古の洗濯機でいいからそれを使い
毎日こまめに洗濯すること
朝と寝る前の掃除を欠かさないこと
ゴミはきちんと分別すること
趣味や嗜好のための出費は
なるべく狭めて抑えること
それから月に一度くらいは家族に電話をして
声を聞いたり聞かせたりすること
親の声が説教口調に聞こえたら
ハイハイと返事を二つし
じゃあ と言って電話を切ること
 
一人で生きて行くことは
言われるほどには悪いことでもなく
無理があるというわけでもない
ぐれて本当は何をしたいのかを
とりあえず考え詰めてみて
その答えを見つけるまでは
さらに考え続けてみればいい
 
たしかきみはゲーム世代で
ロールプレイングであれ
アクションであれ
課題をクリアする攻略法は身に付けているはずだ
人生においてきみが陥っている状況を打開する方策も
それがゲームの一つであると置き換えれば
その難題難問のクリアの仕方は
全力で挑戦してみるに値する事業だ
 
きみがやらなければ始まらない
きみの人生の舞台であり
革命の物語の始まりというわけさ
 
ゲームのように落とし穴はいくらでもある
ゲームと違って何度でもそこからやり直せる
修正が効く
ゴールが何か
これもゲームとは違う
勝ち組負け組ということではないし
金持ちになることでもない
幸福や不幸の問題でもないんだぜ
ゴールはゴールなんだが
きっとゴールのないゴールがゴールなのだと
つまり
そこまで辿り着けば
なあんだ と
気づいた場所がゴールということになるのだと思う
そして落とし穴から逃げ続けること
それがこのゲームの売りというわけだ
 
誰もが落とし穴にはまりこんでしまう
逃げおおせるのはぼくなのかきみなのか
用意はいいか さあ
逃げろ
 
まずは極度の貧しさから逃げる手段を講じろ
仕事は選ばずにやれ
契約したぶんの賃金より少しだけサービスして仕事しろ
それでもリストラの対象になりそうな時は
そんな会社は見限って素早くほかの仕事を探せ
それから豊かさや勝ち組への嫉妬から逃げて
他人の幸運はできるかぎり喜んでやるようにしろ
孤独に思念が縮かんだら温かい飲み物をとれ
そして素早く心を開き閉じた思念から逃亡しろ
夜にたった一人っきりで眠ることに不安を覚えたら
人間はそういう存在だという考えに逃げろ
恋人がなかなか出来なくて辛いと感じたら
あわてるな
DNAが求める珠玉の恋人に
まだ巡り会えていないだけだと考えろ
どうしても好きになれない奴からは出来るだけ離れろ
そういう奴らが非人間的扱いをしたら
可哀想な奴という思考に逃げろ
または自分はそういう人間にはなるまいという考えに逃げろ
他人に対して権力を行使しないという覚悟に逃げろ
 
逃げて逃げてどこまでも逃げて
それでもいよいよ
せっぱ詰まったと感じたら
古ぼけた旧来の倫理を捨てろ
きみの懐深く抱いている
これも古ぼけた人間の概念という概念を根こそぎ捨てろ
そして生じた頭脳の空隙に耐えられなくなったら
そうだ
未知へ
未知へと逃げるのがいい
きみは人混みの中に紛れ
喝采を受けぬ
時代の先駆者となる
未来の
ありふれた生活者の一人となる
 
 
 
 
   独居房にて
 
 
 欠伸もし、伸びもし、お茶も飲んだ。お茶はおいしいもおいしくないも考えさせずに、ただ胃の腑に落ちていった。次の巡回まで一時間はある。考えも底をついた。独居房の中、目を閉じて開いて、また目を閉じても睡魔はやってこない。やってこない睡魔を招き寄せる呼び水のように、目を閉じて、また開く。
 毎日、椅子に腰掛けたまんまでのたうち回っている。蠍も悟りもやってこない。意識は無駄に湧いては枯渇を不安するくらいにすり減っていきそうだ。
 とても私にふさわしい場所が与えられたものだ。世界に感謝しよう。身動きせずにのたうち回ることが好きなんだ。いろんなものを拾い集めて、いろんな負荷を抱えたり背負ったりして、結果は身動きのとれない自分にして、肝心なところがいつもすり抜けていってしまう。これでいいのか。それで、いいじゃないか。よいも悪いもどうしようもない。それだけのことさ。それだけのことか。そう、私たちの存在は意識にあまるものがあり、掬いきれずにこぼれていくことが普通だ。考える前に存在のあり方が先行し、先行する存在の前に無意識の思考と嗜好が先行している。
 のたうち回る所為かいつしか睡魔もやってきて、腹も減ってくる。弁当だよ、弁当。空腹を感じたらそれだけが楽しみじゃないか。三十分後の巡回を終えたら弁当を食おう。
 一日はこのようにうまくできているもので、意識の表層で解決をすます問題が多い。その繰り返しに耐えることが生活と呼ぶものであるならば、たぶん己を生かしておくことだけは容易いことだ。そしてそういう生き方をメインにしたっていいんだ。いや、本当はそういう生き方のほうがメインなのさ。標準に近いのさ。その標準の生活の底上げが、歴史の課題でもあるはずだ。私たちはただ、歴史における過去の標準に含まれていて、過去の人たちが夢見たように未来の標準を夢見ている。そして現在の格差には、過去も現在も未来も縦型に配列されて見えているのかもしれない。歴史の内を流れる欲望は、自然に逆らう自然さと言っていい。欲望は、生から迸り出る生の象徴である。独居房に棲むとそのことがよく分かる。私の望んでいることは思念の自由な飛翔であり、思念の独居房からの解放である。
 
 
 
 
   個史
 
 
旅、だというのか
空白を埋めるための
 
ただそれだけのための旅だと言いたのか
 
愚かな
そんな馬鹿なことがあり得るはずがない
 
生きてきたのだ
生きていることの快をつかもうとして
あるいは快を確かめるために
確かめをうぶ毛の先においても確かめるために
 
生きることが
祝福されたものであることを
世界が祝福してくれるに違いないことを
時間の先端に身を乗り出すように
生きているその時を越えて
背後の直線の末端で
点を繋げるように
今を繋げて生きてきたのだ
 
産み落とされた時の衝撃
理不尽な分離
急激な温度差
切断された生命線としてのへその緒
欲しもしない全てが
なぜ強制されなければならないのか
なぜ胎内に居続けることがかなわぬ事であるのか
その時の私に説明のなかったそのことを
私はまだ根に持っていると
もしかしてきみは言って
嘲笑おうとするのか
 
母がなぜ私を生んだか
差し迫った陣痛が
母胎としての限界を告げるものであり
同時に胎児が母胎から離れようとする信号として
陣痛を受け止めたからに他ならない
しかし 私はそうした信号を発した記憶はないし
生まれ出ることについて
母から諭されたり
了解を求めることばを聞かされた覚えもない
ただ不意に
痛みのために乱れて波打つ心音に驚愕し
その驚愕の中で産道を滑り降りた
 
まばゆい光と
干し上がった大気と
冷気に突き上げてくる
体と魂の奥底からの叫びの誘いとで
一瞬の無呼吸の後に
私ははじめてこの世界で泣いたのだ
 
どこかに
割り切れぬ思いが
たしかに残っていそうな気はする
居心地のよい羊水の中に
居心地のよいと感ずる半睡の状態で
いつまでも抱かれることが出来ていたら
そのように生誕後の世界が
居心地がよいと感ずることが出来ていたら
母に抱かれたように
宇宙に抱かれて
甘い感受を
欲しいがままに出来ていたのなら
 
母は出産の後
はたして私に喜びを伝えたのだったろうか
地球や宇宙からの信号を得て
はたして私の生誕への祝福を告げたのであったろうか
私の半生はそのことを知ろうとして
舌先や指先や耳目に触れる一切に
徴しと証しを探るそのことが目的の
旅だと考えるべきものだったのだろうか
あるいはただ単に
私は母の喜びと祝福に
不服と反発ばかりを増幅させて生きてきたのに過ぎないのか
そうして母と背後の世間に
悲しい顔付きをさせる報復に打って出たとでも言うのだろうか
 
私の理性は
つまり理性の根幹にある刷り込まれた母の物語は
私に
恵みを求めるなと告げ続けてきた
私はその声に従って
温もりが手に入りそうになると怯えた
そうして
子猫を川に捨てに行った少年の時のように
本能が望もうとする大半のものを
時間の中に流さなければならなかった
 
私の来し方を旅と呼ぶならば
その旅はもはや終わりにさしかかっている
母の物語から母の母の物語
さらにどこまでも遡る母系の物語の先に終わりがない
私にこの永遠の物語の解析が出来るのだろうか
出来ないまでも
私なりの一方的な和解が為せるのだろうか
私にとって死とは
その時に成就する何か
なのだろうか
 
 
 
 
   明日になってみなければ
 
 
その頃は
付き合う女性がいないことは
軽視される気分であった
街角にたたずむダサイ男女にも
嫉妬を覚えて
そのことにまた落ち込む自分が惨めだった
 
毎日たくさんの友だちに囲まれる連中は
時にまぶしく見えたのはなぜだったのか
 
黄昏時の賑わいから
あちらこちらと店じまいする時間を迎えて
私は私自身の時間をたっぷりと取ってこられたことを
遠い彼方の雲に感謝している
私のように人間の関係
その距離感にずれをもっていたり
無器用であったりするものは
そこから逃げ出すのではなく
かえってそこのところで目を見開き
そのことに時間を浪費することがあってもいいのではないか
おかげで私はたくさんのことを学んだような気がして
少なくとも内面には
たっぷりの情緒がたゆたっているという思いがしている
たとえそれが錯覚であったとしても
誰からもそれは咎められない
 
もてるものがもてることによって
たくさんの時間をそれに費やさねばならなかった時
たくさんの友だちに囲まれるものがその誰に対しても
同じく労を尽くさねばならなかった時
私は挫折や孤立や疎外感に
それこそ全身で立ち向かっていたというだけだ
プラスマイナスの何があるのかも
本当は分からないことなのだけれども
簡単にプラスやマイナスで表せない
それが生きることだと
この頃は思われて
 
格差、貧困、疎外、差別、孤立、挫折
いろいろな壁に囲まれて
たしかに息絶え絶えのことがあるのだろうが
そして私は今でもそこを行ったり来たりなのだが
そんなものがきみの行為の理由にはならない
ことを知っている
その上で君に言っておきたいことは
人生には姿形の他に
色合いとか味わいとか調べや匂いや薫りなどとか
一生かかっても尽くせぬ何かがあるってことだ
現実の表層に傷ついたくらいで閉じるな
目に見える隣人の表情を読み取れずに怯えるな
幸福や不幸を単純な色で色分けするな
誰もが存在の価値を欲する形で認められているわけではない
明日生きられないか
それは明日になってみなければ分からない
 
 
 
 
   或る渇望
 
 
 あの世の人のように生きている。このさわがしい世の中に生きている。
 先日、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」を読んで、それは本当に不意にでもあり、またそれは不覚でもあるのだが、涙したばかりだった。何に対して、そのように心が震える体験が起きたのか。それは一口では言えない。
 「言えない」と言えば、ぼくが感動を覚えた箇所とそのこととは深く通ずるところがある。主人公の友だちが、あるのっぴきならない事情で悩んでいる。その深く落ち込んでいる友だちに、主人公は、「君が本当にやりたいことは何か、俺に聞かせてくれ」と尋ねる。それを聞いて友だちはどっと涙をあふれさせ、「俺は国の家族のもとに帰りたい」と答える。
 友だちにさえ言えない「言葉」というものはある。もしかすると肉親にも恋人にも言えない言葉というものはある。
 「俺は国の家族のもとに帰りたい」という言葉は、そういう類のものだ。徹底的に弱虫になって、はじめて口に出来る言葉だ。主人公はそれを聞いて、せめて一生に一度でも徹底的な弱虫になるのもいいものだと考える。「大したものだ!えらいのもだ!」とも思う。
 何が大したもので、えらいものなのか。そのことが理解できなければ、作者の人間理解の仕方が分からないということになる。そして理解できるとすれば、読者はここで涙する以外に方法はない。
 ぼくらはここで「人間の真」を見せられる。よい人間か悪い人間かを超越して、ここにたしかに人間が存在することの手応えを感じさせられる。涙の中のぬくもりに触れると言ってもいい。
 主人公も作者も、主人公の友だちの「真の声」を聞き、深く感動する。人間に触れている手応えが感じられたからだ。人間が人間に共振する、共鳴する。そういう状況がそこに生じている。自分の中の「人間」の存在が証明され、確証され、それにまた感銘する。魂が揺さぶられたはずなのだ。
 不思議なことに、ぼくたちは日常生活する中で、このような深いところで「孤独」が溶解してゆく体験を持つことはできない。にこやかな挨拶の中で、「孤独」はかえって背後に押し込まれて「孤独」そのものが虫の息であるというような状態、息絶え絶えの状態に落ち込んでいる。それはもう存在しないかの如くに日常の中では影をひそめる。そうして誰もがそうであることによって、ぼくたちは人と人との間で、人間らしさに出会えず、人間らしさを表すことが出来ずに日々をつなぎ合わせて生きている。
 ヘンリー・ミラーの「渇望」、それが何であるかをぼくは理解できる気がする。「北回帰線」という小説の中の猥雑な、食い、飲み、女の尻を追いかけるでたらめといってもいいような生活は、その「渇望」ゆえのものなのだ。そしてその「渇望」は、深い孤独感に発し、その孤独はまた「人間の真」への渇望に発している。
 ぼくは、島尾敏雄を思い出す。島尾は自分の渇望を癒すために、夫人を狂気の淵に追いつめていった。島尾が求めていたものも、「人間の真」の手触りだ。剥き出しの「真」。それを表出する人間を求めた。それは島尾自身が「真」において孤独だったからだ。
 ヘンリー・ミラーにも島尾にも、不思議にも、そうした絶対の「孤独」感を、自然の中に融解させて癒す方途が取られなかった。ここには現代的な「精神」の、一つの型を見てとることが出来るように思う。あるいは少なくともぼくたち日本人にとって、日本の精神史の一つの変遷、そしてたどり着いた場所を暗示しているように思われる。簡単に言えば、欧米型に変換してきたということだ。自分を「無私」にして、「天」とか「自然」とかで呼び習わしているものに自分を溶解させることが不可能になりつつある、そのことである。それがよいことか悪いことかは分からないが、そうなりつつあり、そうなりつつあるからには果てまで突き進まなければ、この問題を解くことは出来ない。しばらくは日本人もまた、個を試される軌道の中に入り込んだと考えていい。見えない明かり、暗がりの中にさまざまな精神のドラマがさまざまな事件を呼び寄せて継続していくことだろう。それは非人間的な様相を見せながら、極めて人間的な事情によるものであるとぼくは考える。
 
 
 
 
   果報
 
 
八月の終わり近く
水稲に穂の色淡く黄色み
四囲の雑草は負けず
いよいよ青く地を覆う
 
九月の終わり近く
黄金色の波田圃一面にうねる
四囲の雑草刈り取られ
畦道に白鷺の姿あり
 
見事な性の成就
実りの秋
風寒しみ陽は傾く
天地の創造天地の合作
これより宴の時儀式の時
また食すときの果報を思う
 
 
 
 
   膨張する思念空間の途次
 
 
テレビに見る政治はゲームである
入れ替わり立ち替わりのキャラクターがミスを繰り返し
リセットして再スタートである
 
政治家は政治の世界に詳しい
ふつうの暮らしからは遠い
政治家は抽象的な生き物である
暮らしも抽象的だが具象だと錯覚する
だから政治家の想像力は貧しいものとなる
ふつうの生活者のように貧しい
 
政治家はふつうの生活者のふつうの生活について知らない
体験がない しかも想像も出来ない
想像は暮らしの貧しさに届かない
架空の舞台で架空の国民を前にして
政治家は架空の世界の多忙を極める
ふつうの生活者は
そんな政治家の悲劇が想像できず
批判すれば何とかなると思っている
 
齟齬がおきている
みんなみんな遠くなっちまった
膨張する宇宙のように
思念空間が果てしなく膨張して
同じ角度の比率のままに
遠く遠く離れていっていることに気づかない
この先に待っているのは思念の孤立で
発達のもたらす帰結である
 
 
 
 
   消える記憶
 
 
もうすぐ沈んでいく
波打ち際で記憶は
夕陽のように震えて痙攣する
 
電源を落とされた蛍光管の光が
すうーっと消え入るようなそれは
人間にとって
いや 愛するものどうしの間にあって
愛惜すべきものなのだろうか
 
記憶はあなたにとって生きた証であり
無数に込められたメッセージである
となれば
送るものにも送られるものにも
留めておきたいところのものだ
 
にもかかわらず
闇に沈み堆積し
あるいは収縮して精霊となり
異次元へと入り込んでいく
おそらく
 
ということは
事実は痕跡を留めず残されもしないということだ
それはなぜか
私たちは「無常」の先に
それを考えねばならないのではないのか
 
 
宵の砂浜にひとり
ウミガメが瞳を濡らし始めている
驟雨のように
壊れたシャワーのように
次から次へと濡れながら
カメは私たちの眼球を砂の中に産み落としている
砂にまみれた私たちの瞳が見るのである
消えたもの、闇、見えないもの、を
そのために
記憶という記憶は
姿を消して逝くのだ
 
 
 
 
   巨樹のこと
 
 
 植物は天然自然と調和していると思うけれども、それはしかし予定調和というものとは少し違って感じられる。巨樹を見たときに、道端の草木とは異なる圧倒的な生への執着というものを感じさせられてしまう。動物界では例えば蟻と象の大きさの違いのようで、けれども象を見て巨樹に対するような生の執着、激しい主張というものは感じることが出来ない。
 裸木の枝の張り具合を見ているのが私は好きで、それは外気と一本の樹木との戦いであり、対話であり、妥協であるとも思いなしてきた。樹木は謙虚で、「この枝先をもう少し伸ばさせてもらいますよ」とでもいうように、ちょっとずつちょっとずつ空隙を埋めていくように枝先を伸ばすものでもあろうかと考える。そして見事な網の目のように空間に枝を張って、独特の末広がりで円錐状の形態に整える。
 巨樹といえば、細い枝先の空間に自身を押し広げていく強さというよりも、何といっても地表近くの幹の太さに圧倒される。無理矢理に空間を押し広げる「意志」のようなものを想定しない限り、あそこまでの成長というものを理解できないような気がする。もっというと、赦された成長を越えているとさえ思う。今の地球は恐竜が生きた時代とは違う。樹木だって、当時の巨木化はほとんど諦めねばならない状況におかれているはずなのだと思う。いったい、そうした巨樹がどうしてあれほどに巨樹であらねばならないかが私には分からない。植物の生命と考えたときに、経済的な大きさということであれば人間の背丈よりも低い草木であってさしつかえない。さしあたって種の保存が達成されればよいのであろう。無駄な大きさは意味を持たない。人間としての私はそう思うのだ。
 あるいは植物といえども時間という縦軸に種の維持を図る目的、目標を持つばかりではなく、一つの個性として一本の草木が己を横に拡張していこうとする意志も隠し持っているのだろうか。もしそうだとすればそれはなんのためなのだろうか。
 見事という他はないその幹の太さに、私はほんの少しだが、その樹木の「悪意」のようなものを感じないでもない。それは本来的に生命の持つ「悪意」のようなものをさしていうのであるが、それは個体である限り、他を顧みない性格を持つものだろうと思うからである。理由もなく意味もなく、ただひたすら自身を拡幅する衝動に従うほかないその姿を、私は賞賛だけで眺めるわけにはいかない。普段に生きるものどうしの戦いがあるのであろう。生きるということには、植物の次元からしてそうした戦いの存在を否定することは出来ない。巨樹を見てやたらに賞賛し、神木のように崇めることは、どうも私個人には出来ないことのように思われる。
 
 
 
 
   ある返信
 
 
 まだ、食えなくはない。最悪に自己破産しても、どうやら生き延びることについては昔程にはきついというわけでもなさそうなのである。
 そうしてまだ食ってはいるが、どうにも日々の暮らしにおいて、「慰め」られることに不足しているようなのだ。例えば通勤の車窓から山並みはすぐ傍にひらけて見えるのだが、また田園から続いて農山村の生活の匂いも嗅ぐことの出来る場所に暮らしているのではあるが、いっこうにぼくは「慰ま」ないでいる。
 猫の額程の団地のぼくの家の庭に咲く、可憐な草花も、ただそこにあるというだけで少しもぼくの「頑な」を溶かしてくれはしないのだ。人々もまた、時に声をかけ、笑顔さえ降り注いでくれるときがないではないのだが、ぼくは能面のような仕草でいちいちに答えているに過ぎないのである。言ってみれば僕自身の中で飽和した愛が、身体の壁に遮られて流れ出していかない。そうしてぼくの思いはやたらに膨張を遂げて、ぼく自身を内側から危うくさせてしまいそうなのだ。
 気が狂いそうな飽和を抑えて、ぼくはやっと毎日の生活行為を、つまりはみ出さないように慎重に、そう、綱渡りでもするようにおそるおそる先へと進んでいく。何もない。何も状況が変わらない。そして数年を費やしてきた。
 ぼくはとっくの昔に気づいているのである。この先、何が待ち受けているか、だんだんと道は先細りになり、そして不意にかき消えてしまう、それだけの未来なのだと。このことは時折ぼくを脅かす。逃げようかと思う。いや、逃げろという声がどこからともなく聞こえてくる。もう一方で、ここから逃げるなというぼく自身の声も聞こえる。それはぼくがぼくであることを放棄しないための、ぼくの叫びのようでもあるのだ。
 ぼくは、何食わぬ顔でぼくを演じる。貧しさをぼく自身の肉体と関係とに封じ込め、貧しさから逃れようとする振りをする。ああ、けれども、ぼくがぼくである限りにおいて、ぼくはぼくを離れることは出来ぬ。ぼくとは、畢竟この「姿」であるかもしれないのだ。 一つの逃避の形態であるのか、時折ぼくは考えることをしてみる。世の中の倣いに従って、政治のこと経済のこと文学のこと教育のこと、等々。それは生業ではないのだから、思いつきを言葉に翻訳するみたいなことなのだが、そしてそこにもたぶんぼくは「慰め」を求めるのだろうと思うが、格別の開放感を味わえているわけでもない。それはもう一つの癖という以外にはなく、もしかすると頼りないその癖は、闇の底の方でぼくを支えるものになっているかもしれないのである。それは、分からない。分かりたいわけでもない。ただそう考えなければつじつまが合わない、そんなところでそう思うことにしているに過ぎないことだ。生きているというそのこと以上に、呻吟や苦悩を己に課すことをぼくはしたくない。ぼくは、はじめから這い上がることなどを勘定には入れていない。なるがままに、やがて追いつめられて窒息を余儀なくされるならば、それはそれで、そそくさと、消えていくだけのことだと、ぼくよ、腹を括っていいのか。