言葉の森の断想  09.4.21
 
 
冠せられた言葉の森の中で
冠せられた言葉の行為に明け暮れている
冠せられた言葉としてのきみとぼくは
永遠に閉じこめられている
辞書のなかを
抜け出せない
 
辞書の中には
「笑う」もあり「泣く」もある
「暗い」も「明るい」もあり
「富裕」もあれば「貧困」もある
「享楽」もあれば「惨劇」もある
 
辞書の中身を
テレビが映し出す ある日
 
オリンピックの招致の歓迎に
東京都知事と首相とが同席し
委員たちには贅を尽くした料理の数々がもてなされた
 
そこは昨年の暮れに写された青テント村からそう遠くなく
今をどう生きていくかにあえぐと人たちと
至近距離にある場所だ
言ってみれば冠せられた東京という言葉の下に
並列におかれた現在である
 
 
ところで
ぼくが気にかけているところは
言葉が的確に対象に冠せられているかどうか
ばかりになっているようなのだ
はっきり言って
意味が欠けている
 
辞書のように「笑い」
辞書のように「泣き」
暗く沈んだときも明るいときも辞書のようであり
辞書のように貧しく
辞書のように平穏である
 
 
 
 
   砥石 09.4.29
 
 
遠慮深い日々を
さらに遠慮深く生きている
とりあえず
死ぬまでの辛抱だと
吐き出すたばこの煙のように
無意識に向かっての気流に乗せる
 
酒という知恵を放棄して
酔いと無頼が日常であると
強がって見せたかった
たぶん
半分は為しえて
後の半分で自らを締め付けてしまった
研ぎ澄まされる狂気と凶器を
鈍いものへと逆研磨する日常
気配を気づかれずに
繰りかえす大衆
つまり私たちの
砥石の如く
すり減っていく生活
 
 
 
 
   風、吹かんとぞす 09.5.8
 
 
友だちがたくさんいるということ
お金が潤沢であるということ
これらについては
ついに縁遠いものだったという他はない
求めなかったから
ではない
求めることに必死にはなり得なかったからだ
 
それがなぜなのかは
分からないようでいて分かっている
また分かっているようで分からないとも言える
それを考えるのは面倒なので
ついには縁がなかったということにする
 
こうして
関係にも貨幣にも貧困をもたらし
そういう日々を過ごしてきたのであるが
今ならば多少の強がりをもって
これが私なんだと言う
そこからは無数の「私」が見えてきて
さて
さても生きるとは
奇っ怪なことよのう
笑われてしまう
 
風、吹かんとぞす
 
 
 
 
 
 
 
 
   心的に負性を抱えた同類への箴言 09. 9. 4
 
 
 大事なことは飯が食える未来に現在を繋げることだ。それさえぼくたちのようなものにとっては困難なことだけれども、その方策は皆無ということではない。今現在、覚束ないことであるとしても、今日を継続すれば安定を勝ち取れると予想されるならば、石にかじりついてでも今日を継続するのがいい。また、それをより確実なものとするためには、現在にいっそうの時間と労力を積み上げることが大切になる。ただでさえ起伏のあるこの世界で、この一年間だけは夢中に過ごせ。一年をやり通してなお現状のままであれば、次の一年もまた夢中に過ごせ。そうして今その見通しが少しも立たないのであれば、足早にそこから立ち去っていい。自分が寄って立つべき場所を探し求めるがいい。そしてたどり着いた先で、我慢と忍耐と少しの犠牲を払わねばならないことは、どこにあっても確実なことといわなければならない。
 
 
 
 
   ある願望 09. 9.21
 
 
どこまで行っても
いつまでたっても
世間の風は同じ言葉を告げて来る
 
それはそうかもしれないが
蟻よりは少しは広い暮らしを通して
いったい何がましなことがあろうか
 
人間らしい足枷を穿いたまんま
どこまで逃げ切られるものか
制限時間は迫っているし
 
「あなたとはちがうんです」
けっ、
不快がすべての体表の体毛をそよがせる
 
なんだよ
こんなことがあっていいのか
説明責任を果たせよ
 
無責任な世界だ
太陽も大洋も遮る緑地も
一切が信じるに足りない
 
ふざけんじゃねえよ
とコギャルたちの
根拠のないコギャルな苛立ちの
傘に紛れて
それを素敵に詩的に
飾れたら
 
 
 
 
   詩の無 無の詩 09. 9.21
 
 
目を閉じるとか眠るとか
頬杖つくとか伏せるとか
立ってベルトを締めてまた坐り
煙を吐いて放屁して
テレビをつけて腕組んで
ウェルテルは半世紀を長らえた
 
そんなもんでしょ
「成るようになる」という言葉も日本語にはありました
社会には
成るようにして成った人ばかりがひしめいていて
善も拡げ悪も拡げ
それだって目くじらたてて騒ぐこともない
 
『こうして書いている時だけは調子がいいや、ちょっ』
 
考えて考えて
書いたことがどんなにくだらなくても
頭が疲れるところまで考え
そして書ききると
適度な疲れと麻痺とが生じ
一段落ついた平静さが錯覚されます
残るものはそれだけ
後はなんにも
なーんにも
ありませんぜ 旦那
これを半世紀も続けてきたというのですから
これはこれでひどく立派な
無ではありませんか
 
 
 
 
 
   ギャンブル考 09.10.23
 
 
 ギャンブルに身を持ち崩す。まことしやかに囁かれるが、なに、持ち崩すべき「身」など端から持ち合わせてはいない。境涯に押し流されて、わずかに無価値や無意味という一点でこの世に己をつなぎ止めている人々を称して、私は「一般大衆」という呼称を付けて呼んでみたい願望を持っているのであるが、ギャンブラーたちもその一人にあげておきたいと私は思う。
 ギャンブルは金銭の浪費。時間の浪費。ひいては人生の浪費と見まごうかも知れないが、そんなことはけしてない。既成の価値について挫折し、懐疑し、ギャンブルを通じて価値を探索し彷徨しているのだと見ることもできる。ただ内在的な挫折と懐疑とが外部からはうかがい知れないというだけのことだ。そのことは他を顧みるとすぐに直感できる。
 
 
 
 
   個と希求  09.10.14
 
 
なつかしい未明の村落
ほの暗い森や林を抜けて
魂はただ
「ここは俺の住む場所ではない」
と 呪術の奥処へと彷徨う
 
あれからあてどなく異境の地に旅を続けた
たぶん幾たびかの安堵と
あるいは寂寞とを繰り返し
ふと気がつけばあの少年の日の
資質の悲しさに突き当たっている
 
旅の後に何が残ったか
なーんにも
そういう資質の旅を続けてきたに違いない
 
ぼくでさえ人間の端くれの一人に相違ないから
人間世界の約束事にどっぷりと首まで浸って
見破られない程度のそつなさを身につけて
息絶え絶えに歩き続けてきてはみたものだ
誰にも見えない異和が
ぼくのすべてを覆い尽くして
今ではぼくそのものが異和と化している
おそらく
〔個〕として融和していく以外に
溶けて一体となる場所は
この宇宙の果てのいずこにもない
 
 
 
 
 
   人知れず  09.10.23
 
 
 一笑に付されて結構だが、「魂を腐らせない」その思い一つで生きてきた。おかげで生活は窮屈で苦しいものになってしまったかも知れないが、ぼくはそういう選択の仕方をしてきた。そのことは誇示すべきことでも、卑下すべきことでもないと思っている。ただぼくは人知れず、それを大切にしてきたのだ。今はそれだけを言っておこう。
 
 
 
 
   放浪  09.10.26
 
 
 自分を世の中に生かそうとして、その方途が見つからない。あらゆる世の人々のために、苦しみを取り除き、幸いに近づけたいという願いがこのままでは無に帰してしまうという思い。誰からも義務づけられていることではない、また要請されているわけでもないようなこんな思いをなぜ自分は抱き続けているかということもよく分からない。
 いつも一人で考え続けてきた。考え続けてきて果たされず、遂に終わりかという思いと、そう考えること自体が迷妄だったのではないかという思いと、心は千々に引き裂かれているような気もする。
 この路ダメ。あの路ダメ。と、ついにはこの世で己の身を処することは不可能に思える。ここもダメ。あそこもダメ。唯一ダメでないのは、ダメかどうかを考えないで、つまり無意識に生きているその時を除いてないのだと思える。そういう時は、ある。
 欲望や興味関心に導かれ、ひたすらに我を失っている、その時。ああそれは眠る樹木のようであり、飢えた獣の剥き出しの牙のようでもあり、のどかな風景に溶け込んだ昆虫の無表情のようでもある。そんな時だけは、救済されているのに違いない。
 厄介なのは我が意識なのだ。ともすればそれが自分自身を生きがたいところへと導いてきた感がある。しかし同時に、それはぼく自身を表すものでもあると言えるのだ。なに、自分の生活の不如意などたかが知れていよう。それよりも、この先の不明が不明のままであり続けることの方が、よほど身に応えることに違いないことなのだ。
 何ものにもなりたくない思いと、何ものかでありたい願望との相反する二つを抱えて、せめて死ぬまで矛盾をはらんだまま生きたいと、ただそれだけを思う。
 
 
 
 
   雨の日に  09.10.26
 
 
汚れた食器を洗っていると
生きることは
食器の汚れのように自分が汚れることだと思った
スポンジにもぐり込んだ汚れは
水に濯がれて排水口に流れ落ちていく
人間もまた食器のようにどうにかして
日々の汚れを落としているのではあろうが
洗い桶に収められて さて
明日はどんな生き様が待ち受けているのであろうか
やはり汚れてくたくたになって
今日と同じ日を過ごすことになるのではあるまいか
そう思うと
割れた食器のようにどこかで何かに打ちあたり
掃かれてゴミ箱に捨てられる運命も
悪くはないかなと 思う
 
 
 
 
   迷妄 09.10.26
 
 
 宇宙は膨張し続けているという。おそらくは真空が拡張し続けているということなのだろうと思う。地球をはじめとする星々はいうまでもなく物質である。とすれば、宇宙の創生は、物質内部の爆発からはじまると想像されてくる。真空から物質が生成されると考えるよりは、そう考える方が合理的だ。そう考えると、この宇宙の外は物質で固められているのではないかと予想されるが、しかしそうした考えは、たいてい平板で、使い物にならないものだと思われる。次元や時間の観念を導入すれば、選択肢は想像を超えて広がり、素人の想像は受け付けてくれそうにない。もちろん、それらの観念もまた、原始的で、宗教的な迷妄の範疇に存在することははっきりしている。
 
 
 
 
   ことばの旅路  09.11.2
 
 
ことばが歩いている
体を少し揺すりながら 物憂げに
動物の目をして立ち止まったり
遠くに視線を送ったりしながら
 
椅子があると腰をかけたりする
老いているのに
食べ物をほおばったり
飲み物を紙コップからすすったり
ことばは
男であったり
女であったりする
華やいだ服でつつんだり
古びた雑巾のようであったり
 
わたしには目の前を歩くことばたちの
ことばとしての意味もその機能さえもが
すっかり分からない
すると
歩いていることばたちは
不可解が
不可解のままに蠢いているようなものだ
 
ことばたちは誰一人ことばとして完成していたり
完結したりしているものはない
未遂のままのように
あるいはことば以前のままのように振る舞っているだけだ
哀れで可哀想な彷徨の中で
言い淀み
断片的な冗舌をひけらかし
ほんの一言の啓示も告げずに立ち去っていく
 
ことばはけれども
肉体を触れあうように愛したり愛されたがっている
ことばは飢渇し求め合っているのだ
そのために絡み合うような場面を試みたりしているが
幻想の中をのたうっているだけなのかも知れない
 
私たちはどうしてことばなのであるかが分からない
どうしてことばでなければならないのかが分からない
私たちは未明の時代の石器を扱うほどに
ことばを自在に扱うことができていない
私たちはただ
ことばとして
ことばの旅路の途次にある
そう言ってみるほかにいいようがない
 
 
 
 
   「あなた」とは「ことば」である 09.11.5
 
 
「ことば」は動き
「ことば」は歩いて肉体を運び
つまり「ことば」は「生活」を送っていて
それがどのように「ことば」と関わっているということになるのか
私には分からないのだが ただ
私たちのすべての活動には「ことば」が貼り付いている
 
水を飲む行為は「ことば」のするものではないが
分かちがたく「ことば」は「水を飲む」のだ
おそらく「ことば」のない行為は
無意識にあってさえ不可能事だ
 
「あなた」とは「ことば」である
あなたは「ことば」を内容とした器である
時に異国語であり
時にはまた「ことば」の外にある「ことば」である
「ことば」のない「あなた」は存在し得ない
だから「あなた」とは「ことば」なのである
 
「ことば」は拡張し続けてきた
拡張し続けて充足することがない
停滞することもできない
「ことば」はただ
どこからか来て どこかへと向かうのだ
そしてもしかすると
「私たち」はただ従属するものにすぎない
もちろん「ことば」への到達など覚束ない
流れていくものを流れていく
その一瞬の途次に
立ち会っているだけに過ぎない
のではないか
 
 
 
 
   啄木の手 09.11.6
 
 
 「じっと手を」見た啄木が、その後どうしたのかは分からない。たぶん、何もできなかったのだろうし、しなかったのだろうと思う。というよりも、もはや貧困な生活に対して何の対処も講じられずに、また何の名案も浮かばずに、万策尽き、その揚げ句に「じっと手を」見るほか何もできなかったというところが実際であったのだろう。それは、貧しさの実体である。考えたり行動に移して何とか成るくらいであったら、それは本当の意味で「貧しい」とは言えない。支援や救済の組織、制度があれば、「じっと手を」見る前に高々と手を挙げればいいだけのことだ。それをするのに、躊躇はいらない。
 貧しさやいろいろな不如意の現実から打ちのめされて、啄木の歌に共感を持った人は少なからずいることだろう。現代にあっても「じっと手を」見るかどうかは別にして、相似した心情を経験する人はいるに違いない。
 身辺挙措の中から啄木は手を見る仕草を掬いとって表現して見せたが、概念としては絶望感や放心を表すものであろう。そこには「無」だけしか残ってはいない。
 人間の心はしかしよくできたもので、たとえばその「放心」をいつまでも留めるものではない。次の瞬間には寝そべって、天井の木目を眺める間につい眠りに陥ってしまうかも知れない。そして目が覚めれば腹が減ったことに気づくことがあるかも知れない。なにはさて、次には起きて水を飲んで空腹を凌ごうとするに違いない。
 何とかして困難を切り抜ける。「凌ぐ」にはそういう意味合いがある。生命に不可分の衝動といっていいだろうか。それに促されて、背中を押されて、私たちは生きる生き物だという他はない。そう思えば、今がどんなに辛くても、そういう「自分」に全てを任せて、そうして他に信じられるものは何もないのだし、そんな「自分」を信じればいいのだと思える。「あて」など、やがてその「自分」が捜し出してくるに違いないのだ。
 
 
 
 
   ノン コミュニケーション 09.11.6
 
 
湯船に入って貧弱な下半身を眺めたことがある
ついでに人真似で両の掌を眺めた
 
湯船は昔人を埋葬するときに使った棺桶のようで
文句なく寂しさを漂わせるものだ
 
木枯らしが外を吹く中で
風呂場の中の湯気もおとなしく控えめなことだ
それでもその湯気を生じる原因となる湯加減は
闇や静寂や熱を失った細胞の冷たさに比べ
それはそれは
比較できないほどのうま味にさえ感じられた
 
人はそういう瞬間を誰にも伝えられない
それは伝える必要がない
たぶん
そういう体験をフィルターにして他者を見ることができるから
あるいは他者を考えるときに
そうした経験の集積として背景に置くことができるから
 
沈黙を深くしていくときにはそういう理由があり
そのはてに
人は寡黙や軽みや笑いの間をいったり来たりする
 
 
 
 
   感覚、無感覚そしてことば 09.11.12
 
 
 視覚から喚起された感情、たとえば「花」を見て瞬時に意識の奥処に湧き起こるモヤモヤを、私は否認したがる傾向がある。理由はよく分からない。「モヤモヤ」の部分までは本当のような気がするが、その後のとってつけたような「きれい」とか「かわいい」とかの、いってしまえば疑感情めいたものがいやなのだ。私はそれが信用できない。もっと言うと、感情にくっつくようにして「きれい」とか「かわいい」とかの「ことば」の立ち上がってくることがいやでたまらない。
 何かを感じながら、ということは即ことばを伴ってしまうから、私はそれを否定して、つまりは無感覚、無感情を装うことに似てしまう。
 小さい頃、私はとてもくすぐったがりやだった。脇や足裏を触られると激しく反応した。ことばとしては「くすぐったい」ということばがあって、ある時私は「くすぐったい」とはどういうことかを究明しようと考えた。くすぐられたときに逃れようとするのではなく、自分からくすぐられているその状態のど真ん中に入り込んでいく、そういう姿勢で「くすぐった」さを受け止めようとしたのだ。すると、しだいにくすぐったさはくすぐったさと感じないようになっていった。兄妹にくすぐられても、それまでの大げさに笑って身を捩る反応はなくなっていった。「くすぐったくないの?」と問われれば、「いや、くすぐったいよ」と応えた。事実、くすぐったさは感じていた。ただ意識のうちで、『これがくすぐったいということだ』と考えていると、くすぐったさは軽減されてしまうことを知ったのだ。少し変態じみているが、私は自分からくすぐったさを味わおうとしていた。それは結果としてくすぐったさの軽減を伴った。
 私は四季の変わり目の山野を見て、時折、電気信号のような感覚の明滅を感じることがある。衝撃を伴った反応としてそれを感じることもある。それを、ひとは「美しい」と表現するのだと思うが、私には「美しい」という表現がどうにもぴんと来ない。その景物を前にして、ほんの一瞬だが私の感覚の振り子は大きく振れ、そしてそれは言葉に表現など出来ないある種の激しい反応だと言ってみる他はない。それが「美しい」から、そうした反応が私の内側に起こったのかどうかなどは私には分からないことだ。誇張して言えば、私は美しい景観など見たことがない。ただ五感が感応してしまう景観に出合うことがあるというところまでは、本当のこととして認めてもよいと考えている。
 
 
 
 
   自己流 09.11.13
 
 
子に降り注ぐまなざし薄く
親に孝する情もままならなかった
後ろめたい情けなさによって
かろうじて
思いの数は引けをとらない
毎日のように
出会わぬ日はなかったということになる
 
これが私流の関係の取り方というもので
理解せぬものは過ぎて通れ
きみもあるいはまたきみも
思いの中に終わっている
いや 強いられる疎遠な関係の次に
わたしはひとり
残像の中に立ち尽くしている
 
わたしはそれを自己流に
人間の関係の始まりのようなものと
見なしたいのだ
つまりそれがわたしなりの
形をとらない「心」の差し出し方だ
 
 
 
 
   無機 09.11.15
 
 
考えたことを生きてきたら
ありふれて埋没していた
 
これはありきたりの山野の風景のように
気にもとめないのに誰かを生かすことに荷担している
もちろん「今」の時代に交錯する電波を
不可視のままに無視すればの話だが
 
反逆は幻想の領域で電波に抗う
そこでだけは埋没せぬように
常に発生の始原に立ち返り
本質の論議で立ち向かわなければならない
ずーっと先の未来の始まりの
始まりが始まるために
 
とは思うにしても
生きることも考えることも
たそがれのように心細く
無機の中に漂っている心地がする
 
 
 
 
   ある断片 09.11.15
 
 
 はじかれた飛沫の影の一粒となり、いくつもの影の一粒となり、宙空に飛び散って解体と収斂との繰り返しに彷徨った。時間は延びるものではなく、小さな波紋のように横様に広がり、消失するものであった。日をめくり、日はめくられ、不連続がただ続いた。教訓もなく黙示もない。日は、ただ朝日が昇ることによって訪れる何かであった。
 人間の社会の約束事の一つ一つが、つまらぬ単なる刑期の引き延ばしのようにも思われていた。とても簡単な希求を、わざと複雑な課題に誇張して、あるいはいっそう分散化して困難の度を増す過程を辿っているとすら見えるものであった。
 わたしはどこかに所属を求めていたはずなのに、触れるものすべてへの所属を拒絶して歩んだ。忍耐が足りなかったと言えばよいのか。わたしはただ、全てがどうにも我慢ならなかったのだ。
 
 性急に、信じられる「ことば」をのみ探し歩いてきたに違いない。信じられる「ことば」とは何か。それは状況や場所などによって変わることのないことばといっていい。また、思いこみや手垢の付いた概念とか、そういった類とは無縁のことばなのだ。つまり、「ことば」から取り残されて、現実に置き去りされる一切を含めたものを、わたしは信じたいと考えていた。
 はたしてそれが生きることに何の助けがあるものかわたしには分からない。かえって倫理のやせ細りのように、生きにくさを助長するものであったかも知れないのだ。けれども全ての欲求を封印して、なお心に残る唯一の、それは希求に外ならなかったのだ。他の全てのことを棒に振ってもなお、飢渇は埋めねばならなかった。
 
 
 
 
   遺思 09.11.26
 
 
なんにもない
ただ鏡の向こうで「老い」を刻んでいるだけだ
沈んだ列の間に「ことば」を飲み込み
一歩一歩
掟に従って「進んで」いる
 
善か悪かではないし
人間か鬼畜か羊かでもない
 
これがわたしの
「人生」からする問いかけへの
おそらくは流儀であり
こたえでもある
 
何ももたなくていい
ただ一切が過ぎていく
宇宙からは
美しい電気信号の明滅のように映じて
一瞬の閃光を放って
たぶんわたしたちの誰もが美しい
もしも宇宙視線と呼べるものがあるとすれば
 
何度でも現実に戻って暮らす
失業を恐れて割の合わない職にもしがみつく
居酒屋でささやかに憂さを晴らす
ギャンブルに半ば依存する
どうだっていいさ
資質に動かされる自分に
しなやかに応じられたらそれでいい
逃げるあても
隠れるあてもありはしない
夢なんてもう無くていい
どんなに遡っても
挫折に耐えられない生き物なんて皆無だったんだ
それどころか
用意された挫折に挑み続けるものが
生き物と呼ばれる所以なんだ
だから
異数の世界で
わたしはきっと暗さの極みに輝いている
約束された資質が
さらさらと
大気に散っていく
それだけの こと
 
 
 
 
   結石のように 09.12.2
 
 
故郷でも都会でも
不可解と懐疑の色彩を掬い
掬った色彩に翻弄されて過ぎた
それは
たいしたことではない
ただそれだけのことと
唾を飲み込んでもよい
 
結石のように
このいのちが
小さな小さな塊を生み出そうとしている
あるかなしかの
生み出されればすぐに
雲のように消えてしまうかもしれないようなもの
ああ それは今にも出かかっているのだが
愛着のような
悔恨のような
いや そうではなくて
わたしの全体を構成する本質が凝縮して
落ちて輝くのか黒ずむのか分からないもの
小さな小さな真実
 
見なければならないもの
見ておきたいもの
 
希もののいっさいと引き換えたもの
置き換えて惜しまぬことを証してくれるもの
それは落ちてくるか
手に取るように明らかになるか
 
何にも残らないが
残らぬものの不在や空隙のうちに落ちて
一瞬でも光芒を放つような
そんなものが誰にでも起こりうると
わたしはそんな夢や信を
持ちこたえて
わたしの目にも見せ
多くの人たちにも気づくことがあるようにと願うのだが
復活劇にも似て
たいそう頼りない
取るに足りない
迷走の
一コマに過ぎないのかも知れない
 
だがしかしさて
生きることの意味はそのようにも変容されてさしつかえないと
わたしは思う
 
 
 
 
   「革命」 09.12.2
 
 
粒子のように小さなつぶてかもしれない
乱気流かどうかも見通せぬ中を
これもあてずっぽうに
不規則な軌跡を辿ってきた
 
約束事の世界だというが
もともと約束事に馴染まない
「いのち」なのだ
 
なじまないもの
ぜんぶ
おこないの意味
おこないの価値
口の開閉で飛び出すことば
愛とか善悪とかのしばり
平和とか幸福とかの概念
指定された場所への移動
こうしたことが当たり前だと思う感覚
そしてこれらの全てを備えた「すがた」「かたち」に
馴染まない
小さなつぶて
 
そのようなものとして出会えたら
もしかしてわたしの「革命」は事を終える
 
 
 
 
   無題(自分の人生について) 09.12.6
 
 
 以前、海で泳いだことがある。砂浜から見ると、少し離れたところにある旗を立てたブイまでは泳げそうな気がして、泳ぐともなくそちらに向かって泳ぎはじめた。潮の流れが逆だったのか、つい目と鼻の先と思えたそのブイになかなか辿り着けない。しだいに泳ぎの本気度は増して、ブイも間近に漂っているのが視界に大写しになったが、その頃にはほとんど水を掻くことができなくなっていた。ふと溺れることの恐怖に襲われた。犬かきのような、なりふりかまわぬ体でやっとブイに辿り着いたときには、すっかり息も上がっていた。
 砂浜に戻るにも、少し手前からほとんど手足を動かすことができないくらいになって、半分溺れながらそれでも足裏が砂底を捉えて砂浜にたどり着くことができた。
 人生においてもぼくは何度も溺れかけてきた。たまたま溺死しなかったのは、少しの運と、周囲の人たちの有言無言の支援があったからだと思える。このごろ、そろそろ溺死してもいい頃かなと思うことがある。年齢からいっても関係から見ても、しがみつくほどの熱意が失われてきたような気がする。遺伝子の核に燃えている命の火柱、そういうものがもともと太いものではなかった、そう思っている。
 いまこの世界には「希望の言葉」もあれば、「絶望の言葉」もたしかにあり、「正しい言葉」や「誤った言葉」も巷にあふれてもいます。でもどうだろうか、少なくともぼくにはいずれも縁遠い言葉という気がします。自分のものにはなり得ない言葉、ぼくには似つかわしくない言葉ではないだろうかと思うのです。ぼくはただ樹木のようにしっかりと大地に根を下ろして立つものでありたかったのです。がしかし、それは我が身に叶わぬ願いだったのかも知れない。ちょうどブイまでいけそうだと思ったのと同じに、ここでも判断が甘かったのでしょう。
 たったこれだけのドラマでした。言えそうなのはこれだけです。後は誰かが言っているし、これからも誰かが言ってくれるでしょう。そうしていっさいは過ぎていくのです。ああ、ぼくは真の傍観者だったのかも知れません。他人の生きる姿を真似て、そうして生きてきたに過ぎないのです。心から望んで成し遂げたことなど、ほんの少ししかありませんでした。
 
 
 
 
   言葉へ 09.12.8
 
 
つるし柿のように
どこかの民家の軒下で
かろうじて霜から身を防いでいる
 
通勤途次では
切るような朝日の澄み渡るひかり
白茶けた田圃の向こうに身を寄せ合う
数軒の農家の庭には
枝に取り残された朱色の柿がしがみついていて
もっと露骨な無常を演出している
 
わたしはつるされた干し柿で
誰にも気にかけられない枝の柿たちは
不幸な人々の象徴だとでも
わたしは思いたいのか
より不幸なものを探して安堵しようとする
そのくせが抜けない
 
この閑静な一地方の田園の風景のどこに
いったい幸福のつるべに満ちる
水脈が想像できるだろうか
たぶん幸福とか不幸とかの色分けが必要なのではなくて
透明な継続の流れに身を任せる
先人の時間への同化に憧れるべきなのだ
 
つまり
はどめを失った欲望
それは車窓から投げ捨てられたゴミとなって
すでにこののどかな田園風景のあちこちに
植物や大地に隠されながら散在している
村人は気づかなかったのだ
雨風で大地に作り替えられるものと
そうでないものとがあることを
欲望ははどめがかかるものとそうでないものとがあり
ゴミははどめのない欲望の
原型を露わにしている
 
つまり
どこにも抜け出せるわけがない
横道から山道を辿って
むかし開かれた空間を実感した
迷路のようなそれがない
 
つまり
どうしたらいい
 
わたしはもう
言葉を生涯とするほかに
どんな希望も持てないでいる
 
 
 
 
   背中のない男 09.12.10
 
 
とめどなく荷を負うばかりの男の背中から
とめどなく剥がれ落ちることば
術を失い 男の背中は語ることができない
 
男の背中は荷でいっぱいになる
たくさん積み過ぎたのに
過食症のように実感は薄れている
あるいは自分の背に対して神経が回らない
男は背中を喪失する
 
埋もれた背中に分け入って
ことばを探り出そうとする者はいない
少年たちの目にも
半透明になった男たちの背が映し出され
やがて男たちから背中が消えていくだろう
沈黙は
うすら淋しい無言に変わる
 
よろよろと影に沈んでいく男たちの背には
しかし 優しい野生の温もりが漂う
 
 
 
 
   無題(教育に関連して) 09.12.15
 
 
 ペットとして人気の子犬や子猫を三十数匹、一つの部屋で世話をするとしたらどういうことになるか。まず、少しして千差万別の表情の違いに気づくだろう。表情は推理と想像をかき立てるが、それは瞬時にかき消えるものでもある。表情は立ち止まらないものであると同時に、いくつもが入れ替わり立ち替わり視野を塞いでいくからだ。あるものは縦横無尽に走り回り、あるものは部屋の隅におとなしくしている。体ごとぶつけ合ってじゃれあうものたちもいる。一日、二日、三日と日を刻めば、おそらく全体の様相も変化をしていくだろう。餌の与えられ方しだいで、たぶん少しずつ秩序が形成されていく。
 保育園とか幼稚園、小学校の低学年あたりは、このような様相の延長上に想像して大きくイメージが狂うことはないと思える。言語によるコミュニケーションをあまり過大評価しなければ、まあ似たり寄ったりの世界である。
 先生はそこでは世話係である。危ない遊びを止めたり、ケンカを止めたり、引っ込み思案に手を貸してみんなとの遊びに誘ったりする。もちろん変化の絶えない全てのものの表情に心配り目配りをしながらだ。そんな仕事、やってみなければ分からないし、やればそれだけで充分に自分の心情的な作用がかつてない体験をしたと実感するはずだ。もっと言うと、普通人間が一生かかって経験する心的な摩擦の体験を、縦にではなく横に経験するものだと言ってもいい。深化ではない。ただ横に広がるばかりだから、そこからすぐに意味や価値を収斂して取りだしてみせることは難しい。
 軽く、そして不用意に「心的な摩擦」ということばを使ってみたが、それは目の前の命の群れの活動そのものを見て、いったい人間的なルール、約束事にそれらの命は馴致させねばならないものだろうかという問答が内心で引き起こされることから、そういう表現をしてみただけだ。
 一つの表情、一つの個性を追っていくだけで、宇宙の成り立ちから理解せねばならない思いがぼくの血管をつまらせた。まあこれは少し格好をつけて言っているに過ぎないが、一つの表情や個性の背後、背景の茫漠とした広がりに、ぼくは恐れをなした。それが三十から四十に近い表情と個性の群れである。それらと毎日対峙して耐えられるわけがない。その上理想とか完璧とかにはほど遠い社会に、それらの命を適応させるべくあれこれ講じて努めあげなければならない仕事なんて、今考えてもぞっとする。
 そんなこんなで先生たちは毎日考えさせられ、感じさせられることを受け止める商売なのだ。それが重荷にならないはずがない。
 当面、科学の発達の恩恵を享受する層と疎外される層とが一触即発の形で推移していくのだろう。いずれにせよどんな国のどんな社会にせよ、教育はグローバル化された世界を再生産することに荷担するに違いないから、富裕と貧困の対立は激化する一方にちがいない。子どもたちの背景は複雑さを増していくのに、子どもたちはいつだって子どものままでいるに過ぎない。世界を占めている大人の時間が加速するとき、その時間から疎外される子どもたちはいっせいに奇声を発するに違いない。たぶん満たされた表情の、一瞬先の唐突さの中で。もしかするとそれは世界的な奇声の前触れなのかも知れない。
 
 
 
 
   独白 09.12.18
 
 
わたしが貧乏なのは金を得る努力を惜しんだからで
生活の不如意は致し方ない気がしている
豊かさと引き換えに何か貴重なものを手に入れたということも
たぶん ない
わたしは自分勝手をしたくて
そうして自分勝手をしてきたのだから
これからもこの貧しさを耐えていく以外に仕方がない
 
わたしはいまある姿形の線にそって影を彫り進めてきた
そうしてその姿形で死へと越えていこうとしている
それから死はおもむろに
わたしの姿形の残像を砂浜に跡形なく朽ちさせるだろう
恐れや悲しみや無念さが
果たして思い通りに消えていくものかどうかは分からない
だが確実にわたしに自由が訪れることは間違いない
その時一つの役割から解放されると考えれば
よいのか よくはないのか・・・
 
わたしの中に芽生えた刺は
世間の中でわたしを刺のように振る舞わせた
どこにあっても自他にひっかき傷をつくり
獣のような温もりで交わり合うことから遠ざけてきた
 
見えるのは風
投げ捨てたいのは心に突き刺さる刺としてのことば
生きることは刺を抜き取るためのオペ
書くことは
だから 内臓からことばを摘出し
沈黙に憩うための悲しい
仕種
 
 
 
 
   どこまでが神話の時代か 09.12.25
 
 
 自分は何だって問えば、魚類を経て植物にまで遡り、さらに粘菌類のような単細胞の原始的生物にまで遡って考えてしまいますね。進化の衣をはぎ取ってしまえば、要はそれだけのものだと思えます。それで、脳の働きの初源もそこに見えてきますものね。脳が存在しなくても、脳の働きの元になるものは見えてくるようです。進化はその働きをしだいに特化し、脳という特定の器官を作り上げてきたということができる。けれどもやっていることの大元は、もともとの始まりに出尽くしていたと言えばいえるのではないでしょうか。単細胞が人間の脳の働きにあたるものを細胞それ自体の中に併せ持っている。これは相当驚きでもあるし、しかしよくよく考えてみれば、それは当然だろうなと思える節もあります。全くの無から有が生じることはないですものね。生命そのものにしても、構成要素となる元素がなかったら誕生しなかったはずですし。
 生命の一つの目標は何かっていえば、極論すれば「継続」でしょう。あるいはそこに「拡大」とか「拡張」とかを含めて考えてもいい。人間のように平和だとか愛だとか平等だとかは全然考えてはいない。それはそれですっきりしていますね。しかし、人間的なそうした考えや思いというものもまた、生命自体の持つ「継続」の意志の枠内にすっぽりと覆われるものであるのかも知れません。でも、「継続」や個体及び種の「拡張」ばかりだと無味乾燥ですね。
 他の生物にも「遊び」はあるかも知れないのですが、人間のそれは特に際だって感じられます。人間という種は、「遊び」のために生まれたのではないかと思うほどです。こんなにたくさんの「遊び」を創出し、実践している生き物は他にはないでしょう。一番の無駄っていえば無駄なんだけど、ぼくなんかはここに初めて人間らしさを感じるし、「継続」や「拡張」とは違った意味合いの生命体の出現ではないかって思います。霊長類、ほ乳類の中でもそこは人間がずば抜けているところではないでしょうか。
 「考える」ことは「生命」のひとつの戦略として考えることはできるけれども、人間はそれ以上のことを「考える」ようになってしまいましたね。「遊び」にも通じることですが、時間的「継続」とか空間的「拡張」とか「生命」の存続それ自体を目標とはしない、新しい次元を獲得してしまった、あるいは獲得しつつあるように思います。
 
 生命誕生の数十億年前に遡り、これを数十億年の未来に向かって考えますと、もちろん当てにはならないことですが少しずつですが予測はできてくるのではないでしょうか。これをコンピュータの演算処理にかけたみたいなことにすると、未来の予測はもっと近似的なものになる可能性はあるのかも知れません。まあこれから何百年、何千年のうちにはそういう計算も試行されているかも知れないです。その時に、今がどうあればよいか、という問いに対する答えが、現在よりも少しははっきりしてくるのではないかなという気がします。そしたらまあ、依然として変わらぬところは変わらないのかもしれませんが、神話的な錯誤からは抜け出す契機が見つかるのかも知れないです。
 どこまでが神話の時代か。まだ早計には決められない。
 
 
 
 
   日の中 10.1.5
 
 
掘り返された稲株の田圃が一面霜に覆われ
農道を走る車窓から見える 七つ森 泉ヶ岳 船形山の重層が
朝の光に真っ白に浮かんでいる
ここは氷河期の縮小
無機に隠れた生き物たちは
しかし春にはしっかりと春を演出するために
そこかしこに顔を出すに違いない
 
固く閉ざされた冬の日の
その冬めいた景色の絶対
私は囲炉裏を無くし
炉端を失って
悲しくエンジンの音を響かせる一人になり
そして
雪の下にきらりと凶器を隠した
農道を走る数台の車のうちの一台となり
前後の車間距離に神経を波立たせる
 
  生涯を棒に振ったか振らなかったか
  みんなの中の一人か
  それとも異次元をさ迷う狂人の一人に過ぎないか
  不運であるか幸運であるか
  
  いつどんなふうに死んでいけばいい
  そしてそれは赦されるか
 
視覚野にはいつもの冬の情景が控えているだけなのに
ループする思考は確かに寒波の到来を感知している
思考には何の手立てもなく
ただ虫たちのように蟄居して過ごすほかにない
 
 
 
 
   又も迎えて 10.1.12
 
 
「今年」という「年」を又も迎えて
こころ急きが器の中に奔騰する
身体は修行僧の日々
寡黙にしかしきっぱりと挨拶を交わしてきた
 
現実が均質な半透明の幕になる
関係はフリーズしたまま動かない
痛んだ虫歯の根っこを指で引き抜くように
荒療治が必要なんだとわかっている
けれども
けれども今日も己が身体の姿に宿を借りる
こころ姿はこころ姿にとどまれない
傷を負っている
生きることは韜晦の日々
それから
愛も憎悪も生理の底にしまわれた
 
結局 こんな
傷だらけの不純な輩が世の中にはいっぱいいて
猫かぶりをしたまま生きほうけている
魑魅魍魎の現世を
きれいな言葉で彩ろうとする
つい「今年」を迎えた昨日まで
そんなものなかった
 
 
 
 
   無為の行為 10.1.12
 
 
 昨夜は数世代前のパソコンにワープロソフトをインストールしようとしたが、CDが読みとれなくてできなかった。CDドライブのどこがどう悪くて読みとれなかったものか、今日、カバーをはずしてドライブの接続を確認しようと思う。
 仮にうまく動くようになったとして、そしてスムーズにワープロソルトをインストールできたとして、たぶんこのパソコンをそんなには使わない。これに比べたら新式のものが2台もあるからだ。
 どうして眠っていたこのパソコンを使える程度のものに復旧させようとするのか、自分でもその動機がよくわからない。仕事を終えての帰宅後に、有り余る時間を何とか埋めようとしたものか、修復に「快」を感じるからなのか。
 どうしたって情感を呼び出せないそんな趣味的無償に没頭するほかに、その日のぼくはしたいことがなにもなかった。また何も意図しない無為でいることもできなかった。ああ、今のこの表出さえ、それと被さる行為にすぎないといえる。
 
 
 
 
   自分づくりのための覚え書き
     ― あるいは矜持 ― 10.1.14
 
 
「あいつらは俺たちを人間扱いしていない」
場外券売場のこの施設の警備隊長さんは
時々ぼくを前にしてこんな愚痴をこぼす
「たしかに」
そのたびにぼくは相づちを打ってみせる
同じような気持ちになることが何回かあったからだ
 
警備さんや清掃さんやぼくのような施設管理は
いわゆる契約社員といって
低賃金で単純作業をこなすいくらでも交換可能な労働力
使い捨ての労働力と考えていい
この施設の経営主体にとっては
下請けの業者を介したその末端に位置する人々である
自然日々の中での扱いは
機械の歯車ほどにも気にかけられることのない存在だ
 
そんなことはしかしぼくにとっては承知といえば承知
既知といえば既知のことだ
経営のシステムとそれになれきった人たちとの構成が
こういう現状をそこかしこで作り上げているに違いないのだ
そしてそちらにいることとこちらにいることでは
雲泥の違いを生じている
愚痴をこぼし嘆いていても仕方がない
今以上の条件に就職できる可能性がない以上
牡蛎が岩にへばりつくように
こんな職場に耐えていかなければならない
 
それにしても
たった一人の施設管理のこの職にぼくがきた当時
担当部署の違いもあって隊長さんたちもよそよそしかった
そしてたった一人の施設管理のぼくは
なんだかアウェーに放り込まれた気分でいた
おかれた場所でそう感じることはあると思うし
おかれた場所でそう感じている人がいることに気づかない場合もある
 
いやだと思ったらいつでもやめられる
ぼくらには飢える自由がある
何ものにも屈せずに敗れていく権利だってある
このためにぼくは大きな代償を支払ったが
今も輝かしい先駆者の自負を捨ててはいない
気取って言わせてもらえば
「名もなき偉大なる人への道」がそれだ
そのためにぼくはできるだけ遠回りをする
マイナスをかき集め
ぼくの中でそれはマイナスでないものに転化される
 
ぼくはそれをこっそりと
こっそりと
成し遂げる
 
 
 
 
   滴(言霊) 10.2.17
 
 
まるで宇宙の万物がよってたかって
よってたかって何か
何か[死になさい]といじめでもしているような
 
電話口の声の
声のか細さの
声の苦しげな息づかいの
声の哀れげに沈んだ調子の
沈んだ色合いの
疲労の色合いの
 
ああそれはぼくの手の届かない
何処かに行こうとする
命の底からする
「あいさつ」のようにも思えたのだ
 
老いるということはかくなるものか
覚悟の象が群を離れ静かに谷間に横たわる
手負いの豹が茂みの中に身を潜める
本当は気配を隠したいのに
荒れる呼吸の苦しさを抑えることができない
たぶん
押し出されることと迎えられることとは
同等の意味合いで
言葉以前の言葉が目の前におかれる
 
私たちはこのとき一瞬ではあるが
殉教の誘いの中におかれる
自然はなんと過酷なものかと
私は
思う
 
 
 
 
   削った先へ 10.3.22
 
 
削る
身を削る
しのぎを削る
削り方を誤っていのちを削る
鋭く尖って凶器になる
出会いに傷つける
出会いに傷つく
若者はみんな身を削る
削らなければ生き残れない
高度な社会が
さらに削ることを要求しているから
 
高度な社会はそれで何とか成り立っていくだろうが
若者たちはその前に疲弊してしまう
 
あるいは空虚という瓦礫の下に若者を生き埋めにして
高度な社会がさらに高度化を目指してどうなる
やがて人間が生きない高度な社会が
廃墟のように取り残されないとも限らない
たぶんそこまではエスカレータ式に往き
そこから先が問題になる
 
こんな時 どう生きたらいいかなんて誰にも分からない
分かった風なことを言われても
分かった風に生きられるとは限らないのだし
ただ混乱が畳みかけてきて
萎縮に向かうか信心に向かうかしか無くなるに違いない
 
ひとまず身体に撤退してみる
概念形成の初期に遡ってみる
さらに身体組織と器官の発生にまで引きこもり
さてそこから一歩ずつ現在の方に向かって歩み出す
我が身一つはどうやって維持したっていいんだし
君のなすべきことは無限大に広がる
 
 
 
 
   飢渇 10.4.3
 
 
手には負えない心と
手には負えない五感とを持って
いつかこの旅は理由を探す旅となった
感受の奥に潜む不信の大理石
ことばを辿りながらそこまでは行き着いた
 
生き物としての生命の核に
「不承」の文字が刻まれていて
暗闇の安息から
胎児の緊張した心音が聞こえてくる
海は
わたしを宿すべきではなかった
 
   関係の奥に横たわる溝
   埋められない齟齬
   すべての核に欠如したものを
   ひとびとは「愛」と呼びならわしている
 
『愛されたかった』
宿命がそう告げてくるとき
わたしもまた本当は
愛することの喜びに
疑念を抱かずに浸りたかった
飢渇が飢渇を深めていき
どこか見知らぬ亀裂に落ち込んで
這い上がれない
 
 
 
 
   砂のことば 10.4.3
 
 
いつどこから辿りついたものか
砂粒ほどのことばの浜辺に佇んでいる
日は暮れかかり
冷たさを感じさせる風がそよぎはじめた
 
気力を無くして
両の手で弄んでいる
こぼれ落ちる「愛」と呼んだ人間的な感情が
小さく 小さく
さらさらと音を立てる
いたずらに時が無機的に進行していく
男の目に
探し物はいつまでも見当たらない
 
砂のことばには
詩もなければ故郷もない
男はただ反復を繰り返し
繰り返すことに自分を解放するほか
すべはないように思われていた
 
 
 
 
    10.4.3
 
 
ひとつ
流れの欲するが如く欲し
五感に殉じてうろたえよ
 
ひとつ
すべてを手放せ
内在する世界で虫や植物を生きることさえできる
 
ひとつ
「私」とは
「私たちの世界」から成るものである
 
 
 
 
   ことばの世界の彼方で 10.4.4
 
 
はながさいています
 
それは事実であり
現実であり
あるいは妄想であります
 
私という人間は
その現場を前にして
あるいはその現場に遭遇し
とたんに
絶句し
立ち止まり
立ち尽くし
目眩を覚え
もっと大げさにいうと震撼してしまいます
 
戦慄を覚えるといってもいいそれは何なのだろう
まるで顕微鏡に覗かれるアメーバの
不可解に触れたときの触手の動きのように
不随意の緊張と縮退とで
その時私は方途を無くしている
 
 
この世界が私の望んでもいないことで成り立っている
ことが私には不思議だ
望んでいないことがすべてだといってもよい
はながうつくしい
だとか
かおりがよい
とか感じる前に
花があるというそのことを前にして
私は永久に退いてしまうことを実感する
すると私は病として立ち去るほかにすべがない
どこか流れる次元を異にして
透明に交差して
まるで何事もなかったかのように
私は私という場所に置き去りにされる
もう
視野の前に涙することなどけしてないのだが
ことばの世界の彼方で
病というドラマは深く静に進行している
 
 
 
 
   辺境にて 10.4.4
 
 
経済が取り沙汰されるのは富の不平等によるせいだが
花見酒の席の同じ時間と空間に
無数の概念の死骸がウィルスのように浮かんでいる
 
貧困の問題は本当はその気になれば
解消できる問題にすぎないと言える
問題は世界がその気にならないということ
その原因は擦り切れた概念であり
摩耗するほどに行使された結果であるということだ
そのために精神の階層は分断され
世界はさながら巨大な精神病院の様相を呈している
あちこちで喚き声がしているかと思えば
緘黙もいる
やっと成り立っている共同体の上辺で
何をどう言おうが
中身は「うわのそら」に支配されている
 
文明は確かにやり過ぎた
そして今もやり過ぎている
生身の私たちを取り残して
一気に未来へと駆け込もうとしている
軽業師のように飛び石を越えていけるものだけがついていけるのだが
それは人間を捨てることのように
恥ずかしいことだと思われている
 
 
 
 
   己れの歌 10.4.6
 
 
「どこに行こうか」
「どこにも行くあてはないさ」
小さいときからこうだった
どこまでもまばゆい天空の下で
あるいはたそがれの風がそよぐ河原の小石を踏んで
いつだって行くあてはなかったさ
 
勝ち負けのない押しくらまんじゅうに嫌気がさして
境界の外に足を踏み出して見せた
それからたぶん行きつ戻りつして
そのことに固執して日を送ってきた
風景も風もよそよそしく
それ以上にぼく自身がすべてによそよそしく振る舞ったはずだ
視野にはいつも稜線が固定し
望むものは彼方に取り残されたままだ
 
ああそれからはもう
受け取ったもののすべてを返済するために
日をくだいてきて
こころには何にも残らない
ことが
完結の意味かと思う
 
 
 
 
   場外券売り場に勤務して 10.4.15
 
 
勇んで川辺に走り釣り糸を垂れた少年の日のように
場外券売り場に足を運ぶ年金生活者は
金を減らし時間を減らし歳月を減らしながら
川面のウキを凝視するように
飽きることなく大型液晶画面に食い入っている
ように見える
 
ためになることなど何一つ無いのに
この無為には逆らえない
いやこの無為以上に生命にとっての喜びはないという気がする
ただ子どもの頃よりも
支払うべき何かが少しだけ増えている
 
観覧する客たちとの無言の連帯感や安堵感
迎えの日が刻々と近づいているとしても
大当たりがあり知り人らとの語らいがあり
これを手放すことはできない
予想外の大物を釣り上げた少年の日のその日は
田んぼの細い畦道を飛んで帰って土間に駆け込んだ
「母さん、釣れた、釣れた」
 
いま 路は黄昏れて迷い
見つからない探し物を虚空に探している
どこかにそれは変わらず存在しているに違いないとも思え
いや どこにも存在しないのだとも思い
ただ心の中のそれが逃げ水となって
自分に許さないのだという気もしている
 
 
 
 
   佐藤家家訓 10.4.20
 
 
その一
飯喰って寝て起きて働くこと
 
その二
特になし
委細かまわず 自由
但し 自己責任にて世間に相渉ること
 
その三 やや詳細に
 
性格はどうでもよし
金もうけしようがしまいが勝手
善悪省略
肉親の情にほだされる必要なし
他に優れても劣ってもかまわず
弱さ 結構
甘え 結構
埋没 全然
みんなに迷惑をかける 仕方ない
ひとの迷惑を抱えて帳消し
 
父は過去の経験や感情を
ずるずるとはらわたを引きずるように引きずって生きている
ただそれだけの個人である
年を経るごとに引きずるものも増え
重みも増し
歩けなくなったときに立ち止まるのだろう
それから粘って
一歩また一歩と
これすなわち 煩悩
これすなわち 世間
父は世間
 
なんてね
そもそもこんなこころの体裁の整え
装幀の仕方が問題さ 合掌
 
その四 蛇足
家訓など踏みにじって行け