児童期が投げかけるもの @
              2014/06/04
 6月に入って、学校や児童館での子どもたちの様子にちょっとした変化がみられる。どことなく言動が荒れて見える。
 学校では主に6年生の学習の支援を行っている。が、児童館となると1年生から3年生までの宿題と遊びとを見ることになっている。
 だから学校と児童館で荒れた様子が見えるということは、1年生に始まり6年生までを対象としてとらえているということになる。
 荒れているということはどういうことかというと、言動が乱暴で、ときに先生や職員のいうことを聞かないとか反発するとか、相手によっては舐めた態度を取るとかということである。6年生の男子では友だちとのふざけにも、プロレスごっこに始まって過熱気味になり、ほとんどけんかの様相を呈することもある。児童館での上級生である3年生は、館内を走り回ったり、やってはダメということをわざとやって職員を困らせることが、ややエスカレートしてきたかなと感じる。もちろん友だち間の諍いもやや激しさを増してきているように感じられる。
 
 ぼく自身は教員時代の経験もあり、いつでもどこにでもあったありふれた状況であるというように見えている。学校の管理職が問題視したり、児童館の職員が注意の声を荒げることも当たり前のことに思えないでもない。多少以前と異なった点があるとすれば、規範がゆるみ、規制が緩やかになった点に求められそうに思える。そのために、子どもたちの表現が、抑圧が薄くなった分だけ過激に露出していると見える。だが、少し穿った見方をすれば、表面的には規制はソフトな装いにはなっているものの、内側では真綿で首を絞めるような陰湿で底意地の悪い規制の力が働いていないとは言い切れないかもしれない。そのために、子どもたちは苦し紛れの精一杯の抵抗をいま露わにし出した、のかもしれない。
 
 もう少し勉強してみないとはっきりとは言えないが、集団行動の上で厳しく規制を敷かれる児童期においては、子どもはすんなりとその状況が受け入れられずに、子どもによっては反発、反抗を表にしながらしだいに馴致していくもののように思われる。もっと性格的に厳しさを持った子どもは、その抵抗は後々まで尾を引きずる場合もあるに違いない。
 ぼくにはこの時期の子どもの振るまいとしては、根源的なところで根拠のある振る舞いなのだろうと思われてならない。大人的には困ったものだという振る舞いでしかないが、子ども的には、何か根源的なところで「自分」を発現せずには済まない時期に当たっているという気がする。
 血縁者の間で関係づけられ、あるいは自らを関係づけたその事が、非血縁者で組まれた集団の中でどう自分を位置づけ関係づけるべきかに困惑した結果として、「自分」をアピールする、あるいは開放を訴える行為なのではあるまいか。
 もうひとつ、この児童期を人間社会の歴史に対応づけて考えるとすると、前古代から古代にかかっての時期に相当すると思われる。これは血縁集団から非血縁集団、部族社会の成立の時期にかかっている。こうした社会構成の移行期が、何の抵抗も諍いもなく成立していったとは考えられない。統一部族社会の成立までを考えると、当然、数千年の単位を要する出来事であったことだろう。その間、どれだけの諍いや抗争が繰り返されたのか計り知れない。子どもたちにとっても、幼年期から児童期へのこの移行の時期は大きな地殻変動の時期と言えるかもしれない。そうすんなりと、大人たちの望むような振る舞い方はできないのかもしれない。逆に、注意、監督する大人たちは、いずれ部族社会、統一部族社会を支配する側の視線に立って秩序と規律とを保ちたいと考えるに違いない。
 
 これらのことを合わせ考えても、個を社会人として育成する期間が平坦なものであり得るはずがないだろうとぼくは思う。そして実際にいろいろの問題が発生することは避けられないし、発生していいのだ。何となれば、ぼくが眼にする限りにおいては、子どもたちの巻き起こす騒動は所詮子どもが巻き起こすまでのもので、到底未来に持ち越す態のものではないと判断できるからだ。仮にどんなに誇張してとらえてみても、子どもたちの言動が反社会を貫くほどに根拠があるとは思えない。ぼくらの時代のガキ大将の多くも、成人後にはほとんどがごく普通の社会人として生活している。ぼくの目には、だからいま問題視されるような子どもたちが、ごく普通の大人の姿に重なって見える。大人たちもそんな子ども時代を通過してきたし、そしていまわたしたちの目の前の大人へと成長してきている。
 ぼくは子どもたちにあまり細かいことは言う気になれない。また、目にしている限りでの子どもたちの粗暴さなど、軽く受け止めることができると思っている。彼らのそれは、まるでアメーバの触手か何かのように、何かを探りつつの行為である。子ども自身、本当はどこまでやっていいかを知っている。つい度を超す場合もあるには違いないが、それもまたほとんどの場合は分かっていながらやっていることだと言える。
 
 ぼくはけがや命に関わりそうなときはきつく注意したり叱ったりするだろうが、ほとんどの場合は大目に見て、子どもたちが自分を開放するそれらの行為を、なるべくやらせておこうと考えている。それは自分の判断であり、よいかどうかとはまた別の次元だ。
 細かく子どもを叱ったり注意したりする先生や職員がいるが、それがダメだという考えはぼくはしていない。そう考えてそうしている人々が一方にいて、またぼくらのようにあまり細かいことで小言を言うことのない大人たちがいる。それでいいのだと思っている。いろいろな大人たちがいて、子どもはそういう大人を見て自分なりに判断していく、その事が大事なことなのだと思う。子どもはそうして勉強し、成長していくのではないだろうか。
 このことについてはぼく自身まだ勉強不足であるし、まだ納得できるところまで考え切れてはいない。子どもの発達過程と、それから対応づけられる歴史的な時期とそれぞれについての理解を深めながら、もう少しまとまった見解が述べられるところまでこのことについて追求していきたいと思っている。今日はこれで終わる。
 
 
児童期が投げかけるもの A
              2014/06/08
 解剖学者の三木茂夫は、ヒトの胎児期は、受胎後の初めから小豆粒大の人型ができてそれが徐々に大きくなる過程を歩むのではなく、感覚器官の形成なども含め、あたかも魚類、両生類、爬虫類、哺乳類という脊椎動物の進化の歴史を辿るように成長すると述べている(「胎児の世界」などの三木茂夫の著書による)。言うまでもなくそれは人間の胎児の身体的、そして器官的な成長を述べたものだが、この胎児期におけるヒトの成長はこれにとどまるものではない。乳児期までをも含めて、心や精神と呼ばれる心的な成長もまたこの乳胎児期に発生し、人間の心的世界の基礎が形づくられるという(吉本隆明の「心的現象論」などの著作による)。
 とても大まかなつかみ方になるが、以上のようなことから考えてみれば、人間の胎児期そして乳児期というものの中で、過去の生物界の歴史、人類の歴史などが反芻され、個に埋め込まれていく過程がイメージされる。それはヒトとしての個人が個人として、この世界に生きていくための準備期間のようにも思われるし、こういう過程を踏んで人間は徐々に人間らしさの形成に向かい、やがて心的にと身体的にと成長を遂げて独立して人生を歩むようになるのだとも考えられる。
 これは他の動物一般と比較すると異常なほどに遅延した成長だと感じられる。馬や牛などの出産をテレビで映し出した映像を見ることがあるが、そこでは1時間も経たずにそれらの新生児たちは四肢を踏ん張って立ち上がることができる。そして時間を待たずに歩行さえできるようになる。人間の赤ちゃんの場合は立ち上がるのにさえ1年あまりを要する。その間、母親や代理の養育者に全てを依存する。このことをさらに考えると、他の動物一般に比べての成長の遅延が意味するものは、出生前後のこの期に莫大な遺産の継承が心的にも身体的にも執行されるために、これほどの長い年月を要することになると理解するほか無いように思える。逆に言えば人間の胎児や赤ちゃんは、この時期に他の動物一般に比べて多くの有形無形の過去からの伝達を吸収・消化していることになると思える。視点を変えて言えば、母や代理母に生命の維持という点で絶対的と言えるほどの依存をしながら、その背景において相当なことを経験しているはずだということになると思う。それだけ、人間は特殊なものであり、人間の完成にあたっては紆余曲折と言っていいほどの回路を辿る必要があるのかもしれない。本当はこれを考えると驚嘆せずにはいられないし、人間の乳胎児期、幼児期を経る子どもたちに対して、すごいことを経験してきていると、つい崇高なものを見る目つきに変わってしまう。
 ところで、人間社会において個人が1人前の成人と認められるのはこの後、幼児期、児童期(学童期)、思春期を経た後である。乳胎児期を過ぎて、なお多くの段階と時間とを要することになっている。動物的には人間の児童期にあたるあたりで実質的な一人歩きを強制されるように思われるが、人間社会ではさらにそれまでに蓄積されてきた技術や知識の習得、共同体や集団、組織内部の規範やルールといったものなどの習得が強制されてくる。それらを獲得しなければ、人間社会の内部では1人前とされないレールが敷かれている。
 人間と他の生物との大きな違いは何かといえば、やはり脳の発達に帰結すると考えられる。共同社会を構成する生物は人間以外にも少なからずいるが、人間が地球上に巨大な帝国と言ってもいいそれを築くようになったのは、異常に発達した脳を所有できたからである。そう考えると、人間の様々な理由による発達の遅延も、つまるところはその脳の異常な発達に関係していると思われる。
 しかしながら、他の生物には見られない大きな脳を持って産み落とされたとしても「アヴェロンの野生児」の例に見られるように、その後の成長過程の周囲に人間的なもの(社会性)が皆無だと、動物生として成長はしても人間社会に復帰することはほとんど困難になる。まず言語の獲得が不可能だということは、逆に胎児期も含めて、さらに生後の乳幼児期における母親や母親の代理者との日常的な接触の期間が、いかに大事かということが分かる。
 
 おそらく、本当は4〜5才の幼児期までに基本的な人間としての条件は母やその周囲から刷り込まれ、受容し、完備されるに違いない。身体的にはもちろん、心的な面についても言語の獲得から、それを行使してのコミュニケーションもおおむね可能にすることが出来るようになっているといっていい。あとは、歴史の黎明期から現在に至るまでの積み重ねてきたもののうちから、今日の社会に生存するための必要なルール、規範、技術、知識などを習得すればよい。
 血縁集団だけで成り立っていた時代までは、ヒトは幼児期を通過するだけでその集団の一員としての条件を獲得できたに違いない。もちろん部族社会、統一部族社会の形成、成立以後もその生涯のほとんどを血縁集団の中で過ごせた時代は同様であった。血縁内部に通用する代々の習俗、習慣を身につけ、その延長に生活して何ら支障はなかったと思われる。
 特に近代国家成立後、そして現代、ヒトは非血縁集団の中で生活する部分が圧倒的に増加してきている。そうした集団内部にあって、新たな規制や義務がヒトには付加され、課せられるようになった。具体的には健全なる市民の育成などの名目で、技術や知識、身体能力の向上などが求められ、また社会生活上のルール、道徳などの修得を課せられる。
 児童期とはまさにそうした今日的な必要から設けられた発達段階だという気がする。
 
 
児童期が投げかけるもの B
              2014/06/15
 
 児童期が奇妙なのはその時期が学校制度(そうでないばあいも、知識、技術の学習)と結びつけられ、それがエディプス的な性の発現期と二重になっていることだ。どの発達心理学の研究者も、この時期を技術と知識を学習する時期、もっといえばエディプス的な性の発現力を抑制しても、禁欲的な技術、知識、規律を学習する時期という認識では一致している。だがほんとうにこの時期に性的な発現力を規範により抑圧し、禁欲的な学習にむかう時期なのかどうか、解明しようとしていない。だいいちに学習という範疇は、げんみつにいえば心身のいずれの発達段階にも入ってこない。ただ学校制度、学習の範疇が、すでに存在したために児童期という区分がもうけられたのか、あるいは狩猟民の時代から人間は、この時期になると両親とか共同体が幼児期になった子どもを獲物を捕らえるために連れていくという習性があり、それが制度化されたのかどうか。またまったく技術、知識、規律の学習をこの幼年期の後半からあとにふりあてることには、身体生理としても心的な段階としても根拠がないものかどうか。従って教育制度とこみにふりあてられたという意味しかないものなのか。わたしたちはこれらの発達心理の研究者たちを越えて、もっと根底から解明してみなければならないとおもえる。
(吉本隆明『心的現象論―了解論―』
98 原了解以前(4) 試行68号)
 
ここでとりあえず提起できる疑問は、なぜヒト(人間)はかくも長い(2年間)完全な母親なしで存在できない要保護期をもって生まれるのか、そのために母親がもっているその時の水準の心的な世界を、容赦なく乳児のうちに転写されてしまうのか、それゆえにこそヒト(人間)だけが分裂病に典型的に象徴されるような心的な病をもたねばならないのか?こういうことだ。
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期をもたなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?こういう疑問だといっていい。
(前に同じ)
 
 登校拒否とか家庭内暴力とかいじめとか、そういうのは全部、児童期の延長線で起こっているわけです。なぜ起こるかということは、本質的には簡単なことです。性的発現の時期なのに学校はそれを全部抑圧・弾圧して、きちっとした規律とか知識とか技術とか道徳とかを学べというふうに、建て前上してあります。もう一ついけないことは、条件が重なりますけども、それについていけなければ劣等だということになるわけです。ついていって、知識を獲得し、技術を獲得し、道徳を獲得したら、優等生になるわけです。つぎに等級が決められます。ついていけなくて劣等生だといわれて、それ以上の学校にも行けないとか、それ以上劣等な成績だったらどうしようもないわけです。何もなくなっちゃうわけです。暴れる以外に方法はないですから、暴れるのです。学校で暴れるし、家でも暴れるし、もう方法はないのです。ついていけないことを劣等だって烙印を押されたら、もうやることはないでしょう。僕だってそういうふうにいわれたら、やることないですよ。やることないからガラスでも割ってやろうとおもいます。それは当たり前のことで、個々のケースは複雑でさまざまでしょうけど、基本的には単純なことです。つまり児童期の問題です。
(吉本隆明『心とは何か 心的現象論入門』弓立社より)
 
 つまり、教育の問題で核の問題ってのは何かというと、結局、幼児期を過ぎたあとは、発達心理学者は学童期といいます。学童期というのは一体何なのか。これはものすごく難しいんです。つまり、僕なんかが読んでる偉いヒトでいえば、ヘーゲルなんかはこの時期にぎゅうぎゅうな目に合わせて、道徳と学問技術をどんどん詰め込むのが大変重要なんだという見解を述べています。逆に、こんなところで無理して勉強させるのはおかしいという教育学者もいます。日本の進歩的な教育学者は、みんなそう云います。だけど、僕はそんないい加減なもんじゃないような気がします。ヘーゲルはいい加減じゃないにしても、じゃあ、逆に自由にしたらいいかというと、学童期というのはなんなのか。この時期に学問的・勉強的な技術と、道徳倫理を植えこむということは、はたして根本的にいって―根本的ということは胎児・乳児期を核とする人間の発達する心の発達の仕方です―に照らして妥当なのかどうかを、根底的に問い直さなければいけない問題だと思います。
 いい加減な進歩的な教育学者は、自由にしなくちゃいけないというなら、お前の子どもが学校に行きたいといったらどうするんだと聞かれたら困ってしまうでしょう。この時期に子どもは自由にしなきゃいけないと主張してて、自分の子どもはそうじゃなくて、ちゃんと受験勉強させてよいところに入れる、それじゃあいつまでたっても同じです。嘘云っちゃいけない。いい加減なこと云っちゃいけないんで、ヘーゲルみたいに徹底的なことを云うか、徹底的に「これは駄目なんだ。これはもう学童期というのは意味をなさないんだ」と云えるまでに徹底的にその問題を突き詰めていくかが重要だと思います。
 どうしてかと云いますと、思春期に入るまでの学童期といわれているところは、人間の心の仕組みでいえば、核と中間層のあり方、つまり核と中間層がどういうふうにその子どもの無意識の中にあるかということが相当噴出してくる時期です。この時期にぎゅうぎゅうな目に合わせることはいいのか、道徳を植えつけるのがいいのか、学問技術を植えつけるのがいいのかということは、根本的に問われなければなりません。なぜならば、学問技術という問題はたぶん中間層までいかないんで、表面層の問題のように思うんです。だからこの時期にやるのがいいことなのかどうかを根本的な意味で問わなきゃいけないと思われます。
(吉本隆明『人生とは何か』弓立社から)
 
 児童期(学童期)は、幼児期までに形成されてきた心的な核と中間層、これは無意識の領域に形成されるが、それが噴出し、表面化する時期だということが語られている。また「性的な発現」という言い方も、同じことを別な言葉で述べたものだと理解してよい。
 この時期を過ぎると、ヒトは意識的なコントロールによって、これを控えたり抑圧したり隠すことが出来るようになっていく。つまり表面層の問題になっていく。
 心的な核と中間層は、主に母親との関係、及び家族関係の中で形成されたものだ。児童期の言動にはそれが色濃く影を落としている。あるいは、この期の子どもたちの言動にはそれが反映されるものだと言うことができる。
 もうひとつ、児童期には、規律や道徳、知識、技術などを学習する時期であるという特徴がある。
 児童期のこの2つの特徴は相矛盾するものだと言うことができる。無意識の性的な発現ということで言えば、本能的にというか地をさらけ出してというか、つまり自由奔放に振る舞いたい欲求をもつのに、学校ではそれが許されない。逆に個人の振る舞いは大きく制限されて、集団的な規律に従って身を処するように強制される。比喩的な言い方をすれば、体はあっちに向いているのに、頭では別の方向に行かなければならないと考えているようなものだ。そしてこのことが子どもたちの心にとって、フラストレーションとなって溜まっていかないはずがない。
 視点を変えて言えば、現在の社会に参画し、社会に生きていくためには学校で学ぶことは必須となっている。それだけ社会は高度になってきたということでもある。学校は家庭と社会との橋渡しの役目を担っている。もちろんすでに幼児期において、子どもたちはほかの子どもたちと一緒に遊ぶ体験をしてきている。保育所や幼稚園といった、家族や親族や隣家とは異なる集団の中でルールに従った生活をすることも学んできた。だが、小学校においてこそ、本格的な集団生活、共同生活が課せられ、ある意味では直に国家意志というものに触れる機会となっている。また、現行3年生くらいに学校制度とは別に同姓の自主的な集団形成(ギャング)がなされる。これらの意味からも、この時期の子どもたちは本格的な「共同幻想(共同観念)(共同規範)」の発達段階に置かれるものだといえる。
 
 ここまで見てくると、ヒトには身体的と心的と二重の成長が課せられているように思える。これは印象から言えば、心的な成長のために身体的と心的と二重の成長が、それ自体で遅くそしてゆっくりと成長することが強いられているようだ。そしてこれは吉本が言外に言うように、文明の進展とともにヒトの成長の遅延に結びついている気がする。これが一体何を意味するのかは明白で、人間の成長が動物一般の自然な成長過程に置かれているのではなく、もはや人工的と言ってよい成長過程に組み込まれてしまっているということだ。あたかも家畜が成長をコントロールされるように、わたしたちはわたしたち自身の成長をコントロールすることになっているのではないだろうか。視点を変えていえば、一人歩きするための準備期間が長くとられてくるようになるということだ。これが人間の成長に伴う特徴的な可塑性と見るべきかどうかはまだよく分からないところだ。
 
 
児童期が投げかけるもの C
              2014/07/01
 学校では学習支援の立場で主に6年生を担当し、1年生の下校に合わせて午後に児童館に向かう。これが毎日の日課である。
 1年生と6年生とを見比べていると、まず気になることは、1年生の「素」をむき出しにしたような活発さにたいして、6年生はむしろ一見して覇気がない感じにこの目に映ることだ。学習中は特に元気がない。静かに学んでいるというような表向きの取り繕いは達者だが、誇張して言うとクラスの半数は授業に参加していないとすら感じられる。おそらく1年生は授業中の私語も開けっ広げで、ひっきりなしに先生に注意されているだろうが、6年生は逆に意思表示がないと注意されることが多い。この変貌はひとつの技術や知識、あるいは規範を学んだ成果なのであろうが、見方によっては個々人のエネルギーの消失と見えないこともない。
 単純にまた比喩的に言えば、6年をかけて消失していくものは家族習慣、あるいは家族の慣例といったものでもあろうか。幼児期までに刷り込まれ、形成され、培われててきた対幻想(対観念、家族観念)、それが子どもを思う家族の精一杯の愛情とともにランドセルに積み込まれ、持たされて、子どもたちは毎日学校に通い続ける。しかし意気揚々と学校に通い始めた子どもたちが、いつかしらその日の「意気揚々」をしだいに失いはじめていく。社会通念(共同幻想)によって、個々の家族が心づくしのように子どもに背負わせ持たせたものは、ことごとく否定され、矯正され、駆逐されていくといって過言ではない。俗な言い方をすれば家庭環境の面で劣位にある子どもは基本的な生活習慣、礼儀、作法などの面でやはり問題視されることが多い。(このことが本当は何を意味するものか、なぜ目標とされるのかを真摯に問うた見解をわたしたちは持っていない。ただ、毛嫌いされ嫌悪されるだけである。蛇足だが、わたしがここで言っているのは、基本的生活習慣を「基本的生活習慣」として1つの基準に置くこととなったその思想的な背景であり、そのよって立つ場所についてである。だれもがこれを普遍的と受けとめるかもしれないが、わたしはそうは思わない。普遍を装ってこれを基準とした主体があるはずで、それを考えると、やはり1つの恣意に過ぎないと思えるのだ。これは広くとらえれば標準語の設定と似ていると思える。また、なぜ方言は駆逐されねばならなかったのか、そういう問いの立て方に似ていることをわたしはここで自問しているのだと言っていい。)
 その過程の初期をまた比喩的に言うならば、家族の上位に位置する共同体の意志に、家族観念、対幻想が屈服する図とでもいえるだろうか。
 学校の中で家族習慣は破棄され、新たな規範として学校のルールに適応させられていく。家族の一員から共同体(初期社会)の一員へ、子どもたちにとっては過酷な(?)、あまりに過酷な(?)現実が待っていたということになろうか。(家族世界がすべてだった子どもたちにとって、その上位に共同世界が立ち現れることは驚きに違いない。)
 小学校生活の数年で、子どもたちは家族生活の規範に則るべきか、新たに社会生活のルールに則るべきかで迷うはずである。もちろんこのことを意識して選択しようとするわけではないから、子どもたちの葛藤は無意識裡に行われていると言えよう。勝敗は端から決していると言うべきである。共同体の意志によって設計された制度に組み込まれてしまっているのである。当然子どもたちは変貌を余儀なくされ、その時家族はまたこの変貌を側面から見守るしか方途がないのだ。
 共同体(社会)からの要請に順応できる子どもは技術や知識を学び、規範を学んで、優等生になっていく子も出る。逆に、ついていけなくて劣等生になっていく子も出てくる。おそらくその過程で何が起きているかというと、能力のあるなしばかりではなく、推測になるが、共同体にあって家族習慣(対幻想)を吹っ切れるかどうかということが問題になっているのだと思う。つまり進んで集団生活と同致する方向へむかうのか、あるいは家族の方に後戻りしようとするのか、その分岐点にさしかかっている。
 
 ここまで、家族習慣や家族観念、対幻想などいろいろごちゃ混ぜに言葉を使ってきたのは、わたし自身の曖昧さによる。いまこれを子どもの性格として収斂させて考えてみれば、幼児期までにつくられたそれは、家族に責任が所属するのだと考えることが出来よう。家族の中で基本的な性格は形成されてきた。その性格、さらにまた家族内で形成されてきた基本的な生活習慣は、多くの場合学校では否定されることが多い。ちょうどこの地方の方言を標準語に矯正するかのように、個々の家族習慣は矯正される。
 ざっと考えれば標準語は知っておいた方がいいし、一般的な(共同幻想としての)基本的生活習慣というものも身につけて損はない。けれどもこのことはよくよく考えれば、家族によって育てられた子どもたちは欠陥だらけだというように、学校は、社会は、考えていることを暗示しているのではないだろうか。
 100%とはいわなくとも、自分たちの精一杯の愛情で幼児期まで育てた子どもたちが欠陥品扱いされ、ああだこうだと言われる親たちが心底から教員の言葉に共感できるとは思えない。では、そういう実際から指導を施されて子どもがよくなっていったという事例も、寡聞にして、多くは知らない。かえって子どもは萎縮し、ますます表情から輝きを失っていったことを、密かに不安に感じた親はいなかっただろうか。わたし自身が親の立場にあったときに、家族内では活発で生き生きと生活していたのに、幼稚園に行き、小学校に行きだして、みるみる子どもたちから生き生きとした表情や発言が失われていったことを、昨日のことのように思い出す。もちろん自分たちの育て方の至らなかったこともあるが、なおその上に子どもたちを萎縮させない学校の指導を期待していたことも事実である。
 優等生にならなくてもよい。勉強が出来なくてもよい。多少、悪ガキになってもあんぽんたんになってもよい。ただ毎日を楽しく暮らし、生き生きと暮らしてくれたらただそれだけでよいというのがわたしの願いだった。しかし、徐々に輝きを失っていく子どもの姿を遠巻きに見守りながら、社会人になるためのひとつの関門を通過する、これは試練のひとつでもあろうかと、自分の力の及ばざるを悔しく感じるだけであった。だが、同時に学校にそう多くは期待しまいという思いも持っていたことも事実である。それは自分の子ども時代の経験が教えたところである。
 
 いずれにしても、家族中心の世界から同年齢集団の世界に組み込まれる子どもたちにとって、この移行期は何事かであると思われる。これをうまく理解することが残念ながらまだわたしには出来ない。引き続き角度を変えながら、この問題に何度も立ち向かってみたいとだけは考えている。
 
 
児童期が投げかけるもの D
              2014/07/08
 2006年発行の『家族のゆくえ』(光文社)と題する本の中で、著者の吉本隆明は、前回の項で引用した箇所を含め、それまでの人間の発達段階についての彼の考え方を微妙に変えている。
 ひとつは、それまで彼の著作で「児童期」あるいは「学童期」と記述していた幼児期と前思春期の間の時期を、「少年少女期」と変更していることだ。
 
 わたしはこれまで「乳幼児期」の次にくる時期を「学童期」と呼んできた。この時期でいちばん大事なのは「遊び」だ。遊びが生活の全体だということが生涯でいちばん大事な時期を「学童期」と呼ぶのはちょっとおかしい。自分でも「おかしいな」とおもっていたのだが、なかなかいい言葉が見つからないので「学童期」といってきた。「学童期」というより、むしろ「少年少女期」としたほうが理屈にも合うのではないか。
 発達心理学のなかにはたしかに「学童期」という用語がある。しかし「少年少女期」と言い直したほうが、わたしにとってはいい。
 
 ここではまた、「この時期でいちばん大事なのは『遊び』だ。」とか、「遊びが生活の全体だということが生涯でいちばん大事な時期」というように、従来の主張から少しばかり踏み込んだ書き方、言い方がなされている。
 もうひとつ、これは小さな変更とも大きな変更とも言えそうに思うが、それまで、人間の性格形成に大事な時期について、主として人間の「乳幼児期」を取り上げて論じていたが、ここではそれに加えて「少年少女期」の重要さも取り上げている。
 
 わたしは、子育ての勘どころは二か所しかないとおもっている。そのうちの一か所が胎内七〜八か月あたりから満一歳半ぐらいまでの「乳児期」、もう一か所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二か所で、母親あるいは母親代理が真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、けた外れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはないとおもえる。(P28)
 
 序章でも指摘したように、子育ての勘どころは二か所しかないと考えている。
 いちばん重要な時期は胎児期も含めた「乳幼児期」で、二番目の勘どころはこの「少年少女期」から「前思春期」に至る時期だとおもえる。肝要なのはこの二か所だけで、この時期にだいたい人間の性格の大本のものは決まってしまう。この無意識の性格を動かすことはまずできない、というのがわたしの基本的な考え方だ。そのあとは、それを「超える」意識的な課題になる。(P68)
 
 従来と微妙にニュアンスが違って感じられるのは、この本では「子育ての勘どころ」という視点から言葉が繰り出されているからだと考えられる。つまり、従来はこの視点から語られることが少ないか、それほどメインの問題とはされなかった文脈の流れの中で「発達」が語られていたせいだと思う。
 ちなみに、なぜこの2つ(乳幼児期・少年少女期)が子育てにおいて重要な時期と考えているかについては、次のような言葉で簡潔にのべられているので紹介しておく。
 
 第一の時期で重要なのは、前述したように母親ないし母親代理の人がうまく、ということは心から可愛がって、おっぱいを飲ませたりオシメを取替たりすることだとおもう。それが心からできていれば大丈夫だ。親や同じ仲間に危害を加えることなどないと見ていい。
 第二の時期は、「生活が全て遊び」という時期だから、思う存分遊ばせることだ。それができれば、まず大きな問題は起こらない。
 
 要するに、第一の時期には「心から可愛がれ」、第二の時期には「遊ばせろ」という主張で、これだけを受け取れば「ああ、そうですか」で終わってしまいそうである。
 乳幼児期が重要だというのはこれまでの主張通りである。母親の感情や思考がその時期に刷り込まれるからだ。その時、母親の感情や思考は母親個人のものでありながら、人類史や共同性の全てに渉る積み重ねが、母親の感情や思考に二重写しになって刷り込まれる。だからこそ重要で大事な時期なのだ。母親の感情や思考が明るく健全で幸福感や愛情に満ちていれば、子どもにもそのようなものとして全体が刷り込まれる。つまり夢や希望(その根っこになる生命的なエネルギー)がいっしょに、子どもの心的な核にもたらされると考えられているように思える。。
 母親がこの時期に懸命に、心を込め、手をかけ、育て上げれば、後にどんな障害に出会ってもそれを乗り越えていける素地はできあがる。それだけではない、おそらく人間の子どもが他の動物の子どもたちに比べて、特に立ち上がりや歩行などの成長面に極端な遅れを持つのは、精神の始原から歴史的現在に至るまでの全過程を、その時期に集約してうけとる必要があるからだと思える。いっさいの、人間にのみ見られる精神活動(たとえば「ことば」の問題なども)の基礎構築の期間が必要とされ、そのために身体の成長はより遅くなる必要があったのだろう。そういうことを想定しないでは、以後の特に幼児期の人間の子どもの心の発達、言語の発声や聞き取りのめざましい成長の度合いは考えにくいことである。少なくとも、人類が言語の発声と聞き取りとを獲得するまでに要した時間(数百万年単位?)を、人間の乳幼児がわずか1〜2年という短い時間で獲得する経緯は、その期間の母(母の代理者)と子の中にしか想定し得ないものである。逆に言えば、その1〜2年の期間に、人類史の数百万年単位の背景が考慮されなければならないということであり、事実、圧縮されて母(母の代理者)から子へと受け継がれるにちがいないのだ。だからこそこの期間の母と子の接触の重要さは、どんなに強調してもし過ぎることはないのだと思える。
 さて、上述したように吉本は乳幼児期の大切さを繰り返し述べているが、子育ての勘どころとしての第二の重要な時期としてあげている少年少女期について、特に「遊びが全生活」であると大胆に述べているのは珍しい。
 文中には直接その発言の根拠になることが記述されている箇所はないが、「内遊び」、「外遊び」、そしてその移行期にあたる「軒遊び」には触れられている。このうち「軒遊び」については、その出処が柳田国男の『分類児童語彙』からの抜粋によって示されている(P56)。「軒遊び」の語からも想像されるように、これは家の中の遊びとも家の外での遊びとも違い、中間の、家の屋根すなわち保育者としての家族の庇護や、手や目や耳の届く範囲内での遊びということになる。それとなく、目に見えない長い紐が小児の腰のあたりについていると、柳田の文にはある。
 始終誰かが目をかけている家の中での遊びから、それとなく誰かが見ている軒下、軒端での遊びと来れば、次には当然家の者の目の届かぬ外での遊びに向かうことは自明であろう。
 ちょうど小学校に入りたての頃は、まだそれとない監視のある「軒遊」びから、監視の届かぬ外に向かう時期に重なっている。言い方を変えれば、小学生の時期は子どもの本能からして完全なる「外遊び」に向かう時期だと言うことができる。
 吉本が、少年少女期を定義して、遊ぶことがすなわち生活の全てである生涯唯一の時期だと語るのは、そういう意味合いがある。
 この時期に、誰からも監視されずに無意識と言えるほどに「夢中」になって全力を注いで遊ぶことは、子どもの発達段階から見ても最も理想的だという見解は、柳田が先の著作の中で示しているところである。だからそれは吉本の独創でもなければ、根拠のない勝手な思い込みという類のものでもない。
 わたしは吉本のこの本を発売当時に読み、共感を覚えた。やはり小学生には遊びこそがもっとも大切な生活で、子どもたちと遊べる先生がいちばん良いのだと思った。周りから何と言われようが、子どもと遊ぶ先生をこそ大切にしたいと思った。だがしかし、わたし自身はほどなくして学校を去った。いま考えれば、学校では「遊びが全て」という道筋を自分は切り開くことができないという断念が、理由の1つとしてあったかもしれないと考えられる。
 親も、わたしなどと近い考え方をする先生にとっても、柳田や吉本の考えに首肯できるとしても、社会や学校という現実を前にしたときに、その後はいかんともしがたいところがある。高い壁がそそり立ち、わたしたちはそれを乗り越えられない。せいぜいが、優秀な成績など求めないこと、決まりや規則で縛らないことくらいが可能になるくらいだと思う。どうしてもわたしたちは目先のことに目が向いて、生涯にかかわる問題を見据えて子どもと向き合うことができない。それは、出来ないのではなく、しないのだと言われればそれまでだが、中学に行ったらどうなる、高校、大学、社会人になったら、そればかりを思って遊ぶことの有意義さを承知しながら徹底することが出来ないでしまう。社会の目もまた、規則を守り成績優秀な優等生こそが教育の成果であると期待している。そこには人間の生涯というものに対する大いなる錯覚があると吉本は言うが、わたしもそう思う。
 わたしたち一般生活者が、少しばかり冷静に、そして少しばかりさめた目になってこの社会を遠望すれば、教育の成果と見られる優等生という作品のほとんどは社会の上層に上りつめ、その層を堅固に塗り固めていくものとなっている。そして最も悪質な、善を装った謀に手を染めて、いざとなると罪から逃れるために、あらゆる手段を弄するのは彼らの専売特許となっているではないか。ここまで考えてきた所から言えば、この少年少女期の優等生の過ごし方に、遠因がすでにあったと考えることもあながち荒唐無稽なこととは言えないのではないだろうか。教育は、一面でそういう人たちを繰り返し再生産する働きを維持し続けて来た、といって過言ではない面も持ち合わせている。
 震災罹災者や原発事故の被害者の救済が遅れに遅れる中で、なぜ指導層の視線は大企業中心の経済政策や、集団的自衛権のように半ば架空の論議に目が向いているのだろうか。国家が大事か国民が大事か。考えるまでもなく国民あっての国家であるし、国民生活という働き無くして本当は社会の上層に胡座をかいていられるわけがない。江戸時代の安藤昌益の言を持ち出すまでもなく、いずれ彼らは国民に寄生し、安い賃金の総和から上がりを掠め取ってなおかつ指導者面をした天道に反する輩に過ぎない。余剰を掠め取って上層に居座りたいものは、本当は国民生活に対する奉仕者であるべきである。救済を求めているものにあらゆる手段を講じて期待に応えるのが奉仕者である。教育はまたそのように変わるべきである。そう変われない教育の世界、教育の現場をいつまで維持し続けるのか。わたしは不思議に思う。
 では、わたしたちはいま何が出来、何を為すべきなのだろうか。吉本はこの著作で、親も先生も子どもを遊ばせ、出来れば全力で向き合い、また子どもの遊びにつき合いかまってやることが理想的だと述べている。親は、教育は、社会は、そのように自らを変えていくことが出来るだろうか。たぶん、そうはならない。どんなに可能性を突き詰めていってみても、少なくともわたしが生きている間に変わる可能性はゼロに等しい。
 吉本ほどの人が少年少女期に、親や先生が子どもの生活を遊び中心に組み替えられると信じられたかどうかは疑わしい。なるほど子どもの生涯を考えた場合に遊びの重要さは考えることが出来るとしても、親も先生もおそらくは中途半端にしかそれを実行できないだろう。子どもたち自身もまた脳裏のどこかで、頭がよくなりたい、勉強がよくなりたい、さらにはまた褒められ、友だちからも羨ましがられるようになりたいと思っているはずである。少なくとも劣等生の烙印を押されることだけは避けたい気持ちを持っているに違いない。そうなったらもうグレて、暴れるしかないということも子どもらには察しがついている。けれども良い子の振りをすることの出来ない子どもたちもいて、そうした子どもたちの中には乳幼児期の母親との接触の時期に、すでに心の核の部分で傷ついている子どもも見られるのである。親や先生といった身近な大人たちは、懸命にそういう子どもたちのケアに努めようとするが、半ば、時すでに遅しという感がある。わたしもまた、以前にこの著作を読んだときから、何ひとつ進歩しないでここに至っている。
 
 
児童期が投げかけるもの E
 
 入学式などはその典型だが、学校の儀式の中には飾られた厳粛さが必ずと言っていいほど混入されている。この飾られた厳粛さめいたものは、その後の学校生活全般を通してつきまとう。日本の場合は特にそうなのかもしれないが、朝の会のあいさつ、授業の前のあいさつ、終わりのあいさつ。それに授業中も、私語を交わしてはいけないとか、姿勢を正しなさいとかしょっちゅう注意されたりする。昔から学校には、聖なる場所とでもいうように宗教的な名残のようなものが払拭されずに残っている。きれいごとの、しかもその上っ面ばかりが流通する空間となっている。厳粛さとか威厳とかの体裁を保って、形式的に秩序を維持しようとする表れなのだろうか。本音を抑えて上っ面だけで調和を保ってよしとする所がある。わたしたちの実感から言えば、本当の厳粛さというものは肉親、親しい知人の葬式とかの方がなじみ深いものだし、それは心から染み出るような哀悼の意が漂う,本当に厳粛な空間であると言えると思う。
 長い間疑問を持つことはなかったが、子どもの頃、学校のそうした儀式めいたしきたりは窮屈で嫌なものだった。第一に、それまでの生育期間である家族内、親族間内での生活において、そういう作為的な厳粛さはなかったから、どうしてもとってつけたような感じでしかなかった。
 当時を振り返ると、それは上辺を取り繕うことの繰り返しの修練にしかなっていなかったように思える。子どもである自分の内側には、家族の中や親族や親戚の寄り集まった小集落の地域によって育まれた言語、性格、習慣が身についており、そのいっさいを押し殺すようにして上辺だけををとり繕い、その上辺のところでだけ学校の規範に従っていたという気がする。この内面と外面の二重性は、自分の中でなかなか融合させることが出来ずに、長い間重荷として作用してきた。
 かつて小説家の太宰治はこんなことを言っていた。
 
 じぶんで、さうしても、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
 
 考えてみれば、自分がどうしてきたか、今どうしているかをはっきりと言わずに、「人間というものは、こうしなければならぬ」、「子どもというものは、こんなふうでなければならない」等と言うのは学校の先生の口癖であろう。また、政治家をはじめとする社会の指導層にある人たちの口癖みたいなものだ。それじゃあ自分はどうなんだ、どうだったんだと言われれば、わたしが思うに、先生とか政治家とかもたいしたことはやってきていない筈だ。近くから遠くから言動を見聞きしてきて、そう実感する。これは断言しても良い。
 先の太宰治の言葉と同じようなことを、詩人で文学批評家そして思想家でもある吉本隆明は次のように語っている。
 
(教師は―佐藤の挿入)生徒のほうを向いて、授業以外のことについても広範囲に問題の種を見つけ「これでは駄目だ」などということを言う。倫理的なお説教のようなものを生徒に向かってやろうとするわけです。
 しかしそこには本音もないし率直さもない。上っ面だけです。
 そんなことは要らないとぼくは思います。余計なことはやらないほうがいいのです。自分の考えを披瀝して「こうでなきゃ駄目なんだよ」などと言う嘘っぽさ、偽物の道徳性は、生徒にはとっくにばれています。
(吉本隆明『ひきこもれ』P63)
 
 自分が出来もしなかったこと、やりもしなかったことを、大人になって子どもの頃を忘れたからといって平気で子どもに強制するというのは間違っている。どんなに良いことであっても、自分に出来もしないことを他に押しつけるべきではない。本当によいこと、すべきことだと思ったら、まず自分が黙ってとことん実践すればいいことである。太宰も吉本も同じことを言っている。
 柳田国男に次のような文章がある。
 
《小学校の休みの時間は、この軒遊びの時期の延長と見ることができる。家庭はもとより教員の側でも、この間の活躍を完全なる自治に任せておこうとしない。(中略)子どもが始終誰かから見られている。それとなく耳を傾けられていると思って遊ぶことは、仮に矯飾の傾きを養うまでの弊はなくとも、遊びに全力を注ぐような時間を縮め、したがってまた無意識の体験とも名づくべきものを、積み重ねて行く妨げとなっている》
(柳田国男「分類児童語彙」の、吉本隆明「家族のゆくえ」からの孫引き)
 
 ここで「矯飾の傾き」というのは、上辺を飾ってとり繕うというほどの意味であり、子どもの性格形成上そこまでの弊害はないとしても、と婉曲な物言いながら、柳田本人は弊害があると考えていることを暗示しているように思われる。そして、たとえ上述の弊害はないとしても、無心になって物事に取り組む体験の積み重ねを妨害するものとなっていると続けている。柳田は、この時期の子どもたちの、何ものにも邪魔されぬ渾身の遊び体験を重視していることが窺われる。
 
ヘーゲルは『精神現象学』の中で教育のことを研究しています。特に十三才までの思春期、つまり学童期といわれている時期は、人間の本性からいうと、本能や生命力にいちばん多感な時期です。その時期に学校へ行って、算数や国語や道徳を教わるのがいいことなのかどうか、根本的な問いを発して、それに根本的に答えたのはヘーゲルただ一人だとおもいます。
(中略)
 ヘーゲルは徹底的に云いました。本当は学童期は本性からいえば、あらゆるエネルギッシュな生命力の発露の時期で、放っておけば何でも解放しちゃう、悪いこともよいことも全部解放するという年齢です。その時にぎゅうぎゅう追い詰めて、規則を決めて、算数とか、国語とかの勉強をさせたり、道徳みたいな、「こうしちゃいけない」「これは悪い」「これをやったら駄目だぞ」ということを教え込むのは絶対的にいいことなんだ、とヘーゲルは云っています。(吉本隆明『人生とは何か』弓立社刊P146)
 
 日本の学校教育の基本は、このヘーゲルの言葉に現代においても忠実に従っていると言うことができる。源流はヘーゲルにあるということだ。もちろん日本社会全体の底流を支えていると言うことも可能だと思う。このヘーゲルに対して柳田や吉本の考えは、少なくともここでの言葉を借りれば、「抑圧するな、全部解放させろ」と逆向きのことを言っている。乳幼児期に獲得したものを、外遊びという中で全部さらけ出し、表に出してしまうことが解放になるんだ、そういう体験の積み重ねこそが大事なんだと言っているのだと思う。また、その事で率直な物言いの出来る人間が育つんだ、裏表のない人間が育成されるんだ。そういう人間形成の仕方が、最も大事なことなんだと考えているように思われる。そうでないと、上辺だけ品行方正、上辺だけの優等生、そして率直な物言いをしなくなる人間が指導層を中心に社会に蔓延してしまう。吉本はそうした脅迫紛いの、偽の礼儀正しさ、偽の誠実、偽の勤勉さ、偽の人間関係づくり、偽の道徳性、等々の教育が、日本社会の諸悪の根源ではないかと思うことがある、とまで述べている。
 この柳田国男や吉本の指摘していることが、現代の世の大人たちにどれほどの首肯を持って受け入れられるかどうかは分からない。おそらく心の片隅には共感する部分を持ちながら、しかもなおそれを自ら片隅に追いやってきた経歴を持つから、今それを大きく表に出すことには抵抗があるだろう。それまでの自己形成を否定する勇気は容易ではない。
 
 
児童期が投げかけるもの F
              2014/07/28
 子どもと接することは得意なほうではない。いつまでたってもよく子どものことが分からない。
 児童館では2年生の子どもたち、特に男子に荒れた言動が目立っている。そのほかは大同小異で、良くも悪くも子どもらしさを発揮して遊んでいる。特に荒れた言動の目立つ子どもをのぞけば、問題の種はあると言えばあるし、無いと言えば無いと言ってもいいような程度と言ってよい。
 荒れた言動というのは、無意識が傷ついているとしか思えないような接し方を他の子どもたちにする。たとえば、楽しげに遊んでいる子どもの邪魔をしたり、執拗に悪口を言って挑発したり、場合によっては実力行使に訴えて積んでいるブロックを蹴散らしたりするようなことだ。あげくに蹴る、殴るの立ち回りをする。とにかく、相手の堪忍袋の緒が切れるように、そして緒が切れるまで執拗に繰り返したりする。そのように言葉も態度も荒く、それが継続している。
 見ていると、どうしてもその子どもに、おもしろくない思いが鬱積していて、その鬱憤晴らしをしているようにしか思えない。しかも一過的、表面的なものとは思えない。相手の子どもあるいは子どもたちは、たまたま遭遇したに過ぎずに、運悪く因縁を付けられたようなものだ。そうして彼らの内面に起因するその鬱憤は、1、2度の鬱憤晴らしで解消できるものとは質が違って見える。さらにそういう傾向の子どもは、友だちと仲よさ下に遊ぶ姿も当然見られるが、そんなときには決まってご機嫌取りかと思うくらいに友だちに気を使っている。見ているこちらのほうが疲れを感じるくらいに、精一杯のお世辞を口にしながら遊んでいるときもある。(わたしにはこれは胎乳児期の母親から受けた処遇に対しての積み重なった鬱憤を無意識的に晴らす行為のように思われる。これで解放できる部分もあれば、逆に厳格な注意や叱責という抑圧によってさらなる無意識の奥に鎮められ、現実的表層的な場面から撤退する可能性があるとも考えられる。それですんでしまうことも多々あるというべきである。)
 最近の子どもは1、2年生といえども、喧嘩に発展すると本気で拳をついたりお腹を蹴ったりする。わたしの子どもの頃は、追い詰められて泣きながら刃向かうような場合を除いては、そんな殴る蹴るの喧嘩にはならなかった。あるいははるか手前で罪悪感が感じられて、そういう喧嘩は出来なかった。今はそうではない。もちろんそんな喧嘩をする子どもは少数に過ぎないが、それだけに目立ってしまう。そうした子どもたちには、言ってみれば中間の情操といったものが見当たらないことで共通している。つまり感情面でのほどほどというところが欠落して感じられる。違う場面では、同じ相手に対してすり寄るような過度の親密さで接したりしているところからも、そういう点が指摘できる気がする。
 今の段階では、親密にしていたり、あるときには仲違いをしてみたりと、関係が日によって変わるところからあまり説教じみたことを繰り返さないほうがいいとわたしは思う。しかし、放っておいたままのほうがいいのか、どこかで何かを変えなければならないものなのかの判断は、正直わたしには付きかねるところがある。
 明瞭に言えることは、上述したような心的に荒れた感じを持つ子どもの場合、親の愛情不足が指摘できると思う。このシリーズでも取り上げた吉本隆明さんの記述にもあったように、乳児期の母親の接し方に問題があったのではないかとまず考えられるように思う。授乳する母親のその時の心理的状態が、不安だったり忙しかったりで、必ずしも乳児にとって理想的な状態ではなかったのではないかと考えられる。
 愛情不足かそうでないかは、子どもを観察するとすぐに分かる。言い方は悪いが、野良犬か飼い犬かの違いほどに、人間の子どもたちの場合もしょっちゅう牙をむき出しにするか、しまい込まれているかの違いで、愛情豊かに育ったかそうでないかは判断が付く。もちろん問題と感じられる子どもたちは牙のむき方が違っている。荒々しく、愛情の表現も反転して見える。また他者と話すときの受け答えでも、穏やかなやりとり、本当の意味での心からのやりとりが出来ていない。
 以前、テレビの動物番組でタレントのベッキーが虐待された犬を世話する様子を放映していたが、犬たちの人間に対する怯えは想像を超えたもので、なかなかに交流の糸口を見つけかねているようだった。これは愛情を持って育てられたかそうでないかが、よく分かる事例の1つとして印象に残っている。この例は極端な例だが、愛情をかけられて母親、動物の場合は飼育者など、に育てられた犬猫はそれらしい育ち方をし、そうでないものは気性の荒さが表に出るのですぐに分かる。
 もしも、今のこの段階で児童を委託されているほうの立場に立てば、世話が焼けることや、扱いかねていることを、親にきちんと話したほうがいいだろう。常時5、6人で子どもたちを見守っていても、その間隙を縫いくぐって上述した言動を平気で行う。職員がどのような対応をするかもすでに熟知していて、その対応がたいして自分に打撃を与えるものでないことも十分に分かっている。もちろん、子どものことだから、ある程度のところで職員が間に割り込んでお終いになるのが通常だが、問題児の心の深くに蔵した鬱憤は何度繰り返してもはれることはない。そのように観察されることを正直に話すべきだと思う。道徳性や倫理の問題ではない。わたしにはそのように見える。表面的な心の問題ではなく、もっと奥の、生理的と見紛うばかりの深層に、それは原因を考えるほかないと思える。そして、その子らが鬱憤晴らしをするきっかけは何でもよく、もはや、その子どもたち自身の生命的なエネルギーの発現のところに遡って、荒れる言動の原因を探るほかないように見える。
 子どものそうした面、つまり心の奥の方に固く結ぼれたものが感じられるような場合、これはもう親たちの愛情と継続的にかまってやるという行為で梳かし込むより仕方がないと思える。本当に子どものことを思うなら、親はそうすべきである。1年か2年だけでもいい。その期間は徹底的にいっしょに過ごす時間を多く取り、子どもをかまってやるべきだ。いっしょに遊び、いっしょに勉強などもして、子どもの心にゆったりとした時間が流れるように変えてやらなければならない。愛と信頼とで子どもの心を満たしてやならなければならない。そのためには親自身が本気で自分にもそういう時間が持てるように工夫する必要がある。生活に追われてとてもそれどころではないと考えている人も、その期間だけは他のことは2の次にして、子ども中心の生活をするというくらいの覚悟を持つべきだ。これは特別に過保護の状態をつくるということでは全くない。ただ普通に側にいて、始終それとなく気にかけてやればいいというだけの話だ。
 わたしは教員時代には、保護者にこういう発言をする勇気を持てなかった。頭の中ではそんなことを考えても、それを親に話しても親自身が生活に追われているのだからどうしようもないだろうと、口にする先から諦めていた。またそういうところになると最終的には親の責任であるし、子どもの生涯に多少の凸凹が生じたとしても、それもまた社会一般の出来事と思い、思い切ったそういう提案など出来なかった。もちろん今でもそう言うだけの勇気があるかどうか分からない。自分の見立てが杞憂に過ぎないことも十分に考えられるからだ。だが、仮にその見解と提案が杞憂に終わるとしても、今のわたしならばそうしたほうがいいのではないかと親に進言するのではないかと思う。それはなぜかというと、自分の子育てに点数を付けるとせいぜい50点がいいところで、自分や自分の生活の体裁のために肝心なところで子どもにかけるべき時間を、省いてしまったという反省を持つからだ。ある種のターニングポイントと考えられる場所で、わたしには大胆さと覚悟とが必要だったのに、なんとかなるさと高をくくってしまったところがある。そのためにわたしの子どもたちは、本当は自分には責任のない余計な苦労を背負い込んでしまったと思える。
 つまり言いたいことは、ともすれば子育てにおいて最善策が他にありながら、それを行う努力を惜しんでしまうがために、子どもにいらぬ苦労を背負わせてしまうことがあり得るということだ。それならば、1年という短い期間でいいから、機を逃さずに子育てに全力を傾けてみることをしてみたほうがよい。自分の不出来を棚において、しかし今のわたしはそう考える。
 自分がそうだったが、今の親たちも、自分の仕事を辞めてまでも子どもに付きっきりでかまってやらなければならないなどとは、つゆほども考えることはないに違いない。すでにそこに、子どもに対する愛情の深度が表れている。つまり自分が大事、自分の生活が大事という本音がそこに潜んでいる。それを打ち壊して、自分に対する以上に子どもに愛情をかけるということを、たとえばわたしはしないでしまった。自分の時間を全て子どもに捧げる、そんな愛情のかけ方をしなかった。もちろん若いときだったから、子どもが熱を出せば病院の送り迎えをし、入院したときには精一杯付き添いなどして、自分なりには愛情を注いでいるつもりになっていたが、肝心なところで手を抜くことがあったのだろう。あるいは子どもが本当に助けを必要としたときによそ見をしていたのかもしれない。愛情のかけ方が自己満足的であったと反省する。
 ここまで言ってしまうと、わたしは少し老婆心で語っているように思われるかもしれない。わたし自身もそう言う気がしないわけでもない。すると安全策という意味合いが加わり、ことの切実さは薄まってしまう。もちろんわたしはそのつもりではないのだが。
 教員の体験がありながら、やはりこういう問題はあまり得意ではない。口数多く費やしながら、どこかが抜けているのではないかという不安がある。だから医者やカウンセラーのように、はっきりとそして的確に助言は出来ない。だからここではそれも承知の上で、しかし、あえて口にしたほうがよいと判断して提言していることになる。
 問題の子どもたちは何度も注意され、お説教されている。その事に効果が見られればそれはその場限りでよい。だが何度注意され説教されても少しの間、数日の間をおいてそれが繰り返されている。効き目があるどころではなく、かえって心の結ぼれ、心の荒れは強度を増していくように感じられる。1年たてば、あるいは2年たてば、その時に注意や説教の効果が表れてくるだろうというのであれば、そしてそれが確実であるなら確かにわたしの提言は杞憂だ。そこがわたしには分からない。そして分からないことによって提言もまた及び腰になる。しかし、わたしの判断は、その子どもたちの心の荒れは根源からやってくるというものである。だから、親にしかその荒れを解消する力はないし、あるいは児童館でも小学校でも相当の慈母心を持った人が、全的に寄り添って世話するなら別だが、それ以外の職業的な愛情のかけ方や通り一遍の愛情のかけ方では収まりが付かないと思える。
 わたしは児童の心理等に関しては少し勉強もしたが、所詮は素人である。だから前述した提案は素人の意見である。それは無視されても当然のことでもあるし、結局は受け手側の判断になる。参考意見としてなら言うべき意味はあるかもしれないが、おそらくは通用しない。その理由は、わたしが素人であることと、表現の内容が一般常識的に世間に流布されているところではないので、聞いても疑問符が付くからだと思う。だがこのシリーズの表現の流れからは、当然帰結されるべき内容を含んでいることはこの文章を読む人には理解されるに違いない。つまり、背景には吉本さんや三木茂夫さんを中心としての「こころ」や「あたま」の「考察」があり、それらを適用してのわたしの意見ということになる。
 関連してもう少し言ってみる。
 わたしは上述してきたように、問題があると考えられる子どもに対して一応、本質と思われる指摘と対応を示してきたが、仮に世間一般に行われる対応で考えてみても、この子どもたちが将来心的に異常になるとか病的になるとは考えない。つまり、このくらいのところだと、いろいろな波風を起こしながら成人し、世間一般の大人として社会に紛れて生活していけるだろうと考えている。なぜならそういう大人たちをいくらも見聞きしてきているからだ。わたしの経験では、そういう人たちはいったん仲良くなると表面的なつき合いでは収まらず、互いにぐっと中に入り込んだつき合いをすることになる。心の奥の方で結びつく。そういう関係にならないとすると、逆に敵対的になってしまう。中間の、ほどほどという距離が取りにくい。
 問題のある子どもたちはそんな大人に似ている。だからそういう成長の仕方をするのではないかと想定する。わたしはそういう傾向のある子どもや大人が嫌いではない。おそらく自分が幾分かはそういう傾向を持っているからだろうと思える。いや、もしかするとわたしのほうがもっと殺伐とした生き方をしているかもしれない。
 生きるということに関して言えば、彼らは自傷的ではなく、攻撃的な面が強い。それが問題となる要因でもあるが、生命エネルギーは外に向かっていて健全だと言えば言える。不安視されるのは、将来的に常時暴力行為やそれに付随する反社会的な生活を送ることにならないかという点だ。それさえも生きていることがいちばんの大事という観点から言えばどうということもないが、両親や家族の目からすればやはり心配の種としてふくらむことになろう。
 
 さて、やはりこの種の領域の問題はかなりの関心を引かれるのだが、同時に苦手な領域だという他はない。まして教育との関連で考えるとなおさらである。わたしは教育というものに信頼が置けないのだ。本当に立派な教育者というものがいることは承知するが、少なくともわたし自身は資質の点で教育者の資格に欠ける。人間としての理想的な心の豊かさというものの自覚もなければ経験もない。
 現段階ではこれくらいが精一杯で、もちろんもっともっと詰めて考えていけるところはそうしていきたいと思う。とりあえず児童期がわたしに投げかける問題の1つとして、ここに記しておく。
 
 
児童期が投げかけるもの G
              2014/08/10
 解剖学者三木茂夫さんの『内臓のはたらきと子どものこころ』(一九八二年、築地書館)の文庫版、『内臓とこころ』(二〇一三年、河出書房新社)をたまたま眺めていたら、ヒトの個体発生と人類の宗族発生の関係をグラフ化したものがあった。それは以前に『内臓のはたらきと子どものこころ』をよんだときにも掲載されていたはずで、文庫版を含め、何度も目にしていた記憶がある。だが、数日前、その図の横にある注意書きのようなものを読んではっと驚いた。初めて目にしたような新鮮な驚きだった。それは次のようなものだった。
 
桃源郷の世界は三歳児で、その印象的な幕を開けるが、その後の観察によると、この面影は十歳児を頂点として最後の燃焼を尽くすがごとくに見受けられる。なお、本来ならばこの図の「読み」「書き」は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。
 
 ぼくが何に驚いたかははっきりしている。三木茂夫さんが、はっきりと、子どもの勉強、つまり、知識や技術、規範などの習得は十歳以後に持ってこなければならないと指摘しているところだ。これは吉本さんなどが少年少女期は遊びが全てと語っていることに符合する。
 図に表されたものは、左に地質年代、右にヒトの年齢がメモリのようにおかれ、天井横軸には右から「有史民族」、「先住民族」、「無史民族」、「猿人?」の言葉がおかれている。宗族発生ではこの右上の「有史民族」を「歴史人」に重ね、左下に向かって、「先史人」、「旧人」、「原人」、「猿人」と下っている。一方、右側のヒトの個体発生は、子どものこころや意識の発達がそれらの人類の進化の段階に対応づけられて示されている。たとえば、子どもの一歳の、指さし・呼称音・立ち上がり(指示思考のはじまり)は100万年前の「原人」の出現に対応づけられ、三歳の自己意識(狭義の思考)の獲得の時期は、五万年前の「先史人」の出現の段階と対応づけられている。また五千年前の「歴史人」の台頭の時期は、ヒトの個体の十歳前後の時期として示されている。
 人類の進化・発達と、ヒトの個体発生に見られる精神の成長過程との対応付けは、ほぼ妥当なものではないかとぼくには考えられる。
 この図と注意書きの文章から、三木さん流の言い方を借りれば、三歳までの子どもは内臓に依拠した「こころ」優先の時代、三歳から十歳までは「こころ」と「頭のはたらき」とが調和しながらも、しだいに頭脳優先の傾向を持つようになり、十歳以後ははっきりと「頭脳(頭のはたらき)」が優先になっていく時代と概観できるように思われる。
 もう少し細かく言えば、この「こころ」と「頭のはたらき」の調和は三歳から四歳の一年間をピークとして、歴史的には「先史」の時代がこれに対応すると考えられている。三木さんはそれを「こころ」と「頭のはたらき」とが調和のとれた「幼児らしさ」、言いかえれば「桃源郷の世界」と見なしている。
 また、次の「歴史人」の時代では「頭のはたらき」が勝っていくということになるが、ヒトの個体ではこれが十歳以降ということになり、四歳から十歳までにかけては「先史人」から「歴史人」へと発達を遂げる、いわば移行期と見なされているように思われる。
 この四歳から十歳までの間には、今日的な子どもの実際生活の「読み」「書き」及び学校への「入学」、そして十歳での「ギャングエイジ」という発達段階の文字が書き込まれている。そして先に引用した、
 
本来ならばこの図の「読み」「書き」は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。
 
の文字が書き記されているということになる。
 
 ここまでのところで、少なくともぼくらは五歳前後から一〇歳前後の子どもたちを、知識や技術、道徳などをぎゅうぎゅう詰めに教えるのがいいのだとするヘーゲル的な考え方とは訣別しなければならないと思える。ヘーゲルの考えは、どこから見ても「公」や「国家」といった「共同」なるものに優先順位をおいたもので、「個」や「私」は、幾分かそれに奉仕する側面を先験的に持つべきものと発想されて考えられているように思われる。それは時代に見合った考え方だとは言えるかもしれないが、本当に普遍性を持ったものかと言えば、そうではないだろうとぼくは思う。それではこの時期の子どもたちの自然で本源的な生き方はどういうものかというと、吉本さんが語ったような、「遊びが生活の全て」というある種の非現実的なイメージでしか思い描けないことも事実としてはある。これと現行の学校制度を前に、ぼくらはどのように子どもの生活を考えてみることが出来るのか。おそらく現状ではそれは皆無に等しい。あるいは折衷案的に、学校制度内での生活を緩やかなものにしていくくらいしか思いつかないのだが、現実の社会のありようから見るとそれではいっそう子どもの精神、心の荒廃、及び社会全体の混迷を加速していく恐れがつきまとう。
 
 
児童期が投げかけるもの H
              2014/08/24
 自分で読んで確かめたわけではないが、精神分析学者としてあまりにも有名なフロイトは、「乳幼児期の子どもの精神構造は人類前史の精神構造に対応する」と考えていたとされている(宇田亮一「『共同幻想論』の読み方」)。吉本隆明の著作にはフロイトのそうした考えがちょくちょく引き合いに出されていて、影響の大きさが垣間見られる。『心的現象論序説』の第T章「心的世界の叙述」の中には次のような記述が見られる。
 
 わかりやすくするために、単純化をおそれなければ、フロイドは、人間が生物体として胎外に(つまり外界に)でるまでの10ヶ月余りのあいだに、原生動物からもっとも高度な哺乳動物にいたる系統的な全進化の過程をすばやくとおるとかんがえた。つぎに、胎外にでた乳幼児から、青春期までにいたる過程で、人類史が始まって以来、人間が体験してきた生物体と精神体としての全過程をとおるとかんがえた。生物体としての完成は、はじめの数年にほぼ完了するが、生物体と精神体との複合としての身体の完成は青春期までを必要とする。
 
 ここでフロイトの考えといわれているところのものはフロイト自身のオリジナルというのではなく、元々はドイツのヘッケルの提唱した「系統的発生論」の強い影響下にある。またヘッケルにはダーウィンの「進化論」の影響があり、さらにはアリストテレス以来の西洋思潮の流れが合流していると見られる。
 三木茂夫は、ヒトの胎児の顔や姿を克明に観察し、ヒトの胎児は魚類から両生類へ、両生類から爬虫類へ、そして哺乳類というように、脊椎動物の進化の過程をなぞって成長すると結論した(『胎児の世界』などの著作)。もちろんそれには『おもかげ』とか、『つかのまの「夢の再現」』などという言葉を付け加えることを、三木は忘れてはいない。当然のことながら、それは事実そのものではないからだ。だが、三木の業績によって、われわれはいっそう先のフロイトの仮説や吉本のフロイトの要約とその発展的な考えを確信できるようになった。つまり、先の引用文の内容に生物学的な見地から根拠を与えられたことになる。
 吉本も三木も、もともと系統的発生に興味を持っていたことは確からしく思われる。そして一方は文学者として、一方は医学者として、それぞれの立場からヒトの心の形成や心の総体に向かって考察を深めていった。
 子どもの心の考察において吉本は、主に発達心理学の見解を引き合いに出して論じた文章が多く、三木はヒトの体の考察から体壁の中枢としての脳による頭のはたらき、すなわち思考と、内臓に依拠した心の動きすなわち心情とに区別してこの問題を説き起こしていった。そしてこのシリーズでも指摘したように吉本は児童期、つまり彼が言うところの少年少女期は遊びが生活の全てと結論し、三木はまた前回紹介したように「読み」「書き」は10歳以後に持ってこなければならないと述べている。
 今この二人の考えに共通するところを総合すれば、発達心理学が児童期として区分し、その時期を知識や技術や道徳などを教え込む時期だとしていることはおかしいことだし、よくないことだと言っていることになる。
 二人の論を追ってきたわたしも、おかしいと感じるようになっている。だが、ここまではまだ二人がそう言っているからそう考えているという段階にとどまっているに過ぎないだろう。もう少し二人の発言の根拠について問うてみなければならないと思える。
 三木が「読み」「書き」を10歳以後に持ってこなければならないと言うとき、何を根拠にしているのだろうか。
 前回の内容をもう一度振り返ると、三木は人間の10歳前後を人類の「歴史時代」のはじまりの頃、と対応させて考えている。
 何を持って「歴史時代」のはじまりかというと、一般的には文字文献が存在するかしないかで「先史時代」と分かたれる。文字文化のはじまりが「歴史時代」のはじまりということになるが、この文字文化を持った「歴史時代」がヒトの個体の発達段階から見てどうして10歳以後になるのか、まだうまく了解できない。おそらく研究者とか学者たちのあいだでは一般的にそう考えられているということなのかもしれないが、わたしのような素人が確かめようとしても簡単には確認が取れない。ひとつ、手がかりのようにあるのが「ギャングエイジ」という言葉で、これは徒党を組むとか強い仲間意識を持つという意味合いを含む。さらにいえば11歳以後は思春期と呼ばれる時期に入り、内面世界に関心が移行する時期だといわれている。
 これらは精神性の高度化や非血縁集団の形成といった側面から、「歴史時代」に相当すると考えて考えられないことはないように思われる。
 
 先の部分を書いた時点からおよそ2週間ほどが過ぎた。その後何をどう考え書き継いでいけばよいか分からなくなった。いろいろな本を読み直したり、調べ直してみたりしたが、うまく先の文章につなげる糸口は見つからなかった。いっそ中断してしまいたいところだが、三木茂夫の『ヒトのからだ―生物史的考察』(うぶすな書院)の中に次のような文章を見かけたので、これをとっかかりに出来ないかと考えているところだ。
 
 いまこれを人類の歴史のなかでながめると、そこにはまず、豊かな心情にみちあふれた先史時代が幕を開き、次いで精神が全体を支配する歴史時代がこれにつづく。(P156)
 
 先に、三木が人類の「歴史時代」に相当するのは10歳以後だと述べていたのを見てきたが、引用箇所を加味して考えるとそれは要するに、ヒトの個体においても「精神が全体を支配する」ようになるのは10歳以後だと考えていることを意味する。「精神が全体を支配する」とは、充分に精神が発達したことを意味し、また精神的存在として確立することをも意味する。そして同時にそれ以前、つまり3歳から10歳までの幼児期、児童期は、「豊かな心情にみちあふれた先史時代」に対応づけることが出来ると見なされていることになる。児童期の後半も、まだ「心情的」である部分を払底できないということになるだろうか。これら全体は、イメージ的にはよく了解できるように思われる。ただやはりイメージ的にであって、漠然とした了解にとどまることは否定できない。
 
 
児童期が投げかけるもの I
              2014/09/15
 文字文献が残されている時期を約5000年前と考えて、それ以後は「歴史時代」と呼ばれヒト社会は今日に至っている。日本の社会では縄文時代前期と呼ばれる時期からそれ以後に相当すると考えることが出来る。
 三木茂夫の「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」の関係をグラフ化したものを見ると「歴史時代」の始まり(「歴史人」の出現)が、ヒトの個体としての10歳以後に対応づけられている。
 これはどういうことかというと、縄文時代の中期から後期に生きた人々の心の動きや意識の状態が、今日的には10歳前後からそれ以後の心の動きや意識の状態に近いと類推されることになる。また逆に言えば、現在の10歳前後の少年少女の精神とか心とかを考える場合、まだその発達段階は縄文前期以前の段階にとどまっているということになる。成人とは違い、現代に生きて現代的な生活をしているものの、心の動きや意識の状態としてはやっと「先史時代」の終焉の時期、そして「歴史時代」の幕開けにさしかかるところに精神構成の段階を考えることが出来るということだ。
 三木茂夫の作成したグラフに見られた時代区分は、人類の化石として残っている頭蓋骨などの比較から考えられた区分であり、「猿人」「原人」「旧人」「先史人」「歴史人」
というように分かれている。これは解剖学・発生学・古生物学などに携わった三木には普通に採用される区分であるのだろう。
 吉本隆明は「初源の人間社会」を「原始未開」「前古代」「古代」の3つに区分している。これは彼のこしらえた「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」という概念から考えられた時代区分ということが出来る。
 2つの区分は当然のことながら微妙に重なるところと大きく異なっている点とがある。大きく概観すると吉本が『共同幻想論』などで考えていた「古代」は「弥生時代」に近く、「前古代」は「縄文時代」に重なるところがある。吉本の捉え方(宇田亮一・「吉本隆明『共同幻想論』の読み方」による)で、「前古代」がおよそ6000年前という年代から始まると区分されているところは、三木の時代区分で5000年前とされる「歴史人」の時代の始まりに近接する。また吉本の区分で「原始未開」とされているところは年代的には10万年前から6000年前と考えられ、これは三木の区分で言えば「旧人」の半ば頃から「先史人」の区分に該当する。ここから言えば「歴史人」の出現あるいは「歴史時代」の始まりは、もう一方の区分では「前古代」の始まりごろを示し、ともにそれはヒトの個体では10歳ごろの精神の発達段階に相当すると見なされる。
 いずれにしてもここでわたしたちに必要なのは、三木が「歴史時代」の始まりとし、吉本が「前古代」の始まりとする5〜6千年前、すなわち日本社会における「縄文時代」前期の精神的・心理的発達段階が、ヒトの個体の成長段階ではおよそ10歳前後と対応づけられるという考えである。また10歳になる前の段階では吉本の区分の仕方から言えば「原始未開」からそれ以前となり、三木の区分からは「先史人(時代)」及び「旧人」から、「原人」「猿人」という分類の中に放り込まれる。10歳以前の子ども、現在小学校に通う6歳から10歳までの、だいたい1年生から4年生に該当する子どもたちの場合、精神的な発達の程度は「原始未開」、そして「旧人」「先史人」の段階にあることになる。
 これらのことから総合して、10歳前後は幼児性の終焉の時期であるとともに、心身ともに大人へと成長する境目の時期と考えてよいと思われる。
 発達心理学などが児童期として区分する5歳から10歳という年齢は、はっきり児童期という区分をもうけるよりは幼児期から思春期にかけて、幼児性の払拭と大人へと成長する兆候を示す段階以前の移行期間と考えたほうが無難だという気がする。吉本隆明が、発達心理学などにより区分される児童期が普遍的で自然な区分か分からないと言い、単に学校制度がありそれに合わせた区分の仕方ではないのかと疑義を呈したように、三木茂夫もまた「読み」「書き」の「学習」を、発達心理学などが言うところの児童期には当てはまらないと考えていた。本来なら「読み」「書き」は10歳以後に持ってこなければならないという指摘は、そういうことを意味していよう。
 これらのことを考えると、児童期、日本の現行の学校制度で言うところの小学生の子どもたちは、縄文時代草創期から早期と呼ばれる時期の精神構造の発達段階にあると言えるし、逆に考えれば縄文前期以後の成人の精神構造は、現在の子どもの思春期からそれ以降の発達段階に対応させて考えてよいと思われる。つまり、文字の読み書きを含め、知識や技術、道徳や規範などの習得は、必ずしも現在の小学生の、特に低学年から中学年の児童の、本格的な発達課題ではあり得ないということになる。それは本来なら、もう少し後の前思春期からそれ以降の問題になる。
 付則すれば、発達心理学者の一人であるジャン・ピアジェは、彼の著作である『思考の心理学』において「精神発達は11歳〜12歳ころでおわる」と述べている。
 また、関連するところで脳の連合野の発達、特に前頭連合野が充分な発達を見るのはヒトの個体の10歳を待たなければならないとする見解が学者や研究者のあいだでは一般的であるようであり、本来ならそこから本格的な学習がはじめられてもよいのではないかと考えられてくる。またこれらは先の三木や吉本の考え方を、一部裏付けるものと言えるのではないかと思われる。
 わたしは20年という小学校教員の経験を持つ。その中でいつも疑問に思い心を悩ませていたことは、文科省が制定した指導事項がどうしても十分に児童に身につけさせることの困難なことであった。最終的には指導事項に対する児童における理解のための準備性が不足しているという考えになった。もちろんこれは自分の内面に帰結した考えであったが、わたしたちはこれを指導力、また指導の技術力の不足と考えるように飼い慣らされていた。こういう言い方がよくないとすれば、自分から進んでそういう力がないなあと嘆くことを日常としたと言いかえてもよい。そうして教材研究や指導技術の研修に励んでいた。
 まだある。道徳的なこと、及び生活の仕方全体においても、わたしの指導の言葉や注意が子どもに理解されない、子どもの心に届かない、そういう疑問や悩みである。これは最終的には、子どもは個々の家族がこしらえた作品で、学校に上がる前に、初源的な人間としてはすでに完成された強固な姿を持っていると見るべきではないか、という疑念をわたしに抱かせた。
 もちろん、子どもたちの中には優等生と言うべき子どもたちがいてこちら側からの要求によく応えてくれる存在もなくはない。学習をよく理解し、生活態度も模範的だという子どもも居ることはいるのである。だがそんな子どもは多くてクラスに1割である。また学習についていくのが大変な児童も多くて1割ほどいる。そのほかの大半はそれらの中間に存在する。この比率的なものは、社会の縮図的なものを映し出しているようにわたしには思われる。社会的なエリートの階層にある人々と一般大衆と、そしてそうした生活層から堕ちこぼれた人々が存在するというようにだ。
 結局のところ、こうした社会構成そして現行の学校制度システムから見て、これらから最大限の恩恵を受け取るのは約1割にも満たないエリート層なのであって、見方を変えればその層のためにだけ現状が維持されているだけのようにも見られる。
 努力して1割だけが優等生になれると言うことは、一見当然のように考えられるかもしれないが、逆に言えばそれだけ高いハードルを教育制度は内蔵していることになる。そしてなぜそうなのかと言えば理由はいかようにも穿鑿できる。わたしの考えでは、市民生活者の育成と称しながら、その影にエリート層の育成という国家の維持に必要な人材育成の国家的意志が、潜在的に制度の中に組み込まれているからだ。市民生活者の民度の向上も大切なことだが、無意識の国家意志にとってそれ以上に大切なことは国家の存続、国家運営に資する人材を育成することである。あるいは直接的でなかろうとも、そういう見識や視野を持った人材が多方面に存在することは重要なことである。(いまのわたしはかえって8割の標準的な層が優等生的なのであって、その上下1割の層を真ん中に持ってくることを教育の目標とすべきだと考える。)
 だが、今はそういうことを問うているのではない。わたしがなぜ「児童期が投げかけるもの」のシリーズを書き続け、考え続けているのか、その原点とも言うべき思いを暗示的に指し示す文章があったので以下に引用し、混迷のこの項Iをとりあえず終わらせたいと思う。
 
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期を持たなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病、(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?そういう疑問だといっていい。(吉本隆明「心的現象論―了解論―98 原了解以前(4)」)
 
 つまり、現在の社会が産み出す少年少女や若者たちの様々な事件を、教育の世界の深い穴蔵の底にある窓から眺めてみるということがわたしの動機だといえば言える。そしてわたしたちはまだ、そうしたことの了解のとば口に立つことさえ出来ていないということだけは明らかなことだ。
 
 
児童期が投げかけるもの J
              2014/09/21
 いろいろな著作の中で吉本隆明は、子どもの時代に知識や技術や道徳を教え込まないと、とんでもなく、また、ろくでもない大人になっちまうんだというヘーゲルの言葉を紹介している。そして、子ども時代に知識や技術や道徳をぎゅうぎゅう詰めに教えることは、絶対的に正しいことなんだとヘーゲルが考えていたことも伝えていた。
 これに対して吉本自身は、特に晩年、ヘーゲルとは正反対の方向に考えを詰めていっている。少年少女期は遊び以外はやらせないほうがいいとまで言及し、一方の極に位置する立場に立つようになっていた。
 わたしはヘーゲルの言い方もよく分かるような気がしている。
 たとえば児童館で1〜3年生の過ごし方を観察していると、ブロックなどのおもちゃや遊具の類の使い方は乱暴で、平気で投げ捨てたりあるいは使ったあとは片付けないでそのまま放置する。「使ったものは自分で後片付けしなさい」と言われても、平気で「ぼくは使っていなかった」などと嘘をつく。意地悪をする、喧嘩をする、ルールを破って走ったり遊んではいけないところで遊んだりする。乱暴な言葉づかいも日常茶飯で、男の子などはたとえば「ぶっ殺す」なども口にする。わたしなどの職員への言葉づかいも悪く、名前の呼び捨てや「じじい」「ばばあ」等と言うことにもためらいがない。
 学校でも反抗的態度、授業中の私語や手慰みのいたずら、あくび、だらけや集中力のなさなど、先生たちの嘆きの種は少なくない。
 普段に注意や指導や時には叱られていてもこうなのだから、何もしなかったらますますエスカレートして無法地帯になっていくと誰もが考えるだろう。実際にわたしはずいぶん昔にだがそういう現場に居合わせたことがある。授業中に勝手に立って歩き、がやがやと私語が交わされ、教室の真ん中では喧嘩が始まって一人の児童が小刀を手に他の児童を威嚇している。3年生ではあっても、学級を掌握できない担任の下ではすぐさまそうした荒くれ集団に転落してしまう。
 確かに、ほったらかしにしておけば子どもというのは何をしでかすか分からないという面を持っている。そこで勉強以外にも集団の中での立ち振る舞いから作法、集団行動までも指導する必要が生じる。
 ヘーゲルやわたしたちがそこで考えることは、おそらく、このように子どもたち(人間一般についても)の身勝手を放置すれば、集団を組んだそれ自体に意味や価値が失われ、早晩集団の維持も困難になるということだろう。弱体集団、無法集団、これを共同体レベル、国家レベルに広げて考えていくと、いずれもその形態を維持する点で支障を来すことは明白である。
 
 子どもたちを適切に教育できるのであれば、教育は有意義なものになるとわたしは思う。本人自身にとってもよく、国家や共同体や集団という形での力も高まると思える。けれども、今日、児童期や思春期、あるいは青年期の若者たちが引き起こす様々な事件を考えるとき、必ずしも有意義な形で教育が機能しているとはわたしには思えない。かえって有形無形に子どもたちの自然な発達を阻害し、そのために限りなく異常や病的に近い、あるいは異常や病的そのものの精神や事件が産み出されてきているのではないかという疑念をわたしは抱く。もちろん事件を引き起こす子どもはほんの一握りの数でしかないが、けれどもそれは現状に警鐘を鳴らす先駆性を負っているものであって、事例の少なさで等閑に付すべき質のものとは到底思えない。
 こんな時に教育の専門家とか児童心理の専門家たちは、何ひとつましな見解を披瀝してはくれない。やれ道徳教育が大切だ、親や教師の普段の子どもたちとのコミュニケーションが大切だ、それが欠けているなどの、相も変わらぬ効果の見えぬ対処法しか示さない。わたしはバカかと思うがそれが今日の専門家と言われる人たちの姿だ。彼らの発する言葉から、ほっと腑に落ちるように事の真相の理解が得られたことは一度もない。それよりも何よりも、子どもの引き起こす子どもらしからぬ事件を食い止める力のなかったことを、専門家として反省する言辞がひとつもない。彼らは何のための専門家なのか。そして彼らの行う研究や学問は、一体何のための研究や学問であり、何に役立っているのか。ほんとうはそういうことが問われなければならないはずなのだ。
 文科省をはじめとし、各県や町の教育委員会などの教育機関も、いじめによる自殺や同級生の殺害などの事件がある度に、外圧を受けてという事情もあるが、学校内の教育活動の強化、学習指導及び生活指導の強化などに努める。吉本の言葉をそのまま借用すれば、禁欲的な学習が強化され、これはそのまま性的な抑圧の強化と遊ぶ時間の細分化に向かっていく。もちろん子どもたちはただ黙って従うわけではない。どこで手を抜くか、どんなふうに上辺を取り繕っていればよいか、子どもたちは驚くほどに対処の仕方を身につけているし、また日々その事を学び続けてもいる。モグラたたきのようなそんな対処法は数十年続いて、今も根底から本質を突いて原因や素因といったものを抉り出し、元を断ち切るといった大胆な改革などとられた試しはない。バカで無能な連中ばかりだと言いたいが、なぜ本質的で本格的な改革が為されないかははっきりしている。それは即自分たちを追い込むことに他ならないからだ。自分の立場がなくなるとか、場合によっては自分のやってきたことが無に帰すとか仕事がなくなるとか、要するに面倒な事態になることを避けようとするからだ。こういうことはいくらでも言えるが、ここではそれらを言いたいわけではない。
 
 ある時、児童館も入っている、全体は福祉施設といった感じの建物の受付、あるいは守衛も兼ねた感じの同年配くらいの人から、
「よく子どもたちと付き合っていられるね。」と声をかけられたことがある。
「子どもはうるさくて、おれには付き合えない。」
とその人は続けた。
 わたしは、
「以前教員をやっていたので、少し慣れているんですよ。」
と言った意味合いのことを話したように思う。そして内面では、『そうだよなあ。子どもと接する職業を経験しない人には無理だろうなあ』と思った。
 特にわたしのように60を過ぎるようになると、自分の孫でもない限り少年少女たちと付き合うことは難しい。子どもは声の出し方から体を移動させる歩きや走りまで、ほとんど無意識に(動物的本能的所作として)行ってしまうからわたしたちのような大人、しかも男の年配者が苦手に思うことは当然だと思える。もちろん、下学年の子どもたちに礼儀など身についているはずもない。そういう子どもたちの輪の中に入ると、思わずむっとしたりかっとなることも決して稀なことではない。教員経験を持つわたしでも、月に1、2度は頭に血が上るほどの場面に遭遇することがある。思わずからだが反応して、10歳足らずの子どもに向き合ってしまう。もちろん次の瞬間には気持ちを抑えて穏やかなふうを装うが、わたしたちをそんなふうに怒らせる悪ガキはいくらでもいる。
 先の年配の人からすれば、最近の子どもは礼儀も作法も、言葉づかいさえもが荒れて生意気で、何か注意すれば逆にくってかかろうとする気配を示したり、実際に小生意気な理屈を口にして素直に話を聞くそぶりもないと見えるのだろう。見えるばかりではなく、確かにそうなのだ。そこには現代的な社会事情、地域事情、家庭事情などがあるのだろう。そうなってしまったのである。
 前の項でもちょっと引用した吉本の『心的現象論』のなかに、明治初期に来日した外国人の旅行記が紹介されている。それをここに転載してみる。
 
子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。
(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T
高梨健吉訳)
 
 吉本隆明は、「これらは江戸期の匂いが多少はのこっている明治十年代の日本の町筋と、村の生活のなかで、外部の異邦人から観察された子どもの姿だ。穏和で従順で親にたいする反抗や、仲間どうしの争いも抑え目な子どもの姿と、子どもたちの可愛がる父親や母親の姿も添えられている。」とまとめている。わたしはしかし、こういう箇所を読み、自分の幼少年時を思い出さずにはおれない。東北は宮城の山村に育った昭和26年生まれのわたしは、外国旅行者が観察して記述した子どもの世界、そして家族生活や地域社会内の世界が、まるで自分が小さかったころのそれらとほとんど差異がないと感じられた。わたしにすれば、つい最近まで実はそんな様子だったのだと口にせずにはおられないほどだ。幼かった日々のわたしの周辺には、たしかにここに表された明治時代の諸相がそのまま残っていたのだ。その事にうそ偽りや間違いはない。そして現在その面影は皆無だといっていい。かえって、「英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景」は、今や日本の母親たち、大人たちと、子どもたちとの関係になった。欧米化、先進国化になったそのなれの果てだと考えることが出来る。もちろん変貌したのは子どもたちの姿やその表情だけではない。父親、母親たちのそれも大きな変貌を遂げた。父や母たちの仕事や生活様式、家族や家の形が変貌し、その中で本質的に大きな変貌を強いられたのは全ての底流に流れる「時間」の変貌である。高度成長期以降に超加速化した「時間」は日本全土を席巻し、どんな田舎をも丸呑みにし、忙しく、慌ただしく、人々の心からゆとりを失わせてきた。一言でいえばアジア的な喪失に向かって一目散に走り続けてきたといっていい。
 
 わたしたち大人はよく、今の子どもたちは悪くなったとか手に負えなくなってきたと口にする。そういう面が現象的には言えないこともないが、しかしそれは受け手側の受け取り方の問題だとも言える。どういうことかと言えば、大人は変貌という、今と昔とを比較できる立場に立つことが出来て、いわば上から目線で観察するし、出来る。だが、子どもたち一人ひとりにとっては「今」というこの瞬間しかなく、ただこの瞬間瞬間の自分を表出する、生きる、それしかないのだ。そこには、そう振る舞うしかないからそう振る舞っているのだという、少年少女たちの沈黙の声が隠れている。子どもたちはいつの時代でも、意識的にそのようにあろうとしてそうしているわけではない。時代を含め、おかれた環境からそのような姿になることを強いられる。
 どんなに悪たれようが、いやな眼つきでわたしのような老いたるものを睨もうが、子どものそういう見方や反応は子どもの真実を反映するものなのだろう。変な奴だ、うざい奴だ。考えてみればそれはちょうど、飼い主ではないものに警戒を露わにする犬猫の類の反応、もっと極端に言えば野生の生き物たちの反応の仕方に似ている。子どもの目に見えるなじみのない他者、年配者、そういうものたちへの不信感と敵対心は、他の生き物たちの警戒心に見合っているようだ。そしておそらくそれは理由のあることに違いない。その理由をここで詰めて考えることはしない。それはわたしの任ではなく、その能力もない。いずれ教育学者たちがやればいいことだ。ただ、子どもたちのそのような警戒心むき出しの本能的な反応を溶かし込むには、対するこちら側が跳ね返されても跳ね返されても愛情を持って接する、あるいは理解する以外に方途がないだろうとは言っておきたい。その事を暗黙の内に示唆する文章として、以下にそれを引用してみる。
 
このことは、たとえば野原の片隅や空地の草むらに捨てられた子猫を拾ってきて育て、その野良猫出身の猫が子猫を生み、授乳し、育てるのに付き合い、その子猫がまた子を産み育てるのを見とどけたという経験をもつものならすぐに理解できよう。最初の捨て猫は拾ってきて世話を焼いたものには馴染むとして、ほんとうは孤独で身を堅くして人間に気を許さない。見掛け上、折り合いがつくような状態になっても、ほんとうは狃れることはない。
二代目の猫もやはり、心底からは人間を容れない。三代目になって生まれてきた子猫になって、はじめて周囲を警戒する孤独な構えを忘れて馴れるようになる。ただ危害を加えられそうになったとき警戒し、むき出しになるだけだ。この一代目の狃れのない捨て猫の身構えは、他にどんな理由も見当たらないから、親猫から離され、飼い主から草むらや野原に捨てられたという幼児の飢えそうな環境と母猫ときり離されたエディプスの障害そのものを、そこにみるよりほかありえない。二代目のまだほんとうには周囲に狃れていないが、すでに一代目ほどの警戒心はすこし緩和している状態は、一代目の挙動から備給された過度の警戒心を受けとったものとみなされる。三代目になるとほとんど日常的に狃れた周囲のものに警戒心をもつことがない状態におかれる。ただ無造作にテリトリーに侵入してきた猫にたいしてだけ、警戒心を発揮することがある。
(吉本隆明『心的現象論―了解論―95 原了解以前(1))
 
 わたしたちは子どもたちに接するときに、ここに記述された一代目、二代目、三代目の猫のように、警戒心、敵愾心を表面に表す子ども、一見するとそうは見えないがどこかこちら側をほんとうには受け入れてなさそうな子ども、そして人なつっこくて警戒心がなく、孤独な身構えを持たず周囲を無条件に受け入れているとでもいえそうな子どもたちと出会う。たぶんわたしたちはその差異を一瞬で察知できる。おそらくその時、わたしたちのそれを子どもたちも同じように察知している。警戒心、敵愾心を持った大人か、孤独な身構えを心の底に隠した大人か、無警戒で心を親愛に溢れさせた大人か、というように。それはちょうど先に引用した飼い主と猫との描写の場合のように、互いに警戒心を解いて接するようになるまでには長い時間の経過を必要とする。ただ、大人と子どもたちとで異なる点があるとすれば、子どもたちのその後の言葉や行動はどこまでも無意識の埒内でとられる反射的な振る舞いにすぎないのに対して、わたしたち大人は子どもらの言動を反射的なものと受け止め、いわゆる子ども故の振る舞いと許容することができる。そして子猫の一代目、二代目、三代目というように、手間暇をかけ、愛情を持ってかまってやり、無意識の核に形成された警戒心、不安や不信、堅く結ぼれた孤独な身構えといったものを溶解させていくように接することを考えるべきなのだろうと思える。またそれができる立場にある。わたし自身はやや引きこもりがちな性格だから、容易なことでは子どもたちに受け入れてもらえないだろうとはじめから覚悟している。それでいいので、しかし、わたしの側ではどんな子どもでも受け入れ、理解し、認め、子どもの身構え、警戒や不信を解いていくようにもっていきたいと願っている。
 
 今回もわたしのこの非構想的文章は、紆余曲折、右左への蛇行を繰り返すばかりだが、この時点でおぼろげに見えてきたものがひとつある。それは、なぜそうなったかは別にして、形成された無意識の核のところで子どもはもちろん大人たちも傷をこしらえていて、
現実的な還界にはその傷を癒す場もなく、緩衝地帯も設けられていないという1つの推測である。そして、大人も子どもも少しずつむき出しの自己を露出させて向き合ってきているように見える。それはまるで先に見てきた一代目の猫のような警戒心と敵対心とで、互いを見合っているようなものだ。ほんとうは全てを肯定してくれる母親の像を探しているのに、どこにもその姿を求められない。そしてまた、自らがまたその母親像に成り代わることを、誰もが堅く拒んでいる。わたしたちはこのことを視野に置いて、もう少し児童期の解明の糸口を探し続けなければならないと思える。
 
 
児童期が投げかけるもの K
              2014/09/28
 人間の子どもが児童期に至るまでに、どのような過程を経て成長・発達してくるのかを概観してみたい。
 
 三木茂夫は受胎後の胎児の姿を克明に観察し、人間の系統的発生を実証した。それによると、人間の胎児は受胎から32日後には魚類の相貌を持ち、35日には両生類、36日には爬虫類、38日後には哺乳類の顔貌を示すとして、写生された図が三木茂夫のいろいろな著作の中に公表されている。
 受胎32日から38日までの一週間足らずの間に母親の子宮内に起こる胎児のその劇的な変化は、「個体発生は宗族発生の象徴劇」として脊椎動物五億年の進化の歴史の再現をおもかげとして伝えるばかりではなく、すべての生物のその祖先を辿ってゆけば三十億年前という生物発生の当初にまで遡ることができるという見解を導くことが可能である。
 変貌は外観ばかりではないだろう。胎児期を通して肺や心臓や脳などの臓器や器官、神経や血管や筋肉などもめまぐるしく変遷の経過を辿っているのだろうと推測できる。
 では、心的な形成、成長や発達はどのような経過を辿っているのか、それを類推させてくれる記述を以下に引用してみる。
 
胎生一ヶ月
母親から数十センチ離れたところで音を出し、母親の腹に巻き付けた感知器で測定するするようにする。音が出ると振動が起こるように訓練すると、次には振動を与えるだけで胎児は足を蹴るという条件反射が成り立つ。
胎生二ヶ月
胎児はじぶんの頭・腕・胴体を動かし、母親の腹を突いたり蹴ったりして、好悪の感じを表すようになる。
胎生四ヶ月
これまでに眉をひそめたり、眼を細めたり、顔をしかめたりできるようになる。まぶたを撫でると眼をほそめる。唇を撫でると吸う。光に敏感になる。妊婦の腹にライトを当てたり消したりするだけで、胎児の心拍数は著しく変動する。
胎生五‐六ヶ月
触覚が発達する。頭をくすぐると、頭を動かす。冷たい水を母親が飲むと、胎児は嫌がって、はげしく母親の腹を蹴る。味覚が発達する。羊水にサッカリンを加えると、飲み込む回数が倍になる。逆にリピドールという嫌な味のヨードのような油液を羊水に加えると、吸引回数が激減する。また顔をしかめる。
胎生六ヶ月以後
胎児は聞き耳を立てている。胎内の音、母親の声、父親の声、母親の心拍数を聴き分けるようになる。
胎生八ヶ月
これを過ぎると夢見の状態が脳波にあらわれる。七‐八ヶ月で意識が生ずる。したがってこの前後のころから母親の態度や感情を区別し、それに心因的に反応しはじめる。
 
 これは『胎児は見ている』(小林登訳)の著者であり、心理学者のトマス・バーニーの文の抽出だが、吉本隆明の『心的現象論―了解論―95原了解以前(1)』から孫引きした。ちなみに吉本はこの部分の引用の後に、
 
T・バーニーによれば、たとえば母親が恐怖や不安の状態に陥るとカテコールアミンというホルモンが分泌され、この物質が胎盤を通過したとたんに、胎児も不安と恐怖に襲われる、と考えられている。そしてこの反応が繰り返し起こると、胎児はこのホルモンの作用によって「自我および感情という純粋に精神的な現象を、きわめて初歩的なかたちながらも意識する」ようになる。これが母親の精神的な影響を胎児が受けるメカニズムだとみなされている。
 
と記している。そして、さらにT・バーニーの引用をつづけている。
 
 これは複雑なプロセスである。これがどのように起こるかについては、2章でもっと詳しく述べることにしよう。ここでは、ただ、胎児が母親から押し寄せてくる各ホルモンによって、胎内での居心地のよいщ赴(子宮)から揺り動かされて、一種の感受性が生じるとだけ言っておこう。何か正常でないこと、たとえば不安になるようなことが起これば、胎児はすでに一己の人間として、その出来事から意味を汲み取ろうと努力する。実際のところ、新たな状況が起これば胎児は、рヌうしてなの?と、いつも自問しているのである。
 このように、脳と神経系が発達していくにつれ、胎児は徐々に、母親の肉体的な現象からだけではなく、精神的な現象からも答えを見いだし始める。もちろん、言葉で言うほどこのプロセスは具体的なものではない。しかし、胎生六ヶ月ないし、七ヶ月までには、胎児は母親の態度や感情をかなり微妙に区別することができ、また、その態度や感情に反応し始める。
 この点を明らかにした研究のうちで、最も優れたものの一つは、デニス・ストット博士が一九七〇年代の初めに行なった研究ではないだろうか。コミュニケーションがどのように行われているのかと尋ねても、胎児ないし新生児は、自分が胎内で母親のどんな感情を感じ取ったか、あるいは、それにどのような反応をしたかを教えてはくれない。だが、わたしたち大人と同じように、心に受けた影響が肉体や精神に現れることは確かだ。
 たとえば胎児が幸福だと感じれば、にこやかな表情になる。気持ちが掻き乱されれば、元気がなくなって精神的に不安定になることが多い。そして、胎児の精神的な営みをもたらすのは母親であることから、博士は、出生児および出生直後の赤ちゃんの肉体的、精神的状態を見れば、赤ちゃんが母親のお腹の中にいたとき、母親の精神状態がどうだったか、胎内で母親からどういう種類のメッセージを受けとったか、また、そのメッセージからどれだけ影響を被ったかがよくわかるのではないか、と推測した。
 
 あまり説明を要しないだろう。一般的な読者としてのわたしたちは、『なるほど』とか、『そういうものか』と了解して過ぎてゆけばよい。ただちょっと付け足しをすれば、この引用部分の記述を受けて吉本は、胎児の心的な形成は動物の心的な形成に同じともみなされるが、人間の胎児が意識を持ち始めて以後は感受反応も意識の通達も動物とはちがって高度なものになっているとそのちがいに言及している。さらにこの後吉本はT・バーニーの、胎児にたいする母親の与える影響を述べた文を引用しているが、ついでのことだからこれもまた孫引き転載しておく。
 
(1)母親が強烈であっても短時間で消えてしまう衝撃をうけたばあいは、胎児に   は、影響を及ぼさない。
(2)母親に直接な衝撃でないような不安や恐怖は長期になってもほとんど胎児に   は影響を与えない。
(3)個人的な衝撃(たとえば夫との愛情のもつれ。同居している夫の親や夫の姉   妹との感情的な対立や葛藤等)が長期にわたるときには、胎児への影響は強   い。
(4)母親の肉体的な病気、喫煙、きつい仕事などは胎児にそれほど悪影響を及ぼ   さない。それよりも(3)の要因の方が胎児に影響をつよく与え、すぐに恐   怖心に駆られるひ弱で神経質な子供の生まれる率が多い。
 
 この引用箇所に続いて吉本は次のように見解を示している。
 
 わたしたちはここでT・バーニーらのエディプス形成にたいする前還界あるいは原還界の作用の繰り込みともいうべき考え方に当面している。母親の胎内(子宮)は胎児にとってはじめての還界で、ここでの生活が好適なものであれば、無意識のうちに還界は好適なものだという最初のすぐれた適応性を獲得することになる。またこの原還界の生活が不安や恐怖に動揺する状態に囲まれていると、胎児は猜疑、不信、疑惑、硬直性を持って最初の還界を迎えられることになる。
 ところでこの中間に母親の両価的な感情をうけて、相反するふたつの極に振幅を繰り返している胎児のばあいが、当然に想定される。たとえば母親が働いていたり、経済的な急迫があったり、夫や夫の両親との不和のために、胎児を育てる気持ちやゆとりがなくて、胎児の存在に冷淡であったり、投げやりであったり、拒否的であったりするばあいや、逆に周囲が母親にそういう考えを強いているにもかかわらず、母親はそれに反抗して子どもを心から産みたいとおもって大事に胎児を育てていたりといったばあいに、胎児はかなり複雑な感受性や内向性をもつようになるとかんがえられる。
(『心的現象論―了解論―95原了解以前(1)』)
 
 以上いろいろな引用をつづけてきたが、そこからまずわたしは二つのことを考える。
 ひとつには、妊娠から出産までの過程は、およそ他の動物(とくに哺乳類において)と人間とは同じ過程を踏むということだ。基本的に、同じように心身の形成の成長と発達が母胎の中で営まれているということ。
 二つ目として、にもかかわらず、特に人間の胎児が意識を持つことにより、より複雑で高度な心的形成を行うことに明らかなように、人間の心身の成長と発達全体において動物の場合とはちがう高度さがあるということだ。またそのことに関係するが、受胎から出産に向かう過程で人間の母親の果たす役割は、あたかも一定の角度なのに中心から遠ざかるほどに間の距離が大きくなるように、影響のメカニズムは拡大して、新生児には驚くほどにその母親の影響が刻印されるものであることが理解される。言いかえれば新生の生命は、始源の差異を大きな差異に変貌させることになる、その母親というフィルターの形式を介して、つまり拡大された差異を初めから背負って誕生してくることがわかる。
 わたしたちはこういう実際、こういう現実を動かすどんな力も持たない。だが、母親が胎児に影響を及ぼすことの大きさを知る以上、胎児と母親との関係に及ぼす環境がどうあればよいのか、また母親の心身がどうあることが理想的なことなのかについて考えを巡らせることができる。そして新生児として産み落とされた乳幼児にどんな環境が整備されたらよいのかということにも、およその類推を働かせることができるというべきである。
 
 
児童期が投げかけるもの L
              2014/10/05
 三木茂夫の『内臓とこころ』(二〇一三年、河出書房新社)は、『内臓のはたらきと子どものこころ』(一九八二年、築地書館)を元本とするその文庫版である。主たる内容は保育園での講演を原稿化したもので、「T内臓感覚のなりたち」「U内臓とこころ」「Vこころの形成」の三部構成になっている。またそれぞれに中項目、小項目があり、中項目には講演用に作られたと目されるプリントの内容が示されている。ここではこのプリントの内容を中心にして、大項目、中項目、小項目の順に、一覧のかたちで配置し直してみる。
 
 「T 内臓感覚のなりたち
 
1 膀胱感覚
「膀胱は直腸と共に、中身が詰まると収縮する。この感覚は、尿意・便意となって意識に上るが、おしめの取れた幼児たちは、それを自分で覚えるまでに失敗を積み重ねてゆく。この中身の刺激による内臓筋の収縮は、内臓感覚の一方の柱をつくるが、これを素直に受けとめる感受性は、この時に養われる。」
 
「オシッコ!」
快と不快
内臓不快
 
2 口腔感覚
「顔は内臓の前端露出部だが、唇から舌にかけての感覚はとくに鋭敏で、これら先端部の構造は食物を選別する精巧無比の内臓の触覚となる。この機能は正常な哺乳によって日々訓練されてゆくが、やがて赤ん坊はすべてをなめ廻し、将来の『知覚』の成立に備える。」
 
顔と口と舌
正常な哺乳
рネめ廻し
 
3 胃袋感覚
「胃は膀胱型の収縮を営むが、一方、手足の骨格筋と同じく日リズムに乗って、夜は眠り、昼間は収縮して食物をねだる。こうした波は年間を通しても見ることができるが、これら宇宙的な要因による収縮は、内臓感覚の、もう一方の柱をつくる。」
 
生活のリズムと空腹感
夜型と朝型
日リズムと年リズム
 
 
 「U 内臓とこころ
 
1 内臓波動―食と性の宇宙リズム
「すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球がюカきた衛星といわれ、内臓が体内に封入されたэャ宇宙と呼びならわされるゆえんである。
 
内臓は小宇宙
食と性
生命と宇宙リズム
 
2 内臓系と心臓
「内臓系の中心に心臓が、体壁系の中枢に頭脳がそれぞれ位する。日本人の祖先が、前者の心臓を象る『心』字(実際には象形文字が当てられている―註・佐藤)でもってрアころを表したのは、かれらが心臓の鼓動を、いま述べた宇宙的な内臓波動の象徴として捉え、さらに、こうした宇宙との交響をрアころ本来の機能として眺めたからであろう。
 
神経と血管
рヘらわたを見直す
こころとあたま
 
3 心のめざめ―内臓波動と季節感―
「動物では心がいわば眠っているので、その内臓波動の自覚はない。これに対して人間は、うねりを時の移ろいとして実感することが可能である。эt情そしてюH欲の秋などの言葉が示すように、人々は季節の感覚として、食と性の推移を思う。それは人の心が目ざめたことを如実に物語る……
 
生物の二大本能
動物のこころとヒトの心
季節感とこころ
 
 
 「V こころの形成
 
1 指差し・呼称音・直立―満一歳
「人類では心臓に象徴される内臓感受系の覚醒により、森羅万象に心が開かれてゆくが、この好奇心の異常な発達は、赤ん坊に、その六ヶ月からのなめ廻し、満一歳からの呼称音を伴う指差しを相ついで促し、ついにそれは視界拡大のための直立においてきわまる。」
 
よみがえる生命記憶
指差し
立ち上がり
 
2 言葉の獲得―象徴思考―
「太古の直立人にとって、森羅万象の一々は、それぞれのш轤ツきで語りかけるものであった。その語りかけにたいする心の応答が、原初の芸術と「言葉」になって表れるが、言葉はその生きた記念碑として、先祖代々、日々の生活のなかに受け継がれて今日にいたったものである。言語習得の本格化する、二―三歳は、だから心情涵養の黄金の日々である。
 
р烽フとрネまえ
言葉の起源
声―鰓呼吸のなごり
 
3 三歳児の世界
рたまはрアころの目ざめを助ける。それは遠く指差しに源を発し、ついで言語修得の覚束ない舵を取りながら、やがて独り言が無声化してゆく三歳児の世界でついに一人立ちし、ここに『自己』が産声を上げる。後年『自我』の跳梁に虐使される歴史人が、深い郷愁の念をもって振り返るのが、あの先史時代であるが、三歳児の世界は当時のおもかげを再現するのではないかと思う。
 
天翔け天る象徴思考
概念思考―自己の誕生
三歳児のこころ―桃源郷の世界
 
 
 順番をなぞっていえば、はじめに「内臓感覚のなりたち」についてが述べられている。そこでは内臓感覚のなかでも比較的わかりやすい「膀胱感覚」、「口腔感覚」「胃袋感覚」の3つが取り上げられ、それぞれの働きや性格の違い、また特に「膀胱感覚」や「胃袋感覚」では不快感が正確に伝達されずに、様々な妄想や煩悩の引き金になっていることなどが述べられている。つまるところは、日常生活の上でもっとも身近な感覚でありながら、わたしたちがかえってこれらについてあらためて深く考えることをしない現状についての指摘がなされている。
 おそらく人類の初期、すなわち動物生の状態の時や動物そのものであったならば、これらの内臓感覚は一義的であるに違いない。つまり本能として正確に感覚されて、それに促された行動に結びつくはずだ。しかし、現代に生きるわたしたち人間は眼や耳からの情報刺激にとらわれるあまり、内臓感受の受け取りに混線が生じて、いわば内臓の声を正しく聞くことができない。
 たとえば野生の動物では過食による肥満がないと言われるが、なぜ人間や動物のペットにはそれがあるのか。そこには三木の言う内臓感覚の麻痺や、本能の麻痺といった事態が当然考えられてくる。またイヌやネコなどは悪いものを食べると庭の草を食べて自ら処方するというが、内臓感受が正確で本能的に食べたものによって食べる草の種類も違うらしい。現代のわたしたちはそれをすっかり医者任せにし、すでに民間に伝承された療法もほとんど廃れてしまってから久しい。
 Uの「内臓とこころ」では、植物と動物が季節の交代にしたがってはっきりと「食の相」「性の相」とに別れ、また交互にこれを繰り返すものだということが初めに指摘される。
 シャケの海への回遊と川への遡行、またイネは春の苗から夏に向かって葉を茂らせ、秋には実をふくらませて黄金の波を打つというように。そこでは動物、植物いずれも太陽と地球との関係、地球と月の関係、あるいは火星や土星、それらの衛星との関係などにまるごと感応して、それがそれぞれの生活を形成していることがあらためて知られてくる。
 
 ここまできますと、もう動物の体内にこうした宇宙リズムが、初めから宿されていると思うよりないでしょうね……。そして、その場が内臓であることはいうまでもない。もっと厳密にいえば、内臓の中の消化腺と生殖腺でしょう。この二つの線組織の間を、そうした食と性の宇宙リズムに乗って「生の中心」が往ったり来たりしているのです。
 
 中項目の「2内臓系と心臓」では、まずは「体壁系」と「内臓系」の解説がなされている。分かりやすく言うと、魚をおろす時に出すはらわたが「内臓系」で、そして残った食べる部分が「体壁系」、頭は両方がくっついたものだ。
 
 さて、ここであらためて、いま申しました「体壁系」と「内臓系」のそもそもの関係を考えてみなければならない。それは、生命の主人公は、あくまでも食と性を営む内臓系で、感覚と運動にたずさわる体壁系は、文字通り手足に過ぎない、ということです。つまり内臓系と体壁系は本末の関係にあるわけです。ところが私どもの日常を振り返ってみますと、目につきやすい体壁系にばかり注意が注がれ、いわば前端の顔しか見せない内臓系のほうは、ついおろそかにされているのが現状のようです。まさに本末転倒ですね……。そしてこのことは、あとでくわしく述べますが、この両者を代表する、いわゆる「頭」と「心」の関係についてもいえるのです。
 
 さて、三木茂夫は先の言葉で言う「体壁系」の代表格、シンボルを「脳」に見て、「内臓系」のそれを「心臓」に見立てる。さらにこれを「あたま」と「こころ」の言葉に結びつけて、そして、
 
つまり前者の「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する―一言でいえば、あたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。
 
というように、わたしたちの心的な世界、あるいは精神世界というものを別けてみせる。
 かつて三木の著作のなかでこういう考えや捉え方、そしてこのような別け方に接したときに、強い衝撃をうけた。とりわけ、こころは感じるもので、それが深くは内臓に起因するものという考えに触れてから十数年後の今日にいたるまで、ひとときも脳裏を去らなかったと言っていい。言い方を換えれば、その後、熱に浮かされたように『こころの根原は内臓にある』という三木茂夫の言葉を繰り返し呟きつづけてきた。
 次の「3心のめざめ―内臓波動と季節感」において、三木はプリントにも示されているように、動物と人間の心のちがいに言及している。講演の語りでは次のように記録されている。
 
 ここでは、まず目からの感覚―視覚が起こります。もちろんこの時は、眼筋をはじめとするもろもろの筋運動がこれに伴う。これは、ですから体壁系の出来事です。そこで問題は、この一瞬です。ここで間髪を入れずに、この肉体の奥深くから、心の声が起こる。これがまさに春情というものです。内臓の波動が、ここでよみがえったのでしょう。
(中略)
 ですから「春!」と感じた時、内臓の奥底に、そこはかとない「性」の萌しが起こったとしても少しも不思議ではありません。私ども人間では、こうした心情の営みが、はっきりと「意識」される。大脳皮質まで登りつめるのです。要するに、ひとつの「実感」として、いま申しましたように肚の底から感じとることができるのです。人間の心が目ざめているというのはまさしくこのことです。心の眠っている動物には、こうした目ざめの実感というものはない。動物で目ざめているのは、肉体だけですから……。
 
 三木は、繰り返し肚の底からという言葉を口にしているが、「内臓の奥深くから共鳴して感じとることができる」そのことに、рアころが健在か否かの証が表れると教示しているように思われる。
 田んぼに黄金の波打つから、秋。これは頭で考えることで、ほんとうの実感は季節の現象に肚の底から共鳴する、内臓感覚がうねるように大脳皮質にこだまする、それがрアころで感じることなのだと三木は言う。そしてこれが動物にはない、と。
 わたしたちはここまできてはじめて、胎児および乳幼児の心に出会えるような気がする。それは考えることに馴れた大人のわたしたちにとって、いつか来た道、に他ならない。だが、それは同時に、あまりにも遠く離れてきた道と言えるのかもしれない。おそらく三木は、乳幼児の心に出会うためには考えることばかりに頼っているのでは駄目なのであり、考えることを放棄して、同じく心(感覚的、感性的)によるのでなければ出会えないのだよと教えている気がする。わたしたちは自問しなければならぬ。わたしたち大人に心(感覚的、感性的)は残存しているだろうかと。
 さて、ここからいよいよ「V こころの形成」に入るのであるが、ここでは前回のトマス・バーニーの考察が示す胎児期そして乳児期のあり方とはちがい、満1歳から3歳までの幼児期が考察の対象となっている。これは三木が図示した「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」の進化の区分からいえば、原人から旧人、先史人に対応づけられ、これら数百万年から数千万年の歳月が、わずか数年に濃縮されて現れ出るものであると考えられていることを前提に、三木の言葉を理解していかなければならない。ちなみに先史時代について、三木茂夫は3歳から10歳までの期間を考えており、歴史時代は10歳以後になるとしている。
 生後六ヶ月の「なめ廻し」は「こころの目ざめ」の準備段階であり、はっきりと「こころの目ざめ」の標識となるのは1歳前後の指差しの行為においてであろうという指摘がある。また三木は、そこには「印象像」と「回想像」の二重写しが現れるとも述べている。いまの「これ」に、かつての「それ」が浮かび上がるということだ。そしてこの幼児の指差しには、やがてあのワンワン、ニャンニャンという「呼称音」が加わって、これは人間と動物を区別する「言葉」の最初の姿であると共に、思考、すなわち「あたま」の働きの兆候を示すものでもあるという。そしてまた幼児の「立ち上がり」にはのっぴきならない促迫が感じられるものであり、これには「遠」にたいする人間の強烈なあこがれが加担していると見る、三木の考え方も示されている。
 結局のところ、中項目のはじめのここでは「直立歩行」と「指差し」や「言葉」に見る「心の目ざめ」とにおいて、人類黎明期が重ね合わされて考えられているように思える。まさにそれは人類誕生前夜の暗喩だと言ってもいい。わたしたちは乳幼児に出会いながら、遠く人類誕生前夜(自己意識の所有)の祖先の面影に出会っている。歴史区分では原人の時代が始まっている。
 次に満2歳ごろだが、同じく進化的には旧人の時期に対応づけられる。ここではこの時期が「言葉の獲得」が本格化するとして、子どもにとって、またわたしたち人間全般にとってどんな意味合いをもつのかを拡張的に捉えて示される。
 満1歳半くらいから、幼児はみな例の「コレナーニ」を連発してくるというが、これは「なめ廻し」の経験も記憶もない初めて接するイメージのつかめないものに対して、幼児たちはいわば宙に浮いた印象像を、記憶の回想像に代わる「言葉のひびき」で受けとめて実感する、いってみれば代替行為のようなものだという。あの指差しの時の「あれ」と「これ」が、ここではものとрネまえの一体化にかたちを変えて、二者一組の体得へと高度化を遂げていることが理解される。幼児たちはものに言葉をかぶせるだけで
満足を得ることができる。わたしには口と舌とを使ったあの「なめ廻し」が、外界のすべてを言葉を使って心的に「なめ廻し」している行為のように思える。
 さて、小項目を見るとわかるように、ここから三木の話は「言葉の起源」や「声」についての生物学的な考察がなされる。
 言うまでもなく、人間の感情や思考および言語の発生には脳の高度な発達が深く関与している。いわゆる人類における異常な連合野の拡大である。人間の「声」が「言葉」という独自の機能にまで分化を遂げた背景には、連合野の拡大に伴う象徴思考の発生と大脳皮質の段階での融通無碍なる感覚の「互換」があるためと考えることができる。
 人間の思考形態については、大きくとらえて象徴思考と概念思考とがあり、起源的には象徴思考のほうが古いとされている。このことはわたしたちの成長過程について考えても同じで、概念思考は象徴思考のあとに発現してくる。
 日本人は世界でも冠たる象徴思考の民族で、日本語の基盤や特色もまたこの象徴思考に支えられていると三木は言う。とくに言葉のヒビキを大切にするとして、例として「ヨチ・ヨチ」「ヨロ・ヨロ」「テク・テク」「スタ・スタ」などが挙げられている。
 次に「声」についてであるが、ここではそれが古代魚類の鰓呼吸のなごりというようにも説明され、三木茂夫の他の著作にある同様の説明と共に、わたしには驚きと自分の無知を知らしめられる連続であった。少し長くなるがこの部分を引用しておく。
 
 人間の声は、рフどぼとけすなわち喉頭腔に発した音源が、咽頭腔から口腔・鼻腔で、実に複雑微妙に修飾される。ここから、ありとあらゆる言葉が生まれるのですが、この喉頭から咽頭を経て口にいたる部分―これが問題の領域です。本日の話の初めに「鰓腸」だと申しましたが、要するに、腸管の最前端部です。
 サメが口を開いた時に、なかがまる見えになる。ロココ時代のような高い天井。床はザラザラの骨舌。舌といっても、これはまったく動きません。そしてその両側の壁面―ここには天井から床へ大きな弧を画いて裂け目が走る。その縁には唐草模様の突起がズラリと並ぶ。鰓の裂け目です。鰓裂と呼んでいます。これが数条、両側の壁面に鋭く切れ込んでいる……。
 この口の奥に開かれた、鰓の大広間こそ、はらわたと呼ばれているものの代表です。この領域の感覚と運動は、最高度の分化を遂げている。外敵には鋭い目を注ぎながら、安定したリズムで水を吸い込んで、この両側の鰓裂から外に放出する。その時にガス交換を行う。これが鰓呼吸であることはご存じでしょう。こうした感覚と運動がしっかりしてなければ、満足に呼吸ができない。一方、またもうひとつのリズムで餌を一緒に取り込む。巨大な獲物から、プランクトンまで正確に見分けて……。しかも小動物は鰓から出してはいけない。ちゃんと食道のほうへ導かなければいけない。この感覚・運動の働きが鈍いと栄養が保証されない。はらわたの機能に「食と性」があるといいましたが、この領域は、まさに食の最前線に位するрヘらわたの顔に当たる部分といえます。一四三ページの図をごらんになってください。これは、この鰓あなを動かす筋肉が、人間はどうなっているかを示したものです。この話の初めに、人間では頸から下がくびれて、のどぼとけに退化変身したと申しましたが、その状態です。これでおわかりと思いますが、声の発生源である、のどぼとけの喉頭筋も、さらに、この声を言葉に直す、咽頭から口腔にかけて複雑きわまりない筋肉も、すべて鰓の筋肉の衣がえしたものであることが示されている。要するにрヘらわたの筋肉なのです。
 人間の言葉というものは、こうしてみますと、何と、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。脊椎動物の五億年の歴史を遡る時、私どもは、否応なしにこの事実に突き当たることになるわけですが、いずれにしても、人間の言葉が、どれほどрヘらわたに近縁なものであるかが、おわかりになったと思います。それは露出した腸管の蠕動運動というより、もはやщソきと化した内臓表情といったほうがいい。なんのことはない―рヘらわたの声そのものだったのです。
(中略)
 ここから本日のテーマ「内臓の感受性」が「言葉の形成」と、切っても切れない間柄にあることがわかってまいります。それは、いいかえれば「心で感じること」と「ものを話すこと」の両者が、まさに双極の関係にあるということです。あの感覚と運動の同時進行―すなわち内臓の感受性が高まった、それだけ言葉の形成も的確になる。逆にいえば、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれるというものです。
 
 言葉の初源は声であり、わたしたちはこれをほとんど無意識のなかで行使することができる。つまり発話したりそれを聞いたりする時に、自分も対手もどのようなかたちで「あ」とか「い」とかを音声につくって出しているかなど考えることはない。たぶん、学校で教わったこともなかったと思う。
 ここで何が言いたいのかといえば、わたしたち人間にとってもっとも使用価値の高いという側面をもつ言葉について、わたしたちはその発生から、あるいは自分がどのようにして言葉を声として口にすることができているかということまで、いっさい知らずにこれを使ってきたし現に使っているということだ。それで済んでいるのだから、それでもいいといえば言えるのだが、よく考えてみればほんとうはだれにとってもいちばんと言っていいほどに、理解しておくことが大切なもののうちのひとつであると思う。
 三木茂夫はそれをここで明かしてくれているのだが、これを読むと、わたしたちは言葉としての声を、魚の鰓を用いて作り出しているのだということが理解できる。文字通り、言葉はрヘらわたの声、内臓の声、щソきと化した内臓表情であることがわかる。
 つまりわたしたち人間は、外界の現象や出来事のうち、ほんとうに体の底で、内臓で、感受し受けとめたものを、同じく体の内側と言っていい内臓によって表現しているのだ。これはどの生き物にも見られる、あの「入―出」の関係を彷彿とさせる。そしてそればかりではなく、言葉本来が感受と表裏一体のものであることや、その初源において感受にたいする反射作用としてあり得ただろうことが想像される。もっといえば、言葉は初源において、考えて口から発しられたものではなく、内臓に突き動かされるようにして口をついて出たものだと言えよう。叫び、感嘆符、わたしはそう考える。そしてさらにこの時、内臓の感受性、物を感じとる能力、それがどれだけ鋭敏であるか、どれだけ豊かであるか、それが言葉の質、言葉の中身に深く影響するだろうことは、もはやだれにとっても明らかなことであろうと思える。「すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれる」という三木茂夫の言葉に、だれもが納得させられるだろう。また、幼児の心情の育成にとって、言葉という物がどれほど大切かということにも当然のようにわたしたちは思い至ることになる。そこでもっとも顕著だと言えるのは、母親に代表される養育者との、乳児期、幼児期における会話のやりとりであろう。わたしたちはそこに、ゆっくりとしたやりとり、たっぷりと愛情を注いだやりとりを理想として思い描く。乳幼児期の子どもの育成において、これ以上にかけがえのない時間というものはないとわたしには思える。
 さて、三木茂夫の「内臓とこころ」の最終、「こころの形成」も最後に近づいた。「3歳児の世界」である。
 ここでは初めに思考のかたちが取り上げられている。まず1歳ころの指差しに見られる指示思考。2歳ころではこれが高度化して象徴思考となる。指示思考も象徴思考もほとんど同じ思考形態のことなのだが、これは「指示」の側面を強調するか「象徴」の側面を強調するかのちがいである。1歳ころはより指示性が強い傾向をもち、2歳ころはより象徴的な面を持つようになるのだと考えてよいと思う。ちなみに2歳ころになると、幼児は月が雲に隠れるのを見て「オツキサンオウチニカエッテオネンネ」等と言うように、強力に象徴世界に溶け込むのだと三木は指摘している。
 指示思考が発展して象徴世界を存分に味わうこの時期に、しかし概念思考の兆しも現れるのだという。タドタドしく数を数えるのがこの概念思考のハシリで、だいたい2歳半を過ぎる頃のことといわれる。
 
最初の指差し―いわばрアころ優先の象徴的な思考から、最後の把握―рたまだけの概念的な思考へ、だんだんエスカレートしてゆくのが、どうやら人類の思考の歴史のようです。
(中略)
二歳から三歳までの一年間は、言葉をたくさん覚え、いろいろと見立てをして豊かな象徴の森を思いっきり跳びはねる、まさに黄金の日日と呼ぶに相応しい歳月と申しましたが、こうしてみますと、この一年は同時に概念の世界に足を踏み入れる重大な時期でもあることが、わかっていただけたかと思います。
 こうして二歳半から三歳近くになりますと、いよいよお話が本格的になってくる。たどたどしい口調ですが、ちゃんと大人を相手に立派にひとつの筋を追っているのです。そこでは言葉の概念が成立して、いわゆる体をなしている。そして話の全体のなかに、かすかながらちゃんと「自分」というものができているのです。
 
 注意したいのは概念思考が生じて「自己」の成立を迎えるまでに、乳幼児には自他の区別がはっきりとはしていないということである。またこれを歴史区分に対応づけて言えば、原始未開に生きた原人や旧人も同様に自他の区別の意識はなかったし、太陽の動きや月や雲や風に吹かれる草木の動きなどの自然に対しても、他の動物や自分たちのような生き物との区別もつかなかったにちがいない。
 わたしたち大人はこの時期の体験を遙か無意識の底に沈めながら明日に向かって対処してこなければならなかった。そのために乳幼児期のことはよほど思い詰めて思い出す努力をしなければ思い出すことはできない。わたしなどはどう努力しても駄目である。子どもの仕草や行動や片言の言葉を聞いて、さらにその上でよくよく考えて、はじめて、ああそうなのか、そうだったのかと合点するほかにない。その面でもわたしは三木茂夫の著作から人間について、また人間が生きることについてのたくさんの本質を学んだという気がしている。このほかにもまだまだたくさんのことを言いたい気がするが、それは後日あらためてということで先に進んでいく。
 
 五月晴れの庭でひとりでドロをこねています。ゆっくりゆっくり……。そのまなざしは何か遠い彼方に向けられている。
(中略)
 ところで、この遊びに熱中している時、なにかときどき呟いているのを、皆さんもご存じでしょう。それもかすかに聞こえるか聞こえないか、といった感じで……。子どもというのは、この頃までは考えたことはみな口に出す、というよりものをいいながら考える、といわれております。私たち大人は、これに対して黙って考える―いいかえると自分を仮想の話し相手にして無声の対話を交わす、というのです。いわゆる「思考」とはこのことだそうですが、いまから思えば、あの呟きの、まさに消えようとしたその瞬間が、実はこの思考のはじまりだったということになります。
 こうしてみますと、その情景はыlえる人―ホモ・サピエンスの誕生を象徴的に再現した、あるいは決定的な瞬間ではなかったのか、ということになる。私たちにとって、もの思う人類の誕生は永遠のテーマですが、この三歳の世界に、その問題のすべてが秘められているように思われてならないのですね……。
 
 私たちはここでの三木の語りのなかに、前回の冒頭で記した胎児期の、脊椎動物五億年の歴史の再現のように胎児の顔貌が変化する様子を観察した系統発生論的展開が、ここにも見事に活かされていることが見て取れると思う。そして実証はできないまでも、三木のこうした考えはほぼ妥当なものだと思える。
 さらに、三木は幼児の3歳というこの時期を私たち現代人の郷愁を誘う「エデンの園」、「桃源郷」の世界に対応付け、そのおもかげを見るようだと述べている。
 どうして三木がこう考えるかはわたしには明らかなように思える。
 胎児の未明から、3歳にいたるまでに、幼児はрアころ優先ともいうべき象徴思考、象徴世界の住人であり、その世界は自他の境界、生物と無生物の境界を持たないという特徴がある。そうしてあらゆるものに親和的であり、母親や養育者が自分にそうであったことを真似るように、すべてのものを受け入れ、愛情ゆたかに優しく、肯定的に、また確信的に接することができる。3歳にいたってもこの性質は変わらず、なおそれを基盤として、しかし人間らしく自己というものを持ち始め、外の環境、還界に向かって一歩を踏み出す、そんな生命の輝きを感じさせられる。いわゆる「かわいい盛り」とはこのあたりの時期をいうと思うが、幼児らしさ、子どもらしさのр轤オさが最高に現れるひとつの時期と三木茂夫は言っている。思考の形態で言えば、先の象徴思考と新たな概念思考が見事にマッチして併存する時期といえば言えるだろうか。
 やがて象徴思考のほうは徐々に背景に退き、現代に生きるわたしたち大人となると、「オヒサマガワラッテイルネ」などに苦慮するように、ほとんど幼児期のそのような体験的意識は忘却の彼方に置き忘れてしまう。そして、残ってエスカレートしていく概念思考にあけくれ、あげくに自我の跳梁とこの概念思考によって自らを苦しめる事態に陥っていく。つまり無限にрたま優先の過程に幼児期を過ぎて入っていくことになる。極端に言えばこの時期を越えて、もはや理想郷と呼べるものなどどこにも存在しないのだ。時代区分で言えば、3歳児の世界から10歳くらいまでが先史時代にあたり、それ以後は歴史時代の始まりから現代までということになる。それはつまり、一面においては三木が言うところのこころを消失していく過程なのだ、と言えなくはない。三木茂夫はこの先の人間の未来を、著作のなかで何度も絶望的、悲観的に、小さくかすかな呟きとして語っている。だがそれはほんとうに悲観し絶望しているからというのではない。それは少し違っている。もしもほんとうに悲観し、絶望しているならば、そのような呟きも、人間や心に関する種々の考察もなし得るはずがない。おそらく三木は、рたまとрアころが見事な調和を見せた先史時代、そして3歳児の世界を自然過程が生み出した一種理想の世界と思いなし、こんどはこれをわたしたち人間が未来を構想する際の基本的なイメージに置いて、近似の理想社会、理想世界を築いていくべきだと考えていたのであろう。また、そうあらなければならないと考えていたと思う。
 今日の社会における唯脳論的な、脳がすべてといった脳一辺倒の風潮のなかにあって、繰り返し内臓の見直しと復権、はらわたの見直しと復権を訴えつづけたのにはそうした理由があったに違いない。
 
 いま、不登校、いじめ、学校内暴力や家庭内暴力、そして異常や病的を思わせる子どもの親殺し、祖父母殺し、また同級生の殺傷事件の頻発を見る時、わたしには吉本隆明や三木茂夫の考察と全くの無縁にそれらを深く理解し、根本的、根源的対策を考えたり講じたりすることはほぼ不可能だと思える。現に私たちの社会がとっている対策のほとんどは、抑止する段階、つまり表面化を抑える対策ばかりでこれに全力を注いでいると言っていい。これが悪いとわたしはいうつもりはない。これでなんとか収まったり減少する、底の浅いトラブルも多いからだ。だが、本当に根の深いところに起因することがらは、そんな抑止策で解消するはずがない。そしてそんなことでお茶を濁している間に、根が深いところからのものはいっそう深くに潜り込み、しかもそれはゆっくりと拡大していく。これは、ここまでの記述を読んだ読者には、この文脈の流れのなかにおぼろげに実感されることだろうと思う。
 いま社会は、本質的な問題をすべて先送りにして、これを家庭のしつけの問題にすり替え、周囲の無関心な大人の問題にすり替え、教員の指導力の問題にすり替え、子どもの性格の好悪の問題にすり替え、善悪の問題・道徳の問題にすり替え、学力や家庭学習の問題にすり替え、学校と家庭の間に限定した周囲の環境の問題にすり替え、ゲーム機や携帯電話やスマートフォンの普及の問題にすり替え、テレビ視聴が長い問題にすり替え、朝食を含めた不規則的な日常生活の問題にすり替え、さらに言葉づかい、優しい心、礼儀正しさ、正義心等々、からめてから子どもの世界に干渉し、包囲している。そして、わたしはこれがもっとも子どもに悪影響を与えるものだと信じて疑わない。子どもの世界を不毛にする悪しき干渉で、わたしが子どもならばきっと水面に浮かぶ金魚のように呼吸困難に陥ると思う。
 考えてみればこの社会と子どもの構図は、世界の警察を自認するアメリカと、たとえば今日に見られるアフガンの現状に似て見える。アメリカは他民族の反感を買い、そのことによってテロが起きたことを承知しながらテロの撲滅と称してアフガンをはじめとする他国に果敢にそして強力に干渉する。他国の国民や政権が幼稚で非民主的な生活に置かれているとしても、他国のことは他国に任せろというこれまでの世界規範を易々と乗り越えて出向いていく。
 子どもの世界もそうだ。先述したように、子どもは象徴世界の住人であり、大人はそこを卒業し、とっくに象徴世界がどういうものかを忘れているのに、社会は、大人たちは、概念思考を携えてその世界に土足で踏み込んでいく。子どもの世界は子どもの世界だという観点がない。子どものためなら、どんな干渉も許されるとまるでアメリカのように思い込んでいる。
 けれどもテロもそうであるように、子どもの世界の異常や病的と見える現象にも、必ずしも好きこのんでそうなったばかりではなく、そうならざるを得なかったという原因や動機がかならず隠されている。アメリカや今日の日本社会の干渉が功を奏さないのであれば、そしてその間にさらに犠牲を生む状況が続くのであれば、干渉はしない方がましなのだ。
 テロなどと子ども世界とを比較するなどとんでもないといわれそうだが、例えは悪いがわたしの真意は曲解しないでほしい。
 とりあえず話をこのまま進めれば、子どもの世界に対してわたしたちは大人の考え、大人の尺度でその世界を見てはならないということは確かだと思える。けれども、現実には大人の考え、大人の尺度で子どもの世界に乗り込んで、そしてその世界を裁断する大人たちが多い。これもまた致し方ない面があり、これを悪いというつもりはないが、自分の尺度が何にでも通用すると考えたら、それは傲慢というものだろうとわたしは思う。それこそが本当の弊害になるということがわからない。とはいえ、わたしもまたここでは何かえらそうな口ぶりになって、何事かの弊害を生み出す契機をつくる気配が感じられてきた。いったん今回の考察はここまでとしておき、終了することとする。
 
 
児童期が投げかけるもの M
              2014/10/12
 前回、前々回と、児童期のことから離れ、胎児期や乳幼児期のことを概観してきた。
 胎乳児期については、子どものこころの形成にとって母(養育者)子関係がいかに重要な影響を持つかを見てきた。また前回は三木茂夫の『内臓とこころ』を振り返り、こころの根源ともみなされる内臓の生物学的な考察を踏まえ、内臓感受の鋭敏さとこころの豊かさとが表裏一体の関係のあることを見てきた。そして、後者からは、幼児のこころの形成にとって内臓の感覚が正常に、また鋭敏に育つことが大切なことであることを教わった。
 
 わたしたちはこのシリーズのKで、明治の初めごろに日本を訪れた外国人旅行者の旅行記を目にしたが、そこに映し出された江戸期の名残を止める子どもたちの様子が、まるで異国の地の、より具体的に言えば、時々テレビで見かけたことのある、アジアの辺境かアフリカ少数民族の中に育った子どもたちであるかのように思われた。つまり、子どもの成長ということに限っていえば、遅れた文明のなかで貧しげではあるけれども、愛情の面からはこれ以上にない理想的な環境のなかにあると見えたのである。現在の日本の子どもたちの世界は、それとはまったく違っている。外在する文明の進歩に追われるようにして、大人の世界も子どもの世界も忙しげで、お互いにゆとりを失っているように見える。比較するために、前に引用した箇所をここでもう一度振り返って見ておきたい。
 
子どもたちは両親と同じようにおそくまで起きていて、親たちのすべての話の仲間に入っている。
 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情を持って世話してやる。父も母も、自分の子に誇りを持っている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時頃、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集って腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。その様子から判断すると、この朝の集会では、子どものことが主要な話題となっているらしい。夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒のなかに囲まれてマロ(ふんどし)だけしかつけてない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むがそれと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T
高梨健吉訳)
 
 はじめの記述を見ると、母親ばかりか男親もべったりすぎるほどに子どもに愛情を降り注いでいる情景が思い浮かんでくる。それに輪をかけて近隣の大人たちも適度な愛情を持って世話するとなれば、子どもたちが「怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりする」はずがないと、これは確信的に思えてくる。また、朝晩そんなふうに親たちが子どもに寄り添っていたら、「膀胱感覚」「口腔感覚」「胃袋感覚」といった内臓感覚への配慮も十分になされ、三木茂夫の言うこころの形成にとって、これ以上にない環境があったと考えられる。
 現代の日本の社会に営まれる家庭の様子はこれとは大きく違っている。「英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景」が、おそらくは多くの家庭に見られることになっている。家庭ばかりではない。学校の先生たちも、保育所や幼稚園や児童館といった公共の施設においても、子どもの世話をやく場所では先述した英国の母親のような振舞いを余儀なくされているに違いない。そうして子どもたちはといえば、それらのいたる所で、「怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたり」していることが観察されるようになっている。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。その理由について語る人の口の数と同じ数の、山ほどの理由が世間には散乱している。けれども、その中から決定的と思われる、だれもが納得する理由を探し当てることは簡単ではない。多くのものは、帯に短し襷に長し、である。こうなると、それらすべての理由の総和が理由であると言いたいくらいだ。そういいたいくらいに重層的であり重畳的であり多面的だ。
 個人的な見解と断った上でわたしはまず、それらの理由の一つに挙げられる、子どもがダメ、親がダメという良識者風の見解を排除し、併せてそうした声が主張する、親の教育、子どもの教育をし直す、見直すという観点を排除しておきたい。少なくとも現行の社会的な風潮のもとに構成される、教育内容や方針を拡充されたのではたまったものではないと思うからだ。
 これにはわたしなりの理由がある。それは、一見すると明治期と現在の親子とはその様相があまりにもかけ離れているかに見えるが(実際外見上はそうだが)、小学校の教員、そして現在学習支援員として学校と児童館に勤務するわたしの経験によれば、心情的な部分に限って言えば根本的な差異はそれほど大きくないと感じられるからだ。現在の親と子の織りなす種々相は、しかしこれを食い入るように見つめると、その底流にしっかりと前述の親と子の心情がトレースするように見えてくる。多くの場合、互いに、子にたいする愛情を持ち、親にたいする愛情を持っていることがわかりすぎるくらいにわかる。現代の親たちも子どもをかわいがることにおいてはそれほどに大差がないとわたしには見える。また、子どもたちが親の意に沿い、親の期待に応えたいと考えていることも、基本的には明治期の頃と変わりないと思える(これはたぶんに好意的な解釈を前面に押し出した言いぐさになる。もうひとつ奥のところでは、現代のわたしたちはそれと知らずに明治期までのアジア的、あるいはもっと深層のアフリカ的な「こころ」の喪失を代償に文明を発達させてきたのではないかという疑念を持っているからだ)。
 明治期に見た親と子のむつまじい関係は、実は江戸末期や明治の初期に限ったことではないだろうとわたしは思う。おそらくは数千年、いや数万年の歳月をかけて積み重ねられてきた日本的な、そして日本全土に行われてきたごく当たり前の親子関係だったのだろうと思う。たとえ生活様式、表向きの風俗が一変しても、底に流れる根強い心情的な部分がそう簡単に変わるはずがない。不易と流行の言葉で言えば、それは不易に当たる。わたしはそう思っている。
 にもかかわらず。にもかかわらず、子どもは親に手を焼かせ、親は子どもに譲歩に譲歩を重ね、挙げ句の果ては家庭内暴力、いじめ、非行、不登校、あるいは養育拒否、児童虐待、種々の殺傷事件、家族間殺人などを引き起こすようにどうしてなってしまったのか。
 すぐに思いつくことが一つ、二つはある。
 
 知識を積んだり、社会的な地位の優位を得たりということが、生涯の禍福をきめることだという見方があるかぎり、生涯の禍福は中学校の内申評価できまってしまうことになる。つまりいまの教育制度や社会の評価にある種の妥当さがあると認めたら最後、親と子がまあまあ偶然の幸運で大過ないという家庭をのぞけば、中学校は生涯の最大の隘路だということになる。
 ここで劣等の評価を受けた中学生は、もうぐれるよりほか生きようがない。わたしもここでそう烙印をおされたら、きっとぐれるとおもう。学歴だけが生きる道ではないとか、社会的な地位など大した問題ではないとか説いてみせる教育家や知識人がいるが、もちろん自分を棚に上げたまま嘘をついているのだ。本当に学歴や社会的な地位など大した問題でないという道を歩めるのは、ごくまれな天才とそれにふさわしい超人的な努力をした人だけだ。(吉本隆明『わが転向』1995年文藝春秋)
 
 ここに引用した文は最近何気なく目にとめたもので、それほど過大な意味を持たせてここに示したわけではない。文中の太字はわたしがそうしたもので、少しこころに引っかかる部分だ。はじめの太字は読んで字のごとしだが、現代社会の大人たちのごくふつうの内面を写し取った記述になっていると思う。だれがどう言おうと、ほとんどの大人たちは自分の社会生活体験から、人の生涯がしあわせに充たされるかそうでないかは知識を多く修得して、社会的に他者よりも優位な地位を得ることだと考えていると思う。これは実際に知識を積み、優位な地位を獲得した人も、それが可能ではなかった人も同じように考えていることだと言っていい。はっきりそう考えたり、漠然とそう考えているという差異はあるかもしれないが、反対に、知識を積んだり、他者よりも優位な社会的な地位を得ることが、禍をもたらすと考えている人はまずいない。そこにほんとは確証は何もないはずだが、そういうものだろうとわたしたちは思い込んでいる。何をもって幸福とするかをよくよく考えれば、そんな絵に描いたような幸福なんてないとわかるはずだが、しかしなんとなくそう思っているのが実態だろうとわたしは思う。無知であって社会的評価も低い貧しげな人々が、とてもしあわせそうに見えるということも現代社会にあってはそうそうあるものではない。そこで、ほとんどの親たちは子どもに高学歴を身につけさせると共に、社会的にも高評価を得るような地位に立たせたいと願うものだと思う。吉本は、「見方があるかぎり」というように微妙な言い回しをしているが、ほとんどの見方、考え方はそれだと断定してもいいくらいだとわたしは思う。それがいいか悪いかなどといってもはじまらない。実際にそう考えているし、そう考えていないという確証はどこにもない。また、多くの人々は「いまの教育制度や社会の評価にある種の妥当さがあると認め」ているというのも、まず間違いないところだろう。積極的に認めているというのではない場合も、消極的には認めているかたちになっている場合が多い。わたしは少しも認めているなどとは思っていないが、これは頭の中でだけ反対を唱えているだけなのだから現実的には後者の部類に入ると思う。同じような思いをもちながら、でも内心で『しかたがねぇや』と思っている人も多いかもしれない。
 いずれにしても、これを認めたら最後、「中学校は生涯の最大の隘路だ」という吉本の見解はほぼ間違いないことだと思える。つまり生きることに関しての、様々な困難、障害、難関などがそこに集中し、且つそこから生じてくるということになっている。
 現代の親たちはだれもが、子どもたちにそこを無事にくぐり抜けてほしいと願っている。その後のことは言わずもがなのことだろう。
 明治期にはおそらく、生涯の禍福がこのような形で考えられることは、いっさいなかったにちがいない。全体に生活水準は低かったけれども、かえってそのおかげで生活はなんとかなっていたのである。
 次の、「学歴だけが生きる道ではないとか、社会的な地位など大した問題ではないとか説いてみせる教育家や知識人がいるが、もちろん自分を棚に上げたまま嘘をついているのだ」という吉本の見解についても検討しておきたい。
 確かにそんなふうに説いた教育家や知識人は過去にあった。現在もそういう教育家や知識人がいるのかどうかは知らない。わたし自身は実は「学歴もいらない、社会的な地位もいらない」というような教育家や知識人の見解にこころ惹かれるものを感じてきた。そうあるべきだとか、そうあってほしいというような理想としては、だ。だがそう考える自分は、ある程度の学歴を身につけ、幾分なりともそのことで自動的に社会的な地位というものも上着の上に羽織っている。これは知らぬ振りをしたりとぼけて見せてもダメだ。メカニカルにそういうことになってしまうものだから、内面でどうのこうのというのは関係がない。自分だけがちゃっかりとその恩恵に与っていながら、そんなことには意味がないとか理想だけを口にするのでは矛盾することになってしまう。自分を棚に上げて嘘をついていると言われても仕方がない。
 吉本が最後に「本当に学歴や社会的な地位など大した問題でないという道を歩めるのは、ごくまれな天才とそれにふさわしい超人的な努力をした人だけだ」というのは、現在の社会では誇張でも何でもない。学歴や社会的な地位に恵まれなかった人々およびその生き方について、少しでも想像がつくならば、吉本の言うことが誇張でないことはすぐに理解できると思う。
 ちなみに、先の教育家や知識人から学歴や社会的な地位を差し引いたら、彼らの発言がどんなにすぐれた内容を含んでいようと、世間からは一顧だにされず、流通もしないことは明らかだ。わたしなども内面的な問題として、そうした辛酸をなめ尽くし、味わい尽くし続けてきたからそのことがよくわかる。自分がこのことになぜ耐えられるかと言えば、同じように辛酸をなめつづけ、味わい尽くす、言ってみれば学歴や社会的な地位に恵まれない人々の存在があるからだというほかはない。片方にそうした存在があるかぎり、また耐えて生きつづけていることを思うときに、わたしがそれに耐えられないはずはない、という考えがわたしに継続することを強いてくる。
 大学卒で小学校教員の経歴を持つわたしでさえ、相当な覚悟と努力とを払わなければ、自分の思いを貫きながらこの世界にありつづけることは困難なことだという気分を負わねばならない。ましてそういう資格や経歴もなかったとしたら、わたしは現在のようであることすら許されなかったに違いないと思う。自分の思い、考えというものでさえ、そうした学歴や社会的な地位というものに支えられて成り立っていると言わなければならない。
わたしはこのことをこころでは嫌悪しつつ、頭では感謝するというかたちに引き裂かれる。もちろん当然に負わなければならないことだ。先の教育家や知識人の大半にはそれがない。
 明治期の親子のあり方と比較することに戻って言えば、ここではまず社会的な土台の変化をあげておけば十分だろう。文明が高度化して、家庭生活のあり方から社会生活全般にわたって大きな変化を遂げた。当然日本人の精神とか意識とかも大きく変貌してきた。それが明治期と現在の親子のあり方のちがいに結びついている。
 次にわたしの頭に思い浮かぶことは次のようなことで、これも前に引用した記述で、吉本隆明の著作からのものだ。いくつか同じような言及があるのだが、その中から任意に取り出しやすいからという理由だけで転載する。
 
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期を持たなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病、(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?そういう疑問だといっていい。(吉本隆明「心的現象論―了解論―98 原了解以前(4)」)
 
以上、こういうことだ。要するに先に挙げた学歴に関係することだが、義務教育の徹底と教育制度の成熟があり、これが時代背景として明治期と現在とで大きく異なる点だ。
 現在の児童期における少年少女のあり方を考えるときに、児童期という発達心理学的な段階を当然のこととして前提において考える考え方というのは限界に来ている、あるいはそれでは捉えきれない、そういう捉え方は時代的に金属疲労を起こすように劣化に見舞われている。そういう考え方の端緒がここに示されているのだと思える。少し視点を変えたところで言えば、これまでの発達心理学や教育心理学のような学問を背景に制度や内容を構想し、実現してきた結果が今日の少年少女のあり方に結びついたという見方を潜在させている。教育の成果と一緒に、弊害もまた大きく露わになってきた。
 生き物の二大本能と言える「食と性」は、人間といえども例外ではなく本能的な部分である。ヒトの場合、遊びと共に性もまた幼児から児童期、そして思春期からそれ以降に向けて内から外へと顕在化していくことは自然な過程に違いない。現在の社会は、この性の自然な成長と発現を教育の名の下に、小学から大学それぞれの時期に応じて教育的なハードルを高くしながら、結果的に性的な発現を弾圧することに加担している。直接的に弾圧をもくろんでいるわけではないが、教育内容の高度化ということと、先に述べた生涯の禍福という問題にからめて性的な抑圧を実現している。これは言い換えるとヒトを本能から解放し、理性のみの存在に作り替えようとすることと同じだ。だが現実は少しも理性的でないばかりか、単に本能を破壊されたヒト的な生き物、別な言い方をすれば「利害の虜」を生産するかのようにその意図は失敗をもたらしたと見える。そして、問題とされる昨今の少年少女の諸現象をもたらしている。わたしにはどうしてもそのように見えてしまう。
 しかし、わたしはここで結論を閉じてしまおうとは思わない。長い歴史の元に考えられた教育制度や内容が、全くの不用物などとは考えられないからだ。少なくとも人類が長い時間をかけて勝ち取った叡智の一つとして、それらは現在にもたらされたと考えないわけにはいかない。そして、そう考えたときに現在の教育制度がもたらす弊害を単に子どもの自然な発達への配慮ですますことができるのか、あるいはより根源的に、教育自体のあり方から問われなければならないものなのかが正直に言えばまだよくわからない。
 現在の教育そのものについてもう少し踏みいって考えようとすれば、たとえば思想家内田樹さんのように、教育は事実上の壊滅状態にあるというような指摘(彼のブログのなかに見られる)も考察の対象になるが、ここではそこまで手を広げようとは思わない。内田さんの論は、そうは言っても教育の必要性を前提に置いた上での論の展開をしている。強いて言えば公教育の彼岸に、江戸時代の私塾のような形を想定して教育を語っている。わたしはほんとはそれに対しても疑念を覚える。
 
 ここで、この文章を作っている間に脳裏を掠めたことについて、挿話を挟むような感じで述べてみたい。
 小中学校で勉強についていけなかったり、ついていきたくないと感じた子どもたちが、どのようにこの時期を越えようとするかについて考えたことだ。学歴を除外して、そのほかにどんな社会的な地位を獲得する手段が考えられるかということ。それには大まかにいって3つあると思う。
 1つは芸能人への道で、芸人やアイドルや俳優やミュージシャンを目指すということはそういうことなのだろうと考える。もうひとつはアスリート、プロスポーツ選手を目指すということ。もうひとつは漫画やアニメに代表されるように、いろいろな分野でオタク化して、その専門性を磨いていくということ。
 いまの子どもたちの間では、これらのことを積極的にあるいは消極的に志望する子どもが割と多く見られる。もちろん、早期にこれらの志望から脱落することも多いのだが、現象的にはかなりの比率で夢見ている子どもが多いように思う。また、実際にそうしたサクセスストーリーもふんだんに喧伝されているので、それに群がり集まることも荒唐無稽とばかりに見ることはできない。少しずつ親や周囲の大人たちもそれを許容したり、もっと積極的には応援したりしているところがある。
 本当はこれらも相当に険しい道だと思うし、天才的な能力や超人的な努力を要すると考えられるが、志望するものは後を絶たないように見える。それだけ勉強はいやだと思っていることの裏返しかもしれない。
 いずれにしてもそういう道がないことはない。どん詰まりよりは少しでもそういう道が開かれていることはあったほうがいいにきまっている。願わくばすべての子どもに開かれているようにと願うが、そうはいかないということも確かなことだ。
 ここから波及して個的に考えたことが1つある。それは、学歴も社会的な地位もなくてもよいとか、そこそこでよいという考えは、潜在的にはあるのかもしれないが、あまり目指されるものにはならないのだなということだ。これは当然といえば当然のことである。人間には上昇指向性というものがある。自分というものをよりよいものに仕上げたいという指向性だ。だがこの指向性は欲望と表裏一体にあり、よい方向に向けば人間性の高度化や心身の開発に向かうが、悪くすると他者を見下す人間性を露出させることになる。両刃の剣と言える。そして人間としての現段階においては後者に傾くことが多いように見受けられる。そしてそうならないようにあるためには、ここでも超人的な努力を必要とされると考えられる。わたし自身もこのことにはずいぶん悩まされてきて、気がつけばずいぶんちゃらんぽらんに自分を作り上げてきたように思える。これはけして弁解のつもりで言うのではない。
 ここでついでに言うと、わたしはしばらく前から、この社会でのあり方を、生きていく上での最低限のあり方として、そこそこでよいというあり方を目指してきたように考えている。もちろんそういう前に、自分なりに相当努力した上で、結果としてそこそこの生き方しかできなかったという事実があるのかもしれない。だが内心の思いだけを言えば、それを目指したというのは嘘ではない。なぜ、どうしてというのは面倒だから言わないが、わたしはそこに自己満足を覚えている。そうとしか言いようがない。そしてまた、これはただかっこつけて言っているだけで、大多数の人々もまた、口にはしないが内心でそのような考え方をして、黙ってそれを実践しているのかもしれないというような思いを抱く。その方が正解かもしれないと考えると、人間畏るべし、と思うが、それを公言してくれる人は少ない。
 
 ここでもう一度明治期と現代との子どもを取り巻く環境のちがいを考えておきたい。
 文明の発展に伴って大きく生活様式が代わり、家族構成が変わって核家族化したことが大きい。そのほかにも変わってきたことはたくさんあるが、一々を挙げることは面倒なのでその労は省かせてもらう。もうひとつ忘れてならないのは前述に深い関係があるが、産業構成が大きく変わったことも考えておかなければならないと思う。要はこれらのこととこれら以外の要因も併せて、現代は親が子にかかりっきりになれなくなった、その点が非常に大きな問題になっていると思う。
 明治期は牧歌的に、また無意識的に親は子どもの成長に関心を払った。そうならざるを得ない環境の下にあったし、それが親自身にとっても楽しいことであったから、自然に親子の情は通じて流れたのである。現代は男親も女親も明治期ほどに子どもの成長に関心を払っているかと言えば、たぶんそうはいかない。それ以外にも考えること、考えたいことがいっぱいあるからだ。第一、自分の生き方に対して常にぶれたり揺れたりを繰り返して定まらない。男親も女親も、自分ひとりのことでさえ思うようにいかないと感じており、本気で子どもの成長に関心を持つことは難しくなっている。
 ほんとはわたしもその部類に入ると思う。自分の子どもは心底かわいいと思うものだが、わたしは自分の想念を捨ててまで子どものために時間を費やすことができなかった。自分の想念を捨てずに子どもをかわいがる両立を目指し、それができたと自分では思い込んでいたが、たぶんほんとはそうではなかった。三木茂夫の『内臓とこころ』を読むと、三木さんが何気ない子どもの動作を、本当に深く理解した上で、さらにまなざし深く見ていることがわかる。いま、三木さんが子どもを見ていたような目で、子どもを見ている親がいるだろうか。誤解を恐れずに言えば、三木さんは目の前の子どもを見ていただけではない。数百万年の人類の歴史、五億年の脊椎動物の歴史、数十億年の生命の歴史、そこに連綿と連なる生命の、未来につながるヒトとしての子どもを見ていたものでもあろう。明治期の人々もまた無意識のうちに子どもの姿にそうした生命の流れを感じ、その「命」を愛することができたのであろう。わたしはといえば、解説で養老孟司さんが言っているように、「子どもの発育段階を、むしろ当然のこととして、そのまま見過ご」してきただけに過ぎないように思える。若き日に三木さんの『内臓とこころ』に出会っていたら、もう少しましな子育てができたかもしれないと、これは後悔の念に似たものを感じるばかりだ。
 
 
児童期が投げかけるもの N
              2014/10/19
 だいぶ前のことになるが、俳優の伊武雅刀が「私は子どもが嫌いだ」と叫ぶ楽曲を聴いたことがある。通常の歌謡とはちがい、メロディの流れの上に次に引用する歌詞を朗読するといった体裁のものである。ネットからの転載で、行別け等、オリジナルとは別かもしれないのだが、とりあえず内容がわかってもらえればよいと思う。
 
■子供達を責めないで
(歌:伊武雅刀  日本語詞:秋元康  作曲:Barnum,Reve  編曲:清水信之)
 
私は子供が嫌いです
子供は幼稚で 礼儀知らずで 気分屋で
前向きな姿勢と 無いものねだり
心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり 放ったらかすと悪のりする
オジンだ 入れ歯だ カツラだと
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
私ははっきりいって”絶壁”です
 
努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない
人生の深みも 渋みも
何にも持っていない
そのくせ 下から見上げるようなあの態度
火事の時は足でまとい 離婚のときは悩みの種
いつも一家の問題児
そんな御荷物みたいな そんな宅急便みたいな
そんな子供が嫌いだ
私は思うのです この世の中から子供がひとりもいなくなってくれたらと
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう
私は子供に生まれなくてよかったと
胸をなでおろしています。
 
私は子供が嫌いだ
うん!
子供が世の中になにかしてくれたことがあるでしょうか
いいえ 子供は常に私たちおとなの足を引っぱるだけです
身勝手で”足が長い”
ハンバーグ エビフライ カニしゅうまい
コーラ 赤いウィンナー カレーライス
スパゲティナポリタン 好きなものしか食べたがらない
嫌いなものにはフタをする
泣けばすむと思っているところがズルイ
何でも食う子供も嫌いだ
スクスクと背ばかりたかくなり
定職もなくブラブラしやがって
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体をきにする目がいやだ
あの計算高い物欲しそうな目がいやだ 目が不愉快だ
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ
何が星目がちな つぶらな瞳だ。
 
そんな子供たちのために 私たちおとなは
何もする必要はありませんよ
第一私達おとながそうやったところで
ひとりでもお礼を言う子供がいますか
これだけ子供がいながら ひとりとして
感謝する子供なんていないでしょう。
 
だったらいいじゃないですか
それならそれでけっこうだ ありがとう ネ
それならそれで けっこうだ ネ
私達おとなだけで せつな的に生きましょう ネ
子供はきらいだ 子供は大嫌いだ
離せ 俺はおとなだぞ
誰が何んといおうと私は子供が嫌いだ
私は本当に子供が嫌いだ
 
 わたしは当時、これを痛快なブラックユーモアと受けとめ、いたく感激したことを覚えている。聞いて思わず笑い出したくなった。それほどこの歌(?)は当時の常識的な世間の空気感を打ち破る、衝撃を内在させているとその時に思われた。
 漫才のツービートの話芸に似たものを感じたが、ツービートが長く生き延びたのとは違って、この歌(?)の場合はほどなくテレビ、ラジオから消え去り、その後、公の場所に浮上することはなかったと記憶している。わたしの中ではPTAや人権運動家などをはじめとする団体から圧力を受けて抗しきれなかったと同時に、クリエーター側からも自粛する動きが出て、表舞台から消え去ったものだろうと考えられた。これは推測の域を出ないが、たぶんそんなことではないかなと思っている。
 事の真偽はともかく、この歌詞を秋元康が書いていたことは知らなかった。今回このことを知って、なるほどなあと合点できた。言うまでもなく秋元康という人は、「AKB48」をプロデュースしたことで有名だ。
 こんなに率直で、あけすけな歌詞は、生半なことでは書けない。公表する以前に、物議を醸すこと、非難に晒されることは十分に推察されることだから、それを逆手にとる発想がなかったら書くことはできないし、また公表することも難しいことだ。ある意味で確信犯的な要素がふんだんに含まれている。歌詞の中身とは違って題名が「子供達を責めないで」というのも意味深だ。要するに「幼稚」、「礼儀知らず」、「無神経さ」など数え上げたらきりがないほどの、大人社会からすれば許されない言動を子どもは平気でするが、しかしそれは「子どもには責任がありませんよ」ということを言っている。また、大人たちはその時期を同じように経過してきたにもかかわらず、肚の底ではこの歌詞のように子どもの自然な発現性を毛嫌いし、社会全体で子どもの「自然性」を押さえ込もうとしている状況を、この「歌」は切り取って映し出すことができているように思える。その意味で、この歌詞はなかなか鋭いものを含んでいる。そして、秋元康がなぜ「AKB48」なるものを売り出そうとしたのかも合点がいく思いがする。
 歌詞の内容は大人の目線から見て、客観的によく子どもの様相を捉えていると思える。言い換えれば、この歌詞には、わたしたちが現実に子どもに接して思ったり感じたりしながらそれを言葉として表出できずに、内心にとどめ置いたことがよく抽出されている。そしてそれらは現代、普通はだれにでも思い当たる節があるといった、ごく当たり前の子どもの姿態であり言動である。もしもこの事実から目をそらすことが大人らしさなどと考えるものがあるとすれば、それはイデオロギー的な病態以外の何ものでもないとわたしは思う。目が曇っているか自己欺瞞かだ。ちなみに、現在の日本における高齢化社会、老齢化社会への移行は、「子どもがいなくなればいい」という大人の無意識の顕そのものだということもできる。
 また、今日に見られる育児放棄、児童虐待などの傾向は、いわば私たちの社会が子どもという「自然の生き物」がいかに「厄介者」で「手に負えない」と感じるようになっているかを照射するものだと言える。このことに目をふさいだら嘘なのだ。
 わたしは子どものように弱いものは守られなければならない、愛されなければならない、また愛さなければならないと思っている。しかし、現実に子どもに接するとしばしば引用した歌詞のような思いが心の中に浮上する。昔はこれを自分の性格、愛情の足りない性格のように思い込み、自分がダメなのだと考えた。そして、もっと愛情深くならなければと努力しようとした。つまりあくまでも個人の問題のように考えていた。そういう部分もないではないだろうが、しかし、本当はこれは人間の本質にかかわることで、個人が努力する、しないとは別次元のことだ。わたしもまたどっぷりと概念に染まった意識を働かせているために、あまりにも自由な、感覚的に活動する子どもの無規範に我慢がならないのだ。
 人間は動物と同じに感覚を携えて生まれる。感覚的な生き物として子ども時代を経過し、その間に少しずつ概念を身につけるようになり、やがて意識的な存在として成長を遂げて大人になっていく。わたしたちはこの時に自然的な動物段階から離脱し、養老孟司さんが言う「こうすれば、ああなる」と考える、いわば意識によって世界を人工化していく生き物へと変貌していく。つまりこれが大人になっていくことであり、歴史的には長い年月をかけて人類は自分をこのように変貌(進化)させてきた。近代から現代にかけて、意識化、すなわち人工化はものすごい勢いで拡張しつづけた。大人になるということはこれに対応するということである。すでに十分に概念化を果たすことができるように成長した大人にとっては、それはできる。だが、生まれてくる子供はどこまでも感覚的であることを変えて生まれることはできない。
 文明の高度化とは生活環境の人工化であり、現実世界はそれを教えてくれる。自然の排除の上に成り立っている。『自然を守れ』とか、『自然が好きだ』といってもはじまらない。自然は生活空間の外に追いやられている。日常生活の中に残っている自然は、いまや幼児や児童、要するに人間の子どもとペットの類だけだと言っても過言ではない。都会ではそれが顕著だ。さらに、いまや田舎でもミミズや毛虫やバッタに触れない子どもが大勢いる。自然そのままの子どもにおいてすでに、自然が自然を毛嫌いするようになっている。これを象徴するのが先の虫嫌いの事実である。
 還界としての自然は人間にとって恵をもたらすものであったり、あるいは時に、東日本大震災のように禍をもたらすものでもある。どうにもわたしたちの自由にはならないものだ。大人にとって子どももまた自然であるかぎりは、わたしたち大人の自由にはならない、ある場合にはやっかいな代物になる。
 わたしたち大人の無意識は、しだいに自然に対して距離を置き、子どもに対して距離をとるようになった。少子化の問題もそのようなものとして捉えることができる。つまり「ああすればこうなる」という物差しで捉えきれないもの、すなわち「自然」は苦手になってきたことをそれは物語っている。出生率の低下、実は日本の教育の浸透度合いの高さが果たしてきた成果の、これは一つの結果であると言っていい。家屋の中からネズミがいなくなった。古い農家の梁には青大将が這っていたが、いまの農家でそんな家はない。蚤も虱もいない。目に見えない細菌でさえ攻撃されるくらいである。人間の子どもが減少しても不思議ではない。
 明治期に見た、あの子どもを溺愛する日本人の姿はどこへ行ったのか。現在それは犬猫をペットとして飼う、あの溺愛の姿に変貌を遂げたと思って間違いないだろう。子どもを一人前に育てることに比べたら、ペットを飼って世話するくらいは何ほどのことでもない。責任を感じる度合いも違う。うまく社会でやっていけるだろうかと心配することもない。
 このようにわたしたち大人は本当は子どもという「自然」をやっかいなものと感じてきているはずなのに、建前上それを正面に見据えることができないできている。子どもはどこまでも「愛すべき存在」と口にしていながら、実は懸命になって子どもから自然を排除しようとしている。子どもは「自然」なのに、それを取っ払ったら子どもではなくなるということも分からなくなっている。いい例が、子どもが泣き止まないので殴って殺した等という虐待である。要するに、大人の考えが分かって、それに従うということを子どもに要求する。一事が万事で、いまの社会は早く子どもに子どもをやめてほしいと願っているのだ。早く大人になってほしいと教育し、しつけをし、時にまた「将来がたいへん」といって脅し、促成栽培のように迅速な成長を願い、「ああすればこうなる」という大人の考えを分かってほしいと思っている。そして「こうすればああなる」はずだと、いろいろと子どもに手を尽くしているのである。だが、残念ながらそううまくはいかない。子どもは感覚的な生き物だからだ。これは野生の動物を調教することを考えたら、すぐに想像がつくことだ。思い通りにならないこと、それをいまのわたしたちは、というよりもわたしたち大人の意識は、どうしても許容することができないようになっている。概念的と化した意識とはそういうものだ。この概念化、意識化、人工化はとどまるところを知らない。わたしたち自身もまた、わたしたちのこうした変貌に気づかず、つまり、「わたしはわたしだ」という思い込み、意識の特徴に飲み込まれ、変わったのは子どもであり、子どもが悪くなったなどと口にしたりする。だが本当に変わったのはわたしたちが活動する大人世界であり、この大人世界は大人の思考を子どもの世界に強制しようとしている。さらにこの大人世界は子どもの遊び場が失われても平気だし、代わりに人工的な遊び場をつくってそれですむと思っている。子どもが動物的に、いや、もっと自然の一員として活動すべき場所をどんどん浸食して、いまや農村においても子どもはほとんど家の中で過ごすことが多い。田んぼや川もまた大人の考えるとおりに区画され、遊び場ではなくなって久しい。また、子どもが歩き、走り、探検にも使う道をほとんど自動車専用のものにしてしまい、子どもの登下校は一列に並んでふざけないで歩きましょうなどと教え込んでいる。ふざけているのはどっちかという話で、完全な子ども軽視であり、本当はガードレールの設置などでごまかせる問題ではない。子どもが感覚主体の生き物であり、象徴の世界の住人であるというような本質を無視して、ただに子どもを大人世界にはめ込んで、一方的にこれが子どものためだと思い込む大人のわがままがここに顕在化しているとわたしは思う。
 明治期の親たちにはまだ自然が内在していた。だから子どもの自然性が少しも苦ではなかったのだ。それどころか、尊重できていたのだろうと思う。前に引用した外国人旅行者の紀行文は、描写の中でそのことを教えているように思える。
 文明の発達、経済優先の社会の構築、そういうものがすべて悪だとわたしは言いたいわけでは少しもない。ただ、そのことに反比例するように、子どもの世界は顧みられずに危機的な状況になってきているのではありませんかと問うている。そしてとりあえずはそういう状況を掛け値なく、正しく見据えることが必要ではないかと言いたい。この際、「子どものことを考えている」とか、「子どものことを思っている」とかの主観的なことを捨象して言えば、こういうことになるのではないかとわたしは考える。