日記風 顔のある窓
 
「あとがき」のようなもの
              2017/03/27
 最後の最後にひとつふたつ言っておきたいことがある。一つは何と言っても記憶に新しい「障害」についての文章についてである。時間と能力によって、結局のところ、精神の障害や心的問題についてまとめて考察したり論じたりすることができなかった。これは一つの心残りだといえば言える。だが、先に結論を言ってしまえば、その問題についても、身体的な障害を考えたところで記述したように、倫理とか同情とかいうものを離れ、変容の細部から全体にわたって正確に把握することが大事だということになるかと思う。実際的、現実的な実態をつかみ取ることなく、適切な対応や対処はのぞむべくもない。吉本隆明が「心的現象論」の中で述べていたように、こういうところの本当の問題解決には「変容」の徹底した分析、解析が必要である。それが為されたときにはじめて問題解決の糸口が見えてくるものだと思う。
 わたしのように一介の生活者に過ぎないものが口を挟むことでは本当はないが、現状においては二義的で周辺的な問題解決に終始し、一義的で本質的に思える「障害とは何か」という大問題の解明が為されていないという気がする。人間にとって障害とは何かという根本的な命題が突き詰められていないのに、障害を欠如や欠陥と見て、これを補完、補正、補助するという方向のみでしか考えられていない。もっと言えば正常と異常の対立のように眺められている。こうしたことの帰結として、今日もなお、依然として差別や逆差別が生じている。
 いうまでもなく差別は障害を欠如や欠陥と見るところから生まれるものであり、逆差別は、にもかかわらず障害者はこんな優れた点があると誇張して称揚する点に見られる。
 もちろん、障害は人間の存在可能性の範囲にすっぽり収まるものであって、決してそれ以外ではない。そしてたまたまどのような形で、どのような場所に分布しているかの違いがあるだけだとわたしには思える。
 当然、ひとによってその受け取り方には違いがある。逆に言えば障害とは何かの解明が為されずに、また共有されていないことをそれは物語っている。
 わたしなどが考えられるのはこれくらいまでのところで、障害者及び周縁の人々、さらには支援に携わる人々などが補完や克服という方向ばかりにではなく、いったい何をもって障害と定義するか、またそうした定義の仕方は本当に正当なものであるかどうかについて考えることをのぞみたいと思う。
 
 もうひとつ、この「日記風 顔のある窓」シリーズ全体を振り返り、ひとつふたつ感想めいたことを言っておきたい。
 老いて学習支援員の職に就かなければ、これらの文章はすべて成り立っていない。
 かつて小学校の教員の職を辞した時点で、教育界に決別し、何の未練も無かった。大きく言えば文科省から個々の現場の学校に至るまで組織的に中身は腐りきっていて、しかも日本型教育は賞味期限切れにあることは、少なくとも当時の自分のなかでははっきりしていた。そんなところに長居すべきではない。職に就いたはじめからそんなことを感じながら、二十年の大半を過ごした。何とか教育の可能性を探るためにだ。けれどもそれは見つからなかった。全体をガラガラと突き崩して、もう一度はじめから立て直す以外無い。しかし、そんなことはできるはずもない。
 それは世の中のありさまと全く同じで、同じように病んでいる。そしてその中に人々が疲弊しているように、教育の世界では子どもたちも先生たちも疲弊している。
 しばらくぶりで学校の現場に触れたときに、崩壊寸前の建物のあちこちにあられもなく補強材が打ち付けられているというような印象が持たれた。もちろん子どもたちも先生も、それらはみな当たり前の光景で、唯一無二の環境として受け入れるほか無いものである。新たに綻びが見つかればすぐに応急手当が施される。永遠の追い掛けごっこのルーティンにはまってしまっている。
 ここで、それでも地球は回っていると口に出して言うべきかもしれない。
 現在というものがおよそこのような姿で成り立ち、しかもその姿で、概ね平穏無事という状況を維持しているからだ。
 例えどんなにたくさんの瑕疵が認められるとしても、現在の世界は人類の叡智を積み重ね、最良を目指してやっとたどり着いた地点にあるということは疑うことができない。教育の世界に限定して考えても同じことが言えるだろう。
 それがこれか、とがっかりしてみせることもできれば、よくここまでやってきたと讃えてみせることもできよう。それは自由である。わたしの思いもまたこの間を行き来して、未だに揺れて定まらない。
 そうした中での「日記風 顔のある窓」の著述は、時につま先立つこともあった自分の現時点での、精一杯の思考と考察で成り立っていると言うことができる。これは自己満足的な自負と、愛惜の念とを同時にわたしにもたらすものだ。
 わたしはもう二度とこんなことはしないと思う。書くべきことを書き、成すべき事を成した。そこで、次はあなたの番であると言いたい気持ちを抑えることができない。
 太宰治にとっての「革命」とは、けして武装蜂起を持ってするものではなかった。逆に、自らの破滅と引き換えに世を動かそうとするところにあった。太宰にとってはたった一人でもなし得る「革命」の、それが定義であった。けれども、一か八かのそれは世にセンセーショナルな波風を起こしこそはすれ、世を動かす起爆剤にはなり得なかった。社会は何も変わらなかったのだ。
 そこで、わたしたちはまた方法の一つを失うことになった。
 皮肉なことに、現在世界に広がるテロには自らの破滅を持って購おうとする、太宰の方法に似通ったものが横行している。殉教者という意味で太宰と同じと見なせば、すでにその方法もまた破綻したものだと見ることができる。だがそのことのもたらす衝撃は、今もって地球的規模の揺れを感じさせないではいない。
 わたしたちはそれらに取って代わるどんな方法も、見出しも、作り出すこともできないでいるように思える。よりよい世界への理路がどうしたら見出せるのか。かろうじてわたしたちに可能なことは、思考の微力さに結果を短絡させて考えることなく、あきらめずに考えることを繰り返していくことであると思える。無力さ故にあきらめたら終わりである。もう終わりだと思えるところから、さらにわたしたちははじめることができる。それもけして苦渋ではないようにして、人間ははじめることができる。もしも苦渋を感じたら歩みを止めて休めばいいだけのことだ。そして明日立ち上がってまた歩き始めればよい。思考の働きは無限なのだ。「日記風 顔のある窓」を書き進めながら、こうした思いを幾度も反芻した。
 わたしはずいぶんと老いたが、主に小学生の子どもたちの日常生活の姿に触れながら、知らずに若返ってもいたのであろう。日々子どもたちが心や頭を働かせていることに比べれば、わたしがどんなに考え、あるいは悩んでも、たいしたことではないと思えた。またこうした以外にもたくさんのことを学べた気がしている。
 わたしの流儀で離職と一緒に縁もまた絶ちきる形になったが、関わりのあったすべてに感謝と、それぞれの人々の、以後の人生に幸あれと祈る気持はいまも手放すことなく持っている。そのことを遠くから伝えて、もう一度のお別れを此処に記しておく。
 
 
「障害」とは何か
              2017/02/17
終わりに向けて
 前回の考察や記述の過程で、わたしの脳裏には、「〈生存〉そのものの〈痛ましさ〉」という吉本の言葉がずっとひっかかっていた。 わたしたちが不具・障害・病気に出会うときに感ずる〈痛ましさ〉は、もちろん不具・障害・病気等から喚起されるにはちがいないが、本来的には、わたしたち自身が生存しているなかで感受するところの〈痛ましさ〉に由来していると吉本は述べていた。そうしてさらに障害についての最終的な考察とも言える段階で、この〈痛ましさ〉について次のように記述してみせていた。
 
 この(水俣病にたいしての―佐藤)〈痛ましさ〉の識知は、被害者の「植物的生存」の病変退化が、非人間的生存である段階から非動物的生存である段階をへて無機的存在(死)へつらなる連鎖の最終段階にまで生存がおいこまれてゆくことの識知に基いている。意識しているかどうかにかかわらず、生存の最小与件にまで、生存そのものが追いこまれてしまっているということが、この〈痛ましさ〉の本来的な意味である。
 
(中略)
 
 たぶん、身体はその生理的な死にいたる過程のどこかで、この生存の最小与件の状態を体験するのだということができよう。しかしこの状態は、普遍性をもっているにもかかわらず自己体験の状態としてはありえない。〈痛ましさ〉の感じはつねに他者に属している。そして、このばあいも身体が体験する心的な世界は、うかがうことのできない〈植物的な生存〉の世界である。
 
 不具・障害・病気にたいしてわたしたちが感ずる〈痛ましさ〉は、わたしたちが自分の〈生存〉について感じている〈痛ましさ〉が投射したものだ。なぜ、〈生存〉に〈痛ましさ〉の影が伴うかと言えば、それは〈植物的な生存〉の段階をへて〈死〉に至る連鎖の想念、識知を意識に浮上させるからだ。〈死〉は心的に自己体験することはできない。あるいは自己体験するときにはすでに心的状態は消失に向かっている。心的な〈死〉の状態をわたしたちが体験的に理解することは不可能だが、他者の不具・障害・病気を通して、わたしたちはそれを垣間見てしまう。はじめに活発な人間的活動が衰退し、精神的活動や身体的活動が縮退していく段階へと続き、さらには心的な死を内包させる植物的な生存の段階へと退化し、やがて無機的存在、すなわち〈死〉を迎える。
 こうした一連の〈死〉へと向かう流れを、わたしたちは人生のなかのどこかで気づき、感じ、理解する。
 わたしたちは体験的に理解できない〈死〉の状態を、あるいは〈死〉そのものを、吉本が言うように、〈痛ましさ〉という以外に感受できないのだと思える。心的には捉えることのできない心的な死は、わたしたちの〈生存〉の裏側に、いつも紙一重のように貼り付き、わたしたちに不安と恐怖とを強いてくる。
 人間の生存を、もしも人間的な生存の段階、動物的な生存の段階、植物的な生存の段階、そして最終的には無機的な存在の段階へとつらなる連鎖と見なせば、不具・障害・病気はこれらの段階のいずれかに属することになるかのように考えられる。しかし、いずれの段階に近いにせよ、それは人間的な生存の可能性の範囲にあるといわなければならない。どのような段階で生存するにせよ、人間は動物や植物そのものになりきることは不可能である。たとえ動物的、植物的であるにせよ、人間の生存は人間の生存以外であることはできない。ただ、人間的な生存の在り方からすれば、人間的な生々しい姿のなかに、〈不完備〉な要素が入り込んでくることをどうすることもできない。
 わたしたちはこの時に、ある〈痛ましさ〉の感じとして受けとめるものだと吉本は言っているが、別な角度から言ってみれば、それはわたしたちが〈死〉というものを意識的に体験することが不可能なために、未だに不安や恐怖の対象になっているからだと思える。つまり、〈死〉についての迷妄からの解放がなされていないからだ。
 生命にとって〈死〉が無機的存在への回帰だということは知識として理解できるようになっている。だがわたしたちの意識はこれを実感的に体験することができない。これを体験するときには、たぶん意識は存在しない。吉本が、くりかえし人間としての最終的な問題と述べていることは、この、〈死〉についての解明、了解という問題を含んで言っているという気がする。そこまでいかなければ、この不具・障害・病気の問題もまた解決できないのだというように。
 人類にとって、あるいは人間にとって〈死〉が恐れや不安の対象ではなくなったとき、おそらく今言っているところの〈痛ましさ〉の感受は軽減し、消滅に向かうという気がする。では、仮にそうなったときに、わたしたちは
不具・障害・病気の諸事象に触れて、〈痛ましさ〉以外のどんな思いを喚起されることになるだろうか。事実としてのみ不具・障害・病気の諸事象に対し、何も感じることがなくなるのだろうか。少なくとも倫理、哀れみ、同情といった短絡に結びつくような感情的な喚起は後退するだろう。その上で、健康さ、正常さへの性急な回帰、回復一辺倒の考え方が是正され、逆に不具・障害・病気の形態は、ごく当たり前の生存形態であるというように、健康、正常との境界の閾は限りなく低く消滅に向かうにちがいない。
 
 不具・障害・病気について、特に少し前からはこれを身体の障害の側面から、どのように受けとめたらよいかを自分に向かって問いかけるようにして考えてきた。途中何度も思考停止状態に陥り、そのたびに身の丈に合わぬことをやっている思いにさいなまれた。たぶん今のわたしではこれ以上先に考察を進めていくことは出来ない。
 例えて言えば藪医者が外科手術に挑んで切開したものの、実際の病状は自分の力量を超えると悟って、すぐさま患部を閉じてしまったようなものだ。
 とにかく、これで「障害とは何か」を中断して、終わることにする。また、全体の「日記風 顔のある窓」も、この時点で終了することにする。学習支援員として学校に関わったところに端を発したこれらの文章も、途中から学校を離れ、とりあえず年度末までと自分の中で決めていた。いま2月の中旬で、本当は3月の末まで若干の期間が残っている。だがそれほど厳密に遵守する必要はあるまい。
 
 心身の障害を持つ当人が蒙る差別、偏見、
そして圧倒的な不利益の数々は、当人はもちろんのこと親や介護に携わる人々を含めた周辺の人々を巻き込み、存在の仕方や生き方を規定してしまう。
 そういう人たちの切実さに、わたしは自分なりに、幼いころからの強度の劣等意識や極度の自閉的傾向をさらに拡大して近づこうと試みた。あるところまで行くと、境界はないように思えた。わたしは運良くか、運悪くか、障害者の認定を下されなかった。けれども、よくよく深く入り込んで考えていくと、どうしてもわたしは自分の心身が、本当に健康で正常で、この現実を生きていく上で何の支障も持たないと断言できない気がしてならなかった。酷く甘ったれた言い方をすると、わたしにはこの世界を生き続けることが辛く、またとても難しかった。この思いは、障害を持つ人や周辺の人たちの切実さに匹敵しないだろうか。一見、正常の範囲に生活していると見なされた人々の中にも、黒に近いグレーという人はいるような気がする。そういう人たちの艱難辛苦もまた、逆に理解者が少ないために、どこまでもひとりで背負っていくほかはない。
 ここで健常も障害も同じだといいたいわけではない。ただ、いずれであってももしも目の前に生存の課題があるとすれば、障害があろうと無かろうと、その克服をだれも肩代わりできないことを言いたいだけだ。
 実際、障害ある人も周辺の人たちも、現実的な課題の解決、課題の克服にそれぞれの仕方で向き合っている。学校や養護施設、福祉施設なども同様であろう。現実には、現在の社会、その段階で実行可能な解決の方向で解決を図っていると言える。
 見てきたように、わたしたちはここで、現実的な今の段階での解決の仕方は、まだまだ本当の解決には及ばないことを強調するように述べてきた。そして、では本当の解決はどんな方向に、どういうものとしてあるかについて、有用なことを述べることは出来なかった。ただ吉本隆明の示唆にしたがって、人々が考えることを止めてしまう箇所で、なお考えることで真の解決の糸口に迫ることを試みた。
 わたしが学校という職場で、かつて関わりを持った障害ある子どもたちに最接近できるのはおそらくこういうところまでなのである。もしもこれ以上を望むとすると、わたしはその子どもたちとの関わりをうがいに持ち越して、常に彼らの近くに自分を置くという選択をしなければならない。もちろんそうなれば問題の切実さは現在の比ではなく、常に現実的な解決の模索を優先しなければならなくなるだろう。
 そうしたときにはここで論じた事柄が、単なる枝葉と見えたり、机上の空論に過ぎないと映じることは疑いがない。またそれで当然である。
 わたしのここまでの考察は、たぶんわたしのこれまでの生き方に関係している。
 中学高校のころ、同級生に三ツ口(兎唇)の子や、今で言えば性同一障害を疑わせるような子たちがいた。わたしは、簡単に言うと、彼らに対して特別な接し方はしなかった。いじめようともしなかったが、進んで友だちになろうともしなかった。ちょっと変わっているなという認識はあるが、変わっていると見えるのは、他の比較的健常な同級生も同じである。必要な範囲で口を利き、必要が無いときは関わらなかった。当時のわたしは女の子以外にはだれとでも話せたが、本当の友だちは誰もいないような気がしていた。
 そのスタンスは、いまでも同じような気がしている。障害ある人たちに対して、ことさらに、思いやりをもって接したり、配慮しなければとは考えないのだ。もちろん数少ないある場面で、無意識に手をさしのべたりすることは自然な範囲で行ったりすることはある。だがそれは健常な人たちが部分的な障害にぶつかった場面で、つと救いの手を差し出すことと自分の中では変わりが無い。
 
 最後まで、未熟で、また未完に終えることは心苦しいところがあるが、長年のわだかまりが少しだけ解消されたような気はする。これでこのシリーズ一切の終了としたい。
 
 
「障害」とは何か
              2017/01/19
「障害者問題」と「心的現象論」その2
 わたしたちにうかがい知れない肢体不自由者に固有の世界は、かれの身体の〈不具〉、〈障害〉、〈病気〉が、「かれ自身の心身の直接性の世界であるか、あるいはかれ自身に属する心身の自己関係づけと自己了解の世界に存在している」。その世界について、わたしたち健常者は体験することができないし、またどんなに想像力を駆使して肢体不自由者の心的世界の記述を読み込んでも、そこに心的な普遍性、その世界を再現することはとても難しいことだ。吉本はしかし、ここまで見てきたように、「心的現象論」の中で、医学、心理学、あるいは福祉や障害の学的視点を超えて、ほとんど独自の方法でこの難関に挑んでいる。そして、決して全的な究明とは言えないまでも、針の穴を通すほどに難しい、ほんとうの解決の糸口と言える方向性を提供しているかに見える。わたしたちは次に、そこのところをはっきりとさせておかなければならない。
 
不具・障害・病気その心的世界(1)〜(3)
 
 (1)では先天的な聾唖の世界の記述から、その心的理解の試みがなされている。また(2)では全盲者の心的世界を推考できる記述からそれが試みられている。そしてそれぞれについて、原始未開の識知や造形の在り方との類似性や違いが取り上げられ明確化されていく中で、聾・盲のそれぞれの心的世界の本質がしだいに浮き彫りにされていく。
 
 ここのところを、ほんとうはわたしは詳細に取り上げ、吟味し、検討し、その過程をそのまま記述していきたいと考えていた。けれども、どうしてもそれができなかった。ページ数とすればたいしたページ数ではない。だが、要約すらできかねる気がして、それ以降どのように挑んでみても逆に中に入り込んでいくことができなくなってしまい、精神的に吉本の記述から遠ざかってしまう気がしてならなかった。
 わたしはこの間、自分の「障害」に対する切実さの欠如にその因を求めようと考えたりした。すると、自分が何のために「障害とは何か」を考えようとしてきたのか、その初発の動機から曖昧なもので、簡単に言うと、こういうことはやるべきじゃなかったのではないかというところまで気持が落ち込んでしまった。
 
 しかし、自身の状況はともかくとして、吉本の論自体は、ある局面に向かって相当きわどいところを言い切る、つまり、核心部分に迫っているという手応えだけはたしかで、これは手放すことができない気がした。言い換えれば、それだけが残っている。その記述はもちろん(3)の中にある。ここのところが吉本が「障害」について考え、最後にたどり着いた地平である。わたしにはそう思える。その地平がどういうものか、すこし長いけれども引用してみる。本来なら(1)(2)を丁寧に辿った上に示すべきところだが、先述の理由からそれを割愛することを許してもらいたいと思う。
 
 先天的な知覚障害と発言障害とを原始または未開の心性と関係づけることによって、最後にのこる問題は、この双方がけっして関係づけのなかに入ってこない心的な領域である。この心的な領域は、けっきょくは、原始も未開も何ら障害ではないために、それ自体の世界にふさわしい世界像をもっていて、その世界は像完備(コンパクト)という印象をあたえるが、全体的な了解の構造が未成熟であるというほかないこと、また、知覚や言語の障害は、その心的世界にふさわしい世界像をもっておらず不備であり、だがしかし、了解の構造は熟しているということ、に由来している。だから原始または未開の心性によって表現された造形は様式化と抽象化が、ひとりでに生命をもっているが、知覚や言語の障害の表現は、それにふさわしい様式化や抽象化が不可能であり、したがって、いつも〈不完備で生々しい具象の世界〉の表現になる。この〈不完備〉と〈生々しい〉という矛盾した心的な表現が与えるものは〈痛ましさ〉の感じである。なぜならば、この矛盾は人間が存在することの〈痛ましさ〉を象徴し、また集約し、そして拡大している現存の人間にまで普遍化されうるからである。
 わたしたちは、縄文式の土偶や土面をながめても、未開の心性を感ずるがけっして〈痛ましさ〉はもたない。これは〈時間〉の隔たりが〈痛ましさ〉の感じを打ち消しているからではなく、かつて往古にわたしたちの心性がそうであったにちがいないことを納得するからである。この納得のされ方は対象のどこからやってくるか。それは、土偶や土面の単純さと力強い未開性が、一種の抽象化された様式性とちょうど見合っているからである。
 ところで現存する聾唖や全盲の心性(その表現)は、〈痛ましさ〉の感じに連結している。それは時代を同じくし、焦眉の社会問題であり、また政治問題であることを知っているところからくるのではない。また、〈もしもじぶんが聾唖や全盲であったら〉という感情移入の可能性からくるのでもない。また、それらの心的世界の表現が原始未開の心性に類比されうるような〈立ちおくれ〉をみせているからでもない。〈立ちおくれ〉はあるばあいには表現の利点となりうる。たぶんわたしたちは現代の〈生存〉そのものの〈痛ましさ〉を集約してくれている存在を、不具・障害・病気の心的世界にみているのだ。
 わたしたちは、不具・障害・病気に出遇うときに感ずる〈痛ましさ〉を、しばしばすぐに心情・倫理・同情におきかえようとする。しかし、この短絡は思いちがえを含んでいる。わたしたちが感ずる〈痛ましさ〉は、じぶんの生存することにまつわる〈痛ましさ〉についての自己省察の反映であるという本質をもっている。わたしたちは、じぶんの生存を大なり小なり〈痛ましさ〉の感じで受けとめているからこそ、不具・障害・病気にたいして〈痛ましさ〉の感じを喚起されるのである。
 不具・障害・病気はたしかに〈痛ましさ〉を不可避的にあたえる。これは、じぶんが肢体健全であり、死にそうもないし、生存をおびやかされることもないのに、不具・障害・病気はこれらをすべて欠いているという対比のうえで成立っているのではない。そう錯覚されるところでは、わたしたちはいつも局外者であるほかはない。本来的な〈痛ましさ〉は生存の与件のなかにあり、不具・障害・病気は、この与件を偶然にか必然にか集結しているからこそ、わたしたちは〈痛ましさ〉を感ずるのである。
 
 原始未開の心性は、今日のわたしたちから見れば全体的な了解構造が未成熟である。にもかかわらず、たとえば神話の世界や、壁画、土偶などの造形表現には、当時の心性にふさわしい世界像(当時にあって一つの完成され、共有されたと考え得る世界像というほどの意味)を見て取ることができる。
 それとは逆に、知覚障害や言語障害の表現(心性の)は、心的世界における了解構造は熟して前提を整えているものの、それにふさわしい様式化や抽象化が不可能で、全体的な世界像を形象し得ない。吉本はそれを「〈不完備で生々しい具象の世界〉の表現」と呼び、そこから〈痛ましさ〉の印象が浮かび上がってくると述べている。
 〈痛ましさ〉を喚起させる、〈不完備〉と〈生々しい〉という矛盾した心的な表現はしかし、わたしには造形や記述からだけ喚起されるものではないという気がする。日々の生活ぶり、生存のありようを、これもまたあえて一つの心性の表現と捉えるならば、そこにもまた〈不完備〉と〈生々しさ〉とを共時に感受させる現象を見て取ることができるにちがいないと思われる。
 わたしたちはこの時、対象である障害の当事者を〈痛ましい〉存在と錯覚する。だが、厳密に言えば、心性が〈不完備〉で〈生々しい〉と感じさせる存在はこの世界にあり得ても、自体が〈痛ましい〉存在などこの世にあり得た試しはない。
 吉本はここで、わたしたちが喚起する〈痛ましさ〉の感じは、
 
じぶんの生存することにまつわる〈痛ましさ〉についての自己省察の反映であるという本質をもっている。わたしたちは、じぶんの生存を大なり小なり〈痛ましさ〉の感じで受けとめているからこそ、不具・障害・病気にたいして〈痛ましさ〉の感じを喚起されるのである。
 
とはっきり述べている。
 吉本の、不具・障害・病気に出遇うときに感ずる〈痛ましさ〉の感受、あるいはその感性に普遍性があるのかどうか、わたしには分からない。また、わたしたちが本当に「じぶんの生存を大なり小なり〈痛ましさ〉の感じで受けとめている」かどうかについても、自信を持ってそうだと断定することはできにくい気がする。ではこれがたんに吉本の個人的な見解に過ぎないと言い切れるかと言えば、それもそう簡単には行かない。つまり、こういうところでわたしは揺れて悩んでしまう。
 ここからさらに、吉本は、有機水銀中毒症、すなわち水俣病と命名された病理の記述を挙げ、次のように結論していく。
 
 この脳と神経細胞が有機水銀化合物の作用によって欠落してゆく結果の〈痛ましさ〉は、現在水俣病として企業公害であることが明瞭になり、政治問題にまで拡大されている。
 この〈痛ましさ〉の識知は、被害者の「植物的生存」の病変退化が、非人間的生存である段階から非動物的生存である段階をへて無機的存在(死)へつらなる連鎖の最終段階にまで生存がおいこまれてゆくことの識知に基いている。意識しているかどうかにかかわらず、生存の最小与件にまで、生存そのものが追いこまれてしまっているということが、この〈痛ましさ〉の本来的な意味である。同情、倫理、公害、政治問題という連鎖は、問題の一部にしかすぎず、人間の存在にとっての最終の問題がここに微弱な匂いで象徴されているとみることができる。この問題は社会問題、政治問題のかげにかき消されることなく、問題それ自体の構造を持たなくてはならない。
 たぶん、身体はその生理的な死にいたる過程のどこかで、この生存の最小与件の状態を体験するのだということができよう。しかしこの状態は、普遍性をもっているにもかかわらず自己体験の状態としてはありえない。〈痛ましさ〉の感じはつねに他者に属している。そして、このばあいも身体が体験する心的な世界は、うかがうことのできない〈植物的な生存〉の世界である。この世界は自己体験できないからは(「できないからあるいは」の誤植とおもわれる―佐藤)、記述することもできないかもしれない。しかしこのばあいでもその身体の不具・障害・病気が蒙る心的世界の自体構造を記述することの必要性は控除されるものではない。正確にいえば、状態そのものの世界を把握することなしに、状態の倫理を記述することは不可能であり、状態の恢復について記述することも実施することも不可能である。そして人間にとって根源の問題はいつもこれとおなじ矛盾をパターンにしてあらわれるようにみえる。
 
 ここでいったい何が語られているのかを、自分にしっかりと納得できるように了解することは容易ではない。ただ、なんとなくということであれば、おおよそのところは了解できる気がする。
 いま末尾の部分の文脈に頼って怠惰な言い方を許してもらえば、わたしたちの社会の現在の段階において、身体障害の心身の世界は正確に把握されているとは言えず、にもかかわらず、さまざまな倫理的な捉え方、さらに恢復のための諸種の実践がなされている。正確な把握が未明のところに行われるそれら一切が、もとより、原始未開社会の迷妄さと同質であるとまでは言えないまでも、本来的に言えば不可能なところで行われている事柄に過ぎず、もっと露骨に言えば、原始未開の呪術や迷信や錯誤、こじつけの世界とあまり変わり映えしない段階にあると考えることができる。もちろんそのように考えたとしても、事態は何ら変わるものではない。あいかわらず真の解決法を見いだせないままに、しかし、対策的にさまざまな試みが行われて行くにちがいない。そういう、いわば果てしない運動として障害の問題は存在する。
 そこで問題は、吉本の記述に暗示されているように、障害の世界の正確な記述と、そのことから得られる障害の状態そのものの世界の正確な把握が、不断に追求されていくことであるように思われる。そういう地道な作業や、作業自体の積み重ねが無い限り、現状を超えて正確な障害の把握はできるはずがない。そしてまたそうであるかぎり、正確な障害からの恢復の手立て、または障害問題の解決に向かった対策、あるいは倫理的な意味づけや捉え方がうまくできるはずもなく、ただ先の積み重ねを積むことで徐々に徐々に、真とか正確さとかと言われる事柄に向かってにじり寄っていくほか術がない。わたしたちはいま、そうした迂遠な方法にしか解決の糸口を見いだせないと考えている。これは承認されてしかるべきか、または否定されてしかるべきか、いまのわたしにはよく分からない。
 
 身体の障害をどう考えたらよいのかという素朴な疑問から発して、吉本の講演録や「心的現象論」の記述を元に、ここしばらくの間考えてきた。
 ここでいったんそれらを振り返り、整理し、まとめてみれば、身体の障害とは一言でいうと心身の変容、人間の変容をもたらすものだということになる。この変容の内実について、わたしたちはさまざまな短絡などによって正確な把握を妨げられ、故に今もって同情、倫理、公害、政治や社会問題に安直に結びつけて論じられたりすることが多い。だが、本質的な問題、障害問題の本当の解決の糸口は、そういう流布された言説の間には存在しない。
 健常者は不具・障害・病気を抱える当事者たちから、不可避的に〈痛ましさ〉を感じ取る。しかしそれは、健常者自身の生存にまつわる〈痛ましさ〉の感受が、障害者たちに無意識的に投影しているにほかならず、言い換えると、自分の〈痛ましさ〉を障害者たちに重ねて見ているに過ぎないとも言える。この〈痛ましさ〉の感受から、短絡的に同情、思いやり、寄り添い、ヒューマニズムを発動させても真の解決には至らない。なぜなら、それは少しも「身体の不具・障害・病気が蒙る心的世界の自体構造」の把握に結びつかないからだ。それなしに、つまり正確な実態の把握なしに、問題の真の所在も、問題解決の手法や手段、恢復の道筋を講ずることも不可能だからだ。
 たぶん、わたしが身体の障害の世界に接近できるのはこういうところまでである。
 
 
「障害」とは何か
              2016/12/31
「障害者問題」と「心的現象論」
 三交社から発行された『吉本隆明が語る戦後55年』全12巻のうち、第11巻の「詩的創造の世界」を所持していた。たまたまこれを見たら、このシリーズの中に「心的現象論」が資料として連載されていることを知った。そうだった、すっかり忘れていた。
 たぶん、この雑誌の刊行には山本哲士も関係している。「心的現象論」が資料として付け加えられているのは、「試行」にしか見られないこの文章に、もう少し日の光を当てたいというような山本らの意図があったのかもしれない。前回、ちょっと山本の悪口を書いたので、これは撤回しなければならないという気がした。日の目のあたらなかった「心的現象論」に、山本は日の目をあてようとしていた。そういう努力は評価しなければならない。ただ、1巻は2000円と高額で、当時もなかなか全巻そろえて買うという気がしなかったことを思い出す。最近の山本の、文化資本とか象徴資本とかの概念に関わるところだが、わたしなどにはそういうことよりも、本は廉価であるということの方がありがたい。ただ、こうした取り組みをしてくれたおかげで、なにも単行本になった高額の「心的現象論本論」を手にしなくても、おなじ文章を目にする可能性は広がる。早速、宮城県図書館の検索を利用したら、やはり全巻所蔵されていると知った。寄贈されたのか、図書館のほうで購入したものかはわからないが、しかしこれで無料で読むことができる。
 
 わたしが目にしたいと思った「障害問題」とのかねあいでいうと、「身体論」のなかに、「不具・障害・病気」という項が、(1)から(6)まである。またそれに続いて「不具・障害・病気その心的世界」という項が(1)から(3)まである。今回はこれらを読んで、もう少し身体の障害という問題に迫ってみたい。まずは不具・障害・病気(1)から(6)まで、引用やそれに対するメモのようなコメントを加えて記述することにしたい。うまくいくかどうかわからないがやってみる。
 
不具・障害・病気(1)
 
 この問題(身体の不具や損傷の問題―佐藤)に倫理的にあるいは善意で接近しようとすると、どうしても〈他者〉の身体は〈自己〉の身体ではないという絶対的な壁につきあたるようにみえる。つまりこの壁のところで倫理は傍観者や非体験者のやくざな、傲慢な〈同情〉や〈親和〉感に、いわば宗教や公共体の〈事業〉に似たところに転化する。あるいは、心情は〈他者〉の身体に同化し、利己心だけは棚に上げてたれからも触れられたくないという分裂と矛盾に見舞われる。そこで迂遠なようでも、この問題に接近する回路を手探りしたほうがよいようにおもわれる。
                     一般的にわたしたち健常者が障害を持つ人たちと向き合ったり、障害の問題を考えようとする時に陥りがちなことについて述べたもので、倫理的にとか善意とかで接近するのはダメだということを言っている。なぜダメなのかはその次に理由として言っていることで、倫理的な接近が優越感の貼り付いた〈同情〉とか〈親和感〉に転化したり、あるいは善意の心情というものは利己心を棚上げしたままに〈他者〉の身体に同化するという分裂や矛盾に見舞われるから、ということになる。
 こうしたところの、いわば人間性の内面を深く抉った言葉は、実際に自分の心の動きを内省するところから生まれるもので、吉本自身がこの種の経験をし、そしてそうではない接近の在り方を探っていこうとしていると見える。
 ここはわたしも全く同感するところで、引用に見られるような接近の在り方には不満である。わたしの感性は、そこに嘘があるだろうと見てしまい、嘘のない見方、考え方、接近の仕方を望む。
 じゃあどうすればいいかということで考えてきているわけだが、ここまでのところ、どうも吉本にしてもわたしにしてもこの障害の問題が自分の問題であるかのように、込みにして考えているように思わずにはおられない。つまり、ちょっと言い方を変えれば、考え方自体が厳しすぎないだろうかという懸念が生じる。どうして吉本とかわたしなどのようなものは、宗教とか公共体の〈事業〉に似たところに転化することを忌避してしまうのだろうか。あるいは自己利益を放棄することのない、障害ある〈他者〉の身体への心情的な同化をそのまま見過ごせないのであろうか。
 もちろん、吉本もわたしも、皆が同じように考えるべきだと主張したいわけではない。どちらかといえば、ただ自分はそうありたいという思いで別な回路の接近というものを探ろうとしているに過ぎない。つまり、同行者や支持者のあるなしなどを考えずに、ただ自分の思いに従って回路を探し出したいと望んでいるのだ。わたしにすれば、これはもうわたし自身の問題と不可分の形になってしまっているようにすら思える。
 
不具・障害・病気(2)
 
身体の〈不具〉あるいは〈障害〉の概念も、まったく医学的にはここでの〈病気〉の概念に包括されるようにおもわれる。たしかにこの境界内では普遍的に妥当する身体の〈不具〉、〈障害〉、〈病気〉の概念は必要ではないし、不可能であって、具体的にどこそこに疾病があり、そのために身体はどういう運動や機能の不備をもち、それからどういう身体感覚上の異和の訴えがあらわれるかが摘出されればよいことになる。
 ところが、この身体の〈病気〉がどんな事態をもたらすのかを、〈人間〉という概念にまで拡大し、その影響を人間の生存のための全領域にまで拡張しようとすれば、どうしても医学の境界を越えて、普遍的な〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉の概念が必要であるようにおもわれる。
 
 医学という境界内での不具・障害・病気の概念は、一般的普遍的な意味あいでの不具・障害・病気の概念とすることはできない。また医学はそれを必要としない。身体の不具・障害・病気の普遍的な概念を持とうとする時に、医学的な考え方はそのままでは役に立たないのだとも言える。
 吉本は、「医学の境界を越えて、普遍的な〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉の概念」を「必要」とする時に、実はそれが成り立ちにくいものであるとして、次にそのことについて検討している。
 
 普遍的な〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉の概念が成り立ちにくい理由については、おなじところでヤスパースが明晰に説いている。それを任意に拡げてみれば、ひとつには平均的な概念と理想的な概念が必要になり、この二つの概念がいずれも曖昧なことである。〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉の概念を普遍化するには、大多数の大過なく身体の機能を発揮し生活をくりかえしていく存在を〈健全〉の基準にもってこなくてはならない。また医学的にいってもそうであるが、身体のある部位の〈病気〉を具体的に摘出し対応するためにも、その部位の身体器官の機能の〈理想過程〉が無意識に想定され、この〈理想過程〉は、〈健全〉な身体の所有者からも大なり小なりかけ離れた願望にしかすぎず、ともかくも〈健全〉に生存し、生活をくりかえしている大多数の存在形態からも遠いものとなるほかはない。もうひとつ、普遍的な〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉の概念をうるために、どうしても価値観の基準が必要となることである。身体が〈健全〉であることはそれ自体で価値あることであり、〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉は価値の少ないものであるとかんがえれば、疾病状態にある人間はそれ自体で価値のない状態であるということになる。身体の〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉を身体から見れば、たしかに価値の少い状態であるといえるかもしれないが、人間としてみたときには、そういう価値の基準はまったくあてはまらない。
 
 ここで吉本が言っていることは、わたしたちが日常、〈健全〉だとか〈病気〉、〈障害〉、〈不具〉とかを分けて考えるときに、意識的あるいは無意識的にいろいろな基準をもとに判断していることを言っていると思う。そしてその時に使われる基準というものは、個別的であったり学的であったりとさまざまであり、さらに厳密に言えば、それぞれの基準そのものがそれぞれに曖昧なものなのだということを指摘していると考えてよい。
 
 ここまでのところで少し整理しておくと、身体の障害とは何なのかとあらためて問い直してみて、自明のように思われてきている身体障害の概念について、それほど自明のことではないんではないか、結構疑わしかったり曖昧なところがありそうだというところでさらにあらためて考えているところだ。
 ここまでのところで、吉本の記述の流れも同様に、全体としては身体の障害とは何かというところを問うている。で、倫理的、あるいは善意というもので接近しても納得できる理解とか把握は不可能だということで、次に医学の領域からこれを眺めてみたが、ここでも曖昧だったり難点だったりするところがあることに触れたということになる。そして、吉本の記述は次に、心理学的にはどういうことになっているかというところに向かっている。
 
不具・障害・病気(3)
 
 たとえば、ひとりの人物が先天的にか、あるいは偶発した〈事故〉によって四肢の一つに欠損があった。この状態に適応しようとする医学と心理学と障害社会学の方法は、ほとんど固定的にこの状態を把握する。その過程は、身体の欠損部位の物理的な認知→欠損部位の人工的な補充(義手・義足のような)→訓練による欠損部位の正常化への試み→生活社会へ復帰するための職業的な養成過程。そしてこの過程で差別感の固定化と宗教的な諦めとが二つの極限としてやってくる。ここには肝要なことがぬけおちているようにみえる。もし、肢体不自由者が右の手首を欠いたとする。この肢体の欠落は、けっしてたんに右の手首が物理的に欠けたということではない。いわば心身相関の領域での全変容を意味している。右の手首を欠いたために、かれの左手は、まえよりも利き手として鋭敏になったかもしれない。またかれの眼は身近な手の届くかぎりの対象について遠近の感覚に微細な狂いが生じたかもしれない。また右手の欠損は把むことを不自由にしたため、触覚の野に変化が生じたり、身体の筋肉は変化を蒙ったかもしれない。総体的にある直接的な対象の領域は、心的に全体的な変容を受けた。この変容はたんに感性的な対象についてだけではなく、人間の存在そのものの変容である。心理学はこの存在そのものの変容を無視している。そして右の手首の欠損は、たんに右の手首の物理的な欠損であり、またこれにともなう心的世界の変容は、たんに右の手首を欠いたための心理的な変容で〈右の手首がなくなってしまった、おれは片わ者である〉、〈おれは醜い身体になってしまった、結婚も恋愛もできやしない〉、〈おれは利き手を無くしてしまった。これではまともな職にもつけない生活の破産だ〉……等々の劣等感とその代償の世界に短絡させてしまっている。対象世界の全体的な変容として構造を究めようとする試みも企ても、また方向づけもない。そのために肢体不自由者自身も、身体の欠損した部位に局所的に全部の意識を集中させ、心的世界はそれだけに成れと絶えず口説かれているのとおなじである。もちろん、かれの心的な世界が、不自由な肢体に自閉され、集中されているわけではないことは、かれ自身がよく識っているのに、心理学や社会学はそこへ集中せよと命ずるのである。 
 
 この項における全体の三分の一程度の長い引用になってしまったが、あらためて読むと、ここではとても重要なことが指摘されていると思う。それこそ吉本の文章を取り上げる最大の理由でもあるが、例としてあげる右手首の欠損から、「心身相関の領域での全変容」、「心的に全体的な変容を受けた」、「人間の存在そのものの変容」というところまで、ダメージを拡張して捉えきっている。また、「心理学はこの存在そのものの変容を無視している」と言い切るところもまた、わたしにとっては最大の吉本らしさと感じる。
 結局、懸案であったところの「身体の障害とは何か」という問いに対して、一応この段階で、「それは人間の存在が変容しちゃうことなんだよ」と、わたしたちは言えるようになったのだと思う。もちろん、ざっくりと存在が変容しちゃうと捉えればすむ話ではなく、変容の全体構造の究明が必要なのだが、それはしかしまた別の話である。
 引用の末尾の記述も、わたしには読み流しにできないところだと感じられる。長く学校にあって障害児教育の在り方を見聞きする中で、障害を持つ子どもは無意識のうちに自分の障害のありかを常に意識せざるを得ないように追い詰められる。訓練という形でもそうだし、それ以外によっても、学校生活全体を通して、あるいは家庭生活においても常に自分の障害について意識を集中するように命じられているようなものだ。
 だが、ほんとうは、吉本が言うように、「かれの心的な世界が、不自由な肢体に自閉され、集中されているわけではない」。逆に心的世界の本質から、普段は障害の意識を離れて健常者一般の生活がそうであるように、たわいのない直近の出来事の受容と了解に努めている場合がほとんどだと思える。つまりその時、心的な世界は不自由な肢体のことを忘れているはずなのだ。吉本が言うように、心理学や社会学は、そしてもっと言えば肢体不自由者を取り巻く社会や世界は、彼らの障害者意識以外の心的世界の価値や有意味性をおざなりにし、そのために彼ら自身もまた自らのそうした部分について意識的に考えることも語ることもしなくなってしまう。だがほんとうに人間的な部分というのはそちらの方にあり、障害問題を解決していくときの糸口もまたそちらの側に隠れているのではないだろうか。
 
不具・障害・病気(4)と(5)
 
 (4)と(5)では、〈幻肢〉、つまり「四肢の切断や欠損があったとき、何らかの心的または現実的な理由から、あたかも切断や欠損の身体部位が存在するかのような知覚が、長期にわたって消失しない現象」などの考察を中心に、肢体の欠損が当事者にどのように直接的に、また自体的に影響するかを検討している。
 〈幻肢〉は、実際に四肢の切断や欠損があった場合に起きる心的現象の一つと言えるが、先の項との関連からいえば「心身相関の領域での全変容」、「心的に全体的な変容」、「人間の存在そのものの変容」における「変容」そのものの具体的な現象である。つまり前項を受けた形で(4)と(5)でこれを考察しているという形になる。注意すべきは(5)で身体欠損によらない〈幻肢〉の記載例を示し、身体図式の異変、すなわち身体の自己関係づけ、自己了解の異変が、脳の器質的欠陥とは別に、心的に起こりうることを考察している点だ。
 
不具・障害・病気(6)
 
 身体の〈不具〉、〈障害〉、〈病気〉が心身の世界にあたえるものが自己関係と自己了解における〈変容〉であるとすれば、このばあいの〈変容〉は直接的であるとともに自己対象的である世界ということができる。ここでは身体の〈不具〉、〈障害〉、〈病気〉は対他的であるよりも対自的なものとしてあらわれるほかない。かれはたとえば上肢を欠損しているとすれば、その不自由や美醜よりも、どんな〈幻肢〉がどうあらわれるかというような〈変容〉の体験にむかう。この体験は未踏の体験であるために心身の相関する世界は新たな相であらわれる。もしもこの世界を個体の世界に限定するとすれば、かれは他者につげることができないかもしれないが、肢体の欠損によって生じた心身の〈変容〉に意識を強めざるをえないかもしれない。しかしこの世界はかれ自身に属し、かれ自身の世界を体験させるだけである。
 しかし、おおくの肢体不自由者は、先天的であるものも、偶発的な事故によるばあいも、自己自身に属し、自己自身に体験される心身の世界の〈変容〉を、ほとんど全く記述していない。
 
 ここの記述が、吉本の、身体の〈不具〉、〈障害〉、〈病気〉に対する考察がたどり着いた、その頂点にあるものだという気がする。
 ここから吉本は、ほとんどの肢体不自由者の記述の世界は〈結婚〉や〈就職〉に関連するものだと例示し、それが対の関係や共同の関係世界だと述べる。そして、
 
かれの〈結婚〉や〈就職〉にたいする危惧や不安は、肢体健全者のだれもがもつ〈結婚〉や〈就職〉や生活を維持することにたいする危惧や不安とすこしも質的にはちがはない。いわば、程度の問題であって、けっして、〈特殊性〉の問題ではありえない。
 
と明言している。
 
 
「障害」とは何か
              2016/12/14
「障害者問題と心的現象論」についてB
 前々回、前回と「身体障害」について考えたが、その中に初歩的、基礎的な誤りがあったのではじめにこれを訂正しておく。それは「身体図式」と「身体イメージ」についてで、わたしは前々回の文章で
 
〈像としての身体〉(〈イメージとしての身体〉〈身体図式〉に同義)
 
というような書き方をした。
 前回をアップしてから何気に雑誌「試行」60号を取り出して、吉本隆明の「心的現象論」をチラ見したら、「身体イメージ」と「身体図式」が全く違う概念であることがそこに触れられていた。それまで大ざっぱに似たようなものだろうとして、あるいはその差異は自分の文章の意図や趣旨からはささいなものとして扱ったが、「同義」という言葉を使った手前、そこは訂正しておくべきだろうと感じた。同義では、ない。
 身体のイメージと身体図式の違いについては吉本の「試行」の文章を引用してもいいと思ったが、ネットの「脳科学辞典」掲載の文章がわかりやすそうだったので、以下にそれを引用させてもらう。「身体図式」の文字を入力したら、最初に次のような記述がある。
 
 じぶんが今椅子に座っていること、また、右足を左足の上に組んでいることをひとは観察によることなく直接知っている。あるいは、暗闇であってもじぶんが蚊に刺されれば、即座にその身体箇所に手のひらを持っていくことができる。このような場面で働いている身体に関わる潜在的な知覚の枠組みのことを、身体図式という。
 
 またこれに関しての補足事項や身体イメージとの違いが、以下の文章に示されているので会わせて引用しておく。
 
身体図式とは
 
 身体図式という術語は、心理学、神経科学、哲学、ロボティクスで広く用いられ、心や意識の身体性、感覚運動統合を論じる上で重要な概念である。一方で異分野間、研究者間で身体図式の確立した定義について合意が得られていない。これまでのところ、身体図式には次のような特徴があると言われている。身体図式は、
 
 1.再帰的な意識、自覚を必要としない。身体運動を意識下で調整している主体である。したがって、ひとが身体図式に対して顕在的な知識を持っているとは限らない。
2.サル、ヒトの脳に共通して、大脳皮質の頭頂葉連合野および運動前野が身体図式に関わっている。ヒトでは特に頭頂連合野の損傷によって、身体図式の障害が起こる。
 3.身体図式は変容する(可塑性を持つ)。日常的には、ある道具の使用に熟達すると、私たちは道具を持っている手そのものではなく「道具の先端」で対象を感じがちである。身体図式は感覚運動学習の結果、あるいは実験的に作り出された錯覚によって、一時的に変容させることもできる。
 
身体に関わる意識
 
 意識下で作動する身体図式は、身体イメージとは区別される (body image)。身体イメージとは、「私は、身長170cmで、?せ型である。大きな耳を持っている。」というような顕在的な自己身体に関する知識を指す。自己概念としての身体と区別して、潜在的な身体図式の存在を主張する根拠とされてきた現象が、幻影肢である。幻影肢とは、戦場での負傷や交通事故などによって、四肢を切断する手術を受けたひとが、既に存在しないはずの手足の末端に痛み(幻肢痛)やかゆみを感じる現象を指す。幻影肢は、特に手足の切断手術の場合は90%以上という高い頻度で出現するが、四肢に限らず、顔面、乳房、耳、内蔵など身体のどの部分でも生じ、時間の経過とともにほぼ消失すると言われている。
 
 ここで要約してみると、身体イメージとは
「顕在的な自己身体に関する知識」で、身体図式とは「身体に関わる潜在的な知覚の枠組み」ということになろうかと思う。
 ただこれだけのことだが、とりあえずここでは「同義」という言い方はできないということで、これまでの言い回しを訂正しておきたい。
 
 さて、そうした上でここまで考えてきたところを振り返ってみれば、依然として身体の障害の問題について、あるいはその理解について、はっきりしたことは何もないということになる。全てがはっきりせず、曖昧でありうやむやなのに、現実的には曖昧さとうやむやの中に全てが進行しているといえよう。
 その中で、わたしがかろうじて辿り着いた場所は障害の概念、障害についての考え方を「障害」あるものに向けて無化する方向である。平たくいえば現在の社会制度で「障害」と認定されている人々に対して、それは少しも「障害」などではなくて、ただそこに「人間」がいるだけだと見なすことである。
 たしかに、肢体不自由者などの身体に障害を持つという場合、身体的には数が少ない状態であり、障害を持つことで自己自身の拡大が不全化を起こし、あるいは他者との関係づけで不全化を起こし、対象物に対する関係で不全化を起こすということはできる。しかしそれらのことは少しも人間的な価値の有無とは関わりがないし、不全化はまた程度の問題で全ての人々に共通する問題だと言うこともできる。もっと言えば、ほんとうはそれぞれの人々にとって、自己了解、自己関係づけの次元の問題、明瞭な自己把握の問題に過ぎないように思える。さらに、言い換えると根底には個人の問題という側面が厳然として存在する。だから本質的な解決の方向性として、障害あるもの自らが、人間の価値の問題、自分の身に起こる不全化の問題に関して、徹底して考え、解決を探るほかにこの問題から解放されることはないように思える。単純な言い方をすれば、それらのさまざまな不全化と普段にどのような折り合いをつけるかが生きることにまつわる全ての発端と見ることもできよう。そのことが、現実に生きていく上での問題として、必ずしもうまくいくかどうかということとは関わりがない。それはたとえば、障害を持たないと見なされる健常者の場合にもおなじで、健常者の生が、全て順風満帆に行くものでないことは、あらためて言うまでも、そして考えるまでもないことである。 
 このあたりで、吉本隆明の「障害者問題と心的現象論」という講演録の考察を切り上げたいし、また「障害」問題全体からも離れたい気がしている。ほんとうはまだ入り口の辺りをうろうろしただけだし、考察とは名ばかりでちっとも先に進まない。おそらく、これ以後は降参ということになるか、長い休息を持つことになるかもしれない。
 
 学習支援の仕事を退いてから、およそ9ヶ月が経過した。子どもや学校や障害児教育やらは気分的にもだいぶかけ離れてきて、切実さも一気に薄れたと思う。3月まで、障害について考え続けることができるかどうか。また考え続けたとしてその内容が意味あるものになるかどうか不安なところだ。
 
 身体と精神の障害問題を考えるにあたって、先ずは吉本の「心的現象論」の本論部分を読み解く必要を感じる。そこをきちんと踏まえなければ本格的にこの問題を論じることはできないし、先に進めないと思う。福祉教育、障害教育、そのほかのどの角度から障害問題を眺めても、肝心なところは取り残される。その肝心なところをつくものとして吉本の考察はあるように思える。
 
 ところで、吉本の「心的現象論」は雑誌「試行」に連載された。そのうち、最初の部分は「心的現象論 序説」として単行本になり、わたしはこれを所有している。だがそのあとの本論部分は長い間書籍化されず、またわたしが「試行」を取り寄せるようになったのは40号以降で、障害に関連した部分の掲載はそれ以前で直接読むことができない。
 少し前に、専門は社会学者といっていいのだろうが、吉本との対談を数多くこなしてきた山本哲士の手によって「心的現象論本論」は書籍化された。しかし、これが廉価版で8000円、序説と込みにした愛蔵版が14000円を超えてわたしなどが手にできる値段ではない。この件に関してはわたしは山本のやり方に不満で、生前の吉本さんもこの価格設定にはあまり肯定的ではなかったように思える。山本にすればそれだけの価値があるという思いなのだろうし、採算の問題もあって仕方のないことかもしれないが、この時の山本をわたしは評価しない。おそらくこの本は全国の国公立の図書館にも寄贈されることはなく、所蔵されてはいないだろう。となるとわたしたちは目にし、読むということができない。一部の熱烈な吉本ファンだけのものとなってしまう。
 この本の実際の出版は、吉本が他界する前後のことだったと思うが、それから数年して晶文社から吉本全集が出版されることになった。もちろんそこでは「心的現象論本論」も予定されている。全部で30冊を超える冊数となり、一冊がおよそ6000円くらいと記憶する。こちらも値段は安くはない。また、わたしが期待する「心的現象論本論」を納めた号はかなり発売日が後回しになるようで、いずれにしてもわたしの目に触れる日は限りなく先のことになるようである。あるいは目にしないで終わる。
 
 最後に、ということになるかどうかわからないが、障害に関する雑談めいたことをひとつふたつ書き残しておきたい。
 1つはつい先日と言ってもいいくらいだが、『五体不満足』の著者として有名な乙武洋匡さんの不倫問題が世間を賑わした。
 このことについては、わたしはネットのニュースの見出しを追ったくらいのことだが、たしか5人くらいの相手がいたとかで、真偽の程はよくわからないが、「やるもんだねえ」と思ってなんとなく痛快になった。なぜ痛快になったかと言えば、やはり、身体の障害が恋愛に関して絶対的なハンデを負うという常識を覆すように思ったからだ。少なくとも、手足のない乙武さんは、手足を持つわたしよりも女性にもてていたことは間違いない。少しばかり不遜な言い方になるかもしれないが、わたしからすれば、乙武さんは対女性ということでは手足のないことを逆に武器にできているように思えた。これは手足を持つことを武器にできないわたしとは対極にある。もちろんそれが正解かどうかわからないし、それを武器にできていたかどうかということも勝手な推量の域を出ないことだ。しかし、障害があるから絶対に結婚できないとか、絶対に恋愛できないとかは言えないことを、乙武さんの不倫報道は実証的に証明してくれるように思えた。
 乙武さんについては、文筆家、タレント、元教員などの肩書きを持ち、一般に広く知られたように多方面で活躍されていた。それは詰まるところ、自分と自分の周囲のそれぞれについて、また相互の関係性についての把握の仕方が的確だったとか、すぐれていたとかということによるものだったと思える。そういう意味では、乙武さんの力能は肢体健常者のわたしをはるかに凌いでいる。もちろん陰の支援者もたくさんいただろうが、そのことも含めて、やれ障害があるからとか健常者だからだとかの次元を、はるかに超えて活躍し、わたしにはそのことが痛快に思われた。
 わたしは五体満足だが、乙武さんのようにモテた試しはない。またどんなにがんばってみても乙武さんほどに社会的に、また職業的にも重きを持つ存在であり得た試しなどもない。もちろん今も、そしてこれからもそうであろうと思う。つまり、言いたいことは、未来に向かっては必ずしも障害のあるなしが生を決定するとは限らない、そういう扉がすでに開かれつつあるのではないか、ということだ。
 現在は、障害のあるなしの境界が一方では明確、明瞭化させられていると同時に、また一方ではそのことに対する疑念も強烈に提出されてきている。境界がはっきりさせられていると同時に、はっきりしないものとして二重化されて、同義のように存在している。それが互いに拮抗し、障害の問題を考えること自体をきついものにしているように思える。だが先に述べたように、この拮抗やそこから来るきつさは、必ずしも絶望すべきものではない。わたしはそう思っている。
 
 吉本が、障害の問題を人間の歴史の最後にまで持ち越される課題と述べるとき、逆に言うと、人間はこの問題を最後まで放置しないで考え続けるということだ。容易に答えは出ないが、課題として持ち続けるかぎり、答えの出る可能性はいつまでもあり続ける。それは明日であるかもしれないし、何百年後かもしれない。もちろんそんなことは現在に障害を生きる人々にとって、何の意味も無いことは承知している。周囲の人たちを含め、彼らの現在の苦痛や困難を軽減しはしない。それはしかし、苦痛や困難の概念上の問題として考えれば、健常者であってもおなじことが言える。健常者であっても、軽減しない苦痛や困難を持ち続けるということはある。わたしはそれがある水準を超えたところでは、健常者と障害者の区別、境界を越えたところに表象されるにちがいないという気がして仕方がない。
 雑談めいた記述だからどう書いてもいいと思うが、例えば手足があるなしの差異、言葉を持つ持たないの差異として健常者と障害者とを比べたときに、この差異は決定的なように思えるが、さらにこれを考えれば、体験を含め理解の孤絶というところに問題は収斂するように思える。しかし、また、さらによくよく考えれば、この理解の孤絶は健常者においても、しばしば陥入りがちなものに過ぎないように思える。
 つまり、障害ある人にとって、障害を抱えた自分の人生をもっとも苦悶するところが孤絶した体験にあって、その体験から派生するさまざまな心的、あるいは神経生理的な孤絶感にあると見なせば、それは健常者といえども皆無ではないと思えるのだ。そこまでいけば人間はみな哀れで、可哀想な生き物なのだ。 
 今回、ここまでこのように焦点の定まらない、拙劣で荒れた書き方をしてきた。それはそれでいいが、まだ言いよどんでいるところ、考えを控えているようなところがあるような気がする。それは寝たきりのような重度の障害の場合についてであり、ここまでの考えではそこを拾い切れていないように思える。
 あらためてそこを考えると、すぐに次のような考えがおこる。すなわち、重度の寝たきりのような生涯も、健常者の生涯と同等だと見る見方、考え方ができるように、自分の思考を詰めていくべきだ、というようにだ。そういう境地に立ちたいとわたしは望んでいる。それを、言葉によって埋めていきたいとねがっているのだ。わたしとすれば、わたしの出来るそれが唯一の救済の方法であって、しかも障害を持つ人にとって全く何の意味も無いことだ。わたしは転倒や錯誤を生きる愚か者だろうか。だが、こう考えていくより今のところ方途がない。やがて、人間社会の歴史が、わたしたちの心に向かって追いついていけばいいのだ。
 
 
「障害」とは何か
              2016/11/18
「障害者問題と心的現象論」についてA
 吉本は『心的現象論』の本論の部分で「身体論」を展開している。吉本の「身体論」の基軸になっているのは、一言でいえば「了解」と「関係」だということができる。
 4の初めは、この「了解」と「関係」にシフトを移して、話が進められている。
 
〈身体とは何か〉、〈身体の像とは何か〉というふうに、人間が身体のイメージをつくるばあいに、その根本になっているのは何かといいますと、それは大きく分けて二つあります。一つはじぶん自身の身体をどういうふうに〈了解〉しているか、ということなんです。じぶん自身の身体を、あるいは、じぶんが他人の身体をどのように〈了解〉しているか、ということです。
 (中略)
 それからもう一つあります。これは、じぶんの身体とじぶんがどのように〈関係〉をもつかということです。つまり、じぶんがじぶんの身体とどのように折り合いをつけているか、その折り合いのつけ方がもう一つ根本的な問題です。
 
 ここに使われている〈了解〉また〈関係〉という言葉、それに付随した概念は、吉本の「身体論」そして『心的現象論』の主要な、あるいは中心的なもので、大げさに言えばその骨格をなすものである。ここで、吉本の言う〈了解〉って何、〈関係〉ってどういうこと、と問うと、またそこからひもといて読まなければならなくなる。実際にわたしなどはそういう経験を何度もしてきているので、ここではすんなりと吉本の言うところをそのまま受け止めておくことにしたい。で、ここではまず、「自分がある」ということを前提にして、その自分が自分の身体を了解し、また自分の身体との関係を持っている、というように受け止めればいいということにする。
 とりあえず、わたしたちは自分の身体を了解し、共時に自分の身体とのある関係の仕方をしていると、吉本はここで言っている。そう捉えておけば、この時点ではあまり問題なくこのことを受け入れていけそうに思える。
 ところで、問題はここからだが、吉本はここでいう自分の身体の了解、また自分の身体との関係は、あらゆるほかのことの了解や、ほかとの関係の仕方の基準となり、根本になると考えている。たとえばここでは、「ある時代の物事の理解の仕方の根本は、じぶんの身体をじぶんでどのように理解するか、という問題の中に基準がある」と言い、また他者との間に障害が生まれる場合、「その障害の根底にあるのは何かといいますと、じぶんの身体に対して、自分とどのような折り合いをつけているか、ということが根本になっているのです。」というように述べている。
 つまり、〈了解〉や〈関係〉というのは、そういうところまで引っ張って考えられている。違う言い方をすれば、〈了解〉と〈関係〉の2つで全ての事象を切り取る、言い尽くすことができるというくらいの意味合いが持たせられている。吉本は別のところで〈了解〉は時間性であり、〈関係〉は空間性であることを述べている。ある意味で、あるいはある抽象性の水準で、この世界は時間と空間からなり立ち、世界を時間、空間の言葉で言い尽くせるという言説をきく場合がある。吉本はその時間と空間の出処を人間世界において見たばあいに、身体の了解と身体との関係の仕方にその発生の根拠を置いているように、わたしには思われる。そしてそのことは先の発言につながれていて、すなわち、自分の身体の了解(理解)が他を了解(理解)するときの基準となり、自分の身体との関係(折り合いのつけ方)が他との関係(折り合いのつけかた)の根本だという言い方になるのだと受け止めている。
 一応このように考えて受け止めるとして、すぐに思うことは、了解も関係も正解なんてないということ。重要なのは時間と空間の問題なのだということ。さらに、この了解や関係の仕方のそもそもが、個別的で、その人その人で固有であるだろうと考えられることだ。
 個々人が、不完全でしかも個々バラバラな了解の仕方(固有時間性)、関係の仕方(固有空間性)という制約性を、はじめから持っているものとすれば、これはもうそもそもが他者とは一致することなどあり得ないじゃないかと思う。たぶんそれはその通りで、ただわたしたちの現実はそれほど厳密にそのことに支配されているわけではなく、ほどほどのところで許容し合えるようにできている。つまり、差異の中にある共通項を見いだすことができるようになっている。吉本は言っている。
 
 しかし、現実に生きている人間は、大なり小なり、みんなその折り合いがうまくいっていないのです。つまり、じぶんがかんがえているじぶんの身体と、じぶんがかんがえているじぶんの〈精神図式〉(注―ここはほんとは〈身体図式〉を持ってくるべきところだと思う。次も。―佐藤)というものと、他者からみたじぶんの身体というもの、あるいは、じぶんの〈精神図式〉というものは食い違っているのです。これが、現実に生きている人間のさまざまな悩みの根底にある問題です。そして誰でも、大なり小なりじぶんのじぶんにたいする身体の感じ方と、他者のじぶんにたいする感じ方とは食い違っています。食い違っていても、それがある境界内に止まっているときには、〈正常〉だとおもわれていたり、あるいは、じぶんの精神の内部で処理して外にボロを出さないですんでいるわけです。それがぼくであり、皆さんです。ボロを出さないだけで、ほんとうはそうしたことを想い悩んでいる、ということがわかります。
 
 そして吉本はさらに、個々人がバラバラで、しかもじぶん自身においても食い違い、他者をみるばあいにも食い違うこの了解と関係のあり方が、「身体障害とか、精神障害とかいうものの根底にある」本質的で根本的な問題なのだと指摘する。
 さらにこの4の終わりのところで、これは身体の問題でありながら他者との関係の仕方を規定することにもなるので、このこと自体が〈社会〉というものを提起してくるのだと言及している。すなわち、必然的に〈社会とは何か〉、〈社会の障害とは何か〉という問題意識が浮上すると述べている。
 ここまで、吉本の言うところを急ぎ足でなぞるように辿ってきた。文字面としてはさらりと読み流せたのだが、実際にはその過程でいくつもの問いや疑義のようなものを呑み込んできている。簡単に言うと、分かったようで分からない。分からないようで、分かっているかも知れない。そんな不思議な気分で通り過ぎてきた。いや、わたし自身は、はっきりとは分かった気分にはなっていない。そのこと自体がどうしてなのかよくわからない。ドシンと、腑に落ちるような形で理解できていないと思う。これには二つ理由がかんがえられる。一つは非常に高度に観念的であるということ。もう一つはこれを理解する能力が自分にはないこと。しかし、わたしはあきらめずに、しがみつくようにしながらこの問題を考えようとしてきた。分からないことは仕方のないことなのか。それとももっとしがみついて考え続ければ、やがて分かったということになるのだろうか。わたし自身は後者だと思ってきたし、そうであってほしいと思い続けてきた。いろいろな理由、いろいろな成り行きから、たとえばわたしならこの問題を理解するのに百年かかるとして、じゃあゆっくりとでも断続的でも百年考え続けようじゃないか、そういう考えをわたしはとっている。その流儀から、ここで全てが腑に落ちるように理解されなとしても、やがて理解できる場に辿り着くために、もう少しすこしこの4全体を振り返って考えておきたい。
 まずここでのわたしにとっての大きな問題は、後出しのように出されてきた〈了解〉と〈関係〉についてで、先に述べたようにこれを最初不問に付した。しかし、やはりこれは今考えておかないと、どうしてもすっきりしない気がする。これを考えることはわたしにとってはたいへん面倒なことで、またむずかしいことであるが、とりあえず考えてみる。 言うまでもなく〈了解〉と〈関係〉は、吉本の身体論の骨子をなすものだが、言ってみればこれらは身体の属性のように考えられ、扱われている。たとえば目や耳といった受容器官は、対象となるものと結びつき、その上で神経回路を通じて対象物は脳に到達する。この一連の流れは、吉本の言い方をすれば、まず対象を対象として関係づけ、それから了解に結びつく作用だと見なせる。これは無意識の場合もあれば意識される場合も想定できる。無意識という場合には動物的な次元、意識的と言うときには人間的次元と見なせば、便宜的だが考えやすいと思う。わたしたちは別に哲学的であろうとしているわけではないので、ここは別に厳密であることを要しない思う。
 さて、吉本の「心的現象論」の考え方からは、この〈了解〉と〈関係〉に、時間と空間の概念が付与される。〈了解〉は時間性として、〈関係〉は空間性と結びつけられる。またそれぞれには時間化度、空間化度のように、度合いの違い、差異があると見なされる。動物的次元と言っていい身体そのものに貼り付いた〈了解〉と〈関係〉、時間性と空間性、時間化と空間化、あるいは時間化度や空間化度に対し、人間のそれは人間固有として、それぞれ「固有時間性」「固有空間性」と説明される場合もある。
 そこで、わたしなどはこの時に、人間にのみ固有の時間化度や空間化度、つまり〈了解〉や〈関係〉があるとして、しかしこれは動物的な次元の〈了解〉と〈関係〉を基底に持ち、その上に成り立っているだろうと理解する。そしてしかも、動物的な次元の〈了解〉と〈関係〉を規制する、それぞれの感覚器官や脳の性質にも個々の差異があり、これはまた人間的な〈了解〉や〈関係〉を規制するものとして、それぞれの差異をもたらす基底になっていると考えられる。
 動物的な次元の〈了解〉と〈関係〉を基底として人間的な次元の〈了解〉と〈関係〉があり、これは一次的には自分の身体のうちに発現される。さらに、意識的にも無意識的にも、このことはじぶん自身の〈了解〉と〈関係〉に結びつき、そのことはまた他者とか他の事象とかを〈了解〉し、〈関係〉する場合の基準となる。吉本はそう言っているようにわたしは思うのだが、これがまた分かるようで分からず、分からないようで分かるような気がする。
 いずれにしてもここまではただ固有性が種としての人間全般について、そして個々の人間にもあるといえるだけで、障害とか異常とかの概念が入り込む隙はない。ただ、一人ひとりの固有性があまりに固有で他とかけ離れている場合、そしてそれが他者との関係の中に置かれたばあいに、はじめて障害とか異常とかが認知されることになる。逆に言えば、他者との関係の中に置かれることがなければ、障害とか異常とかという言い方が成り立たないともいえる。このことは、わたしとすれば、精神の障害や異常に関してであれば、とても納得できる考え方だ。つまり、こういう言い方は無責任かも知れないが、ここまでの話が成り行き上、身体の問題も心的な問題のように扱われてきており、それが主になっているからだと思う。吉本もまた、
 
この問題は、他者との関係づけ、関係の仕方というもの、それから人をどのように了解するか、了解の仕方というものの食い違いが、身体障害とか、精神障害とかいうものの根底にあることがわかります。
 
と述べている。つまり身体の問題も捕捉するものだというわけだが、しかしわたしとすればここまで追ってきた吉本の考えと、例えば手足がないという肉体的唯物的部分の、考え方の処理上の問題が、どうもすんなりと腑に落ちてこないところがある。吉本の言うように、根底、あるいは本質としては、ここで吉本が言うとおりなのかも知れない。けれども、身体障害にはもう少し違った側面があり、心的現象としてだけ論じきれないものがあるように思える。もちろんこの講演録の題が示すように、「障害者問題と心的現象論」について、つまり心的な側面から言及しているものであるわけで、わたしの思いは無い物ねだりのような次元のものと言えるのだろう。
 吉本の話がその種のことを全く踏まえていないわけはないのだが、その論理的な抽象性の高度な思考に追いつけない思いが残る。このあたりはやはり、宿題として胸に抱えておくほかはないのだろうか。
 今はそのように考えるほかはなく、とりあえずここからは5の方を見ていくことにする。
 5では、この考え方の流れを受けて一つは次のような捉え方が述べられている。
 
 そこで問題は、身体の障害・欠損・欠陥とか、〈身体図式〉の欠損・欠陥とか、あるいは、〈精神図式〉の障害とかいうものの意味あいが、社会の障害・欠損・欠陥とかと結びついてかんがえられていく。結びついていく必然性をかんがえてみますと、今いいましたように〈障害〉という概念も、〈社会〉という概念も、それから〈図式〉という概念も、それから〈身体〉という概念も、いずれも観念の図式と、具体的生理的なものとの二重性においてかんがえられていることがわかります。このことが〈身体障害〉という問題が、容易に社会的な領域にまでまたがっていく根拠であるといえるとおもいます。
 
 すなわち、身体や精神が個別的でありながら、それが他者に繋がり、社会の問題に繋がっていく契機について述べられている。それをここでは「観念の図式と、具体的生理的なものとの二重性」に求めているわけだが、これは4での指摘とは微妙に異なっている。4の最後では、他者との関係の仕方に社会を提起する契機があり、そこから社会とは何か、社会の障害とは何かという問題が必然的に提起されると述べられていた。つまり、必然的に提起するのは、個人の他者との関係の仕方に社会化の契機が内在するからだということになる。5では、少し視点をずらして、精神や身体の障害・欠損・欠陥と社会の障害・欠損・欠陥がどのように結びつくかというところから、どちらも、具体的生理的な障害・欠損・欠陥とイメージとしての障害・欠損・欠陥の二重性を持つからだと説明されている。
 わたしなりにこれを解釈すれば、現在のわたしたちは個人であると同時に社会的個人の二重性を背負い、身体や社会の実態的な障害・欠損・欠陥と、理想とする身体や社会のイメージから見た身体や社会の障害・欠損・欠陥の中にあって、そういう二重性において障害の問題を考えているということになろうかと思う。
 吉本は5の後半部分において、主題に対しての結論めいた言及をしている。
 
 それではどのように、たとえば社会の障害・欠損・欠陥と、それから社会のイメージ、つまり政治制度の障害・欠損・欠陥ということと、身体の障害・欠損・欠陥、あるいは〈精神図式〉の障害とが、同一の地点にまたがってしまう現在の必然的な在り方とが、どこへ向かって解決の道をつけたらいいのかという問題は、たいへん困難なことだとかんがえます。ただ一つ楽観的材料とまではいえませんが、それがかんがえられるとすれば、身体に関する障害と社会の障害との価値観のつけ方が、時代が降りるにつれて、極度に崇高な、精神障害が神様に近いんだ、とおもわれていた未開時代から、現在ではそうではないもの、それは別にかわらないんだ。それはどこに境界を設けていいのか、ほんとうはわからないんだ。つまり、生活の必要上で境界をつけたらおかしいという考え方が徐々に出てきています。
 神のように崇められた古代から、働けないから人間以下だ、と蔑まされた近代社会に至るまでの目も眩(くら)むような価値観の変遷というものが、障害にたいして与えられてきたわけです。けれども、これに対して現代は、徐々にではありますけれども、身体障害というものは、〈神でもなければ人間以下でもないんだ。それは人間なんだ〉という概念が、少しずつ既得権といいましょうか、少しずつその概念が闘いとられてきつつあるということ。そのことが、ぼくの考えでは、大きな解決、唯一の解決の糸口なんじゃないかとおもわれます。つまり、解決の基礎になる問題じゃないかとかんがえます。
 
 引用しながら、わたしはこうした物言いの骨格を吉本の別な文章や対談の中に見聞きした覚えがある。たとえば、偉いことをした立派な人こそが人間なんだということではなくて、怠けたりさぼったり、ちっとも立派なことをしないそういう人たちこそが人間らしい人間なんだという主張を記憶している。これもまた主調音としては先の発言に通じるものがある。
 わたしたち人間の持つ向上心とか上昇志向性とかは、近代になってこれを自由とか平等とか博愛とかの理念にまでそれを結集させた。理想のイメージを持ち、強くこれを追い求めるようになった。この時、理想を追い求めてはるか前方に視線を注ぐあまり、そうでないものは軽視することになってしまった。そうとまではいえないとしても、価値あるものは全て理想の先にあると錯覚せられた。
 だが、ほんとうの価値はまだ見ぬ理想の先にあるものだということはできない。それでは無いものにこそ価値があり、現にあるものには価値がないという倒錯を生み出してしまうではないか。視線を呼び戻し、周囲を見渡してみればいい。本物の人間がそこに実在し、さまざまな差異を連続させながら、さまざまな姿形であり続けている。それがどんなに多種多様であっても、わたしたちはそれが人間なのだと言ってみせるほかない。
 吉本は先の引用部分で、障害と非障害との境界が、現在、なくなりつつあることを指摘している。また、障害があろうがなかろうが、それをひっくるめて人間だという概念が勝ち取られつつあると指摘する。そして、現在さまざまに実践されている部分的な解決とは異なる、しかし、大きな解決、ただ一つの解決の糸口になるものじゃないかと結論づける言い回しをしている。
 このような吉本の物言いをどう受け止めるかはさまざまであり得る。繰り返し強調している「たいへんむずかしい問題」という言い方や、「人間の歴史が最後まで解決を残す問題」だという言い方と絡めて考えれば、わたしなどはすぐに、この問題について考えないこと、言わないことと、さして変わり映えしないじゃないか、無駄じゃないかと思ってしまう。そして、それが普通のあるいは一般的な反応として正解なのではないかと思う。つまり、そこから先は考えが及ばない。及ばないから考えることを止める。止めるから機能的な解決や、超人的な努力や、宗教的な解決というところが野放しになる。いわゆるある種の放置にすり替わる。
 ほかにも吉本が提起するものは少なからず残っているようにも思われるが、ここでは最後に一つのことを取り上げて検討しておきたい。それは引用文に見られるように、結局のところ吉本が究極の解決をどこに見ているかと言えば、障害と非障害の境界がなくなり、欠陥や欠損がありのままに、ただそのままに、そこに障害の概念が入り込まない世界を想定しているのではないかと思えるそのことである。もちろん明確な断言は避けられているし、それは解決の糸口でしかないという言われ方もしている。だが、引用文に語られている先を想定するならば、わたしにはどうしてもそのように思えてしまう。こうした考えが指向するところは、ともすると、手足のないひとは手足のないままに、他者との関係に障害を来してしまう精神を持つ人もまたそのままに、放置することと近似する。そういうことをわたしも怖れないではない。だが、ほんとうはそれとは違っている。
 まるでおとぎ話みたいな、マジックの世界みたいな話になって恐縮だが、そこでは一切障害という見方が消えてしまっている。他者がそう見ないというだけではなくて、例えば手足のない当人にも、手足のないことが少しも意識されずに、ましてやハンデだという意識が成り立たない世界。そういう世界がほんとうに到来することがあり得るかどうかはまた別にして、吉本が珍しく恐縮がちに、また空想がちに示唆する先はそういう世界ではないのだろうか。
 その世界では、現在、障害者と呼ばれる人々と全く同一の状態にある人たちの生きる条件はすでに整っている。それがどういうものかはわからないが、社会の側としての条件整備はすでになされているのだ。
 残念ながら、わたしの空想はこんなところで途切れてしまう。ただもう一つ言えることは、そこではもはや義足や義手を必要とすることもなく、五体満足に同等となる超人的努力も要さず、あるいは強迫観念に怯える必要もないということだ。障害にとって、ありのままの姿形で、ありのままに過ごせることは、それはもはや障害ではないことを意味しているようにわたしには思われる。そしてその場所から逆向きに眺めれば、現在における障害の認知と、認知された障害者にたいしてそれなりに接しよという教育的な在り方は、どこか、そして何かを取り違えているように思われてならない。
 
 
「障害」とは何か
              2016/11/04
「障害者問題と心的現象論」について@
 吉本隆明の『心とは何か』(弓立社)に所載のこの文章は、題が示すように現実的な障害問題の解決を考察するものではない。もちろんそのことをも含むが、吉本は直接的に障害問題に関わるものではないし、当事者でも実践家でもない。彼の主要作の一つである「心的現象論」が併記されているように、障害問題、障害者問題をどのように捉えるか、どのように考えるか、そのこと自体を問う哲学的な考察と言っていいと思う。もう少し言えば、障害の概念を問うていると言っていい。 ところで、この考察の中で吉本が繰り返し強調していることは、自分がこの問題に関して唯一言えることはこの問題が大変「むずかしい」ことで、最終的な解決というものは人間の歴史の最後になるだろう、という言葉だ。この「むずかしい」ということ、人間の歴史の最後まで引きずる問題だということを繰り返し強調している。
 この繰り返しと強調が何を物語っているかを考えれば、たとえば今日的な障害の問題の捉え方、問題解決の方策など、全て人類の歴史の途中経過の中に行われる、中途半端なものだということになろうかと思う。
 わたしには、吉本が言う意味での障害問題の「むずかしい」側面、その解決が人間の歴史の最終局面にまでもつれ込むという問題意識を何となく理解できそうに思える。けれども、裏を返せば現在の解決や解決の方策が全て途中経過であり、やむを得ざる中途の解決に過ぎないという強調を、どのように受け止めたらよいのかに戸惑う。
 つまり、じゃあどうすればいいのと問えば、たちどころに独り荒野に取り残された感じになり、さらに一陣の風が吹きすぎて何も残らない。これではこの文章を読んでも読まなくても、さしてかわりばえがしないじゃないかと思う。たしかにそれはその通りで、吉本自身が最後に自分の考えに速効性は何もないんだということを認めている。ただ心にとめて、何かの時に役立ててくれたらいいのだという言い方をして講演の最後を閉めている。
 この文章、講演記録全体を通して、自分の考えに速効性はないが「何かの時に」役立ちうる、という吉本の自負だけは伝わって感じられる。「何かの時に」とは、言うまでもなく障害の問題が切実に、自分の問題として、自分に降りかかってくる時をいうのであろう。わたしは今、その切実さの中にはいない。しかし、「何かの時に」役立ちうるかも知れないというその考え方自体を、自分の「ためにする」視点とは別に、そのもの自体として問うことはできる。当事者に役立ちうる考え方とは何か。そういうところからもう一度吉本の文章を読み直し、読み解いてみたい。
 
 「障害者問題と心的現象論」は1から5までの数字で区分されていて、便宜的にこの区分に沿って読み進めてみる。
 1は問題提起の部分で、冒頭では「身体の問題」、あるいは「身体障害の問題」のむずかしさが語られている。
 
 人間の「身体の問題」について何か喋言(しやべ)れることがあるとすれば、〈むずかしい〉ということがいちばんじゃないかとおもいます。あるいは、皆さんは、〈身体とは何か〉ということも、〈身体障害とは何か〉ということも、簡単にかんがえておられるかも知れませんので、〈実はそれほど簡単ではないんだ〉ということをお話しできれば、ぼくがきょう出てきたことの役目は果たせたということになるとおもいます。
 
 そして、ここではその難しさが起因する根源として、二つの問題が提起されている。
 一つは、人間の個人は自分の身体を、名称は別にして、手や足や胃や心臓として意識したり了解したりしながら、同時に〈身体の像〉〈肉体の像〉、あるいは〈身体のイメージ〉〈肉体のイメージ〉として思い浮かべているということである。端的に言えば、身体を身体そのものと、イメージの身体というものの二重性として、人間は身体を捉えているということが言われている。
 ここで問題なのは、イメージを持ってしまうということで、ほとんどがそこで実際の身体との食い違いを招いてしまうということである。それは、こと自分自身の身体に関しても実際とイメージとが一致しないし、イメージとして考えれば、その人が持つ自分の身体へのイメージと、他者がその人の身体に抱くイメージとはおよそ一致することがない。自分に対しても誤解するし、他者に対しても誤解するその根源はイメージを持つところにあり、イメージ自体が錯覚を生じさせる作用を本質的に持つと考えるほかはない。
 吉本はこれらをありふれた一つの例として個人の美醜から説き、よくある勘違い、食い違い、錯覚などを、実感的に想起させる言い回しをしている。みんなはかわいいとかよいスタイルだとか思っているが、その人自身は案外太っているとかかわいくないと思っているとか、世にその種の食い違いは多く見られる。それはおそらくは人間にしかないイメージの作用がもたらすものだ。
 吉本はここではそれ以上のことに言及しないが、これを敷衍すれば、身体の障害に関してもわたしたちはあるイメージの作用から逃れられないことを意味していよう。そこにもつまりは自分の身体に対する自身のイメージもあり、身体そのものとの食い違い、あるいは他人が抱くその人の身体へのイメージとの食い違いが推察されてくる。わたしはここで、「障害だ」という自分自身の見方にも、当然イメージが付着するものと考える。そう考えると、当事者の意識と、またその肉体的な姿とも、食い違いがそこに必然的に生じていると考えないわけにはいかない。
 吉本はまたこのイメージ、身体のイメージが、時代によって異なったイメージとして移り変わることも伝えている。それはここでは二つ目に語られていることに属するが、手足がないとか精神が普通じゃないという時に、現代においてはこれを精神の障害や身体の障害と捉えることが一般的だが、以前にはそのように意識されない場合もあったという。
 語られている例をいちいち取り上げるのはいささか面倒なので、区分1における結びを引用すれば次のようなものだ。
 
 精神障害でも、身体障害でも、それ自体に宗教的な意味がついたり、あるいは、国家や社会や村落の共同の一つの象徴といいますか、名物という云い方をしてもいいんです。そういうものであったときには、障害というものが、それ自体としてさほど問題にならなかったといえます。障害者自体もそれほど意識しないで、ごく一般的に紛れて住んでいたということがありました。
 
 同じような障害、これは普通と異なる姿形と言い替えてもいいと思うが、それは時代により、受け止められ方や待遇のされ方、あるいは身の処し方などが変遷するものだということが知られる。ここではまず、そういうことが語られていたと理解しておきたい。
 次に区分の2を見ていけば、初めに1の延長で平安時代の身体や病気の捉え方の特徴が、『枕草子』の記載から把握されている。そこから、〈身体とは何か〉という問題は〈肉体としての身体〉、〈像としての身体〉(〈イメージとしての身体〉〈身体図式〉に同義)の二重性で考えられている、ということの理解が重要なことだと、再度指摘される。またそこにもう一つ、時代によって違うという、歴史概念に似た〈身体年表〉という考え方が
追加される。しかし、ここまではほぼ1の内容の範囲内である。
 ここから吉本は、身体そのものは原始時代から現在までほとんど違わない、基本的には大きく変わらないこと。これに反して、身体に対するイメージは各時代で大きく様変わりしていること。この両者に見られる齟齬の関係もそうだし、原始未開や古代の人間が身体に抱くイメージと現代の人間が抱くイメージがたいへん違っていること、このこともきちんと把握しておくことが重要だと述べている。 吉本はここで、時代によってどうして身体のイメージが変遷して行くのかを解こうとはしていない。おそらく、これは言ってみれば吉本が作り出した概念である、個人幻想、対幻想、共同幻想にまたがる幻想の問題であり、これを解くこと自体が全く別の問題であり、それ自体がまた大きな困難を強いる考察を必要とする事柄だからに違いない。ここではそこまで踏み込むことはできないし、また、してはいない。ただ、そのさわりのようなところには触れているわけだ。
 そこで、わたしなどはこういう局面で、大きな訳のわからなさに直面して身動きがとれない感じに襲われる。そういうところから、吉本は次のように言及する。
 
このたいへん違うということが重要です。そのことを無視したら、身体の障害、精神の障害という問題をほんとうの意味で解くことができない、とおもいます。
 ほんとうの意味で解くことができないというのは、どういうことかといいますと、それと社会的欠落・欠陥とか社会的障害とを、すぐに短絡してしまうとか、〈身体障害とは何か〉とか、〈精神障害とは何か〉ということ、そのこと自体をかんがえることを止めてしまうからです。止めてそれを全て有効性・無効性の問題、利益や損害の問題などに転(てん)嫁(か)してしまうことになります。
 
 とりあえずこんなところで引用を中断しておくが、これだけでもわたしにはたいへん難しい。まず、吉本が「ほんとうの意味で解くことができない」という時に、本当の解を、どういう次元または水準に置いているのかがよく分からないのだ。そしてまた、吉本自身にはそこが実際に遠望されているのかどうかということもよく分からない。あるいは、本当に解けるという地点は未知であるが、現在の暫定的解決策が究極の解決ではない、ということだけを理解できているという意味なのかどうかも分からない。また、文脈を捉えた時に、短絡が本当の解を妨げることは了解できるが、障害自体をかんがえることを止めた時に解に至らないということも、考えればよく分からない。そしてもっと正直に言えば、現在ごく一般的に見られる、「有効性・無効性の問題、利益や損害の問題などに転(てん)嫁(か)してしまう」状況が、どうしてダメなのかということも、ダメだという感じ方としては一致しながら、いまいち自分のそうした感受に信用がおけないでいる。それは何故かというと簡単なことで、ダメだという感じ方、捉え方が、この現実社会にあってあまりに少数派だと考えられるからだ。つまり、大多数が現状を是認している状況の中では、それに圧されて、こっちが間違っているという不安を打ち消せない。だが、人間の生涯を有効性・無効性に収斂させて考え、それだけで済ませてしまうということにどうしても納得ができないということもたしかなことである。
 わたしが、障害問題を考えて何かを言おうとすれば、様々な現実的実際的な障害や障害者への対処は現在的な意味からはベストに近いんだろうな、それ以上のことって、自分にはできないだろうなということだ。だから、そうした次元では一切もの申すべき何ものもない。ただ、そうはいっても、ここのこの部分はちょっと違うんじゃないの、言っていることとやってることに一致がないんじゃないの、と思うことはないこともない。そこは実際どうなの、ということを、できれば明らかにしたいという思いは強い。そうしたところで、自分の感じ方と類似したところで障害問題を考察し、地平を切り拓いて見えている先人は、視界に収まるところ吉本一人である。にもかかわらず、未だに十全にそれを突き止めることができない。いったい、どこが本当の解決の地点なのか。
 唯一慰めであることは、吉本にも最終的な解決の地点は見いだされていないと考えることだ。先に続けて吉本は言っている。
 
究極的にこの問題の解決は、人類が最後に残す問題だとおもいます。ですから、そんなに簡単に解決されないに決っています。この問題は、社会的な障害の問題に結びつくのは当然であり、それが解決の道であることもまた当然であるわけです。また身体に障害があれば精神力で克服せよという人間とか、補償をたくさんとりつけ、なんとかせよ、という福祉の問題に転嫁しようとする人間とか、そういう解決の方法が一般的です。一般的ですけれども、それはちっとも最終的な解決ではないのです。それ以外には解決の方法がないというのが、身体にまつわる困難な現在までの段階です。
 
 社会的な施設や制度の問題としての解決の仕方。精神力の問題としての解決の道。あるいは補償や福祉の問題として障害問題を捉えるということ。これらは全て現在的な段階における障害問題の解決の仕方の諸相であり、現在的な段階における最善の解決策、逆向きに言えば、こうしたこと以外の解決の方法は今のところ見つからないということだと思う。しかし、そのことと、現状を是認する以外ないからこれを是認するということとは別だと思える。現状を是認することは必要なことである。生きるということはこれを前提に成り立つからだ。そうしてわたしたちが現状を生きようとする時に、必ずやまたそこに新たな矛盾を見いだしてしまう。よかれと思ってとられた解決策が、完璧なものではないことを知るのだ。人間の歴史はこれを繰り返す。だとすれば考えを止めるわけにはいくまい。
 吉本は独特の言い回しで、この問題の解決が「どのような解決の方法をとっても、どのような闘い方をしても、ちっともすっきりしない。本音のところはここらへんに隠しておいて、すっきりするところだけ簡単に処理して」いるだけになっているという。
 この「すっきりしない」面、「本音を隠す」というあり方。わたしの問題意識の一つはこうしたところに集約される。
 障害を持つ子どもと持たない子ども。障害を持つ子どもの親。障害児学級を受け持つ先生。そして同じ学校の先生たち。これに自分自身もふくめて、いずれもその「思い」はすっきりしていないじゃないか、どこかに「本音」を隠しているじゃないか、と思わずにおられない。
 本音を隠していてもいい。だが、それだったらせめてそれらしい顔つきでいたり、それらしく振る舞うべきだ。そうではなくて、純真無垢、素直で明るく、公明正大、誰に対しても対等、平等に接し、人権尊重、願うは世界平和みたいな雰囲気を身にまとうべきではない。と、太宰治ならば言うべきところだ。 わたしはこれまでいささか性急に、障害問題の本当の解決、最終的な解決は少しも果たされていないじゃないかという側面を強調しすぎてきたかも知れない。そこにはいま述べてきたことが含まれているし、多くの人がそこを問わないことに業を煮やしている部分があった。今もそうだ。問題の本質はこういうところにある、と指摘したいのだが、多くの人の問題意識は全く別のところにあり、わたしが感じ、考えていることが受け容れられ、生きられる場所がない。もちろん、そんなことはどうでもいいし、自身、生涯を通して負うべき宿命のようなものだとも思っている。 また、仮に現在の解決が本当の解決や最終的な解決ではないとしても、障害を抱える本人や関係者にとって、一時凌ぎではあっても解決の道筋が見いだされることは救済であり得る。それを邪魔するどんな言説も、無効であり、またそこに錯誤もあろう。それはしてはならないということも承知している。
 吉本は2の項の最後に、
 
身体の欠損のイメージは、イメージというかぎり精神のイメージなんですけど、その問題は、各時代によってさまざまに変わっていくことが重要だとおもいます。それがいわば、肉体についてその時代の人が考えていることとは、必ずしも一致しないということ、矛盾するということ、そのことが、この問題をむずかしくしている根本的な問題だとおもいます。ぼくは、そのことがわかることが大切だとおもいます。
 
と述べている。これは整理していえば、身体に対する人間のイメージは時代によって移り変わるものであり、現在のわたしたちが身体の欠損をイメージ的に見ている見方は過去の原始、古代とも違い、また将来的な未来の見方とも異なる可能性があるということだ。もっと言えば、いつ頃の未来かわからないが、欠損を欠損と意識しない見方がありうるかも知れないことを、示唆するものだと捉えることもできる。
 現在世界を生きているものにとって、現在世界が全てと言える部分があることは承知している。だが、同時に、人間の歴史を考える時に、現在の世界が全てだと言い切れないこともたしかなことである。わたしたちの現在の身体のイメージの仕方、身体の障害をどうイメージしているか、どう捉えているかについて、それ自体が一致していないと同時に未来にも変わっているだろうということ。その障害の捉え方の変遷があることと、未だ本当には肉体や身体が、突き詰められて人間自身に理解されていないことが大きな問題として横たわっている。ここではとりあえずこうしたことを頭にとどめ、もう少し先に進まなければならない。
 
 さて次に3の項を読み進んでみる。先に重複する部分もあるが、ここは身体障害者の手記とか記録を読んでわかったことが中心に述べられている。
 まず、多くの障害者たちにとっては、結婚や就職の問題がいちばんの難問として意識されていることがわかると述べている。
 これはわたしなどが障害を持つ子どもの親と接して感受したことと同じで、親たちもこれを一番に心配している。おそらく、子どもがそれなりの年令に達すれば、同様にそこを難問とすることは予想ができる。
 吉本はそれから、就職と結婚という難問の解決の方向性として、型で押したように3つの向き合い方が見られると言っている。言うまでもなくその一つは、義手、義足を付けたり、リハビリテーションの訓練を通し、障害のない人の肉体的機能に近づけること。もう一つは、障害者の悩み、被害感、心の歪みから解放されるために障害者自身に宗教を要求するということ。さらにもう一つは、洋裁などを普通の人と同じか、それ以上にできるというように超人的な努力で自分を鍛え上げるということ。これら3つの方向性が就職や結婚という難問を前に、直接的、間接的に向かう向かい方として共通していると述べている。 一つ目については施設や病院を直接訪れた時に目にしたり、テレビなどを通じて目にしたことがあってすぐに了解することができる。また三つ目についても、たとえばパラリンピックの中継をテレビで見たりした時に、競技者がおそらく超人的な努力を重ねてきたんだろうなと想像することができ、これは他の分野でもあり得ることだと予測することはむずかしいことではない。二つ目については、これはちょっと第三者的な立場のものには目につきにくいもので、具体的、また実感的なところでは一番理解しにくい。だが、大きな苦しみ悩み、そういうものと宗教が結びつくことは知られるところで、そこから類推すれば頷くことはできる。
 いずれにしてもそれらのことは障害者自身ばかりではなく、家族などの周辺が一緒になって解決しようとして辿る道だと考えていいのだろう。そのような取り組みが、全て就職と結婚という難問をクリアすることになるかどうかということは、障害を持たない人の就職や結婚と同様にわからないことだ。
 ところで、吉本は現在的な解決の3つの方向性に触れた後、次のようなことを述べている。
 
それが(解決の方向性―佐藤)いいのか、間違いであるのかどうなのか、ということができません。しかし、そういう解決の方向にまつわる一種の重苦しさとか、息苦しさとか、倫理性というものが必ずあるのです。悟りすましたという人の手記を読んでも、やっぱりあるのです。一種のモラリズムなり、宗教があるんです。このことが〈何か〉だとおもっているわけです。ですけれども、〈それが何かだ〉というほどぼくは切実ではありません。
 
 話の脈絡からいえば、吉本はここで解決の方向性が正しいか間違っているかの判断に重点を置いているようには思えない。それよりも、解決の方向にまつわる重苦しさ、息苦しさ、倫理性といった、付帯するものに視線を向けている。それはモラリズムとか宗教という別の言葉で繰り返され、さらに「このことが〈何か〉だとおもっている」と強調されている。そして次の段落では、ここまでのことを受けて、
 
そのひとつとして〈身体図式〉ということと、それから〈身体年表〉ということをいいました。こういう考え方をすることによって、たとえば息苦しいという問題を、もう少し突き詰めてかんがえていくきっかけになったら、ぼくは、もうそれでいい、という感じがするんです。
 
と言っている。
 吉本の障害問題に対する関心、問題意識がこういうところに表れていると見ればいいのだろうが、それにしてもわたしにはそのことがよく理解しにくい。
 話を整理すると、この3で吉本は障害問題における当事者たちの解決の方向性について三つのパターンが認められるといっている。しかし、それらの解決の仕方はちっともすっきりとしたものではなくて、そこに重苦しさ、息苦しさ、倫理性や宗教が挿まれてしまうといっている。つまり、言外に、真性の解決にほど遠いと言っているかのように聞こえる。そう理解してよいかどうかもわからないが、ただ後の引用文と一緒に考えると、現在的な解決に付帯する息苦しさとか倫理性や宗教を取っ払いたいという願望を感じる。つまり、それらを取っ払うことがすっきりさせることに通じるという主張だと思う。
 わたしは先に、障害問題がいつもすっきりしない問題として現前するという状況認識に同感してきた。結局、ここでも同様のことが言われているわけだし、ここではそこの問題を、〈身体図式〉や〈身体年表〉という考え方をすることでよりすっきりと展開できると言っているのだと思う。またここでの吉本の云い方をもう少し積極的に変えていえば、こういう考え方をした方がいいし、こういう考え方以外には貫いていける考えはない、ということなのだろう。わたしはいま幾分そういう考えを肯定するところにあるが、しかしまだそれを実践できているわけではない。
 3での最後で吉本は、〈身体の像〉と同じように〈精神の像(イメージ)〉というものがあることに言及している。
 わたしたちは普段はそれをあまり意識しないでいるが、あの人は精神的にちょっとおかしいんじゃないかと思うような時には、〈精神の像(イメージ)〉が基準となってそういう判断ができる。つまりわたしたちはみなそれを所有している。それは健全で健康な精神についてのイメージというもので、それを基準におかしいとか、おかしくないを判断する。個人によって差異はあるけれども、時代時代で見れば共通の基盤を持ち、およそ共通したイメージが構成されることになる。このイメージの水準は、しかし歴史のそれぞれの時代で移り変わり、時代ごとに全部違うと言っていい。今日わたしたちに通用している〈精神の像(イメージ)〉も、十年後、百年後となると通用しなくなるかも知れない。
 吉本は〈精神の像(イメージ)〉をもとにそんなことを述べているのだが、わたしはここですぐに、実は〈精神の像(イメージ)〉について言いながら、同時に〈身体の像〉についても述べているのだなと直感する。この直感が正しいかはどうでもいいが、〈身体の像〉に置き換えてここを読むこともできるのだ。そしてそれを〈身体の障害の像(イメージ)〉に置き換えることも可能だと考える。これは端的に〈障害の像(イメージ)〉と言ってもよいと思うが、このイメージは時代ごとの水準があり、必ずしも現在通用している〈障害の像(イメージ)〉が、どんな時代にも普遍的であり得るわけではない。
 わたしはここで短絡して、時代ごとのイメージから解放されて自由になることが、先ずは大事なことだという考えに誘惑される。しかし、吉本はそこまで言っていない。〈身体図式〉、〈身体年表〉の概念を使って問題を捉え返すところに、解決の糸口が見えてくると思う、とだけを述べているのだ。
 とてもたよりなく感じられるのだが、これが世界的な思想、哲学を視野に入れて思考し、考察するものの掛け値のない本音のところから出た言葉と解すれば、障害の世界に内在する難解さと奥の深さとにあらためておののき、驚嘆するばかりだ。
 
 
「障害」とは何か
              2016/10/28
身体的な障害をどう考えるか
 心的な障害とか病とかについては、その根本や本質というところでの、自分なりのイメージが持てるようになってきた。つまり、そこでの根本的な問題、本質的な問題というのはこんなところじゃないかということが、一応の当たりが付けられるところまできた。これが正解であるかどうかは分からない。たぶん正解ではないのだ。まだ2、3詰めて考えておくべき事があると思っている。
 またここまで考えてきたのは、本当は「障害」についての正解を求めるためではない。正解は、今の段階ではもっとずっと後のこととしか思えない。だから今はそうではなくて、「障害という世界」について、自分はどう認識するか、自分なりにその認識について満足を得られるところまで行きたいのだ。極論すれば、他人がどのような障害観を持っていようが、それはその人のもので自分のものではない。自分はどう思うか。どのような捉え方をするか。それが問題なのだ。だから自分の認識が、どんなに稚拙で拙劣なものでもかまわないと思っている。ただ、自分で納得できるかどうかが問題なのだ。その意味ではここまでの考えはどれも満足できるものではない。それどころか、考え始めるとこれが本当に難しい問題で、難しい問題だということの方がよく理解され、認識できるようになってしまった。
 特に、この間、もう一方の障害である身体の障害を合わせて考えた時に、そちらについては考えれば考えるほど、逆に皆目見当がつかない感じになって困った。これは今現在においても変わらない。ただ前回に述べたように、かすかにだが、脊椎動物史という広い領域と範囲の中において考える考え方が、遠くの方に小さな明かりのように感じられている。
 そしてまた身体の障害の問題は身体の問題でありながら、同時に、心的あるいは精神的な問題でもあるというところが特徴的でもある。つまり、人間の心や精神というものが存在しなければ、身体の障害というものは存在しないという関係になる。精神の作用が機能しなければ障害を障害と認知できない。障害が障害であることを理解しえないのだ。その意味では心的な問題も加味して考えなければいけないと思う。
 もう一つ、これは障害という概念からは離れる部分があるが、機能的な不自由ということだけを考えると赤ん坊やかなり年のいった老人は、その生活のほとんどはほぼ肢体不自由者の生活である。その意味では身体の障害は乳幼児期の延長や、早めに訪れた肉体の老人期という見方ができなくもない。
 大変複雑な問題に足を踏み入れた気がするが、とりあえずこの回はだから、身体の障害に関して少し考えておきたいと思っている。
 
 インターネット上の「ウィキペディア」を見ると、「身体障害」の項の冒頭には次のような記述が見られる。
 
身体障害(しんたいしょうがい)とは、先天的あるいは後天的な理由で、身体機能の一部に障害を生じている状態、あるいはそのような障害自体のこと。
 
手・足がない、機能しないなどの肢体不自由、脳内の障害により正常に手足が動かない脳性麻痺などの種類がある。視覚障害、聴覚障害、呼吸器機能障害、内部障害なども広義の身体障害に含まれる。
 
 これを、「身体障害者障害程度等級表」に示される種別で表せば、以下のようになる。
 
障害種別
 
  視覚障害
  聴覚又は平衡機能の障害
  音声機能、言語機能又はそしゃく機   能の障害
  肢体不自由(上肢):欠損または機   能の障害
  肢体不自由(下肢):欠損または機   能の障害
  肢体不自由(体幹)
  肢体不自由(乳幼児期以前の非進行   性の脳病変による運動機能障害)   :上肢機能・移動機能
  心臓機能障害
  じん臓機能障害
  呼吸器機能障害
  ぼうこう又は直腸の機能障害
  小腸機能障害
  免疫機能障害
 
 このように身体の障害を種別に見ると、いずれの項目においてもそこに障害があれば、著しく生活上に支障が生じるだろうと想像されるばかりである。そして、本来それはあってはならないこと、あるいは、身体としてはそんな障害が無いことが理想的だという考えが、少しずつ強化されていくように思える。
 そうした時に、普通一般的常識的には、それらの障害に対する適切な治療や、機能の維持・回復訓練、環境適応のためのリハビリ、義手、義足などの補助具によって、本来の健康的な身体機能にできる限り近づくことが課題とされる。
 これは、現在に生きるわたしたちからすれば当然の考え方であり、反射的にイメージされることであると思う。しばらく前から、身体障害についての漠然としたイメージを拵えたり壊したりをしながら、わたしもそういう考えに追い込まれ、捉えられてしまうようで弱った。あるいはそれ以外に考えようがないじゃないかという気持に押され続けた。しかし、わたしは自分がそのように考えたとして、その時に、わたしは障害を持たないものの目で、障害を持たないものの行動や所作振る舞い、もしくはその身体機能を優位に見て、その高みから見下ろして考えているようで気分的に不満だった。いや、無意識のうちにそう考えているのではないかと思っていた。わたしも陥りそうになるそういう障害の捉え方は、少しも悪いことではないけれども、そういう場所から考えた障害問題の解決の方法は、障害を持たないことを無意識のおごりとした発想のような気がしてならなかった。
 こう言うと、おそらくは障害者自身のことばや手記をアリバイのように持ち出して、障害者自身の夢や願いという形で、健常者の肉体的機能に近づくことを正当化する反論が出てくるに違いない。それが唯一の解決方法だ、と言うように。だがおそらく、持ち出された障害者自身のことばと言われるものも、本当は先だって存在する健常者のことばに反応し、一つの化学反応のようにその場に現れ出たことばに過ぎないように思える。ひとは環境としての周囲の考えを学ばずして、自分の考えを作り上げることはできないからだ。
 さて、普段わたしたちは人間の顔を、イケメンだとか不細工だとか、美人やブスだとかという見方をしている。あるいは肉体についても、アスリートの引き締まった体をほれぼれと眺め、中年の太鼓腹を醜悪だと蔑んだりしている。これは顔や体について自分の関心に基づいて眺めた一面的な見方に過ぎず、しかも非常に小さな窓から眺められた景色でしかない。顔本来の意味と価値。身体本来の意味と価値。わたしたちはそれらを全く知らずに、あるいは全く反省してみることもなく、毎日を過ごしている。だがそれはわたしたちの意識の向こう側に、広い野辺のように存在する。このことは現在一般に流布される血圧や、コレステロールの数値に関する話題を考えてもすぐに分かる。報道で耳にする医学界や厚生省などからの聞き伝えを、絶対の真理かのように思いなし、日本中の人々がそのことを信じ、世間的な常識というものを作り上げている。けれどもそれを信じ切るわたしたちに、心臓、脳、血管、血流、またそれらにともなう肉体の代謝などに関する基本的な知識は築かれていない。鵜呑みにしているのだ。
 障害についての見方考え方も、実はこのことと同じく、健常者の小さな窓から眺められたイメージでの、身体障害の景色に過ぎないのではないだろうか。つまり関心が集約する側面とは言えるが、それが身体障害の問題の全てとは言えない気がする。ほとんどの一は自ら身体の問題、身体の障害の問題について考えようとせず、常識化したイメージを鵜呑みにしているだけと見える。そして障害者自身もまた、そういう見方、考え方を知らず知らずのうちにとってしまっているのではないかと思う。
 わたしたちはあらためて、身体障害問題の「現在的な関心」の外側からも、このことについて問わなければならないと思える。
 
 身体障害の問題を先のように、健常者の後追いをするような目で眺める時、実は問題そのものがとても軽いものになってしまう。その結果、医師や訓練士任せみたいなことになり、そのことについて考えることを止めてしまう。さらに当事者となる医師や訓練士や支援学級の先生たちも、立場的な関係を通しての接し方でしか考えなくなり、結果、障害問題の解決をそこでもまた軽く見てしまう。つまり、言い方が難しいが、たとえば支援学級のカリキュラムに沿って訓練や指導をしているんだからそれでいいんだ、それで終わり、となってしまう。さらにいろんなことでうまくいかなかったり効果が出なかったりすると、障害があるから仕方がないんだ、力がないんだと見なすようになったりする。それら一連のことは、結局のところ障害というもの、障害者というものに対して、差別的になる基を作り出しているという気がする。
 今日では小学校の段階から福祉教育、障害を理解する教育というものは積極的になされるようになってきている。子どもたちはそれらのことについてよく勉強し、知識も得ている。そして障害ある人たちにどのように接し、生活上の配慮をどのようにすべきか、その正しい行いとか善悪とかということも頭に入っていると思う。だが、残念ながら、そのように教わってきた子どもたちは、そして大人たちも、そのように教わってそれについて知識を持つことで満足し、そのような知識を得て理解力を持った自分が、あたかもそのことだけで障害や障害者を理解したつもりになり、自分はそのことを理解できる立派な人間になったかのように錯覚する。
 だがそれは外側にある立派な考えとか知識を自分の頭の中に納めたまでのもので、それと実際の生活上で立派な振る舞いのできる人間かどうかとは一切関わりがないことだ。
 極端に言えば、言うこととやることが違う人間は数多くいる。考えること、言うことが立派であっても、実際の生活の現場で他者を蔑んだり差別したりすることもあれば、教養もなくたいして立派な考えを持っていないのに、無意識に平等に親切で優しく接するすべを心得ているものもいるというように。
 知識や教養というものは獲得するところに意味や価値があるのではない。むしろ、それを日々の行いの中にどのように実現していくかが問題になる。人間が生きるということ。生活するということ。そこを潜り抜け、自らを切り開いていく力のない知識や教養などはただ邪魔になるだけである。知識や教養の真価はそんなところにない。知識や教養それ自体にとっても、いわば還り掛けの位相でどうかということが大事なことなのだと思える。 こうした考え方の道筋から眺めれば、現在行われている一般教養的な障害教育、福祉教育の類いは自他にとって表面的で洗脳的なだけだ。そこでは「身体とは何か」とか、「身体にとって障害とは何か」を根本的に問う力が、教わることによって逆に決定的に損なわれてしまう。そうすると身体障害の問題が、単に機能的な問題に集約されて考えられるようになってしまう。
 現実的にはそうなっているし、またそれが現在的な障害問題の理解の段階であり、水準だと言えば言える。だがこれが最終的な、あるいは全面的な解決の方向を教えるものかというと、とてもそうは思えない。思えないが、実はこの「思えない」が、わたし自身をふくめ、現在は徐々に多くの人々に気づかれ始めているという気がする。つまり、よかれと思って言ったりやったりしていることが、結果的にすっきりしないなあということを体験したり、そこでの実感から個々人が内省するようになっていると思うのだ。そのことが即解決とはとても言えないが、そこに解決の糸口が徐々に見いだされるように思える。
 
 わたしが見るところ、記憶に留めたところでは、吉本隆明が障害や障害者の問題に言及しているのは『心とは何か』(弓立社)の中の「障害者問題と心的現象論」という、これは講演テープを文章に書き起こしたものが唯一である。残念ながら『心的現象論本論』に目を通したことがないので、その中にそういう部分が含まれているか否かは定かではない。吉本を論じたり、彼の文章を引用している文章を見ても、真正面から「障害問題」を論じ、記述している文章は見たことがない。なので、一応の正面切っての言及はこれが唯一かと思う。わたしが不思議に思うのはこの問題についてこれだけ吉本が寡黙であることと、さらにこの論考に対して吉本を敬愛する読者たちがあまりに寡黙であることだ。このことはわたしにとっては一考に値することである。というわけで、このことを次回の宿題としたい。
 
 
「障害」とは何か
              2016/10/05
心的障害1
 民間会社を辞めた後に小学校教員になり小さな子どもたちと接触した時に、自分の言葉、つまり自分で練り上げ自分のものにしたといった感じのそれが、全く子どもたちに通用しないものだと分かった。言葉そのもののやりとりはできるが、感覚、概念、イメージのやりとりができなかった。平たくいえば意思の疎通が成立しないとも言えるが、その時、存外言葉というものは不自由なものではないかなと思った。
 そういう気持ちがずっと残っていて、数年後のある時に、教室で一日普段の言葉を使わずに、「ニャー」語(猫の鳴き声)で過ごしてみないかと冗談交じりに子どもたちに提案したことがあった。子どもは最初の内こそ興味を持って取り組んだが、すぐに飽きて、なし崩しに終わってしまった。
 それから小さな学校で教務主任をした時に、それと兼務の形で軽度の自閉症の子どもと毎日2、3時間過ごした。その時はいっそう自分の言葉の未熟さ、思いや考えが交流できない歯がゆさを味わった。
 これらのことでもう少しつんのめった言い方をすると、その時代、教員としてその職業柄、子どもたちに何かを教える、啓蒙するという意識を持って対したものの、ことごとく跳ね返されたと実感している。もちろんここにはわたしの感受の質が反映していて、そのように受け取ってしまうわたしの性格、体質のようなものも考えに入れなければならない。ただ、感覚的にそう受け止めていたことはたしかなことだ。
 ひととおりの考え方からすれば、ただに人間理解、子ども理解が浅かったということもできるが、教員用の手引き書、研究書、あるいは専門書の類いを読んでみても、当時の思いに答えてくれるものに出会うことはできなかった。
 特に自閉症の子どもと接する中で、言葉や心が通じないんだから、これはどうもわたしたちの祖先の弥生や縄文から、それを超えて縄文以前の時代の人が現在に現れて、その人に接していると考えてみればいいんじゃないかと思った。
 架空な話ではあるが、実際にそんなことがあり得たとするなら自分はそんな人たちにどんな態度で接するか。野蛮で未開の人たちとさげすんだり、凶暴な人たちとおそれるか。いや、そうはしない。仮にも祖先である。それなりに敬いを持って遇さなければなるまいと思った。具体的にどのように接するか、こと細かにはイメージできなかったけれども、子ども、そして自閉症の子どもには、かつての祖先を二重化して見る視点が必要だと思った。それはつまり、子どもや、拡張していえば障害を持つ人たちの中に、わたしたち人間の原型、初源が保存された状態を見ることだった。
 それからは特に自閉症の子や、あるいは一般の子どもたちを前にした時に、言葉の現在における先進的な水準から語りかけるということを止めた。同時に、メッセージふうの色合いが言葉に籠もってしまうことを避けるようになった。極端に言えば、彼らとは言葉以前の段階で接しなければ、その意志や思考が見えないと思うようになった。何もない。ただそこに、無害であり、当然あるべきものとして存在し、かつ混じりあう時間をともにすることで、これまで見えなかったものが自ずから見えてくるようになると信じられた。
 そうした日々のある日に、インターネットを検索していたら『読書クラブ通信』というホームページを目にした。そこには吉本隆明さんや三木成夫さんといった、わたしの好きな著作者たちの考察に対する好意的なコメントがあり、またその延長上に自らの考察を進め、そして障害児教育に携わっている人という印象がそうした文章に垣間見られた。それらを読むと、自分とよく似たことをしているけれども、はるかに打ち込んで考えている人だと思った。おそらくは現場で障害児教育に取り組む先生だと思ったが、先生という中にもこういう人たちはいるんだと深く感心した。そして、わたし自身は専門に障害児教育に携わったわけではないので、ただ、障害について考えるならこの人の文章を参考にすればいいと考えた。実際、特殊教育、特別支援教育の学級担任の先生に、このホームページを紹介したこともあった。
 迂闊なことに、パソコンが故障してOSから再インストールしなければ事態が起こった時にブラウザの「お気に入りも」消えて、それ以来そのホームページから遠ざかっていた。そしてつい最近、何か著作を検索していた時だと思うが、たまたま『読書クラブ通信』の文字を目にして、「あっ、あれだ」と思い起こし、ずいぶんしばらくぶりにそこを訪れてみた。
 以前のわたしはこのホームページの作者に興味がなかった。どんな名前のどんな年の人か、あるいはどんな経歴の持ち主か、それらとは関係なしに、ただ書かれたものを読めばそれで済むと考えていたのだ。そして実際にそうした。基本的には今もそれにかわりはないが、ここで取り上げるために掲載されているプロフィールに目を通してみたら、「松本孝幸」さんという名前の人だった。養護学校勤務の経歴があり、数冊の著作を出版されていることを初めて知った。また、かつて吉本隆明さんが主催した雑誌『試行』の寄稿者でもあった。その時の文章が掲載されていたので読み返してみると、確かに『試行』の読者だったころに読んだという記憶がよみがえった。まあ、わたしが当初思っていたよりも、かなり本格的な探索者だったということだ。
 そうした新しい発見があったと同時に、このホームページに新しく掲載された記事がいくつかあった。その一つに『動物・自閉症・人間』と題し、「不定期連載」と著者がことわり書きしている文章があった。著者は『動物感覚』の作者「テンプル・グランディン」の次の記述を引用し、それに自身のコメントを付けている。
 
…自閉症をもつ人は動物が考えるように考えることができる。もちろん、人が考えるようにも考える。そこまでふつうの人とちがうわけではない。自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。そのおかげで、私のような自閉症の人は「動物のおしゃべり」を通訳する絶好の立場にある。私は、動物の行動のわけを飼い主に説明できる。だからこそ、自閉症を抱えていながら成功できたのだと思う。
 動物の研究は私にうってつけの分野だった。
(『動物感覚』 テンプル・グランディン)
       ○
 ここでテンプル・グランディンが、「自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。」と言うとき、そこには、どんな偏見をも介在させてはいない。何よりも、自閉症者である自分自身がよくわかって言っているのだ。純粋に真実を言っている言葉なのだ。
 自閉症者は、「人間」と「動物」の中間にある「駅」のようなものだ、ということは、自閉症者を理解しようとするときに、人間の側からは理解できない奇怪な行動であっても、動物の側から見ると普通に理解することができる、ということを意味している。そして、確かに、そんな風に考えた方が理解しやすいケースがたくさんあるのだ(!)。
 そして同時に、僕がそれまで漠然と考えていたことが、ここではハッキリと明確に書かれていた。
 一般的に、人間は、「進化」してきたと考えられている。
 「動物段階」から離脱して、「人間」となり、その後も、進化として「アフリカ的段階」「アジア的段階」「西洋的段階」というように、一方通行的なものだ、と考えられている。
 だが、テンプル・グランディンは違っていた。「感じている世界」として言えば、人間よりも動物や自閉症者の方が、遙かに広くて深い世界を体験しているのだ、とハッキリと言い切っていた。
 もしも、ヘーゲルが現代に生きていたら、テンプル・グランディンの言うことはまったく認められなかっただろう。反対に、テンプル・グランディンから見たら、ヘーゲルは、抽象的思考に凝り固まった「視覚と聴覚に障害のある人間」ということになるのではないだろうか。
 
 ここを読んだだけでも、わたしは「松本孝幸」さんというこのホームページの作者が、わたしとよく似たことをわたしよりもより深く考察し、究明している人だと分かる。
 言ってみれば、こういう人がこういうことを書いているのだから、ここはもうお任せしていいのじゃないかと思う。そして、この人のこういうホームページの文章があるのでそれを読んでくださいと宣言すればすんでしまう。その方がより確かだし、より深い考えを読み取ることにもなる。まずそれを宣明しておきたいと思う。つまりわたしは「ぬかって」いたのだ。
 その上で、もう少しこの作者の考察を追って、同時にそれを学んでみることにしたい。
 作者はさらに、テンプル・グランディンの『動物感覚』から次の文章を続けて引用している。
 
 人間が大きな前頭葉をもつためにはらった代償は鈍感になったことで、ある意味では自閉症の人や動物は鈍感ではない。ふつうの人は絵を構成している細部を見ずに、絵の全体だけを見る。それがふつうの人の前頭葉の働きだ。動物は絵の中の細部をなにもかも見る。
   ○
 人間とくらべると、動物は周囲のものごとを知覚する驚くべき能力をもっている。
 動物が知覚する世界は、人間が知覚する世界よりもはるかに豊かだ。それにひきかえ、人間は視覚と聴覚に障害があるのではないかと思える。
   ○
 ふつうの人が自閉症の子どもを「自分の狭い世界に閉じこもっている」と判で押したようにいうのを聞いて、いつもなんとなくおかしくなる。動物を相手にしばらく仕事をしていると、ふつうの人にも同じことがいえるのがわかってくる。彼らがほとんど受け入れていない広大な美しい世界があるのだ。たとえば、犬は私たちには聞こえない音域の音を聞いている。自閉症の人と動物は、ふつうの人には見えない、あるいは見ていない視覚の世界を見ている。
 
 わたしはテンプル・グランディンや、ホームページの作者である「松本孝幸」さんの言いたいことが即座に分かるような気がした。それは、松本さんが記した以下の言葉に要約できるのではないかと思う。
 
 人間は、植物も動物も、障害も自閉症も、内包した<総体としての人間>として生きているのだ。
 (略)
 初期の人間は、もっと「感覚で考える度合」が強かった。自然はもっと豊饒であり、細部にいたるまで鮮明なイメージで見え、それをもとに思考していた。
 つまり、人間は、かつては誰でも、大なり小なり「自閉症」であったし、大なり小なり「発達障害」であったのだ。
 
 松本さんの言葉には、三木成夫さんや吉本隆明さんの考察の影響が感知される。そしてその影響のもとに、さらに新たな思考の次元を切り開こうとする姿勢が読み取れる。その姿勢の先を見通し、そこに立って逆照射すれば、松本さんの最後の引用部分は以下のように言い換えることができるのではないだろうか。すなわち、現代的に「ふつう」の人と見なされているわたしたち人間は、概念世界に閉じこもった「自閉症」であり、自然界から見れば大脳皮質の異常な発達によってもたらされた、大なり小なり「過剰発達障害者」であるに過ぎないというように、だ。
 そして何よりも、現代の人間は自分たちがもっとも進化・発達した生き物で、他の生き物よりも優れていると錯覚した「思考障害者」なのだ。それは動・植物といった自然界から見れば、知覚の鋭敏さを消失した奇形であり、異形の輩であるに過ぎないかも知れない。
 テンプル・グランディンの「自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ」という言葉から、松本さんは自閉症のみならず、現在心的な障害と目される全てに渡って、言語獲得以前・以後の人類史のいずれかの段階に位置づけられると考えているように思う。つまり、単純な言い方をすれば、いろいろに仕分けされた感情や思考など精神的な障害の全般は、いずれに原因があるにせよ、人類が動物的な段階から人間へと至る過程のどこかで、ごく普通にあり得た存在様式だというところまで射程を引き延ばしている。そこでは、障害が生活上に支障をもたらすという視点からばかりではなく、人類史的なかつての時代のおもかげの現出という視点からの捉え直しがある。
 現在、わたしたちは現在的なわたしたち人間世界が全てであるかのように思い込んでいるかも知れない。だがもしかするとそれは閉じられた世界の中で考えているに過ぎないことかも知れず、世界は開かれた可能性として、わたしたちの狭い思考の外側に広大な無辺として存在するかも知れない。
 わたしたちはかつての時代をおもかげとして現出させる障害者の姿を通して、それは開かれた可能性の象徴と見なすことができるのではないかと考える。テンプル・グランディンが教唆したように、そこからわたしたちは動物の世界や植物の世界の豊穣さを垣間見ることができるようになるのかも知れない。そしてそのことは人間世界に、いっそうの広がりと豊かさとをもたらす可能性を秘めていると言うこともできよう。
 ところで、ここで松本さんの記述に触れながら啓発されて考えたところをいくつか述べておきたいと思う。
 一つは、ここまで見てきたように、障害の区分から言えば主として精神的な側面での障害が対象とされている。そしてそれは、段階という概念を前提にすれば、動物段階から現代までの人類史のいずれかの時期に位置づけられると見なしてきた。この考えは魅力的でわたしもそれに倣ってきたつもりだが、わたしにはもう一つどう考えたらよいかその端緒さえつかめずにいた肉体の障害という問題がある。松本さんの文章、さらにテンプル・グランディンの文章を読む中で、やはり人類史の段階、あるいはさらに遡って霊長類、哺乳動物史、さらに遡って脊椎動物の進化の歴史の中のどこかに位置づける考え方で考えられないだろうかと思い始めている。これについては、もう少し考えを深めた時点で別の機会を設けて触れてみたいと思う。
 もう一つはテンプル・グランディンの『動物感覚』『自閉症感覚』を読む中で漠然と考えたことに拘わる。
 一番最初に引用した中に「自閉症を抱えていながら成功できた」という言葉が見られるが、つまり、どう言えばいいか、テンプル・グランディンの著述の動機が、障害者の社会的な成功という方向性で書かれているところが気になった。
 ここはとても難しいところで、迂闊なことは言えないけれども、障害の問題にとってやはり社会的な成功ということは避けて通れないことかと思った。折しもこの少し前にリオのパラリンピックがあり、日本の障害者の活躍が連日報道された。これは障害を持つ人々の、社会的な活躍の場の広がりを象徴するもので、喜ばしいと思える反面、本当に諸手を挙げて喜ぶべきことかという疑念も併せ持った。
 選手の顔は生き生きとして躍動感に溢れる。おそらく、生きていることの実感、充実感というものも選手たち個々は手応えとして感じていることだろう。障害を持つ人々のほとんどが、そのように充実感を持って生きられるとすれば、それは理想的な社会と言うこともできるだろう。そして現にそういう機会が増えていることも確からしく思われる。しかし、オリンピック同様、充実感を得て「成功」者になり得るものは一部の人に過ぎない。その下に注目と関心を寄せるその種目の競技人口があって、さらに圏外には生活事情に手一杯の観客層、あるいは無関心派層が裾野を形成している。それはオリンピックも同じことだ。
 わたしたちの社会は今なお社会的成功を課題として、営為、日夜努力を傾けていると言っていい。しかし、本当に成功が全てなのだろうか。
 テンプル・グランディンは彼女の著作において、障害者の個性と才能を理解し、伸ばし、開花させて成功に導く方法を教えている。だが、社会的な成功という点では、健常者であれば全てに可能性が開かれているかと言えばそうではないと思う。その意味では、障害者の誰にとっても社会的な成功が目標になり理想になるかと言えば、少し違うのではないかという気がする。
 彼女の考えは、まず社会が存在し、その社会に適応するために障害ある者たちが何を獲得し、そのために社会の側から何を提供しなければならないかが問題とされている。それは今ある社会システム、教育システムのスタンスの延長上に位置する考え方であると思う。それが悪いと言うつもりは少しもない。ただそこに目新しいものは何もないという気がするだけだ。そこでは様々な次元で、また様々な状況で、本人及び周囲の人々、環境における営為改善が求められる。そこではよほどの偶然、幸運がなければ彼女のような成功が収められることがないだろうと思われてならない。少なくても全員が成功に導かれることは決してないだろう。
 ならば逆に考えたいというのがわたしの考えだ。どういうことかと言えば、まず、成功という概念を無効にすることから考える。そのためには社会が障害者のありのままの在り方のほうに降りていくということになる。それはどういうことか具体的に語れる段階にはないが、イメージとしてはそういうことになる。当事者や一次的な関係者からすればわたしは第三者的な傍観者の立場でしかなく、無責任な衆愚の一人に過ぎない。ここではだから声を大にして批判したり、自分の考えを冗長に述べることは差し控えなければならないと自戒するところである。
 
 
「障害」とは何か
              2016/09/26
「境界」考
 障害と健常の間には公的な基準があって、普通はそれが両者を隔てるものになっている。その基準は客観的に現在的な水準での公平、公正が担保されているに違いない。しかし、それでさえ、現代という時代精神の枠組みが拵えた基準に他ならない。つまり、その時代の思想が色濃く反映されてある。
 極端な考え方かも知れないが、いま、そうした基準は実は恣意的なもので、観念や幻想の現代的な水準から広く流布されているものに過ぎないと考えてみる。これをさらに考えると、こうした類別、カテゴリー化は、自然界や現実界には存在しないもので、人間個々には、ただ無限に微少な差異が続いているだけだと言うことができそうな気がする。
 たとえば、空想の中で今世界中の人間を背の高さや幅、太さといったもので順番に横並びに並べてみれば、端から端までの差異は明らかであり、だが隣同士ではあるかなしかの微妙な差異であることがはっきりする。
 これを視覚の視力差で空想すれば、数キロ先の物体をはっきりと認識できる視力もあれば、目の前が全く見えない視力まで無段階に連続していると想像することができる。そして大事なことはその視界に映り込んだ(映らない)ものが、その個人にとっての現実だということである。その意味では、実は、現実は人間の総人口数に等しく存している。あるいは、ひとの数だけ世界という現実が存在するということになる。
 こういうことで何が言いたいかというと、主観的なところから言って、本当は自分が障害者であるかそうでないかということは、分からないことに属するのではないかということだ。つまり、目が見えないということはその人にとっての現実であるけれども、そのことが普遍的な意味で障害になっているかどうかということは、誰にも言えないことではないだろうか。見えないことが先天的であった場合は特に、その人にとってはそれが普通のことであり、彼の現実の世界はその世界が唯一のものになる。目が見えるものには彼のその世界が見えない。見えないもの、知り得ないものたちが、空想によって彼の現実世界が不幸なもの、あわれなものだと決めつけるのはどこか違うのではないだろうか。
 また、客観的に見たところでは、障害と健常の境界は、微少な差異の連続をかなり離れた場所から見て概括的に基準を設けたまでのもので、特に心的な意味での境界というものは、今日の社会ではとても広く曖昧なものになっているという気がする。
 障害の概念は、個々の障害者が自らの意志によって作り出したものではないと思う。また家族や近親が作り出したものでもない。障害からは隔たった第三者によって考えられ、また形成された。それは近代に発明されたもののひとつだと言ってもいい。これはある時には近世までの村落共同体の相互扶助や親和性の代わりとなり、ある時には第三の権力であるかのように、障害と健常の間に起こったいざこざを仲裁するものとなる。しかしまた一方で、両方の生活をはっきりと分断し、分断を前提とした上での共生、それはつまり現実世界の二重化を目指すものに思える。
 それはどこまで行っても本当に混じり合うということがない。その典型が学校教育における通常学級と少人数学級、すなわち特別支援学級の生活形態の中に見ることができる。 学習支援員として2年間勤務した時、わたしたちの控え室は特別支援学級の近くにあった。当然のことながら、控え室と支援に出向く学級に行ったり来たりを繰り返す中で、しょっちゅう特別支援の子どもたちと廊下ですれ違った。その子どもたちが、たとえば職員室前や校長室前の廊下で、通常学級の子どもたちとすれ違う場面に遭遇した時も多々あった。一瞬だがその時、特別支援の子どもたちは廊下の端の方にすっと身を移動させたり、伏し目がちになったりという表情を見せた。特に特別支援の高学年の子どもほど、あからさまに遠慮がちにすれ違う。通常学級の子どもたちが威張ったふうで通っているというわけではない。ただ、特別支援の子どもたちには自然にその習性が身についてしまった、と考えるほかないように思えた。もちろん、習性のように彼らがそんな身のこなしを身に付けるようになった原因は、はっきりと学校という環境の中に存在するはずなのである。
 よく通常学級の子どもたちが差別的な言葉や態度を示し、問題になることが以前からあった。だが問題はそういう言葉や態度を示した子どもたちにあるのではないと思える。子どもたちはただ、植物の枝や根のように外側に張り巡らせた感覚の先っぽで、世にある差別意識といったものを受信し、真似るだけに過ぎない。あるいはそれに憑依されるだけだと言い換えてもいい。だからわたしはそういう子どもたちを批判的に見ることはないし、それではダメなんだよと教え諭そうとしたこともなかった。ただ、萎縮する子どもの側に対し、それは理由がないことだよと伝えたい気持ちだけ持っていた。ふっと心で寄り添い、けれどもかける言葉もなく、すれ違いを繰り返すことを常としていた。それがどうにもやるせなかった。どうしてこういう現実が変えられないのか。見過ごされてそれっきりというように、それがどこまで行ってもそのままで過ぎていくのか。
 現在の特別支援教育体制を内に抱えた、全体としての学校体制を批判する声はわたしの耳には皆無に近い。それは障害を持ち、支援を要すると見なされた子どもたちが教師の目と手が行き届く形で教育を受けることができ、その成果を誰もが認めるからだろう。
 たしかに、狭い意味での知識や技能は身につきやすいかも知れない。また、あからさまな差別的な言辞や態度からも隔離的に保護され、常に劣等意識に駆られながら生活しなければならないということからの解放という美点も付随するかも知れない。けれども、差異はありながらも、あるがままの差異は差異としてそのままに、みんなの中に、そのことが当たり前であるかのように混じりあって暮らすことで生じるに違いない生命的な安堵感、その一点に比べれば、知識や技能の獲得や囲いの中の平穏が何になるだろうか。
 昔がよかったというのではない。だが今日の日本社会は、たしかに障害を持つものに対しての「人権を手厚く保護する」体制を完備させながら、もう一つの大切な何かを置き去りにし、忘れてしまったという気がしてならない。たわいのない言葉でそれを言ってみれば、ともにそこに在ることが当然だという寛容の心である。全ての動植物に心を開いてきた日本人の根源の心性だとここでは言ってみたい。それを現在の中に取り戻し、付加できないのかということが、さしあたって今わたしの心を占めていると言っておこう。
 
 
「障害」とは何か
              2016/08/31
「障害というカテゴリー」
 このシリーズの2回目に、渡辺京二「逝きし世の面影 日本近代素描T」(葦書房)から次の記述を引用した。
 
フォーチュンはディクソンら友人とともに鎌倉を訪ねたが、町中に入ると女が一人道路の真ん中に坐りこみ、着物を脱いで裸になって煙草を吸い始めた。明らかに気が違っているのだった。フォーチュンらが茶屋で休んでいると、彼女がまた現れて、つながれているフォーチュンらの馬に草や水を与え、両手を合わせて馬を拝んで何か祈りの言葉を呟いていた。彼女は善良そうで、子どもたちもおそれている風はなかった。フォーチュンたちはそれから大仏を見物し、茶屋へ帰って昼寝したが、フォーチュンが目覚めて隣室を見やると、さっきの狂女が、ぐっすり寝込んでいる一行の一人の枕許に坐って、うちわで扇いでやっていた。そしてときどき手を合わせて、祈りの言葉を呟くのだった。彼女はお茶を四杯とひとつかみの米を持って来て、フォーチュン一行に供えていた。「一行がみんな目をさまして彼女の動作を見つめているのに気づくと、彼女は静かに立ち上がって、われわれを一顧だにせず部屋を出て行った」。狂女は茶屋に出入り自由で、彼女のすることを咎めるものは誰もいなかったのだ。当時の文明は「精神障害者」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人々と混りあって生きてゆくことができたのである。
 
 ここで渡辺が記述している「『精神障害者』の人権を手厚く保護するような思想」とは、言うまでもなく近代西欧的障害観を指していよう。そしてそれは「身体障害者」に対しても同様であると言える。現在、われわれ日本人のほとんどは、この西欧的障害観を自明の前提として障害者を見、障害者と触れ合い、障害について考えるようになってきていると言っていい。
 この近代西欧的障害観がどのような過程で日本に根付いてきたかははっきりしている。大ざっぱに言えば明治の開国と太平洋戦争の敗戦を機に2度にわたって近代西欧の精神が移入されるとともに、日本人自らの思考の転回によってもたらされたことは間違いないと思われる。
 それ以前、明治初期までの日本では、引用文に見られるように、障害者と非障害者とはそれぞれのケースでそれぞれに折り合いをつけながら暮らしていくほかはなかった。今日常識となっている障害というカテゴリー、概念がまだ形成されていなかった。
 では西欧における「障害」あるいは「障害者」というカテゴリーは、どのよう経緯を持って発生したのか。
 日本学術振興会特別研究員の戸田美佳子は『越境する障害者―アフリカ熱帯林に暮らす障害者の民族誌』(明石書店)の中で、そこのところを次のようにまとめている。
 
 イギリス障害学の代表的研究者であるM・オリバーらは、「障害者」というカテゴリーの発生過程を、資本主義市場の成立と結びつけて説明している。「資本主義の登場に伴う排除の過程は、障害を医療の対象となる個人的問題という特殊な形態へと変化させた」。それは資本主義労働市場が「働くべき者(労働者)」と「働けない者(非労働者)」の区別を明確にしたことによる。その社会における「健常な人間」が確立されたと同時に、どのようにしても「健常な人間」になり得ない者が「障害者」とされ、子どもや老人と同様に扱われてきたのである。
 
 これは国や地域の産業形態としてみれば、農業や漁業、林業などの第一次産業から、製造業、建設業、鉱工業など、第二次産業化する過程で発生する括りであり考え方であると思う。もっと言うと人間を労働生産性の視点から見て、有用か無用かで判断しようとするものだと言っていい。それは近代西欧的障害観に結びついている。
 先に続けて戸田は、「このような『障害者』という枠組みは、共同体の中で生業を営むアフリカ諸国には本来存在しなかった可能性がある。」と述べているが、先の明治期以前までの日本の状況を考え合わせると、それはアフリカ社会だけではなく、アジア的社会にも存在しなかったのだと考えていいように思える。つまり、この本の中で調査対象となった数人の事例を読みながら、私は過去の日本の障害者たちの生活を垣間見る思いがした。そのように読めたのである。
 日本学術振興会特別研究員というもったいぶったような肩書きを持つ戸田が、アフリカはカメルーンの熱帯雨林に暮らす人々の中の障害者の現地調査、研究を行い、アカデミックな論文の体裁で書き上げたこの本は、私などにはとてもまだるっこしくて、この程度のことなら日本にいても考えられることだと思った。ひとつの調査報告で、それなりに意義はあるのだろうし、フィールドワークとはこういうものかもしれないとも思った。そういう中で、あえて戸田の真意を探ろうとすると、次のような語句がそれに該当もしくは抵触するのかなという気がした。
 
それでも私はどのような(正当な)理由があるとはいえ、外部者が地域社会に対して自らの基準に立って線引きを決めることには警戒せざるを得ない。このような新たなカテゴリー化を生むような線引きが外部からの力として働くならば、(中略)彼らを憐れみの対象や時として差別の対象にしうる状況を地域社会に与える危険性があるのではないか。その点を考慮せずして、地域に暮らす障害者の本当の意味での福祉とはなり得ないのではないだろうか。
 
 この言表にはとても重要なことが含まれている気がする。だがそれを言い表してみることはとても難しくて、また今のわたしにはその力がない。
 カテゴリーとして理解すれば、障害は個人的な心身の機能の問題であり、また社会的な問題でもある。機能の問題と考えれば、現在これは訓練とか開発という形で非障害者に近づけることを当然のように見なしている。そのため、機能回復の訓練とか開発のために医療的であったり教育的であったりという自他の働きかけを必須としている。
 もう一つの社会的な問題という捉え方では、社会的な組織や制度や施設の充実という側面と、言ってみれば健常者と括られる側の障害とか障害者とかに対する人権的な理解が求められるようになっている。あるいはまた社会として、障害あるものに理解と共感を持って接し、障害者も健常者と同様の生活が送られるように、あらゆる方面からの配慮を講じるべきだとされている。
 だが、こういう近・現代的な考え方には何かが欠けている。あるいは何かが過剰になっている。
 戸田がアフリカのカメルーンに見た障害者や障害の実態は、たしかに西欧近代以降の障害のカテゴリーからすれば不備で不徹底で、あるいは放置と見られるような、要するに恵まれていない状態にあった。そしてキリスト教的な慈善事業の普及を含め、カメルーン指導層もまた西欧近代的障害観を身に付けていく過程で、たしかに緩和された過酷さや悲惨さ、救済という現実もあったに違いない。言い換えると、お仕着せのような外部からする西欧近代的障害観は、一定の効果をもたらしたといえば言える。
 戸田は『越境する障害者―アフリカ熱帯林に暮らす障害者の民族誌』の中で、なるほど従来言われていたように、西欧近代的障害観から見た障害者へのケアは皆無に近いか、もしくはほとんど進展していない現状についても述べている。だがそれで、障害者に対する「ケアのないアフリカ」という認識が正確であるかというと、そうではないのではないかという疑義を挟んでいる。冒頭に引用した渡辺京二の「逝きし世の面影 日本近代素描T」に描かれていた狂女のように、障害に対する特別のケアのない世界の中で、しかし、「当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人々と混りあって生きてゆくことができている」、主として身体障害者数人のケースを紹介している。
 これはどう言えばいいだろう。わたしには近代的国家という枠組みに内包されていても、実際的な生活基盤としての地域社会、地縁・血縁の共同体が死滅したり崩壊していないところでは、そうした自然生成的な、差異への寛容が存在するのではないかと思える。そこでは障害を持ちながらも、障害者自身のできる限りでの折り合いの付け方が尊重され、認められていたのではないだろうか。障害が、ごく当たり前のことのように、少しも特別視されずに、また健常者との間に境界を設けられずに生活することができていた。人たちは気を遣うという意識なしに気を遣うことができていたし、ケアするという意識なしにケアすることができていたのだと思える。
 今日の日本社会は人権や福祉に過敏で、障害者に対するケアも小学校段階から子どもたちに意識させる教育施策が進んでいる。それを否定するわけではないが、そうした意識を持つようになればなるほど、逆に障害者は自分とは別物だという特別視が強まっていき、「彼らを憐れみの対象や時として差別の対象にしうる状況」が深まってきているような気がしてならない。
 戸田が調査した地域の、現代的視点から見ればローカルな未開種族社会では、産業経済的に言えば狩猟採集及び農耕が主たる生業となっていた。これは吉本隆明の歴史概念に置き直せば、アフリカ的(プレ・アジア的)段階(狩猟採集社会)とアジア的段階(農耕社会)とを意味し、日本社会ではつい最近まで存在した強固で閉鎖的な地域社会、農耕共同体、地域共同体といったものをイメージすれば近似の象が得られるように思われる。特に親和的な地域のつながりとか相互扶助的な面
は、社会が先進的になればなるほど消滅していったり欠落していくものだということが、ここでは重要なこととして押さえておかなければならないと考える。
 吉本隆明は「〈アジア的〉ということ」と題した講演の中で、マルクスがイギリスのインド植民地支配の分析、考察したことを受けながら、次のようなことを述べている。
 
 どのようにこわしたかということは、それこそいってみれば簡単なことです。インドでは村落共同体の経済的基盤になっているのは、農業と織物です。インド更紗のような名産物があるでしょう。そういう織物が、農村で家内工業的・家庭工業的にやられていました。インドは木綿の原産地で、インド産木綿をヨーロッパ市場に輸出してそれでもって長い間村落共同体をまかなってきたのです。イギリスは、ヨーロッパの産業革命の最新の機械を使って作った織物を、逆にインドに入れていきました。それからインドにより糸を入れていったわけです。するとインドの家内工業は近代化した工業に移っていくわけです。そしたら、今まで村落共同体を独立させてきた基盤である、農業と織物の家内工業的な結合は破壊されることになり、農民たちは近代化した都市の工場へ働きに出ることになってしまったのです。
 インドの何千年来続いた、村落共同体の独立と閉鎖性とは、イギリスのこの政策によって根こそぎこわされたのです。マルクスは、こういう述べ方をしています。インドの歴史は、外国人によって侵入されたり征服されたりしたけれども、その侵入とか征服とかでもインドの表面をなでていったにすぎなかった。しかし、イギリスがインドにやったことは、そんなものとは比べものにならない。インドにおける〈アジア的〉村落共同体は根底的にこわされてしまった。このために、インドの村落共同体民は、徹底的な飢餓状態にさまようほかなくなってしまった。この悲惨さは何ものにも比べられない。これは根底的な破壊だ。
  (中略)
 
 マルクスは大変なヒューマニストですから、その悲惨さ、無茶苦茶さというのは、我慢ならないほど根底的だとおもえたにちがいありません。しかし一方で、歴史というのは何だろうか。歴史というのは何をこわして何を残していくのだろうかを考えていきますと、村落共同体にはよくない面もあります。例えば、ほかの村落共同体とかその上位の国家自体がどんなひどい破壊をやっても、また逆に破壊にさらされても、孤立した村落共同体の内部の村落民たちは、平気で我れ関せず、自分の利己的な生活さえ破壊されずに保存できればいい、というようになるからです。また孤立した村落共同体の内部だけが世界全体になり、蒙昧な宗教や迷信や呪術に支配されたり、ほかの村落共同体やほかの国家に対しては残忍で冷酷なことを平気でやるようにもなりうるわけです。
 こういうことは、現在でも〈アジア的〉な地域で残存していますし、私たちの間でも、歴然と意識の中に残存しています。自分よりも上位の共同体とか制度とか権力とか、そういうものがどんなに抗争して交替しようが、どんなひどいことをしようが、そんなの知らないという、閉鎖的な概念は今でも生々しい意味を帯びています。極端にいいますと、村落共同体が世界の広さであり、地球が世界の広さではないのです。自分の利害に関係のないところでどんなことが行われようと、あるいは、自分の利害に関係のある、膨大な権力のところで悪いことをしていたって、自分のところに響いてこなければ関係ないよという概念は、わたしたちのあいだでも残っているでしょう。
 わたしたちは、思い当たるのです。これは〈アジア〉では特徴的です。全部思い当たるはずです。思い当たらなかったら嘘だとおもいます。それは存外、超近代的な形をもっているかも知れませんし、前近代的な形で残っているかもしれません。
 はじめにヨーロッパが市民社会を獲得したときに、自己意識だけで世界を見渡すことができるんだ、その理解の仕方がどんなに誤っているか偏っているかは別として、一応眼の中に世界を納めることができるんだという意識に到達したというお話を致しましたが、村落共同体の独立性だけでは、この視野の攫取は不可能です。
 個々の人間が自分の意識でもって、自分の考えでもって世界を見ることができることが、人間の歴史にとって進歩だとすれば、その面からは〈アジア〉における、例えばインドにおける村落共同体の破壊は、歴史の必然なのかもしれません。そうすると、イギリスがインドでやったことは凶暴であり圧倒的な植民地化でしたが、しかし、歴史の必然に加担したことにもなります。この二重の概念の中で、マルクスは揺れています。その揺れというのは当然なことです。その揺れの中にこそ、本当の問題が横たわっているようにおもわれるのです。またその揺れの中に、たくさんの貴重な問題が含まれています。
 
 山田明「通史 日本の障害者―明治・大正・昭和」(明石書店)の本文は、次のような記述から始まっている。
 
 近代社会は障害者にとって何であったか。加藤康昭は、それを、「部分的には補助的な農業労働力として生産に組み込まれつつ、家族を中心とする血縁的・地縁的共同体の相互扶助に吸収されていた」とし、そこからはずれた者の一部が非農業的な作業に従事していたとする。ところで明治維新後の農民層の窮乏化と都市化の進行に特徴付けられる近代社会を、障害者はどのように生きたのであろうか。加藤のいう血縁的・地縁的共同体の相互扶助はどのような形態をもって存在したのだろうか。
 地縁的相互扶助の中心は五人組であった。一八六九(明治二)年の京都府郡中制法は、五人組の意義を強調した後で、次のように定めている。
 
村内懇和し、吉凶相助、善を勧め悪を戒め、共々渡世の安穏をはかるへき事、付 孤独疾無告之窮民ハ村内互に申合、常々心を付け、救助申出等遺漏沈滞不可有之事。
 
 同様の五人組帳による規定は他の地域にもみられることから、近世以来の隣保相扶制の中で疾者が生存していたことがうかがえる。
 
 この後、日本における近代国家体制の確立から戦争、戦後期を経て、経済成長期、成熟期に至る過程での障害者問題とその発展が素描されている。
 言ってしまえばそれは、西欧近代的障害観、障害という概念とカテゴリーの日本社会での浸透の祖述であるとともに、アジア的血縁、地縁共同体の枠組みから障害者問題が引き離され、国家的な政策の問題へと分離していく過程をも描くものとなっている。少なくとも障害問題に関して、アジア型の親和性、相互扶助的な精神は出る幕がないところへと極端に追い詰められてきたと思える。
 なるほど、今日の日本社会では、小学生の子どもから老人に至るまで、障害者に対する意識・理解は深まったかも知れない。だがそれとは反比例するかのように、障害者の姿はごく普通の生活者の視野からは遠ざかり、障害者というカテゴリーの中、枠組みの中へと囲い込まれてしまった印象が持たれる。それはたとえば小学校において、同じ校舎内に暮らし、頻繁に校庭や廊下ですれ違いながら、特別支援学級の子どもかそうでないかの薄膜に隔てられて存在するといったようなものだ。その薄膜が何を意味するのか、特別支援学級の子どもにも健常者の子どもにもよく分かられてはいない。いや、実のところ、教員たちも、そしてわたし自身もよく分かっていない。制度的に出来上がっているそれを追認しているだけなのかも知れない。時として、障害を持つ子どもは健常者である子どもたちに対して、萎縮していることを示す態度や姿勢を示す場面が垣間見られることがある。それは瞬時で、次の場面では何事もなかったかのように切り替わる。見過ごせば仲むつまじい交歓が行われていると誤解したり、共生が成り立っていると錯覚することもできよう。だがわたしには障害を持つ子どもとそうでない子どもとの間に、はっきりと乖離が横たわっていると感じられる。これをうまく掴みたいと考えてあれこれ考えてみているわけだが、どうもうまくいきそうにない。解答を必要としているのは今のところわたし自身だけであり、その意味でこの考察は自身のためだけのものに過ぎない。
 
 
「障害」とは何か
              2016/05/21
「障害」考
 生活保護を受けている場合を除いて、障害を持って働く人たちのうちの9割以上は年収200万以下のワーキングプアになっているという統計を見た。身体障害、知的障害、情緒障害、それらのいずれの場合も労働に関しては健常者に比べハンディを背負っている。それが対価に反映して、獲得賃金が低くなることは現在社会では仕方のないことかも知れない。だがもちろんそれでいいとは思わない。思わないが、では社会全体がどう変わっていけばいいかを含めて、「障害」というものにどう向き合っていけばよいかということになると、なかなか良い考えが思い浮かばない。
 こういう障害者の不遇とか差異とかについては、実態調査を待つまでもなく、何となくそうだろうなということは分かっている。この社会に普通に生活し生きていれば、何となくそういうことになっているだろうなと想像がつく。特に障害を持つ子どもの両親が心配することは、仕事とそれから結婚のことが一番悩むところじゃないかなと勝手に考えたこともある。
 そういうことを考えさせる周囲の環境は、自分にとっては以前は特殊教育と呼ばれ、現在では特別支援教育と称される公立学校の障害児教育にあった。そこでの教育の眼目、つまり主たる目標とか考えどころというようなものは、言い方はうまくないかも知れないが、ようするに障害ある子どもたちをできるだけ普通の子どもに近づけることが中心的な課題になっていたと思う。これは、そういう意識でなされていたのかは別にして、全体のベクトル、方向性で考えた時に、そうなっているようだと思われたものだ。これも言い方は悪いが、障害を持った子どもたちは普通の健常な子どもたちに比べてあれこれができない、いわば欠損や欠如、不足するところがあり、これを多少なりとも是正し補うことが教育の役割のように存在していた。漠然としたものながら、一種の共同の幻想、共同の観念として、あるいは空気感としてそれはそのように存在していたと思う。
 ところが、元々が普通の子どもたちのできる知識や技能の受け容れ、社会規範の受け入れが苦手だから障害児学級に在籍したり、通級したりするわけで、これをどんなに時間をかけて指導してみても普通の子どもたち並みに習得できるはずはない。けれども障害児教育というものはそれを大目標にずっと同じことを繰り返してきている。果たして欠損や欠如は埋まるはずもなく、常に普通の子どもたちの後塵を拝するといった形に甘んじることを余儀なくされてきている。結局、健常児になりきれない、下位の存在のように障害児は扱われ、これはその後にずっと尾を引く。障害者は成人してもその道を辿り、社会システムにマッチしない存在と見なされ、自然仕事的にも単純作業中心の対価の低い仕事をするほかないことになる。つまり冒頭に述べたように、年収が200万に及ばないワーキングプアになることは避けられないことになる。
 にもかかわらず、小学校での障害児教育は何十年来同じことを繰り返している。ぼくの見てきたところではそうだった。
 ぼくの見てきた限りでは、障害児学級の日常はまずは挨拶をきちんとさせることからはじまり、学校という疑似社会の中での立ち居振る舞い、その他のルールを身に付けさせる指導が繰り返されていた。それが基本にあり、さらに簡単な読み書き、計算を、じっくり時間をかけながら指導していくパターンが実践されていたように思う。そういう学級経営、学級運営の在り方はぼくには何か障害児をバカにしたやり方のような気がして仕方がなかった。なぜかというと、やはり障害ということを通常のことができない能力の劣ったもの、低いものと見る見方があると感じられたからだ。具体的には、通常学級で行われている教育体制が前提に置かれ、それを単に障害児学級用にアレンジした、焼き直したにすぎない指導方法が貫かれていると思われた。これは繰り返すことになるが、障害者は健常者ではないということを自他に追認させる効果をもたらすだけで、障害は「NG」だと固定化するだけのようにも思われた。「発達段階」という見方、考え方の悪しき側面が、見事に制度化された例であり、結果であるとしか言いようがない。障害児は発達段階の下位のもの、段階の低いもの、劣ったものと見られがちで、障害児教育はそれに対応したものという考え方。それには、何をどう応えようが、発達段階の上位になければ通常の人間とは見なさないという錯誤が生まれる契機が潜む。
 担当の先生たちは教育上の取り決め、計画や目標に沿って活動することを義務付けられているが、おそらく、障害児と一緒に過ごす、共に過ごすという生活的側面からは、能力のあるなしや発達段階のような考え方とは無縁の、言い換えると、根源的な人間関係というものを自覚すると思う。するとそこでは、能力とか知識のあるなしや発達の早い遅いに関わりなく、ただに、一個の生命、一人の人間と直に向き合っているという感覚を必ずや体験することと思う。
 どう言えばいいだろうか。ぼくなどは障害を持つ子どもとの触れ合いの過程で、人間の価値概念がいっぺんにひっくり返る、逆さまになる、そんな思いを経験した。
 ぼくにとって彼らは、なによりも「こころの人」であって、頭ではなくむき出しの「こころ」で生きる人たちであった。彼らと一対一で接するためには、こちらも「こころ」をむき出しに差し出すほかはない。すると、そこでぼくは初めて「こころ」の対話が成立できたかのように思えた。これは別に恋愛とも友情とも違い、互いを深く理解し合うということとは違う。何も意味は無いけれども、ただ「ほんとう」のことで成り立つ「会話」がそこに見いだせたと思えたのだ。
 担任ともなればその関係はもっと濃密であり、言葉がなくても通じ合うところまで行くに違いない。だとすれば、本当は担任にとってはその時のありのままの子どもの姿がそのままかけがえのない存在であって、その場所からは低次の発達だろうが高次の発達であろうがあまり意味あることではなくなっているはずなのである。少なくともそういう視点からの見方は二義的なものになる。担任は、子どもを子どもとして、人間として、すばらしいところをたくさん持っていると経験的に理解できているはずなのである。そして口にはできないかも知れないが、その時、彼や彼女に接しながら心に思う思いの中に、実は自分の人間性が投影されているはずである。
 そのように、ぼくたちは障害ある子どもたちと接する機会を与えられることにより、たくさんのことを教わったり学んだり、あるいは自分について考える契機をもたらされたりしている。それはすぐに何かに役立ったり、あるいは言葉にならないことかも知れないけれども、貴重な経験になるだろうことは間違いないと思える。
 このことは通常学級の担任であってもそうだが、担任と児童との関係は仕事上の教えるもの教えられるものとの関係以外にも、いわゆる一対一、一個人対一個人というような関係が成立する。それはひとつの心とひとつの心の関係と呼んでもいいようなもので、年齢や性や能力的なことにも関係のない、いわば「ぼく」と「あなた」の関係としか言いようのないものである。
 もう少し踏み込んだところで言えば、つまり、「ぼく」と「あなた」との距離がぐっと近づいたところでは、「知力」や「理解力」が弱いとか低次だとかはさしたる問題にはならないし、また、弱くも低次なわけでもないことが分かる。それどころか、彼らがそういうところに「脳力」を発揮しているのではないことがはっきりと見て取れる。脳機能の働かせ方、使い方が、現在の教育体制が要求するのとは別方向に向かって開かれていて、いわば固有の思考回路、記憶術を保有しているのだと言っていい。
 教員は誰もがそれを実感し、経験しているはずなのに、その側面をあまり口にはしないし掘り下げようともしていない。そして職務上、どうしても発達段階的な面だけを気にして、そのあたりの議論ばかりに注意を向けてしまっている。それは職務上仕方のないことだけれども、個人には職業がそうであるように社会人としての顔と、それとは異なる家庭人の顔、それに自分自身という個人の顔の三層がある。そして、時として誰しもが一個の人間としての内奥の相を分かってほしいと望む時があるはずである。子どもといえども、児童・生徒の顔とは別に内奥に隠れた個人の顔というものはあるもので、言葉にしなくとも、誰かそこのところで自分を理解してくれと願っている。あるいは誰かが分かってくれるはずだと信じている。それでなければ「この世界はあんまりひどい」ことになる。
 障害児の心を本当に了解できるのは、日常的に彼らと接触する親と先生だ。そして実際にいま述べたように、個々の子どもたちの固有な心の動かし方、頭の使い方というものを肌に感じて理解しているのも親であり先生たちである。さらに親も先生たちも、「発達段階一辺倒」の考え方は、障害あるものにとっては「不当」なものである事実を把握している。だが圧倒的少数派故にかそれを声にできない。それでも障害ある子たちを擁護できるのは彼ら以外には存在し得ない。どうしても彼らは子どもを守るために、少しずつでかまわない、声を揚げていくべきなのだ。
 学校教育に採用されている「発達段階」の考え方が、低次から高次への縦軸を持って能力を測る物差しだとすれば、横軸にはそれとは違う「領域」の広がりが想定できるように思える。つまり横軸でもって子どもを捉えれば、「発達段階」の捉え方はささいな一面に過ぎなくなる。そして「領域」という考え方は、心的な世界の無限の可能性のような「広がり」として捉えられるようになる。その時、現在の解体過程にある人間についての概念は拡張するという方向に向かっての手がかりを得ることになる。
 親と先生の声は、遠くはそんなところまで谺する力を持っているとぼくは思う。
 
 
「障害」とは何か
              2016/05/15
「増加」考
 文科省の調査では、全国の公立小中学校で「通級指導」を受けている児童・生徒が初めて9万人を超えたとされている。調査の始まった1993年度との比較では7.4倍増だという。(「平成27年度通級による指導実施状況調査結果について」)
 通級指導とは、通常学級に在籍する比較的軽い障害のある児童・生徒が、補充的に自校内の別室で支援担当の先生などから教科指導を受ける制度で、それに該当する児童が増加しているということになる。具体的に言えばADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)、自閉症などいくつかの診断名があるが、実際のところこういう子どもたちの存在が現場の先生たちの手に余るようになってきているということだ。
 増加の理由として考えられることは、主としては発達障害の診断概念、適用範囲などが拡張され、またそのチェック体制が整ってきたためだ。昔は「悪ガキだ」「おっちょこちょいだ」「じっとしていられない」くらいの性格的な括り方ですんでいたものが、今日では「〜障害」という診断名を冠せられると考えておけばよいだろう。つまり発達障害を持つ子どもが近年になって増加したというよりも、昔からそういう子どもたちはいたのだが、そういう子どもたちを積極的に「障害」の枠組みに括るようになってきたと考えるべきことだ。それがなぜかは明瞭で、要するに指導効率、学習効率、知識、技能、道徳的規範などを高い水準で子どもたちに身に付けさせようとするところから来ている。つまり、教育効果を上げることが、至上命令のようにどこからか、なぜか、要請されていることによっていると思う。
 少し意地悪な見方をすれば、ちょっとでも「疑わし」ければ各々の家庭に診断を勧奨し、その時点でたいてい「軽度ですが〜の傾向があります」くらいの診断が下ることは予想がつき、実際またそのように診断される。
 意外なのは昨今の親側の態度で、昔は「障害」の名称に抵抗があったが、育児に手を焼く現状がそうさせるのか、かえって「発達障害」の診断にほっとする親も少なくないそうだ。つまり、そういう「障害」があるのであれば「治療」を要するということになり、それで子育て上の悩みからはいったん解放されるところがあるからなのだろう。
 発達障害の診断名がつくことは親のみならず担任の先生にとっても、倫理的な悩みを軽減する効果をもたらすと言っていいかもしれない。「障害」を持つ子どもがいるので日常の学級運営に支障が生じていると言えば、学級内に起きている問題がすべて教師の責任として背負わねばならないということはなくなるかも知れないからだ。
 通級指導によって、一斉指導ではおぼつかない学力向上が障害を持つ児童・生徒にもたらされれば、その子どもたちにとってもよいことかも知れない。一人ひとりの児童・生徒の実態に対応した取り組みという点からも評価できる。もちろん、障害と診断されない子どもたちにとってみれば、普段の授業が落ち着いた雰囲気の元に、これを遮断し妨害する者もなく、集中して授業に臨めるという利点も生じる。
 全てよいことずくめのように思えるけれども、しかし、問題がないわけではない。その第一のものは、学校、学級の体制がもともとそのようにこまめに一人ひとりに対応できるようなものにはなっておらず、担任をはじめとして関係する先生たちの負担が思いのほか大きいのだという。たしかにそうだろう。想像してみるだけでも、連絡、調整、打ち合わせ、ほかの子どもたちへの配慮等々、煩わしいと思えることが増える。あるいは通級する子どもたちへの偏見、蔑視が、学級内に湧いてでないとも限らない。結局のところ、現場の先生たちが指導しやすい環境を整えるための方策が、かえってこれまで以上に複雑な混乱をもたらすように見える。
 ここから次に考えられることは、公教育に投じる国家予算を増やし、教員の増員や発達障害支援の専門家の配置を、今後一層、現場サイドが要求するだろうということである。つまり教育に「金」を使えという声が高まっていくだろう。これは自然な流れとしてそうなっていくだろうということだが、しかし、現状ではそんな予算配分が期待できそうには思えない。となると、「こうすればよい」と考えられた方策も末すぼまりになり、かえって現場の混乱から学級崩壊や教育解体の道筋を鮮明にしていくことに繋がりかねない。
 教育的な状況の現在的な一面はこういうところにあるが、こういう状況を作り上げてきた考え方の根底に何があるかと言えば、通常学級、支援学級に在籍するか否かを問わず、相互の子どもたちへの質の高い学びの提供という考え方や、そのことでもって国家、社会の力を高めようという発想であると思う。つまり、先述した学習効率をはじめとする教育効果の達成の目論見である。それがかなりシビアに要求されるようになってきているらしい。このことは今まで以上に発達障害の概念を後押しし、拡張させ、健常と障害を区分し、障害者の増加を現実化し、強いては教育予算の配分を増加しなければにっちもさっちもいかないような学校の現状を作り上げてきた。見方を変えれば教育組織体制の、教育組織体制による教育組織体制の強化、拡充の、内部的な衝動からなされていると言える。簡単に言えば現状における不備を認識し、その不備を補う形で改善を行いさらに不備を再生産する。そういう中で組織だけが膨れあがっていくことになる。これはひとつのループを形成する。
 このように、これまで以上に教育の推進を考え働きかけを行おうとする人々の間には、国家、社会の繁栄をもたらすものは「知」であるという、根強い盲信がある。なるほど、「知」は文明、文化の発展に寄与する。知識人、文化人、専門家、そして一般生活者に至るまで、ほとんどの人たちはそういう考え方で一致している。
 だが、その裏面に飽くなき自我(ここでは組織的自我)の跳梁跋扈があること、またそれは、互いに他を抹殺せしめようと働きかけるものであるということを忘れるべきではない。他のためによいことをするという発想で、実は自分の価値を至上のものとして高めるということを無意識にやってのけている。こういう個的(ここでは組織的)な生命戦略に気づかぬふりをすべきではない。
 そのように「知」は両義的であり、一元的な信仰は危ういものである。かつての「日本人」はそれを避けて「知」としての「私」ではなく、「無私」をよりどころにしようとしてきたのである。高度な「知」を形成する質の高い学び?それよりも大事なことが人間にはある、と考えてきたのだ。それは「情」や「心」であると言ってみたいところだが、たぶんそうではない。そうした概念や理念にまで結集、昇華されずに保留の状態にあるもの。あるいはまだ個人的な見解をでないと言えるもの。そこに立ち止まってきた。
 進化、進展、あるいは発展や発達という考え方。これはまた「知」によってもたらされるという見方は、阻害要因としての「障害」という概念を生み出し、細分化し、差異化し、しだいに異質とされるものを「障害」、すなわち、正常な進行や活動の妨げとなるものに仕立て上げてきた。だが、それが正常であるか正常でないかの見立てそのものは、自らを正常と見なす多数者の「知」によっている。その「知」はまた、異質な他者を数多く「障害者」に振り分け、振り分けることで何を目的とするかと言えば、絶対的「真」と優越性を持つ自分たちと同じように歩み、生きることを強制するものだと言っていい。これは近代欧米世界がアジア的世界やアフリカ的世界に向かって自らの優越性を誇示し、欧米化を促すパターンをそのまま踏襲していると見ることができる。つまり、パターンとしては同じものだと言えそうに思える。そしてそれは限りなく傲慢な精神と呼べるものだ。
 現在の世界において、相変わらずアジア的世界もアフリカ的世界も横並びに存在するように、健常者に対して障害者は横並びに存在していると言うことができる。つまり障害者という概念が指し示すところのものは、永久に消滅しないのだ。それどころか、概念の拡張により数が増えていく傾向を示している。であれば、本当は健常者に対する障害者という区分自体が無意味であり、理由のないことだと思えてならない。つまり、このような概念の拡張を無限に繰り返していくとすれば、ただいろいろな差異を分け合った人々がどこまでも横並びに存在しているということになりそうな気がする。そしてその差異を理解したり心底から認め合うためには、障害者の括りとか診断とか、要するに頭でする理解とか認識の仕方というものは、あまり有意義だとは言えないように思える。
 それは意味がないということではない。ただ、より大事なことは、場を同じくして接触する機会を多くすることに勝ものはないという一点である。接触する以外に共生、共存を担保する「知恵」が生じる場所はどこにもない。そして、「質の高い学びの提供」、「国力の増強」などという発想から抜け出ないかぎり、本当の共生、共存が可能になることはないだろうと思われるのだ。
 
 
「障害」とは何か
              2016/05/04
「対立」考
 宮沢賢治の童話や詩には、今で言えば精神障害者を思わせるような登場人物が描かれていたり、「デクノボウ」というような言葉が使われていたりしたと記憶する。あまり熱心な読者とは言えないのではっきりとは言えないが、印象としては、宮沢賢治というひとは一般に弱者や障害者と見なされる人たちに、一種共感的なまなざしを送り続けたひとではなかったかなと思われる。もう少し言うと、ときにそういう人々の中に、菩薩や観音の化身を見ることのできるひとであった。
 このことは、弱者や障害者を聖化したり、偶像化することとはちょっとだけ違っている。その小さな差異も説明するとなるとなかなか難しいところだが、賢治の感じているところ、その接点については何とはなしに理解できる、共感できる、そんなふうに思ってきた。
 それからロシアの大作家ドストエフスキーは「白痴」と題する作品を書いたが、これは重度の精神障害を持つ人物を主人公としてキリスト的な「善」そのもののような描き方がなされていたと記憶する。
 宮沢賢治もドストエフスキーも、それぞれの著作において、「障害」を欠如や欠損のようには捉えていないし描いていない。共通するのはそれらの登場人物たちに全くの「善人」を見ているところだ。あるいは全くの「善人」というものをそのような姿として描いている。もしもそこに強いて欠如や欠損を見ようとするならば、概して、障害を持つ人々には「悪」こそが欠けているということになる。そう見て何が彼らにとっての「障害」かと考えると、逆説的な言い方になるが、その身に「悪」が欠けることが「障害」なのだと考えざるを得なくなるように思える。
 二人の作家に限らず、おそらく文学的な見方というものはそういう見方ができるものだと思う。そしてまた、少なくても精神障害、知的障害の意味合いにおいて、障害者は「悪」を作為することが不可能なのだとしてこれに過度の意味づけを与えている。文学的視線はそこに焦点を合わせる。
 しかし、作品世界にも十分に描かれているが、一般の人々、あるいは周辺に生活する人々は「障害」ある人をそのように見ることはない。自分たちの生活を翻弄する「お荷物」のような存在に見なすことが実際的だ。ここに乖離が生じる。
 文学的な見方、考え方に影響されてきたものからすれば、この乖離は大変悩ましいものだ。どちらかと言えば知恵ある一般人、健常者こそ「悪」を造作するもので、「善」なる障害者を見本に自らを戒めなければならない。かつて人間が到達し得なかった「善良」さの極限、そこに向かっての水先案内人として、唯一、障害を持つ人々の「善」がその役割を担うものではないのかという思い。
 前回の考察でも見たように、明治という日本近代の黎明の時期まで、精神に限らず障害を持つ人々は異質さを振りまきながら社会の寛容さの中で世間に紛れて存在し得た。褒められもせず、またそれほど苦にもされず、あるいは過度に周囲を巻き込んで翻弄するということもなく、時に無関心やほったらかしのように映る、だが暗黙の共同性の配慮の元に生活することが可能であった。現在社会ではしかし、その配慮が滅して亡んだ。代わりに人権擁護の名の下に、単純作業を教える施設の元で職業訓練に明け暮れる。それが悪いというつもりはない。ただそういう行き方だと、この社会ではいつまでたっても健常者に追いつけない、競いの中にあえぎ続けなければならないことは先験的だ。これでは、昔に比べてよりその存在が尊重された生き方になっている、と言うことはできない気がする。
 学校では特別支援学級に在籍し、通常学級よりはゆっくりと読み書きを習い、集団行動、基本的な生活習慣や一般常識的な日常の振る舞い程度のことを身に付けるよう学んでいく。これもまたこの方面でははじめから健常者の後追いというほかなく、努力という努力はただ「普通」を目指すところに目標が置かれている。そしてそのこと自体はあえて言えば、ぼくらのようにある意味での精神の過剰、倫理の過剰、それ故に「負」を自覚するところのものが「普通」を目指すところと相重なるところだと言うことができる。だが、ぼくらのようなものはいいにしても、障害あるものがマイナスからスタートし、プラマイゼロ地点に辿り着くことをもって、彼らの人生の宿命と是認することには加担できない。先述したように彼らが仮に「負」を持つと考えても、それを補って余りある「正」もまた共時的に獲得されていると考えることができる。まさしくその「正」の価値は「負」を補って余りあるはずなのに、学校教育の過程の中でその価値はすっかり消滅させられてしまって、ただ校舎内の一隅にのろのろと生活しているように仮構されてしまう。
 ぼくらは、「そうじゃないだろう」と思っている。ぼくらが見習うべき究極の「善」もしくは「聖(セイント)」は、自力で獲得したものではないとしても障害ある人たちの中の無意識に宿っているのであり、それを模範にして学ぶべきは健常者の方であろうと考えている。そしてその学びは肌に感じるようにして学ぶことからしか学ぶことができない。つまり一緒に遊んだり生活したりする中でしか学べないものだと言っていい。
 こんなことを言うとほとんどのひとは決まって差別がある、いじめが起こると懸念する。その懸念は妥当である。しかし、突然人生のどこかで交流が当たり前のように自然な交流ができると想定することは不可能だ。差別やいじめを懸念していたら、生涯に渡って没交渉の道を敷き、その道を歩く以外になくなってしまう。現に、今日の学校も社会も上辺はどのようであれ、実質はそうなっていると思う。「隔離」と言ってしまうと穏やかではすまないが、しかし、一人ひとりが心に思うこととは別に、「関係性としてのみ」捉えるならば、そういう関係性におかれているというほかないことは、誰がどう言おうと覆るものではない。
 障害を欠如や不足という視点から見て、これを自立的な健常の方に近づける支援というものと、以前の日本社会に見られた周囲の寛容と配慮と保護的まなざしと、本当はいずれが強化されなければならないのかは安易にこうだとは言えない気がする。現在では公的な機関などを通じて前者の方向に力を注いでいる分、周囲の健常者は障害者に接する機会は少なく、寛容や配慮や保護を心性上に発動する機会を失っている。あるいはそういうことは公的なサービス機関の役割であると分別されている。また、そういうものとして、障害者に対する関心は幕ひとつ隔てた第三者的なものになっている。こういった傾向、こうした流れはますます社会を健常者中心のものとし、あたかも車社会で歩行者が道の端に押しやられてきたように、障害ある者たちを障害専用道路を設けて歩ませようとするかに見えてくる。
 文科省や学校は、支援と称して科学的論理的「正論」を持ってこうした事態を助長して行っている。この「正論」の意味するところには誰も疑いの口を挟むことができない。まさしく「正論」だからなのだが、その実際は何度も言うようだがその意味するところとは違って、共生とは名ばかりの隔離、締め出しと違わない様相を呈するものになっている。これを不満とする健常者は少ない。確かに、特別支援学級に過ごす障害を持つ子どもたちは、その中に生き生きと、またのびのびと過ごしているように見える。いらぬ「負い目」から解放された生活ができているとも見える。
 通常学級と支援学級とが分離したところでそれぞれの学級がスムーズに進行していく。
 そういうあり方はしかし、そのように構成し運営していく側を楽にはするだろうが、それぞれを非分離の場所から疎外し、疎外された分だけ互いの存在は観念的なものに変容していく。これは、かつての、「男女席を同じうせず」に近似する。つまり、互いに無理解を助長していくだけのように思える。
 良いとか悪いとかとは別に、男女のパワーバランスについては歴史的には前後左右に揺れながら、時代によって落としどころというものがあったという気がする。しかし、ことが健常者と障害者とのパワーバランスと言うことで考えれば、現在、圧倒的に障害者側が不利な状況にある。これを不服として障害者が立ち上がり、声を上げるということ自体も想定しにくいことであるし、強力な代弁者になり得る健常者の存在ということも限りなく想定しにくいことだ。そうした意味では、障害を持つ人たちは今日の社会では全く受け身的に存在し、受け身的に存在するほかないように存在していると言えよう。それは健常者側からする支援に甘んじて生きるほかない、というようにだ。
 社会的には福祉的な視点から障害を持つ人たちへの支援が行われ、そのことで社会は責任を果たしているかのような錯覚を内在させている。だがおそらくは社会は障害を我が事のように感じているわけではない。ただそうすることがよいことに違いないと考えて、そうしているに過ぎないだろう。障害ある人たちは、概して押しつけの善意に逆らうことができないように見える。
 現在までのところ、障害の問題は福祉が充実すればよい、支援が微細な点まで行き渡るようになればよいということでは、解決にならないのではないかという気がする。そういうことが社会的に配慮され考慮されるようになってきたとはいえ、どこかそれは浅い表層のうちで行われていたり、あるいはそうして社会的問題に取り上げられていることをもって、かえって棚上げにされて来ているような危惧を覚える。つまり、あらゆる領域に見られる現象だが、ここでも人任せ、行政任せの傾向が見られる。もっと言うと、障害とは何かを深く掘り下げることなく福祉や支援の施行をもってのみ良しとされている。果たしてぼくなどができることかどうかは分からないが、もう少し根源的なところから、障害とは何か、どのように理解し接するべきか、そのあたりのところを本質的な次元から考えてみたいと思う。
 
 
「障害」とは何か
              2016/04/30
「彼岸」考
 前回、以前は「知的障害」「肢体不自由」「病虚弱」「視聴覚障害」「情緒障害」に対応した「特殊教育」が行われていたこと、そして二〇〇七年にはそれらに加えて「LD、ADHD、高機能自閉症(アスペルガーを含む)」にも対応した体制がとられ、その時に「特殊教育」の名称が「特別支援教育」に変わったことを見てきた。
 およそ20年の教員生活において、そのほとんどは校舎内の一隅に設えられた「特殊学級」を視野の斜めの方において過ごしていた。真正面に据えて見ることはしないまでも、視野の外におくこともできなかったという気がする。なぜそういう位置づけだったのかはよく分からない。ただ「障害」というものをどう了解したらよいのかが、いつまでたっても判然としなかった思いが残っている。
 当時も今も一番分かりにくいと感じているところは、ひとつの校舎内に、どうして通常学級と特殊学級(現在では特別支援学級)の閾が設けられなければならないかということだ。もちろん、それが「障害」を持つ子どもに対して適切に教育的対応するためだということは分かっている。またその逆に、普通学級の授業その他の運営をスムーズにする効果があることも分かっている。分かってはいるが、納得はできないのだ。そのもっとも大きな理由は、そのように閾を設け日常の生活圏を異にすることは、それぞれ通常学級、支援学級の円滑でスムーズな日常を構成するに違いないが、普通学級には障害者が不在になり、支援学級には健常者が不在になってしまうためだ。そうなると、それぞれの無意識の中に、不在であることが自然であり、互いに没交渉であることが自然であるかのような錯覚が形成される。それがどういう結果をもたらすかは自明なことで、つまりはお互いの理解、付き合い方を不能化したり無能化することになる。それはまたどのような結果をもたらすかといえば、実社会においても線引きし、閾を作るということに繋がっていくように思える。ある意味では我々自身もその渦中にあるわけだが、一般的には生涯に渡って没交渉の道を歩むということになってしまう。これは見方を変えれば、人間としての体験や経験の欠落や損失を招くものだと言っていい。
 普通どの学校でも通常学級と支援学級との交流の場は設けられていて、たいていは少人数である支援学級側から当該学年児童が通常学級に参加する形をとる。この逆がないというのも面白いといえば面白いのだが、この交流の実態からいえば、実質的には形だけの交流というほかはなく、支援学級の児童はお客さん扱いになってしまうことが多い。あるいは投げ入れられてほったらかしにされてしまう。そんなことなら交流などといわずにはじめからそこに在籍させてもよいように思えるが、授業や集団行動について行かれずに無為に過ごしてしまうからという配慮の元に、支援学級でそれぞれのペースに合った生活をしてもらおうということになる。
 おそらく人権的な意味合いからも、そこのところは教育界においてもありとあらゆることが考察されてきているに違いない。けれども唯一、発想されてこなかったこと、あるいは発想されてもすぐに撤回されただろう事があり、それは学校生活から勉強を除くという選択だ。少なくとも小学校段階だけでも、そこでの生活の全てが遊びだということになれば支援学級の存在は不必要になり、子どもたちの自治だけによって健常者と障害者の共生は成り立つように思える。そして子どもの障害者への配慮は、全ての子どもではないとしても子ども自身がよく行えることは疑う余地のないところだと思う。たぶんこれが低年齢の段階であればあるほどよき友人に恵まれやすいはずで、よき友人はひとりであってもかけがえのない価値を有するはずだ。また、仮に障害を持つ子どもの異質性に気付いた上でそれも含めてその児童につきあえる子どもがいたとしたら、その子どもの獲得するものは勉強によって獲得するものの比ではないとぼくには思える。どうして学校や社会は、人間力を育むに違いないそういう機会を奪うように構成されてしまうのか。
 その根源を辿れば、幕末と太平洋戦争後の2度にわたって屈した、欧米型思考、つまり科学的論理的思考に遠くその因を求めることができる。つまり、その思考方法に従属している限りはそうなるほかはないというものだ。そしてあえて言えば、教育世界においても、絶対の真を仮構した欧米型の科学的論理的思考方法はその消費期限が迫り、それに導かれたあらゆる対策、方策は綻びを見せはじめてている。学校でいえば、特別支援教育も通常学級における教育も、本当は中身のない形骸だけの教育になっている。それは言ってみれば教育の幕末期を迎えているということだが、ただ誰もがその予感に怯えていて口を閉ざすだけだから、表面化しないだけだ。だが潜在的にはどん詰まりであり、同時にそれは崩壊が始まっていることを意味している。
 こうしたところを理解させるように説明することは大変難しくて、実際のところ自分の手には余るところだ。それでもなおあえて言えば、今日の社会において、障害ある人々と、健常者と自他共に見なす人々との実際的な共生関係は、お互いに満足すべきものになっているかを振り返ってみればいい。
 誤解されても困るが、実際のところ現在の社会は学校における通常学級と同じく健常者を主体に組まれ、障害ある人々は特別支援学級に生活するように生活することを余儀なくされているように思われる。これが障害ある人々に対する欧米型思考の帰結の姿である。このような実態をどのように見てどのように考えるかはそれぞれだが、ぼくには欧米型思考の限界かなと映る。ここではそのことをいいとか悪いとかいうつもりはなく、ただそのところをどう越えていけばよいかを探りたいだけだ。とりあえず、ひとつのヒント、示唆になるような事例を挙げておく。
 渡辺京二「逝きし世の面影 日本近代素描T」(葦書房)に次のような記述があるのでこれを借用する。必ずしもここでの文脈に適しているとは思わないが、自分の繰り出す稚拙な言葉よりは無難な気がするのだ。
 
フォーチュンはディクソンら友人とともに鎌倉を訪ねたが、町中に入ると女が一人道路の真ん中に坐りこみ、着物を脱いで裸になって煙草を吸い始めた。明らかに気が違っているのだった。フォーチュンらが茶屋で休んでいると、彼女がまた現れて、つながれているフォーチュンらの馬に草や水を与え、両手を合わせて馬を拝んで何か祈りの言葉を呟いていた。彼女は善良そうで、子どもたちもおそれている風はなかった。フォーチュンたちはそれから大仏を見物し、茶屋へ帰って昼寝したが、フォーチュンが目覚めて隣室を見やると、さっきの狂女が、ぐっすり寝込んでいる一行の一人の枕許に坐って、うちわで扇いでやっていた。そしてときどき手を合わせて、祈りの言葉を呟くのだった。彼女はお茶を四杯とひとつかみの米を持って来て、フォーチュン一行に供えていた。「一行がみんな目をさまして彼女の動作を見つめているのに気づくと、彼女は静かに立ち上がって、われわれを一顧だにせず部屋を出て行った」。狂女は茶屋に出入り自由で、彼女のすることを咎めるものは誰もいなかったのだ。当時の文明は「精神障害者」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人々と混りあって生きてゆくことができたのである。
(太字―佐藤)
 
 渡辺京二の「逝きし世の面影」は、幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に渉猟して、当時の西洋人が見た日本の姿を描いたものだ。「狂人」や「気違い」の用語は適切ではないが、要は、江戸時代までの日本において、心身に何らかの障害を持つものがどのように遇されていたかの概要は、ここから推察することが可能だ。
 引用文は少し極端なケースを扱ってはいるが、このような極端な場合でも、当時にあっては社会的に受け容れられ、人々の中に溶け込み、混じりあって共生できたし、共生していたということが分かる。つまり一般的な健常者と障害者との間の閾は限りなく低かったのだ。現代の日本人がかつてほどに寛容であるかどうかは分からない。だが、かつての日本人にとって、障害あるものとの間に「棲み分け」のような考え方は何ら必要とされなかったことは確かだ。そしてそういう寛容さ、受け容れ、共生の心性は、もしかすると当時までで、以後滅んでしまったと考えるべきかも知れない。ここではただ、欧米思考を越える心性の可能性に触れるに留めておく。この先にもしも展望が見いだされれば、熊本の避難生活の中に見られた障害児を持つ家庭の困惑は、何らの対策を講じずに解消されゆくものに思われる。
 
 
「障害」とは何か
              2016/04/28
はじめに
 
 熊本県を中心に起きている地震で避難所生活を余儀なくされている人々がいて、とりわけ心身に障害を持つ子どもや親が周囲の無理解のために大変困っているという記事をネットニュースの中に見た。
 記事の伝えるところでは支援物資をもらうのに長い列に並ばなければならないということで、障害を持った子どもは並んで待つことすらが難しく、親は支援のために働く人たちにそのことを説明するも理解されずに子どもの分をもらえないというようなことらしい。
 この記事を読むまでにそういう状況を考えもしなかったから、その時になって初めて「あ、そうか」と思った。そういうことは「あるよなあ」と思い、忙しく支援活動に没頭する人たちがそのことに気づけなかったということにも合点する思いになった。
 そういう状況が重なったところで支援センター側もやっと了解して対策を考え始めているというから、今後のその状況も改善されて行くに違いないと思う。もちろんできれば最初からそういう事態も考えた支援活動であるべきだとは言えようが、今となってはもう今後の教訓にしてもらうということを切に希望するほか仕方がないことではある。ぼく個人はその記事を読んで初めて気付いたから、支援センターの対応をとやかく言うことはできない。
 おそらく、この問題については今後、支援活動や支援センターのあり方について内外からの論議が尽くされていくことだろうが、それについて少し疑問が残る。ざっくりと言ってしまえば、結局のところこういう問題は社会の「障害者」理解という方向で検討されていくのだと思う。その時に、どうしても「非障害者」、「健常者」、「通常人」というような対立概念が浮上する。こういう対立項の枠組みの中で考えることが、本当にそれでいいのだろうかという疑問が、どうしても消し去りがたく浮かんでくる。
 それは、やはり、必要なのだという気もする。しかし、「障害者問題」と枠組みを拵えた時点で、その問題を考える側は自らを「健常者」の枠組みの中におくことになる。それで果たして本当にいいのだろうか。そういうことでほんとうに「障害者」、あるいは「障害」というそれ自体を理解できるのだろうか。
 
 実はこの4月から学習支援員として特別支援学級を担当するようになっていた。結論から言えば一週間ほど働いてから退職した。この去就のあり方は、自分で考えても普通ではない。普通ではないけれども、自分はそういう去就の取り方をした。これは誰にも理解できないはずである。自分でも理解できない。ただ自分の病理と個性をそこに見るだけだ。 それはそれとして、「特別支援学級」とは、「知的障害」、「情緒障害」、その他もろもろの障害や発達の遅れなどを心身に持つ子どもたちが通う学級を指す。自分が現役の小学校教員であったころは、まだ「特殊学級」と呼んでいて、その呼び名が適切ではないということで「特別支援学級」の名称に変わったと思い込んできた。きちんと調べたわけではないから確かなことは言えないが、名称の変化とともに障害児学級に在籍する児童の数も、それから「障害」と分類される項目数も増えた気がする。この辺の事情は次のような文章を読むとのみ込みやすいので、それを以下に引用してみる。
 
それら、特殊教育で行われていた「知的障害」、「肢体不自由(脳性マヒ、プリオなど)」、「病虚弱」「視聴覚障害(盲・聾)」、「情緒障害(自閉症もこの分野で対応)」などの分野で教育的な対応がなされていました。
 しかし、重度から中軽度な障害が対象であった特殊教育制度では、障害とは言えないまでも、一斉授業に乗れない子どもたちへの対応が課題としてありました。
 その課題に対応するため文部科学省は、従来の障害教育に「LD、ADHD、高機能自閉症(アスペルガーを含む)」が加わる体制を考えました。そして二〇〇七年、特殊教育で行われていた教育分野に「LD、ADHD、高機能自閉症(アスペルガーを含む)」を加えて、「特殊教育」という用語から「特別支援教育」という用語での教育体制に替えたのです。
(玉永公子『「発達障害」の謎』論創社)
 
 自分の思い込みとは少し違っていて、これを読むと特殊教育の枠組みを広くして、従来は通常学級に在籍していた「LD、ADHD、高機能自閉症(アスペルガーを含む)」の児童を抱え込んで「特別支援教育」に替えたということのようだ。
 いずれにしても、少しずつ「障害」そのものを細分化し、それぞれについて適切な配慮が行えるような体制作りが工夫されてきている傾向にあると言える。
 ぼく自身は専任で特殊学級の担任をしたことがなく、関心はあっても障害児教育を深く考え抜いたという経験はない。現役の終わり頃には頻繁に「LD」や「ADHD」の名称がよく耳にされるようになっていたが、その区分の仕方は医療の現場から流れてくるものであり、やがてもっともっと細分化され、名称が増えるとともに対応の仕方も細分化されて行くに違いないと予想された。
 つまり、どう言えばよいだろうか。医学の発達が病気をなくしていくというよりは、結果として新たな病気の発見に結びつく現象をもたらしているように、「障害」の学は、新たな「障害」を生みだしていく、言い方を変えれば「障害」というものを増加させていくもののように見えてくる。
 そういうところでは、病気や障害への確かな処置というものはより精度を増した形で行われていくのではあろうが、これが極端に進めばあらゆる人間は、存在すること自体において何らかの病気や障害を持つ存在だということになってしまうという気がする。
 このあたりから「障害」についての積年の思い、疑問、不可解さが湧出してくるのだが、しばらくはその周辺のところを散策するように考えて行きたいなと思っている。先述したように、すでに学習支援の仕事を辞し、学校にも教育にも子どもにも関知せぬ身になったところだが、予定されていた「特別支援学級」との関わりで考えていたことからは少しずれたところで、しかしこの1年の中で「障害」をいうものを見直してみたい。とりあえず、こんなところから出発してみる。
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 まとめ
              2016/04/07
 
はじめに
 
 子どものいじめ、不登校、ふざけや非行や暴力、傷害等々、またそこからの精神障害、もろもろの精神的な、あるいは心の異変に移行しそうな動き、等々への関心を離れることができない。おそらく自分にもいくらかそういう傾向性が子どものころからあり、現在に至っても克服するべき課題としてずっと対面してきたことだからに違いない。
 これらのことについて、この『源流論』では、原因は何か、どうしたらそういう問題が起こらないようにすることができるのか、何かよい解決方法があるのかと考えてきた。
 ここではひとつの区切りとして、考えてきたところを整理し、まとめておきたいと考えている。
 だがその前に、こうしたことを考察する立場としてひとこと言っておかねばならないことがある。それは何かと言えば、現に子どもの世界に起きているもろもろの出来事は、いま述べたように、自分の生涯にとってけして無縁の出来事ではないということだ。だから自分を部外者のようにしてこれらの問題を考えることはできないし、すべきではないと考えている。これは自分だけではなく、本当は世の全ての大人たちにも言えることだと思う。これらの問題に関しての多くの言説は、自分を部外者のように装って、客観的、傍観者的にのみ言葉を連ねているものが多い。言葉のどこにも当事者意識の含みが感じられない。自分が子どもだった時のこと、自分が今子どもだったらという発想…。それでは外部に存在する知識としての言葉をもてあそんでいるに過ぎず、現にいまその人がその問題を、どのように抱えながら、どのように生きているかを伝える生身の、生きた言葉とは言えない。そんなものはただ我々の頭、子どもの頭を、右から左へと通過していくだけの言葉だ。そんなものは言っても言わなくてもどうでもよいものだ。意味がない。特に正論と思わしきものにその手の言葉が多い。こうしなくちゃいけない、ああしなくちゃいけないというような言葉。そんなものは誰もがとっくに分かりきっていて、それができないところに苦悩というものがある。
 いじめはいけないよ、という言葉。けれども、自分はさもいじめとは縁のない人間であるかのように話すその人も、自分の生涯のどこかでいじめられたりいじめたりの経験はあったはずである。その経験から、いじめの関係構造を断ち切る方法を心得、いまは解放されたと言い切れるのかどうか。もしかして、いまもなお、いじめたりいじめられたりの関係から自由になれずに存在しているのかどうか。胸に手を当てて考えるべきだ。そしてもしも大人になってのいまも、いじめの関係から完全に自由になっていないとすれば、いじめについて、それはそう簡単にいいとか悪いとか言える問題ではないということが分かるはずである。(だいたい、子ども世界内の「いじめ根絶」なんてことを簡単に口にする人たちは、大人社会に中にある大きな「いじめ」を不問にしているか、無関心か、加担しているか、要するに少しも「根絶」しようなんてしていないことで共通している。)
 今、少しだけ、子どもの世界に起きていることがらに関わることを自分の場合について言えば、子どものころから対人関係がうまくいかないなあとか、あまり精神的に健康とは言えないんじゃ無いかなあと考えることは多々あった。また、同級生たちとは仲良くもすれば喧嘩もした。それはしかし現在の子どもの世界のようにある域値を超えることなく、日常生活的には一応、それほど大きな波風を起こさない形で過ぎてこれたといえば言える。それはなぜかというと、偶然的な要素とか環境のせいも大きかったのだと思うが、自分なりに工夫したことで言えば、相手との距離を取る、間を取る、心の向きを変える、閉空間に風穴を開ける、そういうことを意図することで何とか乗り切ってきたような気がする。自分の場合には、そういうところでは他人をあてにするという発想は無かった。5、6年生くらいになると、親にも先生にも友達にも誰にも相談しなかった。相談できるとも思わなかった。ひとり、心の中に対話し続けた。人間とはそういうものなんだよ、というのが現在も自分の結論である。そもそもがそこに原因があるのかも知れないが、とにかく自分の内面だけでもがき苦しんで、一歩間違えるとどうなるか分からない瀬戸際のようなところを歩んできたと思っている。
 現在の子どもの世界においても、この「瀬戸際」を歩く子どもは少なくなく存在すると思う。つまり、自分に起こる問題は自分の問題として抱え込むことである。今日の社会評論家、教育評論家たちはこの点について「抱え込むな」と指導するのが通例になっている。そうして、親や先生たち、周囲にいる大人たちには、それを見切って対処しなさいと言う。しかし、体験的に言えば、その当時、誰にも介入してほしくない気持ちがあった。これはうまく伝えられないが、「神聖にして犯すべからず」という気持ちが今もあり、個体存在はそれがあってこその個体であり、見え透いた嘘の「つながり」はやはり嘘でしかないと思っている。つまり、そこに来ると、「分かるわきゃないよ、他者のことは」という気持ちになる。分かったような錯覚、分かってもらったような錯覚を経験した覚えはある。だがそれは、観念であり幻想である。そうしてその本質は錯覚である。
 けして他者を理解すること、子どもを理解することに努力することを無駄だと言いたいわけではない。また不必要だと言いたいわけではない。しかし、どこかに個体としての尊厳を感じているところがあり、自分と別の個体との間にはそれ以上に踏み込んではいけない領域があるように思えるのである。別の言い方をすれば、個体とは常に生成、変化をともないながら存在するもので、理解できても断定できないものだというものがある。つまり、理解したときにはその個体は常にその先に行っているものだと理解している。
 そう考えると、個人の心的な奥処の問題は当の個人がどうしても自ら考え、たとえどんなふうにであっても自ら解決する以外にないことのように考えられる。また、誰にもそういう能力が備わっているように思われるのである。
 そのように、今の子どもたちも自分の問題を自分の問題として抱え込み、何とか自力解決しようと孤軍奮闘しているだろうところまでは理解できる。そのために危ない綱渡りのような「瀬戸際」にさしかかっているかもしれないと想像することもできる。そして現在、この「瀬戸際」に抗しきれず、踏ん張りきれない形で外的な圧力を受け止め、瓦解するような形で事件の被害者になり加害者になるというように追い込まれることが、多くの子どもを捉えて出てきているのだと思う。
 かつて、友人のひとりが精神病を患って入院したと聞いたとき、「彼は私であり、私は彼である」という以外の考えを持てなかった。それまでに何度も何度も互いの心の内を語り合って、了解し合える間柄だったからだ。その彼が精神病と診断されたならば、自分がそうではないというのは信じられないことだ。また、自分がもし病んでいないとするなら、彼も病んでいるとは言えないのではないかと思えた。いずれにせよ、正常、異常の境界は大変曖昧だし、どちらに転ぶかは紙一重とその時には思われた。
 そういうところから、仮に精神の不幸(と言ってよいかどうか分からない)が誰かに訪れる事態になったとして、最悪、「彼か私」である以外にないのではないかと思う。
 自分では自分の努力や工夫が功を奏したのではないかと思う以外にないが、おそらく、本当はそうではないと思う。思うが、当事者的にはそのようにジタバタしたわけで、ジタバタそのものは誰もが行えることのような気がする。そしてジタバタした揚げ句に「彼か私か」どちらかに近い道を辿ることになるのだろうが、そこから先のことは分からない。ただ言わずもがなの一言をここに付け加えれば、自分の方が彼よりもほんの少し「狡さ」が勝っていたのかと考えていることを言っておきたい。言い替えると、自分の方が図々しさが勝っていたのかもしれないというようにだ。それは結果としてそう考えられるということだ。
 つまり、現在でもなお人ごとでは無いという位相で「子どもの世界の泡立ち」を見ている。そうして原因や理由を考えてきた。
 そこでここではそれを整理して考えてみたいと思う。うまくいくかどうか分からないがやってみる。
 
 
1 子ども世界に変化をもたらした周囲の変化
 
 まず両親がいて子どもが生まれ、育ち、6歳になって小学校に入学するという過程は、明治以降変わらず今日まで続いている。そして戦後のある時期まで、この発育過程がとりたてて問題にされることはなかったことだと言っていい。基本的には以前と同じ経過を辿りながら、どうして今の子どもたちには、かつてない規模の大きさで、前述したような、いじめ、不登校、暴力、傷害などの問題が生じているのか。実はその答えは簡単なことで、考えれば誰にでも容易に想像がつく。
 かつてと今とで発育過程の基本線が変わらないとすれば、逆に変わったことは何かと考えてみる。そうするとすぐにひとつふたつの変化が見いだせる。思いつくままにそれらを列挙してみる。
 ひとつは時代が変わり社会が変化したことだ。このことで生活スタイルが変わり、家族が変わり、親の意識が変わった。
 親の意識、特に女性、母親の意識が変わり、自分のやりたいことや考えることが増えて、子育て期間中も、以前の母親たちのようには子育てに集中できないようになってきた。そのことは、子どもの成長・発達の過程に以前には見られない大きな変化をもたらしたと考えられる。
 さらに、学校や先生も変わった。学校は教養ある市民の育成という牧歌を離れ、受験戦争という形で子どもたちに成績の競争を強いるものに変わってきた。またそういう変化にともなって、勉強や社会規範、道徳的規範を教えることも、以前先生たちが自分なりの教え方をしてすんでいたものが、子どもがきちんと習得しないのは先生の教え方が悪いのだと言われるようになり、過度に責任を感じなければならないように変わってきた。
 一方で、最近の先生は夏休みにも子どものいない学校で仕事をするようになった。それは子ども中心の寄り添う教育ではなくなったことを意味し、先生の仕事が、教育制度の維持や、文科省とか教育委員会への忠誠を誓う働き方に変化してきたことを物語っている。これは親たちの意識の変化と同じように、先生たちの意識の半分にしか子どもが住まわないようになったことを意味する。その分を制度維持のための仕事に割り振ったと言うことだ。
 以上、大ざっぱに、そして簡略に子どもの周囲の変化について考えてきたが、これらのことが大本になって子どもの現在を構成するようになったと一応は言ってみることができると思っている。
 
 
2 子どもの成長と発達
 
 以前の考察からも分かる通り、子どもの胎児期と乳児期は人間の個体にとって決定的といいほどの重要な意味を持っている。エリクソンとかトマス・バーニーらは、その時期に主として母親との関係から人間一般、あるいは人間社会への基本的信頼や不信が個体の無意識に刻印され、それは生涯に渡ってその個体の受容と表出のパターンを反復させる最初の刻印になるとしている。言い換えれば、胎乳児にとって全世界である時期の母親との接触の過程で母親への不信が強固に形成されると、以後の他者との出会いには全て母親との関係が二重映しによみがえり、したがって対他の関係はいつも不信から始まることが基本になってしまうということだ。単純に言えば育児の失敗と見なされるそれは、昔にもあることで、生育過程は外からは容易にうかがい知ることはできないけれども、後々社会に出てごく普通の生き方とは思えない生き方をしているように見える場合、たいていはそのことが起因となっていると言っていい。
 では、胎乳児に基本的信頼を植え付けるには母親はどうすればよいかというと、理想的な接触の仕方としてはごくわずかの対処の仕方が数えられるだけだ。一言でいうとすれば、中断なく心的にまた行動的に、絶えず胎児や赤ちゃんに愛情と関心のまなざしとを降り注ぎ、あるいは世話をやき、内的な(言葉以前のところで)コミュニケーションを樹立し、形成していくことである。
 だが、これがおよそ100パーセントに近いところで成立し得るかどうか、たぶんできないことは日常生活を考えると誰にでもすぐ分かる。たとえば授乳しているときに電話のベルが鳴ると、授乳を中断して受話器を取ることになる。この時乳児は自分の欲求を阻まれたことで一時的な不信を覚える。だが、こんな程度では一過的で、心的に不信が形成されるまでには至らない。本当に不信が形成されるのは持続的、継続的に母親の心が胎乳児に向かわずに、胎乳児の生理的な欲求に無関心であったり、世話をやくことが疎かになった場合だ。
 このように、さすがに完璧に100パーセントの育児というのはあり得ないことだが、逆に、継続的に胎乳児の欲求に母親が拒否的に接することも滅多なことではあり得ないことと思われるから、かなりよく出来た場合には75%から80%くらいの育児は実際に可能な範囲と思われる。
 これはしかし現在社会では以前に見てきた通り、女性にやりたいことが増えたり、あるいは女性の思考が子どもを産み育てること以外にも多様化してきたために、母親が胎乳児に十分な愛情とまなざしを降り注ぐことを難しくさせ、実際は50%前後を境界としてちょっと上か下かになっていると思う。つまり、母親の関心が子ども以外のことにも多様化して、その分、子どもに向ける意識の部分が疎かになってきている。中でも一番の障害は、核家族化したために、場合によっては育児の責任を母親が一身に背負わねばならない状況ができたこと。それによって育児は難しいこと、面倒なこと、もっと誇張して言えば子どもなんて足手まといだ、と母親たちに感じさせ考えさせるような状況が生まれてきたことだ。それが証拠に「少子化」「晩婚化」「虐待」といった現象が生まれ、現在深刻に論議されるようになってきた。もちろん、望んだ結婚、妊娠ではないために胎乳児に嫌悪感しか感じないで子育てしたことや、夫や姑との関係の悪化からそのことに心をとらわれて、とても子どもに愛情を注ぐどころではないといった状況は昔にもあったことだ。ただ相対的に見たときに、現在の育児の状況の方が胎乳児にとって、以前よりはよくなっている面と、逆に以前より悪くなっている場合とに両極端化しているように見える。しかし、概して、生活水準から見た大部分の中間層から下層にかけては、育児的に「手抜き」されてしまう状況が拡大されてきているように思われる。それは主に母親の思考や活動が外に広がってきているためで、それに伴って育児以外にいろいろなことを考えたり、活動したりするようになってきたためだ。母親(女性)にとっては自由の範囲が広がったことでよいこととも言えるが、胎乳児にとっては受難の時代を迎えたということになるのかも知れない。
 乳児期から幼児期への移行の過程で、もう一つの大きな出来事は「言葉の獲得」である。これは思考と一体のもので、この時期から、想像するとか空想するとか、あるいは判断するというようなことが言葉と込みになって出来るようになってくる。言ってみれば何か心的に世界が広がる端緒の時期で、これに続く幼児期は爆発的な語彙の拡張と、思考を含めた心的な拡張がともに行われる時期と言うことができる。立ったり歩いたりの身体の成長・発達もあって、少しずつ、心身ともに両親の庇護の範囲から外部世界に歩を進めていくようになる。
 幼児期は言葉の獲得と形成によって、胎乳児期における母親との内コミュニケーションから、いわゆる他者一般とのコミュニケーションを可能とする手段を身に付けたことを意味するが、この時期における言語遊び的なことも含めた活動は、成人後における社会的なコミュニケーションの基礎を形づくる。
 またこの時期の遊びは、以前は「ままごと」と呼ばれる台所の仕事や食事などのまねをする遊びに見られたように、大人になったときの家族的な生活や社会的生活の中でどう振る舞うか、あるいは職業的対処の仕方というものを遊びの中に展開し、それは成人以後における生活の予行演習の意味合いを持っている。これは鬼ごっこやかくれんぼなども同じで、幼児の生活は、生活事態が学びとも遊びとも区別のつかない形で進行する。
 幼児がよく大人の言動を見聞きしそれを真似することは、そうすること自体によって脳裏に記憶され、大人になってからの生活のある局面でよみがえり、かつての両親と同じような対応の仕方をしたりする。そのように、大人になってからの全ての言動の隠れた支柱でありうるし、よくよく考えると実際に支柱になり指針になっている場合が多い。
 学校がなかったころは、生活そのものが遊びであったこの時期はおよそ10歳くらいのところまで地続きにあった。あるいは丁稚奉公といった見習い時期までを真似事、遊びの延長と捉えれば、その年令区分はもう少し後方に伸びて15歳くらいまで考えられる。つまりほんとは幼児期から思春期までの発達区分は大変曖昧で、児童期と言われる区分は学校抜いて考えると架空のものになってしまう。また学習という概念も消失する。児童期という区分はだから、学校があることを前提として成り立つ、近代以降に考えられたものだ。
 いずれにせよこの時期までの遊びは、極論すれば人間生活全般の学びと、その学びに準じた未来の生活の予行演習的な要素を強く持っている。人との付き合い、恋愛から夫婦生活など、それらの基礎はほとんどこの時期の生活、すなわち遊びの中で学び、習得したことが反映して成り立つと言っても過言ではない。これは学校の勉強とは異質の学びである。
 もう一つ、幼児期から児童期について言っておきたいことは、徐々に時間、空間の深まり、広がりを体験していく過程だということである。空間の広がりの方が分かりやすいが、家族空間から地域社会の空間に行動範囲が拡大していく。これは同時に心的な空間の拡張にもなっていく。言い換えると大人に近づくように、自立して社会生活ができるように成長・発達していくということだが、児童期では乳児期、幼児期を経て培ってきた言語活動に典型的なように、身に付けた一切を外部に向かって発現していく時期にあたっている。特に児童期で注目すべきは、乳幼児期を通して体験した母親及び家族内の対幻想をもとに、性の意識も先の事柄などと一緒くたに前面に押し出されてくる時期だと言っていい。ここで、性的な意識は押し隠すべきだというのは身勝手な大人の論理で、実は自分もその時期には無意識にそれを発現していたわけで、ただ忘れていたり忘れたふりをしようとしているに過ぎない。生き物の特性とか根本を考えれば「食と性」との二大特質にある。大人よりも生き物の自然に強く規定される子どもは、より純粋に性的な意識に従順であり、これが前面に現れ出てくることは本来的に言えば当然のことである。ただし、このことの出現は思春期以降の性的な意識、振る舞いとは別に、子どもらしさをともない、遊びたい欲求、騒ぎたい欲求、暴れたい欲求、凶暴になりたい欲求、ふざけたい欲求、笑いたい欲求等々の形をとって発現してくるものである。つまり、それらの欲求の根源には、生命的と言っていい強烈な性衝動が、生命衝動として貼り付いている。言い換えればこれらの欲求は、リビドーに突き動かされて表出されて来るものだと考えることが妥当であると思える。
 
 
2 聳え立つ「学校」
 
 幼児期を過ぎて、行動がさらに家庭の外側に向かって拡大していくものであることは先に見てきた通りである。その時期は、自然な成長・発達の過程として性的な発現をともなうものであることも見てきた。そしてこの時期の性的発現は、フロイトの言う生命衝動に不可分で、別の言い方をすれば生きる意欲の発現そのものに他ならない。
 この時期、現在の子どもたちはほんの2、3世紀前に発明され、設計された学校制度というものにであう。そしてその時、どういう理由にせよ、成長・発達の途次にある人間の個体としての子どもたちと学校との関係は、性的発現を外に向かって拡大、放射していこうとする子どもたちと、それを抑圧して知識や技能や社会的な規律を身に付けさせようとする学校とが対立した関係にあると言える。
 これが対立であるということは、本来なら人間の子どもの「自然」な成長・発達としては、何の外的な制約も受けずに自己を外界にあるがままの姿で、言い換えれば自由に発現させたい欲求を持つということである。これに対し、現在の社会の共同意志は、これを抑圧し、代わりに学校制度を設けて歴史的に蓄積されてきた知識、技能、社会規範を埋め込もうと働きかけている。
 もちろん、おそらく学校がなかった時代においてもこの時期の子どもの性的な発現が、のべつ幕なしに自由奔放であり得たわけではないと思われる。家族的な制約、地域社会的な制約の働きかけはあったはずである。社会生活という概念には、人間の自然性を抑圧しなければ成り立たないという考えが含まれているはずだからだ。その意味では昔も今も、子どもが成長・発達する過程において生命本能の荒々しい顕現欲とその制止との対立は続いてきている。
 現在、対立の場としての学校において、どうして様々な問題が浮上してきているのかということについては複合した難しさがあるが、基本形はここの対立の図式にあると言っていい。生命衝動(性衝動)を内在させた、ふざけたい、遊びたい、騒ぎたいという欲求がこの時期の子どもには本来的に表れでてくるものであり、学校は学習や規範の習得の形でこれを抑圧するからだ。抑圧した上で、静かにしていなさい、席に座っていなさい、勉強が一番大事だから勉強しなさい、勉強に集中しなさいなどと、子どもの欲求とまるで相反することを押しつけている。ここに、いじめ、不登校、暴力などの問題を引き起こす基本的、本質的な原因がある。逆に言えばこの抑圧と対立の関係を無くせば、それらの問題が解消されたり緩和されるのは間違いないことだ。 ではそうしたらいい、というのは簡単なことだが、見てきたとおり人間社会の歴史はそうした人間の自然性の部分、本能的な部分を制約する方向で進んできている。そしてそうである限り、そこには重要である何かが存在していると考えることが妥当であると思える。
 性的な意識、振る舞い、そうしたものの自由な発現を弾圧し、抑圧し、逆に蓄積してきた知識、技術、社会規範などをこの時期にぎゅうぎゅうに個に注入するというのは本当に必要なことなのか、重要なことであるのか、社会的にはっきりと論議が尽くされているようには思えない。肯定派と否定派とがともに存在するが、はっきりと決着はついていないように思える。その中途半端さが現在を現在のままに継続させている。その対立の源流には、私見ではヘーゲルがいてルソーがいる。ルソーを自然派と捉えれば、ヘーゲルは反自然派である。明瞭な理性を人間的な本質と考えるヘーゲルと、自然な心性、心性の自然を人間的な本質と考えるルソーとの対立。こういうところの次元で考えると、そう簡単に判断はできないし、してはいけないという気もする。どちらの方が好みかと言われればルソーの方を挙げたいが、本能の方を弾圧抑圧して無理矢理勉強させ、また規範的に自律する人間に育てることが本当に必要ないことなのか、あるいは本当によくないことなのか、我々にはまだよく分かられていない。この逆に、自然的な粗暴な振る舞いは全てダメなんだ、だからそういう本能的な部分は全て押さえ込んで弾圧し、消滅させてしまう方がいいんだということにも納得することができない。
 しかし、ここまで考えてくれば子どもの自然な成長・発達の過程と、学校教育が意図するところとの「のっぴきならない」対立の関係が、鮮明に理解できてきたと思える。そうして、このきつい対立の図式から浮上してくる重要な問題、つまり、いじめ、不登校、自殺、暴行、傷害などのもろもろがどの子どもの身にも降りかかり得る可能性を持つことも理解されるはずである。学校は大きな壁として子どもたちの前に聳え立ち、その出口の門は、あるがままの子どもの姿の前ではきつく閉じられてしまう。勉強し、規範を身に付け、大人社会に順応する姿形に変身してみせるのでなければ門は開いてはくれない。
 
 
3 学校と家庭と子ども
 
 学校に通う全ての子どもたちは学校生活を起点として、いじめ、不登校、あるいはいたずらから暴力などのあらゆる騒ぎを引き起こす当事者の可能性を持って存在する。考えてきたとおり、それはもう善悪や道徳、倫理を越えた欲求と抑圧の対立の次元から生じてくる問題であり、ある意味ではそれは当然のこと、当たり前のこと、あるいは逆にない方がおかしいくらいの問題と言えるものだ。遙かな昔から、個人と社会にはそういう逆立した関係が存在するのだ。
 日々の学校生活においては、だから大小様々な問題が煩わしさを感じさせるほどに生起しているということができる。そこには放っておいてよいこともあれば、放っておけないようなことも起きている。そして実際のところ、何をどのように問題として受け止めるかは先生たち個々によって違っている。
 ここで述べておきたいことは、ある意味で昔から存続する学校の日常があり、そもそもがその実態は泡立つ世界と言っていいのだが、そういう全体の世界の中で特別に騒ぎの中に突出していく子ども、逆に普段からひどくおどおどした様子を見せ、消極的である子どもの存在である。言ってみたいことはつまり、それが少し度を超していると見える場合があるということである。これは欲求と抑圧の対立の図式から言えば、その関係図式からもろに♂e響を受ける子どもたちであると考えることができる。もう少し言えば、そういう子どもたちは日常的に泡立つ世界の中で凡庸であることができない。またいい加減にやり過ごしたり受け流したり、ある意味では多くの子どもが身に付けている耐性が身についていない子どもたちである。こういう子どもたちは学級という枠の中で、平凡であり標準的であるという意味合いからは突出してしまう存在である。悪く言えば脱落してしまうということができる。
 これが本格的にそうだと言える場合は、いじめたりいじめられたりする当事者となり、不登校の当事者となり、騒ぎや暴力の当事者となる。そしてここで大事なことは、全体から突出してしまう、脱落してしまう子どもたちは、まず間違いなく胎乳児期における母親との接触の失敗、関係の失敗、「基本的信頼対不信」のところで「不信」を植え付けられてしまった子どもたちであるということができる。これはまず間違いなくそう言えることで、根底に「不信」が形成されていると正常な枠組みが心的につくられないために、ある現象に対する反応が正常さの範囲を逸脱しがちになる。だからある大きな障壁にぶつかったときに、その反応は正常な枠組みを超えたウルトラな反応として表面化することになる。
 これが母親が胎乳児期に経済的、精神的に恵まれた環境に守られ、あるいは健康的で心の底から手塩にかけて愛情を注ぎ世話することができていたら、胎乳児の心の枠組みに「基本的信頼」がおかれ、以後のどんな障壁にもその枠組みを逸脱して反応することはあり得ないと考えられる。
 このように考えるところからいえば、現在のように子どもたちが引き起こす様々な諸問題は起こるべくして起きていることで、こういう問題が起きたときには手遅れだよ、しょうがないよというほかはない。すでに学校が、先生たちが、どんなにがんばってもどうしようもないよということになる。つまりそこに責任はないんじゃないかと思える。
 もう一度おさらいして問題の根幹を尋ねれば、女性や母親が西欧的、欧米的に知的(生活上の知恵が豊かになったこととは違う)になったり、活動的になってきたために、従来からの日本的な育児にある意味からすれば身を入れて応対することに難しさが生じている。そのことで、胎乳児からすれば母親に対する基本的信頼を形成しにくくなってきたという状況がある。
 もちろん、このことを持って女性や母親に「子育て」に専念しろということはできない。けれども、現在のように子ども世界の出来事が社会問題化する状況下で先行きを心配するなら、そこのところでちょっとがんばってみたらということはできそうに思える。また社会的にこの問題を深刻に受け止めていることから、社会に向かってもいま述べてきたところを中枢として、子育て支援を社会的に論議し、考えていくべき時期ではないかと申し添えておきたい気がする。こういう論議なしに、「子どもがいなくなると国がなくなるから、女性は子どもを2人以上産むことが大事だ」などという荒っぽい考えを、中学の校長や大学教授が言っているようでは問題は何一つ変わっていかない。
 ただ、時代の大きな変化の流れの中で、個々の家族、夫婦、親子がその変化に対して生活防衛的にどう対処したらいいかということであれば、結局先の結論めいたところに帰結すると思う。それが安全策であり自己防衛できる範囲である。あるいは自分たちの手と力でできる唯一のことだと言えそうに思える。そこの部分、つまり胎乳児期の子育てに関わる部分をうまく通過することができれば、外界に多少荒波が立つ場面に遭遇するとしても、子どもは大過なく通過していき、その時代の標準的な生き方の枠組みに収まって生きていくことができる。そしてそこで親として、多くは望まずに、そういうありふれた平凡な生き方ができたらそれが何よりのことだと言えれば大したものだと思える。子どもはそうやって大人になっていくしかないのである。
 
 
4 子どもの世界
 
 自分たちが子どものころ、大人たちは現在のように子どもの世界に関心を持っていなかったような気がする。全然無関心だったということではないが、何と言ったらいいか、子どもの生活や遊びに余計な口出しをしなかった。
 たとえば学校生活でも、当時の先生たちは授業を終えるとさっさと職員室に戻ってしまい、次の授業まで校庭や教室に姿を見せなかった。子どもからすると、それは監視の目がないことになるから、遠慮せずに校庭でも教室でも自分たちのルールで思う存分遊んだり暴れたりできた。いたずらが過ぎて窓ガラスを割ったりするとゴツンとやられたが、喧嘩で泣いたり泣かしたりというようなことにまでは介入しなかったと思う。
 先に述べたこととの関連で言えば、おしりを逆さまにするくらいの勢いで遊んだり、ふざけたり暴れたりしたい時期に、それを抑え込んでじっと席について勉強することを課されるわけだから、子どもからすれば「休み時間」は抑圧や緊張から開放されたいし、それこそ全力で遊ぶ楽しい時間にしたいわけだ。たてまえ的には「休み時間」は遊ぶ時間ではなく、トイレに行ったり次の授業の準備の時間と指導されてはいたのだが、汗だくになって教室に戻るのを咎められたというような覚えはない。当時の先生たちは自分たちの体験からもそういうことがよく分かっていて、分かった上でそういうような意図的な「ほったらかし」をしていたのではないかなあと思う。これは先生たちばかりではなく、当時の親たちや周囲の大人たちにおいても同じことが言える気がする。「気配り」半分、「ほったらかし」半分が子ども世界に注ぐまなざしだった。
 親も先生もあるいは他の大人たちも目の届かない「子どもの世界」が当時は確かにあって、そこには子どもたち個々に、知られたくない不安もあれば悩みや秘密もあった。その時に、親を含めて大人たちが、大人と子どもの垣根を取り払って身近にいて相談に乗ってくれる方がよかったかどうかは一概に言うことはできないが、個人的には自分の内面を覗かれることに抵抗があったから、不介入が逆に一種の救いであるといった面があった。これについても何となくだが、「目が届かない」のではなくて、「見ぬふり」をしてくれていたのではないかと今になれば思う。
 ここからさらに言うと、当時は子どもは子どもで大人世界に口出ししてはならないという暗黙のルールがあった。子どもは大人の世界に口出しせず、逆に大人も子どもの世界にあまり口出ししない、そういう相互関係が自然に成り立っていたという気がする。
 当時大人が子ども世界にあまり介入しないということは、ようするに「教えない」というあり方だったように思える。これには「教えない」ようにして「教える」という側面と、安易に「教える」ことのできないある種の「難しさ」を熟知している、という側面の2つがあっかも知れない。そこから言えば、体験を通して自ら学べという姿勢がそこに貫かれていた。
 冒頭近くで、子ども世界の住人としてそこに暮らしていたとき誰にも言えない内面の葛藤や悩み、思いを抱えていたと述べた。大変きつかったけれども、相談者がいないときに何をするかというと、おそらくは果てしない「自問自答」の繰り返しである。教えてもらえないというときには、「自問自答」によって自らの解を切り開いていくほかはない。もちろんどんなに「自問自答」を繰り返してもその時点で解が見つかるわけはない。だが、「自問自答」の習慣だけは覚える。そしてそのことの繰り返しに耐える仕方も学んでいく。そう考えてみると、以前の教育も子育ても、人間性ということに関しては子どもたちが自ら学び取ることを固く信じ、学び取るまでをじっと待ち、またそれぞれに学び取ったことに対して問わない、あるいは規定しない、規制を加えない、そういう寛容さも併せ持っていたと思える。これは主観で言うのだが、当時の大人たちはけして子どもたちを知的に劣っているとか未熟であるという見方で見るばかりではなく、大人と同じく「心を動かす」人として、どこかで尊重してくれているところがあったように感じる。そして、そういう自他の「心」をとても大切に、大事に扱っていたという気がする。だから生半のことを「教える」よりは、「教えない」ことで子どもたちに伝わる伝わり方に意を尽くしていたのではないかと思う。
 道徳をしっかり教えろ、しっかり教育しろ、などの言葉に表れているように、現在の大人たちは、そして先生も親も、言葉で子どもが理解できると思い込んでいる。話せば分かると思い、また子どものことなんてすっかりお見通しだと思い込んでいるようにも見える。だがおそらくそれは誤解であり錯覚である。
これは心の動きよりも頭の働きを優先的に考える大人の癖で、人間理解、子ども理解が救いようがないほどに退化しているのだ。もちろんそれらの言葉を真に受けて成長する子どもたちもまた、自ずから退化の道を歩むだろうことは疑えない。そして真に受けない子どもたちにこそ、未来の希望が託せることも言うまでもないことである。これはここまでの考察から当然帰結する考えで、文科省、学者、専門家のする文言を何ら批判的に検討することもなく、疑念も持たぬ人々には、到底受け入れがたい、また理解しがたいことであろう。そのことは仕方がないとしても、分かった風をして「子ども世界」に土足で介入していくことだけは厳に謹んでもらいたいと願うばかりである。
 
 
5 学校の理想
 
 学校がなければ過去から現在に至る知の蓄積、技術の蓄積を学ぶ機会は、ほかにちょっと考えがつかない。子どもも含めて人間は、ほんとのところを言えば強制的な働きかけがないところではなまけて勉強などするはずがないと思える。少なく見積もっても7、8割方はそうではないかと思う。現在の段階ではそうなってもよいという風には結論することはできない。そうなると、現在的な教育体制を一掃するというような議論は幾分乱暴で、また現実味もないように思える。
 そこでとりあえず緊急避難的に社会問題化した部分の解消という点だけを考えれば、とりあえず漠然とだがいくつかの考えが浮上してくる。思いつくところを述べながら少しずつ整理してみたいと思う。
 まず一義的に考えなければならないことは、小学生という子どもの時期が、大ざっぱに言えば生きる意欲と同義の性の発現を本質とする時期にあたるということを踏まえなければならない。つまりそれは生命意欲として、騒ぎたい、暴れたい、ふざけたい、笑いたい、などという欲求として外に現れ出てくるものだということで、このことを念頭に置くことが大前提だ。そう考えたときに、学校の教育活動全般は子どものこの生きる意欲としての性の発現を弾圧し、抑圧するというように対立した構図となっている。これは当然以前からそういう関係であったわけだが、今日の大部分の子どもたちにとってはこれが大きな障壁であり、また大変にきついと感じられる対立になっていて、ここから様々な「泡立ち」が生じているということになっている。
 以前からの対立の関係をことさら「きつい」と感受するのは、ひとつは子どもたちの育ってくる過程にその根源を求めることができる。つまり先にも見てきたように、胎乳児期における母親との関係が昔とは違ってきていると考えられることだ。そしてそれは、現代の女性が以前に比べてとても活発になってきた、生き生きと生きるようになってきた、その結果、子どもを産み育てるというこれまでの女性の特権と見られたものに対して、逆にそれが制約のように感じられてきたことによる。つまり、どうも無意識のところで結婚や育児が手枷足枷のように感じられてきているところがあるように思える。そうした女性たちの無意識が、「少子化」「晩婚化」「未婚化」の形を取って表れてきている。もちろん、男性たちにとってもなおのことで、全体として、結婚をし、子どもを作り育てることに対して自信が持てず、尻込みする傾向見せてきている。そうした女性、男性、母親、父親の心の定まらなさは育児にも反映し、子どもの無意識の核に「信頼」を形成することを難しくしている。
 このようにして育ってきた子どもが、先に述べたような学校との対立の図式に直面したときに、その対立が大変「きつい」ものに感じられてしまう。
 現在の学校活動全体の様子を見ていると、この対立の深刻化の潜在に対して、教育的指導という側面からさらなる抑圧をもって解決していこうという傾向を見せているように思われる。これはうまくない比喩だが、ブレーキペダルの遊びを無くしていくようなもので、子どもたちにとっては日々の学校生活がとても窮屈な閉塞したものにますます傾斜していくと感じられるに違いないと思う。
 子どもの欲求と教育の意図とが絶対的な矛盾と対立を強めていくわけだから、誰がどう考えたって一触即発だということは分かるはずだ。
 この煮詰まった状況を打開するのは実は簡単なことで、比喩的に言えば風穴を開けることだ。窓を開けることだ。ノーサイドを設けることで、もう少し具体的に言えば教育的意図をいったん白紙にしてしまうことだ。意図的に小休止状態をつくることである。もっと言えば担任の先生が、一時的に先生という衣を脱ぎ捨てればいいというだけの話だ。
 教育的指導をいったん放棄するということ。そうして、子どもの遊びたい、笑いたい、ふざけたい、走り回りたい欲求を叶えてやるということ。解放してやるということである。これをやれば、おそらく一時的には子どもたちの欲求も沈静化し、勉強が嫌いだという子どもも何とかそれなりに取り組むはずである。 ここで、勉強嫌いについてひとこと付け加えれば、おそらくそれも言葉を持たないときの、つまり胎乳児期における母親との内コミュニケーションのあり方が反映していることだと思える。母親からの胎乳児への無意識の発信が、胎乳児にとって受け入れがたいものだったのだ。それが断続的に続いたのだと思う。もちろんそのことばかりとは言えないことだが、主要な要素であることは間違いないと思える。これを一元的に脳機能のせいにして考える傾向があるが、それは間違いで、脳機能の形成の背景にそういうことがあると思える。いずれにしても、これはもう教え方がどうのこうのではなく、嫌という程愛情をふり注いで新たなコミュニケーションを確立していく以外に勉強嫌いを是正する方法はない。経験上、それができる先生は数少ないと思われるが、理屈上はそういうことだと思う。
 さらについでに言えば、学校全体として子どもの欲求と教育意図との対立を緩和する余地はもう少しあるように思える。これは実現の可能性はきわめて低いと考えられるが、基本的に子どもたちの欲求は性の発現、つまり具体的には遊びたい、ふざけたい、騒ぎたいところにあるわけだから、全体的に「指導」色を弱めればいいと思うのだ。何と言っても現在的には、育児の段階で子どもたちは昔のように安定した育ち方ができていないという傾向にある。これは先に考えてきたとおりで、どんなに学校から家庭にお便りを頻繁に出したところで是正できる問題ではない。もっと社会的な論議、取り組みを進めない限りどうこうできることではなく、となれば、学校側が対立の緩和を図った体制を取る以外に緊急の対策はないと思える。そうでなければ、先に見たように担任の先生たちの負担はいつまでも継続していくことになる。そこにはいつも、いじめ、不登校、暴力などの発生の契機が潜在してしまう。
 知識、技能の植え込み、道徳規範の植え込みを果たしながら、同時に子どもたちの欲求の解消を図るには、現在進めようとしている指導の徹底を5年生からに先送りして考えることが一番いいことだと思える。逆に1年生から4年生までは、指導しないようにして指導するようにするのである。ほんとは全く指導しないで遊ばせるというのが理想だが、そうも行かないだろうから少しはやるということにすればいい。
 こう考える根拠は系統発生論の考えからのもので、歴史的に見て、文字文化の成立と子どもの発達過程からおよそ10歳以降に学習の始まりを想定できると考えるからである。生まれ月に関係なく、全員が10歳以降で出発する小学5年生がこれに該当する。なぜ10歳以降に対応付けできるかの詳細は以前の記述を参照してもらえばいいが、とりあえず4年生までは遊びを主体に、遊びを通して学ぶ事柄を尊重するということになる。こうなれば性的な発現の部分はかなりの程度に解消されることになると思う。そうしたら5年生からは、相当に知識、技能の詰め込みをしてもその許容量は確保されるものだという気がする。そうして、かえってそうすることが学習的に見ても効果的なはずである。
 ここで、果たして5年生から本格的に学習を始めたとして、文字の読み書きから単純な加減計算を経て現行の5年生の学習まで、一年で習得することが可能かという疑念が誰しも生じると思う。もちろん、その疑念に明瞭な回答を今の時点ではできない。だが、意外に可能ではないかなと思っている。やり方さえ間違えなければ可能なはずである。
 
 
6 子どもの変容
 
 昨年度、学習支援員として主に4年生教室に出入りしていた。そのうち複数名は3年生の時から知っていて、児童館で宿題を見るという関係だった。
 その中のひとりについて言えば、遊びは活発にする子どもだが勉強では九九もほとんどできず、宿題も友達と相談して答えていたり盗み見して答えて平気な子だった。
 4年生の算数の授業の時も同じで、顔を見合わせればとにかく答えを教えてと言う。考え方を教えようとすると面倒くさがり、すぐ答えを教えてくれないと嫌だとダダをこねる。そのへんは低学年児童のようで手がつけられない。ほかにも机から落ちたものを拾ってくれとか、こちら側からすればさんざんな子どもだった。こうなるとこちらも相手が孫だったらこうなるのかなあと想像して対応するほかなく、腹の中に気に入られるようにという気持ちも含みつつ、我が儘に応えていった。以前に現役であったときにはそこまでしたことはなかったし、だから担任の先生の迷惑にならない程度を考えながらそうしていた。
 そういうことが2学期くらいまで続いていたと記憶するが、3学期頃からどういう理由か分からないがヒントを与えたり、答えを教えたときの反応が違ってきていた。「あ、そうか」と、まるで理解していないときとは異なる反応をするようになり、宿題プリントもクラスの中で高位になる正解度を出し続けるようになった。何よりもプリントでは、自分で考えた証である計算メモがいっぱい書き込まれるようになっていった。中には九九の段をいくつか書き込んで答えを見つけていった痕があって、ついほほえましく感じたことを思い出す。聞けば、家のあちこちに九九表を貼って暗記し始めたのだという。
 こういう変容がどうして起こったかはよく分からない。年令から来る自覚なのか、家庭の協力や努力によるものか、あるいは担任の先生のマジックなのかはよく分からないことだ。支援のこちらはどんな相手にも同じで、ただ要求があればそれに応えることだけを旨としていた。ただ屈託のないあからさまな要求はその子からのものが一番多かった。多くて、内心「全く」と思いながら、しかし丁寧に対応し続けた。
 別の子どもだがこんなことがあった。やはり算数の宿題プリントに「分かりません、教えてください」のメモ書きがあった。これには丁寧に、答えから式から考え方から問題の捉え方に至るまでプリントいっぱいに赤書きした。それはちょっと書く方も大変だったけれども、そうすることによって暗黙に、『ひとというものは頼まれたり要求されたときには、精一杯それに答えようとするものなんだよ』ということを伝えておきたかったのだ。もちろんそんなことは伝わらないことを前提にしながら書いたわけだが、それ以後、ちょくちょく「分からない、教えて」のメモが増えて、それと同時に先の子どもにも見られた考えの痕跡、計算の痕跡がプリントに見られるようになった。そしてほんの少しだが、正答率が増す傾向が見え始めた。
 こちらの子どもも4年生なのに九九が不安で漢字が書けない。授業中はお客様状態で、問題に答えるときは隣の席を盗み見していることをよく見かけた。こういうことはもう注意しても意味がない。注意で直るんだったら最初からそんなことはしない。言い方は悪いかも知れないが、これくらいの年令になるともう、そうした意味では手遅れなのだ。これは1年生に入学したときからそうで、もっといえば1、2歳くらいまでに決定してしまう。
 こういう子どもたちが本当に多くなった。クラスの三分の一から半分くらいは、本当に一定期間でいいからひとり一人密着して支援したいくらいだ。そういうように思わせる子どもたちが多い。ただし密着して支援するにしても、それははじめに時間をかけて、信頼関係を築いた後でなければ意味がないから大変なことだ。たぶん体が2たつ3つあっても足りない。
 現場を見て考えると、いろいろな問題が噴出していることが分かる。しかもそれぞれが重層して絡まり合っている。だからもう手の施しようがない、というのではない。人間という生き物はいつでも、どこからでも、現在の自分を越えていこうとすることができるし、越えていくことができる生き物である。越えようとすることはいつからでも始められる。そのきっかけが見つかったり、与えられればいいだけのことだ。
 もともと、子どもたちが騒がしくて勉強をしたがらないというのは昔からのことだ。そういう意味からは、今の子どもたちも紆余曲折を経ながら社会の一員に成長し、我々と同じように生活していくだろうことは間違いなくそうだと言えると思う。だったらそれでいいじゃないか、抑圧を弱めて、強く勉強をさせる必要はないじゃないか、と思う。またいろんなことを無理に教えようとする必要はないじゃないか、と思う。
 それでもなお、やはり教育は大切で、ひとり一人の子どもを救済しつつ育成しようとするならば、母親が胎乳児期の育児のあり方を見直さなければならないように、学校もまた指導のあり方を見直すべきだと思う。
 わずかの光明に過ぎないが先の子どもの例に見たように、子どもは変容する。変容の可能性を秘めている。確かにそのひとつのリトマス紙は、学習にも見ることができる。学習にまつわるひとの話を聞くことができるかどうかがそのリトマス紙になる。話が聞けてそれを受け入れることができるようになるためには、「信頼」が必要になる。「信頼」がないところでどんなにためになることを話しても無駄だ。そして小学生段階では子どもの心を開き、そこに「信頼」の種を植え込むには、おそらくは太陽がひたすら光を放ち続けるに似た、一方的な「献身」の姿勢が必要になる。それがなぜ一方的でなければならないかは、その効果が計算できないからだし、計算してはいけないことだと思うからだ。
 たぶん、こんな泥臭い考えは現在の教育事情では受け入れられない考え方だと思われる。今日では子どもの意欲を引き出すあの手この手の教育技法の方面に関心が向き、完璧な授業を演出する指導者の特集を組んだテレビ画面を見たこともある。
 けれどもそこには本来的には指導者と被指導者との従属関係、あるいは依存と依存される側の固定した相互関係の構造しか見当たらない。いわば知の側面だけが前面に出て、この時期の子どもたちに必要な、指導者の人格や人間性に触れてそれを判断する力を養う契機を見失わせる。それは自己形成という過程で、表向きと本音とを二重に形成する人格を生み出すことに繋がる。相変わらずのそんなことではつまらないことではないか。できれば本音と建て前が統一した子どもに育てる方がよい。そのためには先生が、本音の部分を隠さずに子どもに接し、自分の性格や人格をあけすけにすることだ。子どもから見えやすくすればいい。これはどうしても人間には自分をよく見せたい気持ちがあるから、言う葉易く行い難しというところがある。ちょっとした勇気を有する。けれどもやろうとすればできないことではない。そういうところは高校や大学の受験のための勉強どころではない、生涯に関係する本来的な教育の肝心要なのだから、とても重要な事柄だ。
 ここでは最後になるが、ここまで述べてきたことの少し次元の異なる受験の問題、これに関係する教育課程の問題にも触れないできた。また日本という国の教育の根幹部分に関連する、悪しき支配的な理念というものにも言及しなかった。本当を言えばそこが一番変わらなければならないところだが、またそこが変われば波及して全てが自ずから変わっていくのだが、ある意味の難しさがあってここでは言っても意味がないと考えた。
 一言だけ付け加えれば、先に述べた先生たちの仕事が夏休みにも学校で行われてきたことに象徴されるように、子ども不在の仕事もまた子どもに接するときと同等の仕事と見なされるようになった。このことは無意識のうちで、学校においては先生と子どもの距離とを広げる作用を、今後に向かって積み重ねて行くに違いない。そしてまた善意に解釈すれば、無意識に、先生たちを教育制度の維持の方向に従わせ、給与の出どころに対する忠誠を誓わせるように働きかけを強めていくことになると思う。逆の側面から言えば、先生たちにとっての子どもは、だんだん「おまけ」の方向にシフトがずれていくということになる。ボランティアの導入、学習支援員の導入ということもそれを助長していく一因になるだろうと思える。もちろんこれらのことは先生たちが決めたことではない。いってしまえば日本の教育を支配し、指導する層が深く関わっている。官僚、政治家、学者、その他の教育関係者の中枢にある者たちの共同の幻想から成立してきたものだが、実はそのものたちこそ制度の維持に関しての情熱、地位と金の出どころに対する忠誠心は並外れていて、その分、生身の子どもたちについては「おまけ」の「おまけ」のようにしかそのものたちのこころに住みつけないでいるはずである。
もっと言うと子どもたちのことが見えていないし、さらに言うと見えていなくとも少しも差し支えなく、彼らのように教育的に子どもを育成することに関与する仕事は成り立つということである。こういう実態がいつまで続いていていいものだろうか。
 
 
あとがき
 
 これは「泡立つ子どもの世界 源流論」のまとめにあたる記述である。これをもって「源流論」の締めということになるが、当事者としてはまとめたというよりはどこか部分、部分を抜粋した感じがある。「源流論」で展開したうち、ここに記述されなかったところも多くある。ただ、全体を通してこれが実力的に生活的に精一杯であった。
 内容的にはおわかりのように、幾人かの著名な著者たちの考え方を借用して出来上がっている。これをさも全てが自分の考えであるかのように配列したようなものだが、ただ全ての著者たちの考え方を心の中で何度も転がして、自分の血となり肉となるほどに咀嚼した上で、ここに借用してきたものであることを一言ことわっておきたい。そもそも自分で発明したものなど自分の中にはひとつもないことは先見的(最初から分かりきったことという造語)なことだと思っている。
 以下に思い出す限りでの影響を受けている著者名を挙げておく。
 
 吉本隆明
 三木成夫
 山本哲士
 養老孟司
 E・H・エリクソン
 トマス・バーニー
 
平成二八年四月七日
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 11
              2016/03/26
 1960年の安保闘争(全学連運動)を皮切りに、70年代では全共闘運動と呼ばれる大学紛争が報道を賑わし、以後、現実社会体制に向かっての意識的、無意識的な「否」の言動は、高校、中学、さらには小学校の段階にまで低年齢化して行った。この受け止め方は一般的ではないかも知れないが、個人的にはこれらの一連の社会問題化した現象には、しだいに低年齢化してきたという部分を含めて、何らかの共通性があるような気がして仕方がない。もちろん現実社会体制に向かっての意識的、無意識的な「否」の側面を言いたいのだが、それには大学、高校、中学、そして小学という段階に応じて差異が認められ、一括りには論じられないところもある。大学生の場合には反社会的と見られた言動に、まだ理念や理論の陰影が込められていた。高校や中学になるとそういう陰影は薄まったものになり、被抑圧的感情や鬱屈をただ生命的、本能的に解放する、回避する、そんな様相も呈するようになった。これは外部からは「理由の見えないない暴力」の現象と映じた。そしてそこからさらに小学段階に下ってくると、現実社会(家庭・学校・学級)への生理的な拒否、反発が、ほとんど原生動物の反射運動のような様相で表面化してきているように見える。
 つまり、低年齢化するごとにその現象を言語化することが難しくなり、当事者たちも関係者たちも、あるいは第三者的立場のものからも見えにくい、分かりにくいものになってきている。
 いったい子どもの世界に何が起きているのか。あるいは心的世界を中心に、子どもの発達、成長過程にどんな問題が生じているということなのか。問題の原因や理由を探すべく、これまでに様々な角度から考えてきたが、ここが根源であり根本であるという場所に突き当たったという実感は持てないできた。だが、それらしきところに近づいてきているということは言える。言えるが、近づけば近づくほど関係の糸の塊は錯綜として、ひとつを解きほぐそうとすればすぐに別なところに塊ができ、延々とこれが続くかのように思えて暗澹とする。
 前記に見たように、様々な問題の多くは、「学校」という舞台の上に起こってきたことは間違いない。そして必ずしもそうと言えない場合においても(家庭内暴力等)、継続する学校生活を一つの引き金、契機として、問題は表面上に露出してくるように見える。
 いまその実際については問わない。ただ、学校を通過する過程で子どもたちは一様に何かにつまずくことになっていて、そのつまずきを原因としての傷つき具合が尋常ではない、ということは言えそうに思える。
 小学校といえば、子どもたちは初めて本格的に集団生活を送るとともに、知識や技能や道徳的な規範を注入されるという経験を課される。ここに最初の適応、不適応の契機が存在するが、本来ならプロの先生たちがいて、子どもたち全員が適応していくようにサポートしていくはずである。そして実際にそのようにサポートしているはずなのである。にもかかわらず、たくさんの問題がここに化学反応のように生じているとすれば、さしあたって二つのことが検討されなければならない。
 ひとつは子どもたちを教育する学校側の問題であり、その制度、様式、存在のあり方などについてである。もう一つは送り手側である家庭の問題であり、学校に送り出すまでの子育て期間に、しっかりとした子育てができているかどうかということである。
 前項(10―B)で考えたこととの関わりでいえば、1970年代の大学紛争時にはもう一つ、前後してウーマンリブ旋風が吹き荒れた。いわゆる、女性の社会における地位向上を目指す運動で、大きくは、女性解放運動(フェミニズム)とも言える。戦後の日本にはすでに、「女性と靴下は強くなった」の言葉が生まれていたが、70年代以降は特に女性は元気に活発になったように見えた。これは一言でいえば、女性が「女性らしい生き方」を越えて、「人間らしい生き方」を求めるようになったということである。その結果、女性たちは「結婚をして子どもを産むことが女の幸せ」という、前世代までの通念から自由になっていった。働きたい、学びたい、遊びたい等々、したいことがたくさん出てきた。こうなったときに、当然のことながら結婚をして子どもができれば、その生後1年間の乳児への授乳と様々に世話する期間は「やりたいことがやれなくなる」期間となり、大変きついものになる。この子育てが、他のやりたいことに比べて自分にとって意義があり、価値があると考える女性にとってはそれほどの負荷にはならないだろうが、そうでなければ大変大きな問題になる。
 極端に言えばいまの世の中全体が、老若男女を問わず、「一度きりの自分の人生を大事にして生きたい」という方向に向いていると言える。そうしたときに、一番の摩擦が生じる場面はどこかといったら、言うまでもなくすぐに思い浮かぶのは女性の出産と育児期間ということになると思う。この期間だけは、他にどうしてもやりたいことがあっても我慢しなければならない期間となる。
 ここで嫌々我慢したり、他のやりたいことを優先するとすれば、子育ての方で手を抜くとか、乳児の方からすればぞんざいな扱い方しかされなかったということになる。後々問題になるのはここのところである。
 我々の世代以降、胎乳児期に理想的な接し方、育て方を100%の確信を持って、できたと言える人はほとんどいないのではないかと思う。というか、55%以上と応えられる人でさえかなり少なくなるのではないかという気がする。男親か女親かを問わず、みんなが自分のやりたいことを持つようになり、心のどこかでそれを優先したいと考えるようになってきたからだ。それを誘惑するような豊かで高度な文明社会になってきたというせいもある。いったんこうなってしまうと、子育てのための我慢、自己規制から、早く解き放されたいという気持ちも出てくる。
 子どもが学校に通い始めることは、その意味では母親、父親の心的な負担を軽減することになる。主に母親の負担が大幅に軽減されると言ってもいいが、いずれにせよ父親、母親の安堵感は言葉や行動や態度に表れる。生活全体が少しずつ子ども中心から、自分のしたいこと、仕事とか友達とのおしゃべりとか、そういう方向にシフトがずれていく。もう誰にとっても家族生活が人生の最大の楽しみだとは思えなくなってきているのだ。
 少しずつ家庭の外に行動を拡大する父親や母親が、子どもをほったらかしにしてずっと外向きでいられるかというと、なにかにつけ家庭内のことに目を転じなければならないことは出てくる。これが煩わしいと感じなければ、何も問題はない。だが、たぶん、そうはならない。内心で、「めんどうだなあ」、「わずらわしいなあ」と思ってしまうことが多々あると思う。とはいえ、それでも必死に親たちは子どものために教育費を稼ぎ、休日には一緒に行楽に出かける。ところでここで、親たちの心は引き裂かれる。家族生活の充足感と、個人としての自己の欠如感、空白感にである。その反対もある。これは子どもが経済的に自立していくまで、行きつ戻りつしながら続く。子どもはおよそ20年をかけて成長、発達し、やがて巣立っていくが、この年月は今どきの親たちにとってけして楽に通過できる期間ではない。ともすると、子どものために自分の人生を削られるなあと感じる親が、最近は多くなっているかも知れない。
 こんな傾向が親だけでなく、社会全体の無意識を形成しているという気がしないでもない。つまり、社会全体が、「子どもって煩わしいなあ」とか「手がかかるなあ」とか、「もう少し扱いやすくなってくれないかなあ」とか思っているのではないかと思う。学校でももちろんそうだけれども、たとえば子どもの万引きにお店や警察が困ったり、公共施設で子どもがうるさくして困ったり、通学路でふざける子どもたちに運転者が困ったりと、どうもこの社会で、子どもという存在は歓迎されていないところが多々感じられる。そこでまた「しっかり子どもを教育しろ」という話になるのだが、これらのことはもっと露骨であけすけに言えば、「この社会に子どもは邪魔な存在である」と言っているに過ぎないのである。何と言い訳しようが、実際にはそういう話になる。
 このことは逆に言えば、いかにこの社会が子どものことを抜きにして計画され、構成された世界であるかを物語っている。ちなみにいま述べたような人間社会の空間で、特に都市ではカラスなどは別にして、イヌ、ネコなどの動物は、その空間からほとんど排除されていると言っていい。端的に言えば公共の交通機関から閉め出され、公共施設から閉め出され、道路から閉め出されるというように、許される生活空間はほとんど制約されている。それは人間世界のルールになじめない自然の生き物だからで、低年齢の子どもというのはこれに一番近い。つまり社会の意志の通りには動いてくれない、やっかいな存在の一群なのだ。
 こういうところを、親も社会も、反射的、防御的に、「そんなことはない」といきり立って否定するのではなく、いったん、「そういうこともあるかも知れないなあ」と受け止め、認めることがなければ何事も始まらない。もしもこれを正面から受け止め、認めることができれば、そこから「ではどうしたらいいだろうか」ということになり、建前を越えた本音のところでの社会的な論議も行えるようになっていくと思う。また、そうして社会全体で考えていかないことには、つまり子どもの行いの全ては親に責任があるの一点張りでは、残念ながら子ども世界の泡立ちはこの先に渡って、食い止められないのではないだろうかという気がする。
 ついでに視点を学校に移して、こちらの角度からもここで考えておきたいが、ごらんのように子どもの育成過程には、従来にない大きな変化が生まれているのである。言ってしまえば、入学前から子どもの心的な状態には不安要素が紛れ込んでいて、それは親の愛のまなざしの減少、比喩的に言えば日光不足の植物のような育ち方をしているためだ。これが日照時間の不足からなるものか、光源そのもののエネルギーが弱まっているためかは分からないとしても、子どもに心的な不安定さと弱さや耐性のなさなどを与えていることは確かなことだ。生きることへの根底的な不信感、不安感、不満が無意識の心の核に様々な強度で形成されていると考えられる。
 こんな子どもたちを前に、入学したてから知識や技能や集団生活の規律をぎゅうぎゅうに押し込め注入していくことは、子どもの心的な不安定に拍車をかけるように作用し、結果としてこれを顕在化するように加速させててしまうに違いない。
 つまり、小学校段階での子どもたちの不適応については、ひとつはそれまでの子どもの家庭内の生育環境の問題があるし、もう一つには迎え入れる側の教育体制が、生育過程の変化に対応し切れているかどうかという問題もあると思われる。さらに全ての根っこには家庭か社会かを問わず、「子どもというものは面倒な生き物だなあ」という、これは誰もが真正面切って「認めたくない」思いが潜在する。子どもたちには今日の社会全体に蔓延しつつ潜在するそうした「厄介視」とか「迷惑感」とかが、本当はすっかり察知されているような気がする。しかも、社会的には、表向きなところでは「子どもたちのために」「熱心な取り組み」が様々な形で実践されているといった体裁が取られているから、子どもたちの察知は混乱させられる。つまり自分を信じるか外部を信じるか、訳の分からないところに引き裂かれていくように見える。
 こうなってきたことの根本は、現代、あるいは現在という時代性の中で、人々は個人、家族、社会といった3つの生活形態を取りながら、いずれの場面においても自分の「個」を優先したいと考えるようになってきているからだ。これはやむを得ざる変化で、自分の生涯を自分のために使うという、ある意味では個人の正当な権利の主張だと見ることができる。しかし、そのことのために、これが過渡的な現象かどうかは別として、個人は家族や社会の各場面から撤退せざるを得ない局面に立たされるという、半ば意図せぬ危機に直面する。家族は個々バラバラに解体しはじめ、社会はあちこちで機能不全に陥る。
 そのしわ寄せは子どもを直撃し、結果、心的な不安定さや脆弱さをもたらす基になってきていると思われる。これは常に表立って表面化しない場合でも、目の前に何らかの障害や困難が立ちふさがったときに初めて顕在化するということができる。
 本来なら生涯の中で唯一、全力で遊ぶことが肯定されて然るべき児童期に、現在は学校制度が設けられて学習や集団の規律を注入されることになっている。一部の子どもたちにはそのことが障害に感じられたり、乗り越えがたい困難に感じられたりする。あるいはまた、場合によってはその時期に心的な癒やしや不満のはけ口や、生命意欲の修復が必要なのに、ただに制度上の理由からそういう子どもたちに対しても一律に学習や道徳律の習得が課される。つまり、そこでは共同幻想が個人を押しつぶすように立ちはだかっている。 ここまでで一応考えられる状況的なことの全てとはいわないまでも、大事な要素というところは触れてきたように思える。ならばついでのことだから、「出生率の低下」や「晩婚化」を視野に据えた社会に潜在する無意識について、もう少し触れておく。
 はっきりと言えば、今日の社会の先端的な「現在」は「出生率の低下」や「晩婚化」という顕在化する現象によって、無意識のうちに「子どものいない社会」か、「子どもが生きられる社会」を目指すかという分水嶺にさしかかっていることを教えている。これには倫理的な意味合いはなく、ただ歴史的な必然という考えだけが横たわっているかに見える。放っておけばどちらの流れが勢いを増すかだし、どちらかの未来を選択しても一応は差し支えのないことだと思える。ただ、判断の中途半端さだけは存在するものに倫理的な苦痛を強いてくると言える。いずれにしても、現在社会はこのことを意識化すべきであるし、その上で人々に問わなければならないと思える。つまり社会的な議論を尽くさなければならない。
 この世界から子どもたちが消える。これは現在の人々からすれば考えることさえ忌まわしく、反射的な反発を招くことだと思う。だが、もしも本当にそういうことになったら、この社会がどんなに円滑にまた順調に発展して行くことかと想像しないではいられない。男も女も仕事にのめり込み、休暇には羽目を外して思いっきり遊ぶ。教育費を含めて子どもの育成にかかる費用は、全てを自分たちの欲するままに欲するところに注ぎ込み、オール電化の暮らしや心ゆくまでファッショナブルな生活が楽しめる。子どもの不登校、いじめ、非行、暴力にも悩まなくてすむ。お店からは万引きが減少する。公共施設はいつも整然とし、落ち着いた大人の雰囲気がいつも味わえる空間となる。車の運転からも大幅にストレスが減少する。全ていいことづくめではないか。
 というように、実ははじめから、この社会は真に子どもの立場に立った設計が成されていない。仮に子どものことが考えられていたとしても、せいぜいが大人に都合よく考えられた子ども像を元に成されていて、当然のことながら多くの無知と誤解から成り立っている。学校はその典型のひとつで、明治以前の時代の子どもがこれを見れば、遊び場としての小川を奪われ、岸辺を奪われ、獣道を奪われ、野原を奪われ、あぜ道を奪われ、堅いコンクリートの収容所にぎゅうぎゅうに押し込められて、まるで収監された囚人のような生活を送ることになったかと錯覚するだろう。
 はたして社会的な現在地から、子どもを産み、育成することを生きることの第一義として、身と心を捧げ、自己を犠牲にして厭わぬ「家族」への回帰は可能となるだろうか。社会はまた本当に個々の成員の子どもを社会自身の宝として、自らをほとんど180度反転させた制度設計を構築していく困難さに耐えうるだろうか。
 個人としての生活、家族の一員としての生活、社会人としての生活という3つの場面を考えたときに、自分の場合も現代人の例に漏れず「個人」を大事に考えてきた。そして自分の「個人」を大事にする以上、他者の「個人」も大事にすべきというように考えを進めてきた。犠牲にもならずに、また誰をも犠牲にしないあり方というものは可能かという道を、手探りしつつ歩んできたとも言える。だが本音を言えば、いつも歩くたびに何かを踏みにじってきたという「感覚」から逃れられない。そういう生涯の実感からいえば、社会がどうここを潜り抜けていくかは予断を許さないところだと思えるばかりだ。
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 10―B
              2016/03/15
 どれくらい前になるか忘れたが、糸井重里さんが主催するネットの「ほぼ日刊イトイ新聞」の中に、糸井さんと吉本隆明さんとの対談が連載された。面白くて全て読んだが、その中に、『日本の子ども』というタイトルの冒頭に次のような会話があった。読んで、さすがに吉本さんだなあ、と感心したことを覚えている。それを以下に転載してみる。
 
糸井 「人間が育つ」ということについて、たくさんのことを学校にまかせてしまっ   ている気が僕なんかは最近、するんですが。
吉本 そうですね、学校に関して言うとすれば──まともには言わないけど、まず、   親は子どもに対して、「これ(子ども)にかまってたら大変」という思いが、   どこかにあるんじゃないでしょうか。
糸井 ‥‥なるほど。
吉本 つまり、どこかに都合よく子どもの面倒を見てくれるところがないかと、親は   思っているんだと思います。子どもは通常、四つぐらいになったら幼稚園に行   きますね。幼稚園や保育園だけではなく、幼児教室のようなものもあって、た   くさんの子どもたちが通っています。親も、教室の経営者も、遊び相手や友達   ができていいとか、家にばかりいたら引きこもりになるとか、さまざまな理由   をつけるでしょう。
   けれども、早期教育をやりたいとか、そういうところまでの意識は特にはない   と思います。とにかく子どもがそこにいる間、親は「自分の手がかからな     い」。誰もそう言わないかもしれませんが、それが本音じゃないでしょうか。   学校の先生に教育のすべてを委ねてしまうことのおおもとにあるのは、結局そ   のあたりの「声にならない本音の部分」だと思います。のちのちいろんなこと   の原因になるのも、その部分であると僕は思います。
糸井 それは、昔からそうだったんでしょうか。
吉本 少し前はそうじゃなかったです。「数え年でいえば、八つか七つ、そうなった   ら学校へ行くもんだ」と、義務的に考えていて、親が「手が抜けてよかった」   と思っているふうには、子どものほうからすると、見えませんでした。
   親が子どもをかまう期間は、赤ん坊のときからはじまります。柳田国男流に言   うと「軒遊び」です。それは、家で子どもを遊ばせておいて、親は縫い物をし   たり、掃除したりしていればいい、という時期です。子どもに全くかまわなか   ったら、外に出ちゃって危なくてしょうがないからどこかで用心して子どもを   見ているけれども子どもに夢中になってるわけでもない、そういう状態です。   子どもが外で遊んでも大丈夫、というふうになりかけたときが、ちょうど小学   校に上がる歳ですね。
   学校が云々という前に、親と子の関係の変化のほうが大きいんだ、と僕は思っ   ています。子どものことは基本的に、全部親がやることだよ、というふうに思   っています。だって、ほかの人が責任を取りようがないことじゃないですか。
   こういうことを言うと、「それは一時代前の、家父長制度の名残だ」と言われ   ますが、そんな馬鹿なことはないと僕は思ってます。子どもの時期のことは両   親の責任です。
糸井 親がそう思えなくなって、学校の責任が大きくなってきたことのおおもとにあ   るのは、何でしょうか。
吉本 まずは、親の「自分のやりたいこと」が昔に比べてたくさん出てきたというこ   とです。そうすると、子どもを「半分かまう」ことが鬱陶しくなります。それ   よりも、働くとか、おしゃべりしあうとか、自分も何かを習いに行くとか、そ   のようなことが優先されるようになってきました。
   「女の人は子どもを半分かまってればいい」という時代じゃなくなって、自分   自身が何かしたい、ということのほうが主になってきました。ですから、子ど   もをあんまりかまっていられません。そしたら子どもは、どこかに預けたほう   がよくなる。
   結婚したあとの女の人が、自分自身のことについて活動的になったということ   が第一なんじゃないでしょうか。そしてそれを声にして言わないことに何か原   因があると思います。 
(ほぼ日刊イトイ新聞『日本の子ども』)
 
 まず、自分の結婚、子育ての経験から言うと、そこには予期せぬ事がたくさんあることに気付かされた。それまで、学校生活が長く、自由で好き勝手な生活を続けていた。民間会社に就職して仕事をしながらも、プライベートの時間は自分のやりたいことをやっていた。ちょっとだけ、文学的な興味が強く、学生時代からの延長で本を読んだり、詩の真似事のようなものを書いたりしていた。
 結婚すると、相手に合わせながら生活しなければならなくなった。それまでは、時間というものは全て自分だけのために費やせるものだったから、本を読んだり詩を書いたりすることを中断したり、犠牲にしたりしなければならないことを初めて経験した。もちろん、そうしたことがあってさえ、結婚生活の充実感に満足感を覚えていたのではあるが。
 子どもができると、当然、そのことにも気を配らなければならなくなってくる。これもまた初めての経験で、夜泣きや不意の高熱に病院に走るなどのこともあった。
 要するに、家庭生活を営むということは、想像していた以上に大変なことなんだなということを、そうなって初めて実感した。
 それまで、そういう訓練、予行的なこと、また予備知識的なことも一切なかったから、全てが初めて経験することで、いま思うと余裕がなかったと思う。結婚、そして子育てについては、かつて、渦中にあった自分の親の姿を子どもの目で見ていただけで、その記憶だけを頼りにして対応にあたっていたのだと思う。夫婦とも親元から離れての新婚生活だっただけに、不安もまた大きかった。
 全く、その頃は何の考えもなかった。生きること、生活することに対して、具体的目標を持つことも、計画も、必要なこととさえ思わないでいた。いま思うと、はじめからおかしかったと思うのだが、生きること、生活することは、何の考えも努力もなしにできるものだと思い込んでいた節があったように思える。それは、本当は人生について、もっとも大事で肝心なことを欠落させて生きていたこと、生活していたことと同じだと思う。我々の社会も、親の世代も、そういうことは教えてくれなかった。
 学生時代は文学や政治や思想に興味を持っていた。「人間とは何か」「心とは何か」というようなこともよく考えていた。解答は見つからずに、結婚をし、子育てをするようになってからもずるずると考え続けた。もう少し言ってしまうと、そうしたもろもろの問題を解決することが、自分にとっての生きる理由なのではないかと考えてきたところがある。これがよいかどうかは分からない。ただそのように執着してきたし、長い間そこにとらわれてきたように思える。
 これは自分にどう始末をつけるかという問題に思えるのだが、比喩的に言うとこれはじっと鏡に対座して問答を続けることを、生活の中心に置くようなものだ。生活には仕事に費やす時間もいるし、親戚や近隣との関係というのも入り込んでくる。その上に妻や子どもにも四六時中配慮しなければならないとなると、自分のようなものにはこれがなかなか大変なことなのだ。ずいぶんと悩んだ。ずいぶんと悩んで、もしかすると自分は結婚という形も子どもの存在も邪魔だと感じているところがあるんじゃないだろうかと思ったりした。そして、これからの社会はきっとこういう問題で悩んでいくだろうなと考えた。
 対談の中の言葉にもあるが、自分に何かやりたいこと、しなければならないことがあると、ついそれを優先したい気持ちになってしまう。
 自分がそんなふうだったから、同世代やそれ以降の世代の人たちも同じなのではないかと思った。
 仕事を通じて、多くの女の人たちも見てきているが、同世代の女の人たちには何か同じようにもがいている&舶ェがあるように見えていた。単純に言うと、「自分の人生はこれでいいのだろうか」とか「価値ある生き方をしたい」とかを真剣に考えるようになっているんだなあと感じた。あるいは、「もっと遊びたい」とか、「楽しいことをしたい」とかに向かっての積極性を持つ人が増えているんだろうなあと思った。その頃は、女性の大学への進学率も増えて、いろいろな知識を持ち、考えることをするようになって、いっそうそうなってきたように思える。
 そういうところは自分の母親には見えなかったところで、母親はそういう部分はおくびにも出さずに、子どものために、夫のためにということで、ほとんどの時間を家族や家庭のために費やしていたように見えた。それはもうひたむきにという感じで、母親世代にはそのことがまだ、「生きる価値」そのものであり得たのかも知れない。また、誇りであり得たかも知れない。
 結局、自分と同年代の女性たちは、母親世代の、ある意味、犠牲的な生き方から解放されたかも知れないのだが、新たに「悩む」ことを始めたんだなあと、当時、漠然と感じていたことを思い出す。
 実際のところ、当時の女性たちは何かを探し、何かに悩み、常に何かを行おうとしていた。こちらから眺めれば、何をじたばたしているのかと見えないこともなかったが、総じて「ああ、女の人も大変なのだ」と思えた。
 この対談で吉本さんが言っていることはそういった意味からも大変妥当な物言いで、よく分かるなあという気がした。また、こういうことがちゃんと見えて、こんなふうに指摘できる人はそう多くはいないよ、とも思った。
 生きるということ、人生ということ、これを自分を主体に、あるいは自分を中心に考えるようになったら、これはもう他のことがお留守≠ノなるに決まっている。だが、時代が、「何ものの犠牲にもならずに、誰もがただ己の理由によって生きる権利を有する」と教えていたという気がする。教えているから誰もがそれに習った。そして、習った結果、どんな現象が生じたかといえば、そのもっとも大きなものは女性の家事労働、育児からの撤退である。
 これは女性自身からすれば、積年の願望であったかも知れない。その成就は男性の側からも歓迎したいところである。
 けれども何かが変わるということは、さすがによいことばかりではなくて、そのもっとも大きなツケは、生まれてくる赤ん坊に回ったと考えるのが妥当だと思う。あるいは、それ以後の子どもたちをも直撃した、と言いきってもいいように思える。
 大まかにいえば、前の世代の母親たちに共有されていた乳児や幼児、あるいはそれ以降の子どもへの寄り添い度を、仮に心的に80%程度と考えれば、あとの世代の母親たちにおいては70から60、あるいはそれ以下へと徐々に下降して来たことは疑えない。あるいは50%まで落ち込んだと仮定して、その差となる30%の心的な領域に何が埋め合わされることになったかといえば、もちろん女性たちによってまちまちであるが、彼女たちの拡張された関心の向かう先がその空隙を埋めるようになっているのだと思う。
 母親の心が、胎児や乳児、さらにそれ以後の子どもに向かっておよそ8割くらいの割合で向いているときと、仮に5割くらいの状態になったときとを比べて考えると、これが1年、2年と続けば、胎乳児にももちろん重大な影響を与えるが、それ以後の子どもにも大きな影響をもたらす気がする。どのように影響するかというと、子どもの側から見れば、『あまりぼく(わたし)に関心を持ってくれないんだね』という、声なき声になると思う。実際に、母親たちの関心は多様化していると言っていいのだから、子どもに注ぐ母親の心的な時間、そういうものが短く薄くなる。子どもからすれば「疎かにされている」と、錯覚されて受け取られても仕方がない。そしてどんなに母親が主観的に子どものために自分を犠牲にし、辛労を重ねていると考えていたとしても、客観的な関係からは「疎かにした」あるいは「ちょっと手を抜いた」事実というものは残ってしまう。
 これまでの考察からすれば当然なのだが、胎乳児期の母親の心身の状況、状態は全て胎乳児に向かって流れ込む。逆に言えば胎乳児には母親の状態、状況が全て分かる。つまり、母親がどんな扱いをしているか、胎乳児にはすっかりお見通しだということができる。これはなかなか実証しにくいことだが、このあたりの事情は幼年期、児童期になって子どもの態度となって表れてくる。つまり胎乳児期のかまわれ方、愛情や関心の注がれ方、居心地などが満足すべきものだったか、逆に不満であったかは、幼年期、児童期の、子どもの姿、態度を見れば判断がつく。目つき、顔つき、体つき、言葉遣い、挙措振る舞い等々。もしも胎乳児期の扱われ方、育てられ方に不満を抱いていたとすれば、そういうところにはっきりと不満の色、怯えの色、不安の色などが浮かぶ。もしも影響が心的に内向したところで行われているとすれば、それは表面上には覗いにくいが、それでも、やはり日々の言動の中に違和感を感じさせる形で露出してくるものだと思われる。これが逆にある程度満足できるものだったとすれば、上記のもろもろはもっと緩和される形で表れるか、さらに満足なものであったならば表情からして常ににこやかに、愛想よく、生き生きと日々を送ることになっているに違いない。もちろんその時期には家族生活、学校生活が介在し、かつての母子関係だけではない、別のストレスに突き当たって、子どもの心身に揺らぎを生じさせる影響もあるかも知れないが、それでもおおもとがしっかりしていれば揺らぎは決定的なものにはならない。つまりある程度のところは自力で乗り切っていける。
 胎児、乳児の時期に100%の満足を与える子育て、扱いをすることは、おそらく人類史上あり得たことはなかったろうと思う。もちろん現在でもあり得ないと考えていい。すると、みんな大同小異の子育てじゃないかと考えることもできる。つまり、比較して優劣を決める事柄ではないし、そうはならない。 ただ、ここで考えておかなければならないことは、「親」が変わってきたことで「親子の関係の変化が大き」くなっている、という吉本さんの指摘である。父親にも母親にも、仕事などを含めて自分の生きがい、やりたいことが多くなって、そちらを優先する傾向が強くなってきているということだ。そうなると、ともすると子どものために割く時間が減少することになって、子どもの側からすればちっとも一緒に遊んでくれない、ほったらかしにされている、という気分になるかも知れない。また、これで勉強をしろ、親の言うことを聞けなどと要求しても、それは虫がよすぎる話だと言うことになるのかも知れない。吉本さんが言うように、「のちのちいろんなことの原因になる」その原因とは、いままで述べてきたところにあると思えるが、これは社会的に考える問題であるとともに、親世代も考えておくべきことだと思える。なぜなら、このことの問題は時代的な変化が伴って起きてくることで、なかなか個人の力だけでは解決しにくいところもあるが、このことを認識できるか否か、自覚するかしないかで、問題が起きたときのその後の対応に大きな違いが出てくるだろうからだ。対応を間違えないためにも、こういうことは心に留めておいた方がよい。
 最近は、昔の子どもと今の子どもは違うとか、子どもが変わったとよく耳にする。しかし、変わったのは親の世代が先で、その影響を子どもたちは受けることになっている。
 歯に着せた衣をはぎ取ってあからさまなことを言えば、子どもは邪魔くさい、鬱陶しい、煩わしい、いない方がいい、手がかかる、等々、子どもが成人に至るまでに、一瞬でもこういう思いが心をよぎらなかった両親や大人は、今日的には皆無ではないかと思う。このことは子育て経験者ばかりではなく、実は、社会全体が、いまはそんなふうに考えている時代なのだと言う気がする。社会全体が子どもに配慮しているそぶりを宣伝するが、内実は面倒な生き物だと考えているに違いない。露骨に言えば、そう考えているともう。そのくせマスコミからPTAを含めて、子どもの人権、子どもを大切に、等々、いかにも良心的な庇護者の口ぶりでもの申している。だがそんなことはみんな嘘だ。先にも述べたように、現在という時間は一人ひとりに「自分のために」生きることを強いているので、子どものために、ましてや縁もゆかりもない他人の子どものために考える時間を与えやしない。つまり、本音はそういうところにありながら、子どもが邪魔くさいものだという事実の部分、本音のところは、誰も赤裸々に明かそうとしないし、まして、そこの部分を切り開いて解剖しようとはしていない。そのせいもあってかあらずか、母親たちが公言する言葉も、ソフトで口当たりのよい、耳障りのよい、マスコミと同じに道徳主義的、人道主義的色合いにすり寄った言葉ばかりで、「とても子育てに専念する心の余裕がない」という本音の部分を声に出して言わない。周囲もそういうことを言わない。本音の行き場はどこにもない。そしてそういうことは誰も取り上げないから、本音を糊塗した理想の上滑りだけが、広く繰り返されていくだけである。
 こういうことは社会現象の全般とよく酷似している。空疎な上辺だけの理念が飛び交っている。
 これだと要点は隠されるから、問題が起きたときに本質部分に踏み込めずに、結果、誤った対応の仕方、対策を繰り返す。学校におけるいじめ問題とその対策もそんな一つで、何一つ有効な対策を考えつかないばかりか、いじめ根絶∞≠「じめの早期発見≠ネど誤った方向に走る。なぜなら、いじめ問題についても自分の頭をひねって考えているものは皆無だし、子どもの成長と発達について根本から考えようとしているものは、教育関係者の中に誰一人いないからだ。そして何よりも、誰もが経験しているはずのいじめ体験を自分の内側からえぐり出して、それを解析するところから始めようとはしないからだ。せいぜいが文科省からの通達と資料を丁寧に読み込むとか、一部評価の高い学者の研究を読み込んで、それを自分の考えのごとく口にしたり実践して見せたりしているに過ぎない。そんな実感の伴わないところで対策を講じ、実践しても、およそ的外れの結果しか呼び込まないことははじめから分かりきっている。
 やっていることは外部にあったものの受け売りを素早く消化しているに過ぎないのだが、当人たちはそれを、自分が考え、自分が実践しているのだと錯覚している。それは違う。それはただ出来合いのノウハウを頭に入れ、ノウハウにしたがって動いているというに過ぎない。そういういわば知的な低迷、荒廃が、気づかれずに進行している。
 こうしたことの全ての原因が何かと言うことは、はっきりしていることである。現代人は正直じゃないということだ。正直になれないようになってきたと言い換えてもいい。何故、正直になれないのか。それは正直になれないように育ってきているからだ。第一に元々の親世代が、自分の興味関心を優先させて子どもとの付き合いを疎かにしてきたくせに、子どもから不満が出ると、本当の本音は言わずに、別の理由をくっつけて言い訳ばかりするようになってきた。つまり、そういう嘘の付き方を学び、上手になってきたのだ。それはどこからそして何から学んだかと言えば、おおもとは社会からだと言えるし、また学校からだとも言える。
 いちいち例を挙げるのは面倒なので一つだけ取り上げると、たとえば最近やたらと浮気や不倫報道が多いが、マスコミに登場するコメンテーターやも視聴者も、対象になる人に対して過大に悪者扱いをし、浮気や不倫が、大いなる人倫に反することであるかのように、またやっちゃいけないことのように、喧伝したりしている。けれども、まあ普通に長くこの世に生きていれば、そういう物言いが大うそだということはすぐに見抜ける。だって生きている中で、周囲にそういう例は数知れぬくらい見聞きしてきているからだ。こちらの目や耳に届かない分を加えて勘定したら、どういうことになるか。ごく普通の一般大衆においてもそうなのだから、これが芸能人やスポーツ選手や政治家など、派手でまた誘惑の多い世界にいるとなると、そんな事しないでいられるはずがない。だったら、みんなやっていることだよと認めればいいし、認めた上で大きすぎる代償を支払わないですむような落としどころを、社会全体で考えればいいのだと思う。
 学校なども構造的にはこれと同じようなことで、悪いことはしちゃダメでよいことばかりをしましょうというように、本当は先生たちにだってできもしないことや、それこそ絵に描いた理想のようなことばかり子どもに教えて、それが良い教育だなどと思い込んでいる。子どもたちはそこで何を学んでしまうかといえば、親や大人たちと同じ、本音を言わないこと、隠すことを学ぶだけだ。そして大人になり親になって、受け売りの正論、上辺のきれい事、表向きの言葉だけで、また子どもに接してしまうことを繰り返していく。
 だが、本音に怯え、本音を隠すことで(実際はみんなバレることなのだが)、後々どんな結果をもたらすかは考慮しておくべきだ。考慮して、世間や周囲がどうこうではなく、自分の本音と理想とのギャップの間で問答していくことが大事なことだ。
 本当は子どもたちは「遊び」を通してそういう問答を内々に行い、そこからたくさん大事なことを学び取っている。その大事さは学校で教えられる知識や技能や道徳的なものの比ではない。はるかに原初的で人間的なものだ。できればそこに一切の大人の価値観、善悪観、世界観などは持ち込みたくないと思うほどだが、如何せん、現実は福島の放射線同様すっかり汚染されきってしまっている。
 子どものためと言いながら、親も他の大人たちも、実際には「自分のため」を優先しているじゃないか。だったら子どもは子どもで「自分のため」に、興味関心の全てである「遊び」を選択して何が悪いか。今どきの子どもたちは、周囲をも巻き込むように自らの世界を泡立たせる言動を見せながら、本音ではそういうことを訴えたいのかも知れないと思う。
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 10―A
              2016/03/13
 満1歳頃になると、「原生的疎外」の心的領域の了解事項をさらに対象化する「純粋疎外」へと、乳児の心的な領域は変容する。ここで、他の生物とは特異な、人間らしい心的な位相を乳児は初めて手にしたと言えるのだが、この時の心的領域の変容は共時的に「発語」〜「言葉」を要求するものであることは、前節で見て来た通りである。
 これは人類史に重ねて言えば、人類が完全に動物的な段階から離脱したことを意味する。
 心と言葉との、きわめて人間的に特徴的な成立過程を見てきた今、次に考えておきたいことは吉本の幻想論、つまり共同幻想、対幻想、個人幻想(自己幻想)が1歳以後の乳幼児の心において、どのように展開していくものかについてである。
 このことを考えるにあたって、まず我々人間における、対人間関係が基礎になっていることを理解しておかなければならない。
 単純に言えば、ヒトは一人でいるか、二人でいるか、三人以上でいるかということで、対人間関係の在り方は言い尽くされてしまう。そして、それぞれの在り方には、自己との関係、自分ともう一人との1対1の関係、その他大勢との関係という異質の関係が形成されることになる。この関係は、それだけでそれぞれの関係に即した感情や思考という形での心的疎外(表現)を生み、それぞれに個人幻想、対幻想、共同幻想というように命名されると理解すればよい。
 乳児期は、これら諸関係はすべて未分化で渾然一体となっている。生まれ落ちてしばらくは、心的な世界は未だ原生的疎外の段階にあって、自分と母親との区別もつかないとされている。当然ながら、個人幻想、対幻想、共同幻想はまだ未分化な状態である。
 しばらくすると、乳児は母親(代理)と自分との区別がつくようになる。表れては消え、消えては表れする母親(代理)の存在に気付き、同時に対象とは別の存在としての自分にも気付いていく。やがて自分と母親(代理)以外の他者(父親、兄弟姉妹等)存在にも気付くようになり、先ほどまでの概念で言えば心的領域が「純粋疎外」へと変容可能となる過程の中で、少しずつ個人幻想、対幻想、共同幻想という3つの次元が分化し始めていく。
 ここで少し「幻想」について触れておけば、たとえばいま対象としている乳児と母親(代理)とは、一対の母子の関係として特別な関係である。この特別な関係は、この母子の間にだけ、この母子に限っての特別な関係意識を生じさせる。これは対の関係の中に生じる意識であり、宇田の言葉を借りれば、「酸素」(母)と「水素」(子)が結合して「水」が生じるように、二人の間にだけ生じる特別の関係意識なのである。このようにして生じた「水」は、もはや「酸素」にも「水素」にもなり得ないし、還元し得ない。そしてそれは、この二人の間に限っての「愛着」「信頼」「絆」というようなものを心的に形成したり、あるいは全く表裏の「憎悪」「不信」そして「怖れ」や「縛り」などを形成するに至る。つまり対幻想とは、そのように心的な世界に生じるもろもろの観念や心性を指す。
 個人幻想や共同幻想も同じように、自己対自己の関係、自己対集団(共同性)の関係から疎外され、産み出される観念であり心性であるということができる。
 これら個人・対・共同の三つの次元は、それぞれに個人の心的な領域に生成し、形成されていくが、それとは別に個人を離れ外化されていくものもある。文学や芸術の分野は、凝縮された個人幻想が外化した例である。共同幻想では、宗教、法、国家に、典型的に外化した例を見ることができる。対幻想については、明確に外化した規範的なものはないと言っていいが、その家族形態は対幻想の形態的な外化と見なすことができる。
 要するに人間の心的な領域に現象する心的な世界は、個人的な問題と性を基盤とする家族的な問題と、そして国家的(共同体的)問題と、3つの次元を異にする問題として整理して考えることができるということだ。もっと単純に言えば、個人の問題か、恋人や家族の問題か、国家の問題かというように、大別できるということだ。
 とりあえずここでは、心的な世界を一次元ののっぺらぼう≠フようにごちゃ混ぜにして捉えるのではなく、3つの次元の異なる世界の構造を持っていると捉えておきたい。
 さて、先に乳児の心的な世界は、「純粋疎外」という心的変容を、言葉を獲得し始める1歳頃に共時的に果たしていくと考えてきた。そしてその心は、やはり同じ時期に、人間的関係の構造として3つの次元の異なる関係意識、個人幻想、対幻想、共同幻想に分化していくことも見てきた。
 いまこれを個人生活、家庭生活、社会生活という観点から見直せば、乳児期から幼児期にかけての中心的な世界は家庭生活にあると言えるだろう。言い換えれば、対幻想を主体にした世界に生活の中心はあるが、ここから徐々に幼児は社会生活の方に歩み出す。同じような年代の幼児たちとふれあう機会も多くなり、そのような触れ合いを契機として共同生活への気づき、自己への気づき、言い換えれば、3つの次元の異なる幻想の分化はいよいよその度合いを増していく。
 では、3つの次元の幻想がはっきりと分離(明確な差異化)するようになるのは、いつ頃と想定できるだろうか。実は、宇田亮一は先の著書で、すでに乳児期には分化を遂げ、幼児期にはそれが分離するものと考えていた。だが、幼児期といえば柳田国男が取り上げていた「軒遊び」や「庭先での遊び」のイメージが強く、社会生活の場面は浮かんでこない。幼児にとって家庭生活の背後に控える社会生活は、まだ薄ぼんやりとした幕の向こう側にあるものであって、幻想的にも分化の途次にあると考えた方が無難な気がしてならない。これはこの先もう少し考えてみることとして、いまの時点では、だから、分離する時期は、強い「つながりと縛り」を意識して集団を組むようになるギャングエイジ、およそ10歳前後と考えたいと思っている。
 ここは「系統的発生論」の考え方からすると、人類史の区分、または歴史区分と関係するところで、原始未開、前古代、古代と子どもの発達過程をどのように対応づけるかという意味で大事なところである。吉本さん自身はこれをはっきりと対応づけてはいない。おそらくそれは明確な根拠がないためで、我々がこれをいい加減な推理、思いつきで言っていることは本当は逸脱に他ならない。けれども宇田さんもそうだと思うが、それを承知で考えているわけで、それぞれにもう少しはっきりと子どもの精神構造を明確にしたいという思いがそうさせている。そうしてこういう議論が百出して、やがて根拠を見いだして明確にされていく礎になれば、それでいいわけなのだ。
 学校制度が始まる前は、だいたい10歳前後を境に社会生活に組み入れられていっていたようである。西洋では徒弟制度で親方につくとか、日本の丁稚奉公などはそれくらいの年令から始まっている。そういう共同性の中に一員として入り込んでいくことは、既存の共同幻想に参画していくことでもあり、自らの心的世界にもそれをはっきりと形成させていくことでもある。そのことによってまた個人幻想は、はっきりと分離して意識されるようになると思える。
 言うまでもなく、学制が始まると、学校という共同幻想に6歳から接触せざるを得なくなる。これは社会生活そのものとは言えないけれども、模擬的な要素として社会生活は入り込んでいる。だから、以前よりは早い段階で共同幻想に接触することになっていると言える。またこの模擬的な社会生活は、高校や大学への進学率が上がることによって期間の延長の方向にあり、実際の社会への参入を遅らせている。
 いずれにしても、子どもたちは学校に入学することによって、国家的規模の共同幻想を心的に体験することになる。またそういうものに、否応なしに心的世界を占められるようになっていく。角度を変えて言えば、学校という共同性の中で、学校という規範を、強く意識させられることになる。また、強いつながり≠ニ、一方ではまた強い縛り≠煬o験することになる。
 さしあたって、幼児期を過ぎたこの時期に学校という共同幻想の、強いつながり=i連帯意識)と縛り=i規範意識)とを体験、経験することが、本当に順当な在り方なのかが問われなければならないと思える。
 その理由の一つに、いま、いじめ問題を挙げることができる。どういうことかというと、今日的なギャングエイジ以降の少年少女たちは、明らかに集団の組み方が、この高強度の学校という共同幻想の体験に影響されていると考えられるからだ。子どもの集団の、強いつながり=i連帯意識)と縛り=i規範意識)は、学校がする子どもたちの観察や監視や管理の強化や深化とともに、以前にも増して強く、そして深く水面下で行われるようになってきているように思われる。その意味で、現在のいじめ集団に行われる共同幻想の高強度化=Aつまり、縛りの強さ≠ヘ、学校体制の進化(深化)に見合うものだと言える気がする。そして、いじめる側にしても、いじめられる子にしても、集団における共同幻想としての規範意識が、かなりな程度、ということは大人たち以上に、中間的な曖昧さを取り払って過剰に白黒の決着を意識しているように見かけられる。だから規範外と思われるものに対して、いじめは度を超して、徹底して行われるようになってきている。
 子ども集団における規範意識の強まりは、学校生活における規範意識の強要が影を落としているに違いないし、中間の曖昧さが、今日の子どもたちの意識から排除されているように思われることも気がかりである。これは類推でしかないのだが、おそらくは、子どもの生活過程から「軒遊び「庭遊び」「外遊び」的なものが欠落したり縮退してきて、家族と学校(現実社会)の中間にあった、地域社会的な生活体験の希薄化が関係するように思われる。誇張すれば、家族生活からすぐに学校という集団生活に接続されることで、その間にゆとりというか、ハンドルの遊びのような、そういう中間の曖昧さが心的に見落とされてきて、子どもの反応や対応にもその部分がなくなっているのだと思う。もっと言えば、家族生活でもない共同生活とも言えない、その移行過程の中間にあった対人関係が、希薄になってしまっているのだ。ここは本当は本格的な集団生活に対する予備演習的な意味合いを持ち、大事なところだ。そしてそこのところは保育所のようなところで予備的な穴埋めをしようとしても、どうしても大人の介入の度合いが大きいから結局保育所は学校の代理を務めてしまい、子どもが自ら中間的な対人関係を身に付けるということにはならない。 いじめ問題でついでに言えば、最近は学校現場でもマスコミなどでもいじめ根絶≠ネどと大きな声で言われているが、これが社会生活上、家族生活上の予行演習的な側面を持つことを誰も言わないことはおかしいと思う。子ども期というのは対人関係の基礎を培う時期とも言えるわけで、あらゆる善から悪の体験は成人後の判断とか決断とかのよりどころになるはずである。
 たとえば夫婦間を考えてみても、うまくいっている間はいいが、少しうまくいかなくなると、責めたり責められたりということも出てくる。これが少し深刻になっていくと、ねちねちといじめに酷似した様相を呈するようにもなるが、これをどうして多くの夫婦が回避する方向に努力できるかと言えば、かつてのいじめるいじめられるの体験があるからだとも言える。そういう過去の対人関係の体験があるからそこまで言っちゃいけないとかの判断がつくわけで、それがなくて初めて本格的な対立の経験、深刻な経験にぶつかるのだとすれば、すぐに決裂していくに違いないことは容易に想像がつく。つまり、いじめ根絶≠ネどを言うということは、対人関係における免疫を排除する方向に向かうことと同じことなのだ。目先の事件性に慌てて、誰もが本質的なところまで見失おうとしている。これが教育関係者を筆頭に、その考えるところを席巻しているのだとすれば、どうにもたまらない思いがしてきてならない。先生たちを悪くいうつもりは少しもないが、いったい人間理解、子ども期の理解はどうなっていることなのか。一枚の文科省からの通達に対して自分の生活経験を対置し、「これはおかしいんじゃないの」ということを誰も言えない。これは実に情けない話なのではないだろうか。ここかしこ、そういう風潮は日本全体に蔓延している。
 さて、幼児期を過ぎた児童期(子ども期)について、もう少し考えておかなければならないことがある。それは活発さを増し、活動的になった子どもたちは、本来ならばそういった自己を外部に向かってどこまでも拡張していく、外に現していく時期なのだと思えるのである。おそらく、放っておけば自分の性格的なものを外部に試し、良いことも悪いこともさらけ出し、あらゆる意味合いからの性的な開放も黙っていればやってしまおうとするに違いない。なぜならそれが生命の本源であり本来だからだ。
 人間以外の生き物は、みなそうやっている。動物の子どもが兄弟で組んずほぐれつして遊ぶ。狩りとも遊びとも見分けのつかない形で獲物を追いかける。走り回り、追いかけ周りしているうちに、うっかりとどことも言えないところまで遠出してしまい、慌てて巣に戻ろうとする。その姿を見ると、人間の子どもも本来はそうした姿を見せていたものであり、聞けば、子どもも子どもらしい性的な快感や満足を求める性向を持っているのだという。 そういう本来子どもが持っているいろいろな活動性が抑圧され、特に同じ子ども期といえども、動物のように好き勝手に過ごす時間は知識や技能や道徳性を注入される時間に取って代わられる。それだけではない。先生たちの教えといい指導といい、長年の蓄積は見えない形で高度化し、しかも複雑化してきていることは間違いない。逆の意味から言えば、理解を要求する水準は上がってきている。少しこれを具体的に言えば、かつては子どもたちがある程度の読み書き計算ができれば、先生は良しと考えていたところが、いまはもう少し詳細な部分についてまで理解を届かせようとする。しかし、最近の子どもの多くは逆に、学習の必要性を実感できない状況下におかれ、教育する側の思惑との乖離は大きい。極端に言えば、心の底では勉強はしなければならないという実感が持てないのに、頭では勉強はしなければならないものだと理解しているために、子どもが溜め込むストレスは半端なものではない。ある意味、それは想像を絶すると言っていいくらいのものに思える。まさに、日々の授業における子どもの様相は、自分に自分でむち打って何とか授業について行こうとしている、と見える。それが真の姿ではないだろうか。目は黒板を見つめているのに、その瞳の奥に光るものがない。目覚めているはずなのに眠っているように見える。考えをノートに書きなさいと指示されても、ノートの空白はなかなか埋まらない。
 だが先生や友達の誰かが冗談を言ったりするとその場は和み、みんな我に立ち返ったように子どもらしい日常的な姿に戻る。そして、その時≠フ一瞬はなかったかのように掻き消えてしまう。
 子どもたちは表向きは相変わらず子ども世界の住人として、深刻さのかけらもないように楽しく愉快げに、ときには貴人のように傍若無人に振る舞っているように見える。
 けれども内面を覗えば、どうもその理解は一筋縄ではいかないようである。もちろんそういうところでの苦労、確執、葛藤はどんな時代、どんな環境においてもあることで、変わり映えしないものだとは言える。我々世代でも当然にあって、たとえば、子ども期の本当の個人的な生命的奔流は「夢」の形を借りて、わずかにその本質を指し示すものでしかないのかも知れない。それは余りに文学的、哲学的に穿った見方に過ぎないといわれるかも知れないのだが、子どもたちを見ていると、競争力をつけるとか、成功体験を持たせるとか、追いかけるべき夢を持たせるとかの、大人の発想による大人的な配慮は、実はどうでもよいことなんじゃないかと思われる。子ども期はその存在様式だけで実は何かと懸命に、そして必死に戦っている。そう思えてきて仕方がない。そしてそれは、親兄弟といえども、けして手助けなどすることのできない実に個的な戦いであると思える。
 稚拙な例だが、たとえばパソコンがアンダーグラウンドで内部の整理的な作業を行うことがあるが、この時に他のプログラムを立ち上げても作動が遅れたり、時にはフリーズしてしまうこともある。
 つまり子ども期もまた、表面上からはうかがえない、しかし当人にとっては必要な作業が内部に進行し、その時に外部からの働きかけが過剰になると、とてもきつく、苦しい状態になるのではないかと思える。
 おそらくどの子どもも平等に等しく、その戦いめいたものは秘密裡に進行しているはずだ。その時期は本当は十分に時間を与え、他からは過度の負担を与えるべきではないという気がする。特に早期の、社会性獲得に向けての強要はいらないものだ。それよりも、それこそ子ども期本来の在り方を、子どもがいま以上に謳歌できる方向で配慮すべきだと思える。それが唯一、大人たちが子どもたちの戦いに後方支援できることであろう。子どもは何も未完成の作品などではない。その時期時期でその時期なりに完成した作品であり、ただそれが死ぬまで続いていくだけだ。その時期その時期には、その時期なりの本来的な過ごし方が、かつてはあったはずなのであるが、歴史的に発展を遂げた今日になって、逆に子ども期を、子どもたち自身が謳歌できないという、皮肉が結果がもたらされていると言うことができよう。普通に考えたら、社会全体にゆとりができて、子どもたちが自由に生き生きと過ごせる時間と場所を、社会は提供できるはずなのである。だが子どものためにと構築した環境は裏腹である。それが今日そうなっていることは、泡立つ子ども世界が証明している。子どもたちが十分に満足して生活できているならば、どうして子ども世界がこのようにも泡立つ理由があろうか。子ども世界が泡立つのは、いずれも言葉にできない不満を抱えているからであろう。ならばその不満を緩和し、排除する方向で考えていくことが大人の努めである。
 言い足りないことはもっとたくさんあるが、ここはこれくらいにして、次回はまた別な角度から今日の子どもを取り巻く環境の変化について考察を試みていきたい。
 
 
源流論 10―@
              2016/03/07
 生命体が、非生命としての自然世界(無機的自然)に対して異和であるというとき、それは自然世界からの疎外とも言えるし、産み出されたものだという見方も出来る。いずれにしてもその時、一個の生命体は「原生的疎外」の領域を手にする、と吉本隆明は『心的現象論序説』の中で述べている。
 
 まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮に原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打ち消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であると考えられている。
 このいずれの意味でも生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生動物では、この心的領域は、心的というよりも、たんに外界への触知にともなう無定型な反射運動にすぎないが、人間では心的といいうる不可触のあるひろがりをもった領域を形成している。
 
 有機的存在である生命体は無機的自然にたいして異和そのものであり、そのことによって異和の領域を持つ存在だと定義されている。フロイトでは、その異和の領域に生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)や無機的自然への復帰の衝動(死の本能)が発生すると考えられ、吉本は同じくこの異和の領域に、共時的に心的と言いうる領域が形成されるのだと述べている。
 こういう規定は緻密に論理を構築していく際に必要なことかも知れないが、さしあたってここでは、どんな生命体もそれ自体で原生的疎外の領域を孕んでいるということと、人間の場合にはそこに心的な領域、つまり心の原初のようなものが形成されるんだと考えておけばいいと思う。ただし、この段階、すなわち原生的疎外の段階で、心的な領域とか心の原初といっても、普段我々が考えている心やその領域のこととはまるで別物だということは言うまでもない。原生動物の場合には、心的領域といっても「外界への触知にともなう無定型な反射運動にすぎない」と言われているように、原生的段階での人間の心的な領域も、あえて言えば、原生動物の無定型な反射運動とそれほど異なる段階にはないと言っていいように思われる。
 さて、このように考えたところで、吉本の言う原生的疎外の段階における人間の心的な状態というものから、人類史の初期の心的な状態や、人間の胎児の心的な様相というものが想像されてくるように思われる。それはまだきわめて動物的な段階に近い。そしてここではそのイメージの獲得だけが大事なことで、もともとそれがほんとか嘘かの判定に参入する資格もなければ、そんなことに関わるつもりもない。
 ここでは特に、胎児のまだ心と呼べない段階での、しかし初期的な心的形成が成されている状態を思い浮かべることが出来れば足りる。すると、胎児には、普通に言うところの心は育っていないけれども、心のようなもの、心の萌芽はすでに発生していると見なすことが出来そうである。そして吉本の言い方にならえば、胎児の心的領域は外側を母胎に開き、
内側を〈身体〉に開く、ひとつの混沌とした領域として形成されていると言うことができる。これはフロイト的に言えば生命衝動と死の本能の行使を意味するもので、その意味では、胎児は出生以前から子宮内において、心的にもダイナミックに生きていると考えられるし、そう考えなければならないものだと思える。
 原生的疎外の水準における心的領域は、アメーバのような原生動物、そして植物、動物、人間に関わらず、生命体が共通して持つ特質である。以前見たように、吉本はさらに人間だけの心的領域を形成する、「純粋疎外」の領域というものを考えている。これについて考えたり説明したりすることは、困難でもあり面倒なことでもあるので、ここでは吉本思想のよき理解者、宇田亮一の解説的な文章を引用して、手っ取り早くイメージできるようにしたい。ここでは哲学的に考察したいのではなく、心の形成のイメージを豊かに持ちたいのだ。
 
ヒト固有の心≠ェ生物一般の心的なもの≠ニどう違うのかについて、吉本さんはこう説明します。人間だけが「原生的疎外の心的領域それ自体を「空間化関係づけ)」、「時間化了解)」できるのだと。つまり、生物一般の心的なもの≠ナは空間と時間とは一体化していましたが、人間だけが「原生的疎外」の時間(了解)を、さらに空間化する(関係づける)ことができるのです。そして、それをさらに時間化することができるのです。そしてそれをさらにさらに空間化する(関係づける)ことができるのです。これがヒトの心の時空間の本質です。一言でいえば、時間と空間を相互に転換できるのです。吉本さんはこのヒトの心だけに生じる時空間転換の特性を固有時間=A固有空間≠ニよびました。そして、この固有時間、固有空間の心的領域を「純粋疎外」とよんだのです。つまり、「原生的疎外の心的領域それ自体を空間化し時間化することで生じる心的領域が「純粋疎外」なのです。
 
 これはもう少し平易に置き直すと、生物には、植物の心、動物の心、のような言い方で言われる心的なものが共通にあるということである。また、それは対象的な環界への反応、反射運動となって表れる。そして、ヒトだけはこの植物の心、動物の心を、さらに対象化できる心的機能を持ち合わせているということになる。
 つまり、屋上屋を架するではないが、一次的な心に立って、二次的、三次的と、次々に心の対象化を繰り返していけるのが人間の心であり、そういうヒト的な在り方の心的領域を「純粋疎外」の心的領域と呼ぶということだ。
 空間化(関係づけ)や時間化(了解)の言葉、概念などはなじみにくいかも知れないが、これは外界を捉える、すなわち感覚器官での外界の受容から、脳に伝達されて了解に至るまでを、時間―空間の概念で表したものである。原生的疎外の心的領域では、たとえば動物では、【あそこ何かがいる=ネズミ】が瞬時に識知されると考えられている。
 宇田亮一は、人間の心的なものが、ここで言うところの原生的疎外の段階に留まっている様相は、乳児の在り方に認知されると言っている。そして言語獲得のプロセスにおいて、原生的疎外から純粋疎外への変容が行われると述べている。少し長くなるが宇田の解説を引用してみる。
 
ごはん、母親、ネコ、イヌ、自動車といった対象物を「原生的疎外」の心的領域で扱っているときは、関係づけ(空間化)と了解(時間化)が一体化しているため、言語は成立しません。もっと言えば、言語化する必要がないのです。過不足なく、関係づけ(空間化)、了解(時間化)が一体化しているので、言語化の契機が存在しないのです。しかし、心の時空間が、固有時間、固有空間に変容し始めると、心の中で了解した(時間化した)、ごはん、母親、ネコ、イヌ、自動車といった対象物をもう一度、関係づける(空間化する)ことになります。いわゆる対自″用が起こるのです。これが「原生的疎外」から「純粋疎外」への変容です。ごはん、母親、ネコ、イヌ、自動車といった対象物を心的領域でもう一度、関係づけることになるのです。言い換えれば、外部の対象物を了解した後、その了解自体を対象物としてもう一度、了解作用が起こるわけですが、この時の対象物は内的なものであり、実在物ではありません。だからこそ、この内的なものをあたかも外界(環界)の実在物のように捉えようとする衝動が生まれるのです。この衝動が発語≠ノつながります。ここから言葉が生まれるのです。「マンマ」「ママ」「ニャンニャン」「ワンワン」「ブーブー」と言う言葉が飛び出してくるのです。つまり、「原生的疎外」の心的領域で了解したものをさらに関係づけるという時空転換によって、はじめて言語表現が可能になるのです。この時空転換が満一歳あたりで生じるということです。
 
 宇田の、「この時の対象物は内的なものであり、実在物ではありません。この内的なものをあたかも外界(環界)の実在物のように捉えようとする衝動が生まれるのですこの衝動が発語≠ノつながります。」という発言に内在する論理は見事なものだ。ここには三木成夫の生物学的な見方からする、言語の成立に関する見解が含まれているように感じる。少し寄り道になるが、こことクロスすると考えられる三木の文章を書き写してみる。
 
 私は、この時の情況をこう考えています。それは、もちろんさきほどの二重映し≠フ理論が基礎になっている。つまり、幼児たちにとって問題なのは、見慣れているものではなくて、初めて接するいわゆるイメージのつかないものです。ここでいう目前の印象像を裏打ちする回想像の持ち合わせが、そこにはない。伝家の宝刀である、あのなめ回しの記憶がないのです。手にとって、しげしげと眺めながらゆっくり難度もなめ廻したかつて≠フ記憶がまるきりないわけです。いうなれば勝手(かつて=\佐藤)がわからない。洒落ではありません。
 くどいようですが繰り返します。コップを見て、円を感じるときの後見人―それは、かつての舌の運動記憶―しかもその運動記憶の再燃であります。幼児たちにとって、この後見人がいない時は目前の印象像は、まるで宙に浮いてしまうのでしょう。このことは幼児たちにとっては大変です。そのままにやり過ごすことのできない、まことに切実な問題なのでしょう。
 これで幼児たちの求めているものが、なにものなのか明らかになったと思います。それは、かつてのイメージすなわち印象です。印象という文字は、ものの本質を表しているように思われる。印はハンコ、象はあの朱肉に残った文様≠ナす。幼児たちは、このかたちの持つひとつの実感を求めている。ここです。つまり、かれらの求めているのはそのようなひとつの実感ですが、ここではそれを「言葉」として求めているのです。言い換えれば肉声の織りなす、そうした文様でもって、それを実感しようとしている。 (三木成夫「内臓とこころ」河出文庫 p132)
 
 外部の対象物を捉えるのは感覚器官が行っている。しかし一次的に捉えたものをさらに対象化するヒトの純粋疎外の心的領域は、心的領域であることによって対象物はすでに内的化されており、その内的化された対象物は実在物ではなくなって、三木の言い方を借りれば、「宙に浮いて」いる状態に同じことになる。これは「やり過ごすことのできない、まことに切実な問題」で、ここに「発語」の契機が生じてくる。つまり、ヒトの心的世界に浮上するものを心的世界であたかも実在物のように扱うために、ヒトは、三木が言うところの「ハンコの文様」すなわち「発語」〜「言葉」を生みだし、これを介することによって、ヒトの心的世界を心的世界たらしめたと考えることができる。
 ほんとは、三木の文章は初めての「ワンワン」や「ニャンニャン」などの発語を経た後の幼児の、「コレナーニ」と尋ねる語彙獲得の時期のことを述べたものである。だから宇田の言わんとするところとは時期的な違いがあるのだが、純粋疎外の心的領域に変容したヒトの心が、必然のように「発語」〜「言葉」を持つに至る経緯が二人の発言から理解できるように思える。
 このように、吉本が言うところの人間の純粋疎外の心的領域においては、外界の「実在物」は「言葉」に変容すると言ってもいいし、「言葉」が「実在物」に変容して存在すると考えてもよいように思える。もっと誇張すれば、心的領域では「言葉」が、心的な「実在物」そのものなのだと言っていい。
 ここまでを概括すれば、ヒトは乳児期においてヒト的な心的変容を経過するということと、同時にそれは、ヒトに「言葉」の獲得を促し、必然のように強いてくるものだということである。
 これらのことは他の生き物には見られない人間固有の発達過程である。また、これがヒトの赤ん坊の、異常と言っていい成長の遅さの理由の、ひとつであると推論することもできる。
 ところで、胎児期における原生的疎外の心的領域において、胎児は母親との交流を、あたかも原生動物の無定型な反射運動のように反応しながら過ごす。母親の心身に緊張が走れば、血流や筋肉の収縮などの変化が胎児の心身にも伝わり、何らかの反射的な反応をもたらす。心的に言えばそれは原生的疎外の領域に起こることであり、全て無意識的な体験となる。この無意識下で、生命としての胎児は、自分が愛される存在であるか否か、歓迎される存在か否かを、子宮内での居心地の良さや悪さというもので判定する。
 もしもそこでおおむね居心地よく過ごすことができていたとすれば、外界の劇的な変化という出産時のショックを経た後も、生命力あふれた赤ん坊の姿態を垣間見せるに違いない。
 そして、それからの約一年の間、授乳から排泄物の処理などを含めて、母親や母親代理のかいがいしい世話を受け、愛情を注がれた乳児の生きる意欲はいっそう輝きを増す。  これはまた、先に述べた心的な変容と「発語」〜「言葉」を自らのものにしていく過程と重なるところである。誰もが見たことがあるに違いないが、この時期、母親(代理)は乳児が理解しようがしまいが、しきりに乳児に向かって声がけする。これがどんなに大事なことか、ここまでを読めば容易に想像がつくことと思われる。
 ここで少し補足しておけば、吉本が言う無機的自然に対して、異和として存在する生命体が持つ原生的疎外の心的領域と、人間においてのみ純粋疎外の心的領域に変容した心的領域とは、ヒトの中で併存するだろうということだ。必ずしもヒトの中で、心的領域が原生的疎外から純粋疎外に変容したために、原生的疎外領域が消失するわけではない。それはどこまでもあり続け、ただ純粋疎外領域が前景化した時には原生的疎外領域は後景に退き、逆に原生的疎外領域が前景化する場合もあり、その時は純粋疎外領域は後景に沈んでしまうということになる。さらに付け加えて言えば、吉本の原生的疎外の概念には植物的な内臓系や、それとの関連が強い脳幹の視床下部(生命中枢)、及び大脳辺縁系との関係があるのだろうと予測される。また、純粋疎外には動物的な体壁系と大脳皮質が深く関係していると思われる。
 吉本の言語論では、「発語」〜「言葉」は自己表出と指示表出の概念によって解説されているが、これは宇田によれば、自己表出は内臓表出に、指示表出は体壁表出に置き換え可能だとされている。これを前述したところに重ねて考えれば、心自体にも言葉自体にもこの二系列が関与し、織り合わされていると考えられる。
 ここで、言葉に関する自己表出と指示表出の概念を分かりやすく受け取るために、宇田の文章を借りてみる。
 
吉本さんは、海をはじめて見たとき、狩猟人の内側からこみあげてきた衝動であり、それが〈う〉という音声で喉を突きあげて出てきたこと≠みつめているのです。これがいわば言葉の生命力≠ナあり、魂≠ネのです。「自己表出」には表出者の生命力≠竍魂≠ェ込められているのです。ただ、「自己表出」だけでは言葉は成立しません。それだけでは単なる叫び声∞うめき声≠ノすぎないのです。それはちょうど赤ちゃんの泣き声が生命力≠ナあり、魂の叫び声≠ナあるにもかかわらず、言葉ではないのと同じです。「自己表出」に意味が付加されることによって、初めて言葉≠ヘ成立するのです。この言葉の意味≠ェ「指示表出」です。ですから、「自己表出」が生命力∞魂≠フ表出だとすれば、「指示表出」とは意味≠フ表出だということができます。
(宇田亮一『吉本隆明 “心”から読み解く思想』彩流社 p95)
 
 これとは別に、宇田は「芸術の言葉」と「日常生活の言葉」とに喩えて同じことを述べている。もちろん前者は自己表出面を強調する表現であり、後者は指示性、すなわち意味性を重視する表現であるのはいうまでもない。
 赤ちゃんの様子を思い起こしたり、宇田の文章を読み返して思うことは、自己表出、つまり表出(表現)意欲が先んじていそうだということである。それがなければ指示表出欲求自体が成立しないように感じられる。自己表出意欲は生命表出欲求そのもののようでもあり、フロイトの生命衝動に分かちがたく結びつくものだとも思える。そこで、自己表出性は言葉以前の言葉、言葉の根幹なのであり、これが言葉の価値と見なされる。比喩的に言えば内臓表出であり、一方、指示表出性という意味性の獲得は言葉を言葉たらしめるものと見なされ、これは体壁系が深く関与した表出と見なすことができる。
 以上、吉本の疎外論と表出論を中心に、胎児期から1〜2歳頃の乳幼児期の心や言葉について考えてきた。同じテーマを何度も繰り返し、遅々として進まないかのように見えるかも知れないが、明瞭さの度合いは増してきているはずだ。さしあたって、もっともっと透明度を高めて、子ども期の心的形成の経過を辿ってみたいというのが望みだ。また、最近の不穏な異常気象とも見える現象にも似た、泡立つ子ども世界の本質がどこにあるのかを、もっともっとはっきりさせたいという個人的な執着もある。そしてそれはただそれだけのことであり、それ以外の何ものも目指すものではない。もっと言えば、この考察は自分という個人に留まったままのものでもよいと思っている。すでに、自分以外の誰かに分かってもらおうという思いは捨ててきている。もうこんなことが話せる相手は周囲には誰もいない。誰もいないことが当然になった。さらに、世にいる教育専門家たちの様々な情況論、その口ぶりに、全く興味、関心の針が揺れなくなった。どうでもよいことだらけである。 もう一つ、やっておかなければならないことがある。吉本の関係論からする心的な問題で、いわゆる共同幻想、対幻想、個人幻想といった幻想論である。これを次回に考えてみたいと思っている。最終的に今回の考察とどう結びつくか、そこまで進められたら次のステップに移っていけると思う。
 
 
源流論 9
              2016/02/21
 子どもの成長と発達について、子どもたち自身をふくめ多くの人々の関心は小中高そして大学と、よい形で通過して社会人として巣立っていくことであるように思える。
 よい形で通過してということは、しっかりと学業を修めるということがひとつであり、もう一つは通過の過程でそれが中断するような問題が起きないことを指している。
 考えてみると社会や個々人の関心や願いはそんなことに過ぎないのだが、現状の長い学校生活というトンネルを潜り抜ける過程は、まるでブラックボックスの中を潜り抜ける過程のようであり、あるいはそこに様々な障害物があり、外部から見れば障害物競走を行っている過程と言えなくはない。
 もちろん現在ではそこに様々な問題が生じて、社会的な関心を引き寄せているということは言うまでもない。そしてその関心の主たるものは障害物を取り除けという方向に集約させて考えることが出来る。社会全体も個々の大人たちも、相変わらず子どもの学業過程を無事にスムーズに通過させるためにどうするか、ということだけを考えている。
 そのことは一般的に言えばごく普通の関心であり、対応であると言えそうである。だから、そのこと自体を余り詮索したり批判してみても仕方がない気がする。現実にそういう関心の向け方をし、そういう方向で対応を考えるということには、ある種の必然的な理由があってのことだろうと思われるからだ。
 ただし、自分自身の子ども時代、そして小中高、大学を通過する過程をよくよく考えてみると、どうも学業とか進学とかが第一義的な問題ではなかったような気がして仕方がない。もちろん目の前にちらつく大きな問題ではあったのだが、そのことは自分がやるかやらないか、努力するかしないかで解決できる問題だということは分かっていたような気がする。
 一般化できないことかも知れないが、子ども時代を振り返った時に、いまでも鮮明に思い出すのは悩ましい「夢」の数々である。この場合の「夢」は睡眠時のもので、特に記憶に残っているのは空を気持ちよく飛んだり、また落下する恐怖に苦しむ「夢」である。もう一つよく覚えているのは、野原を走り回っていると必ずといっていいほど蛇に出会ったり、着地する足が蛇を踏むという「夢」である。これにはもちろん常に恐怖感が伴う。恐怖というとこれは「夢」とは別だが、夜昼問わず家の中のトイレに入るときに背筋がザワッとする怖さがあったことを思い出す。いま思うとそれは閉所恐怖症ということだったかと思うが、子ども心にそのことを幽霊に結びつけて捉えているようなところがあった。
 このことで何を言おうとしているかというと、つまり、小学生当時の自分の切実な悩みというものは環界との折り合いの付け方で、それがうまくいかずに苦しんでいたのではないかということだ。それが自分にとって第一義に切実な問題であったという事だ。
 これに関係する例をもう少し挙げてみると、小学四年の時に担任の先生に職員室に呼ばれて理不尽な注意のされ方、叱られ方をしたときがあるが、その時自分は反射的に先生の足下につばを吐いてしまった。一瞬その場が凍り付く感じがあった。取り返しのつかないことをしでかしたという気分にもなった。
 またこれは六年生の時だが、一番親しいと思われていた友達から「好きで一緒に付き合ってきたわけじゃない」という宣言を受けた。これも大変ショッキングなことで65のこの年まで忘れずに覚えている。
 こうしたこと以外にも、体が痩せて小さかったことや、よく友達と諍いしたことなど、悩みの種が尽きなかった子ども時代であったことを思い出す。
 はっきりと言えばこれらの個人的な諸問題というものは、当人にとって見れば切実なものであるにもかかわらず、友達や両親、あるいは学校の先生にも話せないし相談できずに教えてももらえない、また解決のつかない問題であった。だから人知れず思い悩むことになり、解決の方途は自分で探すほかないものだ。いまこの時期を振り返ると、日常の生活は遊びが全てであり、内面的にはそういう苦悩が全てであったように思える。こうしたことに比べたら学校の勉強などは、本人にとっては取るに足りない事だったように思える。こう言うと、学校の勉強や宿題は一切やらなかったように聞こえるかも知れないから、もちろんそれはそれでやっていたという事を言っておかなければならない。どちらかというと授業中に手を挙げて発表したり、宿題はきちんとやる子どもだったと思う。そこには何と言うか、つまり、しなければならないという脅迫めいた気分があって、本心から好きで勉強をしていたという事とは少し違う。だからその時代をトータルで考え合わせれば悩ましい夢の形に象徴させて考えることが妥当で、子どもの一番の問題は無意識の葛藤にあり、そういうことをやっているんだという事をきちんと認め、そのことを尊重しなければならないという気がする。
 学校でも、家族などの身近な人たちからも教えてもらえないこういう問題について、解決とまではいかないまでも、ある示唆を与えられたのは文学によってであった。
 文学に本格的に出会ったと言えるのは高校の時だが、小学中学と物語や小説そして詩歌の類いに触れてある親しみは覚えていた。当時はその親しみがどこから来るのかは分からなかったが、いま思うとそれは個人的な心の琴線に触れる唯一のものだったからだと思える。そこではじめて現実の家族、地域、学校生活からは得られない、つまり内面的な悩み事に抵触する分野、領域を見いだしたように思える。もちろんこれは自分だけの余りに個人的な出会いではあったけれども、人間には何か現実具体的な諸関係の中にはさらけ出すことの出来ない、内面的な秘め事が誰にでもあるに違いないと考えるようになった。
 いま述べてきたところから本当は何が言いたいかというと、人間には容易に伝達可能な頭による知の働きと、もう一つ煩悩をもふくめて考えることの出来る心の働きがあるということである。知は、比喩的に言えば水面であり表面的に了解し合えるところのものである。一方心は底を流れるものであり、深層にあってこれを取り出して了解し会うということは考えられるほどに容易なことではないと思われる。
 心と言ってみたが、ここで子ども期を考える考え方からいえば、これは性格と差し替えて言い表すことも出来る。
 つまり子ども期にとって何が重大な問題なのかといえば、心の問題すなわち自分の性格が重大問題なのであり、それと周囲の人間との関係、事象との関係がどのように折り合っていけるかということを常に模索しながら生きているということなのだと思う。
 しかし社会全般は、子どもが日々めまぐるしく心を動かし生活していることに注意を向けず、またそのことに子ども期を生きる根源的な価値があるという見方が出来ずに、かえって子どもには余り必然性も意味も無いように見える外部の知識、技能の習得を早期教育の形で注入し続けてきた。確かに人間の心というものは目に見えず、それだけで何かを生みだすことはないかも知れない。これに比べると頭の働きというものは何かを生みだしたり作り出したりする基になり、有意義に思えるし、使えば使うほど、鍛えれば鍛えるほど、発達していくことがはっきりとしている。
 これは身体的に言えば体壁系の筋肉や動きを鍛えて発達させることに似ている。目に見え、形に表すことが出来る。だが心臓のような内臓系は常に一定の動きをしているにもかかわらず、鍛えようとしてもはっきりと変化の兆候を見ることは難しい。そこで今日の社会ではジムやエステやジョギングなどで体壁系を鍛えることが流行になり、内臓系に対する注意はおろそかにされるか、もっぱら医薬品やサプリメントに頼るということになっている。そしてこのことはそのまま我々の頭と心の成長や発達の、現在的な状況を反映していると見ることが出来そうに思える。
 あえて言ってみれば、本来、生きることの主体は内臓系の「食と性」そのものであって、体壁系はそれを支えたり促進させたりと補助的な役割をするものだ。にもかかわらず、どうかすると我々の目は体壁系の方に強く注がれ、そちらの方が生きることの中心のような位置を与えられ、篤く手入れされることとなっている。そして関心はあるのだが内臓系は何となく成り行きにまかせられているといった気配である。
 現在の子どもたちの頭と心の状況も同じで、体壁系の頭は学校で知識や技能や道徳律をぎゅうぎゅうに注入されて鍛えられている。けれども主たる出所が内臓系の心はやはり成り行き任せにされ、あるいはとんちんかんにも頭の問題に混合されて教育的なところで何とか出来るものと錯覚されたりしている。だが本当はそんなことでどうにか出来るものでないことは分かりきっている。つまり社会全体が内臓復権を目指すもので無い限り本当の内臓の健康があり得ないように、心の方が頭よりも基になるんだよという意識改革が成されない限り、激しく泡立つ子ども世界、いじめ、暴力、不登校、殺人などの、心が関与する問題というものは緩和されていったり沈静化していくということはあり得ないのだ。人殺しがよくないことで、罪に問われる事は誰でも頭では理解している。そういうところのぎりぎりの決定や決着には、頭ではなく、心の方が強く関与するものなのだ。そして心というものは、頭で考えるということほどに、自身で完璧にコントロール出来るものではないということは理解されなければならない。
 今日、教育学や心理学などの学者も専門家も、あるいは子どもの親も学校関係者も、こぞって学校教育活動の強化、道徳や知識、技能を教え込むことに懸命であることは不自然な事であり、おかしなことである。そしてこのことのおかしさ、不自然さに気付こうとさえしていないように見える。
 じゃあどうしたらいいのか。そう考えて、しばらく考えあぐねていたところで、「日本子ども学会」という名称のサイトに次のような発言があった。おあつらえ向きというわけではないが、ここから先を考えていくために少し引用して、この先に考えがつなげられるかどうか試みてみる。
 発言者はこの会が講師として呼んだ総合研究大学院大学教授長谷川眞理子さんで、「進化生物学から見た子ども≠ニ思春期=vという演題が書かれていた。「日本子ども学会」にも、長谷川さんについても全く未知なのだが、発言には共感できるところがあった。 
 今の子どもをめぐる状況は、すごく大変なことになっていると私も思います。近代国家による組織だった教育というのは、戦力としての国民をつくるためだから、字が読めて、計算ができて、何か言えば何かやってくれるような人間を大量生産するために、子どもを一定規格化する教育を持ち込んだということだと思います。それは人間が本来、何を学び、何を学び合って育っていくのかということではなくて、国家が国力を増強させるために何を教えるのが一番よいかということでつくられてきた教育プログラムです。
 
 私はチンパンジーの研究をしているときに、半ば狩猟採集、半ば焼き畑農耕で生活しているトンゲという人々と一緒に暮らしていたんですけれども、トンゲの人たちで学校教育を受けていない人たちは、本当に五感がすごく優れているし、自然に対する知識がたくさんあります。だけど、若い世代で、学校に行くようになった世代は、そういうことはわかりません。だから、チンパンジーを見つけるトラッカーとして雇えるのは30歳以上の人です。30歳以下の子は体力もたくさんあるし、好きだから行きたいと言うんだけど、雇っても役に立たない。彼らより私の方が先にチンパンジーを見つけますから、全然ダメなんですよ(笑)。若い世代と上の世代を見て、習ったものが違うと世界の見方も全く違うのだと、本当に思いました。
 
 その意味では、今の日本の学校教育は、学問の知識とか、特定の技術を操作することを習うということをやっているから、昔の子どもたちが上の子から下の子へと伝えていた、たとえば小さい子の面倒の見方であるとか、ケンカしたときの仲裁の仕方とか、そういうのもすごく減ってしまっているのでしょうね。私の小さい頃は、電車に乗ったらみんな、窓の外を必死で見ていましたが、今、窓の外を必死で見ている子どもなんていないですよ。ほとんどがゲームを見ている。そうすると、本当に観察しない。観察しないと、物についての直感力がなくなるから、すごく困ると思います。でも、そういう状況を止められない。どうしましょうね(笑)。
 
 でも、京大の幸島さんだったと思うのですが、言っていましたが、自然観察教室で子どもたちを見ていると、最初はゲームがなくて、やることがなくてものすごく困ってブーブー言うんだけど、そのうち物を観察し始めるんだそうです。アリをじっと見るとか。子どもは本質的に好奇心があるから、物を観察するんですね。それを、いろんなつまらないおもちゃを与えるから、ダメな影響があるんですね(笑)。(太字は佐藤)
 
 つまり生物学、人類学的な見地から、現在の子どもたちは本来的な育ち方というものを少しも考慮されずに、共同社会の維持目的を中心にした教育プログラムに支配されていることが語られている。
 長谷川さんも言っているように、このような状況を我々の現在社会は深層では「止められない」。「どうしましょうね(笑)」と思っているに違いない。またここでも同じような言葉を継いでもいいのだが、本当は笑い事ではすまないはずだ。
 長谷川さんのような学者さんをはじめとして、現在の子どもたちが子ども本来の生き方や育ち方が出来ないところから、様々な問題が生じていると考える人たちは少なからずいると思うのに、その声は社会の大勢を形成しているとまではいかない。多くの大人たちそして親たちも、子ども世界が今日のような状況を呈するようになっても相変わらず子どもの成績がどうの、受験がどうの、社会性がどうのと、さらに状況を悪化させる方向での物の見方考え方しかしていない。これではますます子どもの変調とか不満とかは加速度的に増していくほか無いと思える。
 親の世代も本当は自分たちの成長過程の大部分を学校生活の中に過ごし、本来的な成長過程から引きはがされて、抑圧に心を苦しませ、また無意識の奥に傷を負ってきたに違いないと思える。けれども、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまったり無意識の奥に閉じ込めてしまったりして、我が子には教育プログラムの開発者に近い言説に馴致したり同致した位相で接し、その方向で努力するように促す。もちろんそれでもまだほとんどの子どもたちは、自己内部の無意識が発する声と外部の声とが折り合える箇所を見つけ出し、異常の手前で踏ん張って生活できていると言える。とはいえ、そのような子どもたちといえども親と子の世代間で、世界の見え方は断絶と言っていいほどに隔絶してしまっているに違いないと思える。そしてもちろん祖父母と親の間にも世代観の相違は大きく横たわっていよう。これが高度文明社会の実像のひとつだといえば言える。「どうしましょうね(笑)」という声は、どの世代にも共通するもので、どの世代もどうすればいいのか本当はよく分からなくなっているというのが今日の社会状況に違いない。それなのに自分はさも何でも知っているような顔をした大人たちは多い。嘘でしょうと思う。それは誰かの考えをパクっているだけでしょうと思える人が多い。実際はだれも何も分からないところで、いまの子どもたちにはなおいっそう相談できる大人たちはいなくなっているという事になる。社会的に大事にされているように見えて、子どもたちのこころは孤立化の道を辿っているように見える。大人たちにはそれが実感できないのではないか。今の時代に子どもでいる事がどのように大変で在るのかが分からない。子どもが子ども期にどう過ごす事がいいのかも分からなくなっている。
 いや、大人たちの多くは心の奥深くのところでは、少なくとも子ども期をどう過ごすべきかは分かっているのじゃないだろうか。それが社会的な諸事情を勘案するところから、口をついてでることが無くなっているのかも知れない。変わりにというか代弁してというか、次のように結論してみる。
 子ども期は遊びが生活の全てとして遊ばせればいい。胎児期、乳児期に形成された性格の核、それが家族生活の中で幾分丸められる幼児期を経て、以後は変転する集団の中にそれまでに形成された自己を存分に発現し、ぶつかり合い、支え合い、それは次の段階の意識的な自己形成の基礎を構築する事になる。勉強というものもまた、次の段階から始められていいものだ。
 以上、これで終わりといきたいが、最後にこの項で言っておきたい事は、泡立つ子ども世界はそのまま我々に警告を発しているという事だ。あるいは意識的にそう考えた方がいいという事だ。
 我々は身を挺して警告する子ども世界の泡立ちから、たくさんの事を学ぶ必要がある。 現在の泡立つ子ども世界を歎く大人たちは数多い。そうして思い思いに是正のために何かをやったり、考えたつもりになっている。けれどもそれはあくまでも「つもり」にしか過ぎず、「思い込み」でしかない。この「思い込み」は社会的に席巻し、そのことはまた思い込んだ事が正しい事のように錯覚させる空気感を形成していると言う事ができる。
 それが、現在の大人たちが経過してきた子ども期と関係しているでしょう、とここで言ってみたい。つまり、子ども世界の泡立ちを歎く前に、自分たちの足下も泡立っているでしょう、それをしっかり見ましょうよという事だ。そこを見ればまず自省から始まり、生育歴を遡る事もあるかも知れない。子どもの世界とのつながりはそこに見いだす事が出来る。そして自分の反省にたって子ども世界を眺めるのでなければ、本当の子ども世界というのは見えてくるはずがない。それは自分の事が見えないという事と同じだ。見えなくとも差し支えはないのだが、だったら指導者面をして他人(ひと)の事、子どもの事をあげつらうのはよせやいと言いたくなる。
 
 
源流論 8―B
              2016/02/06
 今は学力低下のもとになったと教育崩壊の権化みたいに言われる「ゆとり教育」が始まった時、これはいいもんじゃないかと思った。勉強時間が少なくなって、勉強自体も何か遊びと見分けがつかないような楽しいものになるのじゃないかと期待した。極端な言い方をすれば、国語は読み書き、暗記といったことを中心に学習し、算数は加減乗除の計算を中心に繰り返し学習する。その他のことはみな遊びみたいにやってしまう。そういうことでいいんじゃないかと思った。しかし、実際に始まるとそういうことではなかった。「総合の時間」が導入されて、それが実際の取り組みになった時に、ああこれはダメだなと直感した。特に小学校の高学年では総合学習のテーマが「環境」問題や「節電」の問題等が取り上げられることが多く、つまりそれは正論、結論ありきの、誘導目的の学習に過ぎないと感じられたからであった。そういう学習は本当は一番やってはいけないことだ。
 実際の趣旨がそういうところにあったのかどうか分からないが、学習全体が考えさせることに主眼を置くようになった。だがそもそも考えるということはその人の必要性があるところで考えるのであって、また考えるということは読み書きの反復練習に比べてもはるかに高度で、言葉の他にたくさんの引き出しがつくられていなければ考えろと言われてすぐに応えられるのは大人でも難しいことだ。
 こういうところは杉田さんの主張にも一部共通するところがあって、だから杉田さんの文章にはその通りだと思えるところもたくさんあった。そのことは何度でも言っておきたい。
 「総合的な学習」を目玉とした「ゆとり教育」が頓挫したにはたくさんの原因や理由があり、現場の教員たちにも考えるところが少なからずあった。それはいま言っても仕方がない。ただ、文科省主導の公教育はもう破産しているなとその時は思った。どんなすばらしい(?)改革案を掲げてみても、そこに内在する理念が現実化できることはないだろうと思う。もうそれははっきりしている。指導層と現場との乖離の溝は絶対に埋められない。現場を知らない上層部と、上層部の理念を受け止められない現場の乖離は構造的なものだ。そうできあがっているからそうなるほかはないというように、うまくいくはずがない。
 杉田さんのホームページの文章にも「ゆとり教育」に触れている部分がある。そこを少し引用してみる。詰め込み教育批判に対する反論の部分で以下のようなものだ。
 
・ゆとり教育、新しい学力観の一貫として四半世紀にわたって「教え込むのでなく、子供が自ら気づき学ぶように興味・関心・意欲を重視した授業」の大切さが強調され、全国の学校で実践されてきました。しかし、これはどんな結果をもたらしたでしょうか。それは、子供たちに学習意欲が著しく低下したという事実です。今日、どの調査でも日本の子供たちは先進国の中では一番勉強してないことが明らかになっています。子供の興味・関心・意欲を重視することは誰もが賛成する正論です。そのような授業に努めてきたのに、なぜ学習意欲が低下したのでしょう。それは、「詰め込み授業を追放して興味・関心・意欲の重視の授業を!」の方針から、反復学習やトレーニングが著しく軽視されてきたからだと考えられます。例えば、どの学校でも算数の授業研究では、子供たちが興味・関心をもつように「授業導入の教材選び」の研究に膨大な時間をかけています。そこでは、反復練習で学習内容を定着させることが研究の対象になることはありません。なぜなら、反復学習やドリル学習は教師主導の詰め込み教育であり、「新しい学力」の対極にある「旧い学力」の典型とみなされたからです。それで、漢字や計算の練習は授業中にやるものでなく宿題にされることが当たり前になりました。また、「計算は電卓でやればよい。大切なことは考える力をつけることだ」との計算練習を軽視する考えが広がりました。(現在の教科書では、複雑な計算は電卓でやることになっています)
 
 ゆとり教育に杉田さんが言うような傾向があったことは確かかも知れない。詰め込み教育への反省がゆとり教育を生んだのだが極端な傾向に走り、今日ではまた杉田さんが言うような反復学習やドリル学習に極端に走ろうとする傾向も見られる。たぶん、今日的に湧き上がって来ている教育現場での諸問題は、そんなことですっかり鳴りを潜めたり、沈静化してしまうということはないはずである。そうするとまた詰め込みに対する反省が盛り返し、同じ愚行を繰り返すに違いない。
 これらから考えることは、子どものためによかれと考えながら大人たちがバタバタする図だ。ああでもないこうでもないとひねくり回す図だといってもいい。大人たちがこうしてひねくり回したり騒いだりしている間に、肝心の子どもたちはすっかり学習意欲を無くし、勉強嫌いが多くなってきている。はっきり素行が悪くなったり荒れた言動の子どもを除けば、学習態度はそれほど乱れた様相を見せずに、である。つまり、まじめな態度で深く静かに勉強嫌いを潜行させている子どもが増えているように見える。ストレートな言い方をすれば、やった振り、やっている振りだけは見事にやってのけている。
 問題はだからもっと根本的なところ、根源的なところにあるような気がする。
 いま、学校教育全体から見て、よいなあと思えるところがひとつだけある。それは担任の先生とひとり一人の子どもたちが等距離にあり、かつ親和的な触れ合いを感じることの出来るクラスを見た時に思えるもので、そこには何とも言えない自然な心の交流の雰囲気が充満している。それはたぶん担任の先生の性格とか人格が反映するもので、子どもたちひとり一人に居心地良さが漂っていると感じられる。
 日々の授業内容がどうなのかはよく分からない。教え方が特に上手だとも、よいとも思えない。時に廊下で数人の児童を注意したり叱責する場面を見かけたこともある。そこから甘やかしているだけではないということが分かる。何がどうなってよい雰囲気のクラスに仕上がっているのかの確証は何もないが、ただ一点、その担任の先生は正直に自分のありのままで子どもたちに接している様子がうかがえた。ただそれだけで「何ページを読んで」と指示されると、全員が机の上に教科書を両手で立てて読み始める。昔の授業風景と言っていいだろうか。そんなことがごく当たり前に行われている。他のクラスにいたら率先して立ち歩きなどしそうな子どもたちも、実に行儀がいい。それがまた少しも力による強制と感じさせないところが見事だと思える。もちろん強制など少しもしてはいないのだ。子どもたちは「こうしましょう」と言われたことに、ただ素直に従っているだけのように見える。いや、従っていると言うよりも、自分から進んでそうしているように見える。
 そのクラスにも学校の勉強が得意ではない子どももいる。けれども、どこか授業を受ける姿勢、態度には前向きなところが残っている。出来ないことの負い目みたいなものは皆無ではないのだろうけれども、それが変に複合された感情としては外に表れない。つまり過度の負い目にはならないように担任が受け止め、そのことがいわば緩衝として機能しているものでもあろう。
 そういうクラスの光景を見ると、「ああ、学校というものはあってもいいものだなあ」と思う。
 大事なことは、先生と児童生徒との間のナチュラルな信頼関係なのだと思う。公教育の場はこれが成り立てばいいのであって、この経験は学力がつくとかつかないとかの比ではない。これはちょうど、胎児から乳児にかけての母と子の間に成立する信頼と不信の関係の、次の段階に訪れる重要な関係といっていいと思う。学校は今日の社会では幼児から成人に向かっての中間に設けられた制度で、これを動かしがたいものとして認めざるを得ないと考えるならば、ここでは知識や技能、道徳的なことを教える以前に、先生たちにとって全ての児童生徒の丸ごとの受け入れと、嘘のない本音での対応の仕方が何より重要なことだと思える。つまりこの時期の子どもたちにとっての重要事項は、人格形成の途次にあって裏表のない人格に出会うことだ。子どもたちは出会った人格からたくさんのことを吸収し学び取る。そこで出会った人格が子どもの感覚で受け止めたものと実際とで隔たりがなければ、子どももまた裏表のない人格を形成して行くに違いない。そのことはまた内面に乖離を抱え込む必要を持たないことになり、負担に苦しむことも少なくてすむ。
 とりあえずこういうところが可能になれば今日見られるところの荒れるとかキレるとか、あるいは学習意欲とか生きる意欲とかの面での喪失という最悪の事態は防げると思う。乳児期での母親(代理)との関係、そして現代社会においては学校での重要な第三者としての担任との関係が良好なものであれば、人との関係の基礎的な枠組みはまず人並みのものとして子どもの心に形成されると見ていい。その枠組みは過剰に攻撃的になることも受け身的になることもないように、ある閾のようなものとして作用する。そこを越えて攻撃的になることも受け身的になることも、よほどのことがない限り、制限するものとしてその枠組みは機能すると考えられる。つまり、逆に言えばその時の心的な体験がよほど悪いものでなければ、他に対する関係の仕方において悪くなりようがないのだと言っていい。
 小学校から中学校にかけての学校の先生や担任は、子どもの目から見れば学習や道徳規範を教えてくれるという側面より、人間の本質を体現する重要な他者として目の前に表れるものであり、よりその側面で注視される存在だと考えた方がいい。子どもの無意識の関心はその側面に注がれる。それはおそらく、成人前の子どもたちにとって言葉の獲得の次に来ると言っていいほど重大で、しかも無意識の欲求なのではないかと推測される。つまり家族内での両親とは別に、より規模の大きな他人同士の集まりである共同体の中に、範となる人間、人格を探し求める時期なのではないかと思える。推測に過ぎないから余り大きな声で主張する気は無いが、このことは過剰で過激な場合には、ということはつまり、一種の、人間世界に対する、根源的な信頼や不信に関連することだが、この時に不信に心が満たされたならば、それは子どもの自殺願望にも結びついていくという気がする。だからとてもデリケートで重大な問題だ。ここがスムーズによりよい形で通ることが出来たら、つまり、信頼に足る人物に出会えたならば、後は学習でも何でも多少厳しかったり苦しかったりが強いられたりしても、前向きに、耐えていくことが出来るに違いない。杉田さんなども言っている、学習に「集中して取り組む」とか、「粘り強く、忍耐強く取り組む」とかは、ここに述べたようなことが実は前提になってはじめて可能になるのではないかと思う。というより、それがクリアできていたら黙っていてもそうするようになると思う。またそれをクリアしていないところで前向きに学習しても、それはその場しのぎの一時的なものに過ぎないと言える。そこのところが、現在では非常に危なっかしくなってきている。過激な言い方をすれば、仮面を被って接する大人や先生が多くなりすぎて、そんな人たちが子どもたちを取り囲んでいるのだ。これでは子どもは不安に駆られ不信に駆られるに決まっている。仮面には人格がないから、子どもの印象は宙に浮いてしまう。そして無意識の中で不安や不信が募り、ひどい場合には人間性としての像が心的に拵えられなくなるために、ある日突然、異常で非人間的と見える振る舞いに及ぶようになってしまいかねない。 このあたりはもう少し厳密に詰めて考えていかなければならないところだと思う。ここでは提起だけに留めておいて、またべつな機会に探っていきたい。
 
 ここまで考えてきたところで疑問に感じているところがある。それはとても素朴なものだが、とても難しく感じられる問題なのだ。 勉強というのはそんなに大事なことだろうかというのがその疑問だ。
 マルクスの「無知が栄えたためしはない」という言葉は、それはその通りだなと思えるところがある。その言からいえば、知識や技術や道徳規範の習得は大事なことのように思える。つまり、勉強というのはけして不要なものではない。
 一方で、人間の基本的な生き方を考える時に、「食と性」、すなわち今日的な社会生活の上からいえば働いて食うことと、ある年令に達して結婚をし子どもを産み家庭生活を営むこと、この両面に関わり煩って行けばそれでもう十分じゃないか、人間的な使命や生き方は達成したことになるじゃないかという考え方があり得る。そこでは余計なこと、つまり勉強して知識を持つこととか立派な考え方を持つとかはいらないことになってしまう。 現在の日本社会では、前者の「知」の有意義性、有意味性が強調され、またそういう考え方の方が優位に置かれているように思われる。だから子どもの親も学校の先生も、知識や技能の注入、獲得に一生懸命で、子どもの塾通いもごく普通のことのように公認されている。これは教育崩壊が公言される今日においても全く衰える傾向を見せないどころか、よりいっそう激しさを増してきている気がする。親も学校の先生も、何とか子どもに勉強させよう、させようと必死になっているような気配さえ感じられる。
 人間には、世の中は進歩発展して行かなくてはいけないんだという考え方と、いやいや、進歩発展していけば行くほど世の中は戦いが起こり、乱れることになるからそれはよくないんだという、大きくいって二通りの考えがあるように思う。しかし現実は、明らかに進歩発展して行くことが人間社会の必然のように動いて来ているように見える。だがそのように動いて来ながら、一方で人々は自縛的に苦しんで来ているようにも感じられる。
 こういうところが現在の社会にあって、本当によく分からないところだ。
 人間には向上心というものがある。よりよくなろうとするとか、よりよくしようという心の働きを指す。これはよりよい人間になろうとかよりよい社会をつくろうという考え方に繋がっていく。これが極端になると、勉強がよく出来て、困っている人を救済できるような立派な人間でなければダメなんだというように錯覚するところまで行ってしまう。確かにそういう立派な人もいるのだろうが、ほとんどの人は世にありふれて存在する人々で占められているわけで、逆にそういう在り方で存在する存在こそ人間というものなのだと言える。つまりそれは、大勢のわたしたちであり、あなた方である。もっと言うと、そんなに都合よく立派な人間には成れやしません、ということになると思う。大勢のわたしたちやあなた方は、悪く言えば人間としての失敗作だろうか。もちろん、到底そんなふうに言えないことは誰にだって分かることだ。そしてそれが人間存在だということも。そうした時に、子どもだっておあつらえ向きの立派な子どもでいられるわけがないじゃないですかと思える。よく勉強し、行儀作法を心得、明るく前向きで、健康的ではつらつとし、誰とでも仲よく出来る子どもを目標にして努力せよと言われたって、できるはずがない。というか、それ以前に、ギャップの大きさに意気消沈してしまう子どもが圧倒的多数だという気がする。人間には向上心があり、どこかで理想の人間像や子ども像を考えてみることも必要かも分からない。けれどもそれはあくまでもうまく事が運んだらということであって、必ずそのように「ならなければならない」ものとなったら、大人でも子どもでも生きることは苦行になってしまう。欠陥があることはいいことだと言えないが、悪いことだとも言えない。いずれにしても子どもも大人も、どこまで行っても欠陥あるところから出発して欠陥あるところに着地することを繰り返す。それが人間存在というものであり、もしかするとちっとも変わり映えしないのだけれども、それでもとても人間的だと言えるところは心に葛藤を繰り返すところだ。それは目に見えないもので、いつどのように行われているかも分からないが、大人でも子どもでも誰もが必ず行っていることだ。そう考えたら、人間はもうそれだけで十分なのじゃないかと思えてしまう。それ以上立派にならなければならない必要性はどこにもないんじゃないかと思う。勉強なんかいいじゃないか、小さな欠陥をあげつらうことなんかいらないじゃないかと、そう思える。
 少し前のことだが、ある先生が退職を迎え、離任式で子どもを前にして、「皆さんなら戦争のない平和な世界を実現出来ると思うから努力してほしい」という意味合いの言葉を残して去った。少し親しかった人で、人のよい人だったので、その言葉を好意的に受け止めたかった。しかし、反射的に「それはずるいよ。子どもたちに託す前に精一杯自分が努力すべきだし、もしそれが自分に出来ないのだったら子どもにも託すべきじゃない。」という内心の言葉を打ち消すことが出来なかった。これは親にも先生たちにも、同じように言いたいことだ。子どもたちは自分たちの現実を自分たちの力で生きていると言える。そこには例え幼くとも考えることも葛藤もある。苦悶も呻吟もあるかも知れない。そんな時に横から、「ああしろ」とか「こうしろ」とか、あるいは「善」の押し売りとか、「仲よくしろ」の仲裁とか、そんなことは全部余計なことではないのか。子どもといえども一個の人生の主体に向かって事細かに干渉するくらいなら、まず自分が子どもに向かって言うだけの模範を、実生活上で示して見せたらいいじゃないかと思う。それが何よりの「教え」になることは考えるまでもない。それが出来なかったり、しないでいるくせに、未熟な子どもたちにはあれこれ知ったかぶりの物言いをする。そんなことが少しもためにならないことは、各々の子ども時代を振り返ったら簡単に理解できることではないだろうか。子ども時代に教育をされ、そのおかげで欠陥のない立派な大人に成長したと、あなたたちは本当に思っているのだろうか。たぶんそうは思っていないはずで、逆に教わらなかったからそうだとも思っていないはずなのだ。
 教え導かれれば誰もが優れて立派な人間に成長する訳ではないように、放って置かれたから誰もが非社会的な人間に成長するということでもない。ただ学校というのは、そういうきっかけや機会を与えるものであることは確かで、それを自分に引き寄せるのはやはり子ども自身に内在する目に見えない力である。 自分を省みれば、優れて立派な人間どころか、平凡、凡庸にも及ばず、せめてそういうところにまで自分を高めたい、力を持ちたいと日々感じながら生きているというのが実際だ。イメージ的に言えば負を背負って零地点に辿り着くことだが、それもやっとの事で可能になるかならないかというところに、現在いるというように考えている。ここから言えば、凡庸はいいじゃないか、平凡はいいじゃないか、ありきたりに苦労する人生というのも捨てたもんじゃないよと見えて仕方がない。 家庭も学校も、子どもに立派になることを望まなくてもいいじゃないか。子どもが気付かないくらいの静かな愛情をずっと注ぎ続けられたら、それでいいんじゃないだろうか。そうすることで、後年、他人の人生を狂わすようなことをしでかさないように育ったら、十分親の努め、先生の努めを果たしたことになるんじゃないだろうか。後はごく普通に、少しだけ富んだり貧しかったり、幸が濃かったり薄かったりするのが人生で、それを全うすればいいだけの話である。あなた方のように、わたしたちのように、である。
 
 唐突だが、ここで一昔前にフォークシンガーとして人気のあった吉田拓郎さんの歌を思い出した。「わたしは今日まで生きてみました」のフレーズが繰り返される歌だ。この歌の「わたし」を「子ども」に入れ替えて、替え歌にしたらどうなんだろうと思った。こんなことをしても吉田さんの不利益にはならないだろうから、ちょっとその歌詞をお借りして替え歌にして表してみる。
 
 「今日までそして明日から」
 
子どもは今日まで生きてみました
時にはだれかの力をかりて
時にはだれかにしがみついて
子どもは今日まで生きてみました
そして今 子どもは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
 
子どもは今日まで生きてみました
時にはだれかをあざ笑って
時にはだれかにおびやかされて
子どもは今日まで生きてみました
そして今 子どもは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
 
子どもは今日まで生きてみました
時にはだれかにうらぎられて
時にはだれかと手をとりあって
子どもは今日まで生きてみました
そして今 子どもは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
 
子どもには子どもの生き方がある
それはおそらく自分というものを
知るところから始まるものでしょう
 
けれど それにしたって
どこで どう変ってしまうか
そうです わからないまま生きてゆく
明日からの そんな子どもです
 
子どもは今日まで生きてみました
子どもは今日まで生きてみました
子どもは今日まで生きてみました
子どもは今日まで生きてみました
 
そして今 子どもは思っています
明日からも
こうして生きて行くだろうと
 
 どうであろうか。急に世俗的な流行歌ふうの歌詞を持ってきて戸惑われるかも知れない。また、こんなところでこのまま文章を終えたら、多言を費やして、結局何も語らなかったのと同じじゃないかという印象を残してしまうかも知れない。けれども、何故かそれでいいという気持ちでいるし、自分の考察もその水準もまだまだこういうところに及ばないんじゃないかとも思えている。平易な言葉で短くというのが理想で、まだ当分たどり着けそうにはない。
 
 
源流論 8―A
              2016/01/30
 次に、「勉強ばかりしていては、頭でっかちになり、まともな人間にはなれない」という知育偏重批判に対して、杉田さんがどう反論しているかというところを考えてみる。
 
◆反論
○「勉強をすれば人間性がおろそかになる」というのは、子供たちの実態を知らないで発言している空虚な観念論でしかありません。事実は全く逆なのです。今日問題なのは、常識としての基礎学力や基本的な知識さえ身についていない子供たちが増えていることです。特に、基礎学力の低下は、できない子供たちの間で深刻さを増しています。このような学力実態が、高学年や中学校での授業崩壊や荒れやキレにつながっている例は少なくありません。学力の崩壊が人格の崩壊につながるのです。今必要なのは、全ての子供たちに確かな基礎学力を身につけさせることです。
「知育偏重批判」の根底には反知性主義や勉強を敵視する思いがあると思われます。しかし、勉強や知識を敵視したり軽視したりしていては、これからの知識社会を生きていくことすらできません。
 
 前半の方で言われている、「常識としての基礎学力や基本的な知識さえ身についていない子供たちが増えている」のは確かなことだと言える。そして、「できない子供たち」が荒れていく、素行全般が怪しくなるということも何となく言えそうな気がする。そのために、最近の学校では基礎学力の向上を教育の目標に掲げるとともに、各学校に学習支援員が置かれることも珍しいことではなくなってきた。学習支援員とは児童の学習や心的なケアの側面を支援、補助するもので、また授業が円滑に進むように、教育活動全般にわたる助っ人的な存在として市町村委員会ごとに個別に採用され、各学校に配置されている。
 ここで杉田さんが言っているような意味合いから、今日の教育界全体が基礎学力の向上を学校教育の集約のように見なしながら、これを目指ざそうとしていることがよく分かる。しかし、考えてみれば、基礎学力の向上がこのような意味合いで取り上げられることは今に始まったことではない。かつて、自分が現役で教員をしていたころから各市町村、各学校では同様の取り組みが繰り返されていた。その頃にも、なかなか基礎的な知識が身につかない子どもはいて、先生たちはそんな子どもたちの将来を心配していた。そしてここで杉田さんが考えていることと同じように考えて、「全ての子供たちに確かな基礎学力を身につけさせ」ようと努力した。けれども、なかなか思うようには事は運ばなかった。特に郡部や田舎に行くほどに学力は低くなり、これは容易に改善の兆候が見いだせないものだった。それでも、どのような子どもにも最低限の学力は保証しなければならないとして、先生たちはがんばってきたと言える。
 当時も今も、子どもの能力という面では変わり映えがしないという気がする。出来ない子どもの割合もそんなに違いが無いように思えるが、ただ、出来ないとなると極端に拒絶や放棄の様相を示すという点で、今日の子どもたちは以前の子どもたちよりも耐性が弱いとは言えそうだ。以前の子どもたちは学習についていけないからといって、すぐに荒れるというようなことはなかった。そのへんは先生も子どもも、うまくごまかしごまかしやっていけていたように思う。もちろん今でもそういう部分はないとは言えないが、どこかしらずいぶんとシビアな様相を呈して、子どもも先生もどこかぴりぴりした感じを醸し出している。
 杉田さんはここから子どもの人格が崩壊することに繋がると見ているわけだし、それを防ぐにはどうしたって基礎学力をきちっと身に付けさせることが必要だと説いているわけだ。これはちょっと聞く分には、なるほどなと納得させられる言辞かも知れない。原因は基礎知識を身に付けていないために学業に自信を失い、自分に自信を失うところにあるのだから、それを身に付けさせればいいのだというように。だがそれはいま述べてきたように以前から継続して取り組み続けてきながら、容易に改善されなかったものである。先生たちはずっとそこに力を入れて取り組み続けてきた。だが、身につかないものには身につかない。ここで、そもそも教育課程に問題があるという考え方もあり得たが、一般的にはそれが教員の指導力不足というように見られたり考えられたりしたと思う。そして今度は子どもの学力不足や学力低下と同じに、先生たちの指導力低下や指導力不足と見られたりした。つまり、こういう問題はいつも子どもや現場の先生の問題にされてしまうのが通例になっている。
 数人の学習支援員を学校に配属したところで、簡単に変わるものとは思えない。そんなことは自明であったし、実際に支援員を配置するなどの改善策を講じてきていても、依然として現場のざわつきは続いていると言っていいと思う。
 杉田さんの言い分を聞いていると、耳障りがよくて一般の人が聞けば正しい主張のように受け取られるかも知れない。けれどもそれは現実の土台となっている部分を普遍的な真であるかのように見なすからそうなのであって、その土台に疑問を感じたり疑ってかかるならば、杉田さんの主張はただ通俗的な見解に過ぎないことが分かる。
 たとえば、杉田さんは「常識としての基礎学力や基本的な知識さえ身についていない子供たちが増えている」と、いかにも学校の先生が言いそうなことをただその通りに述べている。だが、ここで「基本的な知識」とか「基礎学力」と呼ぶものを、本当に基礎・基本としてこの時期の子どもたちに与えるべきかどうかについて、杉田さんのような人をはじめとして多くの現場の先生たちは考えたことがないに違いない。教えるべき内容は全て文科省から降りてきて、現場ではどのようにそれを実現化、現実化していくかが問われるだけだからだ。うまくいかないとすればやり方が問われる。言い方は悪いが、これが基礎・基本だと上から降りてきたものは字義通りに受け取り、これを基礎・基本として子どもに埋め込まなければならないもののように思いなす。文科省が決めたこと、偉い先生方が考えたこと、それにケチをつけることは常識的ではない。しかし子どもが荒れるのは基礎・基本が身につかず、勉強が出来ないことに自責の念を覚えるからではない。周囲や世間一般が、勉強が出来る出来ないを人格評価に過重に結びつけたり、学校の勉強が出来ないことによって自分の将来が閉じられてしまう錯覚を子どもの心に植え付けたりするからだ。社会全般がそういう考え方、つまり勉強が出来なければ将来の展望がないということを暗黙の了解事項としてしまっている。だから杉田さんのような教員は、というよりも教員のほとんどは、学習指導者としての立場上どうしても内向きになって知識の注入に関心が向いてしまう。本当は、たかが学校の勉強が出来ないというだけで劣等感を持ったり心が追い詰められる児童生徒を、周囲の観念や幻想や偏見から守るべきはずなのに、それらと一緒になって子どもらをむち打つことになる。それはもはや宗教の形式、宗教の形態と言っていい。また学力の神話に洗脳された姿とも言える。こういう教育信仰は世の中を席巻していて突き崩すことが難しい。彼らは教育が高い人格を形成し、それを身に付けることに失敗したものは人格的に低劣になると信じて疑わない。それはちょうどヨーロッパが数世紀前にアジアやアフリカに向けた視線と同質のものだ。つまり、言外に、自分たちは優れていると思い込んでいるだけに過ぎない。
 
 こういう教育批判や反論をまともに考えようとすると、砂をかむような味気ない思いでいっぱいになる。教育を批判する方もそれに反論を唱えるものも、どっちにしたってくだらないじゃないか、ダメじゃないかと思えて仕方が無い。
 勉強ばかりしていたらまともな人間になれないという批判も、勉強の出来ない子どもが荒れたりキレたりして授業崩壊を起こす基になるという反論も、現象の上っ面をなでただけの発言だ。教育批判の先の発言には、「まともな人間」て何だよと問うてみたいし、きみは自分を「まともな人間」だと思っているのかと揶揄してみたくなる。また反論側の発言にも、軽々しく「学力の崩壊が人格の崩壊につながるのです」などと言ってもらいたくないと思う。学力が高くても人格が崩壊しているように見えるとか、変だと見える例はたくさんある。いや、そういう方が多いんじゃないかと思うことさえ、ままある。学力と人格とは直に結びつけて考えることは出来ないことだ。それは簡単な言い方をすれば、学力の問題は現実に近いところでやりとりしている心的な表層の問題で、人格はその表層と深層の間にある中間層に形成されるものだからだ。そして性格の核形成は深層の問題になる。次元や位相が違うと言い換えてもよい。また、仮に杉田さんが言う「学力の崩壊が人格の崩壊につながる」ことを認めるとしても、じゃあそれが学校現場を舞台に起きているのだとしたら、学校はそういうことが起こりうる場だということを言っているということになる。だって事実としてそうなっているとまで言っているのだから。そうしたら、「学校は学力を子どもに身に付けさせる機関ですが、まれに失敗してお子さんを人格崩壊させることがあります。」と、はっきり公言しなければならないのではないかと思う。うまくいかなかったら人格崩壊さえきたす制度や教育システムなんて、そもそもがおかしなことだと杉田さんは考えることがなかっただろうか。それではもうそういう資質も持った子どもには、この世に生きるなと宣言するに等しい。
 杉田さんは学力低下や人格崩壊の原因を「知育偏重批判」に帰したい考えのようだが、そういう批判があったために学校で勉強を少しも教えなくなったとは考えにくいし、事実そうなったことはない。批判があろうがなかろうが同じように熱心に教えて来たはずだし、それでも多少学力が落ち込む場合もあって、子どもが荒れることを抑えきれないということだったと思う。また、そういう批判のせいで人格崩壊が起こるほどに一気に学力低下が起きたとも考えにくいことだ。普通に考えれば、子どもたちの心が荒れたりキレたりの現象の増加は基礎学力の向上に努めたか努めなかったかではなく、もう少し複合的に、学力低下以外の面からも考えてみるべき事である。 本当は子どもの人格の形成に関与するのは、学力よりも周囲に存在するものの人格の影響が大きいと考えるのが普通だ。人格が崩壊するというのだったら、生徒の周囲に見習うべき人格、よい影響をもたらす人格の持ち主が存在しないからであろう。子どもが人格崩壊する場合を本当に先生たちが思っているのだとしたら、先生たちこそ胸に手を当てて、自分の人格が生徒の模範と言えるかどうかを沈思してみるがいいのだ。高潔な人格だけが資格を持つと言いたいわけではない。極端に言ったらどんな人格でもよいが、知の鎧を外した裸の人格で子どもに接したら、それが一番子どもの人格形成によい影響を与えるはずなのだ。少なくとも崩壊するようには進まない。逆に崩壊寸前の教員の人格が子どもに転写していくのであって、しかもそれを隠して無理に立派な人格のように自分を仮構して振る舞うから、子どもたちも真似して本来の自分を殻の奥に閉じ込めてしまう。これでは理想と現実の乖離が大きくなって、歪んだ人格形成を強いてしまう。
 学力が低い子どもの心が荒れたり、キレたりしやすく、また授業を妨害したり暴力を振るったりする傾向は確かに皆無ではないかも知れない。しかしそれは学力が身につかないためではなく、先生たちが自分をごまかしてきれい事ばかり言ったり、学校や社会全般が学力が低いことを劣等と決めつけたり、進学などを含めてそういう子どもの行き場を失わせている現実があるからだ。また大人たちがそういう現状を放置しているからだ。そうなったら誰だって暴れたくなるに決まっている。
 先生をはじめとする教育関係者たちは、そうなることを回避するために一生懸命になって基礎学力を身に付けさせようと努力するわけだが、それがかえって逆効果になる場合もある。先生たちがどんなに尽くしてもダメだということは現実にあるわけで、実はそこから先について、先生はじめ教育関係者たちの考え方は全く無力なままで立ち止まるほか無くなっている。それは当然だ。なぜならある程度の学力を納めたこの人たちの学力とは、定説に学び、定説に到達するところまでをもって良しとして、そこから先には進めないものだからだ。自力で困難を切り開く、考えを創りあげる、そんな力が無いことなどははじめから知れている。そんな力があったらはじめから学校の先生になっているはずがない。またなったとしても、教頭や校長になる遙か以前に学校を辞めてしまうに決まっている。だから端から教育関係者たちの教育批判も反論も、本音を言わせてもらえばちゃんちゃらおかしいのだ。
 杉田さんが取り上げた教育批判と、それに反論を述べた杉田さんの意見とは、実は数十年も前から流布されていることどもで、教育界はただ右寄り左寄りとダッチロールを繰り返してきたに過ぎない。同じことが数年のサイクルで入れ替わっているだけのことだ。何とかまだ墜落せずにすんでいる。それだけの努力をしてきたことは確かだが、墜落せずにすんでいるだけで、とても快適な飛行が出来ているとは言えない。子どもの世界はますます泡立ち、その心はもはや異常と正常の区別を失わせている。そういう現状で、知ったかぶりや、したり顔や、啓蒙家気取りの指導者面は最悪というほかない。
 はっきり言えば杉田さんの以後の反論も、以前からの教育界での論議、考え方から一歩も出るものではない。目新しい考え方、発想というものは何一つ見られない。そういう考え方の焼き直しとか、切り貼りとからなっている。教育的文献を読み、それらしい解釈を添え、さも自分の考えであるかのような加工を施している。つまり上層の考えに自分を同調させているだけだ。自分もそんな程度のことしか出来ないからすぐに分かるが、ほとんど自力で創り出したり生みだした考えはなく、全て借り物のコラージュと言っていい。我々が聞くと噴飯物だが、子どもや保護者の半数くらいには通用している。なぜかというと新聞やテレビで伝えられる出来事やニュースの中に、同様の考え方や言説が含まれているからだ。専門家や評論家の言葉もそこに含まれている。すると、伝えられたそれは疑いようのないことだと思えてしまう。それはかつて自分も体験した。身近に知っている先生たちの考えというのも全てそれだ。だいたいの専門家や学者や研究者というものは世界的な権威を模倣し、熟知し、密輸入して世に広めることで事を成したと錯覚する。すると世に広まったそういう考えそのものが権威そのものと化し、人々の頭に定説として植え込まれる。誰もが教えられたことをそのままに、ただそのままに受け入れて、口で同じことを繰り返せばそれが自分の考えで、学んだことだと思い込む。
 だが、大事なことは、ニュースや報道で見聞きしたことを覚えて、他に伝えることではない。大事なことはそれを疑い、出来事やニュースの中に真実を探すことだ。もっと言えば自分の考えも含めた全てを疑うことだ。その先にしか真実を探り当てることは出来ない。そしてまたその判断は、自分の実感を通し、自分というフィルターを通し、自分で行うものでなければならないと思える。問題解決が常に記憶した既存の知識の中から求める受験とは異なり、迂遠でも、必要なところでは分析、解読の全てを、自分の手で行っていかなければならないのだ。そういう地味な作業から逃れて、安易な受け売りで渡りきれるほど現実は甘いものではない。甘いものではないが、多くの教育者はそういうもので渡りきってしまおうとしている。自分たちは自分たちが言う学力を、そういうように活用してきたから、そういうように活用できると範を示すに過ぎない。そこに、どんな知の優位性が存在するだろうか。そんなものはどこにもない。あるのは処世と合理化による傲慢さだけだ。
 社会の実際としてはそれはそうなのだから、これについては我慢をしよう。だが、世に指導的立場にある者たちの、政治家ならば国民、教育者ならば児童生徒への向き合い方において、自分の掌から落ちこぼれてしまう者たちに対し存外冷たく無責任であることが気になって仕方が無い。口にして言えば国民ひとり一人と言い、ひとり一人の子どもと言いながら、見捨ておかれる国民、邪魔者として婉曲に切り捨てられる子どもは皆無ではない。ただその存在は、この社会では強く焦点を当てられるよりもオブラートで包まれるように、曖昧になった末にかき消されてしまう。
 国民や子どもをそういうところに追い込んでおきながら、自分は何一つ傷つかず、家庭円満、寄せられる地位や名声や富を恥じること無く、平気で人々の前で平和や幸福や善悪を説く、その神経がどうしても理解が出来ない。内奥に秘めた、自分の嘘や怠惰に、灼けるような痛みは感じないのだろうか。
 ここ2年ばかり、ぼくらが子どもの成長や教育について考察してきたことは杉田さんのような人たちが考えたこととは違っている。もはやここで見てきたところに類似するところからは何一つ学ぶべきことは無い。もちろんだからと言って自分たちの考察が優れて高級なものだとは少しも思わない。だが考えるべき価値のあるところを考えてきていることは信じて疑わない。道はまだまだ地平線の先の見えない向こうに続いていて、とても生きている間にそこまでたどり着けそうにないが、弱音を吐く力があったらそれを歩みに変えて行けるところまで行けたらそれでいいと思っている。願わくば今しばらく同行の歩みを、ともに。
 
 
源流論 8―@
              2016/01/22
 インターネットを眺めていたら、たまたまある小学校の校長だった人のホームページに出会った。少し詳しく見たり読んだりしていると最終の更新が08年とあり、その頃に校長として在職し、以後退職された方だろうと分かった。おそらく退職してもう更新はしないけれども、ホームページはそのまま閉じずにおかれているということだと思う。
 ホームページのタイトルは『杉田久信の教育提言 《基礎学力と教育再生》』となっている。また[山室中部小学校]という学校名が記載されていて、当時その学校に校長として勤務した杉田久信という人のホームページだと判明した。このように公開されてあるのだから個人名他記載された内容を転載したり、それに論評を加えたりしても差し支えないだろうと考えてここで取り上げてみることにした。以下、お付き合い願う。
 タイトルから察するに、この校長先生は荒廃する教育の現状を見据え、強く、教育は再生されなければならないと日頃から考えていた人のように思われる。そして再生のためのキーワードが「基礎学力」であり、それの徹底こそ再生の核心だと考えていたようだ。
 その考えや主張は現在でも学校現場、あるいはその周辺に流布される考えや主張に同根のもので、さらに主流となっている考えや主張だと言える気がする。特に、現場の管理職の方たちのいろいろな方面からなされる教育批判、その受け取り方、あるいは反論の主たる考え方が表れているように思える。
 このホームページは大きく4つのサブタイトルに分かれ、そこには、「はじめに [基礎学力の徹底こそ教育再生の確信]」、「理論編 [今、なぜ基礎学力か]」、「実践編 [基礎学力はこうしてつける]」、「心の教育 [規律ある中での温かい指導で心は育つ]」という文字が記述されている。そして次のような記述が「はじめに」の冒頭におかれている。
 
 「読み・書き・計算は教育の一部にすぎない。知識より考える力が大切なのに、ドリル的な学習に力を入れるのは問題だ」と、基礎学力の重視に反対する意見は今も少なくありません。
 
しかし、これまで基礎学力をおろそかにしてきたことこそが問題です。この結果は深刻です。できる子とできない子の学力格差が拡大し、二極分化の形で学力低下が大きく進行してきました。基礎学力の低下はできない子供たちの間で深刻さを増しています。象徴的なのは、中学生や高校生の中にかけ算九九さえ身についていない生徒が全国どこでも珍しいことではなくなっていることです。
 
彼らは中学校以降、勉強に全くついていけず、毎時間「分からない」「できない」という現実の前で、「私は馬鹿だ」「なにをやってもだめだ」との深刻な劣等感と虚無感に包まれ、一方では無気力に、他方では授業妨害や立ち歩き、中には憎悪からの破壊に走る者まで出ています。部活で救われている子供もいますが、基礎学力が身に付いていない状態では、多くの子供たちは自信をもてず自己肯定感も感じられないのです。
 
このことから、基礎学力は単なる教育の一部ではなく、全人教育の基盤・土台であるといえるのです。
 
そして、基礎学力を身に付けさせることは義務教育学校の最低限の責務だと考えます。
 
 当時、校長だったこの人の考えは、今も現場の校長や教員や、あるいは教育の関係者の多くが考えていることと同じだと思う。現象面ではその通りだと言えることが書いてあり、少なくとも半数以上の考え、立場を代弁するものだ。またこの主張を聞いて納得したり共感する一般の人々、保護者も相当数いると思われる。表面的にはそんなに文句をつけるところがないように思える。
 残り半数はどういう考え、立場にあるかということは、「理論編 [今、なぜ基礎学力か]」で杉田さんが述べているところからうかがえる。そこで杉田さんは戦後長く教育批判が支配的論調になったと言い、いろいろな教育批判に反論を記している。その中で数多の教育批判が「学歴社会批判」「受験戦争批判」「偏差値批判」「知育偏重批判」「詰め込み教育批判」「管理教育批判」「画一教育批判」というように分類されているが、それらを受け入れ、それらに同調し、そういう考え方をしているものがほぼ残りの半数だと考えることが出来る。
 ところでこのように見ると、学校の現場や教育の世界は相対立する2つの立場、考え方で占められているように思える。そして実際にその通りだと言えないこともないが、本当はそうではない。単純な言い方をすれば、どちらも学校教育を尊重し、学校教育ありきのところから出発しているという点では同じ土俵の上、同じ器の中にちゃんと入っている。ただ方法論が異なっているだけだ。公教育を信奉し、信仰し、現状の学校制度や体制が子どもの成長・発達にとって不可欠と考える点では少しも対立しているとは言えない。
 これはもっとずっと約めて言えば、指導者主体の教育か子ども主体の教育かであり、子どもに優しい教育か厳しい教育か、母親的な教育か父親的な教育かくらいの違いに過ぎないと言える。あるいは日教組的か管理者的か、学習者目線か指導目線かである。そして、この対立は、どちらも教育を重要と考えるところからくる対立に過ぎない。
 ところでここではっきりと言っておきたいことは、わたしたちの考察はこうした学校教育を前提においた対立の図式を飽き足らなく思い、対立の図式から離れてもっと根底的なところから考えようとする意図を持っているということだ。だから、これまでの考察がそれに適うものかどうか自信はないが、前述した対立の文脈の中で見られることを拒否したいという思いが強い。また、考察がそういうところまで到達することを希求している。
 こんなことを頭に置いて考える時に、実は杉田さん的な考えや立場も、あるいはその反対も、眼中からこぼれ落ちてどうでもいいことになってしまう。そして、それぞれに一生懸命考えて侃々諤々議論するのはいいじゃないですか、やればいいじゃないですか、気が済むまでやればいいんですよということになる。議論の末に今よりもよい考え、深い考えが出てきたらそれはそれで結構なことだ。とことんやればいいんだと思う。
 杉田さんのように、現場の校長さんがはっきりと様々な教育批判に対して反論を述べているのを見ること、そして公開しているのが見られることはまれなことだ。教育に対する熱意も人一倍あるからなのだろうが、普通はそこまでいかない。仲間内の井戸端会議ふうのところで留まっている。
 ここでは杉田さんの教育に対する熱意に敬意を表しながら、杉田さんの見解との差異を考え、その過程で自分の考えるところをより鮮明にすることを試してみたいと思っている。主に「理論編 [今、なぜ基礎学力か]」をもとに進めていこうと思う。
 この項の総論と言えるところで杉田さんは次のように述べている。
 
以下には、これまで展開されてきた主な教育批判を詳しく記しました。これらの教育批判の論調は子供に優しい耳障りのよい響きをもっていて、おおむね国民に疑問なく受け入れられてきました。しかし、これらの考え方に一貫しているメッセージは、勉強に関わる全て【学歴、受験、偏差値、知育、知識など】を否定的に伝えていることです。それらは、「勉強否定論」(「ゆとり教育亡国論」の著者大森不二雄氏)、「反知性主義」(エコノミスト原田 泰氏)とでも呼べる欠陥のある考え方です。私は、これらの欠陥のある考え方こそがハーシュの言うように日本においても教育荒廃の大きな原因であり、出発点となっていると考えています。ですから、ここを真正面から明確に論破しておくことは、教育の再生にとって最も大切なことだと確信しています
 
 この杉田さんの考えは、少し距離を取って見れば、「教育荒廃」の責任の「なすりあい」といって言えないことはないという気がする。批判側の立場も逆からそう主張しているわけだし、決着がつかないことは自明のように思える。また、「教育荒廃」が思想の違いのみで論じられているところもうなずけない。考え方が教育の内側だけに閉じている。もっと外側の経済社会構成、産業構造、文明史、精神史との関連がどうかという視点から考えることも可能だが、多くの教育論議はそこまで射程が届かないのが大部分だ。それではつまらない。結局、国際的であったり歴史的であったりという、より広い範囲から教育を捉え直してみるということは発想されないで、現在的な教育の内側だけで「教育荒廃」の原因を探ろうとしている。これでは互いに対立する考えのつぶし合いになり、真の荒廃の原因は捉え損なってしまうと思う。現に今も荒廃は深く進行しているように見える。そしてこの荒廃は、欠如がもたらすものではなく、逆に飽和からもたらされている様相を呈しているといった点で、決定的に70年代、80年代の荒廃と次元を異にしてきている。それを、杉田さんたちの考え方からは見抜くことは出来ないと思う。
 「教育の再生にとって」と語っているように、ほとんどの教育論議は「教育の再生」を目的として語られ、人生とは何か、その時に子どもの成長過程はどうあればよいかという、人間の生涯の中での一過程としての子どもの生活を考察するというようにはなっていない。極端に言ってしまえば、子どもにとっての最良の生活が教育を必要としないところにあるとすれば、教育など再生しなくてはならない理由がなくなる。そこから言うと、もしかすると教育の再生を必要とするのは子どもではなく、それに関係している大人たちや国家に代表される共同体だけであるのかも知れない。
 ここまで言ってしまうともはや言うべきことも無くなってしまう。少し論を急ぎすぎたかも知れないので、ここで杉田さんの言い分に耳を傾けてみることにする。
 
◇学歴社会批判⇒
学歴より本人の実力が大切。学歴だけでは幸せになれない。子供の適性による進路を。
 
◆反論
上記の意見には基本的に同意します。今日の社会はその方向で動いており、既に学歴社会は崩壊しているとの説があるくらいです。
 
しかし、学歴の高い人には実力のある人も多数います。学歴を得る過程で獲得したものは知識だけでなく、努力することや集中力、持続力、認識力等の様々な能力です。これらは、社会に出てからも必要なものです。
 
学歴は無いよりあった方が明らかに有利です。医者や弁護士、高級官僚などの専門職や社会の指導的立場になるためには大学を出なければなりません。また、多くの職業でも定職を得るには学歴や資格が必要です。昔も今も、貧乏から抜け出す上で、学歴は極めて有効です。
 
 ◇印は教育批判を要約したもので、◆の印は杉田さんの反論になる。以下も同じだ。
 反論にうかがえるように、批判的な言辞が全て誤っているというようには杉田さんも考えていない。首肯できる面もあるとしている。だからおそらくは、批判側の立場の人々もここで反論している杉田さんの認識、洞察に一部首肯することはできるに違いない。だが杉田さんの反論の文章をよく考えると、学歴社会批判に対する反論と言うより、少しシフトをずらして実力主義的発想からの考えを述べていることが分かる。そして簡単に言えば、現状社会を生き抜くためには実力(力量)が必要で、その実力(力量)は学歴や資格を得る過程で身につくと言っているのだと思う。
 これではもう、ごもっともというほかない。現実はこうなんだからこうするほかないと言っているわけで、こんなことはだれだって分かることだ。子どもたちだって分かる。杉田さんはだから、我慢して勉強しろとか、させろとか言っているだけなのだが、自分の中では何か高級なことを言っているつもりになっているような気がする。そんなことはない。素手では生きられないから武器を持てと言っているくらいのもので、しかし、子どもや大衆は、武器を持たなければ生きられない世の中は嫌だという思いの中に、沈黙しているものではないのかという気がする。そういう子どもや大衆の思いを考えの中に組み込むことの出来ない教育論議は、結局のところ大衆からも子どもからも遊離して、支持を得ることは出来ない。そうなるとこの手の考えの人々はいっそう、子どもも大衆(一般人すなわち親世代)も指導しなければならないと考えるようになる。
 受験戦争批判に対する杉田さんの反論にもひどい錯誤がありそうなので、次にこれを指摘してみる。だが、その前に一言ことわっておきたいが、ここでは見ず知らずの杉田さんの言説を批判することを眼目としているわけではない。そういう気持ちは全くない。ただ杉田さんの考えが現在の教育世界に流通する、ほぼ半数くらいの考えを代表すると思われるところからこのように取り上げ、それらの考えと自分の思索の差異をはっきり示そうとしているに過ぎない。その意味で、やや利用する目的で取り上げているだけのような後ろめたさを感じながらやっていることは言っておきたい。
 さて、杉田さんは「受験戦争批判」については、「過度の受験競争が子供の心を追いつめている。」というものだと要約している。そしてこれに対する反論として、
 
これは一部の人々によって広められた虚構ではないでしょうか。事実は、受験競争の激しかった頃の方が若者の自殺率は低かったのです。また、校内暴力も不登校も少なかったのです。精神科医の和田英樹氏によれば、日本で受験競争が最も激しかった1970年代は世界のどの先進国でも青少年が荒れ自殺も多くなった時期です。その中でも日本は例外であり、日本の当時の現状は極めて希な現象として世界で注目を集めたとのことです。
 
受験競争には一部に行き過ぎた現象も見られましたが、大局として、受験戦争は子供の心身を害するほどの悪影響を及ぼしてはいなかったと思われます。逆に、多くの受験生は、目標が明確なので努力も真剣に行い、その過程で勉強以外にも多くのことを学び、前向きに生きていました。また、競争は切磋琢磨を促し、子供たちの学習意欲や学習態度を向上させるのに役立っていました。
 
というような捉え方をして見せている。
 批判側の「過度の受験競争が子供の心を追いつめている。」といった見方と、杉田さんのように、いや、そうじゃない、子どもたちは前向きで明るかったという立場の認識とは真っ向から対立するが、本当はひとつの現象が2面性を含み、それぞれ一方に偏ってそれを強調するところから対立の関係が生じるに過ぎない。
 これは先の戦争について様々に書き残された文章に散見されるところだが、それを読むと、戦時中、思いのほか人々の肉体も精神も健康で明るかったことが覗われる。識者の言葉にはそれが、戦争に勝たなければという明確な目標が社会全体に行き渡り、かえって他に悩む隙間を持ち得なかったためだと解されていた。だが、この「明るく健康で」というのがくせ者で、この言葉を聞くとすぐに太宰治の「明るさとは滅びの姿であろうか」という言葉が思い出される。つまり、「明るく健康」な見え方に間違いは無いとしても、これを字義通りに捉えて安堵することも、逆に、だからこそ病的だと捉える捉え方もあり得ることだ。暗さということ、悩みというもの、そういうものが一切無いことがよいことだとは一概には言えないことだ。もちろん、ある方がいいとも一概には言えない。
 戦時中はおそらく自殺も犯罪も少ないはずだ。個人も、社会全体も、余計なことを考えていられなくなるからだ。では、自殺も犯罪も少なくなるから、常に戦争をしている方がいいとは誰も考えない。受験戦争にだって、少しはそんなふうに言える面があった。環界が厳しい時にはそれに対する対処で精一杯になり、環界が緩やかで平穏になると余計なことを考えるようになる。だからといって厳しい環界を理想と思うものはいないだろうし、長く厳しさが続けば一途だった心もやがては折れる。
 確かに終わりの方で杉田さんが言うように、「競争は切磋琢磨を促し、子供たちの学習意欲や学習態度を向上させ」たかもしれない。だが、その果てに「医者や弁護士、高級官僚などの専門職や社会の指導的立場に」上りつめた人々は、いったいどんな社会の出現に貢献したと言えるだろうか。それがユートピア世界だとは誰も言うまい。またその出現した社会に、彼らが全く責任がないとは誰も言い切れまい。むろんここで、責任があると言おうとするわけではない。子どもの学習意欲や学習態度の向上が喜ばしいと言えるとしても、それが一体何ほどのことかと言ってみたいだけだ。そんなことを過剰に讃美して喜ぶのは教育関係者と指導層にある者たちだけだ。
 何度も繰り返して言ってきたことだが、受験を目標とした勉強は外部に蓄積されてきた知識、技能をかき集め、その集積の優劣を競うものに過ぎない。そのことは西欧近代の模倣の延長に過ぎず、脳の機能からすれば自然に志向していく過程だと見ることも出来る。そのことをおろそかに言うつもりもないが、本当に大事なことはその外にある。
 かつてヘーゲルが「歴史哲学講義」の中でアフリカ的な原始未開社会を歴史の外に切り捨て、動物のように野蛮で人間性のかけらも持たない世界と断じた。そして同じように西欧知は傲慢にもアジア的世界をも含む、他の西欧ならざる世界に比較し、自らの優位性を高らかに主張した。それが西欧以外の世界に対して行ったことは植民地支配であり、自らの繁栄のための富の収奪、略奪であり、利用であり、現地の文明、文化の破壊であった。各地において風俗、習慣の伝統は断たれ、ただ否応なく西欧を後追う近代化だけがもたらされた。西欧発の近代化は世界に波及して行った。それは支配と強制的な近代化として表れた。西欧知はそのように世界に具象化され、そして高度化した文明社会を具現化し、だがその陰でかつてのアフリカ的、アジア的世界にあった共存と共生、共助、小さな村落の中の親和的関係といった心や精神の豊かさは、見る影もなくやせ細って行ったと言っていい。
 つまり、教育によってもたらされる知の向上、高度化とは、かつて西欧知が辿った運命を踏襲しないとは言い切れない代物でも同時にあって、それは必ずしも仲よく助け合う関係を築いたり、育むものではないことをも知っておかなければならない。
 こう考えてくると知の指導者たちは似たり寄ったりで、いつも知の前衛として無知なるものを啓蒙していくことが正しいことだと信じ込んでいる。けれどもそれは後進地域に対する西欧近代の姿勢と同じで意識的ならなおさらだが、無意識においてさえ権力を行使して支配することと同根と言える。本当の知の課題とは他を啓蒙、指導するところにあるのではなく、非知や無知を取り込んで代弁するところのものでなくてはならないと思える。言い換えると、人の心や精神の本当の豊かさとは万物への共感と、助け合い、仲よくすることで築かれる関係の豊穣さそのものであり、その根源に向かって考え、自らそうした関係を築き上げていくことが指導するものの本来的な立場だと思える。そして、教育者であれば子どもたちとの間にそういう関係を築き、子どもたち同士の間にもそういう関係が敷衍していくことをもって教育の使命、知の使命と考えるべきである。
 杉田さんの受験戦争批判に対する反論の最後の方では、すでに少子化によって批判も反論も無化されているというように述べている。しかし、中高生の塾通いは依然高い水準に留まっているように思われる。このことは仮に倍率が減少したとしても、入試の水準が極端に落ちることはないためで、その閾の高さから来るものに違いない。そしてその高さの設定には傲慢な知性主義の傾向が感じられる。本当に必要なのは経験と経験を掘り下げる知性であるのに、その代替としてオタク的、マニアック的とも言える難易度の高い知を望む錯誤。それは数の戦いから質の戦いという形に変容していても、やはり苛烈な戦いとして今も受験者には認知されているもののように思われる。それは、精神が追い詰められるというよりも、明るく健康的に目標に向かって努力する過程で、向上心そのものがエリート意識の病に知らず知らずに毒される怖さを伴う、と言い換えるべきかも知れない。
              この項続く
 
 
源流論 7
              2016/01/17
 自分の小・中・高と、学校生活を振り返る時に、どうしても全体的には窮屈であったという思いが強い。ただその窮屈さというものが当時はどうすることも出来ないもので、生きるということはこういうことなのだと自分に納得させる方向で受け取めていたと思う。別の言い方をすれば、世の中は窮屈なものだという刷り込みをその時に与えられたという気がする。また、それ以外の自由さというものの体験が当時にはなかったから、そういうものなのだという受け取り方以外の受け取り方は出来ようがなかったとも言える。
 そういう感受を唯一救ってくれたのは、たぶん遊び時間に同年の子どもたちと遊んだりふざけたりすることだったと思う。小学生の時は特にそうだった。その時だけは開放感があり、長時間ではないけれども思う存分遊びやふざけに興じた。もちろん、そうした中でもいちゃもんをつけたりつけられたり、諍いを起こしたりけんかをしたりしたことはあっただろうが、そうした時の気分のつまずき程度のことは、窮屈さに比べて何ほどのこともなかった気がする。つまり遊びやふざけも夢中であれば、ちょっとしたけんかも夢中になってやっていた。これは授業の堅苦しさや息苦しさ、窮屈さを解消してくれるものであって、これがあるためにたいていのことは我慢できたと思う。
 ちなみに、小学校を卒業し、中学に入学する前の春休みに何人かで連れ立って小学校に行った際、校舎や、職員室に出入りする先生たちの姿を見て、思わず心の底から笑いがこみ上げてきた事を覚えている。それは全く無心と言っていい笑いで、今で言う、大きなストレスから解放された喜びの、それは表れではなかったろうかという気がする。
 中学や高校生活でも基本的には同じ事で、部活動をはじめとして同級生、あるいは先輩後輩の付き合いの多くは楽しいものだった。そういう付き合いがあればこそ、堅苦しい授業をはじめとした学校生活にも耐えられたが、もしもそういう集団の中で孤立して存在しなければならなかったとしたら、当然今日言うところの不登校になっていたのかも知れない。
 最近は、学校ではよく児童生徒や家庭を対象としてアンケートを採ることが多い。子ども向けとしては、学校が楽しいかとか、授業はどうか、いじめられていないかなどの設問があり、結果はおおむね良好なものだと発表されている。アンケートを頻繁に採るということは、文科省からの指示ということもあるのではないかと思う。時々その結果のまとめ的なものが公表されていたと記憶している(内閣府のホームページ等に見られる)。余り関心がないので明確には言えないが、印象としてはいろんな教育機関の取り組みが功を奏しているように結論づけているように思えた。
 設問されたり、聞かれたりしたら、子どもはそう答えるだろうなという位のものでしかないと思う。学校生活が楽しいかと聞かれれば楽しいというのがおおかたのところだ。その中味的なものは冒頭に述べたところに同じで、子どもは基本的に同年齢の子どもと過ごすこと自体が楽しい。だから、そういう答え方をすることは当たり前のことだ。逆に、そうでなければよほどひどいということになる。特に小学生段階で、1%でも2%でも楽しくないとする答えがあればよほどのことで、98%の楽しいという答えよりも深刻に受け止めなければならないことだと思える。
 何と言っても子どもにとって、学校に就学するということはそれ以外の道がないという一本道だ。しかも他は何も見えないというような暗いトンネルのように映じるものだ。他とは比較のしようがなく、いやもいやでないもない。これをしろと言われ、あれをしろと言われ、基本的には言われるとおりに黙ってそれをやっていくほかにない。それが、教わるということであり、子どもにとって教わることは逃れることの出来ない1つの運命的なものだ。またほんとは子どもはそのことが分かっていて、逃れようと考えることすらしないし、出来ないものだと受感していると考えていい。
 大人たちは自分が体験しながらそういう部分はすっかり忘れていて、学校はいろいろなことを教えてくれるよいサービス機関だくらいに考えている。息苦しさや窮屈さの感覚は薄れてしまって、ただ役立つ面だけに注意が向くようになり、教育されなければよりよい人間に育たないと考えるようになってしまった。教育が、学校が、よい人間をつくり、失敗すれば悪い人間に育ち、犯罪者が増えると短絡的に考えるようになった。あるいはまた就職が出来ない、いい仕事に就けないなどというようなことも重ねて考えるようになった。
 こういう考えは全くの嘘だとは言いきれないとしても、学校生活について半分のことしか言い得ていないと思う。特に自分が経験したはずの感覚的な側面を、中途半端にしか思い出さないことが問題だ。それでは現に生活している子どもの、頭ではない、心の問題を共感的に理解することを不能にしてしまう。
 そこはもう少し真剣になって思い出してみるべきだと思う。誰でも心に暗い闇(ここでは未明や煩悩くらいの意味)を抱えたことはあるはずだし、例えそれが一瞬に過ぎないとしてもそれが思い出せなければ現在の子どもの心の闇に向き合うことは出来ない。
 
 一般的に考えれば、学校に通うことによって感受する窮屈さや息苦しさ程度のことは、我々がクラスで友達と遊ぶことで解消できていたように、何らかの形で解消できていると考えるのが妥当だという気がする。また、そんな程度のことはこの先社会に出て会社などの組織に入った時にいくらでも、そしてもっと厳しい形で直面する出来事に過ぎないとも言える。その意味では、それくらいのところは何とか自力で乗り切らないと将来が不安だということにもなると思う。言ってみれば学校生活に多少の抵抗や摩擦が無いと、逆に将来のためにならないという考えも成り立つかに思える。そしてそういうところからは、今の子どもたちは忍耐力が無い、耐性が弱いというような意見も出てくる。
 こうしたところをどのように処理して考えたらいいのかというのは、本当はよく分からないところだ。
 息苦しさや窮屈な感受は出来るだけ緩和する方向で学校教育を改革するのか、もっと厳しくして窮屈さや不自由さに耐え、多少の困難にも耐え抜く力をつける方向に変えていくのか。真逆と言っていい2つの方向性は、可能性としてはどちらもありと考えられていて、世間の声としても双方が飛び交っているように聞こえてくる。
 
 改めて言うまでもなく、この『日記風 顔のある窓』に、自分の児童生徒理解の深さを問うように書き続けてきたいくつかの文章の中で、現行の教育体制下における、知識や技能や道徳的規範から日常的な生活習慣、あるいは立ち居振る舞いまでも強制的に子どもに注入することを批判的に見てきた。現場の先生をはじめ、全ての教育関係者が頭を抱え込むような子どもたちの姿、それは例えば不登校であり過剰ないじめであり、校内暴力であり学習妨害であり、陰に籠もれば家庭内暴力などもそうだが、そういう姿に子どもたちを駆り立ててきた大きな要因としてそれがあると考えたからだ。こういう考え方はこれまでも皆無ではなかった。しかしながらこういう考え方が全面的に支持され受け入れられて、学校が劇的に変化することはなかった。「抑止」のための対策が大幅に取り上げられ、言ってしまえば表面的な件数が減少すればいいというような対策ばかりが矢継ぎ早に講じられてきたに過ぎない。
 いい高校に入り、いい大学に入るための、受験本位の学習は今も健在である。落ちこぼれは社会的に排除していく方向で、これにも誰も何も言わない。学校は変わるどころではない。子どもが自殺で死んでも、犯罪を犯しても、教育関係者、専門家も、誰ひとり道義的倫理的責任を負ったり、取ったりしたためしがない。学歴重視もそのまま。大学間の格差、高校の格差もそのまま。全て教育の存立の根底が問われるような出来事に対して、知らぬ顔を通すばかりか、上から目線が貫き通せるということはいったい何事であるのか。 前述した対立する2つの立場、意見とはいえ、本当は教育を尊重し重要事と考えることでは同じ土俵に立っている。またこうした意見の対立とは別に、実際社会は公教育とその内部に存在しざわめく子どもたち全部をひっくるめて、ざわめきを把握しつつ認めて放置しているという現状がある。もはやそういったことがひとつでもあってはならないというような認識の段階にはない。教育は見方によっては機能が停止したと同然の状態にあっても、これを自覚することさえ出来ない不能、もしくは不感応に陥っている。
 自由で子ども本位の学校を唱う識者や専門家は、自分の子どもには有名大学を受験させる。よりよい学校作りの政策を推し進めようとする指導層にある親は、子どもをみな小さなうちから海外に送って学ばせる。そういう連中の何をどう信じればいいというのか。
 端から日本の学校や教育は眼中になく、公教育における現場のざわつきなどはどうでもいいことなのだ。教育はただ、その先にある人生を、他のものよりも優位に、有利に過ぎゆくための、ひとつのお墨付きを得るというそれだけのことに過ぎない。そしてそれが得られたら、後はどうでもいいことなのだ。いい仕事に就く。世間的な信用や信頼を得る。金と権力を持つ。それが全てであり、学問も、真理も、あるいは平等や助け合いなどということも本音ではどうでもいいことに過ぎまい。全て言うこととやることとは違っている。教育は皮肉なことにそういう者たちのためにこそ大いに役立ってきた。
 もちろん末端においては国の文盲率を引き下げたり、努力したものには成功者の椅子が与えられることもあったかも知れない。その意味や価値をどう評価するかは人によってまちまちだろうが、だがたかがそれだけのことであろうし、競争の果てに恩恵を得られたのはわずかな者たちだけだという見方をすることも出来る。
 かく言うわたしたちのような存在を含め、世の大人たちは子どもの世界に起きている異変とも言える出来事を放置している。深く掘り下げて考察していると言っても、指導層や識者が頭を付き合わせて対策を講じようとも、子どもの世界のざわつきは何一つ変わらない。念のために言っておきたいが、おそらくは人類史上初めてと言っていい子どもたちの心的、精神的な危機的状況を生みだしているのは現在である。誰が何をどのように考えてみても、こうした状況下に子どもを追い詰めた時代はかつてなかった。これが例えば戦闘化の命が奪われるような状況に比べて、はるかにましだと考えることは人間の存在についての本質的な誤解によっている。戦闘下で被弾から逃れ助け合う親子・隣人の間に、小休止のような平穏とともに互いに深く固い絆が認知される場合もあれば、平穏で一切が飽和な状況の中でひとり心の触手を固く縮め、全ての絆を自ら断ち切るという場合もあり得る。その絶望の度合いを他に比べるということはできない。ただ残されたものに重荷が課されることは確かなことで、重荷を負うものは彼の死と絶望とを認めないために考えることを強いられる。断ち切られた絆を修復する、それが唯一の在り方だからだ。
 
 それにしても日本の知とはこんなものに過ぎなかったのか。人間の知とはこんなものに過ぎなかったのだろうか。
 いじめ自殺の報道が出れば文科省はいじめ防止、いじめ根絶の通達を委員会経由で学校に下ろし、学校に一丸となった対策を求める。学校では先生たち全員が、本気を丸出しにして、いじめは悪いことだ、やってはいけないと毎日子どもたちに向かって説教する。そんなことで防止されるいじめはほっといても大事に至らないいじめに過ぎず、漫画の「ドラえもん」に登場するジャイアンのいじめに同等のものと断言できる。
 子どもというのはそんなに利口でもないが馬鹿でもない。いじめがよくないことは自他に見聞きしてよく分かっている。自分がいじめたりいじめられたりの体験があれば、なおさらいじめが嫌なものだということは実感されている。人と人との間に起こる出来事に対して、例え子どもといえども心は敏感に良いことか悪いことかの判別がつく。それは、嫌な気持ちになるかよい気持ちになるかで判断が出来る。他をいじめて生じる内面的な引っかかり、違和感、嫌な気持ち等々の心的な体験と経験こそが子どもの心に何事かを付け加え、子どもの心を育てるもとになる。
 もともと義務教育など無い時代には、子どもの心はそんなふうにして育つものであった。この時、子どもの内面に去来する思いをどう処理するかの判断の基準は、乳児期の母親との関係にある。その関係が親和的で乳児によい影響を与えていれば、成長した子どもはそれをもとに人との関係を良好なものに保とうとするし、関係がよくなかったとすればいつも判断に迷いが生じて攻撃的であったり逆に防御的になりがちになる。このおおもとは変えることができない。変えることができないところを変えようとしたり、それに善悪のレッテルをつけたりするものだから自体はよりいっそう悪い方へと突入する。
 子どもは自然物である。以前は我々が里山と呼ぶ農村の自然の風景と同じに、荒れた自然林でもなければ花壇に栽培される草花でもないというような、ちょうど中間のところに手入れされて存在するものであった。里山では樹木は肥料を施されることなく自らの力によって育ち、けれども余分な枝葉や絡まる蔓、あるいは人の歩行を阻むように密生する竹笹のごときものは丁寧に刈り払われた。これは目的的な1種類の樹木の植林とも違い、ただ整えるという人間の本来的な意識から発したものと思える。
 そうした過去において、子どももまた同様に自然な成長力はそのままに、ただ外的にほどよく手を加えて環境を整え、後は本人の志向するままに成長するにまかせたのである。 子どもを雑木林などと同じに、手入れされた二次的自然物と見なすことに抵抗があるかも知れないが、子どもはけして人工化できないものであるし、人工化しようとしてはいけないものだということは明白である。
 自然に善悪は存在しない。日本の子どもは善悪のないところで成長していく。唯一元になっているのは乳児期までの母親との愛の体験である。それが自然な成長を推進する力の源である。だから自然な成長力には強弱も生じれば指向性のばらつきも生まれる。これは6歳からの学校教育によってどうにか出来るものではない。それでは遅い。遅いからこれを矯正しようとしたり、指導しない方がいい。そして思春期以前はまだ自然性の渦中にあると考えられるから、善悪の考えも注入しない方がいい。子どもは思春期になれば、かつての乳児期の母との愛の体験、及びそれの外的環境を潜り抜けた経験の仕方などから、自然に善悪を考えるように成長する。教育や指導は、自ら善悪を確立する力をつけることを待って、それを内省させる方向で働きかけることが望ましい。
 自然の生き物は元々が生命力にあふれ、誰に教わらなくても支援されなくても自ら成長する。人間の新生児も生まれ落ちた当初は同じようにほとんどが意欲満々で、成長する力を携えている。もちろん自然そのものは過酷な側面があり、あっさりと動植物の生命を絶ちきることも当たり前のようにあり得る。人間の場合は特に、最低でも一年は親の庇護がなければ生きられないという宿命を負っている。しかしながら、どんな生き物にも自らのうちに、生きて成長しようとする力は宿っていて、これが絶えることはほとんど無いことだと言っていい。ただ人間だけが例外的に、生きる力を自らの手よって断ち切ることを可能にした生き物だといえば言える。
 大人の世界では、早くからそうした現象が見られることは文字に記録されている。だが子どもの世界にもそれが起こるようになったのはごく最近の出来事である。
 これは単純に、身体だけがあって頭の働き、心の動きがなければ起こりえないことは理解されることだ。
 逆に考えれば、いかに人間的な特徴とも言える観念性、幻想性が人間存在に本質的な影響を持つか、あるいは非常にデリケートな重要事項、与件であるかということを示している。言い換えれば心の問題、精神の問題と言うことになるが、現在この領域は世界的な理念の崩壊と表裏となって、分裂したり統合失調を来していると見られる。俗に言えば難しくなっているということだが、我々の社会はこの現実に対して真正面に見据えて考えるよりも、回避する方向に進んでいる。本質的根源的に考えることから遠ざかり、表層にすり替えて上辺の解決ですまそうとしている。もちろんそんなことで解決する問題は一部の表層の問題に過ぎず、核の問題は悪化の一途を辿っている。もっと言えば、このような分かりにくい、見えにくい、困難で暗い問題を、表沙汰にすることをタブー視するような雰囲気が社会に蔓延している。しかも勉強とか教育は大切だと公言し、関連する仕事に携わる者たちの間で、こうしたことについて考えることを避ける傾向にある。その気持ちは分からないでもないが、そうであるならばせめて、勉強や教育が大切とは公言しないでもらいたいと思う。もっと言えば、はっきりと糞の役にも立たないものだといってもらいたいと思う。こういう、困難で、考えたくないような嫌な問題に対して、身を竦めてフリーズする「知」とは何なのか。そんなことのために明治以来、教育制度を設けて「知」を子どもたちに注入し続けてきたのであろうか。すばらしい教育で「知」を注入されてきたはずの大人たちが、本当に「知」を必要とする問題には向き合うことをせず、回避するのはなぜか。ありていに言えば学校教育で学んだことは単なる知識の集積で、本物の「知」でも「知恵」でもなかったということになるかと思う。だが、本物の「知」や「知恵」が人々にないというのではない。ただそれは精神や心の奥底にしまい込まれ、表に取り出して使ってみることをしないと言うだけだ。わたしを含めて多くの者たちは、自分が考えることは卑小で価値がないと、嫌というほど教えられてきた。学業とはそのように信じ込む過程そのものであった。真理はすでに外部に存在し、それを追い求め熟知して、世に広めることが「知」の本務と錯覚した。
 それなら分かる。そんな付け焼き刃の「知」で、困難を切り開いて行けるはずがないし、行こうとするはずがない。
 今必要なのは既存の「知識」ではない。それが少しも今日の子ども世界を救済する力の無いことは現実が証明している。大事なのはこのことについてひとり一人が考え、考えたことをさらに考えていくことだ。子どもの世界の周りにいる大人たちの考えが深まれば深まるほど、それがわずかずつでも子ども世界によい影響を与えないはずがない。これは乳児に対して母親が四六時中気にかけて接することに似ている。四六時中気にかけることは愛情がなければ出来ない。知的に関わったり、教育的に関わったりすることは一切必要ない。子どもの世界を考えることも専門的な知識は不要だと断言してもいいと思う。かえってない方がいい。なぜなら子どもの世界を今日のような泡立つ世界にした責任の一端はそういうところにもあるからだ。
 現実を変えようと意識することが大事なことだとは思えない。現実を完膚なきまでに知ること。そのために紆余曲折を何度繰り返しても自前で考え続けるということ。そしてなるべくたくさんの人々が考えを深めることで、それは現実を変えていく一歩になり得ると思う。
 
 この「日記風 顔のある窓」を書き続けている時、あるいは他のことを考えたりする時もそうだが、時折脳裏に去来する言葉がある。それは吉本隆明さんの詩の中にある次の言葉だ。
 
つみあげられた石が
きみの背丈よりも遙かに高かつたとしたら
きみはどういう姿勢でその上に石を積むか
   (「この執着はなぜ」 吉本隆明全著作集1 定本詩集より)
 
 ここで「つみあげられた石」を、歴史的に蓄積されてきた知や思想の集積と解すれば、梯子をかけて上に積むか、石をよじ登って積むかだと思える。だがもう一つ方法があって、いったん全ての石を突き崩して一から積み始めることもありだと思える。最後の方法が気に入っていてそう解釈したいのだが、吉本さんの意がどこにあったかは確かめようがない。ただ先行する優れた知や定説がある中で、自分もまたなお考えることを続けることの原動力として、この句を思い出されずにはいられない。全ては自分の「背丈よりも遙かに高」く聳え立ち、考える前に心が萎えるからだ。しかしこの句が暗示するように、一つ一つの石を突き崩して更地にし、そこから石を積み上げていくことなら出来そうな気がしてくるのだ。これは独りよがりと見られるかも知れないが、ただ腕をこまぬいて見ているだけよりは自分の流儀に適う、そんな気がしている。今回は、ここまでで終わろうと思う。
 
 
源流論 6
              2016/01/10
 柳田国男の『海上の道』という著作の中に次のような記述がある。
 
少なくとも是までのように、よその国の学問の現状を熟知し、それを同胞の間に伝えることをもって、学者の本務の極限とするような、あわれな俗解は是で終止符を打たれるであろう。
 
あわれや私などの物を学ぶ頃には、もう一通りの真理はすでに古人が明らかにしてくれているように思って、そこまでたどりつくことを先途《せんど》とするような者ばかりが多かったのである。
 
 
 これは借り物の学術について述べたものであろうし、明治の開国以来の日本の学問世界の伝統とは、往々にしてそういうものであったと思う。西洋文化・文明を模範とし、西洋の知識・学問を学び、熟知することは、日本の一等はじめの学者たちにとってみれば本務の極限と言えた。
 柳田はこれを「あわれな俗解」と退けて見せた。すでに真理は解明されていて、その真理に辿り着くことだけが学問だと見なされるところでは、いつまでたっても創造的な学問など身につくはずがない。
 柳田の発言には明治以来の学問の現状に対する嘆きと、自らの民俗学的な研究の体験が切り開いてきた創造的な学問の領域が、そうした現状とは一線を画すものであった事への自負がこめられている。要するに、学び、熟知することは当然で、そこから先にこそ学問の本領があるとでも言いたかったものと思える。
 戦後思想界の巨人と呼ばれた吉本隆明の発言にも、先の柳田に類似した発言が見られる。
 
 ところで、わたしの〈言語〉の考察がひきおこした反響のうち、もっとも関心をそそられたのは、言語学者、外国文学者、外国哲学者、あるいはその予備学生たちからの〈外国ではもっとすすんだ言語の考察がすでになされている。それに比べればこの試みにはかくべつの新味も水準もない〉という類いのものであった。わたしはにわかにこの種の評価を信じないが、それでもべつな意味で苦笑した。わたしのいいかえしたいことはいつもこうである。〈もともとこの領域はきみたち自身がやるべきものなのだ。もしできるならやってみせてくれ。それだけわたしの手間がはぶけるのだから。〉
 わたしは、かれらが文献よみと解釈と知的密輸の専門家であることをしっているが、みずから創りあげるべき能力も水準もないこともよくしっている。そこでわたしのようなものが、逆説的な世界に歩み入らなければならなくなる。     (『心的現象論序説』はしがき)
 
 2つの発言からは、日本の学者、知識者たちの多くが、よその国の学問の熟知をもって事足れりとしたり、それで知の頂に達したかのように曲解する様子がよく覗われる。もちろんこれは平成の現在においても通用する見方であり、学者、研究者のみならず、受験を眼目とする日本の教育全般に行き渡った学習者のスタイルそのものと言っていい。
 日本社会において、頭がいいとか勉強がよくできるということは、既存の知識、技能を熟知することであり、またそれをどれだけたくさん獲得できているかにかかっている。あちこちから知識をかき集め、それをもって難解な試験によい成績を収めれば、それで頭がいいということになっている。
 つまり、本当はその先にどう挑むかが問題であるはずなのに、そこまで辿り着いたことをもってよしとする風潮が学問と学習の世界に蔓延している。その先に行かない、行けない。それなのにいかにも何事かを成し得たような顔つきだけはすぐに身に付けてしまう。
 明治の文豪夏目漱石は、時の政府からイギリス留学を命ぜられ、それこそ柳田や吉本の言うような一通りのヨーロッパ文化、学問の経験を積むことを課せられた。しかしそこで漱石が突き当たった問題は、表層の問題に過ぎない文化や知の翻訳の問題、つまりどのように日本に輸入するかということよりもはるかに根源的な、東洋と西洋に横たわる深淵であった。漱石はある程度東洋については熟知していたがために、かえって西洋との埋めることの出来ない差異に気付かなければならなかった。そうして神経衰弱を来したと言われるほどに、ひとり、もがき苦しみ、戦ったと言える。漱石は独自に、苦闘の末に当時では先駆的な文明批評眼を手にすることになったとは言え、その代償は我々の想像をはるかに超えるものだったに違いない。漱石は単に頭のよい、勉強の出来る秀才に収まる器ではなかった。外国の学問や知識をありがたそうに両手に包み、日本に持ち帰って見せびらかすことに優越感を覚えるような人間ではなかった。西洋の知を真っ向から解析しようとして、自らを狂気の淵に追い込まざるを得なかった。逆に言えば、西洋の知は漱石にそれを強いるほどに強固で堅固なものとしてそびえ立つものであり、成立の根源に遡って解き明かすことを漱石に強いた。むろんそういうことが東洋の果ての日本人の、ひとりの努力などで可能になるはずもなく、しかし、西洋の学問や知の成果としての果実を日本に持ち帰って食したところで、西洋の知や学問を自らのもの、すなわち日本人のものとして移植できるはずもないことは漱石には気付かれていた。また移植できたところでその先に希望の未来があるかというと、そんなものがあり得るはずもないことも理解していた。そして漱石の味わった苦しみは、大正、昭和、平成を通じて、日本の精神史の底流に涸れることのない地下水のように注ぎ続けられ、混迷と混乱を深くさせてきたと考えることが出来る。それが表層の現象としてすぐに感知できることが、柳田や吉本の言ういわば既存の学問や知識の切り貼りに過ぎない日本的な学問水準であり、知的な創造生産力の欠如と言ってみることもできる。
 こうした明治以後の西洋にまねぶ精神史の流れは、細かいことを別にすれば古代から中世にかけての仏教の輸入と民衆化、土着化までの過程に類似している。空海や最澄はそこから眺めれば留学生の中の大秀才たちだとは言えても、明治の留学生としての漱石ほどに文化的な格闘の痕跡は残していない。俗な見方をすれば留学体験を一種の箔にしつらえて、現代で言えば東大や京大の学長に上り詰める道を歩んだと言える。仏教が本当の意味での旧、あるいは原日本人の心性、風俗、習慣をとどめた民衆に浸透するものかどうかは、法然や親鸞の出現を待たねばならなかった。親鸞に至っては、宗派の解体寸前のところまで仏教の教えは懐疑され、否定され、民衆のための宗教として強力に変形されていった。民衆に根付かない宗教は日本に根付くはずもなく、そんなものに確たる意義が見いだせるはずもない。
 親鸞が、浄土の教えを信ずるも信じないも各々ですよ、でも自分はそれを信じますと言っていることと、日本の西洋化について漱石が、皮相上滑りの開化であっても涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと語ったこととは、時を経ながらある種、相通じるものがあるような気がする。中国と西洋の違いはあれ、外部の優位なる文化や知が押し寄せる時、あるいはそれを内に取り込もうとする時、なぜか日本の心、精神の古層で定着を許さない固い岩盤のような抵抗に突き当たる。しかも表層面ではこの上もなく柔軟に受容できているにもかかわらず、である。最終最後のところで日本的心性は、外国文化の真髄をどうしてもその核に受け入れる事が出来ない。
同様に世界に普遍の文化を生みだすことも出来ない。そういう特殊性が感じ取られる。
 これらのいくつかの点、または総合が、日本における創造的な知性、その能力や水準の高度化を阻む要因になっているという気がする。そしてあるいはそのことは日本的心性の中に超人間的な知への不信感がくすぶり、大事なのは知よりも情であり、人間もまた自然の一部として自然の懐の中に抱かれるように存在することが、一番よいことで幸せなことだという思い込みがあるからなのかも知れない。
 いずれにしても日本の知的世界、学問世界では、既存の知識とせめぎ合って自ら創造的に真理の世界を切り開いていく能力や水準への志向性も見当たらなければ、その伝統もない。ただ先行する研究やその成果の後追いから優れたところだけをこっそり我が物のように取り繕い、いかにも自分が考え抜いたことだという体裁で、これを帽子のように頭に被って知者の本務のように錯覚している。
 言い換えれば優れた考え、見解と評価されたものをあちこちから寄せ集め、部分をつなぎ合わせて現実や現象を表層的に診断し、あれこれの処方を述べては事足れりとしている。もちろん藪医者の処方と同じで病態を根原から治癒する処方となり得べくもない。
 こうした学問、学者が横行しているとすれば、教育の世界もまたいかに安易な水準のところに停滞しているかの推測はつく。これが、知的、学力的水準に限定されて考えられるならば問題は何もないというべきだ。そんなものはどうでもいいという意味合いと、明治以来の外部の知の移植をもって学問の本務と見なす伝統によっても、知的に世界水準に到達することはそんなに難しいことではないという意味合いからだ。
 しかし、教育の世界においてはその足下とも言える義務教育の段階から揺らぎ、現象として不登校、いじめ自殺、授業妨害、非行化、学習放棄、校内暴力、家庭内暴力等々へ子どもたちを駆り立てている。これが100%家庭に問題があり、あるいは子ども個人の問題だと考えるものはあるまい。なにがしか現行教育、及びその体制に内在する問題や社会に内在する問題が関与していると考えられることが普通だ。
 文科省をはじめとして諮問機関、教育委員会、学校などの関係機関は様々に会合を持ち、解決策、解消策をその度に講じてきたはずだ。学校教員に義務づけられた県や事務所、町単位のそれぞれの研修会等を含めて考えれば、それこそ気が遠くなるほどの回数で講演を聴講し、頭を付き合わせて話し合いを進めてきたに違いない。
 結果的に個々の教員の知識は膨れあがったかも知れないし、表向きの現場の沈静化、押さえ込みにもある程度の効果はもたらしたのかも知れない。しかしそれは上からの指導の強化によってもたらされた出来事に過ぎず、個々の教員や児童生徒の心にくすぶる厭世的な気分を和らげることには役立っていない。容易に沈静化される部分のみが沈静化し、押さえ込み出来る部分だけが押さえ込まれたに過ぎないと見ることも出来る。
 現場で児童を観察する限りにおいて、その場ではごく普通に対応できる子どもである場合でさえ、いったんこれを背景となる社会に置き直して全体の中で考えてみると、事態は計測できない不可知さに彩られる。今日明るく元気で、将来にわたってさほどの障害に出会うことはあるまいと見えても、その明日は確約されるものではない。いったい何がどうなってこんなにも子どもの世界は危なげなのか。それは、現実世界はいつでもそういうものであるからだ、と一応引き下がって考えてみることは出来る。けれども多くの子どもの倦怠感、牙を剥き出しにした動物のような感情の発露、他者の言葉に示される無反応、全てを他人事のように受け取っているかのような生の希薄感等々は、本当にいつの時代にも子どもに内在するものだと考えるのが妥当なのだろうか。
 全ての先入見を排除した果てに自分を見つめ、子どもたちを見つめてみる。すると不安で不明な世界に、ただ裸形の姿の生命が立ち尽くしているだけのように見える。この人間という形の生命は、どこから生まれてどこに向かって歩いて行くのか。同様に子どもたちもまたどこから人間的な特徴を表し、どのような経過を辿って成長し、最終的にどこに向かって歩いて行くのか。1つの自然的な生命の展開に基準を置いて考えるならば、そこに人間的な理想の粉飾を加えてみることは可能であり、また是と言えるであろうか。
 全てはまだよく分からないことだらけではあるけれども、子どもの世界を考える時に、それはすでに経過した時の反復ではならないはずである。子どもたちにとって未知の世界であると同じように、その未知の世界を抱え込んで、考慮して子どもたちの後ろ姿を見守るべきである。あるいは同行のシュミレーションを描くべきだ。
 ここでは現在の社会で学童期に一様に課される学習の行く末が、せいぜいがこんなところだよということを示したことになると思う。逆に言えばそんな行く末から下ろされ、構築された小中のカリキュラムや学業過程が、評価できる水準にないだろうなということは容易に予測がつくと思う。つまり、ありがたがって専念しなければならない何事もないというのは当然だ。もちろんそうは言っても、明治以後の公教育体制が民衆の知的水準を押し上げたり、それに伴って産業体制やその他で国際的競争力をつけて文明の発達や高度化、社会的、物質的豊かさをもたらす原動力であったことも否定できない。だから、一概に教育は良くないとも良いとも断定すべき事ではない。そういう評価がなされてもなされなくても存在するものは存在するし、今のところ学校教育が社会から消失するなどという考えも起こりようがないことだ。ただ余り重きを置かなくてもよいと考えることは十分にあり得るし、事実そういう考えの元に学校よりも家族的イベントのスケジュールを優先させる家庭も多くなってきている。これは当然の流れのような気がするし、もっともっと強まっていく傾向にあるという気もする。これは現行の学校教育体制への不安や不満の表れであったり、批判的な心情の傾向もそこから覗われる。こうしたことはより学校運営を難しくして行くであろうし、子どもたちやそれぞれの家庭の学校離れという側面を加速させていくかも知れない。そうすると、また、学校生活の中に様々な問題を生じさせる要因にもなり、さらに家庭や子どもの不安や不満がいっそう高じるというように繰り返される。その先にはもちろん公教育の崩壊が待ち構えているが、時期的な予測はつかない。すぐ目の前かも知れないし、だいぶ先のことかも知れない。あるいはすっかり形態を変えて公教育としては持続するということになるのかも知れない。持続するにせよ消失することになるにせよその時に子どもたちの心的な世界が、現実世界を肯定的に受け止められてしなやかに対応する力を身に付けているかどうかだ。そのように育ち、意欲を後退させずに在り続けられているかどうかということだ。これらのことについても、またいつか別の形で考察しておかなければならないことだと思える。
 わたしたちの考察はちっとも進展しないし、足踏み感があることも事実だ。さらに、いたずらに問題の周辺にかかずらっているだけのように見えるかも知れない。だが、泡立つ子どもの世界の周辺の厚みを巡り、何度でもその厚みをこそぎ落とすように考察しながら、しだいに核心に迫っていこうとしていることだけはたしかなことだ。時間の制約もなければ回答の約束も必要ではない。自利的発想も無ければ自分の社会的な価値を高めようという発想も無い。ただ自分の自由になる時間の中で、好き勝手に、目に見え、心に感じたことを記述し、記述したことからさらに先の方に思考の触手を伸ばしていくということを繰り返すのみだ。これからも、そうしてやっていこうと思っている。
 
 
源流論 5
              2016/01/02
 ヨーロッパでは中世に徒弟制度というものが生まれ、およそ10〜16歳の青少年が見習い仕事をしていた。これが19世紀頃まで続いていたという。日本ではこれに類するものに年季奉公とか丁稚というものがあり、江戸時代に盛んだった。こちらも年齢的にはだいたい10歳前後からだったようだ。
 10歳から16歳というと大人たちとの会話が成り立ち、また身体的には大人たちと同等の力仕事ができるようになったり、そこまでいかないとしても補助的な仕事は手伝えるくらいの年令だと思える。
 つまりそれくらいの年令あたりから少年少女たちは社会の予備的一員として参加していったわけで、ではその直前頃はどうかというと子守とか家業の手伝いをちょっと始められるくらいで、それがなければ遊んでいられたのだろうという気がする。
 江戸時代の僧侶で歌人の良寛の伝記には、たしか、子どもにせがまれて一日毬つきやカルタ遊びをしたことが記されていたと思う。これは近世の江戸時代の後期のことで、だから一般的にはそれ以前から子どもといえば遊びの代名詞だくらいに思いなされていた。
 平安末期、後白河法皇が編者で作者とされる『梁塵秘抄』には次のような歌が見える。
 
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
 
 これはいちおう古代、中世、近世と文献が残っているところから眺めているわけだが、それ以前、あるいは原始未開の社会から、子どもは遊びが本分であったということを考えておきたかったのである。
 幼児の「ごっこ遊び」などもそうだが、子どもの遊びは真似に始まると言っていいくらいに見聞きしたことの真似事が多い。真似は学ぶに通じ、代々親から子どもに受け継がれる遊びも多い。我々の年代ではお正月の遊びであったたこ揚げのたこ作りやお手玉は、父親、母親が先輩筋だった。
 現在の幼児期から児童期にかけての子どもの生活は、おそらく原始未開の社会から近世に至るまで、その大部分は真似と学びを包括する遊びを中心としていた。この遊びは、社会にとっては有益だとは言えなかっただろうが、子どもたち自身にとってはけして無益ではなかったはずである。
 近代国家が成立して以後、ほうっておけば悪いこと、よくない生活に染まりかねない遊び中心の子どもの生活は、学校教育制度のもと、その管理下に取り込まれることになっていった。かくして6歳から15歳くらいの9年間は、それまでの遊び一辺倒の生活から、知識、技能や道徳的な規律を学ぶことに変わった。もちろん学制が始まった時点から現在までの間に、教育の世界もまた社会の移りゆきに影響を受けながら大きな変遷を遂げてきた。初期の牧歌的な授業風景から少しずつ牧歌は排除され、いまや先生にとっても児童生徒にとっても授業は息苦しさを感じさせるものに変わった。このあたりの経緯、またその詳細について知りたければ、世に五万と書物があふれており、それを読めばいいと思う。だがそんなことに興味はない。体験を通じて感覚的に分かることは、今日の学校ではかなり強圧的に知識、技能、道徳的な生活律を児童生徒に注入しようと働きかけ、児童生徒は逆にそれを忌避する姿勢を示すことになっている。そして児童生徒の側がそう動けば学校側は更に指導効率を模索して、何とか注入を全うしようとして子どもを追いかけるというあんばいで、果てしなく「いたちごっこ」に近い状態となっている。これは結果的に、ぎゅうぎゅうに学ばせる体制を強化、強度化することに繋がり、かつての「遊びが全て」という子ども世界を子どもたちから奪い取ることに貢献していると言っていい。
 
 問題は、たかだか200年足らずの公教育制度によって、それまでの数千年、数万年に及ぶ人類の歴史の中の、遊びが全てという子ども世界を塗り替えたことが本当に未来に向かって普遍性を持ちうるかどうかということだ。同様に6歳から15歳くらいまでの時期、本当に歴史的に蓄積されてきた知識や技能、あるいは基本的な生活習慣や道徳的な規範を学ばせることが妥当かどうかということだ。
 結論から言えば、けしてそうではないと思える。6歳からの義務教育というものは、かつての年季奉公や徒弟制度などに見たような10歳頃からの社会参入を、なおいっそうスムーズにそしてより効果的になることを目論んで早期化したものだと言える。だが、およそ児童期に重なるこの時期は、人間の生涯という視野から眺めた時には母親や家族に培われた心的、幻想的なものを外部に向かって放射し、そのことによって生じる吸収や反発などの反応から、現実世界のなんたるかを確認していく時期にあたっている。これは本質的なところでいえば人間関係の学びであり、自己と外部世界との関係の学びであり、関係の折り合いをつける重要な学習の時期だと見ることも出来る。これに較べれば、算数や国語の学習などはさほど重要なことではない。また道徳的なことなども頭で理解するのではなく、子ども同士の遊びを通した触れ合い、交わり合いの中から徐々に徐々に内面に形成されるものだと考えるべきだ。つまり、急がずに黙って待っているべきだと思える。
 
 もう少し違う観点から幼児期、そして児童期、年令で言えば3歳から15歳くらいまでを眺めることが出来る。そしてもしかするとこちらの方が重要なことであるかも知れない。 子どもは1歳過ぎぐらいから言葉を獲得して口にし、同時に他者の発した言葉を理解するようになる。5、6歳になれば一般の大人との会話も成り立つと言われ、10歳を過ぎれば社会通念のようなものもほぼ把握できてくる。
 言葉を獲得することは思考が出来る、あるいは思考するようになるということであり、この思考ははじめ象徴思考と呼ばれるものから、徐々に概念思考が出来るところへと進んでいく。
 解剖学者の故三木成夫さんは、概念思考は2歳くらいを始まりと考えていた。また、それまでの象徴思考はだいたい1歳半から2歳半までの幼児の中心の思考で、以後その座は概念思考に譲っていくとされている。三木さんは思考とは頭の働きで、象徴思考も思考と言うからには頭の働きに他ならないが、そこではまだ心が優先していると考えている。そして概念思考が芽生える時点では、およそ五分五分で「心」と「頭」とが釣り合った状態だと考えていたようである。
 三木さんにならってヒトの内面を「心」と「頭」からなるものだと考えれば、言葉の獲得以前の内面の世界は「心」だと言うことが出来、言葉の獲得以後は「頭」の働きが「心」と均衡するようになり、さらにそれ以後は徐々に「頭」の働きが内面を侵食して「心」を駆逐していくと考えることが出来る。簡単に言えば、大人になって行くということはしだいに「心」を失っていく過程だということだ。
さらに言葉を換えて言えば、心情よりも精神、理性で動くようになるということである。
 今のところはっきり区分できないが、年齢的に見てわたしたちがほとんど理性的だと言えるように振る舞うことが出来るとすると、およそ18歳から20歳くらいかなと思う。10歳くらいからその芽生えは感じられるけれども、その頃はまだ心情の側面から言動が影響されることも多いように思える。つまり理性的ならざる、「心」が後ろ髪引く言動は15歳くらいまでにはまだ残っていて、強く挙措に表れる場合もけして少なくない。18歳くらいになると、何となく自分の資質や性格を隠して(「心」が後景に退く)他者や社会に接触するすべを身に付けられるように思う。
 ここまでを「心」の側面から概括すると、まず胎児や乳児のところでは「心」が目ざめ、それが内面的な中心、あるいは全てだというイメージが得られる。次に思考の発達と言語の獲得とが込みにやってきて、だいたいそのあたりから幼児期が始まっていると考えてよいと思う。幼児期から「頭」の働きは活発化し、象徴思考から概念思考へと発達していく。ここで、象徴思考というものが「心」の世界と深く関係する「頭」の働きであることに留意しておく必要がある。抽象的な概念思考に比較して言えば、象徴思考は物や具象と不可分で、「心」と「思考」とは併存する状態だと考えると考えやすい。この、象徴思考が最も得意だと言われるのが世界的に見ていくと日本民族で、ここのところは変に誤解してほしくないのだが、人類史的に見て他の民族が早くから「心」から「頭」への意向を速やかに成し遂げた時に日本人は長くそこに留まっていた。これは停滞であるとマイナスに考えるむきもあるかも知れないが、別の側面からは独自に「心」の世界を拡張し、豊穣にし、独特の「心」、文化を形成したと見ることも出来る。一言で言えば、それは自然との関係、捉え方、関わり方に特徴的で、自然に入り込んでこれを理解するという方法を完成させていった。これは他の民族とは真逆と言っていいくらいの差異を生みだし、ある意味で根源的な共通理解を不可能と思わせるような違いとなって表れている。古代、中世において完全に中国化し得なかったり、近代以降の西洋文明、文化の輸入の果てに、どこか西洋化を果たせない苦渋に苦しむというのは、そういったところに起源を持っていると見なせる。
 我々日本人の幼児期はいま述べてきたところと無関係ではない。逆に深く根源的なところで関わり合っているように思える。
 現在の日本社会において、前近代的な「心」の形成、成長というものは「頭」の働きとは言えないもの、つまり「無知」のように考えられがちである。あるいは重要な過程だとは考えられていない。これをないがしろにして早くから知識、技能を覚え込ませようとしているかに見える。もっと言うと、本当は「心」の形成はどうあるべきかを考えていないし、「心」とは何かがよく理解されてはいないと思える。特に日本人の「心」について日本人自身がよく分かっていない。
 愚かと言えば愚かなことだが、明治以降、また戦後以後、日本は西欧列強の優位性を認め、これと対等な水準までこの国をレベルアップすることを目標に努力してきた。その努力は西欧の思考方法を輸入し、これを日本人の中に接ぎ木しようとするものだったが、西欧人を理解しようとしていつの間にか自分たちが西欧人になりきろうとする動きに微妙に変わっていった。産業から始まり、生活様式や子育て、またファッションや文化、言語に至るまで欧米化を推し進めてきた。教育に対する根源的な考え方も、根本には欧米の精神スタイル、思考スタイルが居座っている。
 けれども日本人の根っこの心性は欧米の精神性と相容れない型を持っていて、どんなに教育改革を推し進め人間的な初期の段階から西欧の型を埋め込もうとするも、これは未だ成功しているとは言いがたい。もちろん表層的な西欧の思考方法、形式論理性、あるいは知的水準はきれいに欧米化したと見なすことも可能だが、そしてそれくらいのレベルに達したと一応は言ってみることができるが、その核のところになるとどうしても異質さは際立つ。自明のことと言えば自明のことだが、日本人を形成してきたのは気候や風土に始まる自然環境であり、長い間の風俗、習慣、自然信仰的なしきたりのようなものであり、今日の大人や子どもといえどもそうした日本の歴史的な体験の蓄積と無縁ではあり得ないからなのだ。
 このまま強固に現在的なスタイルを貫き、教育や生活スタイルなどの一切を欧米化のままに進めば、いつか「心性としての日本」は消失して晴れて欧米人になりきれるのかも知れない。だがそれがどんな過酷さを我々にもたらし、子どもたちにもたらすかは現在の日本社会を眺めるだけでも容易に想像がつく。またその結果、どのような個人を出現させ、社会を出現させていくかについてもある程度の予測はつく。つまり、「心性としての日本」を消失する代償として、それは価する価値を持つかと言えば全くそんなことはない。そういうところで見習うべきところはもはや何一つないと言っていいのではないか。
 日本では、前古代というべき縄文文化が他の世界の文明、文化に比して長く続いた。本質的に文字を持たない文化圏ということになり、思考としての深度や高度化には世界に向かって寄与しなかったかも知れないが、心的な深さ、広がり、豊かさということでは世界的にもまれに見る水準にまで日本人を推し挙げたと思える。
 この縄文期を子どもの成長の段階に対応づけるとすれば、幼児期から現在の児童期と呼ばれるあたりにまで拡張させて考える以外にないと思える。そう考えた時に、どうしてもこの時期に知識や技能などをぎゅうぎゅうに教え込むことは不当だと思わずにいられない。現在の教育体制と折り合いをつけるには、逆に遊びを中心とし、本命とし、学習的なことはほんのさわりの程度、二の次、三の次のことと、子どもの生活の中からぬいて考えるべきと思われてならない。
 西欧の思考は全てを思考の水準で優劣をつけたがる。そこでは、原始未明は野蛮で獰猛で知的なかけらもない動物の生活そのままの世界が広がっていたと考える。けれども我々日本人は知的さや思考的な貧しさとは言えるとしても心的な豊かさの広がった縄文の時代を経験したところから、原始未明においても人間という名のつく以上けしてその時代を心性の豊穣さと無縁だったとは考えない。
 それは子ども期に対応させれば胎乳児期にあたり、我々はこれを心的に無限の可能性を秘めた時期であると捉え、ここから人間についてのたくさんのことが学べる時期だと考えている。これは以後の児童期のあたりについても同様に言えることだ。これらの時期を、知的に貧困な時期でそれを注入させるべきだと捉えるか、心的に豊穣な世界が広がっている時期だと捉えるかは千里の径庭ほどの溝が横たわっている。
 我々は本当は現実を目の当たりにして厳しい現在の社会を生き抜かなければならない時に、仕事に追われ、積み重なる仕事や生活のあれこれを次々にその手で裁いていくことを強いられる。つまり、こんなことを考えていられるほど閑ではないというのが実情であると思える。教育の世界では今日の授業をどうするか、明日、起こるかも知れないいじめに心を傷つける子どもがいたらどうするか、日々そんなことに腐心しているに違いない。それは全くその通りで、そんな中で先生たちにそれ以外に考えることを負わせるわけにはいかない。
 まだ当分、子どもや先生たちもあずかり知らぬところでこういった思考の数々の試みが、いくつもいくつも繰り返され、そのほとんどが闇に消えていくことが覚悟されなければならないのだと思える。逼迫は周囲に充ち満ちているが先は長い。鼻歌を歌い、手に野の花を摘みながらこの先に進む以外にない。
 
 
源流論 4
              2015/12/26
 人類が誕生してから今日まで、どんな個人的な、あるいはどんな集団的な形態のもとに生活を送ってきたのかについては、ほとんど学問的な知識を持ち合わせていない。ただ他の動物や生き物たちを見ながら、性的な対の関係を基調に単一あるいは複数の家族集団(あるいは群れ)を形成し、これが大きくなりすぎた場合には分家という形で少し離れた場所に独立の集団(群れ)を形成したかもしれない、などと想像している。ここで人類の初期の集団形成(群れ)が、必ず血縁者によって構成されていたのかどうかについてはよく分からないところで、しかし、現在のように非血縁者で氏素性の分からない他人を隣人として生活する社会の到来は、時代的に言ってかなり新しい形態だろうということは言えそうな気がしている。いずれにせよ、原始未開から古代にかけて初期的な家族集団の群れは結合と離反を繰り返しながら、徐々に生きるための協力を行っていくように進展し、社会性を発達させて非血縁の集団を形成できるように発達してきたように思える。
 しかしながら日本の縄文期などを考えてみると、青森の三内丸山遺跡などの例は別として非血縁をも含んだ数百人あまりの大集団が、ある地域に分散して社会生活を営んだという痕跡はまれなものだ。多少の見聞きした範囲では、近隣に見られる遺跡(宮城中央部の山間)はほとんどが孤立して存在し、1家族、多くても3、4家族と見られる規模の住居跡が見られるだけである。
 これらを総合して考えるに、縄文期における日本列島では比較的規模の大きい集落を形成する場合もあれば、単一の家族がそれらの集落や他の家族集団とは離れて、単独に生活する場合もあったというように考えられてくる。もちろん当時の遺跡から発掘された遺物を見るとかなり広範囲で交易や交流があったということが知られ、現在考えられる以上に当時の人々が活発に移動していたと推測することも出来る。けれども、小集団から大集団に至る全ての集団が頻繁に交通、交流していたとは言えず、年に1、2度、少なければ数年に1度の部外者、まれ人に接触する機会があったということも言えるのではないだろうかと思う。
 要するに、こんな話から何が言いたいかというと、少なくとも日本国家の起源と目される起源300年前後の大和朝廷成立以前は、各家族単位であったり、その寄り合いとしての集落規模の単位で、いわばバラバラで自由な、そして緩やかな生活規範や規律の下に生活できていたのだろうということだ。個人、あるいは子どもの存在様式においても、その言動を規制するものは家族法(しきたり)的なところを大きく越えるものではなく、その分、現在よりは格段に制約は少なかっただろうと考えられる。家族的ということは一般的には親和的ということであり、家族単位で自由に気ままに暮らせるということは、現在から見ると人間生活における1つの桃源郷のようにも考えられる。
 以後、日本社会には稲作が伝播され、それに伴って食糧貯蔵がなされるようになる。物々交換、交易、交流がいよいよ活発となり、社会の網の目は著しく密になり発展を遂げていったものであろう。親族から氏族、また部族へと範囲は拡張していった。集団や共同体と呼べる形態が拡大されていくにつれ、思い込みによるしきたり、宗教法のようなものが集団や共同体をまとめるものに必要とされて発達していく。これは逆に本来バラバラであった家族や個人を規制するものに変わる。
 いずれにせよとても単純化していえば、人類社会は気ままな個人や家族という在り方から、膨張した社会の一員という在り方へと進んできた。関係の網の目は密で膨大なものとなり、現在、人間はもはや社会とは切っても切れない関係として存在する以外に、その存在を維持することが出来なくなっている。
 このように人類は自然動物的な「群れ」を長く過ごした後、徐々に血縁集団的な段階を経て今日のような非血縁の集団による社会生活を構成するようになってきた。どうしてそのような道を歩まなければならなかったのかはよく分からないが、おそらくそれは進むべくして進んできた道だとは言えそうに思える。 大規模の集団形成には、メリットとデメリットとがあった。メリットは何と言っても個々の力を1つのベクトルに向けて結集し、個人や小集団では適わなかった強力が発揮できるようになったことだ。これによって人間社会は高度な文化や文明を生みだし、加速的にそれらを発達させることが出来た。いまあるわたしたちの便利で豊かな社会はその結果だと言っていい。
 これに対してデメリットは何かといえば、家族単位、個人や小集団単位で、社会に気兼ねなく、いわば何ものにも縛られずに、どんな制約や規制も受けずに、自由気ままに存在することが難しくなった点だ。つまり、どんな意味でも国家的社会の枠組みから無縁に生きることが出来なくなったことだ。
 今日のような社会、国家のもとでは、個人としての人間はその一構成員でしかなく、そのように振る舞わなければならないものとなった。自分に命じることが出来るのは自分だけという時代は帰らぬものとなり、現在では国家や社会の意向に従って、しかもそれをさも自分の意向であるかのように仮構して自分の中に取り込み、その上で自分に命じて自分を動かすというふうになってきている。これは誰かがそのように働きかけたり、強制したりしているというわけではない。ただ今日の社会のシステムというべきものの声に従って、自分からそうするように仕向けられているのだとは想像することが出来る。
 このような在り方の1つの典型として、我々は今日の日本における学校教育制度を見直そうとしてきているのであるが、如何せんこのような考察に興味を持つものは皆無に等しいのだ。
 問題はこうだ。かつて人間は余り広くない世界で、自然をはじめとする身近な事象あるいは血縁の人間を観察する中で、感じ、考え、それをもとに一切のふるまいを決定できた。その結果はよい時も悪い時もあっただろうが、自分で決めたことだという満足感や充足感だけは味わうことが出来ていたに違いない。これは生きることの根源に横たわる何かで、人間の生命に分かちがたく結びついた衝動のようなものと言ってもいいと思う。
 しかし、現在に置かれた状況はかつてとは違い、そこに圧倒的な力で国家、社会という共同体の側からの働きかけが介入し、個人の感覚、考え、反応は制約を受け、あるいは矯正をかけられることになっている。特に今日の小中学生の学校生活というものは、家族によって養われてきた人間としての素地というものが教育や指導という名の下に常に矯正の憂き目に遭い、自己改善をうるさく要求される。学校のない時代に育った子どもたちは、そのようにせかされることは一切なかったはずだ。どう考えても、現在の学校生活が子どもの世界、特に内面世界を豊かに育むシステムだとは思いようがない。確かに物と金はつぎ込まれ、外部的な教育環境は高度に発達してきた。けれどもそれと反比例するかのように、小中学生の子どもたちのこころ、内面は隠れて見えなくなるか、ボロボロに荒廃したすがた形を見せるようになっている。
 愚かにも大人たちは18世紀のヘーゲルの幻影に性懲りもなく取り憑かれていて、いかに共同体の一員としての人間の育成を果たすかに日々腐心している。だが、子ども世界は本音では少しもそんなことは望んではいない。内面に育った樹木の幹と枝葉に四方八方からかけられた矯正のための針金や糸を、一瞬でいいから取り外してくれと叫んでいるのではないか。樹木は光を感知しながら自らのすがた形を整える。そのあるがままの自然なすがた形を認めてもらいたいのだし、そのようなものとして生きることを認めてもらいたいと訴えているように思われる。これが適わず、相変わらず共同体の要求に添うことを望まれ、矯正に甘んじなければならないとすれば、内面を消失するか殺してしまうほか方途はなくなる。
 もう一度言おう。わずか6歳から、こうしろああしろと内面の世界にずかずか入り込んでごちゃごちゃにかき回し、自分裁量の時間を奪い取ってしまう教育の名の下の強制的な働きかけは、わずか200年足らずの現代の教育制度を除いて、かつての人類の歴史のどんな時代にもなかったことだ。その是非はここに来て正念場を迎えていると言っていいと思う。歴史とはそういうものだと思う。
 我々は自分たちの考えが正しいものだとも唯一無二のものだとも言いたいわけではない。ただ世の中の進む方向でらちが明かないのなら、こういう考え方もありうるよと言いたいだけだ。そして、本当に現在の子どもたちの置かれている状況を心配し、また未来を心配するならば、どうか一緒にあらゆる可能性を探りつつ考え、検討していきましょうと言いたいのだ。またそのことだけを切に願っている。おそらく表層を飛び交う言語だけを追っていたのでは問題の本質を掴むことは出来ないのだ。とりあえず、怠惰だけの訳知り顔とその発言は無視して進めるところまで進んでいく。
 
 
源流論 3
              2015/12/13
 ここまで、人間の胎児や乳幼児や児童期の精神構造が、人類の原人、旧人、新人という進化の区分における、それぞれの前史時代の精神構造に対応できるのではないかと考えてきた。またしばしばそういうものとして考えてみた。それは主に有史以前として、三木成夫さんの歴史区分の捉え方からすると先史時代までということであり、吉本隆明さんの区分から言うと前古代というところまでを考え、それは子どもの年令で言えばおよそ10歳までに相当すると考えてきた。
 有史以降というと、思いつくのは古代、中世、近世、近代、現代という区分で、いま仮に対応の流れをそのまま無理に当てはめれば、10歳以後から20歳頃までと言えないことはない。だが、今のところこれを対応づけることは難しくて出来ないし、仮に結びつけて考えてみたとしてもそれほどの重要性はないだろうという気がする。それでも人類史の精神構造の段階を考えようとした時に、およそ現代人で言えば20歳くらいのところまでは継続して考えられなくはないという気はする。逆に、そう考えてみると、人類前史と子どもの精神構造の対応はいっそう、その結びつきが堅固なものに感じられてくる。
 こういう考え方を極端に単純化すれば、人間の個体は、人類史の原始未開の段階から現代までの精神の発達の経過を、わずか20年前後の間に通過すべき宿命を背負っているように思われる。そう考えないとまたこの長い未成年という期間が、どうして現代社会にあっても必要なのかが見えてこない。そしてそのことは、個体の精神的な成長の遅滞というものが、逆に人類の精神の発達の質量ともにどれほど大きなものであるかを暗示しているように思われる。もちろんまた数百万年とも数十万年とも想定される人類史のたどった足跡を、20年に凝縮して転写するという荒技が個々人の精神内部において行われているということは、内からも外からも半ばうかがい知れないことで、ただに呆然と思慮してみるほかにない。
 自分の物心ついてからの未成年時代を振り返る時、露ほどもそういう過程を踏んでいるなどとは思いもしなかった。目先のあちらこちらに心と頭とを激しく動きめぐらしていた時に、実は感じ、考えることによって、それ自体が感覚や思考を歴史的現在性という水準の最先端に成長、発達させるステップを重ね合わせていたということになる。
 胎乳児期に母親との一対一の根源的なコミュニケーションに始まり、家族血縁共同体を経過し、地域共同体へと行動範囲を拡大しながら精神性を拡張し、徐々に世界とは何かに目ざめ、把握していく過程である。そうした次元の異なる関係性を通過しつつ人間の個体は成長し、社会や国家、あるいは国際社会の一員という水準に突出する。
 本当は、ここまで文章にしてきたところを何度も頭の中で繰り返し反芻して考えながら、どうしても疑問に思うところは、今日のいわゆる学校制度が家族と国家の共同体の中間にあるべき地域共同体をすっ飛ばして、直に家族から国家共同体へと子どもたちを招聘している点だ。子どもたちは家族の一員であるとともに、国家という枠組みの中の一員としてその間を行き来するようになっている。言い換えれば、本来ならば個人と国家を媒介する1つである地域共同体をほとんどないものとし、唯一媒介となる家族はもはやほとんど媒介の用をなさないところへと追い込まれている。これをうまく言い表す自信はないが、言ってみれば教育的配慮、指導というような形で、家族は自分たちの子どもを自分たちの思い通りに育てることさえ出来なくさせられてきているということだ。
 今日の、いわゆる子どもたちが荒れている、様々な問題を引き起こす、それらの原因は家族内における子育て、しつけ、教育、それらがしっかりなされていないからで、家庭や親の教育、啓発、啓蒙が必要だとする考え方が学校側(社会や国家の側に立つ代弁者と言うほどの意味合い)には頑として存在する。極端に言えば、こうした考えは家族の改革を迫るものであり、もっと露骨に言えば現にいまある自然な成り立ちとしての家族を破壊するように働きかけている。具体的な形態を破壊するという意味ではない。子どもの内面における家族の存在意義を破壊するのだ。子どもの、生きる意味や価値は公教育を通じ自由な個人として確立すべきことを促され、家族あるいは両親の実際に生きた経験からなるそれぞれの生に対する姿勢は、幼児期までに子どもに受け継がれながら、公教育の中で否定される。家族のしつけ、慣習、言葉遣い、身なりに始まって、あらゆるものは一般論的な常識の範囲に矯正を加えられる。母親から家族を経過した児童期の子どもは、獲得した生きる基準、規範と言うべきものを学校によって国家基準、国家規範へと書き換えられることになる。元々が国家基準、国家規範に合致した家族基準、家族規範を持った家族の子どもは、そこをスムーズに経過することが出来るかもしれない。しかし、そうでないとすれば、子どもは獲得した内面の家族をことごとく否定され、そのことによって深層で深く傷つき、そうまでいかないとしても誰にも告げられない内面の混乱、あるいは錯乱に近い体験を孤独に経なければならないと思える。
 この流れは戦後を境に加速してきた。地域のコミュニティーは破壊し尽くされ、家族もまた瀕死にあえいでいる。子どもたちは直に国家の国民生産装置としての公教育に対峙し、自由なる個人、すなわち由緒、系譜を持たない、地域や家族のしがらみを断ち切られた個人へと成長することを強制される。一個の人間はもっとどろどろした存在の仕方をするはずなのに、それはもはや牧歌的だとして排除される。
 こんなことがこのまま継続されていいものだろうか。
 国家国民の統合という大義の下に個々の生き物としての人間性は圧迫され、その果てに非人間的とでも言うべき悪性が、個々の生理の深層から泡ぶくのように立ち昇ってきているように見える。これを見てまた子どもが悪くなった、家族の質が低下したとして、教育力の向上が急務と歎いてみせる。そういう固定観念の呪縛に取り憑かれた人々がいかに多いことか。いや、それでも良い。考え方はいかようでも、その考えの元に実践したことが子どもの生活をよみがえらせ、生きる喜びに満ちたものへと変えることができるなら、すぐさまそれをやってくれと願うだけだ。けれども、どうもそうはならない。ここ10年だけを見ても、教育の世界は同じことを同じように繰り返している。
 どの学校、どの学級にも、平気で教師を罵倒する子どももいれば隅の方で小さくなっている子どももいるだろう。授業中にもだらしなく座り、教科書を開かない、ノートに漫画を書いている、友達と私語を交わし、挙げ句の果てに縦横無尽に立ち騒ぐ子どももいるかもしれない。おそらく全国のどの学校、学級にもそういう光景が当たり前のように展開されるようになっている。
 いったい何がどうなってこうなってしまったのか。大人たちは誰もがそう考えるだろう。けれども、教養を積んできたはずの大人たちの誰もがこの情景について確かな理解と判断が出来ず、また確かな解決策も見いだせないで来ている。そうして思わず声を出して笑いたくなるが、相変わらず教育や教養が大事なんだと自他に思い込ませようとしている。もちろん、この現実を前に何も解決策を見いだせない、教育や教養を腹一杯詰め込んだ大人たちの考えや発言は嘲弄されてしかるべきなのだ。この現実を前に、糞の役にも立たない教養を看板のように胸に垂らした連中こそ、もう一度教育を受け直し、教養を改めてみるがいいのだ。そうしたら、現在教育と称してどんなにくだらないことを行っているのかに目を開かれる思いをするに違いない。
 一方で、この教育、教養が、現代社会を生きるために必要であり、成人前に身に付けておくべきことが歴史的に見て必須となっていることは、これまで考えてきたところかも知られる。要はその時期と規模と内容であり、質なのだと思える。また、とりあえず現在の児童期と呼ばれるあたりで、昔の地域共同性に代わる、国家と個人を媒介する代替物、その様式と中味とを考えてみなければならない。そこで子どもの成長と発達が無理なくスムーズに、連続的に展開していくイメージを構築できなければ、おそらく子ども世界は今後も縮退の一途をたどり、生き残りをかけた厳しい世界は更に厳しい世界へと変貌して行くに違いない。そうなった時、ことは子ども世界に留まらず、大人社会もまた大きく変わっていくだろうことは考えるに及ばない。子どもたちは成長し大人になる。
 ぎゅうぎゅうに知識や技能を詰め込まれ、あるいは詰め込むふうを装ってその時間に耐え、やれ姿勢がどうのこうの、態度がどうのこうの、声を出すな、聞かれたことに意思表示しろ、けんかをするな、優しさを持て、友達に親切にしろ等々、およそ6時間の授業中がんじがらめの規範の中に生活し、これが大人になってどのような反作用となって現出するものか…。大人たちは分かっているだろう。理性によって自らの言動を律しているとはいえ、内面、あるいは精神とか心とか呼ばれる中において、他者に言えない狂気を誰もがひっそり飼い慣らしていることに気づいているはずだ。
 見ていると、多くの大人たちは我慢をしている。耐えている。自分が我慢をし耐えているのだから子どもだって出来るだろうと思っている。あるいは無意識の自虐的、他虐的面が露出して、「子どもにもやらせろ」という意向に反映して出てきている。
 けれども加速した時代の時間は凝縮され、現在の子どもを取り巻く状況はかつて大人たちが体験した比ではなく、あらゆる牧歌的なものが取り払われて、周囲に緩衝はなく、すさまじい力が直に個人を襲い、自然かつ家族的な「私」は公的な「私」への変身を強いられる。これがいかに過酷なのかは一部の従順ならざる子どもたちによって証明されている。心ごと、体ごと、拒絶する淵に追い込まれる。これをまた公的なものに扮したものが公的な言葉で叩く。何と言うことだろうと思う。だがそれは穏やかな光の下で平然と日常的に行われている。
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 2              2015/12/09
 
 人間の新生児が他の動物に較べて遅延して成長するのはいろいろな理由が考えられるが、授乳やおむつ交換の世話を含めてつきっきりで母親(代理)と接触する中で、言語の習得をはじめ人類がこれまでに獲得してきた様々な歴史的な体験の蓄積、その成果を新生児に植え付け、現在的な世界に適応して生きられるようにするためだというのも、おそらくそのひとつである。
 その時母親は現在世界の体現者(代理者)となって乳児に接し、母親が獲得した現在世界の要因は全て、つきっきりの接触を通じて乳児に転写される。このことはその後の子どもの運命を決定し、左右するほどに重要なことだと思える。
 しかし、胎児期から乳児期にかけて個体の資質や性格のおおもとが、母親やその代理者を通して形成されるとは言え、これだけで現在世界への適応が十二分に果たされる条件が完備されるとは思えない。そのために、現在の社会では以後、幼児期、児童期、思春期などの発達段階を経て、およそ18歳から20歳までを未成年と考えて適応のステップをこしらえている。つまり、一人前になるための手厚い手助けをしていることになる。
 こう考えると他の動物たちとは隔絶の感がある。また、個体が自活するためだけにもこれだけの猶予期間を有するということは、いかに人類の無形の蓄積がその起源から膨大なものに膨れあがってきたかが想像され、それを身に付けなければ現在社会に生きられない、それを身に付けるために20年近くの歳月を要する、そういうことに改めて驚かずにいられない。半分冗談交じりに言えば、この先寿命の延長と加速する歴史時間を考慮すると、30歳、40歳までが未成年として扱わなければならない時代が到来しないとも限らないのではないかとさえ考えられてくる。
 それはそれとして先の話を繋げば、現在の幼児期、児童期などの区分は当然ステップアップの時期区分であり、これまで人類が積み重ね蓄積してきたもののうち、必須のものを子どもたちに獲得させる時期にあたっていると見なすことが出来る。
 明瞭な形で目に見えるそのひとつは、いうまでもなく児童期に始まる学業である。現在、高度な文明社会にスムーズに適応できるようにするため、社会はこの様式、制度を編み出し、子どもたちに知識や技能、また道徳律などを提供してきた。西洋の歴史ではおよそ200年、日本では150年ほど、学校教育の機能は十分に使命を果たしてきたと言えば言えそうに思う。
 しかし、系統的発生論の考え方からすれば、なぜ6歳(日本では)という時期に学校教育制度に組み込み、そこで知識や技能や道徳律をぎゅうぎゅうに詰め込まれなければならないのかがよく分からない。というよりも、前述してきたように本当は10歳以後からがふさわしいと思われる。そうすると、幼児期と、現在言うところの児童期とでは、人類の歴史が蓄積してきたもののうちでいったいどんなことを植え付けられ、あるいは身に付ける必要があるのかということになる。ここのあたりも本当はよく分からない。
 子どもの心的、精神的な成長、発達から考えれば、母親(代理)との接触は人間的な基礎の基礎を埋め込まれる時期だと考えることが出来る。学校で教えられることは非血縁集団の中でのふるまい方であり、社会生活に必要となる基礎的な知識や技能などだ。現在の高度な文明社会ではさらに高度な知識や技能の習得が必要となって、中学、高校、大学への進学が当然のように受け取られている。
 考えたいことは、母親との一対一の関係から学校における同一年令集団までの過程で、いわゆる今日言うところの幼児期という発達区分の中では子どもの成長、発達の歴史から言えば何が獲得され、そしてそれはおよそ2歳から5歳くらいの区分の間で十分に獲得されているものなのかどうか。またそれ以後、すぐに学業の集団生活に入って、その間に何か獲得すべきものの体験の欠損が生じているということはないのかどうか、というようなことについてだ。
 幼児期ということは言うまでもなく家族体験ということだ。家族共同体内に暮らし、母親以外の家族から愛情をはじめとする様々な心的な接触の契機がもたらされ、その過程でよりいっそう人類の歴史が積み重ねてきた現在性という所産に近づく。具体的には言語の拡張であり心的な枠組みの拡大であったり、人類初期の共同性体験であり、あるいは古代や先史時代における精神構造に自分のそれを高めていくことが行われているのだと思う。
 この時、乳児期における母親との密なる経験はそのまま幼児期を通過していく場合もあれば、拡散し、幾分か否定されるという場合もあり得る。つまりそのことは複数(家族内他者など)の視線や視点を自分の中に取り入れるということでもある。そのように、次元が異なっていく過程で構築と解体が心的に積み重ねられていくと考えられることが出来よう。具体的には幼児期において、乳児期における母親から獲得したものは家族内で相対化にさらされ、およそ児童期になると家族関係から生みだされたものは血縁内、地域内において相対化にされされ、その度に精神の解体と再構築化が子どもの内部でめまぐるしく変転されていくと思われる。
 このように見てくると、確かに幼児期は家族共同体の体験であり、これは歴史的には先史の時代もしくは前古代に対応づけられそうだ。また、孤絶した家族共同体というものを想定しないとすれば、これには親族から氏族共同体までが自然な構成として入り込んでくる。親族とは血縁及び姻戚関係にある人々を指し、兄弟姉妹が新たに婚姻することによって空間的に家族の外部へと拡張していくことで成立する。また氏族とは親族空間が拡大して血縁性は薄められるものの、同じ祖先から出た一門を指し、年長者の中の代表が統率する社会構成の単位であり、はっきりと非血縁のいくつかの氏族を併合した部族集団が成立するまでの、最大の集団を構成するものだったと考えることが出来る。
 このあたり、素人にとって人類の初期にどのような集団形成がなされ、どのような経過をたどってどのように形態変化、発展を遂げてきたものかはよく分からない。ただ子どもの社会性との関連からその成長と発展の過程を見ると、家族から親族、そして遠い血縁の一門というあたりまでは現在社会にも名残を留め、うっすらとではあるが未だに意識されているところのように思われる。つまり、子どもたちはそれぞれの共同体の差異に出会いながら、外部世界へと空間を拡大しつつ成長、発達していくもののように見受けられる。そして氏族までのはっきりとした拡大した空間性を把握し、自覚的になるためにはそれ相応の時間を要することになり、氏族内での習俗、慣行を理解するようになるのは子ども期といってもかなり後期に属することは間違いない。
 日本ではおそらく明治期以前まで、個体の生活空間は家族、親族、氏族、そして氏族への広がりの間に浮上してくる地域社会の空間内に、その生涯を埋め尽くすことが一般的だったのではないかと思われる。言葉を換えていえば、その緩やかな共同体を背景のように持ちながら、実際の個体を律する上位の規範は家族、親族、氏族、つまりは血縁共同体というものの内部にあり続けたと思う。もちろんはるか以前から部族社会が成立し、強度の掟、規範、法に縛られていなかったとは言えない。けれどもそうした非血縁集団を構成した以降においても、それは必ずしも血縁の絆を尊重しなかったということではなかったように思う。逆に非血縁集団を構成していても、互いの血縁性を尊重し合う非血縁の共同体でありえたように見える。
 つまり、かつての日本の子どもの成長というものは、母親から家族、そして親族や氏族そして村落共同体のような狭い地域社会に地続きのように接続しながら、それぞれの段階における共同性から生みだされた観念や幻想の中を試練としてくぐり、自らの、共同性の一員としての在り様を決定していくものだったと考えられる。それはつまり、段階的な成長と発達を遂げていく様式だったということである。
 
 
泡立つ子どもの世界
源流論 1          2015/12/04
 
 幼児期までは「けんか」はあっても「いじめ」はない。そこまでの知恵が回らないと言えばそうかもしれないが、それだけとは言えないような気がする。おそらく乳児や幼児の生活の主たる拠点は家族内にあり、少し範囲を広げて考えても親族などの血縁の共同性に守られて存在するからだと考えられる。非血縁集団の中で自ら小集団を組むようになってはじめて、いじめは本格化する。
 系統的発生論は、個体の成長・発達は人類の進化・発達に対応すると考えている。そこから見れば、原人・旧人・新人の区分のうち、原人、旧人までを乳児期、新人は幼児期以降に該当させてよいと思われる。意味ある音声言語の発達と飛躍的に活動範囲が広がった新人出現以後は、個体では乳児期から幼児期へ移行した時期に対応すると見なされる。もちろん、これ以外に、論者の数だけ人類史と個体史の対応のさせ方は様々である。
 いま、新人のところを時代区分の考えに置き換えて、先史人、歴史人というように読み替えてみる。そして、乳児期としての原人、旧人はそのままに、先史人と歴史人を我々の年齢区分のどのあたりに対応づけられるかと考えてみたい。
 解剖学者の故三木成夫さんは、幼児期と児童期が重なるおよそ3歳前後から10歳前後までを先史の時代に対応するとしていた。おそらく三木さんは、10歳前後の精神構造が文字文化に耐えられる構造に発達すると見なした。だから幼児期、そして児童期の一部は先史に重なり、歴史時代は10歳以後に対応されると見た。
 このことはしかし、経済社会的な範疇で考えた時の区分とは微妙に相違してしまう。例えば思想家の故吉本隆明さんは食料の調達の仕方や集団の組み方から、時代を原始未開、前古代、古代、またそれ以降というような区分の仕方をしている。吉本さんの考える古代の特徴は、農業が発達して中心の産業と言える社会の到来であり、集団的には非血縁の部族社会が成立し、統一部族国家が成立した時期ということになる。これに先立つ前古代は狩猟採集と原始農耕が併存し、共同体の構成としては血縁であることを脱する以前の主に家族、親族、氏族までの間で構成されていた時期と言うことができる。
 吉本さんの考え方から言えば、原始未開には乳児期までを充てて、前古代には幼児期以降をあてはめるところまでは三木さんの考え方とも矛盾しないように思える。ただ吉本さんの考える古代という時期は、非血縁の共同体で統一部族国家の成立時期にあたり、これは現在でいえば小学校に入学して、非血縁集団を組んだ生活が始まる児童期に該当すると考えることも出来る。
 しかし、問題なのは、三木さんの考え方にしても吉本さんの考え方にしても、現在の心理的な発達区分であるところの児童期をはっきりと、それぞれの考える人類史の区分と明確に対応づけられない点だ。
 三木さんの考えは、およそ10歳くらいまでの子どもには先史人の名残が見られるというものであり、現在の児童期という区分とはずれている。また吉本さんの考えでは現在言うところの5、6歳に始まる児童期が、本当に古代に対応づけられるかの確証が得られない。経済的には両親の完全なる庇護下にあり、それでいながら義務教育の形で生活のほとんどを非血縁集団の中に過ごしているからだ。 三木さんの採用している区分としての歴史人を人間の成長、発達史の上から10歳以後とし、吉本さんの言う古代を、仮に自ら非血縁の集団(徒党)を組み、飛躍的に自立した活動の可能性を持ち始める10〜12歳前後と考えれば、両者は10〜12歳のところで歴史時代及び古代と対応づけられるように思われる。そうして考えた時に、では、三木さんが先史人の後期のように見なし、吉本さんの考え方から見れば前古代の後期に見なし得るおよそ5歳から10歳の間を、現在、児童期と呼ばれている時期に重ね、果たしてその時期に知識や技能、道徳などをぎゅうぎゅうに詰め込む在り方は、子どもの成長に適合した妥当な制度であると言いきれるだろうか、という疑念にとらわれる。本当は知識や技能、道徳などを身に付けさせることが妥当な時期は、三木さんが歴史時代の始まりに対応すると考え、また吉本さんが古代と呼んだ時期に対応できると見なされる10〜12歳頃から始まるのがよいのではないか。
 結論から先に言えば、およそ10〜12歳までは幼児期の延長と考えるか後期幼児期と考えることが妥当だと思われる。そう考えればおよそその年令までは過度の学習や規範を強制すべきではないことがはっきりする。あるいは吉本さんふうにその時期を少年少女期と呼び変え、生活の全てが遊びと解釈してそのような場所と設備、そして時間とを子どもたちに提供することが、本当は子どもの成長や発達にとって自然な過程と言える大事なことのかもしれない。
 このように系統発生論的な立場に立って考えれば、現在の学校教育制度は人類史の進化、発達の歴史を、あるいはその一切の蓄積の本質や真髄を正確に個人に植え付ける流れに沿ったものだとは言いがたい。また歴史的産物とは言えるが、恣意的で、共同体の意向が大きく反映した、けして個を優先して育成する配慮のもとに成り立った制度とは言いがたい。 もしも10〜12歳までを三木さんのように先史の時代に対応させ、吉本さんのように前古代に対応させて考えるならば(本当はこれについての吉本さん本人の直接の言及はないが)、この時期までは本来なら家族、親族、氏族を中心とする共同性の中に過ごすことを第一義とし、非血縁集団の中に過ごすことはこの時期の最後期あたりからとしなければならない。そうしたら子ども史上最悪の凄惨ないじめ問題は、少なくともその最悪の事態を回避することが出来るのではないだろうか。 もちろん現行体制がすぐに変えられるとは思えない。
 だが現在子どもの成長、発達の道筋はぎくしゃくとし、これをスムーズに進ませるように変えていくことは急務のことだ。何よりも現在の子どもたちの姿が、制度的な改変の急務であることを告げている。
 何が問題なのかははっきりしている。三木さんのような生物学的なカテゴリーの窓からのぞいてみても、あるいは吉本さんのように経済社会的なカテゴリーの窓から眺めてみても、現在の学校制度をもとに設けられた6歳からの児童期という発達区分が、自然、教育と込みになって語られ、考えられていることが問題なのだ。
 個体発生は宗族発生を繰り返すという考えの立場に立てば、乳児から幼児、そして現在小中学生と呼ばれるおよそ10歳から12歳までの子どもの精神構造は、先に見た先史時代とか前古代とかの、人類前史の精神構造に対応させることが出来る。だが人類史を振り返ればそこまでの時代に、一定の年令に達した子どもを集めて狩猟採集の訓練や軍事訓練など、現在の学校教育制度に繋がるような慣習の痕跡を見つけることは出来ない。つまりこの制度様式は、子どもの自然な成長、発達過程の中に近代になってはじめて意図的、人工的に挿入された、異質な成長過程を組み込んだものと考えることが出来る。そしてこれが本来の自然な成長の過程とどんなに異質であるかは、今日の子どもたちの学校そして家庭での生活を観察し、また振り返れば一目瞭然だと言えると思う。まるで人工心臓をつけた身体が拒絶反応を起こすかのように、子どもたちは現在の世界、今日の社会に生理的な拒絶反応を起こしているかのように存在している。苦しんでいるのはどの子どもたちも同じだ。ただ遭遇する現実以外を知りようがないから、その状態が本来の在り方と錯覚する以外に子どもたちは自己を救済することが出来ない。わずか数十年前の野原を駆け回っていた少年少女の姿など、今日の子どもたちはもはや想像してみることさえ出来ないところに追い込まれている。不登校があり、校内暴力、家庭内暴力があり、いじめがあり、さらには樹木とか虫たちとかの世界の入り口に足を向ける子どもたちがいるといったあんばいだ。これで子どもたちの発達や成長が、異常な過程に押し込められていると考えなかったら嘘なのだ。
 
 
いじめについて考える E
              2015/10/15
いじめをやわらげる方策
 ここまでに、現在のいじめが昔からあるいじめに何を付け加えたのか、そして主にどのような変化がその要因となり、考えるべきことなのかを探ってきました。前節までにはそれを3つに集約させて考えて、そこがうまくクリアできれば少なくとも大事に至らない状況に引き戻しうるのではないかと考えてきたわけです。ここでは次に問題点として洗い出された3つのそれぞれについて、ではどうすれば、現在的ないじめの緩和や解消に繋がっていくのだろうかということを考えていきたいと思っています。つまり、いじめの根源的な解消は無理だと考えているのですが、せめて、時代が付け加える過度ないじめ方とか、いじめがあっても自殺に至らないようにするにはどうしたらよいかとかを考えてみたいわけです。
 まずはじめに、前節に述べた3つ目については、大学はどこに入学しても同じだということになることが理想です。これについて吉本隆明さんは、東大の教授になったひとは4年間を他大学で講義することを義務化し、また他の私立大学で先生になったひとは東大で同じく4年間講義することを義務化すればいいと述べていました。そういう制度を作ればよいということです。これによって格差がなくなったり、先生たちも、優越意識や劣等意識から解放されるんだと考えていたように思います。また激しい受験競争も緩和されると考えていました。 私立の三流大学に入っても東大クラスの先生に教わることが可能だとなれば、別に大学はどこに入っても同じだということになります。東大には三流大学の先生が生徒を教えに入り、自らも学んで、4年後は元の大学に帰るわけですから、それはそれで誰にとってもよい経験となっていいということになると思います。それで、全体が少しずつ均等化されます。受験競争は緩和されて、学者さんだけに必要とされるような基礎知識や技術を、全ての受験生が詰め込まなくてもいいようになっていきます。受験というものが果たした厳しい選別は無用になります。大学はどこだっていいとなれば激しく競争する必要がなくなり、そうすると高校なんてどうでもいいやとなり、中学もどうだっていいとなっていくと思います。さらに受験競争が緩和されてきますと教育課程も変わっていくはずです。
 そもそもが大学の学業を基準に、高校、中学そして小学へと下って考えられてきたところがありますから、各段階で少し背伸びした教育課程が実施されてきたところはあったと思います。それは弊害にはなっても、子どもの全人間的な成長と発育に益するものではあり得なかったのです。今日の若者の実態をつぶさに観察すれば、そんなことはすぐに分かることです。若者は自由で我が儘なだけとみるのは早計で、本当は苦しみながら成長・発達していると見るのが正しいと思えます。
 これらのことは2つ目に挙げた問題と関連してきますが、学者サイド、指導層サイドが無意識かつ一方的に決定していた教育課程、教育の全体的な計画に、少しずつ子どもサイドの欲求や願望が入り込む余地が出来てくるということになると思います。消費者主体、子どもが主体の、教育計画が組まれていくことになります。
 これまでの学校制度、システムは、教育を供給する側でその内容を作ってきましたが、消費資本主義と呼ばれるような社会への移行を迎えたところでは、受け取る側の子どもの方に主権が移ってしまうのです。経済のいろいろな領域、段階で価格破壊などが見られるように、教育の世界では子どもが受け入れなければ教育内容が破壊されることになります。つまり、子どもの側ではそれだけ学習そのものに対する切実さが失われてきているから、そのように変わっていくほかないのです。実際に今日の子どもの学習状況においては、学習に向かう場合の動機が希薄になっていると思います。意欲的に学習に取り組んでいるように見える場合でも、本当は身体的にか心的にか、「やらなくてもすむものならやりたくない」という思いが潜んでいるように思われます。子どもたちは直感的に、自分たちの将来に目の前の知識や技術、あるいは道徳的な修得が必要ではないことを見抜いているとぼくは思います。
 そのことは、テレビなどで取り上げられるユニークな教育実践が、実にバラエティーに富んだものになってきていることからも予測できると思います。それくらいの、奇抜なことを盛り込んだものでないと、もはや子どもを学習に引きつけることが困難になってきていることを、逆に物語っているのだと思われます。つまり、どう言うのでしょうか、マスコミがどんなに褒めたり推奨したりしていても、結局は供給者側が四苦八苦している図としてしかぼくには受け取れません。子どものやる気を引き出すために必死なのです。必死にやらないと子どもたちを学習世界に留めておくことが出来なくなってきたのです。本当ならそこで、子どもたちがやりたくないと言っているんだから、遊びたいと言っているんだから、「遊んでいいよ」と言えばいいだけなんです。それだけで教育世界に生じてきた問題点は全て解消してしまうのです。何も問題はなくなってしまいます。いじめというのもほとんどなくなってしまいます。だからそうすれば一番いいのですが、そうするためには社会全体の意識が変わらなければならないので、なかなかそういうように一足飛びには行きにくいのです。本当は幻想に過ぎないのですが、子どもたちが勉強しなくなって遊んでばかりいるようになったら、社会が成り立たなくなり混乱してしまうとほとんどの大人は思っていると思います。子どもたちを信頼できていないのです。恐れているのです。ぼくは逆です。先に引用した外国人旅行者の手記を読み返すまでもなく、子ども時代にいっぱい遊ばせてもらえたら、そのあとはもう満足して不満は持たなくなります。そして思春期を迎えますと、徐々に本格的に考えるということが身についてきます。自ら動き出してよい方向に自分を変えていこう、というような気持ちを持つようになります。あとはもう何でも自発的に取り組んでいくことになると思います。それを信じればいいと思うのですが、それが信じられないものだからあの手この手と苦心して、必死になって子どもたちを学習世界に食い止めようとするのです。そしてその必死さは社会全体からは、幾分肯定的に受け止められているような気がします。教育は子どものためになるものであり、そのために先生たちが、学校が、一生懸命アイディアを絞り出し努力している姿をよしとしているところがあります。
 たしかに、各地の各学校に見られるそうした類いの試みは、一時的には効果がありそうに見えます。目先を変えた試みは、子どもの興味を引くということもあります。ですが、そうした小手先の改革がどれほど通用するものなのか、ぼくには疑問に感じられます。また、一時的に、たとえば中学なら中学の3年間にものすごく学習に打ち込んだとして、そこで燃焼しきってしまったとなれば、長い生涯の中で何ほどのことかとぼくには思われるのです。
 ここまでに述べてきたところは、つまり今行われているようなぎゅうぎゅう詰めの学習や道徳的な教え込みが徐々に解体するだろうことは、ぼくには、未来に向かって、不可避にそうなっていくだろうなと思われます。そうなっていくよりしょうがないだろうと思い、そうなっていくことがいいだろうと思っています。なぜかというと、ぼくは子どもの内面はこころ(心情)の系統と頭(理性)の系統と2つの系統があって形づくられていると考えていますが、今日ではゆったりと心情を育むいとまもなく頭の開発がせかされています。つまり早期の学習の導入によってです。特に戦後の文明の進展に伴う教育のレベルアップは頭の開発に偏り、子どもの内面はバランスを欠くことになりました。このアンバランスは限界に近づきつつあり、子どもの自然な成長と発達に変調を来すようになってきていると思います。無意識に荒れてみせるしかないところまで来ていると思うのです。これはもう過剰な、人工的な教育、飼育を止めろというように、警鐘を鳴らしていると言っていいと思います。それを緩和することや取っ払うことはいいことだし、それ以外に方法はないとぼくは考えています。
 今は最後のあがき、最後の抵抗の時期で、けれども最悪、そのあがきや抵抗が長く長く続く場合も想定されます。社会をざっと見渡すと、そういう勢力が多数と見えるからです。経済人から政治家から知識人から、そして庶民に至るまで、学校教育は普遍的おなもののように思いなしていると思います。勉強することのいい点ばかりを見ているからです。ぼくらが通過儀礼の意味合いしか持たないよと言っても誰も耳を貸しません。けれども、もしも現行の学校教育制度を守ることばかりに意識を向けているとしたら、また実際に文科省は学力向上を目標に掲げいっそうそういう方向での囲い込みが検討されているようでもありますから、今日のように死に追い込み自殺に追い込むいじめというものは、もう少し長く存続することになるでしょう。時代は、明治の開国期とも戦後の高度成長期とも違い、富国強兵や経済発展のために強制される学習に、本当は積極的に立ち向かう意義を見失っています。また、子どもたちにはがんばって学習すれば幸福に暮らせるという実感も持てないし、がんばって学習しないと生きていけないという実感も日々の生活の中では実感し得ないことですから、学習はただ強制される相手の貌が見えないいじめと同じことになってしまいます。いじめられるばかりではいやだから誰かをいじめたくなります。
 吉本隆明さんは、ここまで述べてきた2つのことについては制度や組織の問題であり、知識層、エリート層の意識の問題と関連するところだからすぐに変えることは難しいだろうと考えていました。そして手っ取り早く今日に見られるいじめを改善していく方途として、もう一つの、「母親と子どもの親和力を濃くする」という方法を提唱していました。
 これは何かというと、ぼくの理解の仕方では、家族的なところでいじめ問題を克服していこうとするものです。子どもの場合、いじめる側もいじめられる側もいずれにせよ性格的な側面も関係するから、家族や家庭を砦として、子どものこころに壁を作るということです。この壁を高くすることが出来たら、それを乗り越えて自殺することは簡単にはできなくなります。また高い壁があると、ある限度を超えて他者を追い詰める時でも、それが自分の衝動を押しとどめる壁として立ちふさがることになります。社会的な構造の改革を待っているよりは、家族内で出来る防衛策として、それは実効性のあることだとぼくには思えます。
 その壁はこころの中に、目には見えないものとして作られます。胎児期の時、乳児期の時に、胎盤の中や授乳時に母親とのコミュニケーションを通して個々のこころに作られると言っていいのです。言葉を換えれば、その時に安心や信頼が子どものこころに植え付けられれば、そのことが多少の困難に遭遇した場合にも生の側に立って歩み続けることを強いる、ある種、生と死の境界に立つ壁として機能することになります。
 たっぷりと愛情を注ぐこと、といえばそれまでなのですが、絶えずこころを胎児や乳児に向けてあげること。向けている時間をケチらないこと。自らもこころをゆったりと保って、胎児や赤ちゃんが居心地よく過ごせるように世話してやる、かまってやることが大事なのです。そんなことで機嫌良く過ごせたら、赤ん坊には不満も文句も言いようがないのです。言いようがないから満足します。そうやって育つ子どもが、性格的に荒くなったり残忍になったり、逆に人見知りになったりひ弱になったりするはずがありません。万一少しはそういう傾向があったとしても、その後の幼児期や児童期に、いつも何気なくゆったりとして傍らにいてあげられたら、それで十分なのです。あるいは一緒に本気で遊ぶ時間を、今よりも多く意識的にとることが出来たらそれで良いのです。無理に何処かに出かけるなんていらない。家の中でも庭先ででも、一緒に楽しく過ごす時間が大切なのです。そうして育った子どもは、多少勉学を怠けたり、引っ込み思案だったり乱暴者になったりしたとしても、自殺するとか、反対に誰かを殺めるというところまでは行かないのです。つまり、最悪の事態を防げる方法としては、このことは有効になり得るのです。他に期待できることがなかったら、そして現実には先に述べたようなことは何一つ変わりそうにない気配もありますから、それこそ緊急の対処としては一番効率のよい方法かもしれません。
 このことでさえも現在の若い父親、母親には難しいことかもしれません。きちんと調べたわけではありませんが、現在の若い夫婦は恋愛を通しての結婚が一般的だと思います。残念ながら、恋愛感情というのはよほどのことがないと賞味期限は3年くらいのものだという気がします。さらに子どもが生まれますと、家族を運営していくという新たな次元に入っていきますから、恋愛感情も当初のままではあり得なくなってしまいます。経済的に共働きをしなければいけないとすれば、忙しさも倍増します。今の核家族というものは昔の大家族の時に較べて自由で気を遣うことがないように見えて、内実は相当に大変な気がします。糸の切れた奴凧と同じで、風が吹くとどこに飛ばされてしまうか分かりません。 早い離婚というのは、たぶん男も女も自分の性愛という面を重視するようになってきていることが原因だと思います。結婚してまもなく、ついうかうかと、性愛の対象を他に求めてしまうことも今日の社会では少なくないのではないでしょうか。
 子どもが学校に入学するようになると、また心配の種が増えます。勉強について行けるかどうかが気になります。また子どもに不自由な思いをさせたくない思いも強いから、収入面で柄にもない費用を子どもに費やしたりするかもしれません。ぼくらもそうだったから思うのですが、おそらく計画的である家族は少なくて、場当たり的な生活をしつつ、ことあるごとに初めての経験を迎えて、その度ごとに対処を考えるということになっているのではないかと思います。
 ぼくらも夫婦と子ども二人の、言ってしまえば核家族だったわけですが、ふだんの生活について誰からも口を挟まれることがないかわりに、教えてもらこともないのです。誇張して言うと、何も道具や武器を持たずに大海原を航海していたのと同じです。そんな事情は今時の若い家族にも共通するところがあるのではないかと思っています。
 いつ頃のことか忘れてしまいましたが、ある時にぼくは自問自答したことがあるのです。「もしかして、オレは心の片隅で子どものことを邪魔に感じている部分があるのではないだろうか」と。それは肯定したくないけれども、そう考えないとつじつまの合わないことがあったのだと思います。もちろんそのことについては自分に蓋をして外に漏らすことはなかったのですが、その時は密かに、自分の妻にも、他の親たちにもあるのではないかという疑いを持ちました。最近、よく児童虐待や若い親たちの子どもを殺してしまう報道に接しますが、それは極端に子どもが邪魔に感じられたところで起きる事件だと言っていいのではないでしょうか。親はそこで我慢しなければなりませんし、幾分か自分を犠牲にしないとうまく子どもを育てられない面があると思います。
 ぼく自身はその自問自答のあと、究極の選択として、自分のやりたいことと子どものためにはそれを放棄してもいいということのどちらをとるかと問うて、自分のことは二の次にすべきだと考えました。実際にそのように出来たのかどうかは別として、自分の中ではそういう自問自答を必要としたことは嘘ではないのです。
 太宰治は、「子どもより親が大事と思いたい」、「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉を残しましたが、家族の営みを背負うことになったものには、特に現在においては一度は訪れる厳しい自問の形だという気がします。もちろん太宰はすっきりと先のように考えることが出来たわけではなく、逆説的な意味合いをこめていました。
 吉本さんはおそらくはこういうことも考えた上で、胎乳児期と思春期前のところで、両親は自分を少し犠牲にしてでも子どもに寄り添えと言っていました。そうしたら人を殺めたり逆に自殺したりというような、極端な結果をもたらすパーセンテージはグンと低下するんだよということだったと思います。それが「母親と子どもの親和力を濃くする」という言葉の意味合いだったように思います。
 吉本さんの子育て論は、世間一般の関心を引く子育て論とは隔絶したものです。どうしたら勉強が出来る子に育てられるかとか、人の上に立つ人間を育てるとか、そういう次元のものではありません。吉本さん自身がごく普通の生き方を理想としていますから、勉強が出来る、運動が良く出来るなどということはあくまでも結果であって、そんなことはどうだっていいと考えていました。最悪のことが防げたら、それで良いじゃないかというものです。ぼくもそう思っています。だいたいが、普通の生活がつまらないもので退屈なものだとは言えないわけで、人間としての本源は本当はそうした普通の生活の中に詰まっているものだと思うのです。だからそれでいいと思うのですが、今日の世相一般はそうではありません。勉強が出来ることから始まって、運動が出来る子、何かひとよりも秀でたものを持っている子ども、輝いている子ども、夢を持っている子ども、何かにひたむきに努力している子ども等々、そういう子どもがよいとされています。反対に、夢がないとか、勉強や運動に努力していないとか、不登校だったりいじめっ子、いじめられっ子だったりするとダメなもののように見られます。それはある種の社会的な枠組みのような形で幻想的に作られているものなのですが、本当はそんなものに何の根拠も価値もありません。だから、何がよくて何がダメかを規定している、社会の幻想の枠組みから親は降りてしまえばいいわけなのです。その上で直に子どもを自らのまなざしで見て、何もあえて言うことをせず、無条件で子どもを支えていけばいいのだと思います。そして、そのことによって生起してくる様々な現実を責任を持って引き受けて行くんだと考えれば、もうそれ以上のことはないのではないでしょうか。前に見た明治期の外国人旅行者の手記に描かれてある親たちの姿というものは、そういうところに近い場所にあったと思われます。
 さて、いじめ問題に関してぼくが考えるところはここまでです。いじめはなくならないと思っているし、なくそうという考え自体がおかしいことだと思っています。社会はしかし「いじめを無くそう」と言いますし、もしもそんなことができたら極端に理想的なことではあります。理想的なことだし通りがいいことだから誰かがいじめを根絶しようと言えば、これに異を唱えることはとても難しいことになります。世の中では誰も口を挟めないような、倫理的にいいと思われることを言う場合が多いのですが、これもそのひとつで、その場合、いじめはどうして起きるのか、何が原因なのか、大人社会のいじめは解消されたのか、等々の疑問とそれらのことに対する考察は不問に付されてしまいます。「たばこ問題」の時もそうでしたが、「無くそう」ということが先行されてしまいます。そうして社会全体が「明るく健康的であること」を無意識に自他に強制し始めます。暗くて不健康なことは「悪」だと切り捨てられがちです。
 こういうやり方は「考える」ということを停止させてしまうもので、言葉を換えれば「善の強制」ということになり、ぼくはけしていいやり方ではないと思っています。特に言ったりやったりする側は、最初からいじめは悪だという規定に乗っかり、おそらくそれについて思い迷うことがないと思います。ほんとはそれは考えることの放棄を意味しています。周りがダメと言っているから、あるいはWHOがそう言っているからというくらいのことしか考えないのです。周りのことやWHOのことを疑ってみることすら出来ないのです。それは大本営発表を疑わないことと同じなのです。
 実際は、昔からのいじめが本当に悪いことばかりなのかどうかについては疑問があります。例えば宮沢賢治というひとはどう考えてみてもいじめる側に回ると言うよりも、いじめられる側に回るひとだったという気がします。そうだったからこそ、彼は童話作品においていじめられる側の心情を星のように美しく光るものとして、芸術的に昇華し得たのではなかったかと思えるのです。時にはまた、いじめられるものの心情を、この世には存在しない天使のこころのように表現することも出来ました。いじめられたことによる苦しい体験は、そのように個人の中で個人の力によって描き出され、読者としてのわたしたちは、「何と美しいこころが存在するのだろう」と深い感銘を覚えることができるのです。つまり、いじめを経験することはその時はたしかに苦しくとも、他者の心をどれだけ深く理解するようになるかということでは、けしてマイナスの体験とばかりは言えないような気がするのです。
 いじめの解消というものは、「止めろ」といって止めさせることの出来るものではないと思います。また、道徳を教えたりというような頭の働きで理解させて解消できるとも思えません。大事なことは体験したことを深く考えることで、自分の中で自問自答を繰り返しそっと内面に解を見つけていくことだと思います。
 学習支援員として去年児童館で子どもたちを見守った時に、長短、強弱のあるいじめの実態に触れました。その時に、まだ幼い子どもといえどもきついいじめ方をするなあと思ったことも幾度かありました。けれども注意もせずに観察すると、いじめる子どもにもいじめられる子どもにも心の中にちょっとした変化の兆しが見えたような気がしました。小さな小さな発見をそれぞれの子どもたちがしていると映ったのです。言ってしまえば誰に言われるまでもなく、子どもたちは自らこころを動かしているのです。それはかすかな気配のようなものに過ぎないのですが、ぼくはそこに自然に備わったものとしての人間力の兆しのようなものを見つけたと思いました。何がよくて何がよくないかを判断する力と言い換えてもよいかもしれません。
 それを見た時に、これはもう大人がしゃしゃり出てあれこれ訳知り顔のことをいうべきではないと思いました。それは害だと思いました。子ども自らが変わろうとする力をそこでストップさせることは、目先の善悪にこだわって、実は本人のもっている変わる力を削ぐことだと思えました。ちょうど蛹が脱皮する時に、人間が手を触れると変身が不完全になってしまうからそっとしておいた方がよいように、そっとしておくべきだと思いました。小さな子どものうちはその力があり、手を加えてかえってその力は変なものになってしまう、そんな風な気がします。  了
 
 
いじめについて考える D
              2015/10/10
いじめの現在 パート2
 前回考えたところは大変難しい問題です。思いつくところを、しかも大ざっぱに述べてきたにすぎないのですが、本当はもう少し丁寧に、そして緻密に考えていかなければならなかったところだと思います。しかし今のところはこれくらいの力しかありませんし、社会全体が誤った対策を講じているような気がして、最近のいじめの過熱や常態化を考慮する時に与件と見なし得るところを、とりあえず3点に絞って挙げてみたというわけです。
 前回の言い回しを踏襲すれば、その前に戦後大きく社会構造が変化したことを言い、具体的には家族の形が変わったこと、そして高度成長期を経て日本の資本主義社会が高度資本主義社会、消費資本主義社会というべき段階に突入してきたのだということを考えました。その結果、子育て、教育サービス、それから学問・学術という領域で大きな変化を被ってきて、およそこの3つが現在の子どものこころに大きな影響を与えるようになっていると考えたわけです。
 この3つは、現在のいじめが、半ば永続的な昔からある子どものいじめにプラスアルファされて展開されていると考えれば、プラスアルファの部分をもたらす元凶と考えられるように思います。これをもう一度簡単にまとめてみれば、子育てが不安定になってきたということ。教育サービス面では提供する側の学校や教員より、サービスの受容者であり消費者とも考えられる子どもの側に、サービスを受けるか否かの決定力が移行してきたということ。それから学問・学術というものが、人間力の向上といったところを離れ、上昇意識、エリート意識からなる権威化を極度に作り上げてきたこと。これら3つのことに尽くせると思います。
 子育てについては、これも端的に述べれば、胎乳児期の育てられ方、かまわれ方に不満を持つ子どもが増えてきたのだと思います。その不満(胎乳児期の)は、幼児期を過ぎたあたりから、外界にぶつかるごとに発現するものです。小学生あたりから、性格的に荒れているとか、逆にひ弱いとか、極端に神経質に見えるとかはそのことの表れと言ってもよいと思われます。これはいじめる、いじめられるという方向での性格の幅を広げ、それぞれを過激にしていると思いますし、親や先生が説教しても聞く耳を持たないということになりがちです。全国的に児童虐待の件数が増加しているようですが、この事は、現在の子育ての難しさを暗示するものだと思います。
 次に教育サービス面での構造的な変化をきたしているという点では、忍耐力が無いとか我慢できないとか、耐性のなさを子どもたちに許容してきているように思われます。逆に見れば、供給側の押しつけが通用しなくなってきたことを意味しています。先生の指示通りに動かないし、ちょっと強制的に働きかけるとふて腐れたり反抗的になったり、挙げ句の果てにすぐに学校を休んだり不登校気味になったりします。昔だったら許されなかったことが、現在ですと子どもの要求がそのまま通るということになります。これは、繰り返せば消費資本主義社会に入って当然起きうる出来事で、いいとか悪いとかの問題ではなく、強いていえば子どもの要求に沿った子ども主体の義務教育課程に書き換えないと、学校の存続すらが危うくなる前兆に見えます。消費社会への転換は大きな出来事ですが、これは特に公的な教育世界ではうまく捕まれていないような気がします。過渡期、移行期として様々な混乱が生まれていますが、このことは子どもたちの在り方に多大な影響を与えていると思います。ぼく自身は、長い目で見ればこのことは子どもたちにとっていいことではないかなと思えています。あと四、五十年をかけて義務教育の世界は「遊び」が主体となるような、劇的な転換を遂げていくことになると思います。そうでないと学校が成り立たなくなるし、またそうなることが子どもたちにとってもよいことだと思います。
 最後の問題は簡単に言えば大学の序列化に集約される出来事です。現在日本で最優秀とされているのは東大です。何が最優秀かというと、学校でする勉強の一番の高みにあるということです。全国で一番に難しい試験問題が課され、成績のよい順番で入学できる。つまり、学校でする勉強の成績が最もよい者たちの集まったのが東大というように、一応は考えられています。そしてまた、学問の業績のトップクラスが東大の教授になるというように、世間的には東大は生徒も先生も成績優秀の人たちと見なされています。
 たしかに、学校でする勉強については成績優秀と言えるのだとは思います。でも、それは人間として優秀なのだということとは全然違います。学校でする勉強、学習には適応できた人たちとは言えますが、ただそれだけです。ただそれだけですが、社会全体としてはそのことがすごい価値あることなのだと見なされているように思われます。熱狂的な知識の信奉者がそう考えるならまだしも、普通の庶民までもがそんなふうに思い込んでいるということは不思議なことです。人間の持っている能力の一部分だけを取り上げて、それだけで何か超越者ふうにあがめられているのを見ると、いかにも日本的な光景のように見えます。
 しかし、日本社会全体がそうした価値観で統一されているということは異様なことで、これは逆向きに下るように降りて考えていきますと、二流三流の大学に進むものはちょっとダメなやつで、さらに大学には入れないやつはもっとダメなやつということになってしまいます。中学で、進学できる高校はないなどと言われたらもっと悲惨で、もうお先真っ暗になります。学校の勉強に合わない、追いつけないというだけで、選択肢はなくなってしまいます。大げさに言うとやることが何もなくなって、こんなくそ面白くない社会なんか無くなってしまえと考えるに違いないのです。暴れてやろうかと言って暴れます。それは当然ではないでしょうか。ぼくなんかは、ぎりぎりのところで、多少なりとも学業面で折り合うところがありましたから、かろうじてそうならずにすんだと言うだけです。
 つまり社会の構造というか仕組みがそういう形で硬直化していて、このことは高校生、中学生、そして今日では小学生にまで降りてきて、漠然とながら了解されているように思われます。
 さすがに文科省あたりにも、度重なる高校や中学での校内暴力や非行などからこうした事態は把握されて、最近では勉学以外の道、すなわち多種多様な職業の道があることを小学生段階から紹介していくというようなことを行ってきています。このようなことで緩和の方向を探っているわけです。ですが、受験自体、知識の多寡で序列を競わせる、あるいは上昇志向やエリート志向でもって作られた「権威の塔」を解体していくようなことは何も行っていないわけです。
 どう言ったらいいでしょうか。社会に蔓延するこうした硬直化は成人には暗々裏に認識されていくことですし、そうした大人たちの言動や気配を察して子どもたちにも空気感という形で伝わっているように思われるのです。そのことが重苦しく子どものこころにのしかかって、ある種の閉塞感を感じさせていないとは誰にも言い切れないのではないでしょうか。少なくともぼくにはそんなふうに見えて仕方の無いところがあります。ぼくは子どもたちがはっきりと理解しているとは言わないまでも、感覚的な察知というところでは大人顔負けの能力を発揮するものだと思っています。つまりいろんなことを分かっていると思います。それを言葉に表せないだけで、言葉以前のこころで了解しているのだと思います。
 以上、もしも今日的ないじめの中に従来に見られないような過激さとか、残忍さとか、執拗さ、そしていじめられる側にひ弱さという面があるとするならば、過去に無い現在的な社会構造上の問題があるのではないかと考え、そこからさらに、子どもをいじめに向かわせる3つの特徴を取り上げてきました。ただしこれは綿密な調査や分析の元に行われたものではなく、やや即席のように取り上げてみたものに過ぎないものです。だからはじめから無効かと言えば、ぼくはそうは思っていないわけで、大事なそして参考になるような視点は提出できているのではないかと思っています。
 いじめ問題に関して、一応、大学教授の著した論文調の書物を参考に読んだりはしました。そこには調べられた過去のいじめの事例が挙げられ、詳しく分析されたりなどしていました。また分かりやすく読みやすく解説されていたとも思います。ぼくから見ると大変良く出来た文章でした。ですが、入り口は大変まともな優れたものだとは思いましたが、出口はダメだと思いました。その本の結論は、結局のところマスコミやマスコミ知識人の捉え方はダメで、それを変更していかなければならないと言っているに過ぎませんでした。論理の展開の仕方、文章の技法には感心させられましたが、残念ながら最も大事な論ずべき核心を突いていないと思えたのです。道具仕立ては立派だが、ぜんぜん対象を裁けていないと印象されました。これはぼくの主観に過ぎないからどうということもないのですが、こっちの方が言いたいことは言い得ているよなとも思いました。
 それはさておき、では現在のいじめ問題、自殺や命のやりとりに発展しかねない今日的ないじめを、少しでも緩和していくというようなところでどんな対処が考えられるかを言ってみたいと思います。
 原理的なところで考えますとこれはものすごく簡単なことで、いじめが深刻化した、凶悪化した元凶が、何はともあれ社会の変化に伴って産み出されたとするならば、変化する以前のところに立ち戻ればいいのだと思います。近いところでは戦前にということであり、もう少し時間の幅をとれば明治の開国時期にということになると思います。ここでそのことを考えるための参考として、これまで何度か文章に引用したことがある明治期の外国人旅行者の手記を見ておきたいと思います。
 
子どもたちは両親と同じようにおそくまで起きていて、親たちのすべての話の仲間に入っている。
 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情を持って世話してやる。父も母も、自分の子に誇りを持っている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時頃、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集って腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。その様子から判断すると、この朝の集会では、子どものことが主要な話題となっているらしい。夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒のなかに囲まれてマロ(ふんどし)だけしかつけてない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むがそれと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T高梨健吉訳)
 
 これは明治期の外国人旅行者の目に映った日本社会の、そして子ども世界の諸相の一部分に過ぎないわけですが、そのことを考えた上でも、現在に起きている子ども世界のいじめとは無縁な世界であることが想像できると思います。つまり、時代を逆行してこの世界に戻ることが出来れば今日のいじめ問題は全て解決されるわけです。だから、戻ればいいだけのことです。そうはいっても実際に明治期に戻ることは不可能なことですから、ひとまずこの時代の子ども世界を現在のいじめ問題から見ての仮の理想空間として、近づいていくことを考えていくべきなのだと思います。
 すでに、不十分なものではありますが戦後の変化と、それが子ども世界の変容にどう関係したかについては考えてきました。時代が子ども世界に付加してきたものを引っぺがしていけば、戦前から明治期に向かっての子ども世界に近づいていけるわけなのだと思います。そしてそれは現在的ないじめを根絶するとまでは言えないまでも、緩やかにするだろうとは予測できます。
 こうした考え方からの道筋として、ぼくは先に述べたように、いじめ問題に関連する3つのことを考えました。これはいじめ問題の解決の方向に向かっての言い回しに直しますと、ひとつは母親(代理)と子どもの親和力を濃くするということ。2つ目には大人好みの教育というようなケチな考えは止めにして、子ども主体の、子どもの欲求に沿った教育課程に切り替えていくこと。3つ目には受験競争の過熱化の元になっている大学の序列化、権威の無価値化、無化を図っていくということになります。これらについては次節でもう少し詳しく検討していきたいと思います。
 
 
いじめについて考える C
              2015/10/04
いじめの現在
 いじめは遥か昔からあり、また遠い将来にも持ち越すものだろうと考えてきました。人間の性格の違い、育った環境の違い、経済的な格差、そうしたもろもろの違いがある限り、根絶することは無いだろうと思うのです。それらの根源的な差異から発生するものとしてのいじめには、しかし、時代によって多少の脚色が生じる気がします。ここでは現在の子どもの世界でのいじめには、どのような現在的な時代背景が考えられるのか、といったところを考えてみたいと思います。
 まず、大きくいって戦後、つまり敗戦を境に日本社会は、隅々までに至って日本的なものを振り落としてきたと思います。その中でも一番の大きな変化は家族の形で、核家族と呼ばれるようになり、それまでの大家族から小家族へと変貌を遂げました。そしてその小家族そのものが、もはや家族と呼べないまでに解体しかかっているというのが今日的な情況であると思います。
 ひとつの家族の中で、夫と妻あるいは親と子は関心から価値観までを異とし、誇張して言うと家族というよりはそれぞれ個人個人の集合のような形で、経済生活だけを共にしていると言った方がいいかもしれません。テレビのCMに流れるような幸福な家庭の像は、一時期にはあり得ても、永続することはまずあり得ないことだと言っていいと思います。 これが現在と呼ぶ時代の特徴のひとつだと思います。具体的には離婚の増加、家庭内暴力、夫婦間殺人や親殺し子殺しの増加に表れていますが、水面下ではこうしたことの予備軍的傾向がかなりの数に上るものと思われます。急激な社会変化による世代間の感覚のズレ、溝の深さはその差異の代表と言ってもいいと思います。こういうことはどの家庭でも隠したいことに属していますから、たいていは一生懸命隠すわけです。またそういうものがないかのように一生懸命振る舞っているわけです。我慢しています。それでも、我慢して必死に隠して、その上で様々な事件となって表層に浮かんでくるわけですから、今日の家族の全部が全部、実際には解体の危機に瀕していると考えていいのだと思います。そして、多少のぎくしゃくがあり努力を要しながらも大過なくやって行けているとすれば、かなりの程度に良く出来た家族だと言えるとぼくには思われます。
 もう一つ日本の社会に即して言えるとすれば、ものを作る、生産することよりも、消費が主となった社会が到来したということだと思います。資本のはじめを農耕の初期に考えれば、農業、工業を経て、教育や医療や情報、運輸、サービスなどの第三次産業が主体となった、かつて人間の歴史が体験したことがない社会への移行がおよそ45年前頃から始まりました。消費資本主義社会の到来です。
 本当はその時点からいろいろの制度は古いものになったわけですが、急激な社会の変化に対応できずにそのままで来ていることがほとんどです。また、子どもや若者たちはその変化を体感していると思いますが、その上の者たちあるいは老人たちは、同じように若い頃の心身に感じたことがそのまま残っていますから、世代によって感覚や思考に大きなずれが生じます。資本主義時代の制度の古さと年配者の感覚、観念の古さに対して、全く新しい段階としての消費社会の出現と、若者の感覚や思考の新しさがせめぎ合っています。これもまた現在的な特徴と言えると思います。 今まで述べてきたところを一言で言ってみれば、社会構造が大きく変わってきたと言えるかと思います。そしてその変化に敏感な層と鈍感な層が存在すると同時に、古い制度を守ろうとする層と反発する層とが混在することになっています。
 こうした移行期、過渡期と言える時期には様々な不安要因、混乱の要因が生じて、実際に社会を混乱させる事件などが起こりやすいものです。
 大ざっぱに言って、最近起こった社会構造の変化に伴って変化したと思われるいじめの形態の変化は、ここに述べてきたところに関係しているかと思われます。
 ぼくの考えるところでは、子どもの心的な世界に現在的な影を落としていると言えるのは、ひとつは家族の変質であり、ふたつには教育的権威の低下という問題であり、みっつめには受験競争を継続させる社会の体質そのものだという気がします。これらのことが陰に陽に子どものこころに大きく影響して、不安や苛立ちや、時に予期しない興奮をもたらしていると思われます。
 この事について、ぼくにはどんな自信も根拠もありません。専門家から無知だアホだと指摘されたらそれまでのことです。ですが、学習支援員として子どもたちのそばにぼんやりと突っ立って眺めていると、どうしてもこんなふうに思われてならないのです。
 まず家族について考えてみたいと思いますが、離婚する家庭がかつて無いほどに多くなっていることに表れているように、家族の存在様式が不安定になっていると思います。子どもにとっても憩いの場どころではないということです。父子家庭、母子家庭も多くなっていますし、当然父子密着、母子密着型の子育てになる可能性も大きくなります。
 核家族の場合共働きが多く、家事分担などをめぐって小さな諍いも多いかと思います。また男親女親それぞれが、自分の生きがいだとか生き方だとか愛情の持ち方などをめぐって考えるようになっていて、配偶者や子どものことを中心に考えるというよりも、自分のことを中心に考える傾向が強くなっていると思います。太宰治の「子どもより親が大事と思いたい。親の方が心が弱いのだ」という、アレです。子育てのことも含め、親の世代が自分の生き方に自信が持てなくなっているのです。こんな情況の中で子どもがすくすくと育っていくようにはどうしても思えません。家族の問題はとても大きな、そして喫緊の問題なのだと思いますが、ここではこれを深く考える余裕がありません。ともかく、今日の日本社会においては家族の在り方が大きく変わってきていて、常に解体の危機が傍らに存するということ。そしてその危機感が子どもをおおらかに見守るまなざしというものを減衰させ、子どものこころを不安定にさせる要因となっていることを述べるに留めておきたいと思います。
 次に教育的な権威の低下という事態を考えてみたいと思いますが、これについては経済的な場面での今日的な価格破壊という文脈の中で考えてみたいと思います。つまり、現在、ものの値段というものは従来のように生産する側で任意に決めて、というようには成り立っていません。価格設定の権限は消費者の側に移行してきています。原材料がいくらで加工費がいくら、それに人件費や諸経費を入れてこれくらいが適正価格といっても、消費者がオーケーしないと商品は売れません。各企業は消費者の心づもりに敵う商品を作り、また価格を設定しなければならないというようになってきています。
 この事は教育の世界、学習の世界にも当てはまるようになっていると思います。どんなにこれがよいものだと国や学校が提供しても、需用者であり消費者とも言える子どもたちがこれを受け入れなければ、早晩その供給内容は変更されることになると思います。力と立場が、潜在的には逆転しているのです。これはたぶん供給側の国や学校も、需要側の子どもも家庭もはっきりと自覚していないかもしれません。しかし、子どもにはうすうす感じられているような気が、ぼくにはします。
 学力が低下し、子どもが勉強できなくなって困るのは誰か。今時の子どもたちの多くは、特に小学生段階では自分が困るとは考えられていません。勉強をいやだという子どもに、進んで勉強させるようにする力は今の学校にはありません。困るのは社会であり国であり文科省であり、教育委員会であり学校であり担任を持たせられた先生であるということになると思います。何らかの形で責任をとるか分担するかということになります。それに較べると子どもたちは、勉強が出来ないと言われたり、進学できないというだけですむわけです。いい会社には入れないぞと脅されても、もしかすると今時の子どもは働かないで生きていく方法を、すでに考えはじめているのかもしれません。それくらい、提供される学習に意欲を失っているように思われます。これは生命意欲の根幹に関わる問題になっていますから、小手先の対応でどうにか出来るものではないとぼくには思われます。やがて今の子どもたちが成長して、親の世代に変わって行くわけですが、そうするとこういう流れはますます大きくなっていく以外にないのだろうという気がします。
 もちろん現在でも進んで勉強する優等生もいますし、中間のところで勉強をしたりサボったりする子どもも大多数います。そして小さなグループという形で離合集散していたり孤立していたり、あるいはそれらが入れ替わり立ち替わりしています。その存在形式は不安定であると言えます。でも大きな流れとしては、教育の動向を決める決め手としては子どもたちの方に潜在的能力は移行しているのは間違いの無いところです。全国的に一斉に子どもが登校拒否を行ったら、学校や教育は終わりです。子どもたちはそのことを少しずつ気づき始めているかもしれませんし、しかしそのことは逆に子どもたちの日々の生活に、心的な支柱とか指針とかいうものがなくなっていくことを意味すると思います。子どもの世界からある共通事項が引っぺがされて、価値観から何からバラバラになってしまいます。自由さは増しても、何をしたらよいか戸惑うことが多くなると言えるかもしれません。そうなると、あちこちで悪さを働きたくなるということもあながち考えられないことではないという気がします。
 一方でこんなような情況を迎えながら、小学生では遙か彼方の大学受験という関門がその先に待ち構えています。小学校段階ではまだまだ考える対象ではないのですが、ゆくゆくはそういうものがあると言うことくらいは聞かされたりしているわけで、しかもそこまで行くことは何か人間の価値というようなことに結びつけられて聞こえ知っていると思います。切実になれない、しかし陰のようなプレッシャーとして彼方にそびえ立っていることになります。子どもにとっては最上級のゴール地点ということになるでしょうか。これがまた社会に作られた幻想のひとつの柱で、ここにはまた超一流大学から三流四流といったように順番がつけられ、悪しき種類の権威と権限が生みだされています。中にいる教授たちは、全く権威や権限には無関係のように、あるいは頓着しないかのように振る舞っているようですが、社会的に作られたそうした幻想を否定したり崩壊すべしと行動したりはしません。つまり遠回しにそれを認めその上に胡座をかいているように見えます。東大や京大に勤める先生たちは、学問に優れることが人間として優れていることだと誤解しているかもしれません。何しろ勉強が良く出来て、勉強に携わっているうちに周囲からすごいだのと煽てられ、そのうちに威張ることが当然のように感じられてきますから「勉強が大事だよ」と言い出すようになります。何せ勉強してうんと出来るようになると、回りから偉いといわれ、威張って生活できるようになるわけですから、「人生に勉強は大事」と考えるようになることは無理もありません。小学生の子どもと大して変わらないのです。
 こういった大学の先生たちが、まず大学の教育課程を考えます。国際的な学問のレベルにも触れていますから、当然そういうことも加味するでしょう。大学ばかりではなく、高校や中学、果ては小学校の教育課程に口を挟むことにもなるわけです。大学ではここまで行く必要があるから高校ではこれくらいまで、高校ではこうだから中学ではこのように、小学ではこれくらいというように順次下っていくことになります。しかもこれが各教科ごとにやっていきますし、数学の専攻の先生は一番数学が好きで大事だと思っているのですからあれこれを詰め込むことになります。全ての教科であれこれ詰め込まれますから、全体を総合しますと相当にぎゅうぎゅうに詰め込まれたものになることは当然です。あれも捨てられないこれも捨てられないとなると、知識と技術のゴミ屋敷になります。本当にごく普通に生活するのに必要な知識、技術は誰が考えたってそのうちの一部で間に合います。こういった教育世界の実態のおかげで、小学生からぎゅうぎゅう漬けの学習を強いられ、出来るできないを選別され、クラス内での順位を覗い、隣の子どもの点数を見て一喜一憂し、早々と勉強は無理だと放棄したり面白くないものだと断じてしまうのでしょう。
 本当は人間の子どもは知的好奇心にあふれて生まれてきます。幼児期の「コレナーニ」「アレナーニ」が、どんなに自発的好奇心にあふれたものであったか、だれだって分かるはずです。ぼくらの社会はその意欲を摘み取ってきたにすぎないのではありませんか。親が学校が先生が、子どもたちのランダムに発する問いに答えきれずに、覚え知るべき事項という形で勝手にマニュアルをこさえて、これを押しつけてきた結果、意欲(本能)さえ削いできてしまった。残ったのは強制労働に等しいような、学力向上などに向けた頭の酷使だけです。全体の学力が少し上がることがいったい何なのでしょう。ぼくには全く理解できません。大人たちがよかれと設計したことは全て破産している。あるいは一部のエリートを養成するだけのものとして機能するにすぎない。ぼくにはそう思われます。
 はっきりと言い切ってしまえば、いじめの根原は大人社会の、しかもより具体的には文科省や大学教授並びに関係する指導層が子どもの世界を間違って捉え、間違った方針と施策の元に教育するからだと言えると思います。意欲満々に生まれた子どもたちが、こうしよう、ああしたい、と望む方向を制限し、逆行し、大人自身が都合のよいと考える方向にだけ誘導しようとしていることが、いってみればもう時代に合わないと言えると思います。よかれと思っていることは、全て対立し、何とかそうさせようと遠回しに、そうする以外にないように環境を整備する自体がすでに真綿で首を絞めるようないじめに変換します。誇張していえば社会そのものがもう、子どもをいじめる装置そのものになっていると考えることも出来ます。
 子どもの世界にどうしていじめが入り込んでくるかといえば、それは周囲にあるからだし、社会にあるからだということは考えるまでもないことでしょう。端的に言って、なぜいじめるかといえば、いじめられたことがあるという経験を元にする以外にないはずですし、そのことが元になっているというほかに考えようがないのです。そしてここまで考えてきたことを思い起こすならば、子どもの世界全体が、大人社会という顔の見えないいじめっ子に向かって、激しく苛々を募らせていることは想像に難くありません。これはもう何かあれば、各人の身近な周囲に向かってぶつけて発散する以外に手はないでしょう。
 少し論を急ぎすぎたし、ぼくの考えに反論する声も自問自答の中で当然耳に聞こえてきてはいますが、今それに応える余裕はありません。
 ここまで、現在的ないじめについてひどく大ざっぱに素描してみましたが、一度ここまでを読み直して、補充や発展させるべきところがあれば次にそれをやってみようと思います。
 
 
いじめについて考える B
              2015/09/27
古典的ないじめ
 いじめる子どももいじめられる子どもも、どちらも、それぞれの日常が折り合いのつけにくい形で存在していると思います。日常的に折り合いがつくように存在できていればいじめっ子にもいじめられっ子にもならないですむわけですし、そうできないとすれば二人には今の世の中には住めないような、何処かはみ出した部分があるということになるのだと思います。いじめる子といじめられる子と逆向きだけど、この社会に普通に生活する子どもにはなりきれない、言い換えると標準的とは考えにくい子どもたちということになるのではないでしょうか。これはいじめる方もいじめられる方もそうだと言えるわけで、これがいいか悪いかと言うよりも、生きにくい形で生きているのだからこれを一種のセイント、聖なるものと考えた方がいいんじゃないのかというのが吉本隆明さんなどの考え方なわけです。
 いじめっ子といじめられっ子、その典型をテレビ漫画の「ドラえもん」の中のジャイアンとのび太に見ることが出来るとぼくは思います。それ以外の登場人物たちは、その時々でいじめっ子になったりいじめられっ子になったりすることがあります。しかし、ジャイアンとのび太だけはいじめっ子といじめられっ子とに固定されています。もちろん、時と場合によっては立場が逆転することもあるのですが、でも一応はそれぞれ典型として描かれています。そして二人の関係はずっと継続していきます。言ってしまえば、二人とも、いじめっ子やいじめられっ子以外になることが出来ません。これはもう宿命だというような描かれ方をしていると思います。ジャイアンものび太も、そういう宿命を背負っているというように描かれています。
 こうした「ドラえもん」の中に描かれていたいじめというのは、一応昔から子どもの世界にあった古典的ないじめということができるのではないでしょうか。そしてこれはまあ子ども向けのテレビ漫画と言うことでもあるし、いつも救いとか救済とかは用意されていました。
 ひとつは未来から来た猫型ロボットであるドラえもんが、いつものび太の側に立って窮地を救うというように作られています。またもう一つは、「しずかちゃん」をはじめとする他の登場人物たちが正義感を発揮して、いじめ的な場面のところで止めにかかるというようになっています。先生や大人たちはよほどのことがない限りそういう場面に立ち会うことがありません。またそういうように描かれ、作られているように思われます。だいたいのところはそれでいじめの関係は収束を迎えます。ですが、それは永久に収束するということではなくて、この漫画の世界ではそのいじめのパターンは繰り返し続くというようになっています。こうした意味では「ドラえもん」という漫画の世界は、子どもの世界における古典的ないじめとその解消の仕方を、見事にパターン化して描いている作品だなと考えることが出来ると思います。先生や親たちも介入しないで、子どもの世界だけでいじめが起こり、また解消するという、古典的ないじめとしては、とても優れた描き方をしていると思います。
 もしもその世界に、大人や先生が積極的に介入して来て、「そんなことをしてはいけないんだよ」と言うようなことをこんこんと説教するような場面を想像すると、ぼくなどはちょっとゾッとします。
 子どものいじめというのは、子どもの世界で起きてその世界で解消するからいいので、ここに大人が入ると、急に逃れどころのない本気のいじめという位相に転換してしまいます。いじめっ子もいじめられっ子も、それぞれいじめっ子、いじめられっ子という立場に追い詰められてしまいます。どう言ったらいいでしょうか、いじめっ子という社会的評価、いじめられっ子という社会的評価がくっつけられるような、ちょっとマジだぞこれはという感じになってしまうと思います。子どもの世界に閉じられた中では、まだ少し「ふざけ」という部分が残っていたのに、それが取っ払われてしまいます。そういう解決では表面的には解消したように見えるかもしれませんが、目に見えない部分では遺恨が残ったり、くすぶり続けたり、実際にはどちらにとっても良くない中途半端な解決に終わるんじゃないかと思えます。
 ジャイアンなんかは内心怒りの炎を燃やすかもしれないし、のび太はのび太で身辺周囲の狭い空間だけではなく、一挙に世間的な空間の中に放り出されていじめられっ子のレッテルを貼られることによって、複雑な傷付き方をしてしまうかもしれません。それでは良い解決とは言えないのではないでしょうか。
 いじめというのはそんなに簡単に解消できるものではないと思います。いつの時代にもあったことだし、これからもそれを完全になくすことは難しいことだと思います。このことは宮沢賢治の童話を読み返すとすぐに分かることで、賢治の童話にはたくさんのいじめの場面が描かれています。そしてそれは古典的ないじめと言っていいのですが、賢治の時代からいじめが今に続いているということは、いじめがどんな時代にも変わらず存在する普遍的な問題なのだと言えるように思われるのです。つまり賢治はいじめをテーマにたくさん書いていますが、これによって読者はいじめについて意識的になり、「この世からいじめがなくなればいいなあ」と考えはするでしょうが、それでもって完全になくなるというようなものではないということです。昨今、「いじめ根絶」というようなスローガンも見かけられるのですが、ぼくなんかには「とんでもないことを言うもんだねえ」と思われてなりません。こんな「大うそ」がそのまんままかり通ってしまう社会は、健全な社会ではないと思います。
 ここまでに考えてきたところからも言えるように、いじめっ子もいじめられっ子も自分でそうなろうとしていじめっ子やいじめられっ子になったわけではありません。また、逆に言えば、成ろうとして成れるものでもないのです。成らざるを得なかったところで、あるいは成ってしまうという事情のところで、根絶など端から可能になるわけもありません。そんなことは誰が考えても自明のことでしょう。いじめを古典的ないじめと考えている範囲のところでは、大人や先生たちの介入はないほうがいいとぼくは思います。
 宮沢賢治の童話では、描かれたいじめが理想的な解決の仕方をして、いじめの関係の当事者たちをも含めて全体が万々歳というようには作られてはいません。場合によっては、いじめる方が反撃に合って死んじゃうとか、反対にいじめられた方が死の方に飛び込んでいっちゃうとか、結末の付け方としては結構恐ろしいところがあります。あまりハッピーエンドではありません。ハッピーではけしてありませんが、でも何処かに必ず一縷の望みとか希望とかを感じさせる描写が、残されているように思われます。しっかりと分析したところで言うのではないのですが、何処かしら全体を見ている目というか、どちらの側をも理解している目というか、察知に長けた菩薩の視線とでも言うようなものが、うっすらと感じさせるように出来ている気がします。これも古典的な言い方を借りれば、「ひとの世のあわれ」を見つめる視線が感じられます。どうしようもない不可避の悲劇。宮沢賢治は、そういうものはあるんだよと言っているのだと思いますし、単純に、いじめる方が悪いんだからいじめはなくならなければならないと、教訓を語っているのでもないように思います。 いじめる側がいつも悪人かというと、賢治はそういうようには見ていないと思います。いじめる側を突き動かしているのは煩悩みたいなものとして描かれていますが、何処かしら承認しているような気がします。そうしますと、作品の中ではそういうことは取り挙げられているということはありませんが、どこかに「歎異抄」が言う「悪人正機」の説が浮かび上がってくるような気がぼくにはします。 こうなってきますと、結局は元に戻って、いじめる方もいじめられる方も責任は無いよなと考えたくなってしまいます。そういうようにさせられてしまう、なってしまう、そしてそういうことは大人になったぼくたちにもあり得ないことじゃないよなと、反省的になって終わってしまいます。
 賢治童話の中に「猫の事務所」というお話があります。この事務所というのは住民の役に立つことをしている立派なお役所的なところですが、けれども内側では身なりが悪いことから一匹の猫がいじめに合う設定がされています。いかにも猫の人格者たちが勤めていそうな仕事場なのに、それでも差別的な雰囲気が醸し出されてそれはついにはいじめの関係に結びついていきます。人格者たちが大勢の職場なのにそんなことになり、その猫たちだけではいじめの構造を自ら解体することさえ出来ません。結局のところこのお話では最後に、そういういじめ的な雰囲気の全体を窓の外から覗って何もかもを知った超越者としての獅子が登場し、ふだん立派なことを言ったり考えたりしながら自分たちのするいじめひとつ解決できないんだから、こんな事務所なんかなくしちまえみたいに一喝して終わりになります。
 このように、ほんとは物語の世界だけではなく、現実世界においても獅子のような超越者がいると愉快なわけです。一瞬でいじめの当事者たちは誰もがシュンとなって反省的になって終わりということに成ります。たぶん、子どもの世界におけるいじめに対し、獅子の役割を演じるとすれば大人や先生たちということに成るかと思います。でも、大人といい先生たちといい、どう考えてもこの時の獅子の代理になり得るとは思えません。どちらかというとやはり「猫の事務所」の猫たちという存在以外ではあり得ないからです。
 結局、いじめを解決できるのは獅子のような超越者以外にはないのですが、この世界には超越者は存在しないのです。せいぜいが、超越者ではないのに超越者のように振る舞ってみせるとか、あるいはそのように勘違いする個人がいるだけだということになります。 いじめが良くないことだということは誰もがよく分かっていることです。実感的にもよく分かられています。けれども、真の意味で裁定を下せるものはこの世界に存在しないと言っていいと思います。
 現在、社会的にはいじめということは悪いことで、これは止めさせたり、解消させたりすることは良いことなんだと先験的に思われていると思います。けれどもこの考え方は理性に根拠を置いたもので、我々がそちらに重点を置いたときには、生身の自分たちの生活の在り方というものは後景に退かせられてしまいます。極端に言えば、何かの場面でご本人がいじめの当事者になっているのにもかかわらず、そんなことには無関係に、対面するいじめに対してだけは悪いことだから止めろと言っていることになります。もちろんここには矛盾がありますし、小学校では高学年になりますと誰もが鋭敏にそのことを察知できるようになっています。つまりぼくには大人がそんなことを言ったって、ちっとも効果がないよと思われてなりません。それどころか、言われれば言われるほど逆に世の中やその人間関係に、嫌気がさしてしまうのを増幅させるだけのような気がします。百害あって一利なしとまでは言えませんが、出来るだけ介入しないで済ませられるところまでは介入しない方が良いと思えるのです。
 最近は社会的関心から、学校ではいじめの芽を早く摘むことに重点を置いて、早期の指導が当然のように行われているように思われます。それで見かけ上は何となくいじめは無くなってきたかのような錯覚があるかもしれませんが、それは子どもたちがちょっと遠慮しているだけであって、表面的にそう見えるだけのことです。悪いことに、大人たちは、もっと言うと、そういう子どもの世界につながりをもった職業に従じる人々の間では、表面的に成果があればそれで満足する傾向があります。とりあえず表面化しなければ、いじめは無いのだと合理化されて結びつけられます。これ以上言うと悪口になるから止めますが、ぼくの考えではいじめのようななかなか解決のつかない問題においては、西欧的ヒューマニズムの論理的整合性一辺倒の考え方を適応してっていうのは、これは良くないんじゃないかなとか、大うそが入り込んでいるよと思われてなりません。
 ぼくなどはとても超越者どころではなくて、単にじくじくといつまでも考え続ける一種優柔不断な人間ということになるのですが、この種のタイプは良い指導者には成れないと思います。けれども、さっそうと解決策や処方箋を示し得ないとしても、あたかも賢治童話のように繰り返しいじめということに関わって作品を作ったり考えたりすることでしか、いじめそのものを開いていく、解体していく、そういうことは成し得ないと思われます。いじめは我々の想定以上に難しくて、本格的な問題なのだと思います。人類史上の初期から、あるいは数万年を超えて積み重ねられてきた問題が、現在、一斉に止めようと言えばなくなってしまうというような、そんな簡単な問題ではないと思うのです。ぼくなどははっきり言って、千年後、二千年後にも解消しているかどうか怪しいなと思っています。そう思いながら、もう少し深く、広く、考えてみたいと思っています。
 
 
いじめについて考える A
              2015/09/23
いじめと自殺
 小中学生のいじめが社会的問題として大きく取り上げられるようになったのは、いじめが原因であることを遺書に書いて自殺する小中学生が出てからです。あるいはその前に、いじめを苦に自殺したのではないかという憶測があったり、少年少女たちの間の過激ないじめが、ある一人の少年を死に追いやったという報道があったのかもしれません。そのことの真偽や前後について、最早ぼくの記憶はあやふやです。ただ、子どもの世界に、いじめによる死、いじめによる自殺が生じたことは、世間の人々に衝撃をもって受け止められました。もちろんぼくらもその一人です。いじめが高じて死をもたらすというようなことは、ぼくらの年代には信じがたいことでした。
 当時現役の小学校教員であったぼくは、いじめの悪質化と、超暴力化をイメージしました。数人がかりで一人の子どもをつるし上げる。そういう過激さを想定したと思います。前後して、暴走族や非行少年のグループ犯罪があり、校内暴力、家庭内暴力なども花盛りでしたから、その延長上にとうとう子どもの世界にも命の軽視傾向が波及してきたかという感じでした。そういう意味では、社会的にもあるいは教育世界においても、倫理的に、また倫理的な問題として受け止められたと思います。
 日常的には、校内生活全般、そして学級運営にもとても鋭敏になりました。子ども同士のちょっとしたけんかや争いごとにもいじめの芽を見つけ出し、早くその芽を摘むことを心がけました。特に複数で一人に対しての侮蔑、差別の兆候を見かけたときには、強めの叱責をしたりしたこともありました。今考えると、それは過敏な反応であったかもしれません。最初はだから、いじめはなくさなければとか、いじめを無くしていこうという発想をとったんだと思います。
 けれども、自分たちの子どもの頃とはずいぶん様変わりしたと見える子どもたちの言動に接しながら、でも、小さな田舎の町の小学校段階では、自殺とか事故死とかに結びつくような陰険ないじめや暴力沙汰はありませんでした。テレビの報道で伝えられることや教育評論家たちの話と、ぼくらの実際の身の回りの現実とは、ひとつ幕を隔てて違っているような気がしてなりませんでした。どこにも、言われるような芽や兆しは見つけられません。もちろんそういったことが現実に起きてしまってからでは何をやっても遅いわけで、その後もそういう警戒を持ち続けて仕事に当たってはいたのでしたが。
 社会の、いじめ理解、そのセンセーショナルな捉え方というものは、いじめる側の悪質さを誇張するものであったし、その捉え方にぼくなども影響を受けたと思います。いじめる側が悪質な加害者で、いじめられる側は被害者という構図です。この構図に間違いがあるわけではありません。しかし、ぼく自身はかすかにこういう考え方に疑問を感じるようになっていきました。現実的な子どもの生活世界は、子どもの関係世界としてぼくたちの子ども時代の頃とそんなに違うわけではない。ぼくたちの子どもの頃もいじめはあり、けんかはあり、激しい罵り合いもありました。もちろん社会や文明の高度化に見合うように、いじめの高度化とでも言ってみたいような、複雑にそして急速に発展したいじめの形態的変化はあったわけですが、それがそのまま死に至るとか自殺に至るとかに直結するようには、どうしても思えないのです。
 いじめという形態から死に至る、あるいは自殺に至ったことがはっきりした場合、加害者の側の凶悪さ、悪質さは大いに話題に上ったと思います。どちらかというとそういう側面ばかりが強調され、被害者側については同情一色で、深く取材されたり、考察されるところがなかったように思います。
 しかし、よく考えてみると、昔からいじめはあったわけで、それが原因で自殺にまで発展するということは最近の出来事と言っていいわけです。だとすれば加害の側と同等に、被害の側についても最近の傾向をよく調べたり考えなければいけないことになると思います。
 そうして考えてみると、いじめが過激になってきたことと対応してというか、まるで反比例するようにして、被害者とされる側において、最後の支えというかつっかえ棒というか、あるいは壁のように立ちふさがるというか、そういうものが消失してしまっていたり、壁ならば極端に低くなって容易に乗り越えられてしまうくらいのものになっているのではないかと疑問が湧いてきます。つまり、死を思いとどまらせるような力が、以前は作用していたのに、現在ではその力が縮小してしまっていると推測されてきます。
 たった一人の親友がいれば、あるいは100%の信頼に足る家族があれば、少なくとも死ぬことだけは防げたのではないのか、そんな気がしないではありません。
 いじめにより死に向かわざるを得なかった子どもの側について、その周囲の人間環境に目を向けた発言は、ぼくの知っている限りでは吉本隆明さんからのものしかありませんでした。ぼくらの見聞きした中で、いじめに関して最も真っ当な意見というのは、本質を見る(科学的)という点からも、変に倫理、道徳的(宗教的)にならないということからも、
吉本さんのものが核心を衝いたものであって、その他のものは状況的であり情緒的なものでした。
 ここまで言ってきたことに絡めて言えば、吉本さんの考え方は胎児期、乳児期の育て方に問題があったんだということになります。その時期によい育てられ方をしていれば、外部、言いかえると全世界に対する基本的な信頼を獲得していて、性格的にも他からいじめられる要素を持たない性格が形成されていて、決して強烈ないじめに遭うことはないんだと言っています。また、仮にいじめられるようなことがあっても一時的で、これをすぐに回避する力を持っているということになります。
 逆にあまりよくない育てられ方をすると、全世界に対する基本的な不信が乳児期までに形成されて、人と人との関係の世界において上手く付き合えない、そういう基本形が成立してしまうということになります。
 吉本さんの考えを敷衍して考えていくと、結局いじめる側の中心にいる子どもと、いつもいじめられる側に回ってしまう子どもと、はどちらも胎乳児期の育てられ方に問題があったということになります。よい育てられ方をしなかったために、心的な形成の根本のところで傷を負っている。他者との折り合いの付け方に、ほかの人のように上手くやっていけない障害を持ってしまったということになると思います。その根本の原因は、母親もしくは母親代理との一対一の元基のところで、十分な愛情と安心が与えられなかったからということに尽きます。その理由はさまざまにあって一概には言えませんが、経済的に逼迫していて子育てどころではなかったとか、子どもに愛情を注ぐことよりも自分の生き方のあれこれを考えることを重要視していたとか、旦那や旦那の家族との関係が継続的に不和にあったとかいろいろ考えられます。
 いずれにしても、胎児から乳児までの母と子の間で親和的な関係が築かれてなかったとすれば、その後の人間的な関係においても親和的な関係を築くことは難しくなります。基本的な原型を持っていないのですから、これは当然と言えば当然と言えましょう。
 いじめというものは、元来が「違い」というものを媒介として、どんな時代にもどんな社会にも、またどんな個人にも起きうる可能性を持つと考えられます。いじめる側に回ることもあれば、いじめられる側に回ってしまうこともあり得ます。これは人間界にごく普通に起こりうることだと言っていいと思います。もちろん動物界にも有り得ることかも知れません。しかし、現在の、「死」に繋がっていくいじめというものは、従来からあるいじめを逸脱するものだと言うことができます。この逸脱を何が押し進めているのかと言えば、胎乳児期の母と子の関係に、その第一の要因を見るほかにないと思われます。つまり、一言で言えば母親の愛情不足なのですが、これには本当は母親としての生きにくさという、現在的な事情が加味されて考えられなければなりません。女性がダメ、母親(代理)がダメという問題ではありません。逆にこれらのことをしっかりととらえて、女性はもちろんのこと社会全体が、母親と子育て環境とをどのようにしたらよいのか、どのようにバックアップしていかなければならないかを考えることが急務なのだと思います。
 そこがきちんと整備できれば、とりあえず死に至るいじめ、自殺に至るいじめの問題は回避していけると思います。
 ここから少し我流が混じるのですが、いじめによって自殺してしまう、徹底的にいじめられることによって死の淵まで追い込まれてしまうといった場合、ぼくにはそれは異常なことだと思えるのです。何が異常かと言えば、自分をその身に置いて考えたときに、どこにも救いがないと感じられることが異常なのです。打ち明けて自分を救ってくれる友だち、肉親、父親、母親、いやそれらの影さえも見当たらないのです。見当たらない、不在である、だからこそ一挙に死を超えるところまで行くと言えるわけですが、そこまで人間を、子どもを、孤立させてしまうのは何かと思うわけです。
 普通、どんなに孤立し、孤独を味わっても、過去に一片の愛された記憶、他を愛し好きだったという記憶はあるものです。それは一片の、世界への信頼に相当します。それが例え影のように不確かなものであるとしても、それがあるかぎり死を肯定することはないはずです。つまり、あらん限りに抗うはずなのです。抗いがないとすれば、すでにそれは周囲に絶望していることを意味します。抗ったんだけれどもそれを周囲が察知できなかったとすれば、それは友だちや肉親の察知力の低下を意味することになります。そこまで考えていきますと、単にいじめた側の責任というばかりではなくて、死および自殺をくい止められなかった周囲の責任、とりわけ父母の無力さは、ある責任の形で浮上するように思うのです。ここのところが今日では現象としては不問に付されているように見えます。報道を見ていますと、自殺した子どもの親は一方的にいじめの主体の子どもや学校の対応に責任を丸投げしているように見えます。自分の子どもとの関わりにおいて、自らの非力や無力に言及する見解は皆無と言っていいくらいです。もちろんそういう部分を報道が取り上げないからかも分かりませんが、それにしてもいじめを取りまく周囲の子どもたちの存在感の無さ、肉親および両親の存在感の薄さは際立っていると思えてなりません。周囲がそのようだったら、つまり報道からイメージされるようないじめの当事者たちにとって希薄な存在感しか持っていなかったとすれば、それは「死んじゃうより仕方ないよな」とぼくなんかは思います。少しもあてにならないし、救いにならないし、助けにならない。自殺した子どもから見れば、どうしたって救いを求められる状況にはないよな、と言うことだったとしか考えられません。もちろん学校や教員などは論外だったに違いありません。
 そういう状況ができている、そういう状況が作られている、ということは誰も深く考察しようとしないし、言及もしない。あるいは重要視せずに、いじめる側の問題に帰着させて、これを抑止させることばかりに論議を集約させていく。挙げ句の果ては、学校では、いじめはよくない、悪いことだとか、命は尊いものだとか、まるでとんちんかんなことを子どもを体育館に集めて生徒指導の先生とか校長先生とかが言う。そんなことは子どもは頭の中では分かっていると思っているし、そんなことでいじめが無くならないことも分かっているから、飽きちゃって早く止めて欲しいと思っているに違いないのです。中には、授業がつぶれるから、黙って聞いているふりをしておこうという子どもたちもいるはずです。そういう場面は先生と子どもと双方が、それぞれの思惑の元に、すれ違いを内在させて成り立っています。そしてそれぞれが、それでいいと許し合っているというか、認め合っているというか、妥協しあっているのだと言うこともできます。もちろんそんなことはアホらしいことなのですが、全く効果がないと言い切るわけにも行かないので誰からも文句が付くことはないのです。そして往々にして誰からも文句が付かないことは、無害の程度に応じて無益だということは言うまでもないことです。ただそのために本質的で苦い考察は見送られることになるわけですから、ぼくらには間接的な意味合いではいじめ問題を先送りにするだけのことだ、と考えるほかないことになります。
 とりあえずここでは、いじめによる死とか自殺とかの、これをくい止める砦、あるいは手立てというものは、最初にして最大のものは胎乳児期の子育ての時期にあるということ。このことが認識される必要があるということを言っておきたいと思います。
 
 
いじめについて考える @
              2015/09/14
ぼくの「いじめ」体験
 おとなの世界にもいじめはある。ぼくの経験したことで言えば、大学を卒業して入った会社で先輩にあたる人にいろいろ教わったが、しばらくしてぼくが大阪の営業所で所長代理くらいの感じになったときに、その先輩にあたる人が部下のような形で配属されてきました。先輩はもともと東京の本社にいて、仕事的に大きなミスをしたとかではないようなのですが、上司から厄介者扱いされ、使えないから営業に回すと説明を受けました。ぼくにはちょっと厳しい転勤のように思えました。しかも行った先は後輩筋のぼくの下ということになりますし、もう「辞めてしまえ」と言わんばかりの転勤辞令だという気がしました。先輩は社内でもおそらくずっと化学の研究畑を歩いてきたような人で、営業が出来るようには見えません。それでぼくの方でも不安でした。また、会社というものはいざとなるとえげつないことをするなあと、はじめてその時に思いました。
 会社と言いましたが、もしかするとそれは会社という組織の中の一部の上司は、ということなのかもしれません。先輩の転勤に関わっていたのは、ぼくの直接の上司でもあったわけです。その上司は先輩のことについてなんだかんだと尤もらしいことをぼくに言うわけですけれども、ぼくはぼくで、その上司が上司としてさっぱり使えない役に立たない上司に思えていたので、仕舞いには陰険でいやなやつだなあという感じを強くしただけでした。それで、結局は、こんなやつの下で仕事するのはまっぴらだと考えて早々にその会社は辞めてしまいました。しばらくあとで彼が社長になったことを知り、思わず声を出して笑ってしまいました。
 いじめを、繰り返しの意地悪、度の過ぎた意地悪のように考えると、ぼくは小学校の時にいじめられたり、あるいは逆にいじめたりしたことがあったかもしれないと考えます。自分ではいじめられたという実感はなかったのですが、あるときの同級会の席で、ある一人の同級生が「君をいじめていた」と言うわけです。ぼくは彼が、ぼくがずっと敵対していた二人の同級生の腰巾着のような存在ということは覚えていましたが、少しも意地悪を仕掛けてくる主体として考えたことはなかったのでびっくりしました。
 当時何かとぼくに文句をつけてくるのは二人いて、ぼくはたぶん一人で応戦していました。その頃はいじめられているという自覚はなく、こちらはこちらでとにかく気にくわない奴らだというくらいに考えていました。二人、あるいは三、四人くらいで来ても、ぼくは少しも言いなりになるということはなかったと思います。向こうは向こうで、あいつは気にくわないからちょっと因縁をつけてやろうくらいに思っていたのかもしれません。そしてそれに同調する同級生が常に何人か加勢していたと思います。それはいじめと言えばいじめで、ぼくはいじめの対象になっていたと言うことかもしれません。
 ただ、今考えると、そういうように敵対したり、そういう目で見られたりということには、きっとぼくの側にそれなりの理由なり原因なりがあったのかもしれません。つまりぼくの側に嫌われる要因があったに違いないと思います。当時は、しかし、そういった自覚が全くなかったのです。
 学校の休み時間にはみんなで野球をしたり、相撲をしたり、雨の日には教壇を使って卓球をしたりとか、とりあえず、楽しく夢中で遊んでいました。変な話ですが、そういうときにはその場を仕切ることや、自分の主張を押し通そうとする、ぼくにはそんな姿勢があったように思います。おそらくそういう姿勢が強すぎて敵対関係も生まれていたのかもしれませんが、振り返ると、ぼく自身はちょっと手のつけられないわがままな小僧だったかと反省されます。
 6年の時に、同じ地区の、いつも遊んだり登下校をしていた友達の一人を家に誘ったときがあります。たぶんぼくの言うことを聞いてくれる、最もお気に入りの仲のよい友達だったはずですが、その彼から、「好きで一緒に遊んでいたわけじゃない。もう言いなりになって遊ぶのはいやだ。」というような宣告を受けました。愕然としました。思わずそばにあった竹箒を手にして、「言うことを聞かなかったら叩くぞ。」みたいな威嚇をしたと思います。その時も彼は見事で、「叩くなら叩いていいよ。でも、もう遊ばないから。」ときっぱりと言い切ったのでした。
 考えてみると、常にそうだったというわけでは決してなかったと思いますが、他人が自分の思い通りにならないと強く不満を感じるタイプであったかもしれないと思います。当時は、自分はこうしたいと思うのにどうしてみんなは同じように考えてくれないのか、不思議で、腹が立つようで、仕方ありませんでした。俺はこう思う、そう思ったことがどうして実現しないのか、その実現しないことが不可解でまた不満で仕方なかったものでした。まあ、馬鹿だったと言ってもいいし、無意識が荒れていたとか心が未熟だったと言ってもいいかもしれません。とにかく、変なやつだったということは確かだったと思います。
 いじめとは、このように誰もが承知していると思いますがおとなの世界にも子どもの世界にもあるわけです。
 で、ここで考えたいのは子どもの世界のいじめについてなわけですが、子どもの世界のいじめとおとなの世界のいじめとは違うんだということをまずはっきりさせておきたいのです。いじめということでは同じですが、また一部区別の出来ないところもあると思いますが、はっきりと相違する点もあると思います。それはどう言ったらいいでしょうか、ぼくの子ども時代の体験から言わせてもらえば、子どものいじめには相当無自覚なところがあるのではないかというものです。
 小学生の子どもの内面の世界というものは、自分自身の世界というものも芽生えていますし、家族的世界、血族以外の全く赤の他人が構成する集団の世界ということにもやや自覚的になってきています。しかしまだ未分化な部分も残っていて、リアルな現実社会をそういうものとして捉えるところまでには至っていないと思います。リアルな世界を把握する途上にあって、そのための様々な体験を積み重ねる段階にあると考えられます。言い換えると、この世界に対してまだメルヘン的な部分を残していると思うのです。
 さすがに二十歳以上になるとそういう部分は消失していきます。これも逆に言うと、今度は子どもの頃のことを忘れてしまうとか、無意識の方に埋没させていくということになると思います。まず、3〜4歳以前のことを大人になって思い出すことは難しいでしょう。小学生時代のこともよほどのことでないと忘れてしまっていることがほとんどだと思います。人は内面にずっと変わらぬ自分がいるように錯覚しますが、おそらく頭の使い方は子どもの頃と大人になってからでは変化していることをそれは意味しています。
 もう少し言ってみれば、例えば全く同じ風景を子どもの時とおとなになってからと見たとします。視覚には全く同じ光景が映るのでしょう。しかし子どもの心にはそれは輪郭のはっきりしない、霞がかかったような状態として感じられると思います。それは子どもの心が風景を客観的な対象として見ることが困難だということを意味しています。心にその対象に対しての興味がないと、つまり主観に遮られて風景の隅々を把握することが難しいのです。子どもにとってその風景は意味がない、よく分からない風景にすぎないのです。大人になると風景に対する興味は明らかに違ってきます。よく家族旅行で観光名所を訪れたりしますが、おとながじっくり鑑賞するのに対し、子どもがすぐ飽きるというのはそういうところから来ているのでしょう。全体の把握はまだ出来ないのです。
 さて、ここで、いじめというものは「違い」から派生するものだと言うことを考えてみたいと思います。大きな意味で言えば、いじめは全部、何らかの「違い」が自覚されたところで起きてきます。性格の違い、育ち方の違い、考え方の違い、能力の違い、その他様々の「差異」が原因になっています。そして時に、「違い」としての他者に向かって攻撃的になることがぼくたちであり、子どもたちであります。
 ぼく自身のことを考えてみても、小学生時代には何か「違い」というものにひどく注意が向いていたような気がします。また他人の短所・欠点にすぐに気づき、そういうところに注意を向けるという傾向ももっていたような気がします。同級のクラスの女の子で、首が短くがっしりとした体型の、彫りの深い顔立ちの子に「ゴリラ」とあだ名をつけるなど、それはそうなんだけどちょっとね、というところがたくさんあったような気がします。
 どう言ったらいいでしょうか。当時の体験を客観視して言うと、行動も言葉も考えも、まるで大人になったときとは別の原理で動いていたとしか見えないのです。特に自分の場合は、全てが「自分」「自分」で、誇張して言うと「失敗」、「過ち」など、他者からつけいられる隙を持つなど空恐ろしいことで我慢のならないことのようでした。そのために糊塗に糊塗を重ねる論理を行使して、言いくるめる手法を集団生活の中でとっていたように思います。つまり、そうやってでも自分の思い通りにしたかったようなのです。
 その頃はそれだけで必死です。
 学校では道徳的な教えや、集団生活の中で個人はどうあるべきかなど、いろいろに指導されていたはずです。そしてその時にはそれなりに理解できていたと思います。「こういうときはどうすればいいですか」という発問に、手を挙げて、「こうすることがいいと思います」などと応えていたはずなのです。でもそれはどうすべきかに応えた言葉にすぎず、自分がしてきたこと、あるいは現に今自分がしていることを応えたものではないのです。こうすべきだということは頭ですっかり分かっていたとしても、子ども時代というのは、その行動や発言を全て理性にしたがって行えるものではありません。かえって地のままの自分をぶっちゃけ、さらけ出すようにして生活しているものです。そういう衝動的な生き方をしているのではないでしょうか。そしてその衝動は、ぼくの考えるところでは、胎児期、乳児期、幼児期と形成されてきた「自己」なるものが、その形成過程の中に生じさせてきた衝動で、およそ5、6歳から10〜12歳のところまでの間では、これを外に向かって放射するというように出来ている気がします。
 逆に言うとこの時期というのは、自分というものを無自覚に外に向かってさらけ出す時期として、必要な時期、あるいは不可避な時期なのだと思えます。ここには、いじめる、いじめられるを含め、様々な失敗、過ちが展開され、試行錯誤されるべきと考えていいように思います。
 おそらく核家族化した今日のこの時期には、いろんな差異のオンパレードといえる子ども集団は、放っておけばこれでもかと言うほどの「悪」の展開を見せるに違いないとぼくには思えます。昨年、低学年の子どもたちと児童館で過ごしたとき、目に飛び込んできたものはそれでした。とんでもない悪意、狡猾がぼくらの監視の前でも展開されていたものです。けれどもそれは、はっきりと言えば、放って置いてもよい悪意や狡猾にすぎません。なぜかというと、その悪意や狡猾の裏には天使が同居しているからです。一定の時を一緒に過ごした我々おとなにはそれが見えます。
 おとなのいじめははっきりと自覚されています。悪意を自覚した上で攻撃します。そこが子どもと少し違います。子どもは悪意を自覚していますが、その自覚そのものがまだ幼くて、結果予測も未熟な中で悪魔的だということなのです。回りのことはよく見えていません。自分の欲求をどこまでも通したいという、そのことにしか目が行かない時期と言えます。
 とりあえずこの辺のところを話の皮切りとして、少しずつ「いじめ」についての考察を深めていきたいと考えています。
 
 
子どもという思想J
              2015/08/30
・「遊びが全て」に
 東日本大震災から今年の夏の異常なほどの暑さにいたるまで、自然というのは人間の予測を遙かに超えていて、未来永劫に渡って敵わぬすごいものだなあとつくづく感じた。人間の知恵や英知というものを支持したいと思うのは山々だけれども、大自然の前にはまだまだ浅いものだと考えるほかはない。
 子どもの世界に目を転ずると、不登校、引きこもり、いじめ、自殺、暴力など、そこには歴史的に例を見ない激震が今も続いて、我々の英知も何もこれを鎮めることに成功してはいない。
 現在のところまでではっきりしていると言えることの1つには、子ども(本当は大人も)のこころも肉体も、先の「自然のもろもろの出来事と同じく、われわれの注文のとどかぬ世界で動いている」(三木成夫「ヒトのからだ」から)というそのことであろう。
 およそ30年前に小学校教員となったぼくは、ずっと「子どもって分からないもんだな」という思いを胸に秘めてきた。自分の子ども時代の体験と、児童理解の研修や教員経験を積み重ねながら、それでも分からないなあと言う思いは続いた。それは人間が分からないなあという思いと共通する。人間とは何か、生きるとは何か、こころとは何か、子どもとは何か。その後ずっと自問自答を繰り返し、先人の考察に学び、現在にいたっている。
 ここまで文章化してきたところのものは、だからそれらの全てをはき出すようにして綴られたもので、良くも悪しくもこれが現在の自分の精一杯の思考の力を著したものだとは言える。何と貧弱で、浅く狭い知見にすぎないと笑われるかもしれない。
 ついでに言っておけば、教員に成り立ての頃のぼくは、道徳的と倫理的と、子どもたちの理性的な部分に対して語りかけることを中心としていたと思う。理解してもらえたという手応えはあまりなかったし、どうしたら分かってもらえるのか、子どものこころがよく分からないというようにも考えた。
 その当時は、頭で考えたことを頭によって理解してもらおうとしていたのだと思う。今思うと、それはぼくが「人間のイメージ」とか「子どものイメージ」とかを勝手に拵えていて、実際の子どもを誤解しながら子どもに向かい合っていたので、ほとんど通用しなかったのではないかと思う。
 子どもはぼくらのイメージする子どもとは違う。大人たちよりももっと自然に近い生き物で、それこそぼくらの注文どおりに動いたり振る舞ったりをしてくれるということはない。時に大地震や津波、異常に暑かった今年の天候のように、人間社会のコントロール下に置くことが出来ないような、そんな動きが当たり前の世界に子どもは生きていると言っていいと思う。それでも、自然にはある法則性があり、大地震や津波や異常気象にも理由がある。自然を完璧にコントロールすることは不可能だとしても、その法則性や理由といったものを考えて、その先にどのような折り合いの付け方が出来るのかを考えることは出来る。今日の子どもの世界に展開されているような出来事にも、今現在考えられているよりももっと違った要素が関わっていて、そのためになかなか解決の糸口が見いだせないのではあるまいか。つまりは「子どものイメージ」、その身体的と心的と、どのように生成形成され、また成長・発達していくものかが、生命の根源に遡って書き換えられ、考え直されなければならないように思われた。
 このことは、本来専門家や現役の学校や教育の関係者、あるいはその道に詳しい有識者たちの仕事であろう。それがうまくいっていればぼくのこんな試みは不要と言っていい。だがつい最近のニュースでは、全国で不登校が12万人という数字が伝えられるように、相変わらず好転の兆しが見られない。
 ぼくの考えでは、学者や教育批評家たちは先行する知識や思考には広く目を通して詳しいが、所詮、「ああすればこうなる」式の、いわゆる物事を大脳皮質の窓から眺めた1つの景色のようにしか見ないから、効果の出ない施策しか打てないのだろうと思える。そうしてうまくいかなければ現場の教員の力不足のせいにしたり、家庭の協力や地域の協力がないせいにしたりして逃げ込む。受験で培われてきた頭の良さ、秀才や優等生の頭の良さというものはその程度のもので、大脳皮質依存症候群とでも呼んでみるしかない。
 ぼくがここで考えようとしてきたことは、知力やその他の能力の及ばぬところで、あちこちでとんでもない誤解や無知をさらけ出すことになっているかもしれない。だがそんなことは後でいくらでも訂正すればすむことで、「子どものイメージ」を現在という狭い時空から生命の進化の歴史の中に置き直し、人類史の中に置き直し、また内臓と体壁、本能と情動と理性、あるいは個人幻想や対幻想や共同幻想という、それぞれに次元や位相の異なる窓から眺め直して、段階的に成長と発達を見つめ直すことが眼目であった。それが下らぬことでつまらないことであるとするならば、どうか知的な切り貼りではない、権威あるもの考えをそのまま自分の考えとするのではない、自分で考え抜いた考えというものを教えてもらいたいものだ。現在の社会では、マスコミ等で取り上げられたことでないと市民権を得られないのが通常だ。だからといってそれに靡くようなことばかりを言っていては、いつまでたっても子どもの世界は現状のままに追い詰められた状態を継続するに違いない。もう少しはっきりともの申す人が出てきたり、本当に考えることの苦しさを引き受ける人が出てこない限り、現状は変わらない。
 ぼくはここまでの表現が恥ずかしい水準にあるものと考えている。けれども、それを誰かに指摘されたら、言い返すためにいつも用意している言葉が1つある。「じゃあ、自分でそれをやって見せろよ」。その言葉である。
 さて、本当はまだ言い尽くせないところ、考え尽くしていないところが山ほどあるわけだが、いまのところは踏み込んで考えていく余裕がない。ただ行きがかり上、何も結論めいたものがないというとつまらない気もするので、あまり自信のないところだがざっと具体的な提案のようなものを最後に述べておきたいと思う。
 ほとんど全世界的に宗教的な信じ込みや、思い込みに支えられた学校制度を解体していくことは現実的に言えば不可能なことだ。割礼のような、地域的な風習や習俗や習慣にまで生活に密着した儀礼や儀式には根強いものがあって、そこに科学的な真はなくとも宗教的な真が残存する限り儀礼は残る。
 そこで、制度はそのままに、中身を大きく変えていくことを提案したい。ここまでの考察にも述べてきたように、現在の幼児期から児童期にかけて、本来なら、経験や体験を通して、地域的なところまで拡大された中での、「関係」の習得を基本としなければならない。ところがこの時期に、外部、すなわち現実社会からこれでもかこれでもかと言うほどに、知識、技術や規範を詰め込まれることになっている。自然な生き物としての子どもの、自然な成長・発達を考えるならば、そこはもう少し緩やかに、遊びが主体の集団生活、共同生活の時期が設けられなければならないと思える。柳田国男が微妙な言い回しで暗示したように、ほんとは出来るだけ監視の行き届かない、遊びに全力を注げるような、無意識の体験を積み重ねる時間的な余裕が与えられなければならない。それが出来たら、人間の子どもにとっての歴史は終焉を迎える。つまり、歴史的に言って子ども世界の理想は、それ以上のことはないと言っていいことになる。
 これがあまりに極端だとするなら、多少の勉強的なところは残してもよい。体育、音楽、図工の授業。あるいは昔話や物語を読み聞かせるようなことや算数的な体験、自然観察程度のこと。しかもそれらはみな遊びと区別がつかないようなやり方でやることが良い。これは現行の制度から言えば、1年生から4年生くらいに渡って行うことにする。この間はもちろん、外遊びとしての無意識の体験を積み重ねる時期に相当するから、出来るだけ道徳的なこと、規律、規範めいたことは外から押しつけないことが大切だ。自分たちの中から芽生えてくるものを大切にする。すべて、いざこざや諍いのようなものも、成り行きに任せて大人が口を挟むことはしない方が良い。これは、人類の歴史上の成長・発達の過程にもあることで、その経過をたどることで、逆に子どもたちが歴史の現在性に出会うときに、スムーズに移行することを可能にする。
 10歳になる5年生からは、多少の詰め込みが課されていくことになっても問題はないと思われる。知識、技術、道徳的規範を本格的に指導していく時期として考えられてもよい。そこからはそこからでいろいろなやり方が考えられるが、そのやり方は現在の大学の在り方に関係するところで、本来なら大学間に序列や優劣をつける考え方が解消していることが望ましい。そうでないとどうしてもそこまでの学習が受験に引きずられて、受験に偏ったつまらない学習過程が組まれてしまいがちになる。出来るだけそうならない方がいいに決まっている。
 言おうと思えばいくらでも言ってみたいことはあるが、ざっと言えばこんなところが主張してみたいことの根本にかかっている。ただこんな主張は到底理解されるとは思えないから、自然、力はこもらない。
 ここでぼくが唯一、力こぶをむき出しに主張しようとしてきたことは、子ども理解の視座をこんなところに転換してみる考えからもあり得るんじゃないかというようなことだ。それがどう評価されるかはどうでも良いが、拡大されたその視座そのものについては、それぞれの立場や位置からその適否を含めて是非検討してみてほしい。ダメであれ、ダメでないであれ、結論はその視座をめぐって行われることだから、視座そのものは意識化される。とりあえず、そういうところまで行き着けたら、ぼくの試みにも多少の意義はあったということになると思う。それだけでも、よい。
                了
 
 
子どもという思想I
              2015/08/26
おわりに
・子どものこころの成長と発達
 系統的発生論を元に考えたときに、胎児期というのは要するに小さな点のような原初の生命体にはじまり、原生生物から脊椎動物までの歴史を経過し、人類にまで至る進化をなぞるように成長するものと一応は考えてみることができる。さらに、さまざまな人のさまざまな考え方を参考にして考えると、胎児期は動物的段階までというより人類の歴史をも含み、おそらくは現代人のルーツといわれるところの起源に遡って、それくらいのところまでに獲得した人間的な特徴や発達の段階を、遺伝的にすべて付け加えられると見なす考え方もできるように思われる。
 胎児期で一番おもしろいと思うところは、言葉を介さずに母と子のコミュニケーションが成り立つところだ。これはまだ言葉をもたない人類の歴史段階に対応づけて考えることができ、当時は言葉を介さずに、しかし、母親と胎児の間のコミュニケーションのとり方に相似したコミュニケーションはあり得た。
 これはバリエーションのひとつとして男女の間の恋愛を考えるとよく分かるが、言葉を介さなくても恋愛の相手の気持ちが分かるということがある。挙措振舞いやまなざし、その他にもさまざまな察知の要因はあるのだろうが、ちょうどアメーバーの触知のように、心身がひとつの感知器のようになって相手の気持ちを感じとるのである。これがピタッと当てはまったときに、恋愛は成立するということになる。しかし、これには常に錯誤や錯覚が付きまとうことも事実である。勘違いというやつである。これを延長したところに占いや透視という類のものが考えられる。すべて人間の心身を感知器の働きに集約させるもので、個体によって感度の違い、感知器としての精度の違いというものは存在する。これらの起源は、母親と胎児の間に遡って考えることができ、これは現在の我々からすれば強い思い込みが支配する世界と言うことができる。そしてそれは人類の原初の世界にあたりまえに展開された世界だと言うこともできる。まだ言葉のない時代のコミュニケーションとは、そういうものに違いないと思える。それは言葉を獲得した以後にも存在し続け、現代社会においても胎児と母親の関係世界に継承され、そしてよく観察すれば子どもの世界にも見られるし、先の恋愛関係の中にも存在したように成人の間にも痕跡を留めるものだと言うことができる。
 胎児は、胎内にいて、ひとつの感知器と化して存在する。母体の胎児に対する関心や無関心、愛情や嫌悪、それらのいちいちを精巧に感知する。継続して安心と信頼が胎児にもたらされるか、不安と不信が植えつけられるのかは、その後の生き方に大きく影響する。
 ともかくも、目には見えずはっきりとは理解しがたい形で胎児期の成長はあり、しかも運命的と言っていいほどの重大で重要な経過を胎児はそこで辿ることになっている。もちろんそれは、考え方によってはごくありふれた経過を辿ると言いかえても同じことだ。
 出産を無事に超えたところで、次に訪れるのは社会に独り立ちしていくまでの成長と発達の道のりである。
 はじめに2歳までの乳児期であるが、この2年間という人間だけに見られる長い、母親(養育者)に100%依存しなければならない期間は生物史上から見ても不可解と言うしかない。おそらくそこには人間だけが辿らなければならない事情があるのであって、吉本隆明はこれを、母親を介して乳児に人類史の現在的な水準を転写するために要する期間だというように解している。他の動物群とは違い、人間だけが胎児期と出産後の数日間だけでは足りずに、2年という養育期を持たなければならない事情とはおそらくはヒトと他の生き物とを分かつ何かであって、人間の心的な世界以外を考えることが出来ない。
 いまのところぼくには、人間の心的な世界の現在的な水準について解説できる力がない。何となく了解できる気がするくらいで、細部にわたって詰めていくことは今後の課題に属している。ただ今でも言えそうなことは、人類が心的な世界を携えて誕生してから現在までかなりの長い期間を経過しているが、その間の心的な世界の高度に複雑な成長と発達、そして現在的な水準を乳児に獲得させることは、一夜にして成し得るようなそう簡単なことではないということだ。果たして胎児期としての1年、乳児期の2年を短いと解すべきか長いと解すべきかは分からない。だが、その期間を経て、他の動物の生涯のスタート地点と同じようなスタート地点がそこから始まるのだというような気がする。一方が短い養育期間ですみ、もう一方が長い養育期間を要するということは、そういうところの違いを明らかにしているのであろう。
 他の動物がその動物の生涯のはじまりを、自力で立ち上がり歩行できるようになる時点に求めるとすれば、人間の場合には遙かに遅く、自在に二足歩行が可能になり、また言葉を解し自らも言葉を発するようになる2歳頃と考えることも出来る。
 幼児期とは、だからそういうところに始まり、そこから少しずつ母親の懐を離れ、家族空間を存分に味わい尽くし、やがて行動範囲を家の外に拡張していき、庭から門へ、門からその外へと拡大していくことになる。
 その間、心的には父親や兄弟姉妹、祖父母などの家族関係の中で、情動や理性や、あるいは言葉の広がりや深さを獲得したり体験したりしていく。それは内臓幻想であり、体壁幻想であり、対幻想、共同幻想、個人幻想というものであり、同時にそこでは一切の受容と表出の同時進行が行われているということになる。もちろん、身体的、器官的な成長と発達があることは言うまでもない。
 幼児期というのは、詳しい心理的分析というような見方を別にすれば、家族世界から徐々に外に向かって歩み出す時期を特徴とするが、どの年齢のあたりまで引き延ばして考えることがよいのかは難しいところだ。現在の社会においては、小学校に入学する前の5歳くらいのところまでと区分するのが一般的である。が、これはこれまでの考察に見てきたように、学校制度を前提において6歳からを児童期とするところから、ある意味逆算して考えられる5歳という年齢区分である。
 昔の子どもの暮らしや生育の様子などについての民俗学的な見解を加味して考えると、当然のことながら5、6歳の頃ははっきりと区分けされるようなことは何事もなく、ただ地続きの延長上にあったとしか考えられない。その年頃に、家族の無意識の視線から外れ、子どもが一人単独で行動するとしても、小さな集落の範囲以内の少年少女たちと遊ぶだけにすぎなかったであろう。7、8歳、あるいは9歳、10歳くらいまでは交通の手段と言っても自分の足以外になかった少年少女たちは、精一杯がとなりの小集落を訪れるくらいで、しかもその頃には子守や薪割りのような手伝いを言いつけられて、それ以上に行動範囲を広げることは難しかったと思う。
 そういうところから考えると、本来なら10歳まで延長して幼児期とするか、あるいは吉本が言うように「少年少女期」という名に変えて、幼児期との境目、あるいは思春期、青年期との境目を組み直すことが正しいような気がする。
 いずれにしても、昔の農家の庭先、門口付近まで行動範囲を広げた後に、はじめは大人と一緒に、それから少したって慣れたら兄や姉がいれば、兄や姉と一緒に外に出て遊ぶというようになる。そのうちに外での特定の遊び相手が決まってくるようになると一人でも出かけていくようになる。この時、遊ぶことには違いないのだが、人数的には1対1の時もあれば3、4人で遊ぶことも、それ以上の人数で遊ぶこともあるに違いない。その際に、遊びを通じて子どもたちはいったい何を学び合っているかなどは一概に言えないとしても、それまでの子どもたちには家族内世界の体験しかなく、そこで身に付けた習慣、ルール、思いやりや優しさの気持ちといった、一人一人バラバラなものをバラバラに出し合って遊んでいるのだろうとは言える。当然、そこから学び取ることもたくさんあるはずで、母子関係、家族関係以外の関係世界を学んでいくそれが初歩的な段階だということもできる。そうして徐々に関係の世界は広がりと奥行きを持つようになり、やがて社会の一員としての自覚が生じるステップアップした段階へと登り詰める直前まで、それは継続していくと考えられる。具体的には地域の共同性に接触していく時期もその過程の間に想定できよう。
 もとより、これらの全ての成長と発達のステップは根源的には「食と性」、すなわち個体維持と種族保存に関わるもので、とりわけ関係世界への意欲は生命衝動の発現と見なし得る。生命衝動はまた本質的には性衝動を伴うもので、その考え方からすれば、子ども期の現実社会的な外部世界との接触は、関係として言えば家族内性の外延、言い換えれば、個々の子どもにそれまでに蓄積された母との性的体験、家族内での性的体験、いわゆる対幻想、家族共同性における幻想であるが、それらを表沙汰にする意味合いを持っているということができる。ぼくにはそれが、究極に求める相手の選別を見据え、相手を見誤らないように用意周到に学習していく初期的段階のように感じられる。もとよりこれは根拠の薄い仮説にすぎないが、少なくとも最初の個人としての外部世界との接触には、拵えられた性的と性格的との二重の意味合いでの外化表現は、成長、発達過程上必須と思える。そして外部からの反応表現をもって、自らの成長、発達に資することを繰り返していくのだと考えられる。さらに、その関係世界がスムーズに行くにせよ、ぎくしゃくしたり停滞したり断ち切れたりするにせよ、数多くの経験の広がりと奥行きを持ち、修正したり軌道を変える試みを体験することにより、自力的自立的な成長と発達の過程を歩むことが出来るのではないかと考える。
 それはどうしたら果たされるか。簡単すぎるくらい簡単なことで、子ども同士の遊びの出来る環境と時間をたっぷりと与える、ただそれだけのことだ。
 遊びは無為で無駄だという考えがあることはよく知っている。そうであるかもしれない。そうではないかもしれない。
 だが、人間の子ども時代が遊びとは切っても切れない時期であることは、人類の長い歴史が教えるところである。そうである以上、その時期が人間にとって無為で無駄な時期とは到底言えないことで、人間以外の全ての生命体にとってもそういう一見して無意味な時期を生涯に持つことはあり得ないことだと言っていい。つまり、そこには必ず何らかの理由がある。逆に無為に見えるからこそ重要な理由が隠れている。そう考えて、子ども期の育て方は遊びをモットーにすべしと思うのだが、遊びを通じて何をどう身に付けることが出来ると言うように、今ぼくは、実証的に価値ある何かを並べてみせることは出来ない。
 実際に社会に役立つ知識や技術、社会規範の修得などは10歳以降から本格始動しても間に合うなど、ここまで考えてきたところから述べてはみているが、それもまた無知蒙昧の輩の戯言と一蹴されるに違いない。それでも、どうしたって、こう考える以外にないとぼくは思う。ぼくの目と耳は子どもたちから教わってきたのだ。異様なふるまい、異様な言動、不登校、いじめ、権威への迎合、校内暴力、家庭内暴力、果ては自殺、傷害、殺人等々。昨今の社会現象として常態化しつつあるこれら児童期を中心として起きている諸問題の原因を探れば、どうしても胎乳児期の母親との接触の仕方と、小学校生活で知識や技術や道徳的な規範を、ぎゅうぎゅうに注入していく在り方の中にしか求めることが出来ない。特に共同幻想としての学校の教育、学習の在り方は、子どもの大脳皮質に語りかける、いわゆる外部知識の詰め込みで、内臓腸管系すなわち大脳辺縁系の働きを無視するばかりか重要なその作用を狂わせる元になっているとぼくは思う。ここでもう一度、2つの引用する記述に目をとめてほしい。
 
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
 
脳は端末器官とつながっていて、お互いが連動してはじめて機能できるのです。唯脳論のように脳が独立して存在しているわけではありませんし、脳が端末器官に対して絶対的な優位を持っているわけでもありません。脳は筋肉のためのシステムです。内臓脳(大脳辺縁系)が腸管の平滑筋とともに働き、体壁脳すなわち大脳新皮質が感覚系、運動系とともに体壁系の錘体路系に支配される筋肉とともに働いているのです。              ーーーーー中略ーーーーー
腸の平滑筋肉運動は内臓脳に指令を出しています。脳が指令しているばかりでなくて、腸から出ている指令もたくさんあるのです。つまり、心は脳にあるのではなくて、内臓腸管系がうみだしているのです。腸の動きが生命の生きる意欲の心をつくりだしているのです。つまり五欲(財・名・色・食・睡)の源は腸管の蠕動運動(腸の動き)にあり脳はそのうごめきを外界に示す窓口にすぎません。
 
 前の項で取り上げたことだから繰り返しは避けるが、要するに、大小、または強弱の違いはあるが、総じて現在の子どもたちはここに示す本能を含めた内面世界のバランスが崩れている。特に意識の表面層に深く関係する大脳皮質への外部からの注入が過剰で、本来ならば先輩格であるべき大脳辺縁系や本能にまで逆に影響が及んでいると見なすことが出来る。おそらくこのことは児童期のみならず、成人に達した後に突然異常なふるまいを見せるとか、鬱病気味になるとかの軽度の精神疾患をもたらす元になるのだろうという気がする。それらのことの考察はまた別として、次の終わりの項に歩を進めていくことにする。
 
 
子どもという思想H
              2015/08/20
系統的発生論との関連から
・人類史と個体史の対応
 人間について、系統的発生論の見方からすると2つのことが言えるように思う。
 ひとつは、胎児期に、受胎後30日を過ぎた1週間の間に魚類から両生類、そして爬虫類、ほ乳類というように、脊椎動物の進化の歴史をなぞるように成長するということである。解剖学者の三木成夫は、その間の人の胎児の顔貌の変化を克明に記録し(「胎児の世界」中公新書)、ヒトの場合についてのこの論の実証をなしえたと思える。これは実際に地球上に起きた出来事である4億年とも言われる脊椎動物の進化の歴史を、わずか1週間の間にコンパクトに通過するということを意味するが、事実だとしてもとても神秘的で、いちがいには信じがたいところがある。しかし、水中に産み落とされた卵から水生のオタマジャクシになり、それから半水生で半陸生を特徴とする両生類の蛙になる例からも、おそらくは信じてよいとぼくは思う。
 もうひとつ言えることは、胎児期に脊椎動物の進化を追体験するかのように成長を遂げるとすれば、出産とは、ほ乳類のある種から進化したぼくらの祖先が、はじめて地球上に現れた瞬間を象徴するドラマだと見る見方が成り立つように思える。そしてそれだけではなく、今度は新生児が乳児期、幼児期、児童期、青年期、そして大人へと成長、発達していく過程には、人類の祖先の出現から現在の人類の到達地点までの、心身の発達の全過程が対応すると考えられることだ。
 その中でも特筆すべきは、我々が感覚的にもすぐに了解しうるところの、1歳前後における直立歩行と言語の音声表出という2つの出来事である。これらは現代人のルーツになる人類が、はじめて二足歩行で歩き始め、言葉を発するようになった時代を彷彿とさせるように思われる。今日の人類に見られる特徴を全て兼ね備えた、我々の祖先の登場である。言い替えれば、ぼくらは1歳前後の頃の子どもの姿に、人類の黎明期を2重重ねのように思い浮かべることが出来る。もちろん、1歳までの乳児期に、そしてそれ以前の胎児期の後半から、そのための準備がなされていたことはここまでの考察の中に見てきたとおりである。
 さて、1歳を迎えた児童には人間としての初期的な諸条件は全て出そろい、ここからは大人に向かって心的にと肉体的にと、成長、発達に向けたベクトルをまっしぐらに突き進むだけだと言っていい。
 三木成夫の区分によれば、1歳児の「指差し・呼称音・立ち上がり(指示思考のはじまり)」は、年代区分から言えば100万年前の「原人」類の出現の時期に相当すると考えられている(「内臓とこころ」河出書房新社―図32 「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」)。
 ちなみに、1歳未満のスペースには「表現音」の文字が置かれている。これはたぶん乳児が発する「ばぶばぶ」や「あわわわ」のような、言葉以前の「音」や「音声」のことを言っている。ここは歴史区分からは「猿人」類の領域に対応させられている。
 2歳の区切りには、「判断・数・抽象(概念思考のきざし)」の文字が充てられ、1さと2歳の中間に「ナーニ」の文字が見られる。ここは「旧人」類の出現をおよそ20万年前とみて、その時代に対応するように描かれているようにも見えるが、他と違ってはっきりと対応づけている破線が引かれていない。乳幼児の方の年齢区分には3歳の区切りとの間に、「造形・ごっこ遊び・言語修得」の文字が見られるが、このあたりの成長、発達が、はっきりと「旧人」類の出現に対応づけられるかどうかが、やや曖昧さが残るからではないかと思う。「原人」類の成長、発達の延長としても考えることが可能だからだ。
 乳児期、幼児期としても定義の区別は微妙なところで、はっきりとした境界はとりにくい移行期のようなものだ。ただし、「造形・ごっこ遊び・言語修得」の文字があるように、子どもとしては大変な飛躍がここには覗われる。こころ、知能、そういう内面とたくさんの言葉の獲得とが、ますます人間らしく発達していることを感じさせる。
 3歳時のラインには、「自己意識(狭義の思考)」の言葉が記入され、ここはおよそ5万年前の「先史人」類の出現に対応づけられている。あるいは先史時代と呼ばれる時代に対応すると考えられている。これはおよそ5千年前まで続くとされ、年齢区分では3歳〜4歳となるが、次に続く「歴史人」の時代は10歳からとされて、5歳から10歳までの間は先史時代の延長、もしくは歴史時代までの移行期のような扱いで描きだされている。
3〜4歳にあたる「先史人」、先史時代のこころの形成や成長は「絵かき」の言葉で象徴されている。以前、テレビなどでよく壁画遺跡が紹介されていたのを見かけたが、あれは主に先史時代に遺されたものか、と今さらながらに思う。そして、あれはヒトの一生で言えば、3〜4歳の時期に相当するのか、というようにも。
 いま、これまでのところを、「表現音」〜「ナーニ」〜「造形・ごっこ遊び・言語修得」〜「絵かき」というようにあらためて並べ直してみると、乳幼児の段階的な成長がよく現れているように思われる。またここまでのところでは、人類史の時代区分と子どもの成長・発達過程の段階との対応は、大ざっぱではあるけれどもほぼ妥当だという印象が持たれる。ただ、三木の図ではここからが問題を含んでいる。
 歴史時代の始まり、歴史人の出現は、時代区分で言えばいま述べてきたようにおよそ5千年前とされているが、これは子どもの年齢では明確に対応づけられず、およそ10歳のところを目安として、その周辺にあたるというように描かれている。そのように、ややあいまいに対応づけている。そしてここまでの言い方に倣えば、この10歳のラインには、「ギャングエイジ」の文字が置かれている。年齢区分のラインに置かれた文字だけを抽出してみると以下のようになる。
 1歳 指差し・呼称音・立ち上がり(指示    思考のはじまり)
 2歳 判断・数・(概念思考のきざし)
 3歳 自己意識(狭義の思考)
 10歳 ギャングエイジ
 三木の図では、4歳から5歳までの間には「読み」の文字が、そして区分のラインは引かれていないが5歳には「書き」の文字が置かれている。さらに、6歳〜7歳の間に〈入学〉の文字が見える。そして、注意しなければならないが、この帯域はそれぞれ先史時代と歴史時代との中間に、どっちつかずのあいまいな領域のように意図的に描き表されている。なぜか。
 それはひとつには、現在の子どもの生活を観察するものの目に、実際に飛び込んでくる子どもの姿がそのようなものであることによる。もうひとつは、その間に見られる子どもの姿が、はっきりと時代区分に対応づけられないからである。あるいはきっちりと区切ることが難しいからである。その間には、先史時代の特徴と、歴史時代以後とがごちゃごちゃに混在して象徴的に抽出できないからだ。つまりこの時期が、幼児教育などに見られる人工的な環境配備によって、自然な成長・発達過程を逸脱するものとして、意図的にこしらえたものであることをそれは意味する。三木は、言外にそのことに留意を求めているように思われる。以前に指摘したことがあるが、その図に付された解説文に、「なお、本来ならばこの図の『読み』『書き』は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。」の文字が見えている。
 ここまでのところで考えれば、人類も含めて生物一般は、成熟した個体となるために種や類の歴史のすべてを身体的と心的にと通過するものであり、成長や発達とは概ねそのことを指すものだと考えてよいように思える。
 ところが人間だけにおいては、おそらく近世の後半から、特に子ども期への知的な介入とそれによる成長・発達の再編が試みられるようになり、近代学校教育制度の発足以後、一挙にそれは人工的な配置の元におかれることになったと言うことができる。つまり子どもはみな学校生活に放り込まれるようになった。これにより、およそ4歳から10歳までの子どもの生活には、先史時代の要素と歴史時代の要素とが入り交じり、区分けしにくいところまで進んでいると言うことができる。 三木の「読み」「書き」は十歳以後に、という指摘は、言うまでもなく人類史の発達史から眺めればという意味合いを含んでいるが、これが現在社会では6歳のところに配置され、未だ現在の教育課題として取り上げられるには至ってはいない。それどころかますます自然な成長と発達の人工的な配置換えは勢いを増し、教育の名を冠して児童から幼児、幼児から乳児、そして胎児教育へと広がりを示す一方、生涯教育として児童期以後に向かっても順次拡大し、ついに生涯の終わりにまで射程を伸ばし続けてきている。
 ここではこれ以上踏み込むことをしないが、このことは人類の文明における、破滅するまで発達し続けるほか無い運命同様に不可避の必然と見なすほか無いものかどうか、検討する時間はあるものと見てここに提起しておきたいと思う。つまり、もう少し自然な成長・発達の流れを重視しなくてもよいのか、というようにだ。
 
・共同体段階と個体史の対応
 三木茂夫のとらえた人類史と個体史の対応について見てきたが、そこで注意を惹かれたのは歴史時代の始まりと人間の子どもの10歳を対応づけているところで、そこに「読み」「書き」の文字が置かれているところだ。歴史時代とはその名の示すとおり、文字文化がおこって歴史が刻みはじめられるところに依拠するところで、これに「読み」「書き」を当てることに異存はない。ただ、なぜ10歳なのかについては根拠があいまいである。
 
桃源郷の世界は三歳児で、その印象的な幕を開けるが、その後の観察によると、この面影は十歳児を頂点として最後の燃焼を尽くすがごとくに見受けられる。(同前)
 
 つまり、言ってみれば、観察して見てたらそうだった、というだけのことだ。三木の観察眼を疑うわけではないが、こちらとしてはもう少ししっかりとした根拠が欲しいところだ。それで考えてみると、三木の図にも書き込まれていたが10歳というと「ギャングエイジ」、小集団の徒党を組むという傾向があることと、他に器官としての脳がだいたいそれくらいの年齢のところで発達を止めるということが広く知られている。また、10歳を過ぎると急速に「子どもらしさ」を失っていくように見えるという、三木と同様の観察上の体験を思い起こし、やはりそういうことかなと次第に納得されつつある。
 ここではもう少し根拠をたしかなものとすべく、吉本隆明の3つの次元としての共同幻想、対幻想、個人幻想と、人類史の中に展開される共同体の段階との対応づけについても考察を進めてみたいと思う。彼もまた三木と同様に系統的発生論のスタンスを取っていて、子どもの成長と人類史の展開とは対応づけられるという考え方をしている。
 吉本の場合、彼の共同体論は国家論を主体として、そこから導かれた考え方だということができる。まず、吉本の採る歴史区分は、原始未開、前古代、古代という3つに区切られる(古代以降については歴史年を踏襲している。また原始未開以前についても特に言及はない)。そこで、古代というのは国家が国家の条件を充たすようになった歴史的な時間の帯域を指す。吉本の言うところを要約して言えば、血縁の名残をのこす氏族的な社会の段階を超えて、部族社会あるいは部族国家の成立の時点にはじまり、いくつかを併合した統一部族国家の成立までが「古代」世界ということになっている。また、「原始未開」とは、共同性が偶発的にしか形成されない段階で、そこでは家族意識(対幻想)も個人意識(個人幻想)も、共同意識(共同幻想)と区別無くごっちゃになって集団生活が営まれている、そんな段階を指すということができる。「前古代」とは「原始未開」と「古代」との間にあり、全体的な共同生活は維持されながら、家族として閉じられた生活や個人的な生活も並列に成立するようになった社会を思い浮かべればよい。簡単に言ってしまえば、血縁を主体として構成された共同社会といってもそんなに支障はないと考えられる。後期には、個人生活(個人幻想)、家族生活(対幻想)、親族、氏族(狭義の共同幻想)というところまで拡張された社会生活が営まれていたと考えることができる。家族生活が展開されるようになったことと、まだ部族社会にまでは拡張されていないということがこの時期の特徴と考えれば分かり易い。
 このあたりの見解は素人の域を出ないので自信はないが、およそこんなところで把握しておけばよいと思う。
 次に、吉本の共同体の組み方を主として考えられた時代区分と子どもの発達段階との対応について考えてみる。
 ここで一番安易で、また多少の妥当性もあり得るように思われることは、乳児期を「原始未開」とし、幼児期を「前古代」、児童期を「古代」に対応すると見なすことだ。しかし、ここまで考えてきたところからも分かるように、特に児童期という段階は学校制度と込みに設けられたという側面があり、幼児期から児童期へのステップをそのまま「前古代」から「古代」への移行に対応させることはできないと思える。
 ぼくとしてはまず、言葉を媒介として、獲得以前を「原始未開」、以後を「前古代」のはじまりと考えておきたいと思う。そう考えると、だいたい2歳前として、これは乳児期に重なって、これを「原始未開」に対応すると押さえておく。共同性の段階としても、個体の幻想性の発達の段階としても、共同幻想、対幻想、個人幻想の3つの次元はまだ未分化でありごっちゃになった世界だと言うことができる。次に「前古代」に対応する時期を考えることになるが、はっきりしていることは幼児期とされる2歳以後に始まるということである。先の考えからすれば、これを児童期の入口までと自動的に設定することはできない。「前古代」とは、共同体の段階としては氏族共同体という、いわば血縁にとどまる共同性に拡大した段階までを指す。このことを考えると、たしかに児童期からの学校生活は血縁を超えた共同生活に入っていくことになり、そこは部族国家(低強度の共同幻想)の成立に対応づけられるように思い、児童期を「古代」に対応づける考えも出てくる。けれども厳密な意味でいえば、統一部族国家(高強度の共同幻想)の成立を起点とする「古代」での社会生活との対応でいえば、共同社会の一員、あるいは構成員として認められて参加する以後だと思われる。それは今日の社会では形式的には18歳以後、もしくは20歳の成人式を迎えて以後のことになる。ただそれは形式上のことだけで、実質はそれ以前ということも言える。日本の昔のことで分かることからいえば、10歳から15歳くらいのところで元服が行われていたり、それくらいのところで女の子が結婚して花嫁に迎えられたり、あるいは大人相当の働き手として社会生活に組み入れられていくことになっている。つまり、およそそれくらいのところの年齢の段階で、「前古代」と「古代」との実質上の分岐点というのはあるように思われる。
 ここまでのところでも大変曖昧にしか論じられないのではあるが、ここで何を問題にしているのかといえば、「前古代」が氏族的共同社会という血縁の社会を生きた段階として、すなわち統一部族国家社会(「古代」社会)とは未だ無縁な社会を、子どもの年齢区分のどこに対応づけることが、本来的に妥当なものであるかということである。
 ここまで考えてきたところからいえば、どうしてもぼくには2,3歳に始まる幼児期を含め、さらに児童期に引き延ばして考えることが妥当に思われてならない。逆からいうと、本来的にその年代においては家族共同性や地域の共同性から発生する共同幻想を主体として、それとの関わりで個人幻想を育んでいく時期にあたっているという気がする。言いかえると、そこに早期に国家的規模の高強度の共同幻想を挿入し、介入させるべきではないのではないかと思う。介入させるとしても、本格的には児童期以後が相当し、また少なく見積もっても10歳以後という、三木茂夫の「読み」「書き」は10歳からという発言との時期的な同一性が浮上してくる。
 言うまでもなく、知識的にも能力的にも何の蓄えも研鑽もなく、専門的に時間を注ぎ込んできているということでもないから、ぼくのこうした試みというのは何ものでもない。また書ききれない、言い切れないところが山ほどあるということも十二分に承知している。
ただ、誰からも教わらないところで、誰にも教えてもらえないところで、よく分からないなあと思うところを追求し、少しずつでも自分に納得させるというところにこれらの考察は成り立っている。その意味で、分かってもらえないだろうなと思いつつ、自分のためだけにこの考察は進められている。もうこんなことは早々に切り上げてしまいたいところだが、見込みとしては、もう少し先まで進められるのでなければならないと思っている。
 
 
子どもという思想G
              2015/08/15
こころの3つの次元
 われわれの体は植物的な特徴を有する「内臓系」と、動物的な特徴を有する「体壁系」に大別されることを学んできた。三木茂夫は前者を「心臓」に、後者を「頭(脳)」に象徴させ、それはしかし、古代からわれわれの祖先がそのように把握してきたまでのものだと述べている。つまり、古代人の直観は20世紀の解剖学的な見解から見ても当たっているよ、と言っている。
 ところで、この「内臓系」に見られる植物と「体壁系」の動物という二分類は、ぼくたちの身体について言えるばかりではなく「こころ」や「言葉」にまで、引きずって影響を与えることが分かってきた。それが前項まで見てきたところのものである。そして、「こころ」的な現象全般は、主に「内臓」の動きなどに関係しているものと、「体壁」、つまり外感覚器官や脳の働きから生ずるものとが、これまた大脳連合野においてひとつの織物のように仕上げられて意識に上ったもの、と考えることができる。「言葉」は、この心的な二種の糸で織られた織物(心的現象)が、高度に形成されるようになったときに(純粋疎外)、それに伴い、音声の分節化が発声器官的に可能になって、はじめて人類の獲得するところとなった。この「言葉」の成立にも、「こころ」が深く関与するとともに、その素因とも言える「内臓」と「体壁」の作用や動きというものが、奥で深く関与するものであることは言うまでもない。そして、端的に言えば「言葉」は「内臓」の「生命表出」と「体壁」の「幻想表出」が、縦糸・横糸となって織られた織物のイメージとして(「細胞・遺伝子系」と「脳・神経系」の2つの受容―表出経路の絡まり)、しかし、「こころ」そのものとは別の位相にあるところのものと言うことができる。
 この項では、ここまでの考えの基底におかれた「内臓」、「体壁」という言葉を離れ、別の次元から「こころ」というものを考察することになる。
 今まで考えてきたように、「こころ」というものは単一なものではない。ある種複雑に形成されるものであることは、これまでに見てきたとおりである。「こころ」を現象的なものとして、これを意識的に眺めたときに、そこには3つの異なる次元が展開されていると主張したのは吉本隆明である。先にその3つの次元をあげれば、「自己幻想(後に「個人幻想」とも―佐藤)」「対幻想」「共同幻想」と吉本は呼ぶ。
 吉本のこれらの概念は、およそ40年以上前の『共同幻想』と言う彼の著作によって示された。これらの概念は単純明快であり、且つ、大変むずかしい側面も併せ持っている。単純明快な側面を言えば、「個人幻想」というのは、自分対自分(個人内)という関係の世界で、その世界から疎外(産みだされた)された観念一般を総称する言葉だということだ。また、「対幻想」とは、一対一(ペア)の関係世界が疎外(産みだす)する観念一般の総称であり、「共同幻想」とは、集団などの共同的な関係世界が疎外(産みだす)する観念一般と言うことができる。
 現在のわれわれの実際的な人間世界での在り方を考えると、ひとりの世界、親友とか恋人とか夫婦とかの特別な2人の世界、そして3人以上の共同性の世界の3つを行き来して成り立っていると考えることができる。だとすると、人間の心的領域に生成消滅を繰り返す幻想(観念)、これが心的領域をそっくり覆った場合を想定すればこの心的領域を幻想(観念)領域と呼び変えることができ、その全幻想領域の構造は、われわれの存在の在り方としての3つの世界を、内的な軸として成り立つものととらえることができる。
 これは、一通りのこととして考えるととても分かり易いことだ。われわれの生きて生活する局面は、ひととひととの関係として見れば、大ざっぱに言って、自分1人の世界、2人の世界、3人以上の世界と大別でき、またそれ以外にないのだから、われわれの意識に上る考えというものもこの3つの世界に包括して考えればよいことになる。
 吉本自身は、このように仮定することによって、政治、思想、芸術などの幻想(観念)領域の全体の関連が見えるようになったと述べ、続けて次のように発言している。
 
自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内部構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想の問題なんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、今度は問題意識がそういうふうになってきます。
(『共同幻想論』河出書房 p12)
 
 吉本のこうした幻想概念は、ここまでの段階のところでは大変すっきりして分かりやすいものだと言える。そして、もともとは引用文に見られるような問題意識の中から考えられた概念だったということだ。ところが、ぼくらははじめて聞く耳慣れない言葉に当惑した。たぶんそこには日本人の、新しい概念の形成にも受容にも苦手だという性格的な側面が表れている。これを実際の自分の生活場面や意識行動、精神行動にあてはめて考える、実用、応用の段階になると、とたんに難しくなる。たとえば恋愛をテーマに詩を書くとする。すると、これは対幻想の自己幻想化の行為で、とたんに境界があやふやになる。対幻想といえども自分の中に意識されるもので、それならば自己幻想とどのように別れるかが分かりにくかったりするのである。どっちと見なせばよいのか、そういう問題点を抱えている。そのために、重要な指摘であるにもかかわらず、後年まで大変理解力のある識者たちから繰り返し質問を寄せられ、また識者それぞれの受け取り方があって、微妙に食い違う様相を呈するようになる。
 これはしかし、ぼくにとってはこころの文法というべきものの一つで、こころを考えるときに無視するわけにはいかない。3つに分離された世界が、それぞれに異なる次元として成り立っていることは確からしく思われるからだ。
 とりあえず、こころには幻想領域と見なしうる次元があり、そこではまた3つの次元がそれぞれ単独に、あるいは同じもののように混じり合いながら存在していることを忘れるわけにはいかない。
 少し捕捉しておけば、「自己(個人)幻想」とは、個人が自己問答などを通して産みだす幻想(観念)で、ひとそれぞれに異なる幻想を持つと言うことができる。これに対して、「対幻想」というのは、恋人なら恋人が、2人の恋愛関係について、どのように思ったり、考えたり、感じたりしているかをいうもので、当事者2人の関係に拘束されていることは同じだが、男女の違いなどに多少の差異や相違を含みながらそれぞれのこころに生成されていると考えられる。当事者2人のこころに、2人の関係についての観念世界が個々に展開されるものだと考えておけばよいと思う。これは例に上げたように、恋人との関係である場合も、母と子の関係、あるいは兄弟姉妹や親友との関係にまで拡張することができ、個人の中にも複数の「対幻想」が存在すると言える。最後に「共同幻想」だが、ぼくたちは社会的な関わりとして、複数の組織、共同体にまたがって存在していると言える。だからここでもそれぞれの関係ごとに複数の「共同幻想」が生じるわけで、だがひとつの組織の構成員同士の間柄のなかでは、その組織との関係から生じる幻想をそれぞれに共有部分を持ちながら所有しているということになる。
 実は、この概念の受容を難しくさせているものは、作り手が上からの目線で我々の幻想(観念・精神)世界を眺め、非常に目の荒い網を投げかけて引き上げたときに、引っかかってきたのがこういうものだと提示しているにすぎないのに、聞く側がこれを実際世界の場面に当てはめて理解しようとすることから生じる。実際のこころ、心情や精神は、日常生活の中で、自己(個人)幻想や対幻想や共同幻想の区別を設けているわけではない。逆にそんなことは少しも考慮することなく、そういう境界はないものとして自由に出入りしながら機能していると言える。実際世界で、これらの幻想がどのように振る舞っているのかを見ることは不可能なのだ。
 こう書いてきても解説は難しく、これを誰にも理解できるように説明する自信はまだぼくにはない。私見によれば、これを為しえていると言えるのは臨床心理士でもある宇田亮一で、機会があれば『吉本隆明 心≠ゥら読み解く思想』(彩流社)を手にしてもらえばよいと思う。「自己(個人)幻想」、「対幻想」「共同幻想」を鋭く解析し、追求し、さらに図を使って誰にでも分かるように解説している。いわば吉本学の優れた入門書になっている。ぼく自身も彼の文章から教わったところがたくさんあったように思っている。また深く考えるきっかけにもなっている。ここでは吉本の概念の理解や考察が目的ではないので詳細は省くが、この幻想領域、幻想概念を考慮しないでは、十全にこころを語ったこと、こころの形成を語ったことにならないことは明白だとは考えてきた。その一端を、次の項で触れるつもりでいる。
 
3つの次元と成長・発達過程との関連
 我々の心的な動き、それが「内臓」「体壁」が元になっている情動反応や理性行動であれ、そこにはまたそれぞれに異なる3つの次元があると考えてきた。
 ここではそれが子どもの成長と発達にどのように関わり、こころの形成にどのように影響するものであるのかを見ていきたいと思う。
 まずはじめに、我々に、どのように1人の世界、2人の世界、3人以上の世界が訪れるものなのかを考えてみる。
 胎児の時はこのような区別がないことははっきりしている。意識や感覚に目覚めたとしても、世界はまだ単一にぼんやりとした薄明の中にある。受胎8ヶ月頃には感覚器官は新生児並みになり、意識のめざめもあって、胎児は母親の声と父親のそれとを区別することができるのだと言われている。しかし、その声は胎児にとっては「母の声」でも「父の声」でもないし、おそらくそれが「声」だということも分からない。ただはっきりと聴覚に届く、胎内外の他の音とは違う「音」として受容しているに違いない。その「音」はやがて耳慣れて、「安心」や「快」を胎児にもたらすこともあれば、逆に「不安」や「不快」をもたらすこともある。胎児はこの時、母親の体内や母親自身に、また母親を取り巻く環境で何が起きているかを知り得ない。それはちょうど原始未開の人類が、雨や嵐に見舞われて怯え隠れたり、嵐の後の晴れ渡った空の下で美しい光景を呆然と眺めることがあったりしたように、自然の中で徹底的に受け身的な存在であったことと同じだ。世界(環界)は感知することができるが、世界(環界)が何で、どうしてそういう状態で表れるのか、一切分からないところで「在る」ことを強いられるものだと言っていい。
 こういう言い方は誤解を生ずるかもしれないが、本当はこの胎児の世界は、薄明の中に全宇宙大(無限大)のひろがりをもっている。ふつうぼくらが考えるような極小の世界でも、無の世界でもない。当然ながらまだヒト的な個人幻想、対幻想、共同幻想は持ちようがなく、ただ幻想領域全体は、幻想領域そのままの姿として形成されつつある段階にある。それはまだ〈原生的疎外〉の段階にあるが、それなくして〈純粋疎外〉が生じようもないことは確かなことだし、〈原生的疎外〉が宇宙そのものに開かれたものであるのに対して、〈純粋疎外〉にははっきりとヒト的な枠が刻印されるということもできる。やや皮肉めいた言い方をすれば、これを全ての生命体の心的領域の矮小化と見なす見方はあり得ないことでもない。つまり、ヒト的な「心的領域」を生命体そのものが持つ「心的領域」の進化と見なすか、逆にこれを退化と見なすか、まだこの評価は確定できないことのような気がしている。
 少し脇道にそれたかもしれない。要するに、胎児期にはいろいろな感覚的受容はあるけれども、身体的にも心的にもまだ反射的な反応しか示すことのできない状態にある。母胎をも含めた環界との区別もつかなければ、当然自己という感覚も持てないでいる。ただし、だからといって心的に無というわけではない。
すでに「心的領域」は〈原生的疎外〉という形の領域を持ち、その心的な核にトマス・バーニーやエリクソンの著述に見てきたような、初期的な気質や性格の刻印はなされているものと考えることができる。
 出産により、個体としてこの世界に産み落とされ、肺呼吸に切り替わるとともに環界の温度にさらされるという劇的な変化を体験しながら、新生児の心的な世界は胎児期のそれとそれほど大きく変わるわけではなく、胎児期の延長上にある。
 日本式の子育てでは出産後しばらくは母親がつきっきりで添い寝し、おっぱいを飲ませ、何くれと世話をしてあげることになっている。その後一年近く赤ん坊は、目の前の乳房と母親の顔を飽きずに眺めて暮らす。ここでも、はじめのころは赤ん坊は、母親と自分との区別はつかないのだという。目を開けると、いつも目の前には乳房が表れ、母親の顔が表れる。一日に何度かまでは分からないが、毎日それが繰り返される。成人の性体験そのものではないけれども、飽くことなく眺め続けるとすればそのことは、目に焼き付けられるであろうことは疑いないことのように思える。たとえそのことがどのような影響をもたらすのかは分からないとしてもだ。
 やがて、目を開ければそこにあった乳房や顔が、しばしば目を開けたときに不在であることが繰り返されるようになる。時には泣き声を上げてもいつまでも目の前に表れない。乳児はそうした体験の繰り返しの中から、はじめて母親が別の存在であることに気づいていき、そこでまた自分の存在というものに気づいていくのだという。そこまで来れば家族内ではあるけれども疎遠な他者、父親や祖父母、兄弟姉妹の存在にも気づいていくことは時間の問題だと言える。
 もちろん乳児にとって一番密接で大事な関係は母親とのそれであり、母と子の関係は特別で特殊の関係に違いない。人生で初の対関係は、だから特別特殊の母との関係に生じ、それは1歳前後の言葉の初期的な発生と獲得を待って対幻想へと転移していく。当然のことながら、母親の、我が子との間の対幻想はそれ以前から形成されている。それは子どもの心的形成が、幻想領域と言える段階のところまで成長する間では、一方的で片思い的なものだ。
 いずれにしても、この1歳前後の時期は、吉本の概念から言えば、〈原生的疎外〉から〈純粋疎外〉への移行に行き着く準備性の段階を経て、いよいよヒト的な幻想(観念)世界、概念世界が本格化するひとつの屈折点のように考えられる。
 ここまでの、乳児と世界との関わりから言えば、母親(母親代理・養育者など)を中心とした関わりで、そこに少しずつ他の存在が介入してくるものだと言える。母親は自分とも見分けのつかない全世界という位相から、少しずつ個別の存在であることに気づいていき、そのことで自分が1個の独立存在らしいことにも気づきはじめていく。すでにヒト的な〈純粋疎外〉の領域も起動しているものと考えられ、幻想(観念)性の兆候も示すようになる。このことは、ヒト的な「関係意識」の芽ばえであり、以後、この意識をも含めて心的と身体的と、相互的また総合的なヒト的な成長と発達を継続するだけだと考えることができる。言い換えれば1歳前後のこのあたりで、人間的な初期条件がすべて完備され以後の現実世界の受容とそれへの反応の繰り返しから、歴史的現在性を獲得した1人の自立的な個人の完成へという階梯を歩み始めるということになる。
 系統発生論の考えからすれば、正確さに欠けるかも知れないが、胎児から1歳前後のこの時期は猿人的なところから言語の獲得の兆候を見せ始める段階までの人類の進化、成長、発達の段階にあたると見なすことができる。こうなると、人類にとっても現代人までの進化、発達は一直線で、ただ必要な時間的な経過をそこに挿入すれば足りるように思われる。
 乳児もまた、この後の幼児期において、幻想の歩みとしてこれを考えれば、対幻想と個人幻想、および家族的な初期の共同幻想を深化、拡充していくサイクルに入りこむだけだと言える。ここで注意すべきなのは共同幻想の問題で、これは家族的共同性、場合によっては親族共同性という側面が乳幼児の日常的な生活に入りこんでいる場合に生起するということだ。もちろん、ほとんどの乳幼児にとってそれは現実的な環界として目の前に置かれる。ただ今日的な日本社会において、血縁の親疎は均一ではなく、よってこの段階での個に与える共同幻想の陰影にはかなりの濃淡の違いが現れるものと見ていいと思われる。簡単に言うと、現在の家族においては大家族から核家族、あるいは父子、母子家庭のような条件的な違い、形態的な違いは顕著で、初期の共同幻想体験からしてかなりの相違を孕んでいることに留意しなければならないということだ。
 さて、ここまでのところをふり返ったところで言っておきたいことは、乳幼児までの個人幻想、対幻想、共同幻想の形成は、日本の社会の、歴史的に言えばどんな時期に相当するかということで、これは一番近いところで近世までの段階だと考えることができる。また一番遠いところを想定すれば、統一部族国家としての大和朝廷の成立以前と言うことが出来る。こう考える根拠は、つい最近まで日本の家族というものは共同幻想を本質とする国家(共同体)の侵入や、国家の規制が経済的な範疇を除くと比較的緩く、逆に血縁的な共同幻想が根強く強固に生き延びてきたと考えられるからだ。これは一部現象的には現在の家族の形態の中にも伺われるところで、宗教から風俗・習慣をはじめ、その受容から展開の仕方まで家族の独自性に任されるところが少なくない。言い換えるとその時点まで、地域共同性が中間の緩衝地帯のように介在し、そのために国家(共同体)の介入や侵入がソフトであるという特徴を持っている。
 ここから考えると、大和朝廷成立の時期から近世にかけて、国家共同体における共同幻想の水準はあまり大きな変化を蒙らずに来ており、この後、近代国家成立の時期を迎えて共同幻想の水準は劇的な変化を見せることになる。その強大化と強力な介入と浸食性は、これを今日の子どもの成長、発達の段階の中に求めるとすると、およそ6歳からのすべての子どもの学校教育への組み込みの中にこれを認めることができる。
 このことにより、乳児の母親(代理)との関係、幼児の家族内および地域内の関係は、新しい局面を迎えて、直に国家意思としての共同幻想に向き合うことになる。これはもちろん母親(代理)との対関係とも違い、また家族の共同性や地域共同性との関係とも水準としての質が違う、高度の共同性、現実的な世界としての社会に、以後、幻想的に押しつぶされそうな圧力を感じながら対面していくことを意味している。ここでもまた注意しなければならないことは、原始共同体の体現者としての母親の存在、また親族共同体を体現する家族、氏族共同体や初期部族共同体を象徴する地域社会の元に形成されてきたそれぞれの対幻想や共同幻想と、全く次元を異にした共同幻想にはじめて向き合うというそのことだ。現在の家族および地域社会には、一昔前の国家の本質としての共同幻想との橋渡し、あるいは緩衝地帯としての意味合いは消失している。つまり、大きな断絶が横たわっているということだ。
 大ざっぱに見て、およそ江戸期までの日本の社会での子どもの成長は、一部の階級を除き、母子、家族、地域社会というように徐々に活動の場を拡大していき、自然な階梯の中に成人へと成長する道筋を持っていたと思う。しかし、今日をふり返ってみると、家族から地域へとスムーズに足場を移す道筋自体が掻き消えているばかりか、仮に地域に根をおろせたとしても、どんなにその道を踏みしめても成人(社会の一員)としての地位を確保することには至らない。かつての元服(現在の成人式)や婚姻とかにあった、社会人になるための通過儀礼の一次的な意味合いは、実質、学校制度の通過にその座を奪われている。
 こうした事情の中に、ぼくらは歴史的な必然を考えるほかないのだが、これらのことは主に、歴史的な推進者と目される青年から壮年に至る人々の、精一杯の所業からもたらされた現実世界というほかはない。けして子どもたちが招来した現実ではない。そこに、こうした歴史的な推進と推移は、はたしてそこでは付随的な立場でしかなかった子どもたちにとってはどうであるのかを考え、もしも大人たちの考え及ばぬ欠陥を見いだせるとするならば、これを課題として是正に向けて働きかけるべき余地は残されているように思える。 ここで、もう一度こころの3つの次元についてふり返っておきたい。個人幻想、対幻想、共同幻想という時の「幻想」とは何かということを、もう少し詰めて考えてみる。単純には「幻想」は「観念」に置き換えられることは述べた気がする。ただしこの場合の「幻想」や「観念」は、人間関係を土台として生ずるものであり、たとえば対幻想について考えると分かり易いが、そこにはペアとして閉じようとする傾向や恋人としての暗黙のルール、約束事、あるいは誓い等々のようなものが必然的に含まれる。たしか宇田亮一はこれを、「幻想」すなわち「規範・しばり」のように解説していたと思うが、そう置き直して考えると分かりやすいかもしれない。そうしてみると個人幻想とは自己対自己の関係の中での「規範・しばり」であり、いわば自己内ルールの側面で見ることができる。対幻想は一対一の関係の中での「規範・しばり」として、夫婦のルール、恋人間のルール、親友との間の見えないルールなどというようにイメージすることができる。最後の共同幻想は国家的規模の大きさとしては、憲法とか法律とかに関わるようなことが対象となるものであり、制度から観念までを広く含んでいると言えよう。またこれはたとえば会社とか組織とか、狭くいえば家族の共同性にも存在するルール、拘束めいたものも指すものだと言える。
 吉本隆明は『共同幻想』の中で、一般的に言って共同幻想と個人(自己)幻想は逆立する関係にあると述べている。先の大戦時をイメージすれば明瞭になると思うが、国家意思としての共同幻想が人々の心の中に大きな部分を占めるようになると、個人幻想は相対的に縮小することになる。逆に平和時では個人幻想がこころの大きな部分を占め、共同幻想は後景に退くということがあり得る。同じことは共同幻想と対幻想との間にもあり、対幻想と個人幻想との間にもあり、ある場合には異質な共同幻想間、異質な対幻想間でも起こりうると言える。だがその中でもっとも質的な乖離が大きく、また人間性の乖離を孕んでいるのは、国家規模の共同幻想と個人幻想の間の逆立の関係に認めることができる。もちろん共同幻想と個人幻想が同致する場合もあり、その時は共同幻想と個人幻想は矛盾しないで併存する。国家や会社を自分そのもののように思いなしているときなどは、そのような状態に近いと言えるだろう。これがいったん対立するようになると、孤立、村八分等々、個人幻想の受難を招来するものとなる。
 さて、以上の記述の中でも述べてきたように、胎児期、乳児期、幼児期を経てきたいまの子どもたちは、学校に通い始める児童期あるいは学童期と呼ばれる時期を迎え、はじめて国家的規模の共同幻想に直面する。現象的には学校という建物、制度、組織、構成員などからなり、窓口には担任というものが置かれる。担任はあるときには共同幻想の象徴の役割を担い、またある場合は対幻想の対象となる具体的な個人ともなる。これもまた当事者の意識の如何に関わらず、オートメカニカルにそういう役割を担うといってよい。
 
学校の本質は「共同幻想」
 学校なんかなくてもいいんじゃないかと最初に提示して見せたのは、ぼくの記憶によると山本哲士(当時、社会学、教育学専攻の大学助教授)であった。それまで、教育の世界は何か変だと思いながら、ぼくは学校を無くせというところまでジャンプして発想したことがなかったので、正直、驚いた。しばらくして山本と吉本の対談(「学校教育思想」日本エディタースクール出版部)がでたが、吉本隆明には制度を無くせという発想はなかった。どちらかというと、学校は通過儀礼としての意味は有しているのだから、制度として継続することはあってもよいというように現実的にとらえていたと思う。その時、吉本は、自分の考えははなはだ折衷的で中途半端なところがあり、おもしろくないというようなことも言っていたと記憶している。
 山本の主張は、学校は表向きの教育的理念の実現化とは別に、「学校化」という影の働きをしていて、これが社会的に見ると悪の根源になっていると指摘している。そして、すぐに学校を無くせというわけではないが、学校のない社会を想像の世界に考えてみることも大切だと言っていた。これに対する吉本の対応は、ややどこまでも平行線を辿っていくようなところがあって、最終的には相譲らずというところだったように思う。
 ぼくの考えは両者の考えに引き裂かれたまま今日に至っている。あれから30年もたっただろうか。進歩がない。
 山本の教育学的な発言も中断した。ぼくの印象では沈黙が続いたという感じだった。学校教育に否定的な見解は長続きするものではない。それ(学校教育)は社会の根幹に根を下ろし、もはや社会の骨肉に一体化している。学校教育の否定、あるいは学校のない世界を想定してみるそのこと自体が学校の否定を含んでしまい、そのことはさらに社会の存続を否定することに繋がってしまう。その声に耳を傾ける一般の生活者大衆がいるはずもないことは、当然といえば当然のことだ。
 無知が栄えたためしはないというマルクスの言葉通り、知識の蓄積、知の継承、知の伝達もまた有効性を保持している。考えてみれば山本の教育に対する批判的な見解すらが、教育的な享受なしには考えにくいことだ。山本は、教えられたのではない、自ら学び取ったのだと言うだろうが、小学生段階のところで考えれば、読み書きに始まる基礎的な知の洗礼は、やはり歴史的現在としての社会から授かったものと考えることが自然だ。その事実なしに、どんな思考の深化や継続も為しえない。当時の山本の主張は、はじめから、知によって知を否定する矛盾を抱え込んでいる。
 義務教育が課される児童期の段階で、いじめ、不登校、暴力や非行、果ては自殺や殺傷
が、ごく当たり前に、いつでも起こりうる可能性があると考えられるようになってから久しい。社会不安を産み、さまざまな教育改革が提言されたが根本的な改善の兆しは以前として見えてこない。
 そういう中で、学校対家庭(国家対家族)、先生と親、先生と子ども、親と子ども、親と親、子どもと子どもの関係は、以前と比べてもとても難しくなってきているような気がする。また、いっとき平穏に見えても、いつ緊張が走るか分からないという不安を、常時はらんでいるように思える。親和的と見える関係、協力的と見える関係も、何か事あればすぐに瓦解し、取り返しのつかないほどに疎遠で険悪な関係に落ち込んでいきそうなほどで、ほとんどに脆さといったものを窺わせる。本当は信頼で成り立つ教育が介在する問題は、誰にとっても難しく面倒な局面を迎えている。
 さて、ここでは、一応こうした状況論的、制度論的な問題は置いておくこととして、幼児期を過ぎた子どもたちがどのようなこころで学校と出会い、またその中でどのように成長・発達していくものなのかを中心に考えてみたい。
 こころの3つの次元の考え方からすれば、乳児期から幼児期にかけて、母親との関係や家族内関係の中で「個人幻想」と「対幻想」
という関係世界は、とても幼い形ではあるがすでに心的には構築されてきていると考えることができる。また実際には、家族の共同性や親族なども含んだ地域の共同性にも触れ、家族間の「共同幻想」、地域の中の「共同幻想」を体験するとともに、自分の観念世界の中にそれぞれの「共同幻想」を個人のものとして、獲得、形成していると言える。
 しかし、この場合のその段階での「共同幻想」は、たいていの場合、子ども自身に対して親和的であり、比較的に「規範」とか「しばり」としての作用が緩やかで、逆に「つながり」の側面が感じられるものだと言える。その点では、はじめての現実社会の力を象徴するものとしての学校、すなわちその本質としての「共同幻想」とは質を異にしている。学校としての「共同幻想」。「共同幻想」としての学校。いろいろな教育的な修飾、道徳的な修飾を全て取り除いた上で言えば、学校の本質は、ただ「共同幻想」の一形態を意味しており、それ以外の何物でもない。観念的な粉飾を全て取っ払えば、そういう言い方ができる。そしてやや通俗的な言い方をすると、公立の学校は全て国家の代理店みたいなもので、その「共同幻想」は国家の「共同幻想」に準ずるものだということができる。
 このように見た場合に、いかに現代の子どもたちが歴史的にかつてない早さで高強度の「共同幻想」に出会い、場合によっては「個人幻想」とのщt立の関係を経験して心的な苦痛を強いられなければならないのか、ということに思い至る。これはおそらく江戸期までの子ども体験には無かったことだ。
 近代学校教育制度の発足は、日本ではおよそ200年ほど前になり、それ以前に国家的規模の「共同幻想」、すなわち「つながり・束縛」を内容とする「共同観念」とか「共同規範」が、子どもたちに直接に接触する機会は薄かった。現代社会はそうではない。それまでの、子どもから成人へという自然社会的な成長の過程は切断され、学習や技能や道徳的な修得が直接的、均一的に、社会に張り出した高強度の「共同幻想」から課されるようになっている。
 ここで、どうして「共同幻想」という吉本の概念を持ちだし、これを児童期の中で検討しようとしているのか、その理由のひとつを宇田亮一の文章の一部を引用して示しておく。
 
 共同幻想に関する吉本さんの核心的メッセージは「共同幻想にはрルったらかしてよい共同幻想とрルったらかしておくわけにはいかない共同幻想があるということです。
 ではрルったらかしておいてもよい共同幻想とрルったらかしておくわけにはいかない共同幻想を分かつ基準は何でしょうか。それは共同幻想と個人幻想のщt立の度合いです。щt立の程度によってрルったらかしておいてもよい共同幻想と、рルったらかしておくわけにはいかない共同幻想に分かれるのです。分岐点は「共同幻想が個人幻想を押しつぶすほどまでに逆立しうるかどうか」ということです。(太字は佐藤)
 
 もしも現実社会の力としての「共同幻想」が、個人を覆うように個々の子どもの「個人幻想」を押しつぶす力として作用しているとすれば、これはрルったらかしておくわけにはいかない。これは誰でもそう考えるのではないか。そして実際にそれはそうなっている。それは子どもたち自身のためという大人の勝手な考えや言い分の元に、学習や技能や道徳や規律の修得という名目でぎゅうぎゅうの詰め込みが課されるという形を取って、強大な「共同幻想」が子どもの前に立ちはだかっている、とぼくの目には見える。
 補足するならば、旧来の「公」と「私」の概念を持ち出せば、「共同幻想」は「公」にあたり、「対幻想」と「個人幻想」とは「私」にあたっている。また、「対幻想」と「個人幻想」の関係だけでいえば「対幻想」が「公」の役割を担い、「個人幻想」だけが「私」になる。いま、学校という「共同幻想」、両親という「対幻想」が、もしも、「公」となって子どもという「私」、すなわち「個人幻想」に覆い被さって支配し、押しつぶすような力で追い詰める場合があるとすれば、その時、子どもたちは確実に「引き裂かれた自己」を実感する。宇田の解説の文を緩用しながら言えば、こういうことになると思う。
 関係として洗い出せば、子どもと学校、場合によっては家庭と子どもの実情はこのようなもので、この関係こそは様々に露出した教育問題の元凶と言える。緊急を要する課題として、先ずは多くの教育関係者に、こころの3つの次元とその関係の実際を意識にとどめてほしいと思う。
 さて、ここまで来たところで、この1年半の間にぼくがホームページ上に公開してきたところの、『顔のある窓』の中の3つのシリーズ、「児童期の投げかけるもの」「子ども期の教育と遊び」、そしてこの「子どもという思想」がやっと1つに繋がったという気がしている。言ってみればこの3つは、「共同幻想」としての学校、学校という「共同幻想」が、「対幻想」(家族)、「個人幻想」(個々の子ども)に対して「強大な支配力」(学力・道徳的規律)として現象し、「対幻想」「個人幻想」に含まれる「個別的な事情、観念」に対して圧力として作用し、そればかりか時として「追い詰める」ものとなっていることを明らかにしたかったのだと思う。また先にも述べたように、この時家族の「対幻想」が「共同幻想」と1つになって、子どもという「個人幻想」を追い詰める場合も想定することができる。つまり、家族の「対幻想」は学校の「共同幻想」と一緒になって子どもを追い詰めることもあれば、子どもといっしょになって「共同幻想」に追い詰められる場合もあり、そうした二面性を持っている。
 いま、ぼくのこれまでに記述してきたことが、正しく伝えられたかどうかは分からない。ただ、こちら側の言い分としてはそういうことだと言っておきたい。
 やや不安なのは、3つの次元の幻想についての解説部分が舌足らずだったかもしれないことで、どのように受け止めてもらえただろうかという点だ。この点についてもっと詳細に知りたいならば、直接吉本隆明の著作にあたってもらうか、宇田亮一の解説文を読んでもらうのが早道だと思う。ぼくがこれを詳述するにはかなりの時間と手間を必要とする。そういう余裕がいまのぼくにはない。
 さて、学校という「共同幻想」は、個々の子どもたちの「個人幻想」を「追い詰めるもの」になっていないか、という問題意識がここで生じてくる。ここで少し分かりやすい言い方をすれば、学校に潜在的にこめられた国家意思は子どもの自由意志に対して、どのように関わっているかを見ればよいということになる。子どもの自由意志を、もっとくだけた言い方で、心的に自由な振る舞いというように考えれば、おそらく今日の子どもを観察するところから見て、学校という「共同幻想」が、かなりの規制や抑圧の力として感受されている場合もあるに違いないと思える。多少の注意と慎重さを必要とされるが、これは一方的に学校の物理的な力としての規制や抑圧の力が、必ずしも従来に較べて大きくなったということを言おうとしているのではない。逆に学校をはじめとして、家族や地域の中で、総体的に子どもの自由な振る舞いが寛容されるようになり、従来のままの規制や圧力としての力を、相対的に強い規制や圧力と子ども自身が感じとってしまうからかも知れないと考えている。もちろん、最近の傾向として、学習や技能の内容や習得事項の増加、あるいは基本的習慣や道徳的規律の徹底化や厳格化など、追い詰める力の微増は感じられる。だがおそらくは先に述べた相対的な抑圧としての力の感受、そしてまた子ども自身の耐性の虚弱化が主たる原因のように思われる。これは社会システムの高度化、分明の高度化から必然のように促されてきたもので、このこと自体を人為的に変えることはほとんど不可能に近いことだ。つまり心的な耐性の縮退はおそらく如何ともしがたい。こうなると、学校の「共同幻想」の強度をいっそう弱めていくことでしか、やや被害妄想的傾向を見せる子どもの「個人幻想」の被害感を軽減する方法はないように思える。そしてこれは現代の社会状況に鑑みて、唯一の正しい選択肢のようにぼくには思える。
 ここまでで、まだいくつか検討すべきところを残してきているように思う。いま思いつくことは、幻想それ自体にも水準があるだろうということだ。つまり、個人幻想、対幻想、共同幻想といい、これはどんな人のこころの中にもある概念として抽出されるものだが、こころや言葉などと同じように、子ども時代には未熟であることが普遍的である。そのために、本来ならば、高強度の共同幻想との出会いはもう少し先にずらすべきなのではないかと思われる。具体的に言えば、子どもの教育的管理は10歳以後のところにおき、少なくともそこまでは子ども同士の自治的な遊びを中心とした世界で、自然過程的な幻想の成熟を待つべきだと思う。今日ではこれが逆向きとなって、早期教育が言われるようになっている。子どもは野菜ではない。こころを持っている。こころの成熟には、乳児がなめまわしの中で環界を触知するのと同じように、外部の世界をしっかりと把握する心的ななめまわしの時間が確保されなければならない。 また個人幻想そのものは、古くは胎児期の母親との関係に決定づけられていて、つまり、考えることによってどうにかなるというような、あるいは改変できるというような、そういう面は非常に可能性が低いものだと言っていい。同時に、その内容とするところも個別の身体生理などのような個体の構造的なところを根拠として生成してくるものなので、たとえば日常的なところで他者から「そう考えるのはおかしい」と言われてどうにかできるというものでもない。特に子どもの頃のそれは成人後に較べてそうした特徴が顕著だと言える。これもまた気づきこそが重要なので、気づきのための時間をしっかり与える必要がある。
 さて、我々はいまここで重大なことを考えていて、またその考えは重要な局面にあるということになる。それはどういうことかというと、高強度の「共同幻想」は個々の構成員のいわば「個人幻想」に対して、常に「同致」を働きかけるものだということを理解しておかなければならない。すなわち、価値観の共有、規律への従順さと遵守の姿勢など、「共同幻想」の内容に対しての徹底した懾伏を個人に求め、そのように働きかけるものなのだ。学校という「共同幻想」、「共同幻想」としての学校は、絶対的な宗教、あるいは法として子どもたちの上に君臨し、規制を働きかけ、信じて従うことを要求する。そんなつもりはないと言っても無駄なことで、「共同幻想」の性質上、そのように機能しているものであることは意識されなければならない。
 共同体を構成するみんなで決め、みんなで承認したという体裁の元に成り立つ「共同幻想」は、それ自体が今度は構成員を規制し、みんなをその支配下に置くものになってしまう。「共同幻想」としての学校は、強い縛りで、抜け出ることさえ許さない。もちろんそれは、どこまでも寛容、寛容、寛容、の体裁をとった形で、どこまでも子どものためを貫きながら、しかし個人としての子どもが、学校制度という共同性の外側に存在することも、逃げ行くことも許さないし、認めない。こういう言い方は嫌われるに違いないが、これは他の価値を認めない、そして「共同幻想」を信奉しない「個人幻想」を洗脳できるまで許さない、心的な拉致の形式と呼んでいい。
 少年少女のグループをはじめ、あらゆる共同性には「つながり」があり、「つながり」には必ずルールが生ずる。またルールには束縛や罰則が伴ってくる。「つながり」が「結束」になると束縛や罰則の強度も高まっていく。共同性はその時、共同性の維持そのものが目的かのように変貌する。そして、共同性の維持を妨げようとする要因があれば、そうした因子の排除を何よりも優先するようになる。たとえ、それが共同性をはじめに構成することを可能にした一員の場合であっても、共同性を危機に陥れるような発言や行動があった場合には、厳しい罰則や排除やリンチが用意される。自分たちのための組織や制度が、自分たちをがんじがらめに縛り付ける、組織や制度に変貌することはあり得るのだ。
 
・学校(共同幻想)の無意味と有意味
 読み書き計算や、技術的なこと、あるいは道徳的なことを学んで立派な人間になり、よりよい社会を作るために貢献しなさいという、学校の「共同幻想」の一面は、1つの宗教の教義のようなものとして我々の頭上に君臨している。しかし、それが本当のところ、国民からどれだけの支持を得ているか、誰がこれを大切な教義のように信じ、心の底から篤く信仰していると言えるか、またこれを実践していたり、実践してきたと言えるものなのかはよくよく考えないと分からない。
 社会生活の継続を考えるならば、学校という「共同幻想」の教えが必要なこと、大切なことに違いないということは誰もが考えている。けれども、これは社会人としての表向きの考えで、個としての本音の実感とは言いがたい。自分たちの、これまでの生き方をよくよく考えてみれば「ヒトは、教養豊かで善行を積み、常に正義と公正を貫き、社会に尽くし、弱者を救済するというような立派な生き方が、そう簡単にできるものではない」と、ほとんどの大人たちは気づいているはずだ。また今日の社会の指導者層を遠くから眺めていても、立派なモデルになりうるような人は見当たらない。そしてその原因として、個々の人間にある自我とその欲望が煩悩となって阻害したり、この世界に藪のように張り巡らされた目に見えない関係が、絶えず個人の行く手を遮るからだということも、おそらく自他体験から実感されているに違いない。
 社会人となって、「学校で教わったことの半分はデタラメだったな」と実感しなかった人は、本音のところでは誰一人いないのではないかとぼくは思っている。学校で教わったように社会はできていないし、これからそんなふうに変わっていくという予測もできない。現実の社会は学校で勉強したこととは違う原理で動いていて、そのエネルギーの正体は分からないがあきれるほどにダイナミックで、けして勉強の時に感じた静的さとはほど遠いものであった。その正体はグロテスクだが、嫌なものではなかった。かえって、意外にもそのグロテスクさに圧倒され、完敗の2文字を浮かべるとともにすがすがしささえ感じたことを覚えている。こんなことは誰の口からも聞いたことはないが、ぼくがそう感じた以上ぼくが異常というのでない限り、その割合とか度合いとかは別として、少なからず同じように感じた人はあるに違いないと思う。
 つまり、学業の中身、学校で学んだことはたいしたことはない。乱暴に言えば、実社会に役立つことはわずかしかなく、ただ形式的に中学卒、高校卒、大学卒などのどこを通過したかだけが問題になっているだけだ。そういう実感をそれは言っていることになるのだが、ほとんどの人は感じたことがあり、知っていてもそれを語らない。多分、人はその実感を闇に葬っているというのではなしに、実は沈黙によって、沈黙という表現の形をとって、口にしないのだとぼくは思うことにしている。人々がする沈黙の意味は重たい。だが、にもかかわらず、彼らの生活は雄弁にそれらの事情を物語って余りある。たいがいの場合、人々は高潔且つ立派で、人の上に立って指導する立場を自分に課そうとはしなかった。そして愚かさが同じ程度の隣人たちの中で談笑し、時に助けたり助けられたりするごく普通の生活、そのつましい生き方を選んだ。大いなる自己欺瞞を弄さずに、立派で指導的な立場など貫き行けるものではない。彼らの賢明なる普通の生活の選択は、大いなる自己欺瞞を拒絶した結果だと言っていい。それ以上に優れて人間らしい選択など、他にどれほど考えられるだろうか。いま学校に通っている多くの子どもたちの実態もおそらくそうだ。そして本当を言えば、ここでぼくがだらだらと書き流していることの全ては、学業にいそしんでいるように見える子どもたちのこころに映り込んでいて、全てお見通しになっているに違いないのだ。学校で教えられたこととは別に、自らの体験や判断してきたことを元に、そのことを教訓として先述した生き方を選択する。ただ彼らは、そのことを誰かに理解してもらえるような説明の言葉を持たないだけだ。語ることの無意味も十分に実感しているし、語ることの不毛と徒労も気づかれている。
 しかし、国家という「共同幻想」、ということは学校という「共同幻想」も、常時その構成員を内側に「つなぎとめ」ようとする作用を潜在させる。にもかかわらず、一般的な構成員の個々は、この束縛から自由であろうと欲する生物生命的な衝動を有している。ここではっきりと言いきってしまえば、すべての高強度の「共同幻想」は成立のその時から、構成員を細胞に見なし、それらの結合によってひとつの有機体を構成する意志を自己疎外する。つまりそのように一人歩きするようになると言っていい。だが、構成員としての個々はあくまでも個体として存在しているのであり、個体としての恣意性を放棄することができない。つまり、個体としての存在形態それ自体がそれ自体の理由によって、完全なる結合を拒絶することになっている。言い換えれば「共同幻想」と「個人幻想」の逆立の関係はそれぞれの成立のはじめから存在し、あいまいな矛盾を内在させ、そのことは生活者大衆の存在形態に中途半端さとあいまいさとの色彩をほどこすことに繋がっている。
 子どもを含めて、人の生き方が「適当なもんだよな」と見える側面を持つのは、おそらくはいま述べてきたような事情と関係している。つまり、本来的に、「それでいいのだ」ということになる。
 晩年の吉本隆明は、学校に通い卒業することを「割礼」と同じ通過儀礼と見なした。知識、技能を習得することも、道徳的な規律を学ぶことも、仮に全てにおいて優れた学業を修めたとして、そんなことにはたいした意味合いがないと断言した。ただ偉いと、褒めたり褒められたりするだけのことだし、錯覚した当人が威張ってしまうことがあり得るだけだというように。たくさんの知識を詰め込み、高度な技術を習得し、行動にもなんの問題もないいわゆる優等生、秀才たちが、すべて世の中のためにうんと良いことをしたかと言えば、そうではない。またうんと役に立ったかと言えば、そんなにたいしたことはないと見える。学業で、秀才や優等生で通ったところで、言われるほどに教育の成果というものは万能なものなのではないと思える。たしかに最高度の知は、たとえば物理学者が核の衝突や融合から大きなエネルギーを発見してそれを取り出す仕組みを開発したように、さまざまに文明に役だってきたとは言える。ただそれは知の蓄積の流れから当然の帰結で、そう考えると考えられているほどにすごいというものでもない。科学技術の進歩は進歩というベクトルしか持たず、誰がいつ新たな発見をするかは分からないとしても、誰かがいつか新たな発見をすることは約束されていると言うことはできる。ちなみに、科学者たちはおぞましい原子爆弾、水素爆弾を次々に開発したが、これを無くする方法はついに発見できずにいる。それができるならば、ぼくは教育をも含めた知の世界に脱帽し、文句ない賞賛を捧げるだろう。
 さて、ぼくらは普通、勉強をはじめとして、よいことを考えることはよいことではないかなと考える。また、よい行いをすることはよいことではないかなと考える。社会も学校も、だいたいはそんな考えでまとまっているような気がする。学校というところは特に、いろいろな面でよいと思われるようなところを選んで、子どもに身につけさせようとするところだ。吉本は、よいことを考えてこれを実行し、よいことをきわめてその頂に登り詰めようとするのは、人間の理性とか知性とか知の一般的な傾向であって、自然的な性向だと捉えている。つまり、そのこと自体には「たいした意味合いがない」のだとした。
 もちろん能力や環境やきっかけみたいなことから、努力してそれが可能になる場合もあれば、できない人々も出てくる。だがそれは出来た出来ないの違いの問題にすぎず、人間としての優劣の問題でも何でもないと言っている。本当に問題になるのはその先にあって、このように追い詰め働きかけてくる「共同幻想」の渦中で自らを「個人幻想」としてどのように振る舞い、どのような「個人幻想」を育てるかであり、おそらくは目立たず沈黙を伴う生き方の中に、「たいした意味合いが」隠れているものだろうと思う。
 つまり、現実世界の押しつぶされそうな力としての「共同幻想」を前に、「個人幻想」の側からそれをどう引き受けてどう「個人幻想」を貫いていくか、または放棄するかが問われるところであり、そこにぼくらは人間力の真価、「たいした意味合い」を探し、求めるべきなのだろうと思える。
 だいぶ回りくどい言い方をしてきているような気がするが、約めて言ってしまえば、学校の勉強や道徳的な教えなどは社会生活上、一部分を除いて人々が思うほどに役だつものではないということ。仮に学業が優れて優等生になろうと、実際に就職した先の職場ではそんなものは使い物にならずにまた一から教わることになるということ。そんな意味からも、しゃかりきに勉強したり、技術を学んだり、道徳的にああだこうだと考えなくてもいいんじゃないかという思いを述べたかった。関連して付け足せば、外部からの注入されるものとしての知識は、もしもそれが自分にとって本当に必要になったときはその気になって取り組めば、いつでも取得できるものだと思う。もちろん前々からやっておけばよかったという後悔は付きまとうだろうが、人生とはたいていそんなもので、人間は必要にかられないと全力を発揮できない。
 子どもを追い詰める「共同幻想」としての学校の側面について考えてきたが、学校が全て無意味なものかというとそうではない。また批判の先に学校をなくせという主張をこめているのかというと、それも違う。
 学校にはあまり意味のない内容とは別に、
通過儀礼としての意味合いがある。つまり、一定期間の間につつがなくそこを通過すると社会の一員としての資格が持て、またそのように社会から認められる。これも実際中身的にはどんな通過の仕方をしてもよく、作家の太宰治がどこかで「カンニングしてでもいいから通っちゃえ」と乱暴に言っているとおりで、とにかく嘘を浮いてでも何をしても通過すればそれっきりで後は縁を切ればすむ。それで社会の一員となるわけだから、極端に言えば、スミマセンスミマセンで頭をぺこぺこ下げて通過できて、その後は知らん顔して一人前の社会人だと開き直ったらいいだけなのだ。これくらいの我慢は、それから先社会に出ればもっときつい体験がいくらでも待っているわけだから何とかこなしてほしいし、またこれくらいのことをこなせないようだと、先が思いやられるということになりそうだ。 太古から共同性には通過儀礼はつきまとうもののようだ。以前に少し触れたことのあるキリスト教圏内で行われる「割礼」もその1つで、これは産まれてすぐに男の子はペニスの先の包皮を切り取り、女の子は陰核を切除するのだと聞いている。これも、そうすることで共同性の一員としての資格を有するようになる儀礼の一種だ。風習を行っている当事者間ではもっと違った意味合いを持たされているのだが、風習とは無縁の目からすればなんでそんな野蛮なことを続けるのかは分からない。
 結局のところ学校教育は、こういった通過儀礼の現代版で、しかも全世界的規模で行われる通過儀礼だということができる。おそらく世界には、民族ごとに様々な通過儀礼がいまも風習、習俗のような形で行われていると考えられるが、そういうものを一次的なものとすれば、学校には二次的な意味合いの通過儀礼という側面があるように思われる。
 いずれにしても通過儀礼とは通過することだけに意味のある礼法、形式までのもので、
全ては信仰心とか強い思い込みのようなものから成り立ち、継承されるもののように思われる。ぼくらは、「割礼」を継承する人たちにとって「割礼」が意味あることだと思われていることと同じように、現代社会においては学校教育がなくてはならないもののように思い込む人々がいると考える。しかもその数は大多数だと思っている。しかし、そういう思い込みで、たとえば「割礼」を施される幼児の肉体的と精神的の痛みは何代にも渡って継続しているし、少なくても現在の日本の学校では、いじめ、不登校、暴力、あるいは無気力等々の形で、子どもの世界に異変がもたらされているという事実があり、これが思い込みのために払拭できないのだとすればこれを見過ごすことが出来ない。
 通過儀礼としての有意味をそのままに、しかし、学校教育世界を舞台に展開する子どもの異変と学校教育のある種の無意味さと、これらの関係をどう理解し、どのように配置換えすることで子どもたちを追いつめられる場所から奪回し、あるいは救済することができるのか、またそのことで自分を人間的な解放の方向に近づけていく事ができるのか、依然として入口を彷徨っているだけのような気がしている。
 
 
子どもという思想F
              2015/08/06
 ・ヒトのからだ
 はじめに、大ざっぱに胎乳児期及び児童期のこころの形成の様子に触れて、またその概略めいたことを述べた。次に、その際の自分の視点をはっきりさせておきたくて、こころと言葉についてやや強引に原理的な考察を推し進めてきた。これはあまり満足のいくところではなかった。なぜかというと、どうしても学者や研究者の個別的な研究や考察に触れなければならない面があり、それに引きずられてしまうからだ。また、先行の考察に触れるとしても自分の根気具合では、ほんの一部を取り上げるだけで音を上げてしまって、結局狭い範囲で物言いをすることになってしまった。これをもし詳細に記述するならば、とても仕事の片手間にできる話ではないし、集中を切らさずにやって、5年から10年の歳月を要する。そんなことはできない。だからできる範囲で工夫するほかない。
 反省は反省として、次にここでは「ヒトのからだ」について触れてみたいと思う。これもまた、子どもとは何か、子どものこころの形成はどうなっているのか、を考えるときに、背景を構成するものとして考えておかなければならないことだと思うからだ。これらの背景を持ちながら、そういう背景の中で子どもがどのように成長していくのかを見ていかなければならないと思う。同時に、そういう背景について言及していくことは、自分がどのような背景に子どもを置いて、見ているのかという構図をはっきりさせることでもある。そういう背景でものを考えると、こういうように見えるんだ、ということをはっきりさせるということである。
 さて、「ヒトのからだ」に興味や関心を持つようになったのは、解剖学者三木成夫の著した『胎児の世界』(中公新書)に触れてからだ。それまでは、身体について、日常生活における自分や他者の観察による認識といった程度で済ましてきた。それに、高校生の時に身につけた生物学の知識が多少は残存していたかもしれない。しかし、おそらく生物の学習のメインは「体のつくり」を知識として持つというところにあり、器官や組織の名称を記憶することが中心の授業で、あまり興味の湧かないものであった。今、『胎児の世界』の何がそうさせたかは明らかではないが、その後、店頭では見かけない三木成夫の専門性の高い著作を次々に買って読むことになった。全部でも一般的な図書として発売されているのは6、7冊くらいで、これはネットを通して手にすることができた。
 ここではまず、ここでの題と同名の『ヒトのからだ―生物史的考察―』(うぶすな書院)を読んで驚いたことを挙げておく。第一に、三木成夫の、素人を引き込む筆力のすごさが半端ではない。中身は、解剖学者が著す「ヒトのからだ」の仕組みや成り立ち、すがたかたちであり、本来なら頻発する専門用語などで、下手をすれば2、3ページで挫折するところであろう。確かに、はじめは難解にも感じ、挫折しそうなところはあったかもしれない。けれども、その文章には無味乾燥な説明ではない、言いしれぬ熱気が含まれていた。何回か読み返し、記述された世界のすごさが身にしみて分かった。ひとことで言えば、それらの記述には、原初の生物がやがて植物体制と動物体制との二つに発展し、今日のような生物世界へと進化してきた道筋がはっきりと示されていた。もう少しいえば、いま目の前に何気なく見える草や木や小動物何でもいいが、それが、なぜ、どういう経緯で、いまそこに、そんな形で、生きて活動しているかが、特に三木の『ヒトのからだ』を読み終えたときに分かったと思えた。
 三木成夫の解剖学の世界が教えてくれたものは数え切れないほどあるが、ここでその一部を言ってみれば、まず脊椎動物の体を二大別するところから始まる。「内臓」と「体壁」がそれである。
「内臓」は言うまでもなく口から肛門にかけての腸管系に、ずるずるとくっつくような全てであり、「体壁」という耳慣れない言葉は、
「内臓」を保護するように取り巻く背中やおしりや手足から頭、それらの筋肉や骨などの一切だと考えておけばおおむねのところで間違いない。つまり、キャラメルなどにたとえれば、中身のキャラメルが「内臓」で、包装の部分が「体壁」だということだ。ここまでは誰でも納得できることと思う。三木成夫は、ここから、内臓系を、その本質は植物的なものだといい、腸管をめくり返して大地に突き立てて内膜の突起を引っ張り出すと、そのまま草や木に対応できるという。それは植物の草や木と動物の内臓が機能や作用を同じくするということで、外見の違いを除けば、両者ともに天空の動きや自然の変化に直接的・間接的な影響を受け、それらのリズム、周期に同期しながら、個体維持と種族保存を繰り返す存在だと述べている。それを捕捉する考えとして、生物の二大特性と言える「食と性」にふれ、植物は全体で、動物では「内臓」にその機能が集約するとして、そこからも植物と「内臓」の近似を教えている。
 そうした三木の説を信じれば、動物でもあるぼくたちは植物を内側に包み込み、動物的な手足や目や耳を使って食べ物や異性のあるところにそれを運び、「食と性」を全うする存在だと考えることができる。生命体としての中心の営みは「内臓」系にあり、「体壁」系はもっぱら手足となって奉仕する関係にあるということだ。そして人間はさらにその上に巨大な大脳皮質を乗っけて、いわゆる人間らしい幻想領域を構築してきたということになる。
 こうした三木の考え方には、人間の前に動物が、動物の前に植物がというように、元をたどれば原始の生命体へと行き着く連続性の道筋が示されていると言える。そういうところの考察や解明はもちろん学者などの専門家の領分で、それらの検討は彼らに任せればいい。しかし、太古からの生存在、生命存在について、漠然とながらも一般人としてのぼくたちが生命進化のイメージを持っているかいないかは、ずいぶんとその生き方に影響するもののように思われる。つまり、おおよそのところは知っておくべきことだと思う。
 余計なことになるが、ぼくたち人間は、どういうわけか植物、動物、あるいは生命一般に対して愛着めいたものを持つことがあるが、いま述べてきたところに根拠があると言えると思う。いわば内臓の植物的な機能とその即自的な知覚が、どういう具合にか、心情や思考に組み込まれるからだと思える。これは動物や生命全般についても同じことだろうと思う。自分の中の動物、自分の中の生命に、ぼくたち人間だけは目覚めていて、本能的・反射的に生命や生き物たちへの連帯の意識、つながりの意識を発動しうるからに違いない。ただ、ぼくのような一般人がこう言うことは、現在の段階では訳の分からないことを言っていることと同じだから、強く主張する気は無い。だが、多分そういうことではないかと思う。
 ところで、ここでもう一つ「ヒトのからだ」に絡めて言っておきたいことがある。それはヒトの体を「内臓」と「体壁」に大別したことに関連するが、これは三木においては植物(植物性器官)と動物(動物性器官)の分類に同義であった。
 三木はここから、「内臓」(植物性器官)を心臓に象徴させ、これらを心情作用(こころ)の生物学的な根拠におき、また「体壁」(動物性器官)を頭(脳)に象徴させて、これを理性行動(思考や認知)の生物学的な根原とした。つまり我々がふだん、ごっちゃに「こころ」と呼んでいるところのものを分けて示したのである。前々項で考えたところと関連して言えば、三木は「こころ」(心情・情動・情緒など)を主に「内臓」の動きが関与するものとして、また「あたま」(精神・理性・思考)は、「体壁」(各種の感覚器官と脳)の働きに負うところが大きいものとして、二つを区別した。これにより、「こころ」(内臓)は感ずるもの、「あたま」(体壁)は考えるもの、と単純化してイメージできることとなる。もちろん先に見たように、実際にははっきりとこのように大別されるものではなく、相互の関連や浸透があって一義的にいうことはできないようである。しかし、あえて本質的な抽象度を高めたところで考えるならば、三木の単純化のモデルはある有効性を持つだろうとぼくは思う。また、ぼく自身は現在、実際にそのようなイメージで捉えることにしている。
 さて、実はここで三木が「内臓」と「体壁」とに区別したところのものは、こころの仕組みや形成を考えることに生物学的な根拠を与えるばかりではなく、三木自身が『内臓とこころ』で「こころの形成と言葉の形成は不可分の関係にある」と述べていたように、言葉とも関連するところからそのことについて少し触れておきたい。
 「こころで感じる」ということ。これはもちろん「内臓」の動き、「内臓」の感覚や感受性に関連する。ここで、「こころで感じる」時の状況、「感じた」時の状況を思い浮かべてほしい。「こころで感じた」その時に、必ずや何らかの反応が起こる。手足の動き、顔の表情、あるいは「う」とか「あ」とかの発声でもよい。つまり、「こころで感じる」(受容)ときの一つの反応として、表現欲求、「ものを話す」、あるいは「ものを話したい」衝動も起こるものと言える。これは三木が言うところの、感覚と運動の同時進行の関係から生じるものであり、「こころで感じること」と「ものを話すこと」とは例の入―出の関係、あるいは表裏の関係にあるといってもいいことが分かる。
 こころの目ざめは「内臓感覚」が意識に上ったときに起き、内臓の感受性が高まるとともに豊かなこころが形成されるようになる。
この時、実は言葉の形成が同時進行で進められていることは確実のことと思える。
 ところで、まだ言葉が形成されていないときの、仮に「あ」とか「う」とかの発声をどう捉えればよいだろうかということを考える。それこそ、乳児が盛んに口を動かして、何かしきりに言葉を発したい様子を見せている時期があったり、わずかな語彙を発しながらも次の語彙を口にすることができずにいる様子を垣間見せることがある。幼いながらもこころは何かを感じ取っており、反応としての運動、すなわち幼いながらの表現の欲求が、しきりに口をもぐもぐ動かすそこに、表れているのではないかとぼくには思える。「内臓」の声なき声、言葉なき言葉が身悶えのようなものに表れている。
 この生命欲求、生命衝動そのもののような
表現意欲が、そのベクトルを言葉の方に向けるときに、言葉の表出意欲となって言葉形成の一方の柱になると考えることができる。これは実際に言葉を口にするしないに拘わらず、言葉に価値を潜在させるものだと言える。
 一方で、一歳頃の「指差し」は「印象像と回想像の重なり」で説明される頭の中の出来事であり、指示思考の形成に与って起こる現象である。「指差し」はもちろん言葉ではないけれども、ここに潜在する衝動的な指示性は言葉のもう一つの側面に継承され、これは言葉の保持する意味性となって現れる。ここに、言葉は、内臓の即生命的な動きに関わり「価値」を担う側面と、脳の機能である記憶や思考から生ずる「意味」という側面を持たされて、それらを縦糸横糸として、織物のように織りあげられたものだと解することが出来る。吉本隆明は前者を言語の「自己表出」の側面ととらえ、後者を「指示表出」の側面ととらえ、言語以前の言語をこの二つに分化させてととらえている。吉本には「言語にとって美とは何か」の著作をはじめとして、たくさんの言語に関する考察があり、詳細はそれらにあたってもらうことが一番だが、ぼくのここでの考えももっぱらそれらを視野においてなされている。そして、三木茂夫の解剖学的な見解から述べられたところの「内臓」と「体壁」の関係を重ねて考えたときに、「自己表出」は「内臓表出」に、「指示表出」は「体壁表出」に置き換え可能であると考えられる。また、これをさらに置き換えれば、「自己表出」「内臓表出」は「生命表出」に、「指示表出」「体壁表出」は「脳表出」「幻想表出」などとすることも可能ではないかとぼくは考える。もっとも、こうしたことについてはすでに何度か名前を挙げたことのある、吉本学のよき理解者宇田亮一がすでに著作の中で指摘していたのを目にしている。詳細はそちらでということになるが、まあ似たようなことを考える人はいるもので、しかし宇田は一歩も二歩も先んじていると、ここでは言っておくことにする。
 小題は「ヒトのからだ」としながら、この項ではこれまでほとんど人体についても、三木茂夫の同名の『ヒトのからだ―生物史的考察―』についても直接的に触れないできた。これは少し、後ろめたい気分をぼくに運んでくる。そこで、ということでもないが、この項の終わりに三木茂夫の『ヒトのからだ―生物史的考察―』から、脊椎動物の植物性器官と動物性器官について述べられた部分を引用し、つじつまを合わせることとしたい。以下。
 
 植物性器官 腸管からは、消化ー呼吸系のさまざまの器官が分化し、血管は背側が動脈性に、腹側が静脈性になり、しかも腹側の一部が極端に分化して、心臓を形成する。また、排出管は縦に分かれて二本になり、その一本は尿を分泌する特殊の血管(糸球体)と結びつき、他の一本は、性腺と結びついて、それぞれ泌尿および生殖系の諸臓器へ分化していく。
 つまり、吸収―循環―排出をいとなむ腸管・血管・排出管の三種の内臓管が、それぞれ分化して、内臓の諸器官となるのであるが、特に重大な変化はこれら内臓管の壁に筋肉が発達し、そこへ神経が分布するようになることである。
 すなわち、植物性器官へ動物性器管の一部が、しだいに張り出してくる。このような筋肉や神経を、〈植物性筋肉〉および〈植物性神経〉とよぶ。これによって無脊椎動物では、一般に管腔のせん毛運動によって、行われる内容(食物)の運搬が、ここでは管壁そのものの蠕動運動によってなされるようになる。しかもこの運動は、植物性神経を介して管の内部からだけでなく、からだの外からの変化にも、いちいち敏感に応ずるようになり、しかもこれはさまざまの腺の分泌運動によって、さらに色どりがそえられる。
 植物性器官に現れたこのような興奮性は、われわれ人間に至って、ひとつの頂点に到達するものと考えられる。もろもろの現象を心で感じとり、ひとつのすがたにまで仕上げていく、いわゆる心情の作用≠ヘ、このような植物性の興奮と密接な関係があるのであろう。
 心の動き≠ニいう言葉は、この端的な表現であって、ここからわれわれ人間の心情作用と、植物性器官、特に心臓との切っても切れない関係を知ることができる。血がのぼる=A胸がおどる≠ネども、この心情の動的な側面を、心臓で代表される植物性器官の動きによって、いわば生物学的に表現したものということができる。
 動物性器官 脊椎動物では、外皮の一部が著しく分化して、各種の感覚器官をつくり、この大部分が、からだの前面に配列することになる。また、神経鎖は神経管となって、腹側から背側にその位置をかえ、その前端が著しく分化して脳となり、神経網は末梢神経となって、この神経管と連絡する。一方神経管の腹側には、新たに全身の屋台骨として脊索が一本走り、これがしだいに骨化して発達するが、やがてここから四肢が萌出し、この四肢の支柱として骨格系が新たに形成される。
 つまり脊椎動物では、受容―伝達―実施をいとなむ外皮・神経・筋肉の三層は、それぞれ独自の分化をとげて、無脊椎動物で一般に見ることのできないような、高度に分化した動物性器官を形成するに至るのである。
 脊椎動物の歴史をふり返ってみると、これら動物性器官の分化はめざましい。すなわち、しだいにその勢力を内臓器官にまでおよぼす一方、栄養の大部分を消費してしまうのである。これは脳に分布した豊富な血管によってもはっきりと知ることができる。
 ここでさらに注意しなければならないことは、これら動物性諸器官のなかで、神経系、特に脳がしだいに著しい発達をとげ、人類に至って、ついにある頂点に到達したということである。もろもろの出来事を抽象し、これらを事物として概念的に把握するという、いわゆる精神作用≠ヘ、このようにしてうまれたものといわれる。頭の働き≠ニいう言葉は、この端的な表現で、われわれは、ここから精神作用と脳との切っても切れない関係を知ることができる。切れる頭=A石頭=A頭を使う≠ネどの用例は、すべてこの精神作用を、脳のひとつの働きとして、生物学的に表現したものとしてみることができよう。
 
 
子どもという思想E
              2015/08/01
 ・言葉以前のことば(起源)
 前項では人間のこころとは別に、全ての生命体は無機的自然に対して異和として存在するところから、「原生的疎外」と呼べる心的領域をもってしまう存在だということを見てきた。人間においても、胎児期や1歳未満の乳児期においては、他の生命体の心的領域とあまり変わり映えのない様相を呈しているに違いないと思える。そこでは本能的な動きや無定型の反射というものが支配的で、人間的と見えるこころの様相を見せ始めるのは、指さしや呼称音、直立などをともなう満1歳以後のことではないかと思う。それは吉本の言う「純粋疎外」という心的領域が新たに生じる合図ともなり、言葉の獲得の始まりを告げる時期と言うこともできる。つまり、あらゆる生命体の持つ原生的疎外という心的な領域から純粋疎外という心的な領域へのベクトル変容は、言葉の獲得ということを抜きにしては考えにくいことであり、言葉は人間と動植物をはじめとする他の生命体の、こころを分かつ、象徴的なものだと言えるのではないかと思う。
 胎児期から1歳未満の乳児期にかけて、言うまでもなく言葉というものはない。そして、満1歳前後から片言の言葉を口にしはじめるとして、母国語に精通するようになるのはまだまだ先のことである。言葉は一夜にして獲得できるものではない。そう考えれば、仮に1歳前後に「あー」とか「うー」とかの発語があるとして、それ以前に発語を可能にする準備が整っていたと解さなければおかしいことになる。言葉を持たない胎乳児期とはいえども、その時点からすでに言葉発生の要素を持つと考えることは自然なことだ。
 まず一通り言葉についてのおさらいをしてみたい。
 解剖学者三木成夫は『内臓とこころ』の中で、「言葉の起源」に言及している。
 そこではまず「言語音声の持つ独特のヒビキ=vが取り上げられ、その言葉の「語感」と、対象となるもののすがたかたち≠ノ「根源の類似」があると主張する。そして、類似、つまり何かが何かに似ていると考えるとき、あるいは何に似ているだろうかと思いをめぐらすようなとき、そこに働く思考は「象徴思考」と呼ばれるもので、乳児の指差しに見られた際の「指示思考」に同根なのだと言う。
 結局三木は、人類の象徴思考の発達とともに、体内外における様々な事象の象徴的な類似を、人類が音声表出で表現できるようになった時に言葉の起源というものを求めているように思う。もちろん三木はそれら一切は、人類における大脳皮質の連合野が拡大し、域値を超えて高度に発達した中で、人類の持つすべての感覚(言葉の起源としてみれば特に視覚と聴覚)が融通無碍に交流するようになったからだと考えていたことは言うまでもない。そしておそらくはこの時、三木は無自覚なのだと思うが言語の指示的な側面、意味を示す機能の側面が念頭にあっての見解であったとぼくは思う。
 これだけではしかし、言葉の起源をイメージするには足りなかもしれない不安があるので、「根源の類似」を述べるところで三木が例に挙げた言葉を以下に列挙してみる。さしあたって今ぼくらが考えておこうとするのは、言葉の起源についてのあるイメージであり、学問的に言葉の起源を追求していきたいわけではない。そして、ぼく自身はここでの三木の見解だけで十分に起源についての想像をかき立てられ、イメージとしてよく了解できることを申し添えておく。 以下、三木が例としている言葉。
 
  姿形として(の類似)
  「ナ・メ・ク・ジ」
  「ミ・ミ・ズ」
  
  ヒビキとして(の類似)
  「ヨチ・ヨチ」
  「ヨタ・ヨタ」
  「ヨロ・ヨロ」
  「ヨレ・ヨレ」
  「テク・テク」
  「スタ・スタ」
  「トボ・トボ」
  「ノロ・ノロ」
  「ボチ・ボチ」
  「サッ・サッ」
 
 どうだろう。視覚から聴覚に向かう感覚的な「互換」が実感できただろうか。
 大脳連合野の飛躍的な発達により、ひとつは人類に象徴思考が生じたこと、今ひとつにはあらゆる感覚の互換が高度に発達したこと、さらに感覚と運動とが十全に連絡を取り合うようになったこと、等々から言葉は発生してきたと三木成夫は言う。ここまででぼくらはそういうところを見てきた。この後、三木は音声の側からの言葉の起源についても述べている。つまり、言葉としての声の成り立ちについて語っている。
 少し長くなるが、この部分は引用によって三木の語るところに耳を傾けてもらおうと思う。
 
 人間の声は、рフどぼとけすなわち喉頭腔に発した音源が、咽頭腔から口腔・鼻腔で、実に複雑微妙に修飾される。ここから、ありとあらゆる言葉が生まれるのですが、この喉頭から咽頭を経て口にいたる部分―これが問題の領域です。本日の話の初めに「鰓腸」だと申しましたが、要するに、腸管の最前端部です。
 サメが口を開いた時に、なかがまる見えになる。ロココ時代のような高い天井。床はザラザラの骨舌。舌といっても、これはまったく動きません。そしてその両側の壁面―ここには天井から床へ大きな弧を画いて裂け目が走る。その縁には唐草模様の突起がズラリと並ぶ。鰓の裂け目です。鰓裂と呼んでいます。これが数条、両側の壁面に鋭く切れ込んでいる……。
 この口の奥に開かれた、鰓の大広間こそ、はらわたと呼ばれているものの代表です。この領域の感覚と運動は、最高度の分化を遂げている。外敵には鋭い目を注ぎながら、安定したリズムで水を吸い込んで、この両側の鰓裂から外に放出する。その時にガス交換を行う。これが鰓呼吸であることはご存じでしょう。こうした感覚と運動がしっかりしてなければ、満足に呼吸ができない。一方、またもうひとつのリズムで餌を一緒に取り込む。巨大な獲物から、プランクトンまで正確に見分けて……。しかも小動物は鰓から出してはいけない。ちゃんと食道のほうへ導かなければいけない。この感覚・運動の働きが鈍いと栄養が保証されない。はらわたの機能に「食と性」があるといいましたが、この領域は、まさに食の最前線に位するрヘらわたの顔に当たる部分といえます。一四三ページの図をごらんになってください。これは、この鰓あなを動かす筋肉が、人間はどうなっているかを示したものです。この話の初めに、人間では頸から下がくびれて、のどぼとけに退化変身したと申しましたが、その状態です。これでおわかりと思いますが、声の発生源である、のどぼとけの喉頭筋も、さらに、この声を言葉に直す、咽頭から口腔にかけて複雑きわまりない筋肉も、すべて鰓の筋肉の衣がえしたものであることが示されている。要するにрヘらわたの筋肉なのです。
 人間の言葉というものは、こうしてみますと、何と、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。脊椎動物の五億年の歴史を遡る時、私どもは、否応なしにこの事実に突き当たることになるわけですが、いずれにしても、人間の言葉が、どれほどрヘらわたに近縁なものであるかが、おわかりになったと思います。それは露出した腸管の蠕動運動というより、もはやщソきと化した内臓表情といったほうがいい。なんのことはない―рヘらわたの声そのものだったのです。
(中略)
 ここから本日のテーマ「内臓の感受性」が「言葉の形成」と、切っても切れない間柄にあることがわかってまいります。それは、いいかえれば「心で感じること」と「ものを話すこと」の両者が、まさに双極の関係にあるということです。あの感覚と運動の同時進行―すなわち内臓の感受性が高まった、それだけ言葉の形成も的確になる。逆にいえば、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれるというものです。
 
 ここでは、我々が言葉として話す「声」が、内臓(鰓の筋肉)によって作られているものだということが語られている。だから、「声」はщソきと化した内臓表情であり、рヘらわたの声そのものだとも言われる。рヘらわたの声は、「心で感じたこと」を取り込んで、やがて言葉を形成していく。
 我々の使うあらゆる言葉は全て「鰓の筋肉の衣がえしたもの」によって作られる。言ってみればただそれだけのことだが、よくよく考えるとそれぞれの言葉の持つ微妙な差異、抑揚、強弱などの全てをそこで取り仕切っているのであり、その鋭敏さ、複雑微妙の対応を何気に行っているのだと考えると、あらためてその精妙さに驚きを禁じ得ない。
 もう一つここで考えておくべきことは、言葉の発声が、どうしても自然な呼吸を犠牲にすることでしか成り立たないという一つの事実である。
 赤ん坊を見ていると分かるが、短い「あー」とか「うー」とかはわりとスムーズに声にできる。しかし、大人のように長く伸ばすことも、短く「あ・あ・あ・あ」と区切って発音することもできない。それから「ママ」でもいいし「パパ」でもいいのだが、それが言えるくらいの頃になると、ものすごい集中力で「パ」の次に「パ」をつなげようとする姿を見かける。その時に、全身で悪戦苦闘、何か格闘でもするような調子で、つまりそれは自然な呼吸を一瞬止めるとか、逆に息継ぎをこらえているかのようにして声を出している。 赤ん坊だから、これを見ている大人の我々はかわいい幼さとしてしかこれを見ない。だが、その姿に原始の人類の初めて言葉を発する状況を重ねて考えると、ものすごい集中力とものすごいエネルギーをと必要としただろうと想像される。音声の分節化、つまり、区切りを入れて音声を発するという行為は、さらに息を止めたり継いだりを複雑微妙にやり遂げる必要がある。
 つまり、我々は呼吸作用という生命の本源的な動きを一部犠牲にして言葉を発声するのだが、言い替えれば、言葉の表出にはそれだけの価値と生命的な衝動が内在すると考えなければつじつまが合わないことになる。なぜ人類はそれほどまでにして言葉を獲得しなければならなかったのか、今その真相は別にして、その意味の重たさだけは頭に入れておかなければならないと思える。同時に、ここでは言語に内在する一方の側面としての、価値の根源が潜在するところの問題であったことも忘れるわけにはいかない。
 さて、ここまで、三木成夫の言葉に関する発生の起源について、その考え方を見てきた。
そこでは大脳連合野の拡大と発達が有り、もう一方で呼吸器官の言葉発生に向けての転用という現象が見られた。ここで一気に言葉の問題に深入りすることも考えられるのだが、
とりあえず、こころの形成と言葉の形成の接点のようなところに触れ得たことを記憶としてこの項を終える。
 
 
子どもという思想D
              2015/07/23
言葉以前のこころ
 ・哲学的な考察から生物学的考察まで
 ここまでに、胎乳児期にこころの核的な部分や性格の大本といったものが形成され、児童期はそうしたものが豊かに拡充される時期であるとともに、社会的な最初の難関にさしかかる時期でもあるという見方をしてきた。そこで、胎乳児期の母親との関わりが最も大事で、この時に理想的な関わり方をしてもらった子どもはもう何も言うことがないよ、後々まで、たとえば精神的な病気になったり、考えられないような犯罪を犯したりということはないんだというようにも考えてきた。
 そこまで言えば、ほんとはもうぼくなどが言うべきことは何もないと言っていいくらいのものだ。現在の児童期に端を発して噴出してくる様々な子どもの問題の本質はそこにあって、後は周縁の問題と絡み合って、それをどう解決していくかは別の問題になる。
 ただし、児童期を主とした子どもの今日的な問題とは別に、こころそのもののとらえ方をもう少しはっきりしておきたいという個人的な思いは抱いている。
 ここからは少しそちらの面にシフトを移して考えていきたいと思っている。そこからまた児童期の問題、子どもの問題に帰って何か付け足して考えておくべきことが見つかれば言及していくつもりだ。
 さて、こころの問題を考えるときに、これをはっきりさせるためには原型的なところに遡ることが一つの有効な方法である。人間のこころということでは、これまでに見てきたように胎乳児まで遡ることでシンプル且つ原型的なそれに突き当たる。しかし、それで十分かというと、そこにはこころ以前のこころというべき状態が見え隠れしていて、その辺はもう少し詰めて考えておくべき余地が残されているように思われる。
 胎児まで遡ったところで、こころ以前のこころ、言い換えると、動物のこころとか植物のこころといった領域が視野に表れて見えてくる。動物や植物にこころがあるのかどうか。これは意見の分かれるところで、たとえば解剖学者の三木成夫さんはその著作の中ではっきりと動物や植物にもこころはあると述べている。ただし、それは遺伝子や本能レベルのことで、人間が一般的に口にするこころとは別である。だが、人間のこころとは全く同じではないとしても、こころ以前のこころ、こころの元基としては生命存在として共通するところだとも見られる。
 このあたりのところを考察したものとして、次のような文章が思い浮かぶ。
 
 まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打ち消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんがえられている
 このいずれの意味でも生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生動物では、この心的領域は、心的というよりも、単に外界への触知にともなう無定型な反射運動にすぎないが、人間では心的領域といいうる不可触のあるひろがりをもった領域を形成している。
(吉本隆明『心的現象論序説』)
 
 耳慣れない言葉で難しく感じられるかもしれないが、言っていることはそんなに難しいことではない。
 まず、ここで吉本が言っていることは、無機的自然に対して生命体は異和として存在していると考えられること。これを原生的疎外と呼べば、生命あるものはみな原生的疎外の領域を持っている、あるいは持たされて存在していると考えられること。そういうことが言われている。それには心的領域、つまり、まあこころに関する領域というものも含まれているというようなことである。
 もっと単純化して簡単な言い方をすれば、生命あるものはみなこころと呼べるようなものを持って存在しているんだ、という理解の仕方をしていいと思う。ただし、文章の後半で言われているように、原生動物ではこころと言うよりも反射運動にすぎないし、それが人間では、こころに関する領域だと考えていいような、ひろがりのある領域が形成されているのだと述べられている。つまり、原生的疎外と呼ぶ心的な領域ということでは共通しているが、原生動物から人間までの間では、単なる反射運動からもう少し複雑な心的な動きのところまで、かなり幅があるのだと考えられているように思われる。
 吉本はもう一つ純粋疎外という概念を生みだすが、これは人間のみに特有の、ある意味で高次の心的な領域というように考えられている。
 
原生的疎外を心的現象が可能性を持ちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。
(吉本隆明 同右)
 
 我々が「こころ」というときに、「こころ」の本体がどこかにあってそれを指しているわけではない。「こころ」の現象があるだけである。「心的現象」とはそのことで、吉本はここで、原生的疎外を「心的現象が可能性を持ちうる心的領域」だとしている。これはとても微妙な言い方で、可能性はあるがあくまでも可能性にとどまっていて実際には心的現象が起こりえないとも読めるし、いや心的な現象が起こりうることを否定しはしないんだというようにも読める。一方、純粋疎外の心的な領域については、「心的現象がそれ自体として存在するかのような領域」として、はっきりと人間的な「こころ」の有り様を指し示している。
 このような指摘を読み、これを自分なりに考えたり解釈してみたりしていると、まず普通に考えられる人間のこころというのは、純粋疎外として他の生き物一般とは区別できるものだということになる。ここではまた、他の生き物一般の心的領域は、原生的疎外として人間的な純粋疎外と区別される。ただし、人間には原生的疎外というべき心的領域が無いのかというとそうではなくて、人間には、原生的疎外と言うべき心的領域も純粋疎外の領域も、ともに存在するということが言えるということだ。
 こう考えてきた時に、原生動物を含む(三木成夫にならって植物まで含みたいのだが)他の生き物一般のこころと、人間のこころとの違いがはっきりする。特に前者は、大きなくくりとしては、本能的な反射のレベルとしてのこころ、というとらえ方が可能である。それだけではない。人間の心的領域についていえば、原生的疎外からなるものと、純粋疎外からなる心的領域とがあり、我々はここで発生の初期にあたる胎児期及び乳児期において、原生的疎外の心的領域が先行するのではないかと想像することが可能になる。
 では、人間において純粋疎外領域での心的形成は、いつどのように行われると考えられるのであろうか。
 その前に、「吉本隆明『心的現象論』の読み方」の著者宇田亮一の、関連する解説の一部を紹介しておきたい。
 
生き物一般の心(「原生的疎外」)≠ヘ外界を空間化し時間化することで成立する世界であるが、ヒトの心(「純粋疎外」)≠ヘ生き物一般の心(「原生的疎外」)≠サのものを空間化し時間化することで成立する世界である。
 
 生き物一般と人間との相違を述べた箇所だが、「ヒトの心(「純粋疎外」)=vが「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vそのものを空間化し時間化する」ためには、当然のことながら「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vが内在していなければならない。自己の内部において、「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vすなわち「本能や反射」をさらに対象化して捉えることによって、「ヒトの心(「純粋疎外」)=vが成立する。これは宇田亮一が、難解な吉本の概念を分かりやすくするために単純化して述べたものだが、特に我々成人以後の人間では、必ずしも常に「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vを経由する、つまり対象化が行われているものではないことは言うまでもない。いずれにせよ、原生的動物からほ乳類までの動物段階では、本能や反射といった一次的と言っていい心的現象が成立していて、ヒトの場合はこれをさらに対象化し、この対象化したものをさらに対象化していくという形で、心の有り様というものが成り立っていると考えることができる。
 このように考えてくると、実は、ヒトの胎乳児期は今述べたような動物(植物も含みたい)全般のこころ、吉本の概念でいえば原生的疎外の領域に起きる心的現象(心的現象として取り出すことが可能だとすれば)の段階にあると考えていいように思われる。ただし、意識の芽生えがヒトでは胎児期から始まるとされており、純粋疎外の心的現象が胎児期、乳児期、あるいは幼児期のいずれの時期に発生するのかまではまだ分からない。
 吉本隆明の「こころ」の本質、発生に関わる基本的な考察についてはここまでにして、少し異なるところからの「こころ」のとらえ方を見ておきたいと思う。
 これはインターネットで偶然に目にとまった文章で、気になって保存していたものだ。サイト及び作成者についてはメモをとらなかったので出処不明だが、そのことは勘弁していただきたい。「意識」「心」「精神」の共通点と相違点について述べられたものだ。少し長いけれども、切り取ったそのままを転載する。
 
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。
 
この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一切の関係がありません。大脳皮質の意識に上る対象がなければそれは発生しませんし、大脳皮質を介さない情報処理や、自覚の成されない結果選択は「無意識行動」と分類されることになります。
このように「意識」といいますのは「状態」です。そして、これは神経系の情報処理過程やその結果を示すものではありませんので、他の二つとは全くの別物です。
 
では、「心」と「精神」の違いとは何かということになるわけですが、「精神」といいますのは元々心理現象や生理構造を科学的に分類したものではありませんので、その定義は極めてあいまいです。これに対しまして近年では、長い間謎とされていた我々の「心の構造」に就いてたいへん多くのことが解明されるようになりましたので、この辺りはもはや哲学の力を借りる必要がそれ程ありません。心理現象とは「知覚入力―結果出力」という神経系の情報処理によって発生するものです。そして、我々の脳内では知覚入力に対して価値判断を下し、結果を出力するための中枢系が以下のように三系統に分かれています。
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」この内、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」といいますのは、それは遺伝子にプログラムされた全人類に共通の反応規準であり、幾ら学習体験を積み重ねてもこれが変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。ですから、如何なる場合であろうとも結果は予め定められているわけですから、これを「心の動き」とすることはできません。
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。
 
通常、我々が「学習記憶」と呼んでいるのは大脳辺縁系の情動記憶ではありませんよね。それは大脳辺縁系の「YES・NO」のように単純な結果ではなく、何時何処で何をしたといった具体的なものであり、個人の思い出から数学計算の技術、成功・失敗の結果からその社会の法律・道徳に至るまで、生後の実体験や教育によって大脳皮質に獲得されたありとあらゆる情報であります。大脳皮質はこの記憶情報を駆使し、知覚情報からは得ることのできない「未来の結果」を予測します。従いまして、大脳皮質の司る理性行動といいますのは、その全てが未来予測による「計画行動」であり、原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。
 
上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳的な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。 
 吉本の疎外の概念から見直すと、原生的疎外はどうやらここでいう、「生命中枢:無条件反射(本能行動)」(ここで全人類に共通と記述されているところを「全生命体」と置き直せば)と関係し、また純粋疎外の方は、「大脳辺縁系の情動反応」と「大脳皮質の理性行動」に関係するもののように考えられる。もちろん人間特有の心的な領域、心的現象も後者の側に位置するものだ。ここで、純粋疎外と呼ばれた心的領域では、心的な内容という側面で「情動反応」と「理性行動」という異なる二つの存在が提示されている。つまり、我々大人が普通「こころ」と呼ぶものは、ここでいう「情動反応」と「理性行動」を一緒くたに捉えての呼び名であることが分かる。 ぱっと見に、この文章からはこのこと以外にもたくさんの考えが誘発されてくる。
 大きくいって二つのことがすぐに思い浮かぶ。一つは、「胎乳児期について」という項目の文章で触れてきたところのものは、ここで言われているところの「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」に関わるところのものだということだ。文中で、とりわけ次のような記述の箇所は興味深く、さらに興味深いところを太字にして示して、繰り返しになるが再び引用してみる。
 
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。
(中略)
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。
 
 分かりやすい言い方をすると、エリクソンの言う「基本的信頼対不信」やバーニーの考察したことが、違った角度からここで、しかし全く同じ意味合いで語られているように思われる。要するに、基本、大脳辺縁系における情動反応、情動記憶、いわゆる、生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」が、いかに決定的な役目を担うかが語られていると思う。ひとこと言えば、「生後体験に基づいて」と語られている部分は、ぼくらの見て考えてきたところからいえば、当然胎児体験を含むという考え方になる。そう考えれば、後は問題なくここで言われていることに首肯することができる。
 もう一つ、すぐに思い浮かんだことについて触れてみる。それは三木成夫の様々な著作に示されていた「こころ」についての考え方、とらえ方で、これは自分のホームページに掲載したいろいろな文章の中で論じてきている。とりわけ、最新のものでは『顔のある窓』の中に、『内臓とこころ』(河出文庫)を取り上げて詳しく読解を試みている。
 三木の主張は、端的な言い方をすれば「こころの生物学的な根拠は内臓にあるんだよ」、ということを主張した人であるということでいいと思う。これはそれまでに見たことも聞いたこともない説で、はじめは突拍子もないことだと驚いた。静かに衝撃的だった。けれどもよく読み込み、考えていくと大変納得されるものであった。ここで取り上げた作成者不明の文章で言うところの「大脳辺縁系」の役割が、三木の場合には、そっくり「内臓」という言葉に置き換えられて主張されていると考えてよいと思う。
 誤解してほしくないのであえて言うが、三木がこころの根源は内臓にあると主張するとき、直接内臓がこころの元になっているというのではない。「大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力され」のであり、当然内臓に関する知覚情報というものも集約される。そして大脳辺縁系に入力されたことの結果出力として、情動反応、情動行動に表されていくのだが、この時の、内臓が果たす役割としての重みというものは、とても重大なものなんだよ、というのが三木の主張の根底にある。どうしてそう主張できるか、主張するかと言えば、生物の最大の特徴は、その営みの本分が「食と性」におかれ、それを直接に司っているのが内臓に他ならないからだ。いいかえると動物にとって生の営みは内臓が行うものであって、手足やそのコントロールシステムとしての脳は本来、補佐の役割を担う。それが今日では逆転し、脳すなわち大脳皮質が司るところの精神、理性、それらに伴う外部知識の詰め込みとしての学習ばかりがクローズアップされ、内臓の大切さが忘れられている。三木はそのために社会的に常識化しつつある「心もまた脳の働きだ」とする声に反駁した。それが、「こころの根源は内臓にある」という主張となり、「内臓の復興」を語る声に表れた。
 最近、三木と同様の主張を見かけ、孫引きという形になるがこれを以下に転載する。
 
この例でもわかるとおり、脳は端末器官とつながっていて、お互いが連動してはじめて機能できるのです。唯脳論のように脳が独立して存在しているわけではありませんし、脳が端末器官に対して絶対的な優位を持っているわけでもありません。脳は筋肉のためのシステムです。内臓脳(大脳辺縁系)が腸管の平滑筋とともに働き、体壁脳すなわち大脳新皮質が感覚系、運動系とともに体壁系の錘体路系に支配される筋肉とともに働いているのです。              ーーーーー中略ーーーーー
腸の平滑筋肉運動は内臓脳に指令を出しています。脳が指令しているばかりでなくて、腸から出ている指令もたくさんあるのです。つまり、心は脳にあるのではなくて、内臓腸管系がうみだしているのです。腸の動きが生命の生きる意欲の心をつくりだしているのです。つまり五欲(財・名・色・食・睡)の源は腸管の蠕動運動(腸の動き)にあり脳はそのうごめきを外界に示す窓口にすぎません。
(西原克成「究極の免疫学」)
 
 つまり、ここまでをおさらいすると、「こころ」というのは主に内臓腸管系の動きに起因し、その知覚を大脳辺縁系がキャッチして、さらにそこからの出力として情動を生みだすと考えればよいように思える。
 ただし、問題が少し残るとすれば先の作者不明の文章の中の次の下りである。
 
上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳的な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。
 
 確かに、解剖学者であるところの三木成夫の内臓根源説は、「大脳辺縁系の情動反応=心」「大脳皮質の理性行動=精神」というように、たいへん明解に考えているところがあった。逆に考えれば三木は、一般的に考えられているよりも「精神」というものを理性的なところに限定し、狭く捉えようとしていたと言えば言える。そのように、一般的に考えられている「精神」の定義を縮小させることができれば、全体像を明解に把握できるようになるからだ。また生物学的な立場に立つ限りにおいては、そう考えることの方が理路の自然だったのだろう。だが作者不明のこの文章では、先行する「精神」の定義に一定の配慮をするがためにそういう断定はできないものとしている。そこで心情的な働き、理性的な働きをひっくるめて、全体を「心の構造」というように捉え、そこに現象として表れる状態を指し示す言葉として、「精神状態」という使われ方が可能になると述べている。こうなると、せっかく「心の解剖」によってパーツごとに腑分けしてきたのに、結局パーツごとの働きが総合されて、その錯合を「こころ」と呼ぶほかはないという、元の木阿弥に戻った感がする。だが、このことはそんなに悲嘆すべきことではないかもしれない。ひとまわりする間に知るべきところを知り、考えるべきところを考えてきたとは言えそうに思われるからだ。
 ここで一つ、些細なことで触れないできたことがあり、そのことについて簡単に考えてみたい。やはり先の作者不明の文章にあることだが、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」のことで、これは「心の動き」とは言えないと言われていた。もちろん反射そのものは反射にすぎないわけで、そのことは「心の動き」とは言えない。だがこのこと自体が全く「「心の動き」と無関係かと言えば、そういうことにはならないだろう。つまりそのこと自体を対象化することは我々のこころにとってはあり得ることで、三木成夫的に言えば、そこにこそこころの本源があるということになりそうに思える。こころの動きそのものは大脳辺縁系に譲るが、動きの元になるのは、内臓器官をはじめとする各器官の反射や本能行動であるに違いない。このことは、吉本の指摘した、原生的疎外を対象化できる人間の心的な特徴とも矛盾しない。そのことだけは一言言及しておきたかった。
 
 
子どもという思想C
              2015/07/11
児童期と子ども
 前回の胎乳児期について記憶しておきたいことを、トマス・バーニーの著作から取り出すと以下のようなことになる。
 
 子宮とは、また胎児の期待を一身に集めている場所であるとも言える。そこが温かく、慈愛に溢れていれば、胎児は、自分が生まれ出る外部の世界も温かくて慈愛に満ちているものと期待する。これがもととなって、信頼、自信、外向性と言った性格の素因が形づくられる。だから子宮と同じように、外部の世界はすぐに赤ちゃんのものになってしまう。
 これは逆に、周囲の目が敵意に満ちていれば、胎児は自分が新しい世界からも快く歓迎されていないのだと感じ取る。こうして、猜疑心、不信、内向性といった性格の素因が出来上がっていく。さらに友だち付き合いが下手で、我の強い子どもとなる。これでは、胎内環境に恵まれた子どもに比べれば、生きていく上で不利なのは当然だろう。
 
 これは胎児期の母親との関係、ことに心的な成長過程での影響の大きさにいて語っているもので、基本的には乳児期にまで延長して考えても同じことが言えると思う。
 要するにここにはエリクソンの言う「基本的信頼対不信」と同じことが語られているのだが、このことを頭に入れて児童期の子どもたちに接し、観察的に眺めていると、児童期がこの形成された性格の素因の最初の社会的な表れの時期であるとともに、この性格の大本が胎乳児期に形成され、すでに覆すことなどできないものであることも納得されてくる。
 児童期、ここではこれを小学生の子どもということで考えてみたいのだが、どの学年においても数人程度は、なかなか先生の言うことを素直に聞いてくれない子どもはいるものである。そういう子どもは、引用した文章にあるような我の強い子どもであったり、友だち付き合いでも自分の主張ばかりを押し通そうとする傾向にあったり、あるいはまたそもそもが自分以外のものに対し、はじめから猜疑心、不信感を持って対しているような、何かそうした根強い性向を有しているといった印象が持たれる。
 もっと言えば、初めからこちらの主張を受け入れる気がない、どんな言い方をしても言葉が相手の心に届かない、響かない、こちらへの信頼がない、そういうもどかしさを感じさせる子どもはいるものである。優しく言って聞かせても通じないときは、自分が教員だったときは厳しく叱責することもあったのだが、たとえ叱責しても表向きにその時だけは分かったふりをするものの、すぐにケロリと忘れて、結局はこちらの言葉を胸に納めようとはしない性向が見て取れる。こういう子どもは今も変わらずにいる。
 こんな子どもを前にすると、ふつうはどんな先生も、そして自分も同様であるに違いないのだが、「何だ、こいつ変なやつだ」と思ったり、「性格が悪いや」とか、「ダメなやつ」と見放してしまうとか、要するにその子どもの全体を否定的に感じてしまったり、見過ごすことのできない人格だとして、何とかして矯正しなければならないと教育的に考えてしまうものだ。
 けれども、これがまた「三つ子の魂百まで」の諺どおり、あの手この手を使っても、そういう子どもの性格的なところに入り込んだ部分というものは容易に変えられるものではない。そうなると先生たちの一般的な対処は大きく三つに分かれるように思われる。一つは有無を言わさず子どものむき出しの性格的な発現を抑圧していくことである。押さえ込むことである。小学生段階ではこれですむこともある。もう一つはやや傍観者的に、見て見ぬふりをし続けることである。三つ目に、教育的でまじめな先生は、自分の無力さを感じながらもどうしたら変えることができるのかと悩み続ける。だいたいこんな三つくらいのパターンで対処することになっていると思う。
 結論から言えば、性格的な部分を含む子どもの言動は変えることはできない。あるいは、変わったように見えてもほんの一時的なことだ。本質的には変えられない。そして、できないことは、ほんとはする必要もないのだ。このことははっきりしておいたほうがよい。
 これまで見てきたように、性格的(心的)なものの根っこの部分は、胎乳児期の母親との関係から大本は決まってくると考えてよい。幼児期や児童期になってこれを変えようとしてもほとんど不可能なのだ。エリクソンもバーニーも、胎乳児期の身体的及び心的な体験が、形成される心の一番根っこの核の部分となってしまうために、これがいつも意識の表面層の背景として存在するとともに、何か危機的な状況を迎えたときには背景から表面に突出して、児童の意識や行動を支配してしまうと考えている。少なくともぼくの読み解きではそんなふうに理解できるものであった。
 このことは、自分の性格というものを直視して考えてみれば容易に分かることだ。ぼくも、先生たちも、世の大人たちは全部同じだ。小さいときの性格は、基本、いくつになってもそんなに大きく変わることはない。残念ながら、そう言うほかはない。ぼくなどは長い間自分の性格的なものをやっかいな荷物のように思いなしてきた。徳川家康が、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という言葉を残したと言われているが、後に続く文を切り離して考えると、自分には、その重荷が性格のことのように感じられるときがあった。たぶんだれでも一、二度は自分の性格に人知れず思い悩んだ経験はあるに違いない。ぼくらがあったということは今時の子どもたちにもあるに違いない。そうしてどうすることもできずに人知れず悩んでいるかもしれない。そういうことはあり得る。そんな時に外から注意、叱責されても、余計に収縮して、意固地にその性格が堅固に、鋭利に、なっていくだけのように思える。
 ここで、一気に言い切ってしまえば、胎乳児期に、生の世界が不快なもので信頼のできないものであることを心の核に植え付けられた人間は、もう一度胎乳児期をやり直すことからしか性格を変えることはできない。もちろんそんなことはできない相談だが、人間はただ一度だけ、擬似的にこの胎乳児期をやり直し、全世界への信頼を回復するチャンスを見いだすことができる。それは児童期なのだが、この時期がなぜそうなのかは明白で、幼児期までの家族的世界から初めて押しつぶされそうな現実的、社会的(共同体)世界にぶつかり、個人的な世界、対的な世界、そして集団の世界という、いわば人間関係としての三つの世界が出そろい、そこで心的な「全世界」が実体的に児童の前に立ち現れることになるからだ。それは胎乳児期の未分化で未明の「全世界」が、児童期になってすべてが可視化されて、はっきりと了解できる形で児童を取り囲む、言ってみれば「全世界」の別バージョンが出現したことを意味する。児童は現実的な別バージョンの「全世界」のど真ん中にたたずみ、この実体的な「全世界」からも以前胎乳児期に一度経験したことと同じように、自分が無視されたり、嫌悪されたり拒絶されるのであろうかと懸命に探りを入れ、神経鋭く問い続ける。児童は何かあれば過去に記憶したそれをすぐに結びつける。
 もちろんぼくがここで言いたいことはただ一つのことだ。
 先生が、大人たちが、もてあましてしまう子どもたちというものは、実は胎乳児期にすでに傷を負った子どもたちなのであって、先生や大人にもてあまされる言動を通じて「助けてほしい」と訴えかけている。たとえ少しもその言動にしおらしさの片鱗が見えないとしても、だ。
 では、仮にここまで述べてきたようなことだとして、我々はいったいどうすればいいのか。何ができるのか。ここではとりあえず原則的なことだけを述べるとすれば、それはいったん児童を子宮内に置き直すことであり、具体的には学校空間、教室空間を子宮内空間と見なし、児童の心的な核に刻印された「不快」とか「不信」とかを「快」と「信頼」とに置き換える努力をしなければならないということだ。もちろんこれに家族の協力、とりわけ母親の協力は必須となるだろう。子どもも母親も、胎乳児期に遡って、一緒の振り返りをすることが問題の解決に役立つことは間違いない。さしあたって、今のぼくにはこれ以上のことを言うことができない。理論的というか、理屈っぽいことでいえばこうなるし、こういうふうにしていくことがよいということを述べてきたが、こんなことが可能かどうかはまた別の問題だ。こういうことができるためには、学校側に児童心理に詳しいカウンセラーがいることが必要だし、先生たちには並外れて愛情豊かな資質が必要であり、他のすべての日常業務の放棄を認めるような学校組織環境を持たなければとても取り組めないことかもしれない。だから、あくまでも理屈を言えば、ということになりそうである。
 理想をいったん脇に置いて、体験的なところから反抗的な子ども、先生や友達の言うことを聞かない子どもへの対応をどうするかと言えば、これはとても単純で簡単なことだ。
 先ず、誰であろうと担任になったものは学級の運営に責任を持つべきだ。そこから言えばおよそ担任となって一週間のうちには学級を掌握する必要がある。これはその過程で無言の力業を必要とするかもしれないし、その時は力業を発揮しなければならない。分かりやすく言えば、短い期間で猿山のボスざるになっていなければならない。子どもたちはとても鋭敏で、ボスに資格があるかどうかは一遍に察知してしまう。言い方は教育的ではないかもしれないが、弱みをけして見せないこと、向かってくるものをこそ早い段階でぶっつぶすこと、そして学級内での先生と児童との序列をはっきり示しておくことが必要だと思える。もしもこういうことが非教育的で、やりたくないと言うことであれば、早期に担任から外れればいいし、学校なんか辞めてしまえばいいのだと思う。これを無理してごまかしごまかしやって行くと、事態は混乱し、複雑になっていくだけだと思える。それは子どもたちにもよくない。体験的に言えばそれだけのことだと言えるのだが、物わかりが良さそうな教育者はそういうやり方は原始的だと批判するかもしれない。だがそういう連中がやることは人権や人格の詐欺やペテンの類いで、ぼくに言わせれば口で丸め込む陰険なやり方を心得ているというだけだ。そういう教育上手の人格を、子どもたちはけしてまねるべきではない。担任の先生はそうした権限を職務的に有しているのだし、そこから学級全体の円滑な運営と親和を築く責任があるわけだから、やむを得ないときはそうやってでも学級を引っ張っていかなければならない。ただし、当然のことながら、言うことを聞かない子どもを強引に学級全体に引き込んで調和した態度、行動を強いるのだから、どう言えばいいだろうか、その子どもに対する親的な責任を持つという覚悟は必要である。これはおそらく実際に担任を経験したものにしか分からないことだが、自分に能力があろうがなかろうが、学力から生活習慣の一切に渡り、受け持つ子どものすべての責任を負う、被る、そういう覚悟を暗黙のうちに胸に納めているものだ。そうでなければ、個々の児童に強い態度で臨むこともできなければ強く指導することもできない。これは怖い職業なのだ。
 さて、ここで少し話の向きを変える。児童期の子どもにとって学校とか教育とかは何なのかというところを考えてみる。これは今の不適応の児童への対応とは関わりのないところで、児童一般との関係ということで学校や教育というものを考えてみるということだ。
 胎児期、乳児期、幼児期をかけて形成されてきた心、性格、潜在する性等々は、児童期において初めて学校に通うという形での現実社会、現実世界と衝突する機会を得る。ほんとは奔放に、すべてをむき出しに顕示してみたいこの時期に、外部からは知識、技術、道徳的規範などがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、子ども個人の恣意に使える時間はあるかなしかのところまで追い詰められる。子どもの将来のためという名目で行われる教育、学習が、子どもたちの願うところ欲するところとは違って、逆に遊びや形成されてきた自己の発現というものを抑圧する場面に日々直面することになる。
 この時期、つまり現実世界との接触の時期、本当に大事なことは、どの児童にも、この世界は生きるに値するという実感を持たせることだと思える。それには児童期の今という時間において、要らぬ過剰な抑圧や、将来のための犠牲を子どもたちに強いないことだ。別の言い方をすれば、子どもたちの掛け値なく、そして本能的に欲する友達との遊びを心ゆくまで、満足するまで与えることだと思える。少なくともそれで、不満を貯め込んでいつか予期せぬところでそれが爆発して、取り返しのつかない悲惨な事件を招くといった危険は解消されるはずだ。
 ここまで繰り返し見てきたように、発達心理学はこの期に児童期という段階をはめ込んで、これがいかにも普遍的な発達段階の一時期であるかのように見なしている。だが、これは順序が逆で、近代になって学校制度が確立してから、制度をなぞるようにして児童期という段階は設けられたものだ。それ以前は児童期という見方はなかったし、子どもとは何かという考え方すらが歴史的になかったことは、アリエスの『子どもの誕生』(みすず書房)などから明白だ。
 近世までの、現在の児童期にあたる子どもたちは、社会から格別の配慮や関心を持たれなかった。ただいつも大人たちの傍らにいて仕草や行動をまねたりする、愛すべき存在という以上のものではなかった。これはイメージ的に分かりやすくすると、要するに今日でも幼児期に見られるように、家族的世界である種制限付きながらも自由な振る舞いが許されているような存在の仕方を、一歩地域社会に歩を進めて生活する子ども世界の在り方として延長して考えればよい。それこそが、近世までの子どもの自然な成長・発達の姿である。これは歴史の進展とともに、多少は子どもの姿に変化をもたらしてきたには違いないが、しかし、数万年、数千年の尺で考えてもその成長・発達の姿は原型的なところからそれほど隔たっておらず、その間、少なくとも数万年、数千年は自然な自立への成長・発達の過程を緩やかに歩むことができた。
 しかし、今日では、実際にはますます子どもの世界は押し込められ、縮こめられ、規則や学習漬けを強いられてきているように見える。鉄は熱いうちに打ての諺どおり、厳しくしつけられ、鍛えられ、知識や技能の習得が課せられる。
 まだ、明確に表現できるところではないが、近代を迎え、世界的にも国家というものが強大化し、社会に調和的に存在した個々の家族が国家に吸収されていき、全体の中でも家族の位相というものが縮小化される過程の中にあるのではないかという気がする。この時、子どもは少しずつ家族に所属するところのものから、そうでないところに所属するもののように、わずかずつ引きはがされてきているもののように見えてくる。それと同時に、家族の形態は少しずつ弱体化と縮退と解体の過程、そのサイクルに突入しているように見える。かつて日本の親たちは何よりも家族を大事にしてきた。だがそれは今揺らいでいる。社会の学校化に伴い、家族は子ども支配の権限を放棄する。学校に委託する。学校で学習や技能や規律を教え込まれることを傍で指をくわえて見ている存在に転落する。あるいは見て見ぬふりをしたり、端から見ようとしなかったりする。子どものよりよい成長・発達を標榜する学校教育は、雪だるま式に自己の教育の責任範囲を広げざるを得なくなる。学習指導と規律を身につけさせることに躍起となる。学習内容を増やし、規律の厳格化を強めていくことになる。
 また教育の問題が表面化し、社会問題に広がって後、学校も社会もどこか勘違いをしてひたすら問題の抑止と抑圧に努めてきた。児童や家庭にアンケートを採り、地域住民をボランティアやサポートに駆り立て、表向きは子どもたちの学校生活での快適化や見守りの体制を整えている。またそこには学習環境をよくして、落ちこぼれを防ぐ狙いなども見えている。けれども、おそらくそういう狙いや手立て自体が所詮「賢さ」を売りにする大人たちの考えに過ぎないのであって、子どもたちの「声なき声」はついに一片たりとも考慮されていないことは明らかだ。
 小学生の本音の声ははっきりしていて、ただ一つのことしか言ってはいない。『勉強はいやだ』というただそれだけだ。他には何の要求もないといっていい。
 子どもたちからすれば、無理難題を言っているわけではない。たったそれだけのことがこの世界ではどうして手に入れることができないのか。こうなると、この世界はたったそれだけのことも自分たちの意のままにならない、存外つまらない世界だと思い込むことに時間はかからない。毎日の授業時間における無気力は、こう考えてくると納得できるような気がする。
 個々の先生たちは子どものために一生懸命考えている。授業のやり方を工夫し、子どもの学校生活が楽しいものになるようにあの手この手を使う。褒める。子どもが何でも話すような距離をとって、親しい存在になろうとする。そうした努力を子どもたちも感知するが故に、だいたいの子どもたちは担任の言うことを聞き、よい子になろうと努力する。けれどもまただいたいの子どもたちが、勉強はするけれども、あるいは勉強をすればするほど、心の相貌は無気力を呈していくように見える。
 少し複雑な言い回しになるが、心の表面層では勉強を追うことを求め、深層のところでは逆に勉強を拒絶したがって見える。そして個人の中でのあまり自覚的とは言えない、両極への分化、分離が、子どもたちの心性を疲弊させて行っているとぼくは思う。
 これを語っているのは今だが、今だけを考えて語ろうとしているわけではない。
 はっきりと言って、こういった今時の子どもたちの様相を受けて、「よく分かり、そして面白く取り組める授業を」、と考える大人たちの発想は一番よくない。
 学校教育の根幹は、子どもたちの市民的育成という方向性を持っている。これは将来の市民としてのあるべき姿を一つの理想のように掲げ、それを到達すべき目標と見なす。そのために、子ども存在はその時点でたくさんの獲得すべきことを持つ、いわゆる未獲得の欠如した存在と見なされる。言葉を換えて言えば、子どもはあくまでも「未完成の大人」という視点で見られることになり(昔は単に「小さな大人」だった)、常に欠如や不足を補わなければならない存在として取り扱われることになる。けれども、今を生きる彼らにとって、そういう取り扱いは本当に妥当なものであり、妥当だと言うべきものだろうか。ぼくは少し違っているような気がする。子どもは大人や市民になるためだけに今を生きているわけではないように思う。大人や子どもということには関わりなく、生きとし生けるものは、その時その時を全力で十全に生きることの積み重ねこそが大切なのであって、子どもは子ども時代の本分に沿って生きるのが、一番自然な生き方なのではないだろうかと思わずにはおれない。つまり、それは遊ぶことではないのか、と思うのだ。
 先に何度も述べてきたように、実際の教育現場には善と愛との包囲網がしかれ、その中で学習と規律が以前にも増して徹底されるようになってきている。社会的な視線もまたそういう方向性に同意しているように思える。
 だが、これもまた幾度も述べてきたことだが、現状に行われている学習の大半は、小学生段階においてもほぼ実生活で使われそうにもない役に立ちそうにない事柄も少なくない。どうしてそういうものに、人生において二度とない貴重な子ども期の時間を割く必要があるのか、ぼくなどの理解に苦しむところだ。そしておそらくそれは、現状の学校教育の中心課題が実質的には受験を見据えた、言い換えれば余計な学力を雪だるま式に積み重ねるがために、内容が膨らまざるを得なかったからだ。学力向上というそのこと自体が、大人たちの「子どものため」という一方的な押しつけを正当化するものに過ぎない。実際には受験競争を中心課題とし、受験に合格するための学習内容から逆に学校での教育内容が決められているようなものだ。国際間における学力レベルの変化に敏感に反応することも、考えてみればそうしたことと軌を一にすると言えよう。
 
 
子どもという思想B
              2015/07/03
胎乳児期の重要性
 子どもの心、気性、性格というようなものをその根源に遡って考えていくと、結局は胎児期や乳児期に辿り着く。そして、当然のことながらこの心や気性や性格に人間色を含ませて考えるならば、この心や気性や性格の形成に最も初期にそして最も深く関与できるのは母親をおいて他にあり得ないと考えられる。
 解剖学者の三木成夫は『胎児の世界』(中公新書)において、人間の胎児が初期の段階で魚類から両生類、爬虫類、ほ乳類と、あたかも脊椎動物の進化の歴史をたどるように成長することを、受胎後数日間の胎児の顔貌を克明に観察しながら実証的に示している。
 胎児の意識の芽生えは、その後、受胎8ヶ月頃となり、それまでに触覚や味覚、聴覚といった感覚も出そろい、この頃には新生児並みに人間らしさが表れるといわれている。笑ったり、不機嫌になったりと、感情的なものが表面に表れるということだ。 
 精神科医のトマス・バーニーは、『胎児は見ている』(祥伝社)という著作の中で、繰り返し母親と胎児の間には内コミュニケーションとでもいうべき交信や交流が起こっていると伝え、様々な事象や事例を取り上げ詳しく分析して見せている。
 また発達心理学者のエリクソンも、胎乳児期に「基本的な信頼対不信」が初源の「心」に植え付けられて、気性や性格の根っこのところに居座るものだと述べている。
 ぼくの理解の仕方では、もしもこの時に「基本的な信頼」を獲得できれば生涯にわたって「信頼」を基本に世界に相対することが出来、「不信」を植え付けられれば「不信」をベースとして、その後の世界に相対する可能性を潜在させるものだということになる。
 ここまで見てきたところを思い起こしながら想像するに、まずは受精後に胎芽が胎児に成長し、言うまでもなく並行して身体的な各器官の成長が行われるものだということがイメージとして浮かんでくる。それと同時に動物的な感覚の発達が段階的に見られ、その後に脳の形態的な発達とともに人間的な初期の心の形成が始まると考えられる。
 胎児の動物的な反射はおそらく4、5ヶ月以前からあり、そうした身体生理的な母子の交信はぼくらの想像する以上に早くからあり得ると考えてよいだろう。ヘソの緒を介した栄養や酸素の供給に始まり、やがて子宮内で胎児が成長にともなって手足を動かすなど、母と子のつながりはそれぞれの変化を微妙に伝え、また感じ取っているに違いない。
 ここで思い出すと、先の解剖学者の三木成夫は、受胎後36日目過ぎの2日間くらいの間に胎児の相貌が魚類から両生類のおもかげに変化し、この時母親は例の「つわり」を体験することになるのだと述べている。三木は、古代の海から「上陸」することを敢行した祖先たちの「上陸」劇の凄まじさが、「つわり」という形でその名残をとどめていると推察していた。これは身体生理的な母子相関のメカニズムの原型と言ってよく、たとえば鶏の卵について三木は4日目の弱り具合を同じく「上陸」の再現と考えているが、ただこれは卵生のために母体との関連はほとんどないに等しく、人間の母子との違いはかえって鮮明になる。人間の母子では、胎児の困難を母体が分担するとか、肩代わりするとかと考えてみることも出来るような気がする。あるいはそこまで言い切れないとしても、胎児の身体的な、おそらくそこでは脾臓や肺の形成過程に関連するところだろうが、ある重大な変化が母体に連動するその深い「きずな」を教えているように思える。
 このあたりのところを確認しておくためにトマス・バーニーの『胎児は見ている』から、少しこんなところを引用して示しておくことにする。
 
胎生六ヶ月を過ぎ、胎児が明確な自我を持ち、感覚を情緒に変えることができるようになって初めて、胎児の性格は母親のメッセージによって徐々に形づくられていくのである。
 胎児の識別能力が高まるにつれ、情緒的発達はさらに複雑になっていく。胎児は、いってみれば絶えずプログラムを作り直されているコンピュータみたいなものだ。最初は、ごく簡単な情緒を理解するための方程式しか解けないが、記憶と体験が深まるにつれ、胎児は、次第により識別力のある微妙な思考回路を発見するようになる。
 たとえば、胎生三ヶ月の時点で、胎児は「二面的な価値」や「冷淡さ」といった母親の複雑なメッセージにはほとんど影響されないものの、おそらく原始的なレベルで、不快という感覚を感じ取り、それが、その後に重要な影響を与えると考えてよい。
 生物学を学べばだれでもわかることだが、生物は単純から複雑へと進化していく。胎児の肉体も、九ヶ月に及ぶ胎児期に、原形質という見分けのつかないほどの小さな点≠ゥら複雑な脳、神経機構、そして体を持った高等な存在へと発達していく。それと同時に、胎児は精神的にも無感覚な存在から、非常に複雑で錯綜した感情と情緒とを記憶し、反応することができる存在へと成長していくのである。
 
 トマス・バーニーの著作からは、このほかにも様々に高度に発達した胎児の能力が言及され、本当に目から鱗の気分にさせられるがここではそれを鮮明にしていきたいわけではない。もう一つそのことに相まって、バーニーは胎児と母親との深いつながりについても言及しており、そのことに関連する記述もここで示しておきたい。ただしいずれも任意に目についた部分を引用する以外ではなく、記述されているところの典型や、象徴的な部分を取り上げるといった意図の元に示すものではないことを断っておく。
 
 ところで、母子のきずな≠ェ最終的に確立する時期とはいつだろう。それは母子の精神状態のコミュニケーションの密度が高まる時期、すなわち出生後で言えば数日間、特に出生直後の数日間ということになる。というのも、胎児期のきずな≠ヘ出生前の三ヶ月間、特に最後の二ヶ月間に完成されるからである。つまり、その時期までには胎児は肉体的にも精神的にも十分に成熟していて、複雑なメッセージを送ったり受け取ったりできるようになっているためである。
 
 ここでは母子間のきずな≠フ形成時期を、胎児の発達過程の側から見て準備が整った時期として言われているのだが、決してそれは自動的に成立するものではなく、きずな≠フ形成の成否の鍵の握るのが、その時期の母親の態度であることが次の記述で明らかにされている。
 
 母親の役割もまた、これと似ている。母親は調子をとり、合図を与え、胎児の反応を形づくっていく。しかし、これとて母親の要求が、自分にとって意味のあるものだと胎児が判断した場合に限られる。胎生三、四ヶ月の胎児ですら、母親の要求に従わないことがある。母親の態度が混乱し、矛盾に満ちていたり、配慮が足りなかったり、敵意に満ちていたりすれば、胎児は母親の態度を無視するか、さもなくば非常な混乱をきたしてしまう。
 要するに、胎内でのきずな≠ニは、自動的に出来上がるものではないのである。きずな≠求めるために必要なのは、胎児に対する母親の愛情と理解である。この二つがあれば、日々私たちが襲われがちな精神的な障害を補ってなお余りあると言える。
 母親が精神的に自分を閉ざしてしまえば、胎児は途方に暮れてしまう。だから、精神分裂病のような重大な精神病にかかると、通常、母子のきずな≠持つことは不可能になる。精神分裂病の母親から生まれた子どもに肉体的、精神的障害の発生する率は高いが、その理由の一つはここにあるわけである。
 さらに、健康で正常な女性が、悲劇に見舞われた場合でも、時として同様の影響が及ぼされる。つまり、こんな場合、精神分裂病と全く同じ理由から、きずな≠持つ力が著しく弱められたり阻害されたりするわけである。
 胎児は胎児で、きずな≠求めるべき感情を持った人間を欠くことになる。母親は母親で、自分の中に没入してしまい、生まれた子どもにまるで感情移入できなくなってしまう。
 
 ふつうに想像力を働かせることができるならば、ここでの二つの文章を何度か読み返すだけで、母と子の特別な関係の深さを理解できるものと思われる。またこの記述をベースに、たとえば妊娠時や出産時に夫との関係が最悪になったケースを想像したりして考えるときに、そういうことがどのように母親の精神状態に影響し、さらにどのように胎児に影響するかについても、おそらく尋常ではない影響をもたらすに違いないことが理解されると思われる。
 ことの重大さや詳細な記述、凡例などは実際にバーニーの著作にあたってもらうとして、ここでは胎児期からの母子の深い関わりについて認識しておきたいことと、この時期及び乳児期における母と子の関わり次第で子どもの気質や性格の大本が決まってしまう、それほどに重要な時期であることを認識しておきたい。もう少し大げさに言ってしまえば、この時期に子どもの運命は決まってしまうとさえ言ってしまいたくなる。
 少し大ざっぱな言い方になるが、ここでのバーニーの所見に加味して発達心理学者のエリクソンの言う、「基本的な信頼対不信」の概念を付き合わせると、とりあえず生涯にわたって世界に相対する一個の人間の立ち位置がここに決定するように思われてくる。おそらく信頼も不信も100%と言うことはほぼあり得ないことに思われるので、その間で、60%の信頼と40%の不信を背負った人間。あるいは70%の不信と30%の信頼を基本として生きていく人間、というバラバラな存在のあり方が予測される。仮に90%の不信を抱えて生涯を生きていかなければならないとすれば、これはもう、「おまえは生きるな」と言われていることに等しい。暗い人間、人見知り、人間嫌い、等々はここに初源があるのだとぼくは思う。
 もちろん、バーニーや『心的現象論』の著者である思想家吉本隆明も言うように、こういう資質や性格の大本をバネに、思春期以降に「自分を超える」ことを課題として、意識的に修練を積んでよい仕事をしたり、大本の性格や資質を克服していくことは必ずしも不可能なこととは言えない。だから絶望的になる必要はないと言えば言える。ただそれは辛い生になるのではないかとだけは言えそうな気がする。
 ぼくがここで考えることは、子どものことを考えるときに、先ず初めに母親の妊娠と出産、そして生後一年ほどの間の母親の環境、及び母親自体の肉体的精神的状態がいかに大事かと言うことだ。母親がゆったりと落ち着いた気分でいられ、よい環境のもとに暮らすことができたら、胎乳児にたっぷりの愛情を注ぐことができ、それはそのまま胎乳児にとってこれ以上にない理想的な環境になる。母親がよい環境を得るためにはまずは夫との関係が良好である必要がある。また夫が妻との関係を良好に維持するためには夫の仕事及び職場での関係、親族や地域との関係等々いろいろな方面での関わりが関係してくる。こういうことを言ったらきりがないが、しかし、無関係ではないことは確かなことだ。こうした多くのこと、様々な条件が子どもを決定する。子どもは環境を選べない。ほとんどが受け身的だ。ぼくには、良くても悪くても出来上がった「自分」に、子ども自身は責任がないのだと思える。「自分」に責任が生じるのは、世間並みの見方をすれば18歳以後とか成人後ということになる。
 ここで、少し寄り道になる気もするが、胎乳児にとっての全世界ということを考えておきたいと思う。
 身体の各器官が発達し、動物的な本能及び動物的な精神段階の確立を経て後、人間の胎児は意識の芽生えとともに精神(あるいは心)の人間的な形成の過程に入っていく。ここまで簡単に振り返ったところからだけでも容易に想像され得るように、人間の心(精神)の形成は胎児の段階から始まっている。
 胚芽から胎児までの身体的な成長は、遺伝子や細胞記憶、そして母親からの栄養の供給とからなっていると想像してみる。すると、胎児の意識の芽生えまではその過程の延長に行われると考えられるし、意識の言ってみれば触手と言うべきものも、人間的な本能のようなものとして機能するものだと考えられる。
 それは母体の子宮の中で、最初に何をどのように感じていると言えるのだろうか。
 触覚や味覚や聴覚が発達して、すでにそれらの感覚器官を通して、胎児は感じるべきところを感じ取っている。羊水の温もりであったり、ヘソの緒を通して流れてくる血流の音、母親の心音、そのほかにも様々な振動や母親の声なども感じたり聞いたりしているのだろう。
 胎児に意識が芽生え、その時初めて「気づき」というようなものが胎児の心の世界を訪れるとするならば、胎児の感覚器官に訪れる一切が、胎児の心にとっての「全世界」を意味するのは間違いない。それはわずかな種類の音や味わいや肌合いによって構成された「世界」に過ぎないかもしれない。だが、次第に胎児は感じるだけの存在から、感じたことにどんな意味があるのかを尋ねる探求者の様相を呈していくのだろう。快と不快の識別をするようになり、信号の送り主が何者なのかを探ろうとする。母子一体の環境に揺動する胎児にとって、それは未だ未明であり、未明の「全世界」からもたらされるものと感ずるほかない。にもかかわらず、様々な刺激を信号のように胎児は読み解こうとする。あるいは母体のわずかな変化、そこからもたらされる刺激や信号に、よりいっそう集中するようになるのかもしれない。
 この時、胎児が快を感じ、子宮内の居心地が満足するものであるなら、胎児は自らの生の世界に肯定的な気分を覚え、安心感を抱き、生の世界に信頼感を寄せるだろう。唯一それを直接的に与えることが可能なのは母体としての母親であり、母親の新たな生命への本能的と言える愛と慈しみとがそれを可能にする。そうした母親の気分や態度といったものは、母から子へと流れる一切を、栄養などとともに子を快へと導くようなメカニズムを生みだし、そのように効果的に胎児に注ぎ込むようになるのだろうと考えられる。
 先に挙げた識者たちの著作によれば、出生後も母親あるいは母親代理との関係は乳児にとってしばらくは「全世界」であり続け、同様にそこから愛情が注ぎ込む時、安心やきずなや信頼はいっそう確固としたものとして乳児の無意識の核にしまい込まれ、生涯にわたり、いざというときに心のつっかえ棒として機能を発揮するものだとされている。つまり、人間としての正常な範囲を大きく逸脱するようなことにはならないのだと考えられている。
 これらのことについても詳しくはそれぞれの著作にあたって理解してもらえばいいことで、ここではまた別な観点に踏み込んで考えていこうと思う。
 とりあえずここで思いつくことは、胎乳児期における外部、外界の識別はどうなっているだろうかということについてだ。
 先に言ったように、胎児及び乳児の初期において、母親(母親代理)と自分との区別がつかないということがこの時期の特徴といえば言える。胎乳児期の心的な世界は未分化で、未明の中に混沌としている。そうして生後少しして、母親(母親代理)が触れ合いの範囲にいたりいなかったりを繰り返していく中で、徐々に母親が自分とは別物であることに気づいていくのであろう。母親の存在に気づき、そのことによって自分というものの存在に気づいていく。そういうことがはっきりと意識に捉えられるようになってくる。そうすると母親と自分の違いに気づき、そのことはやがて母親でも自分でもないもう一人の他者(父親的存在)を意識できるように広がっていき、さらにそうした人物の記憶とともに、それ以外の人物への気づきにも繋がって識別の範囲は拡大していく。
 ここで吉本隆明の幻想概念を借りれば、最初に乳児に訪れるのは母と子の物語であり、それは初源的な「対幻想」なのだと言ってよいと思う。一対一の特別な関係から生じる感情的なもの、観念的なものの総称と言えるものだ。初めに母子一体となった生活があり、やがて他者としての母を意識するようになったときに、初めて自己が独立した存在であることに気づき、少しずつ自己、すなわちこんどは「個人幻想」の位相を心的領域の中に持つようになるのだと思える。その「個人幻想」の表面化の兆候として、三木成夫が『内臓とこころ』の中で述べていた、「呼称音を伴う指さし」や「立ち上がり」といった満一歳頃の出来事を思い浮かべるのだが、素人に過ぎないぼくにしてみれば、その辺は定かではなく時期的なずれはあるかもしれない。
 ついでにここで個体の発生やその成長、発達が、系統発生とその成長、発達を踏まえるとする考えや、人類史に個人史をなぞらえる、あるいはその逆を考える考え方に立てば、乳児の心的な領域や段階は人類の言語獲得以前の心的領域や段階になぞらえることが可能になる。するとそこでも(人類史の未明といっていい原始的段階)、未明のうちから初めに立ち上がってくるのは初源の「対幻想」ではなかったのか、とぼくには予測される。
 吉本学の優れた分析者の一人でもある宇田亮一は、著作の中で初期(胎乳児の頃)の心は「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」が未分化で、それが3つに分離し、分化していくのは満1歳前後と推測している。だが、いまのところぼく自身は母親との一対一関係が突出して先行するのではないかという気がしている。そうなると、人類史においても一等最初に分化の兆候を見せるのは「対幻想」という領域、あるいは位相というようなもので、以下、「個人幻想」「共同幻想」と順次目覚めて行くのではなかったかと考える。これはしかし、ここでは深入りする考察の対象にはなっていない。
 
 
ちょっと休憩 「先生って何だ?」
              2015/06/21
 支援員として学校に通っていると、あんまり見たくはないのだがどうしても先生たちの日々の姿も目に入ってしまう。以前自分もやっていた仕事なので、そこではかつての自分の姿が現在の先生たちの姿に二重写しに表れてくるというわけだ。
 たとえば新任の先生を見ると、「あの頃の自分もそうだったな」と思い出す。
 新任の先生といえば、指導するだけではなく、どうしても指導の仕方を自ら学びながら指導するということになる。もちろん教員生活の生涯にわたってそうだといえば言えるが、新任の時には黒板の前に立つことも初めてだし、そうして自分のクラスの子どもと一年をともに過ごす期間はすべて初めての出来事の連続だから、何につけてもとにかく一生懸命になる。
 実際、新任の先生たちを見ていると一生懸命だなと感心する。それだけではなく、自分が新任だったときに比べて授業が格段にうまいし、子どもたちの掌握という面においても大変立派にできていると映る。
 
 で、思うのだが、ここでいま簡単に触れた自分の感想と、新任の先生のいわば優れた振る舞いの間にはひとつの共通性というものがあり、結局ひとつの指針というか、方向性を持っていることに気づく。つまり、新任の先生もそうだし、ぼく自身もあまり意識せずに考えているところの、何というか理想の教師像というようなものがおそらくは我々の先に共通して存在しているに違いない。新任の先生はそれに近くあろうと日々の生活の多くをそれに捧げ、ぼくはそこに理想に近い教師のあり方を見ている。そうして先生たちを見て、いいじゃないか、がんばってる、文句のつけようがないじゃないか、ぼくはそう感心するのだが、そこで自分の思考は止まる。いいよ、いいよ、ではさようなら。めでたしめでたし、教育万歳、で終わってしまう。別に新任教師を揶揄するわけではない。ぼくごときが何かを助言したり、あそこはこうしたらいいなどと教えることなど何一つないという意味合いだ。彼ら彼女らはこれから山に向かうところで、ぼくはといえば帰り足で、道の途上ですれ違う。いらぬお節介はしないがいいのだ。喉まで出かかっている言葉を飲み込む。試行錯誤のうちに自らの道は自らの目に見えてくるものだ。その道がどんなであろうともその道を行くほかはない。
 誰がどう考えても、どこからどう見ても、それがよい先生のあり方だなというあり方はあるもので、実際にそういうあり方でいる先生もいるわけだし、ぼくのようにできなかったものもいるわけだ。
 それはそれまでのことであるのだが、何か腑に落ちないところが残る。少なくともぼくにとってはそうだ。
 一言で言って、かつてのぼくが、そして現在の先生たちが目指しているあるべき教師の姿とは何かということ。その具体的なあり方はいま言及しないが、それは考えてみると学校の制度、組織、構成等々に規定されている気がする。たとえてみれば器がある形をしているのだから、その器にはその形にふさわしい何かを入れることが一番いいことになる。
あるべき教師像、あるいはいい先生というものも、児童、学校、教育委員会、文科省、そして保護者という素材を混合して出来ている器というものが先ずあるので、その中で自ずからどのように在るのがよいのか、は大同小異、似たり寄ったりではないかと思う。
 器の形に自分を押し込めるというとちょっと言葉が悪いような気がするので、ここでは自分を整えるとでも言っておこうか。教育という全体からなるある構造体を器と呼ぶとすれば、その器に収まるにふさわしい姿形のようなものはいわば先験的に決められてあるものであって、我々は自ずからその姿形に己を整えるほかないものである。
 システムの要請。詰まるところ理想の教師像というものはシステム全体からの要請に応える姿形ではないのか。
 いろんな方面に気遣ってよい先生であろうとする努力。よく言えば向上心だが、下手をすれば上昇志向を遂げ、自分を優位に見せたいという欲望。自分を偉いものに昇華させて社会から認知してもらいたいという願望等々。人としての倫理に依拠した努力の裏側には、意識的無意識的にどうしてもそういう余分な心理が張り付いてしまっているものだ。まあそれは人として切り捨てたいところであってもなかなかに払底できない心理の残渣のようなもので、しかしいったんそれを意識すると、結局のところ『表には子どものためと言いながら、実際の動機、最終の本音は自分のためにやっているに過ぎない』ことに思い至る。子どものためというのはそう思い込んでいるだけで、本当は少しも子どものことなんか考えていない。
 反省を交えて言えば、本当は誰も子どもの声を真剣に聞こうとしている先生などは一人もいない。先生たちは自分の声、自分の言葉を聞かせたい、届けたいばかりなのだ、と思う。教える、言い聞かすというのはそういうことだ。
 子どもの本音は言葉の中にはない。丁寧に子どもの言い分を聞いてやっている先生がいるが、それで子どもの本心を聞いているつもりになっていたらそれは単にお人好しに過ぎない。大人でも、本当に自分の思いというものを人に伝えようとすると、これがなかなかに容易ではない。その時に、心と言葉との微妙な乖離を体験する。百万言を費やしても、自分の思いを言い尽くせないという思いは、誰でも経験することに違いない。
 ある意味、子どもの言葉は詩である場合がある。想像しやすいのは、教師に口答えしながらその実、ほんとは『助けてくれ』と言っている場合がある。『愛してくれ』、『支えてくれ』ということなども同義だ。それは子どもの内心の声だ。コミュニケーション能力ばやりの昨今では、そうした内心の声に誰もが無頓着でありすぎる。そうした子どもたち一人一人の内心の声に耳を傾けずに、どうして先生たちの教育的な営為が子どもたちのためになっているのだと自負できるだろうか。大人のそして指導者の「親心」は、時として独りよがりに過ぎない場合がある。
 自分も似たり寄ったりだからけして非難するつもりで言うのではないが、ほとんどの先生はおそらく自分の考えというものを持っていない。まして自分の考えで子どもを見ている人、声を聞こうとしている人もいないはずだ。すべて、外在の元になる考えの中から気に入ったものをいくつか組み合わせて自分の考えのように見せかけているに過ぎない。また、コピーしたものをつぎはぎして貼り付けたに過ぎない自分の考えが、そのように他からの借用にすぎないことを自覚していればともかく、それを自覚することすらなく、考えるということがそんなことですむものだと錯覚さえしている。
 社会の空気、雰囲気、あたかもそれらを虎の威を借るごとくに自分の考えであるかのように口にして疑いもしなければ吟味もしない。それで勉強が大事とはよく言える。先生たちのいう勉強は、人間の精神上から見れば意識的部分でのコピーとペーストの問題に過ぎないから、本気でやろうとすればいつからでもやれることに過ぎない。もっといえば本気の勉強というのは歴史的な知や技術の蓄積の、その先にある思考を思考するときに必要になるのだ。そういう勉強をしたことがある先生がいればお目にかかりたいものだが、おそらくほとんどいないと思う。
 子どもという概念は2、300年ほど前から考えられたに過ぎず、またその概念は学校制度が敷かれた後に考えられたものだから、どうしても制度と込みの考えになり、言い換えれば近代以降の子どもにしか当てはまらない。だが子どもそのものは人類の誕生とともに存在していたわけで、子ども理解というときに本当はわたしたちは原初の時代からとはいわないまでも、かなりの時代にさかのぼって子どものあり方を考えるべきものだと思う。そうして今日の子どもの学童としてのあり方と比較し、本当に現在のあり方でよいのかどうか、未来のあり方はどうあるべきかなどを、子どもの内心の声に聞き入りながら考えなければならないのではないだろうか。身近に存在する先生たちは子どもの本音を聞くことの出来る位置にあるし、あるいは子どもの頼れる味方になり得る場所にいるわけだから、子どものよき理解者であり代弁者であるというように存在してほしいものだと思う。またそうでないと学習も規律も、どんなに先生たちが一生懸命指導しても表面的な受け止めしかしてくれないのではないかと思う。仮に子どもの心的理解を意識的な層、無意識の表面層、無意識の中間層、無意識の核といった領域ないし深度で考えるならば、先生たちが理解しようとする深さのところで子どもたちも指導の声を理解しようとするのだろうと思う。無意識の中間層とは表面層と核との葛藤が展開する場を指すもので、せめてそれくらいのところまで降りて理解しまた声を届けるならば、なかなかによい先生だとぼくならば評価したい。なぜならその層に降りて初めて人間とは何か、人間の尊厳とは何かを考える端緒に出会えると考えているからだ。
 
 
子どもという思想A
              2015/06/07
 前回は、自然生物的な成長を阻害してまで人間の子どもの時期を勉強漬けにする必要はないのではないかという考えを書いた。   なぜそう考えるかといえば、この勉強漬けにされる小学校、中学校(あるいは高校まで)の時期にたくさんの問題が起きてきて、たとえば学校内暴力、家庭内暴力、いじめ、不登校等々、しかも現在に至るまで少しも改善されたとか問題が減少したというようにはなっていなくて、常態化しているからだ。そして、よくよく考えるとその原因の大きなもののひとつとして今日の学校教育制度のあり方があり、これが主たる原因だと考えるほかないからだ。
 ここではこのことに重なるかもしれないが、その辺のところをもう少し遠回りしながら丁寧に考えていきたいと思う。
 
 発達心理学者のエリクソンは、乳児期の特徴として「基本的信頼対不信」というものを挙げている。これは乳児が母親(あるいはその代理者)との関係において、母親の育て方がよければ特別な信頼を抱くものであり、反対に育て方が悪ければ信頼感が持てないということになって、これが乳児の以後の生の過程に対する基本的な態度になるということを述べたものだと思う。人間に対する基本的な信頼を持つか反対に不信を募らせるかを決定づけるという意味で乳児期は大事な時期だということだ。
 乳児が母親(以下代理者を含む)に100%の信頼を持つことをひとつの極として、対極には100%の不信を持つ場合も想定される。そして実際的にはその間に様々な割合や度合いで信頼感や不信感がそれぞれの子どもに形成される。
 考えてみれば、自分で移動することもできず、授乳から排泄の世話など生存に関わるすべてを母親に依存する乳児にとって、この時期母親に代表される養育者との関係はそのまま全世界との関係である。乳児の全世界はしばらくの間身近な母親との狭い時空にしか存在しない。乳児は四六時中乳房を感触し、また母親の乳房や顔が視野に広がり、愛撫や排泄を処理してくれるときの手先を触知する。ほぼ一年の間をその繰り返しの中で過ごすことになるのだが、この時期を「快」に過ごし養育者に全幅の信頼を持つことができたならば、このことは乳児に全世界が「快」で基本的に「信頼」に足るものであるという最初の刻印を押すに違いない。
 乳児期にこのような体験を経ることは、以後の出来事に対して基本的には「快」と「信頼」をベースにおいて出会うことを意味する。
 反対に乳児の時に「不信感」を植え付けられたら、以後に出会うすべては「不信感」をベースとして人間や事象に対することになる。
 これは生涯にわたる宿命のようなものだと一応は考えることもできそうだ。だが、一応は、と言うだけのことだということは言うまでもない。
 
 児童期の子どもに接していると、この基本的な信頼感に溢れた子どもとそれが少し薄いなと感じられる子ども、また極端に不信のオーラに包まれた子どもというように違いが感じられることがある。信頼感に溢れた子どもはこちらを見、こちらの話を聞くときにきらきらしたまぶしさを感じるほどの目で真っ直ぐな視線を送ってよこす。そうでない子どもの視線ははじめから懐疑的であったり敵対的であったりというように、幾分拒絶的な色合いを示す。後者の子どもたちはクラスの中に必ず何人かがいて、他の子どもたちといがみ合ったり規律を守れなかったりして問題を引き起こすことが多い。どう言えばいいだろう、他者との交通、交流において、はじめから信頼関係が成り立っていないような様相を呈してしまっている。
 こういう子どもたちは生徒指導上問題のある子どもとして注意され、また指導されることが多い。それがまるっきり無駄だとは言えないまでも、そうした注意や指導を受け入れることのできる子どもというのは、もともと人に信頼感を持って接することのできる子どもの場合であって、不信のパーセンテージの大きい子どもの場合はかえって不信感を増幅させる結果になりがちである。
 
 小中の学校生活の中でいろいろな問題が日々生じているわけだが、それに対して先生たちは様々に手を尽くし手当を行っている。それで多くの問題は解消されて児童生徒の生活はスムーズに流れていく。まれにそれだけでは解決できない場合があり、そうなると本格的な解決はなされないままに、ただ児童生徒の生活や学校・学級の運営に支障が大きく出ないような手立てを講じながら、何となくまあまあという感じで日を送っていくということになっている。
 そういう事態を考えたときに、小中の生活場面でいろいろな問題が露呈し、露出してきたときにはその時点では解決不能である問題もあり、そういう問題はそこで解決しようとしてももう遅いんだということが考えられる。
子どもの資質、性格に関わるときは特にそうなわけで、これはどんなにしても直らない。先生たちが手を尽くしても、また自分自身でもこれを直すことはできない。自分の資質、性格を超えて生きることを考えるようになるのはもう少し先のことだ。
 
 乳児期における母親(代理)との接触、その過程で、その時期としては乳児にとって全世界であるほかない母親に対して100%の信頼を寄せられるような育てられ方をしたら、その子どもは死ぬまでこの世界への信頼をベースに生きていくのだろうと考えられる。それが資質や性格同様、その子どもの「持ち物」となることは疑いないように思える。つまり、生きていく上で多少の困難が目の前に表れても、それを乗り越えていく素地としてそれはその子どもの価値のあるアイテムになり得る。
 これが反対であったらということは容易に想像がつく。不信、不安、怯え、コミュニケーションの不成立、愛情の不在、愛情の飢渇、等々を自分の「持ち物」として世界に相対していくことになる。これはきっと生きていく上でとても苦しいことだ。
 この、人間が生きていく上での基本的、そして根源的な「持ち物」とも言える特別な信頼感や不信感は母(代理)によってもたらされる。子どもは100%受動的で、全く責任がない。まずはそういうことが言えると思う。
 
 
子どもという思想@
              2015/05/31
 発達区分ということで考えると、さしあたって乳児期と思春期(青年期)という言われ方をするあたりのことは、とても明快な区分の仕方という気がする。言うまでもなく乳児期は完全なる養育者に依存した授乳の時期で、その初期には乳児は自分で自由に身体を移動させることも言葉を話すこともできない。思春期の特徴はこれもまた明確で、心身の性的な成長が著しくその兆候がはっきりと身体や挙措振る舞いなどに現れる。動物的なところで言えば、いつでも生殖可能な状態になった時期を示すものだといえる。
 他の哺乳動物などと比較して考えるときに、この二つの乳児期と思春期という区分は共通するところで普遍的なものだと思う。一方は赤ちゃんの時期で、もう一方は大人になる、あるいはなった時期として我々に認識される。 ふつうぼくらはたとえばペットとしての犬猫などをみる場合でも、そんなふうに赤ちゃんの時期や大人になった時期として区分して考えている。そして、一般的には人間の場合も動物の場合もこの二つの時期の中間にある場合を「子ども」と呼んでいる。
 ふつうの生活者的な、習俗的風俗的そして伝統的な発達区分のとらえ方というものは、そんな大ざっぱなところで捉えてすませている。動物の場合は特に、赤ちゃん、子ども、大人くらいでその全生涯を捉えている。
 発達心理学などではこの乳児期と思春期の間のところを細分化して、幼児期、それに続く時期を児童期と呼んで区分し、また思春期の後にも成人期とか壮年期とか、あるいは中年期や老年期という呼び方の時期を設けて論じている。だが生活者の実感としては、自分がいつから中年期となっていつから老年期に入ったかは自覚することは難しく、何となくそうなったのかなというところですましているように思える。これは他人をみる場合でも、その人を中年とみたらよいのか老年とみたらよいかの判断はなかなかつかないところで、つまりこれらの区分はなんか曖昧だという思いが残る。
 ふつうの生活者の感覚では赤ん坊、子ども、青年から一般的な大人を経て年寄りという区分が妥当なところだと思う。
 
 動物の場合、赤ん坊、子ども、大人くらいの簡単な分け方で考えているわけだが、これにおじいちゃん、おばあちゃんという呼称を加えても、ある意味では人間の世俗的な区分の呼称と代わり映えしない。つまりぼくらの社会生活上はそんな区分の仕方ですんでいるところがある。それ以上の細かな区分というものは、学問的にと言うか、専門家が詳しく観察してその結果より細分化して区分することができるということを示したものに他ならない。将来さらに細分化して考えた方がよいとなって、発達段階がいっそう細かくなる可能性がないではない。
 ホントはここで何を考えておきたかったのかと言えば、人間もその一部であるところの動物全般の発達の仕方と人間のそれとの違いについてである。
 ごくふつうの見方考え方からすれば、人間も他の動物も生まれ落ちてまず栄養を摂取して育っていくが、これには自己の身体の成長と同時に生殖を可能にする機能の成長とが一緒に進んでいくものだというように理解される。この点だけに焦点を当てれば、所詮人間も動物全般と同じに種族保存の縛りから抜けられないものに過ぎず、また確かにそうした一面を持つ生き物だと言うことができる。そうして考えると、人間は乳児期、幼児期、児童期、そして思春期と成長が進むとされるが、根源的あるいは本質的な見方からすれば要するに生殖ができる体作りが成長の主要な目的だろうということになる。身体生理的には人間といえどもそうした成長過程を否定できない。だとすれば、人間の社会はどうしてそういった自らの自然生物的な成長過程といったものを大事に保護してその方向での理想的な環境作りを考えようとはせずに、かえって性的な成長を遅延させたり抑圧するかのように
学校教育制度を構築し、強化し、学習や技能や道徳や規律といったものをぎゅうぎゅうに子どもたちに課すことをしているのだろうか。
 人間および人間の社会だけが生物的な本能といえる性の成長と発現に対し「待った」をかけ、制限を加えるのはなぜなのだろうか。しかも、学校教育制度の成熟の度合いに付帯して不登校、保健室通い、いじめ、校内暴力、家庭内暴力、果ては自殺から殺人まで、個々のケースはばらばらではあるけれども児童期を中心として起こっているそのことは、ここに見る本能としての性の抑圧に関係ないのだろうか。
 動物と同じように考えられた、赤ん坊、子ども、大人、年寄りという大ざっぱな区分では人間と動物を分かつものはなく、一面では人間といえどもその成長、発達について動物と同列に論じられるところがあるに違いない。実際、おそらくは学校教育制度が幕を開ける前の長い歴史の中で、人の成長、発達はおよそその程度の大ざっぱな概念で眺められていたものであり、それで済んでいた。そしてそこまでの長い人間の歴史の中で、どこをどう探してみても今日行われているような知識や技能や道徳や規律を学習する時期に当たる、一切の片鱗や痕跡は見当たらない。わずかに一定の年齢に達したときに、同年齢の生活小集団が組織されたという風習を持つ地域があったということだけが知られている。また、江戸期には寺子屋というものが起こり、武士や町人の子弟が読み書きそろばんを習ったり、あるいは各地の藩においても武士の子弟を集めて修行の一環としての学問の手習い程度のことは行われた。これはしかし社会の成熟や、文明、文化の高度化に見合って近年徐々に築き上げられてきたもので、こういったところから学校制度成立までは時間の問題であったとはいえ、個人の発達史上の課題という側面とはまた違ったところからの要請によるものであった。
 
 ここまで拙いながらも個人的に考えたり調べたりしてきながら、どう考えてみても人間の個人史上に学習期間というものを置かなければ子どもは大人になりきれない、人間になりきれないものだとは思えない。この制度上の期間は単に共同体を治める国家が自らの存続に必須のものとして設計した制度であり、国民に税を課すことと同じように、あるいは現在の日本にはないが青年に兵役を課すように学習を課しているに過ぎないように思える。
もちろんこれを全面的に悪いとする根拠は今日のこの時代には見当たらない。人々の多くは教育を必要と思い、教育の意義が高く評価されているところからも一定の存在意義を認めることはできよう。だが、たとえば兵役が課されなくても即国家が消滅するわけではないことが実証された、戦後から今日までの約
70年を振り返るときに、もしかすると教育や学習が個人及び国家にとって必須のものとする考えは、あるいは幻影に過ぎないのかもしれず、あえてこれを国家施策の制度設計から抜いてしまえばより進んだ自ら学ぶ教育社会の未来がそこに浮上してくるのかもしれぬ。それは兵役廃止と同じにやって見なければ分からないことだ。
 
 ぼくたちはここで人間の成長、発達を生物、そして動物一般の成長発達の次元において考えたときに、人間といえどもその本質とみられるところは性的な成長、発達に他ならないことを確認してきた。人間の現在の社会(日本の)は、児童期及びそれに準じた発達の段階に学習の時期を重ね、自然的な性の発達と成長を抑圧するかのように強烈に人工的な生存の時空を拵え、子どもたちをそこに取り込もうとしてきたといえば言える。これが通過儀礼としての割礼のように、人の生命力や内面に何の影響も与えないとは思えない。
 人間といえども生まれ落ちたときには意欲満々で、社会の一員として遠慮しながら生きなければならないなどとはつゆほども思わないはずだ。植物も動物も、直接に人間界に取り込まれずにすんでいるものは、己の本能のままに地上に跳梁しそして死んでいく。夢も希望も語らぬ代わりに、愚痴も悔恨も残さない。彼らは人間界という狭い時空間に閉じられていない。ぼくたちの社会は(国家も)国民に開かれていくべきだ。とりわけ子どもたちについて、そのあるがままの姿からその姿に抑圧や矯正を課すことではなく、その生命的に欲するところに沿って社会や国家が己を開いていくところこそが必要である。
 
 
まとまらない話になりますが・・・
              2015/05/24
 学校には様々なルールがある。主なものは、勉強の時間と休憩の時間とを告げるチャイムやベルが鳴り、それに従って一日を過ごすというもの。それから、勉強の始まりと終わりの挨拶。授業中の私語の禁止。また椅子に座る姿勢にも一応の規制があり、あまりにだらしない姿勢では先生の注意や叱責の声が飛ぶ。さらには持ち物、ノートの書き方、筆入れの中身がどうでなければならない等々、数え上げたらきりがないが、これらは多くは学習に始まる学校生活全般の規律ということになるのだと思う。こうした規律、規制は微細なところまで行き渡っている。
 ぼくはこうした学校の規律とか規制とかいうものはどの国にもあるものだとは思うが、国や地域ごとに様々であり得ると思う。そしてそれぞれに習慣や習俗の違いに倣い、その地域や国にあった規律や規制が設けられているはずである。だから日本的な規律や規制は、世界共通というよりは、やはりとても日本的なものではないのかなと思う。微に入り、細を穿ち、集団的な行動規制を養成していく。
 運動会の練習風景の中にもそうした日本的な、習慣、習俗、風俗的なスタイルは貫徹されている。それらの一切を純化しより徹底すればかつての軍国主義ふうになったり、現在の北朝鮮風になったりするのではないかなあと思う。一言で言えば個の自由意思を尊重する欧米風のスタイルではなく、個よりも共同性が優先されるアジア的なスタイルがそこかしこに表れていると思う。
 
 東日本大震災の時、食料品を求めてスーパーに並んだりガソリンスタンドに並ぶ行列ができたが、あまりに整然とした姿に外国から賞賛の声が上がった。半分はおとなしい家畜のような姿を揶揄する気持ちもあったのではないだろうかと思うが、それでもまあそれが日本人の姿だった。良い悪いは別にして、できるだけ周りに迷惑をかけないように我慢できる限りは我慢をするぼくたち日本人の特性が無意識に表れた場面だったと言っていい。
 この日本人の特性、特質、社会性、風俗、習慣は、学校現場における児童の規律や規制を設ける際に当然のことながら反映しているものと思う。簡単に言えば、周囲に迷惑をかけない思想とでもいうべきか。社会や集団や組織といった共同性に対して、個や私を低くする、抑制する、そういうあり方だ。そういうあり方を児童にも身につけさせるという方向に、育成のあり方が向かっている。
 
 一方、学校の学習内容に踏み込んで考えれば、そこでは民主主義や個人の権利、自由意思の尊重などが盛り込まれている。この面でははっきりと欧米発の人間主義的な考え方が学びの対象となっていると言っていい。
 
 理解されるための面倒な手続きをあえて踏まずにいえば、学校も含めてぼくたちの社会は日本型のアジア的な価値観とヨーロッパ的価値観が併存し、その間を紆余曲折しながら現在を構成しているという気がする。
 今日の日本社会は、時に理知、理性、科学的という相貌を見せるかと思えば、時に理知や理性や科学の仮面をかなぐり捨てて古代の村社会のような、ある意味で理不尽な、共同の前に「私」の一切を抑圧する集団優位の相貌を露出させてしまうのはそのためではなかろうか。
 これは現在矛盾する価値観の併存としてぼくたちの社会に蔓延している。
 
 明治、そして昭和の戦後という二度の時期にわたって、くだけた言い方をすればぼくらは個人の尊重、個人の重視という西欧流の考えを身につけようとしてきた。理念を理解し、同調もできたが、骨肉に染み込むようにこれを自己の生存の原理とするところまでには至っていない。ぼくはそう思う。生存の原理としては、もっと奥深いところでアジア的だが特殊日本型の原理に突き動かされているのだと思える。特殊日本型といっても、すでに江戸期までの日本的なところからは遠く隔たっている。もっといえば旧来の日本的なるものは根絶しかかっているといってもいい。しかし完全に絶滅したわけではなく、近現代の様相を凝らし、姿形を変えながら息を吹き返す機会を覗っている。
 教育基本法改正後から学校教育法の改正まで、これは戦後の「私」重視から「公」の重視という教育政策の転換とみていい。あまりに偏った欧米模倣から、日本的なるものの復活をもくろむものだ。これには理由がある。生活スタイルから価値観といったものまで欧米の後追いをしてきて、結果、経済的に文明史的に高度な発展を遂げたものの、失ったものも多かったのだ。気がつけば内面は空洞化し、ぼくたち現代の日本人は日本固有の歴史や伝統から切り離されて、いわば自分たちの由来、由緒を失いかけている。こういう不安に駆られたときに先祖返りが企てられることはある意味で自然な流れだといえばいえる。
 
 頭では自由や平等、個の尊厳、子どもの人権など、欧米から輸入した考え方を理解しながら、心情的には古い村落共同体の名残をとどめいるために、ふとしたときにそれが顔をのぞかせる。「私」の重視と「公」の重視とが行ったり来たりする。個人的には、欧米型の思考の輸入とはいってもまだまだ不徹底で、そのために古い農耕共同体的な感性を吹っ切れないのだと考えるところがあった。だから、とりあえず現在の国際的標準と考えられている欧米の考え方をいい加減なところではなく、自分のものとする課題を持つと考えた。その後でも絶ちきられた古い感性、伝統的なるものを考えてもよいように思っていた。でも、この頃は少し違う。どちらかを選択して優先させるのではなく、現実が欧米型と旧来からの日本型が併存している以上、個の二つを内側に老いた楕円形の構造として一緒に考えるべきではないかと思っている。両方が潜在し、また顕在するのだから、ひっくるめて考察しなければならない気がしてきた。日本型欧米型のどちらが優れているとかいないとかの問題ではないし、古いとか新しいとかの問題でもないような気がする。
 
 現在の安倍政権は、日本の政治、経済、あるいは社会全般の閉塞感を日本人の古い共同体重視の考え方に結びつけてこれを乗り切ろうとしているように見える。その姿勢は教育政策や安全保障、その他諸々の政策に反映していて、これは一個人でいえば公的な部分を拡大させ、私的な部分を縮小、あるいは抑制するように働きかけてくるもののように思われる。
 一昔前に比べると、学校でも何となく足並みをそろえることに子どもの指導の重点がシフト変更しているように思われる。もっと露骨にいえば「教える指導」が強化され、また学習時のルールなどがやかましく徹底されて来ているように思える。
 同僚の学習支援さんたちの言動を聞くとも無しに聞いていると、どうもクラスの子どもたち全員がよい姿勢の元に授業に集中し、教師の指示に従う統制のとれた授業風景を理想として考えているように思える。そのために規律を教え、守らせるために手を尽くすことが支援の第一歩であるというように。つまり、そういうことが当たり前で正しいことなんだと考えているように思える。
 これはあながち間違いではないし悪いことともいえない。形から入って、いつかの時点で合点させるという日本古来からの指導がそこに含まれている。だが、こういう方法は一度破綻を来している。この時点では個々人に自分の振るまい方を考えたり自覚させるきっかけが与えられないので、自分の言動の自己責任という考え方が育たない。また場面場面で自分がどう動くことがベストなのかという判断や決断をする力も持てない。優れた指導者が優れた指示を出している間は無難に動けるが、そうでないときは指示待ちで、指示がないときは動けないということにもなりがちとなる。サッカーでいえばそれぞれに優れた個人プレーのできるイレブンがいて、なおかつチームプレイができるというようなこと。本当はそういう形を目指すべきで、いまさら一糸乱れぬ統制みたいなことを優先しても始まらないのではないかとぼくは思う。
 
 
学習支援員の二期目に当たって
              2015/05/09
 人間社会における文明の発達と知的な発達とは相関的で、歴史的に見れば両者は互いにどこまでも高度化していく運命にあるということができる。これは放っておいても多少の抵抗を試みたとしても、どうしても高度化する運命にあるもので、いずれ行き着くところまで行き着くほかないものだ。だからこれを止めようとしても無駄だし、止めようと考えること自体がおかしなことになる。両者が高度化することは人類にとって自然過程であり、現代人のルーツになる初期人類が生物史上かつてない脳を携えて出現したときから、運命の歯車は回り始めたのである。
 今日の社会が西欧近代発の学校教育制度をもって文明の発達と個々人の知的な発達に供するようにしてきたことは、前述のことと相俟って当然の時代的な流れといえば言えた。制度発足当時の時代とその地域の社会がそれを求め、たかだか二百年の間にそれは世界大に拡大し、浸透してきた。そして現代も未来も、この教育制度を抜きにしては考えられないくらいになってきた。人間を語る上で脳の存在を抜きにできないように、わたしたちの社会は教育制度を抜きにしては語れなくなってしまったかのようである。それほど現代社会における教育制度の存在は大きいものとなっている。
 
 ところで昨年の3月からはじまったこの文章で、主に児童期の子どもの心のあり方および現行の教育制度の果たす役割などについて考えてきたが、結局わたしが辿り着いた先は、今日の学校教育制度は「割礼」の慣例や風習に似て、単に文明上の通過儀礼の一形式に過ぎないのではないかというものだ。そしてこの制度に固執するかぎり、児童期の子どもたちは生命衝動それ自体としての性の奔騰を教育的に抑圧され、本当は外に向かって解放していくべき生命的な本質としての生命衝動(これに分かちがたい性衝動)を、逆に内部に滞留させられてしまい、無意識の核に向かって無意識の核自体を傷つけるように格納せられるのではないかというものだ。そして、この教育制度が数世代もの子どもの育成に関わって現実にもたらしたところのものは、地域社会の文明の高度化や個々人の知性の発達というものであるということはもちろんのこと、ここ最近の特徴としての、少年少女の心的な異常というものを想定せざるを得ないような事件の加害者、被害者を生みだすことにも繋がっていると考えるようにもなってきた。これは、主として三木成夫や吉本隆明らの考察を踏まえた上での辿り着いた地点だと言えばいえる。
 
 もちろん現在、家と学校で規律を植えつけられる子どもたちのほとんどは、ごくあたりまえの子どもらしさ児童らしさを獲得して行っている。学校で勉強を教わることは当然のことと受けとめ、同年齢の子どもたちと遊んで過ごせる学校は楽しいと感じている子どもたちがほとんどだ。だが、表面に浮かぶ子どもらしさの獲得とは裏腹に、その過程で、母から引き継いだ心的な一切、家族間幻想の一切は、意識下におしこめられるという経過を辿ることはまちがいない。
 この時、胎児期から幼児期にかけて母親や家族から受けとったものを学校制度の規律のもとに抑制できない児童がいて、これがしばしば問題になる。
 それは児童が無意識に母親や家族から受けとったものが、児童の抑制や自制といった心的な枠組みを打ち破って、具体的には学校生活の規律の枠を飛び越えて外に飛び出してくるといった様相を呈する。言葉を換えればコントロール不能になった生命衝動の外観を呈する。他者からはそれが児童自身の精神に問題があるからなのか、母親や家族から受けとった(家族の影響)それ自体に問題があるのかが明確ではない。つまり実践的にいえば、学校の規律などに順応できない児童がいるとして、その児童を指導していくに当たって児童を説得すればすむ問題なのか、家族も巻き込んで説得しなければならない問題なのか、その境界が分明ではないという事態を前にする。実際的なことをいえば、そうした問題児の取り扱いは、学級から学校全体へ、学校と家庭が連携して、という経過をたどる。これが円滑にそしてスムーズに進めば、だいたいそれくらいのところで問題児の行動もやや落ち着きを取り戻すことになる場合が多い。少しも根源的なところでの解決ではないが、こんなところで家庭も学校も何とか日常的な体裁を整えて行けるということになっている。
 
 わたしたちはここで二様の問いが投げかけられているように感じる。
 ひとつは母親や家族から受け継いだものを抑制できずに、社会規範を純粋化した学校規範に順応できない児童にどのように対処すべきかという問題だ。これについてはすでに見てきたような対応が、おそらくはどこの現場でもとられることになっており、ただそれがうまく効果を発揮してよい結果をもたらすかどうかという問題が残るだけだ。これがうまくいかないと、先々に社会的な不適合者、反社会的で暴力的な個人を作り上げてしまう懸念が生じる。だが、そうした存在は学校という教育制度のなかった時代にあってもあり得たことであって、現行の教育制度と密接な関係があるにしても、次に述べる事柄とは別問題として考えられる必要があると思われる。
 もう一つの問い、わたしたちにとってより大きなそして現在的な問題は、学校で学習や技能や規律をぎゅうぎゅうに叩き込まれ、一見すると学校生活に異議を申し立てずに、また内心に何の異存も持ち合わせないように見える子どもらしさを獲得した子どもたちの中に、ある日突然予期しないような凄惨な事件の引き金を引く存在が出現してきたことだ。異常な事態と思わざるを得なかったその種の事件は、わたしの記憶では七十年代の中頃から後半にかけてはじまり、現在までテレビや新聞の報道を賑わわせ続けてきた。かつて日本においてどの時代にも起きたことのない少年少女、未成年者を中心とした犯罪、殺傷事件などがわずか三、四十年の間にこんなにも集中して起きることにはどんな理由があるのか。わたしたちの社会はこれをはっきりと解明しようとはして来ていない。教育の世界からはもちろんのこと、精神医学、心理学といった方面からも、あるいはどんな領域、どんな分野からも明確に事件の本質、象徴する根源に迫って解決策を示すことが出来なかったのだといっていい。
 この二様の問いの前者について、核心的なことをいえば、これは制度を変えればすむ話だと考えている。受験をなくすこと、あるいは受験戦争といった事態を招く元凶を無効にするような制度設計をすればそれで済む。
 後者についてもただそれだけを問題にすればどうすれば解決するかははっきりしている。学校をなくすこと、学校がなくなることが一番の特効薬だといえばいえる。わたしはそう思っている。いずれ学校制度は消えるし、消えた方がよいとわたしは思っている。残るのは歴史的に蓄積された知識の伝達の問題で、これは今以上にハイテク化されたところでアナログの教授法は消失するだろう。
 
 今年の四月から町の学力向上の名目で小学校の学習支援員に再任用された。内心では教育も学校も嫌いだと思っているから、ずいぶんと矛盾するのだが、すべてを遊びの範疇の中にたたき込んで一年を過ごしていきたいと考えている。去年一年であらかた考えるべきことは考えた。今年はせっかくの機会だからそれを整理することを中心課題とし、その上で浮上する問題をまた拡張的に考えていきたいと思っている。とりあえず、今年度をこのような文章から始めていくということだ。
 
 
「心的な割礼」としての現在の教育
              2015/03/28
 今日の教育というのは、つまるところ高度な文明社会における「心的な割礼の儀式」に過ぎないのではないか。
 割礼についてぼくは詳細な知識を持っていないが、ネット内に次のような記述を見つけた。
 
きわめて古い時代から、世界の多くの国、地域、文化圏で見られた儀式・風習・習慣・宗教儀礼のひとつ。
諸民族に広く行われたが、現在よく知られるのはユダヤ教徒、アラビア・アフリカの諸部族間で行われるものがある。
性器の一部、男子の陰茎包皮または女子の陰核・小陰唇を儀礼的に切除、切開、その一部を切り取る風習・儀礼で、宗教的には、清め・奉献・契約の印・成人の証明などの意味づけがなされるようだ。宗教上の理由、儀式または成年通過儀礼、その他の理由で行われる。身体変工の一つ。
 
割礼の意味・目的については、血と生命の供犠、神との契約の「しるし」の付与(ユダヤ教徒の場合)などのほか、忍耐力を試す手段、結婚の準備、性器の聖化、衛生上の理由などさまざまの解釈があり、一定していない。しかし、幼児期に行われようが少・青年期に行われようが、基本的には入社(門)式、成人式の意味をもつ。すなわち割礼は、個人のある集団・社会への加入またはある身分・地位の獲得を儀礼的に表現し、彼を正式の成員として社会的に承認する行事であるとみられる。
 
 これは『幻想世界神話辞典』と題するホームページ上にあった。
 基本的には宗教的な風習・儀礼から行われるもので、割礼を行うことによって儀礼的にある集団や社会の一員としての身分・地位を獲得するということになる。
 ぼくには幼児期から小・青年期にかけて、どうしても割礼を執り行わなければならないとは思えない。逆にこれを廃止すべきだとするための根拠も、はっきりとは持ちかねるように思う。実際、ここでの記述を信じれば長い間の風習としてそれぞれの地域に根付いてきたものであることが理解される。これは迷妄の一言で片付けることはできない事だ。
 
 吉本隆明は『母型論』(学習研究社 一九九五年発行)の中で、「比喩としていえば第二次的な割礼や陰核切除の儀礼にあたるものが、教育であるような気がしている。」と述べている。簡単に言えば、形を整えた礼法に過ぎないからそれ以上の意味合いはないということだ。ただ、当事者間で大事な意味合いを保持している間は風習として続くということになる。
 吉本はここで遠慮がちに「…気がしている」と述べるにとどまっているが、ぼくには『教育が大事という考えは、現代人の思い込みに過ぎないよ』と語っているように聞こえる。教育が現代の社会の成員の資格を得るひとつの通過儀礼に過ぎない、というように。これは相当に大変なことを言っているのだが、大変なことのためにほとんどの人々の実感には届きにくくなっている。みんなが教育が大事と信じ込んでいる中で、そう簡単に信じ込みを解除できるものではない。まさしく教育は現代的な、また世界的な一大宗教になっているといっても過言ではない。
 現代文明人の成員としての資格が、小・中・高および大学といった学校制度を通過することによってのみ得られる。だがその中身には重要な意味合いはない。それは社会を広く見渡せば分かる。理念と、その理念が現実化されたときの姿との落差はあまりにも大きすぎるというべきだ。理念は地に落ち、形骸だけが形式として生き延び続けている。形式は風習の核として存在する。
 これまでに見てきたところからも分かるように、今日の学校教育はその目標や目的とは裏腹に、実際には進学のための受験対策という色合いの濃い学習が進められている。社会生活に何の役にも立たない知識や技能が、身につこうが身につくまいが、未消化であろうがあるまいが、とにかくその年度に予定されたことは全部ぎゅうぎゅう詰めに押し込められて、勉強したというアリバイが成立する。それは、問題の答えは教えてもらった中から探すという受験があるからだ。ここには教えられたことをコピーして、必要なものにペーストするという脳機能の開発の問題はあるが、自ら「考える」という脳のもうひとつの働きが圧倒的に欠如している。別の言い方をすれば、「創造的な思考」が遮断されている。
 
 教育により、確かに社会の成員の一人ひとりの知的なレベルは高度化したと言える。また社会そのものの高度化や発展にそれは寄与したと言うこともできる。しかし、教育が社会の成員の一人ひとりの人間力の向上に寄与したとか、真によりよい社会の形成に役立ったとかは言い切れない。個々の成員も、社会全体も、国家が国策として力を入れれば入れるほど、かえっておかしな結果を生じさせてきているように見えないことはない。このことがまた教育の強化を望む声を高めることになるのだが、おかげで子どもの世界に根源的な歪みを生じさせてきているようにも見える。
 日本で学制が敷かれてから約150年。学校教育はその理念がふりまく幻想を少しずつ後退させてきた。残っているのは風習としての割礼のように、社会の成員としての承認を得る通過儀礼としての意味合いだけだ。
 割礼とか陰核切除は身体の一部を切り取る風習や儀礼だが、通過儀礼としての教育の体験においては何が行われていることになるのだろうか。おそらくそれは心的な割礼ともいうべく、決められたルールに従って学校生活を送る中で、心身の自由な振舞いを心的に除外するいわば心的な去勢の儀式的な体験だと言っていい。学習の名の下に心的な抑圧が注入される。そこで、個人の心は社会に屈するまでに社会に浸食され、抑圧される。社会システム上、最も許し難いのは個人のわがままや自由の類である。社会の一員としての資格を得たければこれを捨ててこいと社会システムは個人に要求する。だが、要求が強くなればなるほど個々人の反発や反動も強くなっていくようだ。現在の社会に蔓延する反社会的な言動はそこから派生してくるもののように見える。これは窮鼠猫を噛むで、窮地に追い込まれた個々人の反射的な自衛の姿と見える。ここまで心的に追い込まれた現代人そして子どもたちということを考えなければ、現在の社会を正しく読み解けないのではないのかとぼくには考えられる。
 
 
子どもの心の「荒れ」その実相を考える
              2015/03/25
 貧困問題、食糧問題、地球温暖化や環境問題、エイズ感染、紛争と難民問題。21世紀の世界にも多くの課題が渦巻いている。これらの国際的な諸問題に、せめて小学生であっても6年生くらいになったら関心を持ってほしいと考える大人がいる。
 また日常的なことで言えば、学校内ではしばしば児童の気質や性格が話題となり、勉強のできる児童とできない児童、知能が高い児童と低い児童の名前が耳に飛び込んでくる。さらに、授業中に大きな声を出す、立ち歩く、すぐ手を出す、口が悪い、等々の児童の名前が口にされ、あるいはあの児童の家庭環境が悪い、あの子の家は離婚して父親がいない、母親の性格が変だ、子どもの面倒をきちんと見ていない、等々の言葉が炉辺でささやかれる。
 こうした光景なり言葉なりは自分の現役時代によく耳にしたことで、たぶん今でも変わらずにそうなんだろうなあと思う。
 ところでぼくは、こういう話題にほとほと辟易している。前者の話題で言えば、ぼくの内心の反応は即座に『おまえがやれよ』というものだ。児童にはこれまでそして現在生きて活動する中で、彼らなりの、のっぴきならない問題(他には些細と見えるものでも)がいつも目の前にぶら下がっているのであって、そこに注意や関心が100%集中するのは当然のことだ。たとえそれが仲のよい友だちと喧嘩になったという程度のことだとしても、自分の実感から遠いことを無理に考えるよりもその喧嘩のことで思い悩んでいることの方がずっといい。また大人であれ子どもであれ心にとっての切実さはそういうもので、身近で卑小なものを軽んじる考え方や思想はいずれ大したものではない。
 そんなに世界の課題について解決したいと思い悩んでいる大人がいるのだとしたら、子どもに考えさせるよりまず実際に自分がとことん考え、動き、解決に立ち向かったらいいだろうと思ってきた。こういう人たち(半知識人)は世界のあちこちから問題の種をかき集め、またその一つ一つが実際にはどうなのかを精査することなく鵜呑みにして、世界は大変なことになっていると憂いて見せる。ぼくに言わせれば知的な遊び、知的なままごとに興じているだけだとしか思えない。たとえば地球温暖化の問題にしても、本当に報道されたことが事実なのか、それ以外の事実はないのか、片寄った報道になっていないかなどの見極めが必要だし、そのために多くのデータや資料を拾い集める努力も必要になる。報道されたこと、誰かの書いた記事、そういうもので良心や善意を揺さぶられて、多くの人にそれを訴えかければ「ある日」すべての人間が目ざめて地球温暖化問題が解決する、そう考えて子どもたちにも問題提起しているのであればそれは間違っている。また、目の前の子どもたちの世界がいつも平穏で、けして波風の立たない世界だと言うことはできない。差し迫って急迫した問題に直面することなど無いと言うこともできない。世界の貧困問題について考えることと、平和な社会にあって友だちとの些細な人間関係のもつれに心を悩ませることとは等価であり、世界大の問題を優先して考えなければならないということはけしてないと思う。本当に世界大の問題が大切であると思うならば、思った当人が率先して自分でやってみせればよいという、ただそれだけのことだ。
 後者の話題もまたいやになるほど聞かされてきた。善意に解釈すれば児童を心配するからこその発言かも分からないが、うんざりするようなそうした発言や心配が児童の「ため」になったり、効果のある教育や指導に結びついたりすることはまず無いことだと言っていい。余計なお節介だ。子どものことでそんな決めつけ方をしたら、逆に世間的な偏見を生み、教える、指導する、などという名目でかえって児童の精神的、観念的な部分を追い込むことになる。子どもは自分の性格を選択できない。また善悪や倫理を持って言動の規範としているのでもない。それはできない存在だと言っていいし、意味もよく分からずに言ったり行ったりすることも多々ある。そういう時期のそういう世界に、本当は大人の考え方を差し挟むべきではない。こちらも、じゃあ自分の家庭はどうなのか、自分たちの子どもはどうなのか。そんなに立派に育っているのか、そんなに理想的な家族を運営できているのか、と反論してみたくなる。要は自分のこと、自分の子ども、家族のことを今よりもよくすることに全力を傾けたらいいじゃないか、という気になる。それでさえ本当は容易ではないでしょう、ということだ。君たちにそれができるんだったらほかの家族にだってそれができる。みんなそうしたくてやっているわけではないんだ。子どもも大人も、自分を変えることは容易ではない。他者にはそれを要求する。その前に自分を変えて見せろ。何、きみだって欠点だらけじゃないか。自分ではそれに気づかないだけだ。ぼくはそう思う。
 ぼくに分からないのは、そうした発言の裏に潜んでいる自己肯定感のすさまじさだ。自分のことはまったく棚に上げて、よく他者の欠点をそんなにあげつらうことができるものだと半ば感心してしまう。また、勉強ができることがいいことだととらえる通俗的な価値観が何の疑いも持たれずに意識野を占めているように思い、これもひとつの教育の成果なのだろうとさらに進行形としての教育のあり方に落胆する。
 児童はふだんの学校生活においてもこうした観念(幻想)に取り囲まれ、観念的に触知したり、呼吸したりしていることになる。毎日毎日こんな空気の中に過ごさなければならないとしたらぼくだったらいやになってしまう。おかげさまでぼくは大人だから、そこの空気が合わないと感じたら仕事を変えたり住む場所を移ったりすればそれですむ。また実際にそうしてきた。けれども子どもたちはどんなに嫌悪する空気感の中でも6年プラス3年は、ひたすら我慢するほかはない。我慢したあげくにその空気にすっかり馴染んでしまうこともあり得る。呼吸系がそのように進化してしまう。そういうことがないではない。それでこの社会に生きる処世術を学び、世の中との折り合いがついて必要以上の苦労を要しないで生きていけるのであれば、それはそれでいいのかと思い、否定する気はない。
 ぼくはたぶん、その中に生きることに折り合いがつけられない、いじけたり、暴れたり、ふてくされたりする子どもの気持ちが少し分かる方だと思う。ただちょっとだけ違うのはいやな気持ちの解消の仕方で、ぼくはずっと徹底して受身だったと思う。自分が許容できるところまでは現実からの声に従うようにしてきた。少しずつ許容できる範囲が拡張し、その分自分の立ち位置は後退し、いつももう後がないと感じられる連続だった。ぼくはそれで「自分」を守ってきたと感じる。これがいいことかどうかは分からない。だが、自分を取り巻く空気がどうしてもいやだと感じてしまう子どもたちも、いつかの時点で、妥協するか逆らい続けるか、衝突して粉砕してみせるかの分岐点に遭遇してしまうことと思う。その時の通過の仕方をどうしても心配してしまうが、そこはもはやぼくを含めて他者の思いなどの一切が無効になる地点だというほかはない。
 
 さて、社会問題に関心を持つこと。学校の勉強ができ、集団生活のルールを守ること。先に述べてきたように、どうやら小学生の児童を観察する大人の側の視線は、そういうところに関心が集まっているように見える。
 ぼくはといえば、児童期の子どもたちの課題はそんなところにはないと思っている。社会問題への関心はもちろん、勉強も全然やる必要はないと、極端に言えばそう考えている。
 学校で身につけた勉強のうちでほんとに必要なのは文字の読み書きや簡単な計算くらいで、あとは日常の生活にあってもなくても差し障りのないくらいのものばかりだ。無いよりはあった方がいいとは言えるかも知れないが、市民生活の絶対条件ではない。なくたってなんとかやっていける。勉強したことは仕事にも生活にも大した役には立たない。小学校の社会の勉強で地理という分野があるが、たとえば都道府県をすべて言えたり、白地図に書き込むことができるかというと、大人でも百点を取れる人は少ない。すべてを理解していないからといって大人の人がこれを勉強しているかというと、まずやってはいない。やらなくても支障がないからやらないのだし、勉強というのは子どものうちだけやるものだと思っている。学校時代を過ぎたら、どんなに分からないことが多くてもそれですんでしまう。それは、学校が通過することに意味があるということを暗示させる。きちんと学習が身につかなくても、とりあえず社会の中で生きていくことはできる。また、通過してしまえば無知であろうが知識が豊かであろうが、その後は一切学校でやった勉強はする必要がなくなる。現に、多くの大人はそういう学校がらみの勉強は一切しなくなる。自動車免許を取るためとか、仕事的に資格を得るためとかの勉強はするが、純粋に学問的な勉強はほとんどやらない。一部の人を除き、図工や音楽や体育でやった勉強を生活の中に生かして、生活そのものを豊かにしているという事例もそう多くを見ることはできない。せっかくの学習も、生涯の中では尻すぼみになっていっているだけだ。それがなぜかは分かっている。
 核心的なところを率直に述べれば、小学校の勉強も高校や大学の受験を想定した上での勉強に過ぎないからだ。教育の目標や目的や方針の文言がどうであれ、高校や大学受験を通れるようにするための学習にしかなっていない。これを学ばなければ受験を通過できないからこれを学ばせる。ほとんどの教育活動はそういうようにしか組み立てられていない。試験の問いに答えるにはこれを学んでおかなければならないというものを学んでいる。大学の試験そのものが、小・中・高と学習してきたことをどれだけ正確に記憶してきたか、またそれをどれだけ適切に応用できるか、それらを問う問題になっている。受験者は問題に対して過去に学んだことの内から、正確かつ適切なものを取り出してきてそれに答えればいい仕組みになっている。小・中・高と、その過程での学習は学問とはまったく無縁のものだ。累積された知識や技術をコピーし、それをどれだけ脳にめいっぱい保存し、試験の時に活用できるか、それだけのことである。ため込むという作業だけを一生懸命やっているということになる。
 逆に考えれば分かる。高校、大学の受験が撤廃された。黙っていても高校、大学に入れる。そうしたら小学校や中学校での勉強はどうなる。競争がなくなるし塾も存在しなくなる。がらりと授業の様相が変わることだけははっきりしている。
 受験のような試験があるということは、ふるい落とすことが必要になっているからだ。ふるい落とすにはできるだけ難しい問題も忍び込ませておかなければならない。そこを勝ち抜いていくためにはそういう難問も想定して、万全の準備をしておかなければならない。東大、京大などの一流といわれる大学の受験はそういうものだろう。学習はすべて受験を突破して合格するためのものになる。そんなものは本当の勉強(学問)ではないとぼくは思っている。知的な上昇の自然過程で、本当は学校で教わらなくても大昔から人間は好奇心に沿って知ろうとすることに努めてきている。学校教育はこれを合理的に、効率的に進めようとしてきただけだ。そうしてついでに社会や共同体の規範も学ばせようとしてきた。これはうまくいった。一時期、国際的にも日本の教育の波及は評価を得た。国が富む一因にもなった。だが日本の教育は、累積された知識や技術を頭にコピーする機能を飛躍的に発達させ、数多くの秀才を生み出すことに成功したかも知れないが、それは人間として真に優れた人材を育成したこととは違う。そんなことは言うまでもなく、現実の社会におけるエリートたちの動向をうかがえば足りる。日本のエリートたちは瓦解している。多数の民のため、というあり方で存在できていない。端からそういう資格を得ていない。
 いずれにしても、本当の勉強(学問)はその先にある。受験が終わって、大学で、会社で、家庭で、自問自答の果てでも答えが見いだせず、けれどもどうしても自分で解を見つけるほかない状況に遭遇したときに、はじめて、知的な好奇心を越えて意識的に勉強しようという気になる。たとえば夏目漱石の、英国留学での神経衰弱に見舞われた死に物狂いの英文学研究がそれだ。大秀才の名を残した帝大首席の勉強など、留学先での気違いじみた勉強に比べたら何ほどのことでもなかったろう。そういう勉強を、ぼくを含めた普通の大人たちはしない。あるいは、しないのが普通の大人たちというものである。
 半知識人や知識人は、勉強が大事、学問が大事と口にする。だがそれは人間の知の自然な上昇過程をいうもので、何ら高級なことでも何でもない。知は自然に上昇するように機能としてできあがったもので、彼らはそのことに少しばかり得意なだけで、しかもそのことで自分に都合のよい場所に立っているからそういっているだけのことだ。彼らもまた知識のコピーに秀でて、それを切り貼りして、またその一部を切り売りしているだけのことにすぎまい。彼らのすべてに、漱石ほどの狂気を思わせる研究への没入があったのかどうかは疑わしい。せいぜいが受験知識人程度の分際で、優位を鼻にかけるから大衆も誤解する。半端な知識人のいうことを真に受けて、そのことを理解したことが頭のいいことだとか、より多くのことを学んでいることのように錯覚してしまう。
 大学までの勉強はもちろんのこと、今日では学問さえもが富に分かちがたく結びつく傾向に走っている。金、金、金の世の中である。この欲望はとどまるところを知らない。その上、この欲望には愛や思いやりや善意といった衣がかぶせられ、あるいは優れた人間性の育成や獲得という演出が施されるものだからそれを批判することは許されない。こういうトリックやカラクリは誰もが知っていそうなものなのに、本当はあるべき葛藤の自問自答は放棄されて過ぎている。
 知ってか知らずか親も先生たちも子どもに勉強を強いる。
 ぼくが考えてきたところによれば、児童期に知識や技術や規範といったものを教えることは本当は児童の成長や発達にとっては2次的なもので、主要なものは生命そのものの顕れともいえる性の奔騰と、付随して起動する心的な成長発展の展開そのものである。現在の学校教育は、後者のそれを前者の学習漬けによって抑圧する機能を果たしている。もう少し分かりやすく言えば、本能的な生命力の発露を阻害することにしかなっていない。今日の子どもたちの切れやすい性格とか、かつての日本の子どもの姿から見れば異常としか思えない言動、家庭内暴力、凄惨ないじめ、理解しがたい動機の見えない殺害等々の原因は、ぼくにはそこにしか求められないように思える。このうえなお、学力向上とか道徳心の涵養とか、社会生活、集団生活の遵守などというところを強化して教育的抑圧を加えれば、状況はいっそう深刻さをまして行くにちがいない。本当はそうではない。幼児期から児童期にかけて、内遊びから軒遊び、そして外遊びへと拡大していくその流れの中で、よいことも悪いこともすべてさらけ出して遊ぶその体験こそが重要なのだ。そうなれば子どもの側からは家庭にも社会にも文句のつけようがなくなる。文句のつけようがないから、少なくとも理解や想像を絶するような暴れ方はしなくなるし、突発的に引き起こされる異常な振舞い、他者に気を許さない警戒心なども緩和されるにちがいないと思える。
 知識や規範をごり押しするように身に付けさせることが大事か、本能の部分、心をゆったりと熟成させるように、自然に形成発展していくことを見守ることが大事か、もはや考えるまでもなく明らかなことではないかと思われる。
 児童期は特に、母親との一対一関係から家族関係を経て、はじめて触れるだけで押しつぶされるような力としての社会、共同体に出会う。別の言い方をすれば、胎児、乳児、幼児期を経て形成された心的なもの一切が現実世界にぶつかる時期だ。この移行期は昔はまだ自然性を保存してゆっくりと進んだ。徐々に社会性を獲得できた。現在は大人が思う以上に人工的に、移行そのものが断絶された中で社会人としての育成を促成栽培的に強制される。さらに別の言い方をすれば、家族の対幻想から共同幻想にシフトすることを余儀なくされる。
 まだうまくいえないが、ここで、共同幻想を受け入れ学ぶと同時に、すでに身についた家族の対幻想を根拠とする反発が起き、あるいは背負い込んだ家族的な劣等感や憎悪、心理的な原罪のようなものまでもが心的に渦巻くことになっていると考えられる。子どもたちにとって、これは本来はすべて出してしまわなければおさまりがつかないことだと思える。だからたいていの子どもたちはこれを出す。性的に、乱暴な言動に、いじめという形に、また反道徳的にというようにだ。これが最近の手につけられないような子どもたちの精神や心に内在する「嵐」の実相だ。ぼくはそう考える。
 子どもの言動が荒れるということは、心が荒れているということだ。「嵐」が起きているのだから荒れる。「嵐」をおさめるには、本当はあまり意味のない知識や技術や規範を児童期に習得させようとしなければよい。遊ばせて、昔と同じように自然な性(生命的)の発現を認めることや、社会(共同幻想)との折り合いの付け方を個々の子どもたち自身の力で獲得させるようにすることだ。ぼくたちはそれを見守ってやればいいだけのことだと思う。
 誰もが必要でありよいことだと考える教育そのものを、批判的に述べることは容易なことではない。だが、今日の学校教育体制は明らかに通過儀礼の意味合いが色濃く、これによって心的な攪拌、「嵐」のような心の荒れをもたらしているとすれば、これを縮退させていくことは逆に教育の急務の課題だと思われる。とりあえず、ここまでを述べておく。
 
 
「子どもの原像」ということを考えてみる
              2015/03/14
 かつて吉本隆明は「大衆の原像」という言葉で彼の大衆に対するイメージ、概念を語った。彼なりの大衆の定義であり、同時に大衆の特性や特徴を抽象化して表したものでもあった。単純に考えれば、生まれ、育ち、働き、結婚をしてやがて老いるといった、人の生涯の曲線の芯を逸れずに歩むものを総称する言葉と思えた。つまり生涯の骨格をそのままに生きるものを指していて、極論すればそれ以外の体験や観念の働き方をしない人間のあり方を本質として考えられたものだった。実際のところ、人間はそういうようには生きられない。大なり小なりそこからの逸脱としてしかわれわれは人の世に存在し得ない。だがその「原像」を価値とするところに吉本隆明の他者に伝えたい、理解してほしい「思い」があったろうと思う。
 わたしは同じ「思い」を、江戸期の八戸藩の町医者であった安藤昌益に聞いた気がする。安藤は、「自然直営道」という言葉にそれを表した。人間は自然の中に生きるものだが自らも自然そのものであって、自然の法則に則って生きることがよいという主張であった。これを人間生活に当てはめたときに、田畑を耕して穀物を栽培しこれを食するところに人の本分があるという考えである。安藤はこれ以外の生き方はすべてダメなもので、余計なことをやったり考えたりすることもダメ、生き方の本分から逸脱したものにすぎないと主張した。そして当時の士農工商のうちの士や工や商、さらには孔子や仏陀などの教え、また芸術や芸能、知や善悪などの全領域にまで拡張してはげしくそれらを非難した。
 いま、これ以上くわしく述べることはしない。機会があれば直接それぞれにあたってもらえばすむことだ。
 とりあえずここでは「子どもの原像」とは何か、「子どもの本分」とは何かについて考えてみたいということだ。もちろん吉本隆明の「大衆の原像」を参考としながら、現在の教育の世界からの発信を中心として社会に広がる多種多様な子ども像を、いちど初源に立ち返ってすっきりさせておくことがわたしの目論見ということになる。うまくいくかどうかは分からないがやってみる。
 
 一般的に言って「子ども」といえば、幼児期から児童期にかけての少年少女を総称すると考えてよいだろう。この区分はあまり厳密にはなっていない。身近な人々に聞いてみると、子どもの年代についてまちまちな返答がかえってくる。
 動物などの場合に限れば、およそ自力で狩りをするようになるとか生殖行為を行うなどのことから判別して、「子ども」かそうでないかを見分けることになっている。いわゆる生物の二大特性であるところの「食と性」の問題だが、自力で「食」をまかなえないもの、生殖機能が未発達のものは「子ども」と呼ばれる習慣になっている。
 人間の場合も、「子ども」と呼ばれる時期は衣食住のすべてに渡って親(代理)の世話を必要とする時期にあたっている。その時期はまた性的に未発達な時期に重なる。
 6歳から12歳までのいわゆる学童期は子ども期の典型と言える。これよりも早い時期から子どもと呼ぶと考える人もいるし、もっと遅い時期までを子どもに含める人もいる。しかし小学校に通うこの年代が子ども期に入らないと考える人は皆無だと言っていい。
 ここでいったん整理しておくと、@ほぼ生活の一切を親(代理)に頼っているということ。A性的にまだ未発達だということ。B仕事に就いていない(共同体の成員としての資格の未所有)が故に、生活のすべては遊びととらえることが可能だということ。年齢とともに、少なくともこの@〜Bの条件によって「子ども」の定義は成し得ると思える。
 「子どもの原像」とはだから、日々の生活のすべてが遊びとしてとらえられる生涯で唯一の時期を生きるものたちのことであり、しかも、遊ぶこと以外はいっさい何も背負わない究極の「子ども像」としてイメージされるものを指す。もちろんこの「子どもの原像」は「大衆の原像」と同じく、実在の姿とは関わりがない。ある時は「子ども」の理想像になり、ある時は架空の、この世界に存在し得ない「子ども」のイメージにもなる。大なり小なり実在の「子ども」たちはその原像からの逸脱として存在する。これは古代社会から現在の社会までを通して普遍的と見なされる「子ども像」と見て差し支えないと思う。
 今、仮に近世から古代に向かって5、6歳から12歳前後の「子ども」の日常的なあり方を考えてみると、一般的に言って、裕福な家の「子ども」であろうが貧乏な家の「子ども」であろうが、等しく遊びを中心とした生活がなり立っていただろうと思われる。もちろんその中で家事の手伝いや、下の子の子守や、あるいは地域の様々な風俗や習慣の行事にかり出され、遊びの中断を余儀なくされる場合もあったにはちがいない。場合によっては手伝いという程度では済まされない、過重な労働にたずさわる人手として遇される場合もあったかも知れない。
 いずれにせよどんな時代をとってきても、遊びを本分とする子ども期を遊び以外に費やす時間を零にして、遊びに徹する過ごし方を貫徹したものなどいなかったはずなのだ。遊びは見方によっては無為徒食そのものに見える。前述したように、家族内での大人たちの作業のちょっとした手伝いなどにはじまり、無為はこれを有意に活用しようとするのがヒト的な自然といえる。共同体を構成する人間の社会は、個々の「子ども」の成長に関心を持つようになり、しだいに個々の「子ども」の成長、発達に関与するようになっていく。
 
 今日の社会において、人間の「子ども」たちは野生の動物のように自分の恣意によってあるがままの自然な成長と発達を遂げることができない。その間に共同体の意志が介入し、それに大きく左右されるようになっている。「子ども」は放っておけば遊び三昧で恣意を肥大させ、共同体の規範を破壊しかねない愚昧な存在と見なされる。そこで、規範を注入したたき込まれなければならない存在と見なされ、また歴史的に累積されてきた膨大な知識や技術の基礎・基本部分を与えるべき存在と見なされる。
 このような共同体の介入によってその成長と発達が徹底した管理下に置かれるようになった今日の「子ども」の姿は、わたしたちがここで考える「子どもの原像」からかつてないほどに遠ざかり逸脱した存在となる。
 この逸脱の最も大きな要因は、いうまでもなく近代教育制度の整備、確立とその後の拡充と浸透による。現在は義務化によってすべての子どもが一定の年齢になると学校に通い、一日の内の7時間から8時間あまりをその拘束下に過ごす。知識と技能を学ぶとともに、学校の規範に従って生活することを課される。
 これは遊びに内在する自由さとは対極にある。
 子ども期の6年から9年を一律にこうした環境下で過ごすことは、「子ども」の「造りかえ」の過程と見なすことができ、夫婦および家族の共同作品ともいうべき「子ども」を共同体の作品のように共同体の意思に沿って修復することだ。これは家庭内で育てられた「子ども」は欠陥品や未完成品と同じで社会に通用しないから、教育によって「造りかえ」られなければならないとされ、実際に「造りかえ」られることを意味する。「子ども」は所属する家庭から共同体内存在に組み込まれ、以後の成長の過程は観念的に家庭(の価値観)から離脱する過程だと見なすこともできる。両親や家族のものから見て、「子ども」の成長のどこかの時点で、自分たちの腕の中から「子ども」が奪われたような錯覚をおぼえたことがあるにちがいないと思えるが、それはこういう事情から発している。
 このような過程を辿って育ち成長する「子ども」たちが、教育によってどのように「造りかえ」られたのかは社会を一望すれば一目瞭然だ。はじめに言っておけば、深層心理において、家庭や家族と自分との関係に根深い疑義をもつようになるだろう。これは表面に浮上しない場合でも、先述の事情から自己の形成が家庭や家族によるものだという意識を希薄化するためだ。場合によっては、最悪、不満足な自己形成の原因が家族や家庭のためだという意識をもたらすことにもつながる。
 そうはならないとしても、よくて現在に見掛けられるような若者に成長し、社会人に成長し、会社員や公務員や芸能人や政治家や学者などになっていく。これでメデタシメデタシかというとそうではなくて、相も変わらず社会のあちこちで騒動となる引き金を彼らが引くことになっている。そのたびにまた教育の必要性や改革が大きく叫ばれ、教育の存在意義だけが堅固なものになっていく。
 
 観念的な生き物でもある人間にとって、教育が「子ども」に必要不可欠と考えることは当然のことだ。教育制度が発達したことには理由があり、歴史的にも自然な過程と言える。けれどもこの制度が何を生み出すかは徐々に明らかになってきていることも確かなことだ。ことある度に改革が叫ばれ、繰り返し繰り返しその色合いが塗り替えられてきてもいる。だがその制度の現在的な限界が少しずつ察知され、周知されつつあることも確かだ。わたしたちがわたしたちの脳を使いこなす立場に踏みとどまるか、脳に振り回される立場に落とされるか、その分岐点にさしかかっていると密かにわたしは考えている。
 わたしたちはまず子ども期の実体的な内容でもある遊びについて、有益か無益かという捉え方から脱却しなければならないと思える。遊びは意味のない空虚な生の燃焼ではなく、子ども期の存在のあり方の価値の源泉と、考え方を転回すべきだ。「子ども」はその期間を完全に遊びに費やすことは不可能であり、そうしたくとも必ず障害に出会い、阻害されたであろうことは人類の歴史のすべてを通じて言えると思う。言い換えると人間の社会で未だに実現できていないこと、あるいは最も困難なことのひとつに、子ども期の全期間を徹底的に遊びに費やさせることを挙げることができる。「子ども」がまったく遊びほうけて、それで何の問題も生じない社会が到来したら、それこそ「子ども」にとっては万歳の何ものでもなく、そう思えるものを「子ども」とわたしは定義したい。「子ども」にとっての理想は、必ずしも早く大人になることではない。逆に「子ども」の内側に向かって、子ども期を生ききることにあると思える。そこでは「子ども」以外の何かに早急に変身を遂げることが課題になるのではなく、いっそう子ども期らしい子ども期を生ききることが課題になる。つまりは遊びだ。こういう価値観の転倒こそを今考えてみなければならないのではないか。わたしはそう思っている。
 
 
子どもの頭に「おむつ」を視る
              2015/03/07
 テレビのCMで、紙おむつを着けた幼児がおしりをもこもこさせながら歩く姿を見掛けたことがある。年齢でいえば2〜4歳前後までだろうか。そういえば自分の子どもたちにもそうした時期があったなあと思い出す。
 あたりまえのことだが乳幼児はオシッコやうんちをうまくコントロールすることができない。放っておけば垂れ流しになってしまう。そこでおむつをあてがって、汚したらこれを取り替えるということを日に何度も繰り返す。以前はこれは主に母親が中心になって世話をしたが、現在の家族では父親がやることもそう珍しくはないことのようだ。
 すでに紙おむつはお店に出回っていたが、我が家でははじめのころは布でこしらえられたおむつを使用した。これは何度も洗って使えるという利点はあるが、干して乾かすことが面倒で、時々紙おむつのお世話になった。2人目の子どもの時にはこれが逆転して、紙おむつを使うことが多くなったと記憶している。例の、おしりをもこもこさせながら、紙おむつ姿で歩いていたイメージが今も鮮明にまぶたに焼き付いている。
 我が家の子どもたちは4歳くらいまでにはおむつが取れたような気がする。膀胱感覚が順調に発達したためかその後に「おねしょ」で悩むことはなかった。
 個人的な体験談になるが、実はぼく自身は小学校を卒業するころまでは頻繁に「おねしょ」をしていた。あんまり多くて親に叱られ、呆れさせてしまうほどだったから、自身にとってもずいぶん負担だった。仕舞いには「おねしょ」をしたのにしなかったように装う始末だった。これは自分のもともとの性格にさらに影響を与えて、二次的な性格形成とでもいうべき時期を自分にもたらした気がする。精神的な陰影を深く刻むもとになった。そのために自分の子どももそうならないかと心配したが、二人ともそうならなかったので内心ほっとしたことを思い出す。
 さて、ここでの話は実際のおむつや子どもの「おねしょ」についてのことではない。ここ1年ばかり小学生を中心とする子ども期のことを考えてきて、そういえば乳幼児に必須の「おむつ」が児童期の子どもの「あたま」にも使えたらなあと考えたからだ。もちろん物としての形のある「おむつ」そのものを、子どもの頭にかぶせるという話ではない。また子どもたちをバカにしているつもりでもけしてない。
 乳幼児は膀胱および膀胱感覚、あるいは腸の便意の感覚とそれらのコントロールシステムが未発達なために、現代社会では、どうしても「おむつ」をあてがうことが必要になる。
 この、「未発達(発達途上)」ということでは、子どもの頭とか心とか精神とか、あるいは心情とか意識とか呼ばれるものに関しても同様のことが言える。1年ばかりを学校や児童館で過ごして、これらの心的な「未発達」が、言語や行動を介してあたかも汚物をまき散らすようにあちこちに投げかけられ、垂れ流されているといった印象を持った。心的には未発達な時期なのだから、未発達が存分に発揮されることはあたりまえの話である。乳幼児のおしっこやうんちであれば「おむつ」をあてがってすむ。けれども頭や心の未発達がもたらす精神的あるいは感覚的な排出(表出)にはあてがうものはない。だから、頭に「おむつ」をあてがうことができたら何の問題にもならず、まして騒動も引き起こされないのにと思うわけだ。
 少し見方を変え、違った角度からいえば、児童期の子どもの心的な発達段階においては、本当は心的に「おむつ」を必要とする時期なのだと考えた方がよいような気がする。これにはあてがうべき「おむつ」が存在しないので、心的な比喩としてのうんちやおしっこが垂れ流しになることは仕方のないことだ。これは「おむつ」をつけない乳幼児がおしっこやうんちを垂れ流すことがあたりまえで、責任を問われる必要がないのと同じで、心的な未発達は児童期の子どもには何の責任もない。心的な未発達が、心的な未発達のために、心的な未発達をそのまま表出しているというに過ぎないのだ。親や学校の先生はもう少し子どもの精神的、心理的な未発達を前提に、乳幼児の下の世話をするときの気持ちで子どもの精神や心理の世話とケアをすべきだと思う。多少言語のやりとりを通して大人のいうことが分かるようになったとはいえ、概念も未熟でいろいろな経験も浅い。まだ半分は自然な生き物で、すべてが「話せば分かる」というものではない。こう言うと、子どもに接するときは繊細な注意が必要といっているように聞こえるかも知れないが、そうではない。そういう言動にあまり敏感にならずに、ただ寄り添って遊び、それとなく心身が発する沈黙の声を聞きましょうと言っている。あとは簡単に言えば自分の地を出して接することができたらそれでいいと思う。
 幼児のトイレトレーニングについて、よく次のようなことが聞かれる。
 
オムツはずれが早い方が良いという思い込みが加速し、競うようにトレーニングを始める親が増えているのは危惧するべき風潮です。必要以上にオシッコやウンチを我慢することで、子どもの健康には様々な弊害が生まれるのです。
 
膀胱が適度に成長するのは3〜4歳頃。これ以前に尿意を我慢させたりすることで本来あるべき発達を阻害し、後におねしょや腎機能の低下などの原因になってしまいます
 
 しつけも教育も微妙である。微妙な問題を含んでいる。早く子どもをお利口に育てようとして、下手をすると逆に発達を阻害したり弊害が生じたりする恐れがないわけではない。
 ぼくは、ぼくが相当の年齢なるまで「おねしょ」をし続けたのはそれなりの原因があったのだろうと考えている。親も心配していたであろうが自身にとっても負担であった。その原因は今になってもよく分からないし、分かったところで後の祭りでもある。原因もよく分からず、適切な対策も講じないで、結局のところ自然な成り行きでいつしか「おねしょ」自体はしなくなった。何らかの原因でその辺りの成長発達は遅れたが、やがて自然に成長は訪れるのである。心身の成長の発達マニュアルはけして完璧な物差しではない。ただ標準の意味合いをもっているに過ぎない。もちろんその当時は相当のプレッシャーやストレスになったのかも知れないが、今はそれを忘れてしまえている。
 当時は母親から叱られたり呆れられたりすることが苦痛だった。自分でもしたくないのにしてしまうどうしようもなさを、さらに指摘されることは苦痛の上に苦痛を重ねることだ。もちろんそれで母親を恨むということはなかったし、大げさに生涯の汚点と感ずるわけでも全然ない。ただ、もうすこし、どうってことはないよという振りでもよいから、大目に見てくれたらよかったという気持ちは残っている。
 
 今の小学生を見ているとぼくたちのころとはずいぶん違う。学校の担任の先生をバカにしているような話し方をする子どもがいる。授業中に私語やいたずらをおおっぴらにする子どももいる。挙げ句の果ては授業中でも勝手に立ち歩き、数人かたまって遊んでいることもある。もちろんぼくたちのような支援員には暴言を吐くこともあるし、わざとらしく嫌悪の表情を見せたり、無視したりすることもある。乱暴な言葉づかいもけっこう聞かれるし、ちょっとと思わせるような性的な言葉も口にする。まあ従来の日本的な子ども像から見れば、ひと言でいえば悪くなったという様相を呈し、表向きの印象としては、どう言えばいいか、不道徳や無秩序の百花繚乱と見えなくはない。そういう面だけを誇張して過激に言えばそういうことになる。
 おそらくほとんどの学校は困っているだろう。日々、「困った問題」に取り組んでいるはずだし、取り組まざるをえないでいるはずだ。これらの問題の多くは、見方によってはぼくの「おねしょ」と同じで、未発達の問題を含み、どこかに発達を阻害する原因があることとその原因が累積的であるために特定が難しく、ぼくの母親がそうであったように悲嘆にくれるしかない。
 毎日のように繰り返される布団干しや下着の洗濯のそのほんの一手間が母親に苦痛を強いたように、子どもたちの穏やかではない言動や学業不振という問題は先生たちに一手間の連続という苦痛を強いる。けれども、自身でコントロールできずに「おねしょ」をしてしまうぼくがそうであったように、そうした子どもたちはどんなに説教されようが叱責されようが自分ではコントロールできない段階にあるのだから、説教や叱責はすべてプレッシャーやストレス、さらには自分を抑圧するものと感受されてかえって過激になることを誘発されるかも知れない。そうした子どもたちにとっても、大目に見てもらいそっとしてもらうことが心的にも負担が累加されずにすみ、早い立ち直りや順当な自己達成欲に立ち戻るきっかけを手にしやすくなると思える。
 ぼくたちは児童期を、頭におむつを必要とする子どもの時期として考えることで、どんなに乱暴な言動も心的な未発達のためと大目に見ることができたり、やがて様々な痼疾も解消していくものだと楽観的に考えることもできる。これを教育の問題だけに還元して学校で矯正や規制をかけて封じ込めようとすることは、逆に精神的な発達阻害や、精神上に大きな弊害を生み出すもとになりかねないと思う。今日取りざたされる教育強化の方向性の議論は、すべて母親の悲嘆と焦慮の念から生じるものと同質である。それは母性を本源としているにはちがいないが、今日の子どもたちが欲するものはそれにさらに一手間を厭わない、母性を越えた母性なのだという気が、ぼくにはする。
 
(※参考資料 以下に文科省のホームページから、児童理解に供する「子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」について書かれた文章を転載する。現代の子どもの成長の状況把握や、発達心理学の知見の要約に関してはあまり文句がない。ただ発達段階ごとの重要な課題として示された部分では大きな疑問を感じる。全体としては無難で妥当な文章と思える。しかしここでもわたしには漠然とした違和感がある。詳細はここでは言わないが、大きくは上から目線が気になる。医者の診断と処方に似ている。こういう文章は書き手の人間性がどうであるかに関わりなく書くことができる。また実際に関わりのないところで診断と処方に似たものが書かれている。客観的に、論理的に、妥当な正当さが貫かれていると言ってもいい。だが先生も児童もここに書かれた世界を実現できない。先生や児童はここでは看護士と患者に擬せられる。看護士も患者も医師の思惑通りに動くとは限らない。また互いに思惑通りには動かせないものだ。ここでの文章にははっきりと先生や児童の目線がかけている。このことだけは先に言っておきたい。)
 
3.子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題
(子どもの発達段階に応じた支援の必要性)
 
○ 子どもの発達は、子どもが自らの経験を基にして、周囲の環境に働きかけ、環境との相互作用を通じ、豊かな心情、意欲、態度を身につけ、新たな能力を獲得する過程であるが、身体的発達、情緒的発達、知的発達や社会性の発達などの子どもの成長における様々な側面は、相互に関連を有しながら総合的に発達する。子どもは、身近な人や自然等との関わりの中で、主体的に学び、行動し、様々な知識や技術を習得するとともに、自己の主体性と人への信頼感を形成していく。
 
○ 子どもはひとりひとり異なる資質や特性を有しており、その成長には個人差がある一方、子どもの発達の道筋やその順序性において、共通して見られる特徴がある。子どもは成長するに伴い、視野を広げ、認識力を高め、自己探求や他者との関わりを深めていくが、そのためには、発達段階にふさわしい生活や活動を十分に経験することが重要である。特に身体感覚を伴う多様な経験を積み重ねていくことが子どもの発達には不可欠であり、これらを通して、子どもの継続性ある望ましい発達が期待される。こうした観点を踏まえつつ、2.(1)で述べたような、現代の子どもたちをめぐる社会環境も考慮し、子どもの発達やその課題を踏まえた適切な対応と支援を、従来より一層、行っていくことが、重要である。
 
○ このような考えから、本懇談会では、発達段階ごとの子どもの成長の主な特徴について、発達心理学等の知見も踏まえながら検討してきた。以下は、現代の子どもの成長に関して、特に重視すべき課題について示すものである。
(1)乳幼児期
 
○ 乳児は、外界への急激な環境の変化に対応し、著しい心身の発達とともに、生活のリズムの形成を始める。特に、視覚、聴覚、嗅覚などの感覚は鋭敏で、泣く、笑うなどの表情の変化や、からだの動き、「あーうー」「ばぶばぶ」といった 喃語(なんご)(まだ言葉にならない段階の声)により、自分の欲求を表現する。また、保護者など特定の大人との継続的な関わりにおいて、愛されること、大切にされることで、情緒的な絆(愛着)が深まり情緒が安定し、人への信頼感をはぐくんでいくが、特にスキンシップは大きな役割を果たすと言われている。乳児は、この基本的な信頼感を心の拠りどころとし、徐々に身近な人に働きかけ、歩行の開始などとともに行動範囲を広げていく。
 
○ そして、幼児期になるにつれ、身近な人や周囲の物、自然などの環境とかかわりを深め、興味・関心の対象を広げ、認識力や社会性を発達させていくとともに、食事や排泄、睡眠といった基本的な生活習慣を獲得していく。また、子ども同士で遊ぶことなどを通じ、豊かな想像力をはぐくむとともに、自らと違う他者の存在や視点に気づき、相手の気持ちになって考えたり、時には葛藤をおぼえたりする中で、自分の感情や意志を表現しながら、協同的な学びを通じ、十分な自己の発揮と他者の受容を経験していく。こうした体験を通じ、道徳性や社会性の基盤がはぐくまれていく。
 
○ 現在の我が国における乳幼児期の子育てを取り巻く状況については、様々な課題が指摘されている。例えば、少子化や都市化の影響から、家庭や地域において、子どもが人や自然と直接に触れあう経験が少なくなったり、この時期の子どもにふさわしい生活のリズムが獲得されにくいことなどがあげられる。さらには、家族や地域社会の在り方が変化する中で、不安や悩みを抱える保護者が増加していること、また、保護者の養育力の低下や児童虐待の増加なども指摘されている。
 
○ これらを踏まえて、乳幼児期における子どもの発達において、重視すべき課題としては、以下があげられる。
 
  愛着の形成
  人に対する基本的信頼感の獲得
  基本的な生活習慣の形成
  十分な自己の発揮と他者の受容による自己肯定感の獲得
  道徳性や社会性の芽生えとなる遊びなどを通じた子ども同士の体験活動の充実
 
(2)学童期
(小学校低学年)
 
○ 小学校低学年の時期の子どもは、幼児期の特徴を残しながらも、「大人が『いけない』と言うことは、してはならない」といったように、大人の言うことを守る中で、善悪についての理解と判断ができるようになる。また、言語能力や認識力も高まり、自然等への関心が増える時期である。
 
○ また、この時期に限らず、家庭における子どもの徳育にかかわる課題として、都市化や地域における地縁的つながりの希薄化、価値基準の流動化等により、保護者が自信を持って子育てに取り組めなくなっている状況がある。さらに小学校低学年の時期においては、こうした家庭における子育て不安の問題や、子ども同士の交流活動や自然体験の減少などから、子どもが社会性を十分身につけることができないまま小学校に入学することにより、精神的にも不安定さをもち、周りの児童との人間関係をうまく構築できず集団生活になじめない、いわゆる「小1プロブレム」という形で、問題が顕在化することが多くなっている。
 
○ これらを踏まえて、小学校低学年の時期における子どもの発達において、重視すべき課題としては、以下があげられる。
 
  「人として、行ってはならないこと」についての知識と感性の涵養や、集団や社会のルールを守る態度など、善悪の判断や規範意識の基礎の形成
  自然や美しいものに感動する心などの育成(情操の涵養)
 
(小学校高学年)
 
○ 9歳以降の小学校高学年の時期には、物事をある程度対象化して認識することができるようになる。対象との間に距離をおいた分析ができるようになり、知的な活動においてもより分化した追究が可能となる。自分のことも客観的にとらえられるようになるが、一方、発達の個人差も顕著になる(いわゆる「9歳の壁」)。身体も大きく成長し、自己肯定感を持ちはじめる時期であるが、反面、発達の個人差も大きく見られることから、自己に対する肯定的な意識を持てず、自尊感情の低下などにより劣等感を持ちやすくなる時期でもある。
 また、集団の規則を理解して、集団活動に主体的に関与したり、遊びなどでは自分たちで決まりを作り、ルールを守るようになる。その一方、この時期は、ギャングエイジとも言われ、閉鎖的な子どもの仲間集団が発生し、付和雷同的な行動が見られる場合もある。
 
○ 現在の我が国における小学校高学年の時期における子育ての課題としては、インターネット等を通じた擬似的・間接的な体験が増加する反面、人やもの、自然に直接触れるという体験活動の機会の減少があげられる。
 
○ これらを踏まえて、小学校高学年の時期における子どもの発達において、重視すべき課題としては、以下があげられる。
 
  抽象的な思考の次元への適応や他者の視点に対する理解
  自己肯定感の育成
  自他の尊重の意識や他者への思いやりなどの涵養
  集団における役割の自覚や主体的な責任意識の育成
  体験活動の実施など実社会への興味・関心を持つきっかけづくり
 
(3)青年前期(中学校)
 
○ 中学生になるこの時期は、思春期に入り、親や友達と異なる自分独自の内面の世界があることに気づきはじめるとともに、自意識と客観的事実との違いに悩み、様々な葛藤(かつとう)の中で、自らの生き方を模索しはじめる時期である。また、大人との関係よりも、友人関係に自らへの強い意味を見いだす。さらに、親に対する反抗期を迎えたり、親子のコミュニケーションが不足しがちな時期でもあり、思春期特有の課題が現れる。また、仲間同士の評価を強く意識する反面、他者との交流に消極的な傾向も見られる。性意識が高まり、異性への興味関心も高まる時期でもある。
 
○ 現在の我が国においては、生徒指導に関する問題行動などが表出しやすいのが、思春期を迎えるこの時期の特徴であり、また、不登校の子どもの割合が大幅に増加する傾向や、さらには、青年期すべてに共通する引きこもりの増加といった傾向などが見られる。
 
○ これらを踏まえて、青年前期の子どもの発達において、重視すべき課題としては、以下があげられる。
 
  人間としての生き方を踏まえ、自らの個性や適性を探求する経験を通して、自己を見つめ、自らの課題と正面から向き合い、自己の在り方を思考
  社会の一員として他者と協力し、自立した生活を営む力の育成
  法やきまりの意義の理解や公徳心の自覚
 
(4)青年中期(高等学校)
 
○ 親の保護のもとから、社会へ参画し貢献する、自立した大人となるための最終的な移行時期である。思春期の混乱から脱しつつ、大人の社会を展望するようになり、大人の社会でどのように生きるのかという課題に対して、真剣に模索する時期である。
 
○ 現在、我が国では、この時期が、こうした大人社会の直前の準備時期であるにもかかわらず、自らの将来を真剣に考えることを放棄したり、目の前の楽しさだけを追い求める刹那主義的な傾向の若者が増加している。さらには、特定の仲間の集団の中では濃密な人間関係を持つが、集団の外の人に対しては無関心となり、さらには、社会や公共に対する意識・関心の低下といった指摘がある。
 
○ これらを踏まえて、青年中期の子どもの発達において、重視すべき課題としては、以下があげられる。
 
  人間としての在り方生き方を踏まえ、自らの個性・適性を伸ばしつつ、生き方について考え、主体的な選択と進路の決定
  他者の善意や支えへの感謝の気持ちとそれにこたえること
  社会の一員としての自覚を持った行動
 
 
子ども期の教育と遊び その十
              2015/03/01
 どこまで本気なのかは分からないが、安倍政権下の文科省から学力向上のうたい文句が流され、メディアからも盛んにそういった面での情報が伝えられてきたという印象を持っている。
 事の発端は、受験戦争や詰め込みを反省した「ゆとり教育」実施後の国際的な学力調査で、日本がその順位をかなり落としたところからはじまっている。
 以前の教育方針が転換し、「ゆとり教育」が打ち出されたのはわたしがまだ現役で小学校教員をしていたときのことだ。それまでの、教員にも児童にも過重な負担を強いる教育の現場に不満を持っていたわたしは、文科省や学者たちから下ろされてくる「ゆとり教育」という方針の転換に少しも満足ではなかったけれども、とりあえずその方向での理念の現実的な実現を図る以外の改善策など見いだせず、できるだけ転換を好機とするために個人的に努力もし、研究もした。だが、その過程で体感したことは、「これはうまくいかないだろうな」ということだった。一言でいえば、学者と役人たちとでこしらえた「ゆとり教育」の理念は、文言の官僚的色彩と相俟って、現場の先生たちにはストレートに理解されないものだと思われた。逆にいえば理念の構築者たちはあまりにも現場に無知だということも言えた。伝達の方法や形式の問題なのか、教員たちの理念を理解する能力の面で力不足なのか、上から下への多重な伝達経路が途中でノイズを差し込むためなのか分からないが、その初期から「これは駄目だ」ということが感じられた。「ゆとり教育」の推進と具現化の過程は、この国の教育が完全に機能不全に陥っているという実態をわたしに教えるものだった。これは教育制度システム、あるいはその中でも制度の機能システム上の問題で、回復の見込みはないと判断された。
 案の定それからしばらくして「ゆとり教育」は豊かな果実を実らせることなく終焉を迎え、方針の転換ということになった。導入された「総合的な時間」の理念は高尚なものだったが、教育的実践そのものはみすぼらしいものだった。この理論と実践の落差は真に考察すべきものだがこのことさえしっかりと解明されずに、こんどは一転して国際的な学力低下の調査結果に不安する勢力が中心となって学力向上が強化されることになった。ふざけた話だ。一国の教育方針を決めるからにはあらゆる予測できる事態を予想し、そのことも踏まえた上で方針を決定し貫くべきなのに、中身の吟味精査など抜きにしてまたぞろ掲げる旗を差し替えて事を構えようとする。こういうやり方では同じ結果しか生み出さないことは自明で分かりきっているはずなのに、相変わらずのお役所仕事でその場しのぎだけを繰り返す。「受験戦争」も「ゆとり教育」も「学力向上」も、その間の児童期や思春期を主とした、いじめ、引きこもり、家庭内暴力などの、子どもの世界の生活や精神の異変に何らの実効性ももたず、ただに表向きの看板をすげ替えて話題づくりをし、「努力しています」のアリバイづくりをしているだけの話だ。こんなことが繰り返されているのを見ると、本当に誰も、子どもの世界の荒廃を憂いているものはいないのではないかと思ってしまう。研修会、研究会と称するものが何度も行われ、有識者の提言が何度も出され、文科省の方針が転換され、けれども子どもの世界の荒廃は相変わらずで、何のどんな効果もまったく見られずに日々荒廃は進んでいる。
 臆面もなく、またぞろ「学力向上」を持ち出すなどは正気の沙汰ではない。子どもの、しかも荒廃や危機に直面した子どもの世界を無視して、国際的な場での国家的な競争という体面を表沙汰に、学力を向上させよとは何だ。我が国の指導層は、自国の国民や子どもの生活の荒廃や危機にまったく無頓着であるにもほどがある。怒りを通り越して情けない。そういう連中が指導層に居座っている。
 わたしに言わせれば、学力を上げることなどは教育の目標や公教育の方針とするに値しないことだ。少なくとも我が国において、小学校から大学にいたるまでに言われるところの「学力」とは、歴史的に累積された知識や技術、技能などを個人の脳に転写するだけのもので、要するに「コピペ」、コピーアンドペースト、の問題に過ぎない。どれだけ正確に、どれだけたくさん、それを個人の脳に転写することができたかが問われるだけのことだ。こんなこと21世紀の今日の差し迫った教育課題に本当になり得るか。
 できるだけたくさんの多種多様な知識や技術を習得し、難問、奇問に、それらを上手に切り貼りするようにして答える、いわば知のスポーツ、知の遊びが本当に現在の子どもたちに必要なことだろうか。元々が「コピペ」に譬えられるようなものにすぎない「学力」が、今日の教育の重要な課題になるとはどうしても思えない。国際的な評判を得たいだけの連中に、子どもの世界をかき回されたり、彼らの思惑通りに子どもの世界を提供するなどは、教育にたずさわった経験があるものとして最大の恥辱であると感ずるし、本当は現役の先生も親たちも怒りの声を上げるべきなのだ。こんなものは近代教育制度の初期の課題にはなり得ても今日的な課題になり得るはずがない。個人的に刻苦勉励して、多大な知識や技能を脳に転写したそれだけのことで、何の価値ある生き方をしたわけでもない東大生などがどうして一目置かれるような具合にこの社会は構成されてしまうのか。もはやそれは知の領域における宗教とみなすほかはなく、その実態は制度とシステムの肥大化や協力者として、真正面からあるいは側面から奉仕する宗教的な信奉者としての意味しか持たない。彼らが知の部分を捨象した人間の実態生活について何を理解しているだろうか。人類の歴史のそれは枝葉の問題に過ぎず、根幹は無名の大衆の日々の生活、その沈黙の表出の中にしか表れないし見えては来ない。
 いったん文科省が「学力向上」と言えば、日本全国津々浦々の離島の小規模学校までその教育方針に「学力向上」の文言を打ち出すにきまっている。これもまったくばかげた話で、しかも関係者は一寸もこれをばかげた話だとは思わないで推進することだろう。はっきり言ってこの国にはひとりの自立した教育者も存在しない。みな奴隷に成り下がり、家畜化した教育者ばかりだ。
 
 わたしが今どこかの小学校の校長であれば、学力の向上などは二の次三の次の問題にして、「遊ぶ力の向上」をメーンにして教育のプログラムを組むだろうと思う。それを実現化するにはもちろん市町村の教育委員会の承認という難問があるにはあるが、もしも正攻法ではクリアできないのであればいくらでも裏道を考えることはできる。そのようにしてともかく小学校では、小学校卒業までは、遊びをメーンにして生活させたい。
 今の日本の社会は、若者を中心として形の上では自由主義を繕っている。その雰囲気は児童期の子どもの精神にも伝わっているに違いなく、以前にも増して自由さ(身勝手さも含んだ)へのあこがれは深刻になっている。その反動と言えるかどうか、学校は以前にも増して監視的な面が強化され、じわじわとあるいはやんわりと、またからめてから抑圧を強化してきている。たとえば掃除や絵本の読み聞かせと称するボランティアの積極的受け入れや、学校評議委員会の定例会や、学習支援のボランティアの要請等々によって学校機能を高め、堅固なものにしてきている。そしてそれは対処療法的には一定の成果を収めているとも言える。だがこれは量的な導入によって、かろうじて全体を布団をかぶせるように押さえつけているようなものだ。事の本質の解明に向かったものではない。
 現役時代の時もそうだったが、今も授業は45分間を単位として、その間は静かに席について学習することが基本とされている。わたしの子ども時代には当然のことでも、今の子どもには通用しないことが多い。じっと坐っていることに耐えられないと平気で口にする子どもが少なくない。我慢できない子どもが多くなっているということだろうが、これを昔の子どもと同じように我慢させることがいいことだとは思えないところがある。いろいろな条件や状況が変わっているところで、こういうところは変えずに、同じように堅持していられるのかという問題がある。ほんとはこれは子どもの身になって考えてみなければ分からないことだ。先生を含めた大人たちは、子どもの立場に立つのではなく、指導者として、教える立場からしか子どもを見ないものだからできないことはなんとかできるようにさせなければならないという考え方に立つ。45分間静かに席について学習できないことはダメなことで、これをできるように指導し、教えることが教育だと思っている。子どもはそう受けとらない。自由勝手に振る舞っていたいのに、先生はそれを制止し、制御すると感じとっている。
 あたかも政治や政治運動の指導者たちが、大衆は無知な存在で啓蒙しなければならないと考えたように、教育の現場では子どもが無知な存在として教育されることが必須だと考えられている。だが大衆がそうであるように、子どももまたけして無知として存在しているものではなく、家族や親族や周囲の人々、あるいは友だちなどとの関係の中で生き、愛憎をはじめとする人間的な諸力を込め、希望し、夢を抱き、不安におののき、悩み、恥じらい、誇り、信じ、懐疑しなどしながら日々を充分に人間らしく暮らしているのだと言える。見方によっては単純とも見えるその日々の子どもらしい営みを、意味のない、あるいは価値のないものと考えることはあまりに偏狭であると思う。子どもたちの人間形成に大きな影響力を持っているのは、本当は子どもの身近に存在するものたちの中にあり、自由や平和や共助のあり方の萌芽もそこから、つまり身近な関係の世界から生まれるものだといったほうがいい。けして道徳や大人たちの口だけの理念が子どもたちに影響するわけではないのだ。そしてもしも影響するとしても、同じように口だけの、上辺だけの、悪しき二重性をもたらすという意味での影響があるばかりなのだと思える。
 
 ところで、最近の武田邦彦のブログの中に、次のようなコメントが見られた。
 
赤ちゃんは誰もが意欲満々に生まれ、自己達成欲に充ち満ちている。だからそのまま育てれば思春期になっても大学生になっても、意欲があり、自己達成欲のある素晴らしい子供になる。それを毎日のように壊しているのが、両親と学校の先生と私は思う。(太字は佐藤)
 
(略)
子供が何かを達成したときには「褒める」とか「オモチャを買ってあげる」のではなく、「達成したことを子供と一緒に喜ぶ」ということだ。
 
厳しく育て、常に共感する・・・これが教育の王道であることは、多くの先人たち、先端の教育学で認められていることで、なにも特別なことではない。
 
 教育の王道かどうかは別として、このコメントには単純だが重要な観点がいくつか示されている。まずは「赤ちゃんは誰もが意欲満々に生まれ、自己達成欲に充ち満ちている」
という言葉に着目したい。母親の胎内での過ごし方に特別な事情がないかぎり、武田の言うように新生児は「生きようとする力」を携えて生まれ、またその必死さをけして隠すことはない。生命には生まれながらにして生きようとする力が備わっている。フロイドはそれを生命衝動と呼び、広義に性的衝動と分かちがたいことを伝えている。武田は、この言葉のあとにすぐ、「だからそのまま育てれば思春期になっても大学生になっても、意欲があり、自己達成欲のある素晴らしい子供になる」と続けているが、わたしたちの考え方では少なくとも胎児期から乳児期にかけて母親(母親代理)との関係が良好であればという条件が付加される。つまり胎乳児期に理想的に愛情いっぱいの育てられ方をしたら、もともと携えられていた生命衝動、生きようとする力が効果的に発揮されて、誇張していえば黙っていても自己達成欲のある子どもに育つということだ。ひとまず、ここでは勉強ができるとか頭がよくなるとかとは関係なく、こう言うことができる。これは人間の子どもの成長過程における普遍性に関する問題で、ごく普通の自然な成長というものはそこまでは保証されているものだと言ってもいいと思う。だが、皮肉にも現代社会では人間の自然な成長過程を掻き乱し、阻害するものとして両親と学校の先生とが立ちはだかっていると武田は言う。とても粗っぽい言い方だが、武田の言っていることはわたしがこのシリーズで考察してきたことや前のシリーズで考察してきたことの、結果的には同じことを端的に述べたものということができる。もう少しいえば、せっかくもって生まれた生きる力、生きようとする力、生命衝動を、親と学校の先生たちとで台無しにしてしまって、自己達成欲の芽を摘んでしまっていると武田もわたしたちも考えていることになる。
 もうひとつ武田のコメントで考えておきたいことは次の、「達成したことを子供と一緒に喜ぶ」という言葉だ。この言葉の前で、褒めるとかおもちゃを買ってやることなどいらないことだとも言っている。
 おもちゃを買ってやることもそうだが、褒めるということも流行になっていて、どちらも子どもが何かを達成したときによくとられる手段だと言える。個人的には、よく学校では先生たちが児童を無駄に褒めるのを見聞きし、辟易することが多い。無駄に褒めることもおもちゃを買うことも、ほんとは先生や親たちが、「子どもと一緒に喜ぶ」という共感の手間を省いていたり、共感するという心情そのものを消失していることの裏返しのような気がしている。つまり本当に子どもと関わろうとしていない、いっしょになって遊んでやる、かまってやる、考えようによってはそういうことが煩わしく感じられて、そこをはしょってけちっている無意識の罪障感として、おもちゃや無駄な褒め言葉に形を変えていると思う。本当に心の底から「子供と一緒に喜ぶ」には、前段に子どもと一緒に過ごす時間が必須である。そしてはじめて子どもが何かを達成したときにいっしょに喜ぶことができる。そこには何の思惑の生ずるはずがない。自分のことのように嬉しく感ずるから喜べるのだ。そういう寄り添いの時間を、今の親も先生も、子どもにとって何よりも貴重で大事だと考えることができない。かく言うわたしもそうだったからあまり親や先生を批判することはできない。でも、今となってみればそうすべきだったと思う。あとでこんな反省をしなくてもいいようにという思いで、今こんなことを親や先生たちに向かって言っている。
 最後に武田さんは「厳しく育て、常に共感する」のが子育ての王道だと述べているが、「厳しく育て」には少し異論が残る。「優しく育て」てもいいのじゃないかと思うところがあるからだ。文末に「特別のことではない」という言葉がおかれているように、ごく普通の感覚として普通に育てればいいわけで、それが厳しさか優しさかはあまり考える必要がないように思える。意図的に厳しく接したり優しく接したりしなくても、個々人はそれなりでそのままの素を出して、ある人は厳しく、ある人は優しくというのがそのまま出てかまわないのだとわたしは思う。とにかく、特別なことをしなくたって元来が子どもには生きる意欲が備わり、自己達成欲をもち、それを壊さない育て方が大事だというのが武田さんのここでの結論だと思う。それには寄り添う時間、かまってやる時間が必要だし、自分のことのように子どもの生きる力、生きようとする力を愛することが必要だと思う。その他のことはなるがままの成り行きに任せて、それでまずは生きることの上での不都合は生じないと考えていいと思う。
 
 子ども時代の遊びは人類が累積してきたもののうちで、歴史的な成果のひとつと考えることができるように思える。幼児期から18歳前後まで、教育制度に抑圧されながらも子どもの遊びは拡大され続けてきた。この事実は他のどんな生物とも異なっている。子どもの遊びは幼児期の内遊びから軒遊びへ、そして児童期の外遊びへと拡大していく。これだけの時間を遊びだけに費やす生き物をほかに知らない。児童期の遊びは活動の範囲も内容も広がりと高度さをもたらす。この時期はいわゆる子どもの遊びの絶頂期として典型的な
とても重要な時期だ。同時に乳幼児期のくぐもった心身の性的な要素が外面化して、その発現が奔騰化する時期にあたっている。生きる力の変形とも言える遊びの衝動は、性の衝動と発現とに分かちがたく結びついている。存分に遊ばせるということは性の奔騰を抑圧しないことと同じだ。性の発現や外面化は、本人にとってみればアメーバの触手のように手探りの感知の過程の連続で、この時期のそうした体験と経験はその後の自己達成欲の展開と維持に大きく影響すると思える。とりあえずこの時期の自分の潜在する性を外面化し客観視することは個にとってとても重要なことだとは考えることができる。存分に遊び、それにともなって潜在する自分の性を存分に外化する体験や経験を経なければ、将来に禍根を残すとわたしは思う。といっても、この時期の性の発現とは個性の発揮と同義の程度のもので、大人の考えるセックス的な性とはまったく関連がないとはいわないまでも違っている。そこに接続する子どもらしい性の展開が、段階的なものとして想定することができるように思う。いずれにしても、それは人間としてというよりも、生物存在として本能に直結する二大特性のひとつにちがいないからおろそかに考えることはできない。それを抑制してすむという話ではないのだ。
 ところが今日の社会は、子どもの生活のメインともいうべき遊びや性の発現を、学校教育制度に組み込むことによって子どもの生活全体の中の端っこにそれを封じ込めてしまっている。そうして歴史的に累積された知識や技術の、大脳皮質へのコピーに多くの時間を割くように子どもたちを囲い込んでしまっている。これがどんな弊害をもたらしてきたかは今日の子どもの世界を見れば歴然としている。武田さんが言外に言うように、自己達成欲、言い換えれば生きる意欲の喪失だ。どうしてこんな状況を放っておくのかわたしには理解できない。そうして誰もが異議など唱えそうにない「学力向上」の名にかくれて教育的環境ををいっそう強化し、子どもの自由な遊びと生命的発露としての性の発現を大幅に抑圧しようとしている。これを見過ごすことは加担することと同じだ。親も先生もわたしたちも、子どものためと思いながら、もって生まれた子どもの生命力を縮減し、破壊しにかかっている。
 水面に浮かんだ金魚が口をぱくぱくさせ、水中では欠乏した酸素を空中に求めるように、今日の子どもたちもまたどこかに避難すべくあちこちに出口を探し求めている。あるものは引きこもりの形で、またあるものは他に被害者を求める形で、そしてまたあるものは樹木や虫や無機物の方角に向かい、人間の子どもであることから逃れようとすることで危機を回避しようとしている。
 
 ここまで語ってくればもはや言うべきことはないかも知れない。私の考えはこれ以上でもなくこれ以下でもない。ただひとつ言っておくべきことは、現実の社会や学校教育制度に逆行するようなこうした考えは先見的に実行不可能と思われることについてだ。これについて、わたしは吉本隆明の提案に含まれている「折り合いをつける」ということで、なんとか遊び中心のシフトに転換できると思っている。勉強も遊び、学校生活全体も遊びというようにシフト転換できれば、子どもの心に抑圧として乗りかかってくるものを軽微な規範程度のものに転換することはできそうな気がする。これには親の意識の変換が最も重要で、社会の空気感を含めた考え(共同幻想)に立つのではなく、親子の情愛を中心とした家族関係、家族感情(対幻想)に立脚した意識の持ち方、具体的には何の偏見も持たずに純粋にただ子どもをかまうということで乗り越えていけるだろうと思っている。子どもにあまり多くを望まなければそれは可能だ。多くを望まないことでかえって子ども本来の自己達成欲は健全に育っていく。学習も適当、スポーツも適当、一見するとそれは個性が発揮されず、大きな夢や望みも抱けず、何につけても中途半端な子ども期を送っていると見えるかも知れないが、枝葉ではなく幹や根っこの方では生きる意欲に満ち溢れた心的に頑丈な骨格を形成して行くにちがいない。そして夫婦親子が親和的で、開放的な関係が築けたならば、それ以上と言えるものはほかに何もありはしないのだ。わたしはそう考える。
 
 
子ども期の教育と遊び その九
              2015/02/22
 学習や技能に優れること。道徳心を持ち、ルールを遵守すること。平たくいえば、親も先生も含めた世の中全体が今もこんな姿を子どもに望んでいるようだ。
 俗に七十年代といわれる全共闘運動は、教育闘争を本質として展開されたと考えられるが、わたしは運動の裾野のそのまた末端にあって先の押しつけられた子ども像の解体に一縷の望みを託した。当時も今も、基本的にその子ども像にはかわりがない。それまでに小・中・高の過程を経たわたしには、学習や技能に優れることや、道徳心を持ちルールを遵守することといった点で、同年代の彼我が差別的な扱いをされることはどうにも承伏しがたいものだった。あちらがよくてこちらが悪い、そういう評価自体が、うまく言葉で言い表すことができないが許し難いことのように感じられていた。神様でもないのにどうしてそんな単純な物差しで人間を、子どもを計ろうとするのか。大人たちの、あるいは社会の傲慢さはぶち壊されて当然であり、また、見えないシステムの手先として具体的にわたしたちに評価を下すものたちは、評価を下す資格を有しないものたちだとしか思えなかった。
どうして君たちが人間を、子どもを、いいとか悪いとか判断できるのか。人間について、子どもについて、一体どれだけのことを洞察できているのか。
 もちろん、何の洞察ももたないからこそ、簡便に評価や判断を下せるのだという言い方も成り立つだろう。まったく表層のところで人間や子どもについての浅い判断を下せるものたち。自分がそういう判断や評価を下すことに何の疑念も感じないものたち。そういうものたちが評価や判断を下して、そうできることによって自分は偉いものであるかのように錯覚している。それは人間性を侮蔑する行為でなくて何であろうか。思うに彼らは自分の人間性の浅さを人間性の標準であるかのように錯覚して、人の心、子どもの心はみな同じようなものだと誤解している。負の心性に気づくことない、無の心性に近い心性の持ち主たち。
 こう言っているわたしが、社会の下層にあるものや子どもたちを過剰に美化したり、善良な心の持ち主であり純真なものたちだなどと誤解しているとは考えないでもらいたい。子どもたちや大衆のもつ狡さ、嘘、陰険さ、執拗でたちの悪いいじめやバッシングや村八分的な陰惨さについては十分に経験済みの上だ。そしてそれは何も大衆や子どもたちにだけ見られる特徴ではなく、人間全般について同様のことが見られると思っている。つまり指導層も大衆もない、大人も子どももない、
誰もがもっている心性で、人間はただそれをふだんに拒否する意識的な努力を必要とするとわたしは考えている。
 指導者面をしたがるものたちは、自分たちはそうした意識的な努力をしていると錯覚している。そしてその上で子どもや大衆の上に立ち、そのことを強要する。だがその強要する一点において、彼らは客観的な関係の網の目の上において強制したり迫害したりする立場に立ってしまっている。彼らにはそのことが分からない。分かれといっても無理なことだ。彼らはいつも自分の行っていることは善だと信じ込んでいるし、強制や迫害が大衆や子どもたちのためになることだと信じて疑うことを知らないからだ。
 
 観念(幻想)の共同、共同の観念(幻想)、どう言ってもいいのだが、教育の周辺では未だに冒頭に述べた価値観が固定化されている。わたしは長い間それを今日的な迷妄として打破し、却けたいと考えてきた。けれども、それはますます強固にわたしの目の前に立ちはだかっている。
 
 知識や技能に優れることは、けしてそれだけを取り上げていいことだと言うことはできない。それはある意味で自然な過程であったり必然的な過程であったりというに過ぎない。それを習得する努力を含めて、単にその時代、その社会にその役割を担うことになったそれらの人々は、その優れた知識や技能を自分に占有のものと考えるべきではないと思える。それは他の大勢の人々、あまり知識や技能を持たない人々に向かって、奉仕的に使われるのでなければ意味がない。なぜなら少なくとも獲得した半分は人類の歴史および同時代の社会から与えられたものにすぎないからだ。贈与には贈与をもって報いるのが当然だ。知識や技能を得ることは偉いことでも何でもない。それを持って威張ったりすることは愚かだ。たまたま得ることを可能とする条件下にあって得たに過ぎないのであり、逆にそれを得たことでどう活用するかを考える責任が生ずる。問題はそこからだとわたしは言いたい。
 知識や技能の習得は、地位の向上、権威や権力の獲得、富の獲得と分かちがたく結びついている。これによって人と人の間に上下が生じ、格差が生じる。本当は逆でなければならないはずだ。戦後の教育はわたしたちにそれを教えたはずなのに、結果は真逆であり、そうでありながら教育はそれに答えようとはしていない。相変わらず同じことを主張しながら真逆の結果を容認し続けている。平等をうたいながらそれを実現せず、格差を助長し、固化しようとさえしている。現行の教育と教育制度は、あまりに利己的な生活向上のための手段や道具と化している。わたしたちの国は教育の先進国としても存在すると思うが、この先進国からして教育制度の悪しき面が拡大、膨張しつづけていると言っていい。進学のための、就職のための、官民を問わない登用制度の低年齢化に他ならない。こんなことがどうして21世紀の今日の教育の課題にならなければならないのか、わたしにはあほらしく感じられて仕方がない。
 
 今日の教育制度が最大限に個人に効果が発揮したものとして、わたしたちはすぐに社会の枢要な位置についている人たちを思い浮かべることができる。たとえば安倍首相。たとえば官僚や他の政治家たち。たとえば財界人。たとえばマスメディアの上層部。たとえば企業や法人の上層。たとえば学者や研究者たち。たとえば芸術家や評論家たち。彼らは今日の教育制度の寵児という見方もできる。
 教育はこういう人間と思想の形成に役立ったのかとおもえる面と、こういう人間と思想の形成しか産み出すことができなかったのかという、両価性としてわたしの前に現れる。そしてわたしには後者の数の方が圧倒的に多いように思われるのだが、それはわたしの目が曇っているせいだろうか。威張り腐った文明人面をし、金に強欲で、地位や権威や名声に聡く、平気で大衆に嘘をつき、保身に長じ、自分たちを賢く偉いと誤解している連中。教育や教育制度はそのことを正当化づける根拠とされている。つまり都合のよい道具にしかなっていない。これを避けるのは教育の力ではない。それは何の力かと言えば、うまく言うことはできないが、人間の力だと言ってみるほかに言いようがない。しかも人間の個人の力だと言うよりも、他者の力であり、関係の力だ。それは聞こうとするものにのみ、聞こえるものとして日常の中にふだんに存在する。それは人類の歴史が願望として、今日まで地下水脈のように流し続けてきた言葉にならない言葉のようなものだ。
 
 
子ども期の教育と遊び その八
              2015/02/14
 出生時および出生直後の赤ちゃんの肉体的、精神的状態を見れば胎児の時に母親の精神状態がどうだったか、また胎内で母親からどんなメッセージを受けとったか、あるいはそのメッセージによってよってどれだけ影響を被ったかが分かるという研究や考え方がある。
 それからの推測だが、母胎が持続して幸福と充足とを感ずる状態にあれば、胎児はそこでの生活を好適なものと感じ、無意識の内に環界(自分を取り巻く世界=全環境)を好適なものと認知するにちがいない。反対にそこでの生活から不安や恐怖に動揺する状態が得られれば、無意識の内に猜疑、不信、疑惑などが芽生えるだろう。
 ヒトの資質や性格の大本はそこで無意識の内に埋め込まれ、自分と自分以外のもの(世界)との関係の初期の形式、あるいは構造の枠組みを決定するように思われる。それはしかし、だからといって決定的なものとはいえない。出生後の母親の授乳の態度もまた、次元を異とした環界からのメッセージとして乳児に受けとめられるために、二次的な資質、性格の形成に結びつけられる。つまり、端的にいえば一時的な資質、性格形成の補正が可能になる時期だということもできる。
 これはその後の幼児期にまで持ち越され、
乳児までの母親との関係としての全世界は、
父親および家族内世界へと拡張されていくものと思われる。拡大していく環界がどこまでも乳幼児に好適なものかどうかを感じさせる度合いで、乳幼児の無意識に形成される心的な資質や性格は多少の変化がもたらされる。つまり、第二の補正、第三の補正くらいまでは想像できるような気がする。
 今日では児童期にいたって子どもの世界は社会にはじめて抵触し、この期をもって彼の(彼女の)全世界はある水準に到達するとともに、無意識の性格の枠組みは決定してしまうと考えられる。これは思春期以後、どんなにじたばたしても動かすことができない。
 以上のことから理想的な子育てというものについて考えてみると、第一に母親を不安や恐怖といった状況から解き放ちより健やかな状態の中に過ごさせることであり、第二に乳幼児からすれば、拡大する環界としての家族が仲良く親和的に暮らせているということだろう。そういう環境があればそれが子どもにとっては環界としての世界を意味するから、そうした親和性や情愛のみちあふれた中では
まずおかしな性格だけは形成されるはずはない。第一段階の大本の性格形成は、「三つ子の魂百まで」の諺にあるようにだいたいその辺りで決定されるだろうが、児童期にも第二段階あるいは第三段階もしくは最終段階として、やはり性格形成に影響を及ぼす時期だという特徴が見られるようにおもえる。
 わたしは児童期というのは、子どもにとっての世界が地域社会にまで広がる(村落共同体程度の範囲)時期のように思われる。子どもにとって全世界が母親だった時期から、家族、地域へと世界は拡大していく。吉本隆明はこの時期を「遊びが拡大する時期」とか、「遊びが生活のすべての時期」というように定義していたが、これを受け入れ、けして強制的に抑圧をかけて包囲しないことこそが子どもにとっての理想的な育ち方だとおもえる。 子ども同士の遊びはいろいろな資質や性格の表出であり、そこでは衝突や折り合いや妥協や愛憎が刻一刻と発揮されるにちがいない。また、男の子らしさや女の子らしさなど性的な発現もはっきりとしていく時期といえる。少なくとも、自然的本能的な成長、発達の側面を抑圧しないで、こういう方向での育て方や育ち方をしたら、今日の児童期にまで降ってきた殺傷事件のような深刻な事態は、緩和されていくのではないかとわたしには考えられる。
 
 現実には未婚女性の出産や離婚家庭が増加し、父子家庭、母子家庭が増えている。子育ての環境は悪化の一途を辿っているようにも見える。児童虐待のニュースも頻繁に見聞きされる。こうしたことの多くは子どもの無意識に、環界(世界)が不快なもの、恐ろしいもの、嫌なもの、といった印象を蓄積させて行くにちがいない。加えて学校教育で5、6時間をみっちりと学習だ、しつけだ、などと毎日やられたら子どもはどうなるのか。暴れたくも騒ぎたくもなるし、生きる意欲さえ失われてしまうのではないのか。
 いま、小学生から大学までの学習とか勉強とか言われているものは、一生懸命知識や技能をコピーしたりされたりしているにすぎない。いわば所詮受験のための勉強や学習に過ぎない。その季節を過ぎたら何も残らない。せいぜい残ったとしても読み書き計算と、あとは取るに足りない知識や技術の類に過ぎないだろう。このことは多くの大人たちが自分の胸に手を当てて考えればすぐに分かることだ。今の時代の子どもたちは、必要を少しも感じられないところで課されるそうした強制には反発してみせるしかないし、自分の将来のためだといわれても実感できるわけもない。子どもと先生とが妥協しあって教室で行われていることは、当然本当の勉強や学習とはほど遠いものだ。勉強も学問も、ずっと先にあってその先からはじまる。いまやっている勉強のほとんどはいらないものだから、子どもも先生も適当にやればいい。ムキになってやる必要は全然ない。あとは高校や大学の受験と就職時の試験をどう考えるかだ。ここをうまくしのげればいいのだが、現実はそう甘くはできていない。ここが問題であり難関のひとつだ。
 学校制度があるかぎりにおいて、基礎や基本として触れることはかまわないが、少なくても小学生から中学生にかけては本末転倒で、人間の根幹としての性格や資質の形成を考えるならば、勉強や学習を第一義に考えるべきではないと思える。この時期は遊びこそが第一義に考えられるべきで、親も先生もそう意識するだけで子どもに負荷される無意識の負担は軽減されるように思われる。だからそうなってほしいのだが、これが実現されるには親や先生たちの意識の変革が必要だ。これも相当に困難なことだ。たとえば、吉本が『家族のゆくえ』で「早期教育の中心課題におくべき、生涯に影響する問題である」と、ある意味で渾身の思いを込めて提案しても、社会や教育の世界から一顧だにされない厳然たる事実がある。吉本の言葉が通用しないばかりでなく、そうした状況に波風さえ立てることができなかった。これは吉本の思想を細々と追い続けてきたぼくのようなものには打撃であるし、現実に風穴を開けるどんな可能性も見つけられずに今日にいたっている。不毛と徒労を前提として、なお考え続けずにはいられないのだ。
 
 文明の加速度的な進展とともに、この社会の中で大きく変わってきたことのひとつに家族の崩壊現象がある。それとともに、存在が学校教育制度とこみになった子どもの世界、特に心とか精神とか呼ばれる面に異変が生じてきたことは周知のことだ。
 何度も繰り返してきたが、吉本隆明は発達心理学などにおける区分の中のひとつとしての児童期について、それがたかだか2、300年前くらいに近代学校教育として制度化された時期からの概念で、いわば限定的なものではないのかという疑念を述べている。つまりヒトの自然な発達や成長にとって、少しも必然的に経ていくべき時期とはいえず、文明の発達によって産み出された産物に過ぎないのではないのかということだ。私はその考えに同調している。
 教育制度とこみに考えられた発達区分はさらなる文明の発達や高度化にとって必要とされるもので、そのように組み込まれ組織化され、教育はいっそう文明に寄与する制度として強化され、拡大されてきた。けれどもこの制度は文明の進展を加速度的に推し進める効果をもたらしたが、ヒトに内在する精神史からはこれを窒息させたり、あるかなしかのところまで後退させるといったような作用をもたらした。いわゆる、ヒトの心がぼろぼろになったり、孤立し、いがみ合い、強欲や猜疑心に駆られるようになったと見られるのはこのことに遠因があるのではないかと考えられる。高度な文明生活の享受。だがその代償として、わたしたちの社会は子どもたちに反自然的な、知識と技術と社会的な規範をぎゅうぎゅう詰めにした生活時空を強制し、これに馴致しないものを真綿で首を絞めるように社会から脱落させ閉め出している。これは正常で豊かなこころとは真っ向から対立する現実の生成にあたっている。
 
 
子ども期の教育と遊び その七
              2015/01/31
 これまでの繰り返しになるが、子ども期の過程とは遊ぶことが必然的な過程である。一人立ちするために、遊ぶことが必須の課題である時期と言ってもいい。そこでは、遊ぶという形態を通してしか成長や発達はあり得ない。逆にいうと成長や発達が、遊びという形でしか達成できない時期を子ども期と言う、と考えることもできる。もっと言えば、この時期にはどんなに熱心にそして本格的に習い事や勉強をしたとして、それらはすべて遊びの範疇に入る。遊びは別に、いい加減であることを意味していない。なぜこの時期の生活のすべてが遊びと言えるのかは、子ども期の習い事にせよ勉強にせよ、すべてが即食うための活動とは言えないからだ。それは遊びというほかない活動であって、子ども期とは、遊ぶほかにどんな活動の必要性も必然性も生じない時期だと言える。
 
 人類が古代に、心的に「人間らしさ」(愛情の目ざめなど)のようなものを獲得してから、狩猟採集を含めた食料調達の活動ははっきりと親や他の大人たちの分業に割り当てられ、未発達の子どもはそうした活動から引き離され、年齢的には徐々に後ろに引き延ばしされるようになったと考えられる。大人や親の愛情と、時代的な食料の充足から来る余裕とがそのことを可能にしていった。それ以前、乳児期には狩猟採集に参加できなかっただろうし、幼児期においても足手まといなどの理由から大人たちと一緒の活動は行えなかったかもしれない。だが幼児であっても条件的に飢渇を余儀なくされた場合は、周囲の大人たちのまねごとをしてなんとか飢えを凌ごうとしたことはあったはずである。未明の原始の時代にはふだんにそうした状況は訪れ、動物生に近かった当時であれば、幼児といえども今日の動物の生き様に似ていまよりは少し早い時期から、食料調達の活動に参加せざるを得ない場合が多々あったと考えられる。
 現在ではそうした原始や古代には想像もできない恵まれた環境の中で、また恵まれた育ち方を享受している子どもたちは、ひ弱で、発達も遅く先延ばしになっている面がある。それに比べ、原始・古代の子どもたちは、四肢の筋力、体力をはじめ、身体能力は現在よりも格段に早くそして強く発達、成長することを必要とされたに違いない。たぶん今の時代のように、子どもをゆっくり、大切に育て上げられるようになったのは農耕生活が定着してからだ。その辺りが、自覚的に子どもを養護するようになった起源と考えたい。
 今日では特にそう言うことができるが、子ども期には遊び以外に、差し迫ってしなければならないことは何もない。大人たちのように自分や家族などが食うために働くとか、自分ともっとも関わりの深い共同体のために、維持や運営を支える活動などの義務を課されることもない。その意味では、成長や発達の自然過程としては、生活のすべてが遊びであるという言い方もできよう。
 もちろん今日のように、学校教育制度の中で知識や技能や社会のルール、地域的な習慣や習俗の規範めいたものを身に付けることを課されたりはしているのだが、それを果たさなければ即生活に支障が生じるとか、直接生死に関わるということでもあり得ない。
 
 以前の文章でもちょっと引用した覚えがあるが、吉本隆明は『家族のゆくえ』と題する本で次のような文を書き留めている。
 
 少年少女期というのは、学制から見れば小学校へ上がるころから中学生までの時期になるが、ここでいちばん重要なことは遊ぶことの拡大だとおもう。親の側からいえば、何も干渉せずに遊ばせる時期だとおもう。
 少年少女期の定義は何かといったら―「遊ぶこと」がすなわち「生活のすべて」である生涯唯一の時期だ。「生活がすべて遊びだ」が実現できたら、理想の典型だといえよう。遊び以外のことは全部余計なことだ。この理想が実現できなければ、おどおどした成人ができあがる。もちろん、わたしもそうだ。これは忘れてはいけないことにおもえる。
「遊び」が「生活全体」である、というのが本質だから、できれば遊び以外のことはやらせないほうがいい。どんな大金持ちの息子であろうと、どんな貧しい家庭の子どもであろうと、生活全体が遊びの時期であるという意味では隔たりがない。みな同じだ。後白河法皇の『梁塵秘抄』ではないが「遊びをせむとや生まれけむ、戯ぶれせむとや生まれけむ」は、思春期や成人期では遅すぎる。ただのつまらない引き延ばしになってしまう。
 親が「勉強しろ」とか「うちへ帰ったらちゃんと机の前に坐れ」というのは余計なことにちがいない。多少、勉強も背負うとすれば、どこか部屋の片隅の方で教科書を開くとか宿題をするくらいだったら、学校制度と折り合いがつくのではなかろうか。これは早期教育の中心課題におくべき、生涯に影響する問題であるとおもう。本を読むのも遊び、勉強も遊び、というほうがいいとおもう。そういうことであれば、制度だから多少は勉強を背負ってもいいけれども、そのほかの要素を入れるのは邪道だとおもう。これは絶対間違いないと、確信をもってそういえる。わたし自身はご多分にもれず、借財を背負うに似て「遅すぎる」の連続だったとおもっている。
 どの家族もたいていその邪道を歩んでいるとおもう。だいたい母親が邪道だし、場合によっては父親だって邪道だとおもう。あるいは学校の先生も。
 小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供たちと一緒になって遊んでいればいいとおもう。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやり方を生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。
 要するに、教えないようにして教えることしか身につかないとおもう。自分も遊びながら、生徒も勝手に遊びながら聞いている。わたしはそんな感じで教えてもらいたかった。
 少年少女期は生活全体が遊びなのだから、親でも先生でも、もし遊んでやろうというのなら、いっしょに遊んでしまう。自分も子供たちといっしょになって遊ぶ。それがいちばんいいやり方だ。先生や親にとっては遊んでいる時間は生活の一部だけれども、子供にとっては、この時期、それが全部であり絶対なのだから、そうおもって子供たちに接してもらいたかった。(太字は佐藤)
 
 おそらく、読むひとが読めばわたしのこれまでの子どもの遊びに関しての文章が、吉本のこの文を追認するように徘徊してきたのだということが知れよう。ここで吉本は彼の認知のすべてを出し尽くしているわけではない。逆にそれを抑えながらただ彼が断定できると思い込んでいるところを珍しいほど熱く語っているだけだ。その分というべきか、それにも関わらずというべきか、論理的な説得力に欠ける。わたしはそこを補填するようにして理解したいと試みてきた。もしかするとそれは「信ありき」から発していて邪道であり深読みの危険を伴った読解かも知れない。だが、わたしにはどうしても吉本が、盲信のように信じているに過ぎないところを語っているようには思えないのだ。引用した箇所の言葉の背景には、地下水脈の大きな流れのような彼のこれまでの膨大な思索の流れが隠されているにちがいない。これらは表面のほんの一部の上澄み部分が表現されたものだとわたしは考えているのだ。吉本はここではそれだけを述べれば足りると考えていたのだと思う。深層の部分は『心的現象論』などの著作の中で充分に考察し、あるいは解明してきたのだからというように。わたしはそういう考慮の元に、繰り返しその総体の理解に向けて問いかけてきたつもりでいる。
 ここまで言えば、これまでのわたしの文章がけしてわたしのオリジナルな考察や言葉からなるものではなく、吉本のそれを追体験的に認識しようとしているに過ぎないことが明白になってしまうだろう。それはしかし、それでいい。わたしはただ、心の奥深くから子どもの児童期の本質を理解したいと願っているだけだ。
 
 いま、なにげに太字にした部分を取り出して並べてみる。
 
  @遊ぶことの拡大(少年少女期の重要課   題)
  A少年少女期の定義は何かといったら―   「遊ぶこと」がすなわち「生活のすべ   て」である生涯唯一の時期
  Bこの理想が実現できなければ、おどお   どした成人ができあがる
  C「遊び」が「生活全体」である、とい   うのが本質
  Dこれは早期教育の中心課題におくべき、   生涯に影響する問題であるとおもう
  Eこれは絶対間違いないと、確信をもっ   てそういえる
  F教えないようにして教えることしか身   につかないとおもう
 
 発達心理学などの研究の世界を覗くと、幼児期までの遊びの重要性に言及する部分はあっても、児童期となると、学校制度が上に被さってどうしてもそれとの関係で発達やその課題が指摘されてしまっている。そのために、吉本が言うように、児童期の重要課題が遊ぶことの拡大にあるとか、「遊び」が「生活全体」である、というのが本質、というような言明はなされていない。おそらく、こうした学問、研究の発達がすでに学校制度ができあがってからのものであるため、児童期を考えるのに学校制度に組み込まれた児童を対象とするほかなかったからであろう。研究の対象とする児童の心理にせよ行動にせよ、すでに学校制度の影響が隅々にまで浸透している。
 学校制度を視野から引きはがしてごく普通に考えれば、幼児期から児童期にかけて、子どもは内遊び、軒遊び、外遊びというように段階的に遊びを拡大していくもののように考えられる。成長発達の自然な過程としてはそういう流れがごく当たり前に考えられることだ。それが自然な過程であるかぎり、そこにはまた成長、発達に及ぼす重要な課題が潜在しているはずだ。意味のない時期ではないし、意味のない遊びの拡大の時期ではないはずなのだ。意味のない無駄な遊びの時期ではないはずなのに、わたしたちの社会は児童期の子どもたちから自由な振舞いの時期を取り上げて、秩序と役割に奉仕するように子どもたちに課し、また去勢してきた。そのことがどんなにひとに内在する自然性を傷つけてきたか、その全体的な解明がまだだとしても、今日の社会の子どもたちの突然のように引き起こす殺傷事件を見れば、そこに投影されているとみなすことはごく自然なことと思う。だからこそ吉本は「早期教育の中心課題におくべき、生涯に影響する問題であるとおもう」と述べ、「遊びが生活のすべてである」という認識を児童期、吉本のいう少年少女期に割り当てる必要性を強調しているのだ。
 
 胎児は子宮から産み落とされるが、こんどは家族や家が母体であり子宮であるといえるだろう。その狭い空間が乳児にとっての全世界になる。この全世界ははじめに母胎であり子宮であったものが段階的に拡大していくとみなすことができる。幼児期に成長すれば全世界としての家族や家から少しずつ外界を取り込んでいき、全世界もまた少しずつ拡大されていく。そのように個体の心的な成長と発達は還界認識の自己化を拡大していくように見える。言い換えると、その都度心的な出産と誕生とを反復していくようにおもえる。それが遊びの拡大を通して連続的に行われているのだと考えることもできる。もちろんこれは実証のないたんなる憶測に過ぎないといわれたらそれまでだが、そう考えるとわたしにはとても分かりやすくなる。子どもの発達や成長についてイメージしやすくなる。
 子どもの成長や発達に伴う世界(時空)の拡大は遊びを原動力としてなされる。それが一定の水準に達したときに、ひとは子ども期を終えることになる。つまりその時点でひとは、自分にとっての全世界の了解を一定の水準で内在化させたものとみなすことが可能だ。
 
 
子ども期の教育と遊び その六
              2015/01/25
 遊びとは何か。現在のわたしたち大人にとっては仕事の合間の息抜きであったり、気晴らしや楽しみ、つまり生活の中心が仕事であるとすれば、自分の時間をそれ以外の非生産的なことがらに費やすことだ。
 一般生活者としての現在のわれわれは、一日の内の8時間程度は睡眠に、また8〜10時間程度を仕事に費やし、残りの6〜8時間くらいは家族生活や自分の趣味などに費やす時間としている。これは習慣化されていて、わたしたちは何の不思議も感じないで毎日これを繰り返している。農耕社会の成立を起源に、文明の発達と共に積み重ねられてきた生活様式の、今日的に達成せられた局面と考えていいと思う。
 24時間を「食と性」と、敵から身を守るために、常に緊張しながら生きなければならない動物生から、わたしたち人間の生き方は脱却したということができるだろう。これによってわたしたち人間だけが他の動物たちに比べて、連続して必死に生きるという事態からは免れることができている。つまり「余裕」ができたということになる。それによって、24時間を3分割して、仕事と睡眠とその他の自由に使える時間とに振り分けることができるようになっている。
 
 子どもの場合は、大人の仕事に当たる部分がないということが特徴的だといえる。
 知られているように、動物の場合は遙かに短い1、2年という養育期間を経ると、自立を促される。種ごとにこの期間に長短はあるだろうが、これにくらべると、人間は遙かに養育者に依存する期間が長いということだけは言えそうに思う。一般的に言えば7〜8歳になると言語による意思疎通が可能になり、身体能力もちっちゃな大人といった程度の働きが可能になる。1人前とは言えないまでも、教わりながら、仕事の手伝いや補助的な作業くらいはできるようになる。生殖機能がどれくらいで完成するのかは個人差があるだろうが、それに前後して精神的な発達が伴い、昔は、だいたいはそれらの機能の成熟を機に、仕事的にも社会の一員としても1人前の働きを促されていたように見える。
 前に見たように中世のヨーロッパの徒弟制度の時代には、7〜8歳頃から大人に混じって職業技能をたたき込まれるようになり、よく習得できたものは1人前の大人扱いがされるようになったといわれる。この1人前扱いには飲酒や性愛的なものも含まれたようで、このことがまたその時期の年齢の道徳的、倫理的な未熟さを、逆に浮き彫りにしたとも見られる。いわば子ども期が社会の関心の対象として大きく取り上げられ、それによって子ども期そのものが延長されて考えられるようになってきたと言ってよい。簡単に言えば、文明史的な発達と共に、その分だけひとは観念上の課題を課されることになり、その修得のために1人前と認められる時期を後方に延長されるようになった。
 
 いずれにしても、大人とは仕事中心の世界に参入することを意味しており、子ども期はそれが猶予されてある時期だということができる。また現在、老人期とは60歳や65歳の定年を迎えた時期を基本に、それ以降を指すと考えることができる。これは子ども期に似て仕事や労働を猶予される期間だとも言えるし、そこから疎外される期間ということもできそうに思える。こうした見方をすると、子ども期と老人期との狭間の仕事に携わる期間が、人間として生きることの中核の生き方のように考えられてくるが、これは偏狭な見方に過ぎない。ほんとは子ども期も老人期もそれ自体として独立した時期とみなす必要がある。それぞれに時期に見合った中心的な課題を持ち、予備軍的な、あるいは退役的な見方だけではそれがとらえきれないのではないかと思われる。老人期を迎えたばかりのわたしは、内心で、これからはいよいよ現役を退いた、社会にとって不用な存在に押し込められていくような不安を感じることがある。こう考えるのはこれが1つの共同の幻想として自己幻想に覆い被さってくるからである。この共同幻想にすっかり覆われてしまえば、わたしは自立した自分というのを持ち得なくなってしまうだろう。こうした格闘は老人期の特徴の1つとも言えよう。
 
 子ども期の遊びの意味についてもう少し考えておきたい。
 幼児期の遊びについては何度か触れてきたが、一般的に内遊び、家の中での遊びということができる。それとなく家にいるものの監視が行きとどいた中で、積み木やお絵かきやままごとやごっこ遊びといった形の遊びを思い浮かべることができる。これらは言うまでもなく、幼児が見聞きしたこと、あるいは体験や経験を元にその子どもならではの再構成された表現という側面を持つ。いってみれば現実とまったく脈絡のない遊びというのはあり得ないということだ。遊びには現実からのヒントが必ず存在するし、媒介されるものだと言っていいと思う。
 遊びには、遊ぶこと、なぐさみをすること、あるいはまた、心のおもむくままにするなぐさみ、などの意が辞典に書かれている。なぐさみにはまた、楽しみ、気晴らし、もてあそびなどとある。
 幼児の生活を考えると、眠りや休息、そして授乳や食事などの時間以外はすべてが遊びに見える。生活のほとんどが遊びに見える。養育者などにかまってもらいながらの遊び。ひとりで何かをいじったり、もてあそんでいるといった形での遊び。飽きるとまた違った対象物で遊び、それはころころ変わるが一日を止めどもなく遊んでいるふうに見える。
 大人の世界ではこうした幼児の遊びは一見して全くの無駄に思えるのだが、幼児の世界に入り込んで考えれば、遊びは成長や発達と同義だと思える。幼児の遊びには成長や発達の成果の側面と、さらなる成長や発達を促す側面とが同時に表れる。たとえば幼児の前で小さなボールを転がすと、興味を持てば幼児はそれを手でとらえようと追いかける。こういう場面では手足を上手に使いこなすとかコントロールする能力がついているか、まだついていないかが判定できるし、ボールをしっかりとつかめない場合でも、それを必死につかまえようと、体全体を揺り動かしてボールをとらえようとするところに身体能力の訓練という意味合いが生じる。
 子どもの遊びには意味がある。それは幼児期から児童期にかけての軒遊びや外遊びについても同じことだ。身体的にと精神的にと、遊びを通じてそれまでに身についた能力を発揮しながら、それをいっそう高めていくという形での成長や発達がそこで行われると言っていい。それらを微細に観察し研究することは学者の領分である。
 
 
子ども期の教育と遊び その五
              2015/01/21
 児童館での小学1年生から3年生の子どもたちは、会社勤めなどの母親たちが迎えに来るまでの2、3時間を、学校の宿題をしたり遊んだりして待っている。
 遊び盛りの子どもたちにとって、宿題などはまあ現実からの「嫌がらせ」程度にしか思えない。しぶしぶやっている。
 遊びは、室内では積み木、ブロック、カードなどを使った遊びやちょっとした鬼ごっこ風なことをしたりしている。外の広場を使うときには、砂遊び、雲梯のようなものでの遊びや鬼ごっこ、ドッチボール風なこと、また縄跳び、あるいは草木を使っての「ごっこ」ふうの遊びなど多岐にわたっている。
 幼児期のお絵かきやままごとを過ぎて、しかし児童期のこの時期にも子どもたちの生活のメインが遊びにあることは一目瞭然と言っていい。この時期の子どもたちの多くは、実にパワフルに遊ぶ。
 
 遊びは子ども期の自然な欲求に思えるが、もっと言えば人間の生涯を通じての自然な欲求ではないかと思える。わたしたち大人もまた、本当は遊びとも仕事とも見分けがつかないような形で「食」を確保しながら、生涯を送りたい願望を潜在的に持っているのではないだろうか。狩猟採集時代の古代人を考えると、しばしば飢餓的な状況におかれることもあっただろうが、果実や獲物などが豊富なときには現代人以上に実に豊かな「気分」の中で生活を送ることができたのではなかろうか。いわば遊びと労働とが見分けがつかない形で日々を過ごす瞬間があったに違いない。それが永続すれば、わたしたちの理想と言える。
 
 幼児期からはじまって、児童期、思春期までは、理想を言えば「遊び」中心の生活を送ることだと思える。それが人間という生き物にとって、生涯を考える場合でも時期的に自然な欲求であり、自然な過程であるように見える。これは「遊び」という言葉を使っているが、実は「遊び」という言葉の中には様々な要素が入り込んでいる。幼児期の「ままごと」でも何でもいいが、その時期の遊びには人間の自然な発達や成長に資する何かが必ず含まれている。「遊び」を通じて子どもたちは「学習」すると言い替えてもよい。思うに、「遊び」を通じてのその「学習」には、学校で詰め込まれる文明史的な知識や技能には代え難い、ヒトにとって重要な何かがあると思える。あるいは言い方を変えれば、わたしたちの時代の科学はその重要さをはっきりと解明してはいない。まだまだ社会経済を優先し、経済効率を優先し、子ども期を労働予備軍、社会生活の予備軍のようにしか思いなしていない。健全な市民の育成などというのも、ほんとはその程度の視野の中でしか考えられていないと言っていいと思う。
 
 わたしたちは食料生産における野菜や家畜などの栽培や育成などと同じように、ヒトの成長もまた現在の科学知で計量できたりコントロールできるかのように思いなしている。だが、よかれと思って強化してきた子どもの教育が、本当によいことばかりなのかどうかは現実が答えてくれている。それは言わずもがなのことで、社会も家族も子どもの育成や成長に不安を増幅させている。
 見栄えのよい、また質のよい野菜が量産される中で農薬が不安視され、無農薬の有機農法が一方で行われるようになっている。ここ当分は両方の立場がそれぞれに試行錯誤や模索を繰り返し、それぞれの立場でよりよい農法を極めていく道を辿るのだろうと思う。食糧の問題は、うまくて安全な質の確保と量の確保に尽きるだろう。では教育はどうなのか。これは長年教育について考えてきたわたしの脳裏に、いつまでも渦巻いている疑問だ。徹底的な管理強制か自由放任か、あるいはまたその折衷案であるべきなのか。いまもこれに答えることができない。野菜の栽培でいえば肥料と農薬を使った農法がいいのか、無農薬でより自然に近い形での栽培法がいいのかという問題に近似すると言えよう。意見は立場によって左右する。今のところ、「絶対」はないように見える。どちらの立場も、ほんとは徹底的であればあるほどいいのだと思う。どっちつかずの中途半端が一番よくないのではないか。教育も同じで、現在のように管理と自由との間で中途半端にやっていることが一番よくないような気がする。昔の軍隊式で徹底して規律と管理の重視をするか、まったく自由にしてしまうかのどちらかの方がいっそよいという気がする。今日の状況のような、矯飾の奥に沈み込んだ異常や病的な様態からは解放されるに違いないと思えるからだ。しかしどちらにも難点があって、現実的ではない。前者には人権などの問題が絡み、後者にはいずれ現在の教育制度の最終段階である大学の入試の問題や、就職時の試験等の問題がある。だが、誰かがこの門を開かねばならぬ。すでに、長きにわたったこの教育の現実から多くの成人が社会に巣立ち、彼らはすでに家庭を維持するだけの力も忍耐も失って家族の解体を加速させ、子どもたちの虐待の加害者としてけして少なくはないそうした父親、母親を排出するようになっている。すでに親たちも子どもたちも、一見すると繁栄と平和に満ちたこの社会に耐え得なくなっている。ほんとは誰もが切に救済を願いながら、表沙汰になるのは自分以外の誰かを迫害するという形をとるほかになくなっている。
 今日の学校教育においてこうした視点から教育を見直す考察が見られるか?現場を離れて10年以上たつが、本当に危機感を持った考察は不幸にして未だ見聞きしたことがない。すべてが自分の頭を使って、自分の能力をフルに使って、自分の体験や経験の奥底をくぐり抜けて、問題の本質を解明しようとしない。誰もが他人の考察をあてにして、そうして誰も果敢に考察し、解明しようと試みるものは皆無だったのだ。おそらく、すべてを背負った教育の現場においても流布された学説を浅く受けとめることしかできていない。そして依拠するその説を何の疑いもなく、自分の考えであるかのように自他に言い聞かせながら、結局は己自身を糊塗している。それなのに、その口でよく「努力せよ」と他者には言えるものだと思う。仕事で努力することは当たり前。苦労し、疲れるのも当たり前。けれども、現在はそれをこえてなお粘り強く考え抜く必要に迫られているのだとわたしは思う。そのように社会の状況も教育の状況も危機的であり、過酷なのではないか。わたしたちはそのことを誰にも強制できないし、またしようとも思わない。考えずに済ませることのできるものたちは、考えずにすましていいのだと考えている。だが、わたしたちだけは事の本質に気づきかけている。気づきかけている以上、限界を超えて考え抜いていかなければならない。なぜなら加害者となり被害者となる子どもたちの無意識が、わたしたちにそのことを語りかけて止まないからだ。教育とはそういうことではないかと、教育者失格を自認するわたしは思っている。
 
 
子ども期の教育と遊び その四
              2015/01/12
 学校というものは共同体の最終形態である国家が管理運営するもので、人的資源の有効活用という側面を持つ。これはシステム上いたしかたのないことで、さらにそれを平たく言えば家畜化を意味するものだ。国家の作る基準を元に人的な規格化を図る。中身や内容が人権的であり保護的であれ、この枠組み自体は否定できない。
 このことはしかし同時に、人類が多大な時間を費やし歴史的に練り上げてきた至上の考え方であり制度であるという側面を持つ。わたしたちはこういう形以外に、現実に至上の楽園を子どもたち全体のために建立したという歴史を持たない。個別には愛情溢れた両親の元に、至上の楽園を生きた子どもたちはいたかもしれない。近世以前、子どもたちの運命は家族と親族、氏族的な習俗や慣例などの身近な共同体の管轄の元にあったと考えていいと思う。だがその実態は現在から見れば様々な問題点を抱えていたに違いない。
 ウキペディアの近代学校教育制度という項目の中に次のような記述があり、手軽だからという理由だけでここにちょっと引用してみる。
 
中世における教育は、徒弟制度が主流であった。言語による意思疎通が可能になる7〜8歳から大人に混じって働き、職業技能だけを叩き込まれ、職業技能が一人前であると判定された時点で、大人扱いされた。労働現場の監督は、職業の先輩ではあっても、教育の専門家ではなかった。いったん労働現場に入れば、近現代の感覚では子供と見做される年齢でも、飲酒や恋愛が、自由とされた。
 
それに対し、17世紀の教育者たちは、子供として保護される時期の延長と、不道徳な大人から子供を引き離す作業に取り掛かった。不道徳の本質は、セックスのことだと断言してもいい。子供との性行為も、公然と行なわれていた中世の社会通念とは、相容れないものであったが、子供との性行為を是認する意見と否認する意見とが綱引きし、否認する意見が勝利して現在に至っている。
 
 これはヨーロッパの話であり日本のことではないが、おそらく日本においても似たようなことではなかったかと想像される。また中世以前についてもこういうところから、要するに子どもへの関心が社会の中心的な課題に浮上した時代は無かっただろうと推測できる。
 フィリップス・アリエスを持ち出すまでもなく、わたしたちは近世および中世以前、あるいはもっと古代からそれ以前の子ども期、児童期というものをはっきりと示すことができない。歴史的にそういう記述が少なく、そのことは子ども期についてあまり強い関心が払われていなかったことを物語っている。これは養育者たちが関心を払わなかったというのとは違う。共同体の枠組みの中に子どもが登場する機会がなかったというだけだ。社会的な関心として下位にあった。
 いずれにしても、近世になって子ども期は社会の大きな関心の枠組みの中に登場し、それ以降はさらに大きな関心として取り上げ続けられるようになってきた。そして家族の生活もまた、その営みの割合からいって過半以上を子どもの成長のために費やすようになってきたと言っていい。誰もが子どもは大事と考え、子どもの成長を見守り、子どもの世話を焼きたがる時代は歴史上かつて無かった。それほど今日では、子ども、子どもと口をそろえていっている。
 けれども、現在ほど子ども期が注目された時代は無かったにせよ、あるいは今日ほど慈愛のまなざしで子どもたちが見守られたことはかつてなかったことだとはいえ、同時にこれほど子どもたちにとって受難の時代は未だかつて無かったことだということができる。子どもたちは容赦なく社会の視線を浴びることになった。社会の視線に晒されることになった。誰もが等しく子どもらしさを要求され、明るさや素直さを要求され、善良さを要求され、男の子らしく女の子らしくを要求され、夢持つことを要求され、道徳を要求され、学習に対する意欲を要求され、挙げ句の果ては比較され優劣を競わされ、性格がどうのこうのとあげつらわれたりする。これがはたしてわたしたちの社会や共同性が最高度に発達させてきた人間性の帰結としての制度であり、その到達点だと考えるべきだろうか。
 
 日本では児童期を中心に子どもたちの世界に異変が起きている。故吉本隆明は彼の著作である『心的現象論』や『家族のゆくえ』などで、何度も、その原因が児童期から思春期にかけての、知識や技術や道徳や規範のごりごりの詰め込みと、そのことが結果的にもたらす影のはたらき、すなわち生命衝動の核心部分に関係する「性的な発現」が抑圧されるためではないかと問うている。
 この「性的な発現」は、無意識の遊びの中にしか十全には発現し得ない。また、これは「性教育」の問題とは縁もゆかりもない。
 人間の心的な「性」は、新生児期の、母親ないしはその代理との関係の中に初源を持っている。一組の特別な対の関係の中では、どちらかが男性的か女性的かであるほかの対応をとり得ない。男性でも女性でもない、たとえば中性という概念は人間のみならず生物的にはあり得ないのだ。これは身体器官の性器が男性器であるとか女性器であるとかとは関係なく言うことができる。
 わたしのイメージでは乳幼児期に、いわば心的な「性」が育まれるが、それは無意識の核および核の周辺に形成される。これは「三つ子の魂百まで」という諺にあるようなヒトの性格と不可分の関係にある。性格の1つの大きな柱と考えられてもいい。「性」を内在させたこの性格的なものは乳幼児期に形成と顕現とを同時に進めていくが、本格的に社会とのつながりの中でヒトの性格や資質が試練を受けたり格闘したりしなければならなくなるのはそれ以後、すなわち児童期にあたっている。
 この時期は、少なくとも中世以前までは、養育者や家族の庇護の元にあった幼児期から大人期に向かっての端境期にあったといえる。労働の予備軍的な、能力の不足したちっちゃな大人であった。だが待遇としては大人扱いされるようになる。実際には大人の真似をするに過ぎなかったのだろうが、この時期にしかし、自己、すなわち潜在する「性」的なものを含めた性格や資質やらの一切を社会的関係の中に初期的に発現することになるのである。学校制度が発達した現在は、この時期に30人前後のクラスの中で、同年齢の子どもたちと多くの時間を共に過ごすということになっている。当然そこに「性的な発現」を含めた自己、自分の、性格やら資質が露出されてくるのだが、これは遊びの中で自分を解放するという形をとる。
 うまく言えないのだが、この時期の重要さだけは指摘できる。歴史的に見て、この時期に学習や技能や道徳的なことを半強制的に詰め込まれる時代は無かった。近代から現代にかけて、わたしたちは何の疑問もなく、ただ発達した文明社会の恩恵を浴するかのように学校制度の恩恵に浸ってきたと感じている。事実、わたしたちは誰もが一定の知識や技術を身につけ、それによって進展する社会に適応してきた。あるいは新聞、テレビ等で世界の動きを知り、ごく普通の生活者でありながら世界の平和について考えたりすることもできるようになった。だから教育的な制度のすべてを否定しようとするものではない。だが、たかだか2、3百年足らずの学校制度以前の子どもの世界は、ある意味で自由勝手、気ままに、自分の裁量だけをたよりに生活していたわけで、今日の日本社会に見られる特に子どもの心的な異常が原因であるかのような様々な振舞いや事件などとは無縁であった。もちろん現代の子どもの引き起こす事件には様々な原因があり、学校制度にだけその責任を帰すことはできない。とはいえ、「こうすればああなる」式の考え方で設計された学校制度の充実と成熟、言い換えればこの制度が完全なる子どもの世界の囲い込みを果たしてきたことは否定できないわけで、歴史的に見て初めての子どものための制度が皮肉にもこのような結果をもたらしたことを、わたしたちは虚心に見つめなければならないと思える。
 
 
子ども期の教育と遊び その三
              2015/01/04
 ここ半年くらい、暇なときはネットで無料の海外ドラマを見ていることが多い。最近はずっとアメリカの犯罪ミステリーというべきカテゴリーのドラマを見ている。読書の体験を呼びおこすと、たとえば横溝正史の金田一シリーズを読んでいるような状況に似ている気がする。
 単純に見ていることが楽しく、また気が楽なので、そういうひとときに心身を委ねているといえばいいだろうか。残るものは何もなく、また非生産的なのだが、わたし自身はこれを「快」と感じているようなのだ。
 ところでこのドラマを見ていると、なんとなくだがアメリカの社会生活の一端が垣間見られる思いがする。特に気を引かれるのは性に関する描写や登場人物たちの考え方の言説だが、比較するまでもなく、同類の日本のドラマとは格段のちがいで「自由さ」が感じられる。雰囲気を含めてそう思う。
 一視聴者としての感じでは、アメリカのドラマでは、アメリカ人にとっては「性」は大きな関心事なのだなということが分かる。そしてこれをアメリカという国は真正面に見据えて、真摯に考えているのだということも伝わってくる。日本のように、風俗としてはさらけ出すがまともに「考える」ことをしない、できない伝統とは隔絶した感がある。こういう面での日本の後進性は決定的だが、しかしまた同時に、西欧流の明るみにさらけ出してそれをまた西欧流に思考していくあり方が普遍的な先進性と言っていいのかどうか、わたしにはまだよく分からないところだ。
 ドラマを見る限り、アメリカの思春期の青少年や少女は、多くが自他の性衝動や性愛やそれにともなう行動や考えや言葉を肯定的にとらえているように思われる。もちろんすべてのアメリカの青少年や少女たちが同じであるわけはない。アメリカという国が人種のるつぼであるように、様々のあり方が混在しているに違いない。それでも全体としてはやはり「自由のスタイル」は貫かれているように思われる。わたしたちの国ではこうはいかない。わたしには、自由度が徹底していないように思われる。自由だよ、という建て前はある意味で明確に打ち出されているが、それはあくまでも表向きのことで本音のところでは非常に強固に閉鎖的な部分が感じられる。性を尊重できていない。これは人間の少なくとも半分以上を尊重していないことと同じだ。わたしはそんなふうに思う。
 
 教育や学校に関連するところでいえば、まずわたしたち大人がけれんみ無く、あっけらかんと明るく、性の問題を話題にすることができない、そういういわば伝統がある。おそらく性にまつわる日本的な思考や態度の伝統は存在するのだが、今日的な西欧の生活様式を追いかける思考スタイルの中にそれを取り上げることは難しいことなのだ。倫理システムの新旧の違いと言ってみたいが、ほんとはよく分からない。
 そんなところでともかく日本における性の問題はごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃして、何が何だかよく分からない状態として存在する。進歩的であるかといえば、その根底に非常に古めかしい、古めかしさを通り越して迷妄や野蛮さが混在するというようにだ。わたしたちがこんなカオスを抱えているところで、性の問題に自信を持って立ち向かえるわけがない。そうしたらできるだけ遠ざけるか、見ぬ振りをするか、その問題に蓋をしておくかするほかはない。この姿勢は性の発現期としての児童期に、ぎゅうぎゅうに知識や技術や道徳や規範を詰め込む姿勢に矛盾しない。そしておそらくそれは、意図的、意識的に性を押さえつけ、閉じ込めておくべきと考えてのことではない。ただよく分からず、魅惑的であり不気味でありという、日本人的な性の受け止め方が強いているのだと思う。
 わたし個人は、アメリカという国のように、もう少しヒトにとってのっぴきならない生理的問題であると同時に心的で、心の形成においても大きく関与するところの性の問題を真正面から見据える、成熟した精神を日本にも求めたいと思う。そうすれば性の発現期としての児童期について、そのあり得べき姿を、もう少し性の問題から見直す必要性を誰もが感じられるようになるかもしれないと思う。それは心の形成という生涯の発達段階にかかわる大きな問題で、知識や技術といった、本気になればあとでいくらでも修正可能な、たんなる今日的で社会的であるにすぎない問題とは大いに異なるからだ。どちらが本質的で根底的で緊急の問題であるかは言うを待たないと思う。もちろん、人間性をねじ曲げないために、学問的に、また科学的に哲学的に蓄積された、心身の発達段階の考え方の成果を優先させて考慮すべきなのだ。
 言わずもがなのことだが、ここで「性の発現」と呼ぶものは必ずしも狭義の「性的」、「セックス的」な意味合いと同義ではなく、広義には「生命的な発現」ととらえるべきものだ。これには狭義の「性的」な意味合いも含まれるが、それ以上に生命的な現象全般を指すものであり、生命衝動の本質そして核にあるものが性的衝動と分かちがたく不可分であるために、「性的な発現」と呼ぶほかに言いようがない。これを児童期にからめてもう少し分かりやすくいえば、この時期にヒトは、心的な両性具備から、より男性的か女性的かに自分の観念の性を選択し決定していくものと思われる。この選択と決定は無意識の内に行われるために、無意識を解放した遊びがこの時期に何よりも必要となる。このことはもう少し詳細に、また緻密に追究されるべきことがらだと思われる。
 
 
子ども期の教育と遊び その二
              2015/01/03
 前回述べたように義務教育の教育課程には、学問的な専門分野からの要請もあり、また社会からの集約的な要請といったものも含まれるに違いないと考えられる。後者についていえば、わたしには会社などの経営者的な視点からの要請が色濃く反映しているのではないだろうかと想像される。
 文科省の審議会などを通じて、学者や経済界などからの意見が教育の内容に反映することはありうることだと思われる。そしてそれ自体は別に悪いことではないかもしれない。けれども万人が学者になろうとするわけではないし、会社などの欲するエリート幹部候補になろうとするわけでもない。そう考えれば、それらの義務教育に対する種々の分野からなる多種多様な要望を含んだ教育内容は、幾分かは多くの児童生徒には過剰な負担を強いるものになるに違いないと思う。
 たとえば漢字を書く際の、止めや払いなどの厳守。算数の台形の面積の求め方で、(上底+下底)×高さ÷2の立式における上底と下底の順序の固守等々。これらは社会生活の中ではほとんど使う機会がないものもあり、公的な書類に漢字を書く場合でも画数や形の間違いがなければほとんどはそれで済ませることに過ぎない。またふだんの生活の中では算数の公式、日本の歴史や地理、動物や植物の体の仕組みとか気候現象とかに無知であってもさしたる不便は感じることはない。エリート層になったり専門家になっていたりすれば、いい加減なところですますことができないという現実はあろう。だがそれはエリート層や専門家が厳守していけばよいことだ。それは1つのクラスの中で考えれば一割に満たない割合と考えていいと思う。そういう一割に満たないもののことを考えて、全体に重箱の隅をほじくるような厳密さを要求する学習が本当に必要だろうか。もちろん実際の教育の現場では、誰もがそこまで習得できなくてもよいことにはしている。だが、「そこまでできなければほんとはダメなんだ」という思いが指導する側にもされる側にも生じてしまうに違いない。すると、普通に考えれば全体的な学習レベルは押し上げられるかもしれないが、学習そのものへの意欲はそがれてしまうことになるのではないかとわたしには危惧される。
 わたしはこうした問題の研究者でもないし専門家でもないから実際のところは分からないが、学校の子どもたちに本当に勉強が好きだという雰囲気は感じられない。そして好きでもないのに、学力低下などとメディアの無責任な煽りを受けたり世論の煽りを受けて萎縮した学校が学習漬けにするものだから、子どもらは毎日けなげに少ない量ともいえない宿題に取り組んでいる。これは一体どういうことなのだろうか。およそ200年ほど前までの歴史を振り返ってみれば、子どもたちがこうした無味乾燥な営為に9年間以上も従事しなければならなかった時代は無い。飢えて放浪する悲惨さは今日の子どもたちにはないかもしれないが、精神的には自他に見えない嫌悪感に隷属された状態にあると見えなくはない。もちろんこれはわたしの個人的な感受以外の何ものでもない。しかし、このことと現在の社会に見られる子どもたちの異常な振舞いの増加との関連の結びつきに、ついわたしの想像は駆られることになってしまう。
 
 
子ども期の教育と遊び その一
              2014/12/29
 小学生の算数に、最大公約数とか最小公倍数という言葉がある。これについて説明は要しないだろう。
 義務教育というのは子どもが15歳くらいまでの間に、社会人として必要な最低限の知識や技術や規範を身につけさせ、そしてスムーズに社会人として仕事人として移行できることを念頭に制度設計されたものだ。この意味では小中の児童生徒に課される知識や技術や規範の学習は、そのために必要最低限の、言い換えれば冒頭の最大公約数的な、あるいは最小公倍数的な意味合いを持つものと考えられる。
 今回、学習支援員として教育現場に入って見るかぎりにおいて、どうもそこのところがはっきりしないなと感じられた。
 ひとつは、簡単に言えば社会生活のどのあたりのレベルを想定して最大公約数的、最小公倍数的な集約をしてカリキュラムが構成されているのかという疑問が生じる。
 ふたつめには、あるいはそれよりも、たとえば算数や国語や社会、理科といった教科を見ると、それらの学問的な基礎・基本の習得といった意味合いがつよく打ち出されて、結局のところこの両者が錯綜しているように思われた。
 学問的な基礎・基本の習得という面から言えば、これは高校や大学への進学率の高さから必然的に要求されてきたことといえよう。つまり、上の方から下の方に向かって、これくらいのレベルのところまではきちんと習得させておいてくださいよということだ。そうでないと大学での勉強にはついてこれませんよということになる。これが小中の各教科に渡って指向されると、教員にとっても児童生徒にとっても相当の負荷になるとわたしには感じられる。
 
 一般的な個人の社会生活を想定すると、学校で習う勉強のほとんどは不用だと言っていいと思う。そういう言い方が誤解を生じるとすれば、学校で習った勉強がほとんど身につかなかったとしても多くの人はあまり障害を感じないで社会生活を送ることができていると言い換えてもよい。極論すれば、現在のようにマスメディアやインターネットなどが極度に発達した世界では、知識や技術の集積が個々の脳に蓄えられる必要はなく、その機能は外部化されて存在すると考えてもよいことになっている。つまりいつでも必要なときにそこから知識や技術を取り出せ、個々の脳が記憶しておかなければならないという必要性はない。わたしたちの移動の手段が手足から自動車などに置き換え可能になったように、本来個々の脳が果たすべき知識や技術の記憶は外部化されて存在すると考えてもよい段階になっている。脳に記憶したことを呼び覚ますかわりに、わたしたちはマスメディアやインターネットの世界から必要なものを取り出せる。いまやわたしたちの脳は、その一部の機能を外部に持つことが可能になっているといえよう。
 考えようによっては、他人もまた自分の脳の外部化されたものと考えることが可能で、聞くとか教えてもらうとかによっていつでもそこから必要な知識や技術は手に入れることができる。
 このように考えると、わたしたちは本当に興味があって知りたいこと必要なことに頭を使えばよいのであって、あまり意味のない専門的な分野の知識や技術の習得に無理矢理頭を使う必要はないのではないかと思われてくる。小学校の教科の基礎・基本の考え方は、上位の学習機関から下ろされたものにすぎず、専門的な学問分野からは必須の考えかもしれないが万人が習得しなければならないものではけしてないと思う。ましてすべての教科に渡ってそれが要求されるとなるとそれこそたまったものではない。わたしは小中高、大学のすべての機関でいい加減に勉強してきた。それでも人並みに仕事もでき、社会生活も送ることができたと思っている。本当に勉強したと思えるのは大学の時に、個人的に文学にのめり込みいろいろな書物を読みあさっていたときくらいのものだ。また教員の時に仕事の悩みから勉強を余儀なくされたが、これはあくまでも仕事に付帯する勉強で、わたしの概念の上からは勉強の範疇には入らないものと考えている。
 
 
児童期が投げかけるもの O
              2014/11/11
 ここまで、「児童期が投げかけるもの」と題して、思いつくままにいろいろな観点から、やや恣意的な論を展開してきた。その時々でいいことを書いているつもりになったり、うまく表現できた気になることもあったが、ここに来て急にブレーキがかかって先に進めなくなった。「これが何になるのか」、「自分は何をしているのか」、などといういつものアレだ。
 際限のない自問自答の繰り返し。こうなるといつ継続できるのか見当がつかなくなる。
 
 このシリーズのはじめは、ただ何となくの日々の感想が発端だった。最初、小学校と児童館の学習支援員として通い始めて、低学年の子どもたちの生命的なエネルギーに圧倒された。しかし、もう一方で、学年が進むにつれてしだいにエネルギッシュさが縮減する傾向にあることも見え始めた。それは自然な成長や発達の過程と見えないこともなかったが、仮にそうだとしてもその期間におけるエネルギーの消失は大きな損失のように思われた。エネルギッシュさの消失がなぜかということに疑問が生じた。
 もうひとつ、頭を白紙に戻すようにして子どもの世界を眺めるときに、素朴に疑問を感じることがあった。学校や児童館で子どもたちは常に「否」の声に囲まれ、また常にそのような否定の言葉を注がれているような気がした。毎日、毎日、そのような声を聞かない日はないほどに感じられた。これは自分の個人的な感受によるかもしれないので客観性を主張する気はないが、そういう気がしたのである。大人社会を基準にすれば、これほどまでに否定的な言葉が飛び交う世界は異様な世界である(もちろん同じくらいに肯定の言葉も飛び交っているのだが、否定の言葉の方がより耳に届く)。子どものしつけや教育とはそういうものだといわれたらそれまでだが、いまの自分が児童と同じ立場に置かれたらきっと「イヤだなあ」とか、「耐えられない」という気持ちになると思う。自分がそうであるならば、子どもたちもきっとそうに違いないと思う。子どもは我慢をしているし、大人のようにそれを口にすることができない。言葉ではうまく反論ができない。唯一の合理的な解釈は、「教えてもらっているのだ」と解することだ。そう解することで、なんとか自分を取り巻く世界との折り合いをつけようとする。だが、無意識は相当病んでいくのではないか。
 私の考えは、そんなことで、少しずつ子どもを教育の被害者に仕立て上げる傾向を示したと言える。それには不登校やいじめをはじめとして、少年少女が引き起こす殺傷事件、家庭内殺人にいたる一連の事件が背景にあった。
 さらに、これを客観的に見つめ、軌道修正の必要があるものかを模索しながら、子どもの発達段階について振り返ってみることを試みた。胎児期、乳児期、幼児期の心身の成長の仕方をざっと眺め、過剰な思い込みや先入観を極力避けようと考えたのである。
 しかし、そんな迂回策をとって考えてみても、今日的な学習や教育のあり方を肯定できる要素を探り当てることは困難だった。
 
 突然だが、こんにちの学校制度に組み込まれた児童期の理想的なあり方について、これから言及してみる。これはこれまでの考察のまとめとしての意味合いを持つことになる。
 
 子どもの性格の大本は胎児期後半からおよそ1歳から1歳半くらいまでに、母親や母親代理との関係から決定される。これはその後の幼児期の活動を規定すると共に、幼児期の活動そのものによって固着と変形を遂げてゆくと考えられる。幼児期の活動は主に家族によって見守られ、しかも振舞いは肯定されて、条件が許せば心的にももっとも安定した時期と言える。この時、幼児は家族や家族を通しての地域の習慣や習俗、その他の規範的なものを身につけていく。生活のすべては遊びであるが、その遊びはまだ家族に見守られて成り立つことになる。心身の発達および好奇心の発達は、幼児期の後半には子どもを「軒遊」びから家の外での遊びへと誘い、監視の外へと子どもを連れ出す。
 およそ5歳頃まで、子どもはほとんどを家族内世界に過ごすが、それ以後は家族内世界の体験を背負って家族外世界に向けて歩み出すと考えられる。その時、他者を含めた還界との交流の基礎となるのは家族内世界での心的な体験であり、それが子どもの活動を規定する。言い換えると、家族内世界で身につけた生活上の慣例や習慣を、未知の外の世界に向けて敷衍していこうとするに違いない。それは、未知の外の世界に向かって手探りで、あるいは家族内世界で身につけたものを手がかりとして歩き出すことになる。
 ここまでを、心的な形成に沿っていってみれば、胎児期にはまだ心的には母親との未分化な状態に置かれていると考えられる。出産を経て乳児となり、授乳やその他の世話を通して四六時中母親と接触する過程で、徐々に母親の存在に気づきはじめる。また母親の存在を気づくことによって、自分の存在に気づくといった心的な分離が体験される。母親との関係を通じて、自分と母親とが別の存在であることに気づくのである。これは関係概念からは、母親(養育者)との接触を通して一対一の関係を心的に構成していくもので、そこから自分自身との関係も必然的に生じていくものと考えられる。このように他者との関係、自分自身との関係の領域が心的に形づくられた後に、第三者との関係の領域も分離形成される。
 母親が還界のすべてであった胎児期の心的な領域は、先の3つの領域の後景に沈み込み、
しかし消失とはちがい、関係の元基としてその他の関係の仕方の背景を規定していくと考えられる。
 さて、最も重要な他者である母親との関係は、乳児期、幼児期にわたって一対一関係の基本を形成する。これは父親との関係、兄弟姉妹との関係、および他の家族との一対一関係に影響を及ぼすことになる。また母親(養育者)との関係は個人の性の起源を形成する。そのためにすべての他者との一対一関係は観念の性に浸食されてしまう。
 およそ基本的には乳児期に形成される性格の起源や性の起源は、幼児期にわたって家族内世界に顕現し、そのことによって個は自己を解放したり抑圧したりという体験を持つ。乳児期に獲得したものは幼児期のありようを規定し、幼児期に獲得したものは児童期のありようを規定するというように関係性は接続する。
 もちろん幼児期は乳児期のたんなる延長でも、そこからの単純化された発展の時期というわけでもない。そこでほんとは幼児の生活態様をくわしく記述すべきところだが、その力がないのでここでは何人かの発達心理学の研究者の記述を並べ、幼児期の心的生成の仕方や生活の様子などを想像で補うことにしたい。もとより研究者によって年齢区分の仕方など少しずつちがいがあるが、およそのところで共通のくくりとして記述してみる。なお、これは吉本隆明の『心的現象論―了解論―』に表として記述されたものからの転載である。吉本は2歳から5歳のくくりの中に入れいている。
 
P・パーカー『児童精神医学の基礎』
|前学童期(2〜5歳) }知能の発達~男であるか女であるかを知る 母親との同一視 @ヌ心の形成 iニ族以外の人への行動パターンが作られる ヰォ器のいたずら сGディプス形成 自慰はじまる 両親の規範のとりこみ 抑圧(無意識化) 脅迫行為 焔想 活レ行行為としてのヌイグルミ、毛布の切れ、特別の価値のあるもの 汲ゥんしゃく弱まる
 
エリクソン『幼児期と社会』
|自発性罪悪感 }身体や精神の実行力をこえる自発性、自律性は、怒り、シット、侵害を負う。敗北、諦め、罪悪感、不安 ~空想、怖れ 幼児性欲近親相姦 @ヌ心の部分は生涯小児的
 
村瀬学『初期心的現象の世界』
|幼児期 イ、〈主観内自己〉の自覚(1.5歳〜2.5歳) ロ、〈類内共同性〉の自立(2.5歳〜4.5歳) ハ、〈規範―自己〉の抗争(4.5歳〜6.5歳) 註.|劇のはじまり}勝ち負けの構造~違反の意識(善悪の起源)時間の発見¢シ人の心がわかるkZの発見
 
ジャン・ピアジェ『思考の心理学』
|感覚運動的知能の段階 }目の前になくてもモノを認識して想像的感覚を組み立てられる ~対象のセンタク 2歳〜7歳幼児期 ℃v考の発生 wVびの2種(シンボルの遊び、ままごと、医者ごっこ)(集団遊び) ャAニミズム
 
 明らかに乳児期とは異なり、心身ともに成長の階梯を上り、たくましさを増していく幼児の日々がイメージされる。生活的には常に家族の視線の庇護の下に存在するが、すでに十分に知的で感覚的で、想像や空想の羽を広げることができるようになり、また同時に不安や悩みを抱えるようにもなる。心身の成長の連鎖とそのエネルギーは、見掛け以上に爆発的なもののように感じられる。
 ちなみに、児童期についてもこれらの研究者たちの記述を掲げてみる。年齢区分の枠組みとしては、吉本はこれを6歳から10歳までの中に置いている。
 
P・パーカー『児童精神医学の基礎』
|児童期(5、6歳〜10歳)
}技術の基本を身につける
~気質の形成
社会的な行動のパターンができる
 
エリクソン『幼児期と社会』
|「勤勉対劣等感」
}勤勉の観念の発達、道具の起こりをおぼえる
~年上の子から学ぶ
じぶんを不適格と感じる劣等感の形成
%ケ具、技術に希望を失うと、孤独なエディプス期に退行する
 
 先に見た幼児期では4人の著者の記述を見ることができたが、児童期では二人の記述しか見あたらない。また記述の内容もとても簡素なものになっている。いずれにしてもこれらの記述では、児童期を技術と知識を学習する時期とみなしているように思える。これが学校制度を前提とした発達区分の仕方であることは間違いない。人工的な、教育や学習といった外部からの注入と共同規範の押しつけが、内在の心的な展開を攪拌させるために、正しく観察して記述することを困難にさせているのではあるまいか。また幼児期と違って、子どもの活動の範囲も種類も広がって多様になっていることも解明を難しくさせるものであるかもしれない。
 もうひとつ、本当はこの時期は自然な動物生、言い替えれば生物生理としては性の奔騰がはじまる時期にあたっている。このこともまたこの時期の解明を難しくさせる一因になっているように思われる。
 吉本のようにはっきり言い切ってしまえば、発達心理学の研究者は、「ほんとうにこの時期に(児童期に―佐藤)性的な発現を規範により抑圧し、禁欲的な学習にむかう時期なのかどうか、解明しようとしていない」と言える。
 わたしたちは、教育や学習という形での外部からの注入を絶てば、心的な生成とその発展を幼児期から児童期にかけてつなぎ合わせて、つまりは連続性と非連続性を考えることができるように思われる。そこでは心の内在的な生成と発達と展開が読み取れることになる。本当はそこまで解明は進むべきなのだ。そうしてはじめて真の発達課題が浮かび上がり、子どもたちのために何をどのように構成するのがよいのかがわかってくる。
 さて、児童期からはじまる性と禁欲的な学習との矛盾と二重性は思春期以後にも持ち越されるが、ここで思春期についての研究者たちの記述も参照しておきたい。
 
P・パーカー『児童精神医学の基礎』
思春期
|11歳〜13歳、射精13歳〜17歳
}デートやキス13歳〜16歳
~グループをつくる
両親との疎遠。会話少なくなる
%燗I苦悩
 
エリクソン『幼児期と社会』
|「同一性対役割の混乱」
}非行
~職業についての自己同一性が確立できない
分散した自画像を他者に投射し、自己同一を確立しようとする
&s寛容性、徒党性
 
ジャン・ピアジェ『思考の心理学』
|精神発達は11歳〜12歳ころでおわる
 
 身体と身体生理、また心的な発達とは対応しながら成長を遂げてゆく。しかし、この自然的な成長に伴って現在の社会は、どこまでも性を禁圧するような仕方で学習との二重性を男女両性に強いている。これには正当な根拠があるのだろうか。この思春期についての研究者たちの記述にも、当然のことながらその傾向と影響を感じとることができる。
 そして、文明社会の発達に伴って、性の発現の抑圧と学習との矛盾と二重性は思春期以後にも延長されていく。生涯学習の言葉を待つまでもなく、この傾向はどこまで延びていくのかわからない。
 これらのことと今日の子どもたちの発達障害の増加傾向や異常や病的な振舞い、無惨な事件の多発とは関係があるのだろうか、ないのだろうか。こういう疑問がわたしたちに取り憑いて離れない。
 ここで、素人の文章の特権で、ここまでの考察から思いついたことを臆面もなく述べてみたい衝動に駆られる。
 それはこういうことだ。
 わたしたち人間も生物体であるからには、本能としての二大特性である「食と性」の呪縛から逃れることはできない。生誕から死に至るまでその呪縛はわたしたちを支配する。乳児期にはじまって、幼児期、児童期、そして思春期からそれ以後にもわたしたちの心身に「性」が内在し、それが見え隠れするのはそのためである。一方、わたしたちの社会はわたしたちが自然のままの性的な存在として自由であることを望まない。社会的な存在として存在することを求めている。ここに、先に見た二重性の根拠があるのではないだろうか。文明の発達した社会は成員に社会的存在としての成熟を求め、学校制度を作り、社会のためになる社会人の育成に取り組んできた。その目論見は成功し、社会の文明化は加速し、便利さや快適さはましてきたと言える。そのことは「食」の安全や安定と豊かさとをももたらした。わたしたちの社会は飢える心配がなくなった。一方の「食」は満たされ、本能としてのもう一方の「性」は表向きはどこまでもつよい制御をかけ続けられる。生物的には「食の相」が満たされたときに、生命の目的は「性の相」に取って代わる。これは、社会システムの指令に反する。この二重性、三重性を背負って、高度な文明社会にわたしたちは生きなければならなくなった。この矛盾や多重性が、わたしたちの本能や知性の調和を乱さずにすむとは思えない。現にわたしたちの社会とその成員の知性の部分と性の部分とは、不可解と思えるほどの変調を示すようになっている。子どもの世界の変調もまたこうした事態からの影響を直に受けとることによって生じていると思われる。
 ざっと、こういうことだ。
 
 わたしたちはここで児童期の理想的なあり方について稚拙を怖れずに提案すべき段階を迎えている。(以降は半ば冗談と思って受けとってください)
 極論すれば学校制度を無くすべきだと言いたいところだが、これは現実的ではないだろう。言っても、言ってみるだけの意味しかない。そうであるならば制度は残したままで、中身を変えるほうがいい。現実の教育内容は大半が、社会に生きて役立つことのない不用のものだ。なるべくそういうものを削り取るべきだ。スリム化してスリム化して、学校は遊び中心の世界に変えたい。吉本流に言えば勉強も遊びの一部ということにしてしまうのがいい。評価を無くす。そして授業の中心はいまと違って図工や音楽や体育を、遊びそのもののように構成する。国語や算数や理科、社会は本格的には中学から学ぶものとして、小学校ではそれらの教科の基礎のまた基礎となる部分を、遊びと変わらないように体験させる。中心は遊びであり、次に図工や音楽や体育的な活動が編成され、いまの主要教科はいっそう副次的な要素に変える。国語などは朝の短い時間に万葉集などの短歌や詩を口唱させるくらいでもいいと思う。文字を書くのは高学年からで、算数は低学年や中学年の間は遊びや具体的な生活の場面で基礎基本を体験させるだけでよい。とにかくそのように遊び中心にしてしまい、先生の役割も一緒になって遊び、遊びを通して一緒に学ぶというスタイルが基本になる。規律や道徳的なことはできるだけ口にしないで、問題が生じたら一緒に解決するくらいの気持ちでいる方がよい。
 いま学校では、特別支援や学習支援の形で時間給の人員を配置しているが、そういう人たちに遊びの中心を担当してもらったらどうだろうか。その人数を増やして、替わりに正規の教員の数は少なくなってもいいと思う。専門性の高い教員が少数いて、四六時中子どもと遊ぶことを苦にしない職員が大勢いる。そんな学校にしたい。とにかく教えない、注意しない、外でも中でも遊ばせることを中心にすべきだ。喧嘩や諍いは放っておいてなるべく自分たちで解決させる。職員が遊びを仕切っているときには喧嘩になる前に察知して止めることができるし、そうでない場合にも始まった喧嘩は止めることができ、当事者たちを離して遊ばせるようにすればたいていはそれですむ。喧嘩の理由をいちいち穿鑿したり、どっちがいいとか悪いとかをいう必要もない。喧嘩は起こる、だが、止めれば止められるし、それですむ場合があることをそこで学べばそれでいいというスタンスが大事だ。そんなふうにすべてを改変する。
 これには前提がいる。現在の社会から「知識を積んだり、社会的な地位の優位を得たりということが、生涯の禍福をきめることだという見方」が無くなっていることと、「いまの教育制度や社会の評価にある種の妥当さがあると」する考えとが消滅することだ。それらが無くならないかぎり、どんなに理想を並べてみても現実を変える力にはならない。それの具体的で抜本的な決め手は、大学のグレードの等級を無くすことだ。それさえもしかしいまの社会では永遠に不可能なことに思える。それには大学教師の意識を変えなければならないからだし、それを変えさせて行くには、わたしたち自身の意識が大きく変わらなければ成り立たないからだ。わたし自身はそのために、細々とこうした試みを継続していこうと考えている。こうした地道な継続の輪が広がるのでなれば、わたしたちの目指そうとする未来はない。
 
 ヘーゲルはアフリカ的な世界を未開社会になぞらえ、無知で野蛮で残酷な世界だと色分けし、同時代の西欧社会をいちばん発達した場所として基準において世界史を区分けした(『歴史哲学講義』)。わたしたちの現在の社会は、同じように大人社会を基準にして乳幼児期から児童期にあたる子どもたちを見ているような気がする。そういう見方をするかぎり、子どもたちは無知で動物のように本能で生きる生き物であり、迷妄で野蛮で無法でというように欠陥だらけの存在のように見えてくる。そしてこういう見方からは当然のように、しつけや教育が必要だという見解に帰結する。なるほど、子どもの時代には天使と悪魔が同居しているようなところが見受けられ、大人になって行くにしたがって自制心は悪魔的部分を消失させていくように見える。だが、大人になれば天使になるかというとけしてそうではない。意地の悪い見方をすれば、天使の顔をした悪魔になっていくだけのことだ。子どもたちはそうではない。心的な素型、母型、どう呼んでもいいが、人間のこころの豊かさをいっぱいに保存した、わたしたち大人の原型とも言うべき心性を有した存在なのだ。その気になればわたしたち大人は、子どもの心や子どもの世界を掘り下げて探求するところから、未来や未来の進歩について構想できるようになる。つまり、意識的な学びは幼児や児童よりも、わたしたち大人の方にこそ必要とされているのだと思われる。わたしたちは子どもに学ばせるよりも、かえって子どもから学ぶべきものなのではあるまいか。これが最終的にわたしたちが提案したい事柄である。
 
 
児童期が投げかけるもの N
              2014/10/19
 だいぶ前のことになるが、俳優の伊武雅刀が「私は子どもが嫌いだ」と叫ぶ楽曲を聴いたことがある。通常の歌謡とはちがい、メロディの流れの上に次に引用する歌詞を朗読するといった体裁のものである。ネットからの転載で、行別け等、オリジナルとは別かもしれないのだが、とりあえず内容がわかってもらえればよいと思う。
 
■子供達を責めないで
(歌:伊武雅刀  日本語詞:秋元康  作曲:Barnum,Reve  編曲:清水信之)
 
私は子供が嫌いです
子供は幼稚で 礼儀知らずで 気分屋で
前向きな姿勢と 無いものねだり
心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり 放ったらかすと悪のりする
オジンだ 入れ歯だ カツラだと
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
私ははっきりいって”絶壁”です
 
努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない
人生の深みも 渋みも
何にも持っていない
そのくせ 下から見上げるようなあの態度
火事の時は足でまとい 離婚のときは悩みの種
いつも一家の問題児
そんな御荷物みたいな そんな宅急便みたいな
そんな子供が嫌いだ
私は思うのです この世の中から子供がひとりもいなくなってくれたらと
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう
私は子供に生まれなくてよかったと
胸をなでおろしています。
 
私は子供が嫌いだ
うん!
子供が世の中になにかしてくれたことがあるでしょうか
いいえ 子供は常に私たちおとなの足を引っぱるだけです
身勝手で”足が長い”
ハンバーグ エビフライ カニしゅうまい
コーラ 赤いウィンナー カレーライス
スパゲティナポリタン 好きなものしか食べたがらない
嫌いなものにはフタをする
泣けばすむと思っているところがズルイ
何でも食う子供も嫌いだ
スクスクと背ばかりたかくなり
定職もなくブラブラしやがって
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体をきにする目がいやだ
あの計算高い物欲しそうな目がいやだ 目が不愉快だ
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ
何が星目がちな つぶらな瞳だ。
 
そんな子供たちのために 私たちおとなは
何もする必要はありませんよ
第一私達おとながそうやったところで
ひとりでもお礼を言う子供がいますか
これだけ子供がいながら ひとりとして
感謝する子供なんていないでしょう。
 
だったらいいじゃないですか
それならそれでけっこうだ ありがとう ネ
それならそれで けっこうだ ネ
私達おとなだけで せつな的に生きましょう ネ
子供はきらいだ 子供は大嫌いだ
離せ 俺はおとなだぞ
誰が何んといおうと私は子供が嫌いだ
私は本当に子供が嫌いだ
 
 わたしは当時、これを痛快なブラックユーモアと受けとめ、いたく感激したことを覚えている。聞いて思わず笑い出したくなった。それほどこの歌(?)は当時の常識的な世間の空気感を打ち破る、衝撃を内在させているとその時に思われた。
 漫才のツービートの話芸に似たものを感じたが、ツービートが長く生き延びたのとは違って、この歌(?)の場合はほどなくテレビ、ラジオから消え去り、その後、公の場所に浮上することはなかったと記憶している。わたしの中ではPTAや人権運動家などをはじめとする団体から圧力を受けて抗しきれなかったと同時に、クリエーター側からも自粛する動きが出て、表舞台から消え去ったものだろうと考えられた。これは推測の域を出ないが、たぶんそんなことではないかなと思っている。
 事の真偽はともかく、この歌詞を秋元康が書いていたことは知らなかった。今回このことを知って、なるほどなあと合点できた。言うまでもなく秋元康という人は、「AKB48」をプロデュースしたことで有名だ。
 こんなに率直で、あけすけな歌詞は、生半なことでは書けない。公表する以前に、物議を醸すこと、非難に晒されることは十分に推察されることだから、それを逆手にとる発想がなかったら書くことはできないし、また公表することも難しいことだ。ある意味で確信犯的な要素がふんだんに含まれている。歌詞の中身とは違って題名が「子供達を責めないで」というのも意味深だ。要するに「幼稚」、「礼儀知らず」、「無神経さ」など数え上げたらきりがないほどの、大人社会からすれば許されない言動を子どもは平気でするが、しかしそれは「子どもには責任がありませんよ」ということを言っている。また、大人たちはその時期を同じように経過してきたにもかかわらず、肚の底ではこの歌詞のように子どもの自然な発現性を毛嫌いし、社会全体で子どもの「自然性」を押さえ込もうとしている状況を、この「歌」は切り取って映し出すことができているように思える。その意味で、この歌詞はなかなか鋭いものを含んでいる。そして、秋元康がなぜ「AKB48」なるものを売り出そうとしたのかも合点がいく思いがする。
 歌詞の内容は大人の目線から見て、客観的によく子どもの様相を捉えていると思える。言い換えれば、この歌詞には、わたしたちが現実に子どもに接して思ったり感じたりしながらそれを言葉として表出できずに、内心にとどめ置いたことがよく抽出されている。そしてそれらは現代、普通はだれにでも思い当たる節があるといった、ごく当たり前の子どもの姿態であり言動である。もしもこの事実から目をそらすことが大人らしさなどと考えるものがあるとすれば、それはイデオロギー的な病態以外の何ものでもないとわたしは思う。目が曇っているか自己欺瞞かだ。
 今日に見られる育児放棄、児童虐待などの傾向は、いわば私たちの社会が子どもという「自然の生き物」がいかに「厄介者」で「手に負えない」と感じるようになっているかを照射するものだと言える。このことに目をふさいだら嘘なのだ。
 わたしは子どものように弱いものは守られなければならない、愛されなければならない、また愛さなければならないと思っている。しかし、現実に子どもに接するとしばしば引用した歌詞のような思いが心の中に浮上する。昔はこれを自分の性格、愛情の足りない性格のように思い込み、自分がダメなのだと考えた。そして、もっと愛情深くならなければと努力しようとした。つまりあくまでも個人の問題のように考えていた。そういう部分もないではないだろうが、しかし、本当はこれは人間の本質にかかわることで、個人が努力する、しないとは別次元のことだ。わたしもまたどっぷりと概念に染まった意識を働かせているために、あまりにも自由な、感覚的に活動する子どもの無規範に我慢がならないのだ。
 人間は動物と同じに感覚を携えて生まれる。感覚的な生き物として子ども時代を経過し、その間に少しずつ概念を身につけるようになり、やがて意識的な存在として成長を遂げて大人になっていく。わたしたちはこの時に自然的な動物段階から離脱し、養老孟司さんが言う「こうすれば、ああなる」と考える、いわば意識によって世界を人工化していく生き物へと変貌していく。つまりこれが大人になっていくことであり、歴史的には長い年月をかけて人類は自分をこのように変貌(進化)させてきた。近代から現代にかけて、意識化、すなわち人工化はものすごい勢いで拡張しつづけた。大人になるということはこれに対応するということである。すでに十分に概念化を果たすことができるように成長した大人にとっては、それはできる。だが、生まれてくる子供はどこまでも感覚的であることを変えて生まれることはできない。
 文明の高度化とは生活環境の人工化であり、現実世界はそれを教えてくれる。自然の排除の上に成り立っている。『自然を守れ』とか、『自然が好きだ』といってもはじまらない。自然は生活空間の外に追いやられている。日常生活の中に残っている自然は、いまや幼児や児童、要するに人間の子どもだけだと言っても過言ではない。都会ではそれが顕著だ。さらに、いまや田舎でもミミズや毛虫やバッタに触れない子どもが大勢いる。自然が自然を毛嫌いするようになっている。
 環界としての自然は人間にとって恵をもたらすものであったり、あるいは時に、東日本大震災のように禍をもたらすものでもある。どうにもわたしたちの自由にはならないものだ。大人にとって子どももまた自然であるかぎりは、わたしたち大人の自由にはならない、ある場合にはやっかいな代物になる。
 概念化を果たしたわたしたち大人の無意識は、しだいに自然に対して距離を置き、子どもに対して距離をとるようになった。少子化の問題もそのようなものとして捉えることができる。つまり「ああすればこうなる」という物差しで捉えきれないもの、すなわち「自然」は苦手になってきたことをそれは物語っている。出生率の低下、実は日本の教育の浸透度合いの高さが果たしてきた成果の、これは一つの結果であると言っていい。家屋の中からネズミがいなくなった。古い農家の梁には青大将が這っていたが、いまの農家でそんな家はない。蚤も虱もいない。目に見えない細菌でさえ攻撃されるくらいである。人間の子どもが減少しても不思議ではない。
 明治期に見た、あの子どもを溺愛する日本人の姿はどこへ行ったのか。現在それは犬猫をペットとして飼う、あの溺愛の姿に変貌を遂げたと思って間違いないだろう。子どもを一人前に育てることに比べたら、ペットを飼って世話するくらいは何ほどのことでもない。責任を感じる度合いも違う。うまく社会でやっていけるだろうかと心配することもない。
 このようにわたしたち大人は本当は子どもという「自然」をやっかいなものと感じてきているはずなのに、建前上それを正面に見据えることができないできている。子どもはどこまでも「愛すべき存在」と口にしていながら、実は懸命になって子どもから自然を排除しようとしている。子どもはそのままで「自然」なのに、それを取っ払ったら子どもではなくなるということも分からなくなっている。いい例が、子どもが泣き止まないので殴って殺した等という虐待である。要するに、大人の考えが分かって、それに従うということを子どもに要求する。一事が万事で、いまの社会は早く子どもに子どもをやめてほしいと願っているのだ。早く大人になってほしいと教育し、しつけをし、時にまた「将来がたいへん」といって脅し、促成栽培のように、「ああすればこうなる」という大人の考えを分かってほしいと思っている。そして「こうすればああなる」はずだと、いろいろと子どもに手を尽くしているのである。だが、残念ながらそううまくはいかない。子どもは感覚的な生き物だからだ。これは野生の動物を調教することを考えたら、すぐに想像がつくことだ。思い通りにならないこと、それをいまのわたしたちは、というよりもわたしたちの意識は、どうしても許容することができないようになっている。概念化した意識とはそういうものだ。この概念化、意識化、人工化はとどまるところを知らない。わたしたち自身もまた、わたしたちのこうした変貌に気づかず、つまり、「わたしはわたしだ」という思い込み、意識の特徴に飲み込まれ、変わったのは子どもであり、子どもが悪くなったなどと口にしたりする。だが本当に変わったのはわたしたちが活動する大人世界であり、この大人世界は大人の思考を子どもの世界に強制しようとしている。さらにこの大人世界は子どもの遊び場が失われても平気だし、代わりに人工的な遊び場をつくってそれですむと思っている。子どもが動物的に、いや、もっと自然の一員として活動すべき場所をどんどん浸食して、いまや農村においても子どもはほとんど家の中で過ごすことが多い。田んぼや川もまた大人の考えるとおりに区画され、遊び場ではなくなって久しい。また、子どもが歩き、走り、探検にも使う道をほとんど自動車専用のものにしてしまい、子どもの登下校は一列に並んでふざけないで歩きましょうなどと教え込んでいる。ふざけているのはどっちかという話で、完全な子ども軽視であり、本当はガードレールの設置などでごまかせる問題ではない。子どもが感覚主体の生き物であり、象徴の世界の住人であるというような本質を無視して、ただに子どもを大人世界にはめ込んで、一方的にこれが子どものためだと思い込む大人のわがままがここに顕在化しているとわたしは思う。
 明治期の親たちにはまだこころあるいは意識に自然が内在していた。だから子どもの自然性が少しも苦ではなかったのだ。それどころか、尊重できていたのだろうと思う。前に引用した外国人旅行者の紀行文は、描写の中でそのことを教えているように思える。
 文明の発達、経済優先の社会の構築、そういうものがすべて悪だとわたしは言いたいわけでは少しもない。ただ、そのことに反比例するように、子どもの世界は顧みられずに危機的な状況になってきているのではありませんかと問うている。そしてとりあえずはそういう状況を掛け値なく、正しく見据えることが必要ではないかと言いたい。この際、「子どものことを考えている」とか、「子どものことを思っている」とかの主観的なことを捨象して言えば、こういうことになるのではないかとわたしは考える。
 
 
児童期が投げかけるもの M
              2014/10/12
 前回、前々回と、児童期のことから離れ、胎児期や乳幼児期のことを概観してきた。
 胎乳児期については、子どものこころの形成にとって母(養育者)子関係がいかに重要な影響を持つかを見てきた。また前回は三木茂夫の『内臓とこころ』を振り返り、こころの根源ともみなされる内臓の生物学的な考察を踏まえ、内臓感受の鋭敏さとこころの豊かさとが表裏一体の関係のあることを見てきた。そして、後者からは、幼児のこころの形成にとって内臓の感覚が正常に、また鋭敏に育つことが大切なことであることを教わった。
 
 わたしたちはこのシリーズのKで、明治の初めごろに日本を訪れた外国人旅行者の旅行記を目にしたが、そこに映し出された江戸期の名残を止める子どもたちの様子が、まるで異国の地の、より具体的に言えば、時々テレビで見かけたことのある、アジアの辺境かアフリカ少数民族の中に育った子どもたちであるかのように思われた。つまり、子どもの成長ということに限っていえば、遅れた文明のなかで貧しげではあるけれども、愛情の面からはこれ以上にない理想的な環境のなかにあると見えたのである。現在の日本の子どもたちの世界は、それとはまったく違っている。外在する文明の進歩に追われるようにして、大人の世界も子どもの世界も忙しげで、お互いにゆとりを失っているように見える。比較するために、前に引用した箇所をここでもう一度振り返って見ておきたい。
 
子どもたちは両親と同じようにおそくまで起きていて、親たちのすべての話の仲間に入っている。
 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情を持って世話してやる。父も母も、自分の子に誇りを持っている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時頃、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集って腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。その様子から判断すると、この朝の集会では、子どものことが主要な話題となっているらしい。夜になり、家を閉めてから、引き戸をかくしている縄や籐の長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒のなかに囲まれてマロ(ふんどし)だけしかつけてない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で着物をつけていない二人の子どもを両腕に抱いている。いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むがそれと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T
高梨健吉訳)
 
 はじめの記述を見ると、母親ばかりか男親もべったりすぎるほどに子どもに愛情を降り注いでいる情景が思い浮かんでくる。それに輪をかけて近隣の大人たちも適度な愛情を持って世話するとなれば、子どもたちが「怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりする」はずがないと、これは確信的に思えてくる。また、朝晩そんなふうに親たちが子どもに寄り添っていたら、「膀胱感覚」「口腔感覚」「胃袋感覚」といった内臓感覚への配慮も十分になされ、三木茂夫の言うこころの形成にとって、これ以上にない環境があったと考えられる。
 現代の日本の社会に営まれる家庭の様子はこれとは大きく違っている。「英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景」が、おそらくは多くの家庭に見られることになっている。家庭ばかりではない。学校の先生たちも、保育所や幼稚園や児童館といった公共の施設においても、子どもの世話をやく場所では先述した英国の母親のような振舞いを余儀なくされているに違いない。そうして子どもたちはといえば、それらのいたる所で、「怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたり」していることが観察されるようになっている。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。その理由について語る人の口の数と同じ数の、山ほどの理由が世間には散乱している。けれども、その中から決定的と思われる、だれもが納得する理由を探し当てることは簡単ではない。多くのものは、帯に短し襷に長し、である。こうなると、それらすべての理由の総和が理由であると言いたいくらいだ。そういいたいくらいに重層的であり重畳的であり多面的だ。
 個人的な見解と断った上でわたしはまず、それらの理由の一つに挙げられる、子どもがダメ、親がダメという良識者風の見解を排除し、併せてそうした声が主張する、親の教育、子どもの教育をし直す、見直すという観点を排除しておきたい。少なくとも現行の社会的な風潮のもとに構成される、教育内容や方針を拡充されたのではたまったものではないと思うからだ。
 これにはわたしなりの理由がある。それは、一見すると明治期と現在の親子とはその様相があまりにもかけ離れているかに見えるが(実際外見上はそうだが)、小学校の教員、そして現在学習支援員として学校と児童館に勤務するわたしの経験によれば、心情的な部分に限って言えば根本的な差異はそれほど大きくないと感じられるからだ。現在の親と子の織りなす種々相は、しかしこれを食い入るように見つめると、その底流にしっかりと前述の親と子の心情がトレースするように見えてくる。多くの場合、互いに、子にたいする愛情を持ち、親にたいする愛情を持っていることがわかりすぎるくらいにわかる。現代の親たちも子どもをかわいがることにおいては大差ないとわたしには見える。また、子どもたちが親の意に沿い、親の期待に応えたいと考えていることも、基本的には明治期の頃と変わりないと思える。
 明治期に見た親と子のむつまじい関係は、実は江戸末期や明治の初期に限ったことではないだろうとわたしは思う。おそらくは数千年、いや数万年の歳月をかけて積み重ねられてきた日本的な、そして日本全土に行われてきたごく当たり前の親子関係だったのだろうと思う。たとえ生活様式、表向きの風俗が一変しても、底に流れる根強い心情的な部分がそう簡単に変わるはずがない。不易と流行の言葉で言えば、それは不易に当たる。わたしはそう思っている。
 にもかかわらず。にもかかわらず、子どもは親に手を焼かせ、親は子どもに譲歩に譲歩を重ね、挙げ句の果ては家庭内暴力、いじめ、非行、不登校、あるいは養育拒否、児童虐待、種々の殺傷事件、家族間殺人などを引き起こすようにどうしてなってしまったのか。
 すぐに思いつくことが一つ、二つはある。
 
 知識を積んだり、社会的な地位の優位を得たりということが、生涯の禍福をきめることだという見方があるかぎり、生涯の禍福は中学校の内申評価できまってしまうことになる。
つまりいまの教育制度や社会の評価にある種の妥当さがあると認めたら最後、親と子がまあまあ偶然の幸運で大過ないという家庭をのぞけば、中学校は生涯の最大の隘路だということになる。
 ここで劣等の評価を受けた中学生は、もうぐれるよりほか生きようがない。わたしもここでそう烙印をおされたら、きっとぐれるとおもう。学歴だけが生きる道ではないとか、社会的な地位など大した問題ではないとか説いてみせる教育家や知識人がいるが、もちろん自分を棚に上げたまま嘘をついているのだ。本当に学歴や社会的な地位など大した問題でないという道を歩めるのは、ごくまれな天才とそれにふさわしい超人的な努力をした人だけだ。(吉本隆明『わが転向』1995年文藝春秋)
 
 ここに引用した文は最近何気なく目にとめたもので、それほど過大な意味を持たせてここに示したわけではない。文中の太字はわたしがそうしたもので、少しこころに引っかかる部分だ。はじめの太字は読んで字のごとしだが、現代社会の大人たちのごくふつうの内面を写し取った記述になっていると思う。だれがどう言おうと、ほとんどの大人たちは自分の社会生活体験から、人の生涯がしあわせに充たされるかそうでないかは知識を多く修得することや、社会的に他者よりも優位な地位を得ることだと考えていると思う。これは実際に知識を積み、優位な地位を獲得した人も、それが可能ではなかった人も同じように考えていることだと言っていい。はっきりそう考えたり、漠然とそう考えているという差異はあるかもしれないが、反対に、知識を積んだり、他者よりも優位な社会的な地位を得ることが、禍をもたらすと考えている人はまずいないだろう。そこにほんとは確証は何もないはずだが、そういうものだろうとわたしたちは思い込んでいる。何をもって幸福とするかをよくよく考えれば、そんな絵に描いたような幸福なんてないとわかるはずだが、しかしなんとなくそう思っているのが実態だろうとわたしは思う。無知であって社会的評価も低い貧しげな人々が、とてもしあわせそうに見えるということも現代社会にあってはそうそうあるものではない。そこで、ほとんどの親たちは子どもに高学歴を身につけさせると共に、社会的にも高評価を得るような地位に立たせたいと願うものだと思う。吉本は、「見方があるかぎり」というように微妙な言い回しをしているが、ほとんどの見方、考え方はそれだと断定してもいいくらいだとわたしは思う。それがいいか悪いかなどといってもはじまらない。実際にそう考えているし、そうでないという確証もない。また、多くの人々は「いまの教育制度や社会の評価にある種の妥当さがあると認め」ているというのも、まず間違いないところだろう。積極的に認めているというのではない場合も、消極的には認めているかたちになっている場合が多い。わたしは少しも認めているなどとは思っていないが、これは頭の中でだけ反対を唱えているだけなのだから現実的には後者の部類に入ると思う。同じような思いをもちながら、でも内心で『しかたがねぇや』と思っている人も多いかもしれない。
 いずれにしても、これを認めたら最後、「中学校は生涯の最大の隘路だ」という吉本の見解はほぼ間違いないことだと思える。つまり生きることに関しての、様々な困難、障害、難関などがそこに集中し、且つそこから生じてくるということになっている。
 現代の親たちはだれもが、子どもたちにそこを無事にくぐり抜けてほしいと願っている。その後のことは言わずもがなのことだろう。
 明治期にはおそらく、生涯の禍福がこのような形で考えられることは、いっさいなかったにちがいない。
 次の、「学歴だけが生きる道ではないとか、社会的な地位など大した問題ではないとか説いてみせる教育家や知識人がいるが、もちろん自分を棚に上げたまま嘘をついているのだ」という吉本の見解についても検討しておきたい。
 確かにそんなふうに説いた教育家や知識人は過去にあった。現在もそういう教育家や知識人がいるのかどうかは知らない。わたし自身は実はそうした教育家や知識人の見解にこころ惹かれるものを感じてきた。そうあるべきだとか、そうあってほしいというようにだ。だがそう考える自分は、ある程度の学歴を身につけ、幾分なりともそのことで自動的に社会的な地位というものも上着の上に羽織ってしまう。これは知らぬ振りをしたりとぼけて見せてもダメだ。メカニカルにそういうことになってしまうものだから、内面でどうのこうのというのは関係がない。自分だけがちゃっかりとその恩恵に与っていながら、そんなことには意味がないのだと主張するのは矛盾している。自分を棚に上げて嘘をついていると言われても仕方がない。
 吉本が最後に「本当に学歴や社会的な地位など大した問題でないという道を歩めるのは、ごくまれな天才とそれにふさわしい超人的な努力をした人だけだ」というのは、誇張でも何でもない。学歴や社会的な地位に恵まれなかった人々およびその生き方について、少しでも想像がつくならば、吉本の言うことが誇張でないことはすぐに理解できると思う。
 先の教育家や知識人から学歴や社会的な地位を差し引いたら、彼らの発言がどんなにすぐれた内容を含んでいようと、世間からは一顧だにされず、流通もしないことは明らかだ。わたしなどもそうした辛酸をなめ尽くし、味わい尽くし続けてきたからそのことがよくわかる。このことになぜ耐えられるかと言えば、同じように辛酸をなめつづけ、味わい尽くす、言ってみれば学歴や社会的な地位に恵まれない人々の存在があるからだというほかはない。片方にそうした存在があるかぎり、また耐えて生きつづけていることを思うときに、わたしがそれに耐えられないはずはない、という考えがわたしに継続することを強いてくる。
 大学卒で小学校教員の経歴を持つわたしでさえ、相当な覚悟と努力とを払わなければ、自分の思いを貫きながらこの世界にありつづけることは困難なことだという気分を負わねばならない。ましてそういう資格や経歴もなかったとしたら、わたしは現在のようであることすら許されなかったに違いないと思う。自分の思い、考えというものでさえ、そうした学歴や社会的な地位というものに支えられて成り立っていると言わなければならない。わたしはこのことをこころでは嫌悪しつつ、頭では感謝するというかたちに引き裂かれる。もちろん当然に負わなければならないことだ。先の教育家や知識人にはそれがない。
 明治期の親子のあり方と比較することに戻って言えば、ここではまず社会的な土台の変化をあげておけば十分だろう。
 次にわたしの頭に思い浮かぶことは次のようなことで、これも前に引用した記述で、吉本隆明の著作からのものだ。いくつか同じような言及があるのだが、その中から任意に取り出しやすいからという理由だけで転載する。
 
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期を持たなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病、(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?そういう疑問だといっていい。(吉本隆明「心的現象論―了解論―98 原了解以前(4)」)
 
以上、こういうことだ。要するに先に挙げた学歴に関係することだが、義務教育の徹底と教育制度の成熟があり、これが時代背景として明治期と現在とで大きく異なる点だ。
 現在の児童期における少年少女のあり方を考えるときに、児童期という発達心理学的な段階を当然のこととして前提において考える考え方というのは限界に来ている、あるいはそれでは捉えきれない、そういう捉え方は時代的に金属疲労を起こすように劣化に見舞われている。そういう考え方の端緒がここに示されているのだと思える。少し視点を変えたところで言えば、これまでの発達心理学や教育心理学のような学問を背景に制度や内容を構想し、実現してきた結果が今日の少年少女のあり方に結びついたという見方を潜在させている。
 生き物の二大本能と言える「食と性」は、人間といえども例外ではなく本能的な部分である。ヒトの場合、遊びと共に性もまた幼児から児童期、そして思春期からそれ以降に向けて内から外へと顕在化していくことは自然な過程に違いない。現在の社会は、この性の自然な成長と発現を教育の名の下に、それぞれの時期に応じて教育的なハードルを高くしながら、結果的に性的な発現を弾圧することに加担している。直接的に弾圧をもくろんでいるわけではないが、教育内容の高度化ということと、先に述べた生涯の禍福という問題にからめて性的な抑圧を実現している。これは言い換えるとヒトを本能から解放し、理性のみの存在に作り替えようとすることと同じだ。だが、現実は少しも理性的でないばかりか、単に本能を破壊されたヒト的な生き物を生産するかのようにその意図は失敗をもたらしていると見える。それが問題とされる昨今の少年少女の諸事象をもたらしている。わたしにはどうしてもそのように見えてしまう。
 しかし、わたしは吉本と同様に、ここで結論を閉じてしまおうとは思わない。長い歴史の元に考えられた教育制度や内容が、全くの不用物などとは考えられないからだ。少なくとも人類が長い時間をかけて勝ち取った叡智の一つとして、それらは現在にもたらされたと考えないわけにはいかない。そして、そう考えたときに単に時期をずらすなどの配慮ですますことができるのか、あるいはより根源的に、教育自体のあり方から問われなければならないものなのかが正直に言えばまだよくわからない。
 現在の教育そのものについてもう少し踏みいって考えようとすれば、たとえば思想家内田樹さんのように、教育は事実上の壊滅状態にあるというような指摘(彼のブログのなかに見られる)も考察の対象になるが、ここではそこまで手を広げようとは思わない。内田さんの論は、そうは言っても教育の必要性を前提に置いた上での論の展開をしている。強いて言えば公教育の彼岸に、江戸時代の私塾のような形を想定して教育を語っている。わたしはほんとはそれに対しても疑念を覚える。
 
 ここで、この文章を作っている間に脳裏を掠めたことについて、挿話を挟むような感じで述べてみたい。
 小中学校で勉強についていけなかったり、ついていきたくないと感じた子どもたちが、どのようにこの時期を越えようとするかについて考えたことだ。学歴を除外して、そのほかにどんな社会的な地位を獲得する手段が考えられるかということ。それには大まかにいって3つあると思う。
 1つは芸能人への道で、芸人やアイドルや俳優やアーティストを目指すということはそういうことなのだろうと考える。もうひとつはアスリート、プロスポーツ選手を目指すということ。もうひとつは漫画やアニメに代表されるように、いろいろな分野でオタク化して、その専門性を磨いていくということ。
 いまの子どもたちの間では、これらのことを積極的にあるいは消極的に志望する子どもが割と多く見られる。もちろん、早期にこれらの志望から脱落することも多いのだが、現象的にはかなりの比率で夢見ている子どもが多いように思う。また、実際にそうしたサクセスストーリーもふんだんに喧伝されているので、それに群がり集まることも荒唐無稽とばかりに見ることはできない。少しずつ親や周囲の大人たちもそれを許容したり、もっと積極的には応援したりしているところがある。
 本当はこれらも相当に険しい道だと思うし、天才的な能力や超人的な努力を要すると考えられるが、志望するものは後を絶たないように見える。それだけ勉強はいやだと思っていることの裏返しかもしれない。
 いずれにしてもそういう道がないことはない。どん詰まりよりは少しでもそういう道が開かれていることはあったほうがいいにきまっている。願わくばすべての子どもに開かれているようにと願うが、そうはいかないということも確かなことだ。
 ここから波及して個的に考えたことが1つある。それは、学歴も社会的な地位もなくてもよいとか、そこそこでよいという考えは、潜在的にはあるのかもしれないが、あまり目指されるものにはならないのだなということだ。これは当然といえば当然のことである。人間には上昇指向性というものがある。自分というものをよりよいものに仕上げたいという指向性だ。だがこの指向性は欲望と表裏一体にあり、よい方向に向けば人間性の高度化や心身の開発に向かうが、悪くすると他者を見下す人間性を露出させることになる。両刃の剣と言える。そして人間としての現段階においては後者に傾くことが多いように見受けられる。そしてそうならないようにあるためには、ここでも超人的な努力を必要とされると考えられる。わたし自身もこのことにはずいぶん悩まされてきて、気がつけばずいぶんちゃらんぽらんに自分を作り上げてきたように思える。これはけして弁解のつもりで言うのではない。
 ここでついでに言うと、わたしはしばらく前から、この社会でのあり方を、生きていく上での最低限のあり方として、そこそこでよいというあり方を目指してきたように考えている。もちろんそういう前に、自分なりに相当努力した上で、結果としてそこそこの生き方しかできなかったという事実があるのかもしれない。だが内心の思いだけを言えば、それを目指したというのは嘘ではない。なぜ、どうしてというのは面倒だから言わないが、わたしはそこに自己満足を覚えている。そうとしか言いようがない。そしてまた、これはただかっこつけて言っているだけで、大多数の人々もまた、口にはしないが内心でそのような考え方をして、黙ってそれを実践しているのかもしれないというような思いを抱く。その方が正解かもしれないと考えると、人間畏るべし、と思うが、それを公言してくれる人は少ない。
 
 ここでもう一度明治期と現代との子どもを取り巻く環境のちがいを考えておきたい。
 文明の発展に伴って大きく生活様式が代わり、家族構成が変わって核家族化したことが大きい。そのほかにも変わってきたことはたくさんあるが、一々を挙げることは面倒なのでその労は省かせてもらう。もうひとつ忘れてならないのは前述に深い関係があるが、産業構成が大きく変わったことも考えておかなければならないと思う。要はこれらのこととこれら以外の要因も併せて、現代は親が子にかかりっきりになれなくなった、その点が非常に大きな問題になっていると思う。
 明治期は牧歌的に、また無意識的に親は子どもの成長に関心を払った。そうならざるを得ない環境の下にあったし、それが親自身にとっても楽しいことであったから、自然に親子の情は通じて流れたのである。現代は男親も女親も明治期ほどに子どもの成長に関心を払っているかと言えば、たぶんそうはいかない。それ以外にも考えること、考えたいことがいっぱいあるからだ。第一、自分の生き方に対して常にぶれたり揺れたりを繰り返して定まらない。男親も女親も、自分ひとりのことでさえ思うようにいかないと感じており、本気で子どもの成長に関心を持つことは難しくなっている。
 ほんとはわたしもその部類に入ると思う。自分の子どもは心底かわいいと思うものだが、わたしは自分の想念を捨ててまで子どものために時間を費やすことができなかった。自分の想念を捨てずに子どもをかわいがる両立を目指し、それができたと自分では思い込んでいたが、たぶんほんとはそうではなかった。三木茂夫の『内臓とこころ』を読むと、三木さんが何気ない子どもの動作を、本当に深く理解した上で、さらにまなざし深く見ていることがわかる。いま、三木さんが子どもを見ていたような目で、子どもを見ている親がいるだろうか。誤解を恐れずに言えば、三木さんは目の前の子どもを見ていただけではない。数百万年の人類の歴史、五億年の脊椎動物の歴史、数十億年の生命の歴史、そこに連綿と連なる生命を見ていたものでもあろう。明治期の人々もまた無意識のうちに子どもの姿にそうした生命の流れを感じ、その「命」を愛することができたのであろう。わたしはといえば、解説で養老孟司さんが言っているように、「子どもの発育段階を、むしろ当然のこととして、そのまま見過ご」してきただけに過ぎないように思える。若き日に三木さんの『内臓とこころ』に出会っていたら、もう少しましな子育てができたかもしれないと、これは後悔の念に似たものを感じるばかりだ。
 
 
児童期が投げかけるもの L
              2014/10/05
 三木茂夫の『内臓とこころ』(二〇一三年、河出書房新社)は、『内臓のはたらきと子どものこころ』(一九八二年、築地書館)を元本とするその文庫版である。主たる内容は保育園での講演を原稿化したもので、「T内臓感覚のなりたち」「U内臓とこころ」「Vこころの形成」の三部構成になっている。またそれぞれに中項目、小項目があり、中項目には講演用に作られたと目されるプリントの内容が示されている。ここではこのプリントの内容を中心にして、大項目、中項目、小項目の順に、一覧のかたちで配置し直してみる。
 
 「T 内臓感覚のなりたち
 
1 膀胱感覚
「膀胱は直腸と共に、中身が詰まると収縮する。この感覚は、尿意・便意となって意識に上るが、おしめの取れた幼児たちは、それを自分で覚えるまでに失敗を積み重ねてゆく。この中身の刺激による内臓筋の収縮は、内臓感覚の一方の柱をつくるが、これを素直に受けとめる感受性は、この時に養われる。」
 
「オシッコ!」
快と不快
内臓不快
 
2 口腔感覚
「顔は内臓の前端露出部だが、唇から舌にかけての感覚はとくに鋭敏で、これら先端部の構造は食物を選別する精巧無比の内臓の触覚となる。この機能は正常な哺乳によって日々訓練されてゆくが、やがて赤ん坊はすべてをなめ廻し、将来の『知覚』の成立に備える。」
 
顔と口と舌
正常な哺乳
рネめ廻し
 
3 胃袋感覚
「胃は膀胱型の収縮を営むが、一方、手足の骨格筋と同じく日リズムに乗って、夜は眠り、昼間は収縮して食物をねだる。こうした波は年間を通しても見ることができるが、これら宇宙的な要因による収縮は、内臓感覚の、もう一方の柱をつくる。」
 
生活のリズムと空腹感
夜型と朝型
日リズムと年リズム
 
 
 「U 内臓とこころ
 
1 内臓波動―食と性の宇宙リズム
「すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球がюカきた衛星といわれ、内臓が体内に封入されたэャ宇宙と呼びならわされるゆえんである。」
 
内臓は小宇宙
食と性
生命と宇宙リズム
 
2 内臓系と心臓
「内臓系の中心に心臓が、体壁系の中枢に頭脳がそれぞれ位する。日本人の祖先が、前者の心臓を象る『心』字(実際には象形文字が当てられている―註・佐藤)でもってрアころを表したのは、かれらが心臓の鼓動を、いま述べた宇宙的な内臓波動の象徴として捉え、さらに、こうした宇宙との交響をрアころ本来の機能として眺めたからであろう。」
 
神経と血管
рヘらわたを見直す
こころとあたま
 
3 心のめざめ―内臓波動と季節感―
「動物では心がいわば眠っているので、その内臓波動の自覚はない。これに対して人間は、うねりを時の移ろいとして実感することが可能である。эt情そしてюH欲の秋などの言葉が示すように、人々は季節の感覚として、食と性の推移を思う。それは人の心が目ざめたことを如実に物語る……」
 
生物の二大本能
動物のこころとヒトの心
季節感とこころ
 
 
 「V こころの形成
 
1 指差し・呼称音・直立―満一歳
「人類では心臓に象徴される内臓感受系の覚醒により、森羅万象に心が開かれてゆくが、この好奇心の異常な発達は、赤ん坊に、その六ヶ月からのなめ廻し、満一歳からの呼称音を伴う指差しを相ついで促し、ついにそれは視界拡大のための直立においてきわまる。」
 
よみがえる生命記憶
指差し
立ち上がり
 
2 言葉の獲得―象徴思考―
「太古の直立人にとって、森羅万象の一々は、それぞれのш轤ツきで語りかけるものであった。その語りかけにたいする心の応答が、原初の芸術と「言葉」になって表れるが、言葉はその生きた記念碑として、先祖代々、日々の生活のなかに受け継がれて今日にいたったものである。言語習得の本格化する、二―三歳は、だから心情涵養の黄金の日々である。
 
р烽フとрネまえ
言葉の起源
声―鰓呼吸のなごり
 
3 三歳児の世界
「рたまはрアころの目ざめを助ける。それは遠く指差しに源を発し、ついで言語修得の覚束ない舵を取りながら、やがて独り言が無声化してゆく三歳児の世界でついに一人立ちし、ここに『自己』が産声を上げる。後年『自我』の跳梁に虐使される歴史人が、深い郷愁の念をもって振り返るのが、あの先史時代であるが、三歳児の世界は当時のおもかげを再現するのではないかと思う。
 
天翔け天る象徴思考
概念思考―自己の誕生
三歳児のこころ―桃源郷の世界
 
 順番をなぞっていえば、はじめに「内臓感覚のなりたち」についてが述べられている。そこでは内臓感覚のなかでも比較的わかりやすい「膀胱感覚」、「口腔感覚」「胃袋感覚」の3つが取り上げられ、それぞれの働きや性格の違い、また特に「膀胱感覚」や「胃袋感覚」では不快感が正確に伝達されずに、様々な妄想や煩悩の引き金になっていることなどが述べられている。つまるところは、日常生活の上でもっとも身近な感覚でありながら、わたしたちがかえってこれらについてあらためて深く考えることをしない現状についての指摘がなされている。
 おそらく人類の初期、すなわち動物生の状態の時や動物そのものであったならば、これらの内臓感覚は一義的であるに違いない。つまり本能として正確に感覚されて、それに促された行動に結びつくはずだ。しかし、現代に生きるわたしたち人間は眼や耳からの情報刺激にとらわれるあまり、内臓感受の受け取りに混線が生じて、いわば内臓の声を正しく聞くことができない。
 たとえば野生の動物では過食による肥満がないと言われるが、なぜ人間や動物のペットにはそれがあるのか。そこには三木の言う内臓感覚の麻痺や、本能の麻痺といった事態が当然考えられてくる。またイヌやネコなどは悪いものを食べると庭の草を食べて自ら処方するというが、内臓感受が正確で本能的に食べたものによって食べる草の種類も違うらしい。現代のわたしたちはそれをすっかり医者任せにし、すでに民間に伝承された療法もほとんど廃れてしまってから久しい。
 Uの「内臓とこころ」では、植物と動物が季節の交代にしたがってはっきりと「食の相」「性の相」とに別れ、また交互にこれを繰り返すものだということが初めに指摘される。
 シャケの海への回遊と川への遡行、またイネは春の苗から夏に向かって葉を茂らせ、秋には実をふくらませて黄金の波を打つというように。そこでは動物、植物いずれも太陽と地球との関係、地球と月の関係、あるいは火星や土星、それらの衛星との関係などにまるごと感応して、それがそれぞれの生活を形成していることがあらためて知られてくる。
 
 ここまできますと、もう動物の体内にこうした宇宙リズムが、初めから宿されていると思うよりないでしょうね……。そして、その場が内臓であることはいうまでもない。もっと厳密にいえば、内臓の中の消化腺と生殖腺でしょう。この二つの線組織の間を、そうした食と性の宇宙リズムに乗って「生の中心」が往ったり来たりしているのです。
 
 中項目の「2内臓系と心臓」では、まずは「体壁系」と「内臓系」の解説がなされている。分かりやすく言うと、魚をおろす時に出すはらわたが「内臓系」で、そして残った食べる部分が「体壁系」、頭は両方がくっついたものだ。
 
 さて、ここであらためて、いま申しました「体壁系」と「内臓系」のそもそもの関係を考えてみなければならない。それは、生命の主人公は、あくまでも食と性を営む内臓系で、感覚と運動にたずさわる体壁系は、文字通り手足に過ぎない、ということです。つまり内臓系と体壁系は本末の関係にあるわけです。ところが私どもの日常を振り返ってみますと、目につきやすい体壁系にばかり注意が注がれ、いわば前端の顔しか見せない内臓系のほうは、ついおろそかにされているのが現状のようです。まさに本末転倒ですね……。そしてこのことは、あとでくわしく述べますが、この両者を代表する、いわゆる「頭」と「心」の関係についてもいえるのです。
 
 さて、三木茂夫は先の言葉で言う「体壁系」の代表格、シンボルを「脳」に見て、「内臓系」のそれを「心臓」に見立てる。さらにこれを「あたま」と「こころ」の言葉に結びつけて、そして、
 
つまり前者の「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する―一言でいえば、あたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。
 
というように、わたしたちの心的な世界、あるいは精神世界というものを別けてみせる。
 かつて三木の著作のなかでこういう考えや捉え方、そしてこのような別け方に接したときに、強い衝撃をうけた。とりわけ、こころは感じるもので、それが深くは内臓に起因するものという考えに触れてから十数年後の今日にいたるまで、ひとときも脳裏を去らなかったと言っていい。言い方を換えれば、その後、熱に浮かされたように『こころの根原は内臓にある』という三木茂夫の言葉を繰り返し呟きつづけてきた。
 次の「3心のめざめ―内臓波動と季節感」において、三木はプリントにも示されているように、動物と人間の心のちがいに言及している。講演の語りでは次のように記録されている。
 
 ここでは、まず目からの感覚―視覚が起こります。もちろんこの時は、眼筋をはじめとするもろもろの筋運動がこれに伴う。これは、ですから体壁系の出来事です。そこで問題は、この一瞬です。ここで間髪を入れずに、この肉体の奥深くから、心の声が起こる。これがまさに春情というものです。内臓の波動が、ここでよみがえったのでしょう。
(中略)
 ですから「春!」と感じた時、内臓の奥底に、そこはかとない「性」の萌しが起こったとしても少しも不思議ではありません。私ども人間では、こうした心情の営みが、はっきりと「意識」される。大脳皮質まで登りつめるのです。要するに、ひとつの「実感」として、いま申しましたように肚の底から感じとることができるのです。人間の心が目ざめているというのはまさしくこのことです。心の眠っている動物には、こうした目ざめの実感というものはない。動物で目ざめているのは、肉体だけですから……。
 
 三木は、繰り返し肚の底からという言葉を口にしているが、「内臓の奥深くから共鳴して感じとることができる」そのことに、рアころが健在か否かの証が表れると教示しているように思われる。
 田んぼに黄金の波打つから、秋。これは頭で考えることで、ほんとうの実感は季節の現象に肚の底から共鳴する、内臓感覚がうねるように大脳皮質にこだまする、それがрアころで感じることなのだと三木は言う。そしてこれが動物にはない、と。
 わたしたちはここまできてはじめて、胎児および乳幼児の心に出会えるような気がする。
それはыlえることに馴れた大人のわたしたちにとって、いつか来た道、に他ならない。だが、それは同時に、あまりにも遠く離れてきた道と言えるのかもしれない。おそらく三木は、乳幼児の心に出会うためには考えることばかりに頼っているのでは駄目なのであり、考えることを放棄して、同じく心によるのでなければ出会えないのだよと教えている気がする。わたしたちは自問しなければならぬ。わたしたち大人に心は残存しているだろうかと。
 さて、ここからいよいよ「V こころの形成」に入るのであるが、ここでは前回のトマス・バーニーの考察が示す胎児期そして乳児期のあり方とはちがい、満1歳から3歳までの幼児期が考察の対象となっている。これは三木が図示した「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」の進化の区分からいえば、原人から旧人、先史人に対応づけられ、これら数百万年から数千万年の歳月が、わずか数年に濃縮されて現れ出るものであると考えられていることを前提に、三木の言葉を理解していかなければならない。ちなみに先史時代について、三木茂夫は3歳から10歳までの期間を考えており、歴史時代は10歳以後になるとしている。
 生後六ヶ月の「なめ廻し」は「こころの目ざめ」の準備段階であり、はっきりと「こころの目ざめ」の標識となるのは1歳前後の指差しの行為においてであろうという指摘がある。また三木は、そこには「印象像」と「回想像」の二重写しが現れるとも述べている。いまの「これ」に、かつての「それ」が浮かび上がるということだ。そしてこの幼児の指差しには、やがてあのワンワン、ニャンニャンという「呼称音」が加わって、これは人間と動物を区別する「言葉」の最初の姿であると共に、思考、すなわち「あたま」の働きの兆候を示すものでもあるという。そしてまた幼児の「立ち上がり」にはのっぴきならない促迫が感じられるものであり、これには「遠」にたいする人間の強烈なあこがれが加担していると見る、三木の考え方も示されている。
 結局のところ、中項目のはじめのここでは「直立歩行」と「指差し」や「言葉」に見る「心の目ざめ」とにおいて、人類黎明期が重ね合わされて考えられているように思える。まさにそれは人類誕生前夜の暗喩だと言ってもいい。わたしたちは乳幼児に出会いながら、遠く人類誕生前夜の祖先の面影に出会っている。歴史区分では原人の時代が始まっている。
 次に満2歳ごろだが、同じく進化的には旧人の時期に対応づけられる。ここではこの時期が「言葉の獲得」が本格化するとして、子どもにとって、またわたしたち人間全般にとってどんな意味合いをもつのかを拡張的に捉えて示される。
 満1歳半くらいから、幼児はみな例の「コレナーニ」を連発してくるというが、これは「なめ廻し」の経験も記憶もない初めて接するイメージのつかめないものに対して、幼児たちはいわば宙に浮いた印象像を、記憶の回想像に代わる「言葉のひびき」で受けとめて実感する、いってみれば代替行為のようなものだという。あの指差しの時の「あれ」と「これ」が、ここではр烽フとрネまえの一体化にかたちを変えて、二者一組の体得へと高度化を遂げていることが理解される。幼児たちはр烽フに言葉をかぶせるだけで
満足を得ることができる。わたしには口と舌とを使ったあの「なめ廻し」が、外界のすべてを言葉を使って心的に「なめ廻し」している行為のように思える。
 さて、小項目を見るとわかるように、ここから三木の話は「言葉の起源」や「声」についての生物学的な考察がなされる。
 言うまでもなく、人間の感情や思考および言語の発生には脳の高度な発達が深く関与している。いわゆる人類における異常な連合野の拡大である。人間の「声」が「言葉」という独自の機能にまで分化を遂げた背景には、連合野の拡大に伴う象徴思考の発生と大脳皮質の段階での融通無碍なる感覚の「互換」があるためと考えることができる。
 人間の思考形態については、大きくとらえて象徴思考と概念思考とがあり、起源的には象徴思考のほうが古いとされている。このことはわたしたちの成長過程について考えても同じで、概念思考は象徴思考のあとに発現してくる。
 日本人は世界でも冠たる象徴思考の民族で、日本語の基盤や特色もまたこの象徴思考に支えられていると三木は言う。とくに言葉のヒビキを大切にするとして、例として「ヨチ・ヨチ」「ヨロ・ヨロ」「テク・テク」「スタ・スタ」などが挙げられている。
 次に「声」についてであるが、ここではそれが古代魚類の鰓呼吸のなごりというようにも説明され、三木茂夫の他の著作にある同様の説明と共に、わたしには驚きと自分の無知を知らしめられる連続であった。少し長くなるがこの部分を引用しておく。
 
 人間の声は、рフどぼとけすなわち喉頭腔に発した音源が、咽頭腔から口腔・鼻腔で、実に複雑微妙に修飾される。ここから、ありとあらゆる言葉が生まれるのですが、この喉頭から咽頭を経て口にいたる部分―これが問題の領域です。本日の話の初めに「鰓腸」だと申しましたが、要するに、腸管の最前端部です。
 サメが口を開いた時に、なかがまる見えになる。ロココ時代のような高い天井。床はザラザラの骨舌。舌といっても、これはまったく動きません。そしてその両側の壁面―ここには天井から床へ大きな弧を画いて裂け目が走る。その縁には唐草模様の突起がズラリと並ぶ。鰓の裂け目です。鰓裂と呼んでいます。これが数条、両側の壁面に鋭く切れ込んでいる……。
 この口の奥に開かれた、鰓の大広間こそ、はらわたと呼ばれているものの代表です。この領域の感覚と運動は、最高度の分化を遂げている。外敵には鋭い目を注ぎながら、安定したリズムで水を吸い込んで、この両側の鰓裂から外に放出する。その時にガス交換を行う。これが鰓呼吸であることはご存じでしょう。こうした感覚と運動がしっかりしてなければ、満足に呼吸ができない。一方、またもうひとつのリズムで餌を一緒に取り込む。巨大な獲物から、プランクトンまで正確に見分けて……。しかも小動物は鰓から出してはいけない。ちゃんと食道のほうへ導かなければいけない。この感覚・運動の働きが鈍いと栄養が保証されない。はらわたの機能に「食と性」があるといいましたが、この領域は、まさに食の最前線に位するрヘらわたの顔に当たる部分といえます。一四三ページの図をごらんになってください。これは、この鰓あなを動かす筋肉が、人間はどうなっているかを示したものです。この話の初めに、人間では頸から下がくびれて、のどぼとけに退化変身したと申しましたが、その状態です。これでおわかりと思いますが、声の発生源である、のどぼとけの喉頭筋も、さらに、この声を言葉に直す、咽頭から口腔にかけて複雑きわまりない筋肉も、すべて鰓の筋肉の衣がえしたものであることが示されている。要するにрヘらわたの筋肉なのです。
 人間の言葉というものは、こうしてみますと、何と、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。脊椎動物の五億年の歴史を遡る時、私どもは、否応なしにこの事実に突き当たることになるわけですが、いずれにしても、人間の言葉が、どれほどрヘらわたに近縁なものであるかが、おわかりになったと思います。それは露出した腸管の蠕動運動というより、もはやщソきと化した内臓表情といったほうがいい。なんのことはない―рヘらわたの声そのものだったのです。
(中略)
 ここから本日のテーマ「内臓の感受性」が「言葉の形成」と、切っても切れない間柄にあることがわかってまいります。それは、いいかえれば「心で感じること」と「ものを話すこと」の両者が、まさに双極の関係にあるということです。あの感覚と運動の同時進行―すなわち内臓の感受性が高まった、それだけ言葉の形成も的確になる。逆にいえば、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれるというものです。
 
 言葉の初源は声であり、わたしたちはこれをほとんど無意識のなかで行使することができる。つまり発話したりそれを聞いたりする時に、自分も対手もどのようなかたちで「あ」とか「い」とかを音声につくって出しているかなど考えることはない。たぶん、学校で教わったこともなかったと思う。
 ここで何が言いたいのかといえば、わたしたち人間にとってもっとも使用価値の高いという側面をもつ言葉について、わたしたちはその発生から、あるいは自分がどのようにして言葉を声として口にすることができているかということまで、いっさい知らずにこれを使っているし現に使っているということだ。
それで済んでいるのだから、それでもいいといえば言えるのだが、よく考えてみればほんとうはだれにとってもいちばんと言っていいほどに、理解しておくことが大切なもののうちのひとつであると思う。
 三木茂夫はそれをここで明かしてくれているのだが、これを読むと、わたしたちは言葉としての声を、魚の鰓を用いて作り出しているのだということが理解できる。文字通り、言葉はрヘらわたの声、内臓の声、щソきと化した内臓表情であることがわかる。
 つまりわたしたち人間は、外界の現象や出来事のうち、ほんとうに体の底で、内臓で、感受し受けとめたものを、同じく体の内側と言っていい内臓によって表現しているのだ。これはどの生き物にも見られる、あの「入―出」の関係を彷彿とさせる。そしてそればかりではなく、言葉本来が感受と表裏一体のものであることや、その初源において感受にたいする反射作用としてあり得ただろうことが想像される。もっといえば、言葉は初源において、考えて口から発しられたものではなく、内臓に突き動かされるようにして口をついて出たものだと言えよう。わたしはそう考える。そしてさらにこの時、内臓の感受性、物を感じとる能力、それがどれだけ鋭敏であるか、どれだけ豊かであるか、それが言葉の質、言葉の中身に深く影響するだろうことは、もはやだれにとっても明らかなことであろうと思える。「すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれる」という三木茂夫の言葉に、だれもが納得させられるだろう。また、幼児の心情の育成にとって、言葉という物がどれほど大切かということにも当然のようにわたしたちは思い至ることになる。そこでもっとも顕著だと言えるのは、母親に代表される養育者との、乳児期、幼児期における会話のやりとりであろう。わたしたちはそこに、ゆっくりとしたやりとり、たっぷりと愛情を注いだやりとりを理想として思い描く。乳幼児期の子どもの育成において、これ以上にかけがえのない時間というものはないとわたしには思える。
 さて、三木茂夫の「内臓とこころ」の最終、「こころの形成」も最後に近づいた。「3歳児の世界」である。
 ここでは初めに思考のかたちが取り上げられている。まず1歳ころの指差しに見られる指示思考。2歳ころではこれが高度化して象徴思考となる。指示思考も象徴思考もほとんど同じ思考形態のことなのだが、これは「指示」の側面を強調するか「象徴」の側面を強調するかのちがいである。1歳ころはより指示性が強い傾向をもち、2歳ころはより象徴的な面を持つようになるのだと考えてよいと思う。ちなみに2歳ころになると、幼児は月が雲に隠れるのを見て「オツキサンオウチニカエッテオネンネ」等と言うように、強力に象徴世界に溶け込むのだと三木は指摘している。
 指示思考が発展して象徴世界を存分に味わうこの時期に、しかし概念思考の兆しも現れるのだという。タドタドしく数を数えるのがこの概念思考のハシリで、だいたい2歳半を過ぎる頃のことといわれる。
 
最初の指差し―いわばрアころ優先の象徴的な思考から、最後の把握―рたまだけの概念的な思考へ、だんだんエスカレートしてゆくのが、どうやら人類の思考の歴史のようです。
(中略)
二歳から三歳までの一年間は、言葉をたくさん覚え、いろいろと見立てをして豊かな象徴の森を思いっきり跳びはねる、まさに黄金の日日と呼ぶに相応しい歳月と申しましたが、こうしてみますと、この一年は同時に概念の世界に足を踏み入れる重大な時期でもあることが、わかっていただけたかと思います。
 こうして二歳半から三歳近くになりますと、いよいよрィ話が本格的になってくる。たどたどしい口調ですが、ちゃんと大人を相手に立派にひとつの筋を追っているのです。そこでは言葉の概念が成立して、いわゆる体をなしている。そして話の全体のなかに、かすかながらちゃんと「自分」というものができているのです。
 
 注意したいのは概念思考が生じて「自己」の成立を迎えるまでに、乳幼児には自他の区別がはっきりとはしていないということである。またこれを歴史区分に対応づけて言えば、原始未開に生きた原人や旧人も同様に自他の区別の意識はなかったし、太陽の動きや月や雲や風に吹かれる草木の動きなどの自然に対しても、他の動物や自分たちのような生き物との区別もつかなかったにちがいない。
 わたしたち大人はこの時期の体験を遙か無意識の底に沈めながら明日に向かって対処してこなければならなかった。そのために乳幼児期のことはよほど思い詰めて思い出す努力をしなければ思い出すことはできない。わたしなどはどう努力しても駄目である。子どもの仕草や行動や片言の言葉を聞いて、さらにその上でよくよく考えて、はじめて、ああそうなのか、そうだったのかと合点するほかにない。その面でもわたしは三木茂夫の著作から人間について、また人間が生きることについてのたくさんの本質を学んだという気がしている。このほかにもまだまだたくさんのことを言いたい気がするが、それは後日あらためてということで先に進んでいく。
 
 五月晴れの庭でひとりでドロをこねています。ゆっくりゆっくり……。そのまなざしは何か遠い彼方に向けられている。
(中略)
 ところで、この遊びに熱中している時、なにかときどき呟いているのを、皆さんもご存じでしょう。それもかすかに聞こえるか聞こえないか、といった感じで……。子どもというのは、この頃までは考えたことはみな口に出す、というよりものをいいながら考える、といわれております。私たち大人は、これに対して黙って考える―いいかえると自分を仮想の話し相手にして無声の対話を交わす、というのです。いわゆる「思考」とはこのことだそうですが、いまから思えば、あの呟きの、まさに消えようとしたその瞬間が、実はこの思考のはじまりだったということになります。
 こうしてみますと、その情景はыlえる人―ホモ・サピエンスの誕生を象徴的に再現した、あるいは決定的な瞬間ではなかったのか、ということになる。私たちにとって、もの思う人類の誕生は永遠のテーマですが、この三歳の世界に、その問題のすべてが秘められているように思われてならないのですね……。
 
 私たちはここでの三木の語りのなかに、前回の冒頭で記した胎児期の、脊椎動物五億年の歴史の再現のように胎児の顔貌が変化する様子を観察した系統発生論的展開が、ここにも見事に活かされていることが見て取れると思う。そして実証はできないまでも、三木のこうした考えはほぼ妥当なものだと思える。
 さらに、三木は幼児の3歳というこの時期を私たち現代人の郷愁を誘う「エデンの園」、「桃源郷」の世界に対応付け、そのおもかげを見るようだと述べている。
 どうして三木がこう考えるかはわたしには明らかなように思える。
 胎児の未明から、3歳にいたるまでに、幼児はрアころ優先ともいうべき象徴思考、象徴世界の住人であり、その世界は自他の境界、生物と無生物の境界を持たないという特徴がある。そうしてあらゆるものに親和的であり、母親や養育者が自分にそうであったことを真似るように、すべてのものを受け入れ、愛情ゆたかに優しく、肯定的に、また確信的に接することができる。3歳にいたってもこの性質は変わらず、なおそれを基盤として、しかし人間らしく自己というものを持ち始め、外の環境、還界に向かって一歩を踏み出す、そんな生命の輝きを感じさせられる。いわゆる「かわいい盛り」とはこのあたりの時期をいうと思うが、幼児らしさ、子どもらしさの
р轤オさが最高に現れるひとつの時期と三木茂夫は言っている。思考の形態で言えば、先の象徴思考と新たな概念思考が見事にマッチして併存する時期といえば言えるだろうか。
 やがて象徴思考のほうは徐々に背景に退き、現代に生きるわたしたち大人となると、「オヒサマガワラッテイルネ」などに苦慮するように、ほとんど幼児期のそのような体験的意識は忘却の彼方に置き忘れてしまう。そして、残ってエスカレートしていく概念思考にあけくれ、あげくに自我の跳梁とこの概念思考によって自らを苦しめる事態に陥っていく。つまり無限にрたま優先の過程に幼児期を過ぎて入っていくことになる。極端に言えばこの時期を越えて、もはや理想郷と呼べるものなどどこにも存在しないのだ。時代区分で言えば、3歳児の世界から10歳くらいまでが先史時代にあたり、それ以後は歴史時代の始まりから現代までということになる。それはつまり、一面においては三木が言うところのрアころを消失していく過程なのだ、と言えなくはない。三木茂夫はこの先の人間の未来を、著作のなかで何度も絶望的、悲観的に、小さくかすかな呟きとして語っている。だがそれはほんとうに悲観し絶望しているからというのではない。それは少し違っている。もしもほんとうに悲観し、絶望しているならば、そのような呟きも、人間や心に関する種々の考察もなし得るはずがない。おそらく三木は、рたまとрアころが見事な調和を見せた先史時代、そして3歳児の世界を自然過程が生み出した一種理想の世界と思いなし、こんどはこれをわたしたち人間が未来を構想する際の基本的なイメージに置いて、近似の理想社会、理想世界を築いていくべきだと考えていたのであろう。また、そうあらなければならないと考えていたと思う。
 今日の社会における唯脳論的な、脳がすべてといった脳一辺倒の風潮のなかにあって、繰り返し内臓の見直しと復権、рヘらわたの見直しと復権を訴えつづけたのにはそうした理由があったに違いない。
 
 いま、不登校、いじめ、学校内暴力や家庭内暴力、そして異常や病的を思わせる子どもの親殺し、祖父母殺し、また同級生の殺傷事件の頻発を見る時、わたしには吉本隆明や三木茂夫の考察と全くの無縁にそれらを深く理解し、根本的、根源的対策を考えたり講じたりすることはほぼ不可能だと思える。現に私たちの社会がとっている対策のほとんどは、抑止する段階、つまり表面化を抑える対策ばかりでこれに全力を注いでいると言っていい。これが悪いとわたしはいうつもりはない。これでなんとか収まったり減少する、底の浅いトラブルも多いからだ。だが、本当に根の深いところに起因することがらは、そんな抑止策で解消するはずがない。そしてそんなことでお茶を濁している間に、根が深いところからのものはいっそう深くに潜り込み、しかもそれはゆっくりと拡大していく。これは、ここまでの記述を読んだ読者には、この文脈の流れのなかにおぼろげに実感されることだろうと思う。
 いま社会は、本質的な問題をすべて先送りにして、これを家庭のしつけの問題にすり替え、周囲の無関心な大人の問題にすり替え、教員の指導力の問題にすり替え、子どもの性格の好悪の問題にすり替え、善悪の問題・道徳の問題にすり替え、学力や家庭学習の問題にすり替え、学校と家庭の間に限定した周囲の環境の問題にすり替え、ゲーム機や携帯電話やスマートフォンの普及の問題にすり替え、テレビ視聴が長い問題にすり替え、朝食を含めた不規則的な日常生活の問題にすり替え、さらに言葉づかい、優しい心、礼儀正しさ、正義心等々、からめてから子どもの世界に干渉し、包囲している。そして、わたしはこれがもっとも子どもに悪影響を与えるものだと信じて疑わない。子どもの世界を不毛にする悪しき干渉で、わたしが子どもならばきっと水面に浮かぶ金魚のように呼吸困難に陥ると思う。
 考えてみればこの社会と子どもの構図は、
世界の警察を自認するアメリカと、たとえば今日に見られるアフガンの現状に似て見える。アメリカは他民族の反感を買い、そのことによってテロが起きたことを承知しながらテロの撲滅と称してアフガンをはじめとする他国に果敢にそして強力に干渉する。他国の国民や政権が幼稚で非民主的な生活に置かれているとしても、他国のことは他国に任せろというこれまでの世界規範を易々と乗り越えて出向いていく。
 子どもの世界もそうだ。先述したように、子どもは象徴世界の住人であり、大人はそこを卒業し、とっくに象徴世界がどういうものかを忘れているのに、社会は、大人たちは、概念思考を携えてその世界に土足で踏み込んでいく。子どもの世界は子どもの世界だという観点がない。子どものためなら、どんな干渉も許されるとまるでアメリカのように思い込んでいる。
 けれどもテロもそうであるように、子どもの世界の異常や病的と見える現象にも、必ずしも好きこのんでそうなったばかりではなく、そうならざるを得なかったという原因や動機がかならず隠されている。アメリカや今日の日本社会の干渉が功を奏さないのであれば、そしてその間にさらに犠牲を生む状況が続くのであれば、干渉はしない方がましなのだ。
 テロなどと子ども世界とを比較するなどとんでもないといわれそうだが、例えは悪いがわたしの真意は曲解しないでほしい。
 とりあえず話をこのまま進めれば、子どもの世界に対してわたしたちは大人の考え、大人の尺度でその世界を見てはならないということは確かだと思える。けれども、現実には大人の考え、大人の尺度で子どもの世界に乗り込んで、そしてその世界を裁断する大人たちが多い。これもまた致し方ない面があり、これを悪いというつもりはないが、自分の尺度が何にでも通用すると考えたら、それは傲慢というものだろうとわたしは思う。それこそが本当の弊害になるということがわからない。とはいえ、わたしもまたここでは何かえらそうな口ぶりになって、何事かの弊害を生み出す契機をつくる気配が感じられてきた。いったん今回の考察はここまでとしておき、終了することとする。
 
 
児童期が投げかけるもの K
              2014/09/28
 人間の子どもが児童期に至るまでに、どのような過程を経て成長・発達してくるのかを概観してみたい。
 
 三木茂夫は受胎後の胎児の姿を克明に観察し、人間の系統的発生を実証した。それによると、人間の胎児は受胎から32日後には魚類の相貌を持ち、35日には両生類、36日には爬虫類、38日後には哺乳類の顔貌を示すとして、写生された図が三木茂夫のいろいろな著作の中に公表されている。
 受胎32日から38日までの一週間足らずの間に母親の子宮内に起こる胎児のその劇的な変化は、「個体発生は宗族発生の象徴劇」として脊椎動物五億年の進化の歴史の再現を教えるばかりではなく、すべての生物のその祖先を辿ってゆけば三十億年前という生物発生の当初にまで遡ることができるという見解を導くことが可能である。
 変貌は外観ばかりではないだろう。胎児期を通して肺や心臓や脳などの臓器や器官、神経や血管や筋肉などもめまぐるしく変遷の経過を辿っているのだろうと推測できる。
 では、心的な形成、成長や発達はどのような経過を辿っているのか、それを類推させてくれる記述を以下に引用してみる。
 
胎生一ヶ月
母親から数十センチ離れたところで音を出し、母親の腹に巻き付けた感知器で測定するするようにする。音が出ると振動が起こるように訓練すると、次には振動を与えるだけで胎児は足を蹴るという条件反射が成り立つ。
胎生二ヶ月
胎児はじぶんの頭・腕・胴体を動かし、母親の腹を突いたり蹴ったりして、好悪の感じを表すようになる。
胎生四ヶ月
これまでに眉をひそめたり、眼を細めたり、顔をしかめたりできるようになる。まぶたを撫でると眼をほそめる。唇を撫でると吸う。光に敏感になる。妊婦の腹にライトを当てたり消したりするだけで、胎児の心拍数は著しく変動する。
胎生五‐六ヶ月
触覚が発達する。頭をくすぐると、頭を動かす。冷たい水を母親が飲むと、胎児は嫌がって、はげしく母親の腹を蹴る。味覚が発達する。羊水にサッカリンを加えると、飲み込む回数が倍になる。逆にリピドールという嫌な味のヨードのような油液を羊水に加えると、吸引回数が激減する。また顔をしかめる。
胎生六ヶ月以後
胎児は聞き耳を立てている。胎内の音、母親の声、父親の声、母親の心拍数を聴き分けるようになる。
胎生八ヶ月
これを過ぎると夢見の状態が脳波にあらわれる。七‐八ヶ月で意識が生ずる。したがってこの前後のころから母親の態度や感情を区別し、それに心因的に反応しはじめる。
 
 これは『胎児は見ている』(小林登訳)の著者であり、心理学者のトマス・バーニーの文の抽出だが、吉本隆明の『心的現象論―了解論―95原了解以前(1)』から孫引きした。ちなみに吉本はこの部分の引用の後に、
 
T・バーニーによれば、たとえば母親が恐怖や不安の状態に陥るとカテコールアミンというホルモンが分泌され、この物質が胎盤を通過したとたんに、胎児も不安と恐怖に襲われる、と考えられている。そしてこの反応が繰り返し起こると、胎児はこのホルモンの作用によって「自我および感情という純粋に精神的な現象を、きわめて初歩的なかたちながらも意識する」ようになる。これが母親の精神的な影響を胎児が受けるメカニズムだとみなされている。
 
と記している。そして、さらにT・バーニーの引用をつづけている。
 
 これは複雑なプロセスである。これがどのように起こるかについては、2章でもっと詳しく述べることにしよう。ここでは、ただ、胎児が母親から押し寄せてくる各ホルモンによって、胎内での居心地のよいщ赴(子宮)から揺り動かされて、一種の感受性が生じるとだけ言っておこう。何か正常でないこと、たとえば不安になるようなことが起これば、胎児はすでに一己の人間として、その出来事から意味を汲み取ろうと努力する。実際のところ、新たな状況が起これば胎児は、рヌうしてなの?と、いつも自問しているのである。
 このように、脳と神経系が発達していくにつれ、胎児は徐々に、母親の肉体的な現象からだけではなく、精神的な現象からも答えを見いだし始める。もちろん、言葉で言うほどこのプロセスは具体的なものではない。しかし、胎生六ヶ月ないし、七ヶ月までには、胎児は母親の態度や感情をかなり微妙に区別することができ、また、その態度や感情に反応し始める。
 この点を明らかにした研究のうちで、最も優れたものの一つは、デニス・ストット博士が一九七〇年代の初めに行なった研究ではないだろうか。コミュニケーションがどのように行われているのかと尋ねても、胎児ないし新生児は、自分が胎内で母親のどんな感情を感じ取ったか、あるいは、それにどのような反応をしたかを教えてはくれない。だが、わたしたち大人と同じように、心に受けた影響が肉体や精神に現れることは確かだ。
 たとえば胎児が幸福だと感じれば、にこやかな表情になる。気持ちが掻き乱されれば、元気がなくなって精神的に不安定になることが多い。そして、胎児の精神的な営みをもたらすのは母親であることから、博士は、出生児および出生直後の赤ちゃんの肉体的、精神的状態を見れば、赤ちゃんが母親のお腹の中にいたとき、母親の精神状態がどうだったか、胎内で母親からどういう種類のメッセージを受けとったか、また、そのメッセージからどれだけ影響を被ったかがよくわかるのではないか、と推測した。
 
 あまり説明を要しないだろう。一般的な読者としてのわたしたちは、『なるほど』とか、『そういうものか』と了解して過ぎてゆけばよい。ただちょっと付け足しをすれば、この引用部分の記述を受けて吉本は、胎児の心的な形成は動物の心的な形成に同じともみなされるが、人間の胎児が意識を持ち始めて以後は感受反応も意識の通達も動物とはちがって高度なものになっているとそのちがいに言及している。さらにこの後吉本はT・バーニーの、胎児にたいする母親の与える影響を述べた文を引用しているが、ついでのことだからこれもまた孫引き転載しておく。
 
(1)母親が強烈であっても短時間で消えてしまう衝撃をうけたばあいは、胎児には、影響を及ぼさない。
(2)母親に直接な衝撃でないような不安や恐怖は長期になってもほとんど胎児には影響を与えない。
(3)個人的な衝撃(たとえば夫との愛情のもつれ。同居している夫の親や夫の姉妹との感情的な対立や葛藤等)が長期にわたるときには、胎児への影響は強い。
(4)母親の肉体的な病気、喫煙、きつい仕事などは胎児にそれほど悪影響を及ぼさない。それよりも(3)の要因の方が胎児に影響をつよく与え、すぐに恐怖心に駆られるひ弱で神経質な子供の生まれる率が多い。
 
 この引用箇所に続いて吉本は次のように見解を示している。
 
 わたしたちはここでT・バーニーらのエディプス形成にたいする前還界あるいは原還界の作用の繰り込みともいうべき考え方に当面している。母親の胎内(子宮)は胎児にとってはじめての還界で、ここでの生活が好適なものであれば、無意識のうちに還界は好適なものだという最初のすぐれた適応性を獲得することになる。またこの原還界の生活が不安や恐怖に動揺する状態に囲まれていると、胎児は猜疑、不信、疑惑、硬直性を持って最初の還界を迎えられることになる。
 ところでこの中間に母親の両価的な感情をうけて、相反するふたつの極に振幅を繰り返している胎児のばあいが、当然に想定される。たとえば母親が働いていたり、経済的な急迫があったり、夫や夫の両親との不和のために、胎児を育てる気持ちやゆとりがなくて、胎児の存在に冷淡であったり、投げやりであったり、拒否的であったりするばあいや、逆に周囲が母親にそういう考えを強いているにもかかわらず、母親はそれに反抗して子どもを心から産みたいとおもって大事に胎児を育てていたりといったばあいに、胎児はかなり複雑な感受性や内向性をもつようになるとかんがえられる。
(『心的現象論―了解論―95原了解以前(1)』)
 
 以上いろいろな引用をつづけてきたが、そこからまずわたしは二つのことを考える。
 ひとつには、妊娠から出産までの過程は、およそ他の動物(とくに哺乳類において)と人間とは同じ過程を踏むということだ。基本的に、同じように心身の形成の成長と発達が母胎の中で営まれているということ。
 二つ目として、にもかかわらず、特に人間の胎児が意識を持つことにより、より複雑で高度な心的形成を行うことに明らかなように、人間の心身の成長と発達全体において動物の場合とはちがう高度さがあるということだ。またそのことに関係するが、受胎から出産に向かう過程で人間の母親の果たす役割は、あたかも一定の角度なのに中心から遠ざかるほどに間の距離が大きくなるように、影響のメカニズムは拡大して、新生児には驚くほどにその母親の影響が刻印されていることが理解される。言いかえれば新生の生命は、始源の差異を大きな差異に変貌させることになる、その母親というフィルターの形式を介して、つまり拡大された差異を初めから背負って誕生してくることがわかる。
 わたしたちはこういう実際、こういう現実を動かすどんな力も持たない。だが、母親が胎児に影響を及ぼすことの大きさを知る以上、胎児と母親との関係に及ぼす環境がどうあればよいのか、また母親の心身がどうあることが理想的なことなのかについて考えを巡らせることができる。そして新生児として産み落とされた乳幼児にどんな環境が整備されたらよいのかということにも、およその類推を働かせることができるというべきである。
 
 
児童期が投げかけるもの J
              2014/09/21
 いろいろな著作の中で吉本隆明は、子どもの時代に知識や技術や道徳を教え込まないと、とんでもなく、また、ろくでもない大人になっちまうんだというヘーゲルの言葉を紹介している。そして、子ども時代に知識や技術や道徳をぎゅうぎゅう詰めに教えることは、絶対的に正しいことなんだとヘーゲルが考えていたことも伝えていた。
 これに対して吉本自身は、特に晩年、ヘーゲルとは正反対の方向に考えを詰めていっている。少年少女期は遊び以外はやらせないほうがいいとまで言及し、一方の極に位置する立場に立つようになっていた。
 わたしはヘーゲルの言い方もよく分かるような気がしている。
 たとえば児童館で1〜3年生の過ごし方を観察していると、ブロックなどのおもちゃや遊具の類の使い方は乱暴で、平気で投げ捨てたりあるいは使ったあとは片付けないでそのまま放置する。「使ったものは自分で後片付けしなさい」と言われても、平気で「ぼくは使っていなかった」などと嘘をつく。意地悪をする、喧嘩をする、ルールを破って走ったり遊んではいけないところで遊んだりする。乱暴な言葉づかいも日常茶飯で、男の子などはたとえば「ぶっ殺す」なども口にする。わたしなどの職員への言葉づかいも悪く、名前の呼び捨てや「じじい」「ばばあ」等と言うことにもためらいがない。
 学校でも反抗的態度、授業中の私語や手慰みのいたずら、あくび、だらけや集中力のなさなど、先生たちの嘆きの種は少なくない。
 普段に注意や指導や時には叱られていてもこうなのだから、何もしなかったらますますエスカレートして無法地帯になっていくと誰もが考えるだろう。実際にわたしはずいぶん昔にだがそういう現場に居合わせたことがある。授業中に勝手に立って歩き、がやがやと私語が交わされ、教室の真ん中では喧嘩が始まって一人の児童が小刀を手に他の児童を威嚇している。3年生ではあっても、学級を掌握できない担任の下ではすぐさまそうした荒くれ集団に転落してしまう。
 確かに、ほったらかしにしておけば子どもというのは何をしでかすか分からないという面を持っている。そこで勉強以外にも集団の中での立ち振る舞いから作法、集団行動までも指導する必要が生じる。
 ヘーゲルやわたしたちがそこで考えることは、おそらく、このように子どもたち(人間一般についても)の身勝手を放置すれば、集団を組んだそれ自体に意味や価値が失われ、早晩集団の維持も困難になるということだろう。弱体集団、無法集団、これを共同体レベル、国家レベルに広げて考えていくと、いずれもその形態を維持する点で支障を来すことは明白である。
 
 子どもたちを適切に教育できるのであれば、教育は有意義なものになるとわたしは思う。本人自身にとってもよく、国家や共同体や集団という形での力も高まると思える。けれども、今日、児童期や思春期、あるいは青年期の若者たちが引き起こす様々な事件を考えるとき、必ずしも有意義な形で教育が機能しているとはわたしには思えない。かえって有形無形に子どもたちの自然な発達を阻害し、そのために限りなく異常や病的に近い、あるいは異常や病的そのものの精神や事件が産み出されてきているのではないかという疑念をわたしは抱く。もちろん事件を引き起こす子どもはほんの一握りの数でしかないが、けれどもそれは現状に警鐘を鳴らす先駆性を負っているものであって、事例の少なさで等閑に付すべき質のものとは到底思えない。
 こんな時に教育の専門家とか児童心理の専門家たちは、何ひとつましな見解を披瀝してはくれない。やれ道徳教育が大切だ、親や教師の普段の子どもたちとのコミュニケーションが大切だ、それが欠けているなどの、相も変わらぬ効果の見えぬ対処法しか示さない。わたしはバカかと思うがそれが今日の専門家と言われる人たちの姿だ。彼らの発する言葉から、ほっと腑に落ちるように事の真相の理解が得られたことは一度もない。それよりも何よりも、子どもの引き起こす子どもらしからぬ事件を食い止める力のなかったことを、専門家として反省する言辞がひとつもない。彼らは何のための専門家なのか。そして彼らの行う研究や学問は、一体何のための研究や学問であり、何に役立っているのか。ほんとうはそういうことが問われなければならないはずなのだ。
 文科省をはじめとし、各県や町の教育委員会などの教育機関も、いじめによる自殺や同級生の殺害などの事件がある度に、外圧を受けてという事情もあるが、学校内の教育活動の強化、学習指導及び生活指導の強化などに努める。吉本の言葉をそのまま借用すれば、禁欲的な学習が強化され、これはそのまま性的な抑圧の強化と遊ぶ時間の細分化に向かっていく。もちろん子どもたちはただ黙って従うわけではない。どこで手を抜くか、どんなふうに上辺を取り繕っていればよいか、子どもたちは驚くほどに対処の仕方を身につけているし、また日々その事を学び続けてもいる。モグラたたきのようなそんな対処法は数十年続いて、今も根底から本質を突いて原因や素因といったものを抉り出し、元を断ち切るといった大胆な改革などとられた試しはない。バカで無能な連中ばかりだと言いたいが、なぜ本質的で本格的な改革が為されないかははっきりしている。それは即自分たちを追い込むことに他ならないからだ。自分の立場がなくなるとか、場合によっては自分のやってきたことが無に帰すとか仕事がなくなるとか、要するに面倒な事態になることを避けようとするからだ。こういうことはいくらでも言えるが、ここではそれらを言いたいわけではない。
 
 ある時、児童館も入っている、全体は福祉施設といった感じの建物の受付、あるいは守衛も兼ねた感じの同年配くらいの人から、
「よく子どもたちと付き合っていられるね。」と声をかけられたことがある。
「子どもはうるさくて、おれには付き合えない。」
とその人は続けた。
 わたしは、
「以前教員をやっていたので、少し慣れているんですよ。」
と言った意味合いのことを話したように思う。
そして内面では、『そうだよなあ。子どもと接する職業を経験しない人には無理だろうなあ』と思った。
 特にわたしのように60を過ぎるようになると、自分の孫でもない限り少年少女たちと付き合うことは難しい。子どもは声の出し方から体を移動させる歩きや走りまで、ほとんど無意識に行ってしまうからわたしたちのような大人、しかも男の年配者が苦手に思うことは当然だと思える。もちろん、下学年の子どもたちに礼儀など身についているはずもない。そういう子どもたちの輪の中に入ると、思わずむっとしたりかっとなることも決して稀なことではない。教員経験を持つわたしでも、月に1、2度は頭に血が上るほどの場面に遭遇することがある。思わずからだが反応して、10歳足らずの子どもに向き合ってしまう。もちろん次の瞬間には気持ちを抑えて穏やかなふうを装うが、わたしたちをそんなふうに怒らせる悪ガキはいくらでもいる。
 先の年配の人からすれば、最近の子どもは礼儀も作法も、言葉づかいさえもが荒れて生意気で、何か注意すれば逆にくってかかろうとする気配を示したり、実際に小生意気な理屈を口にして素直に話を聞くそぶりもないと見えるのだろう。見えるばかりではなく、確かにそうなのだ。そこには現代的な社会事情、地域事情、家庭事情などがあるのだろう。そうなってしまったのである。
 前の項でもちょっと引用した吉本の『心的現象論』のなかに、明治初期に来日した外国人の旅行記が紹介されている。少しまたそれをここに転載してみる。
 
子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。しかし彼らは子どもというよりはむしろ小さな大人というべきであろう。すでに述べたように、彼らの服装は大人の服装と同じだから、彼らが大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。
(イザベラ・バード『日本奥地紀行』日光入町、高梨健吉訳)
 
私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊技の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問がでたときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、にっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(同・碇が関にて)
 
いずれにせよ、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯が、日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している。下層階級には変った習慣がある。下町の通りでは、子供たちは自分たちよりちょっと年下の赤ん坊の弟や妹を背におんぶしている。あたかも子どもの世界は、新種のシャム双生児の一団かと思われるほどである。この風変わりな習慣ほど、下町の風景に独特な味を添えているものはあるまい。
(チェンバレン『日本事物誌』T
高梨健吉訳)
 
 吉本隆明は、「これらは江戸期の匂いが多少はのこっている明治十年代の日本の町筋と、村の生活のなかで、外部の異邦人から観察された子どもの姿だ。穏和で従順で親にたいする反抗や、仲間どうしの争いも抑え目な子どもの姿と、子どもたちの可愛がる父親や母親の姿も添えられている。」とまとめている。わたしはしかし、こういう箇所を読み、自分の幼少年時を思い出さずにはおれない。東北は宮城の山村に育った昭和26年生まれのわたしは、外国旅行者が観察して記述した子どもの世界、そして家族生活や地域社会内の世界が、まるで自分が小さかったころのそれらとほとんど差異がないと感じられた。わたしにすれば、つい最近まで実はそんな様子だったのだと口にせずにはおられないほどだ。幼かった日々のわたしの周辺には、たしかに明治時代の諸相がそのまま残っていたのだ。その事にうそ偽りや間違いはない。そして現在その面影は皆無だといっていい。かえって、「英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景」は、今や日本の母親たち、大人たちと、子どもたちとの関係になった。欧米化、先進国化になったそのなれの果てだと考えることが出来る。もちろん変貌したのは子どもたちの姿やその表情だけではない。父親、母親たちのそれも大きな変貌を遂げた。父や母たちの仕事や生活様式、家族や家の形が変貌し、その中で本質的に大きな変貌を強いられたのは全ての底流に流れる「時間」の変貌である。超加速化した「時間」は日本全土を席巻し、どんな田舎をも丸呑みにし、忙しく、慌ただしく、人々の心からゆとりを失わせてきた。一言でいえばアジア的な喪失に向かって一目散に走り続けてきたといっていい。
 
 わたしたち大人はよく、今の子どもたちは悪くなったとか手に負えなくなってきたと口にする。そういう面が現象的には言えないこともないが、しかしそれは受け手側の受け取り方の問題だとも言える。どういうことかと言えば、大人は変貌という、今と昔とを比較できる立場に立つことが出来て、いわば上から目線で観察するし、出来る。だが、子どもたち一人ひとりにとっては「今」というこの瞬間しかなく、ただこの瞬間瞬間の自分を表出する、生きる、それしかないのだ。そこには、そう振る舞うしかないからそう振る舞っているのだという、少年少女たちの沈黙の声が隠れている。子どもたちはいつの時代でも、意識的にそのようにあろうとしてそうしているわけではない。時代を含め、おかれた環境からそのような姿になることを強いられる。
 どんなに悪たれようが、いやな眼つきでわたしのような老いたるものを睨もうが、子どものそういう見方や反応は子どもの真実を反映するものなのだろう。変な奴だ、うざい奴だ。考えてみればそれはちょうど、飼い主ではないものに警戒を露わにする犬猫の類の反応、もっと極端に言えば野生の生き物たちの反応の仕方に似ている。子どもの目に見えるなじみのない他者、年配者、そういうものたちへの不信感と敵対心は、他の生き物たちの警戒心に見合っているようだ。そしておそらくそれは理由のあることに違いない。その理由をここで詰めて考えることはしない。それはわたしの任ではなく、その能力もない。いずれ教育学者たちがやればいいことだ。ただ、子どもたちのそのような警戒心むき出しの本能的な反応を溶かし込むには、対するこちら側が跳ね返されても跳ね返されても愛情を持って接する、あるいは理解する以外に方途がないだろうとは言っておきたい。その事を暗黙の内に示唆する文章として、以下にそれを引用してみる。
 
このことは、たとえば野原の片隅や空地の草むらに捨てられた子猫を拾ってきて育て、その野良猫出身の猫が子猫を生み、授乳し、育てるのに付き合い、その子猫がまた子を産み育てるのを見とどけたという経験をもつものならすぐに理解できよう。最初の捨て猫は拾ってきて世話を焼いたものには馴染むとして、ほんとうは孤独で身を堅くして人間に気を許さない。見掛け上、折り合いがつくような状態になっても、ほんとうは狃れることはない。
二代目の猫もやはり、心底からは人間を容れない。三代目になって生まれてきた子猫になって、はじめて周囲を警戒する孤独な構えを忘れて馴れるようになる。ただ危害を加えられそうになったとき警戒し、むき出しになるだけだ。この一代目の狃れのない捨て猫の身構えは、他にどんな理由も見当たらないから、親猫から離され、飼い主から草むらや野原に捨てられたという幼児の飢えそうな環境と母猫ときり離されたエディプスの障害そのものを、そこにみるよりほかありえない。二代目のまだほんとうには周囲に狃れていないが、すでに一代目ほどの警戒心はすこし緩和している状態は、一代目の挙動から備給された過度の警戒心を受けとったものとみなされる。三代目になるとほとんど日常的に狃れた周囲のものに警戒心をもつことがない状態におかれる。ただ無造作にテリトリーに侵入してきた猫にたいしてだけ、警戒心を発揮することがある。
(吉本隆明『心的現象論―了解論―95 原了解以前(1))
 
 わたしたちは子どもたちに接するときに、
ここに記述された一代目、二代目、三代目の猫のように、警戒心、敵愾心を表面に表す子ども、一見するとそうは見えないがどこかこちら側をほんとうには受け入れてなさそうな子ども、そして人なつっこくて警戒心がなく、孤独な身構えを持たず周囲を無条件に受け入れているとでもいえそうな子どもたちと出会う。たぶんわたしたちはその差異を一瞬で察知できる。おそらくその時、わたしたちのそれを子どもたちも同じように察知している。警戒心、敵愾心を持った大人か、孤独な身構えを心の底に隠した大人か、無警戒で心を親愛に溢れさせた大人か、というように。それはちょうど先に引用した飼い主と猫との描写の場合のように、互いに警戒心を解いて接するようになるまでには長い時間の経過を必要とする。ただ、大人と子どもたちとで異なる点があるとすれば、子どもたちのその後の言葉や行動はどこまでも無意識の埒内でとられる反射的な振る舞いにすぎないのに対して、わたしたち大人は子どもらの言動を反射的なものと受け止め、いわゆる子ども故の振る舞いと許容することができる。そして子猫の一代目、二代目、三代目というように、手間暇をかけ、愛情を持ってかまってやり、無意識の核に形成された警戒心、不安や不信、堅く結ぼれた孤独な身構えといったものを溶解させていくように接することを考えるべきなのだろうと思える。またそれができる立場にある。わたし自身はやや引きこもりがちな性格だから、容易なことでは子どもたちに受け入れてもらえないだろうとはじめから覚悟している。それでいいので、しかし、わたしの側ではどんな子どもでも受け入れ、理解し、認め、子どもの身構え、警戒や不信を解いていくようにもっていきたいと願っている。
 
 今回もわたしのこの非構想的文章は、紆余曲折、右左への蛇行を繰り返すばかりだが、この時点でおぼろげに見えてきたものがひとつある。それは、なぜそうなったかは別にして、形成された無意識の核のところで子どもはもちろん大人たちも傷をこしらえていて、
現実的な還界にはその傷を癒す場もなく、緩衝地帯も設けられていないという1つの推測である。そして、大人も子どもも少しずつむき出しの自己を露出させて向き合ってきているように見える。それはまるで先に見てきた一代目の猫のような警戒心と敵対心とで、互いを見合っているようなものだ。ほんとうは全てを肯定してくれる母親の像を探しているのに、どこにもその姿を求められない。そしてまた、自らがまたその母親像に成り代わることを、誰もが堅く拒んでいる。わたしたちはこのことを視野に置いて、もう少し児童期の解明の糸口を探し続けなければならないと思える。
 
 
児童期が投げかけるもの I
              2014/09/15
 文字文献が残されている時期を約5000年前と考えて、それ以後は「歴史時代」と呼ばれヒト社会は今日に至っている。日本の社会では縄文時代前期と呼ばれる時期からそれ以後に相当すると考えることが出来る。
 三木茂夫の「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」の関係をグラフ化したものを見ると「歴史時代」の始まり(「歴史人」の出現)が、ヒトの個体としての10歳以後に対応づけられている。
 これはどういうことかというと、縄文時代の中期から後期に生きた人々の心の動きや意識の状態が、今日的には10歳前後からそれ以後の心の動きや意識の状態に近いと類推されることになる。また逆に言えば、現在の10歳前後の少年少女の精神とか心とかを考える場合、まだその発達段階は縄文前期以前の段階にとどまっているということになる。成人とは違い、現代に生きて現代的な生活をしているものの、心の動きや意識の状態としてはやっと「先史時代」の終焉の時期、そして「歴史時代」の幕開けにさしかかるところに精神構成の段階を考えることが出来るということだ。
 三木茂夫の作成したグラフに見られた時代区分は、人類の化石として残っている頭蓋骨などの比較から考えられた区分であり、「猿人」「原人」「旧人」「先史人」「歴史人」というように分かれている。これは解剖学・発生学・古生物学などに携わった三木には普通に採用される区分であるのだろう。
 吉本隆明は「初源の人間社会」を「原始未開」「前古代」「古代」の3つに区分している。これは彼のこしらえた「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」という概念から考えられた時代区分ということが出来る。
 2つの区分は当然のことながら微妙に重なるところと大きく異なっている点とがある。大きく概観すると吉本が『共同幻想論』などで考えていた「古代」は「弥生時代」に近く、「前古代」は「縄文時代」に重なるところがある。吉本の捉え方(宇田亮一・「吉本隆明『共同幻想論』の読み方」による)で、「前古代」がおよそ6000年前という年代から始まると区分されているところは、三木の時代区分で5000年前とされる「歴史人」の時代の始まりに近接する。また吉本の区分で「原始未開」とされているところは年代的には10万年前から6000年前と考えられ、これは三木の区分で言えば「旧人」の半ば頃から「先史人」の区分に該当する。ここから言えば「歴史人」の出現あるいは「歴史時代」の始まりは、もう一方の区分では「前古代」の始まりごろを示し、ともにそれはヒトの個体では10歳ごろの精神の発達段階に相当すると見なされる。
 いずれにしてもここでわたしたちに必要なのは、三木が「歴史時代」の始まりとし、吉本が「前古代」の始まりとする5〜6千年前、すなわち日本社会における「縄文時代」前期の精神的・心理的発達段階が、ヒトの個体の成長段階ではおよそ10歳前後と対応づけられるという考えである。また10歳になる前の段階では吉本の区分の仕方から言えば「原始未開」からそれ以前となり、三木の区分からは「先史人(時代)」及び「旧人」から、「原人」「猿人」という分類の中に放り込まれる。10歳以前の子ども、現在小学校に通う6歳から10歳までの、だいたい1年生から4年生に該当する子どもたちの場合、精神的な発達の程度は「原始未開」、そして「旧人」「先史人」の段階にあることになる。
 これらのことから総合して、10歳前後は幼児性の終焉の時期であるとともに、心身ともに大人へと成長する境目の時期と考えてよいと思われる。
 発達心理学などが児童期として区分する5歳から10歳という年齢は、はっきり児童期という区分をもうけるよりは幼児期から思春期にかけて、幼児性の払拭と大人へと成長する兆候を示す段階以前の移行期間と考えたほうが無難だという気がする。吉本隆明が、発達心理学などにより区分される児童期が普遍的で自然な区分か分からないと言い、単に学校制度がありそれに合わせた区分の仕方ではないのかと疑義を呈したように、三木茂夫もまた「読み」「書き」の「学習」を、発達心理学などが言うところの児童期には当てはまらないと考えていた。本来なら「読み」「書き」は10歳以後に持ってこなければならないという指摘は、そういうことを意味していよう。
 これらのことを考えると、児童期、日本の現行の学校制度で言うところの小学生の子どもたちは、縄文時代草創期から早期と呼ばれる時期の精神構造の発達段階にあると言えるし、逆に考えれば縄文前期以後の成人の精神構造は、現在の子どもの思春期からそれ以降の発達段階に対応させて考えてよいと思われる。つまり、文字の読み書きを含め、知識や技術、道徳や規範などの習得は、必ずしも現在の小学生の、特に低学年から中学年の児童の、本格的な発達課題ではあり得ないということになる。それは本来なら、もう少し後の思春期からそれ以降の問題になる。
 付則すれば、発達心理学者の一人であるジャン・ピアジェは、彼の著作である『思考の心理学』において「精神発達は11歳〜12歳ころでおわる」と述べている。
 また、関連するところで脳の連合野の発達、特に前頭連合野が充分な発達を見るのはヒトの個体の10歳を待たなければならないとする見解が学者や研究者のあいだでは一般的であるようであり、本来ならそこから本格的な学習がはじめられてもよいのではないかと考えられてくる。またこれらは先の三木や吉本の考え方を、一部裏付けるものと言えるのではないかと思われる。
 わたしは20年という小学校教員の経験を持つ。その中でいつも疑問に思い心を悩ませていたことは、文科省が制定した指導事項がどうしても十分に児童に身につけさせることの困難なことであった。最終的には指導事項に対する児童における理解のための準備性が不足しているという考えになった。もちろんこれは自分の内面に帰結した考えであったが、わたしたちはこれを指導力、また指導の技術力の不足と考えるように飼い慣らされていた。こういう言い方がよくないとすれば、自分から進んでそういう力がないなあと嘆くことを日常としたと言いかえてもよい。そうして教材研究や指導技術の研修に励んでいた。
 まだある。道徳的なこと、及び生活の仕方全体においても、わたしの指導の言葉や注意が子どもに理解されない、子どもの心に届かない、そういう疑問や悩みである。これは最終的には、子どもは個々の家族がこしらえた作品で、学校に上がる前に、初源的な人間としてはすでに完成された強固な姿を持っていると見るべきではないか、という疑念をわたしに抱かせた。
 もちろん、子どもたちの中には優等生と言うべき子どもたちがいてこちら側からの要求によく応えてくれる存在もなくはない。学習をよく理解し、生活態度も模範的だという子どもも居ることはいるのである。だがそんな子どもは多くてクラスに2割である。また学習についていくのが大変な児童も多くて2割ほどいる。そのほかの大半はそれらの中間に存在する。この比率的なものは、社会の縮図的なものを映し出しているようにわたしには思われる。社会的なエリートの階層にある人々と一般大衆と、そしてそうした生活層から堕ちこぼれた人々が存在するというようにだ。
 結局のところ、こうした社会構成そして現行の学校制度システムから見て、これらから最大限の恩恵を受け取るのは約2割にも満たないエリート層なのであって、見方を変えればその層のためにだけ現状が維持されているだけのようにも見られる。
 努力して2割だけが優等生になれると言うことは、一見当然のように考えられるかもしれないが、逆に言えばそれだけ高いハードルを教育制度は内蔵していることになる。そしてなぜそうなのかと言えば理由はいかようにも穿鑿できる。わたしの考えでは、市民生活者の育成と称しながら、その影にエリート層の育成という国家の維持に必要な人材育成の国家的意志が、潜在的に制度の中に組み込まれているからだ。市民生活者の民度の向上も大切なことだが、無意識の国家意志にとってそれ以上に大切なことは国家の存続、国家運営に資する人材を育成することである。あるいは直接的でなかろうとも、そういう見識や視野を持った人材が多方面に存在することは重要なことである。
 だが、今はそういうことを問うているのではない。わたしがなぜ「児童期が投げかけるもの」のシリーズを書き続け、考え続けているのか、その原点とも言うべき思いを暗示的に指し示す文章があったので以下に引用し、混迷のこの項Iをとりあえず終わらせたいと思う。
 
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期を持たなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病、(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?そういう疑問だといっていい。(吉本隆明「心的現象論―了解論―98 原了解以前(4)」)
 
 つまり、現在の社会が産み出す少年少女や若者たちの様々な事件を、教育の世界の深い穴蔵の底にある窓から眺めてみるということがわたしの動機だといえば言える。そしてわたしたちはまだ、そうしたことの了解のとば口に立つことさえ出来ていないということだけは明らかなことだ。
 
 
児童期が投げかけるもの H
              2014/08/24
 自分で読んで確かめたわけではないが、精神分析学者としてあまりにも有名なフロイトは、「乳幼児期の子どもの精神構造は人類前史の精神構造に対応する」と考えていたとされている(宇田亮一「『共同幻想論』の読み方」)。吉本隆明の著作にはフロイトのそうした考えがちょくちょく引き合いに出されていて、影響の大きさが垣間見られる。『心的現象論序説』の第T章「心的世界の叙述」の中には次のような記述が見られる。
 
 わかりやすくするために、単純化をおそれなければ、フロイドは、人間が生物体として胎外に(つまり外界に)でるまでの10ヶ月余りのあいだに、原生動物からもっとも高度な哺乳動物にいたる系統的な全進化の過程をすばやくとおるとかんがえた。つぎに、胎外にでた乳幼児から、青春期までにいたる過程で、人類史が始まって以来、人間が体験してきた生物体と精神体としての全過程をとおるとかんがえた。生物体としての完成は、はじめの数年にほぼ完了するが、生物体と精神体との複合としての身体の完成は青春期までを必要とする。
 
 ここでフロイトの考えといわれているところのものはフロイト自身のオリジナルというのではなく、元々はドイツのヘッケルの提唱した「系統的発生論」の強い影響下にある。またヘッケルにはダーウィンの「進化論」の影響があり、さらにはアリストテレス以来の西洋思潮の流れが合流していると見られる。
 三木茂夫は、ヒトの胎児の顔や姿を克明に観察し、ヒトの胎児は魚類から両生類へ、両生類から爬虫類へ、そして哺乳類というように、脊椎動物の進化の過程をなぞって成長すると結論した(『胎児の世界』などの著作)。もちろんそれには『おもかげ』とか、『つかのまの「夢の再現」』などという言葉を付け加えることを、三木は忘れてはいない。当然のことながら、それは事実そのものではないからだ。だが、三木の業績によって、われわれはいっそう先のフロイトの仮説や吉本のフロイトの要約とその発展的な考えを確信できるようになった。つまり、先の引用文の内容に生物学的な見地から根拠を与えられたことになる。
 吉本も三木も、もともと系統的発生に興味を持っていたことは確からしく思われる。そして一方は文学者として、一方は医学者として、それぞれの立場からヒトの心の形成や心の総体に向かって考察を深めていった。
 子どもの心の考察において吉本は、主に発達心理学の見解を引き合いに出して論じた文章が多く、三木はヒトの体の考察から体壁の中枢としての脳による頭のはたらき、すなわち思考と、内臓に依拠した心の動きすなわち心情とに区別してこの問題を説き起こしていった。そしてこのシリーズでも指摘したように吉本は児童期、つまり彼が言うところの少年少女期は遊びが生活の全てと結論し、三木はまた前回紹介したように「読み」「書き」は10歳以後に持ってこなければならないと述べている。
 今この二人の考えに共通するところを総合すれば、発達心理学が児童期として区分し、その時期を知識や技術や道徳などを教え込む時期だとしていることはおかしいことだし、よくないことだと言っていることになる。
 二人の論を追ってきたわたしも、おかしいと感じるようになっている。だが、ここまではまだ二人がそう言っているからそう考えているという段階にとどまっているに過ぎないだろう。もう少し二人の発言の根拠について問うてみなければならないと思える。
 三木が「読み」「書き」を10歳以後に持ってこなければならないと言うとき、何を根拠にしているのだろうか。
 前回の内容をもう一度振り返ると、三木は人間の10歳前後を人類の「歴史時代」のはじまりの頃、と対応させて考えている。
 何を持って「歴史時代」のはじまりかというと、一般的には文字文献が存在するかしないかで「先史時代」と分かたれる。文字文化のはじまりが「歴史時代」のはじまりということになるが、この文字文化を持った「歴史時代」がヒトの個体の発達段階から見てどうして10歳以後になるのか、まだうまく了解できない。おそらく研究者とか学者たちのあいだでは一般的にそう考えられているということなのかもしれないが、わたしのような素人が確かめようとしても簡単には確認が取れない。ひとつ、手がかりのようにあるのが「ギャングエイジ」という言葉で、これは徒党を組むとか強い仲間意識を持つという意味合いを含む。さらにいえば11歳以後は思春期と呼ばれる時期に入り、内面世界に関心が移行する時期だといわれている。
 これらは精神性の高度化や非血縁集団の形成といった側面から、「歴史時代」に相当すると考えて考えられないことはないように思われる。
 
 先の部分を書いた時点からおよそ2週間ほどが過ぎた。その後何をどう考え書き継いでいけばよいか分からなくなった。いろいろな本を読み直したり、調べ直してみたりしたが、うまく先の文章につなげる糸口は見つからなかった。いっそ中断してしまいたいところだが、三木茂夫の『ヒトのからだ―生物史的考察』(うぶすな書院)の中に次のような文章を見かけたので、これをとっかかりに出来ないかと考えているところだ。
 
 いまこれを人類の歴史のなかでながめると、そこにはまず、豊かな心情にみちあふれた先史時代が幕を開き、次いで精神が全体を支配する歴史時代がこれにつづく。(P156)
 
 先に、三木が人類の「歴史時代」に相当するのは10歳以後だと述べていたのを見てきたが、引用箇所を加味して考えるとそれは要するに、ヒトの個体においても「精神が全体を支配する」ようになるのは10歳以後だと考えていることを意味する。「精神が全体を支配する」とは、充分に精神が発達したことを意味し、また精神的存在として確立することをも意味する。そして同時にそれ以前、つまり3歳から10歳までの幼児期、児童期は、「豊かな心情にみちあふれた先史時代」に対応づけることが出来ると見なされていることになる。児童期の後半も、まだ「心情的」である部分を払底できないということになるだろうか。これら全体は、イメージ的にはよく了解できるように思われる。ただやはりイメージ的にであって、漠然とした了解にとどまることは否定できない。
 
 
児童期が投げかけるもの G
              2014/08/10
 解剖学者三木茂夫さんの『内臓のはたらきと子どものこころ』(一九八二年、築地書館)
の文庫版、『内臓とこころ』(二〇一三年、河出書房新社)をたまたま眺めていたら、ヒトの個体発生と人類の宗族発生の関係をグラフ化したものがあった。それは以前に『内臓のはたらきと子どものこころ』をよんだときにも掲載されていたはずで、文庫版を含め、何度も目にしていた記憶がある。だが、数日前、その図の横にある注意書きのようなものを読んではっと驚いた。初めて目にしたような新鮮な驚きだった。それは次のようなものだった。
 
桃源郷の世界は三歳児で、その印象的な幕を開けるが、その後の観察によると、この面影は十歳児を頂点として最後の燃焼を尽くすがごとくに見受けられる。なお、本来ならばこの図の「読み」「書き」は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。
 
 ぼくが何に驚いたかははっきりしている。三木茂夫さんが、はっきりと、子どもの勉強、つまり、知識や技術、規範などの習得は十歳以後に持ってこなければならないと指摘しているところだ。これは吉本さんなどが少年少女期は遊びが全てと語っていることに符合する。
 図に表されたものは、左に地質年代、右にヒトの年齢がメモリのようにおかれ、天井横軸には右から「有史民族」、「先住民族」、「無史民族」、「猿人?」の言葉がおかれている。宗族発生ではこの右上の「有史民族」を「歴史人」に重ね、左下に向かって、「先史人」、「旧人」、「原人」、「猿人」と下っている。一方、右側のヒトの個体発生は、子どものこころや意識の発達がそれらの人類の進化の段階に対応づけられて示されている。たとえば、子どもの一歳の、指さし・呼称音・立ち上がり(指示思考のはじまり)は100万年前の「原人」の出現に対応づけられ、三歳の自己意識(狭義の思考)の獲得の時期は、五万年前の「先史人」の出現の段階と対応づけられている。また五千年前の「歴史人」の台頭の時期は、ヒトの個体の十歳前後の時期として示されている。
 人類の進化・発達と、ヒトの個体発生に見られる精神の成長過程との対応付けは、ほぼ妥当なものではないかとぼくには考えられる。
 この図と注意書きの文章から、三木さん流の言い方を借りれば、三歳までの子どもは内臓に依拠した「こころ」優先の時代、三歳から十歳までは「こころ」と「頭のはたらき」とが調和しながらも、しだいに頭脳優先の傾向を持つようになり、十歳以後ははっきりと「頭脳(頭のはたらき)」が優先になっていく時代と概観できるように思われる。
 もう少し細かく言えば、この「こころ」と「頭のはたらき」の調和は三歳から四歳の一年間をピークとして、歴史的には「先史」の時代がこれに対応すると考えられている。三木さんはそれを「こころ」と「頭のはたらき」とが調和のとれた「幼児らしさ」、言いかえれば「桃源郷の世界」と見なしている。
 また、次の「歴史人」の時代では「頭のはたらき」が勝っていくということになるが、ヒトの個体ではこれが十歳以降ということになり、四歳から十歳までにかけては「先史人」から「歴史人」へと発達を遂げる、いわば移行期と見なされているように思われる。
 この四歳から十歳までの間には、今日的な子どもの実際生活の「読み」「書き」及び学校への「入学」、そして十歳での「ギャングエイジ」という発達段階の文字が書き込まれている。そして先に引用した、
 
本来ならばこの図の「読み」「書き」は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。
 
の文字が書き記されているということになる。
 
 ここまでのところで、少なくともぼくらは五歳前後から一〇歳前後の子どもたちを、知識や技術、道徳などをぎゅうぎゅう詰めに教えるのがいいのだとするヘーゲル的な考え方とは訣別しなければならないと思える。ヘーゲルの考えは、どこから見ても「公」や「国家」といった「共同」なるものに優先順位をおいたもので、「個」や「私」は、幾分かそれに奉仕する側面を先験的に持つべきものと発想されて考えられているように思われる。それは時代に見合った考え方だとは言えるかもしれないが、本当に普遍性を持ったものかと言えば、そうではないだろうとぼくは思う。それではこの時期の子どもたちの自然で本源的な生き方はどういうものかというと、吉本さんが語ったような、「遊びが生活の全て」というある種の非現実的なイメージでしか思い描けないことも事実としてはある。これと現行の学校制度を前に、ぼくらはどのように子どもの生活を考えてみることが出来るのか。おそらく現状ではそれは皆無に等しい。あるいは折衷案的に、学校制度内での生活を緩やかなものにしていくくらいしか思いつかないのだが、現実の社会のありようから見るとそれではいっそう子どもの精神、心の荒廃、及び社会全体の混迷を加速していく恐れがつきまとう。
 
 
児童期が投げかけるもの F
              2014/07/28
 子どもと接することは得意なほうではない。いつまでたってもよく子どものことが分からない。
 児童館では2年生の子どもたち、特に男子に荒れた言動が目立っている。そのほかは大同小異で、良くも悪くも子どもらしさを発揮して遊んでいる。特に荒れた言動の目立つ子どもをのぞけば、問題の種はあると言えばあるし、無いと言えば無いと言ってもいいような程度と言ってよい。
 荒れた言動というのは、無意識が傷ついているとしか思えないような接し方を他の子どもたちにする。たとえば、楽しげに遊んでいる子どもの邪魔をしたり、執拗に悪口を言って挑発したり、場合によっては実力行使に訴えて積んでいるブロックを蹴散らしたりするようなことだ。あげくに蹴る、殴るの立ち回りをする。とにかく、相手の堪忍袋の緒が切れるように、そして緒が切れるまで執拗に繰り返したりする。そのように言葉も態度も荒く、それが継続している。
 見ていると、どうしてもその子どもに、おもしろくない思いが鬱積していて、その鬱憤晴らしをしているようにしか思えない。しかも一過的、表面的なものとは思えない。相手の子どもあるいは子どもたちは、たまたま遭遇したに過ぎずに、運悪く因縁を付けられたようなものだ。そうして彼らの内面に起因するその鬱憤は、1、2度の鬱憤晴らしで解消できるものとは質が違って見える。さらにそういう傾向の子どもは、友だちと仲よさ下に遊ぶ姿も当然見られるが、そんなときには決まってご機嫌取りかと思うくらいに友だちに気を使っている。見ているこちらのほうが疲れを感じるくらいに、精一杯のお世辞を口にしながら遊んでいるときもある。
 最近の子どもは1、2年生といえども、喧嘩に発展すると本気で拳をついたりお腹を蹴ったりする。わたしの子どもの頃は、追い詰められて泣きながら刃向かうような場合を除いては、そんな殴る蹴るの喧嘩にはならなかった。あるいははるか手前で罪悪感が感じられて、そういう喧嘩は出来なかった。今はそうではない。もちろんそんな喧嘩をする子どもは少数に過ぎないが、それだけに目立ってしまう。そうした子どもたちには、言ってみれば中間の情操といったものが見当たらないことで共通している。つまり感情面でのほどほどというところが欠落して感じられる。違う場面では、同じ相手に対してすり寄るような過度の親密さで接したりしているところからも、そういう点が指摘できる気がする。
 今の段階では、親密にしていたり、あるときには仲違いをしてみたりと、関係が日によって変わるところからあまり説教じみたことを繰り返さないほうがいいとわたしは思う。しかし、放っておいたままのほうがいいのか、どこかで何かを変えなければならないものなのかの判断は、正直わたしには付きかねるところがある。
 明瞭に言えることは、上述したような心的に荒れた感じを持つ子どもの場合、親の愛情不足が指摘できると思う。このシリーズでも取り上げた吉本隆明さんの記述にもあったように、乳児期の母親の接し方に問題があったのではないかとまず考えられるように思う。授乳する母親のその時の心理的状態が、不安だったり忙しかったりで、必ずしも乳児にとって理想的な状態ではなかったのではないかと考えられる。
 愛情不足かそうでないかは、子どもを観察するとすぐに分かる。言い方は悪いが、野良犬か飼い犬かの違いほどに、人間の子どもたちの場合もしょっちゅう牙をむき出しにするか、しまい込まれているかの違いで、愛情豊かに育ったかそうでないかは判断が付く。もちろん問題と感じられる子どもたちは牙のむき方が違っている。荒々しく、愛情の表現も反転して見える。また他者と話すときの受け答えでも、穏やかなやりとり、本当の意味での心からのやりとりが出来ていない。
 以前、テレビの動物番組でタレントのベッキーが虐待された犬を世話する様子を放映していたが、犬たちの人間に対する怯えは想像を超えたもので、なかなかに交流の糸口を見つけかねているようだった。これは愛情を持って育てられたかそうでないかが、よく分かる事例の1つとして印象に残っている。この例は極端な例だが、愛情をかけられて母親、動物の場合は飼育者など、に育てられた犬猫はそれらしい育ち方をし、そうでないものは気性の荒さが表に出るのですぐに分かる。
 もしも、今のこの段階で児童を委託されているほうの立場に立てば、世話が焼けることや、扱いかねていることを、親にきちんと話したほうがいいだろう。常時5、6人で子どもたちを見守っていても、その間隙を縫いくぐって上述した言動を平気で行う。職員がどのような対応をするかもすでに熟知していて、その対応がたいして自分に打撃を与えるものでないことも十分に分かっている。もちろん、子どものことだから、ある程度のところで職員が間に割り込んでお終いになるのが通常だが、問題児の心の深くに蔵した鬱憤は何度繰り返してもはれることはない。そのように観察されることを正直に話すべきだと思う。道徳性や倫理の問題ではない。わたしにはそのように見える。表面的な心の問題ではなく、もっと奥の、生理的と見紛うばかりの深層に、それは原因を考えるほかないと思える。そして、その子らが鬱憤晴らしをするきっかけは何でもよく、もはや、その子どもたち自身の生命的なエネルギーの発現のところに遡って、荒れる言動の原因を探るほかないように見える。
 子どものそうした面、つまり心の奥の方に
固く結ぼれたものが感じられるような場合、これはもう親たちの愛情と継続的にかまってやるという行為で梳かし込むより仕方がないと思える。本当に子どものことを思うなら、親はそうすべきである。1年か2年だけでもいい。その期間は徹底的にいっしょに過ごす時間を多く取り、子どもをかまってやるべきだ。いっしょに遊び、いっしょに勉強などもして、子どもの心にゆったりとした時間が流れるように変えてやらなければならない。愛と信頼とで子どもの心を満たしてやならなければならない。そのためには親自身が本気で自分にもそういう時間が持てるように工夫する必要がある。生活に追われてとてもそれどころではないと考えている人も、その期間だけは他のことは2の次にして、子ども中心の生活をするというくらいの覚悟を持つべきだ。
 わたしは教員時代には、そういう発言をする勇気を持てなかった。頭の中ではそんなことを考えても、それを親に話しても親自身が生活に追われているのだからどうしようもないだろうと、口にする先から諦めていた。またそういうところになると最終的には親の責任であるし、生涯に多少の凸凹が生じたとしても、それもまた社会一般の出来事と思い、思い切ったそういう提案など出来なかった。
もちろん今でもそう言うだけの勇気があるかどうか分からない。自分の見立てが杞憂に過ぎないことも十分に考えられるからだ。だが、仮にその見解と提案が杞憂に終わるとしても、今のわたしならばそうしたほうがいいのではないかと親に進言するのではないかと思う。それはなぜかというと、自分の子育てに点数を付けるとせいぜい50点がいいところで、自分や自分の生活の体裁のために肝心なところで子どもにかけるべき時間を、省いてしまったという反省を持つからだ。ある種のターニングポイントと考えられる場所で、わたしには大胆さと覚悟とが必要だったのに、なんとかなるさと高をくくってしまったところがある。そのためにわたしの子どもたちは、本当は自分には責任のない余計な苦労を背負い込んでしまったと思える。
 つまり言いたいことは、ともすれば子育てにおいて最善策が他にありながら、それを行う努力を惜しんでしまうがために、子どもにいらぬ苦労を背負わせてしまうことがあり得るということだ。それならば、1年という短い期間でいいから、機を逃さずに子育てに全力を傾けてみることをしてみたほうがよい。自分の不出来を棚において、しかし今のわたしはそう考える。
 自分がそうだったが、今の親たちも、自分の仕事を辞めてまでも子どもに付きっきりでかまってやらなければならないなどとは、つゆほども考えることはないに違いない。すでにそこに、子どもに対する愛情の深度が表れている。つまり自分が大事、自分の生活が大事という本音がそこに潜んでいる。それを打ち壊して、自分に対する以上に子どもに愛情をかけるということを、たとえばわたしはしないでしまった。自分の時間を全て子どもに捧げる、そんな愛情のかけ方をしなかった。もちろん若いときだったから、子どもが熱を出せば病院の送り迎えをし、入院したときには精一杯付き添いなどして、自分なりには愛情を注いでいるつもりになっていたが、肝心なところで手を抜くことがあったのだろう。あるいは子どもが本当に助けを必要としたときによそ見をしていたのかもしれない。愛情のかけ方が自己満足的であったと反省する。
 ここまで言ってしまうと、わたしは少し老婆心で語っているように思われるかもしれない。わたし自身もそう言う気がしないわけでもない。すると安全策という意味合いが加わり、ことの切実さは薄まってしまう。もちろんわたしはそのつもりではないのだが。
 教員の体験がありながら、やはりこういう問題はあまり得意ではない。口数多く費やしながら、どこかが抜けているのではないかという不安がある。だから医者やカウンセラーのように、はっきりとそして的確に助言は出来ない。だからここではそれも承知の上で、しかし、あえて口にしたほうがよいと判断して提言していることになる。
 問題の子どもたちは何度も注意され、お説教されている。その事に効果が見られればそれはその場限りでよい。だが何度注意され説教されても少しの間、数日の間をおいてそれが繰り返されている。効き目があるどころではなく、かえって心の結ぼれ、心の荒れは強度を増していくように感じられる。1年たてば、あるいは2年たてば、その時に注意や説教の効果が表れてくるだろうというのであれば、そしてそれが確実であるなら確かにわたしの提言は杞憂だ。そこがわたしには分からない。そして分からないことによって提言もまた及び腰になる。しかし、わたしの判断は、その子どもたちの心の荒れは根源からやってくるというものである。だから、親にしかその荒れを解消する力はないし、あるいは児童館でも小学校でも相当の慈母心を持った人が、全的に寄り添って世話するなら別だが、それ以外の職業的な愛情のかけ方や通り一遍の愛情のかけ方では収まりが付かないと思える。
 わたしは児童の心理等に関しては少し勉強もしたが、所詮は素人である。だから前述した提案は素人の意見である。それは無視されても当然のことでもあるし、結局は受け手側の判断になる。参考意見としてなら言うべき意味はあるかもしれないが、おそらくは通用しない。その理由は、わたしが素人であることと、表現の内容が一般常識的に世間に流布されているところではないので、聞いても疑問符が付くからだと思う。だがこのシリーズの表現の流れからは、当然帰結されるべき内容を含んでいることはこの文章を読む人には理解されるに違いない。つまり、背景には吉本さんを中心としての「こころ」や「あたま」の「考察」があり、それらを適用してのわたしの意見ということになる。
 関連してもう少し言ってみる。
 わたしは上述してきたように、問題があると考えられる子どもに対して一応、本質と思われる指摘と対応を示してきたが、仮に世間一般に行われる対応で考えてみても、この子どもたちが将来心的に異常になるとか病的になるとは考えない。つまり、このくらいのところだと、いろいろな波風を起こしながら成人し、世間一般の大人として社会に紛れて生活していけるだろうと考えている。なぜならそういう大人たちをいくらも見聞きしてきているからだ。わたしの経験では、そういう人たちはいったん仲良くなると表面的なつき合いでは収まらず、互いにぐっと中に入り込んだつき合いをすることになる。心の奥の方で結びつく。そういう関係にならないとすると、逆に敵対的になってしまう。中間の、ほどほどという距離が取りにくい。
 問題のある子どもたちはそんな大人に似ている。だからそういう成長の仕方をするのではないかと想定する。わたしはそういう傾向のある子どもや大人が嫌いではない。おそらく自分が幾分かはそういう傾向を持っているからだろうと思える。いや、もしかするとわたしのほうがもっと殺伐とした生き方をしているかもしれない。
 生きるということに関して言えば、彼らは自傷的ではなく、攻撃的な面が強い。それが問題となる要因でもあるが、生命エネルギーは外に向かっていて健全だと言えば言える。不安視されるのは、将来的に常時暴力行為やそれに付随する反社会的な生活を送ることにならないかという点だ。それさえも生きていることがいちばんの大事という観点から言えばどうと言うこともないが、両親や家族の目からすればやはり心配の種としてふくらむことになろう。
 
 さて、やはりこの種の領域の問題はかなりの関心を引かれるのだが、同時に苦手な領域だという他はない。まして教育との関連で考えるとなおさらである。わたしは教育というものに信頼が置けないのだ。本当に立派な教育者というものがいることは承知するが、少なくともわたし自身は資質の点で教育者の資格に欠ける。人間としての理想的な心の豊かさというものの自覚もなければ経験もない。
 現段階ではこれくらいが精一杯で、もちろんもっともっと詰めて考えていけるところはそうしていきたいと思う。とりあえず児童期がわたしに投げかける問題の1つとして、ここに記しておく。
 
 
児童期が投げかけるもの E
              2014/07/19
 入学式などはその典型だが、学校の儀式の中には飾られた厳粛さが必ずと言っていいほど混入されている。この飾られた厳粛さめいたものは、その後の学校生活全般を通してつきまとう。日本の場合は特にそうなのかもしれないが、朝の会のあいさつ、授業の前のあいさつ、終わりのあいさつ。それに授業中も、私語を交わしてはいけないとか、姿勢を正しなさいとかしょっちゅう注意されたりする。昔から学校には、聖なる場所とでもいうように宗教的な名残のようなものが払拭されずに残っている。きれいごとの、しかもその上っ面ばかりが流通する空間となっている。もっと飾らずに単刀直入に、率直に、時間をかけずに必要なことのみを成し遂げられないものかといつも思う。厳粛さとか威厳とかの精神性の体裁を保って、形式的に秩序を維持しようとする表れなのだろうか。先生たちも生徒もいっしょになって、本音を抑えて、上っ面だけで調和を保ってよしとする所がある。それがどうしても悪いというわけではないが、先生たちも本当に子どもの生涯にわたる重要な問題については、指導することも触れることも出来ないですましている。
 たとえば自分の小学校時代の思い出と言えば、いつもある種の苦さをともなって一人の友だちとの出来事が思い浮かぶ。それは6年生も終わりに近い頃だった気がする。いつものように放課後にいっしょに帰った友だちを家に誘い、庭先で遊ぼうとすると、友だちはもういっしょに遊ばないとわたしに告白した。以前からいっしょに遊ぶのはいやだったのに我慢して付き合ってきたと言う。わたしのことが好きじゃなかったとも言った。わたしは、1年生の時からいっしょに遊んでくれた彼がそんな思いでいたのだとは少しも信じられず、それこそガーンと脳天を割られるくらいの驚きだった。動揺を隠しきれず、竹箒を手にして友だちを叩く真似をして、もう帰れというようなことを言ってその時は分かれたと思う。質は違うが、いじめ問題に悩む子どもがいたら、わたしのこの時の友だちのような逆襲が最も効果的だとわたしは確信できる。
 わたしにはこのことは無意識の領域に杭を打ち込まれたような衝撃的な出来事であった。その後の他者との関係性にも大きな影響を与えたに違いないと思える。けれどもこのことについて、親にも先生にも他言したことはない。一人胸の奥にしまい込んで長い間方途にくれていたのではなかったかと思う。
 教育はこのような問題には無力であり、何も教えてくれない。けれども生涯を左右するようなこうしたエピソードはどの子どもにも一つや二つは必ずある。そうしてその事について親にも先生にもほかの友だちにも相談できずに、内面の奥深くにしまい込んでいるという点で、おそらくわたしの経験と同じなのだろうと思う。
 中学や高校でも、本当に個人が直面している難問について、解決を与えてくれるようなこと、教えてくれるようなことはなかった。
 わたしの経験では、内面に触れるように示唆を与えてくれたのは唯一文学であった。詩や小説の類であった。社会の中でただ一か所、その領域でだけは本音が吐露されていた。それ以外の場所では、内面、つまりは本音の部分をさらけ出し、その上で了解し合い関係を築ける場所などどこにもない。みんな何喰わない顔つきをし合って、そうして心の表層、上っ面の部分だけで学校生活を送り、社会生活を送っている。
 たしかに学校は集団生活のあり方を教える。
個人個人の事情、内面の問題、等があったとしても、集団生活の中ではこのように振る舞わなければならないというようなことを教える。教室で、集会で、整然と周囲に迷惑がかからないように過ごしなさいと教える。言いかえれば、集団の体面が優先されていることになる。そのために、至る所で表面だけの厳粛さ、形式張ったとり繕いが強要される。
 わたしたちの実感から言えば、本当の厳粛さというものは肉親、親しい知人の葬式とかの方がなじみ深いものだし、それは心から染み出るような哀悼の意が漂う、本当に厳粛な空間であると言えると思う。結婚式などというものも、個人の切実さからいえば同じようなことが言えるかもしれない。その他は全て人工的に作られた意味のない厳粛さではないかといつも思う。そういう粉飾になんの意味があるだろうか。過剰な粉飾の厳粛さは、過剰な意味づけをしたがるというそれだけのことでしかない。
 長い間疑問を持つことはなかったが、子どもの頃、学校のそうした儀式めいたしきたりは窮屈で嫌なものだった。第一に、それまでの生育期間である家族内、親族間内での生活において、そういう作為的な厳粛さはなかったから、どうしてもとってつけたような感じでしかなかった。
 当時を振り返ると、それは上辺を取り繕うことの繰り返しの修練にしかなっていなかったように思える。子どもである自分の内側には、家族の中や親族や親戚の寄り集まった小集落の地域によって育まれた言語、性格、習慣が身についており、そのいっさいを押し殺すようにして上辺だけををとり繕い、その上辺のところでだけ学校の規範に従っていたという気がする。この内面と外面の二重性は、自分の中でなかなか融合させることが出来ずに、長い間重荷として作用してきた。
 かつて小説家の太宰治はこんなことを言っていた。
 
 じぶんで、さうしても、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
 
 考えてみれば、自分がどうしてきたか、今どうしているかを率直に、そしてはっきりと言わずに、「人間というものは、こうしなければならぬ」、「子どもというものは、こんなふうでなければならない」等と言うのは学校の先生の口癖であろう。また、政治家をはじめとする社会の指導層にある人たちの口癖みたいなものだ。そういう人たちが、それじゃあ自分はどうなんだ、どうだったんだと言われれば、わたしが思うに、先生とか政治家とかも同じ年代の頃にはたいしたことはやってきていない筈だ。近くから遠くから言動を見聞きしてきて、そう実感する。これは断言しても良い。
 先の太宰治の言葉と同じようなことを、詩人で文学批評家そして思想家でもある吉本隆明は次のように語っている。
 
(教師は―佐藤の挿入)生徒のほうを向いて、授業以外のことについても広範囲に問題の種を見つけ「これでは駄目だ」などということを言う。倫理的なお説教のようなものを生徒に向かってやろうとするわけです。
 しかしそこには本音もないし率直さもない。上っ面だけです。
 そんなことは要らないとぼくは思います。余計なことはやらないほうがいいのです。自分の考えを披瀝して「こうでなきゃ駄目なんだよ」などと言う嘘っぽさ、偽物の道徳性は、生徒にはとっくにばれています。
(吉本隆明『ひきこもれ』P63)
 
 自分が出来もしなかったこと、やりもしなかったことを、大人になって子どもの頃を忘れたからといって平気で子どもに強制するというのは間違っている。どんなに良いことであっても、自分に出来もしないことを他に押しつけるべきではない。本当によいこと、すべきことだと思ったら、まず自分が黙ってとことん実践すればいいことである。太宰も吉本も同じことを言っている。
 そうした説教で何が行われているかをよく考えて見ると、絵に描いたような立派な教本があり、先生たちはそれを読んでいるだけだと言うことができる。「これが正しい」と教本に書かれているから、本当にそれが正しいことだと錯覚して、それを読んでいる。人間は正しいことをするために生きているわけではない。もちろん間違ったことをするために生きているわけでもない。正しかろうが正しくなかろうが、自分がそうしたいと心から思ったときにはそれをしてしまうのが人間であり、生きるということである。そして極論を言えば、人間には師とか先生とかは必要のないもので、ただ人間の特性として、他人を真似る、他人から学ぶということがあるというだけのことだ。強いて言えば全ての他者が師であり、先生であるということが言えるだけだとわたしは思う。そこでは口先だけの説教よりも、その人の普段の態度や姿勢といったものから多くを学んでいるはずなのである。
 自分が子どもだった頃のことをよくよく考えればそんなことはすぐに了解できるはずである。先生の説教が心にしみて、その後の自分の人生に大きく影響したなどということがそうそうあるはずがない。また大人になってからも覚えているというような説教もおそらくはなくて、みんな忘れてしまっているに違いない。朝会の時の校長の訓辞、生徒指導担当の先生の話も、内心では早く止めてくれないかと思いながら聞いたはずだ。
 柳田国男に次のような文章がある。
 
《小学校の休みの時間は、この軒遊びの時期の延長と見ることができる。家庭はもとより教員の側でも、この間の活躍を完全なる自治に任せておこうとしない。(中略)子どもが始終誰かから見られている。それとなく耳を傾けられていると思って遊ぶことは、仮に矯飾の傾きを養うまでの弊はなくとも、遊びに全力を注ぐような時間を縮め、したがってまた無意識の体験とも名づくべきものを、積み重ねて行く妨げとなっている》
(柳田国男「分類児童語彙」の、吉本隆明「家族のゆくえ」からの孫引き)
 
 ここで「矯飾の傾き」というのは、上辺を飾ってとり繕うというほどの意味であり、子どもの性格形成上そこまでの弊害はないとしても、と婉曲な物言いながら、柳田本人は弊害があると考えていることを暗示しているように思われる。そして、たとえ上述の弊害はないとしても、無心になって物事に取り組む体験の積み重ねを妨害するものとなっていると続けている。柳田は、この時期の子どもたちの、何ものにも邪魔されぬ渾身の遊び体験を重視していることが窺われる。
 子どもでも監視されていることに気づいたら、上辺を取り繕って遊ぶようになるに決まっている。小さいときからそういう配慮を積み重ねるようになったら、後々の人格形成にまで影響が及ぶ。上辺を気遣うおどおどした人間が出来てしまう。日本人が周りの空気感に左右される特性を持つのは、そのためではないかと考えられる。
 
ヘーゲルは『精神現象学』の中で教育のことを研究しています。特に十三才までの思春期、つまり学童期といわれている時期は、人間の本性からいうと、本能や生命力にいちばん多感な時期です。その時期に学校へ行って、算数や国語や道徳を教わるのがいいことなのかどうか、根本的な問いを発して、それに根本的に答えたのはヘーゲルただ一人だとおもいます。
(中略)
 ヘーゲルは徹底的に云いました。本当は学童期は本性からいえば、あらゆるエネルギッシュな生命力の発露の時期で、放っておけば何でも解放しちゃう、悪いこともよいことも全部解放するという年齢です。その時にぎゅうぎゅう追い詰めて、規則を決めて、算数とか、国語とかの勉強をさせたり、道徳みたいな、「こうしちゃいけない」「これは悪い」「これをやったら駄目だぞ」ということを教え込むのは絶対的にいいことなんだ、とヘーゲルは云っています。(吉本隆明『人生とは何か』弓立社刊P146)
 
 日本の学校教育の基本は、このヘーゲルの言葉に、現代においても忠実に従っていると言うことができる。源流はヘーゲルにあるということだ。もちろん日本社会全体の底流を支えていると言うことも可能だと思う。このヘーゲルに対して柳田や吉本の考えは、少なくともここでの言葉を借りれば、「抑圧するな、全部解放させろ」と逆向きのことを言っている。乳幼児期に獲得したものを、外遊びという中で全部さらけ出し、表に出してしまうことが解放になるんだ、そういう体験の積み重ねこそが大事なんだと言っているのだと思う。また、その事で率直な物言いの出来る人間が育つんだ、裏表のない人間が育成されるんだ。そういう人間形成の仕方が、最も大事なことなんだと考えているように思われる。そうでないと、上辺だけ品行方正、上辺だけの優等生、そして率直な物言いをしなくなる人間が指導層を中心に社会に蔓延してしまう。吉本はそうした脅迫紛いの、偽の礼儀正しさ、偽の誠実、偽の勤勉さ、偽の人間関係づくり、偽の道徳性、等々の教育が、日本社会の諸悪の根源ではないかと思うことがある、とまで述べている。
 この柳田国男や吉本の指摘していることが、現代の世の大人たちにどれほどの首肯を持って受け入れられるかどうかは分からない。おそらく心の片隅には共感する部分を持ちながら、しかもなおそれを自ら片隅に追いやってきた経歴を持つから、今それを大きく表に出すことには抵抗があるだろう。それまでの自己形成を否定する勇気は容易ではない。また現代の社会がマスコミなどを通じて、日本人の表向きの浅薄な考え方を教育者や教育論者たちの口を借りて主流の空気感として伝えるものだから、その風評に押し流されることもないことではないと思える。そこでは、あまり規制を強くせずに、ただしっかりと知識も技術も道徳性も子どもに身につけさせてほしいと、虫のいいことを考える大人たちや保護者の声も聞かれる。その多くは何度でも繰り返すが、子どもの頃は知識にも技術にも道徳にもそれほど熱心に向き合ったわけでもないのに拘わらず、である。
 わたしの小、中高そして大学の経験では、少なくとも付き合う範囲内には全てに完璧なクラスメートとか友だちはいなかった。わたし自身も小学校では遊びに夢中だったし、中高では部活、大学では授業をサボって仲間と語り合っていることが多かった。そしてそういう中で学んだもののほうが人格形成上に役立ったと思っている。だからお前は人格的に変なんだと言われればお終いだが、それでも社会の表層をすいすいと快適に泳いでいるように見えた連中に比べれば、深海の底でじっと苦悩を抱え込み考え込んでいたとだけは言えると思っている。つまり実体験として、真面目に学校の勉強に打ち込んでいたものは周囲にはいなかったし、またそういう人間がいたとすれば、不可解な、気心が知れない奴だと感じたに違いないから、やっぱり親しくはなり得なかっただろうと思う。いずれにしろ、外部からのこうしろああしろという圧力に対して、いい加減に付き合うというのがごく普通の人間の対処で、わたしも友だちもみんなそうだったと確信的に言うことができる。
 今いい年になったからといって、子どもたちの学習や道徳性がいい加減だからといって「お説教」出来る資格を持った奴なんてこの世に誰一人いない、とわたしは半ばそう確信している。
 少年少女期には、「学習や道徳性の強要で抑圧するな、よいことも悪いことも全部解放させろ」。なぜならそれが人間の本性であり、本能だから、というのは柳田や吉本の主張であった。
 西洋発の近代教育がなかった江戸時代。あるいはそれが導入された明治の初期に、外国人旅行者などの目に映った日本の子どもたちは、素朴ながらも礼儀正しく親切、親の言うことを聞き、また年下のものの面倒をよく見る子どもたちであると、おおむね好意的に受け止められていたようである。
 体系的に整備された学校教育が普及していく以前に、日本社会に生活していく中で、すでに子どもたちは立派に生育されていたことがそこから窺われる。もちろん当時も悪ガキやいたずら好きなどの子どももいたに違いないが、自然に社会全体の中で淘汰されて、外国人の目には上述したような日本の子ども一般の姿としてとらえられたのだろう。ヘーゲルが言う所の、知識、技術、そして道徳性をぎゅうぎゅうに教え込む以前に、日本の子どもたちはとてもよい成長の仕方をしていたと言ってよいと思える。とすれば、ヘーゲルの主張するところはそのまま日本にも適合するものだったのかという疑問がわたしには生ずる。
 今日、積極的な教育の推進を唱える声はわたしにはヘーゲルの主張の延長上に聞こえるが、言ってみれば同じく「絶対的にいいこと」と考えているからに違いない。
 しかし、日本だけのことを考えてみれば、そうした近代教育以前の時代のほうが子どもたちも大人たちも、その人格の上に、素直さ、誠実さ、優しさ、親切、勤勉、また道徳性みたいなものも備わっていたのではないか。わたしにはそのように思われてならない。
 
 
児童期が投げかけるもの D
              2014/07/08
 2006年発行の『家族のゆくえ』(光文社)と題する本の中で、著者の吉本隆明は、前回の項で引用した箇所を含め、それまでの人間の発達段階についての彼の考え方を微妙に変えている。
 ひとつは、それまで彼の著作で「児童期」あるいは「学童期」と記述していた幼児期と前思春期の間の時期を、「少年少女期」と変更していることだ。
 
 わたしはこれまで「乳幼児期」の次にくる時期を「学童期」と呼んできた。この時期でいちばん大事なのは「遊び」だ。遊びが生活の全体だということが生涯でいちばん大事な時期を「学童期」と呼ぶのはちょっとおかしい。自分でも「おかしいな」とおもっていたのだが、なかなかいい言葉が見つからないので「学童期」といってきた。「学童期」というより、むしろ「少年少女期」としたほうが理屈にも合うのではないか。
 発達心理学のなかにはたしかに「学童期」という用語がある。しかし「少年少女期」と言い直したほうが、わたしにとってはいい。
 
 ここではまた、「この時期でいちばん大事なのは『遊び』だ。」とか、「遊びが生活の全体だということが生涯でいちばん大事な時期」というように、従来の主張から少しばかり踏み込んだ書き方、言い方がなされている。
 もうひとつ、これは小さな変更とも大きな変更とも言えそうに思うが、それまで、人間の性格形成に大事な時期について、主として人間の「乳幼児期」を取り上げて論じていたが、ここではそれに加えて「少年少女期」の重要さも取り上げている。
 
 わたしは、子育ての勘どころは二か所しかないとおもっている。そのうちの一か所が胎内七〜八か月あたりから満一歳半ぐらいまでの「乳児期」、もう一か所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二か所で、母親あるいは母親代理が真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、けた外れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはないとおもえる。(P28)
 
 序章でも指摘したように、子育ての勘どころは二か所しかないと考えている。
 いちばん重要な時期は胎児期も含めた「乳幼児期」で、二番目の勘どころはこの「少年少女期」から「前思春期」に至る時期だとおもえる。肝要なのはこの二か所だけで、この時期にだいたい人間の性格の大本のものは決まってしまう。この無意識の性格を動かすことはまずできない、というのがわたしの基本的な考え方だ。そのあとは、それを「超える」意識的な課題になる。
 
 従来と微妙にニュアンスが違って感じられるのは、この本では「子育ての勘どころ」という視点から言葉が繰り出されているからだと考えられる。つまり、従来はこの視点から語られることが少ないか、それほどメインの問題とはされなかった文脈の流れの中で「発達」が語られていたせいだと思う。
 ちなみに、なぜこの2つ(乳幼児期・少年少女期)が子育てにおいて重要な時期と考えているかについては、次のような言葉で簡潔にのべられているので紹介しておく。
 
 第一の時期で重要なのは、前述したように母親ないし母親代理の人がうまく、ということは心から可愛がって、おっぱいを飲ませたりオシメを取替たりすることだとおもう。それが心からできていれば大丈夫だ。親や同じ仲間に危害を加えることなどないと見ていい。
 第二の時期は、「生活が全て遊び」という時期だから、思う存分遊ばせることだ。それができれば、まず大きな問題は起こらない。
 
 要するに、第一の時期には「心から可愛がれ」、第二の時期には「遊ばせろ」という主張で、これだけを受け取れば「ああ、そうですか」で終わってしまいそうである。
 乳幼児期が重要だというのはこれまでの主張通りである。母親の感情や思考がその時期に刷り込まれるからだ。その時、母親の感情や思考は母親個人のものでありながら、人類史や共同性の全てに渉る積み重ねが、母親の感情や思考に二重写しになって刷り込まれる。だからこそ重要で大事な時期なのだ。母親の感情や思考が明るく健全で幸福感や愛情に満ちていれば、子どもにもそのようなものとして全体が刷り込まれる。つまり夢や希望(その根っこになる生命的なエネルギー)がいっしょに、子どもの心的な核にもたらされると考えられているように思える。。
 母親がこの時期に懸命に、心を込め、手をかけ、育て上げれば、後にどんな障害に出会ってもそれを乗り越えていける素地はできあがる。それだけではない、おそらく人間の子どもが他の動物の子どもたちに比べて、特に立ち上がりや歩行などの成長面に極端な遅れを持つのは、精神の始原から歴史的現在に至るまでの全過程を、その時期に集約してうけとる必要があるからだと思える。いっさいの、人間にのみ見られる精神活動(たとえば「ことば」の問題なども)の基礎構築の期間が必要とされ、そのために身体の成長はより遅くなる必要があったのだろう。そういうことを想定しないでは、以後の特に幼児期の人間の子どもの心の発達、言語の発声や聞き取りのめざましい成長の度合いは考えにくいことである。少なくとも、人類が言語の発声と聞き取りとを獲得するまでに要した時間(数百万年単位?)を、人間の乳幼児がわずか1〜2年という短い時間で獲得する経緯は、その期間の母(母の代理者)と子の中にしか想定し得ないものである。逆に言えば、その1〜2年の期間に、人類史の数百万年単位の背景が考慮されなければならないということであり、事実、圧縮されて母(母の代理者)から子へと受け継がれるにちがいないのだ。だからこそこの期間の母と子の接触の重要さは、どんなに強調してもし過ぎることはないのだと思える。
 さて、上述したように吉本は乳幼児期の大切さを繰り返し述べているが、子育ての勘どころとしての第二の重要な時期としてあげている少年少女期について、特に「遊びが全生活」であると大胆に述べているのは珍しい。
 文中には直接その発言の根拠になることが記述されている箇所はないが、「内遊び」、「外遊び」、そしてその移行期にあたる「軒遊び」には触れられている。このうち「軒遊び」については、その出処が柳田国男の『分類児童語彙』からの抜粋によって示されている(P56)。「軒遊び」の語からも想像されるように、これは家の中の遊びとも家の外での遊びとも違い、中間の、家の屋根すなわち保育者としての家族の庇護や、手や目や耳の届く範囲内での遊びということになる。それとなく、目に見えない長い紐が小児の腰のあたりについていると、柳田の文にはある。
 始終誰かが目をかけている家の中での遊びから、それとなく誰かが見ている軒下、軒端での遊びと来れば、次には当然家の者の目の届かぬ外での遊びに向かうことは自明であろう。
 ちょうど小学校に入りたての頃は、まだそれとない監視のある「軒遊」びから、監視の届かぬ外に向かう時期に重なっている。言い方を変えれば、小学生の時期は子どもの本能からして完全なる「外遊び」に向かう時期だと言うことができる。
 吉本が、少年少女期を定義して、遊ぶことがすなわち生活の全てである生涯唯一の時期だと語るのは、そういう意味合いがある。
 この時期に、誰からも監視されずに無意識と言えるほどに「夢中」になって全力を注いで遊ぶことは、子どもの発達段階から見ても最も理想的だという見解は、柳田が先の著作の中で示しているところである。だからそれは吉本の独創でもなければ、根拠のない勝手な思い込みという類のものでもない。
 わたしは吉本のこの本を発売当時に読み、共感を覚えた。やはり小学生には遊びこそがもっとも大切な生活で、子どもたちと遊べる先生がいちばん良いのだと思った。周りから何と言われようが、子どもと遊ぶ先生をこそ大切にしたいと思った。だがしかし、わたし自身はほどなくして学校を去った。いま考えれば、学校では「遊びが全て」という道筋を自分は切り開くことができないという断念が、理由の1つとしてあったかもしれないと考えられる。
 親も、わたしなどと近い考え方をする先生にとっても、柳田や吉本の考えに首肯できるとしても、社会や学校という現実を前にしたときに、その後はいかんともしがたいところがある。高い壁がそそり立ち、わたしたちはそれを乗り越えられない。せいぜいが、優秀な成績など求めないこと、決まりや規則で縛らないことくらいが可能になるくらいだと思う。どうしてもわたしたちは目先のことに目が向いて、生涯にかかわる問題を見据えて子どもと向き合うことができない。それは、出来ないのではなく、しないのだと言われればそれまでだが、中学に行ったらどうなる、高校、大学、社会人になったら、そればかりを思って遊ぶことの有意義さを承知しながら徹底することが出来ないでしまう。社会の目もまた、規則を守り成績優秀な優等生こそが教育の成果であると期待している。そこには人間の生涯というものに対する大いなる錯覚があると吉本は言うが、わたしもそう思う。
 わたしたち一般生活者が、少しばかり冷静に、そして少しばかりさめた目になってこの社会を遠望すれば、教育の成果と見られる優等生という作品のほとんどは社会の上層に上りつめ、その層を堅固に塗り固めていくものとなっている。そして最も悪質な、善を装った謀に手を染めて、いざとなると罪から逃れるために、あらゆる手段を弄するのは彼らの専売特許となっているではないか。ここまで考えてきた所から言えば、この少年少女期の優等生の過ごし方に、遠因がすでにあったと考えることもあながち荒唐無稽なこととは言えないのではないだろうか。教育は、一面でそういう人たちを繰り返し再生産する働きを維持し続けて来た、といって過言ではない面も持ち合わせている。震災罹災者や原発事故の被害者の救済が遅れに遅れる中で、なぜ指導層の視線は大企業中心の経済政策や、集団的自衛権のように半ば架空の論議に目が向いているのだろうか。国家が大事か国民が大事か。考えるまでもなく国民あっての国家であるし、国民生活という働き無くして本当は社会の上層に胡座をかいていられるわけがない。江戸時代の安藤昌益の言を持ち出すまでもなく、いずれ彼らは国民に寄生し、安い賃金の総和から上がりを掠め取ってなおかつ指導者面をした天道に反する輩に過ぎない。余剰を掠め取って上層に居座りたいものは、本当は国民生活に対する奉仕者であるべきである。救済を求めているものにあらゆる手段を講じて期待に応えるのが奉仕者である。教育はまたそのように変わるべきである。そう変われない教育の世界、教育の現場をいつまで維持し続けるのか。わたしは不思議に思う。
 では、わたしたちはいま何が出来、何を為すべきなのだろうか。吉本はこの著作で、親も先生も子どもを遊ばせ、出来れば全力で向き合い、また子どもの遊びにつき合いかまってやることが理想的だと述べている。親は、教育は、社会は、そのように自らを変えていくことが出来るだろうか。たぶん、そうはならない。どんなに可能性を突き詰めていってみても、少なくともわたしが生きている間に変わる可能性はゼロに等しい。
 吉本ほどの人が少年少女期に、親や先生が子どもの生活を遊び中心に組み替えられると信じられたかどうかは疑わしい。なるほど子どもの生涯を考えた場合に遊びの重要さは考えることが出来るとしても、親も先生もおそらくは中途半端にしかそれを実行できないだろう。子どもたち自身もまた脳裏のどこかで、頭がよくなりたい、勉強がよくなりたい、さらにはまた褒められ、友だちからも羨ましがられるようになりたいと思っているはずである。少なくとも劣等生の烙印を押されることだけは避けたい気持ちを持っているに違いない。そうなったらもうグレて、暴れるしかないということも子どもらには察しがついている。けれども良い子の振りをすることの出来ない子どもたちもいて、そうした子どもたちの中には乳幼児期の母親との接触の時期に、すでに心の核の部分で傷ついている子どもも見られるのである。親や先生といった身近な大人たちは、懸命にそういう子どもたちのケアに努めようとするが、半ば、時すでに遅しという感がある。わたしもまた、以前にこの著作を読んだときから、何ひとつ進歩しないでここに至っている。
 
 
児童期が投げかけるもの C
              2014/07/01
 学校では学習支援の立場で主に6年生を担当し、1年生の下校に合わせて午後に児童館に向かう。これが毎日の日課である。
 1年生と6年生とを見比べていると、まず気になることは、1年生の「素」をむき出しにしたような活発さにたいして、6年生はむしろ一見して覇気がない感じにこの目に映ることだ。学習中は特に元気がない。静かに学んでいるというような表向きの取り繕いは達者だが、誇張して言うとクラスの半数は授業に参加していないとすら感じられる。おそらく1年生は授業中の私語も開けっ広げで、ひっきりなしに先生に注意されているだろうが、6年生は逆に意思表示がないと注意されることが多い。この変貌はひとつの技術や知識、あるいは規範を学んだ成果なのであろうが、見方によっては個々人のエネルギーの消失と見えないこともない。
 単純にまた比喩的に言えば、6年をかけて消失していくものは家族習慣、あるいは家族の慣例といったものでもあろうか。幼児期までに刷り込まれ、形成され、培われててきた対幻想(対観念、家族観念)、それが子どもを思う家族の精一杯の愛情とともにランドセルに積み込まれ、持たされて、子どもたちは毎日学校に通い続ける。しかし意気揚々と学校に通い始めた子どもたちが、いつかしらその日の「意気揚々」をしだいに失いはじめていく。社会通念(共同幻想)によって、個々の家族が心づくしのように子どもに背負わせ持たせたものは、ことごとく否定され、矯正され、駆逐されていくといって過言ではない。
 その過程の初期をまた比喩的に言うならば、家族の上位に位置する共同体の意志に、家族観念、対幻想が屈服する図とでもいえるだろうか。
 学校の中で家族習慣は破棄され、新たな規範として学校のルールに適応させられていく。家族の一員から共同体(初期社会)の一員へ、子どもたちにとっては過酷な(?)、あまりに過酷な(?)現実が待っていたということになろうか。
 小学校生活の数年で、子どもたちは家族生活の規範に則るべきか、新たに社会生活のルールに則るべきかで迷うはずである。もちろんこのことを意識して選択しようとするわけではないから、子どもたちの葛藤は無意識裡に行われていると言えよう。勝敗は端から決していると言うべきである。共同体の意志によって設計された制度に組み込まれてしまっているのである。当然子どもたちは変貌を余儀なくされ、その時家族はまたこの変貌を側面から見守るしか方途がないのだ。
 共同体(社会)からの要請に順応できる子どもは技術や知識を学び、規範を学んで、優等生になっていく子も出る。逆に、ついていけなくて劣等生になっていく子も出てくる。おそらくその過程で何が起きているかというと、能力のあるなしばかりではなく、推測になるが、共同体にあって家族習慣(対幻想)を吹っ切れるかどうかということが問題になっているのだと思う。つまり進んで集団生活と同致する方向へむかうのか、あるいは家族の方に後戻りしようとするのか、その分岐点にさしかかっている。
 
 ここまで、家族習慣や家族観念、対幻想などいろいろごちゃ混ぜに言葉を使ってきたのは、わたし自身の曖昧さによる。いまこれを子どもの性格として収斂させて考えてみれば、幼児期までにつくられたそれは、家族に責任が所属するのだと考えることが出来よう。家族の中で基本的な性格は形成されてきた。その性格、さらにまた家族内で形成されてきた基本的な生活習慣は、多くの場合学校では否定されることが多い。ちょうどこの地方の方言を標準語に矯正するかのように、個々の家族習慣は矯正される。
 ざっと考えれば標準語は知っておいた方がいいし、一般的な生活習慣というものも身につけて損はない。けれどもこのことはよくよく考えれば、家族によって育てられた子どもたちは欠陥だらけだというように、学校は、社会は、考えていることを暗示しているのではないだろうか。
 100%とはいわなくとも、自分たちの精一杯の愛情で幼児期まで育てた子どもたちが欠陥品扱いされ、ああだこうだと言われる親たちが心底から教員の言葉に共感できるとは思えない。では、そういう実際から指導を施されて子どもがよくなっていったという事例も、寡聞にして、多くは知らない。かえって子どもは萎縮し、ますます表情から輝きを失っていったことを、密かに不安に感じた親はいなかっただろうか。わたし自身が親の立場にあったときに、家族内では活発で生き生きと生活していたのに、幼稚園に行き、小学校に行きだして、みるみる子どもたちから生き生きとした表情や発言が失われていったことを、昨日のことのように思い出す。もちろん自分たちの育て方の至らなかったこともあるが、なおその上に子どもたちを萎縮させない学校の指導を期待していたことも事実である。
 優等生にならなくてもよい。勉強が出来なくてもよい。多少、悪ガキになってもあんぽんたんになってもよい。ただ毎日を楽しく暮らし、生き生きと暮らしてくれたらただそれだけでよいというのがわたしの願いだった。しかし、徐々に輝きを失っていく子どもの姿を遠巻きに見守りながら、社会人になるためのひとつの関門を通過する、これは試練のひとつでもあろうかと、自分の力の及ばざるを悔しく感じるだけであった。だが、同時に学校にそう多くは期待しまいという思いも持っていたことも事実である。それは自分の子ども時代の経験が教えたところである。
 
 いずれにしても、家族中心の世界から同年齢集団の世界に組み込まれる子どもたちにとって、この移行期は何事かであると思われる。これをうまく理解することが残念ながらまだわたしには出来ない。引き続き角度を変えながら、この問題に何度も立ち向かってみたいとだけは考えている。
 
 
児童期が投げかけるもの B
              2014/06/15
 
 児童期が奇妙なのはその時期が学校制度(そうでないばあいも、知識、技術の学習)と結びつけられ、それがエディプス的な性の発現期と二重になっていることだ。どの発達心理学の研究者も、この時期を技術と知識を学習する時期、もっといえばエディプス的な性の発現力を抑制しても、禁欲的な技術、知識、規律を学習する時期という認識では一致している。だがほんとうにこの時期に性的な発現力を規範により抑圧し、禁欲的な学習にむかう時期なのかどうか、解明しようとしていない。だいいちに学習という範疇は、げんみつにいえば心身のいずれの発達段階にも入ってこない。ただ学校制度、学習の範疇が、すでに存在したために児童期という区分がもうけられたのか、あるいは狩猟民の時代から人間は、この時期になると両親とか共同体が幼児期になった子どもを獲物を捕らえるために連れていくという習性があり、それが制度化されたのかどうか。またまったく技術、知識、規律の学習をこの幼年期の後半からあとにふりあてることには、身体整理としても心的な段階としても根拠がないものかどうか。従って教育制度とこみにふりあてられたという意味しかないものなのか。わたしたちはこれらの発達心理の研究者たちを越えて、もっと根底から解明してみなければならないとおもえる。
(吉本隆明『心的現象論―了解論―』
98 原了解以前(4) 試行68号)
 
ここでとりあえず提起できる疑問は、なぜヒト(人間)はかくも長い(2年間)完全な母親なしで存在できない要保護期をもって生まれるのか、そのために母親がもっているその時の水準の心的な世界を、容赦なく乳児のうちに転写されてしまうのか、それゆえにこそヒト(人間)だけが分裂病に典型的に象徴されるような心的な病をもたねばならないのか?こういうことだ。
 またなぜヒト(人間)は自然な性的な発現力が萌し、噴き出しはじめる時期に、それを弾圧し、禁欲的な規律のもとに技術、知識、道徳などを学習する時期をもたなくてはならないのか、それは根底からヒト(人間)の子どもにとって必要なものなのか、それともほんとうは近々一、二世紀のあいだに風習となったたんなる制度の産物なのか?またこの時期に発現される、乳児期に次ぐ重要な心的な世界の揺れ、異常、疾病(それにともなう家庭内暴力、学校暴力、近縁者からうけとる性的な外傷)は、性的な抑圧と禁欲的な学習と関わりがあるのか?こういう疑問だといっていい。
(前に同じ)
 
 登校拒否とか家庭内暴力とかいじめとか、そういうのは全部、児童期の延長線で起こっているわけです。なぜ起こるかということは、本質的には簡単なことです。性的発現の時期なのに学校はそれを全部抑圧・弾圧して、きちっとした規律とか知識とか技術とか道徳とかを学べというふうに、建て前上してあります。もう一ついけないことは、条件が重なりますけども、それについていけなければ劣等だということになるわけです。ついていって、知識を獲得し、技術を獲得し、道徳を獲得したら、優等生になるわけです。つぎに等級が決められます。ついていけなくて劣等生だといわれて、それ以上の学校にも行けないとか、それ以上劣等な成績だったらどうしようもないわけです。何もなくなっちゃうわけです。暴れる以外に方法はないですから、暴れるのです。学校で暴れるし、家でも暴れるし、もう方法はないのです。ついていけないことを劣等だって烙印を押されたら、もうやることはないでしょう。僕だってそういうふうにいわれたら、やることないですよ。やることないからガラスでも割ってやろうとおもいます。それは当たり前のことで、個々のケースは複雑でさまざまでしょうけど、基本的には単純なことです。つまり児童期の問題です。
(吉本隆明『心とは何か 心的現象論入門』弓立社より)
 
 つまり、教育の問題で核の問題ってのは何かというと、結局、幼児期を過ぎたあとは、発達心理学者は学童期といいます。学童期というのは一体何なのか。これはものすごく難しいんです。つまり、僕なんかが読んでる偉いヒトでいえば、ヘーゲルなんかはこの時期にぎゅうぎゅうな目に合わせて、道徳と学問技術をどんどん詰め込むのが大変重要なんだという見解を述べています。逆に、こんなところで無理して勉強させるのはおかしいという教育学者もいます。日本の進歩的な教育学者は、みんなそう云います。だけど、僕はそんないい加減なもんじゃないような気がします。ヘーゲルはいい加減じゃないにしても、じゃあ、逆に自由にしたらいいかというと、学童期というのはなんなのか。この時期に学問的・勉強的な技術と、道徳倫理を植えこむということは、はたして根本的にいって―根本的ということは胎児・乳児期を核とする人間の発達する心の発達の仕方です―に照らして妥当なのかどうかを、根底的に問い直さなければいけない問題だと思います。
 いい加減な進歩的な教育学者は、自由にしなくちゃいけないというなら、お前の子どもが学校に行きたいといったらどうするんだと聞かれたら困ってしまうでしょう。この時期に子どもは自由にしなきゃいけないと主張してて、自分の子どもはそうじゃなくて、ちゃんと受験勉強させてよいところに入れる、それじゃあいつまでたっても同じです。嘘云っちゃいけない。いい加減なこと云っちゃいけないんで、ヘーゲルみたいに徹底的なことを云うか、徹底的に「これは駄目なんだ。これはもう学童期というのは意味をなさないんだ」と云えるまでに徹底的にその問題を突き詰めていくかが重要だと思います。
 どうしてかと云いますと、思春期に入るまでの学童期といわれているところは、人間の心の仕組みでいえば、核と中間層のあり方、つまり核と中間層がどういうふうにその子どもの無意識の中にあるかということが相当噴出してくる時期です。この時期にぎゅうぎゅうな目に合わせることはいいのか、道徳を植えつけるのがいいのか、学問技術を植えつけるのがいいのかということは、根本的に問われなければなりません。なぜならば、学問技術という問題はたぶん中間層までいかないんで、表面層の問題のように思うんです。だからこの時期にやるのがいいことなのかどうかを根本的な意味で問わなきゃいけないと思われます。
(吉本隆明『人生とは何か』弓立社から)
 
 児童期(学童期)は、幼児期までに形成されてきた心的な核と中間層、これは無意識の領域に形成されるが、それが噴出し、表面化する時期だということが語られている。また「性的な発現」という言い方も、同じことを別な言葉で述べたものだと理解してよい。
 この時期を過ぎると、ヒトは意識的なコントロールによって、これを控えたり抑圧したり隠すことが出来るようになっていく。
 心的な核と中間層は、主に母親との関係、及び家族関係の中で形成されたものだ。児童期の言動にはそれが色濃く影を落としている。あるいは、この期の子どもたちの言動にはそれが反映されるものだと言うことができる。
 もうひとつ、児童期には、規律や道徳、知識、技術などを学習する時期であるという特徴がある。
 児童期のこの2つの特徴は相矛盾するものだと言うことができる。無意識の性的な発現ということで言えば、本能的にというか地をさらけ出してというか、つまり自由奔放に振る舞いたい欲求をもつのに、学校ではそれが許されない。逆に個人の振る舞いは大きく制限されて、集団的な規律に従って身を処するように強制される。比喩的な言い方をすれば、体はあっちに向いているのに、頭では別の方向に行かなければならないと考えているようなものだ。そしてこのことが子どもたちの心にとって、フラストレーションとなって溜まっていかないはずがない。
 視点を変えて言えば、現在の社会に参画し、社会に生きていくためには学校で学ぶことは必須となっている。それだけ社会は高度になってきたということでもある。学校は家庭と社会との橋渡しの役目を担っている。もちろんすでに幼児期において、子どもたちはほかの子どもたちと一緒に遊ぶ体験をしてきている。保育所や幼稚園といった、家族や親族や隣家とは異なる集団の中でルールに従った生活をすることも学んできた。だが、小学校においてこそ、本格的な集団生活、共同生活が課せられ、ある意味では直に国家意志というものに触れる機会となっている。また、現行3年生くらいに学校制度とは別に同姓の自主的な集団形成(ギャング)がなされる。これらの意味からも、この時期の子どもたちは本格的な「共同幻想」の発達段階に置かれるものだといえる。
 
 ここまで見てくると、ヒトには身体的と心的と二重の成長が課せられているように思える。これは印象から言えば、心的な成長のために身体的と心的と二重の成長が、それ自体で遅くそしてゆっくりと成長することが強いられているようだ。そしてこれは吉本が言外に言うように、文明の進展とともにヒトの成長の遅延に結びついている気がする。これが一体何を意味するのかは明白で、人間の成長が動物一般の自然な成長過程に置かれているのではなく、もはや人工的と言ってよい成長過程に組み込まれてしまっているということだ。あたかも家畜が成長をコントロールされるように、わたしたちはわたしたち自身の成長をコントロールすることになっているのではないだろうか。
 
 
児童期が投げかけるもの A
              2014/06/08
 解剖学者の三木茂夫は、ヒトの胎児期は、受胎後の初めから小豆粒大の人型ができてそれが徐々に大きくなる過程を歩むのではなく、感覚器官の形成なども含め、あたかも魚類、両生類、爬虫類、哺乳類という脊椎動物の進化の歴史を辿るように成長すると述べている(「胎児の世界」などの三木茂夫の著書による)。言うまでもなくそれは人間の胎児の身体的、そして器官的な成長を述べたものだが、この胎児期におけるヒトの成長はこれにとどまるものではない。乳児期までをも含めて、心や精神と呼ばれる心的な成長もまたこの乳胎児期に発生し、人間の心的世界の基礎が形づくられるという(吉本隆明の「心的現象論」などの著作による)。
 とても大まかなつかみ方になるが、以上のようなことから考えてみれば、人間の胎児期そして乳児期というものの中で、過去の生物界の歴史、人類の歴史などが反芻され、個に埋め込まれていく過程がイメージされる。それはヒトとしての個人が個人として、この世界に生きていくための準備期間のようにも思われるし、こういう過程を踏んで人間は徐々に人間らしさの形成に向かい、やがて心的にと身体的にと成長を遂げて独立して人生を歩むようになるのだとも考えられる。
 これは他の動物一般と比較すると異常なほどに遅延した成長だと感じられる。馬や牛などの出産をテレビで映し出した映像を見ることがあるが、そこでは1時間も経たずにそれらの新生児たちは四肢を踏ん張って立ち上がることができる。そして時間を待たずに歩行さえできるようになる。人間の赤ちゃんの場合は立ち上がるのにさえ1年あまりを要する。その間、母親や代理の養育者に全てを依存する。このことをさらに考えると、他の動物一般に比べての成長の遅延が意味するものは、出生前後のこの期に莫大な遺産の継承が心的にも身体的にも執行されるために、これほどの長い年月を要することになると理解するほか無いように思える。逆に言えば人間の胎児や赤ちゃんは、この時期に他の動物一般に比べて多くの有形無形の過去からの伝達を吸収・消化していることになると思える。視点を変えて言えば、母や代理母に生命の維持という点で絶対的と言えるほどの依存をしながら、その背景において相当なことを経験しているはずだということになると思う。それだけ、人間は特殊なものであり、人間の完成にあたっては紆余曲折と言っていいほどの回路を辿る必要があるのかもしれない。本当はこれを考えると驚嘆せずにはいられないし、人間の乳胎児期、幼児期を経る子どもたちに対して、すごいことを経験してきていると、つい崇高なものを見る目つきに変わってしまう。
 ところで、人間社会において個人が1人前の成人と認められるのはこの後、幼児期、児童期(学童期)、思春期を経た後である。乳胎児期を過ぎて、なお多くの段階と時間とを要することになっている。動物的には人間の児童期にあたるあたりで実質的な一人歩きを強制されるように思われるが、人間社会ではさらにそれまでに蓄積されてきた技術や知識の習得、共同体や集団、組織内部の規範やルールといったものなどの習得が強制されてくる。それらを獲得しなければ、人間社会の内部では1人前とされないレールが敷かれている。
 人間と他の生物との大きな違いは何かといえば、やはり脳の発達に帰結すると考えられる。共同社会を構成する生物は人間以外にも少なからずいるが、人間が地球上に巨大な帝国と言ってもいいそれを築くようになったのは、異常に発達した脳を所有できたからである。そう考えると、人間の様々な理由による発達の遅延も、つまるところはその脳の異常な発達に関係していると思われる。
 しかしながら、他の生物には見られない大きな脳を持って産み落とされたとしても「アヴェロンの野生児」の例に見られるように、その後の成長過程の周囲に人間的なものが皆無だと、動物生として成長はしても人間社会に復帰することはほとんど困難になる。まず言語の獲得が不可能だということは、逆に胎児期も含めて、さらに生後の乳幼児期における母親や母親の代理者との日常的な接触の期間が、いかに大事かということが分かる。
 
 おそらく、本当は4〜5才の幼児期までに基本的な人間としての条件は母やその周囲から刷り込まれ、受容し、完備されるに違いない。身体的にはもちろん、心的な面についても言語の獲得から、それを行使してのコミュニケーションもおおむね可能にすることが出来るようになっているといっていい。あとは、歴史の黎明期から現在に至るまでの積み重ねてきたもののうちから、今日の社会に生存するための必要なルール、規範、技術、知識などを習得すればよい。
 血縁集団だけで成り立っていた時代までは、ヒトは幼児期を通過するだけでその集団の一員としての条件を獲得できたに違いない。もちろん部族社会、統一部族社会の形成、成立以後もその生涯のほとんどを血縁集団の中で過ごせた時代は同様であった。血縁内部に通用する代々の習俗、習慣を身につけ、その延長に生活して何ら支障はなかったと思われる。
 特に近代国家成立後、そして現代、ヒトは非血縁集団の中で生活する部分が圧倒的に増加してきている。そうした集団内部にあって、新たな規制や義務がヒトには付加され、課せられるようになった。具体的には健全なる市民の育成などの名目で、技術や知識、身体能力の向上などが求められ、また社会生活上のルール、道徳などの修得を課せられる。
 児童期とはまさにそうした今日的な必要から設けられた発達段階だという気がする。
 
 
児童期が投げかけるもの @
              2014/06/04
 6月に入って、学校や児童館での子どもたちの様子にちょっとした変化がみられる。どことなく言動が荒れて見える。
 学校では主に6年生の学習の支援を行っている。が、児童館となると1年生から3年生までの宿題と遊びとを見ることになっている。
 だから学校と児童館で荒れた様子が見えるということは、1年生に始まり6年生までを対象としてとらえているということになる。
 荒れているということはどういうことかというと、言動が乱暴で、ときに先生や職員のいうことを聞かないとか反発するとか、相手によっては舐めた態度を取るとかということである。6年生の男子では友だちとのふざけにも、プロレスごっこに始まって過熱気味になり、ほとんどけんかの様相を呈することもある。児童館での上級生である3年生は、館内を走り回ったり、やってはダメということをわざとやって職員を困らせることが、ややエスカレートしてきたかなと感じる。もちろん友だち間の諍いもやや激しさを増してきているように感じられる。
 
 ぼく自身は教員時代の経験もあり、いつでもどこにでもあったありふれた状況であるというように見えている。学校の管理職が問題視したり、児童館の職員が注意の声を荒げることも当たり前のことに思えないでもない。多少以前と異なった点があるとすれば、規範がゆるみ、規制が緩やかになった点に求められそうに思える。そのために、子どもたちの表現が、抑圧が薄くなった分だけ過激に露出していると見える。だが、少し穿った見方をすれば、表面的には規制はソフトな装いにはなっているものの、内側では真綿で首を絞めるような陰湿で底意地の悪い規制の力が働いていないとは言い切れないかもしれない。そのために、子どもたちは苦し紛れの精一杯の抵抗をいま露わにし出した、のかもしれない。
 
 もう少し勉強してみないとはっきりとは言えないが、集団行動の上で厳しく規制を敷かれる児童期においては、子どもはすんなりとその状況が受け入れられずに、子どもによっては反発、反抗を表にしながらしだいに馴致していくもののように思われる。もっと性格的に厳しさを持った子どもは、その抵抗は後々まで尾を引きずる場合もあるに違いない。
 ぼくにはこの時期の子どもの振るまいとしては、根源的なところで根拠のある振る舞いなのだろうと思われてならない。大人的には困ったものだという振る舞いでしかないが、子ども的には、何か根源的なところで「自分」を発現せずには済まない時期に当たっているという気がする。
 血縁者の間で関係づけられ、あるいは自らを関係づけたその事が、非血縁者で組まれた集団の中でどう自分を位置づけ関係づけるべきかに困惑した結果として、「自分」をアピールする、あるいは開放を訴える行為なのではあるまいか。
 もうひとつ、この児童期を人間社会の歴史に対応づけて考えるとすると、前古代から古代にかかっての時期に相当すると思われる。これは血縁集団から非血縁集団、部族社会の成立の時期にかかっている。こうした社会構成の移行期が、何の抵抗も諍いもなく成立していったとは考えられない。統一部族社会の成立までを考えると、当然、数千年の単位を要する出来事であったことだろう。その間、どれだけの諍いや抗争が繰り返されたのか計り知れない。子どもたちにとっても、幼年期から児童期へのこの移行の時期は大きな地殻変動の時期と言えるかもしれない。そうすんなりと、大人たちの望むような振る舞い方はできないのかもしれない。逆に、注意、監督する大人たちは、いずれ部族社会、統一部族社会を支配する側の視線に立って秩序と規律とを保ちたいと考えるに違いない。
 
 これらのことを合わせ考えても、個を社会人として育成する期間が平坦なものであり得るはずがないだろうとぼくは思う。そして実際にいろいろの問題が発生することは避けられないし、発生していいのだ。何となれば、ぼくが眼にする限りにおいては、子どもたちの巻き起こす騒動は所詮子どもが巻き起こすまでのもので、到底未来に持ち越す態のものではないと判断できるからだ。仮にどんなに誇張してとらえてみても、子どもたちの言動が反社会を貫くほどに根拠があるとは思えない。ぼくらの時代のガキ大将の多くも、成人後にはほとんどがごく普通の社会人として生活している。ぼくの目には、だからいま問題視されるような子どもたちが、ごく普通の大人の姿に重なって見える。大人たちもそんな子ども時代を通過してきたし、そしていまわたしたちの目の前の大人へと成長してきている。
 ぼくは子どもたちにあまり細かいことは言う気になれない。また、目にしている限りでの子どもたちの粗暴さなど、軽く受け止めることができると思っている。彼らのそれは、まるでアメーバの触手か何かのように、何かを探りつつの行為である。子ども自身、本当はどこまでやっていいかを知っている。つい度を超す場合もあるには違いないが、それもまたほとんどの場合は分かっていながらやっていることだと言える。
 
 ぼくはけがや命に関わりそうなときはきつく注意したり叱ったりするだろうが、ほとんどの場合は大目に見て、子どもたちが自分を開放するそれらの行為を、なるべくやらせておこうと考えている。それは自分の判断であり、よいかどうかとはまた別の次元だ。
 細かく子どもを叱ったり注意したりする先生や職員がいるが、それがダメだという考えはぼくはしていない。そう考えてそうしている人々が一方にいて、またぼくらのようにあまり細かいことで小言を言うことのない大人たちがいる。それでいいのだと思っている。いろいろな大人たちがいて、子どもはそういう大人を見て自分なりに判断していく、その事が大事なことなのだと思う。子どもはそうして勉強し、成長していくのではないだろうか。
 このことについてはぼく自身まだ勉強不足であるし、まだ納得できるところまで考え切れてはいない。子どもの発達過程と、それから対応づけられる歴史的な時期とそれぞれについての理解を深めながら、もう少しまとまった見解が述べられるところまでこのことについて追求していきたいと思っている。今日はこれで終わる。
 
 
小考(子ども及び人間について)
              2014/05/26
 世の中にいる普通の人々こそ人間である。
普通の人々だから、際だって優れたところをもっているわけではない。頭も体力も、至ってありきたりである。
 政治家や学者や文化人面した連中が、普通の人々に向かって「普通ではダメだ」と言うことは間違っている。それは「人間ではダメだ」と言っていることと同じことだからだ。人間が人間でいてダメな理由はどこにもない。馬が馬であるように、人間は人間なのだ。仮に馬がライオンを目指して努力してもライオンにはなれないように、人間が神を目指しても神には成りようがない。自分を神様や仏様にちかいと思っている人たちは、そういう人たちだけで別世界をつくればよい。もしもつくれたらの話だが。
 普通の人々は超人的でもなく、天才的でも秀才的でもない。何かに向かっての努力も普通。他人の役に立つことでも、正しい行いや善良な行いという点でもごく普通で、他の模範になることもほとんど無い。けれども、それこそが本来の人間の姿であって、ほんのひとにぎりの才能のある人、人の上に立つ人、他者のために活躍した人、研究したり考えたりした人こそが人間だというわけではない。
 進歩、発達といった概念が生じ、わたしたちの社会は脅迫観念に怯えているかのように「よりよい人間」を目指してきたが、人間には不変の部分があるのだろうと思う。わたしたちは古代社会に生き死にした人々とあまり変わらずに、人と人との間にあって喜怒哀楽を繰り返している。異性に恋をしてどきどきしたり、職場の人間関係で悩んだり、友達と遊びに夢中になりつい羽目を外してしまったり、等々。これらのことはいつの時代にもそうだったのだろうと思う。悪と呼ばれる所行を行うものたちもまた人間以外ではない。
 
 こう考えると、人間とはまさしくそういうものなんだろうと考えるほかにないように思える。高名な聖職者や、人々を救う偉い人間たちもまた人間には違いないが、彼らだけが自分たちを本当の人間なのだと思い込み、普通の人々を自分たちよりも劣った馬鹿な連中であると蔑むことは間違いだし、普通の人々がそう思い込むことも正しいことではない。人間を考えるとき、わたしたちはあるがままの人間の諸相を全て取り込まねばならぬ。
 子どももまたしかりで、いくら繰り返してお説教されても、教室や廊下を走り回る姿もまたひとつの子どもの姿といえる。大声を上げる。ぺちゃくちゃしゃべる。叫ぶ。そのくせ、授業で質問されるととたんに蚊の泣くようなかすれた声しか出さない。また腕白なガキ大将がいて、いじめられっ子がいる。そんなところも、学校制度の始まりの頃とそれほど変わり映えしない子どもらの姿形であろう。それが、普通の子どもであり、子どもとはそういうものだからである。
 大人は子どもをしつけようとするが、それは自分が大人になったから、大人の視点に立ってしつけたいと考えるようになるのである。子どものまんまであったら、そんな風には考えない。相変わらず跳んだりはねたり、所かまわず大声で友達としゃべくることもするだろう。だいたいが、誰もが子どもの頃にしつけられ、そうして成長して現在の社会を形成する大人になっているというわけだが、いったいわたしたち大人は子どもに威張れるほどの社会を形成していると言えるか。上から下まで利権に群がり、他人を踏み台にしたり、嘘をついたり、力を持って他人をあごで使ったりしている。子どもの世界と似たり寄ったりか、子どもたちよりも遙かにたちの悪い社会を作っているじゃないかとわたしは思う。これが子ども時代の教育やしつけの結果かと考えると、いっそ教育やしつけなどは一切しない方がいいくらいのものではないかと思う。
 世代を重ねてしつけや教育に躍起になっても、人間というものは劇的に立派には成れない。どの時代にも、その時代その時代のごく普通の大人たちが社会を構成していたのであるし、現在の社会もまたそんな大人たちによって維持されている。そんな社会こそが人間の社会であるし、その社会に生きて生活する人々は大半が普通の人々なのである。逆に許し難いのは世に立派だと目される、知識があり、頭もよく、地位と名声と権力に富んだ連中である。たとえば東電の幹部や、STAP細胞問題で話題になった理研のトップ連中の事故や事件後の対応をみると、彼らから正義とか真実とか倫理観とか、そういう人間としてもっとも基本的に必要不可欠な要素がみじんも感じられないように思えた。柔和な紳士面の裏で、被災者の訴えにとことん耳を傾けるという姿勢も示さず、逆にはねつけるようであったり、力のない個人を組織的な力で封じ込め悪者であるかのように仕立て上げようとするなどして、要は自分たちに罪や非がないようにという一点に重きを置いた言動に終始するばかりだった。なるほど彼らは犯罪者として起訴されることもなかったが、個人の責任で犯罪を犯し収監された悪人よりも、はるかに悪い連中だとわたしは思う。
 人の上に立つような偉くて立派な人間こそが人間らしくて、反対にそうでない人は人間ではないということになれば、いったいわたしたちは何ものだということになってしまう。あるいはこの社会は何の社会だということになる。そんなことはない。心も力も弱々しく、自分は人間としてダメなんじゃないかと気弱に考える普通の人々こそ、真に人間らしくて、いざとなると他人のために、それと見せずに助力を惜しまない人たちであると言うことができる。
 親鸞流に言えば、煩悩具足の凡夫であるからこそ人間と言えるのであって、その子どもたちが煩悩から解き放たれて、仏やその弟子たちのようであるわけにはいかない。世の、知識や名声や地位に富み、人に優れ、穏やかで品行方正、人望もあるというような立派な人たちの、意識的なあるいは無意識や善意の「大悪」を成すよりはよほど増しである。
 世に犯罪が途絶えぬように、子どもたちから争いやいろいろな過ちや失敗がなくなることはない。またそれがなければ反省も生まれず、悔い改めるという思いも起こらないのだろう。その意味では子どもたちにはやはり未来はあるのである。
 
 今度、学習支援という立場に立って子どもたちをみると、学校や児童館や家庭における子どもたちへの規制が緩くなっていて、子どもたちには強い規制の経験がなく耐性が弱くなっていると感じる。そのために逆にちょっとした規制に強く反発する姿勢や態度がみられる。おそらく、幼児の頃から家庭や地域といった周囲が強い規制を持つものであったならば、子どもたちは逆にここまでエゴを押し広げようとはしなかったはずだと思える。一部の子どもたちは、たとえば粗暴な振る舞いをしてそれを咎められようものなら、激しく抵抗したり、逆にくってかかるようなそぶりを示す。つかまえようとしてもスルリと逃げて、大人たちを小馬鹿にしたようななめた態度を取る子どもたちもいる。その意味では子どもたちはつけあがっているといってもいい。昔ならげんこつをお見舞いして泣かせて終わるところだが、今はそうはいかない。これが子どもたちにとって幸か不幸かは分からぬ。だが、これが現実ではある。
 わたし自身はこういう事態を子どものためにはよいことだと感じている。幼い気持ちや心から出る一種の自己表出が可能となる場を持ったということであり、ある意味では子どもたちからの問いに大人たちがどのような回答を示せるかが問われているという気がするのだ。
 わたし自身が子どもの時代には、地域社会に対して、大人たちに対して、はるかに萎縮した姿形でしか存在できなかったと記憶している。地域社会も大人たちも、はるかに怖い存在と感じられていた。もちろん強い規制と監視の裏には、より深く広い見守りの視線も注がれていたには違いないのだが。
 いずれにしても、戦後の自由主義とか民主主義の思潮が今日の社会の在り方に大きく影響があったことは否めない。そして組織や集団や共同体における規範力の強度が低下し、反対に個人の人権や自由度が増し、今日見られるような社会に至ったわけである。ここに、戦後の出発にあった社会の理想が花開いたとは誰も思わないだろう。社会の規律や秩序が崩壊寸前のような様相を呈し、人々は逆に危機感を抱くようにさえなってきた。
 思うに、個人の自由と人権か、社会の規律や秩序か、この狭間に人々の関心は揺れ動いているというのが今日の現状であると思える。要するにこの中途半端さの中に、人々の考えや主張とかがせめぎあっているように見える。そして時代はこの間を少しばかりどちらかに傾きながら、またその揺り戻しという形で行ったり来たりを繰り返していくもののように思える。自由や人権についての考え方が成熟し、定着するまではこういう経過を辿るのだろうと思うし、その過程でたとえ何かの弾みであるにせよ社会の秩序や規範が全的に優先されるようなことがあってはならないのだろうとわたしは思う。
 そうした意味でも、子どもたちの声が大人たちや社会というものに届くことは、悪くはないのだろうと思う。問題は対応する大人の側にあって、それが現在においてはしっかりと受け止め切れる段階に至っていないということになろうかと思う。いろいろ噴出してきた問題に対応しきれないのだ。経験、そして度量が不足している。それはちょうど人権や自由についての理解が、血肉化したというほどに達していないことに見合っている。言うなればわたしたちには哲学が不足しているのだろうと思える。これには百年からの試行錯誤が必要であろう。その間に仮に様々な問題が噴出したとしても、先祖返りするよりは増しである。国家や強度の組織、集合体のために個人が犠牲になることもやむを得ないという考え方に、逆戻りすることだけは避けなければならない。
 
 文章としては未完だが、これ以上のところが思い浮かばないので、とりあえずここまでのところを公表しておくこととする。
 
 
もっとも大切なこと
              2014/04/23
 学校と児童館を往復して勉強と遊びの面倒を見ているが、つくづくぼくは柄ではないなあと思い知ることが多い。
 児童館にいると、女性職員が小学校低学年の子どもと一緒に遊んだり、ほめたり注意をしたり叱ったりと、とにかくめまぐるしく動き回っている。ぼくはそれを見て、「ああ、人づくりだなあ」と感想を持つ。遠慮がちなぼくとは違い、子どもの中にどっぷりと浸かり込んで子どもの世話にあけくれる。それはまるで天職だと見えないこともない。「女の人はやっぱりすごい、また偉い。」と思う。
 ぼくにとって児童館での子どもの振る舞いは、大概はどうでもいいことのように思える。一緒に遊んであげれば子どもにとってそれはいちばんいいことだ。ぼくも一緒に無心で遊ぶこともないではないが、たいてい途中でリタイアしてしまい、あとはぶらぶらして全体を眺めているだけだ。
 ひとりで何をするでもなく、他の子たちの遊びに加わるでもなく、ぼんやり過ごしている子を見ても、それはそれでいいと思う。おもちゃのような遊びの用具を蹴る子を見かけても、「まあ、それくらいはいいだろう」と考えて見過ごす。で、ぼくは取り立てて何を言うこともない。
 積極的に子どもの世話をするとか、面倒を見る、お節介を焼くなどのことが不得手である。だが女性職員の人たちは違う。ひと言でいえば積極的だし、子どもとの垣根を取っ払って半ば対等に「交通」している。言いかえると垣根の意識を持たずに交流できているように見える。時に些細なことに真剣に怒っている姿を見ることもあるが、ちょっとむきになり過ぎじゃないかと思いながらも、それはそれでいいのだと思い直す。ひっくるめて、これが「ひと社会」の「日常」というものだろうと思うのだ。
 
 児童館では学校との連携で宿題タイムがあり、2、3年生は児童館に着くとすぐに漢字の書き取りや算数のプリントを始める。その時がぼくら学習支援員の出番で、指導のまねごとをする。正直に言えばほとんどの子どもはおざなりの勉強で済ましてしまう。多くの子が汚い字を書き散らして終わりにすることが多い。これならやらない方がましではないかとぼくなどは思ってしまうが、とりあえずアリバイづくりのお手伝いをしている。中には友達としゃべくることに熱中して、ほとんど勉強の手が進まない子どももいる。そんなときぼくは10回に1度くらいの割合で、次に進もうと促すくらいだ。
 塾とは違って、子どもたちは児童館に勉強をしに来ているわけではない、と思う。子どもたちは正直だから、露骨に態度や姿勢に表れる。むしろ、宿題などを自分の将来のためになることだと素直に受け止めている子どもは稀少だ。
 少しだが、男の子たちを見ると、みんなの中でまじめに勉強する姿を見せることに、罪悪感めいたものを抱いている節がありそうに思える時がある。どちらかと言えば、ふざけてやらない子どもの方が仲間の中でヒーロー扱いされるようだ。女の子たちの中にも多少そういうところがないでもないが、男の子たちほどではない。思想家の内田樹さんが、下に向かって下がっていく競争みたいな捉え方をしていたが、多少そういうニュアンスがないでもないという気がする。みんなで落ちれば怖くないという感じだろうか。
 
 そういえば武田邦彦さんの今日(22日)のブログに、こんなことが書かれていた。
 
それでは人間は何が大切かと言うと、
1) 生きていること、
2) 他人のためになること、
3) 額に汗して働くこと、
の3つでしょう。1)だけでも十分ですが、もし力が余れば他人のために何かをする(デディケーション)、それでも力が余れば、3)をして他人のお金を当てにしないということです。
 
 ぼくは本音を言えばほとんど1)でいいという考えだ。もし2)や3)があるとすれば、武田さんよりはずっとトーンを落としてということになりそうだ。もう少し受身にというか消極的にというか、いずれにしても大声で大切だと主張する気にはぼくはなれない。やるならば人知れずという感じがいい。
 生きるということをこれくらいのところまで下げて考えると、大概のことはどうでもよくなってしまう。勉強のこと、規則や秩序を守るかどうかということも、個人の勝手だという気になる。それで、いつかそのことで、自分で身につけようと考えるようになったらそうしたらいい思う。
 親や先生といった大人たちは、ある程度は生きることの難しさ、厳しさと言ってもよいそれを知っている。だから子どもたちに言い聞かせようとしたり、分からせたいと思って一生懸命にしつける。素直に受け止める子ども、そうでない子どもがいる。
 教育や指導の網の目をスルリとかいくぐる子どもはいる。痛い目に遭わなければ大人になるまで分からない子どももいるだろうし、分かった時にはもう遅いということも皆無ではないかもしれない。だが、たとえそうなったとしても、最も大事なことは「生きていること」であって、その後の苦労や苦しみを己に引き受けて生きていくとすれば、それはもう十分に人間らしい生き方を全うしていると考えていいのではなかろうか。
 子どもに勉強させるとかマナーをしつけるなどのことは、子どもの幸福やよりよい生活、生き方をしてほしいと願う心から発している。それがうまく機能する場合もそうでない場合もあるだろう。うまくいけばそれに越したことはない。だが、うまくいかない場合もあるということは確実にあり得ることだ。教育とか指導とかはあらかじめその事を想定しているべきだし、その時にうまくいったことがよくてそうでないことが悪いといった捉え方は為されるべきではない。ひとつ、「生きていること」において、まったく同等だという価値観を持つべきなのだ。そこはどうしても徹底してそう考えておくべきものだとぼくは思う。何度でもいいたいが、そこに差異はあってもけして優劣ではない。百歩譲ってそこを優劣ととらえても、もう一段、「生きていること」においてまったく同等だという視点を持っていた方がよいとぼくは思う。ぼくら人間は生きていることにおいて一面的なだけではなく、多面的なのだ。そして最も基底のところの価値に「生きていること」があるのだとぼくは思いたいし、全ての子どもたちにそれを感じてもらいたいと思うのだ。
 
 ややぐだぐだになったきらいもあるが、今日の思いはこんなところに到達したということで終わりにしたいと思う。後日、同じテーマでもう一度取り上げて展開してみたいと考えている。
 
 
子どもと学校
              2014/04/10
 学習支援員というのは正式な教員ではないので、つまり子どもがどうなろうと直接的な責任はない。ただ学習が効果を持つような支援的な働きをする行為は当然行わなければならない。その結果がどうかというところまでは責任の範囲が広がらないと考えて差し支えないと思う。もちろんこう思うのはこちら側の判断で、任命者側がどう考えて判断するかまでは分からない。
 さて、子どもはどうなろうと知ったこっちゃ無いとぼくは考えるのだが、その根拠は、現在の社会のおとなたちの生態にある。子どもの親でもあるおとなたちを見ると、常識の備わった善良な人たちもいればそうとは言い切れないおとなたちもいる。見ると、子どもたちの世界でも同じことが言える。よい子もいれば手のつけられないように思える子どもたちもいる。結局そうして世代交代を重ねているということだと思う。自分たちの世代で不可能なことを、子ども世代に押しつけるのはいかがなものか?ということだ。
 授業中でも集会などのような場でも、おしゃべりして邪魔になる子どもはいる。昔ならげんこつでおとなしくさせることが出来たが、今はそうはいかない。子どもの人権とやらを考えなければならない。となれば、先生も、周りの授業や集会に集中したい子も、ある程度は我慢をして勉強したり活動したりしなければならない。もちろんよっぽとひどければ注意はするだろうが、どうしても静寂の空間が必要だという授業や集会は滅多にあるものではない。授業の妨げになるようなことをする子どもは、当然、勉強は少し遅れる可能性が高いことは言うまでもないが、その事で即人間失格になるかというとそんなことはない。たいてい、それでも並の大人にはなっていくのだとぼくは思っている。
 保育園や幼稚園から小学校卒業までの7、8年間で、注意、説教、注意、説教の毎日で、いったい子どもがどのように育つのかと考えるとぞっとする。かく言うぼく自身も現役教員の時は似たようなことで加担していたはずだ。どうしてもそうなってしまっていた。
 今回こうした形で学校現場に触れてみて、学級の子どもたちは花壇に咲きそろう花のように見える。つまり一見すると素直に美しく伸びている。けれどもよく見るとひ弱で頼りないところがあり、また全体を遠目に見ると気づかないが、陰にひねくれて咲く花もあるような気がする。担任や、子どもから見てすぐにそれと気づく権限の持ち主である校長や教頭といった人たちには素直に従ってみせるが、ぼくらのような権限の薄いものや新参者には横柄な口答えをすることも少なくない。つまりどこか内奥のところで、無条件に他者を信頼するという部分に欠けるところがあるように思う。他者との関係の持ち方において、どうしても無意識部分が傷ついているというようにしか見えない子どももいる。だからといって、これが生涯について回るかというと、そうではないだろうとぼくは思う。自己回復力、自己修正力といったものが発揮されて、いわば自分の短所、欠点として自覚し、倫理的に克服しようとする瞬間が生涯の何度かに渉って訪れるはずなのだ。うまくいくこともあればうまくいかないこともあり、しかしある時期からそれは個人の問題となって、個性として発露することになるのだろうと思う。そうなれば他からの干渉は為されるべきではないということになっていく。
 世のおとなたちも、多かれ少なかれそうした経験を経てきているはずだ。そうして現在にいたって今日の社会に存在している。そうしてこの社会で、相変わらず周囲に見えなかったり見えたりするような、小さな善や悪を繰り返し、また大きな善や悪を繰り返しているということなのだろう。それが生きるということであろうとぼくは思う。
 人間が一足飛びに善だけの人間になったり、神のように立派な行いだけをするようになるなどということはあり得ないだろうとぼくは思う。逆に、この頃はそれほど変わり映えしないのだろうと思うようになっている。
 現在の子どもたちが現在のおとなたちよりも人間として劣っているとは思わない。また優れているとも思わない。成長すれば似たようなものでしょう、とぼくは推測する。似たように、立派さもあればダメさも見せるでしょう、というように。別にそれで問題はないと思える。世の中は成り立って行くに違いないと思える。かろうじてであろうと世の中が成り立っていくのであれば、現在と変わりないじゃないか、そうぼくは思う。だったら、細かい行儀作法などは不問に付して、とりあえずのところ、本当に大事なところだけを教育の場で取り上げればいいのではないかと思う。ここで個人的な見解を言わせてもらえば、学習内容ももっともっとスリム化して、また学校は何もかもを背負い込まない方がいいとぼくは思う。子どもと学校の関係が、もっともっとあっさりとした関係、表面的な関係である方が実はいいのではないか、ということになる。それで不都合なことがあるだろうか。
 ということで今日の結論は「メデタシ、メデタシ」、でいいかな?
 
 
子どもの≫私≪
              2014/04/08
 教員を辞めようと考えた頃、全学年が一堂に会する朝礼とか朝会とか呼んでいた集まりやあるいは学級での授業中の時など、多少がやがやするとか話を聞かない子どもがいるとかはどうでもいいことではないかと思うようになっていた。それが正しいことか正しくないことか、またいいか悪いかも本当はよくわかっていたわけではない。ただ、ぼく自身にはどうでもよいことに思われたことだけは確かなことだ。
 まずぼく自身が困らなければどうでもいい。
 長い教員生活の経験から言わせてもらえば、子どもたちが一定時間じっとして静けさを保つということは本能の自然としてあり得ないことだと思える。よほど話し手の話や授業内容などが面白いものでなければそういう状態にならない。また、あの手この手で静かにさせても、時と場面が変わればまた同じことを繰り返さなければならないものだ。
 そうした全体行動が最も必要とされるのは軍隊の場合など一部に限られている。ごく一般的な社会生活の上では滅多にそんな機会はあるものではない。仮にあるとして、大人になった時点では簡単にそういう状態を作ることは可能であろう。
 
 厳粛さの演出から始まって 、善の演出、正義や誠実さの演出など、とにかく学校というものは演出、演出に満ちている。それが教育の本質なのかどうかはぼくには分かりかねるのだが、あまりに演出的だとぼくには感じられた。結局のところ、それは社会の真実から遠ざかり、子どもの人権尊重からも遠ざかっているような気がした。
 
 学習効果を上げ、子どもたちに学習成果を身につけさせたい願いから諸々の教育活動は組み立てられている。けれども実際には、どうすれば先生たちが満足するかを子どもたちは見透かしてその場その場で対処している。そうしてそういった対処だけは、あるいは空気の読み方だけは格段に向上する。教育からすれば、本当はそれは枝葉末節のことでけして根幹ではないはずだ。教育の根幹は別にあって、端的に言えば学びに興味を持たせ、勉強を好きにさせ、自発的な取り組みを促すとともにそれを支援していくことではないかと思う。
 それはどうしたら可能なのか。そんな問いにぼくなどが解を与えられるわけがない。だから教員を辞めたのだ。
 学校は先生方を介して今も必死に取り組んでいるし、時に、先生と子どもたちとの信頼関係に支えられた、理想的な様相を呈する学級が存在しないわけではない。けれども、それらはどこか安っぽい青春ドラマ、学園ドラマのコピーにしか過ぎないように見えたり、集団的な自己陶酔や自己満足に過ぎないようにも感じられる。これはぼくの眇というものであろうか。
 学問や学習というものは、本来は周囲から問われて答えるために行うものではなくて、自分の経験や実感、事情などから出発して自問自答するところから始まるものではないのか。今、教室では個人的なもの、個人の本音的なもの一切が不要品扱いになっているような気がして仕方がない。高学年では地球温暖化、あるいは節電など社会的な問題への関心も持つのだろう。だが、本当はもっと個人的なところで、子どもたちは解のない問題に四苦八苦しているに違いないとぼくは思う。もちろんそれは多くの場合無意識裡のことだから、子どもたち自身にさえ気づかれていないかもしれない。だがそれだけにまた切実であり、個人にとっては根幹の問題だと言える。
そういうものがないかのように子どもたちも先生たちも日々を過ぎてしまって、その後にいったい何が考えられるようになるかというと、ぼくにはまったく見当がつかない。教育、また学校における勉強などというものは、個としての≫私≪からすれば二義的な位置にあるもので、≫私≪の内実は本質的に影響を被るものではないとぼくは考える。
 
 
教育は今 A
              2014/04/06
 昨日か一昨日の河北新報に、教科書検定に触れた記事があった。2〜3の関連する記事があったが、それらを読んで印象に残ったのは、教科書会社がかなり文科省や政府の意向に沿って教科書作りをしてきているなあというものだった。NHKや大手新聞のように権力に迎合的だ。もちろん、教科書会社は商売だから検定に合格するものを作らねばならない。にしても、時々の政権の意向が直に反映するのはどうかと思う。権力をかざされたらそうなることはやむを得ないのだろう。安倍政権は、無言の圧力を積極的に行使する政権のように見受けられる。
 文科省は官邸に配慮して検定の結果の発表を数日遅らせたともいわれている。安倍首相が米韓の大統領との会談をスムーズに行えるように、事前には教科書の領土問題の扱いを公表したくなかったのだろう。反発を食らって会談が成立しなくなることを恐れたからに他ならない。自国のことながら、政府、文科省とも姑息だと思う。官房長官は「当たり前のことが書かれているだけ」と述べているようだが、それだったら堂々と先に公表してもよかった。万が一それで会談が決裂してもよかった。そうできなかったのはオバマ大統領に気兼ねしてのことだろう。一方にこういうことをしておきながら、一方で四島が日本の領土であることは当たり前のことで問題がないと主張するのは、どう考えても公平・公明な態度ではない。「当たり前」を主張するならオバマ大統領にもしっかり説明して、一貫してその主張を貫けばいいだけのことだ。
 だいたいが中国とも韓国ともロシアとも、「四島は俺(日本)のものだ」と説得できる議論も為しえないくせに、またそれだからこそ自国民に向かっては日本の領土だとして刷り込みを計る。たぶんどの国もやることは同じだ。日常生活感覚からは、国民にとってこの問題はどうでもいいことだ。島に行ったこともなければ、普段その島について考えることは無いというのがほとんどだろう。それは政府間でよろしくやればいいことなのに、それが出来ない無能さを相手国の非難にすり替える。そうして自国民にはナショナリズムを煽って、その結果どんなよいことがあるというのだろうか。
 こうなると教科書は時の権力によって、いかようにも書き換え可能になりそうだ。極端に言うと、首相に選ばれたものの恣意が止めどもなく一人歩きしていく可能性もある。民主主義の仮面をかぶったファシズム、スターリニズムの台頭だ。文科省も教科書会社も、筆記者も、独立性も個性も無くなっていきそうだ。学問的な自由も疎外される。教科書採択の自由も、はじめから制限を設けられていることになる。もちろん現状でも多少はそういう現実を持っているが、それがさらに狭められてしまう。安倍首相は口では議論を尽くす、民主主義のルールに乗っ取りなどというが、それはアリバイ作りに過ぎず、みな結論ありきから出発しているように思える。
 
 今日は、本当はこんなことを書くつもりではなかった。4月から隣町の臨時職員として、学習支援員に採用され、とりあえず児童館に4日間勤務しての感想めいたものを記すつもりだった。
 時間が足りなくなったが、ここからちょっと気分を変えてその事を書いてみる。
 朝9時から、1年生から3年生までの児童館に登録ずみの子どもたちが集まってくる。その数は約40人程度である。集まって何をしているかといえば、5時から6時半のお迎えがあるまでを遊んで過ごす。春休みなので勉強する子はいない。
 職員は7、8人くらいで、早番遅番がありローテーションで回っている。だいたいは子どもたちの遊びに付き合って、また全体で子どもたちを見守って過ごす。
 ぼくは子どもたちと遊ぶのが嫌いではないが好きとも言えない。ちょっと付き合うと飽きてしまう。面倒くさいと感じることも多々ある。いまのところほとんどが女性職員で、男はぼく一人。それはうなずける。ひと作り、ひとの世話は男よりも女性の方が適している。そう、ぼくは思う。元々が人を産み出す性なのだから、その後の生育にも関心が深いはずなのだ。
 前からいる児童館の職員さんたちは、自分から遊びの輪に入ったり、何人かに声がけしてグループを作って遊んだりしている。それが仕事の一部ということなのだろう。ぼくの立場は少し違って学習支援員なのだから、彼女たちと同じ行動をする必要はなさそうなのだ。そういう違いもあって、今のところは積極的に遊びに加わることはしない。声をかけられたら一緒に遊び、そうでない時はぼんやり全体を眺めて過ごしている。
 子どもは、対の関係を持ちたがる。または気の合うもの同士でのグループを作りたがる。どちらも傾向としては2人、あるいは数人で内部に閉じようとするところがある。それは親密になるということでもあるし、またある意味排他的になるということでもある。ぼくは特定の子、もしくは特定のグループと閉じていくことが苦手である。所属することが好きな方ではない。つまり、「おきて」になじめない。最終的には自由でいたい方なのだ。子どもたちの世界は、あるいはおとなの世界もそうかもしれないが、息がつまりそうな気がする。
 ただし、つきあいの中での時々の子どもたちの様子に触れること、様子を見たりすることは、異質なものを見るような楽しさ、驚き、不可思議を感じて、これは嫌いではない。ただ年のせいなのか何なのか、一緒に過ごして精神的にか肉体的にか疲れを感じてしまう、というのも正直な思いとしてはある。
 久しぶりに人間の輪の中、子どもたちの輪の中に入って、楽しさと疲労が共存する時間を過ごしいるわけだが、この先どうなることか。折に触れてその経過をここに公表していこうと考えている。次回をお楽しみにということで今日は終わりにする。
 
 
教育は今
              2014/04/03
 教育の世界から離れておよそ10年が過ぎた。その間、大きな出来事のひとつとして、鳴り物入りで始まったはずの「ゆとり教育」からの転回ということがあった。始まりも終わりも明確な検証など為されず、学者と文科省ならびに行政との「馬鹿さ加減」ばかりが感じられた。言っても無駄だとは思うが、馬鹿な奴らは「馬鹿だ」と言うしかない。
 ところで、この4月から、喰っていくために、隣町の臨時職員という身分で「学習支援員」というものになった。学校及び児童館で、あくまでも補助的な形で子どもたちの学習を見てあげるという仕事らしい。8日の始業式から本始動になる。
 長いギャップがあるので「どうなるかなあ」など思い巡らしていたら、たまたま国際ジャーナリストで作家でもあるという「冷泉彰彦」さんのブログ記事を目にした。
 教育改革という形で安倍首相の思想、理念が現実に下ろされ、具体化されるとどうなるか、冷泉さんの文章をもって端的に理解できる気がするので紹介する。これを読んで、さて、今日の教育現場にある先生たちはどう反応するのか知りたいとも思った。もちろんぼくは冷泉さんの主張の意図がよくわかるし、それに同意する立場だ。
 
道徳教材に「二宮金次郎」、何が問題なのか?
  2014年04月02日(水)11時25分
 
 先週、テレビ朝日の番組『朝まで生テレビ』に出演しました。テーマは安倍教育改革に関してでしたが、そこで、この4月から学校現場で使用されるという道徳教材『わたしたちの道徳』が紹介されていました。番組内では中身を見ることはできなかったのですが、終了後に文部科学省のホームページへ行って内容を見た私は愕然としました。
 
 小学校1・2年生用の教材に、何と「二宮金次郎」が取り上げられていたのです。戦前の「修身」教育の象徴として、全国の学校に「焚き木を背負って運びながら読書をする」銅像の建てられていた、「あの」二宮金次郎です。
 
 ストーリーは単純で、「幼くして両親と死別した金次郎は、おじの家に引き取られた。読書好きの金次郎は夜遅くまで読書をしていたところ、菜種油を無駄遣いするなとおじに怒られた。そこで金次郎は自分で畑を耕して菜種を収穫して読書を続けて立派な人になった」というものです。
 
 愕然としたというのは、これが「戦前の修身教育の復活」だと思ったからだけではありません。また「物言わぬ国民を作って戦争への道へ引きずっていく」ような悪意を感じたからでもありません。
 
 何が問題なのか? 思いつくままに列挙してみます。
 
 これは虐待被害の話です。児童が虐待の被害を受けた場合は、何よりも信頼できる大人を探してSOSを出すことを教えなくてはなりません。ですが、この教材は、その反対に「忍従」を教えています。これ自体に違法性を感じます。
 
 これは児童労働の話です。国連を中心に、現在の国際社会では児童労働を根絶するために大変な努力がされています。日本も多くの予算を負担し、実際に根絶のための活動に従事している日本人ボランティアも世界では活躍していると思います。ところが、この教材では児童労働を肯定的に扱っています。外務省と関係のNGOは厳重に抗議すべきだと思います。
 
 金次郎はどうして忍従できたのでしょう? それ以前の話として金次郎はどうして強い学習へのモチベーションを持っていたのでしょう? それは、幼くして漢籍の素養があり、中国の古代哲学をベースとした早熟な世界観を持っていたからだと思います。要するに精神的な「武装」ができていたのです。この点を完全に無視して、児童に「忍従」を強いるというのは単なる野蛮に過ぎません。
 
 現在の日本では、高い教育を受けた層よりも、俗に言う「ソフト・ヤンキー層」の方が高い出生率になってきていると考えられます。教育に関心を持たない親を持った子供が増えているのです。そうした子供たちに対して、「自分の方で学習へのモチベーションを持つ」ように仕向けてやりたい、教育関係者としてそのような危機意識を持つのは悪いことではありません。
 
 ですが、仮にそうであるならば保護者に成り代わって巨大な愛情と知性を注いでそうした児童を保護するしかないと思います。「忍従せよ。自助努力せよ」というアプローチはその正反対です。
 
 このお話の作者及び出版社や文科省側の趣意というものは、「努力と忍耐」ということに尽きると思う。安倍首相がよく口にする「頑張って努力すれば報われる社会」、その具現化のための一歩ということなのだろう。しかしながら、言語による表現というものは、提供者側の意図が100%伝わるというものでもないし、意識したこととは別に、無意識なども意図せずに伝わってしまうものだということも出来る。
 冷泉さんは国際的なジャーナリストでもあるから、母国語で書かれた文章に対しても国際的な感覚の目線で読むことが出来るのだろう。そうして読まれた結果は、外部の目からはそのように受け取り可能だということをストレートに示しているように思える。
 逆に言うと、先に挙げたような道徳本の制作側の人々全体が冷泉さんのような国際感覚に、まるで思い至らなかったということがぼくには衝撃的に感じられた。
 
 冷泉さんのような視点がまるっきり欠けていたということ。誰も国際的な視点を持ち合わせていなかったのだということ。これはこと道徳の本に限らず、最近はいろいろな対外的な局面で強くそれを感じてきたところだから、「ああやっぱりだな」と思う。最近のロシア問題、中韓との軋轢、その他の諸々の場面で、安倍首相や日本政府の国際感覚的なずれというものは際だって感じられたが、本当に幼稚だなと思わずにはおられない。
 
 各学校のそれぞれの先生たちは、まともにこのお話を使って道徳を教えることになるのだろうか。たぶんそうなるだろうと思う。ねらいとして置かれた、「小さな努力の積み重ねが大きなことにつながる」、ということまでも否定するわけにはいかないからだ。だがその時に同時に、この道徳本に従えば、貧しさから来る不遇に不平を言わずに忍従する姿勢や、子どもが労働にたずさわることへの感覚的な無抵抗までもが、子どもたちのこころに刷り込まれて行くだろうことは想像に難くないことだ。それでいいわけがない。冷泉さんが小文の中からすっぱ抜いた、ある意味、背景からする洗脳の見えない意図を見る時に、先生たちはいったいどのように授業を構成しようとするのか、一人ひとりに尋ねてみたい気がする。
 
 どうして、そこでのねらいにこのエピソードが置かれなければならないのか。作製者たちの発想やイメージの貧困、あるいは老化、退化現象を考えずにはおられないが、当事者たちだけがその事を知らないのだし、知らないものたちだけしか構成に携われないということもまた今日的な、あまりに今日的な状況ではないかとぼくは思う。教育は、相も変わらずそのものたちによって牛耳られているとすれば、糧道のためとはいえ、現場に足を踏み入れることはとても苦しいことのように感じられる。