健康な子ども,健康な学校,健康な地球
 
健全な精神は健全な身体に宿るとは昔から言われている言葉である。
覚醒剤や麻薬その他の薬物中毒により,肉体をぼろぼろにし,挙げ句の果てに死に至る若者は後を絶たないと聞く。薬物やアルコールの使用にともない,自ら手首をカッターで傷つける,そのほか肉体のあちこちを傷つける,そんな若者も多いそうだ。
テレビで,夜回り先生と呼ばれる高校の先生が,インターネットを介し,全国のその種の若者の相談,そして指導を行っているという報道を何回か目にしたことがある。睡眠時間は2,3時間。電話,メールのやりとりと,ほとんど不眠不休といった印象が持たれる。自分というものを,放棄して,命を枯らそうとする若者に,身も心も捧げることの出来る人なのであろう。こういう事,自利を捨て他利に尽くすことが出来た人としては,宮沢賢治とか,あるいは他に少数の偉人の名前しか思いつかない。もちろん,自分にははるかに及びがたいことだと思った。
身体を傷つける行為は,精神を傷つける行為でもあるだろう。精神が傷ついているために,身体を傷つけようとするものなのか,それは分からない。しかし,いずれにせよ,先の,昔から言われる言葉とは逆行する行為である。
地球を人間の身体になぞらえれば,昨今の地球規模の環境破壊は,若者の自らを傷つける行為に似ている。健全な身体とは言えないから,地球の精神も最早健全な精神とは言えないのであろう。地球全体がそうであるならば,だれが,心身ともに健康であると口にすることが出来る?誰もいないではないか。実は,それを言いたいのである。
実態がこうであるにも関わらず,世に蔓延する道徳的,教育的配慮は,健康を装い,また健康を強制する。ここに,疑問がある。
自分では,環境破壊が止められないくせに,口だけでは,「みんなで環境破壊を止めましょう」と,その責任の一端を押しつけ,そう主張することがいいことだと思っている。その種の傲慢さが気にくわない。世の生活する人々の先頭に出張って,そう主張するほどに,本当に環境破壊を止めたいと思うならば,大衆に応援を頼む前に自分の身も心も捧げて破壊防止に努めたらどうなんだと言いたい。防止の呼びかけが努力だというなら,あまりにも安易であろう。だれもがそれを真似て,呼びかけだけが無責任に,それこそ無数に頭上を飛び交って,ハイそれで終わり,となりかねない。だいいち,一昔前には豊かな生活,豊かな社会を標榜し,大衆を煽ったのもまたその声ではなかったか。おかげで資源は消費され続けてきた。
個人的に,あるいは企業などが,例えばゴミの少量化に努め,資源確保のためにリサイクルに努力していることは知っている。それは地球環境を憂慮する声に耳を傾け,意識するようになってはじめて行われる努力であろう。その意味では,そういう声,主張が大いに貢献したと言うことも出来る。だから,全てが悪いと言うつもりはない。だが,環境破壊防止の呼びかけ,そのみさかいのない垂れ流しは,何かボランティアとしてそういう活動に従事しなければならないのではないかというように,一般の普通に生活する人々には強迫観念として迫ってくる。そう,思う。少なくとも,自分には,そう感じられて仕方がない。大げさに言えば,ある種の攻撃,暴力として,この身に襲いかかってくるとさえ感じられる。それは意図しないものではあるだろうが,環境破壊そのものが意図しない結果であるように,人々の精神を,脅かすものとして作用しないとは決して言い切れないはずなのである。情報化社会時代の,それは公害の一種である,そう,言えばいいだろうか。
子どもも,組織も,地球も,健康でなければならないと多くの人々が思っている。
教育とか,学校とかに片足でも突っ込んでいると,特にその思いは強いのではないかと思う。肉体面,精神面でも健康でなければならない。両足を突っ込んでいるものは,不健康なものはすべて健康へと導かなければならないと考える。日常生活に滞りが出来るようになれば,即病院へ行きなさいとなるが,小さな不健康や,健康なものをより健康にするのは学校などで指導されることになる。それでは,教えたり指導する学校や教員は健康か,となると,今はだれも健康だとは言い切れまい。金と性,そして情報化社会の公害に,先生たちも結構精神をやられている。先の言い方ではないが,地球自体が病んでいるのである。完全に健康であるものがいることの方がおかしい。今やそんな時代なのである。
自分が決して心身ともに健康であるかどうかは明瞭ではないのに,他の不健康が気になって,健康でなければならないと啓蒙し,教育する人々は,自分の不健康に無自覚であり,不健康に気づいていないのであろう。それ自体が,不健康である。医者の不養生というが,先に自分の健康を疑うがよかろう。考えてみれば病院も,学校も,それ自体が不健康の器である。
若者の,自身の心身に対する自損行為が後を絶たないのは,国や地球が自らによって自らを傷つけている,そういう不健康が背景にあるからなのであろう。それは多くは大人の手によってなされてきた。例えば戦争,紛争。これらは政治的,経済的その他もろもろの必要から生じ,地球規模で人々の心と体に傷を与えてきた。貧困,飢餓,そして偏った過剰な富み。そうした意味でも地球は病のオンパレードと言うしかない。むろん,改善に努力してきた結果として,しかしこのような段階にとどまっていると見ることが出来る。英雄,賢者,偉人がいて,世界が最善の策を講じて,まだこうなのである。
だれもが病んでいるはずなのである。すき好んで病んだものはいない。ならば,病んでいることは駄目だ,不健康は駄目だと言い過ぎるな。もっと,「共感」という二文字を持って対すべきではないか。強く,そう思う。
先の夜回り先生,水谷という名の高校教師は,「もう,死にたい」という言葉を口にする子どもたちを相手に,必死に彼らを救おうとしていた。水谷先生によれば,手首をカットする行為は,そうした若者たちの言葉,なけなしの言葉であり,「生きたい」という意味を有する行為なのだという。手首をカットすることでしか,それを表現出来ないところに追い込められた彼らに,どこまで本気に向かい合えるものがいるか。だから水谷先生は講演でも言っていた。夜の闇の世界に落ち,だれにも相手にされなくなった子どもたちは,水谷に任せろ,と。そうして,昼の世界にいるあなた達は昼の世界で,子どもたちが夜の世界に落ちてくることがないように,しっかりと抱き留めてください,と。自分のやっていることは,だれにも真似が出来ない。仕事でやっているのではないし,閑人のボランティアでもない。やむにやまれぬ動機,自分にとっての必然を感じ,それは他の人には共有出来ないものと理解しているのだろう。だから,水谷に任せろ,そう,言っているのである。
彼もしかし,テレビの画面上には,心身共にぼろぼろに疲労している姿と見えた。そうして幾人もの若者たちの悩みを聞き,薬物中毒からの救いに奔走し,かけずり回って,どれほどのことが出来るのか。最早限界であろう。夜回りをしながら,ふと立ち止まって,腹部を押さえながら顔をしかめる彼の姿は強く印象に残る。深夜,車の助手席から彼の姿を認め,「水谷先生」と声をかける女の子に気づき,水谷先生は痛みを隠して再び何事もないように歩き始めた。
健康でいられないのは,当たり前であろう。若者たちがリストカットする世界が,目の前に見えているのだ。
苦悶する若者たちに,同じ闇の世界で闇に紛れるくらいの,だが,魂を込めた言葉の光明で若者を生きることへと導いていこうとする。けれどもその声さえ,若者の目に,耳に届かず,あるいは届いても力及ばず,闇に光を失う命の,その消えゆく様に立ち会う。彼は,若者を殺したのが社会であるとか,世間が殺したのだ,とは言わない。「水谷が,殺した」,そう,言う。
若者たちもまた,目の前に何かを見せられて,健康であること,健康であり続けることに耐えきれなかったのであろう。
事情の分からぬ医者は,水谷先生を診察し,病状を見つけ,ひどければ入院して治療することを勧めるであろう。医者はただ,肉体のどこに異常があるかをさぐりだし,そのことを指摘して治療するだけだから,水谷先生が何に関わりどんな思いで体を酷使してきたか知る由もない。異常があれば正常に戻す事を考えて,治療を施す。医者の仕事として,それはまっとうなのである。だが,患者の立場として,時として完治を願うよりも,とりあえずの処置,体が動いてくれればいいと思っている場合がある。患者にはその思いを医者に届けることが難しく,医者には患者のそうした思いをくみ取ることが難しい。仮に医者が患者の思いをくみ取り,そのことによって応急的な処置にとどめ,さらにそのことによって決定的な病状の悪化に至ったとしたら,医者は,患者の意思を尊重したとして,はたして平気でいられるだろうか。
仕事というものは,時に人をそういう場所に立たせ,立ち止まらせることがある。
仕事の目的,使命を優先するならば,例えば医者ならば患者の事情は切り捨てなければならない。逆に,対象の事情を優先させるならば,仕事上の目的や使命は陰に回さなければならない。
学校の仕事にも,そういう面はあった。心身の健康と高い学力といった,あるべき子どもの姿を追い求め,目の前の子どもたちをその姿に高める努力が教員には求められる。医者と同様,教育的知識を持つ教員には,その子どものどこを伸ばしどこを矯正,あるいは治さなければならないかが分かる。そのために何をどうしたらよいかということも,頭の中に組み立てることも出来る。
教育的に,心身の健康に向かって子どもたちと先生たちが一緒に歩む。それが教育の仕事である。だが,痛みがあればこそ病院に行き治療を受けようとするのであるが,子どもたちには心身の不健康の自覚がない。ましてや「あるべき子どもの姿」を持ち出され,それに向かって歩めと言われても,子どもたちには動機が欠落している。「あるべき子どもの姿」自体が,大人たちの作り物である。仮に,社会に,「あるべき大人の姿」が課されて,あちこちで指導されることになったらどうする。パニックが起こり,その果てには暴動が起きるであろう。全てに「理想的な大人」など存在するはずがない。それを求められても,困惑するだけだ。
逆に,教育した方がいいのは,そんな理不尽を子どもたちに押しつける大人たちをである,とさえ言いたいほどだ。それほど,社会に目を転じれば,大人たちのいかがわしさは度を越えて感じられる。おいおい,偉そうにしているが一番教育し直さなければならないのは,あんたたちだろうが。子どもや若者たちは,無意識に,そう言いたいに違いない。
むろん,自分もまたその一員であり,心身の不健康を自覚している。教育を受けてきた,自分たち大人がこうなのだ。教育の,建前上は否定しようのない美しく整った姿の理念とは裏腹に,実際にはこういう大人たちを教育は生産してきた。もう,いい加減,綺麗事を言ってすましているべき時ではないだろう。腹の底からそう思う。私的生活の場面では,どんなにでも下卑た側面を垣間見せ,欲望に貪欲なくせに,すこしでも公的な性格を持つ場所においては,いかにも謹厳実直そうな顔つきをしてすまし込んでいる大人たち。これが現在的に,教育の効果でなくて何であろうか。そういいたいほどだ。彼らの,そして時には自分自身の言動を思い起こすだけで反吐がでそうになる。
やり方が悪い,先生が悪い,そういう問題ではない。頭で考えられた設計図をもとに,何事かを創り上げようとすると,必ずと言っていいほど意図せぬ障害が生じる。それは身体的に言えばその一部に過ぎない脳に,あまりにも比重をおいた考え方をしているからではないのか。だから表向けばかりのテキスト言語,テキスト施設,テキスト組織が充満する。人間はそこにストレスを生じ,自分が何ものかを見失う。
子どもたちにとっても,大人たちの脳で考えられた表向けの「あるべき子ども像」等は,傍迷惑なものに違いない。いま現に,ここにこう存在している自分を否定されても,どうしようもない。そこに至った経緯は,動かしようもない。この先,こう進めといわれても,過去の経緯をご破算にして,影響なく行けるものでもない。そんな繊細な人生のディテールを無視して,こうだああだと押しつける。もう少し本当のところを見詰めたらどうなのか。
医療の世界には基準値や,正常値なるものがある。便宜的にこしらえられたはずのそれらが,どうかすると絶対的なものとして人々に不安をもたらすことがある。それこそ種々の,そして多様な検査がどの病院でも果てしなく続き,結果として,ある個人は全ての検査のどこかで基準値を外れた数値が見つけ出される。生きている人間には,そんなことは当たり前のことではないか。どこかが変で当たり前。そう思いこもうとしても,数値にでた,平均的,一般的ではないという結果を,すっかり忘れてしまうことは出来ない。
教育においても,これに似たものはある。すぐに思い浮かぶのは,年齢的な発達段階の平均値である。知能,学力,体格,運動能力。その他もろもろの統計がある。これらは大人の考える,教育を効果的に子どもたちに施すための便宜的なデーターであって,全ての面において平均値の上に行けばいいというような問題ではないはずだ。しかし,現実には,より上へ上へと目標を上方修正するための指標として使われることが多い。
数値によって,人間が動かされたり,自ら動いたりすることはどう考えても倒錯ではないのか。逆に数値の側にこそ変わるべき要因があるのではないのか,と思う。
「今」という時間は,「かつて」の時間をはみ出した形で在り,「かつて」の時間をもって測ることが出来ない時間であるはずだ。「かつて」の時間を基準に取れば,何かしら未知の部分を含んでいる。「今」あるいは「現在」を考える場合に,常に付加される未知の何かに配慮することを心がけることは大切なことだ。たとえ,そこに付加されるものが何かは分からないとしても。
つまりは基準値,平均値などの,常識と見なされているもののふだんの書き換えが必要なのだと思う。そしてそれは狭める方向にではなく,曖昧さを取り込むように広げていく方向に書き換えられていくべきなのだと思う。
理想とする完全に健康な肉体や精神を持った健康人間などあり得ないように,理想の子どもなんてどこにもいたためしはない。
子どもが,学校が,その他の一切を含めての地球が,「どこかおかしくなっている」としても,いいではないか。いつだって,どこかが,何かが,おかしかったのだ。冷静に考えれば,おかしくなかった時代などない。今が「おかしくなって」いて何が悪い。繰り返して言いたいが,それこそ,おかしくない方がおかしい。
教養ある人々が,「どこかおかしい」と憂い顔をして言ったところで,何かがどう変わるわけでもない。そうした発言をきっかけに,世論を形成し,盛り上がりにあわてて立てられた施策が根源的な解決をもたらしたためしもない。
かえって,不健康はより深く悪質な不健康へと転移し,傷口は大きく開いていく。いっそ,何とかしようといきり立つ人の,余計な手出し,口出しがない方が被害は少なくて済む。不健康への理解と共感,そして主体的な自己開発の能力を信じて待つ。今はそれだけでいいのではないか,そう考えておく他はないと思っている。