子ども―非知的な周辺
 
   日常ということ
 
 生きることは難しい。こうしたいと思うのに、それが叶わないことも多い。自分の場合では、たばこを吸うなとか、パチンコをするなとか、そう自分で考えていてもしてしまうことがある。子どもがコンピュータゲームにはまって、親から注意されてもなかなか直せないことと似ていると思う。こうした方がいいという考えをもちながら、それとは裏腹なことをしてしまう。たばこやパチンコの誘惑には負けてしまう。
 こういうことは、人生の問題として、取るに足りないたわいのないことだと見過ごされがちだが、案外とそうではないんではないかなと内心で思っているところがある。考えてみると日常にはこういう事がいっぱいある。自分のこと周囲のことで、コントロールしているようで完璧にはコントロールできないことがあり、生きるということをそういう側面から眺めると、そういう「手におえない」ことがらだらけのところで生きているような気がする。生きているということは、だからどこかでそれらと妥協し、調和を取っていることなのだと思う。
 子どもがゲームをやりたいのに、宿題があって親から注意されてしぶしぶ宿題をやる。そこには子どもなりの計算や加減とかがあって、例えば親と対立することを避けて、つまり親の機嫌が収まるくらいのところでいい加減に宿題を済ましてしまうということをやる。あまり露骨にいい加減だと余計に機嫌を損なうことも分かっているし、また当然ゲームの続きを早くやりたいわけだし、そこのところで両立するところを選んで行動しようとすると思う。親は親で、その時子どもが心そこにあらずで勉強していることを知っていても、とりあえずは宿題をこなすそのことに満足して、それ以上注意はしないでおく。そういうことのバランスが、生活を維持していく上では必須のことのように思う。
 生きるということ、生活をしていくということは、そうしたことの連続だと言えるのではないだろうか。そしてそれは生きて行く中で、生活していく中で、それを通してバランスのようなものを身に付けていくほかに方法はないのだと思える。そこでは現実生活こそが学びの場であり、修得場所であるという気がする。そしてそれを学び、どう現実を潜りぬけて生きて行くかということは、どうしたってそれぞれがそれぞれに判断したり、決断したりして通っていかなければならないものだ。最終的には、その時人間はたった一人でそれをしなければならないものだし、そうしてやっていっているものだと言える。誰もがやっているそうした現実世界での学びと実際の判断や決断をくだす際の思考とは、学校を通して「知的」に学んだり考えたりことよりも大きなことだし、重要なことだとぼくには思える。その意味では、生きる上で大事なことを、ぼくたちは毎日の生活の中で実は試され実践していると言っていい。このことはもっと拡大鏡を覗くようにして、考えてみた方がよい。とってつけたような善悪、道徳や倫理では賄えないことが世の中には多いのだ。小さく狭苦しい器の中で、教えたり教えられたりすることが尤も大事だと考える連中は、一度自分の心を眺め、見えてくる微細の動きが誰の心にもあるのだということを顧みるべきだと思う。行きつ戻りつする心にこそ、いいにつけ悪いにつけ、ぼくたち人間の善悪をさえ越える人間性の原点があると思える。
 
 ぼくは小学校の先生だったころ、自分がこう生きるべきだとか、こう生きたいと願うところを一生懸命子どもたちに押しつけようとしていたような気がする。自分が理想とするところを説くわけだが、それは自分には出来ないことを、子どもたちにやれといっているに等しい。そこのところでは、とてもダメな先生だったと反省している。
 おそらく子どもたちは、生活の中で目に見えない無数の課題に刻々と遭遇し、そこで対処を繰りかえしているわけだが、自分の内面において対話を反芻するそういうところで、自分を太らせ、自分というものを作り上げているという過程が辿られていたはずなのだ。ぼくにはまだそこのところに価値があるというところまでは見抜けなかったし、確固として理解するところまではいたらなかったと思う。ただ、うっすらと、子どもたちには子どもたちなりの事情があるとして、ある時期から先生面や指導者面をしないようにと努めていったという気がする。つまり、ぼくが教えることなど何もない。そう思うようになって行ったのだった。
 教えようとすると子どもたちはすさってしまい、だが、自ら学んでいるのだから教える必要がないと少し突き放すようにすると、子どもたちの態度はどこかに教えて欲しいという雰囲気を醸し出す。それはちょうど、ぼくの普段の何食わぬ顔付きで生活するそれと、心の底の底の核にある、飢渇の顔付きとの違いのようなのだ。この核の内側には自分を越えて、自分を突き破るようにさえ感じられる、まさに救済を求める叫びがこだましている。
 明らかにぼくがそうであったように、子どもというものもどこかで得体の知れない何かにぶつかっているものだ。そしてそれは生涯を通して、自分の中で応答を繰り返すように促してくる。言ってみれば、誰にでも口にしない、あるいは口に出来ない自問自答の生涯というものはある。
 この自問自答は、果てしがないことから余計なものだと考えがちである。また、容易に解が見つからずに、苦しむことにもつながるものだから嫌気のさす自問自答でもある。他人に役立たないばかりか、社会にも役立つことはなく、自分にとってさえ滅多に役立つようには思えないものだ。昔から言う、「無駄な考え休むに似たり」などは、これに触れていよう。要するに邪魔者扱いされたりする。科学でもない。哲学でもない。だがおそらくは誰もが行っている、内的な問答であり、自問自答である。
 しかし、個人が、本当に個人としての力量を振り絞って考えることをしているのは、実はここのところに隠れているのではないだろうか。貧しい人も富んでいる人も、知識人でも肉体労働者でも、この内的な問答では純粋に自己自身と対峙している点で平等である。参考書もない。他人の思考は、直接に自問自答に関与しない。そういう中で、自分の内面の中だけで解答を導き出そうと苦慮している。つまりどんな人間も、内部において緩やかに、そして時には激しく自問自答の葛藤に明け暮れ、繰り返しているのだろうと思う。そこでは、歴史的な知の蓄積は存外役に立たないように出来ていると言っていい。最終的な意志決定の判断は、どうしても個に応じて為されるように出来ているという他はない。
 この問答は決して表に出るものではない。他者には分かられるものではないし、分かられる必要もない。自分にも他者にも社会にも役に立たないものかもしれない。けれども、生涯を通してのその自問自答の過程は、自ら発した光であり、個人が個人であることの証しとなる源と言ってもいいのではないだろうか。これは外部とのコミュニケーションの言葉に比較すれば、もっと分かりやすいかもしれない。コミュニケーションの言葉は、他者と共有できる言葉である。そこでは約束された共通の言語が必要であり、それを習い覚えて、通じ合う言葉として使用するのである。つまり先に周囲にあったものを借りて、それを使ってコミュニケーションを取るのである。個人にとってそれは外部とのつながりである。自問自答はさしあたって外部とのつながりを要しない。自分の中で、表面上の自分と、自己の核の部分にある自分が理想とするところの自分との、コミュニケーションとして完結している。そしてこのことの価値はもっと広く認められて然るべきなのではないだろうか。
 人間は、大人もそして子どもも、これを内面に繰り返して生きている。学校の勉強とは違い、また社会に役立つ教養とは全く別のものなのであるが、ここのところが人間形成における価値の根源にかかわる問題として、最も重要なものではないかとぼくには考えられる。他者や社会などの外部とのコミュニケーションもあれば、自己の内部で自分自身とのコミュニケーションというものも普段に行われている。一個の人間の器の中でこれを考えれば、人間はこの二つのコミュニケーションのどちらを主体としてその時の活動を行っているかの違いにしか過ぎない。そしてたしかに、自己問答のような内部的コミュニケーションの価値は明らかにその重要性を見過ごされていると思える。
 現代社会では特に、目に見えるもの、形に表れるもの、効果がはっきりしているものが尊重されがちである。しかし、外部注入された知識の多寡のようなもので、あるいは社会的な地位、肩書きとか付き合いの多さとかというようなもので、人間の全てを計っているというものでもない。社会経済的な価値観を背景としてもった評価とは別に、純粋に、人間の内面の豊かさというようなもので、人を見るということは無意識に我々は行っているに違いないとぼくは思う。その時に、人間性の豊かさというもの、真の高い人格性というもの、そういうものは内面から漂うものであり、それは自問自答によって耕された心の畑の景観より醸し出されるのだと思える。はじめは野っ原に過ぎなかった心は、自己問答を繰り返す中で道ができ広場のようになり、やがては畑のように美しく整えられたものになっていくのかもしれない。それは内面が豊かになっていくことに他ならない。
 それは、お金にはならない。生きることに役立つかどうかも明言できない。けれどもそれは、自分にとっても大事なことであるし、ある場合、他者にとっても大切なものとなるのだという気がする。もっと言い切ってしまえば、個人というものの中の宝物だ。少なくともぼくにとっては、そうした心豊かな他者との出会いは最後の頼みの綱であり、人間を信じるという砦になるのだという気さえする。そしてそう考えなければ、この世はあんまりひどい、そのようにぼくは思う。
 そういう内面の豊かさをさらに豊かにすることは価値になり、また意味にもなっていくと思う。それは知らずにそうなっていくのである。内面に深さが生まれ、それは相応に雰囲気として醸し出される。
 手っ取り早いノウハウもので知識や技術を得ても、それは生涯を貫いて通じるものではない。やはりどこかで人間は立ち止まるものであり、戸惑うものであり、壁に突き当たるものだ。そういうときは必然的に自己問答や自問自答を余儀なくされる。そして、それに耐え、克服して前に進むことができるものだとも言える。そういう力を、若いとき、子どもの時に蓄えておくことは大切だ。つまり、大切だということを、もっと子どもたちに自覚させてよいことではないのか、とぼくは思う。浅く考えれば、それは取るに足りないこと、価値がないようにさえ見えるかもしれない。だが本当はそうではない。過小評価されすぎて、今は表舞台に出張っていくことだけがもてはやされている。進んで外部にコミュニケートしていくことや、友だちをたくさん増やすことがよいことだと盛んに喧伝されている。そのことに子どもから若者たちまでもが心を萎縮させ、硬直化させてしまっている。そうではないのだということを、誰からも教わることが出来ないでいる。そうして表向きの、上辺だけの付き合いの中で孤独を増幅させ、勝手に縮こまって怯えているように見える。外部とのコミュニケーションから外れた一人っきりの時間の時に、本当は個人にとっての豊かさを保証する営為を人間は行っているものであって、その時間の中で自分を太らせ、大きくさせる事が出来るのだ。それは孤独になれ!コミュニケーションを取るな!ということではない。たとえ大勢に囲まれて暮らしているとしても、そこでのコミュニケーションから価値を生み出すためには、個人の時間の中での問答や応答を必須とするといいたいのだ。
 
 ぼくがここで語っていることは、実はぼくが考えついたことではなくて、あるひとりの思想家の語りから誘発された考えである。その思想家とは吉本隆明であり、吉本の語りは糸井重里との対話の際に語られたものである。「糸井重里のほぼ日刊サイト」。たぶんこんな名前だったと思うが、そういうホームページに吉本と糸井との対話が掲載されていた。ここには四つの対話が掲載されていて、その一つである子どもを中心として話された対話を読みながら、ぼくはこのようなことを考えつき、ここで文章化してみたというわけなのだ。対話はこの他に、「親鸞」、「吉本隆明二〇〇八年」、「吉本隆明の二つの目」、といったタイトルで掲載されている。いずれにしても、非常に平易な語り口の中に、たいへん大事なこと、重要なことが語られているような気がぼくにはした。吉本自身、親鸞について書いたある文章の中で『歎異抄』にふれながら、親鸞は平易な語りの中で究極のことを述べているというような意を表していたが、ぼくにはそのように書き綴ったその後の吉本が、親鸞と同じ位相で語り始めているような気がしてならなかった。近年、目が悪くなるなどの身体的な理由もあったのかもしれないが、吉本の出す本は講演やインタビューを通しての、おしゃべりの言葉を文章化したものが多くなった。ぼくの印象ではほとんどがそうなったと言っていい。そこには吉本の何らかの意図もあるのだろうと思っていた。時折、第一線から退くつもりなのかと考える瞬間もあった。吉本も老いぼれたなと考えることもあった。けれども、親鸞が唯円などに語ったような、飾りのない本音、最終の言葉、最後の言葉を言おうとしている、というところにぼくの考えは落ち着いた。もちろん、当てずっぽうで真偽のほどは定かではない。それはどうでもいいのだ。ぼくはそう思うというただそれだけのことだ。
 
 平易な語り口で高度なことを述べる。対極には、低級なことを難解な口ぶりで語る、ということがあるだろう。多くの場合、難解さの中には当人にとっても消化しきれない部分があるからそうなる、と言える。つまり一般に通じるところまでは咀嚼できていないということだと思う。それが高級だとは決して言い切れない。もちろん難解で高級な場合もあるだろうが、得てしてそうではないことも多い。こうしたことをつらつら考えてみると、ごく普通の人の、日常の平易な会話の中に、高級な内容が含まれていないとは限らないのではないかと思われてくる。そしてそれはたぶん、本当かもしれないのだ。とはいえ、その平易な語りから充分に意を読み取り、くみ取り、了解することが出来ているかといえば、このように言っている自分でも心許ないところがある。あるいは全く出来ていないと言いきってしまってもいいくらいのところだ。ぼくのような凡人には、やはり文字化され、それを何度か読み返して反芻してみるほかに正しく意をくみ取ることは出来そうもない。それを、この後吉本の語りを読みながら試してみようかと考えている。
 
 
   子どもと母親の状況
 
「日本の子ども」と題した、糸井重里と吉本隆明の対話をはじめに印刷して何度か読み返した。つまりそこで考えたことが前項に表現された部分である。ぼくが最も関心をもったのは先に書いたような点での「自己問答」の時間についてだった。だが、吉本の語りで興味を持ったのはそれだけではない。それをこれから少し付け足していきたい。
 例えば会話の切り出しとして糸井は、「人間の育成」が学校任せになっている気が最近はすると言い、それについての意見を吉本に促している。これに対して吉本は、学校の先生に教育の全てを委ねてしまうおおもとは、「子どもにかまっていたら大変」という思いが親の側にあるからではないかと応じている。そして、
 
 まずは、親の「自分のやりたいことが」昔に比べてたくさん出てきたということです。そうすると、子どもを「半分かまう」(子どもが家の中や軒先あたりで遊ぶ段階の親の対処をさすもので、昔は親はこの期間、縫い物をしたり掃除をしたりして視野の中に子どもを捉えていた。つまり意識半分、無意識半分の状態―註・佐藤)ことが鬱陶しくなります。 それよりも、働くとか、おしゃべりしあうとか、自分も何かを習いに行くとか、そのようなことが優先されるようになってきました。「女の人は子どもを半分かまってればいい」という時代じゃなくて、自分自身が何かしたい、ということのほうが主になってきました。 
 
と言っている。
 親と子どもとの関係の変化、特に母親が昔と比較すると「半分かまう」つまり「用心して子どもを見る」余裕や時間がなくなったことをあげている。別な言い方をすると、「かまう」ことを放棄し始めたということだ。もちろんこれには理由があって、女性が「私」としての自分を考え、主張し、自分を出すことに積極的になってきたからだ。そしてこれにはもちろん、時代や社会や文化といったものの変化も荷担している。
 つまり吉本は、親が自分の生き方を中心に考えるようになって子どもをかまわなくなった分、親は子育ての責任のいくぶんかを他に転化するようになり、いわゆる保育所から学校などの子育て機関に責任を負わせるようになってきたと見ている。そして、現実がどうであれ、子どもについての責任は基本的には全部親が負うことだと付け加えている。
 ぼく自身は世代として、吉本がいう意味での親としての責任を半分放棄した世代だと思う。結婚する以前に、結婚はすまい、こんな社会に子どもが育ったら可哀想だ、こんな世界で子どもが出来ても責任がとれない、などと考えた世代だ。それが結婚もし、子どもも出来た。そして、いつか金属バットでやられると覚悟もしていた。それはうまくは言えないが、自分ひとりさえ、生きて行くのがやっとだと言う思いを抱いていたからに違いない。生きるか死ぬか、意識上ではそういうことばかりを考えていたから、とても子育てまでは手が回らなさそうに感じられていた。子どもが出来て、それまでの自分を捨てても子どものために生きようと腹を括るところももちろんあったのだが、やっぱり力不足は否めなかったと思う。充分な豊かさと愛とで包み育てることは出来なかったように思う。
 だから、今の若い親たちの気持ちや状況がよく分かるような気がする。少しだけ違うとすれば、子どもの責任は、最終的には全て親としての自分にあるというほかないと考えていた点だと思う。幼稚園とか学校に任せなければならないところはあったけれども、任せるというそのこと自体を自分が認めた以上、たいていはそういう判断を下した自分に責任があるだろうと考えていた。極端に誇張した考え方をすれば、そこで、任せない、という判断だって親の立場からあり得たはずだとぼくは考えるからだ。
 なんにせよ、子どもが一歩家を後にすることは、想定されうるあらゆる危険の中に足を踏み入れることで、それを親としての自分が仕方なくといえども「よし」とした以上、最終的には自分が責任を取らなければならないだろう。そう考えていた。そうして出来るだけのことをする他はない。それでダメならば、どんな状況でも受け入れなければならない。そう思っていた。
 今の若い親たちを見ていると、そういう覚悟が足りないように思える。同時にまた、社会が、そういう覚悟をしなくてもすむというような幻想を振りまいている。そして、世間全体がいつの間にか、子どもが一歩家を出て幼稚園や学校に任せたからには、幼稚園や学校が責任を取らなければならないというように考えるようになってきた。そういうことが全くないではない。しかし、幼稚園や学校なら不慮の事故など有り得ないと考えるとしたら、危険察知の義務を怠っていたということになろうし、はじめから親としての資格や自覚に欠けるというべきだ。要するに根底から他人任せの社会になっている。そしていざ事が起きてしまえば、賠償をもらおうがもらうまいが、子どもに何かが起きてしまったことはもはや取り消しようがなく、後戻りすら出来ないことなのである。つまりどう賠償されようが最終的には親が子どもを守れなかった責任の問題は消せないのであり、それは親がその責を負う以外に誰も代わって負うことができないものだと言える。謝罪や賠償など、一時的な気休めにすらならないことだってある。子どもを手元から放すということは、はじめから覚悟を必要とするのだとぼくには思える。そうでなければ法に違おうが違うまいが、決して子どもを手元から放さなければいいのだ。現実には不可能なことであろう。だが、考え方としてはそういうことも言えるだろうと思う。
 吉本は、糸井の問いに答えて、学校の責任が大きくなってきたことの背景には、第一に「親が子どもをかまっていられなくなってきた」こと、そしてそのことを、つまり親の本音を、親が声に出して言わないことに原因があると述べ、それが後々いろんな事の原因に重なるものだとも言っている。
 ぼくなりに考えると、親は吉本の言う、子どもをかまっていられないという自分の気持ちを知っていて、実は知らぬ振りをしている。あるいはそれを認めようとしたくない。その点で、他に口実を設けていつも後ろめたさを託っている存在である。モンスターペアレントなどのように、過剰に学校に注文をつけたり非難したりするのは、案外そのためかもしれないと思う。
 『子どもが邪魔だ』。昨今の親たちの子殺しをニュースなどで見聞きするにつけ、こういう思いが親たちの間に瀰漫しているのではなかろうかと思う。そして親たちが、本当の自分の思いとしっかりと向き合っていない、そのことも問題であろうと思う。
 親たちはしっかりと「もしかして自分は子どもを邪魔に感じているかもしれない」というそのことを、口にだして言うようになるべきであるし、社会はそういった親たちの本音を受け入れて、そこで充分な対話が重ねられなければならないと思う。子どもは邪魔、子育ては面倒、そう考えること自体は決して悪ではない。かえってそういう本音を取り出し、その思いを解放しなければならない。歴史的に、自然な過程として、親が、そして母親が、そういう思いを持つことは流れとして必然的な意味を持っているとぼくは思う。裏側には、反比例するように母親たちの人間としての自立の過程がある。家や家父長制が消滅しかかっている今だからこそ、女性たちはまじめに自分との問答の中で「生きるとは何か」を問い、あるいは自問自答の時間に耐えきれずに中途半端な姿で苦悩に追われているとぼくには見える。だがそこを乗り切れなければ、幾度も事件は繰り返されよう。
 日本の文学の歴史を辿って言うと、一昔の子育ては短歌や俳句のような定型があって、その内側で表現を考えていればよかったのが、いまの時代はその定型が破れて、自由だけれども一から自分で形を決めて考えていかなければならないという負荷がある。以前は代々守られてきた「家」があり姑がいてという中で、その「型」にすっぽりとおさまって、その内側で為すべき習慣に従って為していけばよかった。ところが今はそうではない。現代は核家族ともなり、結婚してもどう家庭を築いていけばいいのかが分からない。欧米やメディアの影響を受けて真似しようにも、現実にはどこかが違ってうまくいかない。短歌や俳句のような定型に戻ろうにも、もはや戻れないところにさしかかっていると見るべきだろう。詩の形式と同じように、家庭の形式もまた個々に探っていくほかに道はないのだ。そういう辛いところに個々の家族はさしかかっている。そして最も重荷を背負わされているのは母親たちであり女性たちであるということも言えるのかもしれない。もちろん母となる女性たちにその自覚があるかどうかは分からない。あるいは自分たちの時代だと錯覚して、自由さばかりにしか目が向いていないとも言い切れないかもしれない。陥穽はある。誰もが呑み込まれて当然だという状況もまた、ある。
 かつて、太宰治は作品の中で、「なに、弱いのは子どもではなくてその親なのだ」と書き、「子どもより親が大事と思いたい」と主人公に告白させている。主人公は家庭の夫として父親として、しっかりしたいという考えをもっている。けれども、ある苦悩のようなものが押し寄せてきて、いつも自分はこれでいいのかと内面に問答を重ねている人間でもある。作品では、悩みに悩む主人公の行き先は、決まってふらりと夜の町に外出し、しこたま飲み、遊んでを繰り返す。それは逃避であろう。ぼくには現代の父親も母親も、いくぶんかは太宰の作品の主人公のように、訳の分からない悩みのようなものに促されて、家庭の外に出て行きたがっているように思える。実際にそうしている親たちの数は多くはないのかもしれないが、予備軍を含めて考えるとおそらく大多数がそうであるのかも分からない。そういう時代や社会の状況であるということは、一応考慮してかかるべきではないかとぼくには思われる。
 
 
   いじめの解決
 
 糸井と吉本の二人の話は、子どものいじめ問題にも触れている。いじめをどう思うかという糸井の問いに、吉本はまずいじめられる側の、顧慮のない、戦略的でない、言ってみれば手負いの獣の逆襲のような、立ち向かっていく姿勢が解決の早道だと言っているように思える。いじめる側に対してのいじめられる側からの逆襲である。吉本のいじめに関する発言は単純で、いじめに解決があるとすれば、いじめられる側がそういう形で抵抗をする以外にないと言っている。それ以外の仕方で、例えば親や先生が出てきて止めたり、やめさせたりしても、本当の解決にはならないんだと言っている。そしてまた、いじめの解決とはいじめが無くなるということではなくて、ある程度のところで収まりがつく、それ以外にないんだということを言っている。こういう考えは吉本の中で一貫している。
 以前から吉本はそう考えていて、ぼくはそういう発言を読んで同感するとともに、どこかに腑に落ちないものを感じていた。吉本は、このいじめ問題に関しては、終始「いじめられる側の問題」として説いていると思う。実際に小学校の先生でもあったせいなのか、ぼくはいじめの問題を「いじめる側の問題」というように捉えていたような気がする。そして、いじめるのはよくないじゃないか、ある場合は、卑怯でよくない事じゃないか、そんなふうに考えていたと思う。つまり、いじめる側の「いじめ」を止めれば、いじめの問題は解決するように感じていた。だがいじめの構造をよくよく考えてみると、いじめる側にいじめをやめろと言ってすむ問題ではないことが分かる。そして、子どものいじめでは、いじめる子どもがすでに傷ついているという場合が多い。
 吉本の言うところでは、現在の社会、子どもたちのおかれた状況の中で、子どもの世界からいじめを無くすことは不可能なことだ。これはまあ、少し立ち入って考えれば分かることだ。要するに現在の社会の段階では、被害を最小限に食い止めること、生死に関わらないところで「おさまり」をつけることが問題になるので、そういう意味ではいじめられる側が本能的な自己防衛力を発揮する以外にないのだということだと思える。少なくとも、子どものいじめの問題に先生や親たちが関わってくると、自体はかえって複雑化し、「おさまる」ものも「おさまらない」状況に発展してしまうという。
 ぼくも、そうだと思う。子どものころのことを考えると、子どもの世界でなんとかいじめの問題はおさまっていた。親や先生が出張ってきたりすると、遺恨が残った。そういう問題だったような気がする。いま思うと、大人社会の人間関係にもいじめに匹敵すること、あるいはそれ以上に複雑怪奇な関係が存在し、子ども世界に見られるそれらのいじめの問題も、実はその後の人間関係の予行演習であり、やっておいたほうがいいのかもしれないとも思う。なぜかというと、後々ついて回るに違いない人間関係の問題に対して免疫力がつくに違いないと思うからだ。
 問題はしかし、ではいじめを発端に、自殺する少年少女がいても仕方がないのか、抛っておくのかということになる。「ひきこもり」の問題についてもそうであったが、吉本は、ひきこもることは決して悪いことではなく、ある時期、ある場合、人生の途中に必要であり必須だという言い方をしている。ひきこもることなしに、人間は一人前になることはできないのだという言い方もしていた。つまりそれは、人生のある時期に、徹底的に自分と向き合うことがなければならないということなのだと思う。そしてそれは徹底的であればある程よいと言っているようなのだ。だが、このひきこもりの問題にしても、極端であったりこじれたりすると一個の人間の人生の歯車を狂わしてしまうという問題に発展しかねない。たしかに現場では、自殺をはじめとして、家庭内暴力や親殺し、子殺しなど、日々の報道をにぎわすのに事欠かない。それでも吉本は、いじめでは親の対処を問題にし、ひきこもりについては逆療法でもあるかのように「ひきこもれ!」と提唱する。半分はなる程と思い、もう半分では本当にそれでよいか、それで問題の核心を突いたことになるのかと、ぼくなどは半信半疑になってしまっているというのが本当のところだ。
 
 まだ小学校の先生をしていたころ、ぼくは学級や学校内にいじめを見つけると、即座に「いじめはするな」と言った。怒りを露わにして大声で言ったこともある。大勢でひとりをいじめるのは卑怯だ。たとえどんな理由があろうと、いじめはするな。一応の正義漢ぶった言い方をしていたということになる。だが言いながら、それは自分の流儀で、その流儀を押しつけるだけのような気がした。またそう言ったところでその思いが子どもたちに受け入れられるとは到底思えなかった。つまりそういうことに関して、全く無力であると自覚できた。一瞬の制止は出来る。だがそれ以上ではない。
 ぼくはその時俺と同じ心をもてと言っていることと同じで、すると、それははじめから不可能であるし、仮に誰もがぼくと同じ心をもったとしたら、誰もが迷惑するに違いないことでもあった。俺と同じ心になっていじめをやめろと言い、しかし対する子どもがそうならなかったときに、ぼくはその子どもを憎らしく思い、懲らしめてやろうと考えるかもしれない。そこに、いじめとよく似た構造が立ち現れて来はしないだろうか。そう考えると、いじめは「考える」ところから解決の糸口を見つけることは不可能に近いのではないかという気がした。
 
 言おうとすることが支離滅裂になってきた。先の問いにかえろう。
 いじめで自殺する子どもが出てくるまでになっているのに、抛っておくのか、ということだ。この問い自体には、いじめはやめさせなければならないという意識が潜在している。そこで大人たちはあの手この手を考える。当然、抛っておけないと考えるからだ。つまり当座の自殺でも他殺でもいいが、死というものを回避したいという願望がそこには込められている。理由や原因はどうでもいい。とりあえず、子どもの死を回避しようじゃないか。それがたぶんぼくを含めた一般の大人たちの考えることだと思える。
 吉本のこの糸井との対話では、このことについて少しも言及していない。「ひきこもり」の問題でも、多少そういった傾向があったが、現状の悲惨さが理解されているのかされていないのか、その語る言葉からは真意が疑われる部分がある。そしてどちらかというと、いじめが関連する自殺については大人や親の対処が悪いとし、ひきこもりについても取り巻く社会や親の対処に責任を負わせる傾向にあると言える。それはたしかにそうなのかもしれない。だが、親が悪いと言ってみても、親が悪くなろうとして悪くなっているわけでもないし、ぼくなどは親もまた子どもと同じくらい無力で悩める存在と化しているのだと思ってしまう。第一、親が悪いと言って、それで親が反省して子どもの自殺が食い止められるかと言えば、そんなことは決してなく、相変わらず自殺も殺人も起こりうるだろう。
 吉本の発言に対して現場の精神科医のような人たちから、批判や非難の声が上がるのはこういうところに原因があると思う。現場の教員や親や精神科医らは、待ったなしでそこに起こっているいじめやひきこもりの現状から、「死」を回避したい思いと、回避する手立ての暗中模索とで必死になっているのだと思う。それを抛っておけ、大げさにするな、子どもの自力に任せろと言われても納得などできないに違いない。
 ぼくは社会全体を見て、テレビなどを通じて流布される専門家たちやコメンテーターたちの対処法が、実践されたりしながら効果があったりある場合にはなかったりしているのだろうなと思う。それ以外のよい案がなければ、それを取り上げてみるしかない。それは医者が不明な病気の患者を前にして、なんとか救済しようと励むようなものかもしれない。しかし、当然のことだが、全てを救済することは出来まい。つまり、それでは本質的な解決につながらないこともたしかなことだ。
 吉本の話は本質論としては正当なものだとぼくは思う。一方、状況論として、実際にいじめをきっかけとして自殺に向かうその状況については特別の発言をしていないように思える。というか、微妙に回避していると見える。つまりそれは個々具体的な場面に起こる制御できない現実のドラマなのであって、そこではなるようにしかならない、あるいはなるようになる、そういう次元の問題なので、それをどうのこうのと批評してみたところで結果的には不確定要素が多すぎて、批評すること自体が無意味であるとも言える。現実は否応なく今も動いている。いろいろな対処が為されたり為されなかったり、それらの全てを把握することは出来ない。だから本質として、いじめやひきこもりを考えるならば、言えることは細く単純なことしか言えないだろう。いじめについて言えば、無くすことは不可能であり、不可能な限りにおいて体験は不可避で、子どものいじめであったならば大人が介入せず、ある程度のおさまりがつくように口出しせずに見守るくらいで良いということになる。結論としては甚だ心許ないと感じられるかもしれないが、ぼく自身も最終的にはそう言うほかないと思うし、それ以外の言い方をすればかえって無責任な事を言ってしまうのだと思える。
 いじめの根絶というポスターや標語を見聞きしたことがあるが、これは大人社会の上辺の取り繕いに過ぎないであろう。
 要はなぜ自殺したり他者の殺害に及んだりするかという問題が残るだけだ。吉本の言うところでは、子どもの行動責任の一切は親が負うほかないもので、他の第三者が代わることは出来ないのだという。親が適切な対処、つまり一般的でごく当たり前の愛情を持って育て見守っていれば、子どもは自殺したり他に危害を加えたりしない、ということになる。つまりそれまでの成育歴の過程で、歯止めがかかる心的な素因を獲得するものなのだということである。なぜ最近の親たちがきちんと子どもを育てられなくなっているかといえば、個々の親たちにゆったりと子どもを育て見守る余裕がなくなったことが考えられる。これにはまた先にも述べたように、膨大な時代や社会の変化という背景の問題があり、一言で言い尽くすことは出来ない。逆に個々人が胸に手を置いて考えてみれば即座に分かることだ。悩める現代人。精神的に疲弊する現代人。そういうありのままを考えてみればいい。その中でも特に女性の環境は劇的に変化した。今や家を出れば十人の敵というのは、サラリーマンお父さんの話ではない。
 だから問題の解決には、親たちにこそ子育てに最適な環境が整備される必要があるということである。もちろんそこには子育てをこそ第一に考える親たちの精神的状況も必要となるのであり、それはどうしたら可能になるのかという別の問題も生じてくる。
 
 いじめの問題に限らず、考えてみればこういう問題を考えるときにぼくらは第三者の非当事者的な立場を取ってしまう。だが、よくよく考えると、いじめるとかいじめられるとか、あるいはひきこもるということでも類似的なことは全て自分自身も体験してきたことに他ならない。もっと言えば、自分の死も、あるいは他者を殺害することも、自分が生きてきた全ての舞台のすぐ横に、隣り合わせに存在したのかもしれないと思う。ぼくはたまたま死の方に一歩歩み寄らなかったのであり、殺人者にならなかっただけなのだ。それは、自分の非凡さや優れたところがあって事件や事故を回避してきたというわけではない。また第三者機関のおかげで回避できたという事でもない。
 何を言おうとしているのかというと、ぼくらは往々にして自分が体験し、経験したことを忘れてものを言うことがあるということだ。そのために対岸の火事として事象を見、「あってはならないこと」という偏見を持って解説しようとする。そうではないのではなかろうか。いじめもひきこもりもあるものと見て、その延長上に当然自死もあり殺意も生じるものとして、冷静にそこから何を取り出すかが重要なことなのだ。いじめもひきこもりも、人間が社会的に生きていくものである以上、どうしても生じるものであり、ただ現在突出しているように見える自殺、他殺への短絡傾向をどう取り上げるべきかを考えなければならない。
 さて、うまく言えないが、自分の体験に添った言い方をすれば、自分で乗り越えるほかないことだと思える。そしてこれも自分の体験を振り返って言えば、いつしか乗り越えているものだと言うしかない。本当に乗り越えたのかどうかは別にして、とりあえず折り合いをつける。そういうところで自分にとっての生きるという状況がある。そしてそれが誰にとっても普遍であり、一般的な状況ではないのか。ぼくはそう思う。
 さらにぼくがここで付け加えることが出来るとすれば、いじめやひきこもりの重要な部分は当事者の心的な問題であろうということだ。言いかえれば心的な経験不足の問題、心的な打たれ強さとか弱さとかの問題、ねばり強さの問題、精神的にくよくよすることにどれだけ馴染んでいるかの問題、そういうことに帰着する気がする。つまりそういうものを軽んじる風潮がはびこっているのも問題であるように思う。内面的にくよくよしたりというような意識の働かせ方をすること、それは実は人間力に関する底力としての重要さを持っているのではないだろうか。そしてそれが生きて働く力として形成されていくかどうかというのは、家庭内において第一の関門があるのだろうと推測できる。すなわち、家庭内における共同幻想、集合的無意識が、それを生き抜くための力に変えていくのでなければならない。愛であったり、信頼であったり、生き抜こうとする力の源がそこから受け継がれるものだ。仮にその集合幻想がマイナスの性質を持っていれば、もちろん子どもはそのマイナスに決定的に影響を受けるに違いない。それは極端な場合には、代理死という形を取って子どもに受け継がれることもあるのかもしれない。子どもは親の鏡であり反映である。いじめやひきこもりで自殺や親殺しのような問題にまで発展した場合、普通ならある閾値のところで収まりをつけるのに、それを越えたということであり、その越えた部分だけその子どもの親に問題があったと考えてさしつかえないと思う。
 以上、吉本が語るところをぼくなりに受け止めた考え方ということになる。
 
 
   先生論
 
 吉本と糸井との対話「日本の子ども」では、自然、話題は学校の先生についても広がっている。
 例えば先のいじめに関連する発言において、先生は子どもに対して道徳的なこととか、いじめをやめろとか、そんなことは言わなくていいんじゃないだろうかと吉本は言っている。 小学校や中学校の年代の子どもの問題を、誰が管理しているのかというと、父親か母親以外にないのだと吉本は言う。だから仮にいじめがあり、その責任の所在がどこにあるかといえば、先生や学校や教育委員会には全然関係がなく、双方の親たちの間に求める他ないということだ。
 この意見は大変すっきりしていて、ぼくが実際に先生だったときに、上の人たちがこういうことを言ってくれたらなあと希望していた内容を含んでいる。しかし、実際にはそういうことはなくて、いじめは学級や学校で起きているのだから担任の先生や学校に責任があると見なされがちだった。つまり先生に指導性がないために、いじめは発生し、大事に発展していくと考えられている。これは今でもそうかもしれない。いじめはしかし前項でも考えた通り、人間が社会生活を営む以上ついて回る出来事であり、昔からもあり、未来にも続く問題にすぎない。つまり無くせないことであり、起こりうることが起きたからと言って誰に責任を被せてすむという問題でもない。ただ、こうした問題について、歴史的にはそれぞれの家庭が不和、衝突を和らげる緩衝の役目をもって機能してきたというに過ぎない。そして昨今はその機能を発揮できない、いわば家庭の機能不全が目立ってきたということなのだ。もっといえば、実質的な親子関係が、融和よりも敵対や離反の関係に向かってきていることが問題なのだ。
 もう少し平たく言い直せば、仮に学校とかでいじめられることがあっても、家庭に帰って平穏な居場所と実感し、心理的に癒されることがあれば、いじめの傷もいつか癒される。そしてたいていのいじめはそういうところですんでしまう。いじめる方も、そういう緩衝力に気付いたら、執拗にいじめることが面白くも何ともなくなって、やがていじめは終焉方向に向かうに違いない。
 こういう根源的な親と子の関係の前に、他人である学校や先生たちはそもそも介入できるはずはないのだ。
 吉本が親と子に任せるしかない、抛っておくしかないという時、こうした認識が根底にあるのだと思える。
 ぼくは学校にいる間、子ども同士のいじめの根源に、学校が教える価値観とか善悪とかの問題が微妙に作用している場合のあることを感じていた。そういうことがきっかけとなって、喧嘩、仲間割れ、いじめへと発展していく。そういうことがないでもないと思った。だから学校にも、先生にも、一部、責任はあるのではないかと考えていたように思う。そういう考えはしかし、倫理的な痩せ細りをぼくに要求した。つまりいじめに対してどこまでも過敏になり、始終ぴりぴりすることになる。その雰囲気が学級の子どもたちにとってよいわけがない。
 学校にある、成績のよいことがよいという価値観、運動に優れているのがよいという価値観、そういうものは単に学校にあるばかりではなく、その背景としての社会そのものの中に存在している。そういう問題は一挙に解決することは出来ない。学校だけが全くの無菌状態でいられるわけがない。逆に言えば、子どもたちは社会にあるものを学校において体験し、どう対処すべきかを学び、予行演習しているのだから、いじめも体験しておいたほうがよいということになる。
 ぼくが先生だったころ、ぼくはこんなふうに考えることが出来なかった。いじめは先生や学校には責任がなく、親の問題だと誰も言ってくれなかった。いずれ社会に出て行く子どもたちにとって、いじめ体験は子どもたちに必要なことだというようなことも誰も言ってくれなかった。いじめを見つけたら、即抑えろと言うのが一般的な言われ方だった。そうでなくとも、学級の中でいじめの問題が起こると、保護者たちが黙ってはいない。担任は、いじめの事実を秘匿するか、しらばっくれるか、ひたすら恐縮するかしかなかったような気がする。
 いじめは始終起きます。この体験は大切です。各家庭でしっかりと子どもが成長していくための負荷をフォローし、受け止めてあげるようにしてください。といっても格別のことはないのです。普段と同じように、家庭が安心できる場所、そして安心できる毎日と同じであればいいのです。
 そう言って親に投げかけ、下駄を預ければいい。
 
 巧みな聞き役としての糸井の質問に誘われるようにして、吉本はこの他にも先生たちはこうしたらいいと考えていることをいくつか述べている。
 例えばそこには、よい先生になろうと考えたり努力したりなんかはしない方がいいという考えも示されていた。つまり、「ことさら懸命な授業をやって、笑いを取ったり、楽しく授業を受けさせて、身につけさせて」というような先生に自分はどうやってなれるかなどという、馬鹿馬鹿しいことは考えるなと言う。これは先生としている間、始終強迫観念のように考えざるを得なかったぼくなどにとって、晴天の霹靂として感じられる言葉だ。 職業柄、先生は最初から最後まで、「いい先生」でいることを義務づけられ、また先生になるような人は「いい先生」になりたがるものだ。そのために懸命の努力をしたりする。だが、そうやって、子どもの世話でも勉強を教えるのでも、やりすぎるのは自然に反するという面があって、結局自分をも子どもたちをも窮屈にさせるだけに過ぎない。
 糸井と吉本の対話全体を通して考えてみると、吉本は親に対してもそうであったが、先生に対しても、ごく自然に地のままで子どもに接するのが一番いいと提言しているように思う。この自然に、地のままにというのは、俗な言い方をすればかっこつけずに振る舞えということなのだと思う。このような提言をする背景には、子どもは親や先生と接する中で、その人間性の根源的、本質的な部分はみんな分かっちゃうもんだよという理解の仕方があるように思う。大人になって身につけた、知識、技能、そういったものについての理解には及ぶものではないが、その人がどういう人か、その人の核の部分については直感的につかめるものだと主張しているように思える。つまりそれは、表層のコミュニケーションを通して理解される部分ではなく、非コミュニケートの部分で分かるものだという。一本の樹木にたとえれば、関係の表層に活躍する葉とか枝先とかの問題ではなく、物言わぬけれどもその存在の核心部に近い幹や根の部分をつかんじゃうと言っているのだ。もう少し具体的な言い方をすれば、先生が、お掃除を子どもにしっかりやらせたくて率先して取り組んで見せても、本当に先生が掃除を好きかそうでないかくらいは子どもにはすぐに分かってしまうということだ。それは表に現れるし、うまく取り繕ってもどこかにほころびが生じて完全に隠し通せることは不可能な事だからだ。ある時とても勉強が大切だと言ってみても、子どもたちは、ああ、今何かの関係でそんなにも思ってはいないことを言っているのだなという見当がついたりする。逆に言えば、はじめからこの先生はみんなに気に入られたくてこんな事をしているとか、分からないのに分かった振りをしているとか、他人に対して威張りたがっているだけの人だとか、疑り深い人だとか、そういうことはみんな分かってしまうということだ。
 今回も吉本は大変平易な言葉でこういう事について語っているのだが、言われていることは大変深いことだと思う。自分の言葉でこれを言いかえようとすると、とても難しく困難であることが実感される。だが、吉本がこんな形で本当は何が言いたいかについては推測が出来るというべきである。
 吉本は人間の関係について言おうとしているのだが、格別新しいことを言おうとしているわけではない。昔から言われていることを、今日的な言葉で言い直そうとしているだけだとも言える。
 吉本は別のところで、人間存在の本源的な価値というものは、言葉を産み出さないまでの、いわば原始の、人類の個の内部に生じた「沈黙」の中に象徴的に考えることが出来るのであって、それがたとえば後の世代に成果として科学の発達をもたらしたに過ぎないので、科学の発達などをもって人間の価値が増幅したと考えるべきではないという考え方を示している。これを言いかえれば、最初の話に戻ってしまうが、個人の価値は内部に繰り返す問答によって豊かになるものであり、成果として表に現れるものは第一義じゃない、あるいはそれが根源だとは言えないのだということである。そして内面に繰り返す問答の豊かさは、ひとりでに他者にも感知される類のもので、だからこそ子どもでもそれが分かるということであり、樹木に喩えて言ってみれば子どもは幹の部分で親や先生の幹の部分を了解できていると考えることが出来る。もう少し学問的に言えば、ミラーニューロンと言うことになるのかもしれないが、人間相互にありそれが感応しあうことによって了解し合えると言ってもいい。
 現代の我々は、人間の価値というものを、例えばスポーツでは記録を塗り替えたり、学問ではノーベル賞を受賞したり、効用とか役立つ度合いで捉えたりすることが少なくない。偉くなる。物を産み出す。その他諸々。
 吉本は、そういうところにも価値がないではないが、二次的、副次的なもので、本源は内面的に「自分はこれでいいんだろうか」と繰り返し、その執着した部分についての考察が広く豊かに拡張していくそのダイナミズムに焦点を合わせている。そしてそれが揺らぎのないような形を取るようになると、自ずと精神の姿形となって外にも表れるようになっていく。それが大事なのだと再三述べている。昔の言い方を借りれば、「親の背中を見て育つ」というのは、そういう意味合いを言うものなのだろう。
 先生と子どもの関係についても同じ事はいえるので、言葉で言ったことよりも、子どもは先生の言わないこと、すなわち先生の背中を見て学ぶものだと言うこともできる。そしてそれが背中であるから、格好をつけようにも自分では見えないから一切の作為が効かない。しかも、隠すことすら出来ない。
 学校が勉強として知識や技能などを学ぶ場だとしても、そこにはやはり人間の関係が介在する以上、第一義にはそこの部分での学びが起きてしまうのである。そしてそれは人間存在の核心部分に触れることがらであるからこそ、家庭と社会との間にあって最も大きく深く影響を与えるものであり、人間成長にも深くかかわる。
 太宰治がかつて、「こうしてきた」のだという本当のことを伝えずに、「そうしなければならないこと」や「そうしたいこと」のみを言っているうちは、「かくめい」も何も起こらない旨の言葉を記したことがある。そうしたいと思いながら、こうしてしまったということ。そこにしか本当に考えることの契機はないのだといってもいい。太宰もまた、理想と本音、理想と現実の狭間で、繰り返し問答したり、あるいはまた思い悩むところに人間の価値の源泉を見ていたものかもしれない。そしてその基本さえしっかり抑えていれば、その効果や成果は、ひとりでに開花するという捉え方もおそらくは吉本の言うところに似通っているところがある。
 つまり、大事なのは目先の、試験で何点を取ったとか、漢字をいくつおぼえたとか、そんなことよりも、人間存在の本質に関わる最も重要なこと、吉本流に言えば、「問答の道を豊かに繰り返す」先生と身近なところで接している、ただそれだけで充分に教育になるのだ、ということなのだ。だから先生は、自分の性格のままに、その日の気持のままに、自分をよくも悪くも見せる作為を放棄して自然に振る舞うのが一番いいと言うことになる。
 
 この茶の間のおしゃべりに過ぎないような糸井と吉本の対話の、しかもほんの少しの箇所で述べられている吉本の先生論、教育論は、なるほどとは感心させられても一般的に受け入れられるというわけにはいかないだろう。ぼくをも含めて、それは、多くが教育の結果や成果を求めるのに性急だからなのだと思う。 公共事業といえば道路や港湾の改修など、目に見え形に残るものしか考えないように、先生の仕事や教育の成果についても目に見え形に表れるものが求められがちである。一日をだらだらと過ごした、では言い訳が立たない。研修する。免許更新のために講習を受ける。環境教育、図書館教育、省エネ教育と学校は忙しさを倍加させる。終いには成果や手柄をでっち上げるようになってしまうだろう。例えば、学力テストで、監督者が答えを訂正させたり、あらかじめ類似の問題を演習させていたなどのことは好例だ。行き着くところまで教育は行き着いた。こうなれば、逆行する道を選び直すほかないだろう。
 
 一個の人間にとって最も大事なことは何か。吉本はそれを、「自分はどうなればいいんだろうか」と心の中に問答と反省を絶えず繰り返すことだと言っている。これが源泉となり、人間を成長させる原動力になる。そういうことだと思う。それを無駄とか無価値だとか考えてはならないのではないか。仮にそう考えても、人間は実際には気が遠くなる程にそれを内面に繰り返しているという事実は、我々の意識がそう考えるのとは別に、それが重要であることの生理的な根拠を提出しているように思える。
 子どもは親に始まり、次には先生というものに多くの時間接することになる。親や先生が、人間の生きる価値、自分の生きる価値をどこにおいているかは、子どもが自分の価値を考えていくときにとても重要な要素になるという気がする。大人たちが内面の問答、それを繰り返すことで生じる豊かさを、大人自身がもう少し見直すことが出来たなら、おそらく子どもたちは自己の内面にも起こる問答を見直し、それが自己を豊かにし、太らせているというように自覚でき、自分という存在の価値についてもその考えは深くなるに違いない。言ってみれば植物のように動かないで何もしていないように見えても、その幹や根の部分において自らを大きく太くしていっているように、人間もまた何もしないでいるように見えて、実は内面に豊かなもの、大きく太らせる増殖が行われているのだということを理解していくに違いない。それはいたずらに成果ばかりを気にすることを無くしていくに違いないし、友だちを含めた他者の見方を変えていくかもしれない。
 
 
   あとがき
 
 吉本と糸井の対話に触発されて、やや解説的な要素を含めて書いてみたのだが、回りくどくなり、つまらぬ文章を書いてしまったという気がしないでもない。ただ力量からいえばこのくらいが妥当なところで、仕方のないことだと諦めはついている。吉本の語るところにこだわるのは、一般に流布される意見とは次元の異なるところがあるからであり、そこにはまた流布される主張に充たされないぼくなりの思いがあるということになる。もちろん、一般に流布される考え方に影響された部分もぼくの中にはあり、ある場合にはその地点に立って吉本の主張に疑義を投げかける事もあえてしている場合もある。
 吉本が他とは異なる視点をどこから獲得しているのかは長くぼくが疑問に感じているところだ。吉本の言葉に出合わなければ、そのような視点、そのような考え方を、ぼくはどこからも自前で考えつくことがなかっただろうと思う。その意味ではいつまでも指針であり続けているのだが、いつまでも乗り越えられない巨人の思想ということでもある。彼の思想をよく理解できているかどうか。さらにそれを乗り越えて、考えを吉本の射程のその先にまで延ばすことが出来るかどうか。もちろんその先に届く目を獲得しようとして彼の言葉にこだわってみているというわけだ。この文章はこれで終わるが、ぼくの営為には終わりはないと、とにかく先を見ようという気になっている。どう読まれようとかまわないが、当人は細道からさらに細道を辿っている気分にあることだけは確かなことだし、その気分だけでも感じてもらえたならもって瞑すべしと思っている。