子どもという思想         

―子どものこころの形成と発達―
 
    目次(文字列をクリックすると該当箇所に飛んでいきます)
 
はじめに
 ・発達区分への疑義
 ・児童期のふるまいの奥に見えるもの
胎乳児期の重要性
児童期と子ども
言葉以前のこころ
 ・哲学的な考察から生物学的考察まで
 ・言葉以前のことば(起源)
 ・ヒトのからだ
こころの3つの次元
3つの次元と成長・発達過程との関連
学校の本質は「共同幻想」
・学校(共同幻想)の無意味と有意味
系統的発生論との関連から
・人類史と個体史の対応
・共同体段階と個体史の対応
おわりに
・子どものこころの成長と発達
・「遊びがすべて」を4年生までに
 
 
 
はじめに
 自身の身体への関心は部分的なものだ。思春期の前後にはほとんど顔形や頭脳や腕力、スタイルといったものに注意がむき、中年では病気や健康に、さらに高齢者となると「死」がより身近に感じられてきてそれまでの問題は急に色あせる。これは「食と性」「生と死」という、人間の根源的な欲望に引き寄せられた関心で、逆に言えば、実際の身体そのものとはイメージ自体がかけ離れたものになっていることを意味する。
 自分の身体のイメージばかりでなく、子どものイメージについてもわれわれの関心は一般に限られていて、その全体に注意が向けられているとは言えない。つまりそれは、知力体力において他の子よりも優れているかとか、優等生的であるか悪ガキ的であるかとか、競争力があるかないかとか、これもまた人間的な欲の目から眺められて、本来の子ども存在、その身体的・心的在り方をほとんど無視するくらいのほど遠い見方でしか捉えられていないように思われる。
 こういう人間的な欲の関心から眺められ、社会が構成され組織されるところではどうしても様々な歪みが生じることになる。かといって欲にとらわれない見方がそう簡単にできるとも思われない。
 ここでは子どもの存在を、各自の主観で考えるのではなく、広く生命進化の歴史、人類の歴史や社会の歴史、その成長・発達の中に置き直し、また人間の生涯の成長・発達の過程に置き直して、あらためて子ども存在を眺めようとする意図の元に考察が試みられている。特にここでは子どものこころ、その心情や精神の働きがどのように形づくられ、あるいは言葉がどのように獲得されこころの形成と結びつくものであるかを考えようとしている。
 言い換えれば、これらのことを通して現在の社会の子どもの、目に見える一部分ばかりではなく、見えない部分も含めた全体像に迫ろうとする試みの1つと考えられている。
 そのために主として胎児期から幼児期、そして今日では児童期と区分されているところまでを対象に、身体器官からこころ及び言葉の形成とその成長・発達が振り返られる。
 もとよりごく普通の生活者で、時折趣味的に詩を書いてネットに公表しているにすぎないぼくが、こういう試みに挑むことははじめから無謀なことだと言ってよい。その意味でも言ってみるだけ、書いてみるだけの、自己満足のためにする考察の域を出ないと思われても当然だ。また実際に、一般人がする初歩的なミスや身勝手な概念理解、誤解、誤読、果ては無知、無教養など、様々な問題をさらけ出してしまうことになっているかもしれない。黙っていれば賢そうに見えるのに、・・・というやつだ。
 だがそんなことは端から承知している。
 ヨーロッパ近代を発祥とする「子どもという思想」、子どものとらえ方考え方は、明らかな時代的制約を持ち、ことにアジアの東の端の島国である日本にそのままで通用するということはできない。アジア的また日本的な特殊性を潜り抜けなければ、その子ども論は世界普遍という狭い範囲では通用しても、そのまま具体特殊論として持ち越すことは出来ない。つまり今日の日本社会の特殊事情の中においては、それだけでは不十分だということは誰にも理解できることだと思う。なぜなら、もはや先進的世界同時性の中に座を占めるようになった日本知識界の、その先端的知の専門家集団をもってしても子ども世界、教育世界に起きている現実的な出来事に何ら有効な対策が講じられずに、いたずらに足踏みする現実を目の当たりにしているからだ。
 主権在民、国民主権の主の一人として、そうした指導層連中を馬鹿な奴らだと一笑に付してみることも出来るが、そんな馬鹿な連中のために今も苦しむ子どもたちがいることを見過ごして済ませるわけにはいかない。ぼくはこう考える、そのひとことを言うためにも、たくさんの時間と労苦を要する。他の誰にも強制するわけにはいかないが、自分がそれをする分には自分を納得させればそれで済む。ここで自分に課したことは、ほとんどを先人の考えの元に言葉のつぎはぎ、切り貼りに終始しようとも、実感に即した、腹の底からの共鳴がなければそれを自分の考えに結びつけないことだ。また出来るだけ自分の考えの元に論を組み立てることだ。それでも自分の考えは主として今は亡き思想家、吉本隆明さんや、同じく故人の解剖学者であった三木成夫さんに強く影響されていて、どの部分が自分なりの考えなのかは自分では見分けがつかないほどに影響されてきた。あるいは全てなのかもしれない。意図的に自分の論のように見せかけるのでなければそれでもよい。そんなことよりも、さしあたって子どもたちのために自分は何が出来るかが問題なのだ。そのために何をどう考えてきたかは、自ずから以下の考察の文章の中に含まれていよう。それを読んでもらえればいいわけで、後は子どものことを考えるそれぞれの立場から、それぞれの立場に立ち戻ってやりきれるところをやりきっていけばいいだけなのだと思う。
 ここでの論は、ネット上の自分のホームページに、「子どもという思想」という題の元に日記風に、またエッセーふうに書き繋いだものを元に、これを公開の日付順に並べ替えて一冊の本のような体裁にしてある。さらに多少の訂正や加筆もなされている。
 とりあえずこんなところから、この後に展開する論に読み進んでもらえればと思う。
 
 ・発達区分への疑義
 発達区分ということで考えると、さしあたって乳児期と思春期(青年期)という言われ方をするあたりのことは、とても明快な区分の仕方という気がする。言うまでもなく乳児期は完全なる養育者(母親)に依存した授乳の時期で、その初期には乳児は自分で自由に身体を移動させることも言葉を話すこともできない。思春期の特徴はこれもまた明確で、心身の性的な成長が著しくその兆候がはっきりと身体や挙措振る舞いなどに現れる。動物的なところで言えば、いつでも生殖可能な状態になった時期を示すものだといえる。
 他の哺乳動物などと比較して考えるときに、この二つの乳児期と思春期という区分は共通するところで普遍的なものだと思う。一方は赤ちゃんの時期で、もう一方は大人になる、あるいはなった時期として我々に認識される。
 ふつうぼくらはたとえばペットとしての犬猫などをみる場合でも、そんなふうに赤ちゃんの時期や大人になった時期として区分して考えている。そして、一般的には人間の場合も動物の場合もこの二つの時期の中間にある場合を「子ども」と呼んでいる。
 ふつうの生活者的な、習俗的風俗的そして伝統的な発達区分のとらえ方というものは、そんな大ざっぱなところで捉えてすませている。動物の場合は特に、赤ちゃん、子ども、大人くらいでその全生涯を捉えている。
 発達心理学などではこの乳児期と思春期の間のところを細分化して、幼児期、それに続く時期を児童期と呼んで区分し、また思春期の後にも青年期、成人期とか壮年期とか、あるいは中年期や老年期という呼び方の時期を設けて論じている。だが生活者の実感としては、自分がいつから中年期となっていつから老年期に入ったかは自覚することは難しく、何となくそうなったのかなというところですましているように思える。これは他人をみる場合でも、その人を中年とみたらよいのか老年とみたらよいかの判断はなかなかつかないところで、つまりこれらの区分は何か曖昧だという思いが残る。
 ふつうの生活者の感覚では赤ん坊、子ども、青年から一般的な大人を経て年寄りという区分が妥当なところだと思う。
 動物の場合、赤ん坊、子ども、大人くらいの簡単な分け方で考えているわけだが、これにおじいちゃん、おばあちゃんという呼称を加えても、ある意味では人間の世俗的な区分の呼称と代わり映えしない。つまりぼくらの社会生活上はそんな区分の仕方ですんでいるところがある。それ以上の細かな区分というものは、学問的にと言うか、専門家が詳しく観察してその結果、より細分化して区分することができるということを示したものに他ならない。将来さらに細分化して考えた方がよいとなって、発達区分がいっそう細かくなる可能性がないではない。
 ホントはここで何を考えておきたかったのかと言えば、人間もその一部であるところの動物全般の発達の仕方と人間のそれとの違いについてである。
 ごくふつうの見方考え方からすれば、人間も他の動物も生まれ落ちてまず栄養を摂取して育っていくが、これには自己の身体の成長と同時に生殖を可能にする機能の成長とが一緒に進んでいくものだというように理解される。この点だけに焦点を当てれば、所詮人間も動物全般と同じに種族保存の縛りから抜けられないものに過ぎず、また確かにそうした一面を持つ生き物だと言うことができる。そうして考えると、人間は乳児期、幼児期、児童期、そして思春期と成長が進むとされるが、根源的あるいは本質的な見方からすれば要するに生殖ができる体作りが成長の主要な目的だろうということになる。身体生理的には人間といえどもそうした成長過程を否定できない。だとすれば、人間の社会はどうしてそういった自らの自然生物的な成長過程といったものを大事に保護してその方向での理想的な環境作りを考えようとはせずに、かえって性的な成長を遅延させたり抑圧するかのように学校教育制度を構築し、強化し、学習や技能や道徳や規律といったものをぎゅうぎゅうに子どもたちに課すことをしているのだろうか。
 人間および人間の社会だけが生物的な本能といえる性の成長と発現に対し「待った」をかけ、制限を加えるのはなぜなのだろうか。しかも、学校教育制度の成熟の度合いに付帯して不登校、保健室通い、いじめ、校内暴力、家庭内暴力、果ては自殺から殺人まで、個々のケースはばらばらではあるけれども児童期を中心として起こっているそのことは、ここに見る本能としての性の抑圧に関係ないのだろうか。
 動物と同じように考えられた、赤ん坊、子ども、大人、年寄りという大ざっぱな区分では人間と動物を分かつものはなく、一面では人間といえどもその成長、発達について動物と同列に論じられるところがあるに違いない。実際、おそらくは学校教育制度が幕を開ける前の長い歴史の中で、人の成長、発達はおよそその程度の大ざっぱな概念で眺められていたものであり、それで済んでいた。そしてそこまでの長い人間の歴史の中で、どこをどう探してみても今日行われているような知識や技能や道徳や規律を学習する時期に当たる、一切の片鱗や痕跡は見当たらない。わずかに一定の年齢に達したときに、同年齢の生活小集団が組織されたという風習を持つ地域があったということだけが知られている。また、江戸期には寺子屋というものが起こり、武士や町人の子弟が読み書きそろばんを習ったり、あるいは各地の藩においても武士の子弟を集めて修行の一環としての学問の手習い程度のことは行われた。これはしかし社会の成熟や、文明、文化の高度化に見合って近年徐々に築き上げられてきたもので、こういったところから学校制度成立までは時間の問題であったとはいえ、個人の発達史上の課題という側面とはまた違ったところからの要請によるものであった。
 ここまで拙いながらも個人的に考えたり調べたりしてきながら、どう考えてみても人間の個人史上に学習期間というものを置かなければ子どもは大人になりきれない、人間になりきれないものだとは思えない。この制度上の期間は単に共同体を治める国家が自らの存続に必須のものとして設計した制度であり、国民に税を課すことと同じように、あるいは現在の日本にはないが青年に兵役を課すように学習を課しているに過ぎないように思える。もちろんこれを全面的に悪いとする根拠は今日のこの時代には見当たらない。人々の多くは教育を必要と思い、教育の意義が高く評価されているところからも一定の存在意義を認めることはできよう。だが、たとえば兵役が課されなくても即社会や国家が消滅するわけではないことが実証された、戦後から今日までの約70年を振り返るときに、もしかすると教育や学習が個人及び社会にとって必須のものとする考えは、あるいは幻影に過ぎないのかもしれず、あえてこれを国家施策の制度設計から抜いてしまえばより進んだ自ら学ぶ教育社会の未来がそこに浮上してくるのかもしれぬ。それは兵役廃止と同じにやって見なければ分からないことだ。
 ぼくたちはここで人間の成長、発達を生物、そして動物一般の成長発達の次元において考えたときに、人間といえどもその本質とみられるところは性的な成長、発達に他ならないことを確認してきた。人間の現在の社会(日本の)は、児童期及びそれに準じた発達の段階に学習の時期を重ね、自然的な性の発達と成長を抑圧するかのように強烈に人工的な生存の時空を拵え、子どもたちをそこに取り込もうとしてきたといえば言える。これが通過儀礼としての割礼のように、人の生命力や内面に何の影響も与えないとは思えない。
 人間といえども生まれ落ちたときには意欲満々で、社会の一員として遠慮しながら生きなければならないなどとはつゆほども思わないはずだ。植物も動物も、直接に人間界に取り込まれずにすんでいるものは、己の本能のままに地上に跳梁しそして死んでいく。夢も希望も語らぬ代わりに、愚痴も悔恨も残さない。彼らは人間界という狭い時空間に閉じられていない。ぼくたちの社会は(国家も)国民に開かれていくべきだ。とりわけ子どもたちについて、そのあるがままの姿からその姿に抑圧や矯正を課すことではなく、その生命的に欲するところに沿って社会や国家が己を開いていくところこそが必要である。
 
 ・児童期のふるまいの奥に見えるもの
 前項では、自然生物的な成長を阻害してまで人間の子どもの時期を勉強漬けにする必要はないのではないかという考えを書いた。
 なぜそう考えるかといえば、この勉強漬けにされる小学校、中学校(あるいは高校まで)の時期にたくさんの問題が起きてきて、たとえば学校内暴力、家庭内暴力、いじめ、不登校等々、しかも現在に至るまで少しも改善されたとか問題が減少したというようにはなっていなくて、常態化しているからだ。そして、よくよく考えるとその原因の大きなもののひとつとして今日の学校教育制度のあり方があり、これが主たる原因だと考えるほかないからだ。
 ここではこのことに重なるかもしれないが、その辺のところをもう少し遠回りしながら丁寧に考えていきたいと思う。
 発達心理学者のエリクソンは、乳児期の特徴として「基本的信頼対不信」というものを挙げている。これは乳児が母親(あるいはその代理者)との関係において、母親の育て方がよければ特別な信頼を抱くものであり、反対に育て方が悪ければ信頼感が持てないということになって、これが乳児の以後の生の過程に対する基本的な態度になるということを述べたものだと思う。人間に対する基本的な信頼を持つか反対に不信を募らせるかを決定づけるという意味で乳児期は大事な時期だということだ。
 乳児が母親(以下代理者を含む)に100%の信頼を持つことをひとつの極として、対極には100%の不信を持つ場合も想定される。そして実際的にはその間に様々な割合や度合いで信頼感や不信感がそれぞれの子どもに形成される。
 考えてみれば、自分で移動することもできず、授乳から排泄の世話など生存に関わるすべてを母親に依存する乳児にとって、この時期母親に代表される養育者との関係はそのまま全世界との関係である。乳児の全世界はしばらくの間身近な母親との狭い時空にしか存在しない。乳児は四六時中乳房を感触し、また母親の乳房や顔が視野に広がり、愛撫や排泄を処理してくれるときの手先を触知する。ほぼ一年の間をその繰り返しの中で過ごすことになるのだが、この時期を「快」に過ごし養育者に全幅の信頼を持つことができたならば、このことは乳児に、全世界が「快」で基本的に「信頼」に足るものであるという最初の刻印を押すに違いない。
 乳児期にこのような体験を経ることは、以後の出来事に対して基本的には「快」と「信頼」をベースにおいて出会うことを意味する。
 反対に乳児の時に「不信感」を植え付けられたら、以後に出会うすべては「不信感」をベースとして人間や事象に対することになる。
 これは生涯にわたる宿命のようなものだと一応は考えることもできそうだ。だが、一応は、と言うだけのことだということは言うまでもない。
 児童期の子どもに接していると、この基本的な信頼感に溢れた子どもとそれが少し薄いなと感じられる子ども、また極端に不信のオーラに包まれた子どもというように違いが感じられることがある。信頼感に溢れた子どもはこちらを見、こちらの話を聞くときにきらきらしたまぶしさを感じるほどの目で真っ直ぐな視線を送ってよこす。そうでない子どもの視線ははじめから懐疑的であったり敵対的であったりというように、幾分拒絶的な色合いを示す。後者の子どもたちはクラスの中に必ず何人かがいて、他の子どもたちといがみ合ったり規律を守れなかったりして問題を引き起こすことが多い。どう言えばいいだろう、他者との交通、交流において、はじめから信頼関係が成り立っていないような様相を呈してしまっている。
 こういう子どもたちは生徒指導上問題のある子どもとして注意され、また指導されることが多い。それがまるっきり無駄だとは言えないまでも、そうした注意や指導を受け入れることのできる子どもというのは、もともと人に信頼感を持って接することのできる子どもの場合であって、不信のパーセンテージの大きい子どもの場合はかえって不信感を増幅させる結果になりがちである。
 小中の学校生活の中でいろいろな問題が日々生じているわけだが、それに対して先生たちは様々に手を尽くし手当を行っている。それで多くの問題は解消されて児童生徒の生活はスムーズに流れていく。まれにそれだけでは解決できない場合があり、そうなると本格的な解決はなされないままに、ただ児童生徒の生活や学校・学級の運営に支障が大きく出ないような手立てを講じながら、何となくまあまあという感じで日を送っていくということになっている。
 そういう事態を考えたときに、小中の生活場面でいろいろな問題が露呈し、露出してきたときにはその時点では解決不能である問題もあり、そういう問題はそこで解決しようとしてももう遅いんだということが考えられる。子どもの資質、性格に関わるときは特にそうなわけで、これはどんなにしても直らない。先生たちが手を尽くしても、また自分自身でもこれを直すことはできない。自分の資質、性格を超えて生きることを考えるようになるのはもう少し先のことだ。
 乳児期における母親(代理)との接触、その過程で、その時期としては乳児にとって全世界であるほかない母親に対して100%の信頼を寄せられるような育てられ方をしたら、その子どもは死ぬまでこの世界への信頼をベースに生きていくのだろうと考えられる。それが資質や性格同様、その子どもの「持ち物」となることは疑いないように思える。つまり、生きていく上で多少の困難が目の前に表れても、それを乗り越えていく素地としてそれはその子どもの価値のあるアイテムになり得る。
 これが反対であったらということは容易に想像がつく。不信、不安、怯え、コミュニケーションの不成立、愛情の不在、愛情の飢渇、等々を自分の「持ち物」として世界に相対していくことになる。これはきっと生きていく上でとても苦しいことだ。
 この、人間が生きていく上での基本的、そして根源的な「持ち物」とも言える特別な信頼感や不信感は母(代理)によってもたらされる。子どもは100%受動的で、全く責任がない。まずはそういうことが言えると思う。
 
胎乳児期の重要性
 子どものこころ、気性、性格というようなものをその根源に遡って考えていくと、結局は胎児期や乳児期に辿り着く。そして、当然のことながらこのこころや気性や性格に人間色を含ませて考えるならば、このこころや気性や性格の形成に最も初期にそして最も深く関与できるのは母親をおいて他にあり得ないと考えられる。
 解剖学者の三木成夫は『胎児の世界』(中公新書)において、人間の胎児が初期の段階で魚類から両生類、爬虫類、ほ乳類と、あたかも脊椎動物の進化の歴史をたどるように成長することを、受胎一ヶ月後の数日間の胎児の顔貌を克明に観察しながら実証的に示している。
 胎児の意識の芽生えは、その後、受胎8ヶ月頃となり、それまでに触覚や味覚、聴覚といった感覚も出そろい、この頃には新生児並みに人間らしさが表れるといわれている。胎児でも、笑ったり、不機嫌になったりと、感情的なものが表面に表れると、胎内での様子が観察されている。 
 精神科医のトマス・バーニーは、『胎児は見ている』(祥伝社)という著作の中で、繰り返し母親と胎児の間には内コミュニケーションとでもいうべき交信や交流が起こっていると伝え、様々な事象や事例を取り上げ詳しく分析して見せている。
 また発達心理学者のエリクソンも、胎乳児期に「基本的な信頼対不信」が初源の「こころ」に植え付けられて、気性や性格の根っこのところに居座るものだと述べている。
 ぼくの理解の仕方では、もしもこの時に「基本的な信頼」を獲得できれば生涯にわたって「信頼」を基本に世界に相対することが出来、「不信」を植え付けられれば「不信」をベースとして、その後の世界に相対する可能性を潜在させるものだということになる。
 ここまで見てきたところ(ホームページ上に記載した文章、及びその元になるいろいろな人たちの考えや知識など)を思い起こしながら想像するに、まずは受精後に胎芽が胎児に成長し、言うまでもなく並行して身体的な各器官の成長が行われるものだということがイメージとして浮かんでくる。それと同時に動物的な感覚の発達が段階的に見られ、その後に脳の形態的な発達とともに人間的な初期のこころの形成が始まると考えられる。
 胎児の動物的な反射はおそらく4、5ヶ月以前からあり、そうした身体生理的な母子の交信はぼくらの想像する以上に早くからあり得ると考えてよいだろう。ヘソの緒を介した栄養や酸素の供給に始まり、やがて子宮内で胎児が成長にともなって手足を動かすなど、母と子のつながりはそれぞれの変化を微妙に伝え、また感じ取っているに違いない。
 ここで思い出すと、先の解剖学者の三木成夫は、受胎後36日目過ぎの2日間くらいの間に胎児の相貌が魚類から両生類のおもかげに変化し、この時母親は例の「つわり」を体験することになるのだと述べている。三木は、古代の海から「上陸」することを敢行した祖先たちの「上陸」劇の凄まじさが、母親の「つわり」という形にその名残をとどめていると推察していた。これは身体生理的な母子相関のメカニズムの原型と言ってよく、たとえば鶏の卵について三木は4日目の弱り具合を同じく「上陸」の再現と考えているが、ただこれは卵生のために母体との関連はほとんどないに等しく、人間の母子との違いはかえって鮮明になる。人間の母子では、「つわり」を例にとれば、胎児の困難を母体が分担するとか、肩代わりするとかと考えてみることも出来るような気がする。あるいはそこまで言い切れないとしても、胎児の身体的な、おそらくそこでは脾臓や肺の形成過程に関連するところだろうが、ある重大な変化が母体に連動するその深い「きずな」を教えているように思える。
 このあたりのところを確認しておくためにトマス・バーニーの『胎児は見ている』から、少しこんなところを引用して示しておくことにする。
 
胎生六ヶ月を過ぎ、胎児が明確な自我を持ち、感覚を情緒に変えることができるようになって初めて、胎児の性格は母親のメッセージによって徐々に形づくられていくのである。
 胎児の識別能力が高まるにつれ、情緒的発達はさらに複雑になっていく。胎児は、いってみれば絶えずプログラムを作り直されているコンピュータみたいなものだ。最初は、ごく簡単な情緒を理解するための方程式しか解けないが、記憶と体験が深まるにつれ、胎児は、次第により識別力のある微妙な思考回路を発見するようになる。
 たとえば、胎生三ヶ月の時点で、胎児は「二面的な価値」や「冷淡さ」といった母親の複雑なメッセージにはほとんど影響されないものの、おそらく原始的なレベルで、不快という感覚を感じ取り、それが、その後に重要な影響を与えると考えてよい。
 生物学を学べばだれでもわかることだが、生物は単純から複雑へと進化していく。胎児の肉体も、九ヶ月に及ぶ胎児期に、原形質という見分けのつかないほどの小さな点≠ゥら複雑な脳、神経機構、そして体を持った高等な存在へと発達していく。それと同時に、胎児は精神的にも無感覚な存在から、非常に複雑で錯綜した感情と情緒とを記憶し、反応することができる存在へと成長していくのである。
 
 トマス・バーニーの著作からは、このほかにも様々に高度に発達した胎児の能力が言及され、本当に目から鱗の気分にさせられるがここではそれを鮮明にしていきたいわけではない。もう一つそのことに相まって、バーニーは胎児と母親との深いつながりについても言及しており、そのことに関連する記述もここで示しておきたい。ただしいずれも任意に目についた部分を引用する以外ではなく、記述されているところの典型や、象徴的な部分を取り上げるといった意図の元に示すものではないことを断っておく。
 
 ところで、母子のきずな≠ェ最終的に確立する時期とはいつだろう。それは母子の精神状態のコミュニケーションの密度が高まる時期、すなわち出生後で言えば数日間、特に出生直後の数日間ということになる。というのも、胎児期のきずな≠ヘ出生前の三ヶ月間、特に最後の二ヶ月間に完成されるからである。つまり、その時期までには胎児は肉体的にも精神的にも十分に成熟していて、複雑なメッセージを送ったり受け取ったりできるようになっているためである。
 
 ここでは母子間のきずな≠フ形成時期を、胎児の発達過程の側から見て準備が整った時期として言われているのだが、決してそれは自動的に成立するものではなく、きずな≠フ形成の成否の鍵を握るのが、その時期の母親の態度であることが次の記述で明らかにされている。
 
 母親の役割もまた、これと似ている。母親は調子をとり、合図を与え、胎児の反応を形づくっていく。しかし、これとて母親の要求が、自分にとって意味のあるものだと胎児が判断した場合に限られる。胎生三、四ヶ月の胎児ですら、母親の要求に従わないことがある。母親の態度が混乱し、矛盾に満ちていたり、配慮が足りなかったり、敵意に満ちていたりすれば、胎児は母親の態度を無視するか、さもなくば非常な混乱をきたしてしまう。
 要するに、胎内でのきずな≠ニは、自動的に出来上がるものではないのである。きずな≠求めるために必要なのは、胎児に対する母親の愛情と理解である。この二つがあれば、日々私たちが襲われがちな精神的な障害を補ってなお余りあると言える。
 母親が精神的に自分を閉ざしてしまえば、胎児は途方に暮れてしまう。だから、精神分裂病のような重大な精神病にかかると、通常、母子のきずな≠持つことは不可能になる。精神分裂病の母親から生まれた子どもに肉体的、精神的障害の発生する率は高いが、その理由の一つはここにあるわけである。
 さらに、健康で正常な女性が、悲劇に見舞われた場合でも、時として同様の影響が及ぼされる。つまり、こんな場合、精神分裂病と全く同じ理由から、きずな≠持つ力が著しく弱められたり阻害されたりするわけである。
 胎児は胎児で、きずな≠求めるべき感情を持った人間を欠くことになる。母親は母親で、自分の中に没入してしまい、生まれた子どもにまるで感情移入できなくなってしまう。
 
 ふつうに想像力を働かせることができるならば、ここでの二つの文章を何度か読み返すだけで、母と子の特別な関係の深さを理解できるものと思われる。またこの記述をベースに、たとえば妊娠時や出産時に夫との関係が最悪になったケースを想像したりして考えるときに(母親が胎児に愛情を注ぐのを妨げる可能性が高くなる)、そういうことがどのように母親の精神状態に影響し、さらにどのように胎児に影響するかについても、おそらく尋常ではない影響をもたらすに違いないことが理解されると思われる。
 ことの重大さや詳細な記述、凡例などは実際にバーニーの著作にあたってもらうとして、ここでは胎児期からの母子の深い関わりについて認識しておきたいことと、この時期及び乳児期における母と子の関わり次第で子どもの気質や性格の大本が決まってしまう、それほどに重要な時期であることを認識しておきたい。もう少し大げさに言ってしまえば、この時期に子どもの運命は決まってしまうとさえ言ってしまいたくなる。
 少し大ざっぱな言い方になるが、ここでのバーニーの所見に加味して発達心理学者のエリクソンの言う、「基本的な信頼対不信」の概念を付き合わせると、とりあえず生涯にわたって世界に相対する一個の人間の立ち位置がここに決定するように思われてくる。おそらく「信頼」も「不信」も100%ということはほぼあり得ないことに思われるので、その間で、60%の「信頼」と40%の「不信」を背負った人間。あるいは70%の「不信」と30%の「信頼」を基本として生きていく人間、というバラバラな存在のあり方が予測される。仮に90%の「不信」を抱えて生涯を生きていかなければならないとすれば、これはもう、「おまえは生きるな」と言われていることに等しい。暗い人間、人見知り、人間嫌い、等々はここに初源があるのだとぼくは思う。
 もちろん、バーニーや『心的現象論』の著者である思想家吉本隆明も言うように、こういう資質や性格の大本をバネに、思春期以降に「自分を超える」ことを課題として、意識的に修練を積んでよい仕事をしたり、大本の性格や資質を克服していくことは必ずしも不可能なこととは言えない。だから絶望的になる必要はないと言えば言える。ただそれは辛い生になるのではないかとだけは言えそうな気がする。
 ぼくがここで考えることは、子どものことを考えるときに、先ず初めに母親の妊娠と出産、そして生後一年ほどの間の母親の環境、及び母親自体の肉体的精神的状態がいかに大事かと言うことだ。母親がゆったりと落ち着いた気分でいられ、よい環境のもとに暮らすことができたら、胎乳児にたっぷりの愛情を注ぐことができ、それはそのまま胎乳児にとってこれ以上にない理想的な環境になる。母親がよい環境を得るためには、まずはたとえば夫との関係が良好である必要がある。また夫が妻との関係を良好に維持するためには夫の仕事及び職場での関係、親族や地域との関係等々いろいろな方面での関わりが関係してくる。こういうことを言ったらきりがないが、しかし、無関係ではないことは確かなことだ。このほかにも経済生活も含めた多くのこと、様々な条件が母親に影響し、その影響は子どもを決定する。子どもは環境を選べない。ほとんどが受け身的だ。ぼくには、良くても悪くても出来上がった「自分」に、「子ども自身は責任がない」のだと思える。「自分」に責任が生じるのは、世間並みの見方をすれば18歳以後とか成人後ということになる。
 ここで、少し寄り道になる気もするが、胎乳児にとっての全世界ということを考えておきたいと思う。
 身体の各器官が発達し、動物的な本能及び動物的な精神段階の確立を経て後、人間の胎児は意識の芽生えとともに精神(あるいはこころ)の人間的な形成の過程に入っていく。ここまで簡単に振り返ったところからだけでも容易に想像され得るように、人間のこころ(精神)の形成は胎児の段階から始まっている。
 胚芽から胎児までの身体的な成長は、遺伝子や細胞記憶、そして母親からの栄養の供給とからなっていると想像してみる。すると、胎児の意識の芽生えまではその過程の延長に行われると考えられるし、意識の、言ってみれば触手と言うべきものも、その初期には人間的な本能のようなものとして機能するものだと考えられる。
 それは母体の子宮の中で、最初に何をどのように感じていると言えるのだろうか。
 触覚や味覚や聴覚が発達して、すでにそれらの感覚器官を通して、胎児は感じるべきところを感じ取っている。羊水の温もりであったり、ヘソの緒を通して流れてくる血流の音、母親の心音、そのほかにも様々な振動や母親の声なども感じたり聞いたりしているのだろう。
 胎児に意識が芽生え、その時初めて「気づき」というようなものが胎児のこころの世界を訪れるとするならば、胎児の感覚器官に訪れる一切が、胎児のこころにとっての「全世界」を意味するのは間違いない。それは初めはわずかな種類の音や味わいや肌合いとかによって構成されたシンプルな「世界」に過ぎないかもしれない。だが、次第に胎児は感じるだけの存在から、感じたことにどんな意味があるのかを尋ねる探求者の様相を呈していくのだろう。快と不快の識別をするようになり、信号の送り主が何者なのかを探ろうとする。母子一体の環境に揺動する胎児にとって、それは未だ未明であり、未明の「全世界」からもたらされるものと感ずるほかない。にもかかわらず、様々な刺激を信号のように胎児は読み解こうとする。あるいは母体のわずかな変化、そこからもたらされる刺激や信号に、よりいっそう集中するようになるのかもしれない。
 この時、胎児が快を感じ、子宮内の居心地が満足するものであるなら、胎児は自らの生の世界に肯定的な気分を覚え、安心感を抱き、生の世界に信頼感を寄せるだろう。唯一それを直接的に与えることが可能なのは母体としての母親であり、母親の新たな生命への本能的と言える愛と慈しみとがそれを可能にする。そうした母親の気分や態度といったものは、母から子へと流れる一切を、栄養などとともに子を快へと導くようなメカニズムを生みだし、そのように効果的に胎児に注ぎ込むようになるのだろうと考えられる。
 先に挙げた識者たちの著作によれば、出生後も母親あるいは母親代理との関係は乳児にとってしばらくは「全世界」であり続け、同様にそこから愛情が注ぎ込む時、安心やきずなや信頼はいっそう確固としたものとして乳児の無意識の核にしまい込まれ、生涯にわたり、いざというときにこころのつっかえ棒として機能を発揮するものだとされている。つまり、以後に困難な出来事にあたったとしても、人間としての正常な範囲を大きく逸脱するようなことにはならないのだと考えられている。
 これらのことについても詳しくはそれぞれの著作にあたって理解してもらえばいいことで、ここではまた別な観点に踏み込んで考えていこうと思う。
 とりあえずここで思いつくことは、胎乳児期における外部、外界の識別はどうなっているだろうかということについてだ。
 先に言ったように、胎児及び乳児の初期において、母親(母親代理)と自分との区別がつかないということがこの時期の特徴といえば言える。胎乳児期の心的な世界は未分化で、未明の中に混沌としている。そうして生後少しして、母親(母親代理)が触れ合いの範囲にいたりいなかったりを繰り返していく中で、徐々に母親が自分とは別物であることに気づいていくのであろう。母親の存在に気づき、そのことによって自分というものの存在に気づいていく。そういうことがはっきりと意識に捉えられるようになってくる。そうすると母親と自分の違いに気づき、そのことはやがて母親でも自分でもないもう一人の他者(父親的存在)を意識できるように広がっていき、さらにそうした人物の記憶とともに、それ以外の人物への気づきにも繋がって識別の範囲は拡大していく。
 ここで吉本隆明の幻想概念を借りれば、最初に乳児に訪れるのは母と子の物語であり、それは初源的な「対幻想」なのだと言ってよいと思う。一対一の特別な関係から生じる感情的なもの、観念的なものの総称と言えるものだ。初めに母子一体となった生活があり、やがて他者としての母を意識するようになったときに、初めて自己が独立した存在であることに気づき、少しずつ自己、すなわちこんどは「個人幻想」の位相を心的領域の中に持つようになるのだと思える。その「個人幻想」の分化や意識化、表面化の兆候として、三木成夫が『内臓とこころ』の中で述べていた、「呼称音を伴う指さし」や「立ち上がり」といった満一歳頃の出来事を思い浮かべるのだが、素人に過ぎないぼくにしてみれば、その辺はまだ定かではなく時期的なずれはあるかもしれない。
 ついでにここで個体の発生やその成長、発達が、系統発生とその成長、発達を踏まえるとする考えや、人類史に個人史をなぞらえる、あるいはその逆を考える考え方に立てば、乳児の心的な領域や段階は人類の言語獲得以前の心的領域や段階になぞらえることが可能になる。するとそこでも(人類史の未明といっていい原始的段階)、未明のうちから初めに立ち上がってくるのは初源の「対幻想」ではなかったのか、とぼくには予測される。
 吉本学の優れた分析者の一人でもある宇田亮一は、著作の中で初期(胎乳児の頃)のこころは「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」が未分化で、それが3つに分離し、分化していくのは満1歳前後と推測している。だが、いまのところぼく自身は母親との一対一関係が突出して先行するのではないかという気がしている。そうなると、人類史においても一等最初に分化の兆候を見せるのは「対幻想」という領域、あるいは位相というようなもので、以下、「個人幻想」「共同幻想」と順次目覚めて行くのではなかったかと考える。これはしかし、ここでは深入りする考察の対象にはなっていない。
 
児童期と子ども
 前項の胎乳児期について記憶しておきたいことを、トマス・バーニーの著作から取り出すと以下のようなことになる。
 
 子宮とは、また胎児の期待を一身に集めている場所であるとも言える。そこが温かく、慈愛に溢れていれば、胎児は、自分が生まれ出る外部の世界も温かくて慈愛に満ちているものと期待する。これがもととなって、信頼、自信、外向性と言った性格の素因が形づくられる。だから子宮と同じように、外部の世界はすぐに赤ちゃんのものになってしまう。
 これは逆に、周囲の目が敵意に満ちていれば、胎児は自分が新しい世界からも快く歓迎されていないのだと感じ取る。こうして、猜疑心、不信、内向性といった性格の素因が出来上がっていく。さらに友だち付き合いが下手で、我の強い子どもとなる。これでは、胎内環境に恵まれた子どもに比べれば、生きていく上で不利なのは当然だろう。
 
 これは胎児期の母親との関係、ことに心的な成長過程での影響の大きさについて語っているもので、基本的には乳児期にまで延長して考えても同じことが言えると思う。
 要するにここにはエリクソンの言う「基本的信頼対不信」と同じことが語られているのだが、このことを頭に入れて児童期の子どもたちに接し、観察的に眺めていると、児童期がこの形成された性格の素因の最初の社会的な表れ(表出)の時期であるとともに、この性格の大本が胎乳児期に形成され、すでに覆すことなどできないものであることも納得されてくる。
 児童期、ここではこれを小学生の子どもということで考えてみたいのだが、どの学年においても数人程度は、なかなか先生の言うことを素直に聞いてくれない子どもはいるものである。そういう子どもは、引用した文章にあるような我の強い子どもであったり、友だち付き合いでも自分の主張ばかりを押し通そうとする傾向にあったり、あるいはまたそもそもが自分以外のものに対し、はじめから猜疑心、不信感を持って対しているような、何かそうした根強い性向を有しているといった印象が持たれる。
 もっと言えば、初めからこちらの主張を受け入れる気がない、どんな言い方をしても言葉が相手の心に届かない、響かない、こちらへの信頼がない、そういうもどかしさを感じさせる子どもはいるものである。優しく言って聞かせても通じないときは厳しく叱責することもあるのだが、たとえ叱責しても表向きにその時だけは分かったふりをするものの、すぐにケロリと忘れて、結局はこちらの言葉を胸に納めようとはしない性向が見て取れる。こういう子どもは今も変わらずにいる。
 こんな子どもを前にすると、ふつうはどんな先生も、「何だ、こいつ変なやつだ」と思ったり、「性格が悪いや」とか、「ダメなやつ」と見放してしまうとか、要するにその子どもの全体を否定的に感じてしまったり、見過ごすことのできない人格だとして、何とかして矯正しなければならないと教育的に考えてしまうものだ。
 けれども、これがまた「三つ子の魂百まで」の諺どおり、あの手この手を使っても、そういう子どもの性格的なところに入り込んだ部分というものは容易に変えられるものではない。そうなると先生たちの一般的な対処は大きく三つに分かれるように思われる。一つは有無を言わさず子どものむき出しの性格的な発現を抑圧していくことである。押さえ込むことである。小学生段階ではこれですむこともある。もう一つはやや傍観者的に、見て見ぬふりをし続けることである。三つ目に、教育的でまじめな先生は、自分の無力さを感じながらもどうしたら変えることができるのかと悩み続ける。だいたいこんな三つくらいのパターンで対処することになっていると思う。
 結論から言えば、性格的な部分を含む子どもの言動は変えることはできない。あるいは、変わったように見えてもほんの一時的なことだ。本質的には変えられない。そして、できないことは、ほんとはする必要もないのだ。このことははっきりしておいたほうがよい。
 これまで見てきたように、性格的(心的)なものの根っこの部分は、胎乳児期の母親との関係から大本は決まってくると考えてよい。児童期になってこれを変えようとしてもほとんど不可能なのだ。エリクソンもバーニーも、胎乳児期の身体的及び心的な体験が、形成される心の一番根っこの核の部分となってしまうために、これがいつも意識の表面層の背景として存在するとともに、何か危機的な状況を迎えたときには背景から表面に突出して、児童の意識や行動を支配してしまうと考えている。少なくともぼくの読み解きではそんなふうに理解できるものであった。
 このことは、自分の性格というものを直視して考えてみれば容易に分かることだ。ぼくも、先生たちも、世の大人たちは全部同じだ。小さいときの性格は、基本、いくつになってもそんなに大きく変わることはない。残念ながら、そう言うほかはない。ぼくなどは長い間自分の性格的なものをやっかいな荷物のように思いなしてきた。徳川家康が、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という言葉を残したと言われているが、後に続く文を切り離して考えると、自分には、その重荷が性格のことのように感じられるときがあった。たぶんだれでも一、二度は自分の性格に人知れず思い悩んだ経験はあるに違いない。ぼくらがあったということは今時の子どもたちにもあるに違いない。そうしてどうすることもできずに人知れず悩んでいるかもしれない。そういうことはあり得る。そんな時に外から注意、叱責されても、余計に収縮して、意固地にその性格が堅固に、鋭利に、なっていくだけのように思える。
 ここで、一気に言い切ってしまえば、胎乳児期に、生の世界が不快なもので信頼のできないものであることを心の核に植え付けられた人間は、もう一度胎乳児期をやり直すことからしか性格を変えることはできない。もちろんそんなことはできない相談だが、人間はただ一度だけ、擬似的にこの胎乳児期をやり直し、全世界への信頼を回復するチャンスを見いだすことができる。それは児童期なのだが、この時期がなぜそうなのかは明白で、幼児期までの家族的世界から初めて押しつぶされそうな現実的、社会的(共同体)世界にぶつかり、個人的な世界、対的(ペア)な世界、そして集団の世界という、いわば人間関係としての三つの世界が出そろい、そこで心的な「全世界」が実体的に児童の前に立ち現れることになるからだ。それは胎乳児期の未分化で未明の「全世界」が、児童期になってすべてが可視化されて、はっきりと了解できる形で児童を取り囲む、言ってみれば「全世界」の別バージョンが出現したことを意味する。児童は現実的な別バージョンの「全世界」のど真ん中にたたずみ、この実体的な「全世界」からも以前胎乳児期に一度経験したことと同じように、自分が無視されたり、嫌悪されたり拒絶されるのであろうかと懸命に探りを入れ、神経鋭く問い続ける。児童は何かあれば過去に記憶したそれをすぐに結びつける。この時、信頼を植え付けられた子どもは逆に、常に自分は周囲から見守られ、愛され、受け入れられているという自信から出発できる。仮に一時的に自信が揺らぐ出来事に遭遇しても、だいたいは大過なく折り合いをつけていけるものである。
 もちろんぼくがここで言いたいことはただ一つのことだ。
 先生が、大人たちが、もてあましてしまう子どもたちというものは、実は胎乳児期にすでに傷を負った子どもたちなのであって、先生や大人にもてあまされる言動を通じて「助けてほしい」と訴えかけている。たとえ少しもその言動にしおらしさの片鱗が見えないとしても、だ。
 では、仮にここまで述べてきたようなことだとして、我々はいったいどうすればいいのか。何ができるのか。ここではとりあえず原則的なことだけを述べるとすれば、それはいったん児童を子宮内に置き直すことであり、具体的には学校空間、教室空間を子宮内空間と見なし、児童の心的な核に刻印された「不快」とか「不信」とかを「快」と「信頼」とに置き換える努力をしなければならないということだ。もちろんこれに家族の協力、とりわけ母親の協力は必須となるだろう。子どもも母親も、胎乳児期に遡って、一緒の振り返りをすることが問題の解決に役立つことは間違いない。さしあたって、今のぼくにはこれ以上のことを言うことができない。理論的というか、理屈っぽいことでいえばこうなるし、こういうふうにしていくことがよいということを述べてきたが、こんなことが可能かどうかはまた別の問題だ。こういうことができるためには、学校側に児童心理に詳しいカウンセラーがいることが必要だし、先生たちには並外れて愛情豊かな資質が必要であり、他のすべての日常業務の放棄を認めるような学校組織環境を持たなければとても取り組めないことかもしれない。だから、あくまでも理屈を言えば、ということになりそうである。
 理想をいったん脇に置いて、体験的なところから反抗的な子ども、先生や友達の言うことを聞かない子どもへの対応をどうするかと言えば、これはとても単純で簡単なことだ。
 先ず、誰であろうと担任になったものは学級の運営に責任を持つべきだ。そこから言えばおよそ担任となって一週間のうちには学級を掌握する必要がある。これはその過程で無言の力業を必要とするかもしれないし、その時は力業を発揮しなければならない。分かりやすく言えば、短い期間で猿山のボスざるになっていなければならない。子どもたちはとても鋭敏で、ボスに資格があるかどうかは一遍に察知してしまう。言い方は教育的ではないかもしれないが、弱みをけして見せないこと、向かってくるものをこそ早い段階でぶっつぶすこと、そして学級内での先生と児童との序列をはっきり示しておくことが必要だと思える。もしもこういうことが非教育的で、やりたくないと言うことであれば、早期に担任から外れればいいし、学校なんか辞めてしまえばいいのだと思う。これを無理してごまかしごまかしやって行くと、事態は混乱し、複雑になっていくだけだと思える。それは子どもたちにもよくない。体験的に言えばそれだけのことだと言えるのだが、物わかりが良さそうな教育者はそういうやり方は原始的で野蛮なものだと批判するかもしれない。だがそういう連中がやることは人権や人格の詐欺やペテンの類いで、ぼくに言わせれば口で丸め込む陰険なやり方を心得ているというだけだ。そういう教育上手の人格を、子どもたちはけしてまねるべきではない。担任の先生は掌握の義務と一緒に権限も職務的に有しているのだし、そこから学級全体の円滑な運営と親和を築く責任があるわけだから、やむを得ないときはそうやってでも学級を引っ張っていかなければならない。ただし、当然のことながら、言うことを聞かない子どもを強引に学級全体に引き込んで調和した態度、行動を強いるのだから、どう言えばいいだろうか、その子どもに対するボスな責任を持つという覚悟は必要である。精一杯面倒を見て世話をするという覚悟である。これはおそらく実際に担任を経験したものにしか分からないことだが、自分に能力があろうがなかろうが、学力から生活習慣の一切に渡り、受け持つ子どものすべての責任を負う、被る、そういう覚悟を暗黙のうちに胸に納めているものだ。そうでなければ、個々の児童に強い態度で臨むこともできなければ強く指導することもできない。そうでないとボスざるはボスざると認められないものだ。先生という職業、これは怖い職業なのだ。
 さて、ここで少し話の向きを変える。児童期の子どもにとって学校とか教育とかは何なのかというところを考えてみる。これは今の不適応の児童への対応とは関わりのないところで、児童一般との関係ということで学校や教育というものを考えてみるということだ。
 胎児期、乳児期、幼児期をかけて形成されてきた心、性格、潜在する性等々は、児童期において初めて学校に通うという形での現実社会、現実世界と衝突する機会を得る。ほんとは奔放に、すべてをむき出しに顕示してみたいこの時期に、外部からは知識、技術、道徳的規範などがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、子ども個人の恣意に使える時間はあるかなしかのところまで追い詰められる。子どもの将来のためという名目で行われる教育、学習が、子どもたちの願うところ欲するところとは違って、逆に遊びや形成されてきた自己の発現というものを抑圧する場面に日々直面することになる。
 この時期、つまり現実世界との接触の時期、本当に大事なことは、どの児童にも、この世界は生きるに値するという実感を持たせることだと思える。それには児童期の今という時間において、要らぬ過剰な抑圧や、将来のための犠牲を子どもたちに強いないことだ。別の言い方をすれば、子どもたちの掛け値なく、そして本能的に欲する友達との遊びを心ゆくまで、満足するまで与えることだと思える。少なくともそれで、不満を貯め込んでいつか予期せぬところでそれが爆発して、取り返しのつかない悲惨な事件を招くといった危険は解消されるはずだ。
 ここまで繰り返し見てきたように、発達心理学はこの期に児童期という段階をはめ込んで、これがいかにも普遍的な発達段階の一時期であるかのように見なしている。だが、これは順序が逆で、近代になって学校制度が確立してから、制度をなぞるようにして児童期という段階は設けられたものだ。それ以前は児童期という見方はなかったし、子どもとは何かという考え方すらが歴史的になかったことは、アリエスの『子どもの誕生』(みすず書房)などから明白だ。
 近世までの、現在の児童期にあたる子どもたちは、社会から格別の配慮や関心を持たれなかった。ただいつも大人たちの傍らにいて仕草や行動をまねたりする、愛すべき存在という以上のものではなかった。これはイメージ的に分かりやすくすると、要するに今日でも幼児期に見られるように、家族的世界で、ある種制限付きながらも自由な振る舞いが許されているような存在の仕方を、一歩地域社会に歩を進めて生活する子ども世界の在り方として延長して考えればよい。それこそが、近世までの子どもの自然な成長・発達の姿である。これは歴史の進展とともに、多少は子どもの姿に変化をもたらしてきたには違いないが、しかし、数万年、数千年の尺で考えてもその成長・発達の姿は原型的なところからそれほど隔たっておらず、その間、少なくとも数万年、数千年は自然な自立への成長・発達の過程を緩やかに歩むことができた。これが大きな転換期を迎えたのは近代になって学校制度が設けられ、子どもに対する配慮や関心が持たれるようになってからのことだ。それまでの緩やかな成長と発達は子どものためという名目で、将来に備えるという視点が加味されて生活の主な部分は教育的な管理の下におかれるようになった。子どもは好奇心の塊だから、特別のことがなければどんなことにも意欲満々で臨むものだ。学校制度が敷かれた初期には、同い年の子どもたちと一緒に遊び、学ぶことは大きな刺激であったに違いない。また初期には今よりも先生や親たちの干渉もきわめて小さなものであったに違いない。
 しかし、今日では社会の文明化が進み、社会生活、経済生活も高度化し、そうした外部への適応も複雑にまた高度になってきているために、子どもの世界は教育課程内にますます押し込められ、縮こめられ、規則や学習漬けを強いられてきているように見える。鉄は熱いうちに打ての諺どおり、厳しくしつけられ、鍛えられ、知識や技能の習得が課せられる。
 まだ、明確に表現できるところではないが、近代を迎え、世界的にも国家というものが強大化し、社会に調和的に存在した個々の家族が国家に吸収されていき、全体の中でも家族の位相というものが縮小化される過程の中にあるのではないかという気がする。この時、子どもは少しずつ家族に所属するところのものから、そうでないところに所属するもののように、わずかずつ引きはがされてきているもののように見えてくる。それと同時に、家族の形態は少しずつ弱体化と縮退と解体の過程、そのサイクルに突入しているように見える。かつて日本の親たちは何よりも家族を大事にしてきた。だがそれは今揺らいでいる。社会の学校化に伴い、家族は子ども支配の権限を放棄する。学校に委託する。学校で学習や技能や規律を教え込まれることを傍で指をくわえて見ている存在に転落する。あるいは見て見ぬふりをしたり、端から見ようとしなかったりする。子どものよりよい成長・発達を標榜する学校教育は、雪だるま式に自己の教育の責任範囲を広げざるを得なくなる。学習指導と規律を身につけさせることに躍起となる。学習内容を増やし、規律の厳格化を強めていくことになる。
 また教育の問題が表面化し、社会問題に広がって後、学校も社会もどこか勘違いをしてひたすら問題の抑止と抑圧に努めてきた。児童や家庭にアンケートを採り、地域住民をボランティアやサポートに駆り立て、表向きは子どもたちの学校生活での快適化や見守りの体制を整えている。またそこには学習環境をよくして、落ちこぼれを防ぐ狙いなども見えている。けれども、おそらくそういう狙いや手立て自体が所詮「賢さ」を売りにする大人たちの考えに過ぎないのであって、子どもたちの「声なき声」はついに一片たりとも考慮されていないことは明らかだ。
 小学生の本音の声ははっきりしていて、ただ一つのことしか言ってはいない。『勉強はいやだ』というただそれだけだ。他には何の要求もないといっていい。
 子どもたちからすれば、無理難題を言っているわけではない。たったそれだけのことがこの世界ではどうして手に入れることができないのか。こうなると、この世界はたったそれだけのことも自分たちの意のままにならない、存外つまらない世界だと思い込むことに時間はかからない。毎日の授業時間における無気力は、こう考えてくると納得できるような気がする。
 個々の先生たちは子どものために一生懸命考えている。授業のやり方を工夫し、子どもの学校生活が楽しいものになるようにあの手この手を使う。褒める。子どもが何でも話すような距離をとって、親しい存在になろうとする。そうした努力を子どもたちも感知するが故に、だいたいの子どもたちは担任の言うことを聞き、よい子になろうと努力する。けれどもまただいたいの子どもたちが、勉強はするけれども、あるいは勉強をすればするほど、心の相貌は無気力を呈していくように見える。
 少し複雑な言い回しになるが、心の表面層では勉強を追うことを求め、深層のところでは逆に勉強を拒絶したがって見える。そして個人の中でのあまり自覚的とは言えない、両極への分化、分離が、子どもたちの心性を疲弊させて行っているとぼくは思う。
 これを語っているのは今だが、今だけを考えて語ろうとしているわけではない。つまり射程範囲はかなりの時間を想定して、言い換えれば先を見越して言っているつもりなのだ。先走って言えば、この先子どもの本能が壊れて、取り返しのつかない事態を迎える時代が到来する前に、これを何とか食い止めたいと考えているのが本音だ。
 はっきりと言って、こういった今時の子どもたちの様相を受けて、「よく分かり、そして面白く取り組める授業を」、と考える大人たちの発想は一番よくない。
 学校教育の根幹は、子どもたちの市民的育成という方向性を持っている。これは将来の市民としてのあるべき姿を一つの理想のように掲げ、それを到達すべき目標と見なす。そのために、子ども存在はその時点でたくさんの獲得すべきことを持つ、いわゆる未獲得の欠如した存在と見なされる。言葉を換えて言えば、子どもはあくまでも「未完成の大人」という視点で見られることになり(昔は単に「小さな大人」だった)、常に欠如や不足を補わなければならない存在として取り扱われることになる。けれども、今を生きる彼らにとって、そういう取り扱いは本当に妥当なものであり、妥当だと言うべきものだろうか。ぼくは少し違っているような気がする。子どもは大人や市民になるためだけに今を生きているわけではないように思う。大人や子どもということには関わりなく、生きとし生けるものは、その時その時を全力で十全に生きることの積み重ねこそが大切なのであって、子どもは子ども時代の本分に沿って生きるのが、一番自然な生き方なのではないだろうかと思わずにはおれない。つまり、それは遊ぶことではないのか、と思うのだ。
 以前から何度も述べてきているように、実際の教育現場には善と愛との包囲網がしかれ、その中で学習と規律が以前にも増して徹底されるようになってきている。社会的な視線もまたそういう方向性に同意しているように思える。
 だが、これもまた幾度も述べてきたことだが、現状に行われている学習の大半は、小学生段階においてもほぼ実生活で使われそうにもない、役に立ちそうにない事柄も少なくない。どうしてそういうものに、人生において二度とない貴重な子ども期の時間(遊び)を割く必要があるのか、ぼくなどの理解に苦しむところだ。そしておそらくそれは、現状の学校教育の中心課題が実質的には受験を見据えた、言い換えれば余計な学力を雪だるま式に積み重ねるがために、内容が膨らまざるを得なかったからだ。
 学力向上というそのこと自体が、大人たちの「子どものため」という一方的な押しつけを正当化するものに過ぎない。実際には受験競争を中心課題とし、受験に合格するための学習内容から逆に学校での教育内容が決められているようなものだ。国際間における学力レベルの変化に敏感に反応することも、考えてみればそうしたことと軌を一にすると言えよう。
 子どもたちを自殺者に駆り立て、あるいは殺人者に駆り立て、あらゆる異常な振る舞い、異常な精神に駆り立てているものの実体は、今、それとは明確に指摘できないとしても、現在子どもたちを取り囲んでいる一切のものの中でまさに今日的なものをふるいにかけて取り出せば、そこに諸原因を求めて悪いはずがない。そしてそれらのものの中で最も子どものこころに負荷をかけているものを探し出して、それの改善や改変を考えなければ子どもたちを捉える現代の病理はますます深く広く潜行していくもののように思われる。
 
言葉以前のこころ
 ・哲学的な考察から生物学的考察まで
 ここまでに、胎乳児期にこころの核的な部分や性格の大本といったものが形成され、児童期はそうしたものが豊かに拡充される時期であるとともに、社会的な最初の難関にさしかかる時期でもあるという見方をしてきた。そこで、胎乳児期の母親との関わりが最も大事で、この時に理想的な関わり方をしてもらった子どもはもう何も言うことがないよ、後々まで、たとえば精神的な病気になったり、考えられないような犯罪を犯したりということはないんだというようにも考えてきた。
 そこまで言えば、ほんとはもうぼくなどが言うべきことは何もないと言っていいくらいのものだ。現在の児童期に端を発して噴出してくる様々な子どもの問題の本質はそこにあって、後は周縁の問題と絡み合って、それをどう解決していくかは別の問題になる。
 ただし、児童期を主とした子どもの今日的な問題とは別に、こころそのもののとらえ方をもう少しはっきりしておきたいという個人的な思いは抱いている。
 ここからは少しそちらの面にシフトを移して考えていきたいと思っている。そこからまた児童期の問題、子どもの問題に帰って何か付け足して考えておくべきことが見つかれば言及していくつもりだ。
 さて、こころの問題を考えるときに、これをはっきりさせるためには原型的なところに遡ることが一つの有効な方法である。人間のこころということでは、これまでに見てきたように胎乳児まで遡ることでシンプル且つ原型的なそれに突き当たる。しかし、それで十分かというと、そこにはこころ以前のこころというべき状態が見え隠れしていて、その辺はもう少し詰めて考えておくべき余地が残されているように思われる。
 胎児まで遡ったところで、こころ以前のこころ、言い換えると、動物のこころとか植物のこころといった領域が視野に表れて見えてくる。動物や植物にこころがあるのかどうか。これは意見の分かれるところで、たとえば解剖学者の三木成夫さんはその著作の中ではっきりと動物や植物にもこころはあると述べている。ただし、それは遺伝子や本能レベルのことで、人間が一般的に口にするこころとは別である。だが、人間のこころとは全く同じではないとしても、こころ以前のこころ、こころの元基としては生命存在として共通するところだとも見られる。
 このあたりのところを考察したものとして、次のような文章が思い浮かぶ。
 
 まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打ち消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんがえられている
 このいずれの意味でも生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生動物では、この心的領域は、心的というよりも、単に外界への触知にともなう無定型な反射運動にすぎないが、人間では心的領域といいうる不可触のあるひろがりをもった領域を形成している。
(吉本隆明『心的現象論序説』)
 
 耳慣れない言葉で難しく感じられるかもしれないが、言っていることはそんなに難しいことではない。
 まず、ここで吉本が言っていることは、無機的自然に対して生命体は異和として存在していると考えられること。これを原生的疎外と呼べば、生命あるものはみな原生的疎外の領域を持っている、あるいは持たされて存在していると考えられること。そういうことが言われている。それには心的領域、つまり、まあ、こころに関する領域というものも含まれているというようなことである。
 もっと単純化して簡単な言い方をすれば、生命あるものはみなこころと呼べるようなものを持って存在しているんだ、という理解の仕方をしていいと思う。ただし、文章の後半で言われているように、原生動物ではこころと言うよりも反射運動にすぎないし、それが人間では、こころに関する領域だと考えていいような、ひろがりのある領域が形成されているのだと述べられている。つまり、原生的疎外と呼ぶ心的な領域ということでは共通しているが、原生動物から人間までの間では、単なる反射運動からもう少し複雑な心的な動きのところまで、かなり幅があるのだと考えられているように思われる。
 吉本はもう一つ純粋疎外という概念を生みだすが、これは人間のみに特有の、ある意味で高次の心的な領域というように考えられている。
 
原生的疎外を心的現象が可能性を持ちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。
(吉本隆明 同右)
 
 我々が「こころ」というときに、「こころ」の本体がどこかにあってそれを指しているわけではない。「こころ」の現象があるだけである。「心的現象」とはそのことで、吉本はここで、原生的疎外を「心的現象が可能性を持ちうる心的領域」だとしている。これはとても微妙な言い方で、可能性はあるがあくまでも可能性にとどまっていて実際には心的現象が起こりえないとも読めるし、いや心的な現象が起こりうることを否定しはしないんだというようにも読める。一方、純粋疎外の心的な領域については、「心的現象がそれ自体として存在するかのような領域」として、はっきりと人間的な「こころ」の有り様を指し示している。
 このような指摘を読み、これを自分なりに考えたり解釈してみたりしていると、まず普通に考えられる人間のこころというのは、純粋疎外として他の生き物一般とは区別できるものだということになる。ここではまた、他の生き物一般の心的領域は、原生的疎外として人間的な純粋疎外と区別される。ただし、人間には原生的疎外というべき心的領域が無いのかというとそうではなくて、人間には、原生的疎外と言うべき心的領域も純粋疎外の領域も、ともに存在するということが言えるということだ。
 こう考えてきた時に、原生動物を含む(三木成夫にならって植物まで含みたいのだが)他の生き物一般のこころと、人間のこころとの違いがはっきりする。特に前者は、大きなくくりとしては、本能的な反射のレベルとしてのこころ、というとらえ方が可能である。それだけではない。人間の心的領域についていえば、原生的疎外からなるものと、純粋疎外からなる心的領域とがあり、我々はここで発生の初期にあたる胎児期及び乳児期において、原生的疎外の心的領域が先行するのではないかと想像することが可能になる。
 では、人間において純粋疎外領域での心的形成は、いつどのように行われると考えられるのであろうか。
 その前に、「吉本隆明『心的現象論』の読み方」の著者宇田亮一の、関連する解説の一部を紹介しておきたい。
 
生き物一般の心(「原生的疎外」)≠ヘ外界を空間化し時間化することで成立する世界であるが、ヒトの心(「純粋疎外」)≠ヘ生き物一般の心(「原生的疎外」)≠サのものを空間化し時間化することで成立する世界である。
 
 生き物一般と人間との相違を述べた箇所だが、「ヒトの心(「純粋疎外」)=vが「生き物一般の心(「原生的疎外」)≠サのものを空間化し時間化する」ためには、当然のことながら「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vが内在していなければならない。自己の内部において、「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vすなわち「本能や反射」をさらに対象化して捉えることによって、「ヒトの心(「純粋疎外」)=vが成立する。これは宇田亮一が、難解な吉本の概念を分かりやすくするために単純化して述べたものだが、注意すべきは、特に我々成人以後の人間では、必ずしも常に「生き物一般の心(「原生的疎外」)=vを経由する、つまり対象化が行われているものではないことは言うまでもない。さらに、直接に「ヒトの心(「純粋疎外」)=v(自分の心)を対象として空間化し時間化することや、その上にそれを空間化し時間化する無限のループが行われるようになっている。いずれにせよ、原生的動物からほ乳類までの動物段階では、本能や反射といった一次的と言っていい心的領域が成立していて、ヒトの場合はこれをさらに対象化し、この対象化したものをさらに対象化していくという形で、心の有り様というものが成り立っていると考えることができる。
 このように考えてくると、実は、ヒトの胎乳児期は今述べたような動物(植物も含みたい)全般のこころ、吉本の概念でいえば原生的疎外の領域に起きる心的現象(心的現象として取り出すことが可能だとすれば)の段階にあると考えていいように思われる。ただし、意識の芽生えがヒトでは胎児期から始まるとされており、純粋疎外の心的現象が胎児期、乳児期、あるいは幼児期のいずれの時期に発生するのかまではまだ分からない。
 吉本隆明の「こころ」の本質、発生に関わる基本的な考察についてはここまでにして、少し異なるところからの「こころ」のとらえ方を見ておきたいと思う。
 これはインターネットで偶然に目にとまった文章で、気になって保存していたものだ。サイト及び作成者についてはメモをとらなかったので出処不明だが、そのことは勘弁していただきたい。「意識」「心」「精神」の共通点と相違点について述べられたものだ。少し長いけれども、切り取ったそのままを転載する。
 
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。
 
この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一切の関係がありません。大脳皮質の意識に上る対象がなければそれは発生しませんし、大脳皮質を介さない情報処理や、自覚の成されない結果選択は「無意識行動」と分類されることになります。
このように「意識」といいますのは「状態」です。そして、これは神経系の情報処理過程やその結果を示すものではありませんので、他の二つとは全くの別物です。
 
では、「心」と「精神」の違いとは何かということになるわけですが、「精神」といいますのは元々心理現象や生理構造を科学的に分類したものではありませんので、その定義は極めてあいまいです。これに対しまして近年では、長い間謎とされていた我々の「心の構造」に就いてたいへん多くのことが解明されるようになりましたので、この辺りはもはや哲学の力を借りる必要がそれ程ありません。心理現象とは「知覚入力―結果出力」という神経系の情報処理によって発生するものです。そして、我々の脳内では知覚入力に対して価値判断を下し、結果を出力するための中枢系が以下のように三系統に分かれています。
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」
「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」
「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
この内、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」といいますのは、それは遺伝子にプログラムされた全人類に共通の反応規準であり、幾ら学習体験を積み重ねてもこれが変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。ですから、如何なる場合であろうとも結果は予め定められているわけですから、これを「心の動き」とすることはできません。これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。
 
通常、我々が「学習記憶」と呼んでいるのは大脳辺縁系の情動記憶ではありませんよね。それは大脳辺縁系の「YES・NO」のように単純な結果ではなく、何時何処で何をしたといった具体的なものであり、個人の思い出から数学計算の技術、成功・失敗の結果からその社会の法律・道徳に至るまで、生後の実体験や教育によって大脳皮質に獲得されたありとあらゆる情報であります。大脳皮質はこの記憶情報を駆使し、知覚情報からは得ることのできない「未来の結果」を予測します。従いまして、大脳皮質の司る理性行動といいますのは、その全てが未来予測による「計画行動」であり、原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。
 
上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳的な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。 
 
 吉本の疎外の概念から見直すと、原生的疎外はどうやらここでいう、「生命中枢:無条件反射(本能行動)」(ここで全人類に共通と記述されているところを「全生命体」と置き直せば)と関係し、また純粋疎外の方は、「大脳辺縁系の情動反応」と「大脳皮質の理性行動」に関係するもののように考えられる。もちろん人間特有の心的な領域、心的現象も後者の側に位置するものだ。ここで、純粋疎外と呼ばれた心的領域では、心的な内容という側面で「情動反応」と「理性行動」という異なる二つの存在が提示されている。つまり、我々大人が普通「こころ」と呼ぶものは、ここでいう「情動反応」と「理性行動」を一緒くたに捉えての呼び名であることが分かる。 ぱっと見に、この文章からはこのこと以外にもたくさんの考えが誘発されてくる。
 大きくいって二つのことがすぐに思い浮かぶ。一つは、「胎乳児期について」という項目の文章で触れてきたところのものは、ここで言われているところの「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」に関わるところのものだということだ。文中で、とりわけ次のような記述の箇所は興味深く、さらに興味深いところを太字にして示して、繰り返しになるが再び引用してみる。
 
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です
(中略)
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。
 
 分かりやすい言い方をすると、エリクソンの言う「基本的信頼対不信」やバーニーの考察したことが、違った角度からここで、しかし全く同じ意味合いで語られているように思われる。要するに、基本、大脳辺縁系における情動反応、情動記憶、いわゆる、生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」が、いかに決定的な役目を担うかが語られていると思う。ひとこと言えば、「生後体験に基づいて」と語られている部分は、ぼくらの見て考えてきたところからいえば、当然胎児体験を含むという考え方になる。そう考えれば、後は問題なくここで言われていることに首肯することができる。
 もう一つ、すぐに思い浮かんだことについて触れてみる。それは三木成夫の様々な著作に示されていた「こころ」についての考え方、とらえ方で、これは自分のホームページに掲載したいろいろな文章の中で論じてきている。とりわけ、最新のものでは『顔のある窓』の中に、『内臓とこころ』(河出文庫)を取り上げて詳しく読解を試みている。
 三木の主張は、端的な言い方をすれば「こころの生物学的な根拠は内臓にあるんだよ」、ということを主張した人であるということでいいと思う。これはそれまでに見たことも聞いたこともない説で、はじめは突拍子もないことだと驚いた。静かに衝撃的だった。けれどもよく読み込み、考えていくと大変納得されるものであった。ここで取り上げた作成者不明の文章で言うところの「大脳辺縁系」の役割が、三木の場合には、そっくり「内臓」という言葉に置き換えられて主張されていると考えてよいと思う。
 誤解してほしくないのであえて言うが、三木がこころの根源は内臓にあると主張するとき、直接内臓がこころの元になっているというのではない。「大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力され」るのであり、当然内臓に関する知覚情報というものも集約される。そして大脳辺縁系に入力されたことの結果出力として、情動反応、情動行動に表されていくのだが、この時の、内臓が果たす役割としての重みというものは、とても重大なものなんだよ、というのが三木の主張の根底にある。どうしてそう主張できるか、主張するかと言えば、生物の最大の特徴は、その営みの本分が「食と性」におかれ、それを直接に司っているのが心臓を代表とする内臓系に他ならないからだ。いいかえると動物にとって生の営みは内臓が行うものであって、手足やそのコントロールシステムとしての脳は本来、補佐の役割を担う。それが今日では逆転し、脳すなわち大脳皮質が司るところの精神、理性、それらに伴う外部知識の詰め込みとしての学習ばかりがクローズアップされ、内臓の大切さが忘れられている。三木はそのために社会的に常識化しつつある「心もまた脳の働きだ」とする声に反駁した。それが、「こころの根源は内臓にある」という主張となり、「内臓の復興」を語る声に表れた。
 最近、三木と同様の主張を見かけ、孫引きという形になるがこれを以下に転載する。
 
この例でもわかるとおり、脳は端末器官とつながっていて、お互いが連動してはじめて機能できるのです。唯脳論のように脳が独立して存在しているわけではありませんし、脳が端末器官に対して絶対的な優位を持っているわけでもありません。脳は筋肉のためのシステムです。内臓脳(大脳辺縁系)が腸管の平滑筋とともに働き、体壁脳すなわち大脳新皮質が感覚系、運動系とともに体壁系の錘体路系に支配される筋肉とともに働いているのです。              ーーーーー中略ーーーーー
腸の平滑筋肉運動は内臓脳に指令を出しています。脳が指令しているばかりでなくて、腸から出ている指令もたくさんあるのです。つまり、心は脳にあるのではなくて、内臓腸管系がうみだしているのです。腸の動きが生命の生きる意欲の心をつくりだしているのです。つまり五欲(財・名・色・食・睡)の源は腸管の蠕動運動(腸の動き)にあり脳はそのうごめきを外界に示す窓口にすぎません。
(西原克成「究極の免疫学」)
 
 つまり、ここまでをおさらいすると、「こころ」というのは主に内臓腸管系の動きに起因し、その知覚を大脳辺縁系がキャッチして、さらにそこからの出力として情動を生みだすと考えればよいように思える。
 ただし、問題が少し残るとすれば先の作者不明の文章の中の次の下りである。
 
上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳的な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。
 
 確かに、解剖学者であるところの三木成夫の内臓根源説は、「大脳辺縁系の情動反応=心」「大脳皮質の理性行動=精神」というように、たいへん明解に考えているところがあった。逆に考えれば三木は、一般的に考えられているよりも「精神」というものを理性的なところに限定し、狭く捉えようとしていたと言えば言える。そのように、一般的に考えられている「精神」の定義を縮小させることができれば、全体像を明解に把握できるようになるからだ。また生物学的な立場に立つ限りにおいては、そう考えることの方が理路の自然だったのだろう。だが作者不明のこの文章では、先行する「精神」の定義に一定の配慮をするがためにそういう断定はできないものとしている。そこで心情的な働き、理性的な働きをひっくるめて、全体を「心の構造」というように捉え、そこに現象として表れる状態を指し示す言葉として、「精神状態」という使われ方が可能になると述べている。こうなると、せっかく「心の解剖」によってパーツごとに腑分けしてきたのに、結局パーツごとの働きが総合されて、その錯合を「こころ」と呼ぶほかはないという、元の木阿弥に戻った感がする。だが、このことはそんなに悲嘆すべきことではないかもしれない。ひとまわりする間に知るべきところを知り、考えるべきところを考えてきたとは言えそうに思われるからだ。
 ここで一つ、些細なことで触れないできたことがあり、そのことについて簡単に考えてみたい。やはり先の作者不明の文章にあることだが、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」のことで、これは「心の動き」とは言えないと言われていた。もちろん反射そのものは反射にすぎないわけで、そのことは「心の動き」とは言えない。だがこのこと自体が全く「「心の動き」と無関係かと言えば、そういうことにはならないだろう。つまりそのこと自体を対象化することは我々のこころにとってはあり得ることで、三木成夫的に言えば、そこにこそ(本能)こころの本源があるということになりそうに思える。こころの動きそのものは大脳辺縁系に譲るが、動きの元になるのは、内臓器官をはじめとする各器官の反射や本能行動であるに違いない。このことは、吉本の指摘した、原生的疎外を対象化できる人間の心的な特徴とも矛盾しない。そのことだけは一言言及しておきたかった。
 
 ・言葉以前のことば(起源)
 前項では人間のこころとは別に、全ての生命体は無機的自然に対して異和として存在するところから、「原生的疎外」と呼べる心的領域をもってしまう存在だということを見てきた。人間においても、胎児期や1歳未満の乳児期においては、他の生命体の心的領域とあまり変わり映えのない様相を呈しているに違いないと思える。そこでは本能的な動きや無定型の反射というものが支配的で、我々にとって人間的と見えるこころの様相をこの目に見せ始めるのは、指さしや呼称音、直立などをともなう満1歳以後のことではないかと思う。それは吉本の言う「純粋疎外」という心的領域が新たに生じる合図ともなり、言葉の獲得の始まりを告げる時期と言うこともできる。つまり、あらゆる生命体の持つ原生的疎外という心的な領域から純粋疎外という心的な領域へのベクトル変容は、「言葉の獲得」ということを抜きにしては考えにくいことであり、言葉は人間と動植物をはじめとする他の生命体の、こころを分かつ、象徴的なものだと言えるのではないかと思う。
 胎児期から1歳未満の乳児期にかけて、言うまでもなく言葉というものはない。そして、満1歳前後から片言の言葉を口にしはじめるとして、母国語に精通するようになるのはまだまだ先のことである。言葉は一夜にして獲得できるものではない。そう考えれば、仮に1歳前後に「あー」とか「うー」とかの発語があるとして、それ以前に発語を可能にする準備が整っていたと解さなければおかしいことになる。言葉を持たない胎乳児期とはいえども、その時点からすでに言葉発生の要素を持つと考えることは自然なことだ。
 まず一通り言葉についてのおさらいをしてみたい。
 解剖学者三木成夫は『内臓とこころ』の中で、「言葉の起源」に言及している。
 そこではまず「言語音声の持つ独特のヒビキ=vが取り上げられ、その言葉の「語感」と、対象となるもののすがたかたち≠ノ「根源の類似」があると主張する。そして、類似、つまり何かが何かに似ていると考えるとき、あるいは何に似ているだろうかと思いをめぐらすようなとき、そこに働く思考は「象徴思考」と呼ばれるもので、乳児の指差しに見られた際の「指示思考」に同根なのだと言う。
 結局三木は、人類の象徴思考の発達とともに、体内外における様々な事象の象徴的な類似を、人類が音声表出で表現できるようになった時に言葉の起源というものを求めているように思う。もちろん三木はそれら一切は、人類における大脳皮質の連合野が拡大し、域値を超えて高度に発達した中で、人類の持つすべての感覚(言葉の起源としてみれば特に視覚と聴覚)が融通無碍に交流するようになったからだと考えていたことは言うまでもない。そしておそらくはこの時、三木は無自覚なのだと思うが言語の指示的な側面、意味を示す機能の側面が念頭にあっての見解であったとぼくは思う。
 これだけではしかし、言葉の起源をイメージするには足りなかもしれない不安があるので、「根源の類似」を述べるところで三木が例に挙げた言葉を以下に列挙してみる。さしあたって今ぼくらが考えておこうとするのは、言葉の起源についてのあるイメージであり、学問的に言葉の起源を追求していきたいわけではない。そして、ぼく自身はここでの三木の見解だけで十分に起源についての想像をかき立てられ、イメージとしてよく了解できることを申し添えておく。
 以下、三木が例としている言葉。
 
  姿形として(の類似)
  「ナ・メ・ク・ジ」
  「ミ・ミ・ズ」
  
  ヒビキとして(の類似)
  「ヨチ・ヨチ」
  「ヨタ・ヨタ」
  「ヨロ・ヨロ」
  「ヨレ・ヨレ」
  「テク・テク」
  「スタ・スタ」
  「トボ・トボ」
  「ノロ・ノロ」
  「ボチ・ボチ」
  「サッ・サッ」
 
 どうだろう。視覚から聴覚に向かう感覚的な「互換」が実感できただろうか。
 大脳連合野の飛躍的な発達により、ひとつは人類に象徴思考が生じたこと、今ひとつにはあらゆる感覚の互換が高度に発達したこと、さらに感覚と運動とが十全に連絡を取り合うようになったこと、等々から言葉は発生してきたと三木成夫は言う。ここまででぼくらはそういうところを見てきた。この後、三木は音声の側からの言葉の起源についても述べている。つまり、言葉としての声の成り立ちについて語っている。
 少し長くなるが、この部分は引用によって三木の語るところに耳を傾けてもらおうと思う。
 
 人間の声は、рフどぼとけすなわち喉頭腔に発した音源が、咽頭腔から口腔・鼻腔で、実に複雑微妙に修飾される。ここから、ありとあらゆる言葉が生まれるのですが、この喉頭から咽頭を経て口にいたる部分―これが問題の領域です。本日の話の初めに「鰓腸」だと申しましたが、要するに、腸管の最前端部です。
 サメが口を開いた時に、なかがまる見えになる。ロココ時代のような高い天井。床はザラザラの骨舌。舌といっても、これはまったく動きません。そしてその両側の壁面―ここには天井から床へ大きな弧を画いて裂け目が走る。その縁には唐草模様の突起がズラリと並ぶ。鰓の裂け目です。鰓裂と呼んでいます。これが数条、両側の壁面に鋭く切れ込んでいる……。
 この口の奥に開かれた、鰓の大広間こそ、はらわたと呼ばれているものの代表です。この領域の感覚と運動は、最高度の分化を遂げている。外敵には鋭い目を注ぎながら、安定したリズムで水を吸い込んで、この両側の鰓裂から外に放出する。その時にガス交換を行う。これが鰓呼吸であることはご存じでしょう。こうした感覚と運動がしっかりしてなければ、満足に呼吸ができない。一方、またもうひとつのリズムで餌を一緒に取り込む。巨大な獲物から、プランクトンまで正確に見分けて……。しかも小動物は鰓から出してはいけない。ちゃんと食道のほうへ導かなければいけない。この感覚・運動の働きが鈍いと栄養が保証されない。はらわたの機能に「食と性」があるといいましたが、この領域は、まさに食の最前線に位するрヘらわたの顔に当たる部分といえます。一四三ページの図をごらんになってください。これは、この鰓あなを動かす筋肉が、人間はどうなっているかを示したものです。この話の初めに、人間では頸から下がくびれて、のどぼとけに退化変身したと申しましたが、その状態です。これでおわかりと思いますが、声の発生源である、のどぼとけの喉頭筋も、さらに、この声を言葉に直す、咽頭から口腔にかけて複雑きわまりない筋肉も、すべて鰓の筋肉の衣がえしたものであることが示されている。要するにрヘらわたの筋肉なのです。
 人間の言葉というものは、こうしてみますと、何と、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。脊椎動物の五億年の歴史を遡る時、私どもは、否応なしにこの事実に突き当たることになるわけですが、いずれにしても、人間の言葉が、どれほどрヘらわたに近縁なものであるかが、おわかりになったと思います。それは露出した腸管の蠕動運動というより、もはやщソきと化した内臓表情といったほうがいい。なんのことはない―рヘらわたの声そのものだったのです。
(中略)
 ここから本日のテーマ「内臓の感受性」が「言葉の形成」と、切っても切れない間柄にあることがわかってまいります。それは、いいかえれば「心で感じること」と「ものを話すこと」の両者が、まさに双極の関係にあるということです。あの感覚と運動の同時進行―すなわち内臓の感受性が高まった、それだけ言葉の形成も的確になる。逆にいえば、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれるというものです。
 
 ここでは、我々が言葉として話す「声」が、内臓(鰓の筋肉)によって作られているものだということが語られている。だから、「声」はщソきと化した内臓表情であり、рヘらわたの声そのものだとも言われる。рヘらわたの声は、「心で感じたこと」を取り込んで、やがて言葉を形成していく。
 我々の使うあらゆる言葉は全て「鰓の筋肉の衣がえしたもの」によって作られる。言ってみればただそれだけのことだが、よくよく考えるとそれぞれの言葉の持つ微妙な差異、抑揚、強弱などの全てをそこで取り仕切っているのであり、その鋭敏さ、複雑微妙の対応を何気に行っているのだと考えると、あらためてその精妙さに驚きを禁じ得ない。
 もう一つここで考えておくべきことは、言葉の発声が、どうしても自然な呼吸を犠牲にすることでしか成り立たないという一つの事実である。
 赤ん坊を見ていると分かるが、短い「あー」とか「うー」とかはわりとスムーズに声にできる。しかし、大人のように長く伸ばすことも、短く「あ・あ・あ・あ」と区切って発音することもできない。それから「ママ」でもいいし「パパ」でもいいのだが、それが言えるくらいの頃になると、ものすごい集中力で「パ」の次に「パ」をつなげようとする姿態が見かけられる。その時に、全身で悪戦苦闘、何か格闘でもするような調子で、つまりそれは自然な呼吸を一瞬止めるとか、逆に息継ぎをこらえているかのようにして声を出している。必死で真剣で、やや苦しげでもある。
 赤ん坊だから、これを見ている大人の我々はかわいい幼さとしてしかこれを見ない。だが、その姿に原始の人類の初めて言葉を発する状況を重ねて考えると、ものすごい集中力とものすごいエネルギーとを必要としただろうと想像される。音声の分節化、つまり、区切りを入れて音声を発するという行為は、さらに息を止めたり継いだりを複雑微妙にやり遂げる必要がある。
 つまり、我々は呼吸作用という生命の本源的な動きを一部犠牲にして言葉を発声するのだが、言い替えれば、言葉の表出にはそれだけの価値と生命的な衝動が内在すると考えなければつじつまが合わないことになる。なぜ人類はそれほどまでにして言葉を獲得しなければならなかったのか、今その真相は別にして、その意味の重たさだけは頭に入れておかなければならないと思える。同時に、ここでは言語に内在する一方の側面としての、価値の根源が潜在するところの問題であったことも忘れるわけにはいかない。
 さて、ここまで、三木成夫の言葉に関する発生の起源について、その考え方を見てきた。そこでは大脳連合野の拡大と発達が有り、もう一方で呼吸器官の言葉発生に向けての転用という現象が見られた。ここで一気に言葉の問題に深入りすることも考えられるのだが、とりあえず、こころの形成と言葉の形成の接点のようなところに触れ得たことを記憶としてこの項を終える。
 
 ・ヒトのからだ
 はじめに、大ざっぱに胎乳児期及び児童期のこころの形成の様子に触れて、またその概略めいたことを述べた。次に、その際の自分の視点をはっきりさせておきたくて、こころと言葉についてやや強引に原理的な考察を推し進めてきた。これはあまり満足のいくところではなかった。なぜかというと、どうしても学者や研究者の個別的な研究や考察に触れなければならない面があり、それに引きずられてしまうからだ。また、先行の考察に触れるとしても自分の根気具合では、ほんの一部を取り上げるだけで音を上げてしまって、結局狭い範囲で物言いをすることになってしまった。これをもし詳細に記述するならば、とても仕事の片手間にできる話ではないし、集中を切らさずにやって、5年から10年の歳月を要する。そんなことはできない。だからできる範囲で工夫するほかない。
 反省は反省として、次にここでは「ヒトのからだ」について触れてみたいと思う。これもまた、子どもとは何か、子どものこころの形成はどうなっているのか、を考えるときに、背景を構成するものとして考えておかなければならないことだと思うからだ。これらの背景を持ちながら、そういう背景の中で子どもがどのように成長していくのかを見ていかなければならないと思う。同時に、そういう背景について言及していくことは、自分がどのような背景に子どもを置いて、見ているのかという構図をはっきりさせることでもある。そういう背景でものを考えると、こういうように見えるんだ、ということをはっきりさせるということである。
 さて、「ヒトのからだ」に興味や関心を持つようになったのは、解剖学者三木成夫の著した『胎児の世界』(中公新書)に触れてからだ。それまでは、身体について、日常生活における自分や他者の観察による認識といった程度で済ましてきた。それに、高校生の時に身につけた生物学の知識が多少は残存していたかもしれない。しかし、おそらく生物の学習のメインは「体のつくり」を知識として持つというところにあり、器官や組織の名称を記憶することが中心の授業で、あまり興味の湧かないものであった。今、『胎児の世界』の何がそうさせたかは明らかではないが、その後、店頭では見かけない三木成夫の専門性の高い著作を次々に買って読むことになった。全部でも一般的な図書として発売されているのは6、7冊くらいで、これはネットを通して手にすることができた。
 ここではまず、ここでの題と同名の『ヒトのからだ―生物史的考察―』(うぶすな書院)を読んで驚いたことを挙げておく。第一に、三木成夫の、素人を引き込む筆力のすごさが半端ではない。中身は、解剖学者が著す「ヒトのからだ」の仕組みや成り立ち、すがたかたちであり、本来なら頻発する専門用語などで、下手をすれば2、3ページで挫折するところであろう。確かに、はじめは難解にも感じ、挫折しそうなところはあったかもしれない。けれども、その文章には無味乾燥な説明ではない、言いしれぬ熱気が含まれていた。何回か読み返し、記述された世界のすごさが身にしみて分かった。ひとことで言えば、それらの記述には、原初の生物がやがて植物体制と動物体制との二つに発展し、今日のような生物世界へと進化してきた道筋がはっきりと示されていた。もう少しいえば、いま目の前に何気なく見える草や木や小動物何でもいいが、それが、なぜ、どういう経緯で、いまそこに、そんな形で、生きて活動しているかが、特に三木の『ヒトのからだ』を読み終えたときに分かったと思えた。
 三木成夫の解剖学の世界が教えてくれたものは数え切れないほどあるが、ここでその一部を言ってみれば、まず脊椎動物の体を二大別するところから始まる。「内臓」と「体壁」がそれである。
「内臓」は言うまでもなく口から肛門にかけての腸管系に、ずるずるとくっつくような全てであり、「体壁」という耳慣れない言葉は、「内臓」を保護するように取り巻く背中やおしりや手足から頭、それらの筋肉や骨などの一切だと考えておけばおおむねのところで間違いない。つまり、キャラメルなどにたとえれば、中身のキャラメルが「内臓」で、包装の部分が「体壁」だということだ。ここまでは誰でも納得できることと思う。三木成夫は、ここから、内臓系を、その本質は植物的なものだといい、腸管をめくり返して大地に突き立てて内膜の突起を引っ張り出すと、そのまま草や木に対応できるという。それは植物の草や木と動物の内臓が機能や作用を同じくするということで、外見の違いを除けば、両者ともに天空の動きや自然の変化に直接的・間接的な影響を受け、それらのリズム、周期に同期しながら、個体維持と種族保存を繰り返す存在だと述べている。それを捕捉する考えとして、生物の二大特性と言える「食と性」にふれ、植物は全体で、動物では「内臓」にその機能が集約するとして、そこからも植物と「内臓」の近似を教えている。
 そうした三木の説を信じれば、動物でもあるぼくたちは植物を内側に包み込み、動物的な手足や目や耳を使って食べ物や異性のあるところにそれを運び、「食と性」を全うする存在だと考えることができる。生命体としての中心の営みは「内臓」系にあり、「体壁」系はもっぱら手足となって奉仕する関係にあるということだ。そして人間はさらにその上に巨大な大脳皮質を乗っけて、いわゆる人間らしい幻想領域を構築してきたということになる。
 こうした三木の考え方には、人間の前に動物が、動物の前に植物がというように、元をたどれば原始の生命体へと行き着く連続性の道筋が示されていると言える。そういうところの考察や解明はもちろん学者などの専門家の領分で、それらの検討は彼らに任せればいい。しかし、太古からの生存在、生命存在について、漠然とながらも一般人としてのぼくたちが生命進化のイメージを持っているかいないかは、ずいぶんとその生き方に影響するもののように思われる。つまり、おおよそのところは知っておくべきことだと思う。
 余計なことになるが、ぼくたち人間は、どういうわけか植物、動物、あるいは生命一般に対して愛着めいたものを持つことがあるが、いま述べてきたところに根拠があると言えると思う。いわば内臓の植物的な機能とその即自的な知覚が、どういう具合にか、心情や思考に組み込まれるからだと思える。これは動物や生命全般についても同じことだろうと思う。自分の中の動物、自分の中の生命に、ぼくたち人間だけは目覚めていて、本能的・反射的に生命や生き物たちへの連帯の意識、つながりの意識を発動しうるからに違いない。ただ、ぼくのような一般人がこう言うことは、現在の段階では訳の分からないことを言っていることと同じだから、強く主張する気は無い。だが、多分そういうことではないかと思う。
 ところで、ここでもう一つ「ヒトのからだ」に絡めて言っておきたいことがある。それはヒトの体を「内臓」と「体壁」に大別したことに関連するが、これは三木においては植物(植物性器官)と動物(動物性器官)の分類に同義であった。
 三木はここから、「内臓」(植物性器官)を心臓に象徴させ、これらを心情作用(こころ)の生物学的な根拠におき、また「体壁」(動物性器官)を頭(脳)に象徴させて、これを理性行動(思考や認知)の生物学的な根原とした。つまり我々がふだん、ごっちゃに「こころ」と呼んでいるところのものを分けて示したのである。前々項で考えたところと関連して言えば、三木は「こころ」(心情・情動・情緒など)を主に「内臓」の動きが関与するものとして、また「あたま」(精神・理性・思考)は、「体壁」(各種の感覚器官と脳)の働きに負うところが大きいものとして、二つを区別した。これにより、「こころ」(内臓)は感ずるもの、「あたま」(体壁)は考えるもの、と単純化してイメージできることとなる。もちろん先に見たように、実際にははっきりとこのように大別されるものではなく、相互の関連や浸透があって一義的にいうことはできないようである。しかし、あえて本質的な抽象度を高めたところで考えるならば、三木の単純化のモデルはある有効性を持つだろうとぼくは思う。また、ぼく自身は現在、実際にそのようなイメージで捉えることにしている。
 さて、実はここで三木が「内臓」と「体壁」とに区別したところのものは、こころの仕組みや形成を考えることに生物学的な根拠を与えるばかりではなく、三木自身が『内臓とこころ』で「こころの形成と言葉の形成は不可分の関係にある」と述べていたように、言葉とも関連するところからそのことについて少し触れておきたい。
 「こころで感じる」ということ。これはもちろん「内臓」の動き、「内臓」の感覚や感受性に関連する。ここで、「こころで感じる」時の状況、「感じた」時の状況を思い浮かべてほしい。「こころで感じた」その時に、必ずや何らかの反応が起こる。手足の動き、顔の表情、あるいは「う」とか「あ」とかの発声でもよい。つまり、「こころで感じる」(受容)ときの一つの反応として、表現欲求、「ものを話す」、あるいは「ものを話したい」衝動も起こるものと言える。これは三木が言うところの、感覚と運動の同時進行の関係から生じるものであり、「こころで感じること」と「ものを話すこと」とは例の入―出の関係、あるいは表裏の関係にあるといってもいいことが分かる。
 こころの目ざめは「内臓感覚」が意識に上ったときに起き、内臓の感受性が高まるとともに豊かなこころが形成されるようになる。この時、実は言葉の形成が同時進行で進められていることは確実のことと思える。
 ところで、まだ言葉が形成されていないときの、仮に「あ」とか「う」とかの発声をどう捉えればよいだろうかということを考える。それこそ、乳児が盛んに口を動かして、何かしきりに言葉を発したい様子を見せている時期があったり、わずかな語彙を発しながらも次の語彙を口にすることができずにいる様子を垣間見せることがある。幼いながらもこころは何かを感じ取っており、反応としての運動、すなわち幼いながらの表現の欲求が、しきりに口をもぐもぐ動かすそこに、表れているのではないかとぼくには思える。「内臓」の声なき声、言葉なき言葉が身悶えのようなものに表れている。
 この生命欲求、生命衝動そのもののような表現意欲が、そのベクトルを言葉の方に向けるときに、言葉の表出意欲となって言葉形成の一方の柱になると考えることができる。これは実際に言葉を口にするしないに拘わらず、言葉に価値を潜在させるものだと言える。
 一方で、一歳頃の「指差し」は「印象像と回想像の重なり」で説明される頭の中の出来事であり、指示思考の形成に与って起こる現象である。「指差し」はもちろん言葉ではないけれども、ここに潜在する衝動的な指示性は言葉のもう一つの側面に継承され、これは言葉の保持する意味性となって現れる。ここに、言葉は、内臓の即生命的な動きに関わり「価値」を担う側面と、脳の機能である記憶や思考から生ずる「意味」という側面を持たされて、それらを縦糸横糸として、織物のように織りあげられたものだと解することが出来る。吉本隆明は前者を言語の「自己表出」の側面ととらえ、後者を「指示表出」の側面ととらえ、言語以前の言語をこの二つに分離させてととらえている。吉本には「言語にとって美とは何か」の著作をはじめとして、たくさんの言語に関する考察があり、詳細はそれらにあたってもらうことが一番だが、ぼくのここでの考えももっぱらそれらを視野においてなされている。そして、三木茂夫の解剖学的な見解から述べられたところの「内臓」と「体壁」の関係を重ねて考えたときに、「自己表出」は「内臓表出」に、「指示表出」は「体壁表出」に置き換え可能であると考えられる。また、これをさらに置き換えれば、「自己表出」「内臓表出」は「生命表出」に、「指示表出」「体壁表出」は「脳表出」「幻想表出」などとすることも可能ではないかとぼくは考える。もっとも、こうしたことについてはすでに何度か名前を挙げたことのある、吉本学のよき理解者宇田亮一がすでに著作の中で指摘していたのを目にしている。詳細はそちらでということになるが、まあ似たようなことを考える人はいるもので、しかし宇田は一歩も二歩も先んじていると、ここでは言っておくことにする。
 小題は「ヒトのからだ」としながら、この項ではこれまでほとんど人体についても、三木茂夫の同名の『ヒトのからだ―生物史的考察―』についても直接的に触れないできた。これは少し、後ろめたい気分をぼくに運んでくる。そこで、ということでもないが、この項の終わりに三木茂夫の『ヒトのからだ―生物史的考察―』から、脊椎動物の植物性器官と動物性器官について述べられた部分を引用し、つじつまを合わせることとしたい。以下。
 
 植物性器官 腸管からは、消化ー呼吸系のさまざまの器官が分化し、血管は背側が動脈性に、腹側が静脈性になり、しかも腹側の一部が極端に分化して、心臓を形成する。また、排出管は縦に分かれて二本になり、その一本は尿を分泌する特殊の血管(糸球体)と結びつき、他の一本は、性腺と結びついて、それぞれ泌尿および生殖系の諸臓器へ分化していく。
 つまり、吸収―循環―排出をいとなむ腸管・血管・排出管の三種の内臓管が、それぞれ分化して、内臓の諸器官となるのであるが、特に重大な変化はこれら内臓管の壁に筋肉が発達し、そこへ神経が分布するようになることである。
 すなわち、植物性器官へ動物性器管の一部が、しだいに張り出してくる。このような筋肉や神経を、〈植物性筋肉〉および〈植物性神経〉とよぶ。これによって無脊椎動物では、一般に管腔のせん毛運動によって、行われる内容(食物)の運搬が、ここでは管壁そのものの蠕動運動によってなされるようになる。しかもこの運動は、植物性神経を介して管の内部からだけでなく、からだの外からの変化にも、いちいち敏感に応ずるようになり、しかもこれはさまざまの腺の分泌運動によって、さらに色どりがそえられる。
 植物性器官に現れたこのような興奮性は、われわれ人間に至って、ひとつの頂点に到達するものと考えられる。もろもろの現象を心で感じとり、ひとつのすがたにまで仕上げていく、いわゆる心情の作用≠ヘ、このような植物性の興奮と密接な関係があるのであろう。
 心の動き≠ニいう言葉は、この端的な表現であって、ここからわれわれ人間の心情作用と、植物性器官、特に心臓との切っても切れない関係を知ることができる。血がのぼる=A胸がおどる≠ネども、この心情の動的な側面を、心臓で代表される植物性器官の動きによって、いわば生物学的に表現したものということができる。
 動物性器官 脊椎動物では、外皮の一部が著しく分化して、各種の感覚器官をつくり、この大部分が、からだの前面に配列することになる。また、神経鎖は神経管となって、腹側から背側にその位置をかえ、その前端が著しく分化して脳となり、神経網は末梢神経となって、この神経管と連絡する。一方神経管の腹側には、新たに全身の屋台骨として脊索が一本走り、これがしだいに骨化して発達するが、やがてここから四肢が萌出し、この四肢の支柱として骨格系が新たに形成される。
 つまり脊椎動物では、受容―伝達―実施をいとなむ外皮・神経・筋肉の三層は、それぞれ独自の分化をとげて、無脊椎動物で一般に見ることのできないような、高度に分化した動物性器官を形成するに至るのである。
 脊椎動物の歴史をふり返ってみると、これら動物性器官の分化はめざましい。すなわち、しだいにその勢力を内臓器官にまでおよぼす一方、栄養の大部分を消費してしまうのである。これは脳に分布した豊富な血管によってもはっきりと知ることができる。
 ここでさらに注意しなければならないことは、これら動物性諸器官のなかで、神経系、特に脳がしだいに著しい発達をとげ、人類に至って、ついにある頂点に到達したということである。もろもろの出来事を抽象し、これらを事物として概念的に把握するという、いわゆる精神作用≠ヘ、このようにしてうまれたものといわれる。頭の働き≠ニいう言葉は、この端的な表現で、われわれは、ここから精神作用と脳との切っても切れない関係を知ることができる。切れる頭=A石頭=A頭を使う≠ネどの用例は、すべてこの精神作用を、脳のひとつの働きとして、生物学的に表現したものとしてみることができよう。
 
 
こころの3つの次元
 われわれの体は植物的な特徴を有する「内臓系」と、動物的な特徴を有する「体壁系」に大別されることを学んできた。三木茂夫は前者を「心臓」に、後者を「頭(脳)」に象徴させ、それはしかし、古代からわれわれの祖先がそのように把握してきたまでのものだと述べている。つまり、古代人の直観は20世紀の解剖学的な見解から見ても当たっているよ、と言っている。
 ところで、この「内臓系」に見られる植物と「体壁系」の動物という二分類は、ぼくたちの身体について言えるばかりではなく「こころ」や「言葉」にまで、引きずって影響を与えることが分かってきた。それが前項まで見てきたところのものである。そして、「こころ」的な現象全般は、主に「内臓」の動きなどに関係しているものと、「体壁」、つまり外感覚器官や脳の働きから生ずるものとが、これまた大脳連合野においてひとつの織物のように仕上げられて意識に上ったもの、と考えることができる。「言葉」は、この心的な二種の糸で織られた織物(心的現象)が、高度に形成されるようになったときに(純粋疎外)、それに伴い、音声の分節化が発声器官的に可能になって、はじめて人類の獲得するところとなった。この「言葉」の成立にも、「こころ」が深く関与するとともに、その素因とも言える「内臓」と「体壁」の作用や動きというものが、奥で深く関与するものであることは言うまでもない。そして、端的に言えば「言葉」は「内臓」の「生命表出」と「体壁」の「幻想表出」が、縦糸・横糸となって織られた織物のイメージとして(「細胞・遺伝子系」と「脳・神経系」の2つの受容―表出経路の絡まり)、しかし、「こころ」そのものとは別の位相にあるところのものと言うことができる。
 この項では、ここまでの考えの基底におかれた「内臓」、「体壁」という言葉を離れ、別の次元から「こころ」というものを考察することになる。
 今まで考えてきたように、「こころ」というものは単一なものではない。ある種複雑に形成されるものであることは、これまでに見てきたとおりである。「こころ」を現象的なものとして、これを意識的に眺めたときに、そこには3つの異なる次元が展開されていると主張したのは吉本隆明である。先にその3つの次元をあげれば、「自己幻想(後に「個人幻想」とも―佐藤)」「対幻想」「共同幻想」と吉本は呼ぶ。
 吉本のこれらの概念は、およそ40年以上前の『共同幻想』と言う彼の著作によって示された。これらの概念は単純明快であり、且つ、大変むずかしい側面も併せ持っている。単純明快な側面を言えば、「個人幻想」というのは、自分対自分(個人内)という関係の世界で、その世界から疎外(産みだされた)された観念一般を総称する言葉だということだ。また、「対幻想」とは、一対一(ペア)の関係世界が疎外(産みだす)する観念一般の総称であり、「共同幻想」とは、集団などの共同的な関係世界が疎外(産みだす)する観念一般と言うことができる。
 現在のわれわれの実際的な人間世界での在り方を考えると、ひとりの世界、親友とか恋人とか夫婦とかの特別な2人の世界、そして3人以上の共同性の世界の3つを行き来して成り立っていると考えることができる。だとすると、人間の心的領域に生成消滅を繰り返す幻想(観念)、これが心的領域をそっくり覆った場合を想定すればこの心的領域を幻想(観念)領域と呼び変えることができ、その全幻想領域の構造は、われわれの存在の在り方としての3つの世界を、内的な軸として成り立つものととらえることができる。
 これは、一通りのこととして考えるととても分かり易いことだ。われわれの生きて生活する局面は、ひととひととの関係として見れば、大ざっぱに言って、自分1人の世界、2人の世界、3人以上の世界と大別でき、またそれ以外にないのだから、われわれの意識に上る考えというものもこの3つの世界に包括して考えればよいことになる。
 吉本自身は、このように仮定することによって、政治、思想、芸術などの幻想(観念)領域の全体の関連が見えるようになったと述べ、続けて次のように発言している。
 
自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内部構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想の問題なんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、今度は問題意識がそういうふうになってきます。
(『共同幻想論』河出書房 p12)
 
 吉本のこうした幻想概念は、ここまでの段階のところでは大変すっきりして分かりやすいものだと言える。そして、もともとは引用文に見られるような問題意識の中から考えられた概念だったということだ。ところが、ぼくらははじめて聞く耳慣れない言葉に当惑した。たぶんそこには日本人の、新しい概念の形成にも受容にも苦手意識がはたらくという性格的な側面が表れている。これを実際の自分の生活場面や意識行動、精神行動にあてはめて考える、実用、応用の段階になると、とたんに難しくなる。たとえば恋愛をテーマに詩を書くとする。すると、これは対幻想の自己幻想化の行為で、とたんに境界があやふやになる。対幻想といえども自分の中に意識されるもので、それならば自己幻想とどのように別れるかが分かりにくかったりするのである。どっちと見なせばよいのか、そういう問題点を抱えている。そのために、重要な指摘であるにもかかわらず、後年まで大変理解力のある識者たちから繰り返し質問を寄せられ、また識者それぞれの受け取り方があって、微妙に食い違う様相を呈するようになる。
 これはしかし、ぼくにとってはこころの文法というべきものの一つで、こころを考えるときに無視するわけにはいかない。3つに分離された世界が、それぞれに異なる次元として成り立っていることは確からしく思われるからだ。
 とりあえず、こころには幻想領域と見なしうる次元があり、そこではまた3つの次元がそれぞれ単独に、あるいは同じもののように混じり合いながら存在していることを忘れるわけにはいかない。
 少し捕捉しておけば、「自己(個人)幻想」とは、個人が自己問答などを通して産みだす幻想(観念)で、ひとそれぞれに異なる幻想を持つと言うことができる。これに対して、「対幻想」というのは、恋人なら恋人が、2人の恋愛関係について、どのように思ったり、考えたり、感じたりしているかをいうもので、当事者2人の関係に拘束されていることは同じだが、男女の違いなどに多少の差異や相違を含みながらそれぞれのこころに生成されていると考えられる。当事者2人のこころに、2人の関係についての観念世界が個々に展開されるものだと考えておけばよいと思う。これは例に上げたように、恋人との関係である場合も、母と子の関係、あるいは兄弟姉妹や親友との関係にまで拡張することができ、個人の中にも複数の「対幻想」が存在すると言える。最後に「共同幻想」だが、ぼくたちは社会的な関わりとして、複数の組織、共同体にまたがって存在していると言える。だからここでもそれぞれの関係ごとに複数の「共同幻想」が生じるわけで、だがひとつの組織の構成員同士の間柄のなかでは、その組織との関係から生じる幻想をそれぞれに共有部分を持ちながら所有しているということになる。
 実は、この概念の受容を難しくさせているものは、作り手が上からの(俯瞰)目線で我々の幻想(観念・精神)世界を眺め、非常に目の荒い網を投げかけて引き上げたときに、引っかかってきたのがこういうものだと提示しているにすぎないのに、聞く側がこれを実際世界の場面に当てはめて理解しようとすることから生じる。実際のこころ、心情や精神は、日常生活の中で、自己(個人)幻想や対幻想や共同幻想の区別を設けているわけではない。逆にそんなことは少しも考慮することなく、そういう境界はないものとして自由に出入りしながら機能していると言える。実際世界で、これらの幻想がどのように振る舞っているのかを見ることは不可能なのだ。
 こう書いてきても解説は難しく、これを誰にも理解できるように説明する自信はまだぼくにはない。私見によれば、これを為しえていると言えるのは臨床心理士でもある宇田亮一で、機会があれば『吉本隆明 心≠ゥら読み解く思想』(彩流社)を手にしてもらえばよいと思う。「自己(個人)幻想」、「対幻想」「共同幻想」を鋭く解析し、追求し、さらに図を使って誰にでも分かるように解説している。いわば吉本学の優れた入門書になっている。ぼく自身も彼の文章から教わったところがたくさんあったように思っている。また深く考えるきっかけにもなっている。ここでは吉本の概念の理解や考察が目的ではないので詳細は省くが、この幻想領域、幻想概念を考慮しないでは、十全にこころを語ったこと、こころの形成を語ったことにならないことは明白だとは考えてきた。その一端を、次の項で触れるつもりでいる。
 
3つの次元と成長・発達過程との関連
 我々の心的な動き、それが「内臓」「体壁」が元になっている情動反応や理性行動であれ、そこにはまたそれぞれに異なる3つの次元があると考えてきた。
 ここではそれが子どもの成長と発達にどのように関わり、こころの形成にどのように影響するものであるのかを見ていきたいと思う。
 まずはじめに、我々に、どのように1人の世界、2人の世界、3人以上の世界が訪れるものなのかを考えてみる。
 胎児の時はこのような区別がないことははっきりしている。意識や感覚に目覚めたとしても、世界はまだ単一にぼんやりとした薄明の中にある。受胎8ヶ月頃には感覚器官は新生児並みになり、意識のめざめもあって、胎児は母親の声と父親のそれとを区別することができるのだと言われている。しかし、その声は胎児にとっては「母の声」でも「父の声」でもないし、おそらくそれが「声」だということも分からない。ただはっきりと聴覚に届く、胎内外の他の音とは違う「音」として受容しているに違いない。その「音」はやがて耳慣れて、「安心」や「快」を胎児にもたらすこともあれば、逆に「不安」や「不快」をもたらすこともある。胎児はこの時、母親の体内や母親自身に、また母親を取り巻く環境で何が起きているかを知り得ない。それはちょうど原始未開の人類が、雨や嵐に見舞われて怯え隠れたり、嵐の後の晴れ渡った空の下で美しい光景を呆然と眺めることがあったりしたように、自然の中で徹底的に受け身的な存在であったことと同じだ。世界(環界)は感知することができるが、世界(環界)が何で、どうしてそういう状態で表れるのか、一切分からないところで「在る」ことを強いられるものだと言っていい。
 こういう言い方は誤解を生ずるかもしれないが、本当はこの胎児の世界は、薄明の中に全宇宙大(無限大)のひろがりをもっている。ふつうぼくらが考えるような極小の世界でも、無の世界でもない。当然ながらまだヒト的な個人幻想、対幻想、共同幻想は持ちようがなく、ただ幻想領域全体は、幻想領域そのままの姿として形成されつつある段階にある。それはまだ〈原生的疎外〉の段階にあるが、それなくして〈純粋疎外〉が生じようもないことは確かなことだし、〈原生的疎外〉が宇宙そのものに開かれたものであるのに対して、〈純粋疎外〉にははっきりとヒト的な枠が刻印されるということもできる。やや皮肉めいた言い方をすれば、これを全ての生命体の心的領域の矮小化と見なす見方はあり得ないことでもない。つまり、ヒト的な「心的領域」を生命体そのものが持つ「心的領域」の進化と見なすか、逆にこれを退化と見なすか、まだこの評価は確定できないことのような気がしている。
 少し脇道にそれたかもしれない。要するに、胎児期にはいろいろな感覚的受容はあるけれども、身体的にも心的にもまだ反射的な反応しか示すことのできない状態にある。母胎をも含めた環界との区別もつかなければ、当然自己という感覚も持てないでいる。ただし、だからといって心的に無というわけではない。すでに「心的領域」は〈原生的疎外〉という形の領域を持ち、その心的な核にトマス・バーニーやエリクソンの著述に見てきたような、初期的な気質や性格の刻印はなされているものと考えることができる。
 出産により、個体としてこの世界に産み落とされ、肺呼吸に切り替わるとともに環界の温度にさらされるという劇的な変化を体験しながら、新生児の心的な世界は胎児期のそれとそれほど大きく変わるわけではなく、胎児期の延長上にある。
 日本式の子育てでは出産後しばらくは母親がつきっきりで添い寝し、おっぱいを飲ませ、何くれと世話をしてあげることになっている。その後一年近く赤ん坊は、目の前の乳房と母親の顔を飽きずに眺めて暮らす。ここでも、はじめのころは赤ん坊は、母親と自分との区別はつかないのだという。目を開けると、いつも目の前には乳房が表れ、母親の顔が表れる。一日に何度かまでは分からないが、毎日それが繰り返される。成人の性体験そのものではないけれども、飽くことなく眺め続けるとすればそのことは、目に焼き付けられるであろうことは疑いないことのように思える。たとえそのことがどのような影響をもたらすのかは分からないとしてもだ。
 やがて、目を開ければそこにあった乳房や顔が、しばしば目を開けたときに不在であることが繰り返されるようになる。時には泣き声を上げてもいつまでも目の前に表れない。乳児はそうした体験の繰り返しの中から、はじめて母親が別の存在であることに気づいていき、そこでまた自分の存在というものに気づいていくのだという。そこまで来れば家族内ではあるけれども母親よりは疎遠な他者、父親や祖父母、兄弟姉妹の存在にも気づいていくことは時間の問題だと言える。
 もちろん乳児にとって一番密接で大事な関係は母親とのそれであり、母と子の関係は特別で特殊の関係に違いない。人生で初の対関係は、だから特別特殊の母との関係に生じ、それは1歳前後の言葉の初期的な発生と獲得を待って対幻想へと転移していく。当然のことながら、母親の、我が子との間の対幻想はそれ以前から形成されている。それは子どもの心的形成が、幻想領域と言える段階のところまで成長する間では、一方的で片思い的なものだ。
 いずれにしても、この1歳前後の時期は、吉本の概念から言えば、〈原生的疎外〉から〈純粋疎外〉への移行に行き着く準備性の段階を経て、いよいよヒト的な幻想(観念)世界、概念世界が本格化するひとつの屈折点のように考えられる。
 ここまでの、乳児と世界との関わりから言えば、母親(母親代理・養育者など)を中心とした関わりで、そこに少しずつ他の存在が介入してくるものだと言える。母親は自分とも見分けのつかない全世界という位相から、少しずつ個別の存在であることに気づいていき、そのことで自分が1個の独立存在らしいことにも気づきはじめていく。すでにヒト的な〈純粋疎外〉の領域も起動しているものと考えられ、幻想(観念)性の兆候も示すようになる。このことは、ヒト的な「関係意識」の芽ばえであり、以後、この意識をも含めて心的と身体的と、相互的また総合的なヒト的な成長と発達を継続するだけだと考えることができる。言い換えれば1歳前後のこのあたりで、人間的な初期条件がすべて完備され以後の現実世界の受容とそれへの反応の繰り返しから、歴史的現在性を獲得した1人の自立的な個人の完成へという階梯を歩み始めるということになる。
 系統発生論の考えからすれば、正確さに欠けるかも知れないが、胎児から1歳前後のこの時期は猿人的なところから言語の獲得の兆候を見せ始める段階までの人類の進化、成長、発達の段階にあたると見なすことができる。こうなると、人類にとっても現代人までの進化、発達は一直線で、ただ必要な時間的な経過をそこに挿入すれば足りるように思われる。
 乳児もまた、この後の幼児期において、幻想の歩みとしてこれを考えれば、対幻想と個人幻想、および家族的な初期の共同幻想を深化、拡充していくサイクルに入りこむだけだと言える。ここで注意すべきなのは共同幻想の問題で、これは家族的共同性、場合によっては親族共同性という側面が乳幼児の日常的な生活に入りこんでいる場合に生起するということだ。もちろん、ほとんどの乳幼児にとってそれは現実的な環界として目の前に置かれる。ただ今日的な日本社会において、血縁の親疎は均一ではなく、よってこの段階での個に与える共同幻想の陰影にはかなりの濃淡の違いが現れるものと見ていいと思われる。簡単に言うと、現在の家族においては大家族から核家族、あるいは父子、母子家庭のような条件的な違い、形態的な違いは顕著で、初期の共同幻想体験からしてかなりの相違を孕んでいることに留意しなければならないということだ。
 さて、ここまでのところをふり返ったところで言っておきたいことは、乳幼児までの個人幻想、対幻想、共同幻想の形成は、日本の社会の、歴史的に言えばどんな時期に相当するかということで、これは一番近いところで近世までの段階だと考えることができる。また一番遠いところを想定すれば、統一部族国家としての大和朝廷の成立以前と言うことが出来る。こう考える根拠は、つい最近まで日本の家族というものは共同幻想を本質とする国家(共同体)の侵入や、国家の規制が経済的な範疇を除くと比較的緩く、逆に血縁的な共同幻想が根強く強固に生き延びてきたと考えられるからだ。これは一部現象的には現在の家族の形態の中にも伺われるところで、宗教から風俗・習慣をはじめ、その受容から展開の仕方まで家族の独自性に任されるところが少なくない。言い換えるとその時点まで、地域共同性が中間の緩衝地帯のように介在し、そのために国家(共同体)の介入や侵入がソフトであるという特徴を持っている。
 ここから考えると、大和朝廷成立の時期から近世にかけて、国家共同体における共同幻想の水準はあまり大きな変化を蒙らずに来ており、この後、近代国家成立の時期を迎えて共同幻想の水準は劇的な変化を見せることになる。その強大化と強力な介入と浸食性は、これを今日の子どもの成長、発達の段階の中に求めるとすると、およそ6歳からのすべての子どもの学校教育への組み込みの中にこれを認めることができる。
 このことにより、乳児の母親(代理)との関係、幼児の家族内および地域内の関係は、新しい局面を迎えて、児童期に直に国家意思としての共同幻想に向き合うことになる。これはもちろん母親(代理)との対関係とも違い、また家族の共同性や地域共同性との関係とも水準としての質が違う、高度の共同性、現実的な世界としての社会に、以後、幻想的に押しつぶされそうな圧力を感じながら対面していくことを意味している。ここでもまた注意しなければならないことは、原始共同体の体現者としての母親の存在、また親族共同体を体現する家族、氏族共同体や初期部族共同体を象徴する地域社会の元に形成されてきたそれぞれの対幻想や共同幻想と、全く次元を異にした共同幻想にはじめて向き合うというそのことだ。現在の家族および地域社会には、一昔前の国家の本質としての共同幻想との橋渡し、あるいは緩衝地帯としての意味合いは消失している。つまり、大きな断絶が横たわっているということだ。
 大ざっぱに見て、およそ江戸期までの日本の社会での子どもの成長は、一部の階級を除き、母子、家族、地域社会というように徐々に活動の場を拡大していき、自然な階梯の中に成人へと成長する道筋を持っていたと思う。しかし、今日をふり返ってみると、家族から地域へとスムーズに足場を移す道筋自体が掻き消えているばかりか、仮に地域に根をおろせたとしても、どんなにその道を踏みしめても成人(社会の一員)としての地位を確保することには至らない。かつての元服(現在の成人式)や婚姻とかにあった、社会人になるための通過儀礼の一次的な意味合いは、実質、学校制度の通過にその座を奪われている。
 こうした事情の中に、ぼくらは歴史的な必然を考えるほかないのだが、これらのことは主に、歴史的な推進者と目される青年から壮年に至る人々の、精一杯の所業からもたらされた現実世界というほかはない。けして子どもたちが招来した現実ではない。そこに、こうした歴史的な推進と推移は、はたしてそこでは付随的な立場でしかなかった子どもたちにとってはどうであるのかを考え、もしも大人たちの考え及ばぬ欠陥を見いだせるとするならば、これを課題として是正に向けて働きかけるべき余地は残されているように思える。
 ここで、もう一度こころの3つの次元についてふり返っておきたい。個人幻想、対幻想、共同幻想という時の「幻想」とは何かということを、もう少し詰めて考えてみる。単純には「幻想」は「観念」に置き換えられることは述べた気がする。ただしこの場合の「幻想」や「観念」は、人間関係を土台として生ずるものであり、たとえば対幻想について考えると分かり易いが、そこにはペアとして閉じようとする傾向や恋人としての暗黙のルール、約束事、あるいは誓い等々のようなものが必然的に含まれる。たしか宇田亮一はこれを、「幻想」すなわち「規範・しばり」のように解説していたと思うが、そう置き直して考えると分かりやすいかもしれない。そうしてみると個人幻想とは自己対自己の関係の中での「規範・しばり」であり、いわば自己内ルールの側面で見ることができる。対幻想は一対一の関係の中での「規範・しばり」として、夫婦のルール、恋人間のルール、親友との間の見えないルールなどというようにイメージすることができる。最後の共同幻想は国家的規模の大きさとしては、憲法とか法律とかに関わるようなことが対象となるものであり、制度から観念までを広く含んでいると言えよう。またこれはたとえば会社とか組織とか、狭くいえば家族の共同性にも存在するルール、拘束めいたものも指すものだと言える。
 吉本隆明は『共同幻想』の中で、一般的に言って共同幻想と個人(自己)幻想は逆立する関係にあると述べている。先の大戦時をイメージすれば明瞭になると思うが、国家意思としての共同幻想が人々の心の中に大きな部分を占めるようになると、個人幻想は相対的に縮小することになる。逆に平和時では個人幻想がこころの大きな部分を占め、共同幻想は後景に退くということがあり得る。同じことは共同幻想と対幻想との間にもあり、対幻想と個人幻想との間にもあり、ある場合には異質な共同幻想間、異質な対幻想間でも起こりうると言える。だがその中でもっとも質的な乖離が大きく、また人間性の乖離を孕んでいるのは、国家規模の共同幻想と個人幻想の間の逆立の関係に認めることができる。もちろん共同幻想と個人幻想が同致する場合もあり、その時は共同幻想と個人幻想は矛盾しないで併存する。国家や会社を自分そのもののように思いなしているときなどは、そのような状態に近いと言えるだろう。これがいったん対立するようになると、孤立、村八分等々、個人幻想の受難を招来するものとなる。
 さて、以上の記述の中でも述べてきたように、胎児期、乳児期、幼児期を経てきたいまの子どもたちは、学校に通い始める児童期あるいは学童期と呼ばれる時期を迎え、はじめて国家的規模の共同幻想に直面する。現象的には学校という建物、制度、組織、構成員などからなり、窓口には担任というものが置かれる。担任はあるときには共同幻想の象徴の役割を担い、またある場合は対幻想の対象となる具体的な個人ともなる。これもまた当事者の意識の如何に関わらず、オートメカニカルにそういう役割を担うといってよい。
 
 
学校の本質は「共同幻想」
 学校なんかなくてもいいんじゃないかと最初に提示して見せたのは、ぼくの記憶によると山本哲士(当時、社会学、教育学専攻の大学助教授)であった。それまで、教育の世界は何か変だと思いながら、ぼくは学校を無くせというところまでジャンプして発想したことがなかったので、正直、驚いた。しばらくして山本と吉本の対談(「学校教育思想」日本エディタースクール出版部)がでたが、吉本隆明には制度を無くせという発想はなかった。どちらかというと、学校は通過儀礼としての意味は有しているのだから、制度として継続することはあってもよいというように現実的にとらえていたと思う。その時、吉本は、自分の考えははなはだ折衷的で中途半端なところがあり、おもしろくないというようなことも言っていたと記憶している。
 山本の主張は、学校は表向きの教育的理念の実現化とは別に、「学校化」という影の働きをしていて、これが社会的に見ると悪の根源になっていると指摘している。そして、すぐに学校を無くせというわけではないが、学校のない社会を想像の世界に考えてみることも大切だと言っていた。これに対する吉本の対応は、ややどこまでも平行線を辿っていくようなところがあって、最終的には相譲らずというところだったように思う。
 ぼくの考えは両者の考えに引き裂かれたまま今日に至っている。あれから30年もたっただろうか。進歩がない。
 山本の教育学的な発言も中断した。ぼくの印象では沈黙が続いたという感じだった。学校教育に否定的な見解は長続きするものではない。それ(学校教育)は社会の根幹に根を下ろし、もはや社会の骨肉に一体化している。学校教育の否定、あるいは学校のない世界を想定してみるそのこと自体が学校の否定を含んでしまい、そのことはさらに社会の存続を否定することに繋がってしまう。その声に耳を傾ける一般の生活者大衆がいるはずもないことは、当然といえば当然のことだ。
 無知が栄えたためしはないというマルクスの言葉通り、知識の蓄積、知の継承、知の伝達もまた有効性を保持している。考えてみれば山本の教育に対する批判的な見解すらが、教育的な享受なしには考えにくいことだ。山本は、教えられたのではない、自ら学び取ったのだと言うだろうが、小学生段階のところで考えれば、読み書きに始まる基礎的な知の洗礼は、やはり歴史的現在としての社会から授かったものと考えることが自然だ。その事実なしに、どんな思考の深化や継続も為しえない。当時の山本の主張は、はじめから、知によって知を否定する矛盾を抱え込んでいる。
 義務教育が課される児童期の段階で、いじめ、不登校、暴力や非行、果ては自殺や殺傷が、ごく当たり前に、いつでも起こりうる可能性があると考えられるようになってから久しい。社会不安を産み、さまざまな教育改革が提言されたが根本的な改善の兆しは以前として見えてこない。
 そういう中で、学校対家庭(国家対家族)、先生と親、先生と子ども、親と子ども、親と親、子どもと子どもの関係は、以前と比べてもとても難しくなってきているような気がする。また、いっとき平穏に見えても、いつ緊張が走るか分からないという不安を、常時はらんでいるように思える。親和的と見える関係、協力的と見える関係も、何か事あればすぐに瓦解し、取り返しのつかないほどに疎遠で険悪な関係に落ち込んでいきそうなほどで、ほとんどに脆さといったものを窺わせる。本当は信頼で成り立つ教育が介在する問題は、誰にとっても難しく面倒な局面を迎えている。
 さて、ここでは、一応こうした状況論的、制度論的な問題は置いておくこととして、幼児期を過ぎた子どもたちがどのようなこころで学校と出会い、またその中でどのように成長・発達していくものなのかを中心に考えてみたい。
 こころの3つの次元の考え方からすれば、乳児期から幼児期にかけて、母親との関係や家族内関係の中で「個人幻想」と「対幻想」という関係世界は、とても幼い形ではあるがすでに心的には構築されてきていると考えることができる。また実際には、家族の共同性や親族なども含んだ地域の共同性にも触れ、家族間の「共同幻想」、地域の中の「共同幻想」を体験するとともに、自分の観念世界の中にそれぞれの「共同幻想」を個人のものとして、獲得、形成していると言える。
 しかし、この場合のその段階での「共同幻想」は、たいていの場合、子ども自身に対して親和的であり、比較的に「規範」とか「しばり」としての作用が緩やかで、逆に「つながり」の側面が感じられるものだと言える。その点では、はじめての現実社会の力を象徴するものとしての学校、すなわちその本質としての「共同幻想」とは質を異にしている。学校としての「共同幻想」。「共同幻想」としての学校。いろいろな教育的な修飾、道徳的な修飾を全て取り除いた上で言えば、学校の本質は、ただ「共同幻想」の一形態を意味しており、それ以外の何物でもない。観念的な粉飾を全て取っ払えば、そういう言い方ができる。そしてやや通俗的な言い方をすると、公立の学校は全て国家の代理店みたいなもので、その「共同幻想」は国家の「共同幻想」に準ずるものだということができる。
 このように見た場合に、いかに現代の子どもたちが歴史的にかつてない早さで高強度の「共同幻想」に出会い、場合によっては「個人幻想」とのщt立の関係を経験して心的な苦痛を強いられなければならないのか、ということに思い至る。これはおそらく江戸期までの子ども体験には無かったことだ。
 近代学校教育制度の発足は、日本ではおよそ200年ほど前になり、それ以前に国家的規模の「共同幻想」、すなわち「つながり・束縛」を内容とする「共同観念」とか「共同規範」が、子どもたちに直接に接触する機会は薄かった。現代社会はそうではない。それまでの、子どもから成人へという自然社会的な成長の過程は切断され、学習や技能や道徳的な修得が直接的、均一的に、社会に張り出した高強度の「共同幻想」から課されるようになっている。
 ここで、どうして「共同幻想」という吉本の概念を持ちだし、これを児童期の中で検討しようとしているのか、その理由のひとつを宇田亮一の文章の一部を引用して示しておく。
 
 共同幻想に関する吉本さんの核心的メッセージは「共同幻想にはрルったらかしてよい共同幻想とрルったらかしておくわけにはいかない共同幻想があるということです。
 ではрルったらかしておいてもよい共同幻想とрルったらかしておくわけにはいかない共同幻想を分かつ基準は何でしょうか。それは共同幻想と個人幻想のщt立の度合いです。щt立の程度によってрルったらかしておいてもよい共同幻想と、рルったらかしておくわけにはいかない共同幻想に分かれるのです。分岐点は「共同幻想が個人幻想を押しつぶすほどまでに逆立しうるかどうか」ということです。(太字は佐藤)
 
 もしも現実社会の力としての「共同幻想」が、個人を覆うように個々の子どもの「個人幻想」を押しつぶす力として作用しているとすれば、これはрルったらかしておくわけにはいかない。これは誰でもそう考えるのではないか。そして実際にそれはそうなっている。それは子どもたち自身のためという大人の勝手な考えや言い分の元に、学習や技能や道徳や規律の修得という名目でぎゅうぎゅうの詰め込みが課されるという形を取って、強大な「共同幻想」が子どもの前に立ちはだかっている、とぼくの目には見える。
 補足するならば、旧来の「公」と「私」の概念を持ち出せば、「共同幻想」は「公」にあたり、「対幻想」と「個人幻想」とは「私」にあたっている。また、「対幻想」と「個人幻想」の関係だけでいえば「対幻想」が「公」の役割を担い、「個人幻想」だけが「私」になる。いま、学校という「共同幻想」、家族や親という「対幻想」が、もしも、「公」となって子どもという「私」、すなわち「個人幻想」に覆い被さって支配し、押しつぶすような力で追い詰める場合があるとすれば、その時、子どもたちは確実に「引き裂かれた自己」を実感する。宇田の解説の文を緩用しながら言えば、こういうことになると思う。
 関係として洗い出せば、子どもと学校、場合によっては家庭と子どもの実情はこのようなもので、この関係こそは様々に露出した教育問題の元凶と言える。緊急を要する課題として、先ずは多くの教育関係者に、こころの3つの次元とその関係の実際を意識にとどめてほしいと思う。
 さて、ここまで来たところで、この1年半の間にぼくがホームページ上に公開してきたところの、『顔のある窓』の中の3つのシリーズ、「児童期の投げかけるもの」「子ども期の教育と遊び」、そしてこの「子どもという思想」がやっと1つに繋がったという気がしている。言ってみればこの3つは、「共同幻想」としての学校、学校という「共同幻想」が、「対幻想」(家族)、「個人幻想」(個々の子ども)に対して「強大な支配力」(学力・道徳的規律)として現象し、「対幻想」「個人幻想」に含まれる「個別的な事情、観念」に対して圧力として作用し、そればかりか時として「追い詰める」ものとなっていることを明らかにしたかったのだと思う。また先にも述べたように、この時家族の「対幻想」が「共同幻想」と1つになって、子どもという「個人幻想」を追い詰める場合も想定することができる。つまり、家族の「対幻想」は学校の「共同幻想」と一緒になって子どもを追い詰めることもあれば、子どもといっしょになって「共同幻想」に追い詰められる場合もあり、そうした二面性を持っている。
 いま、ぼくのこれまでに記述してきたことが、正しく伝えられたかどうかは分からない。ただ、こちら側の言い分としてはそういうことだと言っておきたい。
 やや不安なのは、3つの次元の幻想についての解説部分が舌足らずだったかもしれないことで、どのように受け止めてもらえただろうかという点だ。この点についてもっと詳細に知りたいならば、直接吉本隆明の著作にあたってもらうか、宇田亮一の解説文を読んでもらうのが早道だと思う。ぼくがこれを詳述するにはかなりの時間と手間を必要とする。そういう余裕がいまのぼくにはない。
 さて、学校という「共同幻想」は、個々の子どもたちの「個人幻想」を「追い詰めるもの」になっていないか、という問題意識がここで生じてくる。ここで少し分かりやすい言い方をすれば、学校に潜在的にこめられた国家意思は子どもの自由意志に対して、どのように関わっているかを見ればよいということになる。子どもの自由意志を、もっとくだけた言い方で、心的に自由な振る舞いというように考えれば、おそらく今日の子どもを観察するところから見て、学校という「共同幻想」が、かなりの規制や抑圧の力として感受されている場合もあるに違いないと思える。多少の注意と慎重さを必要とされるが、これは一方的に学校の物理的な力としての規制や抑圧の力が、必ずしも従来に較べて大きくなったということを言おうとしているのではない。逆に学校をはじめとして、家族や地域の中で、総体的に子どもの自由な振る舞いが寛容されるようになり、従来のままの規制や圧力としての力を、相対的に強い規制や圧力と子ども自身が感じとってしまうからかも知れないと考えている。もちろん、最近の傾向として、学習や技能の内容や習得事項の増加、あるいは基本的習慣や道徳的規律の徹底化や厳格化など、追い詰める力の微増は感じられる。だがおそらくは先に述べた相対的な抑圧としての力の感受、そしてまた子ども自身の耐性の虚弱化が主たる原因のように思われる。これは社会システムの高度化、分明の高度化から必然のように促されてきたもので、このこと自体を人為的に変えることはほとんど不可能に近いことだ。つまり心的な耐性の縮退はおそらく如何ともしがたい。こうなると、学校の「共同幻想」の強度をいっそう弱めていくことでしか、やや被害妄想的傾向を見せる子どもの「個人幻想」の被害感を軽減する方法はないように思える。そしてこれは現代の社会状況に鑑みて、唯一の正しい選択肢のようにぼくには思える。
 ここまでで、まだいくつか検討すべきところを残してきているように思う。いま思いつくことは、幻想それ自体にも水準があるだろうということだ。つまり、個人幻想、対幻想、共同幻想といい、これはどんな人のこころの中にもある概念として抽出されるものだが、こころや言葉などと同じように、子ども時代には未熟であることが普遍的である。そのために、本来ならば、高強度の共同幻想との出会いはもう少し先にずらすべきなのではないかと思われる。具体的に言えば、子どもの教育的管理は10歳以後のところにおき、少なくともそこまでは子ども同士の自治的な遊びを中心とした世界で、自然過程的な幻想の成熟を待つべきだと思う。今日ではこれが逆向きとなって、早期教育が言われるようになっている。子どもは野菜ではない。人間的なこころを持っている。こころの成熟には、乳児がなめまわしの中で環界を触知するのと同じように、外部の世界をしっかりと把握する心的ななめまわしの時間が確保されなければならない。
 また個人幻想の核そのものは、古くは胎児期の母親との関係に決定づけられていて、つまり、考えることによってどうにかなるというような、あるいは改変できるというような、そういう面は非常に可能性が低いものだと言っていい。同時に、その内容とするところも個別の身体生理などのような個体の構造的なところを根拠として生成してくるものなので、たとえば日常的なところで他者から「そう考えるのはおかしい」と言われてどうにかできるというものでもない。特に子どもの頃のそれは成人後に較べてそうした特徴が顕著だと言える。これもまた気づきこそが重要なので、気づきのための時間をしっかり与える必要がある。
 さて、我々はいまここで重大なことを考えていて、またその考えは重要な局面にあるということになる。それはどういうことかというと、高強度の「共同幻想」は個々の構成員のいわば「個人幻想」に対して、常に「同致」を働きかけるものだということを理解しておかなければならない。すなわち、価値観の共有、規律への従順さと遵守の姿勢など、「共同幻想」の内容に対しての徹底した懾伏を個人に求め、そのように働きかけるものなのだ。学校という「共同幻想」、「共同幻想」としての学校は、絶対的な宗教、あるいは法として子どもたちの上に君臨し、規制を働きかけ、信じて従うことを要求する。そんなつもりはないと言っても無駄なことで、「共同幻想」の性質上、そのように機能しているものであることは意識されなければならない。
 共同体を構成するみんなで決め、みんなで承認したという体裁の元に成り立つ「共同幻想」は、それ自体が今度は構成員を規制し、みんなをその支配下に置くものになってしまう。「共同幻想」としての学校は、強い縛りで、抜け出ることさえ許さない。もちろんそれは、どこまでも寛容、寛容、寛容、の体裁をとった形で、「子どものため」を貫きながら、しかし個人としての子どもが、学校制度という共同性の外側に存在することも、逃げ行くことも許さないし、認めない。こういう言い方は嫌われるに違いないが、これは他の価値を認めない、そして「共同幻想」を信奉しない「個人幻想」を洗脳できるまで許さない、心的な拉致の形式と呼んでいい。
 少年少女のグループをはじめ、あらゆる共同性には「つながり」があり、「つながり」には必ずルールが生ずる。またルールには束縛や罰則が伴ってくる。「つながり」が「結束」になると束縛や罰則の強度も高まっていく。共同性はその時、共同性の維持そのものが目的かのように変貌する。そして、共同性の維持を妨げようとする要因があれば、そうした因子の排除を何よりも優先するようになる。たとえ、それが共同性をはじめに構成することを可能にした一員の場合であっても、共同性を危機に陥れるような発言や行動があった場合には、厳しい罰則や排除やリンチが用意される。自分たちのための組織や制度が、自分たちをがんじがらめに縛り付ける組織や制度に変貌することはあり得るのだ。
 
・学校(共同幻想)の無意味と有意味
 読み書き計算や、技術的なこと、あるいは道徳的なことを学んで立派な人間になり、よりよい社会を作るために貢献しなさいという、学校の「共同幻想」の一面は、1つの宗教の教義のようなものとして子どもたちの頭上に君臨している。しかし、それが本当のところ、国民からどれだけの支持を得ているか、誰がこれを大切な教義のように信じ、心の底から篤く信仰していると言えるか、またこれを実践していたり、実践してきたと言えるものなのかはよくよく考えないと分からない。
 社会生活の継続を考えるならば、学校という「共同幻想」(道徳・規範)の教えが必要なこと、大切なことに違いないということは誰もが考えている。けれども、これは社会人としての表向きの考えで、個としての本音の実感とは言いがたい。自分たちの、これまでの生き方をよくよく考えてみれば「ヒトは、教養豊かで善行を積み、常に正義と公正を貫き、社会に尽くし、弱者を救済するというような立派な生き方が、そう簡単にできるものではない」と、ほとんどの大人たちは気づいているはずだ。また今日の社会の指導者層を遠くから眺めていても、立派なモデルになりうるような人は見当たらない。そしてその原因として、個々の人間にある自我とその欲望が煩悩となって阻害したり、この世界に藪のように張り巡らされた目に見えない関係が、絶えず個人の行く手を遮るからだということも、おそらく自他体験から実感されているに違いない。
 社会人となって、「学校で教わったことの半分はデタラメだったな」と実感しなかった人は、本音のところでは誰一人いないのではないかとぼくは思っている。学校で教わったように社会はできていないし、これからそんなふうに変わっていくという予測もできない。現実の社会は学校で勉強したこととは違う原理で動いていて、そのエネルギーの正体は分からないがあきれるほどにダイナミックで、けして勉強の時に感じた静的さとはほど遠いものであった。その正体はグロテスクだが、嫌なものではなかった。かえって、意外にもそのグロテスクさに圧倒され、完敗の2文字を浮かべるとともにすがすがしささえ感じたことを覚えている。こんなことは誰の口からも聞いたことはないが、ぼくがそう感じた以上ぼくが異常というのでない限り、その割合とか度合いとかは別として、少なからず同じように感じた人はあるに違いないと思う。人々は本来「公」(共同幻想)に生きるものではなく、「私」(個人幻想)に生きている。「私」の肉体は(たぶん精神も)、自然の諸々の動きと同じく、けして人間の注文の届かぬ世界に動いているもので、これは考えたとおりに支配できるというようなものではない。
 そうしたことの意味合いをも含めて、つまり、学業の中身、学校で学んだことはたいしたことはない。乱暴に言えば、実社会に役立つことはわずかしかなく、ただ形式的に中学卒、高校卒、大学卒などのどこを通過したかだけが問題になっているだけだ。そういう実感をそれは言っていることになるのだが、ほとんどの人は感じたことがあり、知っていてもそれを語らない。多分、人はその実感を闇に葬っているというのではなしに、実は沈黙によって、沈黙という表現の形をとって、口にしないのだとぼくは思うことにしている。人々がする沈黙の意味は重たい。だが、にもかかわらず、彼らの生活は雄弁にそれらの事情を物語って余りある。たいがいの場合、人々は高潔且つ立派で、人の上に立って指導する立場を自分に課そうとはしなかった。そして愚かさが同じ程度の隣人たちの中で談笑し、時に助けたり助けられたりするごく普通の生活、そのつましい生き方を選んだ。大いなる自己欺瞞を弄さずに、立派で指導的な立場など貫き行けるものではない。彼らの賢明なる普通の生活の選択は、大いなる自己欺瞞を拒絶した結果だと言っていい。それ以上に優れて人間らしい選択など、他にどれほど考えられるだろうか。いま学校に通っている多くの子どもたちの実態もおそらくそうだ。そして本当を言えば、ここでぼくがだらだらと書き流していることの全ては、学業にいそしんでいるように見える子どもたちのこころに映り込んでいて、全てお見通しになっているに違いないのだ。学校で教えられたこととは別に、自らの体験や判断してきたことを元に、そのことを教訓として先述した生き方を選択する。ただ彼らは、そのことを誰かに理解してもらえるような説明の言葉を持たないだけだ。語ることの無意味も十分に実感しているし、語ることの不毛と徒労も気づかれている。
 しかし、国家という「共同幻想」、ということは学校という「共同幻想」も、常時その構成員を内側に「つなぎとめ」ようとする作用を潜在させる。にもかかわらず、一般的な構成員の個々は、この束縛から自由であろうと欲する生物生命的な衝動を有している。ここではっきりと言いきってしまえば、すべての高強度の「共同幻想」は成立のその時から、構成員を細胞に見なし、それらの結合によってひとつの有機体を構成する意志を自己疎外する。つまりそのように一人歩きするようになると言っていい。だが、構成員としての個々はあくまでも個体として存在しているのであり、個体としての恣意性を放棄することができない。つまり、個体としての存在形態それ自体がそれ自体の理由によって、完全なる結合を拒絶することになっている。言い換えれば「共同幻想」と「個人幻想」の逆立の関係はそれぞれの成立のはじめから存在し、あいまいな矛盾を内在させ、そのことは生活者大衆の存在形態に中途半端さとあいまいさとの色彩をほどこすことに繋がっている。
 子どもを含めて、人の生き方が「適当なもんだよな」と見える側面を持つのは、おそらくはいま述べてきたような事情と関係している。つまり、本来的に、「それでいいのだ」ということになる。
 晩年の吉本隆明は、学校に通い卒業することを「割礼」と同じ通過儀礼と見なした。知識、技能を習得することも、道徳的な規律を学ぶことも、仮に全てにおいて優れた学業を修めたとして、そんなことにはたいした意味合いがないと断言した。ただ偉いと、褒めたり褒められたりするだけのことだし、錯覚した当人が威張ってしまうことがあり得るだけだというように。たくさんの知識を詰め込み、高度な技術を習得し、行動にもなんの問題もないいわゆる優等生、秀才たちが、すべて世の中のためにうんと良いことをしたかと言えば、そうではない。またうんと役に立ったかと言えば、そんなにたいしたことはないと見える。学業で、秀才や優等生で通ったところで、言われるほどに教育の成果というものは万能なものなのではないと思える。たしかに最高度の知は、たとえば物理学者が核の衝突や融合から大きなエネルギーを発見してそれを取り出す仕組みを開発したように、さまざまに文明に役だってきたとは言える。ただそれは知の蓄積の流れから当然の帰結で、そう考えると考えられているほどにすごいというものでもない。科学技術の進歩は進歩というベクトルしか持たず、誰がいつ新たな発見をするかは分からないとしても、誰かがいつか新たな発見をすることは約束されていると言うことはできる。ちなみに、科学者たちはおぞましい原子爆弾、水素爆弾を次々に開発したが、これを無くする方法はついに発見できずにいる。それができるならば、ぼくは教育をも含めた知の世界に脱帽し、文句ない賞賛を捧げるだろう。
 さて、ぼくらは普通、勉強をはじめとして、よいことを考えることはよいことではないかなと考える。また、よい行いをすることはよいことではないかなと考える。社会も学校も、だいたいはそんな考えでまとまっているような気がする。学校というところは特に、いろいろな面でよいと思われるようなところを選んで、子どもに身につけさせようとするところだ。吉本は、よいことを考えてこれを実行し、よいことをきわめてその頂に登り詰めようとするのは、人間の理性とか知性とか知の一般的な傾向であって、自然的な性向だと捉えている。つまり、そのこと自体には「たいした意味合いがない」のだとした。
 もちろん能力や環境やきっかけみたいなことから、努力してそれが可能になる場合もあれば、できない人々も出てくる。だがそれは出来た出来ないの違いの問題にすぎず、人間としての優劣の問題でも何でもないと言っている。本当に問題になるのはその先にあって、このように追い詰め働きかけてくる「共同幻想」の渦中で自らを「個人幻想」としてどのように振る舞い、どのような「個人幻想」を育てるかであり、おそらくは目立たず沈黙を伴う生き方の中に、「たいした意味合いが」隠れているものだろうと思う。
 つまり、現実世界の押しつぶされそうな力としての「共同幻想」を前に、「個人幻想」の側からそれをどう引き受けてどう「個人幻想」を貫いていくか、または放棄するかが問われるところであり、そこにぼくらは人間力の真価、「たいした意味合い」を探し、求めるべきなのだろうと思える。
 だいぶ回りくどい言い方をしてきているような気がするが、約めて言ってしまえば、学校の勉強や道徳的な教えなどは社会生活上、一部分を除いて人々が思うほどに役だつものではないということ。仮に学業が優れて優等生になろうと、実際に就職した先の職場ではそんなものは使い物にならずにまた一から教わることになるということ。そんな意味からも、しゃかりきに勉強したり、技術を学んだり、道徳的にああだこうだと考えなくてもいいんじゃないかという思いを述べたかった。関連して付け足せば、外部からの注入されるものとしての知識は、もしもそれが自分にとって本当に必要になったときはその気になって取り組めば、いつでも取得できるものだと思う。もちろん前々からやっておけばよかったという後悔は付きまとうだろうが、人生とはたいていそんなもので、人間は必要にかられないと全力を発揮できない。
 子どもを追い詰める「共同幻想」としての学校の側面について考えてきたが、学校が全て無意味なものかというとそうではない。また批判の先に学校をなくせという主張をこめているのかというと、それも違う。
 学校にはあまり意味のない内容とは別に、通過儀礼としての意味合いがある。つまり、一定期間の間につつがなくそこを通過すると社会の一員としての資格が持て、またそのように社会から認められる。これも実際中身的にはどんな通過の仕方をしてもよく、作家の太宰治がどこかで「カンニングしてでもいいから通っちゃえ」と乱暴に言っているとおりで、とにかく嘘を浮いてでも何をしても通過すればそれっきりで後は縁を切ればすむ。それで社会の一員となるわけだから、極端に言えば、スミマセンスミマセンで頭をぺこぺこ下げて通過できて、その後は知らん顔して一人前の社会人だと開き直ったらいいだけなのだ。これくらいの我慢は、それから先社会に出ればもっときつい体験がいくらでも待っているわけだから何とかこなしてほしいし、またこれくらいのことをこなせないようだと、先が思いやられるということになりそうだ。
 太古から共同性には通過儀礼はつきまとうもののようだ。以前に少し触れたことのあるキリスト教圏内で行われる「割礼」もその1つで、これは産まれてすぐに男の子はペニスの先の包皮を切り取り、女の子は陰核を切除するのだと聞いている。これも、そうすることで共同性の一員としての資格を有するようになる儀礼の一種だ。風習を行っている当事者間ではもっと違った意味合いを持たされているのだが、風習とは無縁の目からすればなんでそんな野蛮なことを続けるのかは分からない。
 結局のところ学校教育は、こういった通過儀礼の現代版で、しかも全世界的規模で行われる通過儀礼だということができる。おそらく世界には、民族ごとに様々な通過儀礼がいまも風習、習俗のような形で行われていると考えられるが、そういうものを一次的なものとすれば、学校には二次的な意味合いの通過儀礼という側面があるように思われる。
 いずれにしても通過儀礼とは通過することだけに意味のある礼法、形式までのもので、全ては信仰心とか強い思い込みのようなものから成り立ち、継承されるもののように思われる。ぼくらは、「割礼」を継承する人たちにとって「割礼」が意味あることだと思われていることと同じように、現代社会においては学校教育がなくてはならないもののように思い込む人々がいると考える。しかもその数は大多数だと思っている。しかし、そういう思い込みで、たとえば「割礼」を施される幼児の肉体的と精神的の痛みは何代にも渡って継続しているし、少なくても現在の日本の学校では、いじめ、不登校、暴力、あるいは無気力等々の形で、子どもの世界に異変がもたらされているという事実があり、これが思い込みのために払拭できないのだとすればこれを見過ごすことが出来ない。
 通過儀礼としての有意味をそのままに、しかし、学校教育世界を舞台に展開する子どもの異変と学校教育のある種の無意味さと、これらの関係をどう理解し、どのように配置換えすることで子どもたちを追いつめられる場所から奪回し、あるいは救済することができるのか、またそのことで自分を人間的な解放の方向に近づけていく事ができるのか、以前として入口を彷徨っているだけのような気がしている。
 
 
系統的発生論との関連から
・人類史と個体史の対応
 人間について、系統的発生論の見方からすると2つのことが言えるように思う。
 ひとつは、胎児期に、受胎後30日を過ぎた1週間の間に魚類から両生類、そして爬虫類、ほ乳類というように、脊椎動物の進化の歴史をなぞるように成長するということである。解剖学者の三木成夫は、その間の人の胎児の顔貌の変化を克明に記録し(「胎児の世界」中公新書)、ヒトの場合についてのこの論の実証をなしえたと思える。これは実際に地球上に起きた出来事である4億年とも言われる脊椎動物の進化の歴史を、わずか1週間の間にコンパクトに通過するということを意味するが、事実だとしてもとても神秘的で、いちがいには信じがたいところがある。しかし、水中に産み落とされた卵から水生(魚類)のオタマジャクシになり、それから半水生で半陸生を特徴とする両生類の蛙になる例からも、おそらくは信じてよいとぼくは思う。
 もうひとつ言えることは、胎児期に脊椎動物の進化を追体験するかのように成長を遂げるとすれば、出産とは、ほ乳類のある種から進化したぼくらの祖先が、はじめて地球上に現れた瞬間を象徴するドラマだと見る見方が成り立つように思える。そしてそれだけではなく、今度は新生児が乳児期、幼児期、児童期、青年期、そして大人へと成長、発達していく過程には、人類の祖先の出現から現在の人類の到達地点までの、心身の発達の全過程が対応すると考えられることだ。
 その中でも特筆すべきは、我々が感覚的にもすぐに了解しうるところの、1歳前後における直立歩行と言語の音声表出という2つの出来事である。これらは現代人のルーツになる人類が、はじめて二足歩行で歩き始め、言葉を発するようになった時代を彷彿とさせるように思われる。今日の人類に見られる特徴を全て兼ね備えた、我々の祖先の登場である。言い替えれば、ぼくらは1歳前後の頃の子どもの姿に、人類の黎明期を2重重ねのように思い浮かべることが出来る。もちろん、1歳までの乳児期に、そしてそれ以前の胎児期の後半から、そのための準備がなされていたことはここまでの考察の中に見てきたとおりである。
 さて、1歳を迎えた児童には人間としての初期的な諸条件は全て出そろい、ここからは大人に向かって心的にと肉体的にと、成長、発達に向けたベクトルをまっしぐらに突き進むだけだと言っていい。
 三木成夫の区分によれば、1歳児の「指差し・呼称音・立ち上がり(指示思考のはじまり)」は、年代区分から言えば100万年前の「原人」類の出現の時期に相当すると考えられている(「内臓とこころ」河出書房新社―図32 「ヒトの個体発生と人類の宗族発生」)。
 ちなみに、1歳未満のスペースには「表現音」の文字が置かれている。これはたぶん乳児が発する「ばぶばぶ」や「あわわわ」のような、言葉以前の「音」や「音声」のことを言っている。ここは歴史区分からは「猿人」類の領域に対応させられている。
 2歳の区切りには、「判断・数・抽象(概念思考のきざし)」の文字が充てられ、1歳と2歳の中間に「ナーニ」の文字が見られる。ここは「旧人」類の出現をおよそ20万年前とみて、その時代に対応するように描かれているようにも見えるが、他と違ってはっきりと対応づけている破線が引かれていない。乳幼児の方の年齢区分には3歳の区切りとの間に、「造形・ごっこ遊び・言語修得」の文字が見られるが、このあたりの成長、発達が、はっきりと「旧人」類の出現に対応づけられるかどうかが、やや曖昧さが残るからではないかと思う。「原人」類の成長、発達の延長としても考えることが可能だからだ。
 乳児期、幼児期としても定義の区別は微妙なところで、はっきりとした境界はとりにくい移行期のようなものだ。ただし、「造形・ごっこ遊び・言語修得」の文字があるように、子どもとしては大変な飛躍がここには覗われる。こころ、知能、そういう内面とたくさんの言葉の獲得とが、ますます人間らしく発達していることを感じさせる。
 3歳時のラインには、「自己意識(狭義の思考)」の言葉が記入され、ここはおよそ5万年前の「先史人」類の出現に対応づけられている。あるいは先史時代と呼ばれる時代に対応すると考えられている。これはおよそ5千年前まで続くとされ、年齢区分では3歳〜4歳となるが、次に続く「歴史人」の時代は10歳からとされて、5歳から10歳までの間は先史時代の延長、もしくは歴史時代までの移行期のような扱いで描きだされている。3〜4歳にあたる「先史人」、先史時代のこころの形成や成長は「絵かき」の言葉で象徴されている。以前、テレビなどでよく壁画遺跡が紹介されていたのを見かけたが、あれは主に先史時代に遺されたものか、と今さらながらに思う。そして、あれはヒトの一生で言えば、3〜4歳の時期に相当するのか、というようにも。
 いま、これまでのところを、「表現音」〜「ナーニ」〜「造形・ごっこ遊び・言語修得」〜「絵かき」というようにあらためて並べ直してみると、乳幼児の段階的な成長がよく現れているように思われる。またここまでのところでは、人類史の時代区分と子どもの成長・発達過程の段階との対応は、大ざっぱではあるけれどもほぼ妥当だという印象が持たれる。ただ、三木の図ではここからが問題を含んでいる。
 歴史時代の始まり、歴史人の出現は、時代区分で言えばいま述べてきたようにおよそ5千年前とされているが、これは子どもの年齢では明確に対応づけられず、およそ10歳のところを目安として、その周辺にあたるというように描かれている。そのように、ややあいまいに対応づけている。そしてここまでの言い方に倣えば、この10歳のラインには、「ギャングエイジ」の文字が置かれている。年齢区分のラインに置かれた文字だけを抽出してみると以下のようになる。
 1歳 指差し・呼称音・立ち上がり(指示    思考のはじまり)
 2歳 判断・数・(概念思考のきざし)
 3歳 自己意識(狭義の思考)
 10歳 ギャングエイジ
 三木の図では、4歳から5歳までの間には「読み」の文字が、そして区分のラインは引かれていないが5歳には「書き」の文字が置かれている。さらに、6歳〜7歳の間に〈入学〉の文字が見える。そして、注意しなければならないが、この帯域はそれぞれ先史時代と歴史時代との中間に、どっちつかずのあいまいな領域のように意図的に描き表されている。なぜか。
 それはひとつには、現在の子どもの生活を観察するものの目に、実際に飛び込んでくる子どもの姿がそのようなものであることによる。もうひとつは、その間に見られる子どもの姿が、はっきりと時代区分に対応づけられないからである。あるいはきっちりと区切ることが難しいからである。その間には、先史時代の特徴と、歴史時代以後とがごちゃごちゃに混在して象徴的に抽出できないからだ。つまりこの時期が、幼児教育などに見られる人工的な環境配備によって、自然な成長・発達過程を逸脱するものとして、意図的にこしらえたものであることをそれは意味する。三木は、言外にそのことに留意を求めているように思われる。以前に指摘したことがあるが、その図に付された解説文に、「なお、本来ならばこの図の『読み』『書き』は、人類の歴史時代に相当する、十歳以後に持ってこなければならない。」の文字が見えている。
 ここまでのところで考えれば、人類も含めて生物一般は、成熟した個体となるために種や類の歴史のすべてを身体的と心的にと通過するものであり、成長や発達とは概ねそのことを指すものだと考えてよいように思える。
 ところが人間だけにおいては、おそらく近世の後半から、特に子ども期への知的な介入とそれによる成長・発達の再編が試みられるようになり、近代学校教育制度の発足以後、一挙にそれは人工的な配置の元におかれることになったと言うことができる。つまり子どもはみな学校生活に放り込まれるようになった。これにより、およそ4歳から10歳までの子どもの生活には、先史時代の要素と歴史時代の要素とが入り交じり、区分けしにくいところまで進んでいると言うことができる。 三木の「読み」「書き」は十歳以後に、という指摘は、言うまでもなく人類史の発達史から眺めればという意味合いを含んでいるが、これが現在社会では6歳のところに配置され、未だ三木の指摘したこの区別が現在の教育課題として取り上げられるには至ってはいない。それどころかますます自然な成長と発達の人工的な配置換えは勢いを増し、教育の名を冠して児童から幼児、幼児から乳児、そして胎児教育へと広がりを示す一方、生涯教育として児童期以後に向かっても順次拡大し、ついに生涯の終わりにまで射程を伸ばし続けてきている。
 ここではこれ以上踏み込むことをしないが、このことは人類の文明における、破滅するまで発達し続けるほか無い運命同様に不可避の必然と見なすほか無いものかどうか、検討する時間はあるものと見てここに提起しておきたいと思う。つまり、もう少し自然な成長・発達の流れを重視しなくてもよいのか、というようにだ。
 
・共同体段階と個体史の対応
 三木茂夫のとらえた人類史と個体史の対応について見てきたが、そこで注意を惹かれたのは歴史時代の始まりと人間の子どもの10歳を対応づけているところで、そこに本来的には「読み」「書き」の文字が置かれなければならないとしているところだ。歴史時代とはその名の示すとおり、文字文化がおこって歴史が刻みはじめられるところに依拠するところで、これに「読み」「書き」を当てることに異存はない。ただ、なぜ10歳に該当するのかについては根拠があいまいである。
 
桃源郷の世界は三歳児で、その印象的な幕を開けるが、その後の観察によると、この面影は十歳児を頂点として最後の燃焼を尽くすがごとくに見受けられる。(同前)
 
 つまり、言ってみれば、観察して見てたらそうだった、というだけのことだ。三木の観察眼を疑うわけではないが、こちらとしてはもう少ししっかりとした根拠が欲しいところだ。それで考えてみると、三木の図にも書き込まれていたが10歳というと「ギャングエイジ」、小集団の徒党を組む(個体史が生み出す共同性=共同幻想)という傾向があることと、他に器官としての脳がだいたいそれくらいの年齢のところで発達を止めるということが広く知られている。また、10歳を過ぎると急速に「子どもらしさ」を失っていくように見えるという、三木と同様の観察上の体験を思い起こし、やはりそういうことかなと次第に納得されつつある。
 ここではもう少し根拠をたしかなものとすべく、吉本隆明の3つの次元としての共同幻想、対幻想、個人幻想と、人類史の中に展開される共同体の段階との対応づけについても考察を進めてみたいと思う。彼もまた三木と同様に系統的発生論のスタンスを取っていて、子どもの成長と人類史の展開とは対応づけられるという考え方をしている。
 吉本の場合、彼の共同体論は国家論を主体として、そこから導かれた考え方だということができる。まず、吉本の採る歴史区分は、原始未開、前古代、古代という3つに区切られる(古代以降については歴史年を踏襲している。また原始未開以前についても特に言及はない)。そこで、古代というのは国家が国家の条件を充たすようになった歴史的な時間の帯域を指す。吉本の言うところを要約して言えば、血縁の名残をのこす氏族的な社会の段階を超えて、部族社会あるいは部族国家の成立の時点にはじまり、いくつかを併合した統一部族国家の成立までが「古代」世界ということになっている。また、「原始未開」とは、共同性が偶発的にしか形成されない段階で、そこでは家族意識(対幻想)も個人意識(個人幻想)も、共同意識(共同幻想)と区別無くごっちゃになって集団生活が営まれている、そんな段階を指すということができる。「前古代」とは「原始未開」と「古代」との間にあり、全体的な共同生活は維持されながら、家族として閉じられた生活や個人的な生活も並列に成立するようになった社会を思い浮かべればよい。簡単に言ってしまえば、血縁を主体として構成された共同社会といってもそんなに支障はないと考えられる。後期には、個人生活(個人幻想)、家族生活(対幻想)、親族、氏族(狭義の共同幻想)というところまで拡張された社会生活が営まれていたと考えることができる。家族生活が展開されるようになったことと、まだ部族社会にまでは拡張されていないということがこの時期の特徴と考えれば分かり易い。
 このあたりの見解は素人の域を出ないので自信はないが、およそこんなところで把握しておけばよいと思う。
 次に、吉本の共同体の組み方を主として考えられた時代区分と子どもの発達段階との対応について考えてみる。
 ここで一番安易で、また多少の妥当性もあり得るように思われることは、乳児期を「原始未開」とし、幼児期を「前古代」、児童期を「古代」に対応すると見なすことだ。しかし、ここまで考えてきたところからも分かるように、特に児童期という段階は学校制度と込みに設けられたという側面があり、幼児期から児童期へのステップをそのまま「前古代」から「古代」への移行に対応させることはできないと思える。
 ぼくとしてはまず、言葉を媒介として、獲得以前を「原始未開」、以後を「前古代」のはじまりと考えておきたいと思う。そう考えると、だいたい2歳前として、これは乳児期に重なって、これを「原始未開」に対応すると押さえておく。共同性の段階としても、個体の幻想性の発達の段階としても、共同幻想、対幻想、個人幻想の3つの次元はまだ未分化でありごっちゃになった世界だと言うことができる。次に「前古代」に対応する時期を考えることになるが、はっきりしていることは幼児期とされる2歳以後に始まるということである。先の考えからすれば、これを児童期の入口までと自動的に設定することはできない。「前古代」とは、共同体の段階としては氏族共同体という、いわば血縁にとどまる共同性に拡大した段階までを指す。このことを考えると、たしかに児童期からの学校生活は血縁を超えた共同生活に入っていくことになり、そこは部族国家(低強度の共同幻想)の成立に対応づけられるように思い、児童期を「古代」に対応づける考えも出てくる。けれども厳密な意味でいえば、統一部族国家(高強度の共同幻想)の成立を起点とする「古代」での社会生活との対応でいえば、共同社会の一員、あるいは構成員として認められて参加する以後だと思われる。それは今日の社会では形式的には18歳以後、もしくは20歳の成人式を迎えて以後のことになる。ただそれは形式上のことだけで、実質はそれ以前ということも言える。日本の昔のことで分かることからいえば、10歳から15歳くらいのところで元服が行われていたり、それくらいのところで女の子が結婚して花嫁に迎えられたり、あるいは大人相当の働き手として社会生活に組み入れられていくことになっている。つまり、およそそれくらいのところの年齢の段階で、「前古代」と「古代」との実質上の分岐点というのはあるように思われる。
 ここまでのところでも大変曖昧にしか論じられないのではあるが、ここで何を問題にしているのかといえば、「前古代」が氏族的共同社会という血縁の社会を生きた段階として、すなわち統一部族国家社会(「古代」社会)とは未だ無縁な社会を、子どもの年齢区分のどこに対応づけることが、本来的に妥当なものであるかということである。
 ここまで考えてきたところからいえば、どうしてもぼくには2、3歳に始まる幼児期を含め、さらに児童期に引き延ばして「前古代」を考えることが妥当に思われてならない。逆からいうと、本来的にその年代においては家族共同性や地域の共同性から発生する共同幻想を主体として、それとの関わりで個人幻想を育んでいく時期にあたっているという気がする。言いかえると、そこに早期に国家的規模の高強度の共同幻想(学校)を挿入し、介入させるべきではないのではないかと思う。介入させるとしても、本格的には児童期以後が相当し、また少なく見積もっても10歳以後という、三木茂夫の「読み」「書き」は10歳からという発言との時期的な同一性が浮上してくる。これはギャングエイジという言葉が示しているように、10歳くらいの年齢の段階で人間は自らの欲求に応じて、非血縁共同性を構築するところからも考えられるところで、外部知識としての「読み」「書き」にも対応できる条件が整ったことを意味するように思われる。
 言うまでもなく、知識的にも能力的にも何の蓄えも研鑽もなく、専門的に時間を注ぎ込んできているということでもないから、ぼくのこうした試みというのは何ものでもない。また書ききれない、言い切れないところが山ほどあるということも十二分に承知している。ただ、誰からも教わらないところで、誰にも教えてもらえないところで、よく分からないなあと思うところを追求し、少しずつでも自分に納得させるというところにこれらの考察は成り立っている。その意味で、分かってもらえないだろうなと思いつつ、自分のためだけにこの考察は進められている。もうこんなことは早々に切り上げてしまいたいところだが、見込みとしては、もう少し先まで進められるのでなければならないと思っている。
 
おわりに
・子どものこころの成長と発達
 系統的発生論を元に考えたときに、胎児期というのは要するに小さな点のような原初の生命体にはじまり、原生生物から脊椎動物までの歴史を経過し、人類にまで至る進化をなぞるように成長するものと一応は考えてみることができる。さらに、さまざまな人のさまざまな考え方を参考にして考えると、胎児期は動物的段階までというより人類の歴史をも含み、おそらくは現代人のルーツといわれるところの起源に遡って、それくらいのところまでに獲得した人間的な特徴や発達の段階を、遺伝的にすべて付け加えられると見なす考え方もできるように思われる。
 胎児期で一番おもしろいと思うところは、言葉を介さずに母と子のコミュニケーションが成り立つところだ。これはまだ言葉をもたない人類の歴史段階に対応づけて考えることができ、当時は言葉を介さずに、しかし、母親と胎児の間のコミュニケーションのとり方に相似したコミュニケーションはあり得た。
 これはバリエーションのひとつとして男女の間の恋愛を考えるとよく分かるが、言葉を介さなくても恋愛の相手の気持ちが分かるということがある。挙措振舞いやまなざし、その他にもさまざまな察知の要因はあるのだろうが、ちょうどアメーバーの触知のように、心身がひとつの感知器のようになって相手の気持ちを感じとるのである。これがピタッと当てはまったときに、恋愛は成立するということになる。しかし、これには常に錯誤や錯覚が付きまとうことも事実である。勘違いというやつである。これを延長したところに占いや透視という類のものが考えられる。すべて人間の心身を感知器の働きに集約させるもので、個体によって感度の違い、感知器としての精度の違いというものは存在する。これらの起源は、母親と胎児の間に遡って考えることができ、これは現在の我々からすれば強い思い込みが支配する世界と言うことができる。そしてそれは人類の原初の世界にあたりまえに展開された世界だと言うこともできる。まだ言葉のない時代のコミュニケーションとは、そういうものに違いないと思える。それは言葉を獲得した以後にも存在し続け、現代社会においても胎児と母親の関係世界に継承され、そしてよく観察すれば子どもの世界にも見られるし、先の恋愛関係の中にも存在したように成人の間にも痕跡を留めるものだと言うことができる。
 胎児は、胎内にいて、ひとつの感知器と化して存在する。母体の胎児に対する関心や無関心、愛情や嫌悪、それらのいちいちを精巧に感知する。継続して安心と信頼が胎児にもたらされるか、不安と不信が植えつけられるのかは、その後の生き方に大きく影響する。
 ともかくも、目には見えずはっきりとは理解しがたい形で胎児期の成長はあり、しかも運命的と言っていいほどの重大で重要な経過を胎児はそこで辿ることになっている。もちろんそれは、考え方によってはごくありふれた経過を辿ると言いかえても同じことだ。
 出産を無事に超えたところで、次に訪れるのは社会に独り立ちしていくまでの成長と発達の道のりである。
 はじめに2歳までの乳児期であるが、この2年間という人間だけに見られる長い、母親(養育者)に100%依存しなければならない期間は生物史上から見ても不可解と言うしかない。おそらくそこには人間だけが辿らなければならない事情があるのであって、吉本隆明はこれを、母親を介して乳児に人類史の現在的な水準を転写するために要する期間だというように解している。他の動物群とは違い、人間だけが胎児期と出産後の数日間だけでは足りずに、2年という養育期を持たなければならない事情とはおそらくはヒトと他の生き物とを分かつ何かであって、人間の心的な世界以外を考えることが出来ない。
 いまのところぼくには、人間の心的な世界の現在的な水準について解説できる力がない。何となく了解できる気がするくらいで、細部にわたって詰めていくことは今後の課題に属している。ただ今でも言えそうなことは、人類が心的な世界を携えて誕生してから現在までかなりの長い期間を経過しているが、その間の心的な世界の高度に複雑な成長と発達、そして現在的な水準を乳児に獲得させることは、一夜にして成し得るようなそう簡単なことではないということだ。果たして胎児期としての1年、乳児期の2年を短いと解すべきか長いと解すべきかは分からない。だが、その期間を経て、他の動物の生涯のスタート地点と同じようなスタート地点がそこから始まるのだというような気がする。一方が短い養育期間ですみ、もう一方が長い養育期間を要するということは、そういうところの違いを明らかにしているのであろう。
 他の動物がその動物の生涯のはじまりを、自力で立ち上がり歩行できるようになる時点に求めるとすれば、人間の場合には遙かに遅く、自在に二足歩行が可能になり、また言葉を解し自らも言葉を発するようになる2歳頃と考えることも出来る。
 幼児期とは、だからそういうところに始まり、そこから少しずつ母親の懐を離れ、家族空間を存分に味わい尽くし、やがて行動範囲を家の外に拡張していき、庭から門へ、門からその外へと拡大していくことになる。
 その間、心的には父親や兄弟姉妹、祖父母などの家族関係の中で、情動や理性や、あるいは言葉の広がりや深さを獲得したり体験したりしていく。それは内臓幻想であり、体壁幻想であり、対幻想、共同幻想、個人幻想というものであり、同時にそこでは一切の受容と表出の同時進行が行われているということになる。もちろん、身体的、器官的な成長と発達があることは言うまでもない。
 幼児期というのは、詳しい心理的分析というような見方を別にすれば、家族世界から徐々に外に向かって歩み出す時期を特徴とするが、どの年齢のあたりまで引き延ばして考えることがよいのかは難しいところだ。現在の社会においては、小学校に入学する前の5歳くらいのところまでと区分するのが一般的である。が、これはこれまでの考察に見てきたように、学校制度を前提において6歳からを児童期とするところから、ある意味逆算して考えられる5歳という年齢区分である。
 昔の子どもの暮らしや生育の様子などについての民俗学的な見解を加味して考えると、当然のことながら5、6歳の頃ははっきりと区分けされるようなことは何事もなく、ただ地続きの延長上にあったとしか考えられない。その年頃に、家族の無意識の視線から外れ、子どもが一人単独で行動するとしても、小さな集落の範囲以内の少年少女たちと遊ぶだけにすぎなかったであろう。7、8歳、あるいは9歳、10歳くらいまでは交通の手段と言っても自分の足以外になかった少年少女たちは、精一杯がとなりの小集落を訪れるくらいで、しかもその頃には子守や薪割りのような手伝いを言いつけられて、それ以上に行動範囲を広げることは難しかったと思う。
 そういうところから考えると、本来なら10歳まで延長して幼児期とするか、あるいは吉本が言うように「少年少女期」という名に変えて、幼児期との境目、あるいは思春期、青年期との境目を組み直すことが正しいような気がする。
 いずれにしても、昔の農家の庭先、門口付近まで行動範囲を広げた後に、はじめは大人と一緒に、それから少したって慣れたら兄や姉がいれば、兄や姉と一緒に外に出て遊ぶというようになる。そのうちに外での特定の遊び相手が決まってくるようになると一人でも出かけていくようになる。この時、遊ぶことには違いないのだが、人数的には1対1の時もあれば3、4人で遊ぶことも、それ以上の人数で遊ぶこともあるに違いない。その際に、遊びを通じて子どもたちはいったい何を学び合っているかなどは一概に言えないとしても、それまでの子どもたちには家族内世界の体験しかなく、そこで身に付けた習慣、ルール、思いやりや優しさの気持ちといった、一人一人バラバラなものをバラバラに出し合って遊んでいるのだろうとは言える。当然、そこから学び取ることもたくさんあるはずで、母子関係、家族関係以外の関係世界を学んでいくそれが初歩的な段階だということもできる。そうして徐々に関係の世界は広がりと奥行きを持つようになり、やがて社会の一員としての自覚が生じるステップアップした段階へと登り詰める直前まで、それは継続していくと考えられる。具体的には地域の共同性に接触していく時期もその過程の間に想定できよう。
 もとより、これらの全ての成長と発達のステップは根源的には「食と性」、すなわち個体維持と種族保存に関わるもので、とりわけ関係世界への意欲は生命衝動の発現と見なし得る。生命衝動はまた本質的には性衝動を伴うもので、その考え方からすれば、子ども期の現実社会的な外部世界との接触は、関係として言えば家族内性の外延、言い換えれば、個々の子どもにそれまでに蓄積された母との性的体験、家族内での性的体験、いわゆる対幻想、家族共同性における幻想であるが、それらを表沙汰にする意味合いを持っているということができる。ぼくにはそれが、究極に求める相手の選別を見据え、相手を見誤らないように用意周到に学習していく初期的段階のように感じられる。もとよりこれは根拠の薄い仮説にすぎないが、少なくとも最初の個人としての外部世界との接触には、拵えられた性的と性格的との二重の意味合いでの外化表現は、成長、発達過程上必須と思える。そして外部からの反応表現をもって、自らの成長、発達に資することを繰り返していくのだと考えられる。さらに、その関係世界がスムーズに行くにせよ、ぎくしゃくしたり停滞したり断ち切れたりするにせよ、数多くの経験の広がりと奥行きを持ち、修正したり軌道を変える試みを体験することにより、自力的自立的な成長と発達の過程を歩むことが出来るのではないかと考える。
 それはどうしたら果たされるか。簡単すぎるくらい簡単なことで、子ども同士の遊びの出来る環境と時間をたっぷりと与える、ただそれだけのことだ。
 遊びは無為で無駄だという考えがあることはよく知っている。そうであるかもしれない。そうではないかもしれない。
 だが、人間の子ども時代が遊びとは切っても切れない時期であることは、人類の長い歴史が教えるところである。そうである以上、その時期が人間にとって無為で無駄な時期とは到底言えないことで、人間以外の全ての生命体にとってもそういう一見無意味な時期を生涯に持つことはあり得ないことだ。つまり、そこには必ず何らかの理由がある。逆に無為に見えるからこそ重要な理由が隠れている。そう考えて、子ども期の育て方は遊びをモットーにすべしと思うのだが、遊びを通じて何をどう身に付けることが出来ると言うように、実証的に価値ある何かを並べてみせることは出来ない。
 実際に社会に役立つ知識や技術、社会規範の修得などは10歳以降から本格始動しても間に合うなど、ここまで考えてきたところから述べてはみているが、それもまた無知蒙昧の輩の戯言と一蹴されるに違いない。それでも、どうしたって、こう考える以外にないとぼくは思う。ぼくの目と耳は子どもたちから教わってきたのだ。異様なふるまい、異様な言動、不登校、いじめ、権威への迎合、校内暴力、家庭内暴力、果ては自殺、傷害、殺人等々。昨今の社会現象として常態化しつつあるこれら児童期を中心として起きている諸問題の原因を探れば、どうしても胎乳児期の母親との接触の仕方と、小学校生活で知識や技術や道徳的な規範を、ぎゅうぎゅうに注入していく在り方の中にしか求めることが出来ない。特に共同幻想としての学校の教育、学習の在り方は、子どもの大脳皮質に語りかける、いわゆる外部知識の詰め込みで、内臓腸管系すなわち大脳辺縁系の働きを無視するばかりか重要なその作用を狂わせる元になっているとぼくは思う。ここでもう一度、2つの引用する記述に目をとめてほしい。
 
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
 
脳は端末器官とつながっていて、お互いが連動してはじめて機能できるのです。唯脳論のように脳が独立して存在しているわけではありませんし、脳が端末器官に対して絶対的な優位を持っているわけでもありません。脳は筋肉のためのシステムです。内臓脳(大脳辺縁系)が腸管の平滑筋とともに働き、体壁脳すなわち大脳新皮質が感覚系、運動系とともに体壁系の錘体路系に支配される筋肉とともに働いているのです。              ーーーーー中略ーーーーー
腸の平滑筋肉運動は内臓脳に指令を出しています。脳が指令しているばかりでなくて、腸から出ている指令もたくさんあるのです。つまり、心は脳にあるのではなくて、内臓腸管系がうみだしているのです。腸の動きが生命の生きる意欲の心をつくりだしているのです。つまり五欲(財・名・色・食・睡)の源は腸管の蠕動運動(腸の動き)にあり脳はそのうごめきを外界に示す窓口にすぎません。
 
 以前の項で取り上げたことだから繰り返しは避けるが、要するに、大小、または強弱の違いはあるが、総じて現在の子どもたちはここに示す本能を含めた内面世界のバランスが崩れている。特に意識の表面層に深く関係する大脳皮質への外部からの注入が過剰で、本来ならば先輩格であるべき大脳辺縁系や本能にまで逆に影響が及んでいると見なすことが出来る。おそらくこのことは現在の児童期のみならず、成人に達した後に突然異常なふるまいを見せるとか、鬱病気味になるとかの軽度の精神疾患をもたらす元になるのだろうという気がする。それらのことの考察はまた別として、ここでは次に締めくくりの項に歩を進めていくことにする。
 
・「遊びがすべて」を4年生までに
 東日本大震災から今年の夏の異常なほどの暑さにいたるまで、自然というのは人間の予測を遙かに超えていて、未来永劫に渡って敵わぬすごいものだなあとつくづく感じた。人間の知恵や英知というものを支持したいと思うのは山々だけれども、大自然の前にはまだまだ浅いものだと考えるほかはない。
 子どもの世界に目を転ずると、不登校、引きこもり、いじめ、自殺、暴力など、そこには歴史的に例を見ない激震が今も続いて、我々の英知も何もこれを鎮めることに成功してはいない。
 現在のところまでではっきりしていると言えることの1つには、子ども(本当は大人も)のこころも肉体も、先の「自然のもろもろの出来事と同じく、われわれの注文のとどかぬ世界で動いている」(三木成夫「ヒトのからだ」から)というそのことであろう。
 およそ30年前に小学校教員となったぼくは、ずっと「子どもって分からないもんだな」という思いを胸に秘めてきた。自分の子ども時代の体験と、児童理解の研修や教員経験を積み重ねながら、それでも分からないなあと言う思いは続いた。それは人間が分からないなあという思いと共通する。人間とは何か、生きるとは何か、こころとは何か、子どもとは何か。その後ずっと自問自答を繰り返し、先人の考察に学び、現在にいたっている。
 ここまで文章化してきたところのものは、だからそれらの全てをはき出すようにして綴られたもので、良くも悪しくもこれが現在の自分の精一杯の思考の力を著したものだとは言える。何と貧弱で、浅く狭い知見にすぎないと笑われるかもしれない。
 ついでに言っておけば、教員に成り立ての頃のぼくは、道徳的と倫理的と、子どもたちの理性的な部分に対して語りかけることを中心としていたと思う。理解してもらえたという手応えはあまりなかったし、どうしたら分かってもらえるのか、子どものこころがよく分からないというようにも考えた。
 その当時は、頭で考えたことを頭によって理解してもらおうとしていたのだと思う。今思うと、それはぼくが「人間のイメージ」とか「子どものイメージ」とかを勝手に拵えていて、実際の子どもを誤解しながら子どもに向かい合っていたので、ほとんど通用しなかったのではないかと思う。
 子どもはぼくらのイメージする子どもとは違う。大人たちよりももっと自然に近い生き物で、それこそぼくらの注文どおりに動いたり振る舞ったりをしてくれるということはない。時に大地震や津波、異常に暑かった今年の天候のように、人間社会のコントロール下に置くことが出来ないような、そんな動きが当たり前の世界に子どもは生きていると言っていいと思う。それでも、自然にはある法則性があり、大地震や津波や異常気象にも理由がある。自然を完璧にコントロールすることは不可能だとしても、その法則性や理由といったものを考えて、その先にどのような折り合いの付け方が出来るのかを考えることは出来る。今日の子どもの世界に展開されているような出来事にも、今現在考えられているよりももっと違った要素が関わっていて、そのためになかなか解決の糸口が見いだせないのではあるまいか。つまりは「子どものイメージ」、その身体的と心的と、どのように生成形成され、また成長・発達していくものかが、生命の根源に遡って書き換えられ、考え直されなければならないように思われた。
 このことは、本来専門家や現役の学校や教育の関係者、あるいはその道に詳しい有識者たちの仕事であろう。それがうまくいっていればぼくのこんな試みは不要と言っていい。
だがつい最近のニュースでは、全国で不登校が12万人という数字が伝えられるように、相変わらず好転の兆しが見られない。
 ぼくの考えでは、学者や教育批評家たちは先行する知識や思考には広く目を通して詳しいが、所詮、「ああすればこうなる」式の、いわゆる物事を大脳皮質の窓から眺めた1つの景色のようにしか見ないから、効果の出ない施策しか打てないのだろうと思える。そうしてうまくいかなければ現場の教員の力不足のせいにしたり、家庭の協力や地域の協力がないせいにしたりして逃げ込む。受験で培われてきた頭の良さ、秀才や優等生の頭の良さというものはその程度のもので、大脳皮質依存症候群とでも呼んでみるしかない。
 ぼくがここで考えようとしてきたことは、知力やその他の能力の及ばぬところで、あちこちでとんでもない誤解や無知をさらけ出すことになっているかもしれない。だがそんなことは後でいくらでも訂正すればすむことで、「子どものイメージ」を現在という狭い時空から生命の進化の歴史の中に置き直し、人類史の中に置き直し、また内臓と体壁、本能と情動と理性、あるいは個人幻想や対幻想や共同幻想という、それぞれに次元や位相の異なる窓から眺め直して、段階的に成長と発達を見つめ直すことが眼目であった。それが下らぬことでつまらないことであるとするならば、どうか知的な切り貼りではない、権威あるもの考えをそのまま自分の考えとするのではない、自分で考え抜いた考えというものを教えてもらいたいものだ。現在の社会では、マスコミ等で取り上げられたことでないと市民権を得られないのが通常だ。だからといってそれに靡くようなことばかりを言っていては、いつまでたっても子どもの世界は現状のままに追い詰められた状態を継続するに違いない。もう少しはっきりともの申す人が出てきたり、本当に考えることの苦しさを引き受ける人が出てこない限り、現状は変わらない。
 ぼくはここまでの表現が恥ずかしい水準にあるものと考えている。けれども、それを誰かに指摘されたら、言い返すためにいつも用意している言葉が1つある。「じゃあ、自分でそれをやって見せろよ」。その言葉である。
 さて、本当はまだ言い尽くせないところ、考え尽くしていないところが山ほどあるわけだが、いまのところは踏み込んで考えていく余裕がない。ただ行きがかり上、何も結論めいたものがないというとつまらない気もするので、あまり自信のないところだがざっと具体的な提案のようなものを最後に述べておきたいと思う。
 ほとんど全世界的に宗教的な信じ込みや、思い込みに支えられた学校制度を解体していくことは現実的に言えば不可能なことだ。割礼のような、地域的な風習や習俗や習慣にまで生活に密着した儀礼や儀式には根強いものがあって、そこに科学的な真はなくとも宗教的な真が残存する限り儀礼は残る。
 そこで、制度はそのままに、中身を大きく変えていくことを提案したい。ここまでの考察にも述べてきたように、現在の幼児期から児童期にかけて、本来なら、経験や体験を通して、地域的なところまで拡大された中での、「関係」の習得を基本としなければならない。ところがこの時期に、外部、すなわち現実社会からこれでもかこれでもかと言うほどに、知識、技術や規範を詰め込まれることになっている。自然な生き物としての子どもの、自然な成長・発達を考えるならば、そこはもう少し緩やかに、遊びが主体の集団生活、共同生活の時期が設けられなければならないと思える。柳田国男が微妙な言い回しで暗示したように、ほんとは出来るだけ監視の行き届かない、遊びに全力を注げるような、無意識の体験を積み重ねる時間的な余裕が与えられなければならない。それが出来たら、人間の子どもにとっての歴史は終焉を迎える。つまり、歴史的に言って子ども世界の理想は、それ以上のことはないと言っていいことになる。
 これがあまりに極端だとするなら、多少の勉強的なところは残してもよい。体育、音楽、図工の授業。あるいは昔話や物語を読み聞かせるようなことや算数的な体験、自然観察程度のこと。しかもそれらはみな遊びと区別がつかないようなやり方でやることが良い。これは現行の制度から言えば、1年生から4年生くらいに渡って行うことにする。この間はもちろん、外遊びとしての無意識の体験を積み重ねる時期に相当するから、出来るだけ道徳的なこと、規律、規範めいたことは外から押しつけないことが大切だ。自分たちの中から芽生えてくるものを大切にする。すべて、いざこざや諍いのようなものも、成り行きに任せて大人が口を挟むことはしない方が良い。これは、人類の歴史上の成長・発達の過程にもあることで、その経過をたどることで、逆に子どもたちが歴史の現在性に出会うときに、スムーズに移行することを可能にする。
 10歳になる5年生からは、多少の詰め込みが課されていくことになっても問題はないと思われる。知識、技術、道徳的規範を本格的に指導していく時期として考えられてもよい。そこからはそこからでいろいろなやり方が考えられるが、そのやり方は現在の大学の在り方に関係するところで、本来なら大学間に序列や優劣をつける考え方が解消していることが望ましい。そうでないとどうしてもそこまでの学習が受験に引きずられて、受験に偏ったつまらない学習過程が組まれてしまいがちになる。出来るだけそうならない方がいいに決まっている。
 言おうと思えばいくらでも言ってみたいことはあるが、ざっと言えばこんなところが主張してみたいことの根本にかかっている。ただこんな主張は到底理解されるとは思えないから、自然、力はこもらない。
 ここでぼくが唯一、力こぶをむき出しに主張しようとしてきたことは、子ども理解の視座をこんなところに転換してみる考えからもあり得るんじゃないかというようなことだ。それがどう評価されるかはどうでも良いが、拡大されたその視座そのものについては、それぞれの立場や位置からその適否を含めて是非検討してみてほしい。ダメであれ、ダメでないであれ、結論はその視座をめぐって行われることだから、視座そのものは意識化される。とりあえず、そういうところまで行き着けたら、ぼくの試みにも多少の意義はあったということになると思う。それだけでも、よい。
                                            了