1 心とは何か―三木学からの接近
 
 三木成夫さんは、第一部で見たとおり、心の働きを内臓系の中心である心臓に、頭の働きを体壁系の中枢である脳に代表させて考えています。ここではもう一度それを振り返り、自分の理解を確かにしておきたいと思います。
 心臓と脳は、それぞれがまた植物性器官と動物性器官の代表です。
 脳以外の動物性器官は、直接脳の支配を受けるが、植物性器官は脳の支配が二義的で、脳に関係なく独自に機能するといった特徴があります。
 動物性器官である手足は、脳からの指示で動きますが、仮に脳が心臓に止まれといっても、心臓の筋肉は止まることなく動き続けます。血管や胃や腸、膀胱などその他の植物性器官の筋肉についても同様です。内臓系は自律した動きを持っているのです。
 動物性器官である体壁系の器官の特徴は何かというと、この内臓系を外から包んで守り、さらに、内臓系の要求に従って、主に、食と性のための移動を専門に行うことです。
 生の主体である内臓系を抱え、あちこち食と性のために動き回る役目を担った体壁系は、危険を回避したり、獲物や種を残すための相手の獲得のために、様々に感覚器官を発達させてきたといいます。脳の発達もその一部です。つまり、あくまでも内臓系の維持の目的のために、脳が発達したものと思われます。
 ですから、初期の頭の働きといったものも、この食と性の周囲を巡って、主にその目的に到達するために使われていたものと考えられます。
 同様に心の初期について考えてみますと、これは生の中心である内臓のつぶやき、といった感じでしょうか。胃が空っぽになったり、膀胱が膨らんだり、あるいは獲物や異性を認めて心臓の鼓動が早くなったり、要するに内臓系の要求、変化、動きなどが反映したものを心と捉えればいいと思います。一般に人間のような発達した脳を持たない動物は、これを単に刺激や信号のようなものとして受け取り、これに促されて、条件反射的に手足を駆使することになります。心の目ざめた人間は、この内臓系の動きを、「感じる」という心の動きとして実感するわけです。
 ここで問題になるのは、例えば美しい景色を見て、「きれい!」と感じる心は、果たして何処に根拠があるのかということです。
 目から、その色彩や形などの情報が脳に伝えられます。脳はコンピュータのようにその情報を処理すると思いますが、そこに感動が生まれるとは思えません。かといって、その時に内臓が動いたり、仮に動いたとして、あるいはその内臓の動きから感動が生まれるとも思えないのです。
 ここが分からなくて、悩んできました。
 いま、これを内臓系に関係させて解釈してみますと、まず外界の情報が脳に集まり、これが植物性神経を介して逆流の形で内臓系にも伝わる。そこまでは考えられそうです。
 これが、かつて無い刺激として血管や心臓などを揺さぶる。驚きが生じる。しかし、恐怖とちがって内臓を萎縮させる刺激ではなかった。かえって、その揺さぶりは内臓系に心地よい。言葉が形成されていない初期の人類にとって、それは、「!」としか表せない感動だった。もちろんここで、内臓の心地よさの感受を、脳がカメラのシャッターを押すようにして一瞬に切り取り、大脳皮質に「!」を浮かび上がらせるのだ。
 現代の、日本語を話す私たちは、これを、「きれい!」とか「美しい!」と、さらに脳を介して表現する。
 このように解釈してみますと、やはり三木成夫さんの言うように、頭と心を体壁系と内臓系に帰すという考え方で、いいのではないかと思いますが、どうでしょうか。もちろん、はじめに内臓ありき、からこちらの都合で解釈したわけですが、ここまで進めてみて、やっと三木成夫の言うことが分かった、と確信が持てる気がしています。
 目や耳などの感覚器官、それに脳は、感じる主体ではなく、主にそれを引き出すきっかけをもたらしたり、また、それを映し出す鏡としての役割を担うのであって、やはり生の中心である内臓系にこそ心の本態があると考えていいのです。すべてではないにしても、中心であり、心の初源です。
 
2 頭と心―不易と流行
 
 さて、こうして見ると、頭は判断や行為の中心的存在であり、心は感応や共鳴の中心であるという言葉がすっきりと納得されます。また頭は考えるもの、心は感じるものという区分も、了解できます。そして「思」という文字は、頭が心の声に耳を傾けている図柄であるという意味も、なるほどと思えます。
 頭と心の区別について、もう少し言うと、心は、古代から現代まで、それほど変わらないという特徴を持つと言っていいかと思います。奈良や平安といった時代に詠まれた和歌を見ても、心の動きとしては現代の私たちに共通しています。
  こころから こころにものを思はせて
    身を苦しむる 我が身なりけり
 西行の、たぶんこんな歌があったのではないかと思うのですが、どうでしょう。仮名遣いや言い回しを少し変えれば、現代人の作と考えておかしくない歌だと思うのです。
 もっと遡って弥生や縄文の頃を推察しても、遺跡に残された生活の跡の、その面影からしか比較するすべはないのですが、そんなに変わらない、と判断して大きな間違いはないと思うのです。
 これは、人間の肉体の変化、特に内臓の変化が、構造的に昔からあまり変わっていないことに見合っているからではないでしょうか。時代により、身長や骨格に、あるいは体重にも、多少の増減の波はあるのでしょうが、基本的には大きく変わらない。心にもそういう面があると思うのです。
 頭は、しかし、その認識や認知といった面で、大きく変化してきました。
 例えば、古代において太陽や月、雲や雨と言った無生物と、植物や動物、人間などのいわゆる生物との区別ははっきりできていませんでした。心優先の時代で、人類は知的な蓄積がまだ十分にはできていなかったのです。現在は、小学生にあがる前の子どもにさえ、その区別はついています。
 心を不易と見なせば、時代を追うごとに変化を遂げてきた頭は、流行の二文字が似合います。それは、知の変遷に、もっとも顕著に表れているでしょう。極端に言えば、今日、真実であったことが、明日には誤謬である。頭にとっては、現在とは、そんな時代となってしまいました。
 人類の歴史は心中心の世界から、頭中心の世界へと進んできたと、三木さんは言います。成り立ちから言えば、後輩格の頭が、先輩格の心を大きく凌駕してきたと言うのです。そして、現代社会において、頭のもととなるべき心を見失って、単独に頭のみが突っ走っている風潮を憂慮していました。同時に、頭すなわち脳の発達が、限界に到達するまで発達し続けるであろうことも、見抜いていました。
 先の「内臓のはたらきと子どものこころ」において見たように、三歳あたりまでに、心中心から心と頭の調和した生活が続いた幼児の、その後の成長過程は、こうした人類の歴史の再現といっていいのでしょう。すなわち三木流に言えば、頭を使いすぎるほど使う生活過程に突入していくわけです。勉強はもちろんのこと、たくさんの情報が乱れ飛ぶ中で、脳はその処理に明け暮れます。それは脳の宿命です。この、脳が活発に活動し行動範囲を広げる過程で、実は心も発達し、成熟していきます。美醜や、善悪の、頭の判断のもとになる心の形成が、行われるのです。しかし、現代の子どもたちの周囲には、実感の伴わない、精神作用を強要する環境が満ちあふれています。いわば、心の伴わない、単独の精神作用、脳の活動があまりにも多くあるのではないでしょうか。あるいは、心が育たない頭の活動や、心を萎縮させる環境に取り囲まれていると言うべきでしょうか。その脳の空回りにも似た活動は、豊かな心の形成に寄与することなく、かえって心の働きと脳の働きとに乖離をもたらし、やがて、個人の中で調和が崩れ、精神のもととなる心の機能は正常に作用しなくなっていく。そんな危険が、増加していくのではないでしょうか。心の側から言えば、自らを開放する場が、しだいに閉じられてくると言えばいいでしょうか。
 三木さんは、幼児の中に、文字の無かった先史時代、とりわけ桃源郷やエデンの園と呼ばれる頃の、心と頭の調和のとれた理想的な人間の姿を二重映しに見ていました。そして医学者らしく、心の復権、内臓の復興を強く主張していました。
 と同時に、彼は「ヒトのからだ」という著作の最後を、次のような文章で締めくくっています。少し長くなるが引用します。
 はじめにわれわれは、このヒトのからだにいわばьO十億の年輪が刻印されていることを指摘した。そしてこの年輪の模様を、生物が植物と動物に大きく分かれていくその流れの中でながめてきた。その結果、動物のからだには、あたかも彼らの運命を象徴するかのようにюS臓と脳という互いに相対する二つの臓器が形づくられ、しかもこれらが人類にいたって、相次いで発達の極に到達し、ついに後者が前者をしのいでしまったということを知ったのである。      それは動物であることの最後の宿命ともいえるものであろうか……。
 ヒトのからだもまた、歴史的な現象のひとつで、このことからは一歩も出ることはできないであろう。われわれはこのような人体の歴史を、以上のような観点からながめたのであるが、そこには、人類のおかれたぎりぎりの場、いわばその終幕の舞台裏といったものが、自ずから浮き彫りにされて、照らし出されたのではないかと思う。
 ひとつの種の興亡の歴史もまた、T章のはじめに述べた一個体のюカ―殖―死の波にその原型が求められるまでのもので、それと同じ自然のリズム現象のひとつ、たとえていえば自然に枯れゆく一年生草本の心にもかようものがあろうか。故人は冬野の実景としてこのことをうたっている。
 蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな
                其角
以上です。
 一方で、心の復権を願い、幼児の内臓の感受性をいかに高めるかを語りながら、しかしここでは、人類の終幕の舞台裏を、解剖のメスをふるう手つきで白日の下にさらし出し、亡び行く種の姿を「尋常に死ぬ」と形容しています。明らかに、三木さんは精神―頭―脳の宿命的に限界まで発達し続けることにより、自ら滅亡の道を辿ると言っているのです。これもまた、自然のリズム現象のひとつと、平然と言い放っています。
 三木さんが、ここで言う頭と心の調和が崩れてきたいきさつは、歴史の流れを見ることによって、誰でも実感できるのではないかと思います。また、歴史を振り返るまでもなく、一人一人の生活実感から、あるいは現在の世界の動向、社会の動きに目を転ずる中で、容易に理解できることです。
 自然の利用から始まって帰結した自然破壊。人間関係の利害・優劣が極まる社会。
 頭は内臓系を養い、維持するために、様々に働いてきたはずです。生活の向上、好奇心の探求、等々が頭に課された命題なのでしょうか。表向きはそう言っていいのでしょうが、その裏で、限りなき欲望の充足、という命題が隠されていたのかもしれません。自分自身を振り返っても、利害の利、優劣の優に頭が走る暴走を、しっかりと心がくい止めているとは言い切れない部分が残ります。まして、無意識のうちにそうしているのだとすれば、誰がそれを拒絶できていると言えるでしょうか。自分の取っている無意識の自己保全を棚上げにして、他人の利や優へと走る行為を否定する自己欺瞞を自覚しないおそれは、誰にとっても等しくあるのだと思います。
 
3 心の現在へ
 
 毎日のように報道される殺人や犯罪の数々。 そして、とりわけ、少年犯罪、暴力、いじめ、性非行、家庭内暴力、不登校、引きこもり、精神異常、といった諸現象に、内臓が軋む思いをします。
 三木さんは、たぶん、こうした問題の加害者、当事者だけが、心に問題があるとか、自我に溺れた精神作用を使いすぎるとは考えていません。歴史的に、頭が先行していることの帰結として、加害者にも被害者にも、こういう問題が出てくるのだというように考えていたと思います。もちろん社会全体が自己の利益、自己優位に立とうとする頭先行の社会ですし、大人たちの無意識がすでにそうなのです。子どもや若者は、表向きのことばや態度からではなく、大人や社会の無意識の、いわば背中を見て、それを理解し、学び、ある時は建て前と本音との矛盾に引き裂かれて、身悶えるということを個々に体験しているのだと思います。歴史の尖端に突出する諸問題に、もっともよく敏感に反応する、反応せざるを得ない年代であり、その年代を取り巻く環境なのだと思います。三木さんの「心は内臓のはたらき」のことばを読んだとき、真っ先に考えたのはこのことです。心は教わるものではない。まして建前のことばでもない。胎児が、母胎の気分や機嫌を、母胎の血の流れや心臓の鼓動や呼吸、などからそのまんま刷り込まれるにも似て、心は現実世界を母胎として、そこから、現実世界の心を刷り込まれるのだ、そう、思いました。そしてそれは頭の無意識に記憶される場合もありますし、心の本態である内臓の奥処に記憶されることもあり得るのではないかと想像するのです。
 若者たちの、敏感な察知能力。これは実は心に属する能力ではないかと、密かに考えるところなのです。この心に、利害と優劣、全てを自分のために利用するという社会や環境の反映があったとしたら、たまったものではない、というのが本当のところです。
 自己、自己、自己。結果的には、多くの少年や若者たちもまた、本来の優しさという心の王道を見失って、自我に振り回される歴史の流れに吸い寄せられ、飲み込まれていってしまう。
 そして、こういった流れをくい止める手だてはないのだ、というように、流れはいっそう激しく巨大になって行くように映ります。
 私は長い間、憎しみも愛も願う処に届かない、という思いを抱いてきました。また、心が生まれたまんまの姿でならきみに出会える、という詩人の言葉を反復してきました。
 この拙文の文脈からいえば、心の交流を希求しながら、精神の衣を脱ぎ捨てられない、頭という鎧をはずせない、そんなことを意味していたのだなと思い当たりました。そうして内面においては自暴自棄や、投げやりといったことを何度も体験し、しかし、かろうじて何とか内面に留めて処理できていたに過ぎません。現在自分が若い人たちと同年代であったら、果たしてそれで済んでいるかどうか自信はないのです。
 結局、誰もが避けられない、そう思いますし、ここで、頭の働きが諸悪の根源と、頭だけを悪者扱いして済む問題でもありません。逆に、頭こそ、便利で快適な世界を作り上げたのだ、という主張も十分にあり得るはずですから。また、こうして心を考えることも脳の働きによることで、ある意味頭の働きに感謝しなければならないこともあるわけです。三木さんの研究、著作自体が、頭の働きなくして私たちの前に現れることはなかったというべきです。ですから、逆に、三木さんほどに悲観しなくてもよいという萌芽は、至る所に見かけられると言ってもいいのです。
 とはいえ、心を見失って久しい。三木さんはこれを頭先行の結果と見、私はこれを一種の公害病ではないかと、密かに考えています。こうした事態は、私だけの問題ではなく、現代生きて生活する人々の宿命でしょう。仕事中心の社会では、いわば、心からの本音でぶつかり合う場が少なくなりがちです。つまり、自己という、からだの奥底からの、心の奥底からの、温かい血流を感じさせる実感の伴った言説が、周囲に少なくなっていくのです。特に競争の激しい会社や企業、徹底して職務の遂行を管理する組織においてはそうです。そこで、自分も心の表出に待ったをかけます。それは不要とされ、支障を来すものとさえ感じられます。心を見せない方が、心を持たない方が、そこでは生きやすいのです。仕事に使う頭の働きだけが必要とされ、しかも利害や優劣の戦場で、日々息をつけない戦いに明け暮れているのでしょう。心は何処へ行くか。内奥からの共鳴や共感を求めたい、孤立する心はいったい、何処へ行くか。
 現在の大人たちの世界における犯罪の多さはその行き先を証明しています。昔からあったといえばその通りですが、その手口に、そのやり方に、どこかしら正常な精神や心の逸脱といった面を感じないでしょうか。犯罪の背景に、なんらかの精神的な不安、情緒性のなさと残忍性などが際だって見て取れるようになってきた気がします。そこではいったい、頭と心とがどのように調和をとろうとし、またとれないで電気的短絡を引き起こしていることなのか。
 しかし、大人の問題は自分の問題であるからまだいいのです。一人一人が自分のおかれた環境の中で、ある場合には自己自身と格闘し、対処しといったことを、内部においてこれを日々繰り返す以外にどんな救済もあり得ないだろうことが明白だからです。
 けれども、ある意味、この世界に生きることにおいて調和が崩れ、乖離していく頭と心の問題に、少年は、若者は、どう対処していこうするのか。
 心を閉ざして上辺の明るさでつきあう。それもひとつの対処でしょう。これもひとつの頭の英知です。
 もしも、死に瀕したようにあえぐ心に、耳を傾ける頭があるとすれば、何を「思う」結果になるのでしょうか。
 いやそれ以前に、花が自らの理由によって自らを枯らせるにも似て、心を深く沈ませ、自らの生気を失わせていく若者たちがありはしないか。
 そこには、将来に関わる進路の壁も立ち塞がっています。もちろん、心の叫びを許容する場など、何処にもありはしないとなれば………。
 彼らの前には、権威ある、利害と優劣に関わる見えない精神の構築物が厳然とそびえ立ち、普段に威圧してきます。黙って丸飲みするのが賢明なのですが、(私たちの世代は、たぶんそうしてきました)頭も心も自らの内側で自らの対立に疲れ切っていたとしたら、大人以上の激しさで、あるいは残忍さで、無明の心からの反乱、心からの逆襲が周囲に対して、社会に対して、時には自分自身に対して行われたとして不思議ではないと言う気がします。自己防御が、そんな形で作動するのでしょう。「死」への異常な興味。倒錯した性。自己の喪失と集団依存。破壊衝動。緩慢なる自殺行為。そのほかの諸々の現象や問題は、こうして生じていくのではないでしょうか。
 翻って、小さな子どもたちには、少年たちの混迷の状況の手前で、大人が見失った心が、生き生きと息づいていることが見て取れます。小さい子どもたちほど、そう見えます。それがやがて灰色に翳っていく。表情の明るさ暗さに関係なく、そう感じます。表の明るさはその時、すでに利害の利と、優劣の優を手にしたに過ぎないと映り、翳りはかえって濃く感じてなりません。そして、心を、灰色化、あるいは無化していくことは、この社会に適応するための準備であり、必須のことなのかもしれないと思うのです。そう考えられて仕方がないです。免れるもの等、自分自身を含め、誰一人いない、そんな悲観的な心情が、走ります。
 仮に、競争を勝ち抜き、優位を感じる場所に自分がたてたとして、それが何でしょう。失ったもの、捨てたものの大きさに比べれば、いっそう頭に駆り立てられて、挙げ句の果てに例えば官僚の汚職、贈収賄、要するに、自滅に向かって走っていくのが関の山ではないでしょうか。昨今のニュースを見ると、そんなことでいっぱいです。企業の社長となれば、謝罪で忙しく、政治家はあの通り、絵に描いたような利権の引っ張り合いで、本気で国民の生活を考えているのかどうか。もはや俗に言う、人生の勝ち組だって、願望の対象ではあり得なくなりつつあります。
 子どもたちを取り巻く諸現象や諸問題を前にして、学者、有識者、教育の大家といった人々は、様々な提言をしてくれます。
 たしかに、詰め将棋やオセロか何かだったらその通りの対策も効果があるでしょう。けれども理念が理念そのままに現実化した試しはなく、考えたことがその通り実現することは、これまでも、これからもないだろうことははっきりしていると思います。動きのある社会、動きのある人間の総体を、つまりは人類の歴史を、社会を、エリートの立場でしか考えたことのない人たちがああだこうだといっても、半分以下の有効性しかない持たないこともまた、はじめから分かり切ったことだと思うのですが、考えすぎでしょうか。
 私が直接聞く機会を持った若手の、教育界をリードする学者の研究は、子どもの活動が体験から調査に移る際に、一般的な社会的課題に結びついたことで、自分たちの研究の成果が現れたとするたわいのない皮相なものでした。たしかに、それで喜ぶ向きもあるのですが、私にはその時の子どもの活動が、三木さんのいう、優劣に突き動かされた頭の動きとしか見えないものでした。こうすればほめられるという感知能力が、子どもにはあるものです。もちろん、そのことがきっかけになり、本格的に課題追求が身に付くこともあり得るわけですが、それにしたって大騒ぎするほどのことではないと思うのです。学者は自分の考えを広めたいし、認められたいから仕方がないのでしょうが、さすがに自分の提唱する方法が「いいぞ、いいぞ」と言いすぎます。
 いずれにしても、子どもたちが心を見失っていたり、心が荒んでいたり、あるいはハートのない知の横暴に取り憑かれているために様々な問題を生みだしているのだとすれば、なまじっかな、人の目に見え、何か努力をしていると分かり易いだけの対策など、あまり意味がないでしょう。
 全体の状況を誰もが正しく把握できていないところで、それぞれがそれぞれの立場で様々に試みを行ってはいますが、今後も事象に相対しながら試みを繰り返すしか方法のないことも明白です。
 根源的な洞察、新たな社会の出現に見合った、新しい倫理の構築が必要とされているのです。だから本当は、現在の段階では、真実の救済や対策はあったものでは無いというのが現実です。そしてもっと言えば、ボランティアや民間における救済制度などは、単に生き残りをかけた最小限の対策が講じられているに過ぎないと感じます。ただし、それ以上のことができない以上、現在的には、それをよしとしなければならないと思います。少なくとも、過度の批判は公正さに欠けてしまいます。そして依然として、少年たちを囲い込む厳しい現実を取り除き、真の救済をもたらすことは、誰にもできないのです。
 
4 いくつかの提案
 
 最後に、実現されそうもない上に、誰からもあまり取り上げられることのない、いくつかの提案を紹介しておきたいと思います。
 これらは、吉本隆明さんという人の提案を骨格に、ほんの少し自分の色を付け加えたものです。いろんな提案を見聞きし、検討し、これ以上の考えは見つけられませんでした。見れば、現実的でないし、効果もないと判断されるだろうというものばかりです。世にあふれる対策とは一線を画しています。でも、この文章をここまで読んでもらえた方には、少しは理解してもらえるかなという気がします。
 
 ひとつには、胎児から一歳までに、母親が愛情豊かに育てられるような生活の安定と、親和的な家族環境を整えることです。母親に悩みや心配事などの全くないことが理想です。 それから、三歳という時期までに、三木さんがいうような内臓の機能と感受性を高めるように育てることが大事です。
 ふたつめには、小学校は全くの自由な環境で、勉強と遊びの区別がないようにすることです。学習内容はずっと削減した方がいいです。本来、頭と心の調和を十分に体験し、味わい尽くすべきこの時期を、歴史的に見てエデンの園の時代の再現の時期と考えるといいと思います。その時代に近い設定をするわけです。
 中学校は、小学校の延長でもありますが、プラトンやアリストテレスのイメージで、それぞれの教科の老大家がいるといいです。
 ヘーゲルは、子どもが持つ残忍性やわがままを見抜き、管理教育の徹底を説きましたが、それは当時の社会的な段階からそうであったに過ぎず、普遍ではないと思います。
 袋小路を感じさせる現在の社会の段階では、ここに未知の社会があると積極的に捉え、これまた未知である全くの自由、というものに活路を見いだすしかないと思います。また、この時期は先史時代から歴史時代へと追体験させるような環境を構成するのがいいのです。そしてそこに、歴史にはなかった大幅な自由を付加しておくのです。もちろん、規則などは自分たちで考えさせて実行させればいいだけです。大家はそのジャンルの核心を分かりやすく教えてくれると思います。知識としては忘れても、心に残る物事の神髄が伝わればいいのです。これは、知らず、道徳教育になります。
 最後は、もっとも最初に行いたいことですが、大学の制度を変えることです。大学の格差を無くし、何処ででも同レベルの研究や学習ができるように考えればいいのです。学生は、何処の大学で学んでも単位が取れるようになっていれば、過去にちゃらんぽらんの勉強しかしなかった学生も、心を入れ直して学習に打ち込むといったことが今よりは容易にになると思うのです。その気になってから本格的に学習したって、絶対遅すぎることはないと保証します。人間はやろうとしたことしかやれない存在ですし、本気でやろうと思えば大半のことはできる力を持った存在ですから。
 大学については、もう少し言わせてもらいたい気がします。ずっと昔から知的な権威の象徴となり、結果的に過激な受験戦争を生む母胎であったと思います。それ自体には直接の責任はないと思いますが、学者、教授が、是正というか内部浄化というか、そう言うこともできずに、知らんぷりで数十年です。所詮、研究さえしていればいいアンポンタンが多いかもしれませんが、子どもたちの置かれている状況にあまりにも無知な、あるいは感受性の不足に呆れるばかりです。三木さん流に考えれば、頭先行社会の先導役でもあり、とっくの昔に心は廃れたかもしれませんが、社会学者などは、もっと大学が影で果たす役割などを明らかにして、自ら改革すべきでしょう。一般の人には分からないから、そう言うことに黙っている。自分たちの都合の悪いことは公にしないで口をつぐむ。私は情けない気がしてなりません。その程度の知性と、偉そうな口振りに腹が立ちます。
 
 つい、よけいな言葉が口をついてでましたが、それは別として、以上の提案を、ある意味強引に、官が一斉に整備してくれることが理想です。しかし、これでさえ今よりは状況が多少ましになるのではないかという程度で、それ以上ではありません。
                  了
 
5 あとがき
 
 二十年前近く、東京杉並区の小学生が自殺しました。たしか、杉本治君という名前だったと思います。「そんなことがあっていいのか」という、衝撃でした。
 その後、子どもたちを巡って様々な事件が多発し、陰湿化し、また残忍化がエスカレートしていきました。
 昔の師弟関係であれば、弟子に何かあれば師は切腹も辞さずという気概がありました。それは時代遅れでばかげた考えなのかもしれませんが、この間切腹はおろか、職を辞すという責任の取り方をしたという見聞も一切ありませんでした。
 おかしいのは子どもたちだけではない。そう感じました。
 仮に自分が当事者の近くにあって、そういう責任の取り方が潔くできるのか、と自問しても、「なってみなければ分からない」ことです。政治家のように、職を全うするのが自分に課された使命、等と答えてしまうかもしれません。だから他人を責める気にはなれません。
 現場の人間こそ、どういう状況があって、どんな対策を必要とすることを言わなければならない、と考えるようになりました。
 非力な自分には困難でした。今思えば、あまりに倫理的に考えすぎていたと思います。どこかに、悪の根源を見いだそうともしていました。無意識に正義の仮面をかぶろうとしている自分にも気づきました。
 たしかな解釈、判断ができないままに、二年前に三木成夫さんの著作に巡り会いました。その後、頭の中には呪文のように「こころとは内臓のはたらき」という言葉が張り付き、三木さんの著作の解読に心を砕きました。
 子どもは自己を確立する前に、心と頭とがアンバランスになっていて、事件の責任はないよ。でも、被害者のことを考えるとそんなことを言ってられない、自分に出来ることをやらなければ。そんな思いが、三木さんの著作にのめり込むきっかけになりました。
 ここでは三木成夫さんの著作を手がかりに、心の側面から子どもを取り巻く諸問題、諸現象に接近し、その状況を読み解くことを試みました。社会や制度からの解読は、また別の試みです。
 何ほどのことができたのか、またこんなものが何になるのか、分かりません。書き上げた満足感はあるのですが、どこかに落ち度があって、お叱りを受けることがないかなどと心配する気持ちもあります。
 第一部の「内臓のはたらきと子どものこころ」では、読みながら書き、書きながら読みの繰り返しで、自分の理解を深めるためと、初めて三木さんの世界に接する人にも理解できるようにと考えていました。たぶん、その分回りくどく冗長で、よく分からないと言う印象になると思います。何せ、書いている本人が、三木さんのことも、三木さんの著作を通じて何を言おうとしているのかも明確ではないのですから。ただ、三木成夫の世界のにおいを伝えられたら十分でした。
 三木さんの著作は第一級です。私は人体のこと、胎児のことなどで、新しい多くの知見をもらいました。とりわけ、私たちの体の中に、三十億年の年輪を見る、その考え方が、考え方の方法が画期的でした。たとえば、なぜそこに脾臓が存在するのか、その盛衰が実は大変意味のあることだと了解できる、そんな世界が展開されています。それは道ばたの小さな一年生草本が、どんな理由で、何のためにそこに生きているのかを無意識に観得させてくれるのです。つまり、のっぴきならない形でそこに存在するのだということが、考えなくても理解できるのです。極端に言えば、すべて無生物も生物も、地球誕生五十億年、生命誕生三十億年の歴史を背負ってそこに存在するという一言です。そこから、人間を見る目、子どもを見る目が少し変わりました。
 「自然を守れ」という言葉には、いつも政治的な色合いや、時流に乗った皮相な善のにおいを嗅ぐことが多く、辟易していましたが、三木さんの著作からは、全くちがう形で自ずからそう考えさせてしまう力が感じられました。通俗的な自然主義者にはない、理念としての自然主義の主張があります。
 人間理解においても、欠かせない世界がここにあると、私は信じます。
 第二部についてはごらんの通りですが、一部では言い切れなかったことが、少し表出できているのではないかと思います。はじめの方が一部と重複しているのは、自分の中でも交通整理をしておきたかったのです。三木さんの世界を理解する上で、自分では理解の深まりを示せたのではないかと感じます。しかし、子どもたちのいろいろな問題と心との関係については、まだまだ力量不足で、届いていないと感じています。
 少し、自分を出し過ぎたり、言い募っているところはたぶんだめなところです。プロではないので割り引いて読んでください。
 手っ取り早く手にはいるのは「胎児の世界」だと思います。そこで三木成夫の世界に興味を持ったら、次にはぜひ「ヒトのからだ」に挑戦してみてください。実際に読んでもらえれば、私のこの文章なんかは邪魔になるくらいのものです。実際の著作の方が絶対分かりやすく、おもしろく読み進められます。自信を持ってそう言いきれます。
 夏休みを利用してこんなことが実現し、また、PTAの作品展に、とりあえず出せるものがあってうれしいです。   
 ほめられもせず、苦にもされず、一読してそっと捨てられることがいいな、というのがこの文章の望みです。                                                                                             終