2025年5月13日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「〈引きこもり〉考」です。
昔から孤独、孤立、また劣等感などにたくさん悩んできました。ぼく個人のことで言えば、それでも何とか社会の端っこにしがみついて国民の一人だ、一般の社会人だ、みたいな顔つきを作ってやってきました。けれどもやはり、今も孤独であるとか引きこもっているとか言う人のことを考えると、居ても立ってもいられない気持ちになります。自分はそういうところから半分抜け出して、刻苦勉励と言えるかどうか分かりませんが、まがりなりにも普通人としてやってきました。それでよかったのかどうか今でもよく分かりません。本当の孤独者、引きこもり者に比べたら、どこかずるいところがあって、本物の孤独者や引きこもり者では無かったのではないかという疑義があります。また、しかし、逆に、本物だったんだけれども、孤独や引きこもりから抜け出ることは自分の経験から言って、不可能ではないんだよと考えるところもあるのです。そうして、もしも、自分の宿命や運命のようなものから本当に脱却して、一変する道を歩きたいならば、ぼくの考え方生き方が、少しは参考になるかも知れないな、そんなことを思ったりもしているのです。
ぼくもいろいろ揺れ動きはしてきたのですが、逆に、孤独や引きこもりを引き受け、徹底してそんな生き方を選択したってよかったんじゃないか、と言う考えを今では考えたりすることもあります。そこのところでは、少しも、孤独や引きこもりを可哀相とは思っていません。可哀相とか痛ましいとかという見方は、他の人たちはどうであろうと、ぼくはまったく思っていません。派手で賑やかに生きようが、地味に静かに生きようが、いずれも人間の選択や強いられる生の可能性と思っています。どちらが良いとか悪いとかでもないと考えます。ですからぼくみたいに身を捩るようにして半分逃げ出すやつもいるでしょうし、無抵抗にまっしぐらに行く人も居るのだと思います。それはもうそれぞれで、そこまで行くと、細胞の中のミトコンドリアの性質がちょっと違うのだくらいの、ぼくらにはわけが分からないくらいのことになって行くのかも知れないと思います。ただいずれにしても、可能性としての人間の生き方や在り方の範疇に留まるまでのもので、そこには同じ意味や価値があるんだとぼくは考えているわけです。もちろんこうした考えとはまったく無縁に、社会通念上の生き方についての常識的な考え方も厳然としてあるわけで、それを否定しようと思ってはいないのです。そして結果としては、最後はやっぱり当事者次第なんだと、無視無関心の立場とそれほど変わらないということになってしまいます。
無責任な想像でしかないのですが、ふと「引きこもり村」みたいな村を作って、それぞれに引きこもりながらの、そして孤独な共同生活が出来ないかと夢想したりします。原始古代の生活から初めて、文明、文化をやり直すというようなことをです。ちょっと脳天気に飛躍しすぎましたね。
2025年5月12日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「せいぜいお気張りやす」です。
学もないし普通一般の生活者に過ぎないが、この国の指導者たちはたいしたことが出来ていないということくらいは分かる。過疎や少子化をはじめ、この国の先行きの不安が一向に払拭されそうにないのが、社会全体からうかがわれるからだ。
ここ数年、あるいはもっと長く数十年。この国にはある一定の指導層、指導者層が存在した。彼らは頭がよくて、その頭のよさを遺憾なく発揮できる位置にいたはずである。にもかかわらず、あまりよい結果は出していない。結果は出していないが、依然としてそういう地位にいて、そういう指導的役割を担っている。そして繰り返して言うが、担っているが結果は出していない。
これからあとどれくらいの期間、同じことを続けるのだろうか。おそらく今のままでは、これまでと同様にきつい詰問にさらされなければ、ずっと続けていくことだろう。ぼくらが出来ることは茶化したり、皮肉を込めて罵倒するくらいのことだけだ。だからやる。恥ずかしさのあまり、いたたまれなくなるまで、やる。そういう気分の今日の作だ。
2025年5月11日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「縄文人のDNA」です。
日本人のルーツを探ると、大きく縄文人と弥生人となるようです。弥生人というのはもともとは大陸から来た渡来人で、この地に定着し、先住の縄文人とも子どもを作りながら全土に広がっていったようです。大陸からの渡来人ですから文明的に上位にあって、島国の中にあって確実に勢力を広め、拡大したと思われます。
それらの勢力が西日本において、いわゆる一応の統一的な国なるものを作りました。しかし、初期にはまだ、特に東北地方は勢力圏の外にあったようです。
その頃の東北はいくつかの小国はあったかも知れませんが、まだ西日本に対抗するような国として統一されたものではなかったようです。小国や村落がバラバラに点在し、それらは互いに他を制圧しようとはせず、言ってみれば尊重し合っていたのかも知れません。
西日本の統一を果たした勢力は、その後に東日本に向かっても勢力を広めようとしていきます。これが渡来人、弥生人のDNAではないかと思います。渡来人をルーツとする弥生人と縄文人と何が違うかと言えば、異部族との争いの経験値だと思います。大陸では争いが多く、そこで敗れて日本に逃れてきた渡来人もあったと聞きます。ですから弥生人、弥生系の集団は縄文系の集団に比べてすべての点で積極的で能動的だという気がします。ある意味でそれはひとつの美点だという気がします。集団として発展的だとも考えられます。
じゃあ縄文系は弥生系に比べて劣っているのかというと、それはそうではないような気がぼくはします。生きることに対する違った価値観がある気がします。そこには対立と言うほどのことではないにしろ、異なる性質があるように思われます。
ぼく自身は実際のDNAは別にして、自分を縄文系と見なしているところがあります。あるいは縄文系の方が好き、縄文系の良さというものをもっと表に取り出して知らしめたい。そんな気持ちを持っています。
今日の作を振り返ると、こうした思いがあってのことかなと、今は考えるところではあります。
2025年5月10日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「でくのぼう」です。
今日の作では高揚感がないことを言ってますけどね、ホントね、年を重ねると高揚感なんてだんだんなくなるよね。高揚感のない生命って,すなわち死である、そう言いたいくらいでね。
毎日、生きてるんだか死んでるんだか分からないモヤモヤの境界の中を、さ迷っているというか、当てもなく歩いているというか、そんな感じ。
坂を下っていくわけですからね。その先に大展望が待つわけでもない。
今朝は雨が降っています。
カーテンを開いた窓の先には、一面どんよりした雨雲が広がっています。これって人生なんですかね。老いた先の季節はずっと晴天続きかと思っていました。晴れませんねぇ、雨ですねぇ。そうか、老後は季節で表せば梅雨か。鬱陶しい。
2025年5月9日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不思議」です。
家の中にいても顔や手だけは露出していて、それらの皮膚が時折このごろの季節の温もりを感じ取るようだ。寒くも暑くもなく、丁度というのでもなく、うっすらと、そして何となく温かいという信号を送ってくる。これは、季節が季節なだけに、衣服の調整と微妙に関係があるかも知れない。
日によって直感的に今日は薄着にしようとか、逆に昨日寒く感じたから少し厚いものを着ようとか変えている。調整が上手くいっているときはたぶん暑さや寒さについて気にならないことになっているはずである。上手くいっていないときはどちらかになる。
冬を越して春。となると、気持ち的に温かいとなる。温かいと思うから少し薄着になる。たぶんそのせいで、ぼくも4月の初めに風邪を引いた。
そうやって毎年失敗する。何度も何度も繰り返したこの年になっても失敗する。こういうことにも学習しないという言葉は使えるだろうか。もちろんそういう情けなさも感じるけれども、もう一つ、これは年を重ねてきた分、「春」の言葉から励起される「温かい」が、素早く強くそして長くこころに起こるからではないか。「春」に対して膠着した「温かい」が、逆に感覚を鈍化させたりしないだろうか。
だからといってどうだと言うことでもないのだが、最近は感覚にも思考にも不信が増していて、ひいては自己不信の度も増してきている。これはちょっと辛いところもあるのだが、致し方がないというところでもある。
〈お知らせ〉
掲示板にnishiyanさんが「水詩(みずし) #14」を投稿してくれています。トップページの「掲示板」をクリックして、記事の番号147で見ることが出来ます。
nishiyanさん、ありがとうございます。
2025年5月8日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「消えて行く日本」です。
安倍晋三が首相の時、たしか「美しい日本」をキャッチフレーズとして使っていたように思います。最近首相になった石破茂は、それを真似してかどうか「楽しい日本」などと言っていました。こちらは安倍の「美しい日本」ほど、世間的に取り沙汰されていないという印象です。
これらを真似たわけではないのですが、今日のタイトルは上記の通りです。なんかこれまでの日本とは違うなあという面を,一般生活者の視点で取り出してみたというわけです。下層から中層の下、または中までの階層の生活スタイルにおいて、此処に古来との大きな断絶が見られるんではないかというのが今日の視点です。
これは自分たちでそうしてきたという面もあるだろうし、自然に無意識にそうなってきたという側面もあるという気がします。いずれにしてもそういう傾向に進み、今も進んでいる渦中だという気がします。当事者であるぼくらも初めてのことで、戸惑っています。戸惑って立ち尽くしたり、呆然としたりしているわけです。
地方の団地生活が意味するもの。ぼくの思い過ごしかも知れないですけど、これって意外と大きな地殻変動じゃないかと思ったりもします。まだ全体像を把握しているのではないので、以後も少しばかり気にかけて見て行き、考えて行きたいなと思っています。
2025年5月7日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ほんとうらしさ」です。
あまり好きではないが、勝ち組負け組ということばがある。子どもの時から、ほんとうのことや正しさというものは負け組の方にあると強く思い続けてきた。一般には逆と考えられているように思われるが、ぼくはそう思わずに来た。
負け組、つまり社会的に下位にあるとか孤立しているとか、負の状況にあることは、一般には見えない価値や豊かさというものが、そこにたくさんあると考えている。そして、実は人間としての豊かさの宝庫はそちら側にあると思っている。また社会の底辺に生きているとか、孤立しているとか、負性を抱えたものは必ず正しく真なるものだという考え方をしている。
こうしたことをひと言で表現するならば、「真なるものは必ず蹉跌する」と言うことばで言い表せるかと思う。このことばの細部を別にすれば、このことばは吉本隆明さんの詩の中にあったと記憶している。
このことばを信ずるならば、「蹉跌したところに真あり」という考えが導かれる。そしてぼくはいまでも世の中を見る時に、そういう見方をして見ている。それを基軸に見ていくと大変分かりやすいし、そしてそれがほんとうであるとぼくは信じて疑わない。これは今はやりの言葉で言えば偏向と見なされるかも知れないが、一般に流布され拡散した見方考え方というものは、常識とは言えても常識が即真ということにはならない。真は数少ないところに隠れている。それが発見され世に広まれば常識となる。常識は一般化された真であって、常識となった時点で真を離脱する。
2025年5月6日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「五月のある日」です。
同じ年格好の、つまり老人たちは毎日何を考えて暮らしているのかな。まあ普通一般の人はどうかというのは、ほんの時たま同級生の声を聞いたりすると分かるのだが、そうではなく、自分と少し似通った人たちはどうなのかというとなかなか伝わってこない。それで時々ぼくはこうですよと発信する。へぇそうなんだ位の反応があるといいのだが、それはない。発信自体が引きこもっているから仕方のないことだが、こちらとしてはこういう連帯の仕方もあると、つまりこれは希望的観測である。とにかくとにかく、頑張ろうぜと発信し、その発信を自分でも受け取ろうとする。老いの流儀のひとつではある。
2025年5月5日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不在の輪郭」です。
むかし小川国夫という小説家がいました。50年ほど前よく作品を読んでいました。ぼくの印象では島尾敏雄さんの作風とは真逆で物的で、硬質的で、極力不必要なことばや文を省略したよい作品を書く人だなと思っていました。その文体に憧れもしました。
思い出して、うわべだけ真似してみたのです。とてもとてもです。小川さんの、一字一句忽せにしない表現への向き合い方を思い知らされるだけです。趣味の詩人の趣味の作では到底真似できるものではありません。こちらがやっているのはチョチョイのチョイの仕上げですから。
小川さんの文体と作品がなつかしくよみがえりました。
ぼくも本当は、こんな気持ちを誰かと分かち合いたいとずっと思いながら、現実生活上は封印してきたんだなあって、思います。こんなことを含めて、本当に心の底、腹の底を割って話が出来たのは二十歳前後の期間だけです。それ以後は現実社会と渉り合うことに精一杯で、こころの奥底にしまい込まれたまんまです。まあ、そういうものだと思います。
2025年5月4日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言説の二次災害」です。
作にもタイトルにも悩みましたが、最後はエイッ、ヤッ、です。念頭にあったのは兵庫県問題や立花孝志現象、それから日本の政治に絡む諸問題です。で、要は、「うるさい」というただその一事です。
10日ほどまえの予報と違い、宮城富谷市の今週の気温予測は20度を下回っています。もっと暑くなる予報だったはずですが、少し前に変わっていました。かえって過ごしやすいと言えば過ごしやすい気温ですが、早くうだるような暑さの中で、暑い暑いと愚痴をこぼしたい気持ちも生じています。
ゴールデンウィーク中ですから、もっとぱっと浮かれたいわけですが、天候も天候で、いつもと変わりない毎日になっています。浮かれているのはテレビ画面だけですね。少し前に大企業の初任給が35万円という話がありましたね。ぼくの年金は月18万前後から15万くらいに目減りして、いやあ大変です。物価も高いままだし、政府の対策は遅いしで、また選挙の話なんか出てて、まるで選挙が政治の眼目みたいになっちゃってる。うんざりです。税金の無駄遣いにしかなっていないんだから、選挙はやめちまえと思います。
内田樹がユーチューブで天皇制について論じているようですね。ちらっと見てやめました。兵庫県問題についてもちょっと口を挟んでいる動画を見ましたが、そちらの方も面白くなかったです。文化の大衆化という状況の中で、波をコントロールするつもりで、ただ波の上に乗っかって流されているという印象です。名前の脇に哲学者とありましたが、偉い人なんだろうからわたしなどが批判できる業績の人ではないのでしょうが、つまんねぇなと思います。
2025年5月3日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ことばをなくすという夢」です。
ヘンテコなタイトルで内容で、と言った今日の作です。
自分の中には、ことばが「うるさい」という感受があるのでしょうね。いつも頭に湧いてきて、うんざりというところでしょうか。もう少しすると忘却症状が出てきて、アルツハイマーとか認知症とか、ことばが枯渇していくことが期待されます。そうしたらどんなにか心穏やかにいられるだろうかと、思わず胸が高鳴ります。実際はしかし、そうは行かないのでしょう。そうなるまえに不安が大きくなって、鬱っぽくなったりするのかも知れません。でもなんか、老いてことばを捨てていくと言うことは、ほんの少し憧れる所があります。
まあそんな所を、今日の作は、自分なりに角度を変えてといいますか、少し変化球も使いながら表現してみたということになります。
2025年5月2日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間のする〈法〉は〈私法〉を出ない」です。
合議、例えば3人以上のものが集まって協議をする。それは何をしているのかというと、いろいろな意見や考えをひとつにまとめる、そういうことをすると言うことだ。それはまたどういうことかというと、個々バラバラにある力をひとつにまとめるということでもある。
一時的には、それは可能である。だがいったんまとまると永続的に続くものかというと、それがそうは行かない。諸般の事情により、合意はいつか必ず破綻する。なぜそうなるかというと、合意の時の条件となった要素が、時間や空間の移動により変化してしまうからである。あの時はああ言ったけれども、あれから事情が変わって、そうすることが出来なくなった、という類いのことである。これが例えば同人誌か何かだと、解散して終わりということになる。いろいろな組織が、やはり作られては解散したり崩壊したりと言うことは、これまた世の常である。
永続する組織というものはない。これは国家についても言えるはずである。これはなかなかにしぶとい。幾度も解散の危機に瀕することもあるのだが、そのたびに上部だけが入れ替わり、組織全体としては途切れずに続く。日本の場合だと、2000年ほど続いていて、なぜ続いているかと言えば、これに代わっての受け皿がないからだ。とうに賞味期限切れ。あらゆることが劣化しているにもかかわらず、別に代わっていくことすら出来ずにいる。最近では1、2年という短期で政府政権は後退しているが、国としての枠組みは続いている。社会は混乱し、問題を山積みに抱えているらしいが、もう誰もきれいに解決できるなどとは考えていないようである。半分諦めかけていて、やる気も失っているようだ。もうどうやって崩壊するか、それを待っているだけのようにも見える。社会的な敗戦状態で崩壊状態でもあるのだが、あらゆるものがゾンビと化して、依然として従来通りと錯覚しているだけだ。憐れなことである。
2025年5月1日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「趣味の思想詩人のことば」です。
世界のどこの国も経済的な発展を目指しているし、どの国の国民個々人もお金をたくさん持つことを望んでいるに違いない。五十年ちょっと前はまだ自由だ、平等だなどと口を開けば誰もが言っていたが、今ではずいぶん後退した。
わたしたちの社会では、特殊詐欺とか詐欺メールとかが横行し、ずいぶん野蛮な手口の強盗騒ぎも毎日のようにニュースで伝えられている。ここ二、三十年と言えるだろうか、社会そのものが露骨に手を出して金、金と催促する、そんなおぞましい姿に変貌を遂げつつあるように感じられる。不気味だ。
一方で、「美しい日本」、「楽しい日本」などと政治家は脳天気に言ってきた。そうやって上からペンキをぶっかけて,外装だけでもリフォームしたかったのだろうが、さすがに無理があった。国民の日々の実感と乖離がありすぎる。
一応社会は社会としての流れがあって、そのなかでもぼくらはぼくらとして、自立的な生活を心がけたいと思うわけだ。社会とは別に、自分たちが価値あると思える所に向かって日々の生活を紡いで行きたい。まあ焦らずに、そういうところを努力して行きたい。
2025年4月30日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『贅沢』考」です。
経済活動、これを食料獲得の活動と捉えると、精神活動というのは幻想創生また産出の活動のように考えることが出来る。経済生活が安定し、余剰が生まれるようになると、それが精神世界の発展・発達の原動力のように機能したと、ぼくは考える。
知識・学問・芸術などはそうして生まれ、発達してきた。言ってみれば贅沢品だ。ぼくはそういう捉え方をする。人間を含めて動物一般を考えると、生きていく上で本来はそういう知識・学問・芸術などは必要が無い。それなしで十分に生きていくだけのことは出来る。なので、とりあえずここまでのことだけで言えば、精神世界は贅沢から出来た世界のように思える。そしてこれらの発達は王宮の存在なしには語れないという気がする。仮に発明や発見や創造が個人を単位として行われるとしても、個人の生活を支える庇護者や援助者なしに精神の活動に邁進することは出来なかったろうと思う。
まあ今日はそれらのことが念頭にあって書き始めたのだが、あちこちに気が散ってスムーズに筆が進んだとは言えない。また何度も繰り返して挑むことになるのだろうと思う。少しずつでも精度が上がっていけば良いのだが。
2025年4月29日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老後の決意」です。
書き始めも途中も、あまり乗らない感じでした。それでも書き出したので、ユーモア仕立てにしてごまかせないかと工夫しましたが、結局最後までどんよりしてしまいました。
大阪で、大阪・関西万博が開かれていますけど、前回の大阪万博の時は19歳で、あるパビリオンでアルバイトしていましたね。数えると55年前ですよ。
住友児童館と呼ぶ施設の入り口前で、発泡スチロールで作った樹木とか動物とかの中に入って客寄せをしていました。
当時も主催者やその回りでは客を動員したくて手を変え品を変え、また宣伝、報道など、盛んにやったんだろうと思うけど、ぼくらのような従業員、アルバイトなどはそれほど浮かれてもいなかった気がします。あまり他の施設を巡ると言うことも無かったんじゃないかと思います。外側は騒いでいたけど中は意外と静かだった、そんな感じです。まあ、普通に仕事でしたからね。
アルバイト仲間の男女数人がいてね。同じ年代でしたから、すぐに「男女?人物語」ですよ。そこだけは楽しかったです。みんなどうしているだろう。まだひとりひとりの顔が思い出せるね。なつかしいな。楽しかったな。
2025年4月28日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「詩人たちへの嫉妬を表白する」です。
最近ある詩人が亡くなったことを伝え知り、その詩人や彼の詩に対しての嫉妬心と嫉妬から来る悪口みたいなものを表に出しておきたくなった。
わたしの悪口は、つづめて言えば商業詩人に行き着くだけじゃないかという、すこぶる子どもっぽいものだ。詩としては適わないから何とか足払いでもしてやれという、すこぶる卑劣なものだ。たぶん誰もそんな品がなく、下劣なことを言わないだろうからと思い、わたしだけは言っておこうと思った。ある時から彼の詩は物理的にも読めなくなり、それを超えて彼の詩集に手を差し出して読もうともしなくなった。
一応その詩人の名誉のために言っておくと、わたしの彼の詩に対しての抱く感情は、入念な読みや研究から来たというものでも何でも無い。自分の単に身勝手な想像とかイメージとかから来るもので、詩人の方には何らの責任もない。もっと言うと勝手なそのイメージを利用して、自分を語ろうとしただけとも言える。
ここでこうしてまた言い訳している自分がいて、実に気分が不快さを増してきてもいるのでこれでやめる。
2025年4月27日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生活の質的向上」です。
今日も酷い殴り書きとなりました。こちらの方は一向に質的な向上がありません。
生活も、このところ質的向上なんて考えたこともありません。何なら弥生に遡って、あぜ道に生えた草でも摘んで、野菜代わりにしようかなんて考えているくらいです。若く給料がたくさんの人はCM世界のささやきが心地よいのでしょうが、こちらはそうは行きません。世代間格差は現代人と縄文弥生くらいの大きな隔たりがある気がします。現代ですから今様でいいのですが、縄文や弥生風の生活も、まあ工夫次第ですかね、自然に近い暮らしを楽しんでもいいわけです。ぼくはやっぱりそこまでも余裕はありませんけど、状況によってはそれでもいいんじゃないかと考えます。分断、乖離はものすごく大きいですし、この傾向は当分続くと思います。贅沢だけが最上の道とは思えないけど、そう考えても仕方ないところがあります。出発点は大様の誕生でしょう。みながみな真似するようになりました。ぼくも昔、平成天皇の結婚式のパレードをテレビで見て、自分も天皇になりたいと思いましたもの。そうしたら何でも自由になり、また贅沢な暮らしが出来るんだろうなと想像しました。天才バカボンでした。
2025年4月26日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「今も継続する〈私法〉」です。
こんなものを書いてどうなる、と思う。詩にもならず、論とも見えず、いったい何をやってるんだと自分でも思う。でも、言葉にしたい衝迫はある。
1945から1970年代まで、国家論は盛んに行われた。日本にとっては敗戦がきっかけになっている。以後、経済的に発展を遂げるとともに、国家について考えることは下火になった。現在では表層としてはまったく問題とされない。この落差は酷い。問題が解決されて取り上げられなくなったのでは無い。問題の難しさと、これを考えたり問題にしても利益にも金にもならないから、誰も取り上げようとしなくなっただけだ。本当は依然として一般住民、一般の生活者大衆の現在や未来に大きな影響があるにもかかわらず、たぶん、この国でも一握りの者しか口にしなくなった。
現在、国家についてのなにがしかを述べようとすると、それは技術論や運営論のような仕方でしか言われない。つまり国家ありきから始める論だ。もちろんそういう論もあっては良いが、わたしは国家のそもそも論に興味がある。そしてそこを探って行くと、日本においては吉本隆明の「共同幻想論」と、江戸時代の安藤昌益の自然世に対する「私法の世」という捉え方に突き当たる。
国というものは、現在の行政サービスでも分かるように、安全安心のサービスを提供するから税金を出せというものだ。しかしながらこの仕組みは、行政周辺を上位に置き、それら上層に都合の良い仕組みになっていて、上層の生活の安定、富の蓄積に寄与するものになっている。苦しい時はまず下層が切り捨てられる。
つまりトリックや奇策が満載で、そもそもが公正公平なシステムでも機関でも何でも無い。これをずっと不問にして、今も自由だ民主主義だと言いながら、少しも脱却できないでいるししようともしていない。その上に乗っかって自利のために既存の組織、機関を利用しようとすることに汲々としている。平民から国の指導層に取り立てるというような、昔の科挙の制度と変わり栄えしない学歴社会の受験体制などはその一例だ。これも一時騒がれたが、もう、そんな問題など無かったかのようにきれいさっぱり忘れられている。ニュースその他の報道でも「受験生頑張れ」なんて言っている。
現在はだから、こんなことを問題にする機運では無い。だから、引きこもって、ここでぼそぼそ言うのである。ぼそぼそ言う分にはいくらでも言える。いくらでも言えるんだから、じゃあ、言ってやろうじゃないかということになる。だれが見なくても、聞かなくても、長年これでやってきている。喧嘩上等。無視上等。
2025年4月25日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「トコトコ歩いて去って行く」です。
数日前に菜の花畑でちょっと有名な場所に行ってきました。一面に見渡す限りに菜の花が咲いていて、圧巻でした。その中を歩いて写真も撮ってと言うことでしたけど、宮沢賢治なんかだと、それこそディズニーランドに行ったくらいの感じで表現できるんだろうなあ、なんて思いました。
相似形ってありますよね。同じ形の縮小や拡大の図。それも思います。世界の絶景地って写真やテレビで見ますが、それはそれはすごいものだと思います。ぼくはでもあんまり直接見たいと思わない方ですね。何か、近場のちょっとした良い景色とか変わった景色とか、それを拡大したり縮小したりして感じ、考えることで間に合わせてきました。それに想像力ですかね。あとはどんな景色も、忘れるしね。夢と違わないくらいになって行くし。でも、実際に実景を見る大事さって言うのは、それはそれであるように思います。
2025年4月24日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「トコトコ歩いて去って行く」です。
書き始めて、書き進めて、書き終わると、人生と同じでやり直しが利かない。今のところそういうやり方をしているのでそうなっている。いつも不満は残り、それはたまりにたまっていくが、出来れば解消させつつ進みたいわけだ。でもまあ、いつまでたっても出来ない。無理みたいです。
2025年4月23日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「冷たい指先」です。
現在兵庫県知事である斉藤元彦周辺に、この1年間興味を持ち続けてきた。権力を持ってはいけない人間が権力を持った。なぜ権力を持ってはいけないかというと、斉藤自身が人間としての底が抜けた状態の人物であり、彼が権力者として振る舞う時、必然的に周囲を底の抜けた状態に同化させてしまうからだ。
こう言っても何のことか分からないと思う。
社会通念上の理解からすれば斉藤元彦がどんな政治的人間かは、読売、朝日、毎日、産経、日経など、各新聞の社説や論評を見れば分かる。そこに書かれた内容が、現在のこの国の社会の通常の見識、見解を表している。つまり問題にならぬほどの低劣な知事で政治家であるという理解だ。もっと言えば、人間としても未熟で大きな欠陥を持った存在のように見なされたり扱われたりしている。
社会生活の現在的な場所に自分を置いて考えた時に、わたしもまた、社会の良識派の考え方と同じ見解をとらざるを得ない。そして斉藤を初めとする知事の擁護派全体を愚かであると断罪して遠ざかり、縁なき衆生と切り捨てても来た。
だが、待てよ、と、どこからともなく声が聞こえてくる。どこかで既視感といった気配が漂って感じられる。
この社会、いや、この世界全体から「否」を突きつけられる構図は、自分の内的体験にそのまま同じではないのか。そんな思いがよぎる。
わたしは社会の主流派、良識派とはどうしても同致出来ないところがあり、逆に言えばそれらから疎外されてきているということになる。言ってしまえば、そこのところでは、わたしはまったく斉藤元彦と同じ立ち位置にある。考え方から行動から何一つ似たところはないのだが、社会から浮いて、異質のもののように存在しているという点では同じ傾向を持つと言ってよい。
わたしには悩ましいが、ここは知らぬふりで通過してはいけないのではないかという気がする。
言ってみれば底の抜けた同士ということになる。いやいやながらそれを感じての今日の作である。また余計なことを抱えて考えなければならない。生活や政治の範疇と、人間性の範疇とは違う。この違いは別々に考えるべきであり、一緒くたにして考えてはならないとだけは今思っているところである。この先の考えはまた別の機会にということになる。
2025年4月22日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「桜は散るぞ」です。
息を吐くように嘘をつくと言われる自称政治家がいますが、息を吐くように詩が書けるのはいいですね。今日もそんな感じで作っていますが、遊びとかユーモアとかが足りないなあと思いますね。もっと明るく軽快に、息を吐くように、言葉が詩になって出てくるといいなあ。と、思いました。
2025年4月21日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「まだその身を休ませるな」です。
即興の自戒の歌になる。兵庫県知事を巡っての問題がなかなか決着を迎えず、良識派とゲリラ派、あるいはオールドメディア大パーソナルメディアの対立のように単純化して見てきた。最初の報道に接した時に、自分の中では問題として終わっている。本気を出せばもっと丁寧に解析しなければならないところだが、問題の本質としては自分にとっては脇道の問題のように見えたため、本気に調べたり考えたりしてみようとはならなかった。これまでにいくつかの小文を書いて、自分ではそこをさらって終わったと思っている。しかし、問題は依然として続いていて終焉を迎えていない。こちらでは終焉しているのに現実の方はまだ終焉しない。これが少し面白く、また気にかかっている。
それは、司法の手に委ねられるということになるのかという疑問だ。以前だと、古くさいが道義的責任などの問題が浮上して、そこで裁定を下すことが出来た。それがそういう段階で処理できなくなってきた。そこが少し従来と違ってきていて、社会的機能の衰退のように思える。しゃかいがそのようにきのうしなくなった。これが現象として大きなことと見えて、ここからどう行くのか注視したいと関心を持った。見るだけになると思うが、最後の決着まで見ていきたいと考えている。
2025年4月20日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「意識の老い」です。
最近はまた何を書くかについて迷っているようです。これは良くない傾向ですが、脱出できてないです。社会生活上で出くわす物事、出来事についてフラットな感性的な入出を刻めば、それで良いという気がしているのですが。どうも上手く機能していない、働いていない気がします。上手くいかないっす。精進、精進。
2025年4月19日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「世の中は変わらんようにして変わる」です。
昨日は買い物に出かけ、道路脇の桜はみな満開。近くの富谷高校の校門脇の桜並木も見事でした。風が吹くとちょっとした桜吹雪でした。どこかで、チューリップも見かけました。春爛漫。今日は気温も上がって夏日の予報とか。
気持ちはちょっと浮かれ気味になりますが、物価高のニュースがね、ざっと心に冷や水をかけてきます。今よりもっと簡素な食事にして耐えていかなければ。いやだなあ。
こんな時政治や行政だけが頼みだが、給付金だとか減税だとかはっきりしない。税金を還付する形なんだけど、恒久的にやってほしいな。行政サービスのための組織や機関、また関係機関、団体などが肥大化しているからこれを縮小して財源に回していけば何とかならないかな。それらが大きくなってさらに人員も増して、税金でそれらを養っているようなもんだからな。その辺だけは悠々自適で倒産もないし、国民、県民へのサービスの充実など言いながら、実は自分らが充実している、安定しているという、わけの分からんことが大手を振って罷り通っている。ピンキリの天下りも充実してるしさ。そう言えばステルスでさ、つまり低空飛行に隠れてさ、教員の世界にもみみっちい天下りはあって、ただみみっちいから誰も話題にしないだけなんだ。官僚から自治体の職員まで、あげたらきりが無い。警察にもあるし。全体が持ちつ持たれつならいいが、下層や立場の低い者にはそれがないから、なんだかなあだよ。いつからこんなになっちまったのか。もとのもとを辿れば、やっぱり貧富、上下ができてからだな。相当昔で、小国が相争っていた当時からだろう。それ以前で歴史の進行を変えるいい策がなかったのだろうか。無かったんだろうなあ。
2025年4月18日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『まっとう』論」です。
今日は少しはったりをかましてみた。そういう作になる。なので、書いた後の気分は少し良い。しかし、半分は本気のところがある。「まっとう」という言葉の意味と価値はずいぶんと廃れた感じがするが、埋もれさせてしまうには惜しい。もう、まっとうな世の中、まっとうな人間、という時の「まっとう」は何かが分からなくなってしまったが、まだ生き返らせることは可能ではないのか。「まっとう」という言葉が持つ力。少しでも復権させたいなと思う。
昨日、天気も良く気温も高く、これは「花見」と思い立って車を走らせた。近辺には
二三十本ほどの桜並木が数カ所あり、このうちルート取りしやすい三カ所をハシゴした。それぞれ九分咲き、八分咲き、六分咲き程度の咲き具合で、見応えはあった。
ただ、一人で一回に三カ所のハシゴは初めてで、運転しながら、『なんだこれは。冥土の土産じゃあるまいし、焦ってるみたいじゃないか』などと思ったりした。
このごろはあまり積極的に何かをやろうとする意欲がなくて、それでちょっと自分に仕掛けてみたという次第だが、まあ、まだ動けるなという実感はあったが、同時に欲望としての立ち上がりは薄いということも実感した。年を取るとはこういうことで、しかもこれと正面からこれと向き合うということになる。今日のことで言えば、「まっとう」に向き合えたら、それで良いかな、というところだ。
2025年4月17日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「何も見えない日」です。
言葉遊びだけを繰り返して、ただ時間の朽ちて行くのを眺めている。そんな気がするのだが、それは良いことでも悪いことでもない。もったいないかというとそうでもない。つまらぬだけかというとそうでもない。それでは結構なことかというと、必ずしもそうではない。
「今は動く時ではない」。マンガの侍大将の言葉である。動かぬまま時が経過し、侍大将は死んだ。
そんなオチが見える。だからどうすると言うことではない。頭が勝手に話を作り、先へ進もうとする。素直に従うこともあれば従わないこともある。成るように成る。分からぬ時はかすかな風の動きに気を止める。動きが見えたら流れる方に行く。どうなろうとも、人間の枠組みの外に出ることはない。
2025年4月16日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「個性」です。
個性というのは、分かりやすいところで言えば顔であり体つきだと言える。みんな唯一無二で、双子といえどもどこかに違いが出る。
精神的な意味での個性というのは、身体のように具象的ではないのでなかなか難しい。表層のところで言うと、これもしかし、あの人はこんな人だとたやすく判別できるところもある。特に他人については、すぐに分かった気になって、こんな人だと思い込むものだ。ところが自分自身について考えると、これがよく分からない。
ずいぶんと長い間考えてきたところで言うと、意識や精神的なところでの個性というのは、先ず無い。ほぼほぼ他人の意識や精神の寄せ集めで自分の意識や精神というものは出来ている。無垢ではないにしろ可塑的で、その源流や根源を辿ると無意識となってしまい、そうするとその領野での個性はないということになってしまう。
身体と意識や精神の間に介在すると考えられるところでは、性格や性質というものがある。これは身体でもなければ精神そのものでもないが、それでいて両者に関係するある傾向のようなものを指す。これにはかろうじて個性が備わっているように見える。身体は同じものがない。精神的なものはほぼ他人の真似から形成される。性質とか性格的なものは、身体と精神との間に介在し、可塑性は無くもないのだが最終的にはその人固有のものがどうしても残ることになる。自分という人間を変えたい、性格を変えたい。そう考えていろいろ苦労してみても、結局は変えられない、変わらない。そこに性質とか性格とかの個性は露出して見えてくる。
いろいろやったあげく、最後にこんなことが残ったな。それが自分かな。それが個性かな。今はそう考える。そんなところだ。
2025年4月15日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「底が抜けたので」です。
朝晩の家の中は寒さが残り、まだファンヒーターなど使っています。さっき灯油を2缶買ってきました。団地内を車で回ると、数日前よりも家々の庭先は華やいだ雰囲気でした。あっという間にいろいろな草花が、花を開いたんだと思います。角を曲がったりするたびに、おや、黄色だ、白だ、ピンクだ、と気づいて驚きます。来週になればもっとそれぞれの庭は明るく花盛りになって、目と心とを和ませてくれるのだと思います。やっぱり春はいい季節です。
2025年4月14日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「命なりけり」です。
正気とは思えないトランプの関税だけれど、すっと通るんですねえ、これが。もう核が落とされたかのようにわけが分からない感じですが、起きたものはしょうが無いので首をすくめて成り行きを見守るしかありません。
一方で関西万博が始まったとか、ニュースが報じられていました。明るい話題も暗い話題もごっちゃになって進みますね。何となく殺人の話題も多く聞かれる気がするし、世の中は良くなってるのか悪くなっているのか、両方が一緒に進んでいるのか、またこんな時はどう考えどう生きていけばいいのか、誰か教えてほしいっす。
晩年を迎え、静かに余生を、なんて考えていたのにそれどころじゃないっす。軌道修正したくても、いまいち元気が湧かない。南海トラフが不安視されているけれども、今進行しつつある社会不安はそれに匹敵する幻想上の地殻変動の前触れか、あるいは本震なのだろうか。もしくは個人的な妄想の類いなのか。風邪がちょっと完治しなくて、ここしばらく情緒が不安定気味で、その影響なのか自分でもよく分からない。
今日は朝からやや強く雨が降り続けています。カーテンを開けても部屋の中はぼんやりと暗いです。桜はどうなるんだろう。雨上がりに満開の姿を見せるんだろうか。雨は3日続く予報。7分咲きの花がみんな散るのだろうか。最悪は来年を待てばいいだけだ。それくらいはまだ何とか待てるだろう。大丈夫だ。
2025年4月13日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「孤立死は最終表現」です。
全国での孤立死が2万件を超えたと言われている。思ったよりも多いとか少ないとか、受け止めは様々な気がする。ぼくは始めに聞いた時は多いなと思い、しばらくして、そんなに多くもないかなと言う気になった。
たぶん、これからしっかり統計をとっていこうと言うことだろうが、どうしてそうなるかというと市町村での対処がいろいろ難しいところがあるからなのだろうと思う。それから、これからこの数がぐっと増えて行くだろうと予想されるから、今のうちから考慮していこうと言うことに違いない。
引きこもりは生前の、対社会への無言の態度表明だが、孤立死は死後のそれだ。
いずれも言葉無くするから、理解も解釈もまちまちになるが、問題を投げかけていることには違いない。社会の受け止め方によっては少子化などに見られたように、問題が拡大する方向に向くかそうでないかの岐路に立つと言うことになるかと思う。通常通りであれば拡大化の方に向き、また慌てふためくと言うことになるのだと思う。これによってまた社会は評判を落として行って、さらなる問題を生じさせる。
社会的な問題の深刻度は日ごとに増していて、普通の感覚ではもううんざりして嫌になるはずだ。そういう厭世的な気分が慢性化して、さらに全体的に社会に対する厭世度を増して行く。これを根本から楽しく明るい社会、という方向に持ち直すことはとても難しいという気がする。どうにかしないと、だが、まだ誰にも名案が浮かばない、そういう在り方が続きそうな気配だ。
2025年4月12日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「後追い」です。
余談になりますが、仮に、文学作品は意識的に作られたものと考えれば、作業過程は意識的な場だと言えるだろうか。今、一応、そう考えておくことにする。
これに対するに、では、無意識の場とは何を指すかというと、それは現実社会、現実生活であると、ぼくならば言いたい。生きて生活をしていると言うことは、万人が万人とも意識的に振る舞っているに違いないのだが、それ故に個々人にとっては自分の意識や意志決定が中断され、疎外される場でもあると言える。そうなると少しも意識的な場であるとは言えない。意識や意志を持って現実に参加するが、それは普段に跳ね返される。
ならばいっそのこと、現実とは無意識に生きる場であると、そう断定した方がいろいろな意味で楽だという気がする。また無意識の場ならば、無意識を持って参加してもいいじゃないかと思う。実際に、ある時期からそう考えて生きることにした。これはもう少し分かりやすく言えば、現実とは反射的に反応する場だと言うことだ。例えば現実の場で一度何かを発言すると、その場でのすぐの訂正は利くけれども、展開が次に進むともう取り返しがつかない。もう口にしたことは打ち消せない。現実とはそういう一期一会のところがある。それに比べて文学作品などは何度でも書き直すことが出来る。現実に生きる場ではそれが出来ない。一日たつと言い直しが利かない。言い訳が利かない。それを覚悟することが生きることである。これは厳しい反面、逆手にとることも出来る。やり直しが利かないのだから、その時はさっと諦める、中断する。後戻りするか別の脇道に入るか、そういうことである。つまりどこかでタイミング良く、どうでもいいスイッチ、いい加減スイッチを入れる、ということである。そんなふうに生きていいのだということである。そう考えるようになって少し楽になったところがある。なので生真面目で、堅苦しく生きている人にはお勧めしたい、ひとつの考え方の道筋である。
2025年4月11日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『一掃プラン』という妄想の歌」です。
「一掃プラン」が発動された。そういう妄想を抱いた。それが今日の作になった。とりあえず書き上げてみると、トランプの関税引き上げのニュース。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
下層に棲息するぼくらとすれば、これから当分の間は相当に生活が苦しくなることを覚悟しなければならないと思う。亀さんのように首と手足を引っ込めて、じっと耐えて行くしか方途がない。
政府は焼け石に水のような、給付金の配布とか、減税とかの対策を検討し始めたという。決定までにはまた、数ヶ月を要するのだろう。
ひとつの国や行政のサービスと言うことにもなるのだろうが、うんざりする。機構が大きくなりすぎて、小回りが利かない。そのことのためにもたくさんの委員会や決定の手続きなどを経ることになる。給付金に回す財源は、そんなところでも目減りする。
高度経済成長からこの方、順調に成長を続けていくのは行政機関、組織じゃないかとずっと不満に思ってきた。市町村庁舎の建て替えなどを見てきて、すごくそうだと不満に感じてきた。片田舎のくせに、庁舎だけは豪勢になる。言い訳はひとつで、行政サービスの充実という一点だ。つい「いらねぇ」と口にしたくなるが、周囲の住民はどうなのか。やはりそれを必要とする人もいるのだろう。ありがたいと感謝する人もいるのだろう。そう思うと、口を閉じているより仕方ないと言うことになる。
2025年4月10日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間には責任が取れない時代」です。
人間には責任が取れない時代に突入した、というのがぼくの見立てだ。
気候変動などに表れた自然環境破壊。わたしたちの社会の、文明と文化の発展に費やすエネルギの大量消費に伴い、自然環境は変化を余儀なくされ、そうした変化は思いがけない災害を呼び込んだりしている。そうして最終的にはわたしたちの社会そのものを大きく変えていくところまで行き着くに違いないと思う。もちろんこれまでも人間は自然および外界に対してそういう働きかけを繰り返し発達してきたのであり、問題が生じてそれを発見するたびに是正策を講じると言うことを繰り返してきた。その運動はこれからも続くだろう。調整し、修正し、策を講じてさらなる発展を遂げる。
これの限界が見えてきたと言うつもりはない。ただ、これはほぼ永久に続くのかと言うことと、その運動が異常な加速感を感じさせるようになったことで、不安になっているだけだ。
ひとつだけ危惧を覚えるのは、こうして社会全体、世界全体が進んでいく時に、万一自然の摂理、法則がクラッシュして取り返しがつかない事態に陥った時に、人間は一体どうやって責任を取るんだろうと、ふと素朴な疑問を持った。そして、当然のことながら、誰ひとり責任を取る奴は出てこないだろうなと考えた。ただそれだけだ。ただそれだけが思い浮かんで、それは面白いなあとこっそり考えて、そうしていたら今日の作になった。それ以上のことは特にない。ちょっと無責任だなあと思うが、ぼくにはそれを止める力もなければ、声を出す勇気もない。ただ人間の無責任が自他共にはっきりとする、そういう時代に突入したのだなあと言うことだけは感じる。この先どうしていくべきだとか、こうしなければいけないとか、ぼくにはそういう考えはない。そしてそこのところでは、誰しもが無力であるというように思える。
2025年4月9日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「妄想の少子化考」です。
少子化を考える時にある思い込みがあって、個人的には文明病のように思いなしている。
生まれ育ちは東北の山間の小さな村で、ある意味で偏狭に近い土地柄だった。古い因習、昔気質の家父長的雰囲気も色濃く残っていた。物心ついた時はちょうど戦後経済の発展途上にあり、ラジオ・テレビを始め、文明・文化の波が辺境の地にまでおよんだ。人並みに異性を気にし始め、同時に自分の心の動きに違和感を覚えた。意識は変化する、ということに気づかされた。口をつく言葉と意識には齟齬があるというようなことをだ。自然な流れで文学にも興味を持った。
戦後という時代に生まれていなければ、それよりずっと前の時代に生まれていれば、ぼくはきっと村のしきたりに従って、従順に、平凡な一生を一生懸命努力して送ったに違いないと思う。けれどもその頃の村社会はぼくらを繁栄の都市に、ぼくらのためだと考えて送り込もうとした。そこに選択の余地はなくて、、それが一定のコースだった。
押し寄せる文明・文化の荒波の中を必死に泳ごうとする中で、自由とか個人主義とかの概念にもみくちゃにされた。自分を制度やしきたりの中に封じなければと考えていたところに、逆にそうしたものから自由になれと教えられることになった。
少し話を端折って言えば、そうした意識とか自意識とかに対峙する時代の、文化的側面の入り口に立って、ぼくらはずいぶんと精神的な方向の時を必要としたのだ。
さらに話を大きく端折って言えば、もうぼくらには結婚制度というようなものに自分を押し込めて、閉じ込めておくことは出来ないだろうなと感じていた。もちろん、この世界、この社会にあって、子どもを持ち、育てることも不可能だと考えた。何よりも、子どもが不幸になり、可哀想だと考えた。
その後にぼくは考えを変えたわけだが、それは別にして、そう考えた経緯があるから、現在の少子化は自然な成り行きで至極もっともなことだと思うところがある。
そうした意味合いから、ぼくらは少子化の問題が起こる端緒を生きた年代にあたっていて、多かれ少なかれ、みな問題意識だけは持っていたはずだと思う。そしてそれをうやむやに放置してきたから、その延長上に今日の少子化の問題が大きく取り上げられることになっているのだと考える。ぼくからすれば、誰でもこんな事態は予測できたはずなのに、社会的な繁栄ばかりを望んできての結果だと思えて、同世代も少し下の世代も、ずいぶんとカマトトぶっているなと思わずにいられない。一事が万事で、いろんなことが分かっていて、予測さえも出来たはずなのに、目を塞いで今日の社会の状況がある。いい加減知らぬふりは止めたら良かろうと思うが、結局は誰もが責任回避を企てていると言うことになる。メディアの向こうで胸を張る連中もみんなそうだから、本当に人間の中身はたいしたことがなくて大同小異なのだ。
生きにくく、生活しづらくなるから、大声で罵倒したり、わざわざ喧嘩をふっかける必要もないが、心の中ではそういう連中を嘲ったり蔑んだりしておいた方が良い。何よりも自分たちの心の健康のためには必要だ。
2025年4月8日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「自己暗示」です。
風邪症状がぱっとしなくて、自然、気分も上昇しない。脳裏に浮かんでくる言葉も暗めなところから離れがたくなっている。気分転換と思って、プチドライブをした。梅の花を見て、水仙に桜も見た。桜は木の本数としては一番多いのだが、花が咲いていたのはまだ2本ほどだ。ほかはみな蕾にも見えない中で、どうして満開に近く咲く花があるのか不思議だった。同じ連なりの同じ種なのにと、そう思った。
家に戻ったらどっと疲れを感じた。深く強く咳き込みなどして、考えるよりも体はこたえているのだと思った。身体と意識にはずいぶんと距離があるのだ。
2025年4月7日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「令和のおぼっちゃまくんたち」です。
国政の影に隠れるようにして、町政、市政、県政と好き勝手やってるなと言う気がする。特に都道府県レベルでは首長はすっかりお殿様気分で、権力の行使乱用が至る所にあると思える。全体の調整を知事や一部の幹部で行う仕組みだから、どうしたって偏りというのは出てくる。何なら初めから欠陥を持つ仕組みだ。
数日前からの風邪が一向に改善しない。それに加えて地方行政の崩壊の現象や予兆を見聞きして、うんざりした。相変わらずで社会が良くなって行く兆しは一つも見えない。もう本当に馬鹿馬鹿しい。それならこっちだって馬鹿馬鹿しいことをやってやると言うことでの今日の作だ。小林よしのりの「おぼっちゃまくん」を思い出した。PTAなどから文句が出たほどに一世を風靡したギャグ漫画だ。下品だ、下劣だと批判もされた。まあぼくなんかの考えるところでは、そういう批判や非難をする側の方が、もっと下劣で下品なことを行っていると信じて疑わない。
人間は権力を持っちゃいけないし、人間に権力を持たせても良くない。人は権力に群がる。今は子どもに権力を持たせたようになってしまっていて、権力の使い方がエグい。初めから資格のないような者たちが権力を手にするようになってきた。
2025年4月6日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人間性の破産宣告」です。
喉が痛い、体がだるい。今回の風邪はこんな症状で、市販の風邪薬を服用しているが思うように改善しない。昔だと休まずに仕事をして、そのうちに治っていた。仕事のことで頭を使うから、風邪を引いていることを忘れて、それが、結果、良かったのかも知れない。
今は風邪の引き始めだと思うと、早く治ろうとしてすぐに薬を飲み、布団を敷いて一生懸命寝る。ずるずるそれを繰り返して、かえって回復が遅い。
天候が良ければ外に出かけて、きれいな空気を胸いっぱい吸って、そして花などに目をとめて気分を変えるなどしたら、その方が余程治りが早くできるんじゃないかと思う。でも、考えるだけ。なかなか実行が伴わない。治ったらきっと桜満開だから、その時は妻と一緒に桜を見に行こう。
2025年4月5日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「面白い見世物」です。
4月に入ってから風邪を引いてしまい、喉が痛くて参ってます。早く切り上げて、横になることだけ考えてます。
月初めのnishiyanさんからの投稿が今回も頂いていて、掲示板の方に掲載されていますので、そちらの方もご覧ください。
2025年4月4日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「辺境からの疑義」です。
日本の成立時期を考えると、初期日本はほとんど西日本だけで出来上がっている。そしてそれは、渡来人や帰化人を系譜に持った人たちの働きが寄与することによって成されてものと考えることが出来る。
おそらく、この島国のどこかに、渡来人や帰化人にとって定住しやすい地域や場所があった。彼らはそこに住み着きながら、さらに故郷である大陸との交通も交流も途絶えさせずに行った。そのために大陸の新しい技術や文化をもいち早く取り入れることが出来た。それによって発展もあり、古くからの島国の住民に対してもある種の権限や権威を持ち得たに違いない。平たく言えば、驚かれたり尊敬されたりというようにだ。
こう言うのはまるっきりの空想なので、ただ面白くて考えたり書き記してみたりと言うことを、ひとりでしている。要はひとり遊びなので、読ませられるひとにとってはたまったものではないかも知れない。今日は、そういう作です。
2025年4月3日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「物価高騰の腹立ちを歌う」です。
軒並みの物価高騰。米の高騰もこれに含まれるが、米不足からの高止まりの内実がよく分からない。食料品の高騰は死活問題で、きっかけはウクライナとロシアの戦争に始まると思うけれども、それの影響ばかりではなさそうな気がする。得体が知れないと同時に、それだからこそ長引きそうな気もする。
SNSと兵庫県問題の絡みの問題と併せて考えると、どこか社会倫理上のボトムダウンが起こっていて、全体にその影響があるのではないかと考える。
戦争がそうだったけれども、当時は「まさか」と思う出来事であり、その「まさか」
がいろんなところに波及してきているという気がするのだ。社会通念上、あるいは社会倫理上の基盤、地盤が音を立てて崩落して行く感じ。根拠のない危惧に過ぎなければよいのだが、ちょっと不安だ。
プーチンがやったこと。アメリカはトランプがやろうとしていること。いずれも穏当なやり方とは思えない。それが大衆の支持を得てしまうという不穏。そうしたことは同時にヨーロッパの陥没を印象づける。中国のただいまの静けさ、抑制気味な様子というのも気になる。さらに目の前の生活の閉塞感も待ったなしだ。耳目をそばだてたいところだが、自分の非力さではどうしようもない。だが、考えていかなければ。
2025年4月2日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「幻想の潰し合い」です。
兵庫県知事問題を見ていると、社会通念上の正統的な見解、見識と、異端との戦いのように見える。例えば百条委員会や第三者委員会の報告が出されたら、これまでの良識、常識からすれば、そこで勝負がついたとなるはずである。
ところが斉藤知事も知事を擁護する連中も、百条委員会や第三者委員会の結果報告を無視したり、委員会自体や調査の仕方にクレームをつけ、無効であるかのように喧伝することを止めようとしない。
これほどまでに未練がましく、諦め悪く、権力の座にしがみつく例をあまり見た覚えがない。騒ぎが大きくなるにつれ、たいていは恥ずかしくなって身を引くというのがこれまでの通例である。
傍観者なので面白いなあと見ているだけなのだが、さらに面白いと感じるのは、こうした知事側の抵抗に対して、オーソドックスに知事の非を咎めようとしてきた反対派が、これ以上の手を打ち出せずに戸惑っている現状である。
知事側の悪あがきは度を超えている。にもかかわらず、度を超えた悪あがきに対して、戸惑いこそすれ、反対派は有効な手立てを打ち出せない。もう手札がないと、そんな様子でいる。傍観者のぼくにはこれが面白く映じた。
こういう泥臭い諦めの悪さみたいなものには、ある既視感のようなものがあって、これを考えていると、島尾敏雄の小説だと思い当たった。確かに島尾の小説には目を背けたくなるような状況が描かれていた。
深読みすると、兵庫県政のここまでの顛末にも、そうして深読みできる部分は微小だけれどもたくさんある気がする。拡大鏡で覗けば、いろんな重層する問題も見えてくるのだろう。だが、そこまで付き合う気力は、今のぼくにはありそうもない。ここまでの成り行きから行くところまで行って終わりとなるに違いないが、まあそのことにたいした意味はないだろうと考える。
2025年4月1日
『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「少子化の道」です。
昭和26年の生まれなので、敗戦から6年後になります。宮城県は北部、岩手県境の山村で幼少期を過ごしました。3、4歳位の写真では、明治の初期を思わせるような着物姿で、草鞋のようなものを履いて近所の子らと写っていました。
小学校の一年生入学時は、制服のようなものを着て、学生帽を被っていましたから、一気に洋風化が進んだんだと思います。ズック靴と呼ぶ靴も履いていたような気がしますが、記憶には「短靴(たんぐつ)」と呼んだゴム製の靴が鮮明に記憶されていて、ただそれはいつどんな時に使ったのか思い出せません。学校の上靴として履いたのかなあと思いますが、その後定番となったバレーシューズの記憶もあって、その辺はうやむやです。
両親は戦前生まれですから、ぼくらよりも一代にしてめまぐるしい文化と文明の変遷を体験したんだと思います。間には戦争体験もあります。
ぼくらは両親ほどではないですが、それでも子ども時代から今日まで、様々な変化の渦の中をくぐり抜けてきました。ぼくらより遅れてきた世代との違いは、上記した幼少期が一番の大きな違いだと思います。ぼくの感覚では、記憶している限りでの幼少期の地元の風土には、江戸や明治・大正のころの風土に地続きのところが多分に残っていたという気がします。雰囲気とか匂いとか、、底流では継承されていたという気がします。それはしかし、しばらくすると跡形もなく現代化の地平に均されて行ったという気がしています。そこはだからものすごく目まぐるしく変わったと、振り返ってみるとそんな印象です。一代にして数世代分の変化を体験した、振り返ってみると、そんな印象なのです。すさまじい文明と文化の発展。その渦中をくぐり抜けてきたという気がします。
端的に言うと、生活全般が向上したと言うことになりましょう。そしてそれはよかったわけです。それは両親を始め、ぼくらよりも前の世代の人々のおかげなわけです。ただ、繁栄の中を時代とともに走り続けてきた中で、様々な社会的問題が生じたり、またぼくらの世代が直面した学生運動というものもあったりしたのです。陰と陽と言いますか、繁栄の裏には歪みがあるというか、そういうことにも気づかされてきました。人間社会というものは一筋縄ではいかないと言うことです。
過疎化や少子化。人生の晩年を迎えて、このような社会の根源的な諸問題を目の前にしたりしています。もちろんほかにもいろんな問題を見聞きします。
繁栄の裏にこんな問題があるよ。危ないよ。折々にそういうことを提言、提案しようと努めてきたつもりですが、もちろん今もその思いに変わりはないのですが、意味もないことを続けてきたということははっきりしています。これはしかし、今さら変えるというわけにはいかないようで、又やり得てもあと少し。このまま延長していくと言うことになるのだと思います。
今日の作も、つまるところ、なんとなく社会全体でよいと思われる方向に進むことは危ないよ。落とし穴が待ってるよ。そう、警鐘めいたことを告げているだけです。こう行くのがいいよ、正しいよ、ということまでは言えていないのです。いつか言えたらなと、そのことだけのために続けている。そんなところかも知れません。