2024年5月4日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ゴールデンウィークに思う」です。


2024年5月3日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「心を刈る言葉」です。


2024年5月2日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「理の外に生きる」です。


2024年5月1日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人生の大事に向かう」です。


2024年4月30日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「良心は呵責する」です。


2024年4月29日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「錯覚の構造」です。


2024年4月28日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「頭や心の『脱力』」です。


2024年4月27日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「文字を用いて文字をディスる」です。


2024年4月26日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「今のところ『正義』の物差しに『正義』はない」です。


2024年4月25日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「楽な生き方を発明したい」です。


2024年4月24日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「加齢による後退戦」です。


2024年4月23日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「負者の使命」です。


2024年4月22日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「脱現実記」です。


2024年4月21日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「喉の支え」です。


2024年4月20日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは《ひとつのメモとして》です。


2024年4月19日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「踏み台昇降」です。


2024年4月18日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「不毛の行≒徒労の行」です。


2024年4月17日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「氾濫」です。


2024年4月16日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生きてるだけでボランティア」です。


2024年4月15日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「癒やしの動画」です。

 赤ん坊から子ども時代にかけて、人間は無知蒙昧の「あんぽんたん」です。動物もずっと「あんぽんたん」です。ぼくは「あんぽんたん」が好きだったのですが、これを「あんぽんたん」で済ませずに、もっと丁寧に見て、考えるべきだったと後悔しています。一応「あんぽんたん」期を脱したとして、上から目線で「あんぽんたん」を余裕で見てしまいました。いま見ると、その本能、無意識、意識、心、精神は宇宙大に豊かなカオスに見えます。だってその中から人間社会の文明、文化が形になってきましたから。無意味ですが、違った歴史が出来た可能性も否定できません。
 ブームと言うほどでは無いのですが、寝る前に動物の癒やし動画を時々見ています。特に、異種なのに通じ合ってるとか、仲良しに見えるところなんかを不思議に感じながら見ています。


2024年4月14日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「世界の急所」です。

 気まぐれに、また暇つぶしに、こんなことを書いていると思われてよいのだろう。そしてそれが本当のような気もする。こうした言説、言葉は、当てにならないとよく知っているはずだ。それでも油断すると書いてしまう。読者はいないと想定しているからだ。
 「本当」を書いて否定する。何度繰り返してきたことだろうか。出来もしないこと、やりもしないことを言表してはならないのだ。それなのにまた繰り返してしまう。自虐、自傷に似ている。


2024年4月13日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「術と科学」です。

 最近武術・格闘技系の動画をよく見ている。特に好きだというのではなく、ほかに面白いと思うものがなく、何となく気がつくと見ているという感じだ。ただこれも毎日見ているので飽きが来始めている。
 これらにはスポーツとして試合形式を想定して力や技術を高めていくものと、護身術のように試合など考えない系列のものと、大きく二つの系がある。オラオラ系とひっそり系だ。どちらかと言えば、わたしはひっそり系が好きで、危ない連中がいるところには近づかないとか、遠回りするとか言う武術家に親しみを覚える。無用な戦いを避けるというやつだ。そちらの系は、ボコボコにやり合うのではなく、急所を狙った一撃必殺の修練を積んでいる人が多い気がする。客気、血気、殺気の気配を封印して、逆にニコニコと優しく、物腰も柔らかな普通のおじさんという感じ。周囲にまた相手に油断させ、警戒を解き、戦うそぶりも見せずに一撃必殺を行うという、言ってみれば一つの兵法。なかなか面白いが、その先を極めれば、実は本当に無力というところに落ち着くのではないかという気もする。無名者の中にそういう達人がいるように思えるし、そうなると、達人から最も遠い存在が真の達人と言うことになって面白い。無私、無欲、ということになろうか。


2024年4月12日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「社会貢献=投資という国家」です。


2024年4月11日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「小さな不穏の構図」です。


2024年4月10日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「夢と現の記憶」です。


2024年4月9日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「栄養ドリンクの功罪」です。


2024年4月8日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「とあるジレンマ」です。


2024年4月7日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「尋常に老いて行く」です。


2024年4月6日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「毎日が試作」です。


2024年4月5日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「病態論」です。

 今日は昨年亡くなった母の命日に当たります。
 宮城も、早いところでは桜の便りが聞かれます。かなり暖かく感じられるこの頃です。近辺ではまだ桜を見かけていません。路傍に、まばらにでしたが水仙の花を見かけたりしました。団地のあちこちの庭にもいろいろな花がカラフルに咲き誇っています。車で通るだけなので、花の名は特定できませんが。


2024年4月4日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「むかしばなし」です。

 読み返すと意図だけは見えますが内容的には物足りない感じです。それでもそのまま掲載することにしました。まあ、ずっとこんな感じです。

 掲示板に新しいスレッドが追加されています。こちらもご覧ください。


2024年4月3日

 今日の作をアップしたら、掲示板の方にnishiyanさんが新たなシリーズ「水詩」を投稿していただいていました。スレッドの95番になります。ぼくも小さなコメントを書き残しました。是非そちらもお読みください。


2024年4月3日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「明るい枯れ葉色の中」です。


2024年4月2日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言葉と文字と活字と」です。


2022年4月1日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「歴史的な子ども期について」です。


2024年3月31日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「希望の老いに向かって」です。


2024年3月30日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「サイレンス」です。

 今朝テレビをつけたら、ガザ地区で栄養失調で死んだ子供ということで映像が流れていて、それを見た瞬間言葉を失う衝撃を覚えた。もちろんその後は何事もない日常にすぐに転換したのであり、それはそうした一枚の絵画を見たと同じだ。
 私は世界や社会を変えようとしたことがない。よって、いかなる組織や団体にコミットしたこともない。戦争を無くそうとする運動、世界の自由と平和に寄与しようという運動にも所属したり加担したこともない。私はどんな旗振り役、推進役にも、またそうした組織の同志になることもなく、ただ自身の身の回りのことや生活に汲汲として、ひたすら祈願することだけに徹してきた。私には資格がない。そう思ってきた。正しく把握し、現実を超える思想に到達しなければ動くべきではないという戒めを胸に置いていた。
 普通人に立脚して辿り着いた場所は、徒労と不毛の二文字に尽きる。あえなくこういう仕儀に到った。世界は悠々として相変わらずだ。やや自嘲めくことを辞さずに言えば、「ドン・キホーテ」のような滑稽さだ。
 ただ、知もなく賢も無き者から言わせてもらえば、知もあり賢もある者らがやってきたことも、先の映像を介して言えば同じことだ。全身全霊をかけて成したとか、献身的に努めたとかは免罪符にはならない。それで社会的評価を受けたとすれば、たとえそれが意に反したことだとしても、忸怩たる思いに溺れねばならないはずだ。そして多分そう言うことになるのだろうと思う。人は善に向かっても、芥川の「蜘蛛の糸」に登場するカンダタのようであることを免れない。今のところ人界はそういうものだと言ってもよい。累々と積み重なり、積み重ねられる現実。もちろん泣いても笑ってもいいのだ。
 わたしたちはおあつらえ向きに、そう簡単に死なせてもらえるわけにはいかない。あと百年、二百年生きなければならない。生きてゆっくりと地獄を味合わねばならない。茨の山が苦痛なら、死に体で登って行くほかにない。


2024年3月29日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「終わりまで続く」です。


2024年3月28日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生涯の多くの時間は」です。

 週休五日制で一日八時間労働。働き盛りの年代は、現在でもそんな形で働いているのが標準的ではないかと思う。そこを中心として生活が組み立てられている。その余の時間や休日は、体調維持のための管理や、反動のように思いっきり趣味などに没頭するとか、あるいは健気に家族への奉仕に努めるとか、いろいろだろう。ただいずれにしても、大半の時間と日数、労力は、しなくてもいいならやりたくもない仕事や労働に捧げているということになる。もちろんそれが生きがいになっているとか、喜んでやっているという立場の人もいるだろうから、この事を一概に否定的に捉えることは出来ない。今はただ、そんなふうになっているなあと概観されるように思うだけだ。
 どんな仕事でもそうだが、ぼくが小学校の先生でいた時、よく、仕事でなかったらこんなことはしないなあと考えていた。子供の世話をすること。勉強を教えること。それ以前のぼくは民間会社に勤めていて、教育のこと、学校のこと、子供のことには全く無関心だった。成り行きから先生になり、先生らしく考えたり行動したりするように努めた。それは素のぼくとは言いがたくて、言ってみれば先生役になりきったと言うことになる。
 仕事で与えられる役割を全うするために役になりきっているうちに、周囲からは次第にその役がぼく自身のように認知されて行く。あるいはまた自分自身の考えもそういう方向に動かされて行く。仕事で評価され、自分のそこで自分を評価するようになる。すると、その時、素の自分が隠れて見えなくなってしまう。それでいいのかというのがいつも疑問だった。もちろん社会はそれで成り立っているから、疑問に思う方がおかしい。そういうことになって、ますますぼくは引きこもる。


2024年3月27日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「凡庸の『義』に生きる」です。


2024年3月26日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「幻のシナリオ初稿」です。


2024年3月25日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『悔いなく生きる』ということ」です。

 最近、武術系の動画をよく見ています。それも極真空手などの剛のものではなく、合気に関心があります。合気は脱力、柔の強さを見せます。剛は力でねじ伏せる印象があり、柔は気を消しながら相手の力を利用する、そんな戦闘法のようです。ぼくらの知っているところで言うと、文学で例えると剛が三島由紀夫さんや石原慎太郎さんで、柔は島尾敏雄さんという感じです。「死の棘」と言う作品で有名な島尾敏雄さんは、浮気が原因で精神に異常を来した奥さんにつきっきりで敗戦処理をします。そういう形での敗戦処理を三島さんも石原さんもしないし、出来ないと思います。もちろんそれはどっちが良い悪いと考えるべきことでもありません。一般的なのは、関係を断ち切るという手段です。心を強くして、と言うことは清濁併せ呑んで、無かったことにしてしまう、闇に葬る、と言うようなことです。平たく言うと離婚で決着をつけます。それが一般的で、標準で、健康なやり方です。でもそれだと闇に葬るわけですから、肝心なところは不問に付して、人間についての奥深い理解に分け入ることを諦めるということでも有ります。諦めておいて剛の声や剛の態度で自分にもまわりにもはったりをかますやり方は、ぼくは余り好きではありません。好きではありませんが、たいていそんなものです。そしてかく言うぼくも、いざという時にははったりをかます側に回るのではないかと危惧されます。柔とか弱さとかの徹底は、思ったよりも難しいという気がします。


2024年3月24日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『悔いなく生きる』ということ」です。


2024年3月23日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「内観」です。


2024年3月22日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「みんなくそったれ」です。

 ネットで見かける論客の中で資質的にも興味深いのは「成田悠輔」で、時々発言を視聴したりしている。ただ経済学者の肩書きなので、どうしても行政サイドに立ってもの申すことが多いように感じられる。それを察知すると、途端に鼻白んでしまう。なのでそれ以上に興味、関心を持てないでしまう。公的に、あるいは社会的に発言しようとすれば、どうしてもそういう立場の上に立って話すことになる。それも水準としては悪くない出来に思えるので、そういう線引きをした上ではよいと評価できる。だがぼくらは吉本隆明を読んできているので、またその発言を聞いてきているので、そこから言えばもう一皮むけた発言を期待してしまう。一方的な期待に過ぎないからどうでもいいのだが、同じような世代の人たちもたくさん出てきていて、そこでは活況を呈しているように見える。デジタル巨人たちの中から、アナログ時代の巨人を越える人が出てくるのかどうか。アナログとデジタルの違いは交錯不可なのかどうか。ほんの時たまだが、アンテナを張ってみている時がある。


2024年3月21日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「論的心像」です。


2024年3月20日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「消えゆく記憶と再生と」です。


2024年3月19日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「意固地と天邪鬼」です。

 子どもの頃、母からはよく「内弁慶の外味噌」と揶揄われていました。その意味は、家の中では横柄で傲慢で偉そうにするが、一歩外に出るとシュンとして小さくなっているというようなことだったと思います。それから口癖のように「天邪鬼」と評したりもしていました。現在では「内味噌の外味噌」に変わりましたが、「天邪鬼」と「意固地」は生涯変わらない気がします。後者はしかし、外では出さないように気をつけています。その分、書くというひとりの行為の時は、いかんなくその性格が発揮され露出してしまうもののようです。我ながら辟易することが多々あります。


2024年3月18日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「凡人考」です。

 趣味の詩はいつも完成しない姿で立つ。完成に向かうとたちまち消える。毎日の心象のスケッチは書き殴りと同じだ。荒い荒い書き殴りのスケッチ。ゴミの山のように降り積もる。同じ線描、同じタッチ。呼吸をすること、生きていることと同じだ。好転も向上も、成熟もない。こんな仕方でしか出来ない。こんなやり方でしか続かない。こんな生き方でしか生きられなかったように、だ。


2024年3月17日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ここに立つ」です。


2024年3月16日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「無名の人に」です。

 普段する呼吸のように吸ったり吐いたり、取り込んだり放ったり、その中のほんの一齣です。このところ、力まない、また労のない作が増えてきています。雪解けみたいな一時期です。


2024年3月15日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「腐葉土」です。


2024年3月14日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老害論」です。

 およそに千年から三千年前に登場した統一部族国家は、長くその形態をとどめ、近代国家へと変遷を遂げてきた。自然支配に対する法の支配と言えるそれは、自然のする無意志の支配とは異なり、どんなに公正・公平を飾っても、人間のする恣意性を越えることが出来ない。つまり人為的な利害の種を終始内在させて、そこから逸脱することが出来ない。もうそろそろその歴史的な使命、役割を終えてよいのでは無いか。そう思うが、日本の現状の与野党のように、野党がからっきしで与党がやりたい放題と同じで、非国家の思想が脆弱で主となることが出来ない。国家も駄目だがそれに変わるものがまだ見出せない。
 ぼくらはそのことに無関係である。そんなの関係ない、である。でも時々考える。考えても意味が無いが、それでも考える。バカボンのパパみたいだが、それでいいのだ。言えるうちは言い続けなければ、言葉を紡ぎ続けなければ。我流で虚弱すぎるから、大きな声では言えない。


2024年3月13日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ひたすらの無」です。


2024年3月12日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「評価の我慢」です。


2024年3月11日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「福寿草という花のこと」です。


2024年3月10日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「概念に乾いた砂」です。

 明るく、軽く、時に楽しくヘラヘラした作を書きたいのに、思うように行かない。そういう方が難しいのだ。でもそれが理想と言えば理想だ。1作でも、いつか実現してみたい。


2024年3月9日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「鬱屈の気」です。

 30分くらいの間での意識の明滅をコピペしたに過ぎないものです。明滅の後にかき消える一瞬の泡立ちに過ぎないのですが、それも含め、ある種の共有が成り立つんじゃないかと考えます。そうじゃないかも知れませんが、ただそう思うというそれだけのものです。
読んですぐに忘れる、そういうものでいいのです。つまらぬいつもの作です。


2024年3月8日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「評価戦線からの逸脱」です。

 他人や社会の評価の仕方を知って、それに即して努めると言うことは大事な一つの在り方だというのは間違いない。逆にそれらはすべてだめだとして、否定し、反発してみせるというのも、もうひとつの立場として大事なことだ。歴史を振り返ると、けっこうそう言うことから進歩や発展が生じたりもしている。ただし、そういう立場は大変苦しく悩ましいものだろうから、推奨は出来ない。
 積極的な引きこもり、不登校などは世の中を変える起爆剤となってすでに作用している。それが過半になると社会そのものが成り立たなくなる。ダメージを受ける。もちろんそれを引き起こす起爆剤としての個々も致命的なダメージを被るかも知れない。それはなってみなければ分からない。
 ある政党のように、社会的な停滞が党利に結びつく状況下で、それらは閉塞を揺さぶるように機能する。それは徹底的である方がよい。既得権益に胡座をかいた既存の組織はみんなだめだ。それをどうぶっ壊すか。非参加の形式は示唆的である。

 何を言おうとしているのか、言いたいのか、分からなくなってきたのでもう止める。


2024年3月7日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「抗し得ない道」です。


2024年3月6日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「みんな言葉に仕舞い込む」です。


2024年3月5日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「詩と微笑み」です。


2024年3月4日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言葉さがし」です。

 書き忘れていましたが、今月も1日にnishiyanさんが掲示板に「土詩」を投稿してくれています。「土詩」としては30作目で、このシリーズはこれで終わると言うことでした。次は「水詩」として展開するそうです。
 最近は主に、3行詩の4連という形で作品を展開し続けているnishiyanさんのブログ。ここでも度々紹介してきましたが、毎日書き続け、毎日公開し、今年で10年目を迎えるそうです。これは、何でも10年毎日やり続ければプロと言い切った吉本隆明さんの発言の実践版、そう言っても良いと思います。ぼくの狭小な認知においては前代未聞、マジにこんなことを企てて実践している人はnishiyanさんのほかに知りません。ドエライコトです。
 nishiyanさんの営為にどこかで感化されてもいるに違いありませんが、このところの1年近く毎日、手習いのつもりでぼくも詩のようなものを書き続けてきました。ぼくの場合はなんとなくの成り行きでここまで来ているのに過ぎませんが、毎日、いつ止めようかとばかり考えています。1年でもう空っぽを自覚します。
 とりあえず、nishiyanさんがいつ10年をやり終えたということになるのか、その日を注目して待ち続ける。そうした気持ちでいます。たくさんの人と一緒に立ち会えたらと思います。


2024年3月3日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「心象の空疎」です。


2024年3月2日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「眠れる夜は眠れ」です。


2024年3月1日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「入力がずっと0なのに無理に出力する時」です。

 昔話の「瘤取りじいさん」に出てくる踊りの下手なじいさんが、ぎこちない踊りを踊って鬼たちの不興を買ったように、苦手とする言葉遊び系をたどたどしくやってみました。どこからともなく、「よせばいいのに」という声が聞こえてきそうです。でも手遅れです。やっちゃいました。


2024年2月29日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「とある領域の入り口で」です。


2024年2月28日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「人生の一小事」です。


2024年2月27日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「迷走の途次からの雑感」です。


2024年2月26日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「主体の二重性」です。


2024年2月25日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生真面目な冗句」です。


2024年2月24日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「ある懐疑からの言葉」です。


2024年2月23日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老後の現在」です。


2024年2月22日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「青天の霹靂」です。


2024年2月21日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「知の循環」です。

 毎日詩を一篇、無理しても作り続けて1年近くになります。何一つ上達していないのですが、自分の中で詩が軽いもの、身構えなくてもよいものになってきたという気がします。誇張して言うと、食事や睡眠と同等という感じです。これは詩の水準を落としていることになるかも知れないです。でもまあ、PCのゲームのような個人的なプレイなので誰に迷惑がかかることもなく、無害でもあり、これでもいいかという気がします。
 これをこれからも続けていくか止めてしまうかは、自分の中ではまだはっきり決めていません。ただこれをするとほかに手が回らなくて、散文的なものに向かう気持ちが起きないのが、ちょっとどうかと思ってしまいます。そちらでも考えたいこと、書きたいことはあります。ただ、まだ機が熟していない、と言ったところです。それほど遠くない時期に再開したいです。


2024年2月20日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「黄昏の時」です。


2024年2月19日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「午前0時を越える」です。


2024年2月18日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「時読み」です。

 害も益もないことを書いている。よく分からないことを書いている。分からないことは無限にあるので、無限に書けそう。でも、書くのも読むのもつまらない。ここから脱出しないと。ただのマンネリか。書く側には、平場の情景描写、行間の言語化とか、無意味な深刻さもあったりする。


2024年2月17日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「生きる」です。


2024年2月16日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「イマジネーション」です。


2024年2月15日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言葉考」です。

 白紙の状態でふと思い浮かんだ言葉を書き記し、今度はそれを元に思い浮かぶ言葉があって、そこからは水路を辿るように言葉を積み上げていきます。どこかでせき止められ、方向転換することもよくあります。そうするとたいてい一貫性みたいなものがなくなります。結果として妥当なものでなくなったり、正当な意味合いでなくなることもあります。ですから内容的には誤り、嘘八百ということもあります。事実や真実を書いているというようには見ないでください。末尾に「身体を枯らす」と書き記していますが、この言葉に一番驚いているのは自分なのです。一篇が詩としての統一が成されないとしても、時折こんなことがあって、痺れます。同時に、激しい羞恥が走ります。


2024年2月14日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「縊死からの死考」です。


2024年2月13日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老いの身構え」です。


2024年2月12日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「言霊への畏怖」です。


2024年2月11日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老いを行く」です。


2024年2月10日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「頭の良さ悪さ」です。


2024年2月9日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「大切なこと」です。

 失念してましたが、nishiyanさんが1月3日に掲示板に「土詩」を投稿してくれています。これは掲示板のスレッドの2、「感想など何でも掲示板」の方(bR15)にupしていただいたようです。また2月3日に、スレッド1「掲示板が新しくなりました」の方(bW7)にもupしていただいています。どうぞ立ち寄ってご覧ください。
 なおnishiyanさんは10年、毎日詩を書き続けることを目標にされている方で、今年その10年目に突入されたと言うことです。ブログは下記の通りで、もちろんぼくは掲載されたものは全部見て読んできました。主に短詩形式でやっておられるので、毎日でも読むのに時間を要さず手軽で親しみやすいです。nishiyanさんは毎日書く側で、ぼくを含めて読者は毎日読む側となりますが、毎日書くことが著者にとって何事かであるように、毎日読むこともまた読者にとっては何事かになって行くような気がします。その意味でもその作品に接することは無形の意味と価値があるように思えます。
 下にリンクを張っておきます。
 https://blog.goo.ne.jp/okdream01


2024年2月8日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「幸福の追求」です。


2024年2月7日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「正気に返る」です。

 賛否両論かと思いますが、今日の気分はこんなです。正気に返って、さてどうしよう。何をすべきか見つけかねています。いっそまた働きに出てしまおうか、とも。まあひとりでいろいろ悩んでしまいます。


2024年2月6日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老いの独語」です。


2024年2月5日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「無明の底で」です。

 あまり気分が乗らなかった、今日の作です。今夜から雪という予報で、今もどんよりとした空模様です。気分も朝からどんよりしたままでした。
 ちなみに、今日は73歳誕生日。今のところ妻も気づいていないようですし、誰かが祝ってくれる予定もありません。暦は「日読み」だそうで、これが発見された頃、完成された頃、誰かが気づいたんでしょうね。生まれた月日が一年ごとに巡り来ることを。ただこの月日の数値の一致と言うだけで、中身的にはがらんどう。祝って意味あるものとも思えませんが、形式的でも現実世界からの歓迎の意をくっつけて、そこに意味が生じてくると言う仕掛けでしょう。でもそれなら毎日歓迎の意を込めてくれる世界の方がよい。あまのじゃくのぼくはそう思います。で、それはからっきしです。逆からするならば、ぼくはそういう意を世界の側の住人として持っていたいですね。まあこれは願望だけになってしまいますが。


2024年2月4日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「撃ちてし止まん」です。


2024年2月3日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「切り替えの美学」です。


2024年2月2日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「『上納される幻想のシステム』考」です。

 何か、ひとりで、大騒ぎしているだけのような、そんな作です。時々ふっと偉ぶりたくなるようです。趣味としても三流の証です。


2024年2月1日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「老後に思う」です。

 今日から2月です。早いです。それから暖かいです。来週の初め、天気予報では小さな雪マークが出ていました。それ以外はほとんどお日様マークが出ています。3月末までには、1度くらいはがっちり数日雪という日が来るに違いないと思っています。これまで暖冬と言われ続けていても、必ずそういう時があったから、今年もそういう日が来ると半ば信じています。そうでないときっと頭が混乱してしまいます。内心は暖冬を歓迎しますが、なればなったで、ぼくらの冬はどこへ行ったの?って、きっとそうなるんだろうなと思います。それはぼくをぼくにならしめたひとつの遠因でもあるから、そういう変化はきっと底の方で自分に響いてくる気がします。


2024年1月31日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「あまりに個人的な願望」です。

 なかなか思いつかずにいるので、日頃思っていることの内からひとつ選んでそのまま表現してみました。よくやる苦肉の「作」です。


2024年1月30日

『文学の小部屋』の「てならいのうた」を追加更新した。タイトルは「冬の姿」です。

 「更新と近況」欄のデータが重くなったので、今日から新規に変更しました。古い方はとりあえずパソコンだけに保管しておこうと思います。たぶん支障は無いと思いますので。ついでに「てならいのうた」の方も新しくし、これについては新旧バージョンを並列して掲載することにしました。