応答 教育と子どもの現在へ    

はじめに  

 子どもの問題、学校の問題について、教師自身がどうとらえているのかをはっきりと表出したものは、そう多くは見られない。受験戦争に端を発して、子どもの自殺、非行、暴力、不登校、いじめ、殺人、学級崩壊などの事件を報道により見聞きするたびに、自分の見解をしっかりと持ち、心に鋭く問いかけてくる子どもたちの声なき声に、ぼく自身の言葉で応えていかなければならないと考えた。自分の勤める学校、自分が教える子どもたちに問題がなかったとして、関係がないということはできない。また、分からないと言う言葉ですませてしまうこともできない。一部の子どもではあるが、はっきりと学校批判、教育批判の声を上げているのだから。
すべての教師は、その批判の声に、自分なりに応えられなければならない。子どもから発せられた声に、何らかの受け応えをするのが、教師としての必要にして最小限の仕事であると、ぼくは考えるからだ。またこの問題について、口を閉ざし、自分には分からないとか、何も言うことはないなどと嘯いて、事態をやり過ごすことなどは、到底できない。渦中でしっかりと自分の思いを言葉にしなければ、生涯の中でも最も困難で苦しい課題を負ったこの事態に、何も出来なかったことになる。そう、ぼくは、思う。普段、人間の生き方の問題や、正義の問題、戦争や平和、信頼とか思いやりとかの言葉を口にしていながら、目の前の、しかも子どもたちが加害者になり被害者になるこれらの問題について、自分の考えや意見を示さないことは、少なくともぼくにとって人間として一番大切なものを放棄したことになると思えてならない。現実の子どもたちは、ぼくたちに向かって卑怯だとは言わないだろう。だが、ぼくの心の中に住む子どもたちは、はっきりと、沈黙が容認と同じであることを知っている。
 だから、子どもたちの生理の奥から発せられる悲鳴を聞いて、真正面からその声に応えようとしない人々を、ぼくは信じられない。これらの問題への黙認や無関心、あるいは諦めは、そのままそのこと自体が暴力として機能することを考えるべきであると思う。今ここではっきりと物を言わぬ人々が、たとえ戦争反対を叫ぼうと、正義の旗を翻そうと、よりよい教育を標榜しようと、ぼくはそうした人々の倫理性を信じない。言いにくいことを、言いにくい時に、言いにくい人々に向かってでも言うのでなければ、人に説いたり、教えるという立場にあることは、どう考えてもそのこと自体が矛盾を体現していると、ぼくは考える。
 集団のいじめによる自殺、他殺、子どもの首を切り落とした事件、そのほかのむごたらしい事件の犯罪性を擁護するつもりはない。ただ、少年期を経てきたものとしての自分からすれば、どうしても多くの場合、少年たちがそこまで追いつめられたと映ってしかたがないのである。
 例え千人の中のひとりの子どもであろうと、彼の尋常でない振る舞いや引き起こされた事件の中に、もしも彼の悲鳴を聞き、メッセージを聞き取ることができたならば、黙っていることは卑怯なことだ。子どもたちが追いつめられ、そのためにさまざまな現象が引き起こされる現状を打開したい。そしてそう思うのは、犯罪を無くしたいためではない。これ以上子どもたちを、子どもらしくない姿に追い込みたくない、そう思う心から、である。
 子どもたちは教育を受けながら、最も教育的ではない行動に走っていった。教育は彼らの行動をとめる力にはならなかったし、かえって彼らの行動を誘引するものであったかもしれない。彼らの行動は、教育の否定そのものだ。しかも自らを傷つけるような、自らの人間性を削ぎ落とすような形での否定だ。ぼくはそこに教育の機能の、一瞬であるかもしれないが、停止を見た。それでも、学校は、教育は、何事もなかったかのように普段の営みを重ねていく。
 人の世は綺麗事ではなく、ぼくを含めた誰もが、思うところと別な姿でしか生きられないことを了解できてもなお、少なくとも子どもたちをを苦しめるものが何であるかを、自らの課題の一つとして、自らに応えられるように模索するのでなければ、この世界はあんまり酷いと言うべきだ。
 これらは、しかし、自分の倫理的な、覚悟性の問題であり、傲慢にも、今いるすべての教師に強制する気ははさらさらない。現在をどう生きるか、この問いを切実なものとして自らに課してきたぼくにとって、こう在るべ気ではないかと自問自答している問題であるにすぎない。
 この自身の内部の声に促されて、自分の見解は、そのときどきにエッセイとか日記風にノートに書き留めてきた。それを公表すべき場を持たなかったし、公の場に持ち出すほど内容あるものではないことも自覚していた。しかし、何かに促されるように、気付けば机に向かい、子どもたちの声を聞こうとし、子どもたちの世界に今何が起きているのかを、事件を手がかりに明らかにしようと探ってきた。
 止むに止まれぬ言葉や行動で自分を表出したものの声は、よくこの耳に届くからまだ良い。だがこれは一部の子どもの問題だけではなく、子ども全体に関わる問題として考えなければならないという直感があった。事件として表層に表れるのは一部の子どもで、ほとんどの子どもは努力しまじめに、且つ楽しくくらすことができているという言葉もよく聞くが、しかし、多くの子どもは本当に問題ないのであろうか。一部の子どもが特殊なのだとして、切り捨てて、顧みないことは正しいあり方なのだろうか。問題を起こさぬ子はこの先も順当に、何の問題もなく生活できていくのだろうか。問題がないというが、それなら、何故、その子どもたちのすぐ隣で、レールから外れる子どもたちがかくも存在してしまうのか。友だちのことを心配したり、かばったり、助け合ったりという心性が、問題がないという子たちの間でも希薄になってきたことを意味しているのではないのか。現象的には、何の問題も無いという子が引き起こす事件も続発している。よい子と思われる子どもたちの中にも、何かが起きていると思わずにはいられない。そしてこれは子どもの性格や人間形成、身近な環境だけの問題ではなく、社会のあり方、教育制度や学校のあり方など多方面に絡んだ問題だという気がする。
 最近、公的な機関が「キレル」子どもたちの育成環境、家庭や学校での生活ぶり、学習状況などを調査する報道がなされていた。教育学者や心理学者などを動員しながら、やっと本腰をあげたのかとそれなりに評価されることではあるが、現在の社会基盤・制度を前提に、その上に立っての調査・検討にすぎないから出てくる回答も、あれが悪いこれが悪い、ああしろこうしろなどの、従来もあったような表層的なマニュアル作成に終わることが容易に想像できる。マニュアルがなければ失敗を恐れて何もできない人間にしてきたのは何か。考えてみれば、この悪循環は容易には断ち切れない。
 これまで、報道や、教育評論家、文部省、教育委員会、当事者たる学校の管理職、公の場に出るこうした関係者たちの言葉にも注目して聞き入ってきた。新聞やテレビを見た限りにおいて、納得できる言説は皆無に等しく、生きる場所を無くした子どもたちが激しく自分自身を傷つけることになる行動をとるほか無かったことに比べ、無責任で傷つかない言葉、防御が先にたって言い逃れとしか見えない言葉に終始するものであったことに、いつも疑問や憤りを感じてきた。そこには依然として、組織を守るとかその運営に支障を来さないとかのちゃちな了見と保身とが見え隠れしていた。彼らは職業人として実務に精通し、その範囲では実に素晴らしい能力を持ち、また発揮してきた人たちに違いない。そこに没入してきたといっても良いほど専念してきたが故に、逆に視野が限られ、自分の中に全社会的な視野からの課題を組み込むことができない。今や、職業がぼくたちに何事かを強制する、立場の逆転が果たされたのだ。そう、思う。職業人として一人前になるということは、視野の狭く深くなることを必然とするもので、ある意味では仕方がない。意識的に、〈反〉や〈非〉を取り込む努力がなければ、懐の広さは得られない。それを、期待し、あるいは押しつけてはいけない。だが、そんな理解の上に立ってもなお、『そんなことじゃないだろう。』、と振り絞る思いを言葉にする中で、ぼくは事の本質を追い求めてきたと言ってもいいかもしれない。しかし、事件の本質、小手先の対処法の無効、などは自分の中で指摘できても、ではどうすればいいのかということになると、教育の問題はあまりに背景が広く深く、ぼくの思考は辿り着く宛のないまま彷徨い続けてきたといっていい。
 教育問題を取り上げる言葉の群れの中で、ヒューマニズムを盾にしたり、家族愛を持ち出して現在の家族を批判したり、道徳教育を押し進めようとしたり、のようなさらなる善の包囲網的発想は、現在という時代や社会のあり方に触れ得ていないと思えるために、すべて無効であると、ぼくは見なしてきた。現状の子どもたちが呼吸し生活する場について、多くの大人たちはその現状が見えていないと思う。
 子どもたちの現状に触れるために、子どもたちを見つめればいいのかというと、実は自分を見つめることが先になければダメなのだと、ぼくは考えている。この世界、この社会の中で、どのような関係と了解の仕方で自分が存在しているのかに、まず気づき、その先に類推や類比が働くのだろう。それはまた、この世界や社会の現状を理解することにもつながろう。そのことによって初めて、子どもたちの真実の姿が見えてくるし、彼らの内面の声が聞こえてくる。子どもたちの世界は大人たちの世界と無縁に存在するわけではない。
 子どもたちの前には、レールが敷かれているとはよく言われるが、大人たちにも実は先に向かってレールが見え隠れしている。脱線しないために、子どもたち以上に必死に日々を繋いでいると言ってもいいかもしれない。置かれている立場は相似しているのだが、大人たちには無言の覚悟があるのだろうと言っておきたい。レールを敷き直すことも、レールの延びていく先に向かってしゃにむに突っ走ることも、またドロップアウトすることも大人たちは自分で判断し、責任は自分で引き受けなければならない。子どもたちと違ってもう少し社会的に複雑な様相を呈している。
 大人たちもまた、日々危機に直面している。一歩間違えれば非行や犯罪に走るのは、大人たちも同様なのだ。こんな状況が充満する中で、子どもたちだけが明るく健康に育ち、思いやりの心や掛け値なしに助け合う心を持てるとか育っていくと考える方がおかしい。ぼくは、そう、思っている。たとえ、そんなふうに、見える場合があるとしても、だ。
   学校教育の現在、子どもの現在について、今ぼくが言葉にできるところを明確にしておこうと思う。親や教師、子どもたちにぼくの声が届くかどうかは、分からない。ただ、自分の中で少しずつ分かりかけてきたところがある。いくつかの視点、そこを押さえれば、ひとまず、自分にとっても新たな地平が切り開かれてくるのではないかと思う。自分自身のために、自分の中に混沌としてあるものを整理しておきたい。それが、この文章の初発の動機である。
 子育てや教育の場面で、苦悩する親が、教師が、多いことと思う。もちろん、ぼく自身がそうであった。この文章で、少しでも気分が楽になったり、目の前が少し開け明るくなった感じを、例えひとりの人にでも持ってもらえたらこれ以上のことはない。  もちろん当事者としての子どもたちの辛さを思うと絶句するばかりだが、ぼくには一人一人の子どもたちをどうにかできるほどの能力もなく、またその立場でもない。親や教師が気分を新たに、現在という時間に臆することなく対峙する心的なゆとりが持てれば、自ずから子どもたちにも反映されて行くであろう。そういう形でしか、子どもたちへの思いを表すことができないし、ぼく自身にも、少しのゆとりが生まれることを願っている。そこまでは進んでいきたい、と、思う。                    


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