応答 教育と子どもの現在へ 


一 さしあたっての解決―吉本隆明 


 現在の学校そして子どもの置かれている危機的状況に、最も効果的な楔とは何かを、先ずは吉本隆明氏の言葉をかりて言っておきたい。 
 それは知識や教育を権威づけている象徴としての大学、その制度を変えることと教授連の意識を変えることだ。大学が自力で改革することはあり得ないので、そこは文部省つまり文部大臣に変えてもらう他はない。どのように変えるかというと、吉本隆明氏が言うように、大学間で教授たちの人事交流を義務化することである。東大教授が法政大学に行って教えたり、逆に法政の教授が東大で教えたりすることを義務づけることである。学生たちもまた、どこで誰の講義を受けても良いとなったらもっと理想的である。どこの大学に入っても好きな講義が受けられるとなれば、偏差値や入試で進む大学が限定されてもあまり意味がない。大学がどこに入っても良ければ、高校もまたどこに入っても良いことになり、中学についても同様だ。そうなると、入学試験のための勉強は、その理由を失うだろう。つまり、吉本氏の提案は、噴出する問題の、噴出する理由を根こそぎ無効化しようとする提案だ。
 この変革で何が変わるかと言えば、熾烈な受験勉強の必要がなくなると言うことである。受験地獄、受験戦争がこの一事で解消する。また教授たちは偏差値の高い学生ばかりでなく、様々なセンスをもった学生たちと接することにより、もちろん逆も含めてだが、優等であることが上位であるという固定観念が解体されて行くであろう。また大学間格差が無くなり、知の権威の集中も緩やかに解体し、資本としての教育の価値が下がり、また産業や職業などとの結びつきも弱められ、もちろん学閥などの悪しき弊害もやがて姿を消して行くであろう。良い学校を出なければいけないとか、人よりもより多くの教育知識を身につけなければ自分は不幸になるとかと言った、異常な強迫観念に怯えることもなくなっていくことだろう。
 もっと言えば、このことから波及する効果として、自分の将来を考えたりそれが自然に見えてしまう時期に―それが最も典型的に表れるのは中学という時期であろうが―競争からくる焦燥や不安といったものが減少し、その影響で登校拒否からいじめ、自殺、その他の学校問題の多くが解消されていくと期待される。
 大学間の格差が現在の在りようではなくなったり、人間的評価、学問的あり方などが改善されたり、教授連に対する権威の集中がなくなったりすれば、多くの家族、子どもたちは大学・高校・中学の選択、偏差値競争に血眼になる必要がなくなる。競争の激化や競争の敗北から、子どもたちの精神生理ばかりか親の精神生理までをも不安に陥れ、蝕み、傷つけてきたことを思えば、誰にとっても良い効果をもたらすばかりで損はない。
 このように、最近の教育問題に対する直接的現実的で有効な提案を、ぼくは吉本氏以外の他の書に見たことがない。
 教育の中味を変えよとか、教員の資質を向上させよとか、教科の枠をはずせとか、道徳教育を推進させよとか、分かる授業をとか、いかにももっともらしいけれど、実際にはより事態をエスカレートさせていくにすぎない提言が多い中で、採用されることはないだろうと予測されるけれども、最も効果的な提案であると、ぼくは思う。
 吉本氏のこの提案は、ぼくにとってはコロンブスの卵である。聞いてみれば、何だ、と思うけれども、思いもつかぬ発想で、しかもよくよく考えれば、唯一最も少ないエネルギーで、最も多くの改革を実現できるような解決策であると思う。
 思えば六十年代後半から七十年代の大学紛争において、知の権威が否定され、しかし教授たちの学問を守るという美名の下、知の権威も脈々と生き続けてきて、今その影響を小中の児童生徒にまでも及ぼす悪しき時代を迎えたのである。
 知が、教育が、今どんな怪物に膨張してきたか知らないではすまされない。自明の、役に立つというその影で、自ら肥大化し膨張し続けるそれは人々から人間らしさを失わせ始めている。
 かつて学生たちがゲバ棒とヘルメットで立ち向かった相手に、今度は子どもたちが自分や他人の命、また人生という未来を棒に振って立ち向かっている、と言えば言える。非行、不登校、校内暴力、家庭内暴力、いじめ、自殺等々の、見方によれば関連が無いというような形態で子どもたちは異を唱えてきた。もちろん、学生と違って子どもたちは今、自分が誰に向かって、何に向かって石を投げつけようとしているのかを分かってはいない。だが、彼らの理解を絶するような昨今の振る舞いは、社会や時代の病巣の反映であるとともに、明らかに日本の社会全体に対する警鐘であり、その全てに向かって引かれた魂の矢である、とぼくは理解している。その矢はしかし、人々の魂が呼応して受け取る以前に、人々の無関心の前に力つきて地上に落ち、その瞬間雑踏の靴底に踏み砕かれ、やがて跡形もなく忘れ去られる。それが現在だ。 脱線になるが、戦争の風化を憂い、語り継ごうと運動を組織する人々やそれに共感を寄せる人たちが、子どもたちの世界に起きている問題について、特に受験戦争についてもあまり積極的に発言していないのではないかといぶかしく感じてきた。受験という名が付いていても、ぼくはこれを平和な時代の戦争形態の一つと認識している。ここに戦争を見、非戦の手だてや方策を見出すのでなければ、どこに戦争を無くす未来がイメージできるだろうか。規模も形態も異にするとはいえ、今ここで起きている戦争をどうすることもできずに、戦争反対の声を大声で唱和することに何の意義があるのか、と、ぼくは思う。
 ところで、大学教授たちは単に学問に精進した結果、現在の制度の中に存在しているのだ、というかもしれない。しかし、その椅子をめぐりまたその周辺に、群がってくるものの存在があることは理解していよう。大学が、知が、産業や経済と、つまり富と分かちがたく結びついている現状についても知らぬ振りはできないだろう。また、大学教授のもっともらしい言葉であれば、この社会でどんなふうに受け取られるか、身をもって理解できるであろう。テレビの前の人々が、大学教授の言葉をどのような思いで聞いているか。そういう肩書きに付着してくる、付加される何か、に無自覚であること、制度上のあるいは社会通念などからくる悪しき弊害を知っていながらそれを黙認したり、もっと言えば知を独占している制度形態に乗っかって安穏としていること等々に、子どもたちの怒りや悲鳴が生みだされる原因の一つとなる社会的不平等の光景がある。 もしかすると自分もまた熾烈な受験戦争の結果を受けての延長上に、その椅子を手にした大学教授たちに、自らの足下に敷き詰められた悪しき弊害を自らの手で是正することなどかなわぬことであろう。受験地獄、受験戦争が叫ばれてから今日まで、教育学関連を専門とする教授たちからでさえ、吉本氏の言うような解決法を聞いたためしがない。少なくとも、学校教育を考える学者たちの誰もが、受験の弊害からもたらされる問題に対して、このような対策を考えつかなかったとはぼくには信じられない。それではあまりにも酷すぎる。そしてまた、もしも考えたものがいたとして、それを公表できなかったとすれば、最早何をか況や、である。自分の居場所、地位や名声はそのままにして、足下の矛盾も不問に付し、学問や研究と称して専門馬鹿に成り下がったただの道楽者にすぎない自分を思い知るべきである。そんな学問や研究とやらを、絶望的な周囲の現実といっしょくたに、きれいに否定しきってこの世を去った子供の存在があることをどう考えるのか。学問や研究はそんなものではないと開き直るならそれもいい。しかし、たった一人の人の生存に役立たないものが、人類に貢献するような研究であるなどと自惚れるような傲慢さからは開放された方がいい。そうでなければ、傍らに溺れるものを見ながら、学問に没頭するような過ちを犯すことになるだろう。それにしてもいったい、教育学者たちは、綺麗事だけの、現実の人間について、子どもについて浅くなめた理解しか持たない教育理論を展開して、恥ずかしくはないのだろうか。
 要するに、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に表現された血の地獄池の光景のように、この国ではすべての者が、教育に、その果てに約束される富に、幸福に、自己の救済に、おぞましくも群がり、いったん綱に触れれば人を蹴落としてでも離さない、そんな姿になっているのではないか。
 これが生きることだと、悟ったふうを装ってもいい。こんな現実のふとした瞬間に、この現実さえも忘れさせるような一瞬のきらめきにも似た美しい光景に出くわす、だから人は生きるのだ、と考えてもいい。
 だが、そっとさしだすやさしさや愛、含羞。古代から受け継がれ、一つ一つの細胞に記録されたぼくたち日本人の魂のふるさと、魂の根源。それさえも、今はシステムに取り込まれ、システムから押しつけられるものでしかなくなってきた。ぼく自身もまた、例外として存在するわけではない。このシステムに飲み込まれた個々の身体が、生理が、細胞のレベルで拒絶反応を引き起こすところまで、この社会は、来たのだ。もちろんぼくたちは、痙攣するこの身体に耐えて生きていかなければならない。きみにこの姿が見えるのか、と時に激しく怒りながら。魂のふるさと、祖先の魂が、細胞の中からぼくたちに生き抜くこと、システムの強圧に耐えて生き抜くことを呼びかけているのである。
 ところで、さて、さしあたっての解決策が大学制度の改革だとして、実行するのはこれに同意し且つ文部大臣になる人である。つまりこれを解決しようと考える人が政治家となって文部大臣になり、改革していく他はない。
 吉本氏はこのような調子でいとも簡単に述べていて、読者の側からすれば、何だ、それもまた困難な実現不可能に近い提案ではないかと思うけれども、確実に実現の可能性を持ち、一つの制度改革で十の問題を解消する提案ではないかとぼくは思っている。
 吉本氏の考えを追った後で、実は、大事なことを思った。それは、教師や保護者としてのぼくたちが、こうした学校教育の問題を過剰に背負い込む必要はないのだ、と言うことである。現状の打開策、解決策を探そうとして、ぼくは長い間模索し続けてきたのだけれど、こうして言われてしまえばあらためてぼくたちがすべての責任を感ずる必要はないのだということがよく分かる。これがなぜ大事かというと、この問題を深刻に考えるあまり、意見の対立から職場や家庭が気まずくなったり、場合によってはノイローゼになるほど自分を追い込んでしまうことになりがちだからだ。
 要するに、現在の問題は、社会的地位として上に位置する者たちが、良かれと思いながら手を携えて進めてきたあるいは改革の結果生じた問題であり、言葉を換えて言えば、公害である。だから、彼らが考えて対策を講じるべき問題であり、それが為し得ないのはただただ解決可能な立場にある者たちが無能であり怠惰であると、ぼくたちは公然と批判する立場にあることを忘れてはならないということだ。
 例えば、家庭の教育力の低下、親の権威の失墜、などと言う言葉がよく使われる。これに対して、ぼくたちは欠如や不安といった感情で反応する。これはどうしようもないぼくたち特有の習性で、本能的な条件反射のようなものになっている。つまり、上の方からこういう言葉を投げかけられると、つい自分が不完全な親であり、すべて自分に非があるのではないかと反応してしまう。だが、自分が親として十分ではないとして、すべての責任が自分にあると考えるべきものだろうか。思い悩んだあげく、多くの識者たちの無責任な言葉を真に受けてかえって事態を悪化させる事がないとも限らない。いや、現実にそういうことが多いのではないか。家庭の教育力の低下といい親の権威の失墜といい、自分を棚上げした上での客観的な目からは何とでも言える。それなら、自分がこの場に来て、実践して見せたらいい。その結果どうなるか、分かった上でものをいっているのかどうかが疑わしい。第一、この社会をこういうものにしてきたり、ぼくたちをこういう大人にしてきた責任の一端はあなた達にあるはずではないか。そう、思う。だから、あんた方から言われたくないね、と切り返すしたたかさが、ぼくたちの側にもほしいのではないかと考える。
 教師に向かっての非難に対しても、ぼくは同じような考え方ができるように思う。「教育の問題は上の方から変えていくのが良い。」と言う吉本氏の言葉はぼくたちを慰め、勇気づける。何よりも権威もなく無力なぼくたちを批判したり、叱咤激励して精神的に負荷を与えるような解決策を講じているのではないところがよい。また道義的、倫理的な問題として論じていないところも良い。思考の奥行きが広く深く、他の識者に比較して、手身近なところで安易に批判の対象に仕立て上げ、攻撃する手段を執らない姿勢は、ぼくは支持できるものだと思う。これまで、教師、保護者、あるいは関係する諸機関への非難がどれだけ多かったことか。それは皆何かを言わなければならないための、取りあえずの攻撃であったとぼくは思う。そのことによって効果を上げたためしは皆無であった。親と教師、互いの不和や非難中傷をもたらしただけにすぎないことが多かった。また家庭においては両親に決定的な亀裂をもたらす遠因にもなった。誰も、子どもたちの世界を悪くしようとしたり、子どもたちを追いつめ苦しめようとしてきたものなどいない。かえって、子どもたちのためにと考えてきた結果、皮肉にもこうした事態を招き寄せたというマジックが、どこかで働いたのであり、現に今も機能し続けているに違いない。
  一応の、そして現実的で実際的な解決策は、この吉本氏の提案の中に見つかったといえるとぼくは考える。親の意識、教師の意識変革など、ある意味では二義的で、無理に変わろうと意識する必要は全くない。親も教師もこれまで通りの一生懸命さといい加減さで子どもに接していればいいのだ。上が変われば、あとは時間がぼくたちの意識をひとりでに変えてくれるだろう。心に血を流すことも、互いをののしり合うことも、高貴な自己犠牲もいらない。
 そして、しかし、今、現に様々な問題を抱えている当事者たちの状況は、当面は何らの変化も受けない。当分は、子どもにも親にも、教師にも、相変わらず切実な問題であり続けるだろう。いじめ、不登校、自殺、暴力、引きこもり等々。そのことに、速効の、決定的な解決策はないと思える。ただ、親も子どもも教師も、判断を誤って当たり前という十重二十重の現実があることだけが確かなことだ。
 そうすると、ぼくの思いとは裏腹に、ぼくのこの文章は、ここまでのところ、当事者の心を軽くすることにはつながらない。今この現実が変わらなければ、たとえ自分にだけ非があるのではないと了解しても、苦しみは去らない。
 すべてに諦めるほか無いのか。
 言えることは、これまでにさまざまな打開策が試みられ、さまざまな結果を得ているということだ。表層的にはうまく乗り越えられた場合も、そうでない場合もある。差し迫って何かを試みても、すべてがうまくいくわけではない。逆に、すべてがうまくいかないわけでもない。それは、だからどちらでもいいことだ。やるもよし、やらぬもよし、そこにいいも悪いもない。やるせない動機の正しさがあるばかりだ。
 ぼく自身は、この現実は自分の力でどうにかできるものではないと、諦める立場にある。そうして檻の中にあるようなこの現実を、檻の中にあるまま、檻ごと歩くほか無いと決め込んでいる。最早自分をさらけ出す以外に方法はない。そう居直って、途中で倒れたらそれまでのことだ。どうにかしなければと過剰に思いこむから、よけい苦しみを背負い込むことになる。与えられた日々、肉親や周囲の人々との生活はありがたいもので、この貴重なありがたさをもっともっと享受し尽くしたいと考えることにしている。
 個々の当事者にとって、最後は自分の自然に根ざした人間性に頼るほか、宛てはないものと覚悟を決めればいい。そう思う他はないと、ぼくは、この頃思う。誤ることが愚かであるとか、この先どうするかで苦悩するとか、最早そういった次元の問題ではないと感ずるべきである。どの社会、どの家庭、どの学校、どの個人をとってみても問題を抱えていないものはない。それがこの時代におけるありふれた姿であり、自然な成り行きでもある。ぼくには、こうしたあり方の中に現在という文明的な段階が象徴されていると感じられる。 
 現在進行中の問題に対する速効の解決策は無く、脱出も不可能だとすれば、この騒がしい血の池の中にどっぷりと身を浸し、やがて黙って沈み込んでいこうではないか、現に問題を抱えている不特定のあなたに、そう、ぼくは訴えるしかない。

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