応答 教育と子どもの現在へ
 
二 子どもの現在から―藤井 東

 さて、時間はかかりそうなものの、さしあたっての解決法は見つかった。それはぼくたちの手の届かぬ所で為されなければならない。また、ぼくたちのうちの誰かが文部大臣になり、改革に着手しなければ現実のものとはならない。他力本願の極みであるが致し方ない。現に今存在する問題の、本当の根底からの解決は彼方であり、今ある子どもたちの苦しみもぼくたちの苦悩もまた消えはしない。しかし、このことでぼくたちは深刻な不安からひとまずは脱出できるし、脱出しなければならない。親も子も、過剰に責任あるいは負い目を感じる必要はないことを改めて明確にしておきたい。
 不登校や非行などを抱えていれば、その現実はどこまでも厳しいけれども、そこから、始めればいいことだし、始めなければどうしようもないことも厳然とした事実である。過去を悔やんだり、いたずらに未来の不安におののくことは必要ない。親も子も、自分の心を自然な状態に回復させ、現実に向き合うことがさしあたって必要なことだ。それはそう思いこむことから始められなければならない。
 例えばフリースクールに通わせたいと思えば、子どもが了解するかぎりにおいて通わせればよいだろう。子どもがいやだというなら、行かなければいいだけのことだ。そこに絶対の正しい選択といったものはない。ある場合にはうまくいき、ある場合にはそれもうまくいかないということがありうる。それはもう、ぼくたちの意志を超えた次元の問題にスライドする。何かをすることが、打開することにつながる場合もあれば、逆になにもしないことがよい結果をもたらす場合もある。各々が決断し、各々で結果を出すほかはない。言えることは、そこでの判断とは誤って当たり前の次元にあるということだ。だから、誤っても、自分たちを過剰に追いつめることだけはしないでほしいのだ。死ねば死にっきり。あの世では、自分たちを追いつめる白い眼の持ち主たちとも、出会えなくなるのだ。
 
 さて、ここで、学校と子どもの問題の背景、状況について見ておおくことにしたいと思う。
 制度の改革こそ問題解決の方策であることを見てきたが、もう少し内実に踏み込んで、問題の様相をしっかりつかんでおきたいと思うのだ。
 これを概観するに、藤井 東氏の講演記録「集団に見る子どもの現在」は、とても理解しやすい図式を提供していると思える。
 藤井氏はまず、中内敏夫氏の言う「教育家族」の概念を媒介にして話を切りだしている。教育家族とは、読んで字の如く子どもの就学を第一の目標に子育てしていく家族、のことである。具体的には、よい高校、よい大学、よい会社を目指すものと言えるだろう。
 給料生活者が多くを占めるこの日本社会の中で、核家族化した家庭の暗黙の了解事項として、目標が子育てにおかれることは当然のことである。また、その子育ての核心がよりよい就学におかれることもまた自然な成り行きであろう。教育は資本と化し、投機の対象となっている。
 一九七〇年代の半ば頃から、教育はサービス業の市場に組み入れられ、徹底的に開拓、競争が激化していったと藤井氏は見る。
 「教育家族」の子どもたちの偏差値競争もまたいっそう激化する。遊ぶ、漫画を見る、ぼうっと寝ころぶなどの無為の時間を子どもたちは喪失していくことになる。学校が終われば塾か、○○教室が待っている。
 子どもたちは自分の時間を常に集団性の中に差し出してきた。しかも、教育家族の中では、家に帰ってからも、自分裁量の時間を狭められるようにして過ごすほかはなくなっていた。
 一方で社会は消費資本主義へと移行する。選択的消費比率が五〇%強となり、消費者の好みや選択が生産者やサービスサイドよりも力を持つようになる。物や情報の取捨選択は消費者主導となり、ある意味で消費者の恣意に左右されるものとなった。
 この時期に、子どもたちは集団的な身体からより個別的な身体へという指向性を持つようになったと藤井氏は言う。あたかも消費者が選択権を行使するとともに、企業に対抗する力を備え始めたように、子どもたちも学校を、あるいは意に添わない集団的な活動を拒否しはじめたのだ。製造業やサービス業と違って、しかし学校は消費者としての子どものニーズを無視した、と結果的には言えよう。
 校内暴力、非行、不登校、といった形で、しかし子どもたちは自分の自由性を身体化した。ここまで子どもが個人としての恣意性を打ち出したことは、かつてどんな時代にもなかったことである。画期的なことであると同時に、ここまで子どもたちは追いつめられてきたのだと言うことを、ぼくらは肝に銘じておかなければいけない、と、ぼくは思う。それは様々なエピソードが物語るように、外見はどうあれ、内実は自己を抹殺するのに等しい、恣意の、それは選択であるからだ。
 もちろん、個人ごとにその有り様は違っていて一様に言うことはできない。ただぼくが見聞した多くの場合、子どもたちの感受性は鋭く正当で、社会そして環境から受けた象徴的な暴力の記憶の累積を保持し、自己の判断に総動員させながら、なおその結果を決定していったと見える。一言で言えば、すでに存在する世界の矛盾と欺瞞にすぐれて敏感な子どもたちであると思える。
 さて、今の子どもたちを見ても、藤井氏の言うように将来のために現在を我慢するとか、部活動に埋没するといった感性はそう多くはなくなってきている。子どもたちの感性はそんなことには意義を見出せなくなってきているのであろう。それは子どもたちの感性がダメになってきたとか、我慢のたりない子どもたちが増えてきたとかの問題ではなくて、経済の発展に伴う社会構造の変化、社会意識の変化に起因すると見た方がよいと思われる。あふれる情報の摂取のあり方において、大人と子どもの境界は失われつつあり、また親や教師といった大人のフィルターを通しても情報が押し寄せてくるところから、子どもと大人の感性もまた至近のものとなっている。大人もまた、将来のための我慢より、現在の生の充実や、楽しさ、愉快さを求めるようになってきていることを考えれば、大人と子どもとは、一面で現在という時代に共棲する仲間となっていると言えるだろう。だから、問題は、話題となっている子どもの世界にばかりあるのではなく、本当はより複雑で根源的な問題が、大人の世界にも共時に潜在していると見なすべきなのだ。このことはここでは触れないけれども、社会現象の中に、実は子どもの世界に起きている様々な事件の遠因を見て取ることができる。
 ところで、大人に職場が存在するように、また子どもに学校が存在するように、依然として家族には資本としての教育の存在があり、家族は「教育家族」として存在する。そしてその「教育家族」は今もレールを敷き、子どもたちはレールを外れないように何重にも包囲されながら見守られている。もちろん多くの場合、子どもたちは主体的=服従的にレールの上を歩くことを、教化されてきている。子どもたちはつまり、身体的には教育や学校を拒否したいのに、あたかも自分から進んで教育を受け入れ、身につけていこうとしているかのように仮構されて存在する。それは無理もない。学校から、教育から、弾き出された子どもの、人間の、行く末がどういうことになるのか、さまざまに聞かされ、また見させられているからだ。その恐怖心は、大人が考える以上にリアルで、子どもたちにとっては心霊写真やUFO以上に信憑性のある恐怖の物語なのだ。だから、勉強しなさいと言われれば、「うん、わかった」といい、自分から進んで勉強するかのように振る舞う。しかし、実際には親や教師の言葉に従っているだけで、その証拠に身につかない空勉強に時間を費やす子どもたちが圧倒的に多い。また、何を勉強するかについても、極端に言えば教材を用意してもらわなければ、子どもたちは勉強ができない。体全体で勉強がいやだと感受されているのに、頭では、勉強をしなければと考えている。そのギャップは日増しに、また年を追うごとに広がってきて、ついには自己をコントロール不能にしてしまう。その危険を鋭く感じ、子どもたちは軽身の方に自己を防御する。中間層の子どもたちの粘りのなさ、執着のなさ、こだわりのなさ、興味・関心の薄さはそんなところに起因すると考えられる。
 藤井氏の言うように、学校制度が時代や、子どもの変化してきた感受性と大きくずれたシステムであると言っていいかもしれないが、改良の指向性は示しながら、しかし「教育家族」と同様にかつての学校教育全盛時のまま、その必要性、有益性の夢を捨てきれずにもがいている。
 時代の中で、学校が教育が、大きな役目を果たしてきたことは間違いない。どんな制度も完璧なものではあり得ない中で、日本における学校や教育の制度はその時代においてすぐれて機能する制度であり得たと思える。しかし、時代が、社会が、予想を超えて大きく変化してきたのだ。ふと気がつくと社会が、社会の在り様が変わっている。巨大化した学校教育、そしてその制度は激しく変化する経済社会や現実と、それに伴って変化した子どもたちの感性に対応しきれなくなった。そこに、学校を、教育を、根底から見直すべき理由がある。
 現在の子どもたちはと言えば、藤井氏は、過剰適応と過剰な拒否反応との二極分離が見られると言っている。約一割が積極的に勉強に打ち込み、また約一割がドロップアウトの層にあるという。中間層は残りの約八割で、見かけはレール上を歩きながら、実は上手に選択権を行使しながら新たな生活スタイルを創出しつつあるとも言っている。
 藤井氏の状況把握、子ども理解はぼくには概ね了解できるものである。何よりも中間層の中に個人指向に根ざした新しい人間関係の構築の兆しが見られるという指摘は、卓見であろうと思われる。また、中間層に位置する子どもたちの一部が、誰に教わることもなく、現実に対応し、適応していく力を示し始めていることは、人間の持っている能力の底力を感じさせるものとなっている。あるいは大きな犠牲を払いながら、未来に生きのびていく人間のたくましさ、すごさといったものも、ぼくたちはそこに感じることができる。
 また氏の言葉には、このほかにも子どもたちの在りように言及する部分があるのだが、よく実態に迫っているように思われた。
 
 読みながら、何度か自分の体験、その時の心情を思い起こすことがあった。
 学校がいや、勉強がいやという子どもたちの思いを推察しているあたりがその一つである。
 
 ぼくが子どもの頃は学校はいやとか良いとかの対象ではなかった。否応なしにただただそこに行くべきものとして、そこにあった。勉強もしなければダメだと言われて、しなければならないものだと思いこんでいた。
 高校も三年になると、難しくなったせいか、最後の部活に打ち込もうと考えた時を境に勉強もしなくなり、成績も見る見る下がっていった。それまでもただ詰め込まれるだけのような各教科の勉強は退屈になり始めていた。何のために勉強するんだろうと懐疑的になったらおしまいなのだと思う。急に目標も目的も見失って、部活のスポーツも含めて全てがどうでも良いことのように思えだした。
 就職した先輩の会社を見学に行って、会社の中で仲間たちと楽しげに仕事をしている先輩を見、ぼくも漠然とこんな会社に就職したいと感じた。
 結局は大学に進学したのだけれど、もう一度一から勉強してみようと言う思いは一年目に挫折した。目的や目標のない勉強は、ただ辛く、苦しいだけだった。単位を取るための勉強は最小限のものだったが、単位に関係なく本を読んだり小説もどきのものを書くことは自分の人生の中で唯一自主的に、また徹底的にやったと思う。そのために、その後の自分の人生は融通の利かない偏屈なものになってしまったかもしれないが、少なくてもその時自分というものに出会うことができたのだと今は思っている。だから大学生活、その功罪と恩恵については単純に結論を出せないところがある。ただ、できたら、一度通過する方がいいと思っている。
 将来の安定した生活のために、今我慢をして勉強すべきなのだという教えは、魅力的なものではなく、かえって未来の生活に不安を感じさせるにすぎない。学習の習得に失敗すれば、まるでこの世界では生きていけない落伍者になるかのように錯覚するからだ。
 本当は社会の成長や発展から生み出された利潤の一部を活用して、すべての青年に、その四年間に近い、無為の時間、個人の恣意に任せる時間を社会からの贈り物として提供できたら一番良いという気がする。
 ぼく自身は金持ちになるとか、人を蹴落として自分だけがいい目を見るとか、くだらないと思えて夢には為し得なかったから、大学生活も安穏と送ってしまった。
 学校がいや、勉強がいやという子どもの気持ちは、今現在の方がぼくには分かるような気がする。社会全体、この世界全体が、まるで言っていることとやっていることが矛盾していて、誰もそのことに気がついてくれない。そんな思いが子どもたちの中にあるのではないかと思う。対抗する手段など何もないから、ぎりぎりのところで本能的な自己防衛のスイッチが入ると、常識では考えにくい行動となって表れることになる。
 現在の子どもたちは、勉強はしなければならないものだからする、といった思いは小学校低学年のうちに払拭してしまうに違いない。ぼくたちの時代の通念は、通用しない。そういう意味で、「目から鱗がはがれる」ではないけれど、今の子どもたちの目は節穴ではなく、感性は繊細である。また、昔のぼくたちよりもはっきりとものが感じられている。それは親たち自身の目が以前の親たちよりもよく見えるようになったからと言ってもいいし、あるいは昔の親や大人たちは本気で勉強が大事と思っていたが、現在本気でそう思っている親や大人がいないことを反映しているのだと言い換えても良い。知識をたくさん詰め込むことが幸福とか人生の生き甲斐とかに直結するものではないことに目覚めたからだと言ってもいい。せいぜい他人よりも優位に立つために勉強させたがっている親はいるかもしれないが、それを言えば子どもに軽蔑されかねないし、人のためなどと心にもないことを口走って、本心を子どもに見抜かれているのを知らないでいることも多いのではないかと思う。見抜く、見透かす能力は、大人が考える以上に、鋭いと、ぼくには思われる。そしてそれは、子どもたちの中の内コミニュケーションがそれほど退化していないからだと、ぼくは思う。
 様々な情報を通じて、子どもたちは耳年増になっていると言えなくもない。いろいろなことを知っていることは知らないことよりも良い、感じることは感じないことよりも良い、そうぼくは思う。だから総じて今の子どもたちにぼくは肯定的だ。ぼくらの世代は自己主張のない世代だったから、自己主張を手に入れた子どもたちを、たとえ馬鹿なことを言っていたとしてもそれなりに認めたいと思う。ぼくはこれを日本の社会が歴史に付け加えてきた何かだと考えている。そうとでも考えなければ、全て否定の対象でしかなくなるではないか。何の社会か、何の歴史か、と思う。
 だが、知ると言うことはいい面ばかりがあるだけではない。苦悩の果実を食べた、ということでもあるのだ。中途半端に知っているということは、大きなリスクを背負うことでもある。
 
 学校教育を核として、教育と名の付くものは全て対象を欠如や否定と見なす。これは教育を受けてきたものとしてのぼくの実感だ。学校教育の申し子であるぼくは、社会の代理のような学校教育から、いやというほどあれダメ、これダメの洗礼を受けて育った。もちろん人によってその受け取り方は千差万別だろうが、ぼくには今も絶対的な自己否定として後遺症が残っている、と思う。また自分は頭が悪い、これこれの運動ができない、不得意であるというようなことも学校教育の中で教えられることが常態となって初めて覚えてきたことだと思っている。
 何かが必要となって、知識や技能を学んできたのではなく、学童期に必要な知識や技能が準備され、それを長年押しつけられてきたことによって、見えてきたものは実は自分の欠如や否定性というものであった、と振り返って思う。
 また、〈悪〉の体験がなくて、心の葛藤を体験しないことも、現在の問題につながっていると思う。〈善〉の包囲網にがんじがらめになって、動物性を残した人間としての己に出合う機会も塞がれているのだ。要するに一昔前で言えば、大人たちにほっとかれることが子どもにとって大事なことだったのだ。
 
 無知で野蛮な民族を歴史の外に追い出したように、子どもは教育されて市民社会に登場するというヘーゲルの考えは、学校教育が内包する理念の、その最も典型的なものであり、教育必要論の理論的基盤であり続けている。
 子どもは無知で野蛮で、成長過程においてきちんと教育されなければ成人できない、というヘーゲルの考えは、近代の市民社会を絶対のものとして、いわば子どもというものが、市民の予備軍として位置づけられた上で表出されている。だがしかし、人間はそのようなものとして生まれたものであろうか。子どもたちは、理想的な市民像に向かって教育され続けていく。秩序と繁栄が、彼方に約束されるはずであった。だがしかし、ある時期を境に、それは逆の効果を見せ始めてきた。
 ぼくには、ここではヘーゲルが個人の意志や個人の自由よりも、国家とか社会とかの共同体、言葉を換えれば「公」に第一義に重きを置いているとしか思えないのである。
 人間は成人し、社会的に認められてしか人間的と言えないのであろうか。赤ん坊や子ども、未成年者は、人間社会が理解できず、人間的な感情や情念も未発達な存在なのであろうか。また知的にも未熟なために、わけが分からない状態にあると見なすべきものなのだろうか。たしかに、人間の一生を考えたときに、その見方は妥当だと言える面がある。だが、赤ん坊や子どもの世界は、動物そのままの世界ではなく、明らかに人間的な世界を象徴する現象に満ち、人間らしさの原型を豊かに湛えた世界だと、ぼくは感じる。人や動物、自然とのコミュニケートの仕方にも、温かな人間らしさ、豊かな情愛を保持している。人間の未来、人間社会の未来を考えたとき、今現在あえぐように暮らしている成人をモデルとして、それを目指すべきだなどとはとても考えられない。人間の成長は様々であって、画一的な人間像に辿り着くのが目的なのではない。積み上げられてきた建造物としての社会こそ、子どもの世界に自らの未来を考察し、構築と解体を内在させなければならないとぼくには思える。
 ぼくが教育の問題を考えるとき、突き詰めていけばその射程内に歴史哲学や、人間の身体及び精神の発達、また社会学、生物の発生と人類の進化そして解剖学などが浮上してくる。神秘主義的、宗教的なもの、土俗習俗的なものをのぞいて、現在一般に流通しているほとんど全ての言説の底流に、十八、十九世紀初頭に作られた価値が絶対的なものとして横たわり、知の体系を支えているように感じられる。
 ヒューマニズムの衣を身にまとい、どんなに衣の下の鉄の鎧の存在を否定しようとも、その価値は今も、人間の弱さや怠惰、動物性や自然性を卑下し、切り捨て抹殺しようとしてやまない。今日の教育もまたその延長上にあるように思えてならない。それはしかし本当に永遠普遍のものだろうか。ぼくには現在の世界が、徹底したその価値の押しつけをしてきたことでの反動で、苦しみもがいているように見えて仕方がない。あるいはその価値の否定から、新しい価値観を生み出すための苦しみに、もがいている状態と言ってもいいかもしれない。それは資本主義や社会主義といった経済社会体制のせいだけではなく、文明史的価値観そのものが問われなければならない時代を迎えたのだと言えば、いいすぎだろうか。人間主義的な価値観、それがもう時代に合わないのだと気付いた、一握りの先達をたよりに、本物の知が開示する世界に飛び込んで考えていかなければ、子どもたちの世界の問題も理解できないのではないか、と、考える。
 現在もなお、一人一人の人間の外に絶対的な価値がおかれ、そこから人間が規制を受ける在り方は、ぼくには異様だとしか思われなくなっている。現在の教育は幾分その在り方に加担しているのではないか、とぼくは思う。その押しつけが個々の子どもたちの許容量を超えるとき、生理的な反発が様々な姿となって顕在化する。
 一方で、それらの社会構成、社会現象を内省的に取り込み、自分の在り方、社会への適応に活用する子どもたちが出現する。それが藤井氏の言うところの中間層の子どもたちで、一部、個を尊重しながらコミュニケーションを構築し、社会や家族、グループの中で自己をも他をも規制しない上手な間の取り方ができているのだという。
 
 道草が長くなったが、藤井氏の考察の後半には、子どもたちが逼塞状況にあるといわれながら、社会の変化に巧みに適応していこうとする姿がかすかに捉えられ、一縷の望み、明るさをぼくは感じることができた。それは、ぼくたちが、あれが悪いこれが悪いと考えている間に、それとは無関係に、自己防衛の本能とでも言うように自分を現実の中で生き延びさせる術を体現している。子どもたちは弱いもので、ぼくたちの救済を必要としていると考える柔な心情やヒューマニズムを凌駕している。ぼくはふと、地殻変動や造山活動などの幾多の天変地異に出会い、その度に進化を遂げ危機を脱してきた生物たちの適応力、生命の哀れなほどに生き延びようとするその本能のすさまじさを二重写しに思いうかべていた。
 もちろん精神的、身体的に不適応の道に走る子どもたちは後を絶たない。彼らの救済のためには社会の構造や歴史的な価値観、大人たちの意識など、実に多くのことが変わらなければならない。正直なところ、そんなときが果たしてくるのかどうか、また必ず来るのだと仮定して、それは未だ絶望的な道のりであるとぼくは感じている。
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