応答 教育と子どもの現在へ
 
三 学校教育の現在―山本哲士
 ここまで、とりとめもなく、そして幾分饒舌すぎる文章を書き進めてきた気がする。言いたいことを言い、自分としては半分くらいは吐き出した感じがあって、もう終わりにしても良いとさえ思っている。というより、ここから先をどう進めるか頭を悩め始めている状態なのだ。
 自分の構想の中では、山本哲士氏の論を紹介しなければ、学校教育の問題に決着をつけることができないと考えている。しかし、その論は広く、深く、容易には評することができない。先の吉本隆明氏や藤井東氏と違って、教育の内部をえぐるように真っ向から論が展開するそれは、理解しようと努力するだけで精一杯だったのだ。
 また、自分の中で明確に読みとれていない部分があり、氏の主張する全体に対する評価も保留している状態である。だが、知らぬ振りはできない。
 ぼくが民間の会社を辞め、教職に携わるようになってこの世界に違和を覚え始めた頃、東京の小学6年、杉本治君が自殺する報道に出会った。教育とは何か、学校とは何か、現場の仕事に携わりながら正面切って仲間との話題にもできずひとり思いを潜行させていたとき、山本氏の著書を手にしたのだ。近しい感性がそこにあった。もちろん彼は研究者の道をたどり、教育についてまっしぐらに突き進み、完成された論を組み立てていた。彼の著書の主調音は、教育の、学校の、有害な面を暴き立てており、教育も学校も今ある姿では消滅した方がよいといっているように聞こえた。少なくとも、個々人の意識の中で無化しなければならない、とそれは主張しているようであった。現職の教員であるぼくは、彼の気迫と情熱にたじろぎながら、大筋で彼の論に共感しつつ、しかし学校を無くすことは理論的にも現実的にも不可能ではないかと考えた。理論的という意味は、人々を納得させられるかと言った程度で言うのだが、つまり大衆の声として学校を無くせという運動に発展させることができるかといったら、それはできないだろうと言うことだ。少なくとも近未来までは、現在とは形態を大きく変えるにしても、読み書き計算を公的機関でまかなうことはやむを得ない流れだという気がしていた。しかし、教育は人のためにあり、子どもたちのためにあり、学校という公的機関もまた同様でなければならない。もしも、それが子どもたち、人々のためになっていなければ、とりもなおさず是正されなければならない。そして、もしも様々な論議の果てに、消滅することこそが教育の最後の課題であると結論づけられたならば、学校もまた無くなってもよい、とぼくは考える。
 山本氏は、具体的な脱学校、非学校化を目指しているわけではない。見えない部分での社会における学校の役割、教育の役割、あるいはその存在様式に批判の目を向けている。幾分ぼくが立場的な違いを感じるのは、彼の論調が、教育の世界にとどまらず、その先に政治や社会の変革といった問題意識を抱いている部分である。教育の問題、学校の問題は彼にとってその先に辿り着くための通過点、だが総合的な視座を獲得するための潜り抜けなければならない大事な通過点ではないのかという疑念が湧く。つまり世界同時的な変革の志がまずあって、そのために教育問題を批判しまた理論の解体構築を展開しているのではないかと言うことである。そうであれば、彼を安易に支持することは、彼の変革の志に組みすることになる。それはまた、別の問題でなければならない、とぼくは思っている。
 ともあれ、まだどのように書き進めていくかまとまっているわけではないのだが、彼の著書を傍らに彼の説を紹介しながら自分の意見を加え、後は読者の判断に委ねたいと思う。
 
 山本氏の名前は、吉本隆明との対談集『教育 学校 思想』によって初めて知ることとなった。彼の考えを即座に理解することはできなかったが、強い衝撃とともに深く興味を抱いた。それまで、あちこちで噴出してきた教育問題は主として教育的な実効性の次元で語られることが一般的であった。
 唯一、ぼくには佐藤通雅氏の著書『教育の現在』が、教育現場にありながらその対処療法の限界を知りつつ東奔西走し、その過程で世の教育論議を批判し家庭や社会、学校の在り方を問うているものに思い、共感を覚えていた。
 県内の高校の教師であり、校内暴力や非行に対峙する彼を、自分の職場の同僚がたとえ小学校だからにしても誰ひとり知らなかったことは奇異に感じた。教育の否定としてある様々な子どもたちの引き起こす事件、それをやはり身近な先生達は教育的な実践の問題としてとらえているにすぎないのかといぶかしく思った。あるいはまた佐藤氏が歌人でもあり、かつて大学紛争でならした組合員という経歴が暗黙理にタブーとして黙視することになっていたのか分からない。いずれにしても佐藤氏のように内部批判を含め、切実な問題に対峙すればするほど敬遠されるのは教育界においても例外ではないように思われた。
 近しい先生方のプライベートな時間については分からないのだが、仕事中はぼくも同僚も明日の授業や行事の中味、進め方を考えたり、指導法について研究することに追われていた。考えれば憂鬱になりそうな、昨今の報道をにぎわす教育問題を議論する心的な、そして物理的なゆとりがなかったとは、言えば言える。ぼくにしたところで職場でそれを話題にすることは、その雰囲気からしてできなかった。ふとしたときに、普段から気心しれた同僚に話しかけてみたことはあったのだが、ぼくのようにこの問題を考えている人はいないようだったのである。また、生徒指導などの会議に出席してみても、学校の内側の問題にのみ終始し、議論が社会や教育の在り方に及ぶなどといったことも一切無かった。
 ぼくは多分、その時見切りをつけたように、思う。教員であるかぎり、学校の中で学校問題を議論することはできないのだ、というように。それはぼくにとって奇異なことではあるが、暗黙のタブーが存在する。子どもたちの悲鳴が、遠のくような思いだった。
 だが、同僚たちも決して諸々の学校問題を軽視していたわけではなかったはずだ。ただ、ぼくの目からすれば彼らもまた深く学校そして教育に捕らわれていると映った。分かりやすい授業、楽しい授業、やさしい先生、であることを自分にできる精一杯のこととして誰もが努力していたのだから。それは、教育の内部にあって、教師として存在するかぎり、職業倫理として、最大の努力を払っていたという言い方もできる。
 だが、ぼくには、その行き方では問題を解決する力にはならないばかりか、問題の本質に触れることさえ出来ませんよと内心で思われていた。教師の教育内部でのがんばりは、一部ある効果をもたらすだろう。だが、総体的には問題を深く潜行させ、さらに陰惨な事件の発展を誘因するするだろうと予想した。事はぼくの予想をはるかに超えるような、すさまじい事件に発展していった。しかし、そこでも、事件を起こした少年少女たちは、異常者として片づけられ、議論から外され、相変わらず道徳を、分かる授業をと、学校教育の内部では対策が講じられていった。それではダメなのだとつぶやいても、誰もそのつぶやきに気づいてはくれなかった。だが、これだけは言いたい。一つは、関係者が心身をすり減らすような努力をすれば、子どもたちの世界の異常が大きくなっても免罪されると考えるのかということ。また一つは、この対策や方針に誤りがあったとすれば、誰がどう責任をとるのかということ。これをはっきりさせてもらいたい。なぜなら、ぼくが見る限り、潔く責任をとったと見える場合が皆無だからだ。
 昔の師弟の間柄では、弟子に非があったら、師はその責任をとった。そういう心を持つものであれば、教育の世界にこのような問題が多発する時、この世界に自らを置くこと自体恥ずかしいと感じ、去っていくものではないか。そういう人が、誰一人居ない。
 言いつのったついでにもう少し言わせてもらえば、結局、ぼくが思うところ、自分の感性をたよりに道がないところを切り拓く人はいない。それはちょうど、教育が育ててきた他律的な人間、そのものだ。
 
 ところで、佐藤氏の論は、一人ひとりの子どもたちに付き合い、援助や救済にかけずり回り、その分苦渋と疲労感とに満ちたものだった。理論的というより、具体的実践的な苦闘の記録であった。そこでは問題の内実、その奥深さに目を開かれたと同時に彼の実践について口を挟むことなどあり得なかった。ただ、彼の著書からは、さてそれではぼくはどうすればよいか、が見えてこなかった。もちろん佐藤氏の意図はそんなところにあるはずもなかった。ぼくの憂鬱は深くなるばかりであったが、現在を憂い、孤独に実践と探究を行っている人たちがいることは、大きな勇気を与えられるものだった。
 さて、先の吉本氏との対談集で、山本氏は、イバン・イリイチやその他の世界各国の教育学者、理論家の名前と著作物などをあげ、ぼくにはすぐには理解しがたい世界が展開されていると感じられた。また吉本氏との緊迫感を感じさせるやりとりから、生半可ではない研究者、理論家なのだなと映った。そして学校は、あるいは学校で、何を行い何が行われているか、通俗的ではない言説で、教育や学校の目に見えない、いわば影の部分について、明快な論理分析をして見せていたのだった。先進的・後進的な社会における学校や教育の果たす役割、その解明において、すぐれた見解や理論が披露されている、とぼくは理解した。
 その後、一度はきちんと彼の著作を読んでおかなければならないと考えて、ぼくは何かを期待するようにして、書店に山本氏の著作を尋ねて歩いた。それはすぐに見つかった。『教育の分水嶺』と題した講演集であるそれを即刻買い求め、ぼくは読み始めた。副題は「学校のない社会」。帯には「学ぶ自律性の奪回へ向けて」「教育を支える国家の〈産業的生産様式―象徴権力形式〉の転換」などといった言葉が記されていた。
 序に言う。
「 略 教育は中立ではない。近代国家が練り上げた至高の政治権力装置である。それはまた、圧倒的多数者が、自らの子どものためになくてはならぬものと信じ切った現代宗教である。そして、教育は営利を生む経済でもある。 略 」
 山本氏は、「〈教育〉が政治・文化の生活様式において〈支配的なもの〉となっている」という。そして教育を理論的には権力論の問題の質として押さえたいと語っている。
 彼は〈学校化〉というイリイチの言葉を足がかりに理論展開をしていた。
 〈学校化〉という言葉は分かりにくいものだが、機能面、形態面、様式面などから見られた、あるいは見えない学校のあり方を総称している言葉であると言える。これを理解するには、@学校化された学校A学校化する学校B支配の学校、学校の支配―の三つの押さえ方が大事で、また学校を、学校化ということを@産業的生産様式そのものという形でA国家のイデオロギー装置としてB文化的恣意性の押しつけと教え込みというあり方で―とらえることが必要であるとされる。
 「学校化された学校」とは、学校の形式、構造、機能そのもので、別な世界とは区別され、徹底化が図られ、識別可能なあるものである。これが学校だと、内外に知らしめる、そういう存在としての学校が、学校化された学校だと言うことである。簡単に言えば、形式、構造、機能などが強化されてきた現在の学校を指すものと言っていい。
 以前、学生の頃かと思うが、若気の至りで賞状や証書といった類をすべて捨ててしまったことがあった。人間よりも、無個性な紙切れに重きを置かれているような気になっていやだったのである。学校を出たことが重視される学校の在り方。それが学校化された学校の姿の一つでもあるとぼくは理解している。
 次に「学校化する学校」とは、学校化の徹底であるとともに、外に向かって学校化を働きかけていくということである。社会を学校化する、社会が学校化される、ということでもある。
 「支配の学校」「学校の支配」とは、ある社会の支配的な文化を伝達する、最も有効な道具として学校が存在しているということを言っているものである。
 どういうことかと言えば、教師の行為がすべてある文化的恣意性を押しつけ正当化する、ピエール・ブルデューのいう「象徴暴力」が学校の内側では行われているというものである。支配的な文化、文化的恣意性ということで分かりやすく言えば、例えば戦争についての日本と韓国のそれぞれの学校での捉え方や取り扱いの違いを考えてみればいい。そこにはある一つの事象について、立場的な差異があり、それぞれの文化的な背景から自国の国民に何を強調し、どう伝達していくかが選択されている。その選択はあくまでも日本、韓国のそれぞれの支配的な文化が、それぞれの立場からの恣意的な選択を行っているのであり、どちらが正しいとか正しくないとかの問題ではない。恣意的、あるいは文化的恣意性とはそういうことだ。
 次に産業的生産様式ということだが、これは経済学が生産物を対象としてみる概念ではなく、現代のサービス産業も含めた産業の生産的なスタイルということだ。そして現在の学校教育が学校化という産業的生産様式そのものであるというとき、従来の生産概念の変更を要求するものであり、学校にあるいは学校化の中にその様式の典型があることを主張している。
 国家のイデオロギー装置というのは、物理的な力ではなくイデオロギー的な働きかけで、そういういろいろな装置が学校、学校化の内部にあることをいっている。単純なことでいえば、例えば挨拶をいうように教え込むことなどもこれに含まれるのだが、生活者としてのぼくたちにはあまりにも当たり前のことで、あるいはこういう見方、捉え方に違和感を覚えるかもしれない。しかし、心情的なものを捨象していえば、確かにそういう働きが内在することを否定することは出来ない。
 文化的恣意性ということでは、分割された教科を例に、それがいかにも客観的真理、あるいは絶対的なものであるかのように思わせられるが、実際は支配的な文化の恣意、便宜的な区分であることがいわれている。
 このあと、過剰な教育の尊重、世界の教育体制の危機、「学校化がよい」「教育がよい」という前提が覆ったこと、教育がもうダメだといわれていることなどが触れられている。 こうしたことから、さらに、市場経済から学校が脱出する道を探すしかないだろうと指摘し、それは教育から生産性というものの価値を崩していく事に無ければならないと言われている。そうでなければ「教えた結果、学ぶことができる」という、他律の支配は消滅しないと続けている。
 第一部はこうした〈学校化〉をめぐって、その制度的な再生産の視座から様々な問題が提起されている。制度的な再生産とは、学校教育を制度的な面から見たときに、学校化を進めていく、言いかえれば自己運動的に自己深化を遂げていくあり方をさすものであろうとぼくは考えている。
 二部ではマルクス主義教育論の地平、つまり経済学的な領域において、社会的再生産という視座から学校や教育の問題が掘り下げられ、さらに第三部では文化的再生産の視座から教育の象徴権力について考察が深められて行っている。
 さて、著作の解説は難しくもありむなしいものでもあるが、ここでもう少し言っておかなければいけないことがある。
 それは、「象徴暴力」に関してである。「象徴暴力」とは、見えない文化的な権力の行使であるとして、多くはそれを意識せずに行使していると山本氏は言う。教師が日々行っていることもまた一つの象徴的暴力と呼べるもので、この関係から誰も逃れることができない。親とか大人とか、関係の中で優位にあるものが普段行使しているものと言えよう。この力が壊れたとき、それを突き破る形で下位の者の物理的暴力、非行、反乱などが引き起こされてくるという。価値意識のまとまりとしての共同幻想が揺らぎ、国家の権威が揺らぎ、また大人たち・親たちの幻想が揺らぎ始めたとき、象徴的暴力は自ら不安に陥り力を失う。その結果として、子どもたちの引き起こす様々の事件がある。山本氏の理論にぼくなりの解釈を付け加えれば、そのように、見えてくる。もちろん一部の子どもたちが、正統性の酷い押しつけに対し、物理的に反応を露出させるという見方もできる。またもう一方で、このように弱くなった象徴的暴力を突き破り、生理的反発を行使し始める部分があると言える気がする。その意味で類似する現象にも様々なケースがあり得ると想定できる。
 皮肉なことに、ひとびとの揺らぎは教育の成果であり、知的レベルが上がったことに由来するだろう。ソフトな現象の場合、子どもたちの感覚はそれを察知して、弱まった部分から、そこを突き破るような仕方で自己を露出させ始めたと言えるのではないだろうか。
 いじめ、非行、暴力、自殺、他殺、不登校、学級崩壊といった問題を考えるとき、ぼくには、現在の社会や学校そのもの、家庭そのものの文明的なあり方がどうしようもないところにきており、そこから起きてくる必然的な出来事と言える気がしてならない。
 
 『教育の分水嶺』の、分からない部分をもっとしっかりと理解しておきたいと思い、ぼくは氏のもう一冊の書、『学校の幻想 幻想の学校 ―教育のない世界―』の発刊を待って購入した。
 始めに序章におかれた「一 学校に独占された教育を考え直す」「二 学校化された文明社会」から、現在の多発する教育問題に触れた部分を抜粋してみる。
 
  最も本質的な問題は「子どもの学ぶ自律力―自分で〈考え=感じ〉他者とともに生  きていくということ―が麻痺している」ということにあります。これよりも根源的な  問題はないのですが、それは不平等や差別や学習問題や非行や暴力等々ととてもいっ  しょくたに括りえない子どもひとりひとりの深刻な問題となっているだけに、どの次  元からそれを考え直すかというたいへんな課題が、わたしたちの方へつきつけられて  いるのです。
 
  教育の危機や学校の危機、また子どもの危機が、さまざまに語られています。しか  し教育や学校をよいものと前提にして、権力や国家や支配政権が介入するからいけな  いのだという敵探しでは、教育・学校の危機は悪い奴をやっつければいいということ  で解決がつくはずです。ところが、担当政権が変わろうと、また国家の独裁がブルジ  ョアジーからプロレタリアートに変わろうと、教育・学校の本性は変わらないことが  はっきりしてきました。相手を悪いといえば、自分はよいかのような、自分を自分た  らしめている前提を問わないことでは何の力にもなりません。
  学校教育のいきづまりは、日本の教育情況としても最近たいへん論議されてきてお  り、ラディカルな批判・告発がないわけではありません。
   中略
  こうした出来事は、学校による教育の制度が硬直状態に入っていることの証であり  ますが、わたしはこれを「教育の危機」であるとは考えません。単にあぶくのように  浮上してきたほんのわずかなものでしかないと考えるからです。「教育の危機」は、  学校制度のもとにある「学校」そのものが疑われない、その地盤である「教育そのも  の」が疑われない、というところにあるのです。
 
  臨教審批判や管理教育批判を展開するラディカルな人たちのほとんども、「学校そ  のもの」「教育そのもの」を疑うことは、非現実的であると裁断し、「よい学校」「よ  い教育」「よい授業」「よい教室」そして、「よい塾」づくりにいそしむ回路に入って  いきます。わたしは、学校教師の方たちが、明日の目の前の子どもたちとどんな人間  関係をうまくつくりあげられるかに真底没入していることを、充分わかっています。  そこで、人間的なコミュニケーション、子どもとのつながり、そこに生まれるどんな  小さなものであれ、うまくいった歓びがみつかることを、けっして無駄であるといっ  ているのではありません。そうではなくて、そうした真の交感を、即座に転倒させて  しまう「学校化の力」を許せないといっているのです。
 
  歴史上、ほんのここ百数十年の間に教育の中心機関として〈学校〉が興隆し、人々  の間に拡散、浸透していったのは、確かに経済上の因果関係と民族国家の統制があっ  たにしても、いわゆる支配階級が民衆を抑圧して学校をつくりあげてきたからだと一  方的に告発するのではなく、むしろ実際に、身の回りの社会生活問題を解決しようと
 した熱心な人たちによる産物でさえある点を、深く考え直さねばなりません。現在、
 教育の現状がいろいろ非難され、また告発され議論されていますが、何か犯人探しを
 しているようで、事態の本質には眼がむけられていません。犯人として掲げられた人が、 決しておろそかであったのではないはずです。むしろ逆に熱心な人たちであったので  はないでしょうか。教育管理者も教育行政担当官も、あるいは教員組合指導者も、ま  た親も教師も、真剣に教育を考えた熱意ある人々であって、〈教育〉をたいへん尊重  しています。教育を重視しているのです。教育官僚も教育的人間主義者も、共に〈教  育尊重〉においてはかわりないし、また「教育の制度」として学校という存在様式を、 少しも疑ってはいないのです。むしろ、教育尊重に立脚した上で、いろいろな〈教育
 論=争い〉をやっているだけだといえます。
  この教育論=争いは、教師の「愛の政治」によって正当化されています。子どもを
 愛している。人々を愛している。だから、人々=子どもの世話をせねばならないとい
 うわけです。世話の仕方を争っているのです。この「愛の政治」は、子ども=他者を
 愛する上で必要な「世話=管理」をつくりだしています。「他者のために」を考えた
 とき、しかも、それが〈必要〉となったとき、自分自身によって、自律的に学ぶこと
 とは異 質の、他律支配の関係がうみだされているのです。
 
  こうした、他者である教師のサービスによる教育内容の〈押しつけ〉が、学生・性  との学力をのばすのだというあり方を、わたしは「学校化された教育スタイル」と呼  んでいます。この教育様式は、すべての者の自律性を不能化します。
 
 長い引用になってしまったが、この本の主たる部分はこの引用部にあるのではなく、このあとの国際的な次元で論じられている数多くの論者の論点を、逐一明らかにしていく作業にある。それは、学校の幻想を引き剥がし、幻想の学校の真実の姿を明らかにするために欠かせない基礎的な作業にあたる。これについては直接この著に当たり、それぞれに確認してもらいたい。たとえ、学校批判・教育批判を苦々しく感じる人々にとっても、一度のぞいてみることに損はないと思う。
 先の講演集および本書によって、ぼくは世界の学校批判を主とした教育理論の現在的な水準とその動向を知ることができた。これは教師になる前もなってからも、一度も取り上げられることはなかったし、ましてこんな考えがあると検討される場もなかった。
 教育の場にありながら、こうした動向について知らされない、あるいは知らないでいるということはどういうことなのか。知るに値しないということなのか、教育学者たちの怠慢や勉強不足なのか、あるいはぼくたち現職にある者の関心のなさなのかはわからない。 学校は必要だ、教育は大切だと考える側から今日の教育問題を取り上げながら、逆に学校や教育批判を展開する理論を検討し、その誤謬を指摘した者はいるのか、そういう本があるのか、それもぼくたちの狭い視野からは見あたらない。
 現職のしかも小学校の教員であるぼくの日々は、その多くは教科の教材の研究と、指導技術、学級の経営、子どもたちの世話などに時間を費やす毎日だった。学校や教育をめぐり、いろいろな問題が、しかも想像さえできない形に発展して噴出してきても、担任教師は持たされた学級というその範囲の中で、よりよい指導や運営を追求するほか道はないようにできている。もっと分かりやすい授業、もっと楽しいクラスづくりをめざし、自らをすり減らしていく。すり減ってくたくたになって、自分は子どもたちのために精一杯努力してきたと、自分に納得させる。子どもや保護者、同僚や管理職から高い評価を受ければ、それで努力も報われるだろうが、実感できることはまれである。まだ努力がたりない、まだ努力がたりないと、周囲からも見られているようで、自分自身の資質・能力への劣等意識が助長されていく。その循環には切りがないようで、やがて諦めと妥協がやってくる。
 こんな毎日の中で、教育論に眼をむけたり、社会現象となった子どもたちの引き起こす事件や諸問題について深く検討することなどは至難の業である。これらを研究することが日々の仕事として認められているなら別だが、仕事としてはやはり目先のことに百%の力を費やすようにできていて、それでもまだ足りないくらいの量なのだと思っている。大事なこと、例えば日々の中でのいろいろな矛盾の実感が、現実的な仕事の役に立たないという理由で放棄されていくが、本当はそうしたものの中に検討するに値する問題がありはしないかと思えて仕方がない。人間としての教師ひとりひとりの感性を信じ、大切にし、掘り下げ、さまざまに展開する場があったならば、教育理論の世界的レベルに匹敵する認識に到達できるに違いない、とぼくは思う。そこでは日々の教育の営為の時間は削がれるから万が一にもあり得ないことだが、資質の向上とかを建前に、研修に名を借りた締め付けを遂行する事に比べれば、はるかにましなことだ。第一、資質の向上といった方策には、個々の教員の能力や現場サイドというものを見下した姿勢が感じられる。誰に意見を求められることもない、地方の学校の教師の心がわからなければ、まして子どもたちの心の現在が理解できるはずがない。理解できないはずの有識者たちが寄って集って教育問題を論議し、意味ありげに、意味のない対策を講じている。こんなところにも逆転の発想が取り入れられなければ、子どもたちは永久に救われないに違いない。つまり、肝心なところになると有識者、という発想や構造が転倒されない限りは、少年たちが浮浪者に暴行を加えるような事件は後を絶たないだろう。どんなに言葉で取り繕って見せても、すぐれたものが良くて、劣ったものは何の価値もない、そんな意識がどこから生じるともなく、社会のそして学校の内外を覆っている。それはどう贔屓目に見ても否定できない。ぼくは、そう、感じる。文部省あたりの全体を視野に入れることのできる立場にある者たちは、こんな事はとっくにお見通しであるはずなのに、何故是正できないのか。それはただ一つ、自分たちの存在を支えている価値の転倒をそれは含むからである。そこまでやってしまうと、自分たちが困るからやらないだけなのだ。やれる立場にある者たちがやらない。どこまで犠牲を払えばいいのか。そこを不問に付して、何とか小手先の対策でごまかそうとする。すべては解決できないことを承知の上の解決策である。そこにどんなに為政者側の苦渋があるとしても、許されないことである、と、ぼくは思う。
 個々の教師を目先の業務に封じ込め、学者や有識者、政策担当者は何をしているのだろう。学者は自分たちに都合のよい理論や実践ばかりを紹介したり、論じたりしているだけなのだろうか。
 上の教育機関が、批判的な言説には蓋をして隠し、ぼくたちの目に触れないようにしているとすれば、あまりにも個々の教師を馬鹿にしている。そうした理論を前に、ぼくたちが批判的検討を為し得ないとか、それなしに鵜呑みにするとでも思っているのだろうか。ぼくたち一般教員にも、判断する能力は充分備わっているとぼくは思う。それよりも何よりも、教育家たちが理論的実践的努力を怠っていないとするならば、先に山本氏が紹介した世界的教育理論家の言説を、個々の教育問題に絡めながら批判的に検討した理論を展開し、ぼくたちに開示して欲しいものだと思う。
 
 さて、ぼくは山本氏の著作によって、学校や教育への批判的な論者の考えを学ぶことができた。そこで語られていること、また山本氏が語ろうとしていることも概ね理解できた。なるほどそうかと納得もし、共感もできた。一度は、目を通してほしい世界がそこに展開されている。
 ぼくが最も感心したのは、学校化の中でそのサービスを受け取るものが主体的=服従的(これを見破ることはとても大事)に自己規制をしていくことを指摘したところにあるのではなく、またよいと思ってなしていることがこの社会の構造、制度の中で逆の結果を果たすと指摘しているところにあるのでも無い。そうさせているメカニズムの存在が次第にあぶり出され、やがておぼろげに見えてくる教育や学校の現在的な真の姿の追求が、そのまま世界史の現在をつかむ新しい方法になっている点である。教育という一つの窓を開くことから、世界の文明史の最も核心的な部分に迫ることになっている。読むものは、単に視野の広がりというだけではすまされない大きな贈り物をもらうことになる。
 だがしかし、氏も言うようにそこは出口ではなく、何かの始まり、その入り口にすぎない。ここから何が始まりどう展開するかは、誰もその筋書きを知ることができない。およそ筋書きなどといったものは初めからなく、それぞれの置かれた立場、その現実に引き継がれ、個々の物語が編まれていくといった、言いかえれば自律的な行き方が残されてあるばかりである。
 ぼくはといえば、すべてを理解しえたというわけでもないし、氏の主張にもう少し耳を傾けてみなければならないと思うところがある。また、氏との差異を探るところから、より自分の考えを明確にしていきたいという欲求がある。氏と同様に、ぼくの願いは個々の当事者の現実的な解決に寄与することではなく、真実を探求する過程において、結果的に今のあるがままの状態でしかもすべての問題が解消する、その方向性にむけてできることをなしていくということなのだ。これは、そういう思いを秘めた試みの一つにすぎない。
 さて、山本氏の書によって、人々の意識の中で肥大化した、学校はよい、教育はよいといった前提は、果たして崩されることがあり得るのだろうか。
 ぼく自身、学校が、そして学校教育が無いという状態をイメージすることは難しい。だがしかし、学校そして学校教育のおかげで良かったと思う人々がある一方で、親も子どもも先生も、学校があるためにたいへんな思いをしているという認識にも正当性があると考える。中学を、高校を、卒業できないためにダメージを受ける子どもたちはどれほどの数なのか。また何故そんなにも大きなダメージを受けてしまうのだろうか。
 学校教育を良しとする価値観には、たいへんさを克服する忍耐や我慢が、社会に存在し、貢献し、社会を存続させ自分を生かす上で必要だとする考えがある。つまり、その程度のたいへんさを乗り越えることができなければ、もともと社会では生きてはいけないのだという、現実認識がある。親も教師も、ある意味ではこの意識に立って子どもに対している。しかし、そう伝えても、あの手この手で分からせようとしても、聞く耳を持たない子どもたちが多くなり、比例するように事件は続出する。それを、子どもたちが我慢ができなくなったと見るか、それを超えて子どもたちが追いつめられているととらえるかは、まさに分水嶺そのものである。
 ぼくは、身近に不登校の子どもと接したことがあるが、その経験から言えば、やはり教育の肥大化、それに隷属する人間という図式が当てはまるように思える。子どもは学校に行かなければと思いながら、もう精神や心の問題を超えて、生理的に学校に来れなくなってしまう。親も、子どもの将来を考え、絶望的になる。まず、自分の子どもが職業に就けない、生きていけない、と考えていく。それは多分、子どもも同様だろう。
 ぼくは素朴に思う。学校に、教育に、親や子をそのように思わせ不安がらせる権限があるのだろうか、というように。学校に行かないことや卒業しないことは悪なのだろうか。生きる資格がないのだろうか。誰もそうは言わないにしても、生きていけないような状況があり、その事実を取り上げようとはしない。この無言の脅迫を、ぼくはどうしても許せないと思う。それは学校や教育のせいではないというかもしれない。しかし、そうだろうか。ぼくは教員として、親や子どもに学校がそういうものとしてイメージされてしまうことに平気でいることが出来ない。学校や教育が知らん顔をして突っ立っていても、親や子どもにそういう影響を与えている事実は消すことが出来ない。学校を出なければ生きていけないと思わせるほど、巨大で醜悪な顔つきになっていることを学校自身が一番自覚していない。
 知的障害といわれる子どもも、あるいは不登校の子どもも、次第に別扱いにされていくその根拠は何なのか。誰の、そして何の権限があってこの差別化が堂々とまかり通るのだろうか。どんなに綺麗事を言おうと、ここに共通するのは、通常学級のカリキュラムがスムーズに消化されることを前提においた施策である。
 もう、教育の世界においても、差別を決してしないという心、魂は捨てられて久しい。良くしよう、人間らしい社会をつくろうとしてきた結果が、一面ではこんな事になってしまっている。ここにはもう人間の思慮を超えて、社会の見えないシステムに隷属し、システムの命令に従って動く卑小な人間があるばかりではないのか。ぼくたちが怒りを感ずるのは個々の権力者や為政者、またその命を受けた具体的な個人に対してではない。彼らもまた、向こう側にあるシステムから繰り出された大文字の言葉に従う、単なる代理人にすぎない。
 仕方がない。できる範囲で子どもに尽くそう。多くの教員はそんな思いかもしれない。 教師の苦渋。同僚として、ぼくにはよく分かる。自分自身の問題でもある。だが、教師は苦渋で済むかもしれないが、投げ出された子どもや親の不安や、恐怖は、それどころではないはずだということも、忘れてはならない。
 多くの教師が疑問や異を唱えない。
 波が静かだと石を投げるものはいない。個は口ごもり、沈黙する。教育がよい、学校が良いという前提は、沈黙の中で容認されてしまう。
 本当のところはどうなのか。ぼくはそれを探る中で、誰もが納得し理解する考えにまで辿り着きたい。
 そこで何が変わらなくとも、ホントのことを見聞きする中で、多くの人の意識が変わり、見方が変われば、流れが変わる。反対にぼくたちの考察が納得しがたいものであれば、そこにホントのことがなければ、誰を振り返らせることも出来ず、すべては意味がないことになる。意味が生じるまで、考察を深めていくしかない。そう、思う。
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