聖なる教育の再生
 
 真言、天台の開祖、空海、最澄の起こした仏教は、貴族のための宗教であり、いってしまえばエリートを対象にするものだった。
 浄土教の法然、とりわけ親鸞にいたって、仏教は広く庶民生活の中に入り、庶民を対象とする宗教へと変貌した。仏教史を概観すると、これは教えや修行の平易化であり、あるいは先達の仏教者からすれば宗教上の堕落、僧侶の堕落と映ったに違いない。
 平成二十年十月二十九日の河北新報、「持論・時論」欄に、宮城教育大学長高橋孝助氏の文章が掲載されていて、それを読んだ。先生たちの教育実践における功績を一般に広く知らせ、表彰する「教育実践・宮城教育大学賞」の創設の趣旨と、対象となる授業実践の内容等が簡略に述べられている。文章の中の言葉を使えば、「授業」を先生たちの「仕事の中心」として、その実践を応援する意味合いのことが書かれている。
 教師の研修、努力・精進を薦める文意を読み取りながら、私は冒頭に書いた日本の仏教史の一面をすぐに思い浮かべた。そして浄土教を批判した解脱上人や明恵上人の言いぐさの、ある種の正当さを思った。それは仏教の教義の内部に身を置く限りにおいて、ある真理を伝えている。しかし、本当は法然や親鸞は教義の内部に身を置いたのは身の半分で、あとの半分は民衆の生活の内部にあった。すでに立ち位置が違って、法然や親鸞らにとっては他宗派からの彼らへの批判は想定内で、当然無視して然るべき事柄だったに違いない。
 高橋氏の文章は、別に現行の学校教育、あるいは一部の教師の批判に眼目があるわけではない。公教育の内部にあって、教育の再生をよりよい授業実践から果たそうとする目的意識を含んだもので、その中にあっては当然の正しい発言だという以外にない。
 しかしながら私には、知的エリートである僧侶がする、もう一つのエリートである貴族たちのための宗教という側面を持った初期仏教と同じく、知的エリートがするエリート育成のための教育しか、そこでは語られていないと感じられた。要するに、少しも知的でもエリートでもない庶民生活者や、その家庭の子どもたちの∧非知∨的な∧状況∨が顧みられていないと私は思った。
 その∧状況∨をここでは詳細に述べる余裕はないが、またその能力も残念ながら今の私にはないが、それは一部不登校や校内暴力のような形で顕在化したことは誰もが了解しているに違いない。
 本当は、教育現場にではなく、子どもたちや家族や社会人が生活する場にこそ教育再生の糸口は見えてくるはずなのだが、高橋氏のように授業の質を高めるなどのような教育内部的な問題に終始する意見も相変わらず多い。それ自体は悪くはないが、逆に言うと、日本社会の全体像、未来像を誰もが見えない不安の中で、授業の質という内側向きの方向にしか考えが及ばなくなっていると見ることもできる。言いかえれば、教育自体が「ひきこもって」行こうとしているのかもしれない。
 俗世界を離れ宗教者が総本山にこもって修行三昧するように、教育者もまたよりよい授業を使命の一つとして努力することは一つの行き方である。だが、どんな人のための宗教であるべきか、誰のための教育であるべきかを考えたとき、対象の生活状況や生活実感、そこに思いを致さずにどんな宗教どんな教育も成り立つはずがないと私には思える。
 法然や親鸞たちは旧来の仏教からは破戒僧に見られたかもしれないが、多くの民衆の救済を願ったのであり、その時旧来の秩序、形式よりも実を取って、庶民が庶民の姿のままで救済が可能になる道を探ったのである。親鸞にいたっては、「悪人正機」の説にまで行き着いたのは承知の通りである。
 これは言いかえれば、学校において先生たちが、勉強なんてしなくてもいいよ、と言うことと同じだ。
 本当は、子どもたちが勉強が出来ても出来なくても、将来に何の支障も来さない世の中が待っているのでなければならないのではないのか。教育はその部分についてどう答えるのか。誰もそのことに言及しようとはしない。その言明を避ける姑息さを、本当は誰もが見抜いている。その真に直面しない勇気の無さと、逃げの姿勢が、どのように子どもたちの無意識を傷つけてきたか、想像するだけで身の震える思いがする。
 授業の質を高めて、立派な坊主になるように立派な先生になるがいい。がしかし、それはいつまでたっても子どもたちの期待に半分しか応えないことと同じだ。そういう人々に何を言っても始まらない。私はそんなひきこもる教育世界から、いっそう自分に向かって引きこもってきた。私もまた本当は教育について語る資格など無い。
 しかしながら、誰か一人くらいはこういうことを云わなくてはならないと思う。
 教育は、その教育的見地という内部から、本当は外の世界に向けてもの申すべき使命を持つものではないのか。仮に政府の一機関という支配下におかれていたとしても、指示される側に回るのではなく、逆に教育的立場から具申することにこそ面目がなければならないのではないか。それが政治の一手先となって、場合によっては一大臣の思慮するところによって右往左往したりする。
 学校の試験で将来が左右されるような世の中を変えろ。出来てしまった大学の序列を解体し、序列を作らない仕組みに変えろ等々。どうしてそうしたことを外の世界に向かって、政治や総理大臣に向かって言えないのか。校長や教育委員会教育長たちは、なぜ声を大にして言わないのか。そうして予算獲得などに関しては一生懸命立ち回る。自らが教育のなんたるかを放棄して、瑣末なことに終始している。
 高橋氏は宮城教育大の学長だそうである。例えば少年法の改正の時に、教育的見地からということで意見を求められただろうか。たぶん求められなかっただろうと思うが、それだけ世間一般からは「教育世界」はあてにされないものであり、無視され、孤独なのだ。もちろんそこまで教育を貶めたのは高橋氏をも含む教育の側にも責任がある。
 元教員ということから、教育の再生について考えの一端を述べてきたが、本当はこの社会の経済や政治などと同じで、社会を構成している一つの側面に過ぎないから、社会にあるものは教育の世界にも学校にも全部あると言っていい。その意味では、好不況のように、学校教育にもいろいろなことが起こりうる。もっと言えば取り立てて騒がなければならない理由もないといえるのかもしれない。ただ本質的な問題として教育の問題を考えたときに、私にはいろいろ言ってみたい思いが湧いてくるということのようだ。時間も来た。これで終わることにする。