平成二十一年七月二十七日
 
 一ヶ月ばかりさぼっていた。というか、別の書きものに時間を取られてこちらは後回しになった。
 二面【総合】の『あすを読む』欄に、今日は哲学者の「内山節」の文章が見えた。「自ら主人公になるため選挙を再創造の場に」などと見出しにあり、例の如くの文章かと軽く読み流すつもりで読んだが、思いのほかすんなりと受け入れられるような文章で違和感を感じる箇所もなかった。
 はじめの方を要約すると、「戦後の日本では、自由、民主主義、近代的な市民社会といった言葉は、光り輝く言葉として私たちの前に存在していた」が、「今日では、それらの言葉も色あせ」「輝き」が失われたと内山は言っている。私は内山が言うほどにはそれらの言葉を光り輝く言葉として実感した経験はないが、しかし、それらの言葉に自分の生き方というものを考えさせられてきたとは言えるように思う。よく言えば少なからず影響を受け、悪く言えば引きずられて今日に至っていると言えよう。
 
 今日の私たちは、自由や民主主義を大事なものだと考えながらも、それらに躍動するものを感じなくなっている。
 そうなってしまった一番大きな理由は、これらの言葉とともにあった、自分たちの社会を自分たちでつくっていくという思いが、いつの間にかやせ細ってしまったことにあるような気がする。自分たちの手で社会をつくるのではなく、私たちは大きなシステムに飲み込まれながら生きるようになった。
 ある年齢までは教育というシステムのなかで日々を過ごし、社会人になると経済や市場、企業システムのなかで働く。そして老後は、年金や医療などのシステムに生活がゆだねられる。それらの背後には市場や消費のシステム、金融システム、政治や世界システムなどが存在している。
 いつの間にか私たちは、自由な社会の主人公ではなく、システムに飲み込まれた力のない人間になってしまった。
 
 たぶん内山と同世代の私は、こうした内山の文章を読みながら、内山も書きながら思い起こしていたであろう学生時代の自分の生き様を思い起こしている。たしかに、そのころは「自分たちの社会を自分たちでつくっていく」という思いを夢見ていたに違いない。そして仕事をし、家族を形成していくなかで、その夢はいつの間にか消失していったのだ。
 システムの中に、裸になって無力な自分が取り残されて存在する。だが、それだけならばまだいいと言うべきなのだ。家族が、身内が、ある程度の安心できる生活が約束されているとするならば、だ。
 しかし、それはそうではない。
 
 それらのシステムが、今日ではいっせいにガタがきてしまった。世界の経済システムも、雇用システムも、教育や年金、医療などのシステムも、すべてが私たちに安心感を与えないもの、信頼感のないものになっている。
 そうであるなら、システムをつくり直せという要求が出てくるのは当然のことだ。もっと安心できるシステムをつくらなければ、私たちの将来には破綻しか見えない。
 だがもうひとつ忘れてはいけないことがある。それは自分たちの社会を自分たちの手でつくっていくという躍動感や輝きを、これからどう再創造していったらよいのかという課題である。
 
 システムのガタつき、不具合、破綻などが明瞭で、このシステムを別物につくり直さなければならない。そこまでの認識は、私は内山の言う通りでよいと首肯したい気持だ。しかし、と私は思う。ここまでは内山と同じ目線で社会を眺め、同じような認識でいる私がその先に考えることは、自己防衛的な意味合いからの「自立」ということである。
 内山の言うところは、つまり、内山の考えは、もちろんのことそれと違っている。
 
 私たちはもう一度、デザインする力を取り戻さなければいけないのだろう。自分の一生をデザインする力、自分の働き方をデザインする力、自分の暮らす地域や自然とともに生きる暮らし方をデザインする力。
 選挙は政党にとっては、権力を掌握する手段である。だが私たちにとっては違う。それはゴールではなく、私たちが主人公になって社会をつくっていくプロセスの中にある。
 これからの自然と人間の世界をどうデザインするのか。どんな働き方をし、どんな暮らし方をするのか。そのためには地域主権や経済のあり方をどう変えていったらよいのか。大事なのは選挙によって体制を選択するのではなく、自分たちが社会の主人公になるために、いかに選挙にかかわるか、である。
 
 間近に迫った衆議院選を念頭において、内山がこう書いていることは間違いないと思える。平たく言えば、政権選択とも言われる今回の総選挙は面白いから行って投票した方がいいよと言うことだろうと思う。ほとんどといっていいほど投票に行ったことのない私も、今回は行ってみようかと思っているくらいだから、多くの庶民生活者も私のように漠然と内山のような目的意識的にか、あるいは諸々の理由により投票に行こうと考えている人が多いかも知れない。
 私にとってそれはしかし、内山の言うほどに大げさなものではない。「自分たちが社会の主人公になるために、いかに選挙にかかわるか」という問題意識自体、システム内に進んで飲み込まれることに外ならないと私は思うし、私にとってはやむを得ない選択以外の何ものでもない。内山とは違い、私たちは既成の政党政治にいかなる幻想も抱いてはいない。仮に今回の選挙で政権交代が実現したとしても、私には私たちの生活に劇的な変換をもたらすようには思えない。産業や経済の優先といった構造は、今しばらくは変わりようがないからだ。閉塞状況にどんな光明も見つけ出すことができずに、何でもいい、とにかく変化を欲しているに過ぎない。いくら何でも腐った自民党体制の政治でしかこの国家が存続できないものだとすれば、私たち庶民生活者にとってはこのような国家などなくなったところで痛くもかゆくもない。私たちの生活はそれほど逼迫しているのであるし、消失した国家は庶民生活者の手で再生可能でもあると、それくらいには私は日本人を信用している。私たちは進んでやらないというだけで、種々のことについての担当能力がないというわけでは決してないと私は明瞭に言うことができる。だが私たちにできることはそこまでで、つまり、自民党や民主党などの既成の政党を越える統治能力をもたないことは端から分かっている。誰が、何を、どうしようが、ほんの少しよくなるか、ほんの少し悪くなるかの変化しかもたらしようがないのだ。それは、一つ一つの国が世界のシステムに密接にかかわってしか存在し得ないかぎりにおいて、そうなのだろうと思う。
 六十間近の最近になって、やっと私は他に依存したり、期待したり、あるいは社会のシステムの所為にして考えたりすることを、止め、またあきらめようと考えるようになった。それは内山の言う諸々のシステムとの訣別、別次元に生きることを模索するということを意味している。それを「自立」という言葉で表してみようということだが、言ってしまえば既存のシステムから自由な立場にとどまるというくらいのものだ。
 変な言い方になるが、不遇な私たちが生きるためには、不遇を不遇と捉えるシステム側の発想を超えることしかない。こうした生き方が、私たちにとっては不遇というべき状態ではなく、当然であると捉え返す考え方をしてみたいと私はいま思っている。
 金がないこと。金が至上ではないと考えてきた私たちにとっては当然の帰結である。贅沢に暮らせないこと。贅沢な暮らしを至上のものとしなかった私たちにとっては当たり前の状況である。誰にも認められていないということ。認められることが至上としなかった私たちにとっての帰結である。
 このように考えて、しかし、私たちは決して他に顔向けできない生き方をしてきたわけではない。まともであり普通であり、精一杯さも備えていたと思う。これ以上のどんな生き方も、そう生きなければならないという生き方は先験的にないのだと私は思う。
 一人一人が、原始の人のように孤独で自立した生き方を原点として見直すならば、生きることの意味はまた違って見えてくるのではないか。その視線は死からの視線と考えてもよく、そういう捉え直しを個々ができるようになるのでなければ、現在の閉塞は永久に続くように思われてならない。うまく言葉にできないが、最近考えることの一端をここに述べてみた。つまり、社会の主人公になるなどどうでもよく、システムから自由である立場を撰びたい、そして自由であるそんな道を行きたいという表明だ。私たちは無知の輩といってもよい。社会をつくる主人公にならなくてもいいし、社会を作り替える発想など持たない。私たちは残念ながら、自分をどう扱っていくかを考えられるだけだし、それが精一杯のところでもある。私が期待したいのは、自分がどう生きればいいかを何ものにも依存せずに考え抜いた個人の集合としての社会の到来である。内山のいう「デザイン力」など私たちに持てようはないのだ。それは内山たちに任せよう。
 
 
   平成二十一年六月二十四日
 
「骨太の方針2009」が閣議決定されたということで、慶応大教授の金子勝が今日の河北新報四面の総合欄にコメントを寄せている。
 小泉政権下での「骨太05」は、「官から民へ」「国から地方へ」のスローガンのもと、「小さくて効率的な政府」が目標に掲げられていたが、今回の骨太は方針を一変し、言ってしまえば小泉構造改革路線の修正、小泉以前の元の姿への回帰という印象が持たれる。金子はこれを「総括なき改革路線転換」と批判し、最近の政府与党の政策決定が混乱を来してきたと見て、それが米国追随のつけであると締めくくっている。
 小泉元首相の下での、先のスローガンや目標としての「小さな政府」について、米国追随の姿勢が露骨なところもあったが、全体的な方針としてはベターな選択であろうと庶民生活者である私は考えていた。だが個々具体的な政策が実施される過程で、特に目立っては地域医療、介護の崩壊をもたらしたことは否めない。また派遣等の就業条件の悪化や切り捨て等の問題も派生していった。これらには政策実施の手法等、様々な問題が絡み合っているのだろうが、与党政府は構造改革路線をずるずると修正につぐ修正に終始し、ついには金子の言うように「正反対の政策に行き着いてしまった」。
 私などはただただ呆れるばかりで、これが日本の政治家の実力だと悲観するしかないのだが、今日の目に余る政策決定の混乱も、実は米国の混乱を反映しているのだろうと見ている。
 これまでの日米間の協議を見ると、米国がこうしてほしいとかこうしたらいいということを日本側は緩やかに、あるいは規模を小さくして実施してきているところがある。その大元の米国が金融危機に端を発した混乱を終息できないでいる折り、言ってしまえば日本の今の立場は自力でのみ政策決定をしなければならないのだが、米国というたがが外れて右往左往している状態だと見ていい。変な言い方だが、米国がこけて、指針とすべき指針を見失って、内閣はその場凌ぎの修正を繰り返すほかなくなっている。
 金子は、「根本的な政策転換がないかぎり、日本は世界から取り残されていくばかりだ」といっているが、私のように貧困にあえぐ毎日を送っているものは、日本が世界から取り残されようが関係がない。それで失うものはもともと所有していないからだ。かえって、分相応に取り残されてみたらどうかとさえ思っている。所詮小さな島国なんだから、つま先だって世界に自分を誇示して見せても長くは続かない。一度かかとをしっかりと付けて、崩壊しかかっている国内を、どう再生すべきかに心を砕いたらよかろうと思う。
 今の日本は富裕層と大きな企業とを中心に、というのは、そういうところがへこまない、盤石な体制でいられるというようなシステムが、構築されているように感じられる。そうして富と所得の格差が拡大しすぎてしまった。それをそのままにして、貧困層をどうするかなどと議論しても意味がない。私たちは私たちの生を何とかして生ききるだけだ。力はないが、文句を付けられたら最大の反撃だけは常に行うだけの気持は持ち続けている。頼らないし、どこかに頼れるだけの指導者、知識人、その他がいるとも少しも考えたことはない。結局、こういう事では何も言ったことにならないが、精一杯の声は発したことになる。
 
 
   平成二十一年六月十一日
 
 対北決議合意に絡んで
 
 北朝鮮が核・ミサイルの開発、実験をくり返している。これに対し、北朝鮮への制裁強化を望む日米韓をはじめとする国連安保理の常任理事国と日韓の七カ国は十日、対北朝鮮制裁決議案に合意したとする記事が見られた。
 河北新報二面「総合」欄の記事を読むと、日米は「北朝鮮へのモノとカネの流れを遮断する」強い決議を求めつづけたが、これに対して中国が最後まで抵抗し、貨物検査の義務化は結局、「要請」という表現に落ち着いた模様である。
 私などの関知するところではないが、ここのところ日本政府及び日本の政治家たちは、さかんに北朝鮮の脅威を口にするが、それを聞くと私はすぐに先の太平洋戦争の口火を切ることになった真珠湾攻撃のことを思い出す。これはアメリカを敵対視しての奇襲作戦であり、不意打ちみたいなものだったと私は理解している。もちろんそれまでに日本に対する物質的な包囲網がしかれ、日本にとっては止むに止まれぬ開戦であったかも知れない。
 つまり日本政府及び日本の政治家たちは、北朝鮮が先の大戦で日本が取った奇襲作戦のようにいつ何時、日本に向けて核やミサイルを飛ばさないともかぎらないと、怯えているということになるのだろう。そういう選択肢があるということは、過去の自国の行状から想定するところだと言ってもいい。それで日本政府や政治家たちは過剰に反応しているとしか思えない。
 さて、そう考えると、日本政府、日本の政治家たちの立場は、過去のアメリカなどが日本を孤立させたように、北朝鮮を孤立させて追いつめようとしていると見える。自分たちがさせられたことを、今北朝鮮に向けてしているように思われる。もちろん日本がそうするには日本なりの理由がいっぱいある。ただ人道上の問題だけでなく、拉致の問題もある。
 しかし、私などはこうした外交姿勢を見るにつけ、日本の好戦的な部分が露出してきているのではないかと危惧する。どこかに、北朝鮮に先に手を出させて、その後完膚無きまでにたたきのめしたい意図が見え隠れしているように感じられるのだ。
 中国などは特に、あまり制裁強化が行きすぎると北朝鮮が暴発するかも知れないとして強い制裁決議には慎重な姿勢だったと聞いている。まあ中国の立場としてはそういうものだろうなあと私は思う。
 かつてアメリカは日本に核爆弾を落とし、その威力のすさまじさから世界最強にのし上がり、ロシアをはじめとする列強はそれに倣って核を持ち始めた。北朝鮮が、なぜ核開発に血道を上がるのか、分からないでもないと私は考える。日本、韓国が否定しようとも、アメリカは核を搭載した艦船などを日本海周辺に巡航させてきた。北朝鮮などからするそうしたものへの脅威は、日韓ともにあえて認めようとはして来なかった。今、日韓が北の脅威を言うとき、北朝鮮に立場を変えれば、北朝鮮は「核の脅し」はお前らの方が先だろうと言いたいのだろうと思う。日本は日本でそういう問題に真摯に対応してきたとは思えない。
 アメリカはこれまでの状況をうけて、北朝鮮の軍事的脅威を理由にこれまで以上にはっきりと日韓に「核の傘」の提供をもちかけていることが、先の記事の下に見られる。当然、北朝鮮はアメリカのそうした姿勢は「露骨な核戦争宣言」だと強く反発しているそうである。アメリカに「核の傘」提供の撤回などを要求し、自らの核武装に関しては「我々の核抑止力は完全に自衛的で平和を愛好する性格と使命を帯びている」と訴えているそうだ。
 もちろん北朝鮮の言いぐさは、核を保持する国々のする常套文句と違わない。少なくともイラクのように難癖を付けられ、体制が崩壊してしまうことがいやで、それならば核を持ち、イラクのように簡単には攻めてこられないようにしておきたいと考えるのは当然と言えば言える。
 いずれにしても、北朝鮮の世界からの孤立という選択肢が、日本の国益にかなうことなのかどうか、私には分からないと同時に疑問でもある。北朝鮮は、確かに世界から嫌われるようなことをしている。その意味ではかつての日本に似た部分があるのかも知れない。孤立化した日本は開戦に踏み切った。北朝鮮はどうであろうか。やはり、どうしようもないジレンマに、刻々と歩み寄っているように思われる。何となくきな臭くなった朝鮮半島を舞台に、過去の過ちが繰り返されないようにするためにはどうしたらいいのか。私などが考えるべきことがらではないにしても、ついつい不安が増していくこのごろではある。
 
 働くということ
 
 前回六月五日には雇用不安に絡んだ労働法教育の記事を取り上げたが、今日は十七面の同じ【くらし】に四、五十代の職探しの厳しさが紹介されている。たいへん身につまされる話なのでこれについて少し考えてみる。
 記事では、四十一歳の元営業マンの話が書かれている。会社の方針に疑問を感じて仙台市のとあるメーカーを自主退社。はじめは次の仕事が見つかるだろうと楽観視していたそうだが、なかなか採用先が見つからず、実家が近くでも居場所はなく三月に路上生活を余儀なくされたとも紹介されていた。
 私自身、公務員を自主退職して、その後求職のために何度もハローワークに通ったりしたから、職探しの厳しさはよく知っている。五十の半ばで、何だってやれるし、やると考えていたが、肝心の求人がない。少ない求人の中で面接までにこぎついても、特に年齢のせいかと思われる点で何度も不採用になった。能力の問題や、面接者に気に入られなかったなどの問題もあったとは思うが、それにしても難しい再就職の現実に触れて暗澹とした。世の中と言っては大げさかも知れないので、宮城のしかも仙台市近郊でさえこうした現状なのだから、県内全般、まあこうした傾向にあるのだろうと思った。
 新聞テレビなどでは、毎日若者の派遣が取り上げられ、雇用の不安が語られているが、中高年の実態と、その現実の状況にはもっと差し迫ったものがある。記事にも触れているが、四、五十代というのは家族の養育やローンの問題があり、一番苦労している。私も、六十になって年金がもらえれば、今よりは少しは楽になるかと考え、頑張ろうと自分に言い聞かせている。
 とにかく、ハローワークには若者から中高年まで、数少ない求人に飛びつき、狭き門に殺到している。採用されるのは東大受験より難しいのではないか。そう、思うくらいだ。
 確実に仕事していない若者がふえていることは、ハローワークでの若者の多さもさることながら、平日の休みにパチンコに出かけたときに私にはよく分かる。とにかく、二十歳前後の若者、また若い女性が多く見かけられる。おそらくそれだけ働く場が無くなっていると同時に、中高年はいっそうマイナスの部分を抱え、仕事から遠ざけられているという気が私はする。賃金は低く抑えられ、労働条件もいっそう厳しいものとなっている。こういう巷の現状で、日本国、日本国民は優秀だ等という話を聞いても、私たちにはまるで無縁のことなのだ。
 記事の中で、求職期間の長期化で、ふだんの生活がどんどん楽な方に流れていくといった女性の話や、路上生活に馴染んで働く気がなくなるのが恐いという男性の話が特に印象に残った。そう、我が身を省みても、浪人時代から今日にかけて、いろいろなことにだらしなくなってきたと感じている。着るものもあまり気にしなくなったし、部屋の中のゴミや物の整理も、少しずつ弛んできていることを自覚する。万一路上生活をしても、もしかすると生活できてしまうのかも知れないと思う。それが恐いという男性の、恐いという感覚が正常で良しとするべきなのか、恐いという感覚を一度疑ってかかるべきなのか、私は今ちょっと首を傾げ、これは分からないぞと内心に呟くところがある。
 いいんじゃないの、それでも。と言う自分がいて、いやあ、それは楽観的すぎて、やはりそこはこちら側に踏みとどまるべきじゃないかという自分がいる。
 なぜ路上生活でもいいかという根拠は二つほど考えられる。一つには発生史上の先輩筋にあたる犬猫のように、生活できるんならそんな生き方もありと考えるからだ。人間は犬猫が好きである。犬猫は生きられるんだったら、人間に飼われることも厭わないといっていい。路上生活は犬猫のそういう生き方を、彷彿とさせるところがある。まあ、観念とか意識に縛られない、先祖返りの自由さといったところがあるように思える。
 もうひとつには、やはりこれも路上生活の先輩筋として、中世の出家者の姿に重なり、意図せず、「無心」というか、物欲の切り捨て、煩悩からの脱却、そうしたところの近いところに存することに外ならないのではないのかと思うからだ。
 いずれにしても、どんな生き方をしたっていいじゃん、と私は思う。日本国民の半数が、今路上生活をするようになったって、それで生きていけるのならば、しかも大過なく生きていけるのであれば、何の問題もない。それに慣れてしまうのが恐いというが、慣れきってしまえば恐いという気さえ起こらないのである。そこに何の問題が生じるか。かえって、意識における攻撃性も静まり、その世界にだけは本当の助け合いや憐れみ、慈愛のこころが展開する余地があるのではないか。まあ半分は冗談としても、現在のところ、こういう方面にしか私の希望や理想の触手が向こうとしないことも事実ではある。
 
 
   平成二十一年六月五日
 
 十九ページ【くらし】の欄に、河北新報社が七月四日に開催する「雇用問題セミナー」に関連する記事が掲載されている。
 記事の見出しには「労働法教育 若者にこそ」とあるように、現状における労働法に対する違法行為が罷り通り、かつ労働者側が労働法を理解しておらず、使いこなせていない実態からこうした試み(今回のセミナーのようなもの)が催されるることを記事は伝えている。
 労働者が違法状態にさらされている。企業などの雇用主側が、堂々と違法行為を繰り返している。こうした実態はぼく自身もわずかだが体験し、身辺周囲にはいやというほどあって、よく聞かされる。
 自分を振り返ると、公務員や会社員を経験してきながら労働法について何一つ、生きた知識として身に付いたものがないことに気づく。そしてしばしばこういう問題について考えるときに、学校教育の中でどうしてこういう問題が扱われていないのかなあと疑問に感じているところだった。労働法のようなものこそ、万人が知っておくべきものだし、知らなければならないもので、これは高等数学や物理などの比ではない。
 ぼくはこれを身につけていないために、たいへん雇用関係について曖昧なままに過ぎてきた。ただ若いときから今日まで、我慢ならないほどの違法な雇用は体験したことがないために、それで無事に済んできたというところがある。会社は家庭的で、人事や総務の担当者たちも、とても人情味のある人たちだったと記憶している。公務員の時にはもちろん、きっちりと労基法に則っていたと感じていた。
 ぼくは現在、あるビルサービス会社の契約社員として雇われているが、その雇用関係ははなはだ怪しいところがある。会社との契約に問題はないが、実際に仕事を管理する事業所サイドのところで実労働時間をへらされるということが起きている。パートや準社員を仕切っているところの所長という役職の人間が、そこのところを管理しているようなのだが、そこがよく理解できない。もちろん、なにがしかの勘案をして、減らされるといってもごく微々たるものだ。それでおおごとにしないで黙認するというわけなのだが、けしてきっちりしているとは言い難い。
 同じ場所に働く清掃員にも、何らかの問題はあると聞く。雇用する会社は別なので詳細は分からないが、やはり労働法に詳しくない班長なる人が個々の被雇用者の運用を仕切っていて、若干不条理な労働形態を取っているようなのだ。個々の清掃員は多少の我慢は強いられているように見える。
 実際に労働する人たちをどのように勤務させるか、つまりその運用の現場では、労働法など理解していないものたちが、やはりそれを知らないものたちを動かしているということになる。多少の理不尽は、日常茶飯にあると言ってよい。こういう事はどこにでもあり、法制度を改めたり、企業や雇用主を指導、教化したところでなくなりはしない。いわば実状は末端で、底辺で、起きている。
 労働法などが、この末端、底辺、下層に浸透するには、やはり公教育のどこかの時点で教えることが現在のところ一番合理的ではないかとぼくは思う。
 ぼくらはもう、ここから労働法を学ぼうという気にはなれない。よほど理不尽な目にあったらしゃにむに学ぼうとするかも知れないが、そうでなければ、諦めるか遠ざかるかして凌ごうとするだろう。
 ここで何が言いたかったかといえば、河北新報などの主催するこうした労働法に関してのセミナーは、たいへん時宜を得たもので、大いに賛成だと言いたかった。ただ、今回のセミナー自体は「若者が違法状態をあきらめない教育を」とあるように、若者に向けた対処的な研究講習会であり、実際にこういった現状下で働くことを余儀なくされている高齢者、女性、下層の人々についての考察がなされなければならないのだとぼくは思う。若者の過酷な雇用状況についてはマスコミを通じて知られるところとなっているが、若者以外にも全国にはまだまだ過酷な条件下で働く人たちがたくさんいるとぼくは思う。そうした人々をも含む、根本的な解決策が今後いっそう拡大したかたちで考察されていかなければならないのではないかと、ぼくは密かに思っているところだ。メディアはそういうところにも切り込み、これを世間に問うていって欲しいものだ。そして思いつきではあるが、今のところはこれを中学の家庭科の教材として、必須のものとして誰もが学ぶような体制づくりに持っていってほしいものだと考える。こんなところでどうだろうか。終わる。
 
 
   平成二十一年六月一日
 
 今日の三面には、いわゆる日米安全保障条約における「核持ち込み」に関して密約のあったことが記事として掲載されている。
 密約とは、核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは「持ち込み」にあたらないと解釈することで、事前協議も必要ないということにすることである。
 従来、歴代の日本政府首脳は、日本へのアメリカの核兵器の持ち込みに関しては事前協議が必要であり、事前協議の申し入れがアメリカから無い限りにおいて、核が日本に持ち込まれたことは一切無いはずだと主張し続けてきた。これは、核を積んだ艦船や飛行機も含んでの、核の持ち込みに関する政府側の一般的な見解であった。
 このことについてはしかし、九十年代末のアメリカ側の公文書公開により、密約はあったということは誰の目にも明らかになった。だが、その後も日本政府は密約の存在を否定し続けてきた。
 具体的な経緯はよく分からないが、今回、四人の外務事務次官経験者が、核持ち込みに関する密約についてその存在を認めたということであった。これは日本側からの見解としては、初めて密約の存在を暴露する主張である。
 これらの内容を簡潔に把握するとともに、
どのように受け取るべきかの参考として、この記事の中ほどに紹介されている、「密約問題に詳しい日米関係史研究者の折原昭治氏の話」を引用しておく。
 
 核持ち込みに関する密約は存在しないと言い続けた政府の答弁が全くの虚言であったことが裏付けられた。複数の元外務事務次官の証言により、政府内における密約の極秘管理の実態や、密約に縛られた安保外交の内実が初めて明るみに出たことは重大だ。非核三原則を口にする唯一の被爆国政府の行為かとあきれ果てる。米核使用戦略上、核持ち込みは核使用戦略の前提行動だ。日本国内における米軍の核作戦行動をひそかに認めてきた政府は「ヒロシマ、ナガサキを繰り返すな」という国民的悲願を踏みにじっている。核密約から半世紀。米国追随でない非核平和の道を真剣に追求すべき時だ。
 
 付け加えれば、この密約は事務次官が厳重管理し、時の次官の裁量で、首相ら政府に知らせたり知らせなかったりしていたものらしい。河北の記事では、我が国の政治が官僚主導であることが強く印象づけられている。
 こういう政治的な手法は、私にはたいへん古くさいものと映る。そしていかに国民を信用していないかということも感じられる。関係する政治家や官僚たちは、きっと隠しておくことが「国家」「国民」のためと自分を納得させていたものに違いない。しかしそこには政治の後進性、小国の政治家たち、という図式が浮かび上がってくるように私には思われる。こんなことで国連の常任理事国入りを懸命に画策しているというから、笑わせる。政治そのものをちゃちな利害の手段と考えている、小国の小人たちと世界から笑われても仕方がないのではないかと思わないではない。
 もう少し丁寧に語るべきであったが時間がない。これで終わる。
 
 
   平成二十一年五月十二日
 
 昨日の午後五時に、突然、民主党代表の小沢一郎が党代表辞任の記者会見を行った。
 各局テレビはこの模様を伝え、昨夜から今朝にかけて騒がしかった。メディアの受け止め方は、しかし比較的冷静なもので、同時に冷ややかであったという印象がある。
 メディア、具体的にはそこに登場するジャーナリスト、コメンテーターたちが意識的無意識的に誘導する言葉に乗って、テレビの街頭アンケートに答える庶民は秘書の政治資金規制法違反の説明が不足であると小沢一郎を批判し続けてきた。メディアと庶民との小沢一郎を批判する図式は、少数派を除き、今回の辞任においても変わることがなかった。
 メディアと無意識の庶民は共同で趨勢を作り出し、今回の辞任劇の背景を形成してきた。そう私は感じとっている。言ってみれば灰色の中で、小沢は「黒」だという思いこみの流れを集めて大河となした。下種な言い方をすれば、小沢は金で政治を行い、場合によっては懐を肥やしているんだろうという、確信に似た疑いの気持ちがそこに表れていたように思われる。要するに、メディアも庶民も、心底ではそうした意味での小沢の「自白」を待ち望んできたに違いないと思う。もちろんそれは、先入見と偏見以外の何ものでもないと私には思える。
 この図式は、他の犯罪においてもしばしば見かけられた光景である。また、かつて、大本営発表の嘘を真に受けて、(あるいは知っていてお先棒を担いだのかも知れないが)新聞、ラジオでその嘘を広め、見聞きした庶民はその嘘で踊った事実が思い返される。今も何一つ変わっていないのかもしれない。
 記者の記事や、各党の政治家、学者、ジャーナリスト、国民世論の言葉が散乱する中で、
私には、小沢の辞任もそのことへの多くのコメントも、まったくどうでもよいことに思えてならなかった。いや、もっと謙虚に、私には何一つ分からないし、政局がどうなろうと関与するところではないと言うべきかもしれない。
 そんな中で、実は一つだけ共感できるコメントを見つけた。それを紹介したくて、それのみでこの文章を書き始めた。河北新報二六面に掲載された「識者はこう見る」という欄の、元東京地検特捜部検事、郷原信郎弁護士の次のようなコメントである。
 
次の首相の有力候補だった野党第一党党首が検察の捜査の影響で辞任することになった。いつ同じようなことが繰り返されるかも知れず、日本の民主主義にとって重大な脅威だ。秘書の件は違法なのか、罰則を適用すべき事案なのか、検察から納得できる説明はない。私は今報道されている事実だけでは逮捕・起訴すべきだと思わないし、検察に見通しの甘さ、やり損ないがあったのだろう。検察の力は政権選択にも影響を及ぼす。社会、経済、政治に大きな影響を与えることを、検察は自覚しなければならない。
 
 マスコミ、そして多くの識者は金権政治を「悪」として格好の餌食とみなしているが、マスコミはそれで視聴率を稼ごうとし、識者はまた己の顔を売ることに必死ではないか。私は意に反して「清貧の思想」を体現することになっているが、これがどれほど愚かしいことになるものかをよく知っている。どんな仕事だって、元が清貧であれば成り立ちにくいことは自明の筈だ。金に頼る政治が本当に悪いのかどうか、私の知ったことではないが、綺麗事ばかりで世の中が動いているとは少しも思わない。
 今回の騒動は、何が悪いことなのかがはっきりしない。ただ検察の秘書逮捕という事実だけが騒ぎを大きくする源になっている。そして物好きな詮索だけが一人歩きをして、憶測が憶測を呼び、それが定着化しようとしている。こんなばかげた騒動があるだろうか。
 個人が犯罪を犯したかどうか、その追求は警察や検察の仕事であろう。法に違反したかどうか、捜査の結果を待って私たちはその事実を受け入れる。しかし、特捜は秘書を逮捕し、その後に何の展開も見せてはいない。そもそもこの逮捕劇は何であったのか。検察は違法献金の授受と収賄、贈賄を見据え、秘書の逮捕に踏み切ったのではなかったのか。誰もがそう思いこみ、現状はしかし肩すかしを食らっている。ことの重大さを鑑みれば、郷原の指摘するように検察こそが一番に説明責任を果たすべき筈だと私には思える。
 肝心なことは郷原が言うように、検察や警察はやる気になれば何度でもこの手の捜査ができ、しかも今回小沢が受けたような痛手のようなものを負わないですむと言うことだ。これは、私たちがターゲットになれば、同じような力がかかることを意味している。そこでは人権の二文字など消失してしまいかねないと私などは感じる。こういう問題に注意を払わないコメントが何と多いことか。
 たとえば同じ欄にある岩井奉信日本大教授のコメント、
 
 秘書が起訴された時点で辞任していれば党内がごたごたせずに済んだのに何を今さらと思う。総選挙に向けて動き出している現場は悲鳴を上げており、限界だった。最終的には世論調査の数字に追い込まれたのだろう。次の代表がスムーズに決まるのかどうかが問題だ。
 
 功利主義的な見解。さらに、「次の代表がスムーズに決まるのかどうかが問題だ」と言うが、岩井はどんな資格や権限があってこんなことをコメントするのか。これを問題視するのは民主党の面々にまかせていればいいではないか。民主党員でも政治家でもない岩井が、高みの見物で「問題」だといったところで何の問題にもならない。また、いったい誰にとってどのように問題なのか。たかが政治屋の事大主義的な興味を丸出しにしているだけだと私には感じられる。何、政治の世界ではいつものことじゃないか。そして自民党にとっても同じ問題は見え隠れしている。なるようになる。そうして今日に至っていることで、今さらこんなことを言っているのは、感覚が料亭政治のように古くさい。こんなことは実際に政治生活をしている人たちに任せていればいいだけの話で、岩井はどうせ言ってみるだけのことしかできないだろう。もちろんこのコメントは岩井の率直な感想で、是も非もない。だがこんなことは頭の中で考えていればいいだけのことだ。聞くに値しないし、もちろん語るにも値しない。
 
 
   平成二十一年三月十四日
 
 ソマリア沖派遣
 
 ソマリア沖の海賊対策の名目で、海上自衛隊の護衛艦が今日の午後に出港するという記事が一面に載っていた。政府はさらに「海賊対処法案」を国会に提出したとされている。既成事実を積み上げながら、少しずつ少しずつ自衛隊の活動領域は広がっている。行き着く先は「ふつうの国」の「ふつうの軍隊」であり、憲法九条の「非戦」条項の削除もそれほど遠い未来にではなく、現実的な議論となることはまず間違いないと思われる。
 ふつうの庶民がふつうに考えても、わざわざソマリア沖まで自衛艦がのこのこ出かけなければならない必然はないように思われる。ソマリア沖近隣の国々に外交によって護衛を頼むほうが手っ取り早いし、合理的だ。湾岸戦争の給油活動以来の、自衛隊海外派遣の一環の流れの上に立った自衛隊活動に外ならない。こういう事があまり大きな国会の論争にもならずに、半ばこっそりと実行に移されていく。世界同時不況、西松建設の献金問題が報道で騒がれている中で、実にひっそりと護衛艦はソマリア沖へ向かうのだ。
 私は暇なときは国会中継を見ているが、近近でも雇用問題や経済対策の議論が横行して、この問題が激しく議論されていたという記憶がない。その点では巧妙に進められたか、政府与党の戦略が功を奏したというべきものかもしれない。旧社会党系も在籍する民主党は、この点ではあまり大きな抵抗をなさなかったように思える。大きな障壁ではあり得なかった。以前、村山富市が自衛隊を合法と認めた流れで、自衛隊の海外活動も公然と考える素地は出来上がっているのかも知れない。この、自衛隊の問題では、自民と民主には大きな違いが感じられない。違いは民主の小沢一郎が言う、国連傘下の活動かどうかという点だけだ。共産党や社民党だけが全面的に反対しているのかも知れないが、蚊帳の外みたいに問題にされていない。おそらく新聞、テレビの各メディアも自民と民主の主張にしか耳を傾けてはいないのだ。本当に憲法にうたう「非戦」を貫くべきとは思っていないのかも知れない。だからこの手の主張を大きく取り上げて国民世論を掘り起こそうともしていないように見える。国会で憲法改正論議が起きるようになってからでは遅い。その頃にはすでに流れを左右する既成事実がいくつも積み上げられているに違いないと思うからだ。
 
 
 追加経済対策
 
 河北の二面で、麻生太郎首相が追加の経済対策の検討を指示したという記事が見られる。国民の人気がない、与党内からも見放されているなど言われながら、なかなかどうして、政権にしがみつく根性だけはたいしたものだと言わなければならない。その中で、
 
 雇用面も考慮し公共事業を大幅に増やす方向で、空港、高速道路整備の他、新幹線や羽田空港再拡張の計画前倒しを検討。政策減税や株価対策に加え、地球温暖化対策を景気浮揚に結び付ける日本版「グリーン・ニューディール」構想として太陽光発電導入推進策も盛り込まれる見通しだ。
 
と、こんな記事がある。
 早い話が、経済政策でポイントを上げれば自分の使命は認められるだろうと思っているのだと思える。だが、こんな政策なら誰もが考えつく政策を羅列しているに過ぎず、要するに世界の現実、日本の現実を正しくとらえて未来にどんな社会を創造するか、のビジョンは見えてこないと言うべきである。それはオバマ大統領の「チェンジ」の意味と、それに熱狂したアメリカ国民の心情に理解が届いていないことと同じだと思える。別の言い方をすれば、志の低い政治家であり、総理大臣だと言うことだ。多少、経済を回復することは出来ても、得意の外交を含めてもたいした成果は出来ないという気がする。
 
 
 宮城県の中期財政見通し
 
 県は十三日「二〇一一年度にも自治体財政健全化法に基づく財政再生団体に転落する可能性がある」とする中期(〇九―一三年度)
財政見通しを県議会総務企画常任委員会に示した。「転落のシナリオ」に議員からは、県の財政運営を指弾する声が相次いだ。
 
 こういう記事が十四面「みやぎ総合」欄に見られた。
 地方自治体の多くは財政に苦しんできたから、また宮城県もしばしば財政難を伝えられていたから今さら驚くには値しないが、私などは、ああやっぱりな、と思った。二年ほど前だったろうか、村井知事は「富県戦略」を掲げ、企業誘致や地産のPRを強力に推し進めてきた。一方で予算や事業の緊縮等には、話題になるほどの取り組みはなされてこなかった印象がある。ありふれたふつうの県民の一人でありながら、不安は感じていたものだ。もちろん財政の問題は村井知事になって始まったことではなく、前任者の浅野史郎のころからも不安視されていることではあった。それにも拘わらずこういう事態を迎えたということは、この課題に対して村井知事はなんの成果も上げられなかったということなのだろう。これは当たり前の言葉で言えば、無策だということになる。べつに村井知事一人が悪いというわけではない。行政担当、議会も同罪なのではあるまいか。
 宮城の行政を見ていても、国に依存しないでやっていける地方自治体は皆無だろうと思っていた。国のやることの真似や、過去にあったことの事業やサービスの焼き直しに過ぎないと思えていた。特にどの自治体においても独自の未来に向かってのビジョンがない。これは国のリーダーに、大きなビジョン、哲学が無いせいでもある。上辺の政策はいくらでも打ち出すが、全てが切り貼りのようなもので一、二年で見直しや改正が必要になる。社会の組織やシステムに振り回されて、中身の芯にあるべき人間性への配慮のない施策だから、いくら政策を積み重ねてもうまくいくはずがない。世界観が欠けている。世界の、そして日本や自分の周囲の現実を貫いて理解する仕方が出来ていないか、あるいは誤ってとらえている。もう少し丁寧に言えば、そういう現実を正しくとらえようとする努力に欠けている。専門化が進み、その場についての理解は深いのだが、それ以外の場や世界についてあまりにも無知だということが自覚できていない。おそらくは自分たちがただの人間であるという原点への配慮が欠けているのだ。
 時間が来た。今日はここまで。
 
 
   平成二十一年三月九日
 
 このところ、西松建設の巨額献金事件の問題が報道関係で大きく取り上げられている。今日の河北の一面でも、公設秘書の逮捕を受けた民主党代表の小沢一郎の会見での説明をめぐり、共同通信社の世論調査結果が報告されていた。それによれば、国民の多くは小沢一郎の説明に納得がいかないとか、民主党代表を辞任すべきだという回答を寄せたことになっている。
 私の個人的見解では、過日の小沢一郎の記者会見の様子を偶然テレビで見ていたところから、率直な物言いをしていると思え、実際のその発言をそのままに受け止めたに過ぎない。一つは法に照らしてやましいことは何もないという発言。もうひとつは操作方法が公正さを欠いているのではないかと発言した点。この二つが心にとまった。そして、この種の、個人の外側からやって来る不意の事故や事件性に見舞われた場合、妥当な反応の仕方としては誰にとってもこういうものではないかと小沢の会見の内容を認めたいように思った。つまり、私はその時の会見になんの違和感も感じることがなかったのだ。
 もちろんそれだけでは小沢サイドの正当性が保証されるわけではなく、当然のように捜査当局の側の見解を待って判断しなければならない問題だ。だが、この時点で当局が会見によって見解を公表するわけはなく、そうである以上小沢一郎側からも、それ以上に踏み込んだ説明ができるはずもない。
 それからのテレビをはじめとする報道は、
「ああでもない、こうでもない」の推量ばかりが溢れかえり、私はあきれかえり、同時にささやかな恐怖をも感じてきた。この国ではもはや、沈黙という語は死語になり、意味のない冗舌が支配している。はっきりと事件の推移を見守り、真実を見極めようとする常識さえ通用しなくなりつつある。そんなふうにさえ感じた。
 そもそも、田中角栄や金丸信といった金権政治家の代名詞のように言われる政治家の、過去の事件や逮捕劇を身近にいてつぶさに見知っている小沢が、今回のような容疑に本当に関知するところであったとしたらあまりにお粗末である。そういうところから考えても、最低限法、に触れない政道を歩んできているはずだと考えるのが普通ではないかと思う。となると、容疑には何かの誤解とか、作為とがなければならないと思う。そのことはしかし、私などが立ち入るべきところではない。
 この種の問題は、容疑が事実かどうかというのが第一義の問題であると私は思う。これには今後の捜査、検察の追求の経過と結果を待たなければならない。報道のように、「もしも」という仮定であれこれ問題を論じてみても、そのほとんどは井戸端会議と何ら変わるところはない。無責任で意味のない炉辺の話である。その話題性に乗じて、代表の辞任の問題や支持政党の問題としてアンケートを採ることにどんな意義があるのかと私は疑問に思う。
 私はこの件で、いったい自分が容疑者になったり嫌疑をかけられたらどうなるのだろうかと、秘書や小沢の立場に自分をなぞらえて考え、ジャーナリズムや世間の「思いこみ」がなす「暴力」にしたたかに打ちのめされることになるのかもと想像して恐ろしさを感じた。容疑は容疑で、まだ犯罪は確定していないのにと呟いても無駄である。私は無罪だと叫んでも、誰も取り合ってくれないことがあり得るかも知れない。
 誰かひとりでもこの種の問題に対し、軽々に論じたり、噂や信憑性のない話をまき散らしたりせず、捜査の推移や法の判断を見守って待つべきだと諭す人はいないのだろうか。
 私は民主党の支持者でもなければ小沢その人を支持しているわけでもない。ただ、民主党の内部からも選挙に悪影響があるから代表を辞任すべきという声が出てきたりして、私なりに「そういう問題ではないだろう!」と腹立たしくなった。人間の行為が、罪であるか罪にならないかを問われている。人間の尊厳の問題でもある。私はこのことを人権の問題として考え、政治よりも重く大きなものとして考えている。私にはどの政党も、今回の事件を基本的な人権の問題を意に介すことなく、「金と政治」の問題に帰結させて考えていることが不思議である。容疑をかけられている側のものが容疑を否定し、容疑を晴らそうとまずはしているのである。その権利はあり、その権利の行使を社会は認めなければならない。それが民主的な社会の最低限のルールであろう。それを誰もが守ろうとし、守られようとしているだろうか。
 私が民主党員なら、口を閉ざしてただ推移を見守るだろう。また代表の小沢に信をおく側近か同行のものであるならば、密かに無罪であることを願うことだろう。もちろん自分なりに事件を調査し、捜査当局の誤解を解く努力をするかも知れない。また、人権という見地から、あらゆる非難中傷めいた攻撃から容疑者たちを守ろうとするかも知れない。そういうことを考えずに、すぐに政争の具にしたり、世間体やあらぬ風評を気にかけるものを私は信じることができないのだ。そういう連中は国民のひとりである私の人権も守れるわけがないし、おそらくは守ろうとする気持なども皆無に違いないのだろうと思う。それは世間一般の人にも、報道の現場に生きる人にも、今回の事件を介して同様に感じざるを得ない。
 養老孟司なら、「この国に人権はない」と言ってすますところだ。だが私はもう少し人権について成熟した社会を夢想する。少しずつでいい、本当の意味での「個」を大切にする社会、尊重する社会、それを本気で考えるようになってもらいたい。
 ついでにいえば、河北新報でも今回の問題を「巨額献金問題」と報じているが、たかだか年に二千万円程度で「巨額」と呼ぶのはどうかと思う。この程度のものは、党代表の政治活動費としてあっさりと消えてしまう程度のものではないのか。なんに使うのかと詮索しようにも私などにはできないが、自分の政治理念の実現に向けてさまざまな場面でお金を要するものなのだと思う。ついこの間、アメリカのオバマとクリントンとの争いでも、献金の額が報道されていたけれども、とてもこんな比ではなかったと思う。アメリカはそれを日本よりも多く個人に募り、個人がまたそれに応えると言えるだろうか。庶民感覚に照らして巨額と呼べば、庶民はそれを巨額と思うかもしれないが、その額をもって政治家の魂を売り渡すほどの額とは私には到底思えないのだ。まして、個人的に懐に入れて貯金しているというわけでもあるまい。
 素人が多くを語るとぼろが出るだけだ。今日はこの辺までにしておきたい。
 
 
   平成二十一年一月二十六日
 
 二面の『あすを読む』欄に、立教大大学院教授であり哲学者の内山節が寄稿している。読んで、少し気にかかるところがあり、それを少し考えてみたい。
 二〇〇九年はどういう時代になるのでしょうか?そういう河北新報編集者からの問いと、原稿依頼とがあったものか、内山はこの小欄に収まるように端的に、また率直に、そして分かりやすく考えを述べている。
 内山は、「昨年の世界的な経済危機の露呈以降」、経済、社会、政治の劣化が同時進行的に展開していることに気づいたという。劣化ということの具体的な現象として、内山は例えば、「働く人たちの三分の一が、派遣などの非正規雇用になっていて、その人たちが不要品のように切り捨てられていく」ことや、「未来の希望を失った人々がふえ、さまざまな退廃的な事件が起きつづけ」ている現状を指摘している。そして一九二九年から始まった世界恐慌の頃と現在の経済社会状況等を比較し、明らかに今日の社会状況の方が深刻な危機を内包していると見ている。
 内山がここで主として指摘しているところは、個人や家を取り巻くものの間にあった関係、結びつきの、以前に比較しての希薄化である。例えば親和的であった「親戚」付き合い、困ったときに助け合う地域の結びつき、そうしたものがかつては社会の中に緩衝材のように存在し、さまざまな危機や困難を乗り越えることに寄与した。しかし今日では、
 
 それらがすべて脆弱なものになってしまった。私たちはバラバラになった個人である。だから危機に立たされても自分で解決するしかなく、解決の道が閉ざされれば絶望するしかない。
 
 内山のこのような指摘は、私には実感として重く受け止めることができるように思える。まさしく私たちの今日的な世界は、個人的であり、しかもバラバラに関係から断ち切られた個人と言う以外にはないように思える。こんな危うい個人が、社会、経済、政治の劣化に直面し、果たしてこの今日的な危機をどう乗り越えていけるものなのか。
 
 私は内山の指摘になる程と思うと同時に、一つの疑問が起きるのを止めることができない。それは、内山が「劣化」と言うからには、その対象とされている経済、社会、政治においてかつては健全であった時期があったのか、という疑問である。もっと率直に言えば、昔の経済、社会、政治はよかったと内山は考えているのかという疑問である。もちろん、内山はそう考えているから「劣化」という言葉を使ったに違いないのだが、「劣化」と言われて何となく実態を表しているように思いなしながら、もう一つのところで私には腑に落ちない気分が残る。
 要するに私には、内山が「劣化」と呼んでいるところのものは、政治、経済、社会のシステムの「機能不全」と読み替えても同じことではないのかと思うのだ。社会や世界の変化の流れに、それぞれの領域に関係するシステムがついて行っていない、また新しい事態に対応できていない、そういうことではないのかと思う。そしてこの、「変化速度」の加速性というものが、どこから来るのかが私には疑問として残ってしまう。
 内山は、「劣化」を食い止めることとして、社会の場合についてのある一つの提言を行っている。
 
 連帯しながら生きて行くという言葉の意味を取り戻さないと、危機は深まるばかりになるだろう。とすると何と連帯することが必要なのか。
 まず創造しなければいけないのは、人と人とが連帯できる仕組みである。それを作るには労働と労働の連帯とは何かも考えなければいけないだろう。働く人が連帯するとはどうすることなのかを、である。地域における連帯のあり方、NPOや市民活動を介しての連帯、友人間の連帯、そして忘れてはならないのは農民や生産者たちとの連帯や、危機に立たされていく世界の人々との連帯、さらには自然との連帯。
 今日の社会の劣化をくい止めることができるものは、そんなところにあるような気が私にはする。どこまで深く、私たちは連帯という言葉の意味を取り戻すことができるのか。そしてそれができなければ、経済の劣化や政治の劣化にふり回されながら、劣化する社会の中で怯えていくことになる。
 
 内山が言っていることは、今日的な社会システム、社会状況の中で、機能不全を是正するために、昔ながらの村落共同体の関係を構築しろと言っているに等しいのではないだろうか。もちろんそんなことはあり得べくもないと私は思っている。
 夏目漱石やマックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく、文明の進展と高度化は、個人をして否応なくバラバラの個人、悩める孤独者にしていくもので、内山が言うように「危機に立たされても自分で解決するしかなく、解決の道が閉ざされれば絶望するしかない」存在へと化していく。これがいやならば文明を否定して原始に帰るほか道はない。私はそれは不可能だろうと考えている。となれば、バラバラの極限に向かっていくより仕方がない。そう思っている。おそらくそれは私たちのうちにある知性、あるいは器官としての脳の要求でもあるに違いないと思う。
 私は内山の言いたことはよく分かるように思うし、その願うところも理解しないではない。だが、「連帯」について、どれほどの自信と「信」とを持ってそれを構築せよと書いているのか、黙って見過ごせない疑義を感じている。不足し、欠如しているところは確かに内山の言うところのものなのであろう。だが内山があっけらかんと提言しているようなことなど、容易に実現などするものではないと私などは判断するところだ。
 確かに、内山の言おうとするところのものは、一部、地域再生の試みのようなものとしてすでに取り組まれている問題でもあろうかと思う。そして労働組合や他の諸団体を含め、似たような問題意識から指摘されることに近い試みもたくさん行われている気がする。それらは時にうまくいき、時にうまくいかないなどの試行錯誤を繰り返すだろう。だからあってもいいことだし、現にあるものだとも言える。少し意地悪な言い方をすれば、内山の言うことは現在取り組みが為されていることになぞらえて、少しばかり違った表現の仕方をしているに過ぎないとも言える。そしてそれらは効果があったりなかったりするだろう。だが、本当はそれでもまだ危機は去らないと言うべきだ。もっと言えば、内山の言う危機は、危機とも言えない常態と化すと私などは考えている。なぜならば、私自身が長い間連帯を希求し、探し求めて得られず、一掃孤独を深めて歩いてこざるを得ない経歴を持っているからだ。そんな私は、日々内山の言うところの「危機に立たされても自分で解決するしかなく、解決の道が閉ざされれば絶望するしかない」その道のほとりを、ほんのわずかの人々に支えられて生きていると言っていい。
私には、内山の言う連帯がどんなシステムを作り上げようと、そう簡単に手に入るものだとはどうしても思えないのだ。
 内山の言い方に倣えば、私は連帯を求めて孤立を恐れず、という道を歩いてきたと思っている。そしてそれは自立の道だと思うからである。今は喪失した村落共同体の連帯は、私や内山の世代にとってはある意味で不自由の代名詞でもあったはずだ。今流行の若者言葉で言えば、「うざい」というやつだ。それがいやだと言って私たちは関係から逃れてきたはずだ。内山は、今日の地域社会で「うざさ」を抜いたスマートな連帯がどうすれば可能になるかを言ってみればいい。そこに内在する矛盾をどう取り払って新しい社会における人間関係を創造できるというのか。それがなければ単に昔に帰れと言っているに過ぎないし、昔に帰ればやはり矛盾に突き当たるし新たな危機が生まれることもまた自明のことだ。孤独は癒されても束縛が待っているというように。
 内山は格好良く、誰でも「ああ」と思えるような認識を示し、提案もしている。しかし、こんなことを何遍言っても無駄なことは分かり切っていることだ。また、こんな簡単に答えや提言などが導き出せる程、現在の世界や日本の社会の状況は単純なものではないぜと私などは思う。とりあえず、今言っておきたいことはこれくらいのところだ。
 
 
   平成二十一年一月二十日
 
 三面「総合」に『ニュース裏表』という欄があり、核廃絶論議が世界で活発化していることが紹介されている。
 昨年の暮れから、毎日のように世界の経済不況、派遣切りなど話題になり、その他にも注目すべき報道は山程あって、その度にうんざりしてかえってコメントする気にもならなかった。またそれとは別に考えることがあって、「今日の河北新報」にまで手が回らなかった。もちろん言いたいことが何もないわけではなく、出来ればあれにもこれにもと触れたい記事はたくさんあった。ただすべてを書こうとすればきりがないし、すべてに付き合わなければならない義理もない。
 いい加減、河北新報に付き合うのもそろそろ終わりにしようかと思っているこの頃である。この程度の記事など読んでも読まなくても、どうって事もない。毒にもならなければ薬にもならない。単なる売らんかの商業新聞だ。記者は生活のために書いている。もちろんぼくのコメントもそれに見合ったお遊びにしか過ぎない。いつこれをやめたってぼくの勝手だ。
 
 二十日のオバマ米新政権誕生を控え、核兵器の廃絶をめぐる論議が世界で活発化している。米国のキッシンジャー元国務長官ら「冷戦の闘士」による「核なき世界」の提唱に、欧州などの政治家が呼応し、究極目標として核廃絶に賛同するオバマ氏の登場が、この潮流に拍車を掛けた。かつて理想論ともいわれた核廃絶の議論を、核拡散や核テロを危惧する現実主義者が主導。北朝鮮の核問題を念頭に「核の傘」にしがみつく日本政府からは戸惑いの声も漏れる。
 
 先のようなことを思っている矢先に、この記事を読んで「おや?」と思った。この記事は、現在、核廃絶の議論を外国の現実主義者が主導して提唱し、日本政府は逆に廃絶に関して沈黙の姿勢を取っていることを伝えていて、日本はこの問題からも世界の埒外におかれているのではないかと疑念をもった。
 記事は、二年前、キッシンジャー、シュルツらが@冷戦時代の核攻撃態勢の解除A全核保有国の大幅な核削減、など具体的な措置を提言して世界を驚かせたと記している。また、「廃絶は段階的にのみ可能」とする現実的なアプローチが盛り込まれているともいい、それが欧州の多数の政治家の賛同を得、ゴルバチョフ元ソ連大統領らを発起人とする世界的運動と連携して大きな潮流となっているというのだ。さらに、オバマ米次期大統領も、米核政策の中心的要素として、世界的な核廃絶という目標を位置づけることを明言しているという。これら最近の核廃絶論議の流れを見る限り、日本という国は全くの埒外におかれているという印象を受けた。誰も、あるいはアメリカもヨーロッパも、日本の存在を意に介さないで核の論議を進めている。日本の存在は無に等しい。誰も、あるいはどの国も、世界で唯一の被爆国である日本をまるっきり問題にしようともしない。
 戦後、日本はいち早く核被爆の悲惨さを世界に訴え、核廃絶を世界に求めてきたのではなかったか。どうしてその国が現実的に核廃絶の論議が世界的規模で行われようとしているときに、蚊帳の外に甘んじねばならないのか。もちろん、アメリカの「核の傘」を必要とし、核廃絶論議に逆行するがごとき態勢を取ってきたからに他ならない。これが日本の外交姿勢を象徴していると見れば、全く情けないということの一語に尽きる。「理想論では通じない」、「世界に受け入れられる主張を」、などと戸惑い、口ごもっている間に、
最も世界の先端にいるはずだった世界平和の提唱国としての資格をさえ抛ってきて、現在のこの体たらくである。
 少し前、日本の政治家、政府閣僚は、北朝鮮の核の問題を深刻にとらえて、もしも核を打ち込まれたらなどと国会の論議の中でも盛んにその脅威を煽っていた。しかし、本当はどの国も自国の滅亡を覚悟しない限り、易々と核を行使することが出来ないことは自明のことだ。北朝鮮だって、日本に一発ぶち込めば、倍以上に報復を受けて国家が壊滅するくらいのことは分かり切っているに違いない。
核の行使が不可能であり、持つこと自体が意味も意義もやがてなくなるものだということを、本当は日本は丁寧に説得できる論理を開発すべきであったはずだ。それも今や欧米の提唱に追随するほかなくなろうとしている。おそらく、同じ事は日本国憲法の戦争放棄の理念にも共通した問題があるはずである。戦後六十年を経て、世界の当たり前の国として振る舞うために、当たり前の憲法に変えようとする動きが活発化してきた。一巡して、世界が理想に向かって現実的な道を探ろうとするときに、日本は理想からおり、その意味での後進国に引き下がろうとする。全くダメな国だという他はない。
 各国を説き伏せて、核廃絶に持ち込む運動を世界的な規模で進めなければならなかったのは日本だし、世界中の憲法に戦争放棄の条項を盛り込ませなければならなかったのも日本であったはずだ。それが、「核の傘」の下に身を縮こめ、こっそりと世界でも有数の軍備を拡張し、大国まがいのことをやりたがろうとするから、かえって世界から尊敬も信頼も置かれない。そういうことになってしまっているのだと思う。
 記事からうかがう限り、世界の政治指導者、知識者は、はるかに世界の動向や情勢などに鋭敏で、敏感に反応できているという気がする。どこで、どういうように、どんな動きをすればいいのかが動物的な嗅覚でもって察知できているのではないか。それは世界知のまっただ中に身を置いて考えるという習慣に、馴染んでいるからのようにうかがえる。
 ここ最近の核廃絶論議の底流に流れているのは、テロ組織に核が利用される脅威だと思われる。これがしだいに現実味をおびてきて、仮想敵国の抑止力どころではなくなった。
 いずれにせよ、使用不可能な最終兵器。莫大な維持管理の負担。核はどこから見ても今や厄介なお荷物なのである。核抑止論者を説得するために、代替案の創出に難儀している間に、現実はそれを越える段階にさしかかろうとしている。そういう情勢の変化に、果たして日本の外交はついて行けるのだろうか。
 アメリカの金融危機に端を発した世界同時不況は、よい意味でも悪い意味でも世界のグローバル化の実際を感じさせた。核廃絶の火種が燃え上がれば、一気に世界を駆けめぐることも可能かもしれない。唯一の被爆国の国民のひとりとしては、犠牲者のことも考え合わせ、今からでも遅くはないから核廃絶の戦陣に仲間入りすべく、世界に通ずる、これまでの人道主義とは異なった観点からの現実的理想論を日本は世界に向けて発信すべきだと思う。いや、そうして欲しいものだと期待したい。
 
 
   平成二十一年一月九日
 
 千葉で引きこもりの少年が、父親を刺殺したという事件の記事が社会面に見える。すでに昨日からテレビでは報道されて知っていた。「引きこもり」、「父親刺殺」。引きこもりが社会問題として取り上げられる典型のような事件だ。
 父親が刺殺されたのは昨日、八日のことだから、事件の詳細はまだ調査中ということになろうかと思う。今日の記事では二つのことが分かって、それがまた関心が寄せられるところであった。一つは、引きこもりはじめたのは数ヶ月という供述であり、もう一つは引きこもりの現状を打開したくて犯行に及んだという供述である。特に後者の供述については、痛ましいという思いと同時に、大変分かりやすい素直な述懐だという気がした。
 現状を打開したい。それがどんなにか少年にとって切実な願いであり、さらにそれがどんなに困難な事態であるかは最悪の結末から推測できる。言い方を変えれば、少年にとって引きこもりは、自分の人生を喪失することに匹敵すると考えられていたに違いない。だから「打開」したいと考えたのだ。また言い方を変えれば、なぜ少年がそう考えたかについては、社会全般の見方、考え方がそうだからに他ならない。言ってみれば社会の総体が「引きこもり」をそういう場所として位置づけている、その度合いに応じて少年は自分が陥った引きこもり状態を禁忌していたと言える。
 引きこもることは、ある意味で集中する度合いを高めることであると思う。余計なものを引きはがし、あることだけに向き合うという、結果的には純粋状態に入ることである。
これには自ら進んで籠もる意味合いと、追われてとか押し込められて籠もるといった二つの異なる意味合いとがあるように思われる。そしておそらくは二つの意味合いは共時的に個人の内面に起きているのではないかと思う。さて、煩雑なものを削ぎ落とすように引きこもって、いったいそこに何があるのか。おそらく何もないのだろうと思う。
 
 自分の履歴の中に、少年の心的な状態に近い体験を探ってみると、少年と同じ十七歳くらいの時の孤独を思い起こす。
 その頃は八方ふさがりのような感じで、肉親にも同級生たちにも心を開かない状況に入り込んでいた。理由なく学校を休んだ。名の知れた山に登り、密かに遭難するのもいいと思うこともあった。自分でも理由はよく分からない。ただ少年と同じように、何かを「打開」したい思いが急であった。最終的には、姿を消したい思いが家出となって実行された。
 誰も救済してくれなかった。誰にも救済を求めようとはしなかった。ただ現実とか自分とかに不満ばかりがあった。
 どうして心的なそういう状態に陥ったのか。またどのようにしてその心的な状態から脱することが出来たのか。それにはこうだという理由が見当たらない。
 大学に進学して、実家を、故郷を、離れたことでとてもすっきりと自由な気分になれ、心的な状態としての引きこもりからは訣別できた気がする。一時期は反動のように大変ポジティブに、社交的な付き合いをしていた時期さえある。
 在学中に、もう一度引きこもりに近い状態に陥ったことがある。休学し、留年してからの一、二年だが、生きることになんの意味も価値も喪失して、ただひたすら学校に足を運ぶことを目的として日々を暮らす毎日だった。その他になんの目標も目的もなかった。もちろん大学に通うことがいいことだとも必要なことだとも思えなかったのだが、ただ不毛と徒労に過ぎない事であっても、いやそれだからこそ通うべきなのだと自らに言い聞かせていた。それらの日々は、終始自分と向き合う状態で、ある時は電車の吊革につかまり、ある時は階段を上り下りし、ある時は授業を聞いているということであった。
 この状態から解放されたのは卒業であり、その後の就職という生活の局面の変化であった。つまり自らの意志や意識だけでは何の打開も出来なかったということになると思う。
 
 正直に言えばそういう過程で自殺ということもたくさん考えた。だから千葉のこの少年の場合も、「打開」ということから言うと自殺という選択肢も考えの中にはあったに違いないと思う。だが、自殺を考えるということと、実際に自殺を実行するということの間には千里の径庭がある。そして少年の為した父親の刺殺ということにも、考えることから実行までには飛び越さなければならない高い壁があったはずなのである。
 
 事件の報道に触れて第一に感じたことは、少年が可哀想という思いだった。ぼくの考え方からすれば、父親がぼくで少年が自分の子どもであったならば、『お前を人殺しの立場に立たせてしまって申し訳ない。ごめんな』と子どもに謝るほかないと思う。何となれば、どうしたって親は子どもを守らなければならないものだし、当然犯罪者になることから子どもを守ることも親の責任に違いないと思うからだ。自らが手をかけて父親を失い、この先少年を待っていることの試練の大きさを考えると言葉を失う。ひとりの父親として、仮に自分の息子が自分を殺すことになったら、親を殺すまでに自分を追いつめた息子を救済できなかった責を自分に求めるほかないことだとぼくは思う。そして彼の父もまた別の世から、子どもが悪いのではないと訴えるに違いないと思っている。
 
 
   平成二十年十二月十一日
 
 「たばこ増税難航」のこと
 
 第一面の消費税論議に関する記事の中に、たばこ増税問題がまとまらなかった旨の報告がある。個人的に、ほっとした。もともと社会保障費の財源に、たばこを増税してそれを充てようとする考えがおかしい。まとまらなくて当然であるし、まとまらなくてよかった。たばこ税のようなものから社会保障費を捻出しようとする考えは、苦肉の策とはいえ、あまりにも芸がなく愚かしい。と、そんな政策を問題にしたいのではなく、とにかくたばこの値段が当分上がらないだろうことが嬉しいと、そのことを書きたかった。
 家では妻にさんざんたばこをやめるよう、勧告を受け続けている。それだけでストレスになる。一日に二箱、それだけで六百円を消費する。一個千円にでもなったりしたら、やはり我が家の家計では止めざるを得ないかもしれない。一本を三、四回に分けて吸えばよいかなど、密かに考えもした。たばこが害になることは分かっている。だが喫煙歴四十年にもなろうとする自分には、たばこを喫煙するそれ自体がもはや空気であり、心和む田畑や山々の光景であり、切り離せない習慣なのである。生活習慣病と呼ばれようが、なんであろうが、私は自分の考えも行動も、納得しなければ変える気はない。それが万一法に触れるというのであれば、法の裁きを甘んじて受けることも辞さないと考えている。法がどうであろうと、私は私だ。私に命令を下せるのは法などではなく、私自身以外にはない。私が私になすべきことを命じて、それが法に触れるならば、それは受けて立つ。それだけのことである。法の方が大きいのではない。人間の方が、そして「私」というもののほうが、法の以前にあるものなのだ。だから、個人はいつでも法を越えて行動できるものだという認識を持っていなければならないと私は思う。いざとなったら、それくらいのことは平気でなし得ると、私たちはどこかで考えておいたほうがよいのではないだろうか。
 
 山村再生法の提言について
 
 四面の【総合】欄では、『地方復活への提言』として、長野大教授「大野晃」氏の「山村再生法創設を」と題する小論が掲載されている。著者紹介の記事によれば、大野さんは「限界集落」の概念を提唱した人であるらしい。とすると、限界集落と地域再生のスペシャリストということになるのだろう。
 
 森林環境保全交付金制度の創設、山村の原風景の再生、伝統芸能の復活、「山の駅」の設置等の総合的な内容をもつ「森林・山村再生法」を早期に創設し、人間と自然がともに豊かになるような地域社会を創造していくこと、これが明日の日本を展望する道である。
 地方の病弊は「山」とむらむらの荒廃から起こった。地方の再生は森林と山村の豊かさの復活から始まる。
 
 大野さんの主張するところを要約していると思われる末尾の部分を引用してみた。
 私は大野さんが言う、農山漁村の過疎化と文化や原風景の喪失、自然環境の貧困化など、実際に目で見てきて、また近くに生活してきてよく理解できるように思う。荒廃と、希望の無さばかりがそこでは感じられた。だから大野さんたちが、山村などを再生させたいと願う気持ちも分からないではない。
 私が理解したところから大野さんの主張を簡単に言うと、交付金をもって森林を整備し、限界集落対策として多目的総合施設、「山の駅」を作れと提言しているということになる。
 この問題は、私の生まれた故郷、生家や地域の直接的な問題でもある。しかし、私はこの問題に関して、すんなりと大野さんの提言に首肯出来ない、曖昧な気分が残ることを感じている。それはたぶん、昔のようにあるいはそれ以上に地域が活況を取り戻したとして、そこに自分が住もうとするだろうかということにかかっている。自分が住もうという程の魅力を感じない地域社会が、いかに再生しようとも、作られた活況が長続きするはずがないと私は思ってしまう。
 大野さんは、神楽などの伝統芸能、伝統文化の喪失についても大いに憂いを感じているようだ。そうした伝統芸能、農山村の原風景の喪失は、日本人の感性の喪失に結びつけられ、現代人の社会病理の表出にも影響していることもいわれている。だが私にいわせれば、これらを喪失してきたのは他でもない、地域社会自身が自ら捨ててきたという印象を私は持っている。だから私にすれば、「喪失」の流れは、行くところまで行くしか止まりようがないのかもしれないと思う。
 しばらく前、私がまだ小学校の教員で僻地の分校にいたころ、その分校が閉鎖になった。私はその分校の主任として住民と保護者とを説得する側に立っていた。教育委員会と地域の人々との間に立って、短期間でなすべきことを夢中でなしたという気がするが、辺境の地域の意味、分校の意味は、今も未消化のまま私の内部に重たく保留されている。数年後その地区は、近くの自衛隊演習場の関連で土地を国に買い取られ、山間のその地から麓の町場に降りて住むようになった。私は山間に住んでいたその地域の人々に接していたころ、妙に懐かしく、魂のふるさとでもいいたいような雰囲気が、その人々の間に通っていたことを忘れられない。その人たちが山を下りた。
哀惜の念がいくほどか、私には痛いくらいに分かる。いや、分かる、と私は思っている。それでも山を下りたのである。この経緯から考えても、よく第三者が地域の再生とかなんとかをいうけれども、私にはそこのところがよく分からないのだ。そして再生するも良し、しないもよしと、何だか曖昧な態度になってしまう。ある意味では救済にもなり、また別の意味ではよりどころを失わせることにもなり得よう。大野さんの提言を受け止めるには、私にはもう少し時間が必要なようである。
 
 社説(雇用問題)について
 
 今日の社説はソニーの大量人員削減の報道を受けて書かれている。すでに、自動車業界、電機業界をはじめ、大手、あるいは中堅の企業までもが従業員削減を雪崩を打ったように発表してきている。そこで今日の社説は、『このような多くの人的犠牲を払うのだから、各企業は再び経営を成長路線に乗せる責任があろう』と結んでいる。
 要するに、ソニーの人員削減はやむを得ないとする判断が語られている。
 世界経済の現状を考えれば、誰もが雇用の縮小が進むのは仕方がないと考えているに違いない。私などのようなぼんくらな生活者も、しょうがないんだろうなということくらいにしか受け止めることが出来ない。ただ内心ではもう少し、経営陣の退職金を減らすとか、株主への配当を減らすとかして、相応の企業努力がなされないものかと思ったりしている。国といい、企業といい、組織体というものは、いざ事が起こると、真っ先に影響を受けるのは体を使って働く人々である。私自身もそういった一人だから、これは面白くないなあと思う。
 グローバル化だ、豊かさだ、発達だなどと称しながら、金融危機から実体経済まで混乱の坩堝と化し、動物や植物をはじめ人間以外の生き物は「あいつら何を騒いでいるのだ」と冷ややかに笑っているだろう。
 生命の発達史からいえば我々の祖先とも言えるそれらに、私は学ぼうかと思う。植物のように、心は平常心を保ちながら現実に感応させ、あるいは動物のように、腹の足しになるものを探し回らなければならない。とりあえず、それだけを行えば笑われることはないかもしれない。それは命あるもの努めであろう。リストラされたら次の働き場を探す。条件が悪くなるのは経済不況のせいだと思えば、いくぶん気も楽になる。それで生活が成り立たなければ、バイトやパートといった形で補っていけばいい。社会とか経営者とかの善意などあてに出来ないことはしこたま身に染みて味わってきている。このうえ失うものなど何もないさ。はじめから危機は我が住処。危機なしに生きられる方がこの世界では異質のことなのだ。
 人間が作り、人間が生活するこの世界や社会がこんなんでは、人間たちの作為をすべて否定したくなってしまう。少なくとも我々を苦しめる元凶となる人為が、すっぽりと消滅することを欲する。それは無学であり無知である私の言葉に過ぎないとしても、人間社会の課題として誰もこれを否定することは出来ないに違いない。
 話題が散漫になってきた。本当は雇用問題に私見を述べてみたかったのだが、時間も過ぎ、これで終わる。
 
 
   平成二十年十一月二十日
 
 不穏な気配
 
 河北新報は、少し前から『東北の叫び【暮らし崩壊】』といったタイトルのコラムを連載している。「農業」や「ものづくり」といった分野に特定せずに、いろいろな分野のいろいろな角度から、東北のいわゆる深刻な不況下の生活者の生の声、生の姿を拾い上げてその実態を浮かび上がらせようとしているかに見える。
 不景気な世の中。世界の金融危機、就職難、低賃金悪条件の派遣労働。新たな格差と貧困。政治・行政・企業と経営者などの支配層、指導層の目も当てられない劣化と幼稚化と迷走。
 そうした大きな状況の中で、地方の生活者を確実にむしばんでいく明日への閉塞感。じりじりと家計は苦しくなる一方で、目の届く限りこの苦しさを払いのける明るさ、希望、救済、を期待できる何ものも見えなければ、縋り付く縄一本をさえ見つけることが出来ない状況である。
 連載のすべてに目を通すことが出来ないでいるけれども、この連載により、少なくとも私なども属する地方の下層生活者の、困窮する生活実態も同時に浮かび上がらせてほしいものだと期待したい。それは救済を欲してのことではなくて、先ずは「あるがまま」を正確に伝えてもらいたいと思うのだ。政治的な色、思想や主義的な色を付けずに、「本当のこと」が流通し、共通理解されることが必要だと私は考える。
 さて、こうした日本社会の状況を反映してかどうか、少し前に自衛隊の田母神前幕僚長
の論文問題が騒がれ、ここ二、三日は、年金に関係した元厚生次官らの殺傷事件があり大きく報道に取り上げられてきた。
 一連の事件は直接の関連性はないが、私には世相が暗く低迷し、また物騒になり混沌としてきたときにおきる、一種の「世直し」願望が個人を襲い、個人に収斂して、こうした問題や事件の連鎖を招くのではないだろうかと想像される。
 これは相当に危ない兆候であり、私はそこに不穏な気配を感じる。
 田母神論文の論旨はたわいのないもので、論ずるに値しないものだ。佐高信に言わせれば、「自虐史観」に対する「自慢史観」ということになるらしいが、その通りだと思う。しかし、それはそうであっても、自衛隊員の一種の不満やヒステリックな感情の一つの表れとして読み替えると、それはそれで自衛隊員の間に渦巻く閉塞感やそれを打破したいと願う情念のようなものが、背景にくすぶっていることを想像させる。私は三島由起夫が亡霊として甦ってこようとしているのかとさえ思う。元厚生事務次官を狙った事件も、こういう流れで考えると、田母神論文に見られる、稚拙だが閉塞する現状に風穴を開ける情念の噴出に通ずるかと見える面がある。
 田母神といい、連続殺傷事件の犯人といい、私の目にはすさまじい思いこみの強さと短絡的な衝動に動かされる精神のひ弱さ、知のひ弱さがあるように思える。しかしながらこうした問題や事件の連鎖は、社会を思いがけない方向に曲げて走らせる怖さを持っているかもしれない。私はそれを恐れる。
 こんな時に、私たちは冷静にならなければならないし、これまで以上に「よく考える」事をしなければならないと思う。これらの問題や事件に、どのような共感や反発が表れるかが問題だ。さらにこれらの問題や事件が引き起こされる契機とメカニズムの解明が必要である。新聞やテレビ等のマスコミは、依然として相も変わらぬ言葉やコメントを視聴者に降り注ぐだろうが、そうした言葉やコメントは一切考えることには不要なものだと断言できる。そうした言葉やコメントに汚されないことが第一に必要なことである。つまり、影響を受けるなといっておきたい。そして、自分で考えることが大事である。記事や報道から、事実に近いことだけを収集し、後は自分で考え、考えがまとまらなければまとまらないそのことが最も大事なことなので、そこに自分が立つことが肝心なことなのであると思う。要するに気が利いた報道のコメントに縋り付かないことが、社会が変な方向に走らない第一の要諦だとも言える。
 社会全体が、政治的にも経済的にもあるいは家族的な問題や個人的な問題でも混迷し、暗くなってくると、そういう社会の気配、集団の意識無意識を感じとって、「なんとかしたい」と考える人間が必ず出てくる。それ自体は人間の人間的な部分で、そもそも人間がそういうようにできているものだと言うほかになく、よい悪いと言うことはできない。人間はつまり問題や課題を捉え、それをなんとか解決したいと望むものだと言える。別な言い方をすれば「世直し」願望である。しかし、この「世直し」願望には一つの落とし穴があると私は考えているが、それは、それを考えるときに必ずと言っていい程、指導者、支配者、そういった側に立つということである。たとえ、自分が個々の庶民とか生活者の味方であると考えていたとしても、考え方がすでに治者の側に立つということでなければ「世直し」そのものの発想がとれないという矛盾が生じるのだ。そんなものは、仮に「世直し」がなったとしても、今度は逆に生活者のためにならない権力に早変わりしてしまい、それは日本の歴史においても幾度となく繰り返されてきたことに過ぎないと言える。
 私たちの知りうる限りの知識人たちもまた、そうして権力に吸収されていった。つまり敵対したものに対して、一回りして今度は自分がその立場に立ってしまうということに過ぎない。そういうことを考える頭は、言いかえれば「知」というものは、概念を被せてそれですべてを知った気になり、知ったことがいいことであり正しいことだと勘違いをしてしまう。本当はしかしそうではないので、その程度のことは誰でも考えたり感じたりしていることなのである。そして、大多数のごく普通に生きる人々というものは、「ある力」が働いて支配者や指導者の側に立ってしまう陥穽から自分を守っているのだと言える。そして、それは私にとっては最大の希望である。
 だが、それだけではやはり社会の流れに抗しきれないところが出てくる。場合によってはそういう多数の生活者の動向が、流れを加速するところにもつながることを、私たちは過去の歴史に見ることもできる。
  ここまで来たところで時間が来てしまった。格好をつけなければ、ここで思考が止まったと告白してもよい。とりあえず、近々に私が感じているところの不穏な気配の正体、その概略は伝えることが出来たかと思う。これが私の単なる妄想で終わっているなら幸いである。また自身、その程度のことに過ぎないかもしれないという疑念も抱えている。今後もこうした気配を感ずるときがあれば、誤解や不明や迷妄や恥を恐れずに提出していきたいと思っている。
 
 
   平成二十年十一月七日
 
 オバマの勝利
 
 アメリカでは昨日、民主党のオバマ候補が次期大統領選を制し、共和党のマケイン氏を下した。初の黒人大統領誕生が目前である。新聞等によると、民主党は低中の所得者層を主にした政策を掲げ、共和党は富裕層向けの政策ということだ。これは若干ではあるが日本の自民党、民主党の違いにも言えそうなことで、その意味では日本の政治の局面もそのように変わっていくのではないだろうかと期待したい。
 今のところ日本では、自民党、麻生太郎内閣が誕生し、往生際悪く解散総選挙にはなかなか打って出ない。しかし、自民党政治では利権の集まるところはいつも同じ層で、やはりこれも状況としては「変革」が求められるところだと思う。
 日本のぐずぐずの政治状況に比べて、今回のアメリカの大統領選は見応えのあるものだった。第一に、政治に関心を向ける国民意識の違いが見えた。さすがに民主主義の思想が国民一人ひとりに行き渡っていて、一人ひとりが一票の行使を真剣に考え、選挙に参加していたように思えた。特に候補者が演説する会場の熱気は、個人的には大学の時に経験した学生運動の集会時の大規模なものを想定してみるほかに想像がつかないものだった。あるいは経験はないが、若いミュージシャンたちのツアー会場のような熱気のようなものかとも想像した。第二に、アメリカではまだ、「理想」が議論の表舞台で効力を失っていないことに感心したり、驚いたりした。それを口にする方も聞く方も、かなり本気でしゃべったり聞いたりしていたように思う。それに比べるとわが日本の政治風土は、とても「理想」が飛び交う状況を想定することは出来そうにもない。これは未来に向かってのビジョンが日本では描けないということと同じだ。
 
 これらのこと以外にも毎日の記事には取り上げたいことがないではなかったが、あまりにもたくさんの出来事が生起して最近はオーバーフロー気味になり文章に表すことが出来ないで来た。何もないと思われてもなんだからと、冒頭でこれくらいのところを言っておきたかった。
 
 日米欧、〇九年マイナス成長予測
 
 さて、今日の河北新報の一面には興味ある三つの記事があった。一つは、国際通貨基金(IMF)が、十月に公表したばかりの〇九年の世界経済見通しを、今回改定したという記事だ。それによれば、日米欧などの先進国経済はそろってマイナス成長になるということである。そして「世界経済の底割れを防ぎ金融市場を安定させるため、財政出動による景気刺激や金融緩和に向けた『国際的行動』が必要だと強調したと記事は告げている。また、景気が持ち直すのは〇九年後半以降という見解も示されているそうだ。ここでは、最善の手を尽くしても世界経済を持ち直すのに、最低でも一年はかかると予想されていると考えておけばよいだろう。つまり私たちの生活もその間は今以上に冷え込むという予想がつく。あるいはそう考えておけばまず間違いはない。いっそう身を縮めて耐えていかなければならない、ということだ。
 
 トヨタの業績悪化に関連して
 
 次に、一面のトップになるが、「トヨタ営業益七十三パーセント減」の大見出しが見える。これは〇九年三月期の予想ということで出されている。この数字はもちろん世界的な金融危機と景気減速が直撃したもので、いってみれば一時的なものなのかもしれない。だが、これを機に、自動車産業が大幅に産業スタイル、産業形態を変えるきっかけにならないかと私などは危惧するところがある。もちろん、この危惧には根拠がない。何となくそう思えるという段階を抜け出てはいない。
 私がなぜこの記事に関心をもつかといえば、以前にここでも取り上げたことのある、トヨタ関連会社の宮城への進出があるからである。たぶん、一〇年度からの操業開始予定だと思ったが、この関連会社の進出が決定したときに、県内はもちろん、東北全体が浮かれ気分で、河北新報などは早速「ものづくり立国」などのフレーズを見出しに特集などを組んだりした。東北の産業界にとっては久々の朗報だったかもしれないが、私などのようなものには、経済界、自治体の担当者、そして河北新報なども含めて「他力本願」の浮かれように苦虫をかみつぶすような思いだった。案の定今回の世界規模の景気減速を受けて、トヨタは期間従業員を今年三月の三分の一にあたる三千人にまで削減する予定だそうである。要するに、自動車産業といえども今後は「水もの」で、必ずしも安定的、固定的とは言えなくなるのでは無かろうかということだ。
 もう少し誇張していえば、産業として末すぼまり、末期的状況で東北に拠点を移すと仮定して、それがそんなに歓迎すべき事なのかと私は疑問に思ってきた。これはもちろんのこと素人による素人の見解だから割り引いて読んでもらいたいのだが、本当に言いたいことはトヨタや自動車産業がどうのこうのではなくて、自治体幹部、東北や宮城の経済界に、県民や生活者がおくべき信頼が本当に置けるかということだ。信頼するに値する理念、ビジョンを持っているかという問題だ。この間、あろう事か大学などの側からも、「産学連携」などの歓迎ムードのメッセージが新聞紙上などにも流されていた。
 私などにはこうした一連の動きは、国家的な出来事、あるいは都会で起きた出来事の地方版、あるいは焼き直し、あるいは遅れてきた産業振興のようにしか見えない。そして最も肝心なことは、それらの前例は必ずしもよいことばかりをもたらしたのではないという、過去の影の部分を無視して喜び一辺倒で迎えようとするその姿勢や姿だ。河北新報などもその先頭に立っている。
 経済の繁栄がもたらした社会がどうなっているか、私などにもうっすらと見えているし理解できている。必ずしもそれが理想的な社会だとは誰も思えないだろう。たしかに繁栄は国民の生活を逼迫や困窮から脱出させる。豊かにするといってもいい。東北が他の工業都市ほどに豊かになるとすれば、それ自体は歓迎してもよいことだ。地域民も職にありつける。しかし、それだけではない影響も大きい。さらに、工業都市化が順調に進めばよいが、世界経済の動向も含めて、障害が起こらないとも限らない。そういうときはどうするのか。すぐにまた農業に立ち戻ることは可能なのか。
 いろいろな問題があって、自治体がそれを視野に入れながら誘致に動いているとは思えない。地域の百年の計、それが県民たる私には少しも見えてこない。それが不安なのだ。またもや目先のことに軽々に動いて、地方自治が負の遺産ばかりを積み上げていくことは避けてもらいたい。地域は病弊し、崩壊寸前だとよく言われる。その元凶が何か、よくよく考えてもらいたいものだと思う。もちろん日本全体が経済に走ったその結果であろう。経済に走って悪いわけではなく、あまりに儲け一辺倒がひずみをもたらしたのだ。
 トヨタ関連で、国会で派遣社員の就業扱いが問題にされ論議されたことがあった。世界に相渉って営業利益を出さなければならないシビアさが要求される企業である。当然労働条件もシビアになると予想される。そういう企業で働くことの光と影はどうなのか。自治体の首脳などは箱物、働く場の提供をすれば喜んでいられるだろうが、労働者にとってはそこから先が問題なのであり、自治体の担当者、感得業務にあるものはそういうところまで目を行き届かせてもらいたいものだと思う。それやこれやで諸手をあげて喜ぶにはまだ早い。個人的なことをいわせてもらえば、同じ中学を卒業した仲間たちで、高校を卒業して愛知の自動車工場に入社した同級生が何人もいた。彼らは数年そこで働いた後に、半数以上はUターンしてきたように記憶している。仕事はどんな職種でも大変なものだといえばそれまでだが、工場での車作りもいろいろに大変なことが要求されるのだろうと思う。そのことを思うと、私自身は工場での車作りの作業など、決して進んでやりたいなどとは思わない。だから、そういうものを誘致して得意顔でいる首長などには、なんの興味関心も湧かないし、ましてその業績をたたえるなどという気持ちは少しも起きない。はなから期待する気持などはさらさら無いのだ。日本の都道府県の知事たちなどは、よくてこの程度なのである。地方分権など論議されるが、ちゃんちゃらおかしい現状であることを胸に刻んでここは終わりにしたい。
 
 農政局・整備局「廃止」の問題
 
 これは要するに小さな国家、小さな政府をめざすもので、過去にも国家公務員の削減など、何度も話題に上がってきたことの延長上にある問題である。国出先機関と地方自治体との「二重行政」の解消など、いろいろな意味での無駄を省くことになっていくだろうと思うが、相変わらず実現の行程には、職員の身分移管や税源移譲の問題などをはじめ、いろいろな問題が立ちふさがっている。政府が主体となったさまざまな変革の試みには、あちらも立てこちらも立てしなければならないものだから、かけ声倒れや中途半端に終わる変革も多い。大なたを振るう英断は、日本の政治の中ではなかなか行われにくいという面がある。こういう問題は、腹を据えて首相が是が非でもやってしまうということでなければ、なかなか進展しないだろうと私は思う。仮にそうしても郵政問題のように、あとから元に戻そうと働きかける政治家がいないでもない。やはり、自前での大きな変革は日本人自身の手では行われにくい。戦後の農地改革は、あれは占領軍としてのアメリカの主導のもとに行われたそうで、そうであるから諦めがついてその改革はまっとうされた。あとで、元に戻そうという働きかけも無かったのだろうと思う。
 この問題では地方は、財源の移譲なしには出先機関の食品や業務を引き受けられないとはねつけるに違いないと思う。国は地方の国への依存を脱してほしいのだし、地方がそれだけの覚悟を決められるかどうかが今後焦点になっていくことと思われる。ただ、地方は地方で決して財政が豊かではないという問題がある。人員削減と場合によっては業務の縮小も地方によっては考えているところもあるに違いない。傍観者に過ぎない私などは、国が倒産寸前で業務を縮小せざるを得ないと仮定して、ならばそこでやってきた業務の一切をやめちまえばいいだけではないかと思ってしまう。あとは職員に民間会社で行う程度の手厚い退職金などを手当てする以外に方法はあるまいと思う。まあ、どこまで改革が進むのか、お手並み拝見というだけのことだ。国と地方の政治のレベルが問われているに過ぎない。
 
 
   平成二十年十月二十九日
 
 聖なる教育の再生
 
 真言、天台の開祖、空海、最澄の起こした仏教は、貴族のための宗教であり、いってしまえばエリートを対象にするものだった。
 浄土教の法然、とりわけ親鸞にいたって、仏教は広く庶民生活の中に入り、庶民を対象とする宗教へと変貌した。仏教史を概観すると、これは教えや修行の平易化であり、あるいは先達の仏教者からすれば宗教上の堕落、僧侶の堕落と映ったに違いない。
 平成二十年十月二十九日の河北新報、「持論・時論」欄に、宮城教育大学長高橋孝助氏の文章が掲載されていて、それを読んだ。先生たちの教育実践における功績を一般に広く知らせ、表彰する「教育実践・宮城教育大学賞」の創設の趣旨と、対象となる授業実践の内容等が簡略に述べられている。文章の中の言葉を使えば、「授業」を先生たちの「仕事の中心」として、その実践を応援する意味合いのことが書かれている。
 教師の研修、努力・精進を薦める文意を読み取りながら、私は冒頭に書いた日本の仏教史の一面をすぐに思い浮かべた。そして浄土教を批判した解脱上人や明恵上人の言いぐさの、ある種の正当さを思った。それは仏教の教義の内部に身を置く限りにおいて、ある真理を伝えている。しかし、本当は法然や親鸞は教義の内部に身を置いたのは身の半分で、あとの半分は民衆の生活の内部にあった。すでに立ち位置が違って、法然や親鸞らにとっては他宗派からの彼らへの批判は想定内で、当然無視して然るべき事柄だったに違いない。
 高橋氏の文章は、別に現行の学校教育、あるいは一部の教師の批判に眼目があるわけではない。公教育の内部にあって、教育の再生をよりよい授業実践から果たそうとする目的意識を含んだもので、その中にあっては当然の正しい発言だという以外にない。
 しかしながら私には、知的エリートである僧侶がする、もう一つのエリートである貴族たちのための宗教という側面を持った初期仏教と同じく、知的エリートがするエリート育成のための教育しか、そこでは語られていないと感じられた。要するに、少しも知的でもエリートでもない庶民生活者や、その家庭の子どもたちの∧非知∨的な∧状況∨が顧みられていないと私は思った。
 その∧状況∨をここでは詳細に述べる余裕はないが、またその能力も残念ながら今の私にはないが、それは一部不登校や校内暴力のような形で顕在化したことは誰もが了解しているに違いない。
 本当は、教育現場にではなく、子どもたちや家族や社会人が生活する場にこそ教育再生の糸口は見えてくるはずなのだが、高橋氏のように授業の質を高めるなどのような教育内部的な問題に終始する意見も相変わらず多い。それ自体は悪くはないが、逆に言うと、日本社会の全体像、未来像を誰もが見えない不安の中で、授業の質という内側向きの方向にしか考えが及ばなくなっていると見ることもできる。言いかえれば、教育自体が「ひきこもって」行こうとしているのかもしれない。
 俗世界を離れ宗教者が総本山にこもって修行三昧するように、教育者もまたよりよい授業を使命の一つとして努力することは一つの行き方である。だが、どんな人のための宗教であるべきか、誰のための教育であるべきかを考えたとき、対象の生活状況や生活実感、そこに思いを致さずにどんな宗教どんな教育も成り立つはずがないと私には思える。
 法然や親鸞たちは旧来の仏教からは破戒僧に見られたかもしれないが、多くの民衆の救済を願ったのであり、その時旧来の秩序、形式よりも実を取って、庶民が庶民の姿のままで救済が可能になる道を探ったのである。親鸞にいたっては、「悪人正機」の説にまで行き着いたのは承知の通りである。
 これは言いかえれば、学校において先生たちが、勉強なんてしなくてもいいよ、と言うことと同じだ。
 本当は、子どもたちが勉強が出来ても出来なくても、将来に何の支障も来さない世の中が待っているのでなければならないのではないのか。教育はその部分についてどう答えるのか。誰もそのことに言及しようとはしない。その言明を避ける姑息さを、本当は誰もが見抜いている。その真に直面しない勇気の無さと、逃げの姿勢が、どのように子どもたちの無意識を傷つけてきたか、想像するだけで身の震える思いがする。
 授業の質を高めて、立派な坊主になるように立派な先生になるがいい。がしかし、それはいつまでたっても子どもたちの期待に半分しか応えないことと同じだ。そういう人々に何を言っても始まらない。私はそんなひきこもる教育世界から、いっそう自分に向かって引きこもってきた。私もまた本当は教育について語る資格など無い。
 しかしながら、誰か一人くらいはこういうことを云わなくてはならないと思う。
 教育は、その教育的見地という内部から、本当は外の世界に向けてもの申すべき使命を持つものではないのか。仮に政府の一機関という支配下におかれていたとしても、指示される側に回るのではなく、逆に教育的立場から具申することにこそ面目がなければならないのではないか。それが政治の一手先となって、場合によっては一大臣の思慮するところによって右往左往したりする。
 学校の試験で将来が左右されるような世の中を変えろ。出来てしまった大学の序列を解体し、序列を作らない仕組みに変えろ等々。どうしてそうしたことを外の世界に向かって、政治や総理大臣に向かって言えないのか。校長や教育委員会教育長たちは、なぜ声を大にして言わないのか。そうして予算獲得などに関しては一生懸命立ち回る。自らが教育のなんたるかを放棄して、瑣末なことに終始している。
 高橋氏は宮城教育大の学長だそうである。例えば少年法の改正の時に、教育的見地からということで意見を求められただろうか。たぶん求められなかっただろうと思うが、それだけ世間一般からは「教育世界」はあてにされないものであり、無視され、孤独なのだ。もちろんそこまで教育を貶めたのは高橋氏をも含む教育に携わる側にも責任がある。
 元教員ということから、教育の再生について考えの一端を述べてきたが、本当はこの社会の経済や政治などと同じで社会を構成している一つの側面に過ぎないから、社会にあるものは教育の世界にも学校にも全部あると言っていい。その意味では、好不況のように、学校教育にもいろいろなことが起こりうる。もっと言えば取り立てて騒がなければならない理由もないといえるのかもしれない。ただ本質的な問題として教育の問題を考えたときに、私にはいろいろ言ってみたい思いが湧いてくるということのようだ。時間も来た。これで終わることにする。
 
 
   平成二十年九月二十四日
 
 ブッシュの最後っ屁
 
 不謹慎な題を付けたが、今日の河北の第二面に、日本がアフガン本土への自衛官派遣を断念したことに対し、ブッシュ政権が特使を派遣してアフガン派遣の再検討を求めていたことが報じられていた。イラク問題も含め、いっこうに改善しない現地の治安情勢等は、ブッシュ政権の政治戦略の正当化を誇示し、花道を飾りたいブッシュにとっては頭の痛い問題に違いない。早く正常化を果たしたいのだし、そのためには日本ばかりではなく出来るだけの多くの国の参加により支援を実りあるものにして、成果を上げたいと考えているのだろうと思う。
 そうした政治情勢について、実は私はよく知らない。ただ、今回の件について、自衛隊派遣の断念を福田首相から伝えられたブッシュ大統領が、その後に特使派遣という形での措置を講じたところに、アメリカ政府の、自衛隊派遣への並々ならぬ熱意といったものを感じとった。もしも日本政府がこれに妥協し、アフガン本土への自衛隊派遣を強行したとするとどういうことになるのか。私はそれを想像し、背筋が寒くなる思いに駆られた。
 一度堰が切れてしまえば、日本の自衛隊は次から次へとアメリカの要請により、どこにでも飛んで行くということになってしまわないのだろうか。誇張していうと、アメリカ政府の言いなりになる、アメリカ直属の軍隊の様相を呈していくことにならないかと危惧を抱く。アメリカのアジア戦略上、日本の自衛隊がより一般的な国家の軍隊になることは、どんな意味からいってもアメリカとすれば国益にかなうことである。アメリカにとって日本がアジアの防壁になってくれることは、とても喜ばしいことに違いない。
 十年以上前の日米構造協議の内容を考えると、そこでは日本社会のいっそうのアメリカ化が推進されるよう意図されていた。今回のアフガン派遣の執拗な要請は、自衛隊をも、米軍の傘下に取り込み、必要に応じ、あるいはアメリカにとって便利に使える軍隊にしようとする目論見があるのかもしれない。
 何度も言うが、私は政治情勢など詳しくないし、普段は考えることもない。だからこれは勝手な妄想の類なのだけれど、ちょっとこれはこのまま見過ごしてはおけないという気になり、ここで発言してみたしだいだ。
 サブプライムローン問題から発した金融不安、金融危機など、このところのアメリカは不安材料がいっぱいだ。おかしい。ブッシュ政権もあとわずかである。新政権になって、アメリカがどう変わるか。イラク、アフガン問題に新政権はどう対処するか。くれぐれも拙速に自衛隊派遣を決めて、アメリカに喜んでもらおうとだけはしないでもらいたい。
 
 アメリカ発の金融危機
 
 アメリカの金融危機をきっかけとした世界規模の金融危機が報じられている。河北の三面では、金融大再編に日本勢が参入したとこれまた報じている。三菱UFJフィナンシャル・グループ、野村ホールディングスの名が上がっている。
 私にはこれもよく分からない。雲の上の出来事である。
 世界的な金融不安に関しては、われわれ庶民の生活にも影響があるだろうと予測できる。
簡単に言うと、ここ二,三年はいっそうの不景気感が増し、実際に物価高、労働賃金の横ばいか下降、生活レベルの沈下等々に見舞われるに違いないと思う。私自身は氷河期に暖房が使えない状態と少し誇張して考えているが、要するに身を縮め、体を寄せ合って寒さに耐えるしかないと思っている。
 そう考えているところにこの記事なので、日本の金融業界はしばらく前の金融危機を反省して、底堅く活動してきたのかと驚いた。もしも今回の日本国内の金融機関の、海外における事業の展開が功を奏せば、なにがしか日本国内の景況に寄与するのだろうかと思う。
 その意味で、今後の展開にも注目してみたいと考えた。また別の意味では、金というものは、金のあるところに集まっていくものだなとあらためて思った。日本の金融業界は、こういう時期に積極攻勢をかけ、海外の証券会社に出資したり買収したり出来る力を持っているのに、私たち低所得者層は全くそういう力とは無縁のところにあり、儲け話に参加も出来なければおこぼれも得られない。まあ、回り回って景気が上昇すれば、少しは寒さが和らぐことがあるかもしれないという程度だ。開き直って、儲ける奴は儲けるがいいさというしかない。
 アメリカでも金融危機の解決に向け、かつての日本のように大規模の公的資金を投入する話が出ているが、金融機関の経営の失敗は結局のところ最後には国民の税金でカバーするというとこまで持ち込まれる。これは非常に不合理で不条理な話だと思うが、経営責任を明確にするため、経営陣の巨額退職金や報酬の制限を要求する主張が出たり、それを問わない主張があったりなどするようだ。結局損してツケを国民に廻す、それは何度でも繰り返されることなのだろう。羨ましいというべきか、情けないというべきか、怒るべきか、それさえも私たち庶民の感覚からは如何ともしがたい。遠い遠い出来事で、どう対応すべきか分からないのだ。
 何とも閉まらない話になってしまったが、今日はこれで終わる。
 
 
   平成二十年九月十三日
 
 汚染米問題
 
 ここしばらく「三笠フーズ」の、いわゆる事故米の問題でテレビ、新聞は賑わっていた。今日の河北は、そのうちの一部が保育園の給食に出回り園児の口に入ったなどが記事として掲載されている。一連の汚染米問題で、消費者段階の農薬検出は初めてということだ。
 検出されたのは農薬のメタミドホスで、残留農薬基準の倍の量だということである。
 事故米は食用に転用してはならないのだが、「三笠フーズ」はそれを無視して利益を貪った。農水省は「三笠」が事故米を買ってくれる、それはお荷物の処分を意味するから、陰に陽に立ち入り検査も甘いものにしていたのではないかと疑われている。「三笠」から事故米を承知して購入していた卸売業者も数多く存在するらしい。
 関連記事では太田農相が「人体に影響がないことは自信を持って申し上げられる。だからあんまりじたばた騒いでいない」と発言して、非難されていることが報じられている。
 農水省、太田農相、三笠フーズ、その他の多数の業者。新聞、テレビはこれらをいっせいに批判している。
 事件を明らかにして大衆に知らせるという点では、新聞、テレビの報道は間違ってはいない。それらのメディア、マスコミによって私たちはある程度の真相を知り、それに対処しようと出来るのだ。
 ただ、一連の報道等を介して私には腑に落ちない点が一つある。それはメタミドホスに汚染されたお米を、どの程度の期間口に入れたらどの程度の被害が出るのかの、詳しいデータ的なものが表に出てきていない点だ。それは、公表されるほどに詳しい調査データが
無いということなのか、現在資料として準備中のためであるのか、この問題に関しての少なくとも私の関心はこの一点だ。そして、どうしてそこのところが問いただされずに、ひたすら道義的な問題に矮小化されて報道されているのかがよく理解できない。農水省や農相の発言のように、長期間とり続けてもさして影響のでない検出の値であるなら、それはデータとして数値を挙げて公表すべきだし、まず何よりも先にそのことが報道されなければならないことだと思う。「三笠フーズ」がもしもまた専門的にそのことを承知していたとすれば、ある一定の安全の範囲の中で、違法を犯したということになり、悪質の度合いも変わるような気がする。私にはそこが明らかにされなければならないと思う。そしてもしも全くの無害の範囲であるならば、「三笠フーズ」のごまかしは日本社会のどこにでもある「ごまかし」の類で、これほど騒ぎ立てなければならないことだとは思えない。違法すれすれで金もうけを企む連中は、差異はあっても私にはほとんどだと思えるし、その中には違法を承知してやっている連中も五万といるに違いないと思う。それらのいちいちを摘発したってきりがない。また私にはそんなことは出来ない。
 この問題でもう一つ気になることがある。この事故米と知らずに売りつけられた会社は多く、損害の規模も大きいようだが、酒でもせんべいでもいいが、それを造る前に原料の吟味、検査というものはしないものなのだろうかと疑問に思う。少なくても大手の会社であれば、自前の検査機関を持っているはずだと思っていた。あるいは製品の出来た段階で、そういう検査はありえないものなのだろうか。給食の米にしても、給食を専門にする問屋、あるいは給食センターのようなところでチェックはしないものなのか。少なくとも食について、どこかにチェック機関が入り、ある程度のお墨付きがあって使用されるべきものと素朴に思う。
 蛇足であるが、私個人は食の安全についてどう考えているかというと、成り行き任せである。というのは、子どもの頃は母親が作ってくれたり、見てくれたり頼んでくれたりしたものを黙って食べていた。親戚や近所でごちそうなるときにも疑わずに食べた。食中毒にかかったときもあるから自分の味覚はすでに退化している。大人になり、アカの他人が作る食堂で食べるようになったが、暗黙の了解というか、悪いものは食べさせないだろうという思いで何でも食べてきた。結婚し、妻の手料理もそうして食べた。けれども、暗黙の信頼を逆手にとって、いかがわしいものを食べさせようとしたら、これはいくらでもその機会はあるという考えは、意識して考えなくても考えられるように思う。もしも、徹底的に安全にこだわろうとすれば、個人的に食糧の自給率を百パーセントにしなければならない。それほど他人を信じられなくなったら、ある意味生きていても無駄である。さっさと死ぬというのも一つの手だ。
 自分で作物を作り、自分で料理して食べる。太古の人はそうであったと思うし、あるいはごく最近までそれに近い生活を先祖はやってきている。安全、安全というならそういう生活に戻ればいい。ある程度自分から離れたところで作られたものを口に運ぶ行為には、元来そういう危険はつきまとうもので、それを考えたことがないという現代人はいないと思う。少なくとも推理小説やドラマで毒殺シーンを見たことがあったら、そういうところまで想像は働くはずなのだ。私などは意図的に毒を混ぜられても分からない。そうなったらどうすると考えると、仕方ないという二文字しか浮かんでこない。決してありえない話ではない。そこからいえば、中国の農薬野菜にしても今回の事件にしても、自己防衛には限度がある。そしてそういう社会に私たちは生きているのである。生きているからには覚悟することも必要であろう。私は私がそうだから、そのように内心で覚悟している人がほとんどではないかと思ってきた。例えば子どもが一歩外に出たら、決して交通事故にあわないという保証がない世界に私たちは生きているのである。それがいやだったら子どもを自分の体にくくりつけて一生をともにしなければならないのだ。もちろんそんなことが可能であるはずがない。だったら、どこかで覚悟しなければならないし、必ずや覚悟しているはずなのだ。そして子どもを送り出している。一期一会とはそういうことでもあるだろう。現実や日常はそういう不安に満ちていながら、私たちはすべてを不安して生きて行くことが出来ないから、妥協し、そんなことはないと仮定して私たちは生活している。そしてそんなところで標準的な生活が成り立っている。
 こういう事件があると、とたんに、いかにもありえないことのようによってたかって大騒ぎをすることが不可解である。騒げばこういう事態が皆無にならないことは過去の歴史がいくらでも証明してくれる。かまととぶってさわいだって、実は何の解決にもならない。いや、同種の事柄に関しては、いくらかの再犯を防ぐ手立てが講じられて一時的にも減少はしていくだろう。だが、一事が万事で、同様のことは社会的に見ても砂浜の砂の数ほどあるのだといえば言える。それは一つずつつぶしていく以外にない。ただ、すべてに通ずる元凶は、記号としての金であろう。人間の欲望であろう。その肝心の所を、私たちの社会は、あるいは私たちはうまく考えることが出来ないでたたずんでいる。現代の日本の英知はその程度の所にあるので、もちろん私も含めて、誰もえらそうなことをいう資格など無いと私は思っている。
 
 
   平成二十年九月九日
 
 大相撲の問題
 
 相撲協会が大麻問題で揺れている。今日の一面では北の湖理事長の辞任、それから大麻を吸ったとされている二人の力士の解雇、また新理事長の就任などが取り上げられている。他にも関連記事がいくつかあり、『河北春秋』でも理事長の辞任劇に言及している。
 言うまでもなく、少し前の力士死亡事件以降、相次いだ不祥事で大相撲はバッシングを受け続けている。横綱朝青龍の品格問題などは、今もワイドショーで時折取り上げられているようだ。
 私は子どものころの栃若時代、他に娯楽も少なくて、野球と同じくらい相撲のテレビ観戦に熱狂した。大人になってからは興味関心が多岐にわたり、暇をもてあますときにたまに見る程度になった。それでも歴代の横綱の名前くらいは記憶に残していると思う。
 相撲との関わりはその程度で、後は特に何もない。国技だという気持にも個人的にはなってないし、人気が出ようが廃れようが、一定の距離をおいて見てきたというに過ぎない。
 そんな私から見ると、一連の大相撲問題はマスコミの過剰反応だと見えてしまう。私にとって大相撲は他人事であり、見せ物であって、それ以上でもそれ以下でもない。大相撲の古い体質などは当たり前の話で、今さら騒ぎだてするようなことではないと思ってきた。
 昨今の報道は、しかし、大相撲協会を非難し、協会自体が変わらなければならないと変革を促す主張を強めている。いつからそんなに相撲のこと、相撲協会のことをマスコミは気にかけ始めたのか。もちろん力士の死亡を皮切りに批判が一気に噴出した感じだが、それにつけても急に「大相撲はこうあるべきだ」という論が多くなった感が否めない。私などはそれを見聞きするにつけ、そんなに大相撲のことを気にかけなければならないものかと不審な気がする。続いたって、あるいは不祥事の末に大相撲そのものの存在が消滅したって、関係者にとっては大事だろうが周囲が大騒ぎするほどのことではないと思う。日本国や日本人全体から見ても、すでに相撲の世界はこんなに論議されなければならないほどの存在ではなくなっているはずなのだ。
 私が特にマスコミ報道で気にかかることは、何か大相撲が美しくなければならない、立派でなければならない、などというような、建前の修復、建前の復興をめざしている発言に受け取られることだ。そんなもの、私は内部の人間が考え、また、行うことだと思っている。外部で勝手に考えた大相撲の美、本来あるべき姿を、現在の相撲協会に押しつけようとしているように見える。『河北春秋』でも、「改革は待ったなしだ」などと言っているが、それを読んで私は「いったいお前は大相撲とどんなつながりがあるのか」と問いたい気持になった。所詮第三者に過ぎないし、仮に大相撲のファンだとしても、四六時中大相撲のことを考えているわけではあるまい。それなのに、「こうしろ、ああしろ」という、取り方によってはお節介に過ぎないことを新聞紙上に取り上げ、意見を開陳するそのことが私にはよく理解できない。もっと露骨に言わせてもらえば、いろいろ言っているちゃちなコメンテーターも含めて、「あんたたち、本当は大相撲のことなど、どうだっていいんだろう。」と言ってみたい気がしている。心の底から、本当に大相撲に何かを期待したり、こうあってほしいという切望を抱いている人が何人いるのだろうか。あるいは生涯かけて、大相撲を見守っていくに違いないと自分を考える人は何人いるのか。多くは、これを機会に口触りの良いことを言っているに過ぎないように思える。
 大相撲にしろ高校野球にしろ、精神論は精神論として、また内部における組織や人間関係の実態として、いつも理想と実態との間における乖離はつきまとうものである。美しく飾られたものの中身は汚いことも無いわけではない。そんなことは世の中の何にでも通ずることで、これを一事が万事という。
 何かというとよってたかって責めを過大に背負わそうとする。とことん叩いて叩いて、ぎゅうの音も出ないくらいに叩こうとする。
ちょうど限度を知らない子どものいじめのように。こういう風潮は私はよくないのではないかと思っている。今回の騒動も、社会的な問題にしなければならない騒動ではなく、当事者間や関係者間個々で対処すべき問題で、こぞってああしろこうしろと言うべき問題ではないような気がする。視聴者のインタビューへの答えにせよ、直接関わりのない第三者がコメンテーターの口ぶりを真似たような発言をしていて、誰もが傍観者的な綺麗事をいうようになったと思えて淋しい気がした。聞かれれば、躊躇無く、第三者的に綺麗事を述べる。共通するのは自分の経験を棚上げにして発言している点だ。そうした上滑りの言葉が、我が物顔に私たちの頭上を飛び交っている。私にはとても不満で、嫌だなあと思う。
 
 自民党総裁選について
 
 こちらも大相撲同様、マスコミはおもしろおかしく、また過大に取り上げて視聴者の心理を煽っている。実際にはどうということもない。日本の明日、日本の未来に何の影響もないと私は見ている。それなのに河北などの新聞の記事は、自民党総裁立候補者の乱立の顛末を詳細に論じている。こういった政局、政争だけで何かを伝えた気になり、また、未来について語っていると思ったら間違いなのだ。誰が自民党総裁になっても自民党そのものは相変わらずの自民党だし、誰が首相になっても今日の不況を一気に吹き飛ばす手腕は持ってはいないだろう。
 もちろん、十一月と取り沙汰されている衆院選で民主党が勝利し、小沢一郎が総理になっても、私たちの生活が一気に変わるということはありえない。どの党が与党になり、誰が総理になっても日本の社会を激変させる力など無いに違いない。マスコミの調査による内閣の支持率などが主体となって、小刻みに党や人材が入れ替わり立ち替わりするだろうと予測されるだけだ。
 それでも、今回の衆院選において、私は民主党が勝利することが概ね妥当であろうと考えている。その理由は簡単で、ここ数年の自民党政治、自民党総裁の総理大臣の姿を見てきて、さすがにもうやめてもらいましょうと考えるのが常識的だと考えるからだ。こんな体たらくの政党を、それでも支持する人は、よほど自民党政治から恩恵を受けているに違いないとしか思われない。そうでなければ、我慢も限界として、三行半を突きつけるしかないと思う。そうなると、選択肢は民主党しかない。もちろんそうならない可能性も大いに考えられる。私も含めて日本国民は、変化に対して消極的である。どんなにいやな世の中でも、それしか知らなければそれは魂の故郷となり、立ち去りがたいものだという親鸞の言葉を思い出す。死ぬよりはましかもしれないという臆病さが、日本人の心の奥底に眠っていて、変革を望まない形質を形作っているのかもしれない。
 だが、仏の顔も三度という譬えがあるように、さすがに今度ばかりはさじを投げ出す人も多いのでは無かろうか。これでもしも自民党が選挙において勝利するようなことがあれば、日本国民はつくづく自前で変革できない国民なのだなと思うほか無い。もちろん、それには自身を含めて考えてもいいと思っている。私は好きな政治家、応援したい政治家もいなかったから、これまで投票には数える回数しかいったことがない。だが、今回は、自民党政治をやめてほしいという思いから投票に行ってみようかという気持が芽生えている。まあ、だまされたと思って行ってみるといった気持ちかもしれない。
 小沢民主党と考え方が相違する点は多々あるように思う。一番の問題は自衛隊の国連軍への参加であり、私はその主張を丸呑みにすることが出来ない。もちろん国連軍の存在は、国際間の紛争を武力で解決しようという象徴であるからだ。私はそうでない道が好きだ。しかしながら、現時点において生活第一を唱える民主党の姿勢は、最低限、政党としての役割に応えようとするものの主張のように聞こえる。そこに一抹の希望を抱かせる。もちろん、社民党や共産党などの野党ならどこでもいいのかもしれないが、政権交代には民主党が一番直接的だと思う。だから、あまり多くは期待できないけれども、とりあえず自民への反対票は出すに値するかもしれない。どうせ現状のままでは私たちの生活はじり貧なのだ。民主党をお試しして、もしそれでもダメならば、仕方がないとして諦めるほか無いのだろう。私は、そう思っている。
 
 
   平成二十年九月二日
 
 福田首相の突然の辞任
 
 本日の一面には「福田首相突然の辞任」の大見出しで、大きな活字が踊っている。
 退陣の表明は昨日の夜のことで、それこそ日本国中が驚いたと思う。安倍元総理に続き、今度もまた何でこの時期に、と思うような辞任だった。その不意打ちのような突然さに、戸惑いを覚えるのだが、それが大きな見出しと大きな活字に象徴されているような気がする。そしておそらく、少なくとも国民多数の間では惜しむ声も、逆に安堵する声もないに違いないと私は思う。つまり、どうでもいいけれども、あまりに想定外のことであるために、単純に驚きが広がっているという状況ではないかと思っている。
 日本の現在の政治については、テレビ、新聞等の、報道マスメディアによって伝えられていることでおおよそのところは語り尽くされている。視聴者として、普通に見聞きするそれらを判断材料として政治世界を考えても大過ないと私は思う。また普通の生活者としてはそれで充分だと思う。情報通や消息筋でなければわからないことなど、いくら耳をそばだてて聞こうとしても、そのこと自体が無駄なことだ。政界の裏取引やそういった類のものについては、あると考えても無いと考えてもどうでもいい。問題はそんなところにあるのではないということが大事なことなのだ。
 
 政治状況が行き詰まり、日本が直面している諸問題について思い切った対応策がとれていない。その原因は衆参両院で一つの政党が過半数を持っていない「ねじれ」現象があるからだというのが常識になっているようだが、この見方は間違っていると思う。
 自民党が両院で過半数を得ておれば、状況は今より良くなっていただろうか。次の総選挙の結果、民主党代表が総理大臣になり自民党以外の政党の連立内閣を作れば、今と違ったすばらしい政治になると期待できるのか。自問自答してみれば分かるように、日本の政治の問題の原因はねじれにあるのではない。
 政治がうまくいかない原因ははっきりしている。日本はどこへ向かうべきなのか、日本の将来はどういう姿になって、世界でどういう役割を果たす国になるか。そのビジョンを示すリーダーが不在ということが日本政治の基本的な問題ではないだろうか。
 
 この文章は前日の河北、「あすを読む」欄に掲載された、コロンビア大学教授ジェラルド・カーティスのものだ。
 私は日本の政治状況、政治家たちの言動を見る限り、ジェラルド・カーティスの認識でほぼ言い尽くせるのではないかと思う。つまり、「ビジョンを示すリーダーが不在」というのは、その通りではないかと思う。
 しかし、「ビジョン」を示すことがいかに困難な状況にあるかということも、私は同時に考える。仮にジェラルドの言うビジョンの一つ一つに答える政治家がいたとして、とても底の浅いものしか出てこないだろうと私は推測する。
 ジェラルドは言っていないが、私の考える理想のリーダーは、日本の将来のビジョンを策定するに先立って、不可分に世界の将来のビジョンを描けるものでないとダメだと思っている。逆に言うと、世界認識をしっかりと定めた上で、日本の将来のビジョンを描くのでなければならない。そんなことを期待できる政治家は、むろん現状では皆無に近い。だが、本当に必要な政治家は、政治のリーダーは、そういうものでなければならないものだろうと思う。むろんジェラルドが言うように、将来のビジョンを示せるリーダー不在は基本的な問題で、まずここがクリアーされなければどうしようもない。そしてここのところがクリアーされていれば、大抵の政治的課題はどのように解決されなければならないかが明確にされていくと思われる。
 ジェラルドは、日本の政治家の弱点と思われることをいくつか指摘している。
 一つは明治の開化、それと戦後において、「西欧に追いつき追い越せ」という目標があった間は政治のビジョンはたてやすく、しかし、西欧に追いついてからの日本がこの先どうあればよいかを考えられる政治家が少なすぎると言っていることだ。誰も斬新的な考えを持っていないと指摘している。
 二つ目に、今の政治家は、アメリカの共和党やイギリスのサッチャー元首相の政策を真似るしかないと思っている政治家、歴史的社会的な変化を無視して昔の政治を復活したいと願う政治家、第三の道を模索するが明確に出来ていない政治家とに色分けして、結局のところこれといったリーダーが不在であることを言っている。
 さらにここでジェラルドは、政治家ならではの将来設計の一つでもある問題点を指摘して見せている。
 
 移民問題はその一つ。人口の減少と高齢化が進む中、将来は日本で誰が介護サービスを提供するのか。日本の労働市場は外国人労働者を必要とするが、無計画な増加によって大きな社会問題を作り出すのか、それとも十年、二十年先に外国人労働者を日本社会に統合するシステム設計を始めるのか。なぜ日本の政治家はこの問題にもっと真剣に取り組まないのだろうか。
 
 私はこういう指摘を前にして、自分にはこういう問題に関しての考えがないことに今さらながらに気づかされる。ジェラルドの言う政治家ばかりではなく、日本人全体、日本社会全体がどうもこういう問題に無自覚であるのかもしれないと思う。どこに焦点を合わせて考えるか、グローバル化の問題もきちんと把握できていないのかもしれない。だからその意味では、この国民にしてこの政治家あり、という側面がないではないと思える。その上でなお、しかし政治は現状のままでいいとは少しも思わない。福田首相の辞任はどうでも良いが、将来のビジョンを示す政治家が次世代に出てくれることを切に願うばかりだ。
 時間が来たのでこれで終わる。
 
 
   平成二十年八月二十日
 
 北京五輪の開会式から今日まで、さまざまな国のさまざまな選手が、さまざまな種目ごとに活躍して世界新記録なども達成された。さまざまなドラマもある。その意味で世界の一大ショーを眺めているような気になる。
 その中でも今回のオリンピックで強く印象されるのは、外でもない開催国である中国の盛り上がり、勢いといったものだ。それは民族主義的高揚といっていいのか、経済的活況と呼ぶべきか私にはわからない。ただすさまじい勢いで発展していく中国の熱気が、報道の隙間から伝わってきて、恐れとか不安とかいうものさえ感じられてくる。
 また、私はかつて日本で行われた東京オリンピックを想像したりもする。当時はそんなことは感じようもなかったけれども、現在中国全土に行き渡る興奮は、その時の日本の興奮とよく似たものではないかと思いを巡らしてみる。そう考えると、日本の経済的発展以上に中国旋風は世界を席巻し、名実ともに超大国にのし上がるかと思える。
 今日の河北の三面には、北京五輪特別寄稿として、辺見庸の文章が掲載されていて、毛沢東の「東風が西風を圧倒している」という言葉を引き合いに、実際に今東風が西風を圧倒したのだろうかと辺見の文章は問うている。
 おとなしくなった日米欧の今に比べて、中国に騒がしさと熱気とをもたらしているものは、「物質的欲望」である。東風が西風を圧倒している内実はこれだと辺見は指摘し、この場合、「東風」は「東風の資本」にすぎず、「資本」はいうまでもなく先に「西風」に発達したところのものである。
 辺見は、「中国は資本に負けた」と断定し、いま「西風」を圧倒している「東風」が、少しも「新しい人間的価値観」を含むものではないことを、ある種の落胆を籠めて書いている。もちろん、資本に負けた中国の内実は、中国型の共産主義であり、文化大革命なのであろう。私にはそれはよく分からないことであるが、すでにその終焉は指摘されていたことであり、ただそれが今日、完全なる終焉と敗北をはっきりとさせたのであると私は受け止めている。いや、辺見はそう考えているのではないかと私は思う。資本主義的社会主義国家は、ロシア同様、ここに解体した。今回の北京五輪の盛況はこれを記念するものであった。
 私は、これを歴史的必然の流れの中にあると理解しておきたいと思う。
 
 
   平成二十年八月十三日
 
 連日オリンピックや高校野球で、河北をはじめとする新聞、テレビは賑わっている。もちろん世間全体がと言っていいのだろう。
 肉体を酷使し、技術を磨き、開化させる運動、スポーツの季節。すごいねえ、たいしたものだ、そう私は思って観戦してきた。選手が活躍するその裏に、どれだけの汗、努力があったことか、一流となれば私たちの想像を絶する。
 しかし、と、生来が天の邪鬼の私は考える。体を使う甲子園、オリンピックがあるならば、精神を使うオリンピック、甲子園も考えられるのではないだろうか、と。
 精神の悩み、苦悩、どん底を競うのであれば、それは「ひきこもる」ということになりはしないかと私は思う。精神を集中し、徹底して酷使する。それはひきこもることによってしか為しえない。そして、現に今もそのようにひきこもることを実践する人は少なくないのではないか。まじめに悩み苦しむ、もう一つの青春の姿を私は想像する。だが、精神の苦闘については、誰も注目しないばかりか、どんなに苦しんだところで誰からも賞賛されない。それでも、必敗の戦いを戦っている若者は、確実にいる。
 どうしてか、精神的にまじめに苦闘することは、価値がないとか意味がないように扱われることが、私には残念でもあり、面白くないことでもある。肉体派と精神派に分けて考えれば、どうしても肉体派の方がウケがよいのは何故なのか。私にはどちらもぎりぎりの戦いを行っているように見える。紙面や液晶に写されない分、私は孤独に精神の暗闘を実践する若者に同情し、それはそれですばらしいのだと言いたくて仕方がない。誰が何と言おうと、ひきこもって、生きることの意味を問い続ける苦しみに耐えることは、金メダルをめざして精進することに匹敵すると私は思う。精神的な格闘は目に見えないし、勝ち負けの決着もなくて実際には何が何かも分からないのだけれど、運動選手にたくさんの人材が輩出して活躍できていることは、当然精神の分野においても同じ深さと水準で精神を働かせている若者がいるに違いないと想像できる。あるいはひきこもる多くの若者がそうだと言ってもいいかもしれない。それが目に見えないことや、目に見える結果を示せないことは残念ではあるが、少なくとも私は注視していると、ここでは言っておきたい。だから、というわけではないが、若い精神上に格闘をする人たちには、今少し中途半端に逃げずに、精神的苦闘を持続して欲しいと望みたい。苦しみ、悩みの底をもっともっと掘り下げるように進んでもらいたい。本当はその先に何があるのか分からない。何もないのかもしれない。そうなったら精神の金字塔どころではない。しかし、もともと精神上の悩みを抱えざるを得ない人間にとっては、掘り下げ進んでいくしか道はないのだ。作家太宰治は、暗いうちはまだ滅ばない、と言ったが、苦しい方に進んでいるうちは間違いないのだと私にも思えるところがある。孤独であること、強烈な疎外感を感じているということ、その底をくぐることによって、おおよその人間的な標準というものの手触りが確かめられる。それを基礎にすればどんなことにも類推が働くし、
人類の共有する苦悩といった観点に触れることができるかもしれない。そうすると「我」に固着してばかりもいられなくなる。
 精神のオリンピック、甲子園には観客がいない。そういうところでどのように己を律するかにかかっており、そこに参戦する選手としての誇りも生まれるのだが、その意味や価値は運動選手に引けを取らない。この夏の熱い戦いを見ながら、内向する精神の旗手たちに、たった一人の暑い声援を届けたい思いがこみ上げて仕方がなかった。どうか健康に留意しながら深く深くひきこもって、生きる意味や価値の問いを問い続けてもらいたい。
 
 
   平成二十年七月二十三日
 
 六月二十八日の「持論時論」の欄で、「禁煙社会のひずみ」と題する投稿で溜飲を下げたと思ったら、今日の本欄では全く逆の主張がなされていて落胆した。先の主題とは反対に、要するに「公共施設等の敷地内の全面禁煙、個人の喫煙行為の廃絶」を訴えたいもののようだ。言っている中身は単純なことだ。
喫煙は自分にも他人にも害を与えるものだ、だから全部無くせ、単純に言ってしまうとそういうことだと思う。ご丁寧に細かいデータなども掲げて、その主張は明快である。
 投稿の主は開業医とあるからお医者さんだ。看護師さん、学校の保健の先生。この手の人たちはそれこそ必死で禁煙運動の先頭に立って、喫煙の害や悪の面を指摘し、広報し、喫煙者の禁煙のためのサポートなどにも熱心に努めてきた。そのため、相当程度、禁煙環境は社会に浸透してきたと言えると思う。この禁煙の流れ自体を私は否定しようとは思わない。たぶんよいことなんだし、よいことが広く社会に浸透することは少しも否定すべきことではないと思うからだ。こういう力が、戦後の日本社会の環境を清潔なものとすることに役立ち、健康を増進し、世界に有数の長寿国に押し上げてきたとも言えると思う。
 ただ、過度の健康信仰、健康おたく的要素はいつもどこかに疑念を感じ引っかかる気がする。それは例えば、私が子どもの頃の農村生活の改善の過程で、川や用水路がコンクリート化し、環境はよくなったがそれとともに田んぼから生き物が消えたというような、そういう一抹の不安を感じるからだ。
 もっと言えばこの手の主張は、人体の健康は主張するが、人体の健康が必ずしも健康な人間を意味しないことについて、無自覚である気がしてならないのだ。人間は、よくないことと知りながらあえてそれを行うということがたくさんある。食べ過ぎ、飲み過ぎ、他人をからかう、仕事をさぼる。その他に遊び心で浮気をしたり、悪いところに遊びに行ったり。等々、いわゆる大目に見ていい部分が人間にはたくさんあって、これを抜きにしたら人間の生活はつまらないものになってしまうということがあるのだと思う。本当に健康な人間というのは、「人体の健康」信仰、言い換えれば「バカの壁」を乗り越えたところに成り立つのであって、それ以外を広く見ないというのは本当は不健康そのものなのだと言っていい。
 私は教員を二十年ほどやっていて、保健の先生にもこういう人間らしい生活をわきまえた人とそうでない人とがいることを知っている。ある種の人たちはダメなものはダメの一点張りであった。そうでない人たちは、本当はダメなのだが、仕方ないねと、やや妥協することが出来る人たちである。私は後者の方が人生経験として豊かなものを持ち合わせていて、ダメさを理解できる心の広さを持っていると考え、信頼を置いて接してきた。反対に一点張りの人には思いが通じないことが分かるので距離を置いた。心の扉が閉じてしまうので、もうその人の主張はそこではね返って、本気で聞こうとは思わなくなった。最近の社会は、この手の一点張りの人たちがずいぶんと多くなってきたような気がする。人間をデジタル的に見て、実はアナログであるということを忘れているのではないだろうか。私はそう思ったりする。極端に言うと、人間が神と犬猫の動物たちとどちらに近いかと考えれば、犬猫に近い、しょうがない部分を持ち合わせた存在ということが理解されていない。そう思う。その上で人間は、神に近い、優れて崇高な部分も持ち合わせているから、他の動物たちとは異なるところがある。
 喫煙に伴う有害物質については重箱の隅をつつくように指摘するが、では、車社会における排ガスの問題についてはどうなのか。同じく人体への影響については少なからず影響があることは指摘されてきているが、こちらについては仕方がないと口を閉ざす人が多いのではないかと私は思う。このことが何を示すか一人一人ははっきりと突き詰めて考えておいたほうがよい。もちろん、世界的な禁煙運動が政治的に利用されているのかもしれないという懐疑も、一度は自分で調べて、潜りぬけて考えておくべきことだ。
 
 このような現状では、特に学校のような子どもをたばこから守らねばならない空間では、敷地内禁煙こそが「分煙」のあり得べき最低限の努力だということを、ぜひご理解いただきたいと思います。
 
 投稿者である高田さんの文章の一節であるが、ほかにも「子どもをたばこから守る」という句が見える。こういう文章を一読だけすれば、何も文句のつけようがないように思われるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、例えば自分の子どもの頃にはたくさんのたばこの煙に囲まれて育ったということが思い出されるし、現在の学校環境の中で、
どれほどの量を子どもたちは摂取し、それがこれほどまでに指摘されなければならないほどの影響を持つのだろうかと疑問が湧く。もっと言えば、全くの無煙にもって行きたいらしい高田さんの病的な潔癖さがとても私には理解が出来ない。子どもたちは通学途上、たくさんの通勤の車が往来する中を、つまりその排ガスの中を歩いて登校してきている。それが問題にされていないことも不可解である。また、現在では有るか無いかのたばこの煙に、目くじらたてて「子どもを守」ろうとするまえに、もっと子ども世界について考えるべきことが山ほどあるのではないかと私などは思っている。医師であるという立場のあまり、高田さんはあまりにも枝葉末節にこだわりすぎているのではあるまいか。高田さんをはじめとする、医師や看護師、学校の保健の先生たちの主張を聞くと、私はいつも思い浮かべることがある。それはマックス・ウェーバーの「精神なき専門人」という言葉である。細分化された専門性に固着し、そのことのみを声高に主張し、押し通そうとする。たしかにそこには専門人のみが知る真実は含まれているのだろうが、全体性の中では常にそれのみに真実があるというわけではない。それが理解できていないと私は思う。だから、
 
 冒頭に示された敷地外でたばこを吸う姿は、子どもをたばこから守るため、マナーをきちんと守っている姿です。決して侘びしそうだとか、惨めであるなどと受け止めないでいただきたいものです。
(中略)
 喫煙行為を安易に許すことこそ、喫煙者を冷たく突き放して無視する、すなわち差別につながります。喫煙者がたばこを吸い続けるのはニコチン依存になってしまっているからです。その苦しみを非喫煙者も理解することが大切だと思います。
 
 いかにも、子ども、喫煙者にも理解を示しているような文章だが、私はそう思わない。ただ患者として見ている視点に過ぎないと私は推測する。患者の心情、情緒性にかかわっていたら、意志的な判断を誤ってしまうというような医療行為の特異性もあるのだろうが、ここには専門人の潔癖さがあり、その専門人の潔癖さゆえに、何かが失われてしまっている。「喫煙者がたばこを吸い続けるのはニコチン依存になってしまっているからです」という明快な断定は、一つの真実に違いないとしても、その真実は先にも言ったように、狭い範囲での真実に過ぎない。人間が生き続けるのはDNAの指令に従っているに過ぎないことが仮に真実だとしても、私たちは指令に従うのがいやだからと生を放棄するということがないように、必ずしも誰もがニコチン依存を放棄するとは限らない。生きるということは依存することやしないことが第一義に大事なことなのではなく、依存してもしなくても、生きている中で自分にとってもっとよい状態を求めて活動していくものだ。それでよいと思えば、それはその人にとってかけがえのないことであり、安易に否定すべきではないと私には思える。社会はある程度の枠組みをこしらえて、例えばヘロインなどは法的に規制されている。現在のそうした法的な整備を前提として考える限り、強制的に喫煙を締め出すいろいろな手段は、当然行きすぎの傾向を免れない。私はそう思う。体型的に太ることを、人間としての失格と見なすような傾向もアメリカなどにはあると聞くが、その考えもまた異常であり、その異常さをさらに社会的に現実化しようともくろむそのことは、いっそう異常であり病的といえるのではないだろうか。私たちの社会は、やがて「正しい異常さ」、「正しい病的さ」に支配されていくのではないかと私は本気で危惧している。
 
 
   平成二十年七月二十二日
 
 私的な用事で仕事を休み、もちろん新聞を読みコメントを書くどころではなかった。ということは、逆に言えばここでも書く必然性がないところで書いているということが言えるわけだ。だから、そのつもりで、つまり暇つぶしに書いているのだから暇つぶしに読んでくださいということになる。
 今日の河北の一面中段には、約七十年間、行方が分からなかった「源氏物語」の写本の一つ、「大沢家本」が見つかったという記事が見えた。大沢家本には「青表紙本」に含まれない「別本」が二十八帖あるそうで、重要文化財級の貴重な資料ということだそうだ。
 どういう具合か、ちょうど用事にかかわっていた期間に、「源氏物語」の粗筋を中心に編集された文庫本を読んでいた。原文も読めないし、現代語訳も敬遠気味で、ひととおりどんな話なのか位は掴んでおきたいところなので手にとって読んでみたのだが、案の定、スケベ心だけが印象に残って後は何も残らない。古典の教養のかけらもない私には無理なのだ。ただ読んでみて、(以前にも半分ほどは現代語訳で読んだことはある)内容とは別に、いろんな事は考えさせられた。
 宮廷の女房、女御たちの暇つぶしから生まれたものだろうなというのがその一つである。暇がなければ書かれなかっただろうし、暇がなければ読まれなかっただろうと思う。暇があるということは、贅沢が出来ているということである。内容も、男と女の話で、これは大人であれば誰だって興味あることに違いない。今でいえば芸能人リポートのような要素もたぶんにある。
 暇があってスケベ心も持ち合わせたものには、格好の退屈しのぎになろう。それならば受けないわけがない。文学だ古典だ芸術だと言ったって、所詮はそんなもので、何もお経のようにかしこまって見聞きしていたものでもあるまい。
 そういうものがどういう動機でどのような考えの元に書かれたのかを知ることは、大いに興味が持たれるところではあるが、門外漢には分からないことは分からないですませることが出来る。重箱の隅を針でつつくような研究に、そんなに金と手間ひまをかけることかと、やはり門外漢であれば思うに違いない。逆に言えば、金と手間ひまがあるからそんなことが出来るのだろうが、貧乏人は、「なんと、もったいない」と考える。あるいは、少し俺に廻してくれと、思う。それでひとりの人間が救えるなら、そのほうが価値があるのではないのか、と考える。でも、そんなのどこにも通用しない。それが現実である。
 重要文化財級だから価値がある。重要文化財級だから大事にされる。最近話題になっている世界遺産登録の件もそういうものだろう。イタリアかどこかの世界遺産の建築物に落書きをして、日本では大騒ぎになった。観光資源というだけのものに対してそんなに目くじらたてることか。私ならばそんなふうに思って、どうだっていいと考える。ご丁寧に学長と学生が謝りに行く。こんなこと、世界的な笑い話、あるいはジョークでないとすれば、日本人の考えることが日本人の私にも分からない。理解を絶する。遊び心、ふざけ心、それは誉められたことではないかもしれないが、寛容が無さ過ぎる。「世界遺産」、その名に、日本人だけがそういう反応を示すのではないか。そしてそれは世界の中の田舎ものの感受だと私は思う。こう言えば、たぶん私はバッシングされることになるのだろう。こんなのおかしいに決まっている。現在の日本社会には、このおかしいということがもはや通用しないかもしれない。それはそれでいいけれども、私は私でおかしいと思うことは、おかしいとはっきり言っておくようにしたいと思う。どうせもう失うものなど数少ないのだ。そういう人間はどんどん言いたいことを言っておきましょう。私の場合、語る相手もなく、こうして「ひきこもった」ホームページで、もごもご呟いているに過ぎないのですが…。
 
 
   平成二十年七月十一日
 
 一面はどうでもよいことだが、宮城県内へのトヨタ進出につき、三井住友銀行と七十七銀行、そして宮城県の三者が産業振興に関する協力協定を締結するという話題だ。
 金のなるところに群がって、結構なことだと思う。私などには縁のない話だ。雲の上の人たちが雲の上で何かをやる。何をやるんだろうと興味は持つが、汗水を流すこととは違うのは確かだと思う。汗水を流さない変わりに頭を悩ませるのかもしれない。知恵も振り絞る。そして宮城県の産業の振興に貢献する。長い目と、広い視野からこれを見れば、県民生活につながる問題だから大事なことだ。たぶん、そしておそらく。
 それにしても、宮城県も産業振興には力を入れるものだと思う。東北大との産学官連携などの話題もひっきりなしだが、要するに、金、金、金、ということだろう。金というなら、私にも身に染みて大事だということは理解できる。私は金もうけを批判しない。どこかで企業や銀行やその他が儲かり、それが県民にも行き渡るようになればよいと思う。どうせやるからには是非そこまでの射程距離を持って臨んで欲しい。まあ、経験的にはそこまで行かないことが多かったと思いますがね。 私個人はそれらに何の期待もしてはいない。
これまで、重しのように感じられこそすれ、恩恵を被ったことは皆無に等しいと感じている。まあ、知らず、無形の恩恵は被っていたのかもしれませんが。
 まあある意味専門家たちですから、任せておくしか手がないです。だが、専門家だからといって産業や経済に超一流の見識を持っているのかといえば、それはどうか分からないです。こちらは高みの見物、手腕の程を見物することにしましょう。
 
 二十八面、二十九面には教育関係の記事が載っている。一つは文科省汚職で、もう一つは大分県の教員採用汚職である。
 文科省の方は、施設整備事業に絡むゴルフ・飲食の接待で幹部三人の懲戒免職や他の職員の減給、注意・訓告等の処分が行われたという。これらの事件は驚くに値しない。
 権力のあるところに法外な接待や贈り物をして、その見返りを願うというのは日本社会にはよくあったことだ。実際のところは見聞きしたわけではないが、例えば天皇家に、あるいは将軍家に、租税にあたるものなどとは別に、全国津々浦々から特産品などの貢ぎ物を差し出したというのは、そういうねらいも含まれてのことだと思う。そういう習慣が古来からあったと私は理解している。何かをお願いする時、何かをしてもらった時、贈り物をする習慣と境目を作ることが難しい。もっといえば上から下まで日本の社会は贈収賄が横行しているといった気さえする。本気で調べ取り締まるならば、刑務所に入りきらないのではないか。しかし、これを取り締まる側だって、本当は臭いところがないわけではない。すべてが叩けば埃のある体だ。そういう意味では、汚職のない社会はかつてもこれからも想像できることではない。私はそう思う。これについて、誰も現実的な考えは持っていないと思う。潔白ぶってみせるか居直ってみせるか、どちらかの態度しかない。一番罪が重いとされる参事官の接待と物品の受領総額は約七十四万円相当だという。
 私は本当はこの程度の接待や物品受領は、いつの時代にも政治家や官僚、各省庁、あるいは地方自治体等にあってもあるんじゃないのかと思われて仕方がない。
 私自身は二十代の後半に、ある百貨店の売り場の課長に、接待と称して会社の金でわりと豪華な寿司を振る舞った経験がたった一度だけある。その時、自社製品の売り込みという目的はあったものの、ただでうまい寿司が食べられてそのことでとてもいい気分だった。接待というものは、接待する側にとってもいいものだなと思った。上司はそういうおいしさをとっくに理解していただろうし、私にもそれを許したということだったと思う。仕事にはある厳しさがあって、これくらいのいい思いがあっても当然享受していいと私はその時思ったし、これには潤滑剤的な作用があるんだなというようにも考えた。
 打合せや商談、あるいは研修などと称して、微細なお茶の接待などというところから、高額な物品のやり取りまで、これは一直線につながっていることではないかなと私は思う。おそらく社会人として成長していく過程で、私たちはこうした関係も一緒に学んでいっているという気がするが、こうしたことで清廉潔白な人がどれほどいるのかと私は思う。もちろん、些事だから無いと言わないとすればだ。テレビや新聞などの報道は、そこのところをどうにも見ないふりをしているような気がする。広告主などとの関係、あるいは関係する会社との関係などでそうしたことは皆無だろうか。そこを抜きにして公務員だから悪いと言っても、指摘され処分されるからこうした事件が影をひそめるかと言えば、少なくはなっても別のところに影響が出る問題のような気が私にはする。
 大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件も、出てくるべくして出てきた問題だと私は考えている。県議らを含む県教委内外からの口利き。これはおそらくどこにでもある。無いと考える方がおかしい。学力テストの実施に当たって、模擬テストや練習をする風土である。教育、教育界なんて、実際のところはそんなものだ。こういう事はマスコミ報道のようにカマトトぶらず、徹底的に承知しておくべきことだと私は思う。無くせと言っても無くならないことを前提に考えなければ、かえっておかしくなる。
 力を持つということはこういう事態から逃れられないことで、こういう事に清廉潔白であるという者は、力を持たない者だけである。私には全く力がないから無縁だ。だが、万一そういう力を持ってしまったら、私だってどうなるか分からない。そう考えるべき種類の出来事であると思う。もちろん、だからといって先の文科省の汚職や大分県の問題を許して良いというつもりはない。ただ一部を見せしめのように摘発して、あるいは形ばかりの事後指導をして、これらが根っこから無くなるものかと言えば無くならないだろうと私はいいたいのだ。もう少し根深い問題が巣くっていて、そこを考えていくことがなければいっそう綺麗事と本音とが分離した社会になっていくと私はいいたいのだ。忙しさとむずかしさのあまり、テレビも新聞も徹底して考えを詰めていくというような追求の仕方はしていかないと思う。私もまたそこまで考えを詰めていこうというような気は持たない。誰がやるのか。おそらく誰もやらないのだ。問題提起はしても、無報酬で自分で考えるという人は誰もいない。誰かが考えてくれること、よい結論を出してくれることを待っている。せいぜいがこれをテーマとする学者がいるかいないかにかかっているだけなのだ。そうでなければ、「こんなことは許せない。二度と起こらないように無くせ!」と、誰かが誰かに憤慨して憤ってみせるだけだ。
 私たちはばれないならば、あるいは法に触れないならば、本音ではそういう依頼もしてみたい、接待なども受けてみたいと思うはずだ。子どものために、努力の報いに…。これを、自分の心に問うて、その思いから自分を解き放つことは容易なことではないはずである。容易なことは自分を抜きにして、いつもそうした問題をあげつらうことだ。
 
 
   平成二十年七月一日
 
 今日の一面では「業者に従業員派遣強要」の見出しで、家電量販店最大手のヤマダ電機が公正取引法違反により行政処分されたことを伝えている。
 新規開店や改装オープンなどで納入業者の従業員を使い、店頭作業や接客、その他無償で応援仕事をさせ、その費用は業者が負担し、ヤマダはせいぜいが弁当を提供するくらいだったという。優越的な地位の乱用。こうした手法は、今はどうか分からないが、以前は百貨店にも見られた。もちろん納入業者にとっては、後々の取引に関係するから知らぬ顔は出来ない。泣く泣く自己負担しながら手伝いの人数を出さなくてはいけないことになっていた。
 私は昔百貨店に出入りしていたこともあるし、最近はヤマダの店で派遣同様の仕事をしたこともあり、その悪しき習慣をよく知っている。はっきり言うと、こういう業界は影で悪いことをしている。納入業者は自社社員を出さない。派遣を雇い、彼らを得意先に派遣する。ヤマダのような大手は、徹底して効率を求めるから、それらの派遣された従業員を徹底的にこき使い、使い物にならないものはふるい落とす。たぶんこういう言い方で大きく違っていることはないと思う。業種によっては、オープン時ばかりではなく、常時売り場に貼り付くものもある。そういう中で、使える派遣は重宝がられる。そうしてはじめて派遣の人たちはそこにいることが許される。そんな雰囲気が売り場の中にはあった。そういう位置を獲得するまで、派遣された従業員は厳しい環境下を潜りぬけなければならない。私はパソコンのサポートを担当する、いわゆる協力会社に雇われてヤマダのカウンターに立ったが、開店時でもあり、大半が売り場の接客まがいのことをやらなければならず、一ヶ月して音をあげてしまった。私を雇った会社はヤマダの言いなりであったし、会社はヤマダの仕事を請け負い、私はその会社の仕事を請け負うそれだけの関係で、私の身分は大層頼りないもので、本当を言うと無いに等しかった。社会が成熟し、法や人権意識などが浸透し遵守されていくものだと思っていたら、最近の雇用にはかえってある種の過酷さがましてきているように思う。
 ヤマダの売り場でで働いたその時に、派遣で採用され、派遣で働く若者世代がどんなに厳しい条件下で、しかも劣悪な環境下で働かなければならないかがよく分かった気がした。派遣先は戦場であり、しかも人間疎外の戦場だ。雇った会社は投げ捨てで、彼らを守ろうとはしない。彼らは一人一人の兵士で、孤独である。そしてそんな過酷な現場以外に、なかなか仕事先が見つからないというのも現実であろう。
 ヤマダのような店側も、協力する納入業者も、人件費を抑えるために上手いことこういうシステムを作り上げている。ただ、それらのために低賃金で過酷な仕事を強いられているのは、そうした正社員になれない人たちである。彼らにとって見れば、仕事はないよりはましなのかもしれない。だが、確実に「犠牲」は強いられている。正社員ではないから、いつ解雇されるか先行きの見通しも立たない。このことはもっともっと考えられていいことだと思う。
 
 二面には、中央省庁の不透明契約の問題。公益法人改革案に、解散明示がわずか二件しかないこと。年金機構新計画では、正職員の九割が社保庁からの移行が占めること。これらの記事が載っており、先の問題に絡む「派遣地獄」に対する「役人天国」の図式が思い浮かんできて不快に感じた。
 
 八面には、中央最低賃金審議会の初会合の様子が書かれている。原材料の価格高騰などを理由に、労使が十円超の引き上げで激しい攻防になると予想されている。二面に、国連事務総長を前に福田首相がスーダンのPKOに自衛官派遣を表明とあったが、鶴の一声で最低賃金の問題でも福田は「上げろ」と言えばよかろうと私などは考える。
 同じく八面に、国際決済銀行の「日本のデフレ回帰懸念」の記事が載っている。この中で特に、世界経済の低成長が長期化すれば、保護主義の圧力が高まりかねないと指摘している点に注意が喚起された。いろいろな意味で、日本国内においても保護主義的な動きが活発化しているように感じていたからだ。ただし、世界経済はインフレと景気減速が同時進行しているが、日本は逆に円高によるデフレに戻る可能性があるということで、いずれにせよ世界経済は「やばい」状態が続くのだなと感じた。そして各国が保護主義政策をとるようになるといっそう「やばく」なるんだろうなと思う。ちょっと注目していかなければならないと思う。
 
 九面には東北百貨店協会のまとめた五月の売上高とその前年同月比の報告が載っている。
それによれば東北の今年五月は三・八パーセント減で、二ヶ月連続の減少ということだ。もちろん食品やガソリン値上げで消費者心理が冷え込んだとみられている。庶民の懐具合が反映されているのだろう。
 
 十六面では、仙台市の学校敷地内禁煙施策に、中学校勤務の先生が訴訟を起こしていることを取り上げた記事が見られる。結果としていえば、仙台地裁は敷地内喫煙を禁じる趣旨の職務命令ではないと施策の強制力を否定した形となり、敷地内喫煙に司法の「お墨付き」を与える形となったと記事は報じている。
 これに対して市教委教育指導課は「これまで同様、禁煙への協力を求めていく」としているそうだが、いかにものコメントである。
 訴訟を起こした男性教諭は相当頑固な人だと思う。そうでなければ、とてもこんな訴訟は起こせなかったはずだ。是非はともかく、孤軍奮闘で、自分の思いをたった一人でも貫こうとする人は、私は支持したいと考える。
 もともと学校敷地内禁煙などは愚かな施策だと考えていた。もっというと悪しき施策だ。何故かといえば、反対の声を挙げにくい人々に向かって、さらに黙らせることを半強制的に強制する施策だからだ。こういう施策は一番たちが悪い。これが公立の学校で堂々と行われる恐ろしさ。私などはすぐにロシアやベトナムの独裁や恐怖政治を思った。もちろん学校敷地内禁煙の施策は超ソフトになった強圧としてだが、反対の意を唱えさせないような手法としては通じるものがあると思う。
 これに対して、相当数の人々は無自覚であり、無神経だ。
 先生たちの中で、何人の人が煙草を吸いたいのに我慢したり、声を立てずに吸うことを諦めていったか。それこそ「主体的に」敷地内で煙草を吸うことを止めていったに違いない。こういう決断や選択を強いる施策によいものはない。もちろん煙草を吸わない周囲の人々は、半ば無関心にその推移を眺めたはずだ。周囲の人をそういう立場にさせるのもよくない。いじめられているものと、いじめを傍目に眺めているものと、子どものいじめの世界がそっくりそこに表れている。
 この光景、この関係は、ほかにもどこかで、そして幾度と無く見てきたような気が私にはする。社会のあちこちに、ある。
 私ならばしっかりと学校敷地内にも分煙施設を作り、喫煙所を設けるのが教育的にも必要だろうと当然の如く考えていた。それが自由主義社会の自由主義社会たる所以であろうとさえ考える。全面禁煙の施策には、そういうゆとりがない。反対の立場に立つものに対する思いやりのかけらもない。
 こういうやり方をするのが教員であり、教育関係者であり、教育長であったりするということの愚劣さをどうして指摘するものがないのだろうか。私はこういう低脳な連中が教育界を支配しているのだと知った時、いやそれは知ってはいたのだが、こんな施策が大手を振って罷り通るのだと分かった時、何の思い残すこともなく教育の世界を去った。
 辛口のジャーナリスト、文化人、知識人なども、あるいは市町村の同じような条例に対してしっかりと批判できる人間はいなかった。それだけにかえって逆に根の深い難しい問題を秘めたことだと私は思っている。
 ところが、つい数日前のことだが河北新報の「持論時論」のコーナーで、こういったことについての一般の読者からの投稿が掲載されていて、それを読んで私は驚いた。投稿者は非喫煙者だと記憶しているが、彼は最近の社会が喫煙者を締めだそうとしているような雰囲気を感じて、その不寛容がとてもヒステリックに映じることを書いていた。社会の、「不寛容」と「ヒステリック」、私は読んでとてもよいことを指摘してくれていると喜んだ。これとは話題もベクトルも違っていることをいうけれども、例えば捕鯨反対の運動があるが、自分の考えと異なっているものに対して、はじめから相手を理解しようとしない、話し合いの余地がない、そして相手に対してヒステリックなまでに行動が直接的で、あらゆる妨害の手段を講じようとする。私にはどこか共通するところがあるように感じられるのだ。
 河北の投稿の主は七十歳とかで、昔だったら、反対するにしても相手に対してもう少し「寛容」な姿勢で臨んでいたような気がするといっていたが、まさにおっしゃる通りと私は膝を打ちたかった。最近の社会は「不寛容」だ。そしてヒステリックで、バッシングがきつい。ひところの探偵ものやヒーローものの題材にもなった、住民がすべて幻覚症状をもたらされたり洗脳されたりした状態のように、異様な光景が進行しているのではあるまいかと私には映じる。せめて、教育の世界くらいは今一度真剣に「寛容」について考えてもらいたいし、実際に「寛容」であって欲しい。でないと、子どもたちの心にも「寛容」が居座る席が無くなり、ますます狭くヒステリックになっていくばかりではないかと私は危惧する。
 私はその文章を書き、投稿された七十歳の先輩の、教育委員会や教育長とかの連中よりも、はるかに人間的に優れているように思われて、頼もしく感じた。学校や教育はよいことをしようとして、本当に大きく勘違いすることがよくある。戦時の教育の役割を考えてみてもそう思う。その反省がしっかりなされている本や記録を私は目にしたことがない。どこかにあるなら、誰かそれを教えていただきたい。
 
 
   平成二十年六月二十五日
 
 五月二十五日の「持論時論」に、「憲法と日本の平和―国民守る視点で議論を」と題した菅原広次さんの文章が掲載され、私は自前のホームページの「今日の河北新報」の項で取り上げて論じた。
 ちょうど一ヶ月後の今日は、その菅原さんへの反論として、同じ「持論時論」に佐藤一さんの文章が載っていてそれを読んだ。
 菅原さんの文章が改憲組だとすると、今回の佐藤さんの文は護憲組からの反論である。こちらは見出し、あるいは題として「憲法と日本の平和」「遵守こそ生き延びる道」などの言葉が並んでいる。
 改憲と護憲。中央の知識層ばかりではなく、地方においてもこういう論争が繰り広げられることについて、私などは少し驚くところがある。地方都市、町や村において、こういう考えを持ち、そうして意見として堂々と発表するようになったのだと、改めて国民全体の知的レベルの底上げが為されていることを感じた。それ自体はとてもよいことではないかなと私は思う。
 ところで、菅原さんと佐藤さんの文章の中身は、先に書いた改憲と護憲を象徴していて、悪たれて言えば、どちらも以前に「見聞きした主張」の延長上にあると思えた。どこかで見たり聞いたりしたことのある内容と、さほど変わるものではないと思う。例えば政党政治家、学者、ジャーナリスト、思想家等々。
 そして今回のそれぞれの持論の展開は、そうした中央の代理論争、縮小版かなと言う気がしている。
 私は先の「今日の河北新報」の中で菅原さんの文章を論じながら、護憲が空想的平和論であるならば、改憲は空想的脅威論ではないかと揶揄してみた。そして今回の佐藤さんの護憲の主張についてはこれを読みながら、空想的平和論とは言わないまでも、やはり何か物足りないものを感じた。それは、第九条を根幹とする平和憲法を抱きしめ、順守していればよいという主張に聞こえるからだ。
 私などは九条を守れというところまでは同調できるが、順守すれば日本国(国民)が生き延びるという消極的な主張には同調できない。守っているだけでは意味がないだろうというのが私の考えるところだ。そんなもの、ただのお飾りやお守りの紙みたいなものじゃないかと思う。現に戦後六十年、九条にこめられた平和の理念の向かうべきところを世界に先駆け、世界に広く浸透させていく力も努力も充分持ち合わせなかったと私などは思う。
誇張した言い方をすれば、私たちは優れて高度な九条の戦争放棄の理念に追いついていない。つまり、世界平和のあり方に、現実的に実現していくだけの見識も知恵もなかったということだと思う。そういう実際のところで、ただ単に平和憲法を守れ、順守しろというのは、核を保有し、いざとなったら発射するぞと脅すところとさしたる変わりがないと私は思う。平和憲法を持っているから立派かというと、決してそんな単純なことではないだろう。どちらも不可能性を前提としているのに、気づかぬ振りをしているか、本当に気づいていないのかだと思う。
 何の影響力も持たない一般生活者という私の立場からいえば、今のところ改憲、護憲、どちらの論にも与しないというのが正直なところで、もう少し九条が理想とするところの価値について考えを深めていくことが課題となるところだ。二人の主張するところには、どちらにも底流に漠然とした不安や脅威みたいなものが感じられる。それは世論が醸し出す雰囲気が個に投影して、個を呑み込むからなのだろう。それに誘われて二者択一みたいな論争に巻き込まれるのは、馬鹿らしいと思う。それよりも、不景気であり、物価高騰の折り、今日明日の生活に煩い、どうしていこうかと考えるほうが切実であり、また大切なことだと私は思う。二人の「持論」がどれほどの反響を持つものか分からないが、読者のみなさんにはくれぐれも拙攻に二者択一を判断されないようにと願うばかりで、つい柄にもなくこんなことを書いた。
 
 
   平成二十年六月二十二日
 
 争いは、お互いの誤解や曲解に起因するところが大きい。また習慣の違い、言語の違いや、その人の持っている理解の許容範囲を逸脱するものがあったりすると、やはりそれらも手伝って誤解や曲解を生むということにもなる。
 争いのない平穏な状態というのを考えると、地理的条件等で孤立する共同体が内部において成熟し、個々の成員が「あうん」の呼吸で理解し合えるというような状態が一番考えやすい。体験的なものがだいたいにおいて互いに分かり合え、他者がどんなことをどのように考えているか推測できる状態。そうであればあまり大きな諍いには発展しない気がする。
 ただし、外から異質な人々や異質な民族が突然現れたりすると敵対すると言うことがあったりする。
 そういうことをぼんやりと考えていたら、今日の河北新報でマンガ原作者でありサブカルチャーの論者でもある「大塚英志」が、宮崎勤の死刑執行のニュースを受けながら
 
 その詳細をここで記す余裕はないが、一つだけ言えるとすれば「少しだけ変わった者」に対する不寛容の中で彼は居場所を見いだせない青年の一人だったということだ。
 「ちょっとだけ変わっている」というのは彼がおたく的であるという意味に限定されず、もっと別の部分においてなのだが、異質なものへの不寛容さがもたらしたものを例えば「格差」という言い方で動かしがたいものとしようとする空気がむしろ、さらにそのような若者を疎外する悪循環を生んでいることは先日の秋葉原の悲劇でぼくたちは見せつけられたのではないか。
 
と書いている文章を読んだ。
 私はこの文章を読んで、学生の頃に読んだ吉本隆明の詩で「異数の世界に降りていく」と題した詩のタイトルを思い浮かべた。
 社会とか世間とか呼ばれるものの中にあって、和解し、妥協し合えない感性。自分を異質だと認めるしかない疎外感。そして社会とか世間とかが示すと感じられる「少しだけ変わった者」への不寛容。これは世代を問わずに存在するとあらためて感じた。ただし、吉本の場合は自ら進んで孤立化を覚悟する中で、世間や社会にひそむ欲望それ自体について考えるということを通して、自分の異質さの生き延びる道を模索したと言っていい。
 宮崎勤のことを大塚は本気で追い続け、学び考えてきた一人だと承知している。私はそうではない。そうではないが、内面に異質な要素を抱える点において、長く気にかけてきた。そういう私の立場から見て、大塚の言う「異質」さと、それに対する「不寛容」から事件の全体を見る見方は優れた見方だと思えた。
 吉本隆明の詩は、戦後の混乱からあまり時間をおかない時期に書かれた詩である。社会や世間の、敗戦による混乱が背景にはある。
混乱の内実は何かと言えば、倫理道徳、日本的伝統、あるいは従来の価値観の崩壊かもしれない。共同体内の秩序維持の支柱ともいうべき部分に打撃があった。その空白を埋めたものは、復興から経済の発展へと意欲する人々の情熱であったかもしれない。これは日本を経済大国へと押し出す原動力になった。その果てに先進国の仲間入りをさえ果たした。
 しかし、日本人の民族的な精神性という点から見れば、敗戦により喪失した空隙、空白はそれ自体としては埋められていないのであり、逆にそれは大きく広がり民族的精神史の敗北はここにきわまると見てもよいのかもしれない。共同体が、地域が変節した。
 大塚が「不寛容さが悲劇生む」と言う時、いったい何が「少しだけ変わった者」に対して不寛容なのかを私は考える。社会とか世間とか言ってすませられるならばあるいは簡単かもしれない。だが、社会も世間も決して一致団結であるわけではない。私は、誇張していえば、一億総「不寛容」ではないかと考える。組織や社会や世間において、うごめく観念はばらばらで、集団的共同的に「不寛容」であるのではないと思える。そのばらばらの個が、ある個人にとって、「不寛容」な世間、社会として表れる。それはしかし、「不寛容」な個人の集合としか言いようのないものであり、変節した地域や共同体に「不寛容」の作用は発揮できないと私は思う。この「不寛容」をかつての日本の社会、日本の世間は個人の心から「公」の観念でもって薄め、逆に「寛容」の精神を培ったと言える。今はその世間の内側が壊れ、個人の中から「公」がその座を追われ、個人の「不寛容」が露出する。
 個人の不寛容はどこから産まれるかと言えば、個人の精神の許容量の狭さから生じると思われるし、厄介なことにもともと人間的な本能の部分では不寛容が寛容に先立つのではないかという気がする。。精神の許容量の狭さは、体験として異質なものとの交流の少なさから起因する。通俗的に言えば、グローバル化したとはいえ、かえって現代では人間関係を構築するための時間にゆとりがなく、そのためにかえって関係の取り方が稚拙であり、下手になってきているという一事に尽きるかもしれない。精神の核において、深層において、私たちはもしかすると表層の「寛容さ」とは逆向きの「異質さへの不寛容」を形成してきているのではなかろうか。
 ここはしかし、もっと詳細にあるいは緻密に考えていかなければならないことであろう。
また、「少しだけ変わった者」、疎外感を感じ異質へと滑り込んでしまう個人の、なぜそうなるのかも問わなければならない。私は、自身を異質と感じるところがあり、そのことに悩み続けてきた経歴を持つ。そして吉本の詩に倣い、「異数の世界へ」堕ちていくことさえ、ある時期には選択した。それは今も、その延長にあって私を私たらしめている。そんな私にとっては、異質さ故の疎外感は、その内側に向かってねじ込むように入り込み、そのことをもって解放したり解消したりする以外にはないと考えられた。つまり知によって明らかにしていくほかに根源から解放されることはあり得ないだろうと考えていった。もちろんそのことで疎外感がなくなったり、異質さをすっかり解消できるわけではなかったけれども、なぜ自分がこのように存在しなければならなかったかはある程度の了解がつくようになり、それは「私一人」ではないという発見に結びつくこととなり、そして一つ次元の異なる連帯感を私にもたらした。私はそう感じることにおいて、やっと存在が許されるような、自己においても肯定できるような、そんな気がしている。
 疎外感を奥底に抱いたような若者が無差別殺傷事件を引き起こすのを見聞きするにつけ、
私は何とも言えずに悲しい。脱落する同胞を見ている心地さえする。彼らの行為に、共感もしなければ擁護できるところもない。そちらに逃げては誤ってしまうよという、声なき声を発するばかりだ。
 「ちょっとだけ変わっている」者を疎外したり、いじめたりするのは現代の子どもの世界にも顕著だ。大人にあるから子どもにもあり、子どもの世界では拡大した現象をもたらす。執拗ないじめは恐怖の裏返しとも言える。自分がいじめられないためにはいじめる側に回ったほうがいい。本当は、誰もが「ちょっとずつ変わっている」人間に過ぎないのに、自分は変わっていない者のように振る舞っているに過ぎないのだ。右を見て、左を見て、表層で何とか周囲に倣うことが出来ていれば問題にはならない。
 こういう問題はどうすればよいか。一介の生活者に過ぎない私は途方にくれる。大塚のことばにすがれば、「不寛容」の事実を見つめ、問い直し、「寛容」の道筋を見つけていくことが大切に思える。
 日本から失われた寛容の精神を再構築することはそれほど簡単なことではないかもしれない。けれども、それはしなければならないことだろう。それは当座の間、一人一人の問題意識の中に大事な問題としておかれる必要がある。その上で、為すべき立場にあるものたちが為すべき事を明らかに見定め、為していけばよいのであろう。私にはそうとしか言えない。
 今日はとりあえず、これだけのことを言っておく。
 
 
   平成二十年六月十八日
 
 前回の記述から少し間が開いてしまった。
 この間、十四日には岩手・宮城内陸地震があり、そこから今日まで河北の一面はこの報道で占められてきた。地震についてはいつ訪れるかは分からないので、例えば三十年内に必ず来ると言われている宮城沖地震への備えなど、私は全く考えていない。来たら仕方がない。そう思って手を抜いている。
 新聞では復旧や二次災害の恐れ、それらの対策などについての記事であふれている。これらについて、詳細に知ろうとしたり記事を読もうとしたりする気に私はなれない。いずれ専門家や行政の担当者たちが知恵と力を出して努力していくに違いない。
 こういう問題について私は考えたことがないし、全くの門外漢で言うべき事は何もない。また災害復旧に向けて何かをする力も出来ることもない。完全に無力で、出来たことといえば栗原市栗駒の実家に行き、少しばかり後始末の手伝いをしただけだ。
 少しだけ言っておけば、今回の地震の揺れは仕事が休みで家にいる時に体験した。相当に強いと感じ、棚が倒れたり家が倒壊しないかなど瞬時に考えた。恐怖も覚えた。気休めに机の下に潜り揺れのおさまるのを待って階下に降りた。いざというときは、家の外に逃げ出さなければなるまいと思った。しかし、大きな揺れは一度きりで被害という被害がなく、これまでにも幾度となく起きた地震と同じでたいしたことのない地震であったとその時判断した。テレビで地震速報を見ると、実家に近いところが震源だと知り、電話をしてみたがすでに不通になっていた。しかし、被害がなかった自分の家の状況から推し量って、実家でも飾っていた置物などが落ちた程度に過ぎないだろうと考え、私はふだんの生活通りの落ちつきを取り戻した。さらにテレビでの被害状況を見ても、速報は新潟・中越地震や阪神・淡路大震災の時のような被害の大きさを写さなかったので、いくぶんのんびりとそれらを見た。それから楽天的でのんびり屋の私はパチンコしに出かけた。パチンコ店で大きな余震に見舞われたら、それはそれで仕方がない、運が悪かったと考えるしかないと思ったりしていた。午後になり電話が通じると、実家では手伝いに来てもらえるなら来て欲しいと言っていた。それで行ってみたのだが、家のまわりに亀裂が生じていて、これは自分たちだけではどうしようもなかったけれども、想定外の被害に少し驚いた。
 あれから四日間、新聞、テレビは、少しずつ被害の大きさ、その状況を克明に伝え始めた。私にとっては想定外の被害の事実が次々に明らかにされてきたという感じだ。今日の河北では、土砂で上流が堰き止められたり、用水路が損壊したり、あるいは地面に亀裂が生じて水田の水が干し上がったりしていることも伝えている。こういった連鎖の被害はまだまだ拡大していくのかもしれない。これは大変なことなんだと、遅ればせながら気づき始めたところだ。
 とは言っても、私の住む町の周囲はほとんど被害がないせいか、変わらず通常の生活が続いている。仕事もあり、被害者や周囲の復旧を進める人たちの心持ちに添うことが出来ない、していない、というのも事実だ。ただ、それらの人々の心に早く平安が訪れるようにと祈るばかりだ。
 
 今日の河北の記事で、私が少し考えておきたいと思ったのは地震とは別に、幼女誘拐殺人事件の宮崎死刑囚の死刑が執行されたということについてだ。
 考えておきたいといっても、私はこの事件や宮崎死刑囚に興味を持って追い続けてきたわけではない。その意味では一般のテレビ視聴者や新聞の読者とかと同じくらいの関心しか寄せてこなかったと思う。
 この事件は当時社会に衝撃を与えた。裁判が行われ、死刑が確定した。テレビ、新聞、雑誌や本などで、いろいろな人がいろいろに論じた。けれどもこれは私の印象にすぎないが、たくさん論じられながら、何一つ分かったとか明らかになったとかいうものがなかったのではないかと思われる。宮崎死刑囚その人についてもよく分からない。分からないままに、死刑は執行されていった。
 宮崎死刑囚が異常な人であったのかどうか、それさえも私には分からない。通常私たちが正常な人格として認める際のポイントになる他者とのコミュニケーション。それがどうも通常とは思えなかった。だがしかし、全くコミュニケーションがとれない人格破壊の人間とも思えなかった。通常ではないが、異常と見なすことにある種のためらいも持たれた。
全く価値観が違う、誇張して言えば住む時空が異なっている、そういう次元とか位相とかの落差があるように思われた。
 このことを考えるに、私には時空を異にする人間が「今」に出会っていると考えるのが分かりやすい気がする。言葉は通じるのだが、内面に持っている世界が全く違う。いや全てが違うとは言わないまでも、内面世界の根本的な成り立ちが私たちのそれとはすっかり違っているように感じる。けれども内面世界の形成の仕方に違いがあるのではなく、違っているのは内容であり、あたかも狐憑きを信じる昔の人が突然目の前にやってきたかのような感じすらする。それは一つの信仰のようなもので、信じ切ったものを変えるのは容易ではない。
 私たちにこの種の人たちの考えること、やることが理解できないと感じさせる人々の中に、例えば自爆テロを遂行してしまう人たちがいる。こちらはしかし、イスラム教などの宗教が元になっていると考えると少し分かりやすい。日本にも以前、特攻隊があった。状況の逼迫、緊張などが極度になると、人間にもいろいろなことが出来て、またいろいろなことが起こる。
 宮崎死刑囚の場合は、それらと比べてたいへん個人的に内面世界が形成されたと感じられる。しかし、ビデオや雑誌、周囲の環境や人的影響、あるいは時代的な背景を含め、その形成に与ったものは何ら特別なものではない。
 この世界、あるいはこの世界の歴史、それを時空を越えて縦横無尽に思念の中に取り込んで考えれば、宮崎死刑囚のような人も事件も人類の初期に存在したりおこなったことのあることからはみ出るものではないと考えるのがいいという気がする。人類始まって以来の異常とか、異常な行動とかいうものではないと考えるのが妥当だと思う。そしてそういう人類の初源なるものを解明できるようになれば、宮崎死刑囚のことについても自ずから理解できるものという気がする。それくらい根底的で根源的で、彼の人間性や彼の引き起こした事件はそうした問いを私たちに投げかけているもののように思われる。そして、少し前に秋葉原で起きた無差別の殺傷事件のように、私たちに不可解と思われる事件は多くなってきており、今後も増え続けていくに違いないと思われる今日、こうした不可解さを明らかにしようとする努力が行われなければ、いっそう事件は事件を呼ぶという形で広がり続けるのではないかと危惧される。
 今回の死刑執行は異例とも言える早さで執行されたのだそうで、それはおそらく抑止効果の意図もあってのことだろうと思うが、死刑という抑止力にどれほどの効果が期待できるものか私には甚だ疑問だ。というよりは、皆無に近いほど無力ではないかと推測する。
また抑止力というもので執行期間の長短が決められるというのも、つまり犯罪加害者とは言えども、その人の生死の扱いを戦略的に取り扱うのも、別の意味で非人間的な行いであると私は思う。
 とりあえず今日記事を読みながら考えてみたところは、大ざっぱに以上のようなところである。深く考えることが出来たわけではないし、大事なことが言えたわけでもない。ただ私の感性は、ここのところはちょっと気にとめておかなければならないと指し示すので、それに従って少し立ち止まってみた。
 
 
   平成二十年六月十日
 
 今朝の河北新報の一面には「秋葉原無差別殺傷」事件が取り上げられており、コラムの「河北春秋」でもこの事件に対するコメントが書かれていた。事件についてはテレビその他のメディアが大きく報じるところであり、概要は誰もが知っている通りだ。マスコミの取り上げ方、対応もほぼ一致しているように思われる。被害者となった人たちのプロフィールもずいぶんと詳しく紹介されていて、特に若い人のこれから夢や希望に向かって歩もうとする人生の、中途に倒れたことへの同情を誘うような構成が為されているように私個人は感ずるところがあった。
「理不尽に命を奪われた無念を晴らすためにも」ということばが「河北春秋」の中にあって、私は少し気になった。
 被害者たちはさぞ無念だったろうな、とか、その無念を晴らしてあげたいとか、マスコミが第一に発する口調は、この「河北春秋」が述べているところとさして変わりない。私はしかし、そこのところが違っている。
 昨夜、テレビでこの事件が報道された時に、職場のトラブルも一因かということに触れて、妻は「だったら職場で暴れたらいいのに、どうして何の関係もない人たちを襲ったりするのか」と怒っていた。そして殺傷された人たちが可哀想だと反応していた。彼女の反応は一般的で、テレビの伝えるトーンと同一のものがある。それが普通の反応であり、普通の感覚なのだろうなと私は思った。
 ところで、私はと言えば、即座に被害にあった人々に同情するとか、その立場や近親の人々の立場に立って怒りを代弁するとかというようには心を働かせるようではなかった。かえって、加害者にのしかかって加害者を加害者たらしめた力というようなものに考えが行き、加害者はその力に抗しきれずに取り返しのつかない残虐な行為をしてしまったなどというようなことを考えていた。
 妻やテレビなどの反応にあるような一般的と思われる反応をなぜ自分がしないのかは考えておかなければならない。そう思って私はこれを書き始めている。
 はじめに、この種の事件に関して、私は被害者のことや被害者の無念というようなことに思いが至らないことが多い。ほとんどは付き合いのない人たちであり、その時点ではその人の特徴はおろか、簡単なプロフィールさえ分からない。つまりは赤の他人で一瞬可哀想にとは思うが、彼らの命を奪われた無念さなどというようなものにも実感が持てないことも事実だ。自分が被害者であれば、考える間もなく死んでいくということになるのだろう。不意の襲撃だから、反射的な抵抗を試みても功を奏さないに違いない。これが妻子であれば、殺したいほどに加害者を憎むだろうし、現実を認めることも否定することも出来ずに、しばらくは宙吊りの中に置き去りにされたような思いで過ごすことを余儀なくされるに違いない。
 私は被害者からも被害者の家族からも何の関わりもない傍観者の一人に過ぎず、また何の助けにもならない赤の他人の一人である。私が同情したところで、彼らには何の意味もない。私の癖で、こんな場合私の同情は抽象的になってしまう。具体的な対手がいないから、心を摺り合わせるというような意味合いでの同情心は発揮されようがないと考えてしまう。そういう心づかいはおそらく彼らの近親、そして身近な友だちや仲間や同僚が発揮するに違いないのだ。
 加害者への憎しみ。これも私は加害者自身を知らないし、彼の人間性に触れたこともないので具体的な憎しみや怒りとしては体験することが出来ない。報道を通じた抽象的な加害者に、抽象的に怒りや憎しみを覚えるばかりだ。相手が目の前にいるわけではないし、相手に思いが届くわけでもないから、そうした怒りや憎しみを持続的に抱き続けることは難しい。
 要するに私は、コラムの作者が言うような「理不尽に命を奪われた無念」というような考えを持つことができない。あるいは、「無念」ということばに含まれる同情的な思いを、ああ彼らはさぞかし「無念」だったろうなという文脈で使うことが出来ない。中絶した生を、無念と見るのはこちら側に残る人間である。無念であるか、無念でないか、彼らを知らない人間が容易く使うべきことばではないのではないか。そうも考える。コラムの作者が使う「無念」のことばには、作者のヒューマニズムが仮託されている。つまり、そのことばによって読み手に喚起されるのは作者のヒューマニズムの美しさのようなものであって、決して被害者の「無念」が浮かび上がってくるのではない。被害者が本当に無念かどうかは、実際には当事者になってみなければ分からない。これは、決して屁理屈を言っているつもりではない。もちろんコラムの作者に言いがかりをつけようとしているのでもない。ただそこははっきりとさせておきたいだけだ。
 私たちはマスコミをはじめとする情報の発信者のことばをよく耳にする。このコラムのことばのような、被害者の無念、などといういわれ方もよくすることだ。だがそれは一過的であり、それを発するものはそれを発して終わりにしてはいないだろうか。そのことばはとても軽く響く。そのことばを言えば、それで何か大事なことをいったつもりになり、またそれで済んだつもりになってはいないか。
私にとっては被害者の無念を、本当に心に追体験してみることさえ至難の業のように思える。それをしかし、あたかもそのことばを使えば本当にそれを思い、考え得たかのように錯覚している。私にはそう思われてならない。もちろん、世間ではそれが通用するし、それくらいで了解し合えているというのがまた世間なのに違いない。その世間から見れば、私などのような考えや意見こそが異質なのだろう。
 さて、私は一般的な受け取り方や反応とは自分が少し違う受け取りや反応をしてしまうことを言ってきた。自分のほうがいいとか悪いとかを言うつもりではない。コラムの作者の言葉づかいが安易だというのを言いたいのでもない。ただ事実として、そういう違いのあることに気づいたことを言っている。いや、私自身はその違いを以前から意識してはいた。それに戸惑いも覚えていた。こういう、ほかの人たちとは違うという側面は、それだけで私にとってはストレスになることがある。なぜかと考えても上手い答えは見つからない。ただそうであることをそうであるとしてここに記しておきたかった。隠しておかなければならない理由はない。もしかして批判を受けるかもしれないが、私はあえてこう考えようとしてこう考えているわけではないから、仕方がない。私自身ではこういう傾向は直せないのだ。
 
 ここまで書いてきて、私がなぜこれを書き始めたのか、そのねらいが少し整理されてはっきりしてきたところがある。
 それは佐世保の母子殺害事件を契機として高まってきた被害者や被害者親族の人権、権利を見直す動きの余波が今回の事件にも微妙に影響しているらしいことを感知していることと無関係ではない。それは被害者に厳罰をという流れで、私はその流れを知ってそれに乗っかるように被害者側に比重をおいたマスコミの報道の仕方、「河北春秋」のコラムのことばに、作為性や操作性などの嫌な動きを感じて苛立っているのに違いない。そしてそれはなにかにカモフラージュされながらのように微少な作為性であるから、いっそう嫌なものとして感知している。
 つまりそれは嫌な言い方をすれば、「商売」の臭いがすると言っていい。それさえも決して悪いことでも咎め立てすべき事でもない。
もともとが商売だから、臭って当たり前といえば言える。ただ世の中のことばが、こういった思惑や計算が入り込んだことばばかりになっていくとしたら、私は、かなわないなあ、と感じる。そんなんではコラムの言う「対策」もなにもあったものではない。そんな「ことば」の環境に育まれては子どもの時から生きることが嫌になるだろう。首根っこを掴まれて、犯罪の世界に連れて行かれる若者たちも次から次へと生まれていくに違いない。
 私にはどうしてだか、この種の犯罪の対策は立てようがないと思えてしまう。仮に対策を立てたとしてもいくらか事件としての出現を遅らせたり、間隔を持たせることに効果が出るくらいのところだろう。
 
 このあたりで止めようかと思っていたが、二面に同じ事件を扱ったルポライターの鎌田慧の文章が載っていた。さらにはまた「社説」
や社会面にも扱われている。この中で、鎌田の文章にはちょっと触れておきたい。
 
 加藤容疑者は自動車工場に派遣されていたという。わたしが自動車工場で季節工として働き、ルポルタージュを書いた一九七〇年でさえ寮や光熱水費は無料だったが、派遣は季節工よりも労働条件が劣悪だ。必要な時にしか雇われない。そして食うのが精一杯の不安定な生活を強いられている。追い立てられるような切迫感、どうにもならない焦燥感があったのではないか。
 
 自動車製造は塗装工程などではロボット化が進んだが、加藤容疑者が担当していたという検査工程は集中力を要する仕事で、精神的に疲れていた可能性も考えられる。自動車工場における「人間疎外」の実態は、わたしがいた当時とあまり変わらない。派遣労働者へのケアはさらに少なく、工場の同僚と酒を飲む憂さ晴らしさえ出来ない。
 犯行現場の秋葉原はIT産業の中心地で、加藤容疑者には羨望と反感があったと思う。秋葉原の事件は労働者を憂き目に遭わせてきたрツけではないか。永山事件の時代は事件を社会問題として扱った。最近は事件を全て個人の心の問題に帰結させる傾向があるが、社会構造を変えないと犯罪は起き続ける。
 事件は労働者問題、格差問題を再考するよう、現代社会に突きつけられた警告と考えたい。
 
 河北新報の記事、社説などに比べて執筆者の視点がとてもはっきりしている。
 鎌田の文章の中で、「労働条件の劣悪さ」と「人間疎外の実態」には頷けるものがある。私もまた契約社員という処遇でよく似た環境の中で仕事をしているからだ。
 今日のところは時間も来たのでこれで終わる。先進国の中の貧困。これはいずれ考えてみなければならない。
 
 
   平成二十年六月六日
 
 今日の河北の一面には例の「田園漂流」が組まれている。大見出しは「兼業農家の役割確認」として、河北新報社とJAみやぎ登米が主催してフォーラムを開き、兼業農家の役割の大きさを確認するとともに、農家が安心して稲作を継続できるような支援が必要との認識で一致したと伝えている。もちろん「一致した」もなにも、はじめから県内の「兼業農家支援」を目指した取り組みの一貫だから一致して当たり前といえば言える。私などのように、こうした世論形成の仕方に違和感を覚えて「ちょっとそれは違うんじゃないの」
といった見方など入り込む隙はない。
 私が河北新報の一連の農業問題に関するキャンペーンを見続けてきて、一番苛立つのはその手法である。論議でも対談でも、はじめに「農村、農家を守れ」がありきで、その一点方向をしか向いていない。
 一般投稿者などの投稿を読んでいると、河北新報のこうした姿勢が色濃く反映して、食糧自給から供給の問題、安心や安全、環境保全などを問題にした意見が多く投稿されるようになっている。また河北はそういう投稿を積極的に取り上げたり、いっそう県民の意識、世論の形成を煽っているように感じられる。
 こういうように畳みかけられると、いつの間にか世論は一つにまとまる。反対の考えや意見、あるいは反対ではないにしろ疑問を抱く人々の考えや意見を一切汲み上げようとせずに、あたかも無いかの如くに紙面がこしらえられ、構成されていくことに私は危惧を感じる。こういう形での世論の統一、国論の統一は、それこそ「いつか来た道」の繰り返しではないのか、というように。
 
生産調整など縮み志向の農政は大転換すべきだ。多様な農家が農地を活用し、生産を担うようにしないと、食糧の供給は危うくなる。
 
 この発言は、フォーラムに招いた講演者、丸紅経済研究所所長、柴田明夫の発言であり、兼業農家を激励するものとして記事の中に挿入されている。
 本当に東北の農家はこれを激励の言葉として喜んでいて良いのだろうか。日本の「食糧の供給」の為に、東北の農家よ頑張ってくれというのは、昔からの米どころの位置づけとさして変わるところがない。そういう中央からの要請に応えて、その結果、東北は、東北の農村は泥まみれになって生活してきた。もちろん頑張った。頑張った果てに、大学に入学する子どもたちを都会に送り出すまでになった。是が非でも農業を継げとは誰も言わなくなった。農業に精を出し、頑張った果ての結論がそういう形になった。
 仮に河北などがめざすように、農村がかつてのような活気ある農業の取り組みがなされるようになったとして、子どもたちを都会に送り出す必要がないところまで、経済的にも文化的にも発展というものは可能だろうか。私にはそんなことは少しも信じられない。
 たとえば河北新報社の社員の多くは、仙台市や仙台市近郊に住み、都会生活の便利さを享受できていると私は思う。少し郊外に出れば、風光明媚な田園が控えている。そういう人たちから見れば農村が元気であることは、自分たちも元気をもらえるということになるのだろう。だから、農家を支援するのでもあろうと思う。それはそれで良いし、決してけちをつけたりくさしたりすることが私の主意ではない。だが、どう考えても河北が言うように、現在の兼業農家のような小規模の経営の全てが生き残るとは思えないし、生き残ることがよいのだとも思えない。生産性も上げ、質自体も高めていくところにしか生き残る道がないのは他の産業の例を見ても明らかだ。
これを永久に保護や補助金などで維持して行くには相当の無理があると感じる。
 河北はこういうキャンペーンをはって、農家にエールを送り、世論を盛り上げ、一時的に農政の転換を克ち得たとして、農村や農家は将来にわたって安泰に経営できるだろうと本当に思っているのだろうか。
 私はいま契約社員という身分で空調監視の仕事をしている。時給七百五十円で、一ヶ月の手取りは十万円そこそこだ。同じ現場には清掃の仕事をする人たちもいる。時給はもう少し安いかもしれない。私たちの勤務する現場においては、清掃業務はなくてはならない業務だ。頑張ってきれいにすれば客からも雇い主からも喜ばれる。大事な仕事であり、以前の倫理道徳的な側面からは、尊い仕事だとも言われる。けれども、だからといって私たちはその仕事を進んでしようと考えたり、誰かにそれを勧めようとするだろうか。「誰も喜んでこんな仕事なんかしたくない」。現場の人間ならばたいていの人はそう言うだろうと思う。尊い仕事だなどというのは、安い賃金と粗末な待遇の中で働かせる口実に過ぎない。そのことが直接当てはまるわけではないけれども、最近の河北新報のキャンペーンの成果の一つのように出ている農業見直しの意見には、これに類する、結局のところ他人事だからそう言えるといった態のものが多いように感じられるし、農家の人々自身もまた少しずつ「農業問題は国家的大事」といった気持になってきているようなのが私には不安に感じられる。そんなことよりもっと個人的な、もっと私的な欲望の自然を基準にして動いたほうがいいのではないかと思う。
 河北新報は根本的に論議の方向を間違っている。苦しい兼業農家に補償や補助を与えたところで根本的な解決にはいたらない。それは私たちワーキングプアにおいても同じ事だ。かえって私たちのようなものにこそ、金もなければ土地も季節の野菜やこめといった現物もなく窮地を抱えている。地方新聞として東北の農業を擁護すればそれで良いと考えるのは安易に過ぎる。まして、本当は擁護にも何にもなっていないことが分からない。
 もう一度ざっと産業形態別に色分けした世界地図を眺め見ると、農業国及び資源国、次に工業国、そして第三次産業が発達した先進国と三段階くらいにまとめられるだろう。第一次から第三次まで、各段階でそれぞれの国が未開発か後進か、発展途上国か先進国かと深く関連していることが眺められる。農業が産業の主体である国は、次の段階の工業の発展をめざし、さらに第三次産業が主体となる国をめざすに違いない。これは個々の人間の欲望の総和を象徴するに違いない。
 日本における各都道府県、個々の地域がどこをめざそうとしているかもこれに習って考えることが出来る。農業県である限り、どうしても貧しさのイメージから抜けきることが出来ない。企業を誘致し人と金を集め、財政を豊かにしてサービスを向上させる。そうした頑なな行政の姿勢は県民の心の深層を反映している。
 本当に農業が問題にされなければならないのはそこから先だ。つまり都市化の先に、どのように都市に農業を組み込むかがその先に必ず課題となって出てくる。河北が社を構える宮城においては、その問題ははるか先の事で、河北がいま主張する農業問題はどこか後ろ向きの、進歩に対する反動の意味合いしかないと私は危惧している。
 
 
   平成二十年五月三十日
 
 「持論時論」に、今日も「農政見直しは国の急務」という投稿が見られる。投稿者は小野さんという自営業の方だ。
 ここのところ河北新報にはこういう農業、農政に関する投稿や河北新報自身の特集記事などが目立って多い。しかもその論調は特定の方向を向いている。端的に言うならば「農業を守れ」の大合唱と私などには印象される。もちろん合唱のタクトを振るっているのは河北新報社である。
 小野さんもそうだが、日本の食糧自給率や食の安全の問題。世界的な食糧不足の問題。
こういう事に関心をもち、現状を憂えている人がたくさんいるんだなということが分かる。
日本の農業が衰退してきたのには理由がある。現在中国が経済的に発展してきて農村がどうなってきたかを見聞きすれば、それはかつて日本が辿ってきた道筋に似ていることが了解されるだろう。人間の欲望と言っていいのだろうか、花が太陽に顔を向けるように、虫たちが花の蜜に集まるように、人間もまたよりよい暮らしや生活を求めて町に出る。これは肯定されなければならないと私は思う。農業に限らず、一次産業の担い手は激減している。投稿する人々は悪い言い方をすればみな「憂国の士」を気取っている。あるいは政策担当者みたいな言い方をしている。これに例外はない。さらに悪くいえば、そういう人たちは自分でやらない。怒って、こうしろああしろと指示するだけだ。結局、農政の政策担当者よ、しっかりせい、といいたいようだ。
 農家の人々も、あるいは農業の大事さを感じてこういう形で投稿する人々も、ではどうしたらいいかという時に、その答えを実は民主党が先の参院選の政権公約という形で出している。
 個々の農家への「個別所得補償制度」、これであろう。同じく今日の記事の中には、民主党がこれを畜産や酪農、水産業に拡大すべく新たな法案提出を検討している旨報じられている。
 いまや第一次産業が生み出す価値を、市場原理に任せていてはやっていけないという事態が到来している。大事なことを分業してやっていただいているのだから、第一次産業にたずさわる人々には市場における価格とは別に、お礼の意味を込めた補償、補助の制度が必要になっている。これは無償の贈与と言っていい。私は、行く行くはそういう形でしか第一次産業は成り立っていかないだろうし、そういう形で成り立っていいのだろうと考える。しかし、世界各国がそういう形で一斉に農業保護政策をとるようになることは危険だという気がする。
 政府の何かの諮問委員会の委員になっているらしい養老孟司は、「農業が本当に大事だと思うなら、第一次産業に従事する人たちを国家公務員にしたらどうか」と言っていたらしいが(河北新報の『河北春秋』欄に紹介されていた)、真意は分からないがこうした問題の本質に触れた発言だという気がする。
 明らかにこれはかつてのソ連の国営農業、公営農業の形態を意識した発言だと思う。そういう形態に近づくほかないんじゃないの?と養老さんらしい言い回しだ。言ってみれば、国が第一次産業を丸抱えして擁護する、それくらいの覚悟と経済的な余裕がありますかと問いかけているという気がする。本当にみなが大事だと考えていればそこまで度胸を据えるが、おそらくはそこまで行くことはないだろうと私は思う。また出来ないと思う。だって、長い間農業(あるいは一次産業)に従事してきた人たちが、もっと良い条件の仕事があったらそちらに行きたいと考え続けてきたに違いないのだし、また何より財政的な事情もあるし、世界の自由主義経済から後退することを意味するものでもあるからだ。
 ちょっとやそっとの補助で、第一次産業に従事する人たちが喜んで仕事をするようになりますか。そうやって努力していけば次の年には所得が増加していく、そういう楽しみが第一次産業にはあるだろうか。私はないと思う。いま、農業が大事だ、農業政策を変えろと言う人たちは、農業の未来、展望を考えた上で発言しているのだろうか。将来に大きな所得増も考えられる見込みがあれば、自分が率先してやっていくに違いないのに、そうする人はいない。
 私が大金持ちなら、税金で補助をしたあげく、なお高い価格のままの日本産米でも、買って食べるに違いない。しかし、いまのような低賃金では、多少おいしさを犠牲にしても安い米を探して食べていくことしか考えられない。つまり、私たちのような貧しいものにとっては、政府にやって欲しいことはおいしくて価格の安い米が手にはいるような政策をとってもらいたいということだ。私たちにとっては、日本の自給率や日本における農業その他の一次産業の保護政策などは二次的な問題としてしか感じられない。仕事がないのだし、あってもパートや契約社員などのような条件のよくない仕事にしか就けず、しかも私たちのような高齢、貧困層は保護などの対象にさえならないのである。
 農業問題を語る人たちは、河北も含め、どうしてこういった全体を後背に押し込め、農業だけのしかも国家的な高みからの物言いをするのか不思議でならない。
 私は日本の農業においても、コスト削減の自助努力は最低限のところ必要であると思う。それは大規模化であり、効率化を図っていく以外にない。当然、小規模農家などは経営が成り立たないから離農するしかないから、その時に相当に手厚い手当がなされるべきだろうと私は思う。たとえば耕作放棄の農地を国が高額で買い取るというような、そして規模の大きい農家にそれを安く転売し、いっそう効率のよい農業が行われていくような政策を考えて行くべきだ。また、安心して離農できるように、その後の職業の選択についても紹介や斡旋を推進すべきと思う。官僚や公務員の天下り先を斡旋するくらいなら、こういう事に力を尽くすべきだ。集落営農化を進めた政府や官僚は、細かなところに手を尽くさず、そういうところを個々の農家に負担させたまま推進しようとするから上手くいかないのである。大胆に、しかも繊細に改革は進められるべきであるのに、ただざるの底が抜けたような改革で通す怯懦や怠惰が反発を招くのだ。
 第一次産業にある程度の補助を出す。しかも価格は、ある一定以上にならない水準を維持するようにする。その上である程度外国からの輸入を見込まなければならないだろう。いま、アフリカ会議なるものが行われていて、福田政権は積極的に支援策を検討しているという記事を読んだ。農業振興に金と技術などを拠出する考えらしい。これはまさに第三世界に日本の食料生産をお願いする道を開くものと私は期待したい。食糧問題はアフリカにとっても喫緊の課題に違いない。農業の生産性向上のため、開発資金、技術、人材を投与して、アフリカ自身の食糧問題を解決するとともに、やがて余剰を日本にも提供してもらうように協力関係を結ぶ。私などの無名なものがいうと夢物語のようにしか聞こえないかもしれないが、戦後思想界の巨人と言われる吉本隆明がすでに発表している考えであり、私はいま述べてきたような観点を総合して吉本に同意するものだ。これがたいへん現実的で、いま述べた観点を上手くまとめる唯一の道であると思う。一応ここに覚書的に提出しておきたいと思う。時間も過ぎたので終わるが、またこの問題には触れる機会を持つに違いない。
 
 
   平成二十年五月二十七日
 
 今日の記事では一面に「長崎市長射殺に死刑」の見出しで長崎地裁の死刑判決が取り上げられている。河北新報社の記事やこの関連で識者及びジャーナリストのコメントを見る限り、「死刑」はやむを得ないという論調に思われた。私は公的機関による死刑執行で人間に死を与えるということは、殺す殺されるの間にさえ介在する人間性が皆無で、この意味でこの上なく人工的であり残酷な行為であると考えているから、どんな残酷非道な人間に対しても死刑を行うべきではないと思っている。そういうことが少しも問題にされていないことを残念に思うし、どこか変ではないかとも思う。つまり世間が目をつぶるように判決が肯定されていくことが、そしてそういう雰囲気を新聞社が助長していることが、私には不安なのである。一方にそういうコメント、主張を発掘しない河北は怠慢だと私は思う。社説では判決のこんな指摘も紹介している。すなわち、「暴力によって政治活動の自由を奪った。選挙の自由を妨害する犯罪の中でもこれほど直接的で強烈なものはない。民主主義を根幹から揺るがす反抗で、到底許し難い」。判決も、河北新報社も念頭に強くあるのは「民主主義を根幹から揺るがす」ことへの一種信仰に近い畏怖である。しかし、この信仰をいまだに信じて踏み絵のように思いなしているのは彼らだけだ。
 十三面の文化・芸能欄に、辺見庸の「水の透視画法」の六が掲載されている。
 かつて大学客員教員だったときの教え子と四年半ぶりにあったときの、別人のようにしおれた様子と彼との話のやり取りを書いている。若者は就職後会社で鬱になり退社。その後アルバイトを転々とし、典型的な非正規労働者、フリーターそのもののように暮らしている。
 
新貧困階級はすさまじい勢いでふえており、「自由で民主的で、効率的な、事実上の奴隷制」がいまある、と学生時代とかわらぬ皮肉っぽい口調で彼はいう。
 二つ問われた。第一問。「このような時代を経験したことがありますか」。これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそおう世間。もともと貧窮し、心が病むように社会をしつらえながら、貧乏し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のせいのようにいう政治。働くものたちの怒りや不満がその場その場できれいに分断、孤立化させられ、いつの間にか雲散霧消してしまうまか不思議。そうした時代を、戦後と同じぶんだけ老いた私がこれまでに見たことがあるのか、と問うのだ。答えにつまり、私はひとりごちた。「価値観の底が抜けているのに、そうではないようにみなが見事に演じている世の中ははじめてだな…」
 
 地裁や河北新報が信仰する民主主義的な社会の内部の実態はこんなものだ。要するに私は地裁や河北が「民主主義を守れ」と表層で言っている時代じゃないぜ、もっと言えば問題意識がずれているんじゃないのと言いたいのだ。
 若者は辺見に第二問、「いま、いったいなにに怒ればいいのですか」という問いを突きつける。それはかつて辺見が授業で学生たちに「もっと怒れ」と言っていたことを受けての問いだ。辺見は、「いまは〈怒れないわけ〉がわかる気が」するとして返答しなかった。
 私は先の長崎の事件の被告が行った襲撃という行為は、極めて愚劣な行為だと思い全面的に否定する。しかし、だからといって民主主義を揺るがす事件として死刑に処することを肯定すべきとは考えられない。
 若者の、「いったいなにに怒ればいいのですか」という言葉を読んで、河北も地裁も本当は怒るべき矛先を見失っているために、その怒りの矛先を襲撃の犯人に向けているのではないかと、私はふと考えた。そのことでまた世間も読者も、民主主義に揺るぎはないと思い込もうとしているのではないか、と。
 「価値観の底が抜けているのに、そうではないようにみなが見事に演じている世の中」。一瞬、辺見の言葉が胸にしみた。
 
 九面の経済欄に、東北の上場三十九社の二、三月期の決算に関する記事、表などが載っている。半数近い十九社で経常損益が減益または赤字。さらに純損益は約六割の二十三社が減益か赤字に落ち込んでいる。
 八面には東北の百貨店の四月の売上高と、二〇〇七年四月から二〇〇八年四月までの前年同月比増減率推移のグラフが報告されていて、消費マインドの冷え込みが報告されている。
 経済評論家たちが言うように、日本経済は失速から後退期に入ったと見ていいようだ。今以上に景気が悪化すると、私たち下流層が最初に大きな打撃を受けることは間違いない。どうやってしのげるか知恵も力もない私たちはどうすればいいのか。頼みの綱は皆無だから、とりあえず低賃金の契約社員の仕事を健康で続ける努力をするほかはない。私の場合、休みを減らせばその分仕事が出来ていくらか賃金を増やせる面があるから、我慢して休みを少なくすることが考えられる。元来が怠け者だから、仕事を増やすのは嫌だなあと思う。思うが、そうしていかなければならないかもしれない。一円パチンコも我慢しなければと考えてきたが、これを我慢して夜も家に籠もりっきりになったら気が狂いそうで、いまは絶対に負けない打ち方をしようと考えている。千円ずつでも勝って、生活の足しに出来たら嬉しいことだ。この辺がちょっと私は甘いと思うが、私は私を許したい。…以上。
 
 
   平成二十年五月二十六日
 
 今日の河北新報の一面は、自社の第二回農業モニター調査の実施報告であった。その結果、七割を超える農家が、専業、兼業を問わず多様な農家のコメ作りへの参加を望んでいることが分かったと結論づけている。また、世界の食糧需給が逼迫する中で、国内の食糧供給力を高めるためには、兼業農家も巻き込んだ農業・農村施策が不可欠であることが鮮明になった、とも述べている。
 これは河北が従来から主張する、農業を重視した東北の経済対策を、世論の賛同を得て中央政府に要求していく格好の材料を提供するものかもしれない。一面に大きく取り上げるからにはそういう意図も覚悟もあるということなのだろう。
 私は「文明史」的な流れや人間の「欲望」
といった観点から、東北においても農業離れは避けられないし、どんな理由にせよ外部からその流れを堰き止めにかかることはインチキだと考えてきたので、河北が喜んで提供する今日の農業モニターの結果報告にはあまり興味が持てない。データを解析したグラフを丁寧に見たり解説を読んだりしても、格別驚くこともなければ意外と感ずることも何もなかった。想定内の結果、と言ってもよい。
 農家の人々が、多様な農家のコメ作りへの参加を望んでいる、ということは、私から見れば未来の農業の展望が全く見えていないか、そうした不安を抱えていることを象徴していると捉えることが出来る。そして、昔の農村への郷愁も手伝って、とにかくみんなでやっていきたい願望を表現しているに過ぎないと思う。ここから即、兼業農家も巻き込んだ農業、農村施策が必要だとは思えない。
 ここ十数年の日本の農業政策はいただけない。小規模農家をなし崩し的に切り捨てようとしてきたから、その反発として河北が主張したい意味もよく分かる。だからといって農業再興、再生推進の論は逆の意味で農家を逼迫させることにはならないか。私はそこを危惧している。実家周辺の農家も、跡継ぎがいないなどの問題で惨憺たるものだ。跡を継がせたくないと考えている人たちも多い。再生は無理だと口にするものも少なくない。当事者たちがこう話すときに、「国内の食糧供給力を高めるために」頑張って農業を続けるべきだとはさすがに言えないだろう。河北があえてこの問題に執着するからには、もっと丁寧に、もっと明確な農業の将来的なビジョンを明確にし、それから訴えるべきだと思う。それをしていないのは、そこが分からないくせに、ただ観念的な不安から対策すべしと迫っているに過ぎない。そんなことで農家の生活が守れるか、私は疑問に思う。
 
 今日の河北で気になった記事は、実は二面にある「あすを読む」と題したコラムである。
 商船三井相談役、元日本郵政公社総裁の肩書きがある生田正治が記事を寄せている。生田はここで日本の経済の現状を見るにイメージしやすいGDPなどの数字をあげているので、参考のためここに取り上げてみる。
 我が国のGDP総額は四・四兆ドルで世界二位。ただし世界経済に占める比率は一九九四年当時の約半分の九・一パーセントに低下。中国は名目二・七兆ドルだが、実質GDPは大きく上回り、EUもドイツ、イギリス、フランス三カ国だけで六・六兆ドル。
 国連ホームページにある全世界比較での国民一人あたりの日本のGDPは世界三十二位。
 世界銀行のデータによる世界各国の労働生産性で我が国は二十一位。ちなみにこれの一位はルクセンブルク、二位はアメリカ、三位はノルウェー。日本の労働生産性の上昇率も十四位。
 こういう数字をあげた上で生田は、「直視すべきはこのように各種国際比較ランキングがすでにかなり低い現状のみならず、毎年さらに低下傾向にある厳しい現実である」と述べている。そしてさらにスイスのIMD(国際経営研究所)のだす主要五十五カ国の国際競争力順位では、日本は九三年までは長年不動の世界一位であったが九四年に米国に一位を譲って三位となって以来毎年階段を下りるが如く低下し、小泉政権の初期は三十位、福田政権の現在は二十二位であると続く。
 私のような生活の底辺を徘徊する輩はこうした数値にはとんと無関心だが、またこのように並べ立ててみてもどのように解析すべきかとんと分からないが、少なくとも生産性が落ち、国際競争力もあまり高くないことだけは理解できそうだ。日本経済の沈没とまでは言えなくても、厳しい現状が続いているのだなとあらためて思う。覚書のつもりでここに記しておく。
 
 
   平成二十年五月二十五日
 
 「持論時論」。「憲法と日本の平和」と題してもと中学校校長の文章が掲載されていた。
 憲法論議は護憲か改憲かに分かれて決着がついていないが、おおよそ拮抗した状態か改憲組に勢いがついているかに感じられる。元校長の主張も、どちらかというと護憲では国は守れない、国民は守れないという気持が含まれていて、護憲が空想的平和論ではないかと言いたげに思えた。
 格別取り上げるに値する論だから取り上げるのではない。明確に言い切ってはいないが、改憲すべきじゃないのと言っているだけだ。そう考える根拠は、昨今の中国の軍備拡大、また元校長が感じているらしい北朝鮮の「軍事的な不気味な脅威」らしい。言ってしまえば、従来から保守系の政治家などが語る口ぶりと大差のないことを、ややおだやかに語っているに過ぎない。
 元校長だとか言う人たちの投稿はよく見かける。「ちょい知」(ちょっとした知識人の意味の速成造語)の人々は、教養が邪魔をしてか長く黙っていられない。何かというと指導癖が出たり説教口調になったりするものだ。見聞きして、あまり気持ちのいいものではない。面白いことに、すぐ真下にある一般的な投書欄にも元校長の投書が掲載されている。こちらは職業を農業と記し、元校長であることは伏せている。私はその人を知っている。
こちらは、「雀踊りに郷土愛感じた」という題で投稿し、内容は、用事先で見た青葉祭りの雀踊りの行列の印象を率直に表現したものだ。素朴な人柄に接したことがあるだけに、身丈相応の正直な感想を書く人だなあと好感が持てた。
 ついでにいうと公務員は憲法遵守の義務みたいなものがあったのではないかと思う。先の元校長は現職の時には遵守したものの、本音では物足りなく思っていたものだったろうか。公務員を辞めてしばらくしたら、集団的自衛権を憲法に明記しましょうというのでは、じゃあ現職の時からそういう考えを持っていたのかとなる。自分の考えを抑えて校長になり、勤めを終えて自由になったから本来の自分の考えを出すというのでは、ありがちなことだが、その変節ゆえにあまり信用がならない印象が持たれる。
 元校長が言う護憲が空想的平和論に過ぎないとすれば、外からの脅威を元にして語られる改憲は空想的脅威論に過ぎない。
 私などのあまり立派でなく、国への貢献度も少ない国民生活者にすれば、実は憲法論議などはどうだっていい。要は戦争したくない、戦争に巻き込まれたくないというその一点だけだ。第一、憲法に戦争放棄、武力を使わないと謳っていたって、自衛隊はあるんだし、仮に外国から攻められてきたら反射的に身構えた行動をとってはねのけようとするに決まっている。そんなの、憲法がどうのこうのという問題じゃない。当たり前じゃないかと思う。それに自衛隊などが所持する軍備から言えば、日本は世界でもトップクラスだと聞いたことがある。これなども、なし崩し的に政府が行ってきたことであって憲法を建前に押し上げてきたのはほかでもない日本国であり私たちであるということだ。いざとなれば、人間は法を越えて行為することがあり、だからこそまた法が大事であるとも言える。
 有名無実、形だけの憲法。最近の日本国民の裾野には、そういう思いが広がっているのであろう。それが元校長のこういう投稿という形になって表れてきていると私は思う。
 結局のところ、世界も日本も我が国の戦争放棄の規定の理念に追いついていない。理念を世界に広げる力がなかったということにもなる。だから、ある意味で「普通の国」になることも致し方ない方向なのかもしれない。この責任は知識人たちの無力さに帰せさせることが出来るであろう。
 核を先頭に、世界はいまだに軍備の縮小の流れを作れていないかに見える。それどころか中国に代表されるように、大きく軍備の拡張を進める国もある。しかし、そこに本当に私たちの未来があるかといえば、おそらくは未来はないと言っていい。あちらが拡張すればこちらも拡張する。どんどん拡張する循環の輪を断ち切らなければ、私たちの望む未来はないのではないか。各国の指導者たちが国民を守るという名目のために軍備を拡張し、圧力と緊張に耐えきれなくなっていざ戦争が始まれば、犠牲になるのは直接の責任のないお互いの多くの国民である。それをやるくらいなら、私は指導者たちにゲームで戦争してくれと言いたい。仮にゲームの戦争に負けたとして、国際法に則り、非人道的な処置や理不尽な扱いがなされなければ、私たち生活者にとっては国家の首がすげ替わるだけで、余程そのほうがましだと思う。領土として他国に属しても、言語や生活その他が基本的に変わらなくてすむものなら、すげ替わった国家が今度は私たちを守ってくれればいいだけのことだ。今は夢物語に過ぎないかもしれないが、結局のところ現在の国家の枠組みが無くなるか、あるいはアメリカで言えば州のような存在になって、世界が一つの国家になるような形でしか私たちの望む未来の形は見えてこない。また、世界は一つ、複合体でありながら一つという方向にしか行きようがないと思う。
 平和な地球。これを主張するためには、護憲か改憲かの単純な考え方ではなく、平和を実現するための説得力ある考え方が必要であろう。世界の歴史、今日の状況、その他についてどんな指導者たちよりも優れた認識、見解が示せる必要がある。国内においても誰もがもっともだと納得する見識で言えない限り、世界ではもっと通用しない。もっと言えば世界の中で最もラジカルに戦争放棄を決めた憲法の理念に対して、日本人の誰もがその理念を実現する力において及ばなかった、あるいはその理念に追いついていないことが現在的に、問題なのであろう。その責任の筆頭はもちろん政治家にある。世界の情勢、経済力、軍事力、各国の社会状況、それらについて研究するしっかりとした研究機関も無いのだろうが、敗戦の教訓は平和に向けた推進にも役立ってはいないに違いない。データ収集、分析力、課題や問題点。それらを元に各国の現状を明らかに出来なければどんな提案も拒絶されるだけだろうし、説得の場さえ持ちようがない。
 今、護憲か改憲か、一般の国民からもこういう投稿が新聞に発表されるまでになっている。つまり、普通に論議されるようになってきた。だが、国民からの声は、今回の投稿のように、政党間の見解の違いが一般人に降りてきて、代理戦争ではないが、およそ政党間で語られる縮小版みたいな形で出されることが多い。元校長の今回の文章は、とりわけ政策担当者の口ぶりを真似するような文章で、実際には担当者でもないし国家の安全、防衛
の任についているわけでもないし、こんなこと書かなくてもいいのにと感じた。おそらく昔にも世界の情勢や社会状況を心配して、こういうことを一般大衆に向けて語りたがった人がいたに違いない。こういう人たちが地域の人たちに意見を広め、あるいは反対意見を封殺することに力があったのではないかと私は心配する。
 「護憲・平和」を叫んでばかりでも戦争に巻き込まれないとは限らないし、かといって専守防衛の自衛力、その最高の形は核を持つことだと思うが、そうしたからといって戦争に無縁となるわけでもない。その意味では護憲であろうが改憲であろうが、その論議はあまり意味あるものではないと私は思う。
 私たちにとっては第九条が憲法から外されたとしても戦争が無くなればいいのであるし、九条をそのままにおいても自衛の名の下に軍備を拡充し続ける現状では九条も絵に描いた餅に過ぎない。だから、俺には関係ねえよと言いたいところだが、大っぴらにそれを言うと国民の意識レベルが低いなどと言われかねないからただ黙しているだけである。レベルが低いのは本当は知識層のほうで、他国の戦争も自国の戦争も止めることも出来ないくせに、国民の前でだけはいい格好をしたがる。私たちはただそういう輩を信用してもいなければ、問題にさえしていないというだけだ。文句があるならアメリカやロシアに向かって昔の日本武士のようにはっきり軍縮すべしと物言えばよかろうと思う。もちろん言うだけでなく明確な成果をもたらすべきだ。
 「爆笑問題」にさえ簡単に突っ込まれる程度の政党間の憲法論議、あるいはそれが元になった新聞記事を、最上の論議だとでも錯覚して元校長のような文章を書いたり考えたりするのは決していいことではない。元校長などというのは得てしてこんなものだ。生活者の実感もなければ、平和について自分の言葉で語ろうとする熱意も努力も伝わってこない。私もいくぶんそうだが、流通する表層の言葉をあちこちつまみ食いし、組み合わせて自分の考えに見せかけようとしている。こういう文章は害あって益無し。そう思うのでここに取り上げてみた。時間が無くなったので今日はこれで終わる。
 
 
   平成二十年五月二十三日
 
 「河北春秋」。米の多収品種の開発技術において、日本の研究が世界に貢献できることが述べられている。具体的にはアフリカの定湿地帯でも成育可能な米や、塩害に耐える品種の開発に農水省が取り組む旨記載されている。昨日の文章の最後に触れているが、日本の農業の将来像について、私はこうした世界的貢献としての先進性こそが発揮されていくべきだと考えていたのでこれに注目した。狭い日本の農地を拡大しながら利用して世界の米どころをめざすのではなく、縮小しながらなおかつ世界の農業に貢献できる技術開発を中心に据えた農業の道を考えるべきだと思う。そういうノウハウを最も保持する国だと思うからだ。そうしてゆくゆくは、日本に必要な農産物は主として世界各地で作ってもらって日本に送ってもらうようにすればよい。もちろんこれはまだ夢物語に過ぎない。
 次に、二面にある「児童ポルノ禁止改正法案を決定」の記事に注目した。単純所持、保管に懲役刑を導入しようとするのだそうだ。私が以前のように今も教員であれば、もしこういう法案に賛成の署名を求められたならば反対のしようがないだろうと思う。だが、今は教員でも何でもない。本音で言える。アホらしい法案だ。こういう趣味があれば、今では素人でも撮影可能なほど高性能なデジカメが普及している。インターネットで外国のサイトにアクセスすればいくらでも手にはいるだろう。本質的な問題は制限するところにあるのではないのに、その問題を考察する力も見識も、また必死さもないから脇道から安易にこうした法案作成でお茶を濁そうとする。
 こういうことを規制することが当たり前のように考えられてくると、犯罪防止を建前として思想や信条の自由にまで法が踏み込もうとするのはすぐそこまで来ていると考えないわけにはいかない。こういうよく考えもしない法案の量産には反対だ。
 
 
   平成二十年五月二十二日
 
 読者からの投稿欄と同じページの「持論時論」に、農協理事という肩書きの人の文章が掲載されていた。最近話題の食糧自給率や食の安全、世界的な穀物価格高騰、日本国としての食糧政策の問題に関連して、日本農業の見直し、もっと言えば再生、再興を促す意見が述べられている。
 もとより、河北新報は新連載の「田園漂流」により世論形成に積極的であるから、このような投書はおあつらえ向きの投書であるに違いない。文中、集落の各種寄り合いの中でも「田園漂流」の主張は正義だ、正論だと持ち上げる声が出ているというから、河北側からすればわが意を得たりといった話であろう。
 農協理事という肩書きからすれば、農家に肩入れする気持ちは分からないではない。考えてみればしかし、今日的な農業の現状に、農協は全く無関係だったのですかねと茶々を入れたい気持になる。今頃、のこのこ顔を出して、「『国家に正義があるのか!』と、私も叫びたい」などと書いている箇所では思わず失笑しそうになった。農協はどうでもよい。この文章を書いている人は、最後に「田園漂流」によって高まる世論は東北に限られていて、全国的にはどうかと疑問を投げかけている。私にとっては、それもどうでもいい。
 私にとって一番気になるのは、河北新報や農業関連の関係者による、たとえばこの人の文章などもその一例だが、世論形成と高まりに向けての戦略だ。そこには自分の立場、あるいは自分の関係する側の立場に立った主張はあるが、消費者の立場に立った観点がすっぽりと抜け落ちている。一般の消費者の立場は、あくまでも安くてうまいものがほしいというものだ。それに安全や安心が加わればなおさらいい。自給率や国家の食糧政策は二の次である。それを考慮することなしに一方的に国家存亡の危機であるから、無理しても国内米、しかも高い価格のものでも買って食わなければならないと言われれば、これはもう戦前の日本国そのものに逆戻りしてしまう。そういう主張に堕していることを不快に感ずる。
 また、農家離れ、農業離れに危機を感じ、農業を守れとする傾向にも、嫌いな指導者然とした姿勢が見られ不快である。
 本当に現在農業にたずさわっている人々の生活や人生を考えるならば、そうした大義名分によって語るのではなく、彼らの生活や人生に寄り添って、その範囲内で語るべきではないのか。あるいは自分たちが率先して新たな農業経営のあり方を実践してみせるべきだ。そういう覚悟も努力もなくて、世論を形成し、人を動かそうとするのは不遜なことだと私は思う。少なくとも十数年前の日米構造協議の内容から、その後の日本の農業がどうなるかはある程度の予測が出来ていたはずであり、現在まで尾を引きづっている事を河北新報が知らないはずはない。現政府によってやっと政策に移された集農化の推進なども、農産物の自由化拡大も、すでにアメリカから勧告されていたことであり、それはある程度妥当な策であったから日本政府、政策担当者は右顧左眄しながら遅延して実行するほか無かった。
 つまり日本農業がこうなってきたのには必然的な流れがあった。国内的にも世界的にも条件はこういう方向に流れていたのである。アフリカ的とは採集や手工業の社会であり、アジア的とは農耕社会であり、途上国とは工業と農業とが拮抗する社会であり、先進国とは工業の発展の中から第三次産業主体となっていく過程で一次産業が衰退していく社会である。もちろんこれが最終形態であるわけではなく、重層した高次の産業へと発展する兆しも現在見られるところではある。言うまでもなく、日本はすでに先進国の仲間入りをし、最三次産業が主産業となっている。現在翳りをみせてはいるものの、依然として経済大国であることにちがいはない。繁栄と豊かさとが国民の全体に及ぶ過程で、第三次産業が発展し主流になるとともに、逆に第一次産業が衰退していくのは当然のことであった。貧しさから抜け出すように、第一次産業から労働人口が減少していくことは繁栄や豊かさがもたらされたこととちょうどベクトルが逆向きになっている。
 要は、今さら国策として農業擁護を考えるべきではないし、最早そんな時代ではないと言っていい。全世界的に食料はどうあるべきか、農業はどうあるべきかを考えずに農業問題を考えることが出来ない時代になりつつある。それは即私たちに身近な地方自治の課題に転化させることが出来る。
 昔から宮城も含めて東北は米どころと呼ばれてきたが、それは工業化等が遅れた地域と言っても同じ事だ。大きな工場や会社も少なく、商業的にも大きな発展はなかったと考えていい。最近はトヨタ関連の工場が進出することとなって、東北を自動車産業集積の地になどと言う浮かれた声が聞こえる。日本全体で見れば第三次産業が主体の時に、東北にやっと第二次産業の工業化の波が押し寄せようとして、しかも東北全体がその波に乗ろうとしているのである。要するに中国と同じ途上国ならぬ途上県なのであって、第二次産業立県を狙い、もちろん経済的な繁栄と豊かさとを願っていることが分かる。もしも企業が社員を大量に現地採用するとなれば、兼業農家の人々もこぞって応募するに違いない。割の合わないコメ作りより、毎月安定した収入が得られるならばそうしようとするのは当たり前のことであろう。私は農家が農業を捨ててサラリーマン化することは悪くないと思っている。そう流れていくだろうし、仮にそういう流れが出来ても全ての農家がそうなっていくわけでは決してない。
 私は日本の農業が滅ぶことを喜んでいるわけではないし、滅べばいいと思っているわけでもない。逆にある一定の割合で残っていくと思っているし、残っていくことがいいと考えている。また農業従事者に補助金支給などの対策が立てられる必要があることなども考える。それはしかし、食糧自給率や国策としての食糧政策とは何の関係もなくそう考えているということだ。このことについてはまた別の機会に話題にしてみたい。
 うまくまとまらなかったと思うが、今日の新聞を読んで気にかかったことについて、私の一応の見解を書き留めた。