休み明け
 
 この職場に来て一年半。給料の安さを考えなければ、施設に働く人たちとも少しは距離の保ち方を心得て、居心地はそれほど悪くないと感じている。
 清掃のマネージャーは、一番暇そうな私をねらって、話し相手にうってつけと見込んだものか清掃控室に招き、今では毎日のように決まった時間にその部屋を訪れ、お茶を飲みながら少しの間とりとめのない話をするのが日課になっている。
 中警備の人たちは会社が同じということもあって、すれ違いざまに二言三言会話を交わすくらいになっている。他に案内係、客室係、競輪新聞売りの女性たちがいるが、こちらはほとんど挨拶程度で、中には挨拶をしにくい人もいることはいる。まあ、でも、そうした相性の良し悪しはそのままでいいとこの頃は感じている。そうそう、レストランに働く人たちともだいぶ馴染みになった。弁当を持たない時はそこで昼食を取ることが多いから、時々三時のおやつなどをもらったりするくらい親しげになった。
 この施設、競輪場外券売り場を実質的に運営しているのは集計室と呼ばれる部屋にいる人たちだが、そちらとはやはり挨拶を交わす程度で、余程のことがない限り話す機会はない。また警察OBの警備本部に詰める人や、施設を管理する事務所の人たちとも仕事上の話をするくらいでまだまだ馴染んできたとはいいがたい。私の賃金は、元々管理事務所の方から私が雇われた会社に入り、そこから約六割五分くらいが給料として支払われているらしいのだ。その意味では私にとってその管理事務所は、ちょっと怖い存在である。
 今日は休み明けで、私はいつものように出勤をしてきた。あまり嫌だとも思わず、かといって楽しみがあるというわけでもないのだが、取り敢えず他にすることがないから来る。
 
 
   一円パチンコ
 
 不況になるとパチンコ店が賑わうという話を聞いたことがあった。なるほど、バブルがはじけて、ひとときパチンコ店は大にぎわいだった時期がある。最近ではしかし、本格的に不況から脱出する契機が見えないまま景気の悪さはいっそう深刻な事態を迎えて、倒産するパチンコ店もちらほら見かけられるようになった。今では一玉一円で貸し玉する店が増えてきた。従来は一玉四円であるから、百円で二十五個出てきたのが、今では百円で百個出てくる勘定になる。同じ金額で四倍の玉が貸し出されるのだから、遊ぶ方は出資金が少なくて済むことから客の入りは上々のようである。私のように懐の寂しい客たちが、やむを得ず遠ざかっていたパチンコ店に再び舞い戻って来始めたというところか。
 何度か通って、確かにお金の減り方は少なくて済むことは分かった。しかし、換金率も四分の一以下なのだろうから、同じ機械を相手に儲けようとすることは至難の業だ。ただ以前と違って客側は少しずつ少しずつ財布の中身が目減りするというだけである。
 店側にとっては商売をする以上、損をするわけにはいかない。おそらく利益は格段に少なくなるに違いないのだが、わずかながらも積み上げて利益を確保する経営に切り替わらざるを得ないということになろう。今後、この一円パチンコが主流になっていくのかどうか、あるいは一時しのぎの経営なのか、パチンコ業界は景気の動向に左右されていっそう厳しい競争に晒されていくかに見える。
 私たちの給料は、食費や光熱費などのような基本的な生活に必要な出費にまず充てられ、余剰がある時に使うか使わないかは私たちしだいという選択消費に回る。私たちの家庭ではこの選択消費に充てられる余剰はないに等しい。同じく、生活がやっとだという家庭が増えてきていると私は実感している。
 
 
   道路と農業
 
 中国の冷凍餃子の問題から食の安全、自給率なども問題視されるようになり、農業の再生に関する特集みたいなものも新聞やテレビで見かけたりする。
 定年を迎えて他の職業から農業に一念発起する人や、若い人の中にも農業を志す人が出たりして、そういう人たちの紹介がひっきりなしに紙面やテレビ画面に見かけられる。
 農業はいろいろな面からとても大事な問題ではあると思うけれども、文明国、先進国と発展を遂げてきた日本の社会にあっては、他の一次産業とともに衰退の命運にあることは自明の理であったはずである。何よりも農家自体が、後継者となるべき子どもたちを都市に送り込んだ。夢や憧れは都会に向かい、そしてそれは現在でも変わりはないと思える。 地方はより都市化して都会に成りたがっている。村落のゆったりとした時間に愛着を感じながら、しかしもっと根底のところでは行きとどいた行政サービス、そして種々の面での生活スタイルの向上を願っている。
 私はそう思う。その端的な願望の表れは、道路特定財源となっている揮発油税暫定税率の継続を全国の知事及び市町村長が望んでいるところに見られる。どの地方の首長もとにかく道路が欲しいのだ。何故か。交通網の発達は都市化を促す。それを象徴するからだ。ガソリンや石油が高騰し、燃料や動力に利用して生産する食品、衣料品の値上げが重なり、家計を直撃することになって悲鳴を上げる生活者がおおぜいいるにも関わらず、だ。
 食糧自給率の向上や米づくりを礼賛するものたちは、一家、一族を募って本格的に農業に取り組んだらよかろうと私は思う。多分誰一人そんな決断をするものはいないはずだ。他人を唆し、けしかけてどうする。無責任ではないか。各県の知事たちも貧困層の困窮を知らぬ。企業誘致しか策がないとは、笑止。
 
 
   何故書くか
 
 今朝はちょっとした雪降りだが、昨夜の雪と凍結のせいか国道が混み、危なく遅刻するところだった。まさかこんなに混むとは思いもせず、油断してしまった。八時三十分までの出勤時間である。いつもは二十分前くらいに着いて余裕がある。着くとすぐに二階の詰所で着替えをし、一階に下りて暖房を入れる。取り敢えず、あとは五回の巡回とその度ごとにエアコンの設定温度を微調整するだけだ。
 のんびりしたものである。準備中の売店でコーヒーを買って飲む。タバコを吸う。
 ここで、「詰所暮らしは楽でいいよ」といいたいわけだ。給料があと月に五万ほど高ければ、本当に申し分がない。ぼくはそう思っている。巡回の間はテレビを見たり本を読んだりして過ごすことが出来る。一人っきりの仕事なので煩わしさもない。
 時折、ふと、世の中でこうして生きて、この先十年くらいは生きられるのだろうかと考えることがある。この建物内の空気調整をして、そして死んだということでいいのかと思うことがある。たぶん、いいはずである。というか、大なり小なり人間はこのようにしか生きられない、と思う。心の隙間に、「もっと違った生き方を」と願う気持は、これは一種の甘い誘惑ではあるが、あまり自分にも他人にも勧めることは出来ない誘惑という気がする。生きて行く上で大切なことは「考える」という機能から来るこの誘惑を断ち切ることではあるまいかと、密かに考え続けてきた。人生を有意義に、ということ。これはぼくにとっても大問題で、何が意義あることかを考えることはさらに大問題である。これについてぼくは「鼠の嫁入り」の話を思い出す。もっとも意義のないと思われたところに意義がある。置き換えるとこういう話になる。だからぼくはそれを目標にしてきた。だが寂しさが残り、その為にぼくは書くことをしている。
 
 
   命がけ
 
 命をかけて打ち込むほどのことは、この世にありはしないと私は思っている。打ち込もうとして全力であたり、何が原因か、途中で挫折する、そういう連続であった。たとえば学問、恋愛、文学。命を賭しての情熱を、最後まで持ちつづけることができなかった。
 他人には出来て自分にはそれが出来ない、その理由が私にはわからない。太宰治の小説、「トカトントン」の槌音が私にも聞こえていた。
 私はニーチェの「超人」ではないし、「超人」を目指さなければならないという考えも持ったことがない。
 身体的欲望を満たすために、他の生き物は命を賭すことがあり得る。だが、精神や理性がもたらす欲望(主義主張のような)から命を賭すことは、他の生き物の生き方には見られない。その意味でそれは人間に特有のものだと言える。たとえば世界の平和を願って命をかける。これを高尚な精神の発露だとして讃え、後世の人々がこぞって同じ思いというようなものを抱くようになる。これに異を唱えることは大変にむずかしいことであり、且つ、現在の人間の精神の段階ではこれに異を唱えることはそもそもおかしな事だということになる。そうして誰もが世界の平和を願うようになる。けれども、多くの人が心にその思いを持つようになったからといって世界が平和になるものかどうか。それは未知数だ。だが、それを思うことは、人間の理性の勝利だという見方がどこかに潜んでいる。だが私はそうは思えない。その同じ人間が、時として平凡な私たちの生存を脅かさないとも限らない。そういう場面に何度か出喰わした気がする。本当はもっと率直に、それは日常茶飯事であり、身辺に転がっていると言いたいくらいだ。私の命がけは大変消極的で、言葉に出来ない。でも、一筋の思いが何処かにある。
 
 
   温暖化対策
 
 温暖化対策、環境問題。悪者は先進国、そして企業や富裕層。数値的にはそういうものだと思う。「おいらは関係ねえ。」と、私は半分くらい思っている。私の責任ではない。
 通勤には車を使い、職場では空調管理としてエアコンで暖房のスイッチを押す。客から寒いと言われるのが嫌で、建物内を暖める。暑いと言われることもないではない。
 温暖化に荷担していると言われればその通りだが、日々のプライベートの生活も含めて温暖化の責任を過剰に感じる必要はそれほどあるまいと私は考えている。私は好きで温暖化に努めてきたのではない。だが、そう言ってしまえば先進国も企業も富裕層も、同じように言うかもしれない。
 私たちは、どうしたらいいのだろう。原始的な暮らしに戻ればいいのか。仮に戻ろうとしても、今度は途上国、後進国がエネルギーの獲得と消費を願ってどんどん温暖化に貢献していきそうな気配がある。誰でも快適な暮らしを望むものなのだ。これを、望んではならないと抑制することは出来ない。そう思う。また、絶対にそんなことにはなるまいと思う。代替エネルギー、クリーンなエネルギー、期待されるのはそういうもので、コスト的にも有効なそれが発見されるまでは多少我慢をしなければならないことがあり得るかもしれない。それらの発見も私たちの任ではない。
 私の家は貧しいから、エアコンは使っていない。夫婦二人暮らしで、しかも共稼ぎを余儀なくされているから日中は家の中はだれもおらず、冷蔵庫だけが電気を消費している。元々が省エネの上に、貧しいからその他いろいろな面で省エネ生活である。表彰されてもいいくらいだ。
 貧しい生活者レベルでは、温暖化や環境問題等についてこんな程度のことを考えるのが精一杯だ。こういう声は必ず黙殺される。
 
 
   日常から
 
 昨日仕事帰りに運転して赤信号になった交差点で止まっていると、一人の十四、五くらいの男子が横断歩道を渡って目の前を通過した。ベージュ色のフードのついたハーフコートを着ていて、フードの下の顔とその目は一瞬にしてこの子は不登校かなと私に思わせた。何か生気がないというのだろうか、あるいは心ここにあらずで歩道の上を歩いている、そういう印象が持たれた。足取りも、どことなく不安げに映った。
 小さな電気が身内を走るようで、私はやっぱりこの世界が好きではないと思った。私は子どもたちのこんな姿は見たくない。心から可哀想だと思った。
 教員をしていたこともあり、不登校やひきこもりの実態もよく知っている。解決のむずかしさも分かっている。何が文明か、何が進歩か。落ちこぼれていくものを落ちこぼれるままに、腕をこまねいている。「お前もそうだろう」、反射的にそんな言葉が聞こえてきて、私は激しく痛んだ。そうしてすべての善意ある言葉、同情者、支援者、無関心、等々のごった返す世間を憤怒し、呪った。
 少年よ。今のきみの感受は正当で、今のきみの思考するところは誤っている。生きることは、今きみが考えているようなところにあるところのものではない。少年よ。きみが戦うべきはきみの思考にある。それは本当はきみの思考ではない。引きはがせ。生まれてこの方きみが習い覚えた考えのすべてを。
 きみの肩の重さは、世間が負わせた思考の重さによるものだ。きみはまだその思考がきみ自身の思考しているところのものだと誤解している。そうではないよ。きみを苦しめているものは、きみの不明であり錯覚なのだ。 生きることは、本を読むことではない。テレビに教わることでもない。まして考えることでもない。すでに生き、きみは後を行く。
 
 
   轢死
 
 今朝通勤の途上、車道に轢かれた犬の死骸を見た。二十年位も前になるだろうか、もっと頻繁に見かけた時期があった。犬猫ばかりではなく、狸や鼬や貂のようなものまで路上に転がっていた。食用でもなく、生活の自衛からでもなく、意味もなく生き物の命が絶たれるということは、人間社会がはじめて地球上にもたらしたものだという気がする。
 私の狭い生活空間の中でもそれくらいの動物の死に出会ったのである。県内では、日本国中では、世界ではと考えると、夥しい「死」に目眩を覚えそうだ。とはいえ、慣れてしまう。たぶん、そうだと思う。ついでに人間の死にも慣れてしまわないか。おそらく、すでに麻痺は重篤である。それとどうやって闘うか。答は見いだせていない。
 私も危うく轢きかけたことがある。田舎道を急に横から飛び込んでくるものがあって、急ブレーキをかけたが間に合わなかった。どすんとぶつかるショックがあって、車から降りて振り返る私の目に、片ちんばになりながらそれでも急いで竹藪に逃げていく猫の後ろ姿が映った。私は周囲を見渡し、どうにも出来ないなと諦めてその場を去った。それだけのことだが、自分が意図せず危害を加える立場を実際に味わうこととなって、漠然とした不安が重なった。私たちは、否応なく、たとえば車社会を容認するだけでも、動物に危害を加えることに荷担しているのだ。そういうようにしか生きていられないと言っていい。私の習性となった倫理観では、それをそのまま認めてはいけないということになる。しかし、現実には何ともしがたく、ただその事実をいつまでも持ちこたえようとだけは考える。たとえそれが何の意味も持たないとしても。 人間の作りだした観念の世界だけで生きることは間違っているよ。轢死する犬猫のように、人間にだっていつでも不意は訪れる。
 
 
   「人間失格」
 
 数日前に埼玉県の高校の校長が、元教え子の女性に脅迫メールを送った事件があった。宮城では昨年小学校長が養護教諭を強引に食事を誘うなどして、委員会から文書訓告を受けていたことが露呈し、辞職願いを出したことなどが先の事件と前後して新聞に掲載されている。
 私は数年前まで小学校の教員をしていたので、記事を読んで苦笑するほかなかった。おう、頑張っているなとか、男子の本懐を遂げようと必死だったんだろうなとか、冗談半分に思った。もちろんその底にはとんでもねえ野郎どもだという思いもないではない。
 在職中、酒を飲むと気に入りの女性教諭をさわりまくる校長と働いたことがある。あまり度が過ぎた時があり、ぽかっとやったような気がするのだが、よく覚えていない。私も男だから、こういう助平野郎どもの行為の一歩手前までは行きそうになり、慌てて引き返すことを繰り返してきた気がする。何も理性が勝るからなどというのではない。そう言ういいわけを考えたら逆に勇気がないという言い方も出来るだろう。
 埼玉の校長も、好きになってしまってのめり込んでどうしようもなくなったんだろうなと同情する。光源氏だって女に振られてすごく怒り、仕返ししそうな勢いでいたのを源氏物語の何処かで読んだ気がする。要するに色恋になると古今東西男も女も見境がなくなることは、仕方がないことだ。だってそうなるように作られているんだし、見境なくなるほどに好きになったら、これはもう、どうこう言えることではない。驚いたのは文科省の女性副大臣とかで、先の高校長を「人間失格」呼ばわりしていた。これには太宰もあの世で「やられた」と苦笑いするだろう。もちろん一番下等な失格に近いのは副大臣で、本当の「人間失格」は神に近いことを知らない。
 
 
   救済ということ
 
 二つ前の文章で書いた少年のことだが、フード付きのハーフコートに身を隠すような印象が残っている。あの時とっさに、不登校、ひきこもり、の言葉が浮かんだが事実はどうか分からない。仮にそうだとしても、彼は何かしらの想念を振り払うように、それこそ必死に外の世界を歩いているように思えたのだ。
 横断歩道を歩いていく彼の姿の向こう側の信号近くに、同じ年頃の少年たちがジャージ姿で三、四人かたまって立っていた。どこか部活を終えての帰り道を思わせる出立と思えた。光と影の好対照がその交差点に現出した。 私はハッとした。もしかすると同じ学校の子どもたちではないのかと。
 しかし、あちらの少年とこちらの少年とは互いに無関心であるらしく、どちらの視野の中でも動揺のようなものは感じられなかった。私は少し胸をなで下ろす気持になった。
 小学校の教員であった時、めんどくさがりの私は、ほとんどの子どもはほっといていいと考えていた。これから中学、高校、大学や社会へ進むにつれ、傷つき、挫折し、絶望を感じる時が一時期あったとしても、大丈夫、両親や親族や世間の人たちなみには生きていけると確信できた。それくらいの生命力は、皆、身体、挙措に滲ませていた。後は本人の努力と運次第。少なくとも私が担任となって受け持たれた子どもたちは、とても運が悪かったということになる。そしてそれさえもその後の運と努力次第で乗り越えることは出来る。大なり小なり、ほとんどの人々はそういう過程を通過してきているはずだ。
 世の中の、「救わなければならない」という声の、一点の曇も無きが如くの無神経が、対象を被救済者の立場に追い落とし、自分を救済者の立場に押し上げる。その認識の薄っぺらさに私は苛立つ。救済されなければならないのはそういう連中である。
 
 
   羊飼い
 
 「迷走記」物は、職場で暇な私が暇潰しに思いついたことを書き殴っているだけだ。原稿用紙二枚分と決めている。この前の「働かない男のぐだぐだ」や「働く男」は原稿用紙四枚分だった。読み手が軽く読めるようにと、「迷走記」から二枚ということにしたが、支障もある。短すぎて書ききれないと感じることが多い。文章家を気取りたいわけではないから、破綻をきたしてもどうということもないが、終わっての後味が悪い。
 前回の文章もそうだった。教員時代を思い出して、ほとんどの子はほったらかしでも家族や友だちやらの支えを得て世間並みに生きていけるが、クラスに一人くらいは心配になる子どもがいたことを話題にしたかった。
 ここで、前回書ききれなかった思いを少しばかり埋め合わせてみたい。
 おおぜいの、何とかなると思われる子どもたちがいる中で、一人二人、「ああ、この子たちはどうかなあ」と感じられる子どもがいて、私は密かに応援したくなる気持があった。だが、格別何が出来たわけではない。私には何処かに、どんな相手にでも平等に接するという癖があり、応援したいと思いながら具体的には接し方に配慮を加えたことはない。ただ、内面にだけ、そういう思いを抱いていたに過ぎない。そして、そういう思いが所詮は無駄で無意味でなんの役にも立たないことは十分に知らされてきた。しかし、自分には、愚直にそういう思いを思いとして持ち続ける以外に手立てがなかった。
 先生とは、羊飼いみたいなものであるとも言えるだろう。牧草地に、泉に、導いていく。 私は、何処かでそれが本当に羊にとって幸せなことであるか懐疑するところがあった。群れが自由に逃走することも夢見た。もしかすると牧草地にも泉にも到らない。それでは、羊飼いでいられるわけがなかった。
 
 
   羊飼いパート二
 
 社会という柵があり学校という柵がある。いくつもの柵に囲まれて、羊たちにはまた一人の羊飼いが用意される。
 私は草原に寝ころんで、のんびりと草を食む羊たちを見ている。ときおり場所を移動し、ある時はまた泉をめざして群れを引き連れる。 私には雇い主がいる。私には羊を守る義務が課せられている。
 私にとって羊飼いの仕事は退屈な仕事である。放し飼いにして、羊は黙っていても草を食べる。自分で成長しようとするのであるから、なんの世話も要らない。
 まじめな羊飼いは一生懸命世話を焼く。羊たちのよりよい成長をめざし、よい草と水を与え、過ごしやすい場所を選んでは羊たちをこまめに移動させる。羊飼いの使命感に燃えている。
 私には端から使命感がない。自分が楽することを第一に考えている。雇い主とベテランの羊飼いは、よりよく羊たちが育つようにするにはどうすべきかを私に教えた。私にはしかし、羊たちにとって「よりよい」という意味がよく分からなかった。
「よりよい」羊たちは、結局はいろいろな意味で役に立つ羊ということになっていくのであろうと思われた。それが羊たちにとってよいことかどうか私にはわからない。
 私は羊たちが高く売られていくことや、よい毛並みを珍重されて刈り取られることを思う時に、えも言えず哀しい気がした。また、「よい羊だ」と誉められてよろこぶ羊を見て、気持ちが苦しくなった。なぜか分からない。そうして私は、貧相であったり、どこか病的に見えたり、毛並みのおかしな羊たちに心が吸い寄せられて、しかし語るべき言葉も口に上ることもなく、特別なはたらきかたをその羊たちに寄せるでもなく、ただ灼けるような思いを思い、後に思いを鎮めるだけであった。
 
 
   読書から 1
 
 ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」を読んでいるが、少し面白い。そして細部までは理解できないとしても、何が言いたいか、どういう方向で語ろうとしているか、などが分かるような気がした。だから、共感できるところが少なくない。人間の原始的な時代の生き様の復権、一言でいってしまえば、そのへんのところがニーチェの考えていたところであろうと想像される。時代が下って、規範とか倫理、道徳などのようなものに汲々とし、ちんまりとした生き方を強いられている現代人はその対極にある。
 幼児の中には天使のような「善」も冷酷な「悪」も併存し、時に私たち大人の目に見えるところとなる。同じように原始の人間は、本来「善」も「悪」も併せ持ち、制止する理性の未発達により、今日の私たちからすれば縦横無尽に持てるところの能力を発揮して生きていたに違いないと思える。しだいに本能的に生きる生き方は抑制されて、自分の思うがままの生き方は否定され、忍耐が必要とされてきた。我慢をする、それが人間だという宗教的な教え、風潮などが幅をきかすようになった。その意味では人間は思うがままを生きたい存在として生まれ落ちながら、しだいに本来の活力を失ってきたと言えるかも知れない。
 ニーチェは古く、この問題は解決済みであるというようには思えない。今も古くて新しい、根源的な問題を孕んでいるように私には思える。
 いうまでもなく、ヘーゲルの主張に代表されるように近代は幼児の「悪」を「教育」によって打ち消す方向に進んできた。よい市民は「教育」によって育成されなければならないというように。これは一種の人工化であり家畜化を意味した。歴史がこう流れてきたことには必然が含まれる。だが、と私は思う。
 
 
   読書から 2
 
 いつからか「学校教育」の中でも「生きる力」を目標に掲げるようになった。本音を言えば腹の底で私は冷笑していたと思う。教育的な力の強制によって個人の中から生きる力を削いできておいて、その教育が生きる力の育成などと、とんでもない戯けたことだという気がした。教育に育成された生きる力など何ほどのものか。おそらくは奇っ怪な人間が作られていく。この意味でも、先のニーチェの提示した問題は何度も繰り返し見直されることがあるに違いない。陰と陽で言えばニーチェは陽を語りながら、歴史的には陰の部分を代表することになっている。つまり本流にはならないが、常に歴史の本流に疑義を呈する役割を担っていくと思う。バタイユの「エロティシズム」に関わる論もニーチェを源流とする。我々を突き動かす本能の力、それを殺さずにどう制御するのかが我々人間に問われている。
 魯迅の小説は、全く別な意味で興味を持ちながら私は再読した。「阿Q正伝」その他が納められていた。こちらは東洋に独特のものがあって、皮膚感覚で理解されるような気がした。逆に言えば、読みながら皮膚を逆なでされるような、傷口に塩を塗ってこすられるような、ある種の痛みすら感じられるようであった。同時に実践家魯迅の、情熱や諦念や憤怒が熱くそして冷たく伝わってくるようであった。今回、以前の記憶としてあった情熱の迸り出る文章という文章には出会わなかったが、全体に抑制気味の文章は、それはそれなりに「凄み」のようなものを感じさせられる気がした。主人公や登場人物の主なものは下層庶民が多かった。変革を志す知識人の姿がちらほら登場しても、冗舌に理念を語ることはまず無い。全体の印象としては、革命家魯迅の挫折であり、そこに真なる者の宿命が感じられた。東洋が深く横たわっている。
 
 
   日常的非日常
 
 朝、勤務先に到着し、事務所で鍵をもらうと詰所を開けて設備会社の制服を着る。それからエアコンの電源を入れ、設定温度をその日の天候に合わせて設定していく。用紙に記録して、後は詰所に戻って十時のオープンをを迎えるまで電球を交換したり、エアコンのフィルターの掃除をしたり、予定に従ってちょっとした仕事をする。
 今日は予定が開けてあって、出来れば仕事をしないで本を読むか書きものをするかしたいと考えていた日だ。でも、何も仕事をしないのは気が引ける。自分のメインの仕事はエアコンの運転と監視だから、別段あまりの時間はどう過ごそうとかまわないのだが、清掃担当の人たちは忙しく立ち働いているから詰所に坐っていてもつい腰が浮く。電球の切れた箇所を探し、二個ほど交換したりなどしている内に、「国家」と「宗教」についての考えが浮かんだ。「国家は宗教の最終段階である」という言葉は、吉本隆明の本で読んだ。このことについて考えた。宗教から法、法から国家へという道筋は、すでに吉本の文章を元に、私には自明のことのように思えている。しかし誰にでも自明になっているわけではない。国家というものはよく考えてみると、具体的な物と概念的、幻想的なものとで成り立っている。概念的なもののうちでもっとも近代国家を象徴するのは「法」ということが出来る。「法」の成立には「宗教」が与っており、だからもとをただせば宗教が法の起源であり、国家の起源でもある。現代の国家も現代に点在する宗教も、起源を辿れば同じ源流から派生している。簡単に言ってしまえばこれだけの話だ。なぜこんな話になったかというと、昨日妻が(元)オウム真理教のニュースに触れて、事件後も入信する人がいると訝っていたからだ。宗教は否定しても、国家にはなんの疑いもない。自分は見えないものだ。
 
 
   日本的ということ
 
 今朝は小雨がちらほらしていた。気持が憂鬱になるばかりではなく、実際頭痛がする。 日記風にこう書いてみて、つままらない。何がどうしたと身辺雑記の記録など興味が湧かない。たぶん私たちにとって本当によく理解できることは、具体物の姿形を捉えた文章の方で、観念的なあれこれは他人の夢の話を聞くように面白くないのではないかと思う。それで私も時間や空間、情景などを記録する形での日記風を心がけようと思うのだが、うまくいかない。
 考えとかの観念的な事柄に実態を与えることは難しい。それで、姿形をもって代用しようとするのだが、それでは言いたいことが遠回しになるばかりで悟りでも開かない限り満足できない。こういうジレンマは日本語を介した思考方法にあると私は思う。逆に言えばヨーロッパの問題といってもいいのだが、どうも我々には根っからの論理、観念といったものが馴染まないようなのだ。
 自分の内面を探ろうとする時、すぐに言葉が見あたらなくなる。歴史の浅い翻訳の言葉を駆使して思考しようとするが、これには言葉の定義から何から厄介なことが多すぎる。ふだんの生活語からは乖離して、言葉が地に着いていないと感じてしまう。
  心から心にものを思わせて
    身を苦しむる我が身なりけり
 西行の歌だが、この歌に典型的に見られる通り心に物思う作者の姿は彷彿とするのだが、何をどう思うのかは全く捨象され省略されている。これが日本的な文学や思想の姿である。言ってみれば、いつでも内面の外郭、器を外側から表現して終わりにしてしまう。内面がないのではない。以心伝心で察知しなさいと主張している。身を苦しめるほどの物思いがどのようなものであるか、苦しんだことのあるその背丈に応じて内実が変化する。
 
 
   「国家」のとらえ方
 
 日本国憲法には主権在民を謳っているから、統治権は国民にあるということになる。しかし、実際には国民の代表として選出された議員により、国民一人一人の考えは代行されている。そして国民の総意は立法府、行政府において具体化現実化されて行くということになる。
 私たちの思いが本当に議員によって代行されているかどうかはともかくとして、建前上はそんな形で国民主権の体裁を取っていると言える。そこで国とか国家とかは、私たちとともにあるもの、あるいは私たちがあるから必然的に国家が生じているという印象が持たれる。しかし、明治の近代国家の成立を見ても、その成立が国民の総意の元に一夜にして魔法のようにできあがったわけではない。ある指導的立場に立つ者がいて、国家の形態もまた彼らの意図するところが色濃く反映されたものでしかないといえる。
 民衆がいて、領土があって、統治権を有しているとなれば、それは広い意味での国家と呼ばれるが、国家にはもう一つの顔があり、国家を統治する政府がそれであり、通常は国家といいながらその意味するところはこの小さな国家をさすことが多い。
 政府は、国民の総意を基に統治権を行使するわけだが、先のような代議員制では直接に民意を反映させることは難しい。
 どの国の政府であれ、多かれ少なかれそのようなものであって、その国の政府の考えが国民多数の考え方そのものであると見るわけにはいかない。だが国際間では、中国といえばその政府が顔となって、それが中国と見なされてしまうのである。日本国また然り。
 近代国家もまた大いなるペテンで、大いなる略奪、収奪そのものと私は思うが、多くの国民は私と違ってすっかり順応させられている気がする。国家が消えても人間は消えない。
 
 
   昨今は規制が多すぎる
 
 今年の五月から、タバコの自販機はタスポというカードを使わなければ買えないことになる。未成年者対策だそうだ。
 そういうカードを作り、自販機を作り、郵送代をかけ、手間ひまをかけ、誰に何のいいことがあるのか分からない。道路財源ではないが何にしろ「無駄」や「不毛」や「徒労」という言葉が湧く。
 今日、勤め先の場外券売り場にタバコ協会から関係職員が来て、タスポの申し込み書作成を手伝うキャンペーンが朝から始められた。よい機会だと思い、早速私も手続きしにいって申込書を作成した。これで五月からも引き続き自販機が利用できる。一安心というわけだ。それにしてもなんて世の中だと思う。たったこれだけのことで未成年者がタバコを買い求めることが出来ずに、当然に吸わなくなるとでもいうのか。完全にそうはならないとしても抑制効果が働いて、いくらかでも未成年の喫煙が減るという算段か。たったそれだけのために、全身ヤニだらけの大の大人がこんな手続きに唯々諾々と従わなければならない。この強制力はすごい。みんな羊になって羊飼いのいうことを聞く。
 これを機会に禁煙者がもっと増えるという算段もあるのだろう。非喫煙者の喫煙者いじめは斯くのごときか。そう言えば、非喫煙者は長年煙と臭いに責めさいなまれてきたのだと言い出すだろう。ここはやはり、無言を呑み込んで喫煙者も忍耐すべきところかも知れない。
 父親からいくらかの駄賃をもらってよくタバコを買いに行った。高校になって、父の使いと偽りタバコを買って吸うようになった。はじめはむせて、それから吸い方を研究して、上手に吸えるようになった。頭や体がくらくらして、変な気持だった。今では片時も放せない。昔は規制が少なく、昨今は過剰だ。
 
 
   歴史の発明
 
 ニーチェは国家はペテンであり、言いなりの民衆は愚かだとはっきり言い切っている。 私もそう思う。思うが、思うだけで、どうこうすることが出来ない。言いなりに生きてきたし、これからもそうかも知れない。
 考えることにおいて、個人としてのおいらの方がおいら自身のご主人様でなければならない。それだけは、たった一つそれだけは、手放したくない思い一つとして胸に秘めて生きてきた。これからも、せめて考えることにおいては自分の実感に沿った考え方をしていきたい。国家や社会や世間といったものから囚われた考え方はしたくない。
 ニーチェの考えを敷衍すれば、人間は自由に生きなければならないということに尽きるだろう。これは反国家、反社会を標榜しろということとは違う。新しい道徳的価値の創造者たれ、ということであり「超人」を目指せという主張のようであるが、それはそれとしてとても魅力的な親近感を覚える考え方が随所にある。ただ、ちょっと貧相な東洋人には怒濤のようにまくし立てる西洋人の前にいるようで、呑み込まれそうな怖さもある。
 人類、あるいは我々人間にとって、国家は不可欠のものであるかと考えれば、私は決してそうではないだろうと思う。しかし現在、国家の枠組みが無くなった世界を想像できるかといえば、ちょっと想像も出来ないなということになる。学校なんかもそうかも知れない。無くなってもいいと思うが、無くなった世界が想像できない。現代の国家や学校の基礎はどちらも近代になってできあがった装置なのに、今ではなくてはならないもののように君臨している。今、新しい(無)の国家、新しい(無)の学校が考えられてよくないということはない。もともとが未来に向かって過去を総括しながら考えられ、その時点では新しい装置だからだ。歴史はきっと発明する。
 
 
   人間の総合力
 
 春、三月の雨は冷たい。朝、詰所の中にこもり、詩を書き出そうとして興が乗らず、どんな言葉の断片すらも打ち出せない。
 意欲の無さ。ちょうど固い岩盤にちゃちな庭いじり用のシャベルで掘ることを試みるように、はね返されてまるで歯が立たない時のようだ。
 子どもより、親が大事と思いたい。太宰治の言葉だが、同じ意味合いで、「他人より自分が大事と思いたい」と考えてみる。他人を云々している暇はないのだ。自分が崩壊しかかっている。何が崩壊しかかっているかというと、おそらく「人間」に関する何かだと言ってみる他はない。その兆候がいたるところに発見されてある。自然や生態系の崩壊などと、他人事として考えている時ではあるまい。私たちは人間としてのある実体を失いかけている。表に見える形態の変化は微妙である。見えにくいところで、ちょうど氷河が溶け始めたように人間の内面の崩壊は始まっているのかも知れない。人間力、あるいは人間の総合力といったものが気候のように明らかにバランスを崩し始めている。
 こんなこと、実は考えても仕方がない。それに養老孟司流に言えば、私に責任はない。私はただ自分一人には責任を負わなければなるまいと思い、自分の崩壊を食い止めようと精神的格闘を続けてきた。自分一人をさえ救済できないものが、他人の崩壊を云々出来るわけがない。私はしかし、崩壊を免れているなどとは少しも確信できない。私でさえこんな何だからみんなだってそうだろう。これは他者を認識する際の私の根本的な関係の取り方の基礎である。他者は私である。
 私の孤独は私自身がこしらえてきたものである。そうして何度も咀嚼し、飲み込み、牛のように反芻した。人間力で、いつか人々に出逢うためだ。崩壊し倒れる訳にはいかぬ。
 
 
   革命の必要性
 
 革命家とは革命を遂行する人を指すのだろうが、どこか銃を取って立ち上がる人のイメージがある。自分の思想はもちろん、それよりも身体をかけて戦う人という感じだ。
 そういうイメージに反し、部屋でごろごろして考え事をしていても革命家は革命家だと「埴谷雄高」は言い切っていたと聞く。これは別に頭脳を使って指揮する、いわゆる参謀本部の人という意味合いではなかろう。
 政治権力や革命とは何のゆかりもなさそうな、孤独な屋根裏部屋の住人。しかし彼は革命家である。革命は武装蜂起をするから革命であるのではない。後進国などとは違い、先進国ではそういう種の革命の根拠は資本主義下の民主主義政治によって乗り越えられてきた。先進国における直接的な革命の課題はより複雑に、そしてより局部的な形でしか残っていない。もはや革命とは死語の世界にしかない。
 にもかかわらず、真の革命はこの世界において未完遂であると私は思う。いや、これからの世界にこそ真の革命は必要と見なされる。 人間社会は生活が便利に豊かになれば個々の生活者の心情は幸福に充たされ、そういう気持ちで生きて行くに違いないと考えてきた。しかし、社会に浮かび上がってきたのは精神病理上の問題であり、さらに病理の個別化の問題である。病は個人を標的に、深く潜行するという兆候を見せるようになってきた。
 社会生活をこなせるから病気ではないという境界線の線引きの仕方はもはや通用しない。また病理の自覚のないままに、傍目には常識的な社会人として生活しているといった場合もあるに違いない。だから事件や事故はある日突発的に起きるといった印象が強い。
 何が正常で何が正常でないか。自分を探るということは本当にいいことなのか。考えるほどに霧は深くなる。だが、考えるほかない。
 
 
   子どもの背後には家族の苦戦
 
 親は現役の兵士であり負傷兵であり、あるいは敗残兵であるかも知れない。子どもはどうしたって親の言うことを聞かなければなるまい。戦いの後を引き継がなければなるまい。小学校の教員を辞めるまでの数年間、私の、子どもたちに向けての口癖は、「お父さん、お母さんの言うことをききなさい」だった。それだけがたぶん、精一杯のメッセージだった。他には言いたいことも言うべきことも何もなかった。
 一つの学級の教壇側に立ったことのある人間であれば、子どもたち一人一人はばらばらで、しかも人間的な基礎部分はすでにできあがってしまっていることが理解できると思う。もちろん一人一人の子どもたちの背後には、それぞれには全く独立した家族の存在がある。 もっと露骨に言えば、一つの学級とはばらばらな家族の事情が単純に寄り集まった情況だと考えてみればいい。家族と家族との間には何のつながりも関係もない。子どもたちの個性とは、家族の中にあって形成されてきており、つまりは家族の歴史が刷り込まれている。この子どもたちに、教員としての私はその内面に限ってでも、何の爪あとも、つまり影響も与えることは出来ないだろうと感じていた。いや、影響を与えてよいのか、そういう資格が自分にはあるか、そういうことが大変重く苦く考えさせられるところであった。
 子どもたちはやはりその家庭のもので、人格的なものも含め、行動面、考え方、生活習慣等々についてとやかく言っても遅きに失する。また後天的にそれを矯正することには、ある種のリスクがともなうだろうとも考えられた。文科省や学校の善が正しいか、教員の思想が正しいか。仮に正しいとしても、生きるということは教育の持つ領域よりも遙かに広い領域を持ち、教育などの管理できるところではない。家族の苦戦。それを思っていた。
 
 
   社会の嘘がみんなをダメにする
 
 私の両親の世代は教育によって蓄積する知が、やがて子どもの資本になると考えていたにちがいない。小学生に上がったばかりの私は、どちらかというと不登校気味で、学校に行くことを嫌がった。母の手に引かれ、しぶしぶついていったことも何度かあったように思う。しかし、中学年くらいからはそういうことがなくなった。高学年になると、軟式テニスボールを使った野球が面白くて、それを楽しみに登校していた記憶がある。
 ところで、親たちの目論見はなかば失敗した。学識や学歴を、私は生きるための元手としようというような発想も考えも持たなかった。逆に、勉強とか学問の世界とはこんなものかと高を括った。高校を卒業する頃は、すべてがくだらないと考えるようになって、充分に厭世的になっていた。
 大学では、顔見知りの多くが学校の先生になったりして、なんだあいつらが学校の先生なんかになるのか、学校の先生たちってそんなもんかと興ざめした。私もその一人だが、大学では適当に遊んで、単位だけは何とか取って卒業する。学問的、思想的格闘なんかしたことがない。常識的な振る舞いと、羊のようなおとなしい善意とだけで教員になり、教室ではいっぱしの先生面をする。そこにもおそらく、「ふり」をしなければならないことの、自己欺瞞を韜晦するなどもあるのだろう。もの悲しいことだ。あるいは大学時代の生活などすっかり消して、いっぱしの指導者ぶりを発揮していくということになるのか。どちらにしてもやってきたことと言うこととが違う。みんな上手にそこをすり抜けていく。うまいものだと感心する。私は否定しない。生きるとはそういうことではないか。だが私たちが親になって、そんな学校や教育の紡ぎ出す建前を信じたり尊敬したりするはずがない。厳粛さを求める風潮がある限り、ダメ。
 
 
   社会の嘘がみんなをダメにする 2
 
 学校などにある種の厳粛さを求める。つまり、根底には社会がそうあるべきだというこの国の目標があり、それをバネに発達、発展しようとする動きがある。
 近代的な国家観なり社会観から生じるこういう考えは、少し前に西欧を中心に世界普遍的に試みが為されたが、現在では試みのほとんどが達成されずに半ば停止上にあると考えてよい。いわば、「こうすれば、こうなる」という考え方が頓挫していることを意味している。世界は、こうしたがこうならなかった、の連続で、現在の混迷にいたっているといってよいかと思う。もちろん、中にはそれでよくなった面も社会や国家にはある。しかし、環境汚染の問題、大気の問題、生態系の問題、資源の問題等、そうした思考方法が引き寄せた負の面が世界的に拡大しているのも事実だ。よりよい社会、よりよい生活。私たちは確かにそれを求めてきた。よくなった面と、思わぬ負の出現と、両価的な結果を見せる。
 我が国の学校や教育について、私は同様なことが見られると考える。よくなった面もあれば、逆に思いもかけない負に見舞われもしたのだ。それはいうに及ばず、現在のいじめ問題や非行や不登校やひきこもり等の問題などに表れている。
 ひところ流行った「美しい国づくり」のフレーズ。美しい国を壊してきたからこんな言葉が目標にされた。「道徳」の強化も、国民から道徳的振る舞いが失われてきたからこそ問題にされるようになった。人間として、社会として、国としてこんな姿であらねばならないと、現在の相反する状況を克服していこうと考える。じゃあどうするか。どうしてこんな事態になったか問わないし、誰も責任を取らない。臭いものには蓋をして、上辺だけのああしろこうしろが横行する。所詮通じる訳がない。川底の流れが逆なんだから。
 
 
   社会の嘘がみんなをダメにする 3
 
 数日前、高校を卒業したばかりの少年が駅のホームで人を突き落とした事件があった。何の気無しに見ていたテレビのコメンテーターが「小学生の時からしっかり命の尊さを教育しなければならない」と言った意味のことを話していた。もちろん瞬時に私はかっとなりむっとなった。こんな低脳な発言をテレビという公共の電波に乗せてよく言えるものだと思った。
 命の尊さ。命の大切さ。以前教員であった私には聞き飽きた言葉だ。確かに六十年近くを生きてきて、命の尊さ、大切さを充分に感じてはいるさ。けれども、言っていることとやっていることとがずいぶん違うじゃないかといつも思ってきた。子どもの目線に立てば、私が感じている以上にその違いは拡大されて浸透しているに違いないと思う。
 小学生の子どもたちにとって身近な脅威は登下校の道路だと思う。我が物顔に走り回る車の間を縫って、道の端を注意して通らなければならない。毎年登下校における交通事故でどれくらいの死傷者がいるものか調べたことはないが、その数よりも、明らかに危ないことが分かっていて大人たちがやっていることは交通教室だの子どもたちに注意を促すことや、防御ばかりをさせようとしてきている。通学路における車の通行禁止などは現実的でないとして誰も言わない。何を優先しているか明らかでしょう。大人の生活や、経済が優先順位として先になっている。
 社会が本気で「命が大切」だと考えているなら、まずその根本からして社会を作り直さなきゃいかんでしょう。それはしようともしないくせに、似非ヒューマニズムでお茶を濁している世界。こういう発想が日本を席巻していますよ。善意なんだが、思考の力こぶが弱い。考えることにおいて徹底した人命尊重の立場に立てていない。
 
 
   社会の嘘がみんなをダメにする 4
 
 子どもは見抜いている。それでいて社会は子どものために考えていると言って騒いでいる。子どもたちからすれば、自分たちがお荷物になっているんじゃないかと訝られるに違いない。自分たちは邪魔なんじゃないか。自分たちがいなければ社会はもっとすっきり快適に動くんじゃないか。そういう気配を察知して感じているような気がする。
 もちろん、反対に、自分たちのことを大事に思っていてくれる、考えてくれている、それも感じているには違いない。それは社会や大人の、目に見え、耳に聞こえる言動、事象や付随する事柄に表れているから。
 両方がせめぎ合っている。表向きは歓迎しているが、実態はしかし、大人や社会が言うほどには居心地がよくはない。この相反する感受の中で、子どもたちはどう自分を位置づけたらよいか、戸惑いを覚えるのではなかろうか。私はそんなふうに思う。
 生命の大切さは、教えられて身に付くものだろうか。頭では理解するだろう。だがそれは身をもって体験して、心底そう思うというのとは違っている。目覚めると言うことが必要だ。それにはいくつかの経験が必要になる。経験を通して、いつか内面的にハッと気がつく、目覚める。そうしたものでないと本当には生命の大切さを理解することは出来ない。 もちろん、そのためにはごく小さい時からの遊びや、遊びを通しての学びが大切になる。たくさんの傷や怪我、命に関わる危険を感じた時に、本能的な回避行動などが目覚めを助長していく。じゃあ車の危険回避もよい経験になると言うかもしれないが、それとこれとは別で、こちらの方は怯えなり萎縮なりという点が勝るような気がする。またこちらの危険は社会システム的で、あくまでも人為的、人工的なものだ。それは襲ってくるもので、自分が働きかけて出会う危険とは異なる。
 
 
   「暗さ」について
 
 自分は性格的に暗い方だと思う。この暗さがどこに由来するのかよく分からない。別に分からなくても支障はないのだが、生きて行く上でこの性格の暗さによって少し損をしてきた部分があったように思い、時々振り返って考えることがある。
 子どもの頃家庭内にあった時、自分はひょうきんで家族内を笑わせることがとても好きだったように思う。思ったこと、感じたことをストレートに表現し、その意味では両親の愛情に包まれて過ごせたのではないかと思う。兄と妹の三人兄弟で、子どもの頃は楽しかったという記憶しかない。
 一歩外に出て、たとえば友だちの家にいると、その家の家族の人たちに対してはいろいろな意味で遠慮するところがあったようだ。ある日、遊んでいて昼ご飯かおやつのようなものを食べていくように声をかけられたが、口ごもっていたら、「食べたいと言わないのなら食べさせないから」と言われてしまった。私の子どもらしくない過剰な遠慮がその家のおばあさんの機嫌を損ねたに違いなかった。私自身はたぶんお腹がすいていた。生唾をごくりと飲むような気分でいたのだと思う。もう二、三度、「食べなさい」と言ってくれたら私は食べる気になっていた。
 本当に食べさせたいという気があったのなら、何度でも「食べなさい」と言って勧めてくれる筈ではないのか。私はそう思っていて、そう声をかけてくれるものとばかり思っていた。お婆さんの不機嫌に言ったその声で、私は一瞬奈落の底に落ちた気分になった。他人は分からない、他人の家は怖い。たぶんその頃から私の中にはそういう思いが蓄積されていった気がする。いや、もっと以前から私はどこか変だった。父に怒られ追いかけられて逃げながら、私は家の中に小便をするからと居直った。牙の剥き方が尋常ではなかった。
 
   「暗さ」について2
 
 小学校四年生の時だ。担任の先生にふとしたことで注意され、職員室に連れて行かれて説教された。説教の中で、あなたは自分の親が教員なのでいい気になっているという意味合いのことを言われ、思わずかっとなって説教を受けているその場で床につばを吐いた。 私はそうしようと考えてつばを吐いたわけではけっしてない。そんな余裕はなかった。どうすればよいか分からず、反射的にそうしてしまったのだ。おそらくは抗議の意味合いもあった。
 たぶん先生が注意したには理由があったはずだ。先生の言うことをきかなかったか、友だちに対して横暴な振る舞いがあったかしていたのだと思う。ただ私には、私に非があるということが分からなかった。言ってみれば私にはそれでいいという思いがあって、自分としては当たり前に振る舞っていた。しかしそれは相手や客観的な第三者から見れば見過ごせない振る舞いであった。
 極論すれば、相手の気持ちが分からない子どもだったかも知れない。すべて、自分の思い通りにならないと気がすまなかった。もちろん譲るところがなかったわけではないが、内心に不満をくすぶらせた。私にすれば、ただ思い通りに生きたかった。しかし、一個の人間が思い通りに生きられる世の中ではなかった。私はそれを知り、世の中と和解するまでにどれほどの時間を要したのだろう。そうしてまたなぜ、私は世間知らずをいつまでも続けねばならなかったのだろう。私は自分の思いに執着する度合いが度を超えて強すぎたのかもしれない。以後、私はほどよい他人との距離の取り方に腐心してきた。そんなことで日々を明るくさわやかに過ごせるわけがない。しかしこの年になって、暗さはそれほどの重荷と感じなくなった。今となって、暗さは自分にとって生きた証とさえ感じられる。
 
 
   恐がり
 
 子どもの頃、とても恐がりだったことを思い出した。思い浮かんだのは、家の中の汲み取り式の便所にはいる時、きまって母親を呼び、扉を開けて待っていてもらったことだ。母がいない時は、四歳年下の妹に頼んだこともあったと思う。誰もいない時は、必ず歌を唄ったり大きな声を出しながら便所に入った。 夜はとても恐怖だった。大抵、便所に入らずに縁側から庭に向かっておしっこをしていた。夜の静けさというのだろうか、静けさの気配というのだろうか、濃厚な無や闇が押し寄せてきてとても耐えられるものではなかった。「カタリ」と音でも聞こえようものなら私の心臓は飛び上がり、きまって大声を出さずにはいられなかった。
 今考えれば、異常なほど小心で、恐がりであった。
 変な話だが、私は「くすぐり」にも極端に弱かった。脇下や足裏をくすぐられると、くすぐったさで苦しくなるほど笑い転げた。それはもはや笑いではない。笑いに似た拷問の責め苦である。
 いつ頃だったかははっきりしないが、私は恐がりやくすぐったがりを何とかしなければならないと考え、耐性を身に付けようとしたようだ。
 はっきりと覚えているのは、自分で自分をくすぐる訓練をしたことだ。足の裏や脇の下を私は自分でくすぐった。一つの工夫として、私はくすぐりながら、くすぐったいということはこういう事だと自分に一生懸命言い聞かせた。くすぐったいと、くすぐったさからどうしても逃れようとしてしまう。逆に、頭にそのくすぐったさを理解させ、味わわせようとした。すると、頭はそれを理解し味わおうとして、くすぐったさの内側にもぐり込む。くすぐりに対して頭が反応し、しだいに体の反応はなくなった。怖さも同様に克服した。
 
 
   若草の萌え出ずる春となりけり
 
 空き地やたんぼ道、土手などの色がうっすらと緑色に変わり、春になったんだなあと思う。小さなタンポポ、露草のような青みがかった花びらも点々と見えて、もちろん草々の緑の葉も生き生きとして見える。それでつい「若草の…」と心に呟いてみるのだが、これでしみじみと情緒が呼び起こされてそれに浸るのは日本人の特性ではないかと思う。
 若草が萌え出た。春が来た。だからどうした。現代っ子なら、たぶん、そんなの関係ねえ。大人だって四月一日からの暫定税率の失効で、ガソリンの値下げに耳目を奪われている。よっぽどの閑人でなければ、「だからどうした」ということになると思う。しみじみと陶酔して、自己満足げな気分に浸っているほど現代人は暇ではない。暇ではないが、それは偉そうに出来ることか。要するに私たちは貧乏性で、というより、いくぶん豊かな貧乏人なのだというしかない。季節や情景に、のんびりと情緒を開放させる気持の余裕がない。中にはそういう余裕のある人がいる。上品で貴族的な心映えのある人ということか。 いつものレストランから下の空き地をのぞき、私は「若草の」と呟き、呟きながらうんざりしてしまった。何の情緒も湧いてこないのだ。いつもあるパターンで、私ははね返されてしまう。高校生の頃にずる休みをして山登りをした時もそうだった。自然は私を包んではくれないし、憩わせもしない。異物のように、自然には溶け込むことが出来ない。
 心を癒されたいと願いながら、私はたぶん癒されたくないという真逆の気持もあるに違いない。自然は何も人間を選別しているわけではないのだろうから。本当に癒されたいと望むものだけが癒されることが出来るのだろう。私は自分の中では、心が何処かに逃れたいという思いを心底抱いている筈だが、この頃は無理かも知れないと諦めかかっている。
 
 
   生き死にについて
 
 やがて死ぬんだから一日一日が貴重だ。死なないんだったらどう過ごしてもいいか?
 貴重な一日の大半は仕事に費やされる。疲れてあとはだらだらしたり寝たりするだけだ。残念ながら貴重な一日はそんなふうにしてすり減っていく。一日を満足に生ききるなんて、たぶん私には出来ない。六十年をだらしなく生きてきたんだから、今さら改心しても遅い。残りの人生もやっぱりだらだら生きて、そして力尽きて死んでいく。自分にはそれがふさわしいと思ってしまう。
 自分の生命を価値あるものにしたいというような人間らしい考えは、私はあまり思わない。価値のある生き方があるなら、価値のない生き方もあるだろう。価値のない生き方など、私は未だかつて見たことがない。価値ある生き方と見なされる生き方について、実のところ、ほんとかねえ、と疑っているところがある。献身、社会貢献、大発見。誰にも出来ることではない。私には出来ない。
 私は昨今はどちらかといえば、自然の生き物たちと同じような、人々に注目されないような生き死にが出来たら、それが私にとっての理想かも知れないと思うようになっている。第一自分だけは立派で価値ある生き死にをしたと見られたい思いは、けちくさいのじゃないだろうか。輪廻転生し、生まれ変わる望みを持つとか、死んでもたくさんの人の弔問を受けたいとか立派な墓を望むとか、子孫に志を残したいとか、未練たらたらもどうかと思う。鮭なんか飲まず食わずで上流に遡上して、いわば藻掻きに藻掻いて、そうして産卵し、精子をふりかけて、やがて例外なく力尽きて川底に沈むんですからね。見事、としか言いようがないと私なんかには思われる。
 自然の生き物は、動物も植物も藻掻きに藻掻いて、力尽きておさらばします。そのような生き死にが一番いいのではないだろうか。
 
 
   遊びについて
 
 小さい頃は近所の悪ガキが集まって、稲の刈り取られた田んぼで野球をした。軟式のテニスボールといえばよいのか、柔らかくて体にあたっても痛くないボールを使っていた。ピッチャーは下から抛り、バッターは拳を使って打った。いつも五、六人から十人くらいは集まっていたと思う。
 その頃は部落と呼ぶ単位で、毎日のようにそれくらいの子どもたちは集まっていたような気がする。もちろん学年はばらばらで、上級生が大将となってみんなをまとめた。
 田んぼはよく滑った。残った稲の株に当たってボールはあちこちに不規則に転んだ。私は学年も下の方で、あまり上手ではなかったが必死にボールを追いかけ、拾い、投げ、そして打った。俊敏さとか、体のこなし方とか、ずいぶんとそういうところで鍛えられたような気がする。相撲もしたと思う。他にはビー玉やバッタ、時には田んぼの細い用水路を堰き止め、「きゃほつ」とよんで水を掻きだして、ドジョウを捕ったりした記憶もある。
 いろいろな遊びは上級生たちから伝授された。だが、それらの遊びを伝授した記憶が私にはない。全くなかったわけではないだろうが、私たちの年代を期に、田舎においても世代間交流が消えていったように思える。
 夏は家の前の小さな川で水浴びをした。水浴びの帰りにはスモモやバタンキョウを、どこの家のものかは分からないのだが自由にとって食べたりした。ひところ竹の筒に塩を入れて、あぜ道のスカンポを折って、その塩をつけて食べることもあった。またグミや木イチゴなど、仲間の家を通る時に庭になったそれをつまみ食いしたりしていた。
 私たちの年代を過ぎると川での水泳は禁止。学校にプールが出来るようになった。田んぼの牛や馬は耕耘機に変わった。中学にはいると部活があって、部落では遊ばなくなった。
 
 
   遊びについて2
 
 中学や高校になると、学年を超えた集まりはなくなった。変わって部活動が中心となり、おそらくは日曜日もほとんど部活に費やしていたのではなかっただろうか。ヒマが出来た時は一人でも出来る釣りなどをしていたように思う。もちろん行動範囲が広くなって、他の部落や地域に出かけることがなかったわけではないが、格別に夢中になって遊んだというような記憶はなくなっている。近所の幼友達との遊びや交流も極端に少なくなっていった。宿題も多く、勉強についていくためにも、遊びの時間を減らすほかなくなっていたかも知れない。
 大学では文化系のサークルに入り、同級生や先輩の部屋に入り浸った。勉強はしなかった。自由で、とにかく数人かたまってワイワイ何にということもなく騒いでいた。人生、文学、哲学、社会運動、それらをしゃべっていると訳も分からず昂揚して、その時の夢中さは子どもの時の遊びの夢中さに匹敵するように思う。自分たちだけの世界がそこにはあった。現実や世界や社会が本当には見えていない最後の時間だった。観念だけは、思い切り遠出したのである。本格的に酒を口にするようになり、異性と話す機会が増えたのもこの頃からだ。仕事に就くと、酒とギャンブルそして異性へと関心が強くなった。先輩たちと飲みに出かけ、カラオケでよく歌も唄った。人並みの会社人間として、一応の初歩的な体験としてはいろいろなことを体験したといってもいいかもしれない。だが、子どもの頃の遊びに比べたら、遊びの中に後ろめたさのようなものがつきまとっていた。
 八十を過ぎて私の父は、近所の先輩筋の人と声をかけ合いよく遊びに出かけたという。山菜を採り、パチンコにも行き、ドライブを楽しんだようだ。昔の愛称で呼び合いながら昔同様に遊べるなんて羨ましく感じる。
 
 
   遊びについて3
 
 お姉ちゃんと遊ぶ。私などのような俗で生臭さのとれない人間は、遊びといえば第一にそんなことを想像する。想像はするが、現実味はいたった少ない。もはや不可能と決めつけてもよい。にもかかわらず、まだ夢のように見続けているのだから、可愛いというか可哀想というか、オスの一途な性だ。そうして、そう思い描いている時が一番いいのだというような声をどこかで聞いたような気がする。
 普段は遊びといえばご存じ、パチンコだ。だがこれは苦行に似ている。負けてばかりだから楽しめない。なけなしの千円をポケットに突っ込んで出かける。負けると家に戻る。家出はテレビを見るしかない。面白い番組がない時は目をつぶるが、年のせいか寝入ってしまうことが出来ない。まんじりと為す術もなく時の立つのを待つ。死ねないことは分かっているが何となく死について考える。苦行である。どうすることも出来ない。妻がそばにいる時は、放屁でもしてみせるほかない。他に芸がないのだ。いない時は自分をもてあまして、成り行きに任せるしかない。インターネットをする。掃除洗濯をする。出なければひたすら存在することの不快に耐えていなければならない。そうしてきりきりに疲れて意味無く立ったり座ったり。
 金がないと、一人で遊ぶことさえ出来ない。そんなふうになっちまった。次から次へと湧き上がる意識を、「右から左へと受け流す」か、打ち消す作業を続ける。
 もっと年老いたらどんな遊びがいいか。ゲートボール?嫌だ。遊びの変わりに習い事をする?それも嫌だ。機械いじりやパソコンのあれこれをいたずらする気持にもなれない。父のように自然に声かけ合って遊びをともにする幼なじみもいない。釣り?それもいいがちょっと気取りすぎだ。年金だけでは暮らしていけないから、やっぱり何か仕事か?
 
 
   病む父
 
 題にした「病む父」とは、高齢の私の父が病気で寝込んでいるというようなことではない。他でもない、私自身の姿である。
 こんな父を持って、二人の息子たちはともに家を離れ、苦労をしている。苦労をしているがそれを父である私は手助けすることが出来ない。何一つ子どもたちの役に立つことが出来ないでいるのだ。心の支えにさえなれないでいる。父は、病んでいるのだ。重い病気に苦しみ、入院や通院を繰り返しているというのではない。五体満足。お腹もぽっこり出て、この一年は風邪に寝込んだことさえなかった。にもかかわらず、病んでいる。仮病を決め込んでいるわけではない。
 考えも生活も行き詰まっている。あえていえば、そういう思いに囚われて、自分ひとりをさえその行き詰まりから救済できない、そんな種類の病に冒されている。そしてそういう思いの底深い淵で、一人孤独な戦いを戦っている。子どもより、私自身こそが、重圧に押しつぶされそうなのである。重圧。いったいそれは何の、どんな重圧なのか。父は、それさえ明瞭に把握しているわけではない。そう思い込んでいるだけなのかもしれない。そう考えると、それがまた自身の病としてたたみ重ねられていきそうな気がする。目に見えない精神の病なのだ。
 父の、おのれ自身に対する悪戦苦闘は今に始まったことではない。結婚する以前から、生活者としての資格に欠けることを理解していた。努力をして、あたりまえの生活者になろうと這い上がろうとした。刻苦精進した。けれども辛かった。苦しかった。その果てに、病む父、病む夫、の姿が露わになった。
 病から這い上がらなければならない。私は戦いを放棄してはいない。子どもを心配する前に、自分が倒れたのでは何にもならない。そのこと一つ、思い続けている。
 
 
   
 
 仙台市のやや北側に位置するこの町のあたりでも、やっと桜の花を目にするようになった。花の下にて春死なん、である。四月も、いつの間にか十四日になっている。
 桜見物など、わざわざ出かけなくとも、これまで幾多の転勤によって、通勤の途次にあちらこちらの桜を車の中から眺めやった。菜の花もあれば、アヤメの花、梅雨時には紫陽花の咲く道を通ったりもした。
 その時々で、私は心に「ああ」とため息ともつかない思いを持つ。そうしてそれはそれだけのことだ。花を摘んだり、自分の家の庭に咲かせることもなければ咲かせようとしたことはない。ほんの一瞬の交歓で、私はいつも満足してしまう。一期一会ではないけれども、余韻を引きづったり、保存しておきたいというような気持には私はならない。
 私には生きるということは、こういう事が大部分だという考えがある。これが生きるということだという考えがある。風流人ではないかもしれない。つまらない生き方であり、つまらない人間であるかもしれない。でもそれでいいと思っている節がある。
 私はいたって大層にすることが嫌いなたちだ。花を見て、「ああ」と感嘆して、それっきりだ。その経験を他人に話す気にもなれない。言葉にすることも好きではない。だいたいが、言葉にならないと思っている。私のそうした心の体験は、体験として唯一無二であり、他の誰にも味わうことができないものだというのが、私には長い間さびしいことであった。逆に言えば、私は他人の心の体験を、類推は出来るけれどもそれとして決して味わうことが出来ないことを意味していた。これは私に、「個」であることが何か「罪」ではないのかという根源的な不安をかき立ててきたかもしれない。花見の酒はそれを埋めてくれるのかもしれないけれど・・・。
 
 
   詩作について
 
 個人的に詩を書き始めたのは、学生時代に吉本隆明の「固有時との対話」に出会ってからだ。毎日書くということを試みて、市販の原稿用紙に向かった。それまでは児童文学サークルに入っていて、童話、児童文学、あるいはもっと小説のようなものを書きたいという気持があった。
 才能がなかったようで、言語による表現も苦しいばかりだった。卒業後もかつての仲間と同人誌を発行したりしたが、どれもものにはならないと断念した。しかし、時々は思い出すようにして、自分の思いを言葉で表現することを断続して行ってきた。
 詩も、数だけはたくさん書いた気がする。方法的には、机に座って白紙を前に、言葉が意識上に降りてくるのを待ち、それを書き留めるといった感じで、考えれば酷く幼稚なようでこれは今も続いている。
 多くのプロの詩人の詩は、計量された言葉の構成が巧みになされ、芸術性が浮かび上がってくるように出来上がっていると思える。読むとそういう能力が羨ましく感じられた。 私は言葉の方程式を作れないし苦手である。詩を書き出す前は無の状態で、やっと意識にのぼった言葉から、その時の調子で次の言葉を付け足していくという仕方をしている。
 詩作は時間との戦いで、大抵その時間が過ぎると同じ意識状態に立ち戻ることは出来ない。未完や中途感がある作品が多いのはそのためである。あるいはもっとはっきりと、私の書くものは詩になっていないといえるかもしれない。数時間を費やして、一つが書ききれないと、また無の状態からはいることになるので継続が難しい。瞬間の戦いで、書ききれないと、詩を書いたということにならない。書ききっても、一人の意味不明な叫び以外ではなく、その奇形の姿は痛々しい。書いた後は自分でも振り返る気になれない。
 
 
   創作について
 
 詩は書きっぱなしで、ほとんどその時限りのものだといってよい。推敲しないし出来ない。やろうとすると全く別のものにするしかなくなっていく。これは他の文章を書く時も同じで、これをやる物書きを生業とする人々のエネルギーはどこから出てくるかと驚く。とにかく、推敲ということは、創造する時間にもまして私には疲れを感じさせる。
 おかげで、私の作品はどれも完成していない。きっと何処かにほころびや、欠点が混じっている。おそらく商品価値は全く無だと考えていい。これはもう仕方がない。商品として売り出そうとする気概が、そもそもから欠如している。
 たとえば野菜を出荷しようとするなら、当然商品価値が問題になる。ある基準があってその基準に満たないものは出荷されない。では、何のために野菜を作っているのか。自分の家庭で食べる分を作るということはあり得る。市場への供給を考えない詩や文章は、これはまあそのことと同じで、自分自身で消化するためだけのものだ。つまり自分にとっての慰めという結果目的の意味合いが大きい。自己満足。だが、それで日常生活を乗り切れるなら、自分にとっての意味合いは決して小さくはないというべきかもしれない。
 もっと気取らずに、本当は売り物にしたいと言えば、その方が本音かもしれない。ただ作っている当人がとても売り物にはならないことを知っている。
 よい野菜を作りたいと願っても、それが市場や消費者が欲しないならば、作り手がよいと思ってもその野菜は出回らない。市場や消費者が欲するものを作りたくないと考える農家は、出荷を断念しなければならないだろう。出荷は断念するが、小規模によいものを作ろうとし続けることは出来る。それは自分で食べる。ささやかな贅沢、かな。
 
 
   ある裁判について
 
 今日は山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し審判決の日で、朝からテレビでは特集を組むなど注目されている。少年の凶悪事件に対して、死刑判決が適用されるかどうかが焦点になっているようだ。
 この事件の被害者の夫、本村さんは度々新聞、テレビに発言を求められ、また自らも積極的に発言してきたので、この事件は多くの人の知るところとなっているように思える。 特に夫を含めた遺族たちは、加害者が少年であっても死刑判決を求めていて、世論に対しても被害者の心情を訴え続けてきた。そのせいかどうか分からないが、この裁判を取り巻く日本全国の空気は「死刑」の求刑の側に進んできているような印象が持たれる。
 世論全体が後押しして、「死刑」判決がもたらされるのではないか。私はそう予想するが、私個人は少しばかり疑問を覚え、この裁判とは直接関わりないところで、現在の裁判制度の矛盾を突きつけられているような気持になっている。
 同じ被害者の立場になれば、私は相手が少年であろうが何であろうが加害者に殺意を持つであろう。昔は仇討ち、敵討ちが普通にあった。第三者による裁判制度が行われる現在にあっても、被害者側の家族、親族の心情が大きく変わるわけがない。そういう面は変わらないものなのだ。
 ここまで書いてきたところで、テレビが記者を通して「死刑」判決が出たことを伝えている。
 第三者機関が、果たして「死刑」という、つまりは自然がこしらえた生命の、切断を執行することが妥当なのかどうか。そしてまた、「少年」に死刑という最も重い刑を課していいものかどうか。刹那、遺族はほっとするかもしれないが、おそらくそれも束の間で、精神内部の葛藤は継続し続ける気がする。
 
 
   ある裁判について2
 
 私が本村さんの立場だったらどうするだろうか。本村さん以上に立派な振る舞いが出来るなどとは到底思えない。ただ直接的に自分が加害者への殺意を実行できないとなれば、そこで挫折感を味わうことになってしまうのではないだろうかと想像する。その次に諦念や妥協が来て、自分が法を犯してでも加害者に危害やある場合は生命を断つ行為に及ぶことができないと判断される中で、そうである以上、一切を司法の手に委ねるほかないという結論にいたるであろう。そうしたときに、裁判そのものは、極端にいえば自分とは関係ない余所事のように変質してしまう気がする。 加害者は、法という塀の中に連れ去られ、こちら側で人間対人間という形で決着をつけることは不可能になる。それは被害の側にとって、加害者が法の内側に呼び込まれ守られるかのようにさえ錯覚されるに違いない。
 少年という立場であればなおさら、被害のこちら側は憎しみの対象を特定しにくくなる。というか、加害行為は憎みて余りあるのだが、それが少年となれば行為の責任の所在がぼやけてしまう気がする。おそらく、二度とこういう事があってはいけない。こういう事は世界からなくしたい。理不尽な被害にあった多くの人はそう考えていくと思う。そこで、加害者が死刑執行になればこの後この種の事件は起こらないと断定できないところから、果たして極刑の死刑執行は何のためかという疑問に突き当たるだろう。それは被害者の心情を満足させるためにあるのか。そんなことで満足できるはずもない。せめて死刑にでもなれば少しは気もおさまるということになるのか。いや、被害者はこの世から消えている、せめて加害者もこの世から消えるのでなければ、つじつまが合いにくい。そういう観点で死刑執行の必要はあるのだろうか。合法的殺害の権利を、果たして神は認めるだろうか。
 
 
   死刑について
 
 はからずも、判決の出た同日四月二十二日の河北新報に、作家辺見庸の連載『水の透視画法』において[死刑]をテーマとした文章が掲載されていた。「不都合な他者の抹殺=v、「個の尊厳なき『世間』」といった副題が並ぶ。
 辺見はこの文章に先立ち、「死刑と日常」というテーマで講演を行ったという。その講演の中で、「私たちは∧不都合なもの∨を愛せないか」と問い、死刑の黙認が不都合なものの排除という、日本的な世間の思想からなるのではないかと疑問を投げかける。社会という概念は「個の尊厳」が前提なのに、日本の世間にはこの「個の尊厳」意識がない。そもそも、そのことについて私たち日本人には考えるという習慣がない。
 辺見は、遠慮がちに言うが、死刑執行に反対の立場に立っている。社会や世間や世の中にとって、迷惑を及ぼす不都合な他者であっても国家の手によって生命を断つことは肯定できるものではない。約めて言えばそう言いたいのだと思うが、これはまた「なぜ人を殺してはいけないか」の問いに答えることと同じように、納得する理解を得ようとすればするほど言葉は煩瑣になっていくという陥穽がある。私にごく身近な人間は、母子殺害事件の死刑判決について、「当たり前じゃないの」と平然と言ってのけた。私はこれをごく標準的な日本人の言葉として聞いた。もちろん私はあらゆる意味合いからこの死刑判決には異議があり、肯定できないと思っている。辺見は「人は不合理で非論理的で利己的です。それでも人を愛しなさい」というマザー・テレサの言葉を引用し、その観点からの死刑反対の立場のようだが、私は違う。死刑は「公」に委託した「殺人」で、合法である。言い換えれば一つの生を抹殺するのに、誰の心にも痛みや畏れや震撼が伴わないから、反対だ。
 
 
   死刑について2
 
 辺見の文章に対して、自分の考えることにおいて、前回の文章は舌足らずで不充分だ。だから継続して書くけれども、いずれにしても私はこれらのことに充分に考えを練れているわけではない。私の主張は辺見よりも簡単で単純だ。丁々発止の殺し合いは理念では否定するが、私たちが人間である限りにおいてこれを完全に回避することは出来ないと考えている。今仮に暴漢が来て襲われたらどうするか。考える間もなく、逃げるか、身近に応戦できそうな道具類があればそれを手にとって防御するか、あるいは戦いが激しさを増して殺す殺されるに発展するかもしれない。私はこういう対処は人間にとって標準的だろうと思い、ここまでは肯定することが出来る。渦中において殺意さえ生じるかもしれないのであって、これはもう理念がどうこう考える問題ではない。人間的であるということは、こういうところまで考慮しなければならない問題であると思える。
 近親が殺害された。傷を負った。当然加害者に対する憎悪、殺意は生じる。人間にとって本当は法の介入は余計なものであり、邪魔であり、ある場合には不当とさえ感じられる。逆上の上に加害者を殺害する。警察に捕まって罰せられる。それを承知の上で近親の無念を晴らすことが出来るか。仮にできなくて法に従うとなれば、私自身の内部にはある挫折感が生じるのではないかと考える。国家という第三者機関に委ねる。事件は当事者を離れ、司法の手に移る。その時点で被害者となった近親者に、ある申し訳なさを私は感じてしまうような気がする。私は私自身の手で被害者を刺殺してしまうことは肯定するが、国家が私個人に変わって加害者に死を下すことを肯定しない。国家は個人の死に直面できない。生命に向き合えるものは、生命ある個人だけだ。死が、人間の尊厳が、その時意味を持つ。
 
 
   死刑について3
 
 残虐な人殺しをしたのだから死刑になって当たり前。日本的社会、いわゆる世間ではごく普通の考え方かもしれない。私はそう思ってはいない。その理由は先にも述べた。
 水戸黄門的発想。正義の味方が悪人を懲らしめる。それを喝采して喜ぶ心情とどこか似て感じられる。辺見庸は、「不都合な他者の《抹殺》」と捉え、控えめながらそれを批判していた。その観点は、そう主張する日本人の「世間的な感性」には、「個人」主義でいうところの「個人」がないというところにあった。「個人の尊厳」、「個人の人権」そういうものが日本人の「私」の内部には成熟していない。生命の尊さを口にしながら、生命を殺傷した生命は尊くない、という矛盾を日本の世間一般的な考え方は抱えている。おそらく欧米諸国の考え方は違うので、生命を殺傷した生命もまた尊いと、徹底的に詰めた考え方がなされている。私は、考えるということの問題として、そこまで徹底して考え詰めることの方がいいと思っている。その意味では日本的世間は「個の思考」というものを育てるようには出来ていない。
 マザー・テレサの詩「主よ…本音に気づかされました。私が愛していたのは、他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように」愛とは何か。他者とは何か。辺見が引用したこの詩の語るところは大きい。他者の中に自分に都合のよいところを見いだしたときに人は人を好きになり、不都合な部分を見いだしたときに嫌悪する。そんなふうに自分を投影せずに他者に向かうことは出来るのか。テレサはそう願い、願うことにおいて他者に出会おうとする。そこに始めて人間の「個」が瞳に映し出されてくる。その「個」は自分自身でもあり、尊さは翻って自分の尊さに他ならない。法ごときに個を葬らせてはならない。
 
 
   死刑について4
 
 法社会を私は否定するものではない。法は宗教が形を変え、現在的な法にいたったものであり、人間の歴史的な英知の結晶でもある。取り敢えず人間の社会にさまざまに起こる出来事をなだめすかし、人間がよりよい社会生活を営むための基礎を支えていると思っている。しかし、法が万能だというわけではない。とりわけ、死刑執行廃止の世界的な流れに逆行するように見える、昨今の日本の厳罰化の兆候をどう捉えたらいいのか。少し前には少年法の改正があり、処罰の対象を十六歳に引き下げるということが大きな反対もなく決定されたばかりである。私は死刑反対であり、少年法の改正にも反対であったが、自分の考え方が社会に通用するとは思えなかったし、人を納得させるだけの力もないと感じて、引きこもりそのもののような文章を書き綴ってきたに過ぎない。そして先に記したように、辺見庸の文章に触発されて書けるところを書いておこうと思い、努力して書いてみたのだが今ひとつはっきりとした視点が見いだせないで、さらにまたずるずるとこんな文章を書いている。本当は「死刑が当然じゃないか」という声に反駁したいのだ。「やっぱり死刑はないほうがいいんだね」というように、説得できる言葉を表現したいのだ。その言葉が発見できずに、なおかつまた屋に屋を重ねている。他者とは自分であり、自分とは他者である。みんなは私であり、私はみんなである。近頃私はそういう考え方をしてきている。「私」は現実の場に「私」として生き、想念の中においては「私」とはみんなに他ならず、「みんな」とは私に他ならない。凶悪殺人犯も、実は私でありみんななのだ。環境、成育歴、その他の諸々が彼に犯罪者の役割を負わせたのであり、「個」の内実においてはじめから悪を擁していたとは言えない。死刑は生命の尊厳に対する思念の麻痺をもたらす。
 
 
   死刑について5
 
 相手が赤ん坊でも老人でも、人が人を殺すときのためらい、躊躇、おののき、あるいは場合によっては喜び、逆に冷たい無感動のようなもの、そういう殺人犯の感情といったものを私は味わったことはないし知らない。
 しかし人間を死に至らしめるということには、そういう感情の閾を跨ぐことが不可避であろう。人間が人間を殺すという非人間的な行為も、ひどく人間的な行為なのだ。
 死刑という国家による合法的な「個の抹殺」は、殺人という非人間的な人間的行為とは異なっている。ある跳躍があると私には感じられる。いわば、人間の不在の内にシステム的な、そして非人間的な仕組みそのものによって、「個の生命」が断たれるということだと私は感じる。つまり、一つの生命の終わりにひとかけらの人間的な介在もないことを意味する。「個の尊厳」の視点から見たときに、私はこのことがどうしても引っかかる。「個の尊厳」を言うからには、たとえ凶悪犯罪者であろうがなかろうが、意味するところは違いはないはずで、どんな人間も先天的に持ち合わせていると考えるから「個の尊厳」と呼ぶ。あるいは最も尊いものとして現代の私たちは考えようとしている。
 本来的な意味で本当に「個の尊厳」を言うならば、「個の尊厳」によって対さなければならないだろう。「生命の尊厳」に対しては「生命の尊厳」を。しかし、死刑という形で「個」の生命を断つ時に、その制度を支え支持する国や国民の側になんのおののきも懼れも不安も見られないというのが現実である。そのことに直面したくない、目を背ける。そういうことで果たして「個の尊厳」を口に出来るか。つまり死刑は司法の一刺し、国民の一刺しに他ならないのに、その一刺しの実感が誰にもない。「個の尊厳」をこれ以上に軽視する出来事がほかにあるだろうか。
 
 
   雨の日
 
 例の詰所の中。外は雨が降っている。数日前に咲きほころんだ桜の花も、薄く霞み、だいぶ散りかけたようにガラス張りのむこうに見えていた。こんな日は、少し温かな場所でまどろんでいたい。
 そんな場所(こたつ、日の当たる縁側、畳の部屋など)で昔、時間をつぶすように寝ころんでいたときがあった。時間を無為に過ごす。いま思うと、相当な贅沢だったかと思える。あれこそ「平和」の享受、そんな思いも湧いてくる。猫のように眠たくなって、猫のような顔で寝ていたに違いない。
 そんなふうに寝ころんでいたい、まどろみたいと思うのに、やはりここ詰所ではそうもいかない。いや、折りたたみ椅子を並べて横になるくらいは出来るのだが、あの時のような無為にどっぷりとつかりに行くみたいな姿勢が、どうしてもとれないのだと思う。ああいう、意識が拡散してそれが心地よいと感じるには年を取りすぎてしまったということだろうか。ひとりの時のあのやさしげな空気の匂い、そしてその包み込まれるような安堵感。ゆったりと、ゆったりと流れていた時間。
 詰所内はしかし、一日中煌々と蛍光灯の明かりがついていて、その光は私を監視している。固く目を閉じても、瞼を通して部屋の明るさは感じられる。心の様相は、千里を隔てた土地の風景が異なるほど以上に異なって感じられる。仕方なくて私はタバコを吸い、お茶を飲み、テレビを見、本や新聞を読み、時折こうして書きものをする。ふと、縄文時代には雨が降ると竪穴式住居に籠もっていたのかなあ、と想像する。火を囲んで家族が横になっている。火を見つめて、昨日の獲物の残り肉を廻し食いしたり、目を閉じたり、明日、晴れたらあそこの沼に降りていってみようとか、前にしかけた罠を見に行こうとか、子供はなぜじっとしていないのかとか、・・・。
 
 
   老いの死
 
 新聞を見ると、老夫婦、独居老人、老いた親子の死を伝える記事を最近はよく見かける。自殺であったり、心中であったり、あるいは、原因は分からないが死体が発見された、とか。
 以前は福祉はどうなっているとか、可哀想だとか思っていたが、このごろは明日は我が身と思い、他人事ではなく、老いての死に方の参考にという思いで記事を読む。
 私の両親は長男夫婦と一緒に住み、自分たちで病院に足繁く通い、健康食品を数種類飲んで何とか元気である。その姿は老衰死を迎えるために精一杯生を燃焼し、闘っている姿と映る。それはそれで立派だと思う。
 私はたぶん子供たちといっしょに暮らすことは望めないし、年金なども少額に違いないから両親のようであることは出来ないだろう。もしかして私か妻かが明日倒れたら、私たちの今の生活はストップすることになる。入院費用ばかりではなく、月々の生活費さえままならなくなる。数ヶ月でガスが止まり水道が止まり、電気が止まるということになりそうだ。二人とも元気でいられるかどうか、これは私たちにとって大きな問題だ。
 妻に先立たれたら、私は老いてひとり暮らしをしなければならない。食事の用意から洗濯掃除と、私は習慣としてやっていけるのだろうか。私が死んだら、妻はどちらかの子供のところに世話になるのだろうか。死なないとして、入院するほどではないがどちらかがほとんど寝たきりになったら、どうなるのだろう。そうしたら二人で時間をかけて話し合い、一緒に死にましょうということになるのかもしれない。そしてそれは何となく理想的だと私は思っているようだ。その前に、熟年離婚ということにでもなったら、私はひっそりと孤独死を遂げるほかないということになるのだろう。それはそれで、私には自分の流儀に適っていると思える。
 
 
   文学的なこと
 
 文学的な関わりというものが身辺には見あたらなくて、最近書くもの、あるいは興味や関心を抱くものもどちらかというと非文学的なことが多い。
 たとえば新聞などには詩人や作家などのエッセーとかコラム的な短文が掲載されるが、やたらに文学的な香り付けばかり気にした文章が多くて、それはそれで辟易する。我慢をして読んでも意味不明、どうでもいいことをもったいぶった言い回しで言い飾って、結局のところそんな見方考え方が文学的なんだと誇示したいらしい。そんなもの、読んで感心するほど生活者は暇じゃない。もっと言えば苦しい。さらにもっと言えば、生活の繰り返しとループする思念との間で、洗濯機の中のハンカチのようにクルクル水流に巻かれて、文学的情緒などに浸っているどころではない。 自分自身の文学との関わりについて述べるつもりが脇道に逸れてしまった。
 小学生の頃、少年少女世界文学全集が家にあって、暇なときにそれを読んだ。ほとんどの内容をいまは覚えていない。中学では教科書にあった啄木の影響で、授業の合間に三十一文字をノートや教科書にいたずら書きした記憶がある。
 これまで誰にも打ち明けたことはないが、やはり中学の時に、武者小路実篤の詩集を手にして熱心に読んでいた。意識的にと言おうか、一生懸命読もうとして読んだのはこれが初めてだったのではないかと思う。進め、進め、とか、いま考えると赤面しそうな言葉が並んでいて、恥ずかしながらその時は本当にその気になって読んでいた。高校になるとこれが一転、太宰治に惹かれたのだが、武者小路から太宰への流れは真反対でありながら、どちらも作者のメッセージ性が強いという意味では共通するところもありそうだ。このあたりが文学的原点で、ここに限界も見える。
 
 
   職場でのこと
 
 職場は一応ギャンブル場なので子どもは少ない。でも三階ある内の一階には、子どもの遊び場が形ばかり用意されていて、時々そこで遊んでいる姿が見られる。最近、毎日のように来る子どもがいる。父親は二階で競輪新聞から目を離さない。子どもは先の遊び場にいるか、ここで知り合った子どもたちと駐車場で遊んでいるか、館内をあちこち探索しているかしている。家に、母親がいるのかどうか、少しはてなマークだ。父親はどこといって目立つところはなく、温厚そうであり、根っからのギャンブラーには見えない。でも、これが好きだとでもいうように、いつも熱心に新聞とにらめっこをしている。もしかすると離婚して子どもは父親が引き取ったのか、あるいは幼くして母と死別したものか。
 子どもは五歳くらいで幼稚園には行っていないのだろう。体つきは丸くぷっくりと、どちらかといえば太っている。別に仕草や態度が荒みきっているようには見えない。
 時々父親を捜して館内を歩いているときに、私と目があって言葉を交わすときがある。その時の応対も、子どもらしい子どもという感じで、心の屈折めいたものなど感じられない。特に馴れ馴れしくしてくるわけでもないし、しつこく追ってきたりもしないし、その点で分をわきまえているらしいことが、あるけなげさのようにも感じられて私には好感が持てた。本当は私には滅多にないことだ。小学校で先生をしていたが、私はたぶん育ちがよくなくて、子どもたちが望むように接するにはおっとりしたところが足りなくて、イライラしてしまうことが多かった。この子どもも、いまはまだ自制している部分が多いのだろうと思う。慣れてくればもっとやんちゃをして顰蹙を食うようになるだろう。いまは放任されている。父親に何とかしろと言いたいところだが、言ってどうなるものでもない。
 
 
   蛙と、帰る
 
 今朝の通勤は、苗が植えられたばかりの田んぼの中を走ってきた。所々まだ植え終わっていない田んぼがあって、田植機が動き回っていた。こういう光景はいつ見てもなぜかほっとする。道端を年格好の違った女が二人歩いていた。私の運転する車が追い越すところまで来ても振り向こうとさえしない。エンジンの音にも無関心になるほどに、朝早くから働きづめだったのか、二人の背中には疲労の色が漂っていた。
 夕べは仕事終わりが九時で、同じ道だが暗がりの中をかえった。車の中にいても、蛙の鳴き声がすごかった。昨年は気がつかなかったのか、こんなに空いっぱいに広がる鳴き声の記憶はない。でもきっと昨年だって鳴いていたんだろうなと思う。
 一昨日久し振りにかえった実家のほうでも蛙の鳴き声は聞こえた。日中はその声が拡散して、それほどうるさくは感じなかった。平日のことで田植えも始まってはいなかったから、今ひとつ蛙も本気を出さなかったのだろうか。苗が植えられれば、もしかすると蛙もうきうきして声が弾むのかもしれない。
 実家はもっと田舎なので、そうしてあまりにも見慣れ、馴染んだ風景が昔のままに広がっているので、私はなんだかどっと力が抜けて老いた両親と話すことさえ億劫に感じてしまった。居間のガラス戸を開き、足を外に投げ出して見やっていると、変わりない田んぼと小さな山並みの裾野に点在する家々が、私を変な気分にさせてしまうのだ。
 郷愁でもなければ悔恨でもない。なぜか私はその風景を自分を見るかのように見てしまう。いや、見ながら、自分はこれ以上でもこれ以下でもないなというようなことを考えてしまう。それでどうだということもない。眺めて居間のテーブルに戻り、幾度か繰り返して、では帰りますと言って帰ってしまう。
 
 
   ある電話
 
 お袋からTの就職について考えてくれという電話をもらった。自分ひとりさえもうまくやり繰りできない私に、そんな依頼をしても、たぶん力にはなれないよと応えた。もちろんそんなことは承知の上で、ほかに頼るものもなくなって、でもどうにかしたい思い一つで電話してきたものでもあったろうか。
 Tはお袋にとっては甥に当たり、私にとっては従兄弟に当たる。以前、彼についてはここで書いたことがある。もういい年だが、定職についておらず、ぶらぶらして時々知人の手伝いをするくらいなのだそうだ。
 彼の母が先行きを心配しているそうだ。息子にそれを言うと、「俺なんかいつ死んでもいいんだ」などと言う。パラサイト、ニート、今流行の言葉で言えばそんな生き方に近いと私は勝手にイメージを作り上げる。それはしかし、私の願望の底に眠る思いに近しい気がして仕方がない。
 彼は知的にやや劣るところがあって、昔で言えば小中と特殊学級に席を置いていた。私は幼いころ彼と時々遊んだが、そのことが彼を屈折させていることを察知していた。感覚的には鋭敏で、周囲の自分に向ける視線に、孤軍一人耐えているのだろうという気がした。 学校教育は罪であるという思いが私の中から離れないのは、こんなところに原点があると私は考えている。誰が悪いというわけではないが、時代と環境が、個にのしかかってつぶそうとかかる。私はそういう裂け目をよく垣間見るのだが、多くの人は知らぬふうを装うし、私もまた結局のところどうにも出来ないできた。私の両親も小学校の先生であり、私も二十年、先生をした。これは教育の影の成果の、しかもほんの些細な一事例ですよと私は両親に告げてみたい。私は、彼のように生きたら誰だってそうなると思う。だが、彼の甘えもまた、それでいいとは思わない。
 
 
   いやな子ども
 
 小さい頃少し勉強が出来たので、できないものを見下していた。また、多少感性が鋭かったせいか、鈍感と思われるものたちを軽蔑する傾向があった。ただ体が痩せて小さくその点ではいつまでも劣等感を抱き続けていた。
 小学五、六年の頃、ある朝学校に行くと校庭で下級生の子たちが石を投げ合って喧嘩していた。喧嘩は私もしょっちゅうやっていたから見過ごしてもよかったのだが、関係ないものにも災難が降りかかりそうなので、私は危ないからやめろと止めにかかった。一人の子どもが大勢を相手に本気で石を投げている。石はあちこちから飛んでくるのでぶつかるかもしれないと思ったが、かまわず両方の側に向かって制止の声をあげた。一人のほうがわめきながらやめようとしないので、説得にかかった。はじめに言い分を聞くと、相手方が悪口を言ってくるので喧嘩が始まったと言う。汚い、臭いとも言われたと泣きながら興奮してしゃべる。みんなで悪口を言う方が悪いし、お前は悪くないのだが、とにかく石を投げ合っては危ないから石は投げるなと説得した。そばによると確かにプーンとうんこの臭いがした。同じクラスだったら私が一番はじめに「臭い」と言いだしたにちがいない。そんな私が止めにかかっている。なんだか変な気持だったが、正しいことを行っているというような、心がくすぐられるような気持もあった。
 その頃から私は自分の無意識の暴力を気にするようになったと思う。相手を傷つけるような言葉、態度。そういうものに敏感になった。にもかかわらず、他人の欠点は相変わらず見抜くことに聡かった。それは自分の中で罪深いことのように考えられるようになっていったという気がする。何かに優れていることは決して偉いことではない。やっとそれを自分のものに出来た頃、最早自分には他より優れたところなど一つも無くなっていた。
 
 
   石の上にも三年
 
 この詰め所に通って一年と八か月。自分の性格的なものもあるけれども、ほかの部署とは違い空調及び設備担当は私一人のために、周囲の人たちとのコミュニケーションが難しい。はじめは一人っきりでアウェーにとことこ出かける気分だった。おそらくはこちらの被害妄想の類なのだが、白い目で見られているとか、無視されているといった気分の連続だった。ここに来て、いくらか存在が認められてきたかなというぐらいの感じになってきた。この施設内に私がいることに違和感を覚えないと、そうみんなが感じてくれていそうに思えるまでになった。
 この建物の持主と関連があるのは事務所の数人で、あとはいろいろな会社から担当部署ごとに入り込んでごっちゃな集まりなのである。言ってみれば私の会社からは私一人みたいなもので、私には同僚がいない。全員が同じ会社なら部署ごとに違っていても、もう少し早く打ち解けて勤めることが出来たはずだと思う。毎日のように姿を認めて、少しずつ少しずつ、そこにいることが当たり前のようになってくる。「石の上にも三年」というのは、三年座り続けたら石も温かくなることを言うらしいが、私なども三年通ってこの場の空気に馴染むということになるのだろうかと、気の長い話だが小さな真実であるという気もする。その間、もう認められていると感じたことがなかったわけではなかった。だがほんのちょっとしたことで周囲の私への評価は振り出しに戻ることがある。そういう行ったり来たりが、何度か、内的体験として言えばあった。私の経験から言えば、職場の一員になるということは、空気のようにその場にいることが当たり前になっていくことだ。その道は単純だが、決して簡単だというものでもない。石の上にも三年。本当の関係を構築するには、標準的に三年は必要かもしれない。
 
 
   敗走者
 
 五十年以上を生きてきて、自分の人生を一言に象徴させれば「負ける」という語で表すことが出来るのでは無かろうか。
 事あるごとに敗残兵となって、逃げることを繰り返してきた人生と言ってよい。何のためか。自分の狂気が生き延びるためである。 自己とは、あまりにも孤独であるゆえに全体の中では狂気と言っていい。唯一無二で、絶対に他と解け合うことのできるものではない。人は誰もがこれを負う。この側面から見れば、人間社会は狂気の集合である。命がけで自己を通そうとすれば、これは自爆テロとなって散るほか無い。そんな時代ではないし、自分はそんなに強くもない。またそういう強さは本当はよくないという考えもあった。
 いやいや、そんなことよりも、やはり自分は弱いのだ。軟弱であり怠惰でありいい加減である。到底人前に出て大声で号令など出来ない質なのだ。何一つ自分に自信の持てるものがない。嘘もついてしまう。正義と思っても主張を通せない。危ないところには近づかない。ごまかしごまかし凌いできた。思想など、いくらでも曲げて悪しとしない。役立たずである。力も知識も知恵もない。ただただ念仏のように生きることが大事、生き延びることが大事と考えてきた。どんなにひいき目に見ても、これくらいのところが自分の本当の姿に違いない。そう思うのである。
 あっちで負けて、こっちで負けて、とうとう私はこの社会で自分の居場所さえなくしてしまいそうになってしまった。ただもう本当に生きているだけなのである。いや、生かさせてもらっている。
 敗走に敗走を重ねて、逃げることにも疲れ、逃げる場所とて無くなったかに思えるこの頃、失ったものの多さの反対側に、多少は得たものがあることに気づく。それは視野の広さかもしれない。もう少し、時間を要する。
 
 
   健太郎
 
 場外券売り場のこのギャンブル場に、毎日五歳くらいの男の子が来ている。もちろん父親が一緒なのだが、子どもは親から離れてあちこち一人で動き回っている。
 実際には健太郎という名前ではないが、見るからに「健太郎」という感じなので、私は密かにそう呼ぶことにしている。
 健太郎はこの売り場にいる警備員やその他のスタッフに嫌われている。悪ガキ。言葉づかいや態度、乱暴さなどの理由でそんなふうに思われているようだ。
 私はというと、以前小学校の教員だったこともあり、健太郎が特別に悪い子どもだとは思わない。よくも悪くもなく、ただ境涯として、決して現在が幸福な境涯であるとは言えないだろうな、というぐらいにしか考えていない。乱暴さも、悪ガキ度も、こんな年寄りが多いギャンブル場では高が知れているという程度にしか発揮できるわけがない。
 一日中おとなしく父親のそばを離れなかったり、形ばかりの子どもの遊び場でクッションを相手に飽きずに遊べたら、かえって病気に近い。一日をギャンブルに費やす大人たちの間にいてタメ口をきくようになるのも仕方のないことだ。
 今日は一階においてある上期の競輪開催の日程表を、ごっそり箱から抜いて持ち歩いていた。スタッフの一人に咎められていたが、返そうとする気配ではない。仕方がないので私も「返しなさい」と声をかけたら逃げていく。すっかり逃げてしまうかというとそうではない。どちらかというと、追ってくるのを待っている気配だ。淋しいのに違いない。遊んでやればいいのだが、雇われの身であり、やはりどこかが荒れているにちがいない私にはそんな余裕もない。大人の狡さを発揮してチョコレートとの交換取引に出た。どこか素直さが残っていて、私は嫌ってはいない。
 
 
   コーヒータイム
 
 いつも詰所の中で暗く沈んでいるばかりのように思われても何だから、少し明るい話題を。と言っても、宝くじで一億円当たったとかそういう話ではない。
 過日パチンコで四千円近くもうかり、かねてから欲しかったコーヒーメーカー、千九百八十円を購入し、詰所に持ち運び、一日に一、二度コーヒーを作って飲んでいるというしだいだ。なんだそんなことかと思われるだろうが、これでけっこう自分の中では充たされる部分もあるから、もともと私はそんなに金がかからないように出来ている。
 コーヒーは以前から好きな方である。確か高校生くらいにインスタントコーヒーが普及し、私の田舎でも訪問客にはお茶代わりに砂糖をいっぱい入れたコーヒーを出すようになっていた。大学になって東京暮らしが始まると、喫茶店に入ってよくコーヒーを飲んだ。本物のコーヒーはやはり香りやコクが違って、それを飲みながら都会人になれたように錯覚した。暇にまかせて本を読み、友人と文学談義をしたりもした。七十年代初めのその雰囲気も遠い昔になった。詰所の中で本を読み、コーヒーを飲むと、遠い昔の自分と重なる。何だ、進歩がねえや。一人ごちする。それでもいいのである。私はコーヒーが好きなのだ。タバコも好きなのだ。タバコを吸いながらコーヒーを飲み、本や新聞を読んでいると、この詰所暮らしは悪くないと思う。牢獄みたいなものだけれど、こんな牢獄生活なら耐えられそうだ。そういえば最近、自分はもしかして人間嫌いのところがあるのかなと思う瞬間がある。詰所に一人っきりの生活をそれほど苦にしなくても耐えていられるのだから。これはあまり考えたことがなかった。自分では嫌いではないと思うがどうか。まあ貧しいなりに工夫して少しでも楽しくすごそうと、そんなことで頑張ってますという報告である。
 
 
   消費型社会の命運
 
 生産型社会から消費型社会への移行。世界の先進国はみなこういう社会になっている。また、こういう社会を先進国と呼んでいるとも言える。生産型社会とは工鉱業、製造業、建設業などの二次産業が社会の産業の主体となった社会であり、消費型社会とは第三次産業、すなわち運輸・流通、サービス、教育、医療などモノを造り出すのではなく消費する側の産業が主体となった社会である。この第三次産業が国民総生産の過半数を占め、なおかつ就業者数がこれも過半数を越えるようになった社会は消費型社会であり、先進社会、先進国と呼ばれるようになっている。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、そして日本などはこういう消費型社会になっていると言われる。
 これにはもう一つ、国民所得の六割以上が個人消費にまわり、またその半分以上が家賃や光熱費といった日常不可欠の必需消費ではなく、自由に選んでつかえる選択消費に当てられるようになったことが付け加えられる。 日本において不況や不景気に襲われたとすれば、まずはこの選択消費の部分が減少することになる。たとえば中型車から軽に乗り換えたり、コシヒカリなどのブランド米から標準米に買い控えたりする。もっと景気が悪化すると、光熱費などの必需消費を減らすことを考えなければならないようになる。こうなると、第三次産業も低迷するようになるかもしれない。そうなった時に、発展途上国のように第二次産業が主体の社会に戻れるのだろうかという疑問が湧く。また、第三次産業の衰退をそのままにしてよいのだろうかということも考える。私は先進国は後戻りできないし、すべきではないと思う。早急に第三次産業を立て直し、さらに発展をしていくほかに道はない。高次の産業が衰退すれば、一次、二次産業もおそらくは共倒れする。
 
 
   ものづくり立国 東北
 
 消費拡大と第三次産業への投資。政府の不況対策、景気対策はこの二点を中心に考えられなければならないのに、必ずしもこれに力点がかけられているようではない。となれば、中途半端な効果しか表れないことは目に見えている。国がそうであるばかりではなく、地方となるともっとひどくて、つい先頃の全国知事会の要請にあったように、道路特定財源の維持、すなわち公共事業主導型の景気対策、道路整備による企業誘致の競争しか眼中になく地方の独自性などあったものではない。これらは全て以前の経済学的な考え方をそのまま引きずって、ただそれにあてはめて対策を考えるからに他ならない。
 宮城にトヨタ関連の企業が進出するということになり、東北を自動車産業の集積地に、などと東北はいま浮かれている。トヨタは宮城を第三の生産拠点になどと考えているようだから、そういった可能性もなくはない。雇用がふえるなどの観点からも決して悪いことではないと思う。さらに道路整備、インフラ整備は進められていくのだろう。だがこれは宮城県知事をはじめとしての県の努力もあるのだろうが、相手次第という不確定要素もあったはずなのである。どの地方もこうすればこうなるというものではないはずだ。また自動車産業の集積化で東北が万々歳かというと、私はなんだか、地方独自の戦略の元に集積化が図られていくというよりも、企業の戦略に地方が乗っかる意味合いが大きいような気がして、その点がやや不安であるし、きちんとした東北の将来像を考えて事を進めようとしているのかと心配でもある。
 やっと工業立県となり、これを足がかりに第三次産業が主体となる先進県へと発展していくのかどうか。つまり都市化だが、かなりの紆余曲折を経ることになるのだろうと思う。後発に過ぎないから、自慢すべきでもない。
 
 
   卑屈さ
 
 自分にはどこか卑屈なところがある。同時に、傲慢なところもある。資質的なあるいは性格的なもので、自分ではこれが嫌いである。密かに、そういうところを直したいものだと考えてきたが、これがなかなかに直せるものではない。いまでも心の奥に卑屈と傲慢が同居しているように感じている。
 最近はしかし、こうしたところはだいぶ諦めがついてきているようで、以前に比べてどうにか直していきたいという気持は薄らいできている。
 子どもの頃、すでに身分制などない時代であったが、隣近所のわずかな田畑を耕す農家の人々の中には、体を縮こめて生活しているような人たちがいた。子ども心にも、そんなに自分を卑しめ、低くしなくてもという気持ちで接していた。貧しいということは、そういうことかとも思った。
 東北の、さらに奥深い山間の狭い平地に私の故郷があり、その狭い土地を田畑に耕して生活する村々の一つと言っていい。そんな小さな村にも、わずかに貧富の差はあり、昔の庄屋とか地主とかの権威とかいったものの名残がまだ漂っていたものでもあろう。
 私は、子ども心にもその卑屈そうに見える人たちが何となく好きであった。おそらく表向き親切そうに接してくれたからかもしれない。ちょっと村で幅をきかせていた人たちはそうではない。声をかけたり可愛がってはくれるが、説教口調であり、上からの物言いでずけずけ言われることが多かった。親戚の人たちはそういう人が多く、名前も呼び捨てにされた。親戚以外の人たちは、どちらかというと遠巻きに優しかったのだ。私には遠巻きに優しいくらいの方がありがたかった。それは対人間ということではそういう距離感の方が、私には気楽だったということだと思う。いまも親戚には遠慮がある。
 
 
   地球の力
 
 最近はずっと国道の脇にある農道に入って、両脇に田んぼの苗を眺めながら仕事先に通っている。まあ、近道、ということになる。
 道路脇や田んぼの畦道には、刈り取られないで丈高く伸びたヒメジョオンやエノコロ草、猫じゃらしや稗などにも似た植物、また少し離れた場所には丈の低いシロツメ草、アカツメ草、クローバーなどがいっぱいだ。場所によってはきちんと刈り取られてさっぱりとしている区画もある。農家の人の都合で草刈りの時期が違っているのだろう。しかし、田んぼの中は一様で、どの田んぼにもすっかり水が張り、苗が順調に育っているように見える。目測で水面から二十センチほどは伸びているだろうか。あれもこれも合わせてのどかな田園風景ということになる。
 水田から農家の家近くになると、畑がいくつか点在していて、そこには花の苗が植えられていて早いものは一斉に花を咲かせている区画もある。そうした畑の一画に、ジャガイモの茎と葉が育ち、その手前にキャベツがすっかり丸く球状に育っているのが見えた。近々収穫できそうだと思うと、もうそんな季節であり時期なのかとあらためて気づいたという気になった。自然はすごいとしか思えない。季節はめぐるもので、地球の成分が元になってどれだけのサイクルを再生産してきたことか。少し病み疲れてきたのではあろうが、それでもこんなにも生き生きと植物を育てる余力を残しているとは、そのパワーは計り知れない。思わず「お疲れ様」と声をかけたくなるし、「少し休んだらどうですか」と言ってみたくもなる。
 もちろん一時でも地球に活動を休まれたら、私たちは全て絶滅するしかないから困るけれども、人間的な、生き物的な発想から見れば充分尽くしてくれているのだから地球が休んでも文句は言えない。
 
 
   地球の力 2
 
 地球が活動を止めたら人間的な一切が消滅する。現在の国家的な対立も、経済の綱の引き合いも、理念の凌ぎ合いや発達した科学技術、その他のあらゆる事が、かつて存在したということの記憶さえ失われる。まあ消滅する私たちにとって見れば、その余のことはまさしく関係がないことになり、どうでもよいことになってしまう。
 地上における私たちにとっては切実なことであろうと、このように無限遠点から見れば対立など、個の欲望から発生した全てのことは意味無いものに見える。
 しかし、だからといって私たちは常に無限遠点の地点に立って生活を営むというわけにはいかない。喧嘩なんかは意味ないから止めろよと言ったのは宮沢賢治で、賢治は生涯無限遠点から現実を見続けた人という気がする。そして、どうしたら人間の地上でのあり方を変えることができるかを考えた。
 地球が地球内に棲む全ての生命あるものに与える恵みというようなもの、その力をなにと言えばよいか私には分からないが、仮にそれを「地球の力」だと言えば、そういう力を賢治は持ちたいと考えたのだと私は思う。
 地球の無限のエネルギーというもの。そこに人間的な意志や意識や思考といったものは存在しないが、そこにあり続けることで無限の力が発揮できる存在。賢治は地球のそうした無償の行為、無償の力、それが生き物の生きる力そのものに変換されているのを見て、自己存在もまたそうした地球存在の一つの分身と化すことを理想としたという気がする。もちろんこれは私の文脈の中で言えていることであって、実在の賢治に即して言っているわけではない。譬喩的に言っていると捉えてもらってもいい。無機的なものこそが恵みの源泉となり、平等の実現となるそのことを、賢治は問い、問いは保留されたままである。
 
 
   地球の力 3
 
 宮沢賢治の献身的な生き方は、常人が真似てできるものではない。彼の生き方も、彼の綴った詩や童話作品もそれぞれに研究家がいて、知りたければそれらを参考にすることが出来る。私はただ賢治は常人には不可能な力を持とうとして、不可能さゆえに若くして身を滅したと思っている。だから彼の所行を真似ようとしたことはないし、彼の熱心なファンであったということもない。模範にしようとしてもしようがなく、はじめから及びがたい存在であった。常人であることが人間の標準であると見なせば、彼が進もうとし、為そうとしたことは病気か異常であるかしなければ、到底まともに論議できるところのものではない。しかし、賢治の「動機」については、彼の生まれ育った花巻という地とさして遠くもなく、環境的にも大きくは変わり映えしない地に生まれ育ったものとして、地下水を共有するような、ある近親性を感じないわけにはいかない。賢治が投げかけたであろうメッセージのうちで、私がまともに受け止めたものは「デクノボウ」の概念だといってよい。ではそれはどんな概念かといわれれば、面倒だから答える気にもならなくて、ただそうなのだとここでは言っておきたい。一般的には「役立たず」みたいなことで、姿はあっても通常は誰にも意識されない程度の存在という側面を持つのだろう。人間的な範疇の中では意味や価値を認められない存在。だがそういう存在は範疇の外にあって、たとえば地球そのもののように、はるかに大きな恵みを与える可能性を持つとも考えることが出来る。そんなことが可能なのかどうかは私には分からない。だが賢治は大真面目に模索したと私は思っている。人間であって人間ではないというその位相は哀しくもあるが、その代わりのように、地球の分身として理念的には地球大に膨らみ、同一視が可能になる。
 
 
   地球の力 4
 
 地球のように生命を育み、恵みを与えるものになるには、地球そのものになってしまえば手っ取り早い。生きて一個の生命として活動しながら、地球そのものになってしまうためにはどうすればよいか。簡単に言えば地球の条件を備えてしまえばよいということになる。そしてそれは現実的には不可能なことだ。現実的には不可能だが、思考の中では不可能を可能にすることが出来る。方法はいくつかある。同じ元素で構成されているとか、生命体としての欲望や本能を抑制すれば近似していくとか、いろいろに屁理屈をあげたてれば、人間は地球の一部というところにまで考えを広げていくことは可能になる。賢治のように、地球の恵みを自身の無意識の善行という形で献身的に振る舞うように仕立て上げれば、そしてそれを無限に広く持続させていけば、一応の組み替えは完成させることが出来るのだろう。賢治はそのように生き、死んだというのが私の勝手な解釈である。これは別に事実に反していても、誤解であったにしてもかまわないことだ。私が勝手に解釈するところの賢治のイメージは、とても魅力的な部分を持ち合わせているのだが、魅力的だと同時にすぐさま懐疑的にもなってしまう。そこに辿り着くには、人間が人間であることを放棄しない限り、無理ではないのかという思いが湧いてくる。人間は可能性としてでも、現在可能である限りの人間の概念の殻を抜け出して、はたして人間以外の「人間」に成り得るのだろうか。これが私の疑問とするところだ。そして仮に人間が「人間」という存在に昇華できるものだとして、その存在は人間が幸福を享受する概念としての人間存在に成り得るのかどうか。私にはそれもよく分からない。どちらかというと、子どもの状態くらいのところで人間の発達も止まるのが理想的な気がするのだが、いずれたわいない話ではある。
 
 
   千円の煙草論議
 
 税収を見込んで煙草を千円に値上げする案がどこかの議員から出されたという。いまは冗談半分のところがあるみたいだが、これが全くの冗談でもないという気が私にはする。喫煙の撲滅みたいな名目を立て、しかも税がたんまりととれるとなれば政府や議員たちは何だってやる。公共サービスの充実のためとさらに名目をたてれば、喫煙者はぐうの音も出なくなることを見越している。馬鹿馬鹿しいと同時に品のない、ふざけた話だと思う。
 税収の事を考えたら、せいぜい消費税のアップが良いところだろう。その代わり、日用品、生活必需品などは対象外にすべきだと思える。なぜか。それは私たちのような低所得者層がいっそう苦しくなって、首をくくるしかなくなってしまうからだ。
 もちろん、原油高騰と揮発油税の維持、その他の諸物価高騰の現在の状況の中で消費税をアップなどしたら、確実に国民生活はたいへんなことになり、いかに温厚な日本国民といえども怒り頂点に達し、暴動が起こらないとも限らない。そういう状況に国民があることに政府や政治家、及び政策担当者たちは無頓着に過ぎる。
 何気なくつけたテレビで今日、太田弘子なんとか大臣が、七割が就業する第三次産業の生産性が低いので政府としててこ入れしていく云々と言っていたが、今頃なにを寝ぼけたことをと腹が立った。そんなこと、とっくの昔に見通しを立てておかなければならないことをやり過ごしてきたからこういう事になってきたのではないか。企業がリストラしたり人件費を削ったりして収支を調えたにすぎない見せかけの増益を、景気回復傾向などと謳ってその場凌ぎをしてきてみても、本当はいっこうに景気がよくなったりなどしていない。そういう責任を一切とらず、社会保障費は削減し、さらに税が欲しいという。末期の姿。
 
 
   宮沢賢治
 
 宮沢賢治のファンは相変わらず根強く存在するのだろう。一時期、私も「春と修羅」などの詩を熱心に読んだことはあるけれども、それ以上に深入りして熱狂的なファンになるところまでは行かなかった。かといってすっかり忘れてしまえたわけではなく、心の隅に引っかかって、時折思い出すことがあるふうだ。彼の全ては東北の風土と深く関わっていると私は印象している。冬の暗く陰鬱な、一寸さきも見えない豪雪。かと思うと一面の雪景色にからりと晴れ、青空の中に輝く太陽が浮かび光を注ぐ。それはたしかに仏教の後光のように、恵みを感じさせる光として表れる。そして雪の溶ける間から萌え出す緑。うららかな春の様相など。
 賢治の詩にも童話にも、そうした東北の風土が余すところなくちりばめられていて、怒りや軽快なリズムやプリズム様の色彩となって表現されている。
 彼の生き方は、しかし私などには考えるだけである種の苦しさが感じられて、持続に耐えられない。東北の風土が育んだ東北人の血の、ある種過剰な生真面目さ、潔癖さみたいなものがストレートに表出して、同じ血を持つものとしての同化的な共感とともに、自分の人間性から俗的なものを削ぎ落とすこれも過剰な純粋さなどへの、要するに田舎ものとしての羞恥などを覚えてしまう。
 私などは、賢治の「雨ニモマケズ」の世界から逃げ続けてさらに迷走を続けているのではあるが、これが少しばかり賢治に対する負い目として感じられる時がある。ある意味では、彼は思念に殉じた特攻隊員として見事に散華したのであって、その生き様から逃げていくことは出来ても批判したり否定できたりするものではない。東北の風土は時として過剰なまでのストイックな人格を育むが、それは貧しさや不幸の色合いの裏返しとも映る。
 
 
   太宰治
 
 太宰治もまた過剰に東北の風土を背負った文学者の一人であると思う。
 法華経の賢治とはちがい、太宰の思想はマルクスから聖書へと遍歴し、「駈け込み訴え」などの作品が書かれた。太宰はその過程で、「生きる思想」を求め続け、最終的には「家庭人」になりきる方向へと考えを詰めていった。これは後の、吉本隆明の「大衆の原像」やミシェル・フーコーの「平民」に接続する考えではなかったかと私は思っている。
 現実への不満、批判、否定へと階梯を登った理知は、どこかで現実に衝突し、抜き差しならぬ状況に追われることがある。
 信じる理念に殉じるという態度が一つあるが、必ずしも人間は理念に生き、理念に死ぬべき存在とは言えない。それは逆に「知」の一つの特徴、一つの著しい癖なのであって、人間丸ごとの存在は、概念としても「知」よりもはるかに大きな広いものであるべきものである。こう考えてみると、意識に対する無意識のように、「知」に対する知にあらざる領域を人間存在は抱えているのであって、その存在を生きているのが理念としての大衆であり、あるいは平民であろうと思う。
 太宰治の「家庭人」は、「知」を生活に解消する方法をいうものであって、権力の無化の方法を語っているものでもあると私は捉えている。そう考えた方が私には理解しやすい。 太宰治が現代の若者たちにも読まれ、逆にいまもって日共系の左翼や同伴的な知識人たちから評価されないのは、権力と密接に結びつく「知」の解体という課題を太宰が意識的無意識的に背負っているためであると私は思う。現代の宗教の一つとも言える「知」の絶対的「信仰」の問題は、提起はされても克服されたとはいいがたい。太宰治はこの一点で、かろうじて現在につながっている。その余のものは時代に帰していいと思う。
 
 
   大地震
 
 六月十四日の岩手・宮城を襲った大地震は、実家のある栗原市栗駒付近でもけっこうな被害をもたらしたようだ。実家では食器その他のものが落ちたり、部屋に重ねてあるものなどがばらばらに散らかったりしたという。思いピアノでさえ前のめりに移動した。
 何より深刻なのは、家のまわりのコンクリートや地面がわれて、斜面のあるほうに動いたり沈んだりしていることだ。
 その日の午後手伝いに行った時には、年老いた両親が少し元気がないように見えた。たぶん、被害そのものよりも予測不能な天災にあって、無意識の部分でというか体全体でというか、ショックを受けたためだと思う。
 これがもっと震源に近いところの人々、特にお年寄りや子どもの受けたショックというものはより大きなものに違いない。徐々に元気を取り戻していくほかしょうがないものだと思う。
 それが原因の一つかどうか定かではないけれども、今日は私も元気がなく、鬱に近い状態で一日を過ごした。別に地震について考えていたというわけではない。ただ何となく気持が落ち込んで、そのままずるずると続き、仕事終わりの時間帯になったということだ。 ここまで来るとやはり今度の地震の影響なしには考えられない気がしてくる。不意の天災には、人間の精神をそうした状況に追いつめる力が働くのだろうとしか思われない。
 私の場合は、おそらくは二、三日で浮いたり沈んだりのいつもの精神の波長に戻るに違いないと思える。そう思うがしかし、渦中にあるといつまでも低迷した状態から抜けられないのではないかという疑念が首を擡げる。ずるずると底なし沼に引っ張られる感じ。けれども、経験が、やがてこの屈託から離れられることを教えている。日が沈み、また登るように、気持ちもまた不意に晴れることを。
 
 
   乳児期の問題
 
 人間の赤ん坊は他の動物などの赤ん坊に比べて未熟な状態で生まれる。早産が人間の出産の常態だといっていい。
 その代わりに、生まれてすぐは母親が一生懸命世話をする。これは赤ん坊の独り立ちできない未熟さのためであるが、マイナスを補填するという意味以上に、ある積極的な原因が考えられるのかもしれない。例えばこの乳児期に、人類史におけるとても大事な戦略が控えているためにあえて早産されるというように。
 母胎の中における内コミュニケーションでは伝えきれない多くのことがある。そのために未熟な状態で誕生し、乳児期から幼児期にかけての一年と数ヶ月の間に、世話を受けながら多くのことを学ぶという形になっている。それは授乳を受けながら、他者をどう了解するかを把握することであるし、地域の習俗、風習などの刷り込み、言語の獲得など数え切れない。こうした一切はその後の生きることに関わる最低限の基礎を獲得する事に他ならない。極めて従来の生き物にはない戦略がそこにはあり、他の生き物とは隔絶している。 これらのために、人間は未熟なままにこの世界に誕生することを余儀なくされている。あえて未熟なままに生まれてくる必要があるというわけだ。生命体の遺伝子情報以外に、この胎児から乳児期にかけて、人間らしさの基本や人間的なものの一切の基礎が刷り込まれ学ばされていく。その意味でとても大事な時期ということは言うを待たない。
 ここを上手く通過できれば、人間としての基礎・基本は問題なく身に付けられると言えるだろう。その後は時代的に高度になった人間社会に対応できる力を身に付けていくことだけが大きな意味では課題となる。それさえも、先の時期をどう通過するかで変わってくる。良い条件で通過できることが理想だ。
 
 
   ばらばらな羊たち
 
 日本の教育が現在どうも上手く機能していないらしいのは、厳格さと自由さとがどちらも中途半端にあるからではないだろうか。全くの自由奔放でもないし、がちがちの厳格さを強制されているわけでもない。厳格さと自由さとが、いい加減なところでいい加減に行使されて、しかも基準などなく、その場その場、その時々、あるいは教員などによってもばらばらに発揮されているから、何がなんだか分からない状態に見える。建前では自由。しかし、団体生活だからといっては何かにつけて規制が敷かれる。悪く言えばしっちゃかめっちゃかの状態である。こんな状態で、子どもたちが動揺しない方がおかしい。先生たちだって動揺している。大人だから、動揺していない振りを見せている。逆に、本当に動揺していないとすればおかしい。自分という鉄の鎧を着た人格者だ。これはこれで異常と呼ぶのが正しい。文科省も、ゆとりとか押しつけとかの間をぶれていそがしい。ここ数十年、自前で立派なことは何もやっていない。教育的に価値が認められるのは、明治政府が出来て、欧米に学んだ先駆者たちの仕事だけではないかと思う。戦後にしたって、教員の組合もそれ以外も、全くと言っていいほど戦争責任の問題を潜りぬけ、「教育」の問題を本格的に、そして内在的に問い、考えたという業績はどこを見渡してもない。私に言わせればあんぽんたんばかりで、だから現在の学校がある。子どもたちの大半が学校生活を楽しみ、先生たちと心の触れあいを通じて成長している、などというのは嘘だ。自分が生徒であり学生であった時に、そういう触れあいは一瞬そう感じることが出来たという程度にしかないし、小学校の先生だった時も、子どもと心がふれあったと感じた経験は少ない。師弟、友だち、家族、上司と部下、夫婦、みな奥底に薄氷を踏む思いを隠し持っている。
 
 
   異質さと不寛容について
 
 異質さへの不寛容。それが現代の若者たちをして悲劇の創造者に仕立て上げている。そんな意味のことを書いた新聞のコラムを読んだ。…不寛容…。あるいはこれを広く無関心、無視などということばに広げて読み取ってみれば、とても納得のいく解析であると思った。
 死刑執行された宮崎勤について、大塚英志のコメントにあることばだが、その他の孤立的で疎外感をにじませる若者たちの無差別の凶行にも、背景にあるものとしてはそんなことが言えそうに思った。他とほんの少し違うだけなのだが、それだけで、とても生きにくい世界。私たちのような年を重ねた生活者には思いもかけないような別次元の世界が、共時に広がり続けているのではあるまいか。思いもかけないと書いたが、私たちにも体験的に思い当たる節が皆無なわけでもない。ただそれを息絶え絶えのように潜りぬけてきて、今は面の皮が厚くなった分、抜け道も逃げ道も心得ているというところなのかもしれない。
 異質。疎外。孤立。私はこれらについて充分苦しんだ経験を持つし、考え抜いてきた。そうすることによって、ここまで歩んで来られたと言えるかもしれない。大塚のコメントでは、「異質さ」の中身が言及されていないから何ともいいようがないが、例えばコミュニケーション能力、他者理解、他者との関係における距離感、そんなものが表面的に考察するとほんの少しずれて感じられることと私は推測する。不寛容ということばも、どのように不寛容なのか、その実態は言及されていなかった。読み手の私はしかし、なんとなく分かる感じだった。とにかく、当人には、居場所がないと感じさせる空気のようなものだ。この世界に自分の席がないと実感したものは、どこへ向かえばいいのか。大人も自分のことで精一杯というゆとりの無さと、若者の心の抵抗力の脆さが、陽炎のように心に残る。
 
 
   挫折・孤立・疎外
 
 秋葉原事件の加害者について、マスメディアは連日彼の生い立ちやら境遇、また直近の人間関係、あるいはネット上の書き込みなどについて詳細に報道している。
 加害者の挫折、孤立、疎外感などを手に取るように理解できる気がするが、一つだけどうにも理解できないのは、それらが無差別の大量殺人を考える契機になるものかどうかという点だ。
 学生の頃の仲間付き合いの経験からいえば、「挫折、孤立、疎外感」などはありふれたもので、誰もがみんな等し並みに持っているものだと感じた。ただそれをさらけ出すか、隠し貫くか、知らぬ振りを決め込むか、人それぞれで違いがあるのだと思われた。またそれをどのように自分の中で解消するかという点では、それぞれが心の表層部分で、中間部分で、深層の核にまで及んで、という形で、個に応じた格闘が為されていたと感じている。 ほとんどがそういう経験を経て、以後はまたそれぞれがそれぞれに社会にもぐり込んでいったと受け止めている。
 死刑になった宮崎元死刑囚の幼女殺害も、今回の秋葉原の無差別殺傷も、孤立感や疎外感があったことは強く感じるが、私自身を含めて身辺に接したことのある人々はこれから逃れるに、あるいはこれと正面に向き合って対決するに、彼らとは異なる方向、異なる解決の模索をしていったと思う。宮崎も加藤も、なぜ直接には自分の疎外や孤立感とは無縁の他者を犠牲にしなければならなかったかは、だから私にはよく分からないと言っていい。もし、彼らにそれを直接問いただせば、「分からないものに語っても無駄だ」という返答が来そうな気がする。そしてそれで私と加害者たちとは接点がなくなってしまい、物語は終わるのかもしれない。それが私には釈然としない。
 
 
   続、挫折・孤立・疎外
 
 挫折や孤立や疎外の深さが違う。考えられる違いはここにあるだろうか。そして受けたダメージの大きさが半端ではなかったということになる。
 こう考えると第一に、彼らの対抗性が極端に弱かったのではなかろうかという疑念が湧く。そしてもしそれが唯一ではないにしても、一つの解であることに相違ないことであれば、この種の犯罪の増加傾向から、これを解き明かすことはさしあたって必要なことであると思う。
 もう一つ、大塚英志の言葉によれば、周囲の「不寛容」という問題がある。これは幾分かの「異質さ」を資質として持ち合わせた彼らを、ありのままでは許容しないという周囲の作用として働き、彼らの孤絶感をいっそう深化し拡大するものである。これによって、彼らの日常の磁場は影響を受け、ねじ曲げられていくと考えられる。
 宮崎も加藤も、際だって異常な精神状態にあったわけではないと私は思う。報道などの伝えるところによれば、異常と正常の境界あたりのところで頼りなく揺れる心的状態にあったと想像される。あるところや場面では全く正常な振る舞いが出来、またある場面ではちょっと尋常ではないなと、それくらいに表面的にはちょっと変わったところがある程度に見られたに違いない。
 私自身、ひところ付き合った人の中で、精神病院に通院あるいは入院した人を数人知っている。発作とか症状のひどい時とかに出会うことはなかったから、彼らが病者だといわれても、私はそのかけらも感じなかった。ただ、彼らの考えることがひどく固着して、その理由が分からなかった。
 挫折・孤立・疎外となれば、私小説の得意分野だ。先達はいくらでもいる。そこで「解」を探してみるのも悪くはないと私は思う。
 
 
   「北回帰線」その1
 
 だいぶ昔に読んだヘンリー・ミラーの「北回帰線」を読み返した。いいなあ、と思った。思って、じっとしておれなくて、つまりはそのことについて何かを書かなければおさまらない気がした。
 ほとんどの印象としては、女をやっつけることばかりが書かれている。それから、主人公であるミラーと思われる「ぼく」が、どうやって食い物にありつくかということにも心を砕いて暮らしている姿が描かれている。
 性欲、食欲に貪欲な白人の、すさまじくエネルギッシュな、あるいは暴力的な「生」がまるで精液をまき散らすかのような荒削りの文体の中に蠢いている。
 これを読んだ後では、我々の生活は極端にちまちましたものに感じられる。同時に、日本やアジアの、肉感に乏しいイメージが際だってくる。アメリカ、ヨーローッパ、要するに毛唐の体格は、決して見かけだけのものではない。精力旺盛な肉体はもちろん、精神的なタフさも東洋人の考える頑丈さとは比べられない気がする。スケールが違う。内からこみ上げてくる血液のたぎりの度合いが違う。 小説として読むには、はじめの方は何が何か分からぬしっちゃかめっちゃかさに支配されていて、多少訳が分からぬ流れの中を読み進む忍耐が必要とされる。あるいは、分からないという点では、最後までそうなのかもしれない。けれども、まず「生きようとする生命体」が中心で「生の肯定」に狂奔していて、彼の頭脳が後から追いかけていく様がうかがわれる。生きる肉体と頭脳は、しかし、どこまでもズレを感じていて、一致する幸福感が得られないでいる。不幸なことに、頭脳はあまりに明晰で、しかも健康である。その健康さは、しかし肉体の健康さとどこにも一致点を見いだせない。主人公の中で世界は混沌と混乱である。本物の光と闇の物語がある。
 
 
   「悩む力」ということ
 
 数日前、東大教授の「カンサンジュン」とかいう名の人の「悩む力」という本を店頭で見かけた。面白そうなので買おうと思ったが七百いくらで、あいにく金が無く、買わないでぺらぺらとページをめくってだけ見た。
 漱石と、ウェーバーをもとに書かれた本のようであることは分かった。
 ウェーバーはともかくとして、漱石と題名の「悩む力」はよくマッチしているように思う。漱石は胃潰瘍で死んだ。それが漱石の悩みの大きさを象徴しているように私などは思ってきた。痔になりそうな悩みを抱えていたとさえ、私などは密かにイメージしている。 漱石はひととおり読んだつもりだが、それほど熱心な読者にはなれなかった。大抵は読後、何か大きな課題を与えられたようで、重荷を感じて暗く落ち込んだ気分になった気がする。救いようのない奈落に落ち込む、そんな気分に絶えられず、いつも小説の世界から一目散に逃げたという感じだ。「明暗」は、長編でもあり、未完でもあり、淡々と苦渋を生き抜かなければならないというような気配があって、呻きともつかない感動ともつかない、ある不思議な重たさが印象として残った。 カンさんはそういう暗鬱さをかいくぐってにじり寄るように読み深め、分析し、漱石の「悩む力」に未来を創造していく力としての人間力みたいなものを読み取ったのかもしれない。本は読んではいないが、NHKの番組で漱石の「悩む力」について論じていたことを思い出しながら私はそう考える。
 悩むことはもうたくさんだ、と普通に生活する人々は考える。私もそう思う。それをあえて悩む方向に自分の態勢を取らせて、引かない。能動的に悩む。頭脳のマゾヒストかもしれない。それもいいのかもしれないが、私にはどこかに人生は楽しむものという気持もある。苦しいだけの人生の充実はいやだ。
 
 
   
 
 詰所のの中にいて、ひとり、くよくよ考えたりしている。自分から進んで考えようとして考えているのではなく、頭が勝手にあれこれと記憶を呼び覚ましたり、自分の人生のことや世の中のことなどを考えている。それは愚にもつかないことに違いないのに、ぼくはそれを止めることが出来ない。
 部屋の中はそうして何一つ変わらない。机がありテレビがあり、椅子があり、仕事に使う道具類やファイルにとじられた資料その他がある。それらを整理したり、きれいに並べたり、掃除をしたりしていた方が余程いいことにちがいないのに、それはしない。
 つまり、時はそのように過ぎていく。
 詰所の内部は変化しないのだから、それに倣って意識も停止すればいいのにとぼくは思う。次の巡回までの小一時間ほど、泣き言みたいにくよくよすることはもうたくさんだ。まるで意味がない。そうかといって、寝ようと思って寝られるものでもない。意識は絶えず何かの言葉を、その中核に浮かび上がらせなければならないもののようで、言葉が浮かび上がってくれば当然それは意味というものを形成してしまう。ぼくはこの時、意味の形成などをめざしてはいない。ただ、安らかな状態でいたいだけなのだ。ぼんやりと壁に向かって、「これはかべだ」というくらいに、現実と過不足無く対応できていれば、それで充分なのだという気がする。この時、貧しいことや、悲惨な老後をイメージしたところで、それは何の対策にもなりはしない。そういう物思いは煩わしいだけである。徒労であり、不毛だ。それを理解しながら、この徒労と不毛を繰り返すのは、いたずらな消耗であろう。こうなると意識は消耗以外の何ものでもなくなる。こんなことにうんざりして、ストレスを生じ、疲れを感じ、何とか変にならないようにと、ただそれだけに努めている。変。
 
 
   意識についての断片
 
 はるか太古の日に、ぼんやりと過ごす人になりきってみる。もしも言葉が身辺の事物を指すに過ぎない段階にあるとしたら、精神、意識、心に、何が浮かび上がるものなのか。
 ふと地面を動き回る蟻の群れに目を止めたとして、例えば「あ」、「り」と内面に呟き、それ以外を考えずに、またひたすらにその群れを凝視することに集中するものなのかもしれない。それはちょうど幼児の頃の記憶のように、夢とも現ともつかない狭間に意識が留まっている状態に似ている。
 幼児から成人にかけて、私たちの意識には何が起きているかと云えば、意識に関連づけられるデータ量の蓄積を挙げることができるだろう。その間、データ量の蓄積に伴い、脳力の向上が背面に行われているに違いない。するとデータの関連づけは素早く瞬時に行われるようになり、あるところまではちょうどパソコンの性能が自動でアップするように脳力、意識の覚醒が、格段に向上していく。
 発達心理学の範疇にも含まれるこうした人間の側面は、人類史に置き換えて類推することもまるっきり不都合だとも言えないことだろうと思う。するとやはり、未明から未開、開明、覚醒、さらには混濁や、飽和から衰えのようなものまでの曲線を予想することができる。もちろんこれは手つかずの「自然」を基礎に置いて考えた場合である。
 脳における処理能力の限界というものは、身体との関連を考える限りにおいて必然であり、これは逆に幼児の身体の未開に酷似している。老体と幼児とは、ともに他人の世話を要する。これは脳のあり方、ひいては意識や精神のあり方に影響を及ぼす。私たちは、意識が身体という牢獄から解き放たれて、自由に飛翔しているかの如くに錯覚したり、あるいは夢見たりすることがあるけれども、意識にも意識できない事柄があるということだ。
 
 
   「知」の宿命
 
 三木茂夫は、「こころ」の働き、「あたま」の働き、と区別して呼んだけれども、畢竟、意識の上に浮かび上がる事柄に違いはない。初めに、基本的な情感が五感を基礎としてわれわれに了解されたものであり、さらにその上に、記憶を積み重ねた果ての「知」の形成が行われ、「理性」と呼ばれるものを持つにいたった。三木の言い方に倣えば、「こころ」の目覚めから、「あたま」の働きの活性化に、人類史は進み、個人もまたそのように成長していくと云ってよい。この、「あたま」の働きは現在までのところ、果てしのないもののように考えられがちである。反対に、「こころ」の働きは「あたま」の働きに駆逐されてしまったかのように考えられている。少なくとも三木茂夫はそう考えていた。
 心の内実は「情」であり、頭の内実は「知」である。「情」は「知」ほどに発達をとげるものではない。たぶん。それにくらべると、「知」は情報の蓄積と切り離して考えることができず、情報は情報を産み出すという性質から、考えようによっては無限に発達する可能性を秘めている。ただ、個体が、個体に備わる脳が、どこまで機能的に耐えられるのかは今のところ未知数といえる。
 「あたま」の発達に伴い、孤独、人間疎外、そういう「こころ」の側からの反乱にであって、「知」の短絡が起こり、私たちの「理性」は「非理性」にぶっ飛ぶ現象が巷間にあふれてきている。資本主義、産業革命、科学、こうした歴史的な諸事情は、現代にいたって精神上の病をもたらし、精神の荒廃は共有の病、公害とまで考えられるようになってきている。精神病、統合失調症、心の病、被害妄想、関係妄想、心神耗弱、関係障害、なんと呼ぼうとも、正常と異常の境界さえ見失われようとしている今日である。それでも「知」は走り続けるに違いない。宿命。「知」の宿命。
 
 
   生きる意味と価値
 
 北京オリンピックの水泳、北島選手の活躍などをテレビで見ていると、やはりあんなふうに生きるのでなければつまらないなどと、つい考えてしまう。六十近くまで生きて、それでなお、若い人の活躍を羨望する自分というものは、なんなのだろうか。これはしかし、瞬間的には紛れもなくそうなのであり、少し後には負け惜しみも出てくるのだが、彼らの生き生きとした姿は私の目にも光り輝いて見える。多くの人が羨望する彼のような活躍を、しかし実際にはほとんどの人は手にするというわけにはいかない。それなのにどうしてあんなふうになってみたいと思うものなのか。自分をも含めて、人間というものは、どこかにひどく単純なところを持ち合わせているものだと思う。この単純さが「羨望」に結びついている。
 翻って、自分の身辺、現状を見れば、夢も羨望も一瞬にして消えてしまう。毎日が貧しさにがんじがらめになって、身動きのとれない日々をやっと継続しているに過ぎないのだ。 若い人々の中にも、自分の貧寒な生活の底からオリンピック選手の活躍などを目にして、同じように羨望する人がいるかと思うと、なんだかいっそうさびしく感じられる。あるいは「まとも」に生きて行くことがいやになりはしないかと心配になる。
 私もこの年になるまで、なんとか人間の生きる意味や価値について、上っ面や表層でない捉え方で捉え直すことを試み、それなりに蓄積してきたものもあるのではあるけれども、それでも先のように表層では思いっきり「羨望」したりするのである。苦労して得た自分なりの意味や価値が一瞬に崩れ去る。だが、この先にも先があり、私はたぶん私なりの意味や価値をさらに再構築するに違いない。人は、無二である。生きているだけで意味も価値もある。その確信は揺るがない。
 
 
   精神のオリンピック
 
 オリンピックに出場して、しかも金メダルを取るくらいの人は過酷な練習、訓練を経てきたに違いない。その間の肉体の酷使は、私たちの想像をはるかに超えているだろう。
 そのことを考えると、肉体ではなく、もっぱら精神を酷使する人もいるのだろうなと思い至る。すると、精神を酷使する代表として、ひきこもる若者を私は考えてみた。
 精神を過酷に働かせ続けるということは、これは「こもって」集中できる状況を作らなければならない。部屋に引きこもることは、逆に精神にとっては純粋に自由な環境に置かれたというように考えることもできると思う。 肉体のトレーニングとは違い、精神のトレーニングには孤独にこもってするという状況が不可欠だ。
 詩を書く時に、こもって苦吟、呻吟するということはよくあることだ。まあ、これは精神の過酷な訓練、練習と思えなくもない。こう考えると、過酷な肉体のトレーニングと、過酷な精神のトレーニングとは向きは違うが共通の要素も持っていると感じられる。精神を働かせたオリンピックというものはないけれども、それに匹敵するような過酷な練習、訓練、実際には思い悩んだり苦しんだりするということだが、人知れずそれを為している人々は確実に存在するだろう。テレビに取り上げられないことはもちろん、家族や友人たちにさえそのことは気づかれないのかもしれない。しかし、たしかに思い悩み、苦しみの中に這いずり回っている人はいるのだ。それは意味がないことではないと私は思う。仮に意味は少ないとしても価値はある。本当はこもってする精神のトレーニングは、肉体の訓練がその後の生きるための肉体的に蓄積された財産になるように、精神的財産になるものだと思う。そのことが過小評価されすぎて、思い悩むことを軽視するのではつまらない。
 
 
   逃げる
 
 表現という行為の中では、少なくとも自分にはどこか立派そうなことを言っている表現が、多々あるという気がする。ところが生活現実的には、無惨なものである。どこにも立派で崇高な影がない。それを考えると、表現の中にひそむ、聖人君子めいた気取りがたまらなく嫌になる。
 例えば僕は、仕事が休みの時は朝からパチンコに出かけて、さんざんやられて家に帰る。少しも創造的で、自分を律した生活ができているとは言えない。世に流され、きりきり舞いになって、吹きだまりに寄せられた枯葉と変わらない。こんな生き方をしていて、何が表現できるといえるものか。仮に表現してきたとしても、ゴミがゴミをふやしているに過ぎないのではないかと思うのだ。こうなったらゴミダメの芸術とでも考えるほかないのではないか。いったい芸術なんて、もともと自分がめざすべきものでも無いし、どだい自分には無縁の、無理な希求ではあるまいか。
 たしかにその通りだ。だから僕は、正面切って芸術にコミットしようとしたことがなかった。芸術は剰余だ。標準からはみ出したものの宿命だ。彼らの命であり、そうすることによってしか彼らの生はない。要するに芸術は大地を耕して、自ら食を得る類の生き方ができない。
 僕は、標準に向かって、きびしい道のりを歩いてきた。三島由起夫が刻苦精進して鎧のような肉体を身に付けたように、僕は「ふつう」を身に付けてきた。これは僕のアイデアであり、そのために僕はいっそう孤独になってしまった。普通すぎて自分が自分に見えなくなり、他人にとっても見えない存在になったような気がする。これはこれでいいのだが、ときおり生理的な逆噴射が起こり、何もかもご破算にしたい衝動に駆られる。小さな躁と鬱を繰り返し、時に追われて、逃げる。