怠惰について       08.9.16
 
 今の、施設の空調監視、設備の保守といった仕事は、指示されたことをやっていればまず文句は言われない。あとは、時々に依頼があって、そのことに従事すればいい。
 しかし、この仕事で周囲に認められようと思えば、進んで仕事を見つけてこなしていかなければならないだろう。例えば観客席の椅子やテーブルの修繕や調整がある。日課としてこれをしなければならないという契約にはなっていない。これをやると、周囲の目にその姿が映り、良く動き、働いていると見なされる。それで、周囲によく思われたければこれをやるに限る。
 こういうことをすればまわりに喜ばれる。それをぼくはいくらかは理解している。そればかりではなく、それを時々は実践して見せている。「ああ、あの人はよく働くね」と、周囲の評判は上がる。そうすると少しだけその職場での居心地も良くなっていく。
 それなら徹底してそれをやればよさそうなものだが、元来が怠惰な人間である。冗談じゃねえ。くそまじめにやってられるか、そういう気持ちがむくむく湧いて、「あいつは何にもしねえ」と見なされない程度に小出しに働いて、あとはうまく休もうとする。
 頑張って周囲に気に入られたところでたかが知れているのだ。少し誉められて、時々はねぎらいの言葉をもらって、ただそれだけである。少しも時給が上がるわけでもない。そうとすれば、適当にさぼって、気楽に仕事時間の拘束を埋めていくほうがいい。ぼくはそう思う。だって、どうしたってぼくは仕事を好きにはなれそうにもないのだから。
 お店の店長、営業マン、小学校の先生。どんなときもこんなものだった。頑張りすぎるよりも少し怠惰で、仕事とはつかず離れずの距離を取ってきた。本音は「やりたくねえ」、そうはいっても現実にはやるしかない。
 
 
   教育の仕事        08.9.16  
 
 悪態をついてみる。
 先生とは、アホらしい商売である。馬鹿馬鹿しい。どだい、ぼくなどが先生などになるべきではなかった。小学校の教員は、「ちいちいぱっぱ」の世界である。スズメの学校である。権威も神聖もあったものではない。
 教員たちは大抵、学生時代はガリ勉でもなく、また不良にもなれなかった中途半端な連中で、多少、羊のように善良な連中である。彼らの学生時代の思い出は、そのほとんどが恋愛ごっこの思い出である。その時代、本気で打ち込んだと言えるのはそれだけだからである。ただ、自他にそれを認めることが許せないから、虚飾を纏う。そんなことはどうだっていい。
 自分の子どもを学校にやる段になって、子どもがダメになっても仕方がないとぼくは諦めた。子どもを学校にやるということは、親としての子育ての放棄だと思った。
 何しろ四六時中、権威ある学校で何事かを教わってくるのである。洗脳といってもいい。親としての出番はない。そう思った。
 教育とは国家的なプロジェクトである。その組織、システムに馴染むか馴染まないかは大きな問題である。子どもたちだけではなく、個々の教員もまた同様だ。しかも、そのプロジェクトの中枢にあるものたちでも、その意味も客観的な影響力も理解しないあんぽんたんたちばかりなのである。いい気になっていいことをしているつもりになっている馬鹿たちだ。頭のいいことがいいことだと思っている、自分の頭の良さを天分と思い込んだ威張り腐る馬鹿な連中どもだ。そういう連中には、頭がよいことは、単にそれを奉仕のために使うほか使い道がないのだということが理解できない。人に役立つほか、何の使用価値もない。こういう考えは絶対に現今の教育制度から出てきはしない。箸にも棒にもかからない。
 
 
   私の仕事         08.9.18
 
 契約社員として主に空調の監視、運転を請け負っている。施設の直の契約ではなく、施設の設備管理を委託された会社に雇われているのだ。警備や清掃とは違い、常に勤務しているのは一人だけである。詰所があり、一日のほとんどをそこで過ごす。ひきこもっている状態であり、地下生活者みたいなものだ。これを、丸二年継続してきた。心構えとして、毎日の繰り返しに耐えること、と、これは自分で決め、この思い一つでこの二年を勤めてきた。特に資格、技術などは要しない仕事である。電気器具、水道、給排水関係、エアコン、観覧席の椅子、机。これら施設内にある設備のちょっとした修繕の知識、技術があれば誰にでも出来る仕事である。
 エアコンには温度設定があって、はじめのころ、温度を設定すればエアコンのあるその場所は設定した温度になるものとばかり思っていた。実際にはそうならないことがしばしばで、はじめはそのことがよく了解できなかった。ために、暑くしすぎたり、寒くなりすぎたりがあって、エアコンが故障しているのではないかと思ったりした。
 二年の歳月は、目に見えないが施設のあらゆる場所の季節ごとの暑い寒いの特徴を、頭にデータとして記憶させた。例えば東側にあるレストラン周辺は、午前中に日が射すと二十度くらいの設定温度にしないと適温に保てないなどのこと。これは頭で考えたのではうまく理解できない。実際の運転、監視の体験を積んで、それこそ体で覚えたことである。 この施設に遊びに来る客たちには、おそらくこちらの苦労などは分からない。分からなくていいのだが、客があまり施設内の温度に不快を感じないということは、こちらの努力によるものだという面はある。継続と言うことは馬鹿に出来ない。表に出ない仕事だが、客の「快」には役立っている。
 
 
   仕事のこと        08.9.20
 
 一日中、ほとんど口も聞かずに仕事場にいる。「設備」の仕事はそういうもので、縁の下の力持ち、裏方として、施設の環境を過ごしやすいものにすることに役立っている。周囲は、それで当たり前と思っているから、そういう過ごしやすい環境を維持しても誉められることもなく、また誰かがそのことに尽力しているという意識をもたれることもない。逆に意識されないことの方が多い。だが、いったんエアコンが壊れたり、水が出ないなどのことがあったりすると大騒ぎになる。あるいは何をやっているんだとお叱りを受ける。 一般に、こういう意識されず、理解もされず、日の当たらぬ職業に従事する人々はそれほど少なくはないはずだ。仕事の半分くらいはそういう職業で占められているのではないか。そして、そうした職業には、評価されない面も当然備わっている。
 私はこの仕事について、何を一番頑張っているかと言えば、繰り返しに耐える、継続する、ほとんど会話という会話がない、そういった条件に耐えることを第一としている。知識や技術を習得するということは二の次だ。継続すればいやでもそれは少しずつ身に付いてくる。それでいいと思う。別に得意なことではない。好きなことでもない。うまい話があればいつでもこの詰所からおさらばしてもいいと思っている。会社や事務所に恩義があるわけでもない。
 まあ、今のところ仕方が無くてやっている仕事である。以前の、いくつかの仕事も仕方が無くてやっていた。営業、販売、公務員、その他、何をやってもそこそこにやれて、その仕事以外はやれない、やりたくないということはなかった。
 何が言いたいのか。何の仕事でも何十年と継続する力にはかなわないということだ。そして、私にはそれが、出来ない。
 
 
   二生目の人生の苛酷    08.9.20
 
 仕事は嫌いだ。まして現在のような安い賃労働の仕事は最悪だ。誉められもせず、人間として遇されていないと感ずるときだってある。ふざけるな、と内心で何度も叫ぶが、その声は塵のように足元にこぼれて広がるだけだ。どこにも届かないし、届ける相手さえ見えない。身近な人に愚痴をこぼすのも好きではないので、文字にして原稿のマスを埋めていくしかない。
 教員を辞めて生活は一変した。中層のあたりから最下層に転落したと考えてもらっていい。だが、そんなにがっくり来ているわけではない。学生時代の貧しさ、そのあたりにかえった気分だ。食べ物、着るもの、その他すべてのレベルにおいて落ちたと言っていい。しかし、以前として食べることが出来、着るものも着て、テレビを見、風呂に入って寝ることが出来る。これでも見方によっては平安時代の宮中の暮らしである。
 清々している。宵越しの金を持たないという江戸っ子になった気分だ。江戸っ子はしかし、そういわれながら本当は地道で着実な生活をする人が多かったのではないかという気がする。東京生まれの人と接したときに、そう感じたことがあった。
 漱石の「坊ちゃん」の主人公ほどではないが、またもう少しじめじめと湿っぽい気がするが、私の中にも古典的な一人の正義漢が棲んでいる。潔いことに憧れて、しかしその結果はいつも失敗続きである。言い訳はしない。すべてにきっぱりとおさらばして関係の糸も切った。見得を切って見せた舞台の裏で、一転して裸の体に風の冷たさが染みたのである。何のことはない、背を向けた世間で、一からまた繰り返しの生活を始めるほか無かったのである。二生目の人生の始まりは、それこそ夢も希望もない始まりに過ぎず、何食わぬ顔で苛酷を生きているということになる。
 
 
   ある恐れ         08.9.21
                
 リストラ旋風が吹き荒れた時期がある。どれほどのすさまじさなのか、体験したい気持があった。それまで生活のためと称して、自分を仕事に縛り付けようとしているところがあった。突然に仕事が無くなったら、死ぬしかないか。そんなことはないだろう。しかし、世間の風は、そんな恐れを運んで私たちに囁いていると思っていた。
 むくむくと世間の常識に反抗したい気持が湧いてきた。リストラ、何ほどのことか。さらに、こちらからリストラしてやれ、という強気の気分が充満して、教育界をリストラしてやるという気持で辞職した。腐った世界である。生活の安定という一事で仕事にしがみついて、これ以上おとなしく唯々諾々と居座っていたら、自分までもが腐ってしまう。そう考えた。これはもちろん自分ひとりの感覚で、誰もが生活のために我慢をして先生の仕事を勤めているということではないだろう。 次の仕事探しは容易ではなかった。地方では、中途採用の仕事先はしれている。しかも五十を過ぎての再就職である。リストラされた人の大変さは身に染みて分かった。長年染みついた終身雇用の社会は、そう簡単に変わるものではない。しかしだ。職を失うことは必ずしも死に直結したり、家族が崩壊せねばならないものでもない。現に私は生きていて、つまらないと思える仕事に身を寄せて、つまらない毎日をつまらぬふうに過ごして、そうして少しずつこういう生活になれていくのである。落ちることは苦しいことであり、同時に、また何でもないことである。生き続ければいいだけなのだ。生きるということは、こういう現実をひっくるめて生きるということであり、観念の遊びで左右すべきことではない。どうってことはない。冒険であり、夢の一つの実現であり、思想の貫徹である。まっぴらごめんよ、である。
 
 
   ある恐れ 2       08.9.21
                
 教員の仕事をやめるにあたっては、とても悩んだ。「坊ちゃん」の主人公のようなわけにはいかない。ドラマもなかった。
 ずいぶん前に、とてもやさしく思いやりのある校長の下で働いたことがあった。中学の美術の先生だった人で、先生たちの意見もよく聞く校長だった。穏和で、誰からも陰口や非難めいた批評を聞いたことがないと記憶している。私も尊敬し、立派だと思える人物であった。しかしある一つのことを契機に、私はその校長に反発した。今考えると、近親憎悪的な要素が入り込んでいたような気がする。 ある一つのこととは、当時私は研究主任のかたわら、身体障害学級にたずさわっていた。そこには筋ジストロフィーという難病を持つ児童がいて、一日の半分を私はその子と過ごした。その子のトイレ問題で、私は学級内に簡易トイレを設置するように校長にお願いをした。それは実現した。だが私にすれば、思いのほか粗末なトイレであった。私にはその子どもも、私自身も、大変惨めに映った。その気持ちをうまく伝えられないが、たしかにそうだったのだ。校長は出来上がったそのトイレを見て、何も感じないようだった。たぶん私は内心で、「お前がはじめに使って見せろ」と呟いたと思う。この出来事から、私は校長の顔を見るのもいやになり、強引に他校への異動を願い出た。
 私が職を辞すことを決めたときに在籍した学校は、簡単に言うとよい学校であった。よい校長、よい教頭、よい先生たち、よいPTA役員たちがいた。それ自体は文句のつけようがなかったと私は思っている。だが、ただ一点、私には今日的な社会的風潮、マスコミが言い、コメンテーターが言い、モラリストが言うそれらが、てんこ盛りの学校だと思われた。こういう学校に限って、問題児は冷たく見守られて終わる。
 
 
   ある恐れ 3        08.9.21
 
 話が少しそれた。仕事をやめるにあたっての不安や恐れのことに戻ろうと思う。辞職は長い逡巡のあとに一人で決めた。潔くはない。だが最後は自分で決断する。自分の生き方の流儀である。というか、相談が苦手なのだ。 えいっ、やっ、である。その他には何の意味もない。ただそれだけである。辞職してよいという確信は何もなかった。辞職すべきだという確信もなかった。考えに考え、悩みに悩んで、そして疲れて、悩むことそれ自体がいやになって、半ば自暴自棄である。
 教員生活は二十一年ほどだ。これを捨てることがどういうことか分からなかった。考えても実感できなかった。子どものために何も為しえなかった。教育の世界、学校の世界は攪乱されなければならないと考えて、その中でそよ風を起こすことさえ出来なかった。その途次にやめることは敗残の極みといってもいいのかもしれないとも思った。多くのことを学んだがそれは自分の中で未消化のままだ。未分化であり不分明だ。多少なりとも世話になった学校、教育の世界に恩返しのようなものさえできていない。突然のようにきっぱりと縁を切ってしまう。そういうことで、果たして人間としていいのかと問う声も聞こえる。だが、もともと四面楚歌の身の上と思っていた。何を今さらためらうことがあるか、とも。 教頭の職に手の届きそうなところまでは行った。ひとがんばりすれば教頭になり、校長になれたかもしれない。そんなことも頭をよぎった。そういう誘惑は決して弱いものではない。考えとしては、そのことのために「人間」として大切であると考えてきたことを、たとえ捨てることになっても構わないものなのだと結論できている。だがそれは悪魔の囁きであり、私の卑小さはその誘惑に負けることを是としなかった。ただ、何が私に大事なことなのか、明確に分かってはいなかった。
 
 
   ある恐れ 4       08.9.26
 
 若いときに、営業所の所長を打診されたことがある。当時の会社でそれを受けていれば、一番若い所長ということになり、魅力があった。少し前の教員時代、年齢的なことでそろそろ管理職という年代になった。これも全く魅力がなかったわけではない。
 小学生のとき、私たちのの時代にはまだ学級委員という制度があった。学級委員に選ばれることは、名誉と感じられる部分が少しあって、誰でもなれるというわけではなく、クラスメイトの投票で選ばれた。私は選ばれるのもいやだったし、全く投票されないこともいやだった。その時の、自分の心がいろいろに考えること、感じること、動揺することが、とても不快でならなかった。それは高じて、先の所長になるとか管理職になるとかの事態に遭遇したときに、同じような困惑と当惑を私に感じさせた。そればかりではなく、それをきっかけにその場から身を引くというところまで私を駆り立てたという気がする。
 他人からは、「小心者」と言われればいっそ気が楽なのだが、そこには何か根源的な自分の資質というようなものも見え隠れしているのかもしれないと思っている。
 上昇志向への嫌悪。ある決断や判断を要するときに、自分を下にしようとする傾向。いくつか考えてきたけれども、これだと決定できるまでにはいたらなかった。
 今考えると、いずれの場合にも、自分から望んでそういう状況に近づいたのではなくて、状況のほうが私に近づいてきたと言ったほうがいい。同時に、肩書きがつくことは、私の一部か全部を差し出す暗黙の契約を交わすことになるような気がして、それはとても意に反することであり、不本意でもあった。結局、そのことは私に仕事か自分かという選択を突きつけ、いつも私は自分を選んだ。それらの仕事の世界に、没入する気になれなかった。
 
 
   ある恐れ 5       08.9.26
 
 仕事を通して自己を実現する。あるいは仕事に自分を生かす。そういうことが自分には出来ないのかもしれない。所長とか教頭とか、管理職的な仕事の状況が近づくと、私は過剰に考えてしまうのか、仕事にのめり込まなければならないような気がして、そんなことは「ごめんだ」と突っぱねようとするか逃れようとしてきた。もともと自分はその仕事に情熱を持っていないか、情熱を燃やせると思ったことがない。それでは一般職のままであれば続けられるのかというと、これらを考えることをきっかけとして、いつも、冷や飯を食うのもごめんだということで辞めてしまう。 正直なところ、私の心にはいつも、我が儘でいたい、好き勝手にやりたいという思いがひそんでいる。
 もちろんそんなふうにしては生きてはいけないように思うから、ある程度は我慢をして一生懸命従順に仕事もするのである。でも、いやだなあという思いはこの年になるまで残っている。それはしっぺ返しとして自分の身に降りかかってくる。自分ばかりか、家族も耐えなければならない。そのことを考えると、苦しくなる。が、しかし、私はそうしてきた。 私は何がしたいのか。どう生きていきたいのか。それを考えたときに、具体的なことは何一つ固まらなかったけれども、結局のところ自分の欲するままに生きればいいのではないかと結論した。それで教員の仕事も辞めたが、今の仕事にたどり着いて、さて何が変わったということもなさそうだ。ただ教育の世界に存在したときの窮屈さが外れ、単純に社会に生きることの、誰もが味わっているに過ぎない窮屈さを味わっているように思える。 あれから、少しばかり広い視野で社会を見、ものごとを考えるようになったが、それ自体別にどうということはない。苦もあり楽もあり、だが損得の感情(勘定)はない。
 
 
   思念空間の拡大と病弊   08.9.29
 
 意識すること、思惟すること、それをさして「我」と呼ぶ以上、人間の思念空間は物や具象を越えて大きく飛翔するものとなる。
 思念空間は兪であり、実在しない。実在しない「空間」なのだから、かえって無際限である。はじめから無限であるいってもいい。 宇宙は、現在のところ有限であるといわれている。だが、宇宙の外は明らかにされてはいない。別の宇宙に接着しているかもしれないし、あるいは取り込まれているのかもしれない。さらに、異次元の存在もこのところ論理的にはあり得ると仮設されてその検証が論議されている。
 そんなところで、ともあれ、私たちの脳髄の中で、思念の空間は「たが」が外れてというべきか、自由を得てというべきか、神の領域を失ってというべきか、いきなり未知で未開拓の領域を眼前に突きつけられたのである。そこは「我が思う空間」である。そこにはどんな思い、どんな考えも巣くうことが出来るに違いない。物や事象に結びついた思考から、妄想の類や幻覚まで、脳髄は何でもその思念空間に現出させ、それを「我」として主体に意識させる。「我」として意識したときに、その「我」は、実は思念空間を次元を別にして占拠する。思念空間は無限だと先に述べたが、その無限を「我」は覆うのである。なぜなら「我」は思念空間の器そのものでもあるからだ。
 無意識をも含めた広大な思念空間とは別に、意識の先鋭化した意識としての「我」の存在もある。それは先鋭化すればするほど、何かひどく卑小な感じを私たちに強いる。この二重の「我」の存在の狭間で、私たちはこの無限遠点の距離感の広大さに目眩を感じる。つまり思考や思惟に無力を感じ、考えることがとてもつまらないことだと思えるときがある。観念の病弊を、そこに思う。
 
 
   政界に泳ぐ「とんま」たち 08.10.1
 
 中山国土交通相が、「日教組をぶっ壊す」などの気炎を上げて辞任した。つくづくあきれ果ててしまう。アホでとんまで馬鹿で、救いようがない。それでも記者会見では発言を「撤回しない」旨、ふんぞり返って言っている姿がいかにも政治家らしいといえば言えた。 現在の学校現場では、日教組などほとんど大っぴらな活動らしい活動はしていない。イデオロギーとしても、もはや批判や非難すべき対象としても意味を失っている。だから本質的には日教組はすでに解体したも同然なのだ。それをいまどき、「日教組をぶっ壊す」などというセンスが信じられない。もうほとんど壊れたか壊れてしまっているものに対して、いったいどう「ぶっ壊す」つもりなのか。 教育の問題の本質について、今や日教組を目の敵にしても、それはピントがずれた問題意識としか言いようが無く、そうしたずれた感覚の持主が一国の大臣であるというそのことがどうにも情けない。一事が万事で、その「ずれ」が、国土大臣のくせに教育問題に首を突っ込んだ発言をして顰蹙を買うとんちんかんにつながっている。しかも、このとんちんかんが、政治家として罷り通っているから本当に腹が立つ。中山の、もともとの問題意識は本当は格別悪いものではないと思う。ざっと社会を見ると、犯罪の凶悪化や家族の崩壊現象、それから不登校や学力の問題などが報道などを介して耳目に飛び込んでくる。日本の教育の根幹がダメになっている、若しくは揺らいで崩壊の危機に瀕している、そう一般的にも認識されながら、しかしいろいろな対策が講じられてもいっこうに立ち直る気配は見えない。そのことに苛立っているのであろう。究極の原因、教育の混乱の元凶を中山は日教組にあると言いたいのだが、そんな程度の認識ではお話にならない。一度ひきこもって、留学中の漱石のように勉強しろ。
 
 
   ある無意味        08.10.29
 
 考えたことを言葉にしてみる。少しずつ何かが分かりかけたような気がして、気分が高揚することがある。少しすると、それが思ったほどのことではないかもしれないと思う。落胆する。そうした繰り返しというものがある。考えてみると、どんな思想も、言葉や観念の中に留まり、いわば引きこもった状態にあるといえば言える。私たちはその姿を例えば先人の著した書物の中に見いだしたりするのだが、時にはそれは輝かしい光芒を放っていると見え、時にはみすぼらしい浮浪者と変わりない姿と映る。
 現実社会は、必ずしも一人の個体に醸成された偉大な思想というものを、求めないということはあり得る。無関心と無視とによって、その思想は時代の底に封じ込められる。思想にとって、それが宿命というものかもしれない。がしかし、それでも思想は産み続けられるに違いない。
 私は、長く考えるということに執着してきた方だと思うが、考えそのものは何ものにも結実しない。小さいころ、よく母親に、無駄な考え休むに似たりなどと揶揄されていたものだが、一面においてそれは真理に違いないと思う。けれども、考えようとする衝動は今日まで尽きることがなかった。
 地表に存在して、考え、そしてこの考えはわずかに文章としてとどめた以外この現実生活の中に残るということがない。肉体として死ねば、考えもまた自ずから消えていくものに他ならない。それとともに、真実への飢渇や、人のためという思いもまたはかなく消えていく。そこでつまり強烈に、無駄であり不毛であり徒労であるという思いがふくれる。 考えるということもまた、そういう宿命を背負っていると言える。無意味かといえば無意味なのだ。にもかかわらず、私たち人間は、自他について考えずにはいられない。
 
 
   生きることについて    08.11.3
 
 今朝出がけにテレビを見ていたら、高山に生息する雷鳥が映し出されていた。紅葉した低木の間を歩いていて、ナレーションは「紅葉を迎えた今の季節は、ごちそうがいっぱいある時期だ」みたいなことを言っていた。
 画面では、たしかにおいしそうに何かを啄んでいる姿を映し出していた。ふと、その雷鳥が羨ましく思えた。自由と平和が、そこにはありそうに思われたのだ。まず高い山だから環境的にきびしく、天敵が少なそうだ。競争相手が少なく、餌もとり放題かもしれない。高山という厳しい環境の中に住むのは、そういう利点があるからかもしれない。
 雷鳥にとっては天国のような場所、とその時思ったのだが、その瞬間同時に二つの思いが交錯した。
 一つは、生き物にとって終生天国のような場所に暮らせることは有り得ないこと、という思いだ。私には分からないが、きっと天敵は身近に存在するに違いない。たとえ命を脅かす存在となるものの種類は少ないとしても、あるいはまた冬の厳しい寒さなどとともに、やはり生きにくさの条件は他の生き物と異なるものではないのかもしれない。
 もう一つの思いは先の羨ましさに関連することで、のどかな光景の中でのどかにごちそうを啄んでいるように見えて、要するにこれは雷鳥が雷鳥として生きる姿なのか、ということだ。もう少し言ってみると、雷鳥はそのように生きるために生きている、というような思いが浮かんだのだ。もちろん、そこには何のために生きているのかという問いが含まれている。餌を食べ、繁殖し、と、それを繰り返し種を維持していくということ。それは自然の掟に従っているだけという気がするのだが、そうであらねばならぬ必然や理由といったものを考えると、泡立つ生命をどう考えればよいか、迷いが生まれる。
 
 
   生きることについて 2  08.11.3
 
 蟻の生き方は、あれはあれで合理的な戦略であるのかもしれない。巣作りに忙しく、餌となるものをせっせせっせと巣に運んでいく。巣の中には女王蟻がいて、繁殖の中心となっている。
 蟻はともかくたくさんいて、そしてそれらの蟻の活動のすべては、もっとたくさんの蟻を増やすことを目的としているように思われる。蟻はもちろんそんなことを「考え」てはいないのだが、すべての蟻の行動様式を結びあわせて考えると、そこに向かって動いているようにしか考えられない。そうさせる遺伝子に従ってそうしているのであろう。
 最終の目的が、種の繁栄にありそうだというのは、生き物全体に言えることのように思われる。どうしてそうなのかは分からないが、どの生き物もそんなふうに仲間を増やそうと地球上で競争しあっているようにも見える。そしてその志向性や勢いには、限度がないのだろうと思われる。ただ自然の環境や外的要因から、一種類の生物が飛び抜けて繁栄するというようには出来ていないらしい。食物連鎖というものがあるように、増えてもそれを補食する生き物がいたり、自然の要件などで、あるところまで繁栄するとそれをストップするような要因が生じてきたりするからだ。例えば仲間が増えると餌の分け前が少なくなるというようなことだ。
 仲間を増やしてどうするかなど、生き物の多くはほとんど考えてはいないはずだ。ただ、ひたすらそのことのための行動様式に従って生きているだけに過ぎない。そして毎日毎日同じ様式を繰り返してあくことがない。
 食べることと繁殖を相互に繰り返す。生きるとはそういうことで、どの生き物にも例外がない。人間はそういう生き物を蔑んで、一人自分だけは高級だと思い込んできた。それはしかし、どうであろうか。
 
 
   生きることについて 3  08.11.4
 
 秋の収穫を終えて、農家の庭先には葉っぱを落として鈴なりに実をつけた柿が目につくようになった。朝日や夕陽を受けると、これがなかなかの景観である。三角すい状の全体の形と、法則に従った枝々の伸び具合が実に絶妙であると思える。
 そこに、柿の木の戦略があるのだろうと私は思う。米などはすでに収穫されていて周囲の田圃には鳥たちの餌となるものがない。そこでは柿の実だけがやけに目立って注目を引くように見えている。
 私たちが子どもの頃は、よく柿を食べていたもので、その頃は竹竿を使って柿の実を収穫した。あまったものは鳥たちが来て食べていった。渋柿でも、熟しすぎて柔らかくなったものを鳥たちがつついて、ほんの少し形をとどめたものがそのままつり下がっているものをよく見かけたものだ。
 落下して種から芽を出すという戦略ももちろんあるのだろうし、あるいは鳥たちにどこか離れたところに運ばせるという戦略もあるのだろうと思う。いずれにしても、そこには繰り返し繰り返し、種の成育範囲を押し広げようという試みを延々と続ける姿がうかがえる。植物、動物たちの、繁殖し、自分たちの勢力範囲を広げようとする衝動は、見方によると無間地獄のようなものだし、同時に、想像を絶するようなエネルギーがそこには費やされているはずで、及びもつかないその力に感嘆し、感動してしまうものでもある。
 地球上の生物は、どの生き物も「オレが、オレが」と精一杯に主張して覇権を握ろうとせめぎ合って見えてくるのだが、それがある意味では楽園のような様相を呈して、私たちにしばしば「感動」を喚起させる。だがそれは必死の生き残り作戦、勢力範囲拡大のせめぎ合いの結果であって、風景には、美と、凄惨が重なり合っているように感じられる。
 
 
   生きることについて 4  08.11.4
 
 大気をも含めた地球という一つの球体の内側で、生き死にを繰り返しているものがある。大きくは陸上と海中とに、絢爛たる生き物の乱舞の印象もあるのだが、その印象を支えているのはやはり絶え間ない生き物たちの生と死とのめまぐるしい移り変わりに、錯視が生じるためであるのかもしれない。
 人々はそこで、美しい地球といい、かけがえのない地球と呼ぶが、他の天体からは必ずしもそう見られるものかどうかは分からない。もしかして、いたずらに無意味な賑わいと見えるのかもしれないし、猥雑な騒音のように思われるのかもしれない。
 一個の生命の誕生から無数に分割が繰り返されて、地球には生命が泡立ち、今も増殖が続いている。この生命の貪欲は、しかし地球の内側に留まっているものであって、波が寄せては返すように死んでは生まれ、死んでは生まれを繰り返して、おそらくは生命を持つ個体数としては増え続けているのであろう。 突然変異とも見られるこの地球という天体の内部で、どうしてこんな現象が起きなければならなかったかの意味はよく分からない。意味など無い。ただそれが生じた。
 やがて沈静化し、他の天体と同様宇宙の中で永い眠りにつくだろうことも理解されている。その時、現在の生命の泡立ちは、どのように捉えられるのか。宇宙時間の中では一過的なものに過ぎず、一瞬の出来事として闇に封じ込められるということなのかもしれない。 生命の貪欲、けなげな泡立ち。それにもかかわらず、一切の生命現象が喪失することもまた自明の事柄なのである。当然無頓着なその悲喜劇は突然の終焉を迎える。未来における死滅からの視線を借りれば、現在の不毛なエネルギーの生成と浪費は、偶然が引き起こした宇宙規模のたわむれ、気まぐれな遊戯に過ぎないのではないか。
 
 
   生きることについて 4  08.11.4
 
 ともかくも、この地球上に生じた生命は、数十億の歳月を費やして種としての人間を誕生せしめた。かくして、生命は初めて生命とは何か、生きるとは何かを人間をして振り返り、考えるにいたったのである。言ってみれば、誕生の時より隠し持った空隙としての、出自の意味を問い始めた。これは決して、人間の気まぐれな問いではないのかもしれない。 私たち同様に、はじめの生命体は自ら生じたものではない。はじめの生命体は偶然にか必然にか作られたものである。はじめの生命体を作ったものは、仮に地球であるということにしておこう。作られた生命体は、自らをつくり出したものではないが、分身を作ることができるものだった。ちょうど地球と自分との関係が、自分と分身との関係に出来上がることになる。
 その関係は現代に生を持つ末端の私たちにも受け継がれている。私たちは単体にせよ、雌雄の共同作業という形にせよ、生命を作り出した地球と同じ機能を受け継いでいることになる。もちろん足元の一片の草々にも、同じ力が備わっている。もとはといえば、どの生き物も地球の子どもたちに違いなく、地球はどの子(子孫)をも自らの中で、あるいは自らの上に、はね回り、飛び回り、生きる喜びを存分に味わわせようと意図したものだったのだろうか。もちろんこんなことは私の勝手な想像を出るものではないが、私たちには地球の意志とは呼べない意志が、遺伝子、DNAという形でその名残を伝えられているのではないかとも想像される。
 みなともに栄えなさいというのが、変わらぬ地球の「思い」なのであれば、生きとし生けるものの、生に向かってのやみくもの意志は合点がいきそうである。
 今年の秋にも変わらず鮭の群れが遡行する。願望の幾世代にも渉る実現をそこに見たい。
 
 
   生きることについて 5  08.11.5
 
 このところ、生き物の命がどれもみな同じように点で表せるのではないかというような思いでいる。それで、その周辺を探るように同じ題で文章を書き続けている。それでも考えは中心に向かうのではなく、かえって拡散してきているような気がして、少し落胆の気持も芽生えて来始めている。
 話を元に戻してみる。そもそものきっかけはテレビで雷鳥の姿を放映していたのを見たことによる。雷鳥は紅葉した低木の間を縫うように歩きながら、小さな実のようなものを啄んでいるように見えた。
 雷鳥の生態について詳しいわけでも何でもないが、おそらく生涯の多くをこんな姿で生き抜いていくのであろうと、その時に思った。 毎年同じ姿を繰り返しているであろうその姿に、どうしてか私は自分を置き換えたような気がする。それはほんの一瞬なのだと思う。自分は雷鳥のようにしか生きていない、あるいは雷鳥として生きられるだろうか、そんな錯綜した思いが同時に湧き上がっていたのかもしれない。もっと端的に言えば、私は雷鳥を自分と同一視していたのだろう。生命体として、歩き回りながら餌を求める。現代に、社会生活の渦中にあれやこれやの形で参加している自分も、つまるところは餌を求めて歩き回る雷鳥の姿と変わるところがない。
 しかし、あの雷鳥が私だと仮定してみれば、決定的に違和を感じる点がある。それは、もしも雷鳥が私自身であるとするならば、もっと寂しげに、悲しげに映らなければならないのではないかということだ。
 私の目に映る雷鳥は、どこか自由で、幸福そうに見えた。もしかすると主観的にはそうではないと思い込んでいる私自身も、他者の目にはそう映じることもあり得るのだろうか。私が雷鳥と同一であるならば、雷鳥は大層な役者だということになる。
 
 
   学校・医療・交通     08.11.11
 
 以前、山本哲士の『学校・医療・交通の神話』を読んで、感銘を覚えたことがあった。 言うまでもなく、学校・医療・交通は、現代社会を構成している中でも大きな柱である。一つでも、これらが欠けたり、後退したりすることが想定できないほど、この社会にはなくてはならないものだと信じられている。
 これらは世界中にくまなく広がり、高度化し、発達を続けている。
 イバン・イリイチの思想として、山本はこの書で、学校・医療・交通のある一定以上の発達は、かえって社会や人間の生活にとって効率も悪く、場合によっては害をもたらすという考え方を紹介している。その考え方に、虚をつかれたような、そんな記憶が残っている。半分はイリイチの言う通りかもしれないとおもい、半分は本当かなという思いだった。 つい先日のことだが、東京都で妊婦さんが脳出血を起こし、その手当の出来る病院を探したが、受け入れ先が見つからず、たらい回しにあって死んだというニュースがあった。
 それを見聞きして、「学校・医療・交通」の、現在的な実態は相当危ないことになっているのではないかと思うと同時に、先のイリイチの思想や山本の著書を思い出した。
 毎日のニュースの中で、これらの三つについて話題に上がらない日はないと言っていい。そして共通していることは、「いっそうの充実」が求められているということだろう。
 科学の発達や知の発達が人間にとって自然過程であると同様に、「学校・医療・交通」の「いっそうの充実」も発達も、どう転んでも進展することが宿命的である。抑えても、発達していくほかないものだと私は思う。その一方で、それ以上に発達すれば問題が起きる限界閾値を唱えるイリイチの考えも魅力に感じる。効果を第一に考えて発達を抑制する、それは現代の私たちに可能だろうか。
 
 
   平成のゾンビ       08.11.13
 
 田母神元航空幕僚長の聖戦史観ともいえる論文や発言が話題になっている。私はその論文に目を通していないが、報道によっておおよその内容は把握できる。
 田母神が批判している現在の我が国の常識的な第二次大戦観は、おおよそ、侵略戦争であったというように概括されている。田母神はそれを「自虐史観」と捉え、もとよりこれまでに同様の指摘をする右翼知識人がいなかったわけではなく、そういう主張の延長にある考え方なのかと私は想像している。
 評論家の佐高信は、新聞の時評欄で田母神の主張を「自虐史観」に対する「自慢史観」として括り、一蹴していた。ついでに、どこかにそうした考えを蔵している政治家が少なからずいるから、文民統制できるはずがないことも言っていた。この問題は、佐高のこの文章でケリがついたと見ていいのではないかと私は考えている。
 佐高の文章で重要と思われるところは二つあった。一つは、田母神と同じように考えるものたちの主張には、守るべきものは「国」であり、その「国」とは天皇を核に抱いて日本人が内部に培ってきた歴史的な意識そのものだ、と捉えられているところにある。国土でもない、国民でもない、精神性こそ守られなければならないと考えているということだ。 もう一つは、その「国」を守るために特攻隊を含め当時の若者たちは自ら進んで犠牲を引き受けた、という田母神たちの考えに反し、佐高は城山三郎の体験と発言とを紹介し、当時の社会的な意識としての共同の幻想が個々人に主体的な志願という形を強いたのであることを述べたところにある。
 田母神のような時代錯誤の連中は、ゾンビのように何度でも生き返るに違いない。そして同じ主張を繰り返す。愚かだが、生き返らせる隙が、残念ながら社会の側に存する。
 
 
   教員生活、喜びの面    08.11.17
 
 学校に勤めていたときに、私は時々幸せを感じるときがあった。第一に学校は校舎前に広い校庭を持ち、校舎は南向きに建ち、働く場としての環境に恵まれている。特に、晴れた日に校庭で遊び回る子どもたちを見ていると、実にいい気持になれた。それは瞬時であったかもしれないし、瞬時であっても他から「いい気なものだ」と言われればそれはその通りかもしれないが、そういう気分を何度も味わえたことはたしかなことだ。
 次に、何といっても日々の相手をするのは子どもたちということで、私の場合は小学校ということもあって日常的にはなごやかにそして賑やかに過ごせることが多かったと思う。同僚の先生たちは、小学校の教員になるくらいだから、たいていは動物にたとえると「羊」のようにおだやかな人が多い。社会一般には見かける狸や狐、オオカミや蛇の類は少ないと言っていいし、一言で言えば善意の人が多い。私から見れば、先生たちはみんな一生懸命子どもたちに尽くす人たちであった。もちろんその尽くす向きや方法はそれぞれに違っていて、ある場合、子どものためにならない結果を生じることもあるのだが、そういう思いとは裏腹の結果は誰においても完璧に防ぐことなど出来はしない。
 私も、ずいぶん子どもたちのためと思って頑張ったことはあった。教材の研究、指導の工夫、子ども一人ひとりの理解と公平、公正な接し方等々。けれどもそうしたことにはきりがなかった。努力しても努力しても、それでいいという地点がなかった。努力したから成果が出るということでもなかったし、その成果の捉え方もまたいろいろであり得た。それでよいという見方も出来れば、逆の見方が出来るところもある。終いにはやってもやらなくても大勢に影響はないと考えた。少なくとも私は、影響を与える程大きくはない。
 
 
   植物と動物と人間と    08.11.22
 
 私たち人間は内臓に植物を、内臓を取り巻く骨格や筋肉などに動物を、そして何といっても発達した脳に「人間性」を持った存在である。睡眠時間を八時間と考えると、おおよそ人生の三分の一は植物に近いところを私たちも生きているということになる。起きて活動しているときは、半分は動物的に生活し、残り半分を人間的に生きているというように考えることが出来る。人間として生活を送っているのはせいぜい生涯の三分の一で、それもまあ自分を振り返って言えば大したことはやっていないことになる。あまり威張れたものではない。
 植物、動物、人間と、分かりやすく考えるためにそれぞれ人生の三分の一と捉えてみたのであるが、もちろん生涯を通して三つの部分は個人の中に常時存在し、活動し続けている。そしてただ、私たちの人間的な部分としての意識は、植物的な部分や動物的な部分を土台に、その上に乗っかるように成り立っているから、敢えてそれらの部分を意識することは少ないという特徴を持っている。そして健常であれば、ほとんど意識しないですんでいる。私たちの意識は、こうした植物系、動物系の身体諸器官の扱いが、概ねぞんざいであるという気がする。身体から出来るだけ遠いところを見て、そこに夢が、希望が、価値が、あると見なしている。それは私たちの意識の特徴である。そうしてたくさんの価値あるものを創造した気になってきているのであるが、果たして現実に産み出してきたものの多くは、それほど価値あるものだと言えるものだっただろうかと、今、ちょっと私は立ち止まって考えているところだ。もちろん、人工物はすべて意味がない、価値がないといいたいのではない。意識が見下ろす肩から下に、実に価値あるものが存在していたではないかと、あえて言ってみたいのだ。
 
 
   携帯電話の禁止に思う   08.12.6
 
 大阪の橋本知事が、学校での子どもたちの携帯電話の使用、持ち込みを禁止する条例を出したと報道で聞いた。
 これは本当は親が決めなければならないことで、代わりに自治体の行政がやってあげるという図式は、いいことか悪いことか判断に悩むところだ。もちろん第一感は、ちょっとお節介すぎるんじゃないかというのが私の感想だ。学力低下、いじめ、裏サイトを通じた犯罪に巻き込まれる危険、それら諸々からの決断と聞いたが、いかにもの流れだと思う。とかく指導者というものは、「理想」を囲い、その理想に向けて現実に強制をかけたがる。
 大人にとって、昔は子どもの問題といえばいかに食わせていくかにあった。現代日本の社会は、そこをクリアーしてきた。しかし、これで子どもの問題が片づいたのではなく、新たな課題が浮かび上がってきたということなのだろう。もしかすると、いつの時代にも「問題」は姿形を変えてあり続けるものかもしれない。
 子どもの経済的な状況が概ね問題にならなくなってきて、次の段階として現在の問題が浮上しているとすれば、これもいつかは解決の方向に向かい、別の課題が浮上してくるに違いない。また、そもそも学力低下もいじめも犯罪に巻き込まれる危険も問題視する程のものではないと考えるむきもあろう。いずれも所詮は家族の問題が本質だと言えばその通りで、その家族の解体過程の一環だという考え方も成り立つ。そんなもの、それぞれの家庭や家族に任せたらいいじゃないかといってしまえばそれで終わってしまうという面もある。その家族が機能しないから問題なのだといえばそれもその通りで、そのために「お上」を期待する動きも出てくる。しかしねえ、少し前ならみんな自分で片づけていた事柄に過ぎなかったと思うのだが。
 
 
   子どもの状況
 
 二十歳前後から同世代の女性を見てきて思うことは、自分の生き方を考えはじめ、積極的に主張するようになっているなということだった。そして、結婚してからそういう思いをどう処理するのか、大変になるんだろうと考えた。実際、結婚後に迷いや苦しみを抱えた女性が多く見受けられるようになった。
 一般的にいえば、女性が自分の生き甲斐とか人生とかを考えるようになって、その時、妻となり母となった女性は子どもを障害として感じるようになるのではないかと、私は考えるところがあった。若い母親たちを見て、そう推察された。なぜなら幼い子どもは大変手間のかかるもので、自分のことを考えていたいという母親の時間を奪い取る存在だからだ。母親たちはいつかそのことに直面しなければならない。
 その道は、もしかするとかつて父親たちが辿った道だといえば言えるのかもしれない。父親たちは一歩先に、子育てというある種の束縛から逃れ出た。そして全面的に母親に子育てを託し、自分たちは仕事などにかこつけて自由に外を飛び回った。
 父としての男性も、母としての女性も、本音のところでは子どもに時間を取られることがいやなのに違いない。少なくとも、そういう気分が皆無という人は誰もいないに違いないと思う。それはしかし正面から見なければならないことだし、正面から向かっていかなければならないことだと私は思う。子どもは障害かもしれないという本音の思いに、目をふさぎ、口を閉ざしている間は、子どもの問題は片づかない。おそらくここをすっきりと解決できている現代人もいない。
 少し前の農家などでは、家の周囲をうろちょろ出来るようになった子どもたちは、縫い物や掃除をする母親や祖母の視野の端に捉えられていた。
 
 
   子どもの状況2
 
 母親が家にいて生活が成り立っていたころはそれでよかった。女性たちもそれが当たり前と思い、ことさら不服でもなかった時代だったかもしれない。現在は違う。女性は外で働くようになり、あるいはいやでも働いて生活費を稼がなければならない。そして、外的には好むと好まざるに関わらず女性としての自分の生き方を根底から揺さぶられてもいる。
 保育所に子どもを預ける。幼稚園や小学校に子どもが通う。若い母親の多くは、心のどこか深層では、手間がかからないことを喜んでいると思う。そうしてなにか事があれば預け先に責任を押しつけようとする。表向きは養育の放棄などということにはならないが、しかし流れの底の方ではその問題が露出してきている。のんびりと子育てを楽しむ、子育てに満足を覚える時代ではなくなっている。 養育からいくらか逃げているのではないかという負い目があると、自己防衛から攻撃的になり、逆に綺麗事で子どもを説き伏せようとする。遊び相手や友だちが出来る。家にばかりいたら引きこもってしまう。等々。
 だが、もしかすると本当は、父も母も、子どもを邪魔に感じたことを誤魔化すための手段を講じないで、逆に無言や沈黙によって了解を求めた方がよい。もっといえば子どもの前にありのままの自然な姿で振る舞うのがよい。というよりも、あるべき姿としての理想的な自分と、実際の自分との間を行き来し、その往復の繰り返しから逃げない、目をそらさない、ことだ。
 都合の悪い自分の本音の気持をかくしたり、蓋を被せたりしていると、それは変にねじ曲がってしまって自他の心根を複雑化してしまう。それは決していいことだとは言えない。 社会が変わり、生活が変わり、子育ても昔に帰ることはできない。女性も根底から生き方を揺さぶられ、解を求めるのに忙しい。
 
 
   雇用問題         08.12.12
 
 昨日、「今日の河北新報」を書いていて書ききれなかった「雇用問題」を、ここで少しばかり考えてみたい。
 ここに来て実現が危ぶまれている「定額給付金」を実施する旨の発言が、以前麻生太郎首相から出された。成人ひとりにつき、一万二千円くらいになるとか伝えられていただろうか。もらうものはもらっておくという主義だから、私は喜んでもらいたいと思っているが、はなからパチンコ代に消えていくだろうと想像でき、たぶんありがたみも何も感じないだろうと思った。
 一万なにがしは欲しいと思いながら、反面では「芸のないふざけた話だ」と馬鹿にしていた。こんなもの、スーパーの大売り出しの景品くらいの感覚で、それをもらったからといってそのスーパーが好きになったり、奮発して大金を使って買い物しようなどとは考えない。私のような天の邪鬼は、通常の販売で利益を多く取りすぎ、さすがに申し訳なく思って景品を付けたのかと勘ぐる。政府も、省庁の無駄遣い、独立法人のいい加減さなど表沙汰になり、取りすぎた税金をちょっと返す素振りを見せているのかと考えたりする。
 それはそれとして、総額二兆円にもなるその給付は、もう少し頭をひねって有効に使うことが出来ないかと私などは思う。
 具体的なことは言えないけれども、こうしたご時世である。不況と雇用と行政サービスの手薄な部分とを考えて、さらに金額を倍以上にしたプロジェクトを考え実施したらいいのではないかと私は思う。例えば不人気な道路整備なんかは一、二年凍結し、その財源も充てながら、日本全国の河川の清掃、山林の間伐や植樹等々に勤めてみたらどうだろうか。その他ボランティアに任せていたところを国家プロジェクトにする。無職、低賃金の人を雇う。既成の公共事業よりマシではないか。
 
 
   桶谷秀昭のこと      08.12.17
 
 だいぶ昔のことだが、文芸批評家桶谷秀昭の『近代の奈落』(北村透谷論)を読んで、類のない感動をおぼえた記憶が残っている。もしかすると、ある箇所では興奮のあまり涙したことさえあったかもしれない。本を読んで感動することはままあるけれども、そしてまた感激をして涙をこぼすことも一度や二度ではなかったかもしれないが、桶谷の『近代の奈落』を読んでの感動、あるいは感激はいささか趣の異なるそれであったと思う。
 以後、文芸誌をはじめとして、桶谷が文章を発表するたびにそれを求めて、追いかけるようにして読んだ。だが、ある時期から桶谷の文章は商業誌から消えた。少しして桶谷の実家が工場を経営しているか何かで、その家業を継ぐというような話を聞いたような気がする。一線から退くのだなとその時考えた。そしてそのことはいかにも桶谷らしい、とも考えた。記憶は、だが定かではない。
 私の桶谷秀昭体験はそれで終わったと言っていい。以後、中世の古典を題材に取った文章や、ドストエフスキー論を振り返って読むことはあったが、『近代の奈落』の印象を越えて読み取れるものはなかった。
 つい最近、新書版の『日本人の遺訓』と題した桶谷の本を目にしたが、懐かしさを感じながら読んだものの、言いたい何かが不鮮明でよく分からなかった。
 私の勝手にこしらえたストーリーの中では、桶谷とは世代の近い江藤淳や吉本隆明といった中で、桶谷は意識的に小林秀雄の批評に近いところに向かおうとした印象がもたれている。小林秀雄のあの特異な文体、日本語の特殊さが生きた文章。そういう方向に歩み寄った、そんな印象が残っている。ある意味、精査であり、別の意味では重箱の隅をつつくような批評、そして日本的な曖昧さへの回帰。その是非の判断は私の力では及ばない。
 
 
   ある克服         08.12.24
 
 科学的な意味合いからの知性というものは、未だに細分化した知識を増殖させ続けてきりがない。これは、永久にそうなのだろうと思う。人類は「パンドラの箱」を開けた。これは真理や真実の探求とみなしても、大きな食い違いはない。真理といい、真実といい、おそらくは果てしなく、永遠の問いかけの前に現れては消え、消えては表れる何かに違いないからだ。
 真理や真実などというものは、人間の脳味噌が勝手にそういうものがあるんじゃないかと想像しているものに過ぎない。いわば人間の脳味噌が想像によって産み出した産物で、勝手に作った概念だ。脳というものははじめからそういう癖をもっている。そうして飢えを克服し、身体的に便利さを手に入れ楽になった人間というものは、しだいにこの脳に踊らされる宿命を担っていく。
 私たちは、自然という舞台から、脳がこしらえた人工物でいっぱいになった都市社会に転移してきた。自然を克服して生き延びることから、現在は人工化を克服して生き延びる段階へと飛躍した。けれどもこれは新たなる戦いの発端に過ぎないのかもしれない。
 日々の便利な世の中で、充分に快楽も手にしながら、我々の脳はしかし、鬱屈した色合いに日常を染め上げる。何か不可解な部分をつなぎ合わせて、さもそれが私たちの生の連続であるかのように印象づける。平和の日々を送りながら、なぜか私たちの意識に平穏が訪れない。
 時に、植物や動物に羨望を抱いたことはなかっただろうか。風や雲の流れに、羨ましさを感じたことはないだろうか。
 私たち人間が人間らしさを感じるのは、脳のおかげである。この脳はしかし、もう一方で私たちを閉じこめる牢獄でもある。脳は脳によって克服することは出来ない。
 
 
   全共闘運動後四十年    09.1.22
 
 山本義隆。秋田明大。最首悟。これらの名前は忘れられない。数日前、NHKアーカイブで、全共闘運動から四十年という事で、当時全共闘を主導した闘士たちも顔を出していた。そうか、あれから四十年もたつのか、そう思った。四十年前、私は大学に入学した。確か、安田講堂立て籠もりの年か、その翌年の入学だったと思う。それをテレビで見ていたのかどうかも今では記憶にないが、私はあまりそうした事件を意識せずに大学に入った。もとより大学に行きたいと思って入ったわけではない。革命や世直しとかに関心はなかった。だが大学に入って、先輩たちと接する中で自然とそうした話題に触れることになり、少しずつ反体制というものを意識するようになっていった。
 私はそれまで宮城県の片田舎で中学、高校と過ごしてきた。小学校の遊びの延長で、野球や卓球といった部活動に熱中していた。体育会系かといえばそうでもなくて、満たされないものをこっそり文学的なものに求めていたといえば言える。部活が終わる三年になって、黙って学校を休んだり、家出の真似事をしたこともあった。気分的にはいっぱしのアウトローになり、落ちこぼれでもあり、もしそう言えるなら周囲の体制的なものから身を隠したい、消したい思いを膨らませる暗い子どもだった。透明人間的はしりといってもいい。そして周囲、周囲の体制、そういうものに反感と憎悪を感じていたのは確かだった。 それは反体制運動を自称する全共闘運動に共鳴する、内部的な根拠になった。とはいえ、部活の経験から、党派的、分派的であることを嫌い、べ平連的な緩やかな組織に時折行動的に参加するに過ぎなかった。私たちは週刊誌に取り上げられる山本や秋田や最首を、まぶしく見ていたものだ。彼らの四十年は格別のものではなかった。私もまた。