まっぴらごめんよ
   ―『悩む力』読後感想のまとめ―
 
 先に、項目ごとの細部にわたって感想、あるいは気づきのようなものまでをメモふうに書き留めてきた。要するに、私の感ずるところのままに読んだと言うことになる。これでこの書から離れていいという気もしたのだが、何か全体としての読後を語っていない気がする。姜尚中がこの著作で述べているところの考えを、どう評価するのかという問いが心にわだかまっているようなのだ。これを書こうとして書けないで数日間が過ぎた。今もその延長にあり、思いがぐるぐるめぐっており、だが少しずつ、少しずつ言葉に結晶しそうな気がしているところだ。
 今敢えて、一言でそれを言えば、「可もなく不可もなく」という言葉が湧いて出る。特におかしいとか、違うんじゃないかと思える箇所はなく、また逆にこれは及びもつかない優れた見方や考え方だと受け取られる箇所もなかった。こう言うと、何か偉そうに聞こえるといけないから、もう少し丁寧に言ってみたいと思う。
 現在の社会がどのように諸個人にイメージされ、そしてその中での個人が、どのように生きることを強いられているかなどの状況の捉え方を、私はこの『悩む力』を読んでいてよく理解できる気がした。つまり、私が日々の中で断片的に思ったり考えたりしていることが、この著作ではきれいに整理されて、分かりやすく提出されているということができる。私には思うところをこのようにまとめて表現しきれるだけの力はない。その意味では姜の優れているところを充分に認めてはいる。しかし、生意気なことを言えば、この程度のことなら下手くそになら私だって書けると思ったことも事実だ。
 「殺伐として世相と希望の見えない社会。」「少子高齢化や経済力の衰え、膨大な財政赤字や政治の閉塞状況」「孤独感や猜疑心が募り、夢や希望は萎んでいくばかり」「人を消耗品のように使い尽くす過酷な競争システム。」「やせ細っていくセーフティーネット。」「『勝ち組』と『負け組』との激しい格差。」 後書きに記されたこれらの言葉を拾い集めて並べてみると、毎日の新聞やテレビのニュースの見出しに見かけられるもので、おおよその私たちの頭はこういうもので埋まって、「社会」の印象像をこしらえているように思う。姜尚中は、漱石やウェーバーが生き、活躍した十九世紀末から二十世紀初め頃の社会に遡上して、問題が露出し山積みになった現在の社会の、そこに源流があるとしている。一言で言えばそれは「近代化」であり、産業革命以降の機械化や合理化、科学的なものの見方考え方、個人主義の台頭、法治主義による中央集権国家などなどの変化があった、歴史的な節目となった時期以後のことである。同時にそれは資本主義の隆盛と重なる。
 近代化により、何よりも文明が飛躍的に発達する。物質的な豊かさと同時に精神的には合理的、科学的な「知」が圧倒的な発達を見せる。
 しかしその近代化の波が、個人や社会をどんな場所に運んでいくか、もちろんそれは今を生きる私たちが身をもって知っていると言えるのだが、すでに漱石やウェーバーはこれを予見していた。姜は、そうした漱石やウェーバーが彼らの時代を精一杯に生き、悩み、あるいは藻掻き苦しんでものした著作の数々から、現代に生きるわれわれに、生きる指針となるヒントが見つかると言っている。もちろん、姜自身が彼らの著作に恩恵を被った経験を持って言えることだと思う。そのヒントは、もちろん姜の『悩む力』、この本のなかに表出されているのだが、平たく言えば、悩みのない人生というものはないので、そうである限り、悩みにまじめに真正面からぶつかり、その底を潜りぬけるようにして、各々が解決の糸口を見つけるほか無いと述べているようなのだ。結論として見れば、これは拍子抜けする言葉だ。それくらいのことなら俺だって言える。事実私はそう思った。しかし、『悩む力』全体を読むと、少なくとも私たちの苦悩はどこに由来するのか、また、混迷を深める社会はどこに原因があるのか、等々を考えるのに極めてイメージしやすく整理されていて、自分が置かれている状況を把握しやすいものにしてくれる力は持っているように思う。相変わらず彷徨うにしても、どんな理由で、今どこを彷徨っているかの見当がつくことは、これからどの方向に向いて歩こうかというときの判断の足しにはなるはずだ。
 私も、社会に向けてそういう言葉を発信したいと考えてきた。そこから言えば、私の言いたい要点みたいなものを、素人の私などよりもうまく整理して伝えてくれているというように思っている。後は微細な差異が残るだけで、それは大きな問題ではない。
 しかしながら、『悩む力』一冊に書かれていることが自分の思いを代弁するものだと仮定してみると、何かしら思考の弱点と思われるものが浮かび上がってくるので、それはつまり知識人の知識者に向けた言葉にしかなっていないのではないか、ということだ。無い物ねだりなのかもしれないが、姜の言葉には「非知」に生きる人々、あるいは頼りない知性の人に愛想を尽かした若者に対する配慮が欠けているのではないか、と思わせるところがあるように思う。そういう姜の言葉、思考からはみ出す部分について、どのように彼らの課題を受け止めているかという繰り込んだ影の部分が見えない。それが弱点となっているのではないかという気がする。逆に言うと、姜の思考の先端がそこに届いていないと思わせるのだ。しかし本当は、社会に生きる人々の悲劇の舞台はそのほとんどが、「非知」を舞台として演じられているのではないか。私はそう考えて、私たちの言葉が届かない部分に向けて、どのようにメッセージをとばすことが出来るかを素人なりに腐心してきた。
 おそらくは、「知」の先で、「知」を放棄した「言葉」を手に入れるのでなければ「非知」に通じる「言葉」を獲得することは出来ない。私個人はもちろん「知」の先端どころか、「非知」との間にあるもので、到底その任にあるものではないが認識としてだけはそうした捉え方をしている。
 姜が終章で、「横着者」で行こう、と述べているあたりは、本当はそういったところを示唆しようとする言葉であったかもしれない。漱石も「横着者」でいたかったのではないかと推測しているくだりがあるが、言葉を変えて言えばたしかに漱石は「怠惰」をわきまえた知識人であった。学生時代、遊び、怠けて、一年留年したことがあった。翌年からは奮起し、卒業まで首席を通した。
 人間は元来怠惰でいたいとか、横着したいとか考える生き物であることを、見識として胸の奥に持っているかいないかは大きな違いとなって表れる。私は持っていた方がよいと思うし、そのほうが「嘘」から少しだけ遠ざかっていられる道だと思う。嘘に近いよりも、少しでも遠いほうがいい。そして、そういうところに自分を解放できるようになることが人間の歴史が目標とするところの一つであるように思う。漱石は、ぎりぎり知識人としての苦悩を追求し続けて倒れたけれども、それとは真反対の生き方を理解してはいたし認めてもいた。それが漱石の器の大きさを保証していたとも言える。姜はそのことに触れてそれを「横着者で行こう」と表現したのだと思うが、ただ姜が言うと少しばかり「いい気なものだ」と私などは考えてしまう。
 姜などは東大の教授として、現在も政治学の「知」の先端に位置しているのではないかと思う。それならばその領域のその先端で、もう少し知的な格闘、業績を積み上げてもらいたいのであって、残念ながら一般生活者である私たちにはその領域における姜の苦闘の結実が未だはっきりと見えてはいない。つまり私たちの政治的関心に何の影響ももたらしてはいない。そこにすでに姜たちの怠惰がありはしないか。私はそう考える。なぜなら姜はこの『悩む力』の「あとがき」で、この書が中高年のみならず、若者にも役に立つだろうと言っているのである。現在に生き、尽きない悩みを抱える人々に役立ちたい気持がそこに表明されている。その時、姜の専門は政治学であろう。いわばそこが姜の主戦場だ。にもかかわらず、現在の政治に姜の主張の何が反映されていると言えるのか。いわば何一つ姜の主張が現実の政治の無策無能を粉砕し得た試しはないと言っていいのではないか。これは政治について無知無縁の私の言うところだから、無責任で不用意な放言に過ぎないのだけれど、私の個人的な思いとはこういうものだ。もっと言いたい放題を言わせてもらえば、姜よ、もっと体たらくの政治家どもと知的に戦って、何とかこの国の舵取りをうまくできるように働きかけてくれ、と、切実にそう願っている。『悩む力』一編は、逆に私たちだけに向かって、さらに悩み続けろと言っているようなものだ。ただひたすら悩み、悩みの底をかいくぐれと言う。その先に何かが見えてくると言っている。それはまかり間違えば諦念であり妥協であるところの二文字であろう。
 そうではないのだ、姜よ。君の口ぶりはまるで巨匠の口ぶりのようで、すでに主となる戦いを済ましたもののみに赦された語り口であるはずなのだ。
 姜は終章で定年退職後の夢を語っている。ふざけるんじゃないと私は言いたい。あと二年か三年かは知らないが、退職までのその期間は夢を実現するための準備期間というわけではあるまい。漱石は作家生活の中で、一度の停滞もなく、最後まで文学的な闘いの中途に倒れたのであって、「二生目の人生」などと甘ったれたことを考えた形跡は見えない。言わせてもらうならば、姜はこう考えた時点で政治学から足を洗い、もちろん東大教授の地位からもおさらばすべきなのだ。なぜなら、こんなことを考え、しかも公的にこれを表明する点において、もはや姜は内的には自分のその立場での戦いは終焉したと考え、役割を終えたことを認めているに違いないからだ。以後、指折り数えて「二生目の人生」の始まり、定年退職を待つほかに姜のなすべきことは何もないことになる。そうした悠々自適な立場にあるものの言を、今まさにきつい生活の過程に四苦八苦を繰り返すものたちがどのように聞くと姜は思うのか。しかもご丁寧に、今現在の悩みを悩む若者たちにも役立つことを確信するとまで言っている。そんな言葉を尊敬の眼差しで受け止めるものは、姜と同じく「東大村」に通ってくる学生たちだけだ。言いかえれば道徳的でまじめな小知識人にしか通用しない。背徳的、倦怠的、怠惰や悪を包括できない精神の持主、それでいて、悪人以上の悪を平気でなし得る可能性を持った人物たち。
 まだ言い足りないところはたくさんあるが、さわりだけでも胸のすく罵詈雑言の類が出来たので、一応これで終わることとする。これで苦労して『悩む力』を読んだ甲斐があるというものだ。漱石の言いぐさを借りれば、これで、「まっぴらごめんよ」である。