日記風2014年3月から
 
戦争を考える3つの立場
              2015/02/26
 戦前の軍国主義の時代には、他国の侵略から日本を守るために戦争するのだという考えが流布された。戦後は180度転換して、日本の行った戦争は侵略戦争だったと言われるようになった。後者は自虐史観と言われる考えとともに、戦後の思潮の本流となった。
 前者について、今もこういう考え方をする傾向をもったものたちとして、安倍首相を筆頭に、あるいは武田邦彦とか、あるいは西部邁(この人のことはほんとは余りよく知らない)とかいう人たちの顔がすぐに思い浮かぶ。
これらの人たちは戦後の自虐史観一辺倒で日本が行った戦争は侵略戦争だったとする考えに反対で、やむを得ない戦争だったと考えている。
 他国からの侵略を防衛するためのの戦争か、
他国を侵略するための戦争か、考え方は二つに分かれて現在にまで続いている。現在の日本にもこの二つの考え方をする二つの立場が依然として存在すると考えていいと思う。これはなかなか決着しがたいところだ。
 このように見てくると、普通は自分たち日本人の手で、頭で、決着をつけるまで考えるのがいいと思うかも知れないが、もうひとつ別の立場がある。それは何かと言えば、これらの二つの考え方はもともとつまらないもので、厳密に言えばありもしない民族国家を前提においたうえで、防衛だの侵略だのと言っているに過ぎないという考え方だ。つまり、どちらの考え方もはじめからダメなのだというものだ。地域先住民を文明力を行使して平安な土地から追い出し、蹴散らして、民族という概念をねつ造した現在の先進国家や国民が、自国の戦争を防衛だの侵略だのと語ること自体がおかしい、ということだ。ここで何がおかしいのかははっきりしている。二つの考え方はいずれも、そのようにして成立した民族国家を今も存在させ、その上に胡座をかいてそれを前提とした上で考えを述べているに過ぎないからだ。それを前提に偉そうなことを言っても、いずれも聞くに値しない、そういうことだ。
 それをわたしは吉本隆明の文章に読み、その徹底した考え方にいたく感心した覚えがある。吉本のように言い切ってしまえば、安倍や武田や西部の考え方はどこか「甘いんだよなあ」としか思えなくなる。
 世界的な規模で戦争を無くしていくという道筋は抑止力でも何でもなく、思考の細道を丹念に辿るという営為の中にしか開けてこないことは言うまでもない。つまり彼らの語る言葉のその先が真に問題なのだと言うことになる。
 
 
独裁と自由 その選択
              2015/02/25
 安倍首相が独裁者(スターリニスト)であり、安倍政権が独裁政権であることは分かっていた。そういうような視点と批判は、幾度かここにもあるいはそれ以前にも書いてきた。だが、その独裁ぶりを少しなめていたかなという気が少ししている。
 内田樹が「安倍政権の改憲の企てがめざす方向についての興味深い」海外メディアのコメントを、彼のブログの中で紹介している。
「書いたのはNoa Smithさん。ニューヨーク州立大学Stony Brook校の准教授とある。」
 特に興味深く感じられた点についてのみ、ここでその何点かについて触れておきたい。
 
今年初め私は世界各国における政権の反自由主義的な動きと、人権軽視という心傷む傾向につい書いた。残念ながら、日本はこの危うい流れに追いつきつつある。
これは奇妙な言いがかりに聞こえるかもしれない。というのは、安倍晋三首相はこれまでいくつかの自由主義な政策(女性労働者への平等な扱いの推進など)を実行してきており、移民受け容れにも前向きな姿勢を示してきたからである。日本社会は、全般的に見ると、過去数十年にわたって、より自由主義な方向に向かってきた。裁判員制度の導入もその一つだし、クラブにおける長年のダンス禁止も無効にされたのもその一つである。
しかし、こういったことは安倍の政党が日本国憲法を彼らの思い通りに変更した場合には、ほとんどが意味のないものになってしまうだろう。
日本の自由民主党(現存するうちで最も実体と異なる党名をもつ政党の一つ)は戦後史のほぼ全時期、短期的な中断をはさんで、日本を支配し続けてきた。この政党の実質的な部分は哲学的にも、組織的にも、またしばしば遺伝学的にも、日本軍国主義時代の政治的支配者の流れを汲んでいる。それゆえに、当然ながら、アメリカ占領期に日本におしつけられた自由主義な価値観をこの党派はまったく内面化することがなかった。かつては少数派であったこの党派が、現在では自民党内の支配的な勢力となっている。
自民党は現在、アメリカが起草した憲法を廃棄し、代わりに自主憲法を制定しようとしている。
 
 文中の指摘にあるように、自民党も安倍も上辺は自由主義的な方向に向かってきた。自分も含めて、日本国民はそういう流れを了承し、多少の滞留はあってもそういう流れにあること自体を何ら疑うことはなかったと思う。だがこの記事の著者は、はっきりとこの一部の党派が「自由主義を内面化」せずに来たことを指摘している。つまり西欧発の自由主義を本当には骨肉化していないといっているわけだ。上辺だけ、形式的にだけ自由主義を装っているに過ぎないといっているのだ。
 わたしはそのようには感じとることができていなかった。自由主義の理念を理解しようとしながら、アジア的精神の段階からどうしても離脱できないジレンマの渦中にあるのだろうと感じとっていた。理解しようとしながらどうしても理解しきれない、そういうところにあるのだろうと考えていた。けれどもこの著者の言い分を信じれば、自民党タカ派も、当然のことながら安倍晋三個人も、自由主義の価値観以前の場所にとどまり、それの内面化に踏み込んでまで受容する気はなかったのだということになる。もしもそれが本当なら、わたしたち国民は二重に欺かれていたということになる。こうした指摘ははじめて目にすることだ。
 このことを前段として考えてみると、次の改憲に関する記述の意味は大きなものになる。
 
自民党の改憲草案は「現行憲法の条項のいくつかは自然権についての西欧的な理論に基づいており、そのような条項は変更されねばならない」と謳っている。この考えに基づいて、自民党改憲草案では、国は「公益及び公の秩序に違背する場合」には、言論の自由、表現の自由を規制することができるとされている。また、宗教集団に国家が「政治的権威」を賦与することを禁じた条項も廃絶される。つまり、政教分離原則が放棄されるのである。
さらに悪いことに、草案は国民が従うべき六つの「義務」をあらたに付け加えた。
「憲法擁護義務」や家族扶養義務のようにあいまいで無害なものもあるが、「国家国旗に敬意を払う義務」を国民に求めるようなアメリカにおける保守派が推進している憲法修正と同趣旨のものもある。
他の三つの「義務」はあきらかに反自由主義と独裁制を目指している。
「国民は責任と義務は自由と権利の代償であるということを自覚せねばならない」「国民は公益および公の秩序に従わねばならない」「国民は緊急事態においては国家あるいはその下部機構の命令に従わねばならない」
これは中国やロシアであれば憲法に書かれていてもおかしくないだろうし、「緊急事態」についての条項は、多くの中東諸国で弾圧のために利用されている正当化の論拠と同じものを感じさせる。
残念ながら、この自民党改憲草案のきわめて反自由主義的な本質は欧米ではほとんど注目されていない。欧米の人々は改憲というのは日本国憲法の一部、軍隊を保有することを禁じた現行憲法九条の改定のことだと思っているからである。
  (中略)
改憲草案のすべてが非自由主義的というわけではない。性別、人種、宗教的な理由による差別の禁止は原稿憲法のまま残されるし、健常者障害者の差別禁止にまで拡大されている。
しかし、自民党の新しい憲法には真に危険なものが含まれている。
第一に、これが自民党による市民社会抑圧の企ての一部だということである。
この動きは経済の低迷と福島原発事故の後、一層物騒なものになってきている。特定秘密保護法とその他の出版の自由に対する弾圧はその危険を知らせる徴候である。国境なきジャーナリストが発表した報道の自由ランキングで、日本は2010年の10位から2015年には61位にまで転落した。
 
 引用部分に書かれていることははじめて目にしたり、これまで考えてこなかった部分だというわけではけしてない。ここではじめて知ったことは末尾の部分で、国際的な報道の自由ランキングで61位だという事実だ。これとても予測ができなかったわけではないが、はっきりと国際的に61位という数字を突きつけられると一種の衝撃になる。こんなんでよくまあ政権もメディアも、国内的に大きな顔をしていられるものだと思う。自由という毛皮を着たオオカミたちが、まだ素知らぬふうを装って自由の毛皮をかぶり続けている。
 安倍政権が延命し、政権の企てが実現すれば国民そして社会人にとってとんでもない国家、とんでもない社会が到来する。予測していたこととはいえ、著者が「日本国民が彼ら自身の自由をみずから進んで手放すように欺かれているように見える」と語るとき、その未来はより鮮明に、より喫緊に差し迫っているもののように感じられてくる。
 
 当然のことながらわたしたち国民大衆は著者が末尾に語るように、「より自由主義的な社会をめざすことこそが賢明であり、かつ道徳的な選択である」と理解しているのだが、これを実現するためにどうすべきかについて多くの経験や体験の蓄積をもっているわけではない。逆に国民が自らの手で勝ち取った、どんな経験や体験も皆無だといった方が現実に近い。わたし個人は真実を表現すること、真実を思考することを流儀とするが、では、皆さん方はどんな形で真実に触れようとするのだろうか。おのおのの流儀で発揮されることを期待し、またそれが願望に沿って行われることを祈るばかりだ。仮に対抗勢力が集結しなくても、わたしたちが手にした真実は自ずから外部にその力を拡張させて行くにちがいない。
 
 
再び 悲劇への反応
              2015/02/06
 思想家の内田樹が自身のブログに、イギリスの新聞「ガーディアン紙」の記事を和訳して、「人質殺害後、岐路に立つ日本」と題し掲載している。記事は東京特派員の手になるもののようで、冒頭に内田は次のようなコメントを付している。
 
現在の日本の政治状況について、日本のどのメディアよりも冷静で、かつ情報量が多い。たった一人の特派員(取材対象から見て、たぶん日本語ができない記者)の書く記事の方が、何十人何百人を動員して取材し、記事を書いているマスメディアより中身があるというのは、どういうことなのだろう・・・
 
 記事を一読すれば内田の言う意味ははっきりするので、これを読む人たちも是非内田のブログに飛んで読んでみてほしい。
 
 さて、題名にある「岐路」とは何か。簡単に言えば、安倍首相の安全保障政策や反「イスラム国」勢力に同調、支持、協力する政策を今後も継続していくのか否か、そういう「岐路」に日本はさしかかっているというものだ。特派員記者の取材を通しての予測によれば、安倍首相はこれまでの政策の延長上に、よりそれを強力に推し進めようとすると見ており、だがそれを支持する人々がある反面、テロの標的リストに登録されたことに懸念を抱く大衆も相当数に上り、首相や政府筋の思惑通りに進むとは限らないと見ている。
 これは日本の世論次第だと判断していることを意味している。ぼくもそういう「岐路」にあると考えている。そしてどう転ぶかは今のところぼくには分からない。ひとつこれを考える材料として、記事の中に次のような取材のコメントが紹介されている。
 
中野晃一(上智大学教授・政治学)は、日本人の多くは同胞の死のあと、安倍外交に対してはこれまでより用心深く対応するものと見ている。
しかし、かれはこう付言している。「政府はこれから先、この事件を根拠に、軍事活動についての憲法上の制約を解除することの必要性が一層高まっており、『テロとの戦い』においてこれまで以上に大きな役割を引き受ける必要が出て来たと主張することになるだろう。」
「過半の日本人がこの問題について『なんだかわからない』『自分には関係ない』という態度をとる一方で、相当数の日本人はこの考え方に同意するだろう。」
 
 実際、こうなった以上テロ対策は強化される必要があると考える人々は、ぼくの周囲にも少なからずいる。『なんだかわからない』が、テロ攻撃に晒されて自分たちの日常生活が脅かされるのはかなわないと考える一般の人々だ。こう考える人々の多くは、政府筋やNHKや大手のマスメディアなど、権威あるもののように見えるところからの声明や発信に依拠して考えるところが大きい。責任は情報の発信元にある。政権がマスメディアを取り込んで世論操作に乗り出せば、その効果はまだ絶大なものがある。
 一方、若者を中心として、ネット上ではそうした大手の情報発信に疑惑を抱く言葉が散乱している。少なくとも若者は隠れた意図を探すことに熱心だ。政権の政策方向に懸念を抱く声が大きくまとまっていけば、それを政権もマスメディアも無視するわけにはいかないだろう。
 
 英紙の特派員の記事から、取材を通した彼の目に、安倍首相や安倍政権がどのように見えているかを抜き書きふうにまとめてみる。
 
 @ 国際関係においてこれまで以上に目立   ちたがっている。
 A (安倍が進めようとしている)
   「積極的平和主義」とは記録的な軍事   費支出、武器輸出、戦後日本の外交的   なレゾンデートルに対する法改正によ   る攻撃といった一連の政策を正当化す   るために安倍晋三首相が用いてきたこ   れまでより強硬な防衛構想のことであ   る。
 B 後藤の死は激しい嫌悪感をもって迎え   られたが、安倍はこれを奇貨として、   憲法が彼の国の軍隊に課している制約   (憲法九条の下では自衛隊の活動は専   守防衛に限定されている)を緩和した   いという彼の宿願を達成しようとして   いる。(奇貨とは、利用すれば思いが   けない利益が得られる機会。―佐藤註)
 C 「今回の悲劇は九条の再解釈と自衛隊   の海外活動の軍事的権限の拡大を計画   する安倍の決意を強めただろうと私は   見ている」とMark Mullins (オーク   ランド大学教授、日本研究)は語って   いる。
 D (「ジェフ・キングストン」テンプル   大教授の言として)
   安倍支持の旗の下に結集するという動   きがあるだろう。彼がこの危機を無駄   にするはずがない。今期の国会審議を   利用して、日本の自衛隊の活動強化と   アメリカとの安全保障上の協力の必要   性を言い立てることだろう。
 
 これだけ見れば、これまで安倍がどのような政治的な野心の元に行動し、これから先どのように動くかが予測されるように思う。
 ここから先、少しばかりぼく個人の、安倍首相やその下に集う人々の思想的な見解についての考えを述べてみる。
 どこから述べてもいいが、第一に安倍は敗戦後の「自虐史観」ともいわれる日本人による日本国の見方、捉え方に違和を表明してきた。またそれは太平洋戦争、そして敗戦についての歴史観、国際的な評価について、ねじ曲げられたものだという発言につながっている。この考え方自体には同情を寄せるべき余地があるとぼくは思っている。
 これについては最近では武田邦彦が独自に論を展開していて参考になる。
 日本国は侵略国家だとか、残虐非道な国民国家だとかいう見方はあまりにも狭小的であり、欧米の史観にそのまま乗っかって見るからそういうことになる、と批判している。
 世界史的な規模で見れば、西欧列強国が15世紀から植民地主義的な海外進出に乗り出してこの方、世界は西欧列強国の支配下にあり、それにアメリカを加えて主に欧米を益する流れの中に長く滞在してきた。それによってアジアもアフリカも南米も苦しんできたことは疑いようがない。世界の中心は西欧、そしていまや単独にアメリカ中心の時代にさしかかっているようにも見える。これには軍事力、物資力はもちろん、支配の言語力とでも言うべき鍛えられた論理の行使力が大きな力となって発揮されている。だが、そこにあるのはほんとは自分たちこそが最も優秀で正しいのだとする白人系人種の凄まじいほどの思い込みである。圧倒的な軍事力、科学技術を背景に、精神上の優位性も学問的に樹立しつつ、欧米は今日の世界的な地位を勝ち取ってきた。世界のリーダーと自負し、自称している。だがやっていることは公平や公正と言いながら、第一には欧米圏の利益の重視であり、それが確保された上での世界平和や人道を唱えているに過ぎない。
 欧米中心の繁栄を全世界が支持しなければならないという法はあるまい。そう、欧米以外の国が考えてもおかしくはない。そして、徐々に欧米中心、アメリカ中心の世界の構図は翳りを見せ始めている。
 明治以後、世界に目を向け始めた日本は欧米に影響されながらロシアや中国と戦いつつ、欧米の脅威を切実に肌身に感じていっただろうことは疑いようがない。安倍にはこういう歴史の見直しが念頭にあるにちがいない。だから日本の過去の戦争には正当な理由があり、
戦争に敗れたとはいってもやむを得ざる戦争の経緯について世界はそれを認めるべきだ、あるいは公平公正な裁きをすべきだと主張したいのだと思う。そして先の記事にもあったように、「憲法こそが戦争の歴史についての『自虐史観』を創り出した元凶と見えて」おり、彼の政治の信条、信念として、強く「憲法改正」にこだわってきたとおもえる。
 この辺はしかし、ぼくの得意分野でも何でもないし、これ以上語るつもりはない。
 ただ一点心に引っかかるものがある。これは安倍だけではなく、武田邦彦についても同じようにいえることだが、彼らはしばしば日本人は優秀だ、日本国はすばらしい、日本は美しいなどと賛美の言葉を繰り返している。これは戦後の日本の自国に対する歴史観を「自虐史観」と見なし、歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、日本を貶める歴史観であると考えるところから、ことさらに、ある時はムキになって語っている言葉のようにおもえる。先にも言ったように、これには一部共感できる部分もある。けれどもちょうど「自虐史観」の裏返しのように、過大評価であったり、褒めすぎの部分が生じて、まるで正反対の極論として、これを評価することはできないと思う。思わず嘘だと言いたくなるのだが、その根本は、両者が口にする「日本」が、せいぜい遡って奈良朝から少し前までの辺りを起源として考えられているところからきているように思う。
 日本という国の統一国家としての起源はそこにおかれているのだが、だからといって日本文化の源流がそこに出そろったというわけでもないし、突然のようにそこに出現したというわけでもない。せめて「日本」を大文字で語るには、もう少し遡って言及してもらわなければ困るとぼくは思っている。多くの人に、花鳥風月が日本人の心の源流、日本文化の神髄などと誤解されてしまう。まして「おもてなし」などのような流行語大賞をもって日本や日本人を語ってほしくない。もう少し日本や日本人の起源に遡って発言してほしい。そうすればどの民族や国家がすぐれていて、どの民族や国家が劣っているなどということはなくなって、ただ生活をくぐり抜けていく仕方において地域的な差が生じてくる過程を通る、ということが分かってくるはずだ。
 もうひとつだけ二人に対する(ここで名前を出したついでだから、二人に対するというにすぎない)疑念めいたものを述べておきたい。それは武田のブログの2月6日に記された次の文章に関連する。
 
私は憲法前文「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」を(今のところ・・・整理中で変わることあり。人間は進歩していく)支持しています。
 
平和ばかりではなく、戦争の原因となる「専制と隷従」、「圧迫と偏狭」こそをこの地上から除かなければならないと考えていますし、それを通じて日本が再び名誉ある国として尊敬されるようになることこそ、子孫への最高のプレゼントと思うからです。
 
 憲法前文の「名誉ある地位を占めたい…」
や後半部分の「名誉ある国として尊敬されるように…」などは、武田邦彦ばかりではなく安倍もまた胸に抱く思いであるように感じられる。ぼくは違う。前者でいえば、「他国と協力して実現に努力する」みたいな文言でいいし、後者でいえば他国から尊敬されるかされないかはどうでもよくて、ただ自分が住み生活する社会から一切の「専制と隷従」、「圧迫と偏狭」の関係を取り除きたいと考える。思うに安倍や武田には、現在の日本の社会に顕在し、また潜在する「専制と隷従」、「圧迫と偏狭」は触知したり感じたりしないですむ環境に生きているのだ。その余裕が、国際社会に目を向け、それを第一義に考える理由なのだとおもえる。彼らにはあっても、ぼくらのような田舎に住むごく普通の生活者には、日本が世界で名誉ある地位を獲得しなければならない理由はどこにもない。とりあえずは日本の隅々にまで目をこらし、人々の生活をきちんと支えるそんな日本であってほしいと願うだけだ。もちろん世界の平和に貢献したいという安倍や武田の考えを悪いというつもりはない。だが、たとえば国際的な場で発言する安倍とそれを受けとめる世界との関係を見ると、はじめから一線を画し、ただ経済大国の首相だからという理由で「泳がせられている」ようにしか見えない。露骨にいえば金を支援してくれるから話を聞いてやるという様態で、どこかバカにされているという雰囲気が伝わってくる。内政的にもきちんと国民の心理を掌握できない一国の首相が、周辺国ともきちんとした関係を築けないで、世界に通用するはずがない。
 安倍や武田に共通するのは、国家の存在を前提としてすべての思考が積み上げられているところだ。国家観が戦前と同じで、日本的な「国」という意識が無傷で彼らの中に生き残っている。憲法や法律によって立つ近代国家は、観念の共同性または共同の観念を本質とするもので、現実具体的には政府と同義である。これは世界的には認証されていない「イスラム国」の政府機関というべき行政機関が、自ら「イスラム国」(国家)を名乗っているように、究極には領土や境界のようなものとは関係なく成立することができる。国家が現在狭義には政府と同義と考えられるとすれば、政府が交換可能であるように、国家もまたいくらでもその姿形を変えられる存在である。仮に公明党や共産党が政権の座についたら、この国の歴史も未来も、どんな色に塗り込められるかは分からないとしてもがらっと変わる可能性がある。
 いいたいことは国家が優先事項であってはならないということだ。どんな国家であれ、自国民を抑圧したり、貧しい人々を放置して、国際的な名誉を勝ち取ったところでそれが何だということだ。
 離婚、家族内殺人。問題のない家族はどこにもないとさえ思われる昨今の日本社会。さらに児童期の少年少女に発する様々な異常としか考えられない事件の多発。そして不登校をはじめとして学級内に起きている学習放棄や授業妨害などの問題行動の数々。
 国内の問題に何も答えられない政府が、国際的な場に出張って一体何ができるだろうか。
 安倍も武田も大きな風呂敷を広げたり、大きな網をかぶせて、大きな課題、言い換えれば「大儀」について語ることが何事かであると考えているようだが、またそれを語るときは嬉々としているが、「私」は「私」としても成り立ち「公」も形成しうるが、「公」は「公」自体としては成り立たないことをもう少し徹底して考慮すべきだと思う。武田は、「私」についてけして無理解ではないが、いつも為政者の立場で語ろうとする癖をもつので、「私」について深みに到達して語ることができない。残念に思う。
 
 
悲劇への反応
              2015/02/01
 「イスラム国」で人質になった邦人2名、湯川さんと後藤さんは、前後して殺害される結果となった。想定された中では最悪の結果といえる。
 時事通信から配信された記事では、
 
後藤さん殺害とみられる動画は「安倍、お前の間違った決断のせいでこのナイフは後藤健二を殺すだけでなく、日本国民はどこにいても殺される。日本の悪夢を始める」などとメッセージを伝えた。 
 
とされている。わたしは直接動画を見ていないが、たぶん事実だろうと思っている。
 殺害したのは「イスラム国」を称するイスラム教スンニ派の狂信集団という指摘も他の報道では見掛けられたが、そのことの真偽についてはわたしはあまり関知しない。このメッセージからは日本の安倍首相の言動に対する報復的な意味合いが感じられる。だが湯川さんも後藤さんも安倍首相本人ではなく、まして安倍首相の言動に何の責任も関係もない。要するにただ同じ日本人というだけで殺害されたということになる。もちろんこんなことをする連中の蛮行、愚行はどんな理由をつけても許されたり肯定されたりするものではない。ただの殺人者であり、殺害集団である連中の、否定さるべき許されない行為であることに間違いはない。そんなことはあまりにも当たり前のことなので、ここでわたしはその行為を大きな声で糾弾するつもりはない。わたしが言わなくても世界中の人々はこの野蛮な行為を批判するだろう。ただし、わたしは殺害の行為は否定するが、その組織をテロ集団と一括りにして彼らの行動全般を批判するつもりはない。わたしはそれらの組織の目的も、それから何を目標として活動しているかも詳しく知らないし、調査をしているわけでもない。とやかく言える立場にはない。
 
 先のコメントで後藤さんたちを殺害した組織が安倍首相を名指しで批判し、殺害が安倍の決断と関係しているというのはどういうことか。ネットの「ニュースサイト・ハンター」
(http://hunter-investigate.jp/news/2015/01/post-632.html) には次のような記事が見られた。
 
 イスラム国に関する問題の発言は、今月17日、エジプトで開かれた「日エジプト経済合同委員会」における安倍首相のスピーチでの次のくだり。中東支援策を列挙したあと、こう述べている。
 
 イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISIL(イスラム国)がもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと戦う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。
 
 イスラム国と戦う周辺各国に2億ドルを支援するという発言が、今回の蛮行のいい口実とされたことは明らかだ。記事ではさらに次のように論評されている。
 
そして20日、YouTube(ユーチューブ)に、イスラム国発信とみられる動画が投稿され、72時間以内に身代金2億ドル(約240億円)を払わなければ拘束している邦人2名を殺害すると予告してきた。
 
 時系列的には、昨年の邦人2人拘束⇒安倍首相の2億ドル供与発言⇒殺害予告となる。『ISILと戦う周辺各国に2億ドル』――そう言った時点で、過激派にとっては宣戦布告も同様。イスラム国側は、人質を盾に日本を舞台に引っ張り出すタイミングをはかっていたと見られ、首相の不用意な発言が「発端」となったのは明らかだ。
 
 「国」を名乗ってはいるが、イスラム国とは過激派の一集団。国際法も常識も通用しない相手だ。後付けの形で「人道支援」を主張しても、彼らは一顧だにしない。そんなことは、とうにわかっていたはずだ。
 
 日本政府は、邦人2人が拘束されていることを知っていたとされ、だとすれば慎重な物言いが求められていたはず。ケンカを売った形の安倍首相が、現在の事態を予見できなかったとしたら、危機管理能力の欠如。最大の問題は、首相の発言が、拘束された2人の邦人だけでなく、日本全体に危機をもたらしたというところにある。
 
 たしか、安倍首相は「集団的自衛権」の問題の時に、国民の安全、国民の命の保証を力説していたはずだ。だが今回の事件ではアメリカと歩調をそろえて「テロには屈しない」とだけ述べて、邦人2名の救出に向けて、どんな策も講ずることができなかったことは明らかだ。中東支援に総額25億ドルを拠出できるのだから、そのうちの2億ドルを早期に身代金に充てて解決を図ってほしかった。人命よりも価値ある人道支援、優先さるべきテロ対策など、そう容易くは支持できない。そもそもの発端が安倍首相の発言にあったと言っても言い過ぎではない。その責任を自ら言明することもできない。わたしたちは徐々にテロの標的となる立場に組み入れられていくのではないだろうかという不安さえ覚える。 わたしには今回の悲劇は安倍首相の、すべての言動の危なっかしさが象徴的に露わになった事案だったと感じられる。
 どう言えばいいのだろうか。
 そういう器ではないのに、のこのこエジプトや中近東辺りに出向いて、ヨーロッパと中近東、アフリカなどの長く複雑な侵略や対立の歴史的な関係の只中で、不用意にテロ対策や人道支援をパフォーマンス的に演ずるその神経が分からない。
 わたしはアメリカとイスラムのテロ組織の対立の構造を含め、対立する国同士や組織のどちらか一方に積極的に与するべきではないと考えている。特に日本という国は、そうした世界の歴史的な対立の構図にこれまでは無縁に近かったし、これからもそうであるべきだと思っている。それは当事者どうし、当事国どうし、あるいはその国内で解決すべき問題と思うからだ。解決が長引くかも知れないし、あるいはすべてが必ずしもその時点で最良の解決をもたらさないかも知れないが、当事者たちの地力解決の努力を尊重したい。頼まれもしないのにのこのこ出向いて仲裁に入るなど、よほどのことでなければやらないほうがいいにきまっている。白人系の先進国は特にそうだが、人道や正義を標榜しながら紛争の連鎖を産み出し、作り出してきた。よその土地や他国への侵略や植民地化は、歴史的に見て多くが彼らの仕業だ。そうした系譜を日本という国はほんとは理解することも、まして引き継ぐこともできないのは明らかだ。米欧がテロ呼ばわりするのを真似て、同じようにテロだと語るのもほんとは愚かなことだ。それが理解できないようであれば、日本はまだ国際社会の中で独自の立場を貫くことはできないし、まして名誉ある立場など夢のまた夢というべきであろう。
 このことについてわたしの見るところでは武田邦彦さんが、自覚的に第三者的な立ち位置に立って、その立場でまっとうなことを述べていると思うので次にそのほぼ全文を紹介して、とりあえずの急ぎのこの小論を終わる。
 
イスラム国に囚われた二人の日本人に悲劇が訪れたとの報道がある。まだ事実ははっきりしないが、ここで、論評を加えておきたい。
 
結論からいうと、「日本は日本国憲法の思想に戻り、世界に憲法の思想と私たち日本人の信念を訴えるチャンス」と言える。「悲劇の連鎖=小さな悲劇がだんだん、大きくなり、恨みも増え、さらに大量の悲劇を生む」を断ち切り、悲劇の根元を根絶することこそ、今回の悲劇の犠牲者に対する私たちの責務である。
 
憲法は前文で「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と述べ、本文で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とある。
 
この全文と本文をそのまま素直に読んで、その通りの行動をすることが求められていると思う。つまり、第一に「戦争や武力による威嚇は永久に放棄する」ということであり、それを「国際社会に訴えて名誉ある地位を占める」ということだ。
 
イラクとシリアの混乱は、フランスが1920年に武力でシリアを植民地にしたのに始まり、それから継続して欧米の武力の下でイラクとシリアは「隷従と圧迫」を強いられてきた。そして近年のイラク戦争では、アメリカが国連決議にも反し、ウソの開戦理由(大量破壊兵器の存在)を構えて戦争を行い、残念ながら日本も自衛隊を派遣した。
 
さらに昨年にはアメリカ空軍がほぼ地球の裏側までいって、イスラム国を空爆し6000人を殺害した。もちろんイラク戦争でも昨年の爆撃でも多数の民間人が犠牲になっている。
 
このような「恨みの連鎖」こそが戦争拡大、生命喪失に繋がるからこそ、武力による威嚇と行使を放棄したのである。この精神は、他国が武力を使っているとき、双方に非協力的な態度をとるということであり、それを世界に向かって高らかに宣言するのに絶好の機会である。
 
欧米の思想は「自らが「正義」を決め、その正義と反するものは武力で成敗する」ということだが、まさにその思想によって私たちの父母は戦地や国土で命を落としたのである。戦争当時、日本人もまた「みずから正しいと思えば武力に訴えても良い」と考えた。もちろん軍部だけではなく、それは現在でも続いていて、時として「イスラムは悪いから武力で罰しても良い。アメリカに協力する。」という考えが日本の大勢だと思う。
 
しかし、それでは永久に平和は来ないし、今回のような犠牲をなくすこともできない。それこそが憲法の精神である。憲法に立ち返ろう!(「ニュース解説 イスラム国で起きた悲劇をどう考えるか」)
 
 
すぐれた思想者の証
              2014/12/07
 11月26日付けの内田樹のブログに「資本主義末期の国民国家のかたち」と題する講演記録が掲載されている。久々に内田節を聞くような思いがし、またおもしろいと感じられたのでこのことについて触れてみたいと思う。2度読み返して頭に残った印象から、まずはじめてみる。
 メインのテーマは安倍政権についてであり、この政権が成立し支持されるということでの
現在の日本の国というものがどういう状況にあるのか、どういうスタンスをとっているものなのか、その解読を試みたものといえる。
 結論から言えば、安倍政権というのは安倍本人がやりたいと思っていることをやっているだけだし、政権としては延命を至上とした政権であり、安倍を祭り上げる取り巻きや学者、マスコミを含めた指導層は、私利私欲のために動いているとしか思えないととらえている。こういう日本の現状、国民国家の現状というものを、内田は日本資本主義末期の現象であり形であると考えている。
 ぼくにはこれが「資本主義末期の国民国家のかたち」なのかどうか判別する力はないし、またとりあえずはどうでもよいと思う。
 内田はここでの論を第二次世界大戦敗戦後の日米関係、言い換えると対米従属関係から説き起こしている。戦争に突入した経緯はともかく、日本が戦争に踏み切り、結果として戦争に負けたことは事実である。戦争は人間同士の殺し合いである。殺し合いで負けた国の命運がどうなるかは、相手国しだいでどうにでもなることは歴史の示すところである。
 敗戦当時、日本は国家存続をかけて対国連、対アメリカに従属するほかに選択肢はなかった。戦後体制を貫く対米従属は必然的な選択であった。内田はそう考えている。
 殺し合い、憎み合った国同士が終戦を迎えたとはいえ、ぱっと気持ちを切り替えられるはずはない。勝ったアメリカにしても負けた日本にしても、その後の関係を自国に都合のよいようにしたいと思うのは当然だ。もちろんその場合、勝ったアメリカの方に九割九分の優先権があっただであろうことは言うまでもない。日本は九割九分、相手側の言いなりになりながら、1分のところで自国の国益を広げる工夫をせざるを得なかったであろう。それが吉田茂をはじめとした戦後政治家の役割であったと内田は見ている。
 内田は、あくまでも従属の姿勢をとりながら、底にしなやかな反発力を秘めた戦後政治家たちの主権回復への努力を評価している。これもまたぼくには判別の力はないのだが、なるほどと感心させられる見解であった。国家の指導者という立場を認めるかぎりにおいて、そういう見解はあり得る。
 そこでは、日米関係は互いに国益を異にした2国間の緊張関係が内在したと内田は見る。
そして、緊張関係を内在させた2国間の関係は1972年頃までで、80年代を境に変質したという。その理由は、それまでの対米従属が結果的に日本に大きな繁栄をもたらし、しかもその継続が長期にわたったために敗戦後の政治家にあった「対米従属を通じての対米自立」、言葉を換えると「面従腹背」の苦渋の選択、知的緊張が、その後の政治家たちの意識から消失したためだという。対米従属の姿勢を貫きながら主権を回復させていった成功体験は(内田はそこでサンフランシスコ講和条約と沖縄返還に触れている)、以後の政治家たちに「腹背」を忘れさせ、ひたすらに「面従」することが「国益」を増大させるものだという錯覚をもたらすようになったと内田は見ている。このあたりを内田の直接の発言で置き換えると次のようになる。
 
それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して日米関係をコントロールしていたと思うんです。政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、さまざまな点で国益が対立している。それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させるというトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。
 
ところが、僕の印象では、八〇年代から後、そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。(太字―佐藤 以下同様)
 
   (中略)
 
それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、その有効性についてそのつど吟味することなく、機械的にいまだに適用し続けているせいだと思います。でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていないという現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。それを何も問わないままに、前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。
 
アメリカから見ると、日本側のプレイヤーの質が変わったということは、もうある段階で見切られていると思うんです。それまで日本は、それなりにタフなネゴシエーターであった。対米従属のカードを切った場合には、それに対する見返りを要求してきた。しかし、ある段階から、対米従属が制度化し、対米従属的なマインドを持っている人間だけしか日本国内のヒエラルキーの中で出世できないような仕組みになった。それから、相手にするプレイヤーが変わったということに、アメリカはもう気づいていると思います。
かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
 
 そして、「今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、自己利益を増大させようとしている点において、すでに『買弁的』であると言わざるを得ないと僕は思っています。」と断じている。その上で、内田は安倍現政権による2つの法制化、「特定秘密保護法」と「集団的自衛権」の問題を以下のように解読している。
 
例えば、特定秘密保護法です。特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。国民にとっては何の利もない。なぜ、そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたとアメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、アメリカの軍機を守りたい、と。言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのはまことにありがたいことではあるけれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、実はよくわからない。なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。
   (中略)
現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密をアメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
   (中略)
もし、僕がアメリカの国務省の役人だったら、日本人は頭がおかしくなったのかと思ったはずです。たしかにアメリカにとってはありがたいお申し出であるが、何でこんなことをするのかがわからない。どう考えてみても日本の国益に全く資するところがない。そもそも防諜のための法律として機能しそうもない。そのようなザル法を制定する代償として、自国民の基本的人権を抑圧しようという。言論の自由を制約してまで、アメリカに対してサービスをする。たしかにアメリカ側としては断るロジックがありません。わが国益よりも民主主義の理想の方が大切だから、そんな法律は作るのを止めなさいというようなきれいごとはアメリカ政府が言えるはずがない。日本からの申し出を断るロジックはないけれど、それでも日本人が何を考えているかはわからない。いったい、特定秘密保護法で日本人の誰がどういう利益を得るのか?
日本政府が日本の国益を損なうような法律を「アメリカのために」整備したのだとすれば、それは国益以外の「見返り」を求めてなされたということになる。国益でないとすれば何か。現政権の延命とか、政治家や官僚個人の自己利益の増大といったものを求めてなされたとみなすしかない。
現に、米国務省はそう判断していると思います。日本政府からの「サービス」はありがたく受け取るけれど、そのようにしてまでアメリカにおもねってくる政治家や官僚を「日本国益の代表者」として遇することはしない、と。
   (略)
 
集団的自衛権の行使というのは、現実的にはアメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、何とかして「死者の外部化」をはかっている。無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、基本的には生身の人間の血を流したくないということです。攻撃はしたいけれども、血は流したくない。だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。これはまさに「死者の外部化」に他なりません。たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
ただ、「やあ、ありがとう」とは言いながら、何で日本がこんなことをしてくれるのか、その動機についてはやっぱり理解不可能である。
アメリカが金を払って雇っている傭兵の代わりに無料の自衛隊員を使っていいですというオファーを日本政府はしてきているわけで、それがどうして日本の国益増大に資することになるのか、アメリカ人が考えてもわからない。
つまり、確かに日本政府がやっていることはアメリカにとってはありがたいことであり、アメリカの国益を増すことではあるんだけれども、それは少しも日本の国益を増すようには見えない。これから自衛隊が海外に出ていって、自衛隊員がそこで死傷する。あるいは、現地人を殺し、町を焼いたりして、結果的に日本そのものがテロリストの標的になるという大きなリスクを抱えることになるわけです。戦争にコミットして、結果的にテロの標的になることによって生じる「カウンターテロのコスト」は巨大な額にのぼります。今の日本はテロ対策のための社会的コストをほとんど負担していないで済ませている。それをいきなり全部かぶろうというわけですから、アメリカとしては「やあ、ありがとう」以外の言葉はないけれど、「君、何を考えてそんなことするんだ」という疑念は払拭できない。
 
 ざっとこんなところが特定秘密保護法や集団的自衛権に関しての、内田の解析であり、その骨子といっていいのではないかと思う。
 細部を抜きにしてみれば、ぼくは見事な解析だなと思い、感心した。こうした見解はつまるところ先の、何が何でもアメリカに追随していけばいいのだという、それがひいては日本の国益に結びつくと考える最近の指導者層の浅薄な対米従属に円環する考えなのだが、内田が言うように、そこには本当の意味での「国益」が考えられていない。そして、
 
今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。
 
と内田は自己の見立てを披瀝している。早い話が私利私欲ということだろう。
 
対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。
 
 このようにはっきりとこの国の指導層の意識の劣化について言及した上で、内田は安倍首相個人の政治家としての資質にも触れている。
 
安倍さんという人は、一応、戦後日本政治家のDNAを少しは引き継いでいますから、さすがにべったりの対米従属ではありません。内心としては、どこかで対米自立を果さなければならないと思ってはいる。けれども、それを「国益の増大」というかたちではもう考えられないんです。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。
だから、安倍さんは非常にシンプルなゲームをアメリカに仕掛けている。アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする。
ご存じのとおり、集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除しました。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国神社に参拝しました。つまり、「アメリカが喜ぶこと」を一つやった後は、「アメリカが嫌がること」を一つやる。おもねった後に足を踏む。これが安倍晋三の中での「面従腹背」なのです。日米の国益のやりとりではなく、アメリカの国益を増大させた代償に、「彼が個人的にしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」をやってみせる。主観的には「これで五分五分の交渉をしている」と彼は満足しているのだろうと思いますけれど、靖国参拝や北朝鮮への譲歩がなぜ日本国益の増大に結びつくのかについての検証はしない。彼にとっては「自分がしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」ではあるのでしょうけれど、それが日本の国益増に資する政策判断であるかどうかは吟味することさえしていない。
「対米従属を通じての対米自立」という戦後日本の国家戦略はここに至って、ほとんど戯画のレベルにまで矮小化されてしまったと思います。
だから、これから後も彼は同じパターンを繰り返すと思います。対米譲歩した後に、アメリカが厭がりそうなことをする。彼から見たら、五ポイント譲歩したので、五ポイント獲得した。これが外交だ、と。彼自身は、それによって、アメリカとイーブンパートナーとして対等な外交交渉をしているつもりでいると思うんです。
 
   (中略)
 
現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。
 
安倍さんが選択している政策は、あるいは単なる政治的延命のためのものなのかと思ったら、外国は怖くて、こんな人とは外交交渉はできないでしょう。個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは誰だって交渉したくない。あまりに不安定ですから。国と国との約束は、そこで約束したことが五年、十年後もずっと継続する、国民の意思を踏まえていないと意味がない。でも、安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」どうか疑問に思っているからです。ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。ただ、先ほど話したように、対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。
 
 ここまで自分の政治姿勢、政治行動を丸裸にされたら安倍は苦虫をかみつぶした顔をしてみせるほかないのではないかと思う。ぼくにとってはたいへん痛快なまとめ方だ。と同時に、いまの日本にはこういう指導層しか存在しないのかと考えたら、もう本当に嫌気がさす。いっそ内田さん風に、実質、現在の日本はアメリカの植民地とらえた方がぼくら国民の気も安らぐような気がしてくる。日本政府に何かを期待するのではなく、直に、アメリカ政府に直訴できる形にしたら、かえって風通しがよくなりはしないだろうか。だいたいいまの日本のような、自分たちのことしか頭にない指導層なんていらないくらいのものだ。公平ではない。邪魔だ。
 2回目の日本国首相に就任した当時から、ぼくはこのホームページ上で何度か安倍首相に対して感覚的な言葉で批判を展開したが、
いま思えば内田さんのように言いたかったのだと思う。その意味ではさすがに思想家と呼ばれるだけの力はあるものだと感心できる。
 引用だらけになったついでに、最後にもうひとつ引用させてもらうが、これは内田さんの批評の信条に触れるものだ。読んでもらえば分かる人にはわかると思うが、ここに吐露された内田さんの思想とか批評とかの力についての考え方は、ぼくには吉本隆明さんの考え方にとてもよく酷似してきたと感じられる。内田が承知しているのかどうかはともかく、ここには吉本さんの思想、批評、言葉を発言する際のスタイルがそのまま言葉に表されたような錯覚さえ感じさせられる。そしてまさしく、「それこそ知の力、批評の力じゃん」とぼくには感じられた次第なのだ。こんなところをきちっと踏まえている知識人はそんなに多くはいない。そのことも考え合わせながら読んでいただきたいと思う。
 
どうやったらこのような政治体制を批判できるのか。僕が学術というものを最終的に信じているのはそこなんです。為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、あなた方はこういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている、そいうことをはっきり告げるということです。理非はともかく、事実として、彼ら政治家たちがどういうメカニズムで動いているものなのかをはっきりと開示する。本人にも、国民全体にも開示する。別に彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、合理性をあらわにしてゆく。その作業が最も強い批評性を持っているだろうと僕は思います。
 
僕は、知恵と言葉が持っている力というのはとても大きいと思うんです。面と向かって、「おまえは間違っている」とか、「おまえは嫌いだ」とか言ってもだめなんです。そうではなくて、「あなたはこう考えているでしょう。だから、次、こうするでしょう。あなたの内的ロジックはこうだから、あなたがすることが私には予見できる」と。民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、やろうと思っていたことができなくなってしまう。人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。僕はそういうふうに考えています。
 
立憲デモクラシーの会には多くの知性が集合しているわけですが、僕はこういうネットワークを政治的な運動として展開するということには実はあまり興味がないんです。その政治的有効性に対しても、わりと懐疑的なんです。真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。
 
 ぼくはここを読んで、ああ、内田さんもこういう境地になってきたんだと嬉しく感じた。あるいは以前からこういう考え方を持っていたのかもしれないが、ぼくとしてはここではじめて知ったことになる。これはすぐれた思想者の証といえる文章だとぼくは思う。
 世に批判的な言辞は無尽蔵と言っていいくらいに飛び交っているが、その言辞が現実的に有効であった事例はけして多くはない。現実にくさびを打ち込むには、ここで内田さんが言うような迂回して先取りする方法にしか有効性はない。これは知者に多大な負担を強いるだろうが、本当に本当の知の伝道者はこれをクリアするだろう。もちろん内田さんにもその力量は備わっているように見える。またそういう立場に立っている。今回の内田さんの見解は、このことを期待してもいいような見解になっていると思う。まだこの国にも時代を、そして時代の先を指し示してくれる思想者がいるということは、どんなにかぼくたちを鼓舞してくれるか計り知れない。そういう意味を含めてここに多くの引用を掲載させていただいた。
 
 
選挙についてを中心に
              2014/11/24
 テレビを視野の端に眺めたら、世間ではなにやら解散総選挙だ、ということになっているらしい。ああそうかと、うなずいてみせるより仕方がないが、もとより選挙そのものには興味がない。対抗馬がない。立候補者や政治家たちとのしがらみもない。誰にも、どの政党にも付託すべき一票など持ちようがない。
以前には、国民の権利や義務、民主主義への参加、などの言葉で選挙に行かないのはまるで非国民であるかのようにマスコミに脅され、あるいは踊らされて、ひっそりと棄権を貫くよりしょうがなかった。だがもういい。行く気になれないのだから行かない。そういうことをきっぱりと言い切ってしまおうと思う。
 民主党政権に変わろうかというときには、さすがにこれはおもしろいやと思って、冷やかし半分で選挙に行った。生涯で2度目くらいになるだろうか。
 個人的には国民の大半が棄権して投票に行かなければおもしろいのにと思っている。そういう方がわたしたち一般国民大衆の意思表示になるのではないか。そんな気がするのだ。これをマスコミや有識者たちはこぞって非難し、現行の選挙制度の中に国民を引き入れることに躍起となってきた。視線を変えれば、国家体制の安定と秩序の維持に加担してきたと言える。国家のために、ひいては国民のためになることだとマスコミや有識者は考えていたのかもしれないが、そこには自己欺瞞がある。それを明示してみせる手間などとりたくもないので、その一端を武田邦彦さんのブログの記事をもって示し、そこから類推するなり推測するなりしてもらいたいと思う。要は、マスコミなり有識者なり、国民を誘導する言辞にまじめに付き合っていることなどちゃんちゃらおかしくて、無視する以外にないということが言いたいだけだ。
 武田さんの記事は直接選挙に関するものではないが、一事が万事で、有識者やマスコミの生態や姿勢を映し出しており、こういう連中の言いぐさなどすべて信ずるに値しないということを教えている。この種の見解は特段のことではないが、まあ分かりやすいかなということでここに引用させてもらう。
 
先日、「有識者会議」というのが「このまま少子化が進むと日本の人口が一億人を切り、経済成長がマイナスになる可能性がある」ということで大量のお金(政府が国民から前借りする)を投入するべきだとの答申を出した。
 
具体的に問題点を指摘しているように見えて「このまま」とか「可能性がある」という言葉を使って、答申が現実にならなくても責任を取らなくても良いという形にしておいて、お金だけを出す仕組みを作る。目的は天下り先を作ることだ。
 
「何かが起こればお金にする」ということが続いている。御嶽山の噴火で犠牲者がでると「どこに問題があったか」を明らかにせず、「もっとお金があれば防ぐことができた」ということにする。人の不幸でもお金にするということだ。
 
でも、このぐらい強引なことをするのだから、作戦もいる。消費税を上げるためにいま、政府がやっていることは、
 
1)「政府が国民に借金をしている」ということが事実なのに、「国が誰かに借金をしているから国民が返せ(増税)」と言い換える。
 
2)さらにお金を使いたいので、専門家を動員して「審議会」を作り、そこで「このまま・・・・可能性がある」と脅す。そして「財政再建」を旗印にするが、実質はお金をさらに使う。
 
3)このトリックがばれるといけないので、消費税の増税に際して「テレビ新聞は除く(減免措置)」をして、テレビ新聞が政府の言うとおりに報道するようにする。
 
この3点セットは強力だ。主語述語のはっきりしていない日本では、「借金」というと「誰が誰に借金したのか」を言わなくても、「国に1000兆円の借金がある。子孫にツケを回さないために消費税を増税する」といえば日本語になる。これを正しく主語述語を使って表現すると、
 
「日本国は外国に対して230兆円の債権(黒字)がある。国内では、政府が国民に対して1000兆円の借金があり、国民は政府に1000兆円を貸している。もちろん、お金を借りた政府が国民に1000兆円を返す必要があるが、政府(官僚とお金をもらった人や会社)は使い込んだので、お金がない。だから、もう一度、国民から1000兆円を徴収する必要があり、消費税を増税する。
 
さらに今後も、政府は国民から常にお金を前借りする。理由は「この目的にお金を使う」というと異論がでて自由に使えないので、最初に使っておいて「政府は使い込んだのでお金がない。もう一度、増税する」と言えば、消費税は20%まで上げることができる。」
 
それにはテレビ・新聞の協力がいるから、彼らだけには軽減税率を適応するという仕組みだ。
 
 わかりやすくするためにややシンボリックな表現になっているが、こんなところでも充分だ。要はマスコミと有識者と政府などとはつるんだ生態系を構成しており、蛭のように国民に寄生しながら国民よりも図体をでかくした連中だという一事がここでは教示されている。そしてこういう連中の言いぐさなど、わたしは一切聞く気がしないというだけのことだ。わたしたちはこういう茶番を呆れるほどに見せつけられてきている。
 こういう連中をいい気にさせるだけの一票の行使など、まっぴらごめんだ。誰に何を言われようが選挙に行く気がしないのは行く気がしない。どうかすると、「皆さん、そろって棄権しましょう」と公言したいくらいのものである。だが、公言はしない。
 ここまで引用させてもらったのだから、武田さんの記事の結びについても掲載しておこう。
 
日本の伝統と歴史を尊重し、靖国神社に参拝し、愛国心に燃えているはずの自民党だから、こんな卑怯な手を使わず、愛国的に「まずは使った人が返せ」ということから初めて欲しい。そうしないとどんな大義も正義も、まして教育改革など成功しない。
 
また、よく言われることだが、マスコミの存在価値は、1)政府に批判的、2)国民におもねない、であり、マスコミの人は恥ずかしくないのだろうか?
 
 武田さんはこんな体たらくになっても、どこか自民党が好きらしい。行間にそんな心情がわたしには伺い知れるように思える。個人的なことだから、それはそれでいい。現実主義的な考えから、自民党にもマスコミにもよくなってほしいと考えるからこういう書き方になるのだろう。その意味では配慮を忘れてはいないようだ。わたしなどはそれを感じると、飽きもせずよく付き合っているものだねえと思う。指導層の存在価値をどこかで認めるかぎりにおいて、武田さんのような考え方は市民権を持つというか、効用、効果があるのかもしれない。わたしはどちらかというと指導層の存在を、やがては無効にすべきもの、無効になっていくものと考えるので、武田さんのような考えの道筋を通ろうとは思わない。そこからは国を愛するという言葉は出てこない。かわりに、どうということもないごく普通の隣人を愛するという言葉が出てきそうだ。政治家やマスコミにも、そういう言葉がほしいと思っている。そうでないと、国家やマスコミ機関というものはいつでも国民を抑圧する機関に豹変するものだと思うからだ。
 わたしには政府もマスコミもとっくに国民からは乖離し、遊離してしまって、勝手な独り相撲をしているように見える。日本の指導層全体がそうなってしまって、求心力さえ失っている。勝手に自分たちにいいようにばかりしていると見えるのは、そのせいもあるかと思える。いずれ自滅の坂を転げ落ちるに違いないが、わたしたちを巻き添えにすることだけはしてほしくないなあとつくづく思う。
 
 
「中間共同体」とは何か
              2014/11/19
 思想家の内田樹が、「川内原発再稼働について」と題する文章を自身のブログに掲載している。
 
九州電力川内原発の再稼働に同意した鹿児島県の伊藤祐一郎知事は7日の記者会見で自信ありげに再稼働の必要性を論じていました。私は「事態は『3・11』以前より悪くなってしまった」と感じました。
 
 冒頭はこんなふうにはじまっている。「事態は」というが、何の「事態」なのか。また「『3・11』以前より悪くなってしまった」というが、何がどんなふうに悪くなったというのか。次の記述にそのことが示されている。
 
原発で万が一の事故があれば、電力会社も国の原理力行政も根底から崩れてしまう。「福島以前」には原子力を推進している当の政府と電力会社の側にもそのような一抹の「おびえ」がありました。でも、東京電力福島第一原発の事故は、その「おびえ」が不要だったということを彼らに教えました。これまでのところ、原発事故について関係者の誰ひとり刑事責任を問われていません。事故処理に要する天文学的コストは一民間企業が負担するには大きすぎるという理由で税金でまかなわれている。政府と東電が事故がもたらした損失や健康被害や汚染状況をどれほど過小評価しても、それに反証できるだけのエビデンスを国民の側には示すことができない。彼らは原発事故でそのことを「学習」しました。
鹿児島県知事はたとえこのあと川内原発で事故が起きても、前例にかんがみて、「何が起きても自分が政治責任を問われることはない」ということを確信した上で政治決定を下したのです。(太字―佐藤)
 
 内田は、鹿児島県の伊藤祐一郎知事(ら)
の発言から、彼ら(原発推進派)が先の福島原発事故によって学んだことは「国民には責任を問う力がない」ということだった、と述べているのだ。
 これはとても耳が痛い話だ。耳が痛い話だが、「原発事故について関係者の誰ひとり刑事責任を問われ」ず、「事故処理に要する天文学的コストは一民間企業が負担するには大きすぎるという理由で税金でまかなわれ」てきた事実はその通りで、これを不服として政府、東電を相手に責任追及する国民の声はついに大きなうねりを生み出すにいたらなかった。内田は、原発推進派はそのことに調子をこいて再稼働推進の決定を下したのであり、
本音では、これは国民をバカにした話ですよ、と国民に向かって訴えたいのではないかと思える。しかし、内田の主張はこの後、原発推進派の短期的な経済的利益優先の考えを批判する方向に向かい、「多くの国民は国土の汚染や健康被害のリスクを受け入れてまで経済成長することよりも、あるいはテクノロジーの劇的な進化よりも、日本列島が長期的に居住可能であり、安定した生活ができることを望んでいます。」と締めて、やや穏やかな、事なかれ的な文章の結び方をとっている。
 
 九州電力川内原発の再稼働推進と、それに同意した鹿児島県知事の発言に対するぼくの反応は内田とは違っている。いわば、再稼働の話がマスコミを通じて出てきた当初から、こういう流れは予測されたことだから、単純に聞き流して何も感じなかったというようなものだ。政治が国民生活の長期的な安定と富の公平な分配に頭を悩ますことがないように、ぼくもまた、自分の目先の生活が少しでもよくなるようにと考えるだけだ。九州電力川内原発の再稼働の話など眼中になかったと言ってもいいくらいだ。「これで何が悪い」、そう思う。それこそ、「わが国の政治家も官僚も財界人も学者もメディアも、誰一人」ぼくら国民のためになったものなどいないではないか。国民のために、「公平」に奉仕できるものなど誰ひとりいない。この現実がぼくらの現実のすべてである。こんな現実の前で原発推進も反対もあったものではない。ぼくらはそう思う。内田樹の分析眼は鋭く、いつも感心させられる。だが、いつもぼくたち一般生活者の視線からは少しずれていると感じさせられてきた。
 
国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。これから何百年も安定的に継続することです。株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。原発推進派はそれを混同してしまっている。
(略)
成長なき社会では、「顔の見える共同体」が基礎単位となることでしょう。地域に根を下ろした中間共同体、目的も機能もサイズも異なるさまざまな集団が幾重にも重なり合い、市民たちは複数の共同体に同時に帰属する。生きてゆくためにほんとうに必要なもの(医療や教育や介護やモラルサポート)は市場で商品として購入するのではなく、むしろ共同体内部で貨幣を媒介させずに交換される。そのような相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたちになるだろうと私は予測しています。百年単位の経済合理性を考えれば、それが最も賢いソリューションだからです。
 
 何かというと、国家百年の大計のようなことを内田樹は言う。悪くはないが良くもない。
 内田が言う「複数の中間共同体」、そしてそれら「相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたち」とは分かりやすく言えば何なのだ。地方自治体なのか協同組合なのか、はたまた結社なのか。いずれにせよ、その時に国民国家はどのような形をとっているということになるのか。従来通りに継続していることになるのか。だが、国家の形態が従来通りならば、そもそも自立的な中間共同体がどのようにして成立可能であるのか、そのことをもう少しはっきりと指し示してほしいものだと思う。
 
 
閑話―経済小考―
              2014/10/26
 消費税を5%から8%に、そして8%から10%に上げようというのは、どう考えても大幅な赤字国債への懸念からのものだ。
 膨大な赤字国債の責任は政府にある。だがそれを国民に転嫁して、政府は消費税を上げてこれを補填し国債を減らそうとした。
 安倍政権はいろいろな対策を講じて、消費税増税によって経済の減速が起きないように配慮してきた。だが実際には、一年前に比べて日本経済は縮小しているように見える。最近の10%増税への安倍首相の、慎重な発言や姿勢はそういう事態を受けてのものだと思える。経済が減速すれば消費税を上げても税収の増加は期待されない。結果、国債も減らすことができずに、改革と実施の意味合いが無に帰してしまう。
 
 赤字国債が一定のレベルを超えて膨大なものになったのは、簡単に考えれば、各省庁が国民へのサービスを充実させるという名目で
膨大な予算を計上し、それを実施してきたからだ。それが雪だるま式に大きく膨れあがってきたのに、歴代政府はそれを看過してきた。
 民主党政権は当初、そこに切り込んで、1つの事業に付随して派生する無駄を省き、さらに無駄な事業そのものを無くそうと検討したがうまくいかなかった。だが、方向性としては評価できるものだったと思うし、国民もそれを期待して政権交代を実現させた。
 だれがどう考えても最終的には小さな政府、小さな行政機関を目指すしか方途がないはずだ。これを承知しないのが官僚機構であることもまた、だれもが自明と考えるところだ。
事業が大きくなれば、それに携わる人も組織も大きくなる。つまりそれを養い維持することにまた大きな経費が必要になる。
 どんなに困難であっても、雪だるま式のこの循環を止めなければ赤字国債は減るどころではない。これをそのままにして消費税増税で凌ごうとすれば、やがて消費税は15%20%と上がっていくだろう。
 
 日本政府が来年消費税の計画的増加を続行
することに、日本銀行、財務省、大企業は強い支持を示している。だが、国民の大半はこれに耐えられるかどうかは心許ない。もしもそのことでいっそう消費が手控えられるようであれば、増税実施の意味合いはなく、日本経済のダメージも大きい。安倍政権はその時、戦後最悪の政権と国民に評価される可能性もでてくるだろう。
 わたし自身は、基本的には消費税が上がることに賛成の立場にある。ただし、将来的には消費税以外の税、たとえば所得税その他が消失していくことを前提としている。すぐに無くすことが無理だとすれば、漸次減らしていく方向で実施してもらえたらよいと思う。そうすれば国民の負担も少なくてすむと思うし、消費活動に与える影響も少なくてすむ。
 
 いずれにしても、まず第一に実施してほしいことは行政機構のスリム化であり、構造的な改革である。膨大な赤字国債を背負っている以上、政府はまずいかに出費を抑えるべきか検討すべきである。ただに検討するだけではなく、果敢に敢行することが責務である。
それをしない政府、国家に、税という形で金を納めたくないと国民は思うものだ。これを抜きに消費税アップは承諾できない。承諾できないばかりではなく、すでに多くの国民は消費する力を失っているのだから、大幅な減税と、サービス産業などの第三次産業への公的資金の投入が必要不可欠である。
 民主党政権が大きな失態をやらかしてから、どの政党もまともにこういうことを口にすることはなくなっている。野党の多くは自民党政権にすり寄るばかりだし、安倍内閣後の政府にどんな明るさも期待できないという、ここしばらくの政治状況の中では異様なほどの低迷した状態に陥っている。どこか1つの政党でいいから、国民の常識的な考えを代弁するまともな政党が現れたらなあと思わずにはいられない。
 
 
政治的な反射
              2014/10/24
 「児童期が投げかけるもの」(「教育の屋根裏部屋」所収の「顔のある窓」に連載中)
に時間がかかり、政治的、社会的な問題を考える余裕がなかった。それでも折々にそうしたものへの目配りはしていた。
 最近、中部大の武田邦彦さんのブログを見ていたら、偶然おもしろい記事が目にとまった。何回かのシリーズとして構想されているようだが、3回目の記事が特に関心が持たれたので、このことについて少しだけコメントしてみたい。
 概略を述べれば、バブルがはじける前の高度成長期以後、特に国民の九割以上が「中流意識」を持った以降のことが考察の対象とされている。国が繁栄し、国民生活が豊かになったその瞬間から、日本は経済大国という己の姿に怯えてしまった。そうと言うほかにいいようがない形で、日本は経済の規模を小さくする政策を連発した。アメリカなどへの配慮もあったのかもしれないが、しかし、当時のわたしにはそういうふうに印象された。そこのところの事情を武田さんも疑問に思ってきたらしい。少し長いかもしれないが、その間の雰囲気やニュアンスが上手にまとめられていると思うので全文を引用しておく
 
仮装社会(4) 日本社会の大きな変化と仮装社会のはじまり(その3)
 
物理的な豊かさ(所得、持ち家、車、休暇日数など)が目標に達したあと、実は、「豊かな生活」に至るまでに、二つ不足していました。一つは哲学、二つ目は制度です。哲学はあとにして、まず制度の方から行きますが、バブルとともに崩壊したのが、「環境汚染の幻想」、「年金の崩壊」、「政治的対立の消失」、「使い道がわからないお金」だったのです。
 
まず、1990年になって日本人は「豊かになった」という目標を達すると、突如として奇妙な言動にでます。それが「エコ」でした。せっかく豊かな生活を目指してあれほど一所懸命になって働いてきたのに、それが実現すると途端に「使ってはいけない」ということになったのです。
 
石油は枯渇する、ゴミが溢れる、有害物質がでる・・・から始まって、そのうちには地球温暖化、生物多様性などというまったく新しいものもでてきました。
 
それだけならまだ良かったのですが、少子化問題、年金問題、高齢社会など社会システムの根幹に関わる課題も噴出し、それが不安定な金融、株価や土地の下落などによって不安の拡大へと繋がったのです。
 
この二つは相乗的に不安感を煽り、消費活動は極端に減りました。リサイクルしないとゴミが溢れる。ゴミを焼くとダイオキシンがでると退路を断ち、さらに資源が枯渇すると(間違い)を言います。つぎに年金が崩壊する、子供が少ないから見てくれる人がいない、老人人口はうなぎのぼりということになったのですから、財布の紐が締まるのは当然です。
 
実に奇妙な変化でした。豊かになろうとあれほど努力したのですから、せめて10年ぐらいは「豊かな生活」を楽しめばよかったのに、達成したとたん、こんどは別の理由でまた節約を始めたのです。
 
その結果、ある大会社が「この日のために」と用意していた兵庫県にある大規模従業員保養施設(温泉、旅館、テニスコート、散策・・・なんでもOK)はガラガラになり、東京の近くの箱根、軽井沢などの保養地は「豊かになったらお客さんがいなくなって倒産」するとろこが続出しました。
 
国が進めていた、大規模工業団地は破綻、大型レジャーランドに投資した人は散々な目に遭って倒産したのです。いったい、国民も政府も、あれだけ豊かになりたいと願ってたいのに、いったいどうしたのでしょうか?
 
どうも、高度成長期の日本人の目的は「豊かになること」であって、「豊かな生活をすること」ではなかったようです。だから、目的を達したら、また貧乏生活から始めることにしたように見えます。しかし、すでに所得は世界のトップレベルになっていましたから、「所得があっても使わない」ということになり、産業も設備投資ができなくなり、カネ余り、ゼロ金利、赤字国債発行と一直線にさらに何をしているのかわからないことになりました。
 
もちろん、その兆候はすでに高度成長の第二期(石油ショック以後)に現れていました。家電製品が行き渡ると、家庭の貯蓄が増え、産業は設備投資が少なくなったので借入金が減り、その結果、戦争もしないのに(国家に特別な出費目的がないのに)赤字国債が増加していったのです。
 
目標はなくなった、課題を解決する力も合意手段もない・・・そこで仕方なく、「ウソを現実として安易な解決方法をとり、みんなでその中で過ごす」ということになったのです。それがここでいう仮装社会なのですが、あまり抽象的なことをお話してもわかりにくいので、次回から一つ一つ、なにが仮装化したのか、その内容はどのようなものかを整理しながら進みたいと思います。
 
(平成26年10月7日)
 
 日本社会は消費資本主義ともいうべき新たな段階に突入し、本当は消費の拡大をいっそう図ることこそが繁栄の維持には必要であった。それが突然に、浪費(消費)は敵だ、みたいな動きになった。
 繁栄したとはいっても、まだ庶民の家屋は外国からは「ウサギ小屋」と嘲笑されるようなものである。わたしなどは、これから日本家屋もそういう状態から脱するきっかけができるものと喜んでいた。が、それ以降はみるみる経済規模が縮小し、不況から長いデフレスパイラルが続いてきた。それは武田さんが言うように「奇妙な」ことだった。
 
消費者の消費活動は、我が国の経済社会全体に大きな影響を及ぼすことになります。したがって、経済の持続的な発展のためには、消費者が安心して消費活動を営める市場を構築することが重要です。
 (「消費者問題及び消費者政策に関する報告(2009〜2011年度)」消費者庁ホームページより)(これはネットの知人のブログから転載させてもらった―佐藤)
 
 繁栄の絶頂を迎えた時期に不安を煽り、消費活動を縮小させておきながら、20年近くたってからこの国の政策担当者たちはこんなことを述べている。
 もっと早く気づけよといいたいところだが、バブル崩壊以後の不況脱出策として、消費活動を活発にするために第三次産業に公的資金を投入すべきと主張したのは、九〇年代には吉本隆明ただ一人だったと記憶している。そして武田さんはその時期の「奇妙」さをやっと考察の対象にし始めた、ということになるかと思う。
 いずれにしても、日本が高度成長期を経て経済大国にのし上がり、国民生活が先進国並みに豊かになり、さらにそこからもっと豊かにという矢先に日本経済は失速した。前述したように、先進国に追いつき追い越せできて、あわや追い越そうというときに、日本はとたんに足がすくんで動けなくなった。何せはじめて世界のトップに躍り出たところである。躍り出て、急に目標を見失って慌てふためいた。本当は根っからの貧乏性だったのだろう。めまいを覚えて、どう振る舞えばよいか分からなくなった。ぜいたくなどしたことの少ない国民性が、とっさに本性を露出させた。繁栄やぜいたくや豊かさに怯えたとしか考えられない。トップに躍り出て、驚いて、走るのを止めた。もうこれは国民性と呼ぶほかはないのかもしれない。
 当時もっともらしく流布されたのは、国民がぜいたくをしたためにバブルを呼び込み、結果的にバブルがはじける凋落をもたらしたというものだった。だが、
 
 わたしが再三いうようにそれは逆なのだ。国民大衆がファッションを身につけて豊かな気分になったり、選択消費を十分に使える状態が経済的好況を主導することになるので、脇を締めて勤倹節約しなければならない状態は政策者や指導者が無能なために起こった悪い社会状態なのだ。(吉本隆明『超資本主義』1995年徳間書店)
 
 見かけばかりはいつも偉そうに振る舞っている日本の政策者や指導者が、その実際がいかに無能かは、このように、とっくの昔に吉本などによって明確にされている。我が国民大衆はこのことをもっと自信を持ってはっきりと心にとどめておくべきだと思う。たとえマスコミや御用学者、風見鶏的専門家、知識人が何を言おうとしてもだ。少なくとも、直近でのあの東日本大震災が教えてくれたことの1つとして、それらの指導的立場にしがみつく連中がいかにお粗末な連中であるかは目に、そして耳に焼き付けたはずである。それを忘れてはならない。
 武田さんのブログの内容は、遠からずそのようなことの言及におよぶことだろうと思う。
時々はさらりと目を通して確認してもらいたいものだし、わたしもそうしていく。
 さて、武田さんの記事の振り返りはこんなところでよいだろう。
 次に、内田樹さんのブログの更新が最近になされたので、その記事の内容に触れてみたい。こちらは10月18日の記事で、「アジア地域史研究で国際的に知られるオーストラリア国立大学のテッサ・モリス=スズキ教授(歴史学)が、10月10日、安倍政権の動向と今回の大学脅迫事件の関係を論じたうえで、日本が「慰安婦」問題に真っ向から取り組まない限り国際社会のリーダーにはなりえない」とする見解を紹介している。訳は内田さん本人のもので、誤訳があるかもしれないという注意書きがある。
 相変わらずの「慰安婦」問題で、日本の保守派の主張は一貫して「強制連行を証明する文書」が存在しないというものであり、そうである以上「だれもつべこべ言うな」という粗っぽいものだ。このことに関するテッサ・モリス=スズキ教授の論は次のようなものだ。
 
 9月5日、安倍内閣の菅義偉官房長官が、記者会見を開いて、そこでいわゆる「慰安婦」について日本政府の見解を明らかにした。それによれば、第2次世界大戦中、日本軍の慰安所へ集められた何万人もの女性たちのうち誰ひとりとして日本軍または日本警察によって強制的に徴集された者はいなかった、というのだ。
 会見に居合わせた記者たちは、「慰安婦」として勤めさせられた(戦時下捕虜を含む)オランダ人女性たちについて質問を投げかけた。ある記者は、この問題に関してオランダ議会調査委員会によって1994年に念入りに作成された報告書をとりあげた。その報告書は、およそ65名の女性たちが日本軍または警察によって売春を強要されたことを明らかにしたものだった。
 菅官房長官ははじめ質問に答えることを避けたが、やがて次のように述べた。
「日本政府の見解としては、(この問題に関する)政府の調査の結果、軍およびその関連機関の関与した強制連行があったことを証明する記述を見つけることはできなかった」
 安倍首相とその支持者たちは、長い間、日本の近代史におけるこの闇に対する責任を極限まで小さくしようとしつづけてきた。そのために、日本およびその近隣諸地域や戦場で直接とらえられた女性たちと、あっせん業者によってだまされて軍へ引き渡された女性たちのあいだに、線を引こうとしてきた。後者の女性たちは、彼らがいつも言い張るところによれば、「強制連行」されたのではないというのだ。
 そして今や安倍首相とその支持者たちは、強制連行に関する報告をすべて、一切の地域に関して、否定しているのだ。
 
 教授の論の中には、たとえばオランダ議会調査委員会が指摘していることには間違いがないだろうみたいな、なんとなく白人特有の人種的な優越性のニュアンスがかぎ取れる気がしないではない。しかしそのことを抜きにして考えれば、戦時に慰安婦を強制したことはあったと考える方がごく普通の考え方であろうと思われる。これを、「証明する公文書のようなものは存在しない」といって白を切り通そうとすることは、意固地だし大人げない。子どもが悪口を言った、言わないの喧嘩で、「いつ言いましたか。何日の何時何分に言ったんですか。」などと切り返す言い方に似ている。こういう場合は、悪口を言われたという人、慰安婦に強制的に従事させられたという人、つまりは被害にあったと主張する人がいるかぎり、まずその主張に耳を傾けるところからはじめなければならないと思う。まずそれが前提でなければならない。
 慰安婦問題の場合、その犠牲者だと名乗り出ることはそのこと自体がたいへんにその人にとってリスクのあることである。家族や近隣の目もあり、そうと主張することは、いわゆる補償金などではすまない話である。それが想像できない政治家たちは、逆に自分が金のために嘘をついた経験があるために、他人もそうだと考えるのではなかろうか。そういう発言をした政治家たちの顔を思い浮かべればいい。なにやらみんなそんな顔つきに見えてくる。
 過去の出来事がすべて文書化されているものかどうか分からない。こういう論議は水掛け論に終わることが普通のことだ。安倍首相周辺は、公文書のあるなしを根拠に、すべてはでっち上げだと主張したいようだが、これは今更のことだ。敗戦直後から断固として無実を主張しつづけていたならともかく、戦前、戦中世代は暗に強制があったことをほのめかす発言を多くしており、巷間ではそういう事実があったことがまことしやかに流布されていたという伝聞も少なからずあった。
 戦後六十数年を経て、今更にそうした事実がなかったことを大きく騒ぎ立てることはけして国益上もいいことではないとわたしは思う。また、また安倍首相を先陣とするこうした一連の動きが国内をざわつかせ、たとえば、
 
 他にも、大学教員が自らの講義中に慰安婦の強制連行について触れた資料を用いたために有力なマスメディアから攻撃された事例がある。この問題の解説者たちや他の関連題目は、右翼の週刊誌によるいわれなき攻撃のターゲットにされてしまっている。大半の有力マスメディアが沈黙を強いられてしまっている。(同右)
 
という動きが顕在化すると、国際的にも日本が言論の自由を弾圧する国だとみなされたり、成熟した民主主義の国ではないなどと、マイナスのイメージをふりまく結果になりかねない。つまり、安倍首相をはじめとする保守派の思惑はかえって日本のイメージを傷つけることになると思う。そして、
 
 日本が活発なリーダーシップを発揮して戦時下性暴力をなくしていくことは、国際社会から歓迎されるだろうし、実際にいま大いに必要とされている。
 しかし日本が、女性に対する過去の重大な暴力を否定しているあいだは、またその歴史について語る自国民たちを攻撃し抑圧しているあいだは、この主導的役割を果たせはしまい。
 
というような、外部からの批判を招くことになる。本当はこれらの問題は、「事実認定は難しいけれども、被害を受けたとする人々に対して、国際的な立場から過去の日本国の行ったとされる行為について現政府が日本国民を代表してこころから陳謝し、またしっかりと補償を果たしていくつもりである」と潔く決意表明するくらいのほうがいいと思える。
これくらいの度量をごく当たり前のように示し得なければ、国際社会において主導的役割を果たすことなどはできまい。わたしはそう思う。もちろん主導的役割を果たそうが果たすまいがわたしにとってはどうでもいいことだが、それを願うならば精神的にも他の先進国以上の見識を持ってそれを内外に示すべきなのだ。いま、安倍政権とその取り巻きたちが行っていることは、先述したとおり、だれもがそうと思っていることを、ただ記載された公文書が無いというだけでそれを乗り切ろうとしている。だが、根拠とする公文書などというものは焼却可能であって、その一事をもって国際世論を完全に味方につけるなどは不可能なことである。そのやり口は国内においての安倍首相近辺の常套手段であり、国内においては通用する手段かも分からないが、それが国際的にも通用するとは到底思えない。それはちゃちな政治手法の一つに過ぎない。しかも、世界的にはそうした政治手法は過去のものであり、いまや死滅した政治手法と言える。もう少し言いつのってみせれば、世界的にはもはや政治そのものが「死んで」いる。
経済のパシリに過ぎなくなった政治を、いまも生きているかのように考える政治家は過去の遺物である。日本国民も他の国民も、潜在的には政治の死滅を肌に感じて理解できている。もう、ほんとは政治家が大きな顔ができる時代ではとっくになくなっているのだ。そこから考えたらこの種の論議も発作や痙攣の一種に過ぎず、大げさに騒ぎ立てずとも時期を経ず臨終を迎えることは間違いない。否定したかったら否定すればいいのだ。だが、たかが一人の愚劣な政治家の思惑一つで国民の意識やその国の歴史が塗り替えられると考えたら間違いだ。少なくとも国民はそれほど単純でもバカでもないさ。安倍はこんな形でどんどん墓穴を掘ればいい。言葉とは裏腹の国民蔑視の性根が露わにされていくだけだ。
 それにしても保守派の政治家も知識人とやらも矮小化や劣化が酷くてお話にならないな。 その点ではわたしが持ち上げて見せている武田邦彦もそのひとりで、最近は日本が行ってきた過去の戦争を取り上げて、それがあたかも正義の戦争であったかのように過剰に論じている。あるいは仕方のない戦争だったというように、戦争の不可避性を主張している。要するにそういう話をするときに、無意識に支配者側の目線に乗り移ってしまい、その観点からしか戦争を見ないようになってしまう。まあそれが武田さんの限界なのだろうなと思う。とりあえず政治的な反射として、これはこんなところで。
 
 
ある少女への手紙
              2014/09/23
 学習支援員の仕事をしていて、およそルーズな仕事ぶりを自分に許容しているぼくだが、いくつかの点でそこは力のいれどころだと感じるところではそれなりに全力で向き合うことを自分に課している。
 最近小学2年生の児童から質問を受けることがあった。いつもの生活の一コマの中で何気なくそっとささやかれたような、そんな一言で、おそらく当人にすればつと口をついて出た言葉という程度の軽いものだったかもしれない。そしてそれから数日を経たいまではもう頭の中からは消えてしまっているに違いない。が、先に述べたように、仮にそれが一過的に少女の脳裏を掠めた想念からの質問であったとしても、ぼくには全力で応えなければならないと思われた。そこでとりあえずは実際に手渡すかどうかは別として、そのことへの回答という思いで手紙文を書いてみた。自分の観念の内側にとどまってしまうものであってもいい。とにかく、その質問に自分はどう応えられるのか。それを試して、なんとかその一文ができた。少しも回答のレベルとして充分なものではないが、自分の力に見合った精一杯の回答にはなっていると思える。そこで以下に転載してみることとした。実際にこれを手紙として少女に手渡すかどうかは明後日までの猶予期間があり、その間に考えるつもりだ。
 
   ○○○ちゃんへ
 
 この前○○○ちゃんから、
「ねえ、どうして人間て生きているの?」
「生きていても意味ないじゃん。」
と聞かれましたね。
 その時はとっさのことで、
「そのしつもんには正しい答えというものがありません。いくら考えても答えがないのだから、そういうむだなことを考えるよりは、今やるべきこと、やりたいと思うことをやったほうがいいと思います。」
というようなことを言ったように思います。 どちらかというと、その場しのぎのような答え方をしました。それでもふつうはそういう答え方でまちがいはないのです。ですが、よくよく考えると、『先生は、どう考えますか?』というように、ふつうの答えではなく、先生の考えを聞きたかったのではないかと思うようになりました。それで手紙の形をかりて自分の考えを伝えようとして、いまこれを書いています。
 
 さて、○○○ちゃんの質問は、「人間はなぜ生きるか」という言い方に代えても同じと思います。生きるということは命、生命、そういうものを持ったということを意味します。命や生命について考えるときに、いったん生き物、これを生(せい)物(ぶつ)といいますが、たとえば植物や動物について考えるとわかりやすくなるので、それらについて考えてみます。
 生き物である植物や動物について考えたときに、すべてに言えることで、2つの大きなとくちょうがあることに気づきます。一つは、えいようを取り込んだり作ったりしてそれを体の中に入れ、自分を大きく成長させるというものです。ふたつ目は、大きく成長したらこんどは種や卵や子どもという形で、自分たちのなかまをふやしていくということです。どんな生き物も、この二つだけはぜったいにというくらいにやっているものなのです。ですから、生物がなぜ生きているかといえば、この二つをやるために生きているのだと考えていいのです。そう、わたしは思っています。みじかく言えば、食うことと子どもをのこすこと。そのことだけのために、人間いがいの生き物は生きているといってもいいくらいなのです。
 それでは人間はどうかと言えば、人間も生物のなかまの一つですから、ほんとうは同じだと言ってもいいと思います。でも、人間と他の生物たちとは一つだけちがいがあるのです。人間にはほかの生き物にはない頭のはたらきや心の動きというものがあって、そのために人間は、食べることと子どもを作るためだけに生きるものではなくなってきたのです。○○○ちゃんもそうであるように、人間の子どもたちはあそんだり勉強したりするようになっているでしょう。これらはほかの生き物にはないことです。そのほかにもいっぱいいろんなことができるようになっています。
 さて、人間の世界はゆたかになって、とくに子どもたちは二十さい近くまで食べるしんぱいをしなくてもいいくらいになりました。またかぞくがあり、家というものを作ってほかの生き物からおそわれるしんぱいもなくなってきたのです。そのために、かえって、○○○ちゃんのように何のために生きているのだろうかなどというように、ほかの生き物から見ればぜいたくなこと、よけいなことと思えるようなことも考えるようになったと思います。ようするにほかの生き物であれば、子どもであってもひっしにやらなければならないことも、人間の子どもはしなくてすむようになってしまったと言えます。
 ここまできて、体ぜんたいで、食べるためやなかまをふやすためだけにくろうしながら生きる植物や動物と、よけいなことを考えてこうどうするようになった人間とのちがいはわかってきたことと思います。
 では、ここから、人間はなぜ生きるのかについての考えをまとめていきたいと思います。 人間はなぜ生きるのか、何のために生きるのか。これは、やはりだれにとってもわからないことです。つまりはっきりしたきまりがないのです。めいめいがかってに、自分はこのために生きたいとか生きるとか決めて生きていたり、子どもやかぞくに向かって、こうしなさい、ああしなさいと言っているにすぎません。それがじっさいだから、それはそれでいいのです。つまりめいめいかってでいいのです。そうして生きているのが、わたしたち人間だからです。
 ○○○ちゃんが、「生きていてもいみないじゃん」みたいに言うのは、たぶん、いまの自分の中にどうしてもやりたいと強く思うことや、むちゅうになってやっていることがないからと考えられます。それがあると、生きるいみはしぜんとうかびあがってくるものです。だから、生きることのいみは自分自身で見つけるしかないことです。これからそれをさがしてもいいですし、かりにぼんやりと毎日をすごしていても、いつかかならず見つかるものですから、あまり気にしなくてもいいといってよいでしょう。それまではいまできるあそびをあそんでいればいいと思います。
 なぜ生きるかのこたえにはならないかもしれませんが、人間としてだいじだと考えていることがいくつかあります。
 一つは、生きてあるというただそれだけのことがほんとうはもっともだいじなことです。植物や動物とはちがった形で、けれども同じように、生きつづけるということはたいへんなことだからです。これはぎゃくに言えば、生きつづけるということができれば、それだけでりっぱにかちある生き方をしたと考えていいのです。だれもがかんたんにやっているように見えるかもしれませんが、生きつづけてみれば、そんなにかんたんなことではないことがわかります。
 ほんとうはこれだけでじゅうぶんですが、ふたつ目を考えるとすれば、何でもいいのですがはたらくということです。これは食べるものを自分で手に入れるということでもありますが、そのまま社会の役に立つことです。三つ目には、よいかてい、よいかぞくを作ることかなと思います。いごこちのよい、よいかていを作れたら、人として生きていく上でそれ以上のものはほかに見あたりません。えらくなるとか、金持ちになるとか、そんなことではみたされない何かがよいかていにはあるのだと思います。
 ずいぶん長くなってしまいましたが、これが○○○ちゃんのしつもんにたいして、せいいっぱいに考えた先生からのおへんじです。もしかすると、おうちの人のほうがよいこたえを知っていて教えてくれるかもしれませんよ。ふだんの気もちで、てれたりはずかしがったりしないで、まじめに聞いてみてはどうでしょう。先生からはこれでおわります。
           さとう きみのり
 二〇一四年九月二三日
 
 以上である。
 文章を読み返してわかるが、ここには自分のオリジナリティーというべきものは何もない。とくに根幹部分は三木茂夫さんの著作から大きく影響を受けている。これを読んだ少女が、いつか三木さんの著作に触れる機会を得、あっと驚きながらその後で微かに微笑みを湛える、そんな日が来たらいいのだがと思う。そのように三木さんの読者が増え、広く三木さんの考えが受け入れられたら、この少女のような問いに即答できる大人たちは、いくらでも少年少女のすぐ隣に立っていることになるだろう。そうなれば少年少女たちが、思わず口ごもってしまう本音の問いをじっと心に秘め、やがて跡形もなく消え去ってしまうのを待つような日本的な心の二重性は、少しずつ溶解していくのにといささか悔しく思う。またぼくがこのような拙い文章を恥をっさらして示さなくてもすむのにと思う。ま、その時が来るまでは大いに恥をかくべきと覚悟はしている。
 
 
追われる生活の中から一言
              2014/07/23
 ここのところ気にかかっている報道は2つある。ひとつはSTAAP細胞関連で、もうひとつは集団的自衛権のことだ。
 STAP細胞関連では、新聞、ネットやその他の報道で、相も変わらず「小保方さん」を中傷する記事が多いことだ。逆に「小保方さん」を擁護するのは、わたしの狭い視野の範囲では武田邦彦さんだけだ。
 武田さんは一貫して「小保方さん」のミスは若手研究者のミスであり、またそれほど意図的でも悪質なものでもないので、その非難は常軌を逸していると指摘している。わたしは武田さんの記事を読み続けて、簡単に言えばそう理解している。
 同感していると言えばわたしの立場ははっきりするから、事はもう済んだも同じだが、ひとこと付け加えておく。
 報道は少しずつ、科学や学問を神聖なものめかしたり、厳粛なものめかす方向に加速しているように思ってきた。これはたいてい報道が嘘をつくときの常套手段だ。そうして些細なミスや失敗を袋だたきにして、自分たちのか読者のか、溜飲を下げようとする。そういう言説は嘘だから信じてはいけない。
 大学を卒業したくらいの連中なら、どんなに4年間を遊び倒しても、研究や学問に少し触れた程度の経験はしている。わたしの経験では卒論がそれにあたる。
 わたしの卒論は独断と偏向、それにその時は気づかなかったが、数多い批評文の中のいくつかの考え方を無意識に自分の考えと混同して、さも自分の考えであるかのようにでっち上げた拙いものだった。それでも指導教授からは、他の卒論とはレベルが違うと褒められた。もちろんそんな言いぐさはお世辞に決まっているが、それでも、その先にある研究や学問の、所詮人間が行うことの人間くささや、さらなる奥深さをもまた垣間見る思いがした。
 いわゆる、科学であろうが文学であろうが、若手研究者の優秀さには、幼稚さも同居しがちである。砕けた言い方をすれば、1つのことにまっしぐらになると、周りのことはどうでもよくなったりすることもあるだろう。またそこまで気が回らないことも出てくる。こんなことは人間としての常識だとわたしは思う。細かなことや問題点の指摘は武田さんの文章に譲るが、わたしとしてはただ、世の中全体がたいしたことでもないのに相手の立場が弱いと獣のように襲いかかり、相手が大きく強いと過ちにも目をつぶる、そういった嫌らしい習性を積み重ねてきていることがかえって腹立たしく、その事が言いたいだけだ。
 また、孤軍奮闘と見える「小保方さん」に同情していることや、ともかくも研究者の道をたたれないようにと願っていることも、このような形で遠くからではあるがはっきりと示しておきたかった。
 
 もうひとつの「集団的自衛権」についてもひとことはっきりさせておく。法制化には反対である。これを進める自民党にも安倍政権にも当然反対する。
 ここで言おうとしていることは、しかし、その事ではない。
 7月4日、大学教授らを中心とした「立憲デモクラシーの会」が記者会見し、「安倍内閣の解釈憲法への抗議声明」が出された。わたしはその事を内田樹さんのブログ、「内田樹の研究室」の記事を通して知った。ブログにはまた会見での発言記録の音声起こしが公開されていて、それを読むことが出来た。これまた詳細は直に内田さんのブログを見てほしい。
 そこに綴られた教授たちの見解は、なるほどと納得しながら読む部分が多かった。だが、次のような部分では疑問を抱かずにはおられなかった。国際基督教大学の千葉眞教授の発言の一部を次に引用する。
 
ここは主権者である国民が動かないといけない時期に来ています。そして現在、多くの市民運動、脱原発運動、平和運動、憲法擁護運動などが展開しています。全国的規模の展開を果たしている「9条の会」もありますし、最近「1000人委員会」も結成されました。そうした運動が結集して、市民社会の側から新しい政治的オールタナティヴを形成してく必要があるというのが、私の最後のコメントです。
 
 要するに、「国民が動かないといけない」という言葉に引っかかりを感じた。類似の言葉はこれまでにも学者や知識人の口から何度も聞いたような気がする。そしてそのたびに、事は中途半端に終わった。国民は運動に結集しなかったのだ。なぜか。国民性と言ってもいいし、市民度が成熟していないためと考えることも出来るかもしれない。だが、わたしの言いたいことはその事ではなくて、そういう経緯はここに連なる学者たちも何度も目にしてきたはずだと思い、またぞろどうしてそういう期待を抱くのかと疑問に感じたのだ。結局、国民頼みを口にして、ただその繰り返しを今回も踏襲するに過ぎないのか、ということだ。それなら結果は目に見えているだろう、とわたしは思う。
 生活に追われ、その日暮らしがやっとの人々に反対行動を起こせと言うのか、ということ。今のところわたしは疑問に感ずる。わたしだって、こうして注目されることもない自分のホームページで、反対の表明をすること
だけで精一杯である。仕事は休めないし、休日には休みたい。
 言いたいことはもっとある。確か、1997年に日米防衛協力の合意がなされ、新ガイドラインなるものが作られた。実はその時から自衛隊が「戦争」に参加するだろうことは、すでに予測されたことだ。予測値卯ばかりでなく、それが前提となって新ガイドラインが成立したと言ってよい。もちろん今回の「集団自衛権」の憲法上の解釈変更は、その延長上に、さらに自衛隊の「戦争」参加を推し進めるものでしかないことは自明だ。
 ここに集まった学者たちはこういう一連の流れはみなよく知っているはずだ。だが、何も言っていない。つまりわたしが言いたいことは、その時から今日まで、一体あなたたちは何を考え、また何をしていたのか、ということに尽きる。今回の「集団自衛権」云々の問題を超えて、すでに10年以上前から「戦争」に参加、または他国のそれに協力する事態は承知していながら何ら有効な手立てを講ずることなく、事ここに至って「国民が動かないといけない」等とよく言えたものだと思う。本当ならもっと前からお前たちが動くべきだったでしょう。違いますか?わたしはそう思うがどうだろう。
 言っとくが、その頃批評家吉本隆明さんは、憲法を改正するとか法律を制定して、任意で選んだ民衆の全員の同意がなければ自衛隊を動かせないようにする提案をした。そのことで政府の勝手な意向で自衛隊が「戦争」に参加、協力することを防げると考えたからだ。まさしく今日の状況を先読みする提案だったと思うが、ここに集まった学者たちはおそらく当時は一瞥もしなかったはずだ。あるいは冷笑しながら目を通したかもしれない。
 己の不明を知れ、とわたしは言いたいが、ぐっと我慢をして、馬鹿の1つ覚えみたいに
いつまでも「国民が動かないといけない」等と言わずに、吉本さんの提案に変わるような具体的な策の1つでも提示して見せてくれと言いたい。それがかなわぬなら、吉本提案を野党に持ち込んで、皮一枚で危険を回避する策を講じることも一案だと思う。内容的には国民にも分かりやすく、受け入れやすい。
 あまり期待はしないが、「抗議声明」に表れただけの言説では強かな政治家や官僚には通用しないと思い、自分の意見としてここに明示してみた。
 
 
集団的自衛権の閣議決定を受けて
              2014/07/06
 数日前、安倍政権が集団的自衛権を閣議決定し、これから関連法案を国会に提出して議論が尽くされることになっている。この問題に関しては思想家の内田樹さんが当初から批判を展開していて、ここでも何度かその論旨といった程度を紹介してきた。
 本当のことを言えば、わたしはもともとこの種の論議にはあまり興味がない。その根本の理由は、そもそもがもしも中国や北朝鮮との間に戦闘が起きたらという、仮定の話がもとになっていると感じるからである。もしそうであれば、家に強盗が入って来そうだということを過度に考えて、セキュリティーを厳重にするというどこかの資産家の話に似てくるし、遭遇するかしないか分からない暴漢への対処として空手を習うというようなことに似てくるからである。こんなことを考え出したらきりがない。また、最近タレントなどでよく話題に上る「潔癖症」のように、防衛意識というものも異常と正常の境界が分からなくなるところまで一気に突っ走っていってしまうもので、軍事大国はみなそれだと言っていい。不安が不安を煽り、恐怖が恐怖を煽るその結果である。ほとんど病的と言ってもよいそんな架空の論議につきあっている暇はないのである。
 安倍首相が繰り返して説明していたような、たとえば日本人救出に動いたアメリカ艦隊がもしも敵の攻撃を受けそうになったら、日本国として手をこまねいているわけにはいかないという話にもある種の子供じみた飛躍がある。もしも、もしもで考えたら、いくらでもその種の話は尽きないものだからだ。
 いずれにしても国家の支配の側に立つ指導層の考えることは似たり寄ったりで、木刀を巧みに操ってみたい少年の心と同じで、権力を振り回してみたいだけのようにおもえる。そんなことにいちいち付き合っているわけにはいかないが、ひとりの馬鹿なお坊ちゃんのせいで日本国の将来が危うくならないとも限らない事案でもあるので、ここで少しばかり考えておくことにしようと思う。それこそ、備えあれば憂いなし、であろうか。
 さて、そうは言いながらもあまり熱心に情報を集めたりしているわけではないから、わたしにはまとまった考えなどがあるわけではない。まあこの種の論議にはいつものように何人かの識者たちの考えを拝聴しておけばいいのかと思う。さしあたって、しばしば登場してもらっている極東ブログの著者の考え、国際ジャーナリストの冷泉彰彦さんの考え、そして武田邦彦さんの考えを見てみることにする。内田樹さんについては以前に取り上げているので、ここでは省略する。ただ安倍首相の政策構想にはおおむね批判的であること、その批判の側の先鋒と言えるような考え方であることと承知しておけばいいと思える。
 7月3日付けの極東ブログには、「集団的自衛権・閣議決定、雑感」と題して著者の考えが述べられている。もともと著者は安倍政権に対して穏当な見方をしていて、政治の現実的な路線というものへの見方にも抵抗がない。わたしから見れば、政治にも通暁している人だなと思ってきた。ここでもそれらしくいろいろと冷静な検討の仕方をしている。それらはわたしには知者の持って回った言い方のように聞こえないでもない。言いたいことは何かというと、末尾の部分だろうと思える。
 
 今回の閣議決定は、どうにも拙速感はあったが、具体的な問題点は、法制化の議論の過程で明らかになる。
 その意味で、専門家や代議士は、その点の解説に注力してほしいと思う。その過程で、日本が置かれている防衛上の状況を踏まえた上て各種の問題点を明らかにしてほしい。そして、それらの議論を法制化の際に盛り込んでもらいたいと思う。
 
 これは少し前に紹介した冷泉彰彦さんの考え方と同じと言っていい。安倍首相は憲法を踏みにじっているなどというような、日本の多数の識者の扇動的な主張とは、やや一線を画していると見ることができる。議会制民主主義、内閣法制局の独立性、司法の独立性など、根底には現実を肯定的に見る考え方があるように思われる。省略した記述の中に一点だけ、著者の考え方として紹介しておいた方がいい部分がある。それは、
 
 率直なところ、なぜこの機に拙速に集団的自衛権といった問題に内閣が関わるのかは私には理解できない。急ぐべきことは、消費税10%増税の停止のほうではないかと思うくらいである。
 
というような見解である。わたしにはこれは妥当で、且つ健全な認識であるという気がする。こういう観点を失わないところに、この著者の優れた批評眼があると思われる。
 ここで著者が「急ぐべきこと」と語るように、わたしたち国民の一般生活者にとって、集団的自衛権がどうこうよりも、逼迫する経済問題の方がはるかに切実な問題であると思う。確かとは言えないが、自分の生活実感から言えばそういうことになる。
 せっかくだから、関連して、ここでネット上では無名に近いかもしれないが、わたしなどと同じように個人的に自分のホームページで詩や批評を公開している、西村和俊さんという人の文章を紹介しておきたい。物静かにではあるが、現在の支配の無効化を彼方に見据えた思考の展開を、地道に、しかし鋭く維持し続けているように思われるからだ。
 
 ところで、現在の社会に舞い降りてくる、あるいは舞い上がる大気は、けっして気分いいものではない。組織者が、現在の政権の敗戦後の歴史を否定する横暴に対してどの部分でどのように運動を組織するかということは切実であるに違いない。しかし、今となってはおくりものになってしまった吉本さんの現在の高度消費社会の分析と考察から導かれた結論、大衆が経済的な権力を手にし、選択消費を一年でも手控えればどんな政権も持たないだろうということを、なぜ組織し実践する者が出てこないのか不思議でならない。わたしには今がそれを確証する時に思われる。ここで、例えば吉本さんと親しかった三上治を思い浮かべている。
 
● 経済社会活動の中で大きなウエイトを占める消費活動
 
経済社会活動の中で、消費活動は非常に大きなウエイトを占めています。消費者が支出する消費額の総額は、2011年度は279兆円で、経済全体(国内総生産(GDP)=470兆円)の約6割を占めています(図表1-1-1-1)。消費者の消費活動は、我が国の経済社会全体に大きな影響を及ぼすことになります。したがって、経済の持続的な発展のためには、消費者が安心して消費活動を営める市場を構築することが重要です。
 (「消費者問題及び消費者政策に関する報告(2009〜2011年度)」消費者庁ホームページより)
 
 このように行政組織もGDPの過半を占める家計消費の重要性を認めている。わたしは組織者ではないから、自己組織者として最近は選択消費はできるだけ控え、必需消費も意識的に抑えている。わたしが食事担当だから、以前に増して食費も意識的に切り詰めている。今年6月の消費の落ち込みはまだ行政から公表されていないが、わたしの実感では、消費の落ち込みはまだ続いているように思われる。近くのスーパーの広告の頻度が以前よりもなんとなく増えているように感じるからだ。
 
 経済的な権力を行使すること、それがどんなにささいなことに見えても生活世界での意識的な行動であるのはまちがいない。それはまた、現在の政権を含めた政治への拒絶という政治性も同時に内包していることになる。一般大衆は、そのことに対しては未だ無意識的な行動として生活を維持し防衛しているものと思われる。しかし、このような現状が大衆的な規模で自覚されることは今後にとっても大切なことだと思う。
 
(リンク先 http://www5.plala.or.jp/nishiyan/hibino201406.html )
 
 ここには集団的自衛権の成立に反対する大規模デモのような「行動」はないが、けれどもそういう行動を上回るような「思考」の示唆は示されているように思える。著者には無断であるいは迷惑であるかもしれないが、そういう意味でここに紹介させていただいた。
 さて、先にも書いたが、極東ブログの著者の考えに似ていた冷泉彰彦さんの最新の文章を読んでみる。これも7月3日付けのブログの題は、「異常なことばかり、集団的自衛権議論の周辺」となっていて、これは集団的自衛権の議論そのものと言うよりは周辺国との関係の異常さに焦点が当てられている。冷泉さんが異常だとして挙げている点は3つある。
 ひとつは、中韓との摩擦や軋轢を強める安倍政権の政治的な姿勢に懸念を示しながら、米軍の負担軽減という意味合いからは解釈改憲に賛成するというオバマ政権の打算的な姿勢に関しててである。歴史的に見てもアメリカはしばしばこういうことを平気で行う国で、結局のところ、そうした打算的な関係はほとんどが崩壊しており、今まさに日本とアメリカの関係もそういう流れに入り込んだのではないかと冷泉さんは懸念しているように思われる。少なくとも、従来までの親密な日米関係とは異なり、どこかしら表向きだけのよそよそしい同盟関係に後退した感がある。これは日米にとって異常な事態ではないのかというのが冷泉さんの分析と思える。
 ふたつ目は中国に対する日米の姿勢の違いについてである。中国に対して、アメリカは民主主義と人権の問題を根本に据えている。しかし、香港で民主化要求の大規模デモが行われているのに、日本ではその問題にあまり関心が持たれていない。となると、対中国において日米は同盟国でありながらそのスタンスは異なっており、日米の思惑が絡んだこのちぐはぐさは同盟の内実を空疎なものに変容させ、互いの都合に合わせて利用し合うだけの危険な「同盟」になっていると冷泉さんは指摘している。
 みっつめには、事実上軍事同盟を形成している韓国から批判の声が上がっている点についてである。本来なら集団的自衛権の問題は、軍事的に同盟関係にある韓国にとっても支援や貢献が期待されるもので、歓迎されるべき筈のことである。そうならなかったのは両国に歴史や領土を巡る争いがあったうえに、日本側の説明不足と、日韓の両国首脳及び外交当局の関係が、キチンと話し合って良好な関係を構築できる機能を発揮できない異常な状態にあるからだと冷泉さんは述べている。
 わたしの読みはあまり的確ではないだろうから、詳細は冷泉さんのブログを参照してほしいが、おおむねこんなところだろうと思っている。
 さて、以上の冷泉さんの論旨から、わたしはまた2つのことが抽出できるように思う。
 ひとつは事実上の同盟関係にある米韓とも
ここに見てきたような齟齬が生じているとすれば、いったい他のどこに齟齬のない関係を築ける国があるだろうかということである。
極論すれば、わたしには政治外交的に、日本は世界で孤立してしまうのではないかという懸念を覚える。いや実際に孤立の度合いは進んでおり、加速化さえしているのではあるまいか。ことに安倍政権が安倍首相の政策構想を現実化していく度に、周辺国との軋轢は増してきている。これは周辺国の無理解によるとばかりは考えておられないと思う。何が問題かをここで指摘できるわけではないが、わたしには日本人の考え方や発想などが世界的にはかなり特殊で、外の目からはよく分からないところがあるからではないだろうかと思える。逆に言えばこちらの外を見る眼も、世界を正しくとらえているとは言い難いのかもしれないと思う。いずれにしても、本来なら互いの国益を守るための同盟関係をもつ国同士がこのように理解し合えない間柄では、本当にいざという時に協力し合えるのか心配になる。これを個人間のレベルに置き直して考えると、このような友だち関係、仲間の間柄では長続きしないばかりか、そのうちそっぽを向き合う間柄に変貌していくことは確実だと思われる。もちろん遺恨を残しながらだ。
 上述したことにほとんど重なってしまうが、ここでもうひとつ言っておきたいことは日本の「つきあい下手」とか、理念の持ち方というような点だ。
 外国とのつき合いに関して言えば、戦後は敗戦の卑屈さからアメリカにぺこぺこする姿勢が目立った。これには日本の内側からも批判が起こってきて、毅然として世界に向き合うべきだと考える気運が高まっていた。安倍首相の政策構想も、そうした流れを受けてのものと考えると少し分かりやすくなる。しかし、いざ自分の本当の思いを口にすると、どうにも考えがかみ合わず、まっとうな議論や話し合いにならない。そこで、どうかすると自分の主張を力で押し通そうとする姿勢が露出してきたというのが今日の日本の状況ではないかと思える。
 これに類似するようなことは引っ込み思案で、今風には引きこもり傾向を持つわたしのようなものにはよくあったことだ。自分の考えや意見を述べるとまったく世間一般と違う。理解できない、理解されない。が、この場合は根気よく世間一般を理解するように努め、また理解してもらえるように自分の考えや表現について反省を繰り返す。これ以外に共生を前提として取るべき姿勢はわたしには考えられない。そしてそういう時にどのように共生を図るかと言えば、共有できる理念に基づいてつながっていくことだと思える。そうしたときに初めて対等な立場に立ち、対手を批判することもあれば逆に批判されることもあり、相互に議論を深め、もって相互理解も進むと思う。
 冷泉さんが述べているところにもあるように、日本は民主主義や人権を標榜する先進国面をするわりに、先の香港における民主化デモに関心を払わないというような、内側から見てもちょっとおかしなところが多すぎる。
つまり、そのあたりが日本人には本当には身についていないではないかという気がわたしにはする。
 さて、極東ブログ、冷泉彰彦さんと来て、次には武田邦彦さんということになる。書き始めてから3日くらい経過しているだろうか。今日、7月6日に内田樹さんのブログを見たら、やはりこの集団的自衛権に関する新しい記事が書かれていた。一見したところ、戦後最大の民主主義の危機の時に、国民の反応が薄いことに苛立っているようだ。そういわれるとわたしもそのひとりだから面目ないという気になる。けれどもそれと同時に、それも含めてこれが日本国民の実力であり、歴史的到達点の姿であると考えないわけにはいかない。これには別に良いも悪いもない。ただそうした事実だけがある。
 武田邦彦さんのブログの記述に戻る。
 題には「新時代に備える(5) 日本の平和と防衛の両立」とある。
 いろいろな意味で多弁の武田さんは、しかしこの集団的自衛権の問題に関しては口数が少なく、わたしは武田さんが慎重になり言葉少なくなっているのかなと考えていた。逆に見ればこの件に関する関心は強く、相当考えているようにも思われた。日本の独立、自立というようなことをかなり真剣に考えてきたような人だからだ。その意味では、なんとなくだが批評家の江藤淳っぽい立ち位置の人だなと思っている。
 ひと言でいえば武田さんの主張はユニークで面白いものです。
 まず集団的自衛権に関することでは、武田さんははっきりと批判的です。同時に、現実と矛盾する憲法の一部を改正し、そこに日本が軍隊をもつ国であることを明記し、自衛隊を「日本軍」とすべきだという考えも表明している。要するに矛盾を消去してシンプルにという手法である。ある意味でこれはいちばんまっとうな考え方だ。現実的には不可能なほどに困難な提案だと思うが、まっとうな考え方であることは間違いないことだと思われる。そしてまっとうなことを地道に主張し続けることは大事なことである。
 もちろんわたしたち一般国民にとっては軍隊など無い方が良いに決まっている。兵役とか税金の面からもそういって良いと思える。だから武田さんの主張に即賛成するわけではありませんが、考え方としては理解できるといっておきたい。
 ここでひとつ武田さんに不満を述べておけば、こういうところで武田さんの考えははっきりと統治の側に身を置いていると思う。ともすれば根っからの指導者タイプに映る。これもどうでもいいと言えばどうでも良いことであるが、わたしにすれば一般国民生活者の立場で一貫した主張を貫いてほしいものだという願望があある。そうでないと、必ずどこかで「強制力」を肯定することになるのではないかと思う。これもどうでも良いことだが、そういうときにはわたしはそういう人と敵対する。そこはどうしても譲れないところだ。
 武田さんはブログの題にあるように、ここでは直接的に自衛権の問題に言及しているわけではなく、文章の全体は「日本の平和と防衛の両立」ということでの5つの提案を挙げている。いずれもあっさりと骨子だけを書いていて、分かりやすいけれども一読しただけでは「どんなんかなー」という感じになる。つまりユニークな主張で普段は見聞きしないものだから、すぐには是非が判断できないところがでてくる。また武田さん独特の主張の軽さもあって、いまいち主張が心に残らないかもしれない。しかし、わたしには本質を射た、相当深く考えて詰めていった主張で、どれも検討に値する提案だという気がする。もっとあからさまに言うと、武田さんの提案はわたしの考えてきたことと遠からずの関係にあると思っている。それでよく分かる気がする。ここでは引用しないので是非実際のブログの記事を読んでもらいたいと思う。
 
 さて、それぞれの識者の発言をざっと見てきたが、それぞれの観点が違うと同時に、安倍首相の政権運営に疑問を感じたり批判的であったりするところは、やや共通する部分があるように思われる。安倍政権にかなり敵対的なのはここで取り上げなかった内田樹さんの文章で、こちらは反対する会を組織して相当に入れ込んでいるように見える。わたしはどうかと言えば、こんな頼りない場所で細々と気炎を上げているということになる。まさしく「引きこもる展示室」に身を置いているというわけだ。
 わたしはどうにも我慢がならずに国同士が喧嘩するということになったら、頼むから大将同士で喧嘩して決着を付けてくれと言いたい。その方が被害が少ないし、簡単に白黒がつくよい方法だと思う。そのために国家のトップは日頃から肉体を鍛錬したり、喧嘩の仕方を学ぶことになるが、まあせいぜいがんばってもらえばいい。万が一負けたら属国になるが、敗者復活も用意しておこう。また現在のようにグローバルな世界になったら、属国になってもそれほど悲惨な目に合うことはないだろう。国際社会の目があり、あまりのことをすればすぐに批判され、世界の中で孤立する。半分冗談だが、自国においてもそれほどいい目を見ていない我々一般生活者は、これくらいの冗談でも言わなければ「やってらんない」のだ。
 最後に識者の皆さんの健闘を祈ってこの項を終わる。
 
 
いわゆる憲法解釈変更問題
              2014/06/23
 安倍首相が集団的自衛権の容認を目指して、憲法の解釈を変更しようとしているのは周知のことである。いまそのこと自体を論じようとしているわけではないが、関連する面白い記事を2つ見つけたのでここに紹介しておきたい。1つは内田樹さんのブログで、ジャパンタイムズに掲載されたテンプル大学の教授ジョセフ・キングストン氏の英文を、おそらく内田さんが日本語訳した上で掲載しているものだ。もうひとつは冷泉彰彦さんのブログ記事で、こちらは本人の手で書かれた文章である。どちらも集団的自衛権の容認、合憲に反対するものであるが、微妙なところで主張の食い違いがある。簡単に言えば、安倍首相を先頭とする行政府の「解釈改憲」は、行政府がそう考えるというだけのことでしかないから勝手にやればいいさというのと、そういうやり方自体が民主主義に反するからいけないという考え方、言い方の違いである。しかし、両者とも集団的自衛権の合憲化には反対の立場を取っているという点では共通する。以下に両者の主張をコピペするので、この問題を考える上での参考にしてほしい。基本的にぼくはジョセフさんの主張に共感するところが大きかったが、冷泉さんの視点や考え方というものも捨てがたいと思った。両者のよいとこ取りをしつつ、この問題の行方を見守っていこうと考えている。かなり長い引用になるが、是非お付き合いをください。
 
Japan Times の記事から
2014年6月23日8:35:30
安倍、デモクラシーをハイジャック、憲法を空洞化。
JEFF KINGSTON
 
民主的プロセスを簡略化することで、安倍晋三首相は有権者からの負託を濫用している。憲法九条の解釈変更によって日本の軍事行動への制約を解除し、集団的自衛権を容認しようとする彼の動きは安倍が日本のデモクラシーを破壊しつつあることの直近の実例である。
日米両国における彼と彼の支持者たちは、憲法九条は時代遅れであり、増大しつつある地域の脅威に対処すべく、日本はより断固とした軍事的役割を果すことが重要であると主張している。
日本が安全保障においてよりマッチョな役割を演ずべきだと主張しているこれらの人々は、日本は危険な隣国に囲まれており、日本の軍事的行動への制約が日米同盟を傷つけていると指摘する。
それゆえ、日本は集団的自衛権を含む軍事行動に参加する喫緊の必要性があるというのが彼らの所見である。
なるほど。だが、ほんとうに安倍がそう確信しているなら、あらゆる手段を使ってでも憲法の改定を進めるべきではないか。
憲法改定の手続きは憲法に規定してある。両院の三分の二以上の賛成と国民投票での過半数の支持である。このようにハードルが高く設定されているのは、日本のデモクラシー・システムの基幹的なルールが不当に政治問題化されたり、恣意的に変更されたりすることがないようにするためである。
改憲というのは重い仕事なのだ。
そこで改憲に代えて、安倍は憲法の解釈変更で乗り切ろうとした。これは法律と憲法のルールを歪めるものであり、夜陰に乗じて盗賊が裏口から忍び込むようなやりかたであり、憲法についての正当な手続きを回避し、憲法を愚弄する危険な前例を作る、非民主的なふるまいである。
安倍は自民党の歴代内閣が30年間にわたって維持してきた「憲法九条は集団的自衛権を認めていない」という解釈を覆そうとしている。
安倍と彼の支持者たちは目的は手段を正当化すると考えており、改憲のための時間のかかる手続きを回避する方法を探している。
彼らは憲法を出し抜くための怪しげな理屈を考え出した。それはアメリカの責任ある同盟国であるためにという名目のもとに憲法の意味をねじまげるトリックである。
逆説的なことだが、安倍はアメリカが起草した憲法は日本を弱小な従属国たらしめるためのものだと久しく主張し、改憲をめざしてきた。
ではなぜ彼は、高い支持率に支えられ、自民党が国会を支配している今改憲を企てないのか。
それは安倍が国民投票におそらくは敗れると思っているからである。だが、これは彼が自分の信念を守る勇気があるなら、回避してはならない戦いである。
当初安倍は反対派をなぎたおすようなことをせず、さまざまな勢力と忍耐づよく合意形成をはかっているかのようにふるまってきた。
彼は彼の賛同者たちだけを並べた有識者会議なるものを指名した。驚くべきことに、この有識者会議が用意したサプライズは自衛隊の制約を解除する安倍の計画を支持する勧告を行うことだった。
政治ショーの舞台はそのあとワシントンに移る。安倍が派遣した国会議員は、このプログラムに日本を巻き込むことを長く画策してきたワシントンのインサイダーたちと談合し、彼らは全員集団的自衛権について安倍を支持していると恭しく報告したのである。
かくして安倍はすでに彼に賛同していたすべての人々の承認を獲得した。
しかし有権者はこの笑劇を受け入れておらず、彼の手品まがいの憲法解釈変更につよく反対している。
自民党内部でも、岐阜県連は安倍の性急なやりかたや党内議論の欠如に対して苦情を申し立てた。この批判は安倍の支持基盤も一枚岩ではないことを示している。
「チーム安倍」はまた連立与党のパートナーである公明党とも合意のためにあれこれ努力しているふりをしている。公明党は参院での多数派形成に必要だからである。
この見え透いた政治ショーにおいて、意外にも公明党は集団的自衛権の必要性のために挙げられたあれこれのシナリオについて疑念を表明することで安倍の性急な動きを牽制しようとしている。
この政治ショーを通じて、国民は自衛隊の活動を抑制するルールについて、自民党が説明を二転三転している様を見つめてきた。
公明党の支持母体である宗教組織創価学会は、安倍に憲法を尊重し、解釈変更によってすり抜けるのではなく、むしろ改憲をめざすように進言している。
しかし、公明党がこの「論争」の最初から、この問題で連立政権から離脱することはないと明言している以上、公明党がはじめから譲歩するつもりでいることはあきらかだ。
安倍の側近の一人飯島勲は、ワシントンで、創価学会と公明党の関係は政教分離を定めた憲法20条に違反しないとしたこれまでの裁定について内閣法制局に再調査させる必要があると述べて公明党を恫喝した。
彼は安倍のアジェンダとその不正な手続きに同意しないという理由で安倍の足をひっぱっている政党に恫喝を加えているのであろうか。しかし、これはデモクラシーのやり方ではない。それにいつから内閣法制局は身元の疑わしいラフプレイヤーからの作業命令に従う組織になったのであろうか。
安倍は法律の合憲性を決定する内閣法制局を取り込むために、去年その長官のポストに彼の支持者である大使を任命した。しかし、この長官が健康上の理由で退職したために局内の繰り上げ人事を行わざるを得なかった。法制局はその独立性を重んじており、前例をときの首相の恣意によって覆すことに懸念を抱いている。
安倍はここに来て集団的自衛権についての閣議決定を急いでいるが、それは彼がメディアと国民の間に彼の計画に対する敵意が急激に高まっていることを感知しているからである。そして、次の国会における増税議論が始まる前に問題を片付けたいと思っている。
それに11月には沖縄知事選があり、その前にこの問題についての怒りを鎮める必要もある。集団的自衛権をめぐる論争は世論に再び火を点け、反基地候補に有利に働くことが見込まれているからである。
憲法を事実上改定しながら国民投票は回避するという術策をめぐらせることで、安倍は2013年末に特定秘密保護法を通したときと同じく、国民を信じていないということを明らかにしている。
安倍のデモクラシーの「ダウンサイジング」は、また米軍基地に対する沖縄県民の感情を無視し、原発再稼働に対する国民的反対を踏みにじることをも意味している。
権力者たちに対してある程度の臆病なご機嫌取りはあろうとはいえ、嫌がらせを受けているような気持ちにさせる最近の国際的なジャーナリストたちの安倍に対するすり寄るような働きぶりは、その程度の低さにおいて最低記録を更新している。
安倍の断固たる政治姿勢についてこれまでうれしげに報道してきた記者たちは、そうすることで安倍の反民主的な手法と実現されることのない誓言と約束の山から眼を逸らそうとしているのだ。
(以上、内田樹さんのブログから)
 
何度聞いても分からない「解釈改憲」反対論
2014年06月19日(木)11時06分
 
 集団的自衛権の議論が本格化しています。この問題に関しては、現時点では私は合憲化には反対です。理由は2つあります。
 
 1つは、今回の議論では中国が事実上の仮想敵国になっているからです。対中外交は改善を模索すべき局面にありますが、それに反するメッセージを出すことになるからです。
 
 2つ目は、朝鮮半島有事を想定して「日本人だけを救出する」という姿勢が強調され過ぎているからです。有事の際に韓国で発生する戦争被災者、北朝鮮における膨大な人権侵害の被害者の存在を想定するならば、自国民の安全確保は重要な問題ですが、あくまで粛々と進めるべきだからです。
 
 その一方で、現在盛んになっている「解釈改憲」反対論に関しては、反対ということでは一致している私ですが、何度聞いても分からないところがあります。
 
 というのは、現在盛り上がっている反対運動では、安倍内閣が「憲法解釈の変更を閣議決定」するのは「民主的手続きを経ない改憲」だから阻止したいという主旨のものが多いからです。もっと言えば、安倍政権の姿勢が「立憲主義に反する」というのです。
 
 まず、私はこの「立憲主義に反する」というのが良く分かりません。というのは、安倍政権は、現在の日本国憲法の規定を超越し、事実上憲法の規定を踏みにじるような行為を行っているとは思えないからです。
 
 何故ならば、日本国憲法では、内閣には勝手に憲法解釈を変更して、実質的な改憲を行うような権限は与えられていないからです。つまり、内閣が内閣法制局長官の立案に従って閣議決定するというのは、行政府が行政府としての憲法解釈をしたということ「以上でも以下でもない」のです。国家権力を構成する三権分立の中の一つの機関である「行政府」が「勝手にそう思いました」と言うだけです。
 
 その際に内閣法制局長官に大きな権限があるように思われていますが、この内閣法制局長官というのは、いわば内閣の顧問弁護士とか、法律アドバイザーに過ぎないわけです。また、閣議決定というのは、あくまで内閣として「決定しました」ということだけです。
 
 これは、ブラック企業が自分に都合の良いことを言う顧問弁護士を雇って「この従業員の解雇は合法だ」という解釈を表明しているのと何ら変わりません。要は当事者の一方がそう言っているということだけです。
 
 この場合は、その解雇が合法であるかどうかは、裁判所の判断に委ねられるのですが、今回の場合は憲法解釈ですから、少し手続きが異なります。
 
 一つは、内閣が「自分の解釈に従って」関連法案を提出した場合に、それが国会という立法府の審査を経るということです。そこで可決成立すれば、事実上の「解釈改憲」に近づくわけですが、その際には民意の反映ということが重要ですから、大いに反対運動をしたらいいのです。
 
 もう一つは、最高裁です。仮に法律が成立したとしても、最高裁が違憲だと判断すれば、その法律は事実上無効になり、内閣の企図した解釈変更も無効になります。最高裁は、明治以来の歴史の中で民意からは「超然」としていましたが、そうは言っていられない時代です。この段階でも大いに反対運動をして違憲審査を勢いづけることは可能と思います。
 
 日本国憲法に規定されているのは、そのような「三権分立」によるチェックです。それを、「閣議決定されたら立憲主義の終わり」だというような勢いで批判するというのは、要するに日本国憲法を信じていないということになります。
 
 日本国憲法を信じていない人が、憲法を守れと叫んでいること自体が「大いなる矛盾」であるわけですが、別の言い方をすれば「反対」を叫べば叫ぶほど、「内閣に事実上の解釈改憲の権限がある」ということを「確認」することになっているわけです。
 
 これは大変なパラドックスだと思うのですが、どうしてこの種の議論が起きないのでしょうか?
 
 勿論、今の国会では「ねじれ」が解消されているので、立法府と言っても独立性が薄いとか、最高裁判事への国民審査制度が事実上機能していないなど、司法権の独立性にも疑問があるのは事実です。
 
 だったら、「立憲主義」を脆弱なものにしているのは、そちらの方であるわけです。例えば国会では首班指名以外の党議拘束をやめるとか、最高裁判事の国民審査には「罷免運動」を認めるとか、少なくとも各判事が2回の審査を受けるように初任年齢を下げるとか、「三権分立」を強化する方向での「解釈改憲」をやったらいいのです。このような改革であれば、条文改正をしないでも可能です。
 
 まさか、護憲派というのは、日本国憲法は「不磨の大典」であるから自分たちが「解釈改憲」をするのは畏れ多いと思っているのでしょうか?
 
「そうではない、自分たちは保守派政権のやることを理屈抜きに反対したい。それはロジックではなく情念なのだ」というのなら、まだ理解できます。ですが、そうではなくて反対派の人々が大まじめに「私は内閣に解釈改憲の権限があると信じているので、安倍首相に改憲をしないように懇願している」(要するにそういうことです)構図、それが「立憲主義」だというのは、どうしても理解ができません。
(以上、冷泉彰彦さんのブログから)
 
(各記事の題名の太字などは佐藤)
 
 
ちょっと危ないぜと思うこと
              2014/05/11
 見るとはなしに、あるいは聞くとはなしに、日本や世界の政治状況をテレビなどで見聞きしていると、なにやらきな臭くまた不穏な気配が感じられる。
 中東イスラム圏の長い内戦状態。ロシアのクリミア侵攻。中国の東南アジアにおける領海の拡張行動。そしてアメリカ、北朝鮮と、各国の思惑が絡む中、それぞれが強く自己主張を打ち出してきている感がある。必然的にナショナリズムが台頭する。互いに譲り合わなければどうなるのか。世界的な軍事同盟と対立。まだそこまではいっていないとしても、わたしたちの心配はそこに収斂する。
 個人が隣家との境界で争うことはあるし、企業などが他社との競争で自己防衛、自己拡張を図ることは普段に行われている。誰もが人類愛を口にしているとしても、いざとなったらぶつかり合うところまで突き進むのが世の常であるのかもしれない。
 ひとつ心配であることは、個人や企業の争いには最終的には法律や司法が介在するが、国家間の争いには今のところ唯一で最終の調整機関とも言える国連があるものの、あまり有効に機能しているようには見えないことである。これはやはり大きな問題と思われる。
 こうした中で、日本では安倍政権が打ち出す政策が次々に国会を通過して、安倍首相の思うがままの権力行使が淡々と具体化を推し進めている。最早野党には抵抗する力はなく、与党の一翼を担う公明党が唯一安倍独裁政権にどこまで抵抗できるか、日本の民主主義の存亡はひとえに公明党の去就にかかっているように見えてくる。
 
 安倍政権には大きく2つの不安要素を感じる。1つは労働時間規制緩和に象徴されるように、日本経済を活性化すると称して、企業を優先する、企業に媚びているかのような改革を次々に断行していることである。
 ぼくが時々読ませてもらっている冷泉彰彦さんのブログ(ブリンストン発「日本/アメリカ 新時代」)、5月8日付けの記事の中に次のような指摘がある。
 
 この法案に関しては、過労死推進であるとか、日本経済の総ブラック化といった言い方で批判がされているようですが、私はそのような批判では足りないと思います。現在の日本社会で労働時間規制を緩和するということは論外であり、反対に徹底的に強化するべきです。そうではないと、日本経済の衰退を加速する、そのぐらいの問題であると思います。
 
 中には、当面は「高すぎる人件費の削減」の一環として「残業手当の廃止」を行うのは「企業の生産性向上と国際競争力回復」のためには仕方がない、それが日本経済を延命させる唯一の現実的判断だ、と真剣に考えている経営者もいるかもしれません。少なくとも安倍政権はそう考えているようです。
 
 ここで、経営者が安易に報道レベルの世論をなぞるように考えているだけの無能な連中だと言いたいわけではない。また安倍政権が同等に薄っぺらい政策をつぎはぎし、日本の長い停滞を、急場しのぎのそうした政策でなんとかできると思い込んでいる愚かな連中だと言いたいわけでもない。
 冷泉さんも、ここでの経営者や安倍政権の判断や考えに対して「バカ」呼ばわりはせずに「甘いと思います」と述べている。そして、
「どうして日本の労働時間が長いのか? どうして日本の多くの産業で国際競争力が落ちたのか?」について、経営者や安倍政権とは異なる見解を示している。何が問題なのか。それは日本的な「仕事のやり方」に本質的な問題があるとして、そのいくつかを列挙している。長くなるが、ぼくたち自身の認識を明確にしておくためにも、大事なところだと思うので引用させてもらうことにする。
 
(1)「合議制が極端」
 意思決定を少数で迅速に下す組織になっていません。責任を分散するための「ヨコの合議」と同時に、最先端の知識と情報が現場にしかないので「現場とのタテの合議」が必要です。また企画開発機能と生産機能、販売機能が横並びなので、「機能同士の合議」も、そして外注先も系列化されているので「社外との合議」も必要です。その結果として、会議、そのための検討資料作成などに膨大な労力が必要になるわけです。
 
(2)「儀式的なイベント」
 合議の場ですらない、儀式的なイベントが多すぎます。朝礼の訓示がどうとか、創立記念行事がどうとか、経営方針発表会議がどうとか、そうした場に「実務クラス」も巻き込む中で、労働効率は悪化します。忘年会や歓送迎会なども、「上が下を慰労する」インセンティブではなく、あくまで上下関係の中での「関係性確認の場」であるために、参加者の多くにはストレス解消になりません。
 
(3)「決定儀式と非公式な討議の二重構造」
 多くの組織で公式の会議は儀式化しており、本質的な問題点の検討や事実上の意思決定は非公式な討議で決定される二重構造になっています。では、公的な会議の方は形式だけなのかというと、そこで使われるパワポとか配布資料などには膨大な時間と手間がかかるわけで、要するに大変に非効率なわけです。
 
(4)「対面型コミュニケーション」
 合議の際の「重要な局面」、「下から上への報告」、「問題が発生した際」には対面型コミュニケーションが原則になっています。また "B to B" のビジネスはそのほとんどが今でも対面型の販売が原則になっています。そのために「報告のための本社出張」であるとか「お得意先回り」といった活動に物凄い時間と労力がかかっています。
 
(5)「電子と紙」
 電子化しても署名捺印した原本の紙を残さなくてはいけないとか、電子署名が普及しておらず、電子化しても一旦印刷してサインしてスキャンするとか、効率化が遅れています。いわゆるコンプライアンスの普及についても「本質的な規範を普及させて深刻なエラーを排除する」のではなく「書類を中心とした形式的な管理」を強化する方向になっているのも問題です。
 
(6)「日本式と国際標準」
 英語がビジネスの公用語になっていないだけでなく、会計制度、契約の概念、許認可、諸規制、上場基準、情報開示など、何もかもが独自ルールになっています。従って国際的な企業は「日本向け」の対応を余儀なくされ、二度手間、三度手間になってしまいます。
 
(7)「見える化」
 何でも「目で見て」理解する習慣が強いのが日本のビジネスカルチャーです。話を聞いただけで納得することもしないし、言葉だけで人や組織を納得させることができるとも思っていないのです。結果として社内向けにも社外向けにも膨大な書類や、凝ったパワポ資料などが横行して、その作成と修正に膨大な時間がかかるわけです。
 
(8)「不透明性」
 法律や会計基準、税制、労働法制など社会的なルールに抵触する「スレスレのグレーゾーンで」仕事をする――日本のビジネスカルチャーにはまだまだこうした風土が残っています。そのために決算のたびに「例外対応」や「オモテとウラの使い分け」をしなくてはならないし、あくまで内部で処理しようとすると当然のことながら標準化できない、そうした仕事のやり方がどの業界にもあるわけです。これも長時間労働の大きな要因だと思います。
 
 読んでみると誰にでも1つ2つ思い当たる節があるのではないだろうか。ぼくなどは職場でのコンピュータの導入とデジタル化の推進の過程で、いろいろなことが簡素化すると期待していたところが実際にはかえって一手間増えたような印象がある。ぎりぎりと感じるところに一手間が増えるものだからたまったものではない。
 身近なところで言えば、たとえばいま町の臨時職員となったが、毎朝出勤簿にはんこを押さなければならないし、毎日業務の時間と内容を日誌に記入しなければならない。これは逆に考えると監督者が全て目を通すということになる。いやあ、相変わらずあほらしいことをやっているものだなあと考えるのはぼくだけだろうか。町でもこうなんだから国でもこうなんだろうし、国レベルでの検閲や監視みたいなことになると膨大な時間をそんなことに割いてるということになる。報告書を上にあげる手前必要なチェックなのだろうが、
ぼくらには膨大な無意味が強行されているとしか見えない。
 さてそれはそれとして、ここでの問題に関しては最後に冷泉さんのまとめの部分を引用しておく。
 
 1990年以降の日本経済は、こうした「非効率な仕事のやり方」を変えることなく、グローバル化に対応し、コンプライアンスという名のもとに形式主義を強化し、そのくせ要員は削減してきたわけです。OA化も二度手間ばかりで、本当の業務効率は向上していません。多くの職場で長時間労働が恒常化しているのはこのためです。今こそ、仕事のやり方を見直す時期です。
 
(中略)
 
 とにかく現在の日本経済は「仕事のやり方」という意味で世界から周回遅れになっています。ここで「イノベーション」ができるかどうかが、これからの日本経済が生き残っていけるかどうかの瀬戸際だと思います。そのためにも、労働時間規制は強化するべきであり、緩和は論外だと考えます。
 
 安倍政権は、どんなに技術革新や開発をうたっても、現状認識の深度が浅く、政策が根本的に本質を突くような効果あるものとなる期待を抱くことができない。かえって本質の問題を増殖させ、事態をいっそう劣悪な方向に深刻化させていくものだという気さえする。
これは日本経済や企業の立て直しに関してばかりではなく、震災復興、原発問題、その他教育、文化全ての領域に通じるものがある。
 
 次に安倍政権の2つめの不安要素についていってみる。
 それは大きくは憲法問題と言ってよく、具体的には9条問題、集団的自衛権の解釈や行使の問題、また改憲のための国民投票の基準の緩和の問題、それらに関する安倍首相の考え方である。
 さて、このことについても全てを自前の言葉で言及するとなると、膨大な時間と労力が必要となる。ここでは内田樹さんのブログに紹介されているニューヨークタイムズの記事を引用しながら、適宜考えるところを付け加えておくこととしたい。
 
日本の安倍晋三首相は日本軍の役割を拡大して、領土外で同盟国とともに戦う方向に突き進んでいる。彼のいわゆる「積極的平和主義」によってより広汎な地球規模での安全についての責任を担うことをめざしている。
しかし、彼の前には巨大な障害がある。憲法九条である。この条項は今年ノーベル平和賞候補にノミネートされたばかりであるが、「国権の発動たる戦争を永久に放棄する」と謳っている。軍事力行使の変更という安倍氏の目的は憲法の改定を必要とするが、これは両院での三分の二の賛成と、その後の国民投票を意味している。きびしい注文である。それゆえ、改憲ではなく安倍氏は憲法の内閣解釈を変えることで憲法九条を空文化することをめざしている。しかし、このような行為は民主的なプロセスを根底的に掘り崩すことになるだろう。
安倍氏の最終的な目標は第二次世界大戦後に米軍によって起草され、日本国民に押しつけられた憲法を別のものと置き換えることである。過去67年間、憲法はその一語も改定されていない。憲法が日本の主権にとって邪魔くさい制約であり、時代遅れのものだと感じてる。しかし、批判勢力が指摘しているように、彼は憲法の第一の機能が行政府の力を制御することにあるということを知るべきである。憲法というのはときの政府の恣意によって改定されてよいものではない。それで構わないというのであれば、そもそも憲法などという面倒なものを持つ理由がなくなる。
このままことが進むなら連立政権の相手であり、平和主義的傾向の強い公明党だけしか安倍氏の野心を抑制することはできない。公明党抜きでは和え政権は参院での過半数を制することができないからである。安倍氏が公明党にも受け入れられるような憲法解釈を必死で探っているのはそのためである。他の八野党は混迷のうちにある。
安倍氏は強い政治力を発揮しており、日本は民主制の真の試練に直面している。(Japan is facing a genuine test of its democracy)
 
 読み返していると、改めてまったくこの記事の通りだなあと思う。日本の新聞は変に政権にすり寄ったり、逆に揚げ足取りのような記事を書くが、この記事はストレートに安倍政権の本質を突いていると思う。ことさらにぼくの思うところを付け足す必要はないとさえ言える。
 強いていえば、現憲法について米軍に押しつけられたものという解釈だが、安倍首相の考え方はともかく、ぼく自身はその事にそんなに違和感はない。どうしてかというと、明治の大日本国憲法にせよ、それらは畢竟この国の支配勢力、権力を持つものたちが起草してなった憲法であり、けして自国民の自国民による自国民のための憲法とは言えない部分をもっていると思うからだ。逆に言えば、日本社会はごく普通の庶民生活者が、自分たちが作り上げた憲法だと言えるほどの憲法をもったことがない。言いかえると、わたしたちの社会の成熟度は自分たちが思っているほど高級とは言えない段階にあるのだと思う。
 このことに関して、安倍首相が本当に草の根的に国民ひとりひとりの声を反映するような憲法をイメージして、改憲を考えているのだとしたら文句はない。だがたぶんそうはならないだろう。安倍首相個人の思いが先にイメージされていて、それに近づけたい欲求から発想されているとしか思えない。この印象を強く押し出すつもりはないが、これまでの経過を考えるとそういういう結論になる。
 もうひとつ、現憲法が米軍に押しつけられた側面を持つにせよ、日本の戦後はこの平和憲法の理想とするところを自分たちの理想ととして、内部に取り込もうと格闘する過程であったと見ることもできる。そこから言えば、戦後のそうした過程はいま無意味に帰そうとしている。わたしたちは世界の中で、唯一無二の理想を高く掲げることの重圧に耐えられなかったのだろうか。武力に勝る精神上、理念上の構築を為しえなかったのだ。巨視的に見ればこれもまた第二の見えない敗戦であろうか。平和主義、民主主義の敗北。結局は武力に屈するほかはないということであろうか。ぼくらはそうは思わないが、思わないからといって現実がそうならないとは言い切れない。
現にそういう考え、そういう主張のひとが日本国の首相になっているのだ。多くの賛同者、支持者がいるということなのだろう。
 ぼく自身は安倍首相個人の認識、見識の程度で、いまの日本国憲法を大きく改定すべきではないと思っている。なんとか瀬戸際ででも阻止したい考えである。だが、いかんせんこの声がどこにも届かないことも確実である。もどかしい思いしきりだ。
 最後に、内田樹さんの記事に対するコメントを紹介しておく。
 
文中で興味深いのは「積極的平和主義」を記事がwhat he calls proactive pacifism と訳している点。「彼のいわゆる先取り的平和主義」。まだ何も起きていないうちに「これはいずれ平和を乱すことになるかもしれない」と判断したら他国への武力攻撃を含む干渉を行う立場というニュアンスがこのproactive pacifism にこめられている。
語の選択に安倍政権が東アジアで戦争を始めるリスクファクターになりつつあることへの懸念が表明されている。
 
 往々にして「大国」が取りたがる「積極的平和主義」を真似て、日本もまたお節介で他国民に迷惑なだけの国に堕そうとするのだろうか。このお節介さは別の形で日本が第二次世界大戦に参入する契機となったことは、忘れてしまうには早すぎる。
 冒頭に記したきな臭さ、不穏な気配は、このような日本の内に対する側面と外に対する側面とから、同時にやってくるものであることは間違いない。まだ少し猶予はあるのだろうが、吉本隆明が存在しない今、誰が変わって警鐘を鳴らし得るのか、ぼくの不安は以前よりも少し増しつつある。
 
 
景気についてのよもやま その1
              2014/03/28
 景気が順調に回復に向かっているかのような兆候が、テレビ、新聞等では誇張して伝えられるようになっている。四月からの増税に向けて、その妥当性を飾り立てているかのようだ。なんとなく、マスコミを中心に政府にすり寄るようにして景気回復の空気感をこしらえているように思うのは勘ぐりすぎだろうか。ネットでささやかれているところでは、政府の見解に反対の立場をとるテレビのパネラーやコメンテーターたちが番組の新編成を理由に、四月から降板させられると聞く。
 
 ぼくは現在、無職で、何度か職探しでハローワークに足を運んでいるが、企業の求人がそれほど多くなったとは思えないし、提示される賃金が増加しているという印象もない。少しばかり震災後の雇用促進の名目での求人数が増えたとは思っている。これは国からの補助付きの求人だから、ここに来てかなり国からの催促なり要請なりが企業や団体に向けられているのかなと感じる。これらもまた国会での首相答弁で、失業率が改善したとか求人数が増えたとかのデータに使われるのだろうなと思う。安倍内閣はそのあたりは巧みで安倍首相の再任当初から、まずは国民が心理的に高揚するような政策や対策を掲げ、また都合のよいデーや数値をこれでもかと並べ立てる演出に躍起だった。
 仮に政府の目論見が成功するにせよ、最終的に国民一般や中小の企業のふところぐあいが改善されるわけもなく、ただ例のごとく大企業、大金融機関、高級官僚に利益が集約されていくのは間違いない。バブル期なら、多少のおこぼれは国民一般にも回ったかもしれないが、現在はそういう状況にはない。金は金のあるところにストックされていくだけだ。ここ10年20年で、実は財政の健全化という流れの中で、企業も金融機関も逆に他に回さない在り方を学んだという気がする。自らの資本の蓄積が目的化されている。
 
 3月25日の河北新報では好況感を裏打ちするような数値が掲載された。
 
宮城、名目成長率11.2%増 12年度速報
 
 宮城県内の2012年度の経済成長率は名目で前年度比11.2%増、物価変動分を除いた実質で11.6%増となり、比較可能な02年度以降最大となったことが、県が24日発表した県民経済計算(速報)で分かった。東日本大震災からの復旧・復興需要を背景に建設業などが全体を押し上げた。
 県内総生産は名目が8520億円増の8兆4849億円となり、08年のリーマン・ショック前の水準を回復した。実質は9425億円増の9兆699億円だった。
 産業別では、第2次産業が2年ぶりに増え、名目で43.2%の大幅増。民間の住宅着工や公共工事の増加に伴い、建設業が74.6%増と急伸した。生産水準の回復が続く製造業は石油・石炭製品、食料品などが堅調で、17.5%増だった。
 震災の被害が大きかった第1次産業は4年ぶりに前年度を上回った。コメや畜産の産出額が増え、農業が12.6%増となったほか、養殖業などの回復基調を受け、水産業が11.3%増加した。
 県内総生産の7割を占める第3次産業は2.6%増で5年ぶりに増加に転じた。電気・ガス・水道業(40.9%増)、運輸業(19.3%増)、サービス業(4.5%増)、不動産業(2.0%増)も前年度を上回った。
 県民所得は2年ぶりに増加し、前年度比9.8%増の6兆2843億円。1人当たりの県民所得は9.8%増の270万3000円だった。
 
 
2月、東北倒産26.5%減25件 4ヵ月ぶり前年下回る
 
 東京商工リサーチ東北支社がまとめた企業倒産状況(負債額1000万円以上)によると、東北の2月の倒産件数は前年同月比26.5%減の25件となった。前年を下回るのは4カ月ぶり。
 
 県別の状況は表の通り。青森を除き減少した。負債総額は51.9%減の36億400万円だった。
 業種別ではサービス業が7件で最多となり、次いで小売業の5件だった。卸売業、製造業はそれぞれ4件あった。原因別は販売不振が16件、赤字累積、放漫経営がいずれも3件。形態別は24件が破産だった。
 負債額別は1000万円以上5000万円未満が10件、5000万円以上1億円未満が6件、1億円以上5億円未満が8件だった。10億円以上の大型倒産は、12億円の津軽北部木材加工(青森県中泊町)の1件だった。
 東北支社は「復興需要に加えて全国的な好況感が波及し、沈静化している。今後、人件費や燃料費、光熱費の高騰に伴い、体力の弱い中小企業の息切れが心配される」との見方を示した。
 
 こうした記事の数値をぼんやり眺めるだけでは、経済が確かな足取りで順調に回復しているように感じられるかもしれないが、最初の記事で「産業別では、第2次産業が2年ぶりに増え」「震災の被害が大きかった第1次産業は4年ぶりに前年度を上回った」とか、
「県内総生産の7割を占める第3次産業は2.6%増で5年ぶりに増加に転じた」とかを微細に検討すると、けして諸手を挙げて景気が回復したと喜べる状況ではないと感じられる。
特に総生産の7割を占める第3次産業の微増は、全体としてはほんのちょっとの上向き加減を示しているに過ぎないと思える。この先加速的に景気が上昇する兆しとか保証はどこにもないと考えるべきである。
 また、あとの記事の倒産件数についても、前年よりは少なくなったに過ぎず、これは中小の企業への融資を援助する政府の対策が、若干功を奏していると見るべきものと思われる。それよりも、やはりサービス業や小売業の倒産件数が全体の半数に及んでいることが問題で、国民総生産と全従業員数との半分以上を占める第3次産業の回復、成長の遅れが際立って感じられる。このことは社会全体の好況感に深く関与し、本当の景気回復のバローメーターとして抑えておかなければならないだろう。割合として最も大きなここが順調に伸びれば全体を底上げすることになるし、逆であれば全体的に低調なままであることが判断できる。
 東日本大震災からの復旧・復興需要を背景に建設業が大幅に伸びたことは当然のことで、そこにたずさわる関係者には恩恵かもしれないが、全体から見ればそれはほんの一部に過ぎないし、復旧・復興需要が収束すればまた下降していくものと考えられる。
 
 景気が回復基調にあるという話が本当だとしても、それはまず地方よりも都会、労働者個人や中小の企業よりも大企業、の話ではないかと思う。
 ぼくらのような田舎に住む高齢者には、景気が上向いてきたという実感はまったく感じられない。相変わらずの就職難であるし、求人の多いサービス業は賃金的にも待遇においても最低の線でずっと来ている。どんなに安倍首相が「景気を回復させる」といっても信じられないのだ。
 4月からの消費税増税が始まったら、これまで以上に生活費を切り詰めなければやっていけない。電気、水道、ガスをはじめ、本当に爪に火を灯すように生きていかないとすぐに破綻してしまう。日々そういう思いの中で暮らして、面白いわけがない。年金は減っていき、介護保険を収め、少しずつ負担金が増えていく県民税、町民税、健康保険料のことなどを考えたら、この先何にもいいことがないなと思ってしまう。政治家はぼくらの生活の苦しさなどには目もくれずに、勘違いの方向ばかりの議論を繰り返している。国民、労働者、個人や中小の企業が不自由さを余儀なくされている時に、彼らはいったい何のために政治を志し、政治家となって現在何をしているということなのか。こんな時に政治家として奮起しなければ政治家になった意味がないだろうとこっちは思うが、何のことはない、相変わらず選挙受けすることばかりを狙って、党派的な争いに終始している。野党などは存在しないも同然で、下層生活者を体を張って守るとか救済するとかの気概を持った政治家など一人も見あたらない。
 
 
 2004年だからちょうど10年前になるが、その年に、吉本隆明さんの『「ならずもの国家」異論』と題した本が出版されている。
 最近は暇すぎて何もやることが無くなると、古い本を取り出してページをめくったりすることが時々あるのだが、そのならいでこの本を読んでみると当時の景気について触れている部分があった。題名から予想されるようにこの本は主にアメリカーイラク戦争についての吉本さんの考察、分析などが書かれている。また、拉致問題を含む北朝鮮のこと、さらには日本の不況についての見解も披瀝されている。
 読みながら、今日の状況に重なる部分がたくさんあるなあと感じた。また吉本さんの考えが現在にもそのまま通用するとか、今日を予測できているとか見通しているとかも感じられた。少し字面を変えたらそのまま現在の状況論として成立するという気もした。
 そのひとつに、最近のウクライナのクリミアへのロシア軍の侵攻問題がある。ロシアのやっていることはイラク戦争におけるアメリカの軍事介入と同じで、本来やってはいけないことだ。アメリカとヨーロッパを中心に、ロシアを非難する声明が為されたり経済制裁の取り決めが為されているようだが、それに対してロシアはあまり意に介してはいない様子に見える。ロシアからすれば、こういうやり方はかつてアメリカがイラクに対して行い、ヨーロッパはそれを食い止められなかったじゃないか、だから自分とこが同じようなことをしても非難されるいわれはないと考えているかもしれない。その点ではアメリカもヨーロッパも脛に傷を持つ身なのだ。
 かつてアメリカがやったことは、今日ロシアがやっていることと同じだ。アメリカはロシアと同類だし、ロシアはアメリカと同類である。大国はいつも小国に対して同様の態度をとる。平気で越権行為をして憚らない。大国の傲慢さが顕わになる。
 ヨーロッパは、軍事的なスーパー大国のアメリカとロシアに対しさすがに批判するだけの見識をもっているが、それだけで軍事行動を阻止するだけの力は持ってはいない。いつも言ってみるだけの腰砕けになってしまう。それでもアメリカに追従するだけの日本政府よりはまだましである。日本政府は戦争や軍事介入に際してのアメリカとロシアの論理が基本的には相似であるにも関わらず、一方に対しては支持を鮮明にし、他方には断固反対の表明をした。日本がとる論理には一貫性が無く、ご都合主義があるだけだ。アメリカには明治時代の学生たちのバンカラな友情の姿勢を示し、ロシアには成熟した民主主義の仮面をつけて接しているようなものだ。我が日本の同胞、しかも国民から選抜されたものたちが行っていることながらあまりに恥ずかしく、穴があったら入りたいくらいの思いになる。実に情けない。
 他国への内政干渉にも匹敵するアメリカとロシアの行動は、国際慣例上も国際世論的にも否定される行為であるのに平気で力でそれを踏みにじる。どう考えても、アメリカ、ロシア双方が国際法的な越権で非難されるべきものだ。アメリカはいいがロシアはダメだとか、ロシアはいいがアメリカはダメだという次元の問題ではない。
 つい言わずもがなのことを口走ったが、この問題はさておいて、ここで本当に考えてみたいことは当時の経済状況についての吉本さんの考えである。
 2002年、2003年当時の日本の経済状況について吉本さんは、女性の生涯出生率、失業者数(率)、一般労働者の年収の対前年比、実質消費支出の対前年比、消費者物価指数、医療保険や社会保険の支給の減額、たばこや発泡酒の税率の引き上げ、中小企業の倒産件数、中小企業の資金繰りの悪化、等々から、「十年以上続いている現在の日本の不況はまさに深刻な状態にあります。深刻さは強まりこそすれ、薄らぐ兆候はほとんど見当たりません。これが今の情況です。」と述べている。
 これをもとに現在のそれらを簡単に比較してみると、全体的にやや不況の度合いが改善されてきたかに感じられる。少なくとも深刻の度合いは底をつき、少しずつ緩和されて見える。ぼくはもちろん専門家でもないし、逆に経済動向に音痴な方だから正確さは二の次だが、数値的にはそのまま横ばいもあれば多少なりとも改善していると見えるものもあった。このことは日本が不況から脱出する兆しを示しているのかどうか、ぼくにはよく分からないところだ。吉本さんは先の考察のあとで、次のような見解を述べていた。
 
 別の言い方をすれば、日本が不況から脱出するには、まず、石原さん(当時の石原慎太郎都知事)のような強硬な保守派が政権をとって一国社会主義的あるいは国家社会主義的な政策を実行する道がかんがえられます。資本の上に国民一般の利益を乗せるような思い切った手を打つ。「思い切ったこと」というのは、じかにデフレを止めるような手段をとるという意味です。中小企業設備投資と国民一般の個人消費に直接響くような政策を打ち出す。そうすれば少し風通しがよくなるかもしれません。
 
(略)
 
 そうでなければ、いまの不況をずるずると引きずったままいくしかありません。不況をじょじょに緩和しながら長い時間をかけて回復を待つだけです。不況対策の恩恵はまず企業や金融機関からはじまって最後に国民一般に及ぶという迂遠な道です。でも、それがいちばん起こりやすいことです。
 
 吉本さんの予言(?)から10年を経過している。現在、当時よりは少しばかり明かるい兆しを見せ始めた経済の状況は、月日を考えれば「ずるずると引きずった」結果という以外にない。石原政権は成立せず、より小粒な保守政権の第一次安倍内閣が誕生し、これが体調を崩して途中退場。そこから福田康夫、麻生太郎を経て鳩山由紀夫民主党政権が誕生し、菅直人、野田佳彦から再び自民党が政権党に返り咲いて第二次安倍内閣が今日に続いている。
 この間、デフレ脱却の「思い切った」政策はどの首相の代にも行われなかったといっていい。ずるずると状況は引き延ばしにされてきただけだ。振り返って思いつくのは郵政問題と年金問題、それに続いて東日本大震災と福島第二原発事故が起き、日本全体が危機感を共有した。これによって日本国民は一挙に、吉本さんが10年前にもしかするとと予測した「強硬な保守派」の政権、つまりは第二次安倍内閣を誕生させた。(一時期国民的な人気を博した前大阪府知事、現大阪市長の橋下徹の台頭もその流れの中にあったと思う)今回、安倍首相は第一次安倍内閣の時よりも、はっきりと「強硬な保守派」の相貌を鮮明に打ち出していることは国民誰もが認めるところであると思う。石原ほどの傲慢さは見られないけれども、なかなかの強硬さで次々と政策を打ち立てたことは記憶に新しい。
 先に引用した吉本さんの文章で、「石原」さんのところを「安倍」や「橋下」と置き換えれば、まさに今日の状況を述べたものと錯覚しかねないくらいだとぼくは思っている。「思い切ったこと」すなわち「じかにデフレを止めるような手段」、これはそのまま日銀の金融政策のひとつとしてのインフレターゲットに表れている。安倍首相は半ば強引にこれを主導してきた。
 こうしたことを考えると、ずるずると引きずってきた期間はあったけれども、ここに来てやっと不況脱出のとば口に立つことが出来たのかな、それを安倍政権が可能にしつつあるのかなと、半信半疑ながら思っているところだ。安倍首相の強引さは本当に功を奏するのだろうか。
 巷間でやや誇張して語られている明るさの兆しは、安倍政権の周辺が創り出した世論という側面はあるが、同時にまたそれは根も葉もないデタラメや風評とは言い切れない。それは先に挙げた景況の指標となる数値によっても確認できる。だが回復の兆し、雰囲気が、このまま順調に続いていくかどうかは疑わしい。それは近々には消費税増税の導入が4月から開始されることによって、どちらに針が振れるか分からないからだ。この時期の導入が是か非か、これは始まってみなければ分からない。ぼく自身は単独の増税はきわめて危険だと思う。自分の懐具合を考えてそう思う。いまでさえ相当に寒い懐具合なのに、このまま消費税導入だけが実施されれば懐は凍ってしまう。その意味では消費税以外の税を大幅に減税する対策が講じられなければならないのではないかと考える。
 もっと前から吉本さんは持論の不況対策を語っていて、この本でもたとえば次に示すような書き方でそれは述べられている。
 
 とにかく個人消費は国民総生産の中でいちばん大きなウエイトを占めているのですから、これを拡大させることが早道です。大減税なども個人消費を増やす契機になります。それが第一の方法です。
 二番目は重要な産業へ公的資金を投入することです。そして企業と金融機関の意向もそこに集中させる。いま重要な産業といったら、就業人口の半数以上を占める第三次産業ですから、たとえばそこに資金を投じて給料やボーナスをアップさせる。そうすれば、膨大な個人消費が生まれます。
 整理してみれば、着目点はふたつになります。
 ・国民一般を主体として、個人消費を増大させる。
 ・重要な産業、つまり第三次産業に対して強力な公的資金援助をする。
 このふたつを実行できれば不況はきっと改善されます。
 
 今回安倍首相がやってきたことは、経済的にはデフレからの脱却と円安・株高への誘導政策、それに機動的な財政出動(効果的な公的資金の投入、予算の配分くらいの意味)である。そのほかにもあるのかもしれないが経済音痴のぼくにはそれくらいしか今のところ思いつかない。企業の投資の喚起、労働者の積極的な採用や賃金の引き上げの要求などをこれに付け加えてもよい。
 こう見てくると安倍政権のやっている景気回復への対策は、吉本さんの提唱することと当たらずとも遠からず、遠くはないが的は射ていないというような微妙な差異を感じる。あれもこれも進めているのだが、一点突破的に核心を突いた政策になっていない気がする。それがよいかどうかもぼくには判断する資格すらないと言えば無いのだが、それにくらべ、吉本さんの提唱には一貫して即時的に個人消費を増大させる、第三次産業に強力な公的資金援助をするというシンプルな視点がある。両者には政策の分散と集中というほどの違いが感じられる。そしてぼくには吉本さんの提唱していることの方が、よほど実効的に効果があるだろうなと考えられる。
 自民党のダメなところは、どうしても支持母体としておきたい経済界に遠慮をしてしまうところだと思う。まあそれを癒着といってしまってもいいのだが、持ちつ持たれつの関係が政治学の理想から現実の政治を逸れさせてしまう。これはもう仕方がないといって諦めるほかはない。
 吉本さんは不況で、いの一番に影響を受けるのは就労人口の多い中小の企業であり、またその事は裏を返せば個人消費者でもあることになるのだから、そこの2点で改善が為されれば全体的にも大きな影響力を持つという。だからその2点に集中するように政策プランを立てよということだが、自民党ばかりか民主党政権時にも結局のところ有効な対策は講じられなかった。
 ここでひとこと言っておきたいことは、当時吉本さんは弱者救済の意味合いから先の考えを述べたものではないということだ。いったん資本主義を肯定する立場に立って、なおそういうように考えることがベターであり実効的だと言っているのだ。これは主義主張にこだわらない、あるいはまた権力におもねるのでもない、自由な視点に立った経済的観点の思考の結果というべきで、けしてあるひとつの層を代弁する見解ではない。これはちょっと考慮しておくべきことだと思われる。
 
 
「日本」とは何か パート2
              2014/03/23
 少なくとも日本近代国家というものが社会とは別次元に幻想として存在するものであり、現実具体的には日本政府の別名に過ぎないように、「日本」の名称、「日本」の国名というものも、本質的な意味合いからいえば時々の政治権力が命名し、それを使う慣習を継続してきたものにすぎない。原初のはじめから「日本」と命名されていたものでもなければ、この地に住み着いた住人全ての承認のもとに「日本」と自覚的に名乗ったものでもない。仮に、たとえば奈良朝以降に日本に大きな内紛が起きたり、または中国が本格的に攻め入ってきて天皇家が滅ぼされたりしていれば、他の国に見られるように国名などいとも容易く置き換わっていただろう。その意味からいえば、国名は時の権力に不可分のものであり、「日本」という名称もまた分かちがたく権力に結びついている。
 権力はいくらでも取り替えが可能である。歴史はそれを証明している。日本は世界の中ではやや特異で、豪族や貴族や武士集団が政治的な権力を掌握しても天皇家を根絶やしにしてしまうということがなかった。その意味では天皇家は単なる権力の継承者ではなく、国家宗教的な権威の継承者という側面を持っていた。そして「日本」は、時に表舞台から姿を消し、また再び表舞台に復活することを繰り返してきた天皇制の国として、世界の中でも特異な国だといわなければならない。
 いずれにしても、国名などというものは統治権力を基盤として成立する上層階級が自認するだけと言ってもよく、社会の総体に冠するものというよりも政治的な意味合いからなるものだとわたしには思える。
 人々の生活、社会の生活というものは、分かちがたく結びついているとはいえ政治的動向とはまた別個のものであり、広く大きく、また永続的なものだ。これは権力が崩壊した場合を考えても容易に判断できる。社会生活はどんな形であれ続くのである。「日本」が、別の国名に取って代わっても、多くの住民の生活はあまり変わり映えのしない形で、つまり普遍的な社会生活というものは継続していく。
 
 わたしたちが一般大衆である時に、わたしたちは権力から最も遠い存在であり、単に普遍的な社会生活というものを繰り返し営む存在であるに過ぎない。そこでは今日明日の食べ物の確保に汲々としたり、地域や近隣そして親族とのつきあいなどに時間を割いたり、家族との時間を楽しんだりすることで自足した生活を続けている。またそこでは「日本」がどうのこうのというような話題は問題にならないし、関心に上らないだろう。ただひたすら今日よりは明日、自分たちの生活がよりよくなることだけを願ったり、そのためにどうすべきかを考えたりするだけの生活を続けているということになる。
 もちろん現代社会に生きる一般大衆としてのわたしたちは、教育によって知識を得、新聞テレビ等を通じて社会の出来事や世界の動きを知りうるようになっている。そして場合によってはわたしたちの階層から上層に上っていくこともあり得るようになっている。その意味からは支配階層との断絶が絶対的なものだとは言えなくなっている。
 しかしながら、一般大衆というその場所から声を張り上げても依然として無効である。その声はけして政策立案の場に届かない。権力の側は上からの目線に終始し、下からの視線を拾おうとはしない。
 巷間、新聞・テレビなどのマスコミを通じて報じられる「日本」の多くは、実際的には日本政府を指していることがほとんどである。「日本」と言われれば「日本」全体を指しているように思われるし、確かに政府は国民の代表者で構成されているのでそのように受け取られても仕方がないところではある。だが、わたしなどのようなものから見れば、あんなの何を言っているんだ、全然代表だなんて認めないし彼らの言説に俺は組みしないよ、と思う。指導者としても有識者としても、あるいはまたエリート、オピニオンリーダーなどとしても尊敬できるものは皆無に近い。全体として「日本」を分かって背負っているみたいな代表面をしてほしくないなと思う。冗談じゃない。言ってみればせいぜいが「公」を代表するかのような仮装を自らに施しているだけじゃないかと思う。お前たちのどこに本物の「公」の立場があるのか。「私心」に過ぎない「公」を本当の「公」と見誤っている。
 
 今日「日本」を口にすると言うことは「公」を語ることに他ならない。「公」とは国家、政府、役所などを言います。それらの基盤は結局のところ、今日においては大企業、大銀行、高級官僚ということになると思います。最終的には「公」の目標は、これら大企業、大金融機関、高級官僚の利益への集約に向かっている。「公」の議論、「日本は」という語りかけ、それらの全ての道はそこに通じている。わたしはそう思う。そんなの面白いわけがない。政治家しかり、批評家しかり、専門家も学者もしかり、マスコミしかりで、皆がみんなつるんで同じ土俵の中で綱の引き合いをしているだけに過ぎない。
 こんな体たらくで震災や原発事故後の処理や復興、復旧などが迅速に進むわけがない。実際、被災者たちの衣食住に渡る生活再建が遅々として進まないとわたしには受感される。その遅れは犯罪的でさえある。
 少なくても近代以後の「公」の役割、存在理由というものは「私」の擁護にあるといえる。「公」の存続を自己目的に行うことは言語道断というほかない。けれども「日本」を「公」の場で口にする先に挙げた連中は「私」の生活、しかも被災した「私」の生活の物質的と精神的と両面に渡る苦難というものを想像できるだけの力もなく、これを第一義の問題と判断できる力もない。「公」が危うくなれば「私」もまた存続不可能?冗談ではない。「私」がなければ「公」など成立しようがないのだ。後先の目線が逆である。
 
 いま「日本」、「日本」と口にしている先のような連中は例外なく大企業、大銀行、高級官僚などのような社会の上層にしか関心を持っていない連中である。わたしから見れば生きてあることの目的を「いい目を見ること」に重点を置いて生きている連中だということになる。そして、実際にいくらかはわたしたち以上にいい目を見ている連中であるということになる。もっと言えば、「向こう側の連中」である。現在、「日本」というものは完全に彼らに牛耳られ、その意味では独占されているという気すらする。
 彼らに「日本」を取り上げられているとするなら、わたしはもう「日本」とは無関係だ。関係なく生きていこう、と思うのは当然だろうと思う。何せ独占されているんだから。もちろん税金という形で所場代を払って住まわせてはもらうけれども。
 これはもう本当に面白くないことだが、こんな風な考え方をするのは間違っているのだろうか。
 きみにも国民としての権利の一切は付与されている、などと言うことは言わないでほしい。百も承知でこう考えざるを得ないのだ。
 
とりあえず今回もこんなところで。
 
 
覚書 「日本」とは何か
              2014/03/12
 はじめに
 
 最近、テレビ、新聞などのマスメディアやインターネットの世界では、「日本」という言葉、文字がやたらに耳目に飛び込んでくる。主として中韓及び米国との政治的軋轢という文脈の流れの中で取りざたされ、またそのうえに「ソチ・オリンピック」の影響もあり、とにかく「日本」という言葉を目や耳にしない日はないというふうだ。
 これだけ耳元で連呼されるようだと、不快感から苛立ちが生じてくる。いったい巷間に竜巻のように踊り狂っている「日本」とは何なのか?同じ日本国に住む国民の一人として、自分もまたその竜巻の流れの渦に巻き込まれそうになる。いや、ほかから見ればそれはどうしても日本国を象徴する幻想の流れと映るに違いない。つまり、自動的に巻き込まれてしまっていることになるのだ。繰り返しになるが、その事はわたしを不快にさせ、苛立たせる。わたしは、わたしたちの(?)「日本」がわたしたちの同意や合意や容認がないのに、発言者たちによって勝手に使用されている気がする。彼らが「日本」と言ったとたんに、構成員としてのわたしたちもまた自動的に巻き込まれてしまうのに、そのことをあらかじめ確認される作業なしに使われているのだ。
 わたしは一人の日本人には違いないが、連呼される最近の「日本」の騒ぎとは無縁である。わたしはその「日本」に組みしない。
 政治における中・韓・米との対立も、オリンピックにおける民族意識の発揚も、何ら自発的に同意できるものではない。また、多くのマスコミやメディアや、政治家、知識人、ジャーナリストが無造作に「日本」という言葉を使っているが、そこで語られる「日本」のなかにわたしは存在しないと思わずにはおられない。
 彼らが(中・韓の「日本」批判の報道の文脈も含め)「日本」という言葉で語っているところのものは、「日本」という時空的な全体像の中で、自分たちにとって都合のよい部分を切り取ったりつぎはぎしたりなどして形成した通俗的な概念像である。もしもそれが正統な「日本」だとするならば、わたしは即座に「日本」の圏外にはじき飛ばされてしまう。「日本」は、この言葉をよく口にするものたちのものとなって、それをあまり口にすることのないわたしたち逆に「日本」とは無縁のものとなってしまうということなのだ。なぜなら、彼らの語る「日本」はわたしによって考えられる「日本」とは似て非なるものであるし、もしも「日本」が彼らによって語られる「日本」であるならば、そんな「日本」にわたしは存在したくないと思う。
 
 昨年も後半にさしかかって、中部大学教授の武田邦彦が自分のブログで盛んに、主に明治以後の日本が体験した戦争に言及する記事を発表するようになった。そこで最も異和を覚えたのは「日本」という言葉の連呼であった。たとえば大東亜戦争を「日本」のやむを得ざる選択であったと肯定的に語る時、この「日本」という言葉が意味するところのものは、少なくともわたしのような一人の無名の生活者にすぎないものを含んでいないことだけは明らかだと思えた。言いかえると、そこで武田は「日本」の動向を左右できる領域に存在する、いわば統治側にいて何らかの影響を行使し得る存在を思い浮かべて言葉を発していると思えた。
「日本」という言葉はある全体を総合しながら、しかし、単体ではないから、「日本」というものの世界内での動向を選択できるものではない。選択できるものは現実的には統治の席にある複数の人間である。武田が「日本」という言葉を行使する時、これらの狭義の意味での「日本」、具体的には統治の側につく人間や制度、システムなどを念頭に置いていると思う。わたしはその時点で本当はもっと奥行きもあり深くもある全体像としての「日本」が、一部の統治者側に存在するものたちの所有物であるかのような、狭く小さな、狭義の「日本」になってしまっていると感じた。そしてわたしは、この狭い意味での「日本」を取りざたする言葉に辟易し、うんざりしてしまう。あまりにも安易に「日本」という一括りの言い方になれ合っているように見える。わたしはその言葉を目にし、耳にする度に、『お前たちの語る言葉のどこに「日本」の実像があるのだ』と思ってしまう。少なくともわたしやわたしの周辺では、あたかも全国民の代弁気取りで流布される「日本人」の意志や感情や思いなど、まるで共有も許容も出来ないそれらであると見なすほか無いことがほとんどである。
 武田のようなある種良心的な知識人も、もちろん政治家やマスコミも、よく「日本は」
と連呼するけれども、『それはあなたたちが考えている「日本」にすぎないでしょう』とわたしは思う。彼らにとって特徴的なのは、統治する側の位相に立っての発言である。たぶん、統一部族国家として成立した邪馬台国が出現したと考えられるあたりから確立した統治意識は、「日本」国家出現の奈良時代を待って、あたかも統治者たちの自己所有物かのように錯覚された「日本」国の概念が今日に続いてきている。
 おそらく当時、半ば泥まみれに生活していたかもしれない一般庶民にとって、「日本」という言葉を耳にしても何のことか分からなかったに違いない。多くは目先の生活に必死で、明日の糧道を考えるだけで精一杯の生活が続いていたに違いない。そうして自分たちの知らぬ間に、いつしか頭上に「日本」という国名がかぶせられ、自分たちもまたその中に組み込まれてしまっていた。 
 今日の、連呼される「日本」という言葉の発言の内情も同様で、言えることは圧倒的な大衆の生活心情の無視という点で共通している。「日本」という言葉の中に、大衆一人ひとりの多岐で複雑な生活心情は包括されない。いや、「日本」という発言の中に、生活大衆としての日本人はほとんど存在しないと言いかえてもよい。
「日本は」という時の「日本」で、いわゆる政治家や知識人やジャーナリストやマスメディアに巣喰うものたちは、いったい「日本」のどんな点を想念において口走っていることになるのだろうか。確実に言えることは、一括りで語られる「日本」という言葉の中に、ほとんどの場合、砂粒のひとつにも満たないようなわたしたちの存在は捨象されて非在になっているということだ。すると、その「日本」はわたしたちのものではない、わたしたちにとって架空の存在であり、概念であるということになってしまう。「日本」とは、口にするものたちにとってのみ実在するものであり、もっと言えば、そのように実在を信じて口にするものたちだけのものなのかもしれない。わたしは、本当は彼らの口にするような「日本」を、まだ見たこともなければその姿に触れたというような実感を持ったこともない。常に過剰にか過小にか歪曲されているように思われる。
 
 
 |日本という国
 
 わたしたちが「アメリカ」と言葉にする時、一般的に言って「アメリカ」という国及びその国に住んでいる人々全体を指している。もちろんそれにはアメリカという国の領土、その内側に存在して生活している人々、社会、文化、気候・風土、習俗・習慣、その他諸々のことがニュアンスとして込められているものだと思う。「日本」もまたしかりで、ひと言でいえば日本という国、そしてそこに住んで生活している人々が織りなす社会生活などの全体を指していると考えてよい。もう少し短く言い直せば、日本国と日本民族の総称として「日本」と呼ぶと言ってもさして見当違いとは言えないと思う。あるいはもっと単純に「日本の国」のことだと言ってもいいし、その場合の「国」には日本民族とか日本文化、社会生活、歴史、習俗、その他のことが諸々含まれると考えることが出来る。
 そもそもこの国を「日本」という言葉で総称するようになったのは奈良時代の初期に、中国などに向かって時の政権、つまりは天皇家によって採択されたと聞いている。それまでにはまだ群小の部族国家、豪族のようなものがあちこちに点在し、はっきりと統一されていたようではない。普通に考えればいくつかの部族国家が協力し合い、増大した権力、軍事力を背景に他の部族国家を従えるようになった時に、統治者側がここ(日本という土地やその上に住む人々)を「自分たちのものだ」と宣言し、それゆえにその全てを総称ものとして「日本」と称したことはその通りだと思える。つまり、通俗的に言えばその時点で日本は天皇家の所有となったと考えることが出来る。少なくとも初期天皇家の面々においては、この国の王であるという自覚はあったに違いない。そしてとりあえず、統一部族国家「日本」が形成されてからこの方、「日本」と言えば天皇家を頂点に置いたピラミッド型の社会、言いかえると日本型社会の全体を総称すると考えられる。
 
 ところで、「日本」というこの国全体を見渡す見渡し方が出来るのは、普通に考えれば当初は統治の責任者やその取り巻きといった、ごく一部のものにしか為しえなかったことだと思える。多くの人々には、全体を見渡す視点もなければその必要もなかった。ほとんどの場合、自分と重要な他者と、親族、氏族、そしてその延長としての小集団の範囲内を見渡すことが出来ればそれで済んだはずだ。つまりそれで生活は成り立ったはずだと思える。吉本隆明の言葉を借りれば自己幻想、対幻想、そしてそこからあまり距離を持たない範囲内での共同幻想が、生活実態における観念の発動する実際であったろう。常に日本という国レベルでの共同幻想に、主たる足場を置いて日々を生活しなければならないものたちはそうはいなかったはずなのだ。もっと言えば、この「国」がどうなろうと知ったこっちゃ無いというのが大衆の本音の生活だったろうと思う。大衆にとって、統治者は入れ替わり立ち替わりするもので、どんな人物が統治者になるかは生活を左右することにもなるが、自然と同様自分たちの力でどうこうできる対象ではなかったからだ。
 
 
 }もう一度「日本」発言について振り返る
 
「日本」はこうあるべきである、こうあらねばならない、という意味合いを含ませた発言の多くは、政治家や学者、マスコミなどの指導者サイドから発せられることが多い。つまり「日本」という共同体がこれから向かうべき方向性について、あっちへ行け、こっちへ行けと勝手なことを述べているのだと思う。これはわたしなどには「日本」の私物化の潜在的な欲望の表現に思われる。また、これらの発言がどうして彼らに許されているかと言えば、ただ単に彼らは自分たちには指導者としての権限があると思い込んでいるからにすぎないと思える。つまり、『俺たちにはそういうことを言う資格がある』のだと思い込んでいる。
 馬鹿なことだというほかはないが、「日本」という共同体も、こうした馬鹿な連中の馬鹿な考えや馬鹿発言に動かされることが多い。つくづく人間というものは懲りないもんだねぇと思う。世界からこういう人間が一掃されてしまえば、世界はただ目の前の社会生活にかかずらう、創意工夫と共働・共助の、個人、家族、小規模の共同性が存在するだけのように思える。つまり、小さないざこざがひっきりなしに引き起こされるとしても、そのたびに人間的な叡智が発揮されて危機を乗り越えていくものだと、わたしはわたしたちの人間社会を考える。これが楽天的すぎるかどうかは分からないが、少なくともわたしはそういう可能性を信じたい気がする。
 
 この国の王なるものが君臨してからこの方、どの国もそうだと思うがこの国にも、国全体を一個のものとしてみる見方が定着して今日まで延々と続いてきている。それは王のみならず、臣下やそれに付随するものたちにまで裾野を広げて広まってきた。王以外は自分の意識を統治者意識に仮託して、意見を進言する。今日の学者や有識者、新聞の社説などもその流れをくんでいると思える。だが、そんな流れで深まってゆくものは統治者意識であり、統治への肯定であり理解であると思える。 大事の前に小事に目をつぶる、そんなことがあたかもごく普通のことであるという考えがまかり通るのはそのためである。わたしはそう思う。そういうところから、たとえば安倍首相の、労働者の賃金を上げるためには企業の競争力が不可欠の要素であるという固定観念が生まれてくると思う。この発言や考えは必ずしも一方的に誤りだとは言えないところがある。だが、発想の前提がすでに異なっていると言わなければならない。何度でも言いたいが、統治意識からは庶民の意識をすくい上げることは出来ない。庶民の意識をすくい上げるには庶民の意識から出発しなければならないのだ。そのためには自分の生活意識から出発しなければならない。またさらに生活意識を掘り下げる過程の中からしか庶民の顔が見えてこないこともたしかなことだと思える。
 
 領域国家としての「日本」などどうでもいいのだ。一人ひとりなのだよ。自分なのだよ。自己問答を起点にして他者を発見し、庶民の意識をすくい取るべきなのだ。庶民の意識が「日本」を形成するのだし、形成しているのだ。一部の指導層の豊かさと、物質であふれかえった現実社会の虚飾とも言える繁栄など言語道断であるとわたしは思う。わたしはそう思うが、現実にはその流れの勢いが増しているように思える。「日本」、「日本」と連呼する連中が、その勢いに加担している。要するに、いい目を見たいか偉そうにしたいかのどっちかだ。