日記風2015年4月から
 
校長発言及び武田邦彦への反応
              2016/03/29
 昨日(27日)に引き続き、武田邦彦が大阪の中学校長を擁護する発言をブログで展開している。
 昨日はSTAP問題があったのでそちらが発言のメインだったが、今日(28日)は仕切り直しでこれをメインに取り上げて論じている。要は、あの校長の訓話は至極まともなことを言っていて、あれで辞職させるというのは不当なことだという主旨である。
 話を聞いていると、武田が出演しているネットの『虎ノ門ニュース』でも話題にしたらしく、もっとこれを拡散したいためにブログでも再度取り上げたという経緯らしい。
 話の中に、「何が間違っているんでしょうかね」という言葉があり、そのニュアンスから、『これは相当マジに擁護しているんだな』と感じた。昨日はこちらも軽く触れただけだったので、今日は武田のマジの度合い程度にマジになって自分の考えたところを述べておきたい。
 以下は武田のブログに貼られた校長の発言で、コピペして、こちらの書式に合わせて掲載しなおした。言葉そのものは一字一句、武田のブログに掲載されたものと同じである。 
(校長先生の訓話(全文))
 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げてよく聴いてください。女性にとって最も大切なことは、子供を2人以上産むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。
 なぜなら、子供が生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか子供を産むことができません。男性には不可能なことです。
「女性が子供を2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部に能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたらよい」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと大学で学び、医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けばよいのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。もし、体の具合で、子供に恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれない子供を里親になって育てることはできます。
 次に男子の人も特によく聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。
 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。
 子育てをしたらそれで終わりではありません。
 その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。
 少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。
 やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。以上です。
 
大阪市立茨田(まった)北中学校長 寺井寿男
(このブログの掲載日 平成28年3月28日)
 
 武田もこの校長もちょっと誤解していると思うけれども(それは馬鹿だからしょうがないのかも知れないが)、日本の国がなくなるから2人以上の子どもを産めと勧奨しているが、まず第一に反論しておきたいことは、お前たちのどこにそんなことを言う資格や権利があるのかということだ。子を産むということは誰が考えたってプライベートな事柄で、産めも産むなも他人が口出しすべき事柄ではない。まして、子どもを産まなくなったら日本という国がなくなるから、産むことはとても価値あることだということでは、話が逆さまだ。これではいかにも「国」の存続が第一義のことで、母親も子どももそのために産んだり生まれたりしなければならないことになる。武田や校長は自分が教育者で指導的な立場にあるから、こういうことも教えて当然だと思っているかも知れないが、これを当然と考える裏には中学生やもっと言えば一般大衆に対して、彼らが無知であるという感覚や観念が見え隠れしている。だが本当に無知なのは武田や校長の方だ。
 武田も校長も、少子化や晩婚化や未婚化といった現在の社会の状況や風潮を、日本の未来を左右するものというように結びつけて考えているようだが、現在の少子化や晩婚化や未婚化の世相状況下を真に生きている若者世代、夫婦や個人について一顧だにしていない。彼らに共通するのは国の未来の心配であり、現に今生きている人たちの当面している問題は何か、どう対峙しながら現在を生きているのかということへの関心ではない。
 国の未来をもっともよく考えている人たちとして、話を分かりやすくするためにいま仮に日本の総理大臣や天皇陛下を挙げてみる。そうした場合に、国の未来をもっとも心配するからといって総理大臣や天皇陛下が、国民や若者たちに向かって「2人以上の子どもを産み育てることが価値あること」と口にするだろうか。おそらく、直接的な言葉としては絶対口にしないだろうと思う。それは何故か。もっとも日本の未来に責任を負っていそうな人たちが、なぜ先の校長のような発言をしても良さそうなのにしないか。それは武田も校長も胸に手を当てて考えればすぐに分かることだと思える。そこまで踏み込んで言ってしまえば、公的権力をあからさまにすることになり、その手の権力の行使がもっとも大衆の忌避するところであり、大衆から反発を持って迎えられかねないことをよくわきまえているからだと思う。一国の総理大臣でも天皇陛下でも口にすることをためらう訓話を、どうして武田や校長は何のためらいもなく口にできるのだ。どんな権利や資格があるのか。  実は、歴史的に見ても武田や校長のような指導層の中層や下層に位置するものに限って、分を越えてウルトラな主義主張をしがちであると言える。為政者でもないのに為政者以上に為政者じみた発言をする。とんだ勘違い野郎どもだと言うほかはない。
 だいたいが自分の人生にとって何が最も大切かというような類いの設問は、他人に教わったり押しつけられたりするものではなく、仮にこういう訓話を聞かされたとしても最終的には誰もが自問自答により自己決定している。そして、その決定が変に見えたり間違っているように見えたりしたとしても、それはそれで尊重されなければならない。そんなことは理の当然で、心や精神というものは法とか規則とかに縛られずに、いつもそれらをやすやすと越えて自由であることができる。
 少子化によって国がなくなると短絡して考えることも馬鹿だが、少子化も言ってみれば女性や夫婦の現在社会に生きている中でのひとつの判断で、国とか社会とかいうものは逆にこのことを基準として自らが変わっていかなければならないし、変えていくべきものなのだ。そしてまた実際に国も地方自治体も、出産や子育て支援に力を注いでいる。これが功を奏しないとすれば、女性や夫婦が抱えている問題にまだ理解が届いていないということなのだろう。それだけの話である。
 俗な言い方をすれば、そもそも住民が平和で幸福に生きられるのであれば、地球上の国とか国家とか呼ばれる枠組みが無くなってもどうということはない。かつて人類史にはそういう時代があったのであり、地上から侵略や争奪などの争いごとが消えたら、国や国家もまた消滅することが望ましい。人類の歴史を、よりよい社会とよりよい個人の生き方を実現しようと努力してきた過程と見なせば、知恵を出し合って争いごとの無い世界を実現することが一義的なことで、国の存続などは二義的以下の問題だ。武田も先の校長も、女性の出産や国の存続云々を言う前に、より本質的で大事なことに知恵を絞って寄与してくれたらよいと思う。一義的なそれの仕組みなどに光明が見いだせたら、国の存続とか少子化などの問題などは自ずから解かれていくに違いない。肝心なのはそういうことではないかと思う。
 戦前の社会に「産めや増やせよ」の昂揚した意識があったことを聞くが、今回の校長発言から不気味にそのことを思い起こした。何気に『一周回ってまたそれかよ』という気分になり、落胆しながらも大衆のひとりとしての反応を書き表しておきたかった。拙文ではあるが、粗筋としてのところは言い得たかと思う。
 
 
「国」、「国家」
              2016/03/27
 ニフティーのニュースサイトで、大阪の中学校校長の「2人以上産むのが大切」発言に関連する記事を見つけた。
 その中に発言の中核部分の抜粋ということで、以下の文章があった。気になるところがあってちょっと転載させてもらう。
 
〈女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを生むことができません。男性には不可能なことです。(中略)子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それ程価値のあることなのです。(中略)次に、男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです〉
 
 この手の内容は特に論評する価値もなければ関心もない。昨日も取り上げた武田邦彦さんのブログでは、この校長の発言をごく当たり前の発言ではないかと、やや擁護する感じの軽い論評をしていたと思う。それは武田さんらしい発言だといえばそれまでだが、共通するのはどこかに国政を担う為政者の口ぶりが漂うところだ。指導者面、エリート面と言ってもいいのだが、『何もそんなことをあんたからご指導される謂われはないよ』と、すぐに心の反発が起こる。まあ相手は中学生で、発言内容は毒にも薬もならないと思うが、もしかして一部の女子生徒からは『余計なお世話だ』くらい思われたかも知れない。
 いずれにせよそれらのことは別にたいしたこともないのだが、この記事の何が心に引っかかったかといえば、「こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまう」という部分だ。
 この場合、「国」というのは土地や人や言葉や、その他一切合切を含めての総称で、これはこの校長さんばかりではなく、政治家の発言からも同じような意味合いでよく聞かれる言葉だ。そういえば武田邦彦さんもそうで、結局のところ一般大衆から学者、政治家まで、同じ水準で「国」というものを考えていることが分かる。言ってしまうとその感性は、自分と「国」とを一体のものであるかのように捉えていて、非分離になっている。だからこれをあえて分離しようとすれば心的な流血が起きる。ここのところは心に留めておかなければならないところで、中学の校長をするような人でも、社会とか国家とかの構成・成立・仕組みのようなものを、これくらいの次元で捉えているということだ。
 これは国家観としてみれば一昔前のものと言っていいもので、日本でも少しずつこれを西欧流に、社会と国家に分離して考える考え方がとられるようになってきている。そこでは国家というのは、社会生活全体を見渡しながら調整、調節を担う政府に等身大のものと見なされることが一般的となる。たとえば国家相手の訴訟ということが起きたときには、時の政府が対応するということからもそのことは理解できる。
 ただし、これについてはどちらの考え方がいいとか悪いとかは言えない。またどちらが優れているとか優れていないとかの問題でもない。
 先の校長の「こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまう」という発言で考えれば、前者の「国」という考えのところでは、何もかもが消滅してしまうというような悲観的な要素が強く浮き出てくる。一方、これを国家=政府の次元で受け止めれば、たとえ国家=政府が成り立たなくなっても社会生活そのものは消滅せずに続いていくんじゃないの、というように、少し楽観的に捉えることになりそうだ。そのあたりの差異に意味があるかどうか、今はよく分からない。
 ただ、「国がなくなる」という物言いで一気にパニックに落ち込むような危うさがあるんだったら、いやあ子どもが少なくなっても代わりのように老人が元気になるだろうし、政府がなくたって社会生活は継続していくんじゃないか、という楽観的な考え方の方に自分はつきたいと思う。
 「国」派のひとたちは子どもの減少から国力の低下を連想し、それからまたすぐに他国からの侵入を連想して危惧するのだと思うが、一地域の一住民という立場ではそんなことは考えたった意味がないことで、なるようにしかならないことは熟知している。
 万一経済力が落ち込み、生産力、労働力が落ち込むようになったら、そうだなあ、学校の校長みたいな仕事は辞めて、自ら肉体労働の第一線で檄を飛ばしながら立て直しの推進に努めてくれたらいいなあ。政治家や学者、少子化を心配する人はみんなそんなふうにしてがんばってほしいなあ。そうなったらぼくも応援にでますよ。肉体労働でも何でもやります。ただし、賃金に見合い、年令や身体に見合う働きしかしませんけど。
 ということで、最後は冗談が過ぎたが、今考えられるのはこんなところまで。
 
 
底のない堕落
   ―STAP問題を巡って―
              2016/03/27
 武田邦彦さんがブログで久しぶりにSTAP細胞、及び小保方さんに触れた論評を行っていた。これは昨年の暮れから今年にかけて、ネットで盛んに伝えられた「STAP現象、米国研究者Gが発表…小保方晴子氏の研究が正しかったことが証明された」という記事を受けての発言である。言うまでもなく、武田さんはSTAP問題が大々的に騒がれた当初から、一貫して小保方さんを擁護してきた。擁護の理由とか中身的なものは、以前のブログを参照すれば、それらがきわめて当たり前で妥当な見解であることが理解されるに違いない。ぼくもそれらを読んで共感してきたひとりである。
 振り返ってこの問題に対する自分の記事を探したら、「日記風2014年3月から」の中の『追われる生活の中から一言』(2014/07/23)に見つけた。思っていた以上に前のことであった。また、この件に関してもっと書いた記憶があったが、もしかすると記事の中にではなく、「近況と更新」などの中でコメントしていたのだったかも知れない。いずれにしても、その日からぼくの意見も何一つ変わっていない。
 実はネットのこの記事に関しては一週間前くらいに目にしていた。そしてこの記事のタイトルを受けてそのままに、「研究が正しかったことが証明」されたと書くつもりになった。しかし、米国での発表が昨年末と記事に書かれていたが、その割にこのニュースを国内の報道で目や耳にしたことがなく、擁護派の勇み足かも知れないと考え思いとどまった。自分では原文を目にしても正確に読み取る力はない。もう少し様子を見てからにしようと思った。それからネットをあちこち探し回ったが、それ以上の記事の進展は見られなかった。そこに来て今回の武田さんのブログである。待ってましたという感じなのだが、概して武田さんのコメントは冷静なものである。こちらも原文に触れたり、STAP現象の類似に直接言及してはいない。だからこれで即小保方さんの研究の正しかったことが証明された、とまでは言い切ることができないように思える。その意味で、それについてはもう少しデータやら専門家のコメントを待つ以外にないと思っている。
 それでもここでこれに触れているのは、これまでに小保方さんをバッシングしてきた報道関係者、ジャーナリストたちの「頬被り」があまりにひどいと感じられるからだ。先のネットに見られた記事を否定するでもなく、米国の研究者の研究内容と小保方さんの研究の中身と質は違うと悪あがきするでもなく、例によって、都合が悪いことは全く取り上げることなく闇に葬ろうとしてかかる。本当に情けないことだが、これが普段この国の知的リーダーであるかのような顔つきをする連中の正体である。
 これまでにこうした光景を何度見てきたことか。それだけではない。身近にいる人々の中にも、報道、ジャーナリストの見解を真に受けて、それに倣った口ぶりで話す人がどれだけいたことか。
 不思議なことに、そうした人々が大手の報道を真に受けて自身もそれに追従して、結果としてやすやすと欺かれてしまったことに、あるいは欺かれた自分に、自己嫌悪を覚えることすらないようなのだ。うっかり乗ってしまったことに恥ずかしいという思いも持たず、真実を見損なったという後悔もない。
 そういえば世間の空気が小保方さんへのバッシングに一色になったとき、早稲田大学は博士号の取り消しなどという、自らの審査を否定するようなことさえ行って見せた。これなどは明らかに世間の声への迎合であり、最高学府を担うものとしての誇りも威厳も全くないことが明らかになった。つまり、単に利益を追求する経営体のひとつに過ぎなかったのだ。
 もはや国内にあって「知性」を口にするなど恥ずかしいことだ。薄っぺらで、ひとを陥れることにしか機能しない「知性」。そんな「知性」を拝んで従順に見習う人々。
 全てが地に堕ちて、地に堕ちたことにさえ無感応に、不感症に成り下がった有識者たち。一事が万事でどこを見渡してみてもひどいものだが、これまで同様誰を当てにすることもなく、自分の目と耳を信じてこの地平を切り開いていくほかにない。今は。
 
 
グローバル思考にはオタク思考を
              2016/01/07
 今日テレビで臨時ニュースが流れ、北朝鮮が水爆(水素爆弾)実験を行ったと報道されました。
 個人的にはさほど驚く事でもなかったのですが(以前から開発の話はあったので)、アナウンサーか解説者かの話の中に、水爆が原爆よりも1000倍程度の威力があることと、実用化できたとなると相当に高度な技術力を北朝鮮が手にしたと見なければならないと話していて、そうか、なるほど、と思いながら聞いていました。
 時間の問題と言えば時間の問題とも言えるわけで、今更慌てふためいて見せたり、脅威を煽って批判を口にしてみせる必要もないような気がします。アメリカをはじめとする先進国や先進国に準ずる国では、過去にすでに何回もの実験が行われていたと記憶しています。もし今回の北朝鮮の実験を非難するとすれば、平等に全ての国の実験に非難や反対の意を唱えるべきだというのは当然のことです。そんなことを言ったってすでに原爆、水爆を所有する国は完全廃棄を目標に動き出しているわけでもないし、そうなれば途上国、小国も、対抗措置として開発を進めようと考えるのも致し方ないことかなとも思います。
 ただ、北朝鮮が今更ながらに、おそらくは使用できない原爆、水爆のような武器を造って何の得があるのかなと、その狙いがよく分からないです。これを実際に使用する時には、現在、自国と自国民の壊滅を引き寄せることは自明のことだからです。
 そうしますと、狙いは武器を使って果敢に大国に挑むとか突っ張るとかといいうよりも(多少はそんなことも計算に入っているのでしょうが)、技術力の輸出、例えば中東、アフガン地域のどこかにこれを売ろうという意図があるのかななどと考えてしまいます。そう考える方が実際的な気がしますし、白人系国家に対する姿勢として北朝鮮と中東諸国家、タリバン、イスラムの武装集団などは共通する面もあり、今後共闘的につるんでいく可能性もないでもないように見えてきます。
 素人目には、テロ組織、テロ支援国家、ならず者国家と呼ばれる国々と白人系先進国家群との対立の構図は、元々に遡って言えば15世紀から17世紀頃にかけての大航海時代と呼ばれる時期に端を発し、それ以降ヨーロッパ各国が世界全域を植民地化という形で侵略、収奪を繰り返したところに因を求められるように思います。
 つまり歴史的に見て、また地球規模において、ヨーロッパの白人系国家群というのは侵略や植民地化ということを他の地域や国々に対してやってきて、ひどい国々だったといえば言えるわけです。またそうしたことによって巨大な富を得て、国を発展させていきました。その後、大きく見れば富んだ国々としての白人系国家群が互いをつぶし合うような形で二度の大戦が行われ、これでやや疲弊するとともになぜか日本国の台頭などが呼び水となって、世界の植民地化された国々が次々に独立していったということになると思います。
 現在、先進各国は理性、理念で武装して、いかにも人種の優劣や差別はないかのような言動を世界に向かって発信したりしていますが、本当は相も変わらず弱小国、後進国に対して、けして平等あるいは対等とは言えないつきあい方をしているように思います。ある見方(表向きはソフト平和主義だがやっていることは合理的な収奪という見方)をすればそれに対して抗い、独立の気概を持ってこれを果敢に批判しているのが中東や北朝鮮のような国々だと言えないような気がしないでもありません。もちろん、対抗する側のやり方や考え方自体も、力を背景に強引に小国を従わせようとする大国と同様に全くダメなものだと徹底的に否定されなければならないと思いますが、ではどうすればよいかということは世界を見渡しても実践している理想の国家はほとんどありません。
 かつて世界の傍系に位置し、小国の代表格であった日本は白人系国家群に果敢に抵抗しましたが、いまやアメリカの属国に成り下がり言いなりになっているという為体です。そればかりか、自国の安全と称して一部であるはずの沖縄県を基地として米国軍隊に進んで提供しようとする始末で、独立国家の政府としての誇りも威厳もあったものではありません。もはや虎の威を借る狐の姿でしか国家として生き延びる道はないのかも知れないですし、いずれ尻尾を振るか無駄に抗ってみせるかという二者択一の道しか残されていないとも言えるでしょう。
 結局のところ国家とか民族とかって考えるとこんな世界になるっていうことなんだと思います。みんながみんなそういう考え方をしている限りはどうしようもないし、しょうがないし、それで良いんならそれで良いじゃないですか、ということになります。どうぞどうぞ、おやんなさいということになります。こっちはその日暮らしの毎日ですから、世界的に起きている紛争や政治情勢などには一片の責任もないわけです。責任は各国及び民族や組織の指導者にあるわけですから、そういう連中が責任をとってくれればいいだけの話です。一般民衆を苦しめ犠牲にしてどんな責任がとれるのか分からないのですが、たいていの小国、大国の指導者はそう豪語して指導者として振る舞っているわけですから、とれるもんならとればいいだけのことです。でも、どう転んだって犠牲者を出してその責任がとれるわけはないです。死んじゃったりしたら生き返ってこないですから、そんなもの、指導者を降りたり自決したりしたくらいでひとつの命を奪った責任をとりきれるはずがない。端からもうでたらめな観念世界に遊んで、観念によってまた糊塗するとしか受け取りようがないと思います。そういう連中に生死を預けるとか委ねるとか、あるいはのさばらせておくことも、まっぴらごめんと考えるほかありません。委託しないし選出にも加担したくない。出来ればそんな世界とは無縁に、ただ生活者としてオタク化していけばいいと考えるわけです。オタク化していきながらそれでもやはり、思想や理念とか、観念や幻想とか呼ばれる領域において、既存のものを乗り越えていく、そういう方法や考えが模索されていかなければならないと思えます。
 幸いにというべきか、その日暮らしに近い生活をしていてもネット社会、グローバル社会といわれる今日、考えようとすれば考える時間も考えるための材料もいくらでもあります。これには余りお金もかからないし、他に迷惑がかかるということもなくてすむことです。考えるということはしばしばおっくうに感じるものでもあるし、ひとりでする考えは遅々として進まないものでもあります。ですが考えることによっていまの自分を越えていく、そのことの持続は、人間の特性を最大限に発揮しながら生きることに同義でもあるし、まあ、悪くはないと思います。
 ぼくなんかは今年65歳になり、働き口なんかもなくなっていくし、借金はあっても蓄えなんかは全くないわけで、この先何かいいことがあるなんてちっとも思えないわけなんです。呼吸を小さく縮めて、エネルギーの消費を少なくしつつこの先どれくらい生きられるだろうかと思っているわけです。こうなると金はないから遊べないし、徐々に家に籠もってそれこそ動きがとれなくなって、座ったきりの生活になるのではないかと思うのです。こうなると、なおさらもう考えることしかなくなってくるんじゃないかという気がします。これは非常に不自由な、つまらない余生のような気もします。しかし逆手に考えて、時間に制限なく好きなだけ考えて行けると受け取れば、何かこの年になってのひとつの目標のようなものになり得る気がするのです。悲観したりふさぎ込む暇があれば、考えることをすればいいんじゃないかというのが現在の自分の処世術でもあるわけです。
 ということで、北朝鮮が水爆実験を成功させたとか失敗したとか、それを受けて国連安保理が制裁を決議し、日本、韓国も制裁を決定したとか非難しているとかはどうでもいいことです。また韓国や日本が対抗措置として核武装化を進めるかも知れないというような憶測、予測もどうでもいいし、国際包囲網を加速させて北朝鮮の封じ込めを図るというような世論もどうでもよくて、要するにそれらの言説の内側に内包された論理自体を無縁なものとして、そこから脱却して考える道筋を発見していく以外にないのです。それはもう本当に無縁なところから始めたいいに違いないのです。考えることのオタク化は、そういうことを意味しようとして、そのような表現の仕方をしているということになります。
 
 
新年ですが
              2016/01/05
 新年ですが、何か?
 さしあたって去年の続きという以外にない三が日を過ぎまして、特に気負うところも悲観するところもない日々です。
 一年の計は元旦にありと古来から言われていますが、いざ考えようとしてもさっぱり何も思い浮かびません。あきらめて、海外ドラマのDVDをTUTAYAから借り、それを夜昼かまわず眺めて暮らしています。
 時々テレビをかけますと、ニュースで流れてくる事件はとても残酷な印象を与える殺人の話題で、「ひどいなあ。世の中どうしちゃったのだろう」と思わせるようなものです。
この、「どうしちゃったのだろう?」という感慨は、海外ドラマの鑑賞中にもしばしば喚起させられるところのものととても似ているところがあるような気がします。
 DVDは推理サスペンスものと分類されるもので、刑事、鑑識などが関係して活躍するドラマです。国別では1つはアメリカの作品で、もう一つはデンマークとスウエーデン合作のテレビドラマとなっています。
 この2つはともに面白いと思ってみているのですが、後者の方がより現実社会を反映させて描こうとしているように受け取られ、また相当に実際社会を画面に映し出しているように見えます。
 まず主人公のスウェーデンの女刑事がいるのですが、捜査チームのリーダーになるほどの優秀な刑事で、かつ他者の感情を理解できないパーソナル障害を抱え、極度の「仕事中毒」という設定になっています。もう一人相棒となるデンマーク側の男の刑事がいて、こちらは社交的な人情家、2回の離婚歴があり、近年パイプカット手術したばかりというような設定になっています。
 とにかくこちらのドラマの主な登場人物たちは、ほとんどが家庭崩壊を経験しているか、現に進行中という過程にあり、はじめからとんでもないといえる状況の中で生活し、仕事をしています。さらに多くの登場人物は何らかの精神障害をもったり、心的に傷ついていたりと、全体的に「ひでえなあ」と感じさせられます。何と言えばいいのか、日本も少しずつそういう兆候を示していると思うのですが、社会の進歩、発展の結果、こういう社会、こういう個人が出現するのかということを、改めて突きつけられているという気がします。その意味で、このドラマが現出する世界は日本の近未来を予測させるし、それはまた現在以上にぎすぎすした冷たい人間関係の中で個々人をさらに孤独に追い込んで、逃げ道のない救済のない世界へと人々を運んで行くように思われます。
 借りたDVDの最後の話では、主人公のひとりである人情家の男の刑事が自分の息子を殺した服役囚を毒殺したことが同僚に察知され、逮捕されるところで終わっています。こういう筋立ては日本のドラマでは見られないところで逆に演出のリアルさを感じさせるものです。しかも人情味があり人間的でもある刑事が個人的な激情によって殺人を犯すという特異性は、ドラマの全体性を覆う人性の異常性の中から押し出されるようにして生じた、ある種必然の展開のように後になるほどに感じられ、変に納得されるものです。
 社会と、社会システムを支える文明とは、過去、現在、未来と普遍の時間を何事もなく、当然のように当然の流れの中で通過していきます。つまり、そこには異常性のかけらも見当たりません。だが社会の内部で、システムを作りシステムの稼働に加担してきた人間たちは、それぞれに自己の関係性に齟齬を来し、つまずき、傷つき、少しずつ正常と異常の境界を見失っていきます。
 これはまた別の言い方で表すことが出来るかも知れません。例えば、高度に複雑化し、多様化した社会では、個々の人間の精神も多様化して場面、場面で対応せざるを得ず、ひとりでに多重化する中で本来的な自己を必然的に見失っていくものだ、というように。そこでは異常性というものが不特定の個人に分散し、誰もが軽度の異常性を分担して持つようになります。軽度さは境界の意味合いを薄め、それがどの場面で異常さとなって表出されるかは予測がつきません。だが、誰もがそれを潜在させて生き、ふだんに生活に埋没しているというように出来ています。
 これは我々のすぐ目前の未来社会だと考えれば、忌まわしく恐ろしく不安を与える世界です。事件の真の解決もない、不幸の出口、幸福の入り口も見えない世界が展開するドラマが、ただそのようなものとして続きます。
 ですが、もしかすると人間はその現実に、多様化と分散化と軽度の異常性を己の中に取り込んで、システムに対峙する作戦を敢行しようとするのかも知れません。そのことはまだ日本人には未体験のことで、けれども差し迫った喫緊の懸案事項ということになるのではないでしょうか。
 新春の、少しばかりぼんやりすることが許される時間の中で、ひとりこんな白日夢のような考えを追いかけて遊んでみました。これでは初夢のかわりにはならないだろうけれども…。
 
 
思想的な原風景についての覚書
              2015/12/27
 飛鳥時代と言っていいのだろうけれども、日本は中国の仏教文化を国内に取り込んだ。その経緯はどうであったかはいまは問わないが、その後周知のように仏教は国内全土に広まり、大変な盛況を迎えることとなった。そのきっかけは当時の推古天皇や聖徳太子をはじめ、朝廷内の指導層にあったとされている。
 仏教は奈良、平安朝まで主に国や貴族のためものであった。鎌倉時代に入り、民衆救済のための仏教が興り、仏教は民衆の中に浸透して行った。日本社会全体に波及していったのである。
 これらの経緯について考えてみると、明治開国以降、欧米の文明・文化を取り入れてきた現代日本と大変酷似するところがあると感じないではいられない。
 この2つの転換期において共通する特徴は、民衆の底辺にまで浸透し、生活を一変させるまでの強い影響力を持ったということと、そのためにはある一定の時間がかかったということである。また、そこまで浸透することはそれほどスムーズに行われたものではなく、それぞれが保持する旧来の日本的なものとの摩擦や抵抗があったと考えられることである。
 こうして眺めると、日本という国は中国や欧米のように、世界基準と言えるような水準の文明・文化をかつて生みだしたことがないことが知れる。そして他にそれを見いだし、学び熟知して国内に広めることが日本的知識人の役割であった。辛辣な言い方をすれば、自らの創造的な学問、研究などは一度たりとも行ったことはないと言えるかも知れない。 もう一つ、諸外国の文物を取り入れるにあたって特徴的なことがあるように思える。
 それは平安時代を見ても現代においても共通するのだが、先に述べてもいるように、取り入れる過程において、どこかの時点で大変抵抗や摩擦が大きく生じ、人々や社会を大きく苦しめるということだ。
 ぼくなどは今これを血液型の会わない輸血として比喩的に考えるのだが、どうも根源的なところで定着しない苦しみを日本人に与えているように思う。
 鎌倉時代になり、法然や親鸞はその時代の仏教の現状に対して否定的に立ち振る舞い、民衆のために新しい宗派を興した。つまり彼らのような、いってみれば時代の改革者が立ち上がらなければならないほどに、社会は苦しみ、混乱し、騒然としていたのだと思える。 これは現代社会においてもどこか共通するところがあり、一方で文明や社会の高度化と、豊かさ、便利さをもたらしたが、一方でまた社会やそこに生活する人々の間に、目に見えにくい混迷や混乱をもたらしている。
 誰が現代における法然になり、親鸞になり得るのかは分からない。また親鸞や法然が出現すればそれで済むかといえば、そうでないかも知れない。
 
 鎖国の時代に、日本は独自に高度な文化と文明を築きそれを発展させていった。その延長で行けば、外国の文明・文化を取り入れて、挙げ句の果てに苦しむということはなかったのかも知れない。だが、歴史はそうさせなかった。また、歴史は逆行させることが出来ない。ただ学ぶことは出来る。
 現代は、少なくとも日本社会においては、飢餓や貧困に苦しんでいるわけではない。もはや宗教のような信仰物を持たない、あるいは逆に「金」という信仰物以外の信仰物を見失った、精神の空白がもたらす苦しみなのだ。 日本史上最大の思想的展開を見せた鎌倉仏教時代に、我々は何を学ぶべきなのだろうか。それはまだ分からないとしても、手がかりはそこにあるような気がしている。
 法然や親鸞は当時の定説や普遍を掘り起こし、定説や普遍が時代的な思考や認識の産物に過ぎないことを見抜いたと思える。それを覆し、革命的に人々に思考転換を迫ることは可能なのかどうか。法然や親鸞はそれをなした数少ない先達であった。
 
 日本国全体にわたる大きな規模の混乱と混迷は、表層からすれば中国や欧米の文化・文明に大きく影響されたあとに起こっていると見ていいと思う。純粋な国内問題ではなく、外国の文明・文化を取り入れる過程で、拒絶反応とでもいうような原日本的なものとのぶつかり合いが必ずと言っていいほど訪れる。おそらくそれは、島国という日本の地理的環境を含めた歴史に要因があり、長い時間をかけてゆっくりと、原日本的と呼べる民族性が熟成されてきたためだ。これが堅固な民族性の基盤となって、表層では柔軟に諸外国の文明・文化を受け入れながら、核の層で岩盤となってこれを受け入れることが出来ない。先ずはこういうところを考慮しなければ、いつまでたっても思想の上滑りは避けることは出来ないと思える。
 
 
緊急「沖縄問題」 
黙って見過ごせない「いじめの構図」
              2015/10/28
 沖縄の辺野古埋め立てに関する問題で県側と国側の対応を少しばかり注視しているけれども、国側の横暴と傲慢なやり方、果ては補助金交付といういわば金で人心を釣るやり方に至って、この日本史上最低の第二次安倍独裁政権のクズぶりははっきりした。こういう権力を笠に着て、力のない地方民の声を抑圧するようないじめぶりを発揮することは尋常ではない。
 ぼくの独断と偏見によれば、日本の中で沖縄は長い間いじめられっ子の位置にいた。いろいろに言いくるめられ、地域振興などの甘言に妥協せざるを得なかったりしながら沖縄はその位置に耐えてきた。
 ここに至って、渾身の力を振り絞って反撃した。これはもう後先を考えないいじめられっ子の最後の無意識の反撃に似ている。ぼくは今回の翁長知事を筆頭とした沖縄の人々の「ノー」の声を支持したいと思う。腰砕けにならずに、徹底的にやってもらいたいと思う。もしもいじめる、いじめられるの関係にあるとすれば、当事者が死にものぐるいの反撃をするのが一番効果的で、それ以外に関係を断ち切る手立てというものは余り多くない。仲介者にはいじめられる側の心情はそれほど理解できないものだと思う。だからぼくは支持する。「もう、これしかないよ」という声がぼくには聞こえる。ぼくは、内心で「やれよ、徹底的にやれよ」と思う。なぜかと言ったら、黙っていても地獄、反撃しても地獄なんだから、黙っているよりやっちゃった方がいいよと思うからだ。相手は国だ。負けることは決まっている。だが、黙って負けるのとやるだけやって負けるのとでは違う。今の日本国家なんて、こんなものじゃないか(これについてはあとに引用する記事を読んでもらえばいい)、こんな国家(政権)は倒すか、そこから離脱するか、どっちかに決めた方がいいに決まっている。そこまで覚悟を決めて行けばいいさとぼくは思う。
 今のいじめる側の代表である安倍晋三は、何処かで心に傷を負っていて可哀想だ。誰も彼の乱心、横暴を止めてあげることが出来ない。取り巻きたちは一緒になって地方をいじめ倒している。
 いじめ集団の少年たちとかわりはないさ。生半な批判や非難はかえって彼らの結束を強くする。自分たちの側についたものには過分の報償とその後の支援を約束する。楯突くものにはなりふり構わず団結して襲いかかる。いずれやくざな手口に違いないが、合法を装うだけの知恵がある分始末が悪い。
 いろいろに言ってみることはできるが、見たところ東京新聞の社説に書かれていることが情況を正確に反映していると思えるので、ここに転載させていただいて、今時の沖縄問題に関する多くの人の認識の参考に供すことが出来ればと思う。資料というつもりで読んでください。
 
【社説】
辺野古「移設」 強権ぶりが目に余る
 
2015年10月28日
 
 沖縄県民に対して何と冷たい仕打ちだろう。安倍内閣が名護市辺野古に米軍基地を新設するための手続きをまた一歩進めた。政権の方針に盾つくものは容赦しないという強権ぶりが目に余る。
 
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の県内「移設」に反対する翁長雄志知事が辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことに対し、石井啓一国土交通相がきのう、処分の一時執行停止を決めた。
 
 国交相はきょう知事に対し、取り消し処分を是正するよう勧告する文書を郵送し、知事が応じない場合、知事に代わって国が埋め立てを承認する「代執行」手続きに入る、という。
 
 安倍内閣の対応は、もはや異常と言うしかない。
 
 政府は八月上旬からの一カ月間を集中協議期間として、沖縄県側と対話する姿勢を見せていたが、結局、憲法違反と指摘される安全保障関連法成立を優先させる冷却期間にすぎなかったのだろう。
 
 そもそも知事処分の執行停止の根拠となった行政不服審査法は、一般国民の権利を守るためのものだ。防衛省沖縄防衛局が私人として同じ内閣の一員である国交相に審査を請求したのは、やはり手続きに正当性を欠くのではないか。
 
 県側は対抗策として、第三者機関「国地方係争処理委員会」に不服審査を申し立てる構えだが、新基地建設に向けた安倍内閣の強権ぶりは、これにとどまらない。
 
 沖縄基地負担軽減担当相でもある菅義偉官房長官は二十六日、辺野古の新基地予定地に隣接し、条件付きで建設に賛成する地元三区長と会談し、地域振興の補助金を名護市を通さず直接交付する新たな枠組みをつくる考えを伝えた。
 
 名護市の稲嶺進市長が新基地建設に反対する中、建設賛成の住民もいることをアピールする狙いがあるのだろうが、地方自治に対するあからさまな介入であり、地元分断策以外の何ものでもない。
 
 国土面積の1%にも満たない狭隘(きょうあい)な県土に、在日米軍専用施設の約74%が集中し、沖縄県民は、日本や周辺地域の安全保障のために騒音や事件、事故など米軍基地に伴う過重な負担を強いられている。
 
 安倍内閣はなぜ、この本質的な問題に向き合おうとせず、選挙で示された抜本的な負担軽減を求める民意をも無視し続けるのか。
 
 強権的なやり方で移設を強行しても、県民と政府との溝を深め、日米安全保障条約体制の円滑な運営に支障をきたすだけである。
(以上、太字は佐藤)
 
 
沖縄について言う
              2015/10/22
 沖縄の米軍基地についての民意というものははっきりしている。言うまでもなく県外への移設を強く希望してきた。沖縄前知事は普天間の県外移設を公約して当選しながら、自民政権との交渉の末に辺野古移設を承認した。沖縄県民はその後の知事選では前知事ではなく翁長氏を選出し、さらに一貫して新基地反対の意思を示してきたと見える。それはもう、県外移設しかあり得ないという沖縄県民の、どう言えばいいだろうか、不退転の決意のようにぼくには感じられる。言い換えれば今、二度目の沖縄決戦を戦おうとしているように見える。その相手は日米両政府である。
 日米の政府首脳は声をそろえて普天間基地の危険を、早期に解決するための辺野古移設だと説明している。沖縄のことを考えた末での辺野古移設であると納得させようとしてきた。だが、そんな恩着せがましい説明は沖縄県民には通用しないし、県民以外のものをも納得させはしないだろう。ぼくにはそう思われる。
 中国や北朝鮮の脅威がどの程度のものなのか、あるいはその驚異に対して日米の安全保障上の思惑がそれぞれにどういうものなのか、ぼくなどの考え及ぶところではない。また日米の両政府にとって、そうした関連から沖縄がどういう位置づけにあるのかなどは単純な想像をしてみる他にない。つまり、そういうところでは何もましな見解をぼくは持ってはいない。沖縄のことをずっと注視してきたというわけでもない。日本の安全保障上の問題を考え続けてきたわけでもないし、特にそれらのことについて勉強してきたという経緯もない。また、戦前、戦後の沖縄の苦痛や辛酸をどれほど理解しているかと問われれば、言葉を詰まらせるだけのことだ。ごく普通の生活者大衆として、新聞、テレビなどを通じて報道される日本の一地域としての沖縄のことについて、一般的に知られているくらいの知識しか持ち合わせていないと言っていい。
 だが、それだけの関わりしかないとは言え、現状の沖縄について、どうしても見過ごしておくわけにはいかないような何かが感じられる。例えば県外移転を問題とした時に日本国内の一般人の意見として、「沖縄に米軍基地がなくなったら、中国、北朝鮮の脅威に対して、日本の防衛上の安全はどうするのだ」という意見がある。その意見を正しく読み取れば、日本の安全上、沖縄から基地を無くすことは考えられないということになるのだろうと思う。つまりそういう選択は論外だと言うことだろう。この手の考えは意外と少なくない。だが、このように考えるもののうちにも、『沖縄には悪いけれども』と内面に呟く声の持ち主はいる。ぼくは、このような考えをするものの半数くらいはそうではないかなと考える。これは確信犯である。沖縄に犠牲を強いることを知っていながら、口をつぐんで、日米両政府のやり方を黙認しようとしている。
『沖縄には悪いけれども』というのは、本土の人間にとっての言い分である。何が「悪いけれども」なのか。それは想定される防衛上の、沖縄がその要の地として最適として考えられるということだと思う。沖縄に基地を持っていることが一番よいという判断である。もちろんその判断は沖縄に住む人々以外にとっての判断だ。沖縄の人々にとってはそうではない。今般の沖縄県知事としての翁長さんの言動、多くの県民の移設反対の行動を見ると、もはや我慢の限界から不退転の決意で沖縄の意思を発現しているもののように見える。たしかに防衛上の要としては沖縄以外の地を考えることは難しいことなのかもしれない。沖縄にリスクを負担していただきたい。そう考えてお願いしてきたものだろう。そのことで日本本土における米軍基地の比率は縮減することが出来たのである。
 沖縄知事あるいは沖縄県民にとって、日米政府の安全保障上の位置づけというところは十分に承知されているに違いないと思える。その上でなおかつ県外移設を要望しているということは、よほどのことであって、ぼくはその表明を見過ごすことは許されないことではないかなと考える。ほとんど接触する機会のない沖縄県民とはいえ、彼らが大きな声で意思表示をしている。彼らの置かれた立場で考えれば、おそらくは意思を表明すること自体が困難を伴うものであり、そこを乗り越えて声を上げていると理解すべきものである。そうである以上我々はその声を真摯に受け止めなければならないと思う。
 うまいたとえではないのだが、これ以外には思いつかないからあえて言うが、ぼくには今般の沖縄の声が長年いじめに合ってきたもののする最初にして最後の声のようなものとして聞こえてくる。いじめの定義、いじめっ子、いじめられっ子の定義は難しく、事実の立証もまた難しい。けれども、いじめの関係性から圧迫を受けていると感じる当事者が関係性を断ち切りたいと主張する時、先ずはその声に耳を傾けることは当然のように思える。そうしてそれが最後の勇気であり、あるいは最後の救済を求める声であり、この世界が信頼に足る世界なのかどうかの問いを内に含む声であることを、受け手側が補足して聞くべきことなのだ。ぼくはそう思う。
 思うに、沖縄の声は同胞であるぼくら本土の人間に向かって、いっそう強く突き刺してくると感じられる。本来なら、どうしても米軍基地を置かなければならないものとしたら、「戦後70年うちで(沖縄)負担したんだから、これからは他でやってくれよ」と言う権利を沖縄は当然のように持っているというべきである。もっといえば沖縄がそう言い出す前に、「長い間ご苦労さん。今度は俺んとこで負担するからまかせとけ。」と言い出すところがあっていい。人と人との関係であれば、そういうことはごく普通のことだ。けれども内燃するに違いないそんな思いは、沖縄からこちらに向かってはっきりとした声では届いてこない。おそらくそれは沖縄の本土に対する不信がそうさせている。ぼくにはそうした沖縄の発する無言の声が聞こえてくる。『本土の人々よ。君たちは本当に我々の信頼に足る同胞であるのか。』というような言葉として。ぼくらはそれに対してどんな答えになるにせよ、全身全霊をもって答えなければならないのではないか。少なくとも、そのためにそれぞれに考えられるべきことを考える、ということをすべきだと思える。あるいはどんなに稚拙であろうと、考えたところをはっきりと言葉にして表すべきである。そう、ぼくは思った。そう思い、なにはともあれ今の沖縄の姿勢を全面的に支持したいと思っている。そうして注視し、応援したいと思っている。沖縄の主張はもっともであり、その主張を第一義のものとして据えて、安全保障上の諸問題はその後に解決すればよいという立場だ。
 そんな時にネット上をざっと見渡していたら、毎日新聞のオピニオン紙面で「普通の人権、沖縄にあるか」と題した、論説副委員長兼特任編集飯野肩書きを持つ人の記事を見かけた。沖縄について考える手がかりのようなものが示されていてこれをワープロで打ち込んでみた。ここでそれの一部を、というより、抜粋選択が面倒なので記事の後半全てを使わせてもらって、以下に引用してみる。
 
05年の在日米軍再編協議の際、今の辺野古移設案に決まる前に、米側が在沖海兵隊の関東や九州北部への移転を打診したことがある日本政府は応じなかった。当時、筆者は防衛庁(当時)首脳に、なぜ検討しないか尋ねた。答えはこうだ。「本土はどこも反対決議の山。どこに受け入れるところがあるか」
 実際は、反対決議をしていたのは沖縄の議会だけだった。そもそも移転案を政府が明かしていないのだから他県では知る由もない。本土では移転案を打診のはるか手前で退けるのに、沖縄では反対決議があるのに強引に押しつける。筆者は当時、これを「ダブルスタンダード」(二重基準)と書いたが、「辺野古が唯一」と繰り返して沖縄だけに押しつける政府は、実は戦後一貫してきた国の姿勢を先鋭化させたに過ぎないのである。
 沖縄では戦後、米軍の戦闘機が小学校に墜落して児童多数が死亡し、赤信号を無視した米兵の車に中学生がひき殺されても、「太陽がまぶしかった」という理由で無罪になった。米軍による辛酸を、どこよりもなめた地域である。
 その地域が拒み続けているのに、政府は新たな基地を押しつけている。たとえて言えば、あの過酷な原発事故の後、地元の町長も知事も反対しているのに、新たな原発建設を福島で強行するようなものだ。沖縄以外では不可能であろう。沖縄は、今後もこの位置づけを甘受するか否かが問われているのである。
 決着はいずれ司法の場に持ち越される。我が国の司法は安全保障面では判断を避けるのが常だから、今回も沖縄にとって厳しいと予想される。だが、ことは人権に関わる。「人権が普通の人の半分でいい」と言う人はいるまい。中途半端な妥協はあり得ない。
 地域の将来像を自分で決める。民主主義を適用し、投票結果が尊重される。そんな最低限の人権を獲得できるか沖縄は問われている。同時に、日本が人権と民主主義をあまねく保障する国であるのか、特定の地域は民意を聴かずしてよしとするのか、全国民が問われてもいる。
(太字―佐藤)
 
 ぼくらがいつもいぶかしく感じられることがここに表されている。それは太字にした部分の、「そもそも移転案を政府が明かしていない」という箇所に表れたもので、日本の政治の秘密主義的な体質である。なぜ日本政府は、「米側が在沖海兵隊の関東や九州北部への移転を打診したこと」を明らかにして、民意に問いかけるという民主主義的な手続きを省いてしまうのか。一方では米側の打診を時の政府判断のみで退け、一方でまた時の政府の判断のみによって沖縄の民意を無視して沖縄に強引に押しつけるのか、そうした後進性を後進性と自覚していないところに強く不満を覚える。憲法に主権在民をうたいながら、民主主義国家を標榜しながら、実際には権力の中枢で考え、その内側で決定したことを国民に公開せずに事を成し遂げようとする。その姿勢は少しも変わらないのだ。
 日本政府に較べて、アメリカ政府の方がはるかに沖縄に対して一定の配慮を示していたことが、関東や九州北部への移転の打診にはうかがえる。沖縄の苦痛や苦難、沖縄人の思いというものには、少なくとも多少の理解を持っていたというように思える。石原伸晃の例を持ち出すまでもなく、日本政府が沖縄になしてきたことは基地を引き受ける負担と引き替えに、地域経済の振興とか補助金をつけるといった、いわゆる金で片をつけるという方法であったと先ずは言えると思う。もちろん何もないよりはましかもしれないし、途中沖縄返還に奔走したという事実もあることはあった。それは沖縄県民の生活とか感情を考え、配慮してのことだったといえばその通りかもしれないが、それだけでは癒えない傷に配慮してとまでは言い切れないものが残る。裏を返せば政府関係者の配慮とはその程度のものに過ぎなかったのだ。
 こういう連中に、本土に住むぼくらは全てを託すことが出来るのだろうか。ぼくらが沖縄住民であったら、あるいは現に今すんでいる地域が沖縄と似たような状況におかれたとしたらどうなのか。思いは様々に巡るが、とりあえずは全体を見渡せる位置にあるに違いない先の記事の筆者の見解をベースに置き、今後の事態の変遷を見守りたいとぼくは思う。ぼくらにはそれくらいのことしか出来ないのだが、考えることを経由しての観念のつながりこそがつながりの本質であると、ぼくはここで理解しておきたいのだ。
 
 
情況を読む
              2015/09/23
 安保法案の成立に関しては、ずっと以前から予測されたことで、今更進歩的知識人やマスコミが騒いで見せたところでそんなことはひとつのショーにすぎない。成立に反対の声も、安倍政権及びこれを支持するグループにおいては想定済みのことだったに違いない。
 衆参の採決時に見られた華々しい反対表明のデモなどがあったにもかかわらず、自民党の支持率はそれほど大きな低下を見せていないという。このことではっきりすると思うけれども、これが何を意味するかと言えば、日本国民の大半の関心事は政府の経済政策で、歴代自民党政権がなぜこんなにも長期にわたって政権を維持させてきたかと言えば、国民の過半数に支持されるような経済政策をとり得たからに違いない。これがたとえダッチロール気味の時があっても、他の政党よりはましだろうという国民の判断があった。
 安倍政権はこれからは経済政策だと思っている。これをクリアすれば、秘密保護法から安保法案までの一連の騒動は鎮静化させられ、安倍政権の長期化も図れると踏んでいる。なかなか良く出来たシナリオであるし、計画的にも優れたものだと思える。いまのところ他の野党各党には及びもつかないところだ。
 野党は、第一党の民主党をはじめとして、次なる選挙に今回の一連の反対運動を争点として継続さて行きたいようにうかがえるが、これではもう戦わずして負けている。自民党の方がはっきりと先を見据えている。そのために何はともあれ目先の考え得る経済政策を次々と打ってくるだろう。これを凌駕する政策を野党が打ち出せなければ敗北は目に見えているし、現在の野党にそうした計画も対策も生み出せるわけも無い。経済政策に関してだけ言えばドングリの背比べの中で、わずかに自民党が首ひとつ上を行くことになるだろう。つまりどっちにしたって大きな手を打てるわけは無いが、そうなれば政権党が優位になるに決まっている。
 もしも本気で自民党政権を倒したいと願うならば、先ずは民主党をはじめとする既存野党が解党して出直すところから始めなければならないと思う。その上で次期選挙に投票者が棄権することを訴えられたらたいしたものだと思う。こんな政治をやっていたのではダメだと、あえて自らを投げ出して主張するのである。インパクトがあって政治家も選挙民も政治意識が変わるに違いない。こういうことは野党各党にはけして出来ない。出来ないからどんなに選挙協力をしても野党は勝てない。これは決まっている。有権者はもうどんな党もダメだと言うことをよく知っている。ダメだから仕方なしに自民党に任せている。これに対抗するのは、旧来の政治的体質をご破算にするしかない。
 シールズの代表が次期選挙にまで活動の継続を考えている旨発言していた。安保法案の成立に賛成した議員を落選させるための活動が中心のように述べていた。これに対して民主党の岡田代表が1日、2日後に同じ趣旨の発言をしていた。はっきりとシールズ代表の発言を意識してのことだと思うが、野党一党の代表が素人集団に追従する姿は恥ずかしい限りだ。本来ならシールズが示した戦略くらいは審議会、本会議の席で野党合意の元で与党の胸元に突きつけても良いくらいのところだ。あんなに大勢のプロ政治家たちがいて、誰一人そういう発想をとれなかったのだから笑える。そうして全てが終わってから素人集団の代表の発言に、藁をも掴む気持ちで乗っかろうとする。
 シールズの代表がどんな気持ちで先の発言をしたのかは分からない。はっきりしているのは、たとえ次期選挙で与党議員たちの落選を目論んでもその受け皿としての対立候補の擁立が無ければお話にならないと思う。これを現在の野党のうちに求めようとすれば早晩運動は挫折する。ならば新たに政党を立ち上げて候補者を擁立するのかということになるが、ぼくとしてはそういう方向に期待したい。
 そうはいっても現在の政治状況は何が何だかよく分からないところにある。民主党はかつては集団的自衛権には賛成で、ただ自民とは各論が違っていた。今国会ではあたかも全面的に反対であるかのような主張に見えたが、本音のところはよく見えない。党内でも考えはバラバラかもしれないし、それは他の各党とも党内事情においては同様で、では一人一人の議員は何をもって行動基準としているのかが不明瞭であるし、全てが胡散臭い。
 シールズについてはこれからぼちぼちとどんな集団なのかを調べてみようかというところだが、今回の行動や発言を見ると新しい潮流を予感させられる。既存の政党とは全く別次元の運動を展開してもらいたいと思うが、どこまでやりきれるか期待しながら見守りたいと思う。
 もう一つ日本の政治状況に波紋をもたらすような出来事が今日、9月22日のニュースの中に見かけた。それは沖縄県の翁長知事が、国連の人権理事会で演説をし、NHKのNEWSwebには以下のように記事が掲載されている。
 
沖縄県の翁長知事は、普天間基地を同じ県内の名護市辺野古に移設する計画への反対を国際世論に訴えるため、21日、スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会に出席し、2分間、英語で演説しました。
この中で翁長知事は、「沖縄は日本の0.6%の面積しかないが、日本にあるアメリカ軍専用施設の73.8%が存在している。戦後70年間、アメリカ軍基地は、沖縄で多くの事件事故や環境問題を引き起こしていて、われわれの自己決定権と人権がないがしろにされている」と訴えました。
そのうえで、翁長知事は「自国民の自由、平等、人権、民主主義を守れない国が、ほかの国々とその価値観を共有できるのか」と述べ、沖縄県の反対にもかかわらず計画を進める政府の姿勢を厳しく批判し、あらゆる手段を使って移設を阻止する考えを強調しました。
翁長知事は、演説のあと記者団に対し、「日米両政府という大きな権力のなかで、小さな沖縄県が理不尽な状況を強いられている。私たちのもてる力で、正当な権利や正義を訴えるしかない」と述べました。
 
日本政府側も答弁
このあと、日本政府を代表して、ジュネーブ国際機関日本政府代表部の嘉治美佐子大使が、政府側の答弁権を行使し、「日本政府は、沖縄の基地負担軽減に最大限取り組んでいる。普天間基地の辺野古への移設は、アメリカ軍の抑止力の維持と、危険性の除去を実現する、唯一の解決策だ。日本政府は、おととし、仲井真前知事から埋め立ての承認を得て、関係法令に基づき移設を進めている。沖縄県には、引き続き説明をしながら理解を得ていきたい」と述べ、翁長知事の演説に反論しました。
 
米国務省「移設が唯一の解決策と日米政府は合意」
アメリカ国務省のカービー報道官は21日、「沖縄が日米同盟やアジアの平和と安定の要として極めて重要な貢献を果たしていることに、われわれは心からの謝意を表明している。われわれは沖縄の地元の人たちと良好な関係を築いており、アメリカ軍の駐留が地元に及ぼす影響についても認識している」と述べました。
そのうえで、「名護市辺野古の代替施設への移設こそが、部隊運用上も、政治的、財政的にも、そして普天間基地の継続使用を避けるうえでも、唯一の解決策ということで日米両政府は合意している」と述べ、アメリカ政府のこれまでの立場を強調しました。
 
 翁長知事のバックボーンに何かあるのか無いのか全く分からないが、彼がしばらく前にアメリカ議会で演説したことといい今回といい、全く新しい戦略でもって、しかも一貫した主張を貫いていることに驚いている。また、「立派だよなあ」と思っている。これに較べて、日本の国会中継に見る国会議員たちはいったい何をしているのかと思う。束になっても翁長知事一人に敵いはしないと思われてしまうほどだ。彼の対抗策としての積極的外交は、沖縄県民の民意を背負うものとして正しく、そして素晴らしいとぼくは思う。沖縄県人、琉球人が日本の先住民族かどうかまではぼくには断定できないが、本土中央がいつも沖縄を辺境に見てその地域を犠牲に供してきたことは否定できないことだと思っている。その意味からは翁長知事の言動も、そしてまた沖縄県民の知事に対する支持と同調も当然のことだと思える。日本政府もアメリカ政府も長い間沖縄県民の声を聞かぬふりをしてきた。石原伸晃に至ってはそれが政治家のリアリズムであるかのようなふうを装って、こともあろうに金の問題に卑小化する言説を用した。馬鹿息子のご愛敬だが、これもまた沖縄県民の怒りの炎を燃えさせた一因になったのでは無いか。
 翁長知事の演説に対する日本大使及びアメリカ政府の見解も、どこか弱みを握られたものの及び腰の見解に見えてくる。日本政府はそんなに偉いか?アメリカもまた政府間合意が全てに優先すると本気で考えているか?
 翁長知事の演説が投げかけた波紋は、この先、おおかたの現在的な受け取り方を遙かに超えて国内外を大きく揺るがすものになっていくのではないかと予想される。国内だけに限定して言えば、個別的で散漫な思想がどこかに収斂されなければ収まりがつかないような、そう言う時期に当たっているし、そう言う時期を迎えているのだという気がする。国会に見られる既成政党が作り上げた政治状況と、半ば素人集団がそこに参入した新たな潮流、そして沖縄翁長知事が提示した人権、自己決定権をないがしろにする問題が絡み合い、一点に集まっていく場所。その観念のありかが思想的には大変重大な意味を帯びるものになっていくだろう。そこに焦点を合わせて注視していきたいと思う。
 
 
民主主義は高級な支配の口実
              2015/09/18
 武田邦彦は17日付の自身のブログで、安保法制反対デモや国会内での野党の反対行動を、民主主義を破壊する行為だとして、それら一連の行動に反対の意思を表明している。主意を要約したりは面倒なので、後ろ半分くらいをそのまま転載させてもらえば、武田の考えは次のようなものだ。
 
つまり、私たちが平和を守ることができるとしたら、それは「自由意志で国民が投票した選挙で選出された代議士が決める」ことがまずは第一でしょう。その意味で、私は現在行われている安保法制反対デモは、国会で決まったことを覆そうとしているのですから、デモこそ戦争への道と思います。
 
また、野党も国会で議論し、採決することこそが任務なのに、それに欠席したり議場を混乱させたりするのですから、これも民主主義を破壊する行為で、戦争へとつながります。「強行採決」と言われますが、それはもうけようと思っているマスコミの人たちの「守銭奴用語」です。
 
民主主義でのデモは望ましい意思表示の一つですが、すでに2013年(一昨年)の10月には日米で安保ガイドラインに合意し、それに基づいて2014年(昨年)の7月1日に「憲法改正せずに集団的自衛権を強化する」と決めて政府は発表し、マスコミが大きく取り上げたのですから、その後の選挙まで半年、選挙後半年の時間があるのですから、そこで議論をして、安保反対なら自民党に投票しないというのが筋なのです。
 
日米安保協議が行われ、日本政府が政策を決定し、選挙が行われ、国会で議論し、約2年を経過しているのですから、これで「まだ分からない」と言うのなら、それは国民のサボり以外の何物でもありません。
 
私は現在の安保反対デモは「自分だけよい子になりたい=子供を抱いてこの子のためにということで偽善的ポーズをとる」ということで、責任ある大人のすることではありません。こんなことなら、日本に言論の自由も、事実報道するマスコミも、自由な投票も不要で、なんでもケンカでもして決めれば良いでしょう。
 
 ぼくは昨日の野党の審議引き延ばしや、法案反対の一般市民を含めた街頭デモ行動を見ながら、ここで武田が主張しているようなことを内省的に超える論理の展開が無いことから、昨日の「残念ながら安倍政権を超えられないな」という感想表明に至った。
 ここに掲載した武田の発言は、野党政治家やデモ参加者、あるいは進歩的文化人にとって反面教師の役割を担っている。あるいはひとつの壁として目の前に立ちふさがるものだと言っていい。この主張に対してどのように応えるのか、はっきりと答えて見せなければならない。しかし、おそらくはこの武田の主張を正面から論破出来るものはいないのではないか。ぼくはそう思う。そしてそうである限り、安倍政権打倒などは言ってみるだけにすぎないことははじめから見えている。
 
 ぼくはちょっと疲れていて、丁寧な議論などを今展開する余裕がなくて暴言を吐くことになるけれども、進歩派的な民主主義崇拝も武田のようなガチガチの、民主主義制度をやや絶対視する見方も忌避したいと思っている。
 今行われている民主主義というのは、歴史的現在からすれば最善と言うべきかもしれないけれども、所詮、共同体のする支配の口実としてのひとつだという側面をもっている。そうである限り、武田のような使われ方の中では個々の成員を束縛するような使われ方も可能になる。つまり、ちょっと極端に言えば、「民主主義の破壊だ」なんて言葉は、脅し文句として使われることになるし、現に進歩派側も保守の側も両方が脅し文句として使っているように思う。
 もう言ってしまえばどっちサイドも民主主義を破壊しているってことで、じゃあ無くなっていると考えるのが自然で、自分たちサイドにしか残っていないという思い込みだけが残っているということになる。そんなの錦の御旗にもなりやしない。
 要は民主主義を守れも守らないもどうでもよくて、そんなこと言っても俺の意思なんかどこにも反映されないよ、という現状の蔓延なんだと思う。武田発言はそれに対して前衛指導者であるかのように、それは大衆の努力不足のせいであるとしている。本当にそうだろうか。ぼくにはそれは現行の共同体の制度体制、組織体制はよくて、大衆はその高みに駆け上がるべき存在だと見なしているように思える。ぼくはそう思わない。その逆だと思っている。何でも無いごく普通の大衆が、もしも自分の意思が共同体から無視されていると感じられているとするならば、制度や組織こそがそこまで降りていかなければならないものだと考えている。そんなことは「民主」の理念から言えばごく当たり前のことで、実際には一部のものにしか意思や意見が投影できない制度、体制などは瓦解するがいいのだ。だいたいが中途半端な制度、体制の固定は「民主」に背くものなので、それこそが絶えず民意をくみ取っていくように改変され続けなければならない。そうした意味では、「民主」の理念に沿わないものは、全ての領域、次元において否定されるべき時だ。
 ぼくは安保法案なんてばからしくてあほらしくてと思っている。またこんなことを本当に「善いこと」と信じ切っている安倍的人物たちを嫌悪する。けれども同時に、こんな連中をのさばらせてしまっている、自分を含めた同時代人のふがいなさを痛切な思いで実感している。ダメなのは安倍らなのか我々なのか。もちろん両方が同じ程度にダメであることは決まっている。とりあえず、そういうところを超えていける論理の道筋を探し出せなければ何事も始まらない。ぼくはそう思っている。
 
 
安保法案委員会強行採決の日に
              2015/09/18
 安保法案に反対する国会前のデモがテレビ画面に映し出され、報道ではまた全国でも反対集会が開かれていると伝えている。
 ここに来て、ずいぶんと盛り上がっている感じだが、ぼくはもう、ちょっと遅いだろうと思っている。こういったデモや集会の主催者側がどういった組織、メンバーかは皆目分からないけれども、もしもこのまま参議院の本会議を通過するとすれば、反対側の憲法学者でも政治家でも知識人でも、あるいは学生や一般市民でも、安倍政権に敗北したという以外にはないと思える。
 安倍政権は、発足当初から自衛隊の海外派遣には積極的で、武力行使の可能性を探っていたことは周知のことであった。その考えの元に着々と進めてきたわけで、今頃になって反対運動が広がっても本気かなと思わずにはいられない。また反対運動の側の声が、違憲だとか民主主義の破壊だとか、一部の思想家、文化人、学者などの声をオウムのように繰り返すだけなのも、運動の底の浅さを感じさせる。反対運動の盛り上がりはけして悪いこととは思わないし、この時期になって国民もやっと切実に感じるようになり、重い腰を上げ始めたことは国民の意識を反映するものとして評価することも出来る。やはり大多数の国民は紛争の武力解決には慎重で、その意識だけは正常な判断のように思える。
 ただし、文化人、知識人、あるいは報道が好んで言葉にする違憲だとか民主主義の破壊だとかは、厳密に考えると都合のよい主張に思える。違憲ということでは今回の問題だけではなく、元を正せば村山富市の合憲発言、さらにもっといえば自衛隊が組織された当初から続いていて、より根本的には司法の独立性、自立性の問題である。また、民主主義についていえば安倍政権は一応の民主主義的な手続きは踏んでおり、ぼくの考えるところでは民主主義そのものが所詮その程度のものだとしか思えない。これにあまり過大な期待を持つことは、それこそ幻想にすぎないだろうと考える。
 運動の盛り上がりの中で、唯一、これはと思えたのは、シールズとかいう組織の代表となっている若者の発言で、「法案は成立してしまうだろう」と冷めた見方をしていたことだ。その上で、来年夏の参議院選挙で、安保法案に賛成した議員を落選させる運動を展開すると語っていた。その戦略は、ぼくにはなかなかのものだと思えた。またそういう視点からの戦略は既存の政治家や文化人、知識人などの口から発しられたことはなく、新しいと感じた。逆から言えば、ある程度年がいった連中には長期的な戦略が皆無だと言うこともできる。ぼくの見るところでは年のいった学者や思想家といった類いの連中は、国民に動いてもらいたいだけであり、あるいは国民を動かしたいだけであり、若者たちは自ら動こうとしている。どちらが期待できるかはわかりきっている。
 まだ分からないところだが、議員を落選させるためにどんな手を打つのかは興味のあるところだ。既存の野党と連携をとるのか新しく政党を起こすのか。野次馬にすぎないぼくはいっそのこと投票の棄権を訴えて、これを全国的に展開して全ての政治家に不信任を突きつけてみたいところだ。それくらいしないと目が覚めないんじゃないかと思う。さらに、いっそのこと国民全体に一年間の消費の抑制を訴えて、現政権に究極のダメ出しを突きつければ安倍政権の崩壊は確実さを増すことと思う。若い人たちには是非そんなことも視野においてやってもらいたい。
 とにかく、大騒ぎしているけれども、野党をはじめ、既成の理念、イデオロギー、組織、そういったものは全て敗北しているのにそのことを自覚していないだけの亡霊にすぎないとぼくは思う。そういうものでないものだけが希望である。亡霊たちとは一切手を取り合う必要は無い。若者たちを中心に是非新しい闘いを自分たちの手で作り上げていってもらいたいと切に思う。もちろんぼくらはぼくらで、ぼくらのなし得るところをなしていくつもりだ。
 
 
武田邦彦小論 パート3
              2015/07/30
 武田邦彦がまたブログに戦争に関してのごく短い文章を載せている。はじめにそれを引用し、後に若干のコメントを付け加えておこうと思う。
 
実に不思議なことだが、日本人の多くが「軍隊がいないと戦争が起きない」という錯覚にとらわれている。その論拠も理由も不明だ。

歴史的に事実を整理すると、戦争になる時というのは、

1) 隣国が攻撃的で、国に軍隊がいないか弱い軍隊しかいないとき、

2) 軍事力が拮抗していて利害が対立しているとき、

3) 隣国が差別主義であるとき、

である。第一の原因で戦争が起こったのが、中国のチベット占領や現在の中国の南シナ海領有問題である。中国が1950年ぐらいにチベットを占領したのはチベットの軍事力が中国(中共)より格段に弱かったからで、もしチベットにしっかりした軍隊がいたら中共はチベットを占領しなかっただろう。

チベットは仏教国で、仏教指導者を中心とした「平和国家」であったことが災いして、中共との戦争になり、敗北して占領された。 また、現在、中共が南シナ海に進出しているのは、ベトナム、フィリピン、マレーシアの軍事力が中共より格段に低いので、国際的な話し合いにならず、軍事的な力で中共が押し切ろうとしている。

戦力が拮抗している時も戦争になることがある。主として中世から近世に至る戦争の多い時代はなんでも戦争で方をつけようとした。その被害者の一つがアルザスロレーヌ地域で、あるときはフランス、あるときはドイツになって呻吟した。でもこの手の戦争は戦争が賛美されない最近では少なくなっている。

第三の理由で戦争が起きるのは、大東亜戦争の時のアメリカ(日本は黄色人種で頭角を現してはいけない)と、現代の中国(中共政府)である。アメリカ人は白人で神の命令を受けて自分たちが裁きを行う世界の警察官と錯覚している。また中共(中国)は中華思想を縦にとって、俺たちはアジアで一番偉い。白人の手下ならなる」という考えだ。

日本で「軍隊を持つと戦争になる」と思っている人は、このような歴史的事実をどのように考えているのだろうか? 平和憲法があれば軍隊がなくても侵略されないというならチベットも平和憲法を持てば独立できることになる。

私には親として無責任に感じる。

 
 この種の考え方は案外多くて、特に政治家は職業的にもこういうことを考えるものだ。
 我々一般生活者においても「近隣に危ないやつが居る」時に、何となく防衛策のようなことを考えたりする。
 戦争はもちろん国家間の問題だから、国家の運営を担当する政府閣僚などにとっては重要事項になる。だから関係者でもないのに、こういう問題を考えるときには、関係者の立場に立った考え方をすることが多い。批評家とか学者の類いも、もちろん一般庶民の床屋政談などでも、ついその席に着いているつもりで考えてしまうものだ。武田もそういう一人にすぎない。
 
 手っ取り早く言えば、現在の日本の政治指導者たちや、一部のマスコミや有識者たちは、中国や北朝鮮の「脅威」を幾分か過剰に演出して論争のネタにしている。彼らがこぞって本当に脅威を実感しているのか、ただそういうふりをして「脅威」を煽っているだけなのかは分からない。また分からなくてもいい。 ぼくらはただ戦争放棄をうたった憲法を持つ国に暮らしているのだし、憲法はまた国家間の紛争を武力で解決しないとも規定しているわけだから、それはいいんじゃないかと思ってその部分は支持しているだけなのだ。
 若い頃に、その頃は暴走族やヤンキーのはしりでもあったから、冗談半分に暴漢に襲われたら自分はどうするんだろうと考えることがあった。突然のことであれば逃げる、叫ぶ、近くにあるものを投げつけたり、それを使って防御する、くらいしか思いつかなかった。そして結局やられるんだろうなと思った。そこで、自分の身を守るのに武術はどうなのかと考えた。武術を習得していれば、少なくともやられっぱなしになることはない。
 けれどもそう考えて、それはちょっと被害妄想が入り込んだ考え方であり、万に一つ、あるかないかの襲撃事件に備えて自分の生活の一部をそのこと(武術の習得)に費やすことは、有りか無しかで言えば無しだと結論した。やる人がいてもいい。でも、そこに踏み込んだらきりが無いよね、という感じだった。
 この世界は、突然の出来事に満ちている。それの繰り返しでできているといってもいいくらいだ。あるかないかの突然の出来事を想定して、いちいちの対処の仕方を考えていたら、それだけで人生の大半は埋まってしまうだろう。また突発的なことをどんなに詳細に検討して予測しても、まずそれが百%的中することは全くあり得ないことだ。それだったら、はじめから意味がねえや、と考えた方がいい。ぼくはそう思う。
 おそらく日本人の大半は、その生活自体において無防備である面が大きいと思う。同時に、世界的に見ても珍しく安全な国なのだそうだ。安全だから無防備なのではないと思う。
無防備だから安全なのだ。ぼくら日本人の価値観からいえば、特に庶民的には、死を賭して守るべき財産などはないに等しい。仮に財産が失われても、生きていればまたそれを手にする可能性はいくらでもあるし、元々がたいしたものなのではない。それを失敬するやつがいたとして、そんなことをするくらいだから自分たちよりも生活が苦しくてやったことで、それはそれで役に立つんだったらいいじゃねえか、という考え方をする。
 残った方の大半は、おそらく普通の人が一生かかっても得られない富や財産や地位や名声があり、それを守るためにまた膨大な出資も厭わない。
 そういう連中が、国民の生命や財産(現実には微々たる価値しかないぜ)を守るとかぬかすから笑える。本当は自分たちを守りたいだけだ。どうやって自分の身を守るかというときに、警備システムやボディーガードなどを使う。けして自分の身を危険にさらさない。共同体(国家)レベルでは軍隊(兵士)を使う。いざとなったら兵士を盾にとればいい。だから、「国民の安全」を守ると言っても、連中は自分を盾にして国民を守ろうとするのではけしてない。国民を使って自分たちを守り、その上で残りの国民を守るというにすぎない。これは国家の運営担当者が実際にどう意識しているか、考えるかとは別で、関係としてみればそういう関係として言えるということをいっている。いずれにしても大半の犠牲は下層庶民が負うこともまた関係から見て必然のことと言える。武田の主張もつまるところは指導層側の延長上にあって、倫理的な粉飾を施しながら、支配的なロジックを後方支援することに役立っている。
 武田は知っていて故意に言っていないのだと思うが、国内でアイヌ民族がほとんど滅んでしまったのはアイヌが戦闘能力を持たなかった(武田の言う「平和国家」=チベット)せいで、今いる我々の先祖が(大和国家=中国)アイヌに手を下したのは歴史的にも間違いの無いことだ。そこから言えば、ずいぶんと中国の脅威を言い散らしているが、もともと国内においてもそういうことがあったし、それが大和民族が行ってきたことでもあるということを言わないと片手落ちになる。
 今、安倍政府が言ったり考えたりしていることは、アイヌ族や大和族の時代とあまり変わり映えのしないことだ。二千年近くを経て、文明が発達し飛行機に乗り、高層ビルに生活しても考え方がましになったとはとうてい言えない。戦後七十年の今も、ついに紛争解決には武力を頼みにする以外無いというのでは、武田の言いぐさをそっくりまねれば、「私には親として無責任に感じる」。言い替えれば国家運営担当者としては無能で、国民一人一人に対しても無責任きわまりないと思う。そして当然のことながら武田も同罪だ。
 ぼくはアイヌのように弱い戦闘力(武器)のために滅んでもいいと言っているわけでもないし、大和族のように強い戦闘力(武器)をもって他を威圧するのがよいと言いたいわけでもない。いずれそういう考え方は支配する側に立つものの考えることで、ぼくら一般の生活者が考えることではないと言いたいだけだ。もちろんそれだけではなく、支配層同士の諍いを本質とするにすぎない国家間の紛争に、巻き込まれたくないと考えていることも事実だ。支配層にあるものはいずれの国においても自国民の生命と財産を守る義務がある。そう考えて、なんとしても武力衝突を避けることが先決で、それが第一義のことであろうと思う。
 武田は過去の歴史的事実を拾い集めて、戦争の不可避を前提にして、そのことを喧伝する愚かなピエロに成り下がろうとする。それは今日の日本社会が物騒になったと大騒ぎして「犯罪者を厳罰に処せ」とする声に同根で、はじめから本質的な解決を放棄するものだ。
 以前、武田は、嘘をつかずに本当のことだけを口にするようになってから損をすることもあるけれども、大変気が楽になって、自分はそういう生き方をする方がよい、という主旨のことを述べていたことがある。
 大衆が「軍隊を持たない方がいい」と考えるとすれば、武田が本心だけを言う方がいいと主張するのと同じ意味合いで考えているのだ。
 
日本で「軍隊を持つと戦争になる」と思っている人は、このような歴史的事実をどのように考えているのだろうか? 平和憲法があれば軍隊がなくても侵略されないというならチベットも平和憲法を持てば独立できることになる。

私には親として無責任に感じる。

 
 武田のこの文章の、恣意的な解釈と、嘘と陰険さとで塗り固められたロジックに、嫌悪を感じなかったらそれこそ嘘だと思う。ここでの武田の本心は、異常に「侵略」を怖がる妄想そのもので、物騒な社会になったから我々国民も銃を持って自衛しようと考えるのと同じになっている。しかも「侵略」の「妄想」から出発して、「軍隊」を持つべきと言う。ここで武田が言う「軍隊」は、武田本人や国民の盾となる「軍隊」が想定されているだろう。では、この「軍隊」を構成する主体は誰を想定する?武田の子どもか、孫か、あるいは本人が最前線に立つことをイメージして言っているのか。おそらくそうではないだろう。全く第三者の、奇特にも「公」のために「私」を犠牲にして厭わない、志を持った若者を想定しているのではないか。ぼくらは違う。ぼくらははじめから国家や軍隊というものをあてにしない。第三者の若者に盾になってもらいたいとは望まない。暴漢に襲われたら自力で逃げるか立ち向かうかであるように、他国が襲ってきて自分や家族や近隣に害を与えようとしたら、その時の情況によって、自分の判断で、同じように逃げたり立ち向かったりするだろうと思う。武器を手に入れられるのであったら、それを手にして建物の陰に潜んだり山にこもったりしながらゲリラ的な銃撃戦を行うかもしれない。つまり、いずれにせよ妄想の類いにすぎないのだから、それくらいまでの妄想にとどめておいていいのではないかと考えている。
 残念ながら、これくらいのところで武田のような考え方を粉砕できるとは思っていない。その意味ではつまらぬことをおしゃべりしている気分で、自分の無力に嫌悪を覚えてさえ来る。でもまあ、まだまだ嘘の考えとほんとの考えとを見分ける気持ちは失っていないので、これからにも乞うご期待とここでは言っておきたい。
 
 
武田邦彦小論 パート2
              2015/07/27
 最近の武田邦彦のブログは安保法案への賛成の意向を明確にしている。以前から、日本の戦争はよかったなどといっていたくらいだし、集団的自衛権や秘密保護法などには口をつぐみ、安倍政権への悪口はほとんど言っていないくらいだったから、武田にしてはどうも遠慮がちだなという思いはその頃から抱いていた。ここに来て安保法案に反対するデモをくさしたり、違憲と表明した憲法学者たちに否定的見解を示し始めたのは、予測ができたといえばできていたことだった。
 政治に関しての武田の言い分は半分くらいはあたっていることが多い。だからといってどうと言うこともない。いつも想定される範囲内のことしか言えていないといえば言える。
 耳に心地よいことばかりいったり、二枚舌を使ったりはあまりしていないところはよい。そしてよいと褒めたいところはそれくらいのところしかない。あとはただちょっとだけ知識のあるおっさんで、うるさいくらいに自分の主張を書き散らしているという、それくらいの印象でしかない。過去に書き散らしたものの中で、これはと思えたのはたばこ問題と原発事故の問題くらいだ。
 武田の考えの中で、どうしても最後まで齟齬として感じられるところは、簡単に言ってしまうと大衆についてのとらえ方だ。一般生活者を自分の中でどう位置づけているかのところで、自分とはどうしても相容れないところがあるなと感じている。どういうことかというとこれも簡単に言ってしまうと、戦後の戦争放棄の理念についてもそうだし、現在の平和な社会(?)においてもそうなのだが、大衆の名に価するような人々というのはそういうものの選択の場に顔を出さない人々をいうとぼくは考えている。武田はそう考えてはいなくて、だから、ともすると、政治的社会的な出来事に対して武田は大衆に責任の共有を押しつけようとするところがある。民主主義など西欧的考え方の価値観からすれば、もちろんそういう考えが出てくるのは当然というところがある。だが、日本的なもの、日本的な大衆は実際のところそういう価値とは無縁のところに生きている。いいか悪いかではない。そういうようにできているというか、なっている。21世紀のグローバル化がいわれる今日においても、相変わらず西欧的とアジア的、アジアの中でもさらに特殊だといえば特殊であるような日本的という差異が、今も我々の考えるところに困難を強いてくるところなのだ。このこと、つまり、政治や社会に縁の無い大衆が存在するということは、ある意味でとても希望だと言える側面がある。どう言えばいいだろうか、江戸期の安藤昌益の言いぐさではないが、いずれ時代を騒がし、攪乱し、混沌をもたらすような発言、政治や社会に支配的な影響を持つ権力などが勢いを失ってしまうようなときが来れば、そういう日本的な大衆の在り方というものは、ひとつの模範的な形として浮上する可能性を持っている。
 世の中をどうしよう。世界をどうしよう。悪人をどうしよう。そういうことを一切考えない。そういう考え方にまるで縁の無い生き方。そうしてただよく働き、和気藹々の家族生活、近隣との生活だけを望む生き方。そういうものを安藤は価値ある生き方だと結論していた。ぼくもそう思う。そういう大衆を、どんな理由であろうとも大衆とは言えない存在が、力によってでも言葉によってでも生活以外の場所に彼らを駆り立て強制するのはよくないことに決まっている。たとえそれが日本の国を守るというような大義名分を持つとしてもだ。
 最近の武田は、中国人やヨーロッパの白人系を指して、その特徴や欠点をあげつらっている。また日本人については反日日本人とよい日本人とに二分して、根っからのナショナリストのような言説を多くしている。言論の自由のある国だから何を言ってもいいが、その言説には子供じみた欠点が目につき鼻につく。たぶんオートマチックに言葉を量産しているだけで、外部知識の詰め込みとそれを切り貼りして言葉を紡ぐ、いわばちょっとへそ曲がりな優等生くらいのところにその立ち位置がある。理系を重んじ、文系を軽んじる、そのなれの果てを演じているようにしか今のぼくには映らない。
 
 
今なぜ戦争讃美か? 武田邦彦小論
              2015/06/17
 憲法学者たちが安保法制を違憲であると指摘する声を挙げている。この国にもまだ良識はあるんだと安堵するが、そんな声でひるむような政府ではあるまい、ということも確かなことだ。
 言ってみれば、自衛隊を軍隊として他国に送り込むことになるかもしれない法案、いや、日本を再び戦闘行為に引き込むかもしれない法案が成立するか否かというこの時期に、私が東日本大震災時に起きた福島原発事故後そのブログ記事に注目してきた武田邦彦は、予想に反し、法案にはほとんどコメントを寄せることなく、ただひたすら先の日本の戦争を讃美する文章を書き続けている。武田がなぜこの時期にこんな文章を黙々と書き続けているかについては私なりに想像出来るところがある。それは、安倍首相なども同類であるところの日本の歴史修正主義者たち(彼らが主として今日の安保法制を起草したと考えられている)の考えに共鳴、同調し、これを後方支援しているのだ。そうとしか思えない。そうでなければ日本の近い将来を左右するこの状況下に戦争讃美をだらだら書き続けるわけがない。そう思えて仕方がない。
 ところで、武田の主張はウィキペディアに掲載された次のような記事と根本は変わりない。(歴史修正主義で検索)
 
日本の状況についてケント・ギルバートは、「従軍慰安婦問題をはじめ、日本の近現代史では後から創作された話が、世界で「正しい歴史」として認識され、それを否定する側が「歴史修正主義者」として非難されてきたとし、例えば日本が東南アジア諸国や中国大陸で「侵略戦争を行った」というものがあるが、これは戦後占領政策としてGHQ(連合国軍総司令部)が世界中に広めたプロパガンダであり、後にダグラス・マッカーサーは「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった」と米上院の特別委員会で証言までしており、日本はこのような近現代の間違った歴史認識の修正を堂々と主張すべきである」と述べている
 
 ここに名を挙げられている「ケント・ギルバート」とは、一時期知性派タレントとしてテレビで活躍した米国人で弁護士の資格も持つ。親日家で日本びいきとみられるケント・ギルバートと武田の見解は基本的なところは同じで、武田の場合はこれに多少の資料や文献に当たっての肉付けがされている。違いはしかしそれだけだと言えば言える。
 ケント・ギルバートも武田も安倍も、いわゆる歴史修正主義者と目されるものたちは、先の戦争は「侵略戦争じゃねぇよ」と言いたいわけだ。ホントは彼らを歴史修正主義者とひとくくりにしてすむことではないし、歴史修正主義という命名も一方的で、どうかという思いは残る。
 私は侵略戦争だとする見解にもまた侵略戦争ではないとする考えにも、一部の真実はあるし疑問も残ると考えている。もっと言うとどっちが正しいかなんて永久に分からないことだから、そうした対立的な論議にはあまり興味も関心もわかない。ただ数百万と言われる兵士、非兵士の死を重く受け止め、戦争放棄をうたった日本国憲法の先進性を数百万の死と引き替えの大いなる遺産と考えないわけにはいかない。
 武田邦彦はしかし、ここのところで奇異なほどに情緒や情念的なものを前面にする。戦前のナショナリスト、農本主義者などの生まれ変わりでもあるかのように特攻隊員や戦争指導者たちの言動に感激してみせる。
 今日付のブログ記事全部を以下に掲載してみる。
 
2015年06月16日
最後の一撃 第十九話 
世界と日本を救った英霊

 

「母上様、幸光の戦死の報を受けても決して泣いてはなりません。靖国で待っています。きっと来てくれるでせうね。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければお父様お母様が死んでしまふ。否、日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきっとやります。母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。」

 海軍少佐 富澤幸光は昭和2016日、神風特別攻撃隊第19金剛隊でフィリッピンに出撃、戦死した。彼は北海道江差町の出身で23歳だった。

 彼が書いた文を涙なくして読むことができる日本人はいるだろうか? 昭和天皇、永野軍令部総長、山下シンガポール方面軍司令官、今村インドネシア方面軍司令官、冨澤幸光少佐・・・いずれの方もその責に応じて日本のために決断し、働き、そして死んだ。

 アメリカという強国が事実と異なることを主張して、どうしても戦争を仕掛けようとしたら、それを小さい国が回避するのは難しい。最近のイラク戦争がそうだが、フセイン政権は大量破壊兵器を持っていたわけでもなく、それを口実にイラクを攻めたアメリカも最初からウソであることを知っていた。アメリカという国はそういう国で、誠意も信義もない。

 国土が広くて自分たちだけでは手が足りないとアフリカから黒人を拉致して奴隷にする、インディアンが住んでいる土地が欲しくなれば騙してインディアンを荒野に移動させる、ハワイが欲しくなると王族を殺して力ずくでとる。そんな国だから、日本はアメリカの言うとおりに大陸からすべての軍隊と人を引いても、アメリカは日本を実質的な植民地にするまでは圧迫しにくるのは目に見えていた。

永野軍令部総長が言ったように、「戦争しなくても亡国、戦争して負けても亡国、勝つ見込みがなくてもせめて戦えば、子孫は誇りを持つことができる」ということで、勝たないまでも妥協するところまで持って行くことも可能だった。そしてアジア、アフリカ諸国が独立するという大きな功績を残した。

どこから見ても立派な戦争であり、そこで国に殉じた人は軍人、軍属、民間人を問わず、その霊をまつり、尊敬しなければならない。もっとも大切にしなければならないのは、東条首相、山下大将など国のために功績のあった人が、東京リンチ(別名東京裁判だが内容はリンチ)でリンチにあった人だ。

日本人の一部が、戦争犯罪人と呼んでいるが、まったく逆で戦争功績者である。アメリカの力が落ちたら、歴史が正しく認識され、日本人ばかりではなく、世界の有色人種は彼らを英雄とするだろう。

すべての殉職者は靖国に祀られることが第一だ。日本の神道は宗教ではないから信教の自由(もともと日本は信教の自由などは必要なかった。日本人は他人心の自由は犯さなかった)にも反しないし、お正月の初詣はもともと日本の習慣でもある。

中国(支那)と朝鮮は白人と戦ったことがないので、それが恥ずかしく、アジアののけ者になるのを恐れて白人と雄々しく戦った日本を非難しているが、そんなのは別に気にしない。長い期間を掛けて、彼らに人類が平等であること、国に貧富の差や身分の差があってはいけないこと、人間は誠意と礼儀が大切なことなど、人間の道を教える必要があるだけだ。

それは日本人が祖先を尊敬し、誇りに思い、靖国神社に参拝することにほかならない。中国と韓国が反対すればするほど彼らに歴史的事実を教え、反省させる絶好の方法である。

(平成27613日)

 

(原文のまま)

 
 以前から武田がこんなことを言うときに一番の違和感を感じるのは、「国」というとらえ方だ。それはアジア的な概念で、領土や機構、風土、そしてそこに生存する人々を全部ひっくるめて「国」という概念の中に放り込んでごっちゃに考えている。それが悪いわけではないが、そこには言葉にしてはいないが王族がいて臣下がいて、大衆がいるという図式が成り立ち、全体を「擬家族」と捉えるとらえ方が潜在している。もう一度言えばそういうとらえ方考え方はいい悪いの問題ではなく、ただそういうとらえ方考え方は歴史的後進性の範疇から抜け出ていないとだけは言える。もちろん後進的であることも悪いわけではないが、科学者を標榜している割には社会学的にどうしようもないほどの幼稚さを露呈して、「ちょっとかんべんしてよ」と言いたくなってしまう。
 以前から何度も言ってきたが、武田の口から出る「戦争」の話は詰まるところ「戦争指導者」の話がテーマになる。「アメリカの力が落ちたら、歴史が正しく認識され、日本人ばかりではなく、世界の有色人種は彼らを英雄とするだろう」という武田の見解に一部の真は見えても、けして世界の有色人種は「彼らを英雄と」考えるわけがない。畢竟、戦争というものは国と国との戦いと言うよりは政府間の争いに過ぎないし、その政府間の争いにそれぞれ自国民を巻き込んで、自国民を他国民に殺させる、そういうことでしかないということはいずれどの国の大衆にも認識されて行くに違いないのだ。仮に武田が言うように山下や東条が英雄とみられるときが来たとしても、その時、無名の大衆として戦地に散った兵士はやはり無名のままでいるほかないことをどう考えればいいのだ。武田さんよ。もしも今度戦争になったときに、いったいあなたは東条や山下であろうとするのか、あるいは無名の兵士であろうとするのか。はっきりと口にしてみるがいい。そして現在、平和時におけるあり方としての武田の立場は、東条や山下的であるのか無名の兵士的であるのかそれもよく考えてみるがいいのだ。もちろん今の武田の立ち位置が、過去の戦争を考えるときのとらえ方に反映してしまうことはどうしようもないのだ。
 支配者や指導者といった連中は、決して前線において肉の壁として盾になることはない。戦争であっても支配者や指導者は大衆の損に比べればそれほど損しないといっていい。結局損するのはいつも大衆で、指導者や支配者は大衆に損を強いる存在だというほかない。こういうことはフランスのシモーヌ・ヴェイユという女性思想家が言っていたことで、原発事故後に福島の人々のことを考え、あれほど東電や政府を批判してきた武田なら、戦争についてもよく似た構造を喝破してしかるべきはずではないかと私は思う。
 戦争について、何が武田からこのように冷静な客観視を失わせしまうのか分からない。
時に、武田の先祖に何かしら軍の指導部や近い関係者でもいたのだろうかと想像してみるが、ホントのところは何も分からない。ただ最近の武田の戦争讃美は度を超していると私には見えて仕方がない。
 
 
みんなで決めよう
  「自衛隊発動」 国民投票
              2015/05/31
 安保法案が国会審議に入り、政府と野党の間のやりとりなどがネットでもニュースとして流れている。いろいろ考えさせられることがある中で、どうしてもここは納得できないな、あるいはどうしてもそこは変えてもらわなければならないなと思われるところがひとつあった。それを説明するのにひとつの記事を例に挙げて説明するのがわかりやすいと思うので、ここに引用させてもらおうと思う。
東京新聞のweb版から以下に題する記事全文を拝借する。
 
 
他国軍支援も「政府裁量」 集団的自衛権と同じ
        2015年5月29日 朝刊
 
 安倍晋三首相は二十八日の安全保障関連法案に関する衆院特別委員会で、日本の安全確保を目的に米軍をはじめとする他国軍への支援が可能になる「重 要影響事態」の認定基準について「政府がすべての情報を総合して客観的、合理的に判断する」と述べた。他国を武力で守る集団的自衛権の行使が可能になる 「存立危機事態」の判断基準とほぼ同じ内容。他国軍支援も集団的自衛権の行使も政府の裁量に任されることになる
 
 重要影響事態は、朝鮮半島や台湾海峡有事を想定した周辺事態法を改正して新設。「わが国の平和と安全に重要な影響を与える事態」と定義された。
 
 首相は重要影響事態の認定基準について、日本の安全に影響する武力紛争に関する(1)当事者の意思と能力(2)発生場所(3)事態の規模(4)事 態に対処する外国軍の活動内容(5)日本に戦禍が及ぶ可能性(6)国民の被害−を列挙。これらに基づき総合的に判断すると説明した。
 
 一方、首相はこれまでの審議で、どういう状況で集団的自衛権を行使するかについて「個別具体的な状況に即し、政府がすべての情報を総合して客観 的、合理的に判断する。一概に述べることは困難」と説明。その上で存立危機事態の認定基準として(1)他国を攻撃した国の意思と能力(2)発生場所(3) 事態の規模(4)日本に戦禍が及ぶ可能性(5)国民の犠牲−を挙げた。
 
 ここでのこちら側の眼目は太字で表示してみたが、つまり「政府の裁量」で自衛隊を動かすというところにある。
 ここには暗黙の了解として、政府の判断が一番正しいんだとか、あるいはそういう最終判断をする権利とか力とかがあるんだとかという考えが潜んでいる。建前としてはこれに国会の承認を得るという事項が間にひとつ挟まってはいるが、しかしそれはある意味で単なる手続き的な意味合いのもので事後承認というケースが生ずることもあり得なくはない。これでは代議員制のさらに代表者としての政府閣僚に100%の決定権を持たせてしまうことになりかねない。民主主義の考え方からすれば、国民の委任を受けて議員となり、さらに政権を委ねられてという形になるが、だからといって首相をはじめとした政府閣僚が国民の意思の100%を常に背負って判断できるものなのかどうかは疑わしい。
 関連する記事などから判断すると、野党は一様に判断基準の明確化を政府に要求し、これに対して政府はそれをはっきりと示すことができないでいるようだ。結局のところ「総合的に判断する」という言葉を繰り返しているようで、たぶん誰がやってもそういう答弁以外はできないだろうことは目に見えている。野党の追及は、閣僚間の答弁の差異を引き出してそこに矛盾を見いだせばそれを攻撃するという戦法だし、政府側からすれば野党の攻撃をじっと耐え抜いてともかくも法案を通してしまいたいというところなのだろう。茶番劇というと悪いからいわないが、こんなことには少しも建設的な意味合いはないように思える。
 ここまで現実的に自衛隊の海外派遣や自衛の戦闘についても問題が浮上してきたのだから広く国民的議論に発展させ、さらに高次には、自衛隊を戦闘場面に動かす際は主権者たる国民の直接的な投票によって、過半数を要しなければならない旨の条項を憲法に付け加えるところまで議論が発展すればよい。
 最近の安倍政権などに見られる政府筋の姿勢というものは、時代に少し逆行して、政府サイドにあまりに権力を集中しようと意図しているかのように見える。はっきり言ってしまえばアメリカの大統領のように、大統領個人の強大な権限を羨ましく思い、それに近い権限強化を意図しているようでさえある。物事を迅速にそして強力に且つ効率的に進めるにはそれもひとつの方法なのだろうが、それならば選出の手続きのようなところから変えなければ筋が通らないわけで、思うことを何が何でも実現せねばならぬと只今の体制の中でごり押しする安倍政権の姿勢そのものが、国民意志の総和からは逸脱するものとなっている。国民はそういう姿勢までも安倍個人や政府に全権を委ねて良としているわけではない。安倍のように精神労働派のトップに立って、肉体労働派としての戦闘員を感謝と尊敬を込めて戦地に送り出すことを念願とする精神の倒錯者が出てきた以上、歯止めとしての国民投票の憲法への書き加えは、ますます現実的なものとして検討しなければならないと思える。
 自衛隊を戦闘の場面に動かす場合に、前述したように国民投票を要するとする考えそのものは、たぶん十年以上前に吉本隆明が提案している。また数日前には、福島原発事故後に宮台真司らを代表者として「原発国民投票」
なる市民運動が発足していたことを知り、吉本の提案もあながち非現実的なものではなくなってきたと感じるようになった。
 野党のような政治家連中もそうだし、宮台のような学者、その他知識人、文化人、市民運動家など、国際紛争を武力でない形で解決したいと希求する心あるものたちはまずは緊急に吉本提案を見直し、不毛な権力闘争、駆け引きから脱すべきではなかろうか。そして現実有効性を持つ戦闘の歯止めとしての、現在の法令国家における最善策といったものを考えていく必要があると思える。
 
 
沖縄について思う
              2015/05/27
 中国の南シナ海などでの強引な活動を見ると周辺国はもちろん、アメリカも黙っていられないということは分かる気がする。それくらい中国のやり方は強引に見える。ただ、規模は全然及ばないにしても姑息さでは同等のことを日本なども行っていて(中国に対抗する措置としての「沖ノ鳥島」での対策)、ただしそれでも周辺国との摩擦の大きさでは遙かに中国のやり方は突出したものだ。
 あまりに中国が強引なので、近々米豪の軍事演習が南シナ海を舞台に予定されていて、これに日本の自衛隊が初めて参加することが話題になっている。
 ぼくは素人で何も分からないのだが、少なくともこうした状況下で日本政府が沖縄の米軍基地の辺野古移設を急ぎ、沖縄の民意にあまりに冷淡と映るその姿勢及び、「選択肢はない」と主張する背景は何となく分かる気がする。安倍首相がアメリカ議会であんなにもあからさまに「よいしょ」したことも含めて考えると、まず安倍政権の辺野古移設についての意志は揺るぎないものなのだろう。
 沖縄県知事選挙に示された沖縄県民の民意は痛いほどによく分かったが、けれどもそれが沖縄県民だけのものであることもそれ以後の日本社会の動向の中ではっきりしている。本当は日本社会全体で大きく話題とし論議を尽くすべきところだが、そういう動きにはならなかった。ぼくらを含めて日本本土を中心に、太平洋戦争の末期と同じに無視や無関心が支配的であったと思う。沖縄県民にとって我々は同胞ではないと見えたに違いない。沖縄の日本返還を求め続けたあの政治意識はどこへ消え去ってしまったのか。
 ぼくはその当時、内心では『行きも地獄、帰りも地獄ではないのかなあ』と思っていたものだが、翁長沖縄県知事がアメリカに出向いて県民の意志を伝えに行かねばならぬそれ自体が、そうしたぼくらの不安が今日まで持ち来たった証ではないかと思う。
 国内で孤立し、占領国であったアメリカに直訴する、そういう手立てしか残らぬように本土は沖縄を遇してきたのだと言えよう。
 
 沖縄の民意を翁長知事から受けて、アメリカが沖縄から撤退することはどう考えても不可能だという気がする。残念だが、そう思う。すると沖縄の孤立はよりいっそう深くなってしまうのではないだろうか。そうなったらもう沖縄は開き直るしか手はない。日本本土に気兼ねしなければならないことなど何もないと言っていい。できるかできないかは別として、日本の統治から離れ、独立を視野においてもいいのではないか。
 いまや沖縄は要衝の地である。日米と中国の間に立って、大国を手玉にとるくらいのことをしたっていい。もちろんこんなことはぼくの勝手な妄想に過ぎないのだが、もはや沖縄は翻弄される側から翻弄する側へと自立的な道を探るほかにないのではないか。それぞれの国はあまりに身勝手すぎ、沖縄に犠牲を強いて来て、この上にさらに過酷さを強いていくように見える。どうか県民一丸となって自分たちの行くべき道を行ってほしいと願うばかりだ。そのことを心から念じてやまない。
 
 この文章はこうした状況を迎えて無言よりはましという思い一つで書き記しているものだ。単なる放言に過ぎないといわれればその通りだが、おそらく沖縄県民の思いを本土にいるぼくらは大部分を汲み得ていない。そして相当の断絶がそこには横たわっているという気がする。ぼくはこうしたことを翁長知事の訪米の予定の報道によって気づきの端緒とし、日を追って、これは大変な事態なんだなと考えるようになった。この、大変な事態なんだなということを少しでも共有してもらいたいという思いに駆られ、急ぎ、ここに公開した次第だ。ここから当分の間、沖縄の問題を注視して行かなければならないと思っている。
 
 
少数派(好戦派)の考えに巻き込まれるな
              2015/05/14
 4月末に日本の安倍首相はアメリカの上下両院の合同会議の席で演説を行っている。その内容は一言で言ってみれば、アメリカが戦闘状態に入ったときは日本が武器を携えて助っ人に駆けつけますというものだ。演説が終わると、議員たちの多くがスタンディングオベーションで安倍を讃える姿がテレビ画面に映し出されていた。アメリカのために自分の国の国民が犠牲になるかもしれないのに、それを厭わずに協力を申し出る奇特な申し入れを、幾分かは怪訝に思いながらも、アメリカ議会の議員たちは「ありがとう」という意思表示を見せるほかなかったろうと思う。
 この一連の画面の流れから、日本の戦闘への参加はもはや時間の問題だなと感じた。安倍はアメリカの戦争に加担しますと言明した。この後は、自分の都合でも戦争しますという流れをいつ引き込むかという課題を残すばかりだ。もうその流れは始まった。
 
 その後、日本のマスコミはこんな大事のことを大きく取り上げることをしていないように思える。もしかすると戦後一番の重大事なのに、日本社会のこの不気味な静けさは何なのだろうか。
 
 戦後の戦争放棄の理念、平和国家樹立の夢はここに頓挫したと言っていいと思う。左翼思想、進歩思想はすべて蹴落とされた。
 どうして保守派の間でも少数派に過ぎない安倍を筆頭とする歴史修正主義者たちに、こうも簡単に押し切られてしまったのか。一つには彼らが少数派(歴史修正主義者たち)だったからであり、また一つには安倍個人のニュータイプの「ばか」が意固地に努力を傾けたその結果であるということはできる。一度の失敗から教訓を得て、その教訓を生かし、安倍は戦後では初めてというくらいの重大な「ばか」をしでかすことができた。
 
 野党もマスコミも何の歯止めにもならなかった。知識人も学者も、主権者たる国民も指をくわえて見つめるだけのことだった。安倍が大事をなし終えてから五百人規模のデモを行ったところでなんになろう。後の祭りだ。僕たちの子孫のうちの誰かは、確実に戦地に赴きそこで命のやりとりに火花を散らすことになる。夢にも思わなかったそんな事態が急に現実のものになった。とはいえ、まだまだ人々の意識のうえでは空想か何か、あるいは悪い夢でも見ているようにしか受け止められていないようだ。それがこの静けさだ。
「歴史は繰り返す」という言葉にいくらかの真実が宿っているとすれば、明治、大正、昭和と、いくつかの大規模戦争突入にあたって、今回のようなそれとは無しの、演出、契機といったものが作り出されたもので、はじめから国民の大合唱があってのことではなかったと思われる。つまり、いま、この時に、戦争を阻止する手立てを講じられなければ僕たち日本国民は過去からの教訓を何一つ得ないで過ぎてしまうということになるだろう。先の戦争で戦い、死ぬことを余儀なくされた人々がそれを望んでいるとは思えない。
 
 僕らは先の戦争において欧米をはじめとする国際的の対応を、すべて正しいものと考えているわけではない。世界で唯一原爆を落とされ、多くの一般大衆に多大な被害を与えられた日本は一方的に断罪され、世界は戦勝国アメリカの残酷さに目をつぶってきた。これは今日の世界の先進国、軍事大国、好戦的な国家の現在にまで持ち越されている残忍さで、国際世界はこれを解決していない。本当は欧米は自らにそうした先駆的な問題を抱えている。これを自らによって解決する力を持っていなかったといえばいえる。そういう問題は残っている。しかし、これを腕尽くで、力尽くで、あるいは姑息な戦略を持ってして改めさせようと考える日本の歴史修正主義者たちの主張をそのまま認めることはできない。
 僕にいわせれば、こいつらは日本国の名誉回復など時代錯誤のことを考える連中で、実存する大衆の生命の重さなど永遠に実感できない連中だ。我々一般大衆は昨日、今日、明日と、日々生活に追われながらも精一杯をいまに生きており、国際世界での日本国の名誉回復などひとときも思うことなく毎日を過ごしている。この無言の大衆の生活力を抜きにしたら、もともと国の形すらが成り立たない。そしてどんな時代にも大衆の願いは一つで、いまこの時の生活をよりよくする、その一点にかかっている。仮に何らかの形で日本国の名誉回復がなされたとしても、それは大衆にとって第一義のものではあり得ない。では、誰にとってならば第一義になり得るのか。それはただ単に統治の側に身を置こうとするものにとって一義の問題になるに過ぎない。統治の側に位置するものだけが心地よくなるだけのことで、それは必ずしも一般大衆の生活レベルを上げることに直結する問題ではない。
 
 自国民が戦地に赴くことに反対もしくは懐疑的な、大多数(?)の政治家たちはいまこの時、いったい何をしているのだろうか。ふだん高みから、「ああせねばならぬ」「こうせねばならぬ」と恥ずかしげもなく口にする学者、知識人連中は声明を発表する以外に何ができるのか。
 想像するに、明治、大正、昭和の各時代における戦争前夜の光景も今日いまの状況と似たり寄ったりではなかったか。そしていつも好戦派に押し切られて後に反省を残してきた。
日本のエリートの多くはいつもそうだ。たって果敢に立ちふさがるべき時に、流れに押し流される脆弱さを免れ得ない。
 
 もちろん僕たちとて犬の遠吠えみたいなこんな発言を繰り返すしか能がない。考え、また考えたことをネットの片隅にちょこんと掲示することだけで精一杯なのだ。そのついでにいえば、こういうことはどうかという提案だけは述べることができる。
 それはかつて吉本隆明が提起していたことなのだが、ひとつには憲法を改正して、もしもその時の政府が軍隊を海外に派遣しようとするときには、国民の直接の投票を要するという条項を憲法に書き加えるということを即刻実現することだ。これは野党与党を問わず、多数の政治家が超党派を組んで実現しなければならないことだ。僕らはこれを未だ良識ある多数の政治家たちに求めたい。もしも少数派に過ぎない政権担当者が強権を発揮しようとするならば、その歯止めはこういう形でしかなしえないだろう。
 もう一つにはすでにネットでの呼びかけを見たことがあるが、国民が一斉に購買力を控えて経済を縮小させ、そのことでもって現政権を交代させる運動を組織することだ。遅まきながらその上で法制を改正したり、先述の憲法改正に踏み込んで政権の暴走だけは阻止すべきだと思う。
 どちらが先にすべきことでまた有効なのかはいまの時点ではよく分からない。いずれにしても国民大衆を第一義に考える本物の政治家はいるのか、あるいは本当のボランティア運動家はいるのかにかかっていよう。僕はここらが最後の砦だろうと思うのだが、とりあえずこの時点では急遽こんなことだけは述べておきたいと思う。
 
 
武田邦彦の歴史認識に一言
              2015/04/27
 武田邦彦は社会状況や思想状況に対して日々自身のブログにコメントを載せていて、その切り口がおもしろいと感じてぼくがよく訪れるブログのひとつとなっている。
 一つ一つの記事は短く、最近では音声によるコメントが多くなっているが、よく練られた文章や発言と言うよりは状況に対する反射的な対応というように受けとられる。そのために時折拙速と感じられる発言や文章もまま見受けられるが、そういうことがあっても状況に対するとりあえずの表現を継続して行っていることには敬意を表さずにはいられない。表出自体を面倒に感じたり、ある場合には口ごもってやり過ごしたいと思う出来事にぶつかることがないわけではないと思うからだ。ブログの更新は土日を除いて毎日のように行われている。つまり、毎日キーボードを打つために指先を行使しているということになる。これはまあ言葉の表現の世界では1人前の表現者と呼ばれる条件のひとつと考えられて差し支えない。ぼくはそう思っている。
 ところで、このような武田邦彦を、あるいはまたテレビのバラエティー番組に出演する面も併せて考えて、ユニークでおもしろい学者さんだなと割合肯定的に見てきているが、一点だけどうしても共感できない部分がある。それは彼の過去の日本が行った戦争についての考え方で、それは大きくは歴史観というものにも触れる。
 ここではまずは4月24日付けの「今を知る003 戦後**年談話」、とても短いものなので、ここに全文を掲載してみる。
 
今を知る003 戦後**年談話
 
歴史を勉強せず、ただ学校で習ったことが正しいというレベルだった村山首相が「反省する」などという談話を発表したものだから、こじれにこじれている。日本人は謝れば相手は憐憫の情で許してくれるだろうと思っているが、日本民族以外は謝ると居丈高になるというだけのことだ。
そして今、日本は10年ごとに首相談話を出し、謝っている。でも安倍首相は談話を出すべきではない。
理由
1) 日本は戦争で、有色人種民族を独立 させた。だから素晴らしい功績がある。
2) 日本が戦ったのは白人だけである。
3) 日本が中国と戦ったのはアジアで白 人側についたのは中国だけだったから だ。
4) だから中国は白人国家である。
5) しかも日本は現在の共産中国とはほ とんど戦っていない。
 
第二次世界大戦で「日本が悪いことをした」というのはアメリカの洗脳であって、事実ではない。ヒットラーと昭和天皇はまったく違う。それは昭和天皇の権限がなかったというのではなく、ドイツはともかく、日本は世界に良いこと(白人の植民地を解放した)をしたのであって、反省することはない。
日本を批判している中国も韓国も日本が白人と戦ったから、現在、独立しているのであって、中国も韓国も白人の植民地政策に対して命を捨てて戦ったことは無い。
誤った歴史観に基づいた談話を日本の首相が発言するのは止めにするのは当然である。
(平成27年4月21日)
 
 武田のブログを注目するのは日常会話の次元でのことで、マジに、武田を重視しているというのではない。だから彼が、たとえば安倍首相に象徴されるような日本の歴史修正主義者たちとの関連があるのか無いのかなどは分からない。ただこういう文章を見る限り、思想の縁戚関係はあるのだろうと思われる。 好意的に解釈すれば、ここに表れたプラグマティックな視点は一種の真理を突いていないことはないと思う。だが認識そのものは荒く到底聞くに堪えないものとなっている。たとえばぼくも、村山首相の談話などには何の関心も持たないが、武田は村山首相の発言を「日本人は謝れば相手は憐憫の情で……」というように日本人全体の問題のように差し替えている。ぼくにはこれは武田の「チョンボ」のような気がして仕方がない。確かに日本人にそうした傾向が皆無ではないかも知れないが、こんなに単純に日本人の心性を語ってもらってはかなわないなとぼくは思う。また、「日本民族以外は謝ると居丈高になる」という場合も、その傾向性は感じられないわけではないがあまりに割り切りすぎる言い方のように思う。
 ここで武田が「日本人」というときに一体誰のことを指しているのか、「謝れば相手は憐憫の情で許してくれるだろうと思っている」単純な心性の持ち主などぼくは過去に出会った試しなど無い。もちろん、「誤ると居丈高になる」外国人に出会ったこともないから、外国人がそうだといわれてもいちがいに信用する気にはなれない。武田は往々にしてこういう一括りの言い方を簡単にしてしまうところが見られる。どう言えばいいだろう。武田のような言い方は白黒つける場合に有効な言い方かも知れないが、ぼくはそう簡単に白黒つけられないと思うし、人間の心性はおしなべて武田が言うよりももっとグレイゾーンにあるものだと認識している。「ごめんなさい」の言葉にもいろいろなニュアンスが含まれていて、それは語る人、発言の数だけみな違っているはずだ。それを単純に「日本人は」とか「日本民族以外は」という言い方で切り捨ててほしくはない。
 ぼくが村山談話に否定的なのは、口先では謝っていながら補償問題に関しては解決済みとして、終始国家間の問題として処理してしまったことだ。他国民が国家の枠を越えて直接的に補償を求めてきたときに、直接的にこれと向き合うことをしない国家の指導者は、自国民に対する姿勢の中にも同様の突っぱね方をするメカニズムを保持しているものだと思う。
 その事はともかくとして、武田はここで歴代の首相談話に否定的な見解を示し、その理由として第一に、「日本は戦争で、有色人種民族を独立させた。だから素晴らしい功績がある。」から謝る必要はないのだと述べている。口先だけの謝罪はぼくも必要ないと思うが、ここでの武田の言いぐさは同じ程度に愚かだ。まず戦争を国家間の問題としか見ていない。自国、他国を問わず、心の底のどこかにはこんなことでは死にたくないという思いを残しながら戦争にかり出され、傷つきあるいは死んでいった、主に身体を賭して戦う戦闘員のことが一切顧みられていない発言だと言うことができる。どんな名目を持ってしても素晴らしい戦争なんかあるものではない。
 武田がここで垣間見せている論理は、武田の嫌いな欧米人の植民地主義に使われた論理と同じで、植民地化されたことでその国や地域の文明が加速的に高度に発達し、また民衆の自立に貢献したという言い方と同じものだ。だから、「植民地化には素晴らしい功績があった」と述べられたら、植民地化に否定的な武田も反論できなくなるはずだ。あっちはダメだがこっちはいいということは出来ない。どちらもいいとは言えないが、人間の歴史はそういう部分を含んで進展してきたというほかはない。「日本は世界に良いこと(白人の植民地を解放した)をしたのであって、反省することはない。」も同様で、「正義の戦争」ならよいというのと同じだ。そんなバカな話はない。
 ついでだから言えば、「日本が中国と戦ったのはアジアで白人側についたのは中国だけだったからだ。」とか、「第二次世界大戦で「日本が悪いことをした」というのはアメリカの洗脳であって、事実ではない。」という発言も自分たちに都合のよい部分を強調した言い方で、実際には欧米の植民地主義に似て根本には利益を求める心性から発していることは疑えない。また欧米の植民地政策の実施の過程で様々な残虐行為や陵辱その他があったであろうように、日本の兵士がみな大陸で聖人君子の振舞いを徹底できたはずはないので、そういう面に無理矢理蓋をかぶせるような発言もあまりに意図的すぎると言えよう。そういう意味ではこれらの武田の発言は、安倍首相の戦後レジーム(戦後体制)からの脱却発言に酷似してくる。思うに安倍や武田の発言は自虐史観の裏返しに過ぎず、日本人による日本国の歴史観を正当に反映したものとは言えない。ぼくには戦前までの純日本風の良さという面を過大に評価し、それの言いつのりが性急で、かえって他からの顰蹙を買いそうな不安を抱え込むものだと思う。昔から国内においてもこの種の隣人はいるもので、先人は戒めの中に、他人がどう思っているかに頓着無くとくとくと自分の主張ばかりを述べることを挙げている例もある。日本が行った戦争ばかりではなく、戦争というものが自国と他国とを問わず両国の国民大衆に何をもたらすものであるかを考えたときに、どんな大儀を掲げていたにせよ「あの戦争はよかった」などとは口が裂けても言うべきではないのではないか。「戦争で良いことをした」とは、良いことをしようと(正義を掲げて)行う戦争を肯定することになる。こういうことを言ったりするのはいつも文化的エリートや指導層にあるものたちで、敵弾にあたらない場所で作業に従事することを前提に考えている立場にあるものたちばかりだ。単に下層の大衆の位置にあるものから言えば、「お願いだから国を守るとかを考えるのなら、一番国家の恩恵を被っている頭の良い君たち自身が先頭に立って好きなようにやってきてくれ。それがいやだったり出来ないというのなら、今後一切戦争について勝手なご託を並べないでくれ」と言いたい。
 今日は武田の傍観者面の指導者面があまりに気にくわなく感じたのでひとこと言っておきたかった。
 
※追記
 戦後体制に反対するいわゆる歴史修正主義者の考えと、その考え方をどう位置づけるかについて比較的にわかりやすいと思われ、また大筋で違和感の少ない文章をたまたまネットに見掛けたので資料として以下に引用する。
提供主体の「法学館憲法研究所」なるものがどういう団体なのかはよく分からない。サイトのトップページの下部に朝日新聞とか赤旗の文字があったのでおそらく左翼系の団体だとは思うが、左翼色を少し抜きながら読み進めれば、まあまあ大過なく「戦後レジームからの脱却」の流れを理解できるように思える。
自分の中での確認の意味合いと、こういう問題を苦手とする人の参考になればと思う。
 
 
法学館憲法研究所
中高生のための憲法教室
 
第42回<戦後レジームからの脱却>
 
 安倍首相は総理大臣に就任して以来、「戦後レジームからの脱却」が必要だとして改憲を主張してきました。今月はこの意味を考えてみましょう。まず、戦後レジーム(戦後体制)とはどういうことなのか、第二次世界大戦に負けて60年前に現在の憲法が施行される前後、つまり明治憲法下の戦前と戦後を比べながら明らかにしてみましょう。
 戦前は、1874年の台湾出兵に始まり、71年間もアジアに向かって軍事侵攻し戦争をし続けた国でした。戦後は新憲法の下で、「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」た上で、9条2項によって戦力を持たず、一切の戦争を放棄しました。その結果、60年間直接的な戦争をしない国でい続けることができました。
 戦前は、国のために犠牲になることはすばらしいことだと教育するために、国家が教育内容を決めて介入してきた国でした。戦後は、教育基本法を作り、教育は不当な支配に服することがないようにし、教育行政も条件整備に限定しました(旧教育基本法10条)。
 戦前は、戦死という悲しい出来事を、国のために戦って死ぬことは名誉あるすばらしいことだと讃えるために靖国神社という仕組みを作り、宗教を戦争に利用した国でした。戦後は、政治は宗教に関わってはならないという政教分離原則を採用しました(20条3項)。
 戦前は、思想良心の自由は保障されず、君が代や日の丸を通じて、天皇崇拝や軍国主義思想が強制されました。表現の自由も法律によって自由に制限できる国でした。戦後はこれらの人権を憲法で保障し(19条、21条)、国会が作った法律でも不当に人権を侵害できない国になりました。
 戦前は、都道府県は政府の出先機関のような役割を果たすだけでしたが、戦後は、地方自治を憲法で保障し、政府が地方自治の本質を侵すことができないとしました(92条)。
 戦前は、障害者、女性、子どもを戦争に役立たないとして差別した国でしたが、戦後は、差別のない国をめざしてきました(14条)。
 戦前は、華族・財閥・大地主のいる一方で貧困に喘ぐ人々も大勢いた格差のある国でしたが、戦後は、貴族制度を禁止するとともに(14条2項)、財閥を解体したりする一方で、すべての国民の生存権を保障し(25条)、格差の是正をめざす国となりました。
 そして何よりも、戦前は、天皇が主権者であり、その国家のために個人が犠牲になることがすばらしいという価値観の国でしたが、戦後は、主権者は一人一人の国民となり(1条)、その個人の幸せに奉仕するために国家があるのだという個人を尊重する国になりました(13条)。
 国民は60年前に憲法を制定して、こうした戦前の旧体制に決別して新しい国になることを決意したのです。これが戦後レジーム(戦後体制)です。この新憲法下の戦後体制のもとで、国民は、一人一人を大切にする新しい時代の日本に生まれ変わろうと努力してきました。戦前のように教育に国家が介入したり、宗教を利用しようとしてきたら、憲法がそのような国家の行為を禁止し、これを止めてきました。政府が海外で軍事力を行使しようとするときに、憲法がそれをくい止めてきました。憲法は国家権力を縛って、私たちの権利・自由を守り、平和を守ってきたのです。
 この戦後レジームから脱却するということは、これらの価値を否定して、つまり、60年前に戻ることを意味します。
 安倍総理はまず教育基本法を改正して、教育の目的を「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成」(新教育基本法1条)としました。つまり国を支えるのに相応しい国民の育成を教育の目的とし、国家のための教育としました。その結果、国を愛する態度が教育の目標として掲げられ(2条)、靖国神社を参拝して宗教との関係を復活させようとします。また、有事立法の下では地方分権も名ばかりです。女性蔑視発言をする閣僚を抱え、女性差別をなくすための民法改正に消極的です。医療制度改悪、障害者自立支援法という名の弱者切り捨てを強行し、アメリカ流の極端な自由競争の結果、所得格差、教育格差、情報格差が広がっています。そして何よりも、個人よりも国家の価値を大切にすることを国民に押しつけようとしています。これが戦後レジームからの脱却の意味であり、その集大成が「戦争ができる国」にするための憲法改正です。
 ですが、戦後の日本が歩んできたこの憲法の体制を維持し発展させるか、それとも大きく変えて昔に戻すかを決定するのは、あくまでも主権者たる国民であることを忘れてはなりません。