日記風2017年4月から
 
目次
 敗戦の成就
 憲法論議に一言
 それでも悪政は続いていく、だったらどうす
 「皇室は遥かなる東洋の叡知」を読んで
 科学者武田邦彦への疑問
 
敗戦の成就
              2017/07/07
 内田樹の6月30日付のブログ(内田樹の研究室〈『日本の覚醒のために』まえがき〉)に、次のような記述が見られる。
 
僕の眼にはいま日本のさまざまなシステムが劇的な劣化局面にあるように見えます。僕が直接に見聞して、事情を熟知しているのは大学教育ですけれども、これはもう「手が付けられない」というくらいにひどいことになっています。昨年の10月にはアメリカの政治外交研究誌である『フォーリン・アフェアーズ』が、今年の3月にはイギリスの科学誌『ネイチャー』が、相次いで「日本の大学教育の失敗」についての特集を組みました。21世紀に入ってからの日本の学術的発信力の劣化は、先進国唯一の事例であり、海外メディアの研究対象になるほどに例外的なものなのです。
でも、文科省もメディアもこれを無視しています。「それは違う、日本の高等教育は成功している」と思っていればきちんと反論すべきですし、「ご指摘の通りである」というのであれば、過去の教育政策の何が悪かったのかを自己点検し、修正すべきものを修正すべきでしょう。でも、どちらもしなかった。
現に失敗しており、それを当事者たちも知っているのだけれど、失敗を認めず、引き続き失敗の「上塗り」をしている。それが大学教育について僕が知っていることです。こんなことがもうしばらく続けば、日本の学校教育のインフラは破壊され、教育研究のレベルが20世紀末の水準に復活することはもうないでしょう。 
こういう劣化現象はシステムの局所に単発的・例外的に発生するものではないはずです。おそらく政治経済学術を含めてシステム全体が壊死し始めている。そう診立てた方がいい。ご存じの通り「失敗を認めず、失敗を検証せず、失敗を重ねた」というのは大日本帝国戦争指導部の「失敗」の構造そのものです。そのせいで、日本人は国家主権を失い、国土を失い、国民的な誇りを失った。その失敗から戦後日本は重要な教訓を得たはずでした。でも、今の日本を見ていると、この歴史的経験から学んだようには見えません。
 
 内田が、「おそらく政治経済学術を含めてシステム全体が壊死し始めている。そう診立てた方がいい。」と言う時、その認識は何ら格別のことではないように思える。内田以外の多くの知識者もまた日本の現状について、似たり寄ったりの考え方をしているのではないだろうか。だが、それまでのシステムの構築やそれによる成長や繁栄も本当は上辺だけのもの、見かけだけだったのかも知れないではないか。内田たちの思考の触手はそこまで届こうとはしていない。
 内田はここで、システムの壊死、崩壊の元凶を、
 
「日本はアメリカの属国である」という現実から眼を背け、国家主権の回復も国土の回復も諦めて、国家主権を持たないのに主権国家のようなふりをし、二流国なのに政治大国のような顔をするというファンタジーと自己欺瞞のうちで眠り込む
 
連中に帰そうと考えているように思える。つまり、彼らへの批判を眼目としてこの文章は書かれている。
 ぼくは、内田の言い分の半分くらいは認めていいような気がしている。後の半分は、これくらいの批判ではどうにもならないでしょうと思う。あえてこういう言い方をすれば、こんな程度で日本の崩壊を留めることなどできやしないと考える。また、今日の日本のシステム全体の壊死、あるいはこれを崩壊現象と呼ぶならば、これは内田の批判する連中のせいばかりではなく、元々の根っこは先の敗戦に起因するものだと考えたい。
 先の敗戦によって確かに当時の日本人のほとんどはどん底を経験したかも知れない。しかしそれは物質的あるいは表面上のどん底を経験したに過ぎない。痛みもあり流血もあったが、それに耐え、どん底から這い上がろうとしてやがて奇跡的な経済復興を果たし、その先に経済大国にまで上りつめた。それはでも、敗戦によって重傷を負いながら瀕死になりつつ、神経が麻痺していたためにそれと気づかず、しゃにむに働き続けた結果のことでしかない。ボディーブローのように、戦後70年を経てじわじわとこの国と国民とを根源から蝕む、敗戦による真の痛手というものは、今日においてもまだその進行を止めていないのではないか。地域社会の分断しかり。家族形態の分断と崩壊しかり。幻想や観念の分断しかり。言ってみれば、今なお敗戦処理の途次にあるというのが本当のところではないかとぼくは考える。いや、敗戦処理どころではない。敗戦がこの国と国民を根こそぎにしようと今なお広がり続けている。そう見立てる方がいいのだという気がしている。
 十年ほど前になるだろうか、マスコミ等で盛んに若者の貧困が話題に上った頃、吉本隆明は当時「第二の敗戦期」という言い方をしていた。それには戦後すぐの敗戦期とは別の意味あいが含んでいたように思う。ぼくはそれを第一の敗戦の内在化、あるいは徹底化、現実化、の過程と考えたいと思う。言い替えれば、今日においてやっと敗戦は成就しつつある、ぼくはそう考えざるを得ない。
 まだ全貌をとらえ切れているというわけではないのでどう思われてもいいが、ここでは問題意識がそういうところにあるということを述べるにとどめておきたい。
 
 
憲法論議に一言
              2017/05/26
 安倍首相は2020年までに憲法改正を行いたいとして言明し、その準備に取りかかるよう各種関係機関に指示を出し、現在着々とその準備が進み出したというように聞いている。今回の改定、改正の骨子と考えられるのは、九条はそのままに、ただそこに自衛隊の存在を明記した項目を付加するということのようである。
 このことに対し、テレビやネットのニュースの記事や解説、あるいは知識人や文化人たちのさまざまな発言が賑やかに飛び交っている。それら全てに目や耳を行き渡らせているわけでもないし、あるいは深いところで議論を考察しているわけでもないけれども、ざっと見渡すところ注目すべき見解というものは見当たらない。
 現在までのところ、日本が一度も自前の憲法を作ってこなかったし持っていないということは確かなことだと思える。明治憲法はヨーロッパ、特に当時のドイツの憲法を借用する形で成ったものだし、現憲法は戦後のアメリカの占領下という事態の中で成立したもので、識者によってはこれをお仕着せの憲法だと解説するものもいる。
 戦後70年を経て、さらにいま述べたような経緯から、自前の憲法をという話が出てくることは理解ができる。また、実際には自衛隊が存在し活動もしているのだから、整合性の上で憲法にその存在を明記すべきだという主張にも、まあ仕方がないんだろうなというくらいの理解は持つことができる。
 わたしは、この国に住む一人の生活者に過ぎないのだから、ここで憲法問題についての総括的な議論はとてもできそうにない。だが、だからといって何も意見がないのかと言われると困るから、いま言えそうなことだけはここで少し言っておきたいと思っている。
 ざっと考えて、こういうところが保証されるならば憲法はいかように変えてもらってもいいよということが一つある。
 それは何かというと、今日の日本は国民主権、民主主義の国と言われるけれども、少しも国民生活者の直接的な意志は政治に反映されているとは言いがたく、自衛隊もまた時の政府が勝手に動かしている。
 戦争というのは実は国民同士の争いではなく、国家間の争いであり、もっと厳密に言えば政府間の争いであると見なすことができる。政府が勝手に軍隊や自衛隊というものを動かすことを肯定したままでいたら、国民あるいは民衆の意志に関係なく戦争に突入してしまう危険は常につきまとう。そこで、自衛隊を海外に派遣する必要が生じた場合に、これを直接国民投票によって、あるいは緊急を要するから不作為の代表制というものを組織して、そこで自衛隊を動かすかどうかの決定をできるようにすればよいと考えるのである。
 つまりそういうような条項や項目を一つ付け加えることができたら、さしあたって政府や自衛隊の暴走は食い止められるし、わたしたち民衆、生活者の意志も反映されて、一応の納得の選択ができるのではないだろうかと考えられる。
 もう一度、とりあえずここで言っておきたいことを整理して言えば、わたしたち生活者、国民の意志を直接反映できる条項を憲法に盛り込むということである。これがなぜ必要とされるかというと、今日までのところ、日本政府の首脳というものは国民の意志とは関係ないところで勝手にいろいろなことを決めてしまうことが多いからだ。これまでの自衛隊派遣も自分たちの政治的な判断によってのみ行ってきたし、これからだってそうだろう。これを防ぎ、少しでも一般生活者、民衆の意志を反映させるためにはこういう項目や条項を設置する以外にない。そしてまたこれを憲法に盛り込められたら、仮に自衛隊を憲法に明記するようになったとしても、歯止めとしての機能を十分に果たしうると思われる。
 
 現状から判断して、安倍政権下での憲法改正は十分にあり得ることのように思われる。これを野党が食い止められるかというと、まず無理だろうというのがわたしの判断だ。加計学園の問題などから失脚する可能性もなくはないが、そうでなければかなり現実味を帯びてきていると言えそうに思う。だったら与党の草案を待たず、もっと大胆な改正案を野党側が提案してもいいのではないか。
 実はここに示したわたしの考えは、わたしの創造ではなく、だいぶ以前に故吉本隆明が示していたものを下敷きとしている。だからもう少し詳しく検討するとすれば、直接吉本の著作の中にこれをさがす方が手っ取り早い。わたしはその中で、自分が了解しやすいような基本の基本の形で記憶にとどめてきただけに過ぎないからだ。
 わたしとしては、ここでは、ここまでに述べてきたことを表白すれば必要にして十分である。それ以上のことはいまのわたしの任ではないと思っている。いつか十分な時間がとれ、考えられる余裕ができれば別だが、今のところはできそうもないというのが実際のところだ。とりあえず、最低限のところは表明しておきたいと思い、ここに書き記したということになる。
 
 
それでも悪政は続いていく、だったらどうするかを見つけるのが知の責任
              2017/05/05
 だいぶ以前のことだが、政権交代はマスコミの力によるところが大きいと思ったことがある。この思いにはさしたる根拠はないし、そんなことも考えてはいないからどうでもいいことだが、現在でもそういう傾向のもとにあるという気はしている。ただ、そのマスコミがどういうわけか今日の安倍政権に対して辛辣に牙をむいて立ちふさがるふうでは少しもない。というより、まるで牙を抜かれたようにおとなしい。政権と一緒に仲良しこよしの道を歩んでいるようにも見える。
 安倍夫人と森友学園の関係は、籠池理事長の発言により、安倍政権の存続を左右する起爆剤になるかと思われたが、マスコミ報道ではそれほどの加熱が見られない。加えて野党の追及も手ぬるい。第一次安倍内閣の時に露呈した安倍首相の打たれ弱さから推測し、もう少し炎上すれば自滅するかなと思われるところで踏みとどまっている。まあよい意味でも悪い意味でも学習効果があったということだろう。
 安倍政権に対して、内田樹はブログで「神奈川新聞のインタビュー」と題し、その前置きに次のように書いている。
 
憲法記念日に神奈川新聞にロングインタビューが掲載された。いつもの話ではあるけれど、これを愚直に繰り返す以外に悪政を食い止める方途を思いつかない。
 
 内田は要するに「悪政を食い止める」ためにインタビューを受け、これまでと似たり寄ったりの話をくり返しているよと言っていることになる。さらにご丁寧にこれ以外の方途を思いつかないと告白している。
 わたしなどからすれば、知識人や思想家の発言によって政権が覆ったことはほとんど皆無に等しく、大衆を、世論を、動かす力が無いことは自明のように思える。知識や思想が、深くそして真に近いものほどそうなのだと、今は考えるようになっている。
 内田が、安倍政権を打倒したがっていて、これまでに運動まがいのことに積極的に関わってきていたことは少しだけ知っている。その時点で、わたしは違うなあという感想を持ち、内田というひとへの興味関心は薄まった。 冒頭に述べたように、一つの政権の存続の鍵を握っているのは、表面的にはマスコミの力によるところが大きく、内田の発言の多くはマスコミの良識、良心に向けたものであったろう。それを介してマスコミの流れを動かし、政権打倒の風を起こしたかった。そういうことなんじゃないかなと思う。つまりその時は知識人、マスコミ、、大衆が一つの流れを形成しないといけないのだが、如何せんそれぞれはバラバラのままである。特に今日のマスコミは大衆の思いを取り込む課題を放棄し、逆に大衆の意識を操作する側に回っていて、マスコミの言うことに大衆は半信半疑になっているのが現状である。
 政権と同じでマスコミもまた一つの権力と化している。マスコミがどれほどの嘘をついてきたことか。わたしは一つにはタバコ問題で測ってきた。一事が万事で、こんなところに良識や良心を求めても無駄だとわたしは思っている。
 わたしは内田のこのインタビュー全体の記事の印象として、それほど厭な感じを抱いてはいない。だが、内田の教育問題に関する発言にも顕著に見られたことだが、発言の際の立場の自己規定が最初からわたしを遠ざけるように作用してくる。たとえばこのインタビューの結びの言葉、
 
けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について私たちは好き嫌いを言える立場にはない。それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。
 
 この中の「国民国家のメンバー」と、あえて自己規定する言い方にわたしは戸惑い、そして立ち去るということになってしまう。わたしは心のどこかで、日本社会のメンバーとしてであれば即座に頷くことはできるが、「国民国家のメンバー」と規定されると、抵抗無しに頷くことができないと考えている。それは国家というものを社会の上に乗っかっているものとイメージするからだが、さらに言えばそれはいずれ消滅していくものと考えているからだ。行きがかり上、現在わたしは日本国国家のメンバーとして組み込まれている部分もあるが、わたしはそれがわたしの全てではないと思っている。
 わたしは国家とも関係しているがそれよりも多く社会と関係し、さらにいずれとも無関係に、閉じた自己の世界というものの中にも住んでいる。
 内田は明治以降の国民国家がたいそうお気に入りのようで、ブログの記事ではたびたびこの言葉の上に立って発言している。それはわたしには、国家として閉じる、国家に収斂していこうとする意志のように思われてしまう。別にそういう考えがあってもいいし、そういう考えにいちゃもんをつける気はさらさらないが、自分と違うなあとは思うのである。 わたしは同様のことを武田邦彦にも感じるのだが、内田にしろ武田にしろ大学教授の肩書きを持ち(現在もそうなのかは分からないが)、そのために、ある閾のところからはみ出し得ないのかなと思う。もちろん例えそうであるにせよ、時折見せる二人の優れた見識に、わたしはしばしば恩恵にあずかってきた。たぶんこれからもそれは続いていくだろう。その意味ではわたしにとって数少ないお手本ではあるのだ。
 ついでだから言ってしまえば、わたしは内田の鋭い舌鋒は、かってに小さな小林秀雄というようにとらえている。また武田邦彦の方は多弁でこれも小ぶりな江藤淳というようになぞらえている。おおいに見当外れかもしれないが、こうして密かに楽しんでいるという話である。
 最後になるが、つい最近ネットの知人から「内田樹が、『私が天皇主義者になったわけ』(『月刊日本』2017年5月号)という文章を載せている」と教わったが、これのネット上に引用された部分を読んでみた。引用した当人は、ここから内田樹の転向という捉え方をしていたが、わたし自身は転向・非転向の捉え方がすでにイデオロギー的だし、宗教を含んでいると思うからどうでもいいように感じた。また現在の状況からして、天皇制の見直しから再評価の動きが生じることもやむを得ないと感じている。ただ、天皇主義者に成りたければ成れば、というだけで、別に目くじらを立てる気にはなれない。いずれフランシス水車(本当は詳しくは知らない)から放射状に飛び散った飛沫のように、みんなあちこちに飛んでいく。その光景は既視のものだ。何の感慨もない。
 
 
「皇室は遥かなる東洋の叡知」を読んで
              2017/04/23
 白川静の「皇室は遥かなる東洋の叡知」を読んで、大きく言って二つのことが印象に残った。その一つはこの文章の大部分に渡って展開されている殷(中国の古代王朝)と古代日本(大和朝廷)との類似、共通点であり、その考察はさらに東アジアの文化の原型というところまで遡及されていて、とても興味と刺激をかき立てられた。
 共通点を指摘するはじめの文章は次のように書かれている。
 
 日本が古代から受けついてきた文化は、この列島のみに伝わる文化ではありません。私が考えるに、ひろく東アジア世界が古代から育んできた文化が、いまもわが国に根づいているのです。ことに殷という、紀元前十六世紀に創始されたきわめて古い王朝と、日本の古代皇室とは、深い共通点を持っております。
 
 ここから個別具体的に共通点がいくつか挙げられ、それぞれに比較検討されていく。これを項目的にのみ、順次以下に列挙してみる。 「衣」に霊が移るという信仰。神話体系。母系優位と近親婚が見られる婚姻形態と王統のあり方。職能を与えて他の部族を内側に取り込み、国家組織を固め形成していくというやり方。文化風俗の面での特徴的なものとしての入れ墨、貝と玉の文化など。
 以上、殷と大和朝廷のさまざまな類似性、共通点が指摘された上で、「ではなぜ殷と古代の日本は、これほどまでに似通った文化を持っているのか。」と次なる問いが立てられる。そして殷の出自に関する考察が続くが、これをまた次に引用しておくと以下となる。
 
 そもそも殷の出自は山東半島に由来する、沿海系の民族だったと考えられます。古く山東半島の根元あたりに、黒陶文化という文化が栄えますが、これが殷のおおもとです。そこにいた部族が西に行き、山東省から河南省に出て、長駆して洛陽の手前にあった夏王朝の都の偃師を陥れる。そしてまた、河南省の鄭州に戻って都を構え、紀元前十五世紀頃、全国統一を果たすのです。
 この殷が、紀元前十一世紀頃になると、周に追われてもとの根拠地に戻ってくる。その際に、当方にも殷の残党がやってきたのではないか。一つは満州を通って朝鮮に入り、日本にやってくる経路、もうひとつ考えられるのは、渤海から直接海を渡って、北九州に来る経路です。
 一言で「文化が中国、朝鮮から日本に伝わった」といいますが、文化の伝播というものは、単に先進地域の真似をしておれば自分もその文化となる、というような簡単なものではないでしょう。受け取る側に、新しい文化を吸収するだけの素地がなければ、文化というものは根づかんのです。殷と古代日本とは、ともに東アジア文化の原型をなすような、本源的に相通ずる性格を持っておったのではないか。その一つは沿海系の農耕民族であろうと思われます。文身も、貝の文化も、いずれも沿海系の民族のものです。自然と人間を一つのものとしてとらえる考え方は、東アジアの農耕民族の文化に、原型として存在していたものでしょう。
 
 以上を要約してつかむと、古代皇室の文化には殷との共通性が見られ、それは周に追われた殷の残党が追われるように日本にやってきたことと関係がある、ということになりそうである。そしてまた殷の出自とから、そうした文化のおおもとは山東半島に由来する、沿海系の農耕民族のものと主張されている。 おそらく、日本にはその時期以前からいろんな地域からの種族が入り込んでいて、今で言うところの原住民らしき存在はあちこちに散在していたものと思われる。そこに殷の残党らしき人々が移り住むようになり、その人々を中心に初期皇室が形成され、日本にもとからいた人々を内に取り込むように組織を拡大し、また大和朝廷の形成へと発展して行ったという筋書きが見えてくる。そしてさらにその文化、因習のおおもとを辿れば、東アジアの農耕民族の文化の原型と見てもいいその一つとしての沿海系の農耕民族に行き着く。 ここで注意しておきたいことは、これは皇室を中心にした日本の古代の文化の系統の理解に関わることであり、日本の文化の古層にまつわる全体を俯瞰するものとは違うということである。
 古代皇室、初期王権の特質として、日本にもともと住む住民、あるいは部族、豪族を従えたり征服していく場合に、それらを滅ぼしたり奴隷にしてしまうというわけではなかった。そのままの領地に、以前からの生活文化、風習、慣習を残したまま、ただ職能を与えていくというような形で配下に数えていったものと考えられる。そうした意味では、必ずしも皇室文化が当時の日本で統一的であったというわけではない。そのため、日本全体としては本当はもう少し文化的には複雑で、また分かりにくいものだという気がする。
 いずれにしても日本の皇室の文化の起源は大変古いもので、また東アジア圏の文化の原型のところにまで遡るものである。別にいえば、東アジアのみならず日本の文化の主流をなす層だと見る見方もできよう。日本においてはこれが現在にまで受け継がれ、生活や文化、あるいはわたしたちのこころの底流に息づいて存在するのであろう。
 白川の文章を読んで勉強になったと思ったことはもうひとつある。整理や要約を労する時間が無いので、引用に変えて済ませるが、次の箇所がそれにあたる。
 
 幕末から明治維新にかけて、日本は西洋文明に征服されるのではないか、という危機に直面しました。この時日本の従来の文化を一応維持しながら、西欧的なものを調和的に取り入れるというかたちで、明治維新は成功した。それはなぜかといえば、当時の指導者・知識人が、東洋の教養を深く身につけていたからです。儒教的な教養を身につけ、『戦国策』のような権謀術数の世界をも学び、朱子学や陽明学といった中国の学問を通じて、非常に緻密な思索力を鍛えてきた。異文化との戦いの経験を持たない日本人は、そのかわりに、異文化との壮絶な戦いの記録である中国の古典を読み、いわば手ごわい稽古の相手として、東洋の一員たる自分たちの精神を鍛えてきたのです。 これは江戸の中期のことですが、新井白石がイタリーから密入国した宣教師を取り調べたとき、西欧の科学、西欧の技術に感嘆しました。ところがひとたび、宗教の問題になると、処女懐胎などの説明を聞いた白石は唖然とする。なぜあれだけの物質文明を持ちながら、そのような幼稚なことを信じているのか。精神文明においては、西洋は東洋の敵ではない、と考えたのです。佐久間象山も、私の生まれた福井の志士橋本左内も、東洋の精神の優位を説いてやみませんでした。そのため西洋の圧倒的な科学技術を前にしても、日本の文化に対する信頼は揺らぐことがなかった。
 
 はたして日本文化に対する信頼が、過信であったか妥当であったかを判断する能力をわたしは持ってはいない。しかし、新井や佐久間や橋本らの感じたことはおそらくはその通りであったのだろうと思う。また幕末から明治維新にかけて、当時の指導者・知識人の東洋の教養を深く身につけていたということも確からしく思われる。それはまた当時の民衆の間にも自ずから波及し、いわば東洋の教養は日本においてかなり成熟の様相を呈していたように考えられる。
 続いて白川の文章は、明治期とは対照的な昭和の戦争、敗戦期について以下のように述べている。
 
 昭和に入って、幼稚といっていいような日本主義の跋扈を許したのも、江戸や明治期の日本人に比して、昭和の日本人が西洋的な科学技術の摂取ばかりに目がいき、東洋の古典と対話を重ねる中で大人になるという修練を、ないがしろにしてきたからかもしれません。その弱さを改めて露呈してしまったのが、敗戦後のあり方です。
 本来ならば、アメリカという異質の文化に占領された敗戦時は、日本人が本当に思想的な能力を発揮する機会でもあったと思います。ところが敗戦後の日本は、アメリカに唯々諾々と従ってきて、半世紀以上経った今も、米国の前衛基地となったままです。アメリカは、本でいえば歌舞伎が盛んになったくらいの時代に、やっとできた国です。能狂言の時代には存在さえしていない、歴史を持たない国に対して、日本人は自分たちの文化的伝統を護り、思想的に矜恃を持つことができなかったのです。その結果、文化のもっとも根幹にある漢字や国語の使用までもが制限されて、現在に至っている。
 
 吉本隆明は、亡くなる数年前くらいから盛んに「第二の敗戦期」だというようなことを述べていた。日本が、経済的にまた文化的に底をついてしまいガタガタになっているという認識から、そう言ったものとわたしは理解していた。右の白川の文章を通して言い替えれば、「思想的な能力を発揮する機会」だよということでもあったかと今にして思う。だが、この「第二の敗戦期」においても、日本の指導者・知識人の教養は、これに対峙し、乗り越える力を発揮することはほとんど無かったといっていいと思う。つまり、思想的にも完膚なきまでに停滞したというのが今日の現状では無いかと思う。白川は、東アジアの文化、東洋の教養の修練から出直せと言うのかもしれないが、わたしのような一生活者にすぎないものはあまりにも重たすぎる荷なのではある。
 
 
科学者武田邦彦への疑問
              2017/04/10
 武田邦彦は最近のブログで「科学者の人間観」(以前は「人間観」が「人生観」とされていた)と題し、昨日までに18回ほどの発言を続けている。
 わたしは武田をそれほど詳しく知ってはいないが、過去のブログや簡単なプロフィール、そして今回の題の「科学者の…」というところからも推測できるように、科学者であるということはまず間違いないだろうと思っている。今回の発言もそうだし、過去のブログの記録からもそう思ってきたが、そんな武田の発言には、同調できるところとどうしても首をかしげざるを得ないところがある。わたしはずっと、首をかしげる、言い換えると、違和感を感じる部分についてその理由を考えてきた。一部、このシリーズの文章内で言及したこともあったが全てを言い尽くせているわけではない。最新のブログ発言にもそれを感じ、ここでは簡単にそのことをメモ程度に録しておきたいと思っている。
 武田はここで(「命と人生を軽視する日本社会」)、あらゆる生物体は種としての延命を目的とするものであるということを、部分的だったかもしれないが述べている。そして種が尽きれば個体も尽きることになるので、個体の自由よりも種の延命が優先されなければならないと言っている。この発言の要約はわたしの主観によるものだから、あるいは言葉足りないかもしれないが、大筋ではそういうことだと言っていいと思う。この要約に疑問があれば、直接ブログの発言にあたってもらえばいいわけで、とにかくわたしはそう言うように受け取って、「はたしてそうかな」という疑問を感じたということだ。
 何が疑問かというと、確かに客観的な物の見方、考え方からすれば事実としてそういうことが言えるかもしれないが、だからといって個体は全て種を考え、その延命や繁栄を目的として生きるものだろうかということだ。 わたしは、仮に無意識裡にそういう行動をとる個体はあっても、だからといって種を優先してそれを目的的に生きる個体はないんじゃないかと考える。個体はDNA、遺伝子的なものを基礎や背景に持ちながら、また一面では個の固有性というものを生きて、総体として種というものは形成されているものであろうと思う。だから、種というものはいつも逸脱の可能性を内包して存在するものだというように思える。種として求心的であるよりも、拡散的であるというように存在する。
 武田は以前どこかの高校の校長が朝礼の挨拶の時に、女性は働くことよりも子どもを産んで育てることが本分という主旨のことを述べ、その校長がマスコミに酷くたたかれた例を挙げて本当は校長の言うことが正しいと自身の考えを述べている。そして、その時の校長の発言の方を折々に擁護してきた。この例の場合ももちろん、武田の考え方の核には、個よりも種を優先するという考え方があって、武田からすればこれが科学者の見方、考え方なのだと言いたいのだろうと思う。
 先の校長の発言に対する一次的な感想ということから言えば、わたしなら「校長ごときが個々の生徒の生き方、人生に余計な口出しするな」で終わる。少子化という社会現象を受け、時流に乗った、しかも酷くつまらぬ発言でしかないと思う。
 武田はこういうときに、「科学者の人間観」みたいな題で得意げに自分の考えを披瀝してみせるが、これが本当に科学的な見方、考え方と言えるのかと疑問に思える。知識としてはあながち間違っているとは言えないところもあるが、一個の人間、一個人というものを考えるときに、武田の考えはどうしても浅薄だという印象を受ける。
 少子化問題で言えば、かつて結婚適齢期と言われていた時期の今日の女性たちが、晩婚化したり、結婚しなかったり、あるいは結婚しても一人しか子どもを産まないなどの現象の背景には、女性たちの抱えるさまざまな問題や考え方や悩みがあるに違いない。そのことを女性個人の立場に立って考察するのではなく、外側から網をかぶせるみたいに、よくいえば大局的なところから考える考え方で全て言い尽くせるとは思えない。つまりもっと言ってみると、個々の女性の悩み苦しみというものを軽く見、またそんなものは重要ではないとして切り捨てているように思われてならない。だが、どんなに錯覚や誤解や無知などが混入しているとしても、一人の人間の思い悩みというものは、その個人にとって社会や国家の存否よりも遙かに重いものであるし、そういうように見なすべきであるとわたしは考えている。
 同時にまた、現在のわたしたちの表面に現れた考えというものは、どんなに幼稚なものだといっても人間の知恵や知識といった精神性の、歴史的に積み重ねられた層の現在的な枠組みという制約を持ち、逆に言うとそれから全く逸脱した考えも発想も生み出し得ないものだと言うことができる。つまりは、そこにはある必然性のようなものが常に寄り添うことになっていると言っていい。
 さらに武田は今回の発言の中で結婚そのものについて、恋愛結婚などは一種の現代的な流行に過ぎず、本来的には見合い結婚などのような形が理想的とまで言っていたと記憶する。思わず「ほっとけよ」といいたくなる発言であり、こういうときはさすがに武田の馬鹿さ加減にわたしはあきれる。
 たぶん、家族の安定、平和的な維持という側面からはそんなことも考慮する余地は皆無ではないかもしれない。けれども、もっとはっきりと言えば、今日の社会が問いかけるものは、家族という形が解体されるべきか否かというほどの根底的なところまで降りて考えることを要求するものだ。このことを前にして、わたしたちは家族形態は残さなければならないと言えるほど深く考え、議論を尽くしたと言える段階には至っていないのではないかと思える。つまりまだ未知数なのだ。
 科学がどれほどのものか無学なわたしには見当がつかない。科学者を自認する武田は、いかにも科学万能のごとく、ひとの人生とか人間というものについてまで科学的と称する見解を披瀝してみせる。だがわたしには納得できない部分も多い。集中し、時間を費やし、これを考えるというところまでの気持にはならないが、武田の発言を時々に追いながら、これからも少しずつ考えていきたいとは思っている。