日記風二〇一一年一一月から 
 
宇田亮一著「吉本隆明『共同幻想論』の読み方」について     2013/11/02
 
 @      2013/10/08
 この著者の二冊の本をつい最近になって読んだ。いずれも有名なといえば有名な吉本隆明の著書、『共同幻想論』と『心的現象論』についての、自称、解説書である。著者自身の言葉によれば、
 
この本は臨床心理士が書いたガイドブックだということになります。あるいはサラリーマンが書いたガイドブックだということになります。(「吉本隆明『共同幻想論』の読み方」より)
 
ということになる。けれども、解説書、ガイドブックという言い方は謙遜だろう。世にある2つの作品についての案内書、解説書の域をはるかに超えていると私は思う。
 吉本隆明の『共同幻想論』と『心的現象論』
は、すでに現在では過去の遺物として扱われることが一般的であると思う。一部の支持者(といっても本当はどれほどか分からない)を除けば、学問や医療の世界からも文学や政治の世界からも、それらの著書が話題に上ることはまず無くなったと言っていい。私などはそのことを残念に、また悔しく感じてきた部類に入る。もちろんそれらが今日においても真に状況的な問題や課題の核心を衝いた論考だと信じていたからだ。けれども世間的には埋没されてきた。言い方を変えると、あえて埋没させようとする悪意を、私は世間のどこかに嗅ぎとる思いを抱いていた。本当の本物はこういう扱いを受けるのだなと、いいようもなくこの世界の在り方に嫌気がさした。
 吉本さんはしかしその後も精力的に『ハイイメージ論』や『母型論』を書き続け、初期の思考を拡張したり発展させたりした。私などには、初期の問題意識の継続のさせ方と、逸脱せずに一本道に追求していく展開の仕方とは見事と感ずるほかはなかった。もちろん社会の吉本さんへの関心は薄れていく一方であったが、吉本さんと吉本さんを愛する読者とは、吉本さんが開拓していく、そして開拓していった思考の先に、本当に思想的に困難で緊急の課題が、しかも世界的な規模の課題が横たわっていると信じて疑わなかったに違いないと思う。
 宇田亮一は前述した二冊の著作の中で、吉本さんや吉本さんの愛読者たちが内部の目にはっきりと映し出していながらそのゆえに考慮する必要さえ感じなかった外部の目に対し、言ってみれば彼らに代わって吉本思想の基本的世界の全体図を分かり易く示し得ている。そればかりではなく、彼の著作によって、いったんは埋没の危機に瀕していた『共同幻想論』と『心的現象論』は、現在に以前にも増して生き生きと甦る思いが、私にはした。
 
 ここから宇田亮一の着想のすばらしさや卓見などを拾い上げていってもいいのだが、いちいちあげていったらきりがないと思うので、『共同幻想論』についての論考の中で特に感心した部分を繋いでいくようにしながら紹介してみたい。
 「吉本隆明『共同幻想論』の読み方」は次に示す4つの章からなる。
 第一章 щ、同幻想って何だろ
 第二章 『共同幻想論』のюヲさって何      だろう
 第三章 『共同幻想論』を読む
 第四章 『共同幻想論』はщ゚未来を予      言する
 まず第一章では『共同幻想論』の概要を述べている。
 言うまでもなく吉本の『共同幻想論』は国家論であるが、歴史的なあるいは現実具体的な国家の機構や形態などに言及したものではなく、観念上の国家論である。国家とは共同精神(共同観念)なんだ、そういう切り口で国家を考えることができるということは、ヘーゲルなどの西洋近代の歴史哲学が教えるところであった。この共同観念は歴史的には宗教、法、国家というように形を与えられながら変遷したり、保存されたりしてきた。吉本はそれに着目して、共同観念としての国家の生成を原始未開社会から跡付けようとするのだが、同時に広義には心の問題としても考えなければならないものでもあった。観念を広義の心の問題として考えるときに、人間の現実的な在り方として3つの局面があるのではないかと吉本は考え、それとの心との対応を考えてそれぞれ、共同幻想、対幻想、自己(個人)幻想と呼んだ。この中の対幻想を、一個の独立の領域、独自の位相として取り上げたことは吉本のオリジナリティーである。私たちはこれによって、私たちが漠然と心や頭をはたらかせて内面に思っているところのものを、ひとつは集団性に関係するところものとして「共同幻想」を、またひとつは一対の関係としての「対幻想」を、そして自己自身との関係を表す「自己(個人)幻想」をというように大まかには3つの領域として抽出できるようになる。
 宇田は、ここでは「幻想」を「観念」と見なすばかりではなく、「規範」の意味合いも持つものだとして「観念」と並列に置いている。いわゆる微妙なニュアンスの違いをそれによって区別しているのだが、いくぶん共同幻想、対幻想、自己幻想といったときの「幻想」の意味合いを受け入れやすいものにできていると思う。
 この章で私が感心したのはほかにもある。例えば、吉本は共同幻想と個人(自己)幻想は原理的に逆立ちの関係にあるとするが、ごく最近まで吉本思想の理解者といえどもこれを明確に把握する人は多くはなかった。ところが宇田はこれを「前景化」と「後景化」という言葉ですっきりとまとめて見せた。すなわち、私たちの内面では「共同幻想が前景化すればするほど個人幻想は後景化」し、逆に「個人幻想が前景化すればするほど共同幻想は後景化する」というようにだ。一般的に言えば、私たちは例えば職場に出向いているときには「個人幻想」は後景に引っ込めて、逆に「共同幻想」を前景化するものだと考えると何となく理解の筋道が立つような気がする。
 また宇田は共同幻想には強度があるという言い方もしている。高強度の共同幻想では「共同幻想が大きく前景化し」、そのために「個人幻想は大きく後景化する」ことになると説明している。これは、
 
違う言い方をするとыkュ度の共同幻想とは「共同規範・共同観念が前景化することで、構成員の怖れや縛りが大きくなる」あるいは「構成員の強い怖れや縛りによって、共同規範・共同観念のрツながりが維持される」
 
ということになる。ここから、高強度の共同幻想において個人幻想を萎縮させる度合いの大きいものほど個々人に対する抑圧が大きく、
宇田に言わせるとрルったらかしておくわけにはいかないという観点が出てくることになる。極言すれば、高強度の共同幻想の下では個人が「滅私」を強いられる可能性が常に潜むということになるからだ。
 このあたりの解説を読むと私自身にも理解が進んだような気がしたし、単純に、ああ、分かり易いなと私は思った。ほかにも読めばためになることが多いが、とりあえずこの章はここまでにしておきたい。
 
 A      2013/10/10
 第二章で宇田は『共同幻想論』のюヲさということで、次のように述べている。
 
 まず最初に『共同幻想論』のюヲさを一言で述べておきたいと思います。それは「人間社会の本質とその歴史を共同幻想・対幻想・個人幻想の関係構造として取り出した」ことです。
 『共同幻想論』ではэ煙ケの人間社会を大きく三つの時代に分けて考察します。原始未開、前古代、古代の三つです。『共同幻想論』で大事なことは、この三つの時代区分をщ、同幻想・対幻想・個人幻想の関係構造の違いとしてとらえることです。
 
 これは言いかえれば、原始未開、前古代、古代について、それぞれを共同幻想・対幻想・個人幻想の関係構造の違いとして論ずれば、国家形成過程の本質を言い尽くせるということになる。少なくとも吉本の『共同幻想論』は、はっきりとその射程をもって書かれているということを宇田は言っているのだ。そして宇田は実際にこれらの概念を再構成して、「国家」生成の過程を跡付けて見せてくれている。それ自体の叙述も見事ではあるが、それ以上に私は途中に挿入された、原始未開・前古代・古代の時代区分とそれぞれの時代の経済社会構造の変遷を述べたくだりに思わず唸ってしまう。これはまあ「前振り」みたいなもので、この重要性は最後のオチを大化けさせることになっている。
 ここで一応ヒントになりそうなことを言っておけば、宇田はまず日本の古代社会において水田稲作が生活手段の中心になったことを言っている。これはつまり人間社会が、本格的に生産活動を中心にすることを意味している。同時にこの古代という時代は血縁集団としての氏族共同体から、非血縁集団である部族共同体(国家あるいはその可能体)へと飛躍し、さらにはまた統一部族共同体(国家)を形成するに至る時代だということだ。まだある。前古代社会で共同幻想・対幻想・個人幻想が完全に分離して、それぞれの位相、領域に分かれたヒトの観念のうち、共同幻想そのものが宗教、法、国家へと分化・分離するのが古代という時代だということだ。
 生産活動が本格化し(共同体が総力を挙げて生産活動に従事するようになったということ)、共同体が血縁から非血縁集団へと飛躍し、共同幻想が構成員を強く規制するようになってきたとき(あるいは所属意識や規制を強く必要とするようになったとき)、私たちはこれを初期国家生成の必要十分な条件と考えて差し支えないと思える。そしてこのことを頭に置いて現在の先進国社会の産業構成、及び生産従事者の減少傾向をかえりみれば、少なくとも生産活動から見る今日の社会はあたかも前古代社会の様相を呈してきていることが理解される。この構造的な社会生活の変化が、国家としての共同幻想に何の変化も影響ももたらさないとは考えにくい。
 
 ところで、ここまで来て私は宇田亮一のこの本における特徴を、おおよそではあるが言ってみせることができるように思う。
 私のように長い間吉本の著作を幼児のようなたどたどしい足取りで追い続けたものにとって、宇田の著作に出てくる言葉や概念はおよそ既知的なものであるといってよい。どこかで読んだことがあったり、考えたりしたことのあるものばかりといってもよい。だが宇田のように吉本の著作の世界の全体を俯瞰し、あれとこれとを関連づけて再構成してみせるだけの力は私にはなかった。
 別な言い方をすると、宇田亮一の最大のお手柄を推量するに、吉本の後年の消費社会(超資本主義)と経済社会構造などへの言及が別の意味では共同幻想の解体過程にあたることと、そのことはそのまま前古代の様相を呈し、これに段階という概念を導入すればアジア的段階とアフリカ的段階とが浮かび上がってくるということを整理して示した点にある。そこから帰結することは、国家という高強度の共同幻想は必然的に消滅に向かうという予測であり、同じく必然的に低強度で血縁集団のように規模の小さな共同体が社会的に前景化していくに違いないという予測である。それは最終章である第四章、「『共同幻想論』はщ゚未来を予言する」にすべて流れ込むように構成されているはずだが、とりあえず今回はここまでということにしておく。
 
 B      2013/10/24
 第一章では、一部の人にしか馴染みのないそもそもの「共同幻想」という言葉の概念、そのあらましを紹介している。もちろんそれといっしょに「対幻想」や「自己幻想(個人幻想)」についても述べていた。また吉本の『共同幻想論』を通底している考え方が、近代主義的な思想家たちとは全く違うということにも触れ、さらには「共同幻想」には「強度」があるというところまで指摘している。
 第二章では、『共同幻想論』という書は、一章であらましを紹介した「共同幻想」「対幻想」「個人(自己)幻想」という吉本独自といってもいい人間の観念のはたらきの捉え方を元に、それらが「原始未開」「前古代」「古代」といったそれぞれの社会の、共同体の規模や生活と生産手段の変遷の中でどのように展開して行ったかなどの概要を教えてくれていた。
 いわばこの書は一章、二章で『共同幻想論』を読みこむための基礎・基本を読者に習得させ、三章ではいよいよ『共同幻想論』を各論にわたって読者と共に読んでいくというスタイルをとっている。もちろんここが宇田のこの著作の本論にあたっていて、さかれるページの割合も一番多い。
 『共同幻想論』は十一編で構成されていて、順番に「禁制論」「憑人(ひょうじん)論」「巫覡(ふげき)論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母性論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」となっている。宇田はこのうちの「禁制論」と「他界論」が時代を貫通するテーマを扱っているとして個別に論じ、「憑人論」「巫覡論」「巫女論」を原始未開社会を舞台とする第一グループ、「祭儀論」「母性論」「対幻想論」
を前古代社会を主な舞台とする第二グループ、
「罪責論」「規範論」「起源論」を古代社会が舞台の第三グループというように分けて、大きく5項目に組み替えて解読していく。私は正直に言えば時代別に組み替えて読むという宇田のような発想をしえなかったから、宇田の書を読み進めて全体的な理解と理解の深まりとが共時になされたことに驚いた。以前にこういう読み方が出来ていたらずいぶん違ったろうなとも思った。
 ところで、『共同幻想論』の著者本人である吉本が、宇田亮一がグループ分けして見せたような意図を持って配列していたのかどうか、私にはそのことを言及する吉本の発言の記憶がない。発言の記憶はないが、こうして宇田によって示されてみれば、それが吉本の意図したものだというように思われてくる。それほど宇田の解説は「はまって」感じられるのだ。
 「原始未開」「前古代」「古代」は言うまでもなく、経済社会構造と心的(精神)構造の違いに基づいた歴史の時代区分だと見ていい。「原始未開社会」は生活手段が狩猟・漁労・採集の社会で、心的な世界もヒトの生涯で言えば乳児期のようなもので、未明から少しずつヒトらしい心的な形成がなされた時代だと言える。この時代はおよそ10万年続いたと見られ、宇田はこの気の遠くなるほどの時間の中でヒトは自分と他者の曖昧な境界を区別するようになっていき、地続きだった現実の世界と心の世界が分化していったと考えている。次に「前古代社会」とは生活手段が狩猟・漁労・採集にプラスして焼畑農業のような原始農耕がはじまる社会のことを指し、「生産」が始まった時代と言うことができる。
生活上もそれまで一体であったのが、それぞれ社会生活と家族生活と個人生活とが分離する兆しを見せ、事実分離していった時期である。心的な世界も、ヒトの幼児期に譬えられると思うが、いろいろな理解が深まり視野も広まる時期だったと考えることができる。ここでの文脈の流れで言えば、宇田はこの時期に共同幻想・対幻想・個人幻想がはっきりと分離したと述べている。
 「古代社会」についても同様に重要な言及がなされるのだが、そのことよりも、今私はヒトの心や考える力、言い換えれば人間の観念が、暮らしを取りまく状況や生活手段、採集や生産といった経済社会構造などと相互に影響し合いながら歴史を刻み、文明と文化を発達させてきたことを強く再確認する思いでいる。人間の社会も歴史も、当然のことながら観念の存在なしには成り立たなかった。そしてそのことは、幻想としての国家(共同幻想・共同観念)ばかりについてではなく、人類の歴史そのものを理解する上でも第一に考慮しなければならない問題だと思える。
 結局、こうした時代区分と、吉本の『共同幻想論』の各論をグループ分けして解説するくだりは、とても分かり易くて、ともすると『共同幻想論』を直に読みこんでいたときよりも、全体的な見取り図を見ながら軽快に読み進んでいくような快適ささえ感じることが出来た。そして当然のことながら、私のこのような稚拙な文章を抜きにして、直に宇田の『共同幻想論』各論を解説した本編にあたってもらうのが、吉本の『共同幻想論』を理解するための最短で最良の方法ではないだろうかという気がしてくる。そんな理由からここではあまり多弁を弄さない方がいいと思い、これだけで止めておきたい。
 
 C      2013/11/02
 ここまで、はじめに考えていたよりも宇田の著作について上手く要約できずに、足踏みしてきた感がある。
 この本を読んで、宇田が吉本隆明の思想的に広汎な考えをよく理解し、「共同幻想論」という本を中心によく整理してまとめ、それを上手く紹介できていると感心した。
 その感心したところを、今度は自分が端的に表現することで、宇田の著作の紹介と、自分の「共同幻想」に関わる考えの整理を兼ねて文章を書いてみようというのがそもそもの発端であった。始めてみるとこれが難しいということと、それに伴って、心的に一定の状態を保って読解や表現に向かう煩わしさに抗しきれず、少しずついい加減な水準に堕していった。そのことを分かった上で自分に許してきた。
 
 これらのことに少しこだわってみる。
 そもそもが宇田の著作は吉本の「共同幻想論」の解説書、案内書として編まれたものである。その意味では余分なものをそぎ取って、とにかく「共同幻想論」の世界を分かり易く、しかも宇田が言うところの「共同幻想論の凄さ」を含んでダイジェストに紹介したものと言える。「共同幻想論」の世界をそのような意図で書き表しているかぎりは、そこに含まれる内容は不可欠の、そして必要最小限の、いずれもそれを抜きにしては従前の目的が果たせない項目立てや文章であるといっても過言ではない。はじめ私はその中でも特に感心したところを中心に取り上げていけばいいと考えていた。一応、一章と二章は、お気楽にだが、そういうことをなしている気分だった。けれども第三章の「共同幻想論」の各論になると、ひとつひとつに踏み込んで考えることが億劫に感じられた。同時に、長く「共同幻想論」から遠ざかっていた私には、宇田の解説や要約が正鵠を射ているか、あるいは原著作者の吉本の意に対して、必要にして十分に応えているものかが分からなくなっていた。つまり細部にわたっては宇田の文章にあれこれ言えない、付け加えるところを持たない自分がいることに気づいたのである。
 そうこうしているうちに、私は抽象的な概念を使って抽象的な思考を続けることは、どこかしら虚しいことのように思い始めていた。例えば共同幻想という概念であるが、これはわたしたちの頭の中にだけ存在することが出来るものであると同時に、その意味内容についてはそれを考えたことのある人の数だけ存在しているはずだ。つまり、ひとりひとりが考える「共同幻想」はどれもみな少しずつ違っていて、どれひとつとして同じであることがない。仮にそれが宗教や法という形に集約されて外化されるにしてもだ。その証拠に、というほどでもないが、吉本の「共同幻想論」に言及する数人の有名無名の人の文章を読んだが、そのイメージしているところは画一ではないことが見て取れる。
 もともと「共同幻想」という言葉自体が吉本の造語だとされる(?吉本本人には「対幻想」が造語という発言がある)。自分の中にあるイメージを「共同幻想」という言葉で命名して見せた。そのイメージは物として取り出してみせることも出来ないし、スクリーン上に再現してみせることも出来ない。元をたどればヘーゲルの「共同精神」「共同観念」に突き当たるが、おそらくはほんの些細な、しかし吉本からすれば看過できない差異があって「共同幻想」と置き直すほか方途がなかったのだろう。だがそう考えると、厳密な意味では個々人のイメージとしては、また別の造語による命名が必要ではないのかと私は思う。それくらい微妙に、それぞれがイメージする「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」の内実は異なる様相を呈していると思う。そこにかかずらい、語の定義を明確に求めようと緻密に考えれば考えるほど、逆にそれぞれの差異の方が大きく見えてくるようになる。それは抽象的な語彙の運命だが、にもかかわらず、わたしたちの思想や学問や研究や、いや日常の生活ですらその上に成り立っていると言える。
 
 実は疑念はもっとある。宇田のストレートな心地よい解説の文章は、宇田自身の読解を基本のイメージとして、吉本の文章の中から宇田にとって都合のよい部分をピックアップして並べ立てているのではないかという疑念だ。そこにはもちろん宇田の才能や力業も見えてくるのだが、他に比べて論じ方自体があまりにスマートすぎる気がするのだ。もちろんそれさえも宇田の意欲と研鑽のたまものだと言えなくはない。
 そして、それやこれやで最初の頃の私の視点は消失してしまった。それから、こうなったらもう一度「共同幻想論」の「禁制論」からおさらいしなければならないのではないか、と思うようになってきたのである。
 そう考えてきながら、しかし、そんな面倒なことはしたくないと考えているのが今の時点での私の思いである。できることなら、ここに書いてきた全てをうやむやにしたまま、強引に第四章までを書ききって早く終わらせたいとただそれだけを考えていると言っていい。
 
 考えあぐねて何日か過ぎた。ぐだぐだ言い訳がましいことを並べ立てても仕方がないから、ここからまた第四章に関連するところに戻って文章を書き進めてみる。
 
 とりあえず宇田の文章から離れてみて、残るところ、覚えているところを手がかりにしてみたい。たしか第四章は、三章で「共同幻想論」そのものの読解を終了して、その後の「共同幻想論」というか、吉本の遺言のように残していったものを読み解くみたいな文章だったと思う。
 私には、ここが世にある吉本論、あるいはこれまでの「共同幻想論」を論じた文章と決定的に異なる箇所だと思っている。結論めいたことを言えば、宇田はここで「共同幻想論」が、観念の国家がどのようにして形成されたかについての論考であったことと、その思索の延長上に吉本が辿りついたところは(ハイイメージ論などを想定して)、自然過程としての国家の消滅、解体の言及であったと指摘している点だ。あるいは、そうした吉本の予測が言葉や思想や観念の上だけではなく、現実的に国家解体の初期過程に入りこんだと指摘していると言い換えてもよい。私の少ない知見では「共同幻想論」について論じながら、これを国家の形成から解体までの長いスパンで、しかも現在に解体の問題が浮上したことを語った文章をまとまったものとしては読んだことがない。確かに、後年の吉本の発言とその文字化を読むと、きれぎれに観念としての国家の消滅を示唆する言葉が散見されたと感じる。けれども私などは宇田の言う「一本道」でそれを理解しては来なかったクチだ。
 後年、吉本が消費資本主義と命名してさかんに消費社会のことを述べていたことは知っている。資本主義がマルクスが生存していた頃とは格段に進歩・発展して、マルクスたちの考えたことは修正や変更を余儀なくされたり、もっと言うと既存の経済学が通用しないほどに資本主義が高度な段階まで来たという意味のことを述べていたと思う。吉本は特に産業構成の変化に目を止め、一次産業ばかりか二次産業の減少と三次産業の台頭と興隆が、ある時期から三次産業で過半を超えるまでになったところで資本主義が一段高度化したと見ていた。そしてそこを結節点に、消費資本主義というべき段階に突入したとして、消費が生産を上回る社会になったことに人々の注意を喚起しようとした。吉本によれば、生産と生産に携わる人々の比率が3割程度という社会は、そしてますますその比率が下がるだろう社会は、歴史的には古代と前古代との間にしか想定できないということになり、少なくとも生産と消費の関連からは、「現在」の向こうに「前古代」が浮上してきたのだとしか言えないものということになる。そしてこれは吉本が「共同幻想論」で幻想としての国家の形成過程を考察したそれに遡って、まさに国家生成に逆行する事態が、国家の消滅が、今日の社会に現出したとみなしてもおかしな話ではないということになる。これは相当にインパクトのある説ではないだろうか。
 言うまでもなく、「前古代」とは狩猟・採集・漁労など主に自然の恵みに与ってこれを消費する社会で、原始農耕が始まったとはいえ多くの人々が生産に携わったと言えるのは、水田稲作が本格化する「古代社会」を待たねばならなかった。同時に、この「古代」という時代は、定住化が進むと共に集団的には血縁から非血縁へと拡張し国家形成の条件が整い、実際に多くの国家群とこれを統一していく勢力が出現した時代であった。言いかえれば、「古代」において稲作が本格化すると共に生産に従事する人々が大半を超えるようになり、共同体の規模も仕組みも大きくまた複雑化し、現実の国家とその基礎となる共同幻想としての国家とが形成されたのである。
 現在の先進資本主義国の生産形態や生活形態が、消費と贈与というスタイルにおいて「前古代社会」のそれに一回り巡って近づいてきたことを受け、宇田亮一はここに古代社会に成立した幻想の国家が緩やかに解体していく契機を見ている。いや、それを吉本隆明が予測していたのだと宇田は指摘する。もちろん現実的には「前古代社会」に戻る道理はないわけだから、血縁や氏族にとどまる共同体に縮小したり閉じたりしていくこともあり得ない。だが国家の解体を象徴する共同規範が緩んで来つつあり、現に緩んでいる部分が多く見られつつあるとは言えそうな気がする。
 蛇足であるが、共同幻想とは集団のあるところには必ず生じるもので大小さまざまにあり得るが、問題になるのは国家規模の共同幻想であり、それが何故問題かといえば強固な禁制や規制や強制がはたらいて、個々の私的な部分とも言える対幻想や個人幻想を、時として度を越す抑圧によって病的に傷つけてしまうものだからだ。そこまでに至らない小さな規模の共同幻想は、宇田の言い方を使えば「ほったらかしにしてもよい」共同幻想で考察の対象から外されることになる。
 さて、共同幻想としての国家、国家としての共同幻想が解体し、消滅するというときに、
わたしたちに安堵が生まれたり、理想が近づくというようなハッピーな気分に浸れるかというと、たぶんそうはならない。何故かというと、今日的な国家は共同幻想の最終形態と言われるものの、この最終形態は権力闘争という形で幾度も代替を繰り返してきているものだからだ。その意味では、仮に外堀が埋まったと言ってもまだまだ別の国家に取って替わるだけかも知れないし、国連という形で国家の上の機構に統一されていくのかも知れないという怖れはなくもないといえる。
 宇田亮一は高強度の共同幻想はいずれ解体し、「国家の次に来る共同幻想」は低強度で
前古代社会の再構成といえるものになると言っているが、それがまた自然過程であるかのようにそのように進むのか、そこにわたしたちの願望や実現への努力が必要なのかは明確ではない。
 いずれにしても、今日の世界の加速するグローバル化を受けて、安倍政権は大企業の後押しを兼ねながら日本国を国民主権から金儲け主義者たちの主権国家へと変革しようとしている。もちろんこれは吉本や宇田をはじめとして、国家という共同幻想の解体の兆候を
考察してきたものたちが感じとったものを
彼ら政治家たちが直観的に察知していることを背景として、その不安や恐れから生じてきた国家権力担当者たちの怯えを象徴するものだと見ることもできる。たしかに、なにかが変わろうとする足音が近づいてきている気配は、社会や個人の内外を問わず忍び寄っていると思わずにはおられない。それがどんな形になるのか、私にはまだよく分からない。ここでの宇田亮一とネットのブログでの思想家内田樹は、ともに、「顔なじみの共同性」や「地域規模の共同性」に再構成していくことに希望的なイメージをこしらえているように見える。だが、もともとがそういう地域の顔なじみの中に育った私は、それに近似した共同性に希望や理想を託せるのかと疑問を感じないではいられない。
 もう一つ不明なことがある。
 今日の世界のグローバル化は、企業が国境を易々と超えているところに特徴が見いだせる。言い方を変えれば、経済が政治を二義的なものに引き下げ、経済や市場が世界を主導しているようにさえ見える。もはや経済をコントロールするのが政治ではなく、経済が政治を動かしていると言ってみたいくらいだ。TPP協定などもその一環に思えるのだが、そこからも従来の国家の枠組みとか境界の強固さとかが緩んできているという印象がある。いや、弛めないと国の存立自体が危ういという地球規模の状況が生まれつつあるという気がする。これは、吉本や宇田の説とは別の側面からする、もう一つの国家解体の兆候であるとともに、要請でもあるのではないだろうか。ただしこちらにはもう一つ上の共同幻想に向かう動きがあり、それを考えても簡単に「顔なじみの共同性」に私たちの社会が向かうような気が、私にはしない。
 
 ここまでの言及で今の段階における私の念頭の思いは、きめの粗い素描としてではあるが拾い尽くし、書き尽くしたと思う。とりあえずこんなところで終わっておく。
 
「公共性」について考える     2013/07/16
 中部大の武田邦彦さんが日本人の歴史認識、特に大東亜戦争を侵略であり植民地政策であるとする社民党や共産党のような左翼系の考え方を強く批判している。そして武田さん自身は、大東亜戦争は世界的な圧力がかかった上での自衛のための戦争であったと主張したいようなのだ。
 これについてあまり異論はない。アメリカの占領と以後の従属的な「非戦」を標榜する歩みの中で、事実や実際が粉飾された嫌いはあり、そこを正していく論争は左右のそれぞれの立場から為されてけっこうだと思う。そしてどちらの主張にも、多少の主観や粉飾や誇張などが紛れ込むことは仕方のないことのように思える。
 過去の戦争のそうした歴史的な事実の究明や、いわゆる総体的にどう把握するかの立場は、もちろん専門家の学問的研究からもたらされるべきで、中心的には歴史学者たちの領域ということになろう。
 私が『「戦争」を考えるスタンス』と題して2つの文章をホームページの「文学の小部屋」、その中の「付箋集」に収めたのは、武田さんの主張の中にはっきりと「公共性重視」の考え方が述べられていたからだ。ただ、これも単に単独で「公共」を重視する主張であったならば、問題とは考えなかったと思う。そこに、戦争期のように国家存亡の危機の際は、非常時として「私」とか「個」とかよりも「公共」が優先するという考えが潜んでいたために、これに批判的な態度をまずをは明確にしておきたかった。安倍自民党政権が憲法改正草案の中で、「公共の秩序」をもって「人権尊重」を2の次に置くシフト変更を企む中で、軽々しく「国のため」という公共性優先の考え方をこの時期に讃えたり、美化したり、また「戦争」そのものを正しかったなどと肯定して欲しくない。
 実は、「公私」の「公」と「私」について武田さんの考えは混乱している。一連の歴史認識の問題における「戦争」関連では「国家」すなわち「公」の擁護に傾き、一方、前後に打ち出された自民党の「憲法改正案」については、「公益及び公共の秩序」を優先して私的人権を制約するもの、と批判的であった。いったい武田さんのスタンスは、「公私」のどちらにウエイトを置いているというのか、よく分からない。あるいは考える対象によっていくらでも変貌するものなのか。私はこのことについて、武田さんはあまり慎重ではないなと思う。あるいは、もともと「公私」の区別など重要視していないのかも知れない。あるいは単に、先祖のことを悪く言うなということが言いたかったのかも知れない。
 
 いずれにしても、「公共」というものについて、よい機会なのでここではっきりとさせておきたいと思う。
 この問題について、私は吉本隆明さんの考察がシンプル且つ過不足のないテキストになると考えてきた。その中から一部を引用してみる。
 
 公共性、集団性、大秩序は、個人の私的な「自由な意志力」の総和の意味をもつときだけ、成り立つ。個人の「自由な意志力」が減殺される場合には公共性、集団性、大秩序は成立しないと見るべきものだ。
(中略)
わたしが現在言えることは、個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべきで、その他は「国家」とか「社会」とか「公共機関」と偽称することを許すべきでないということだけだ。
(中学生の教科書―四谷ラウンド発行2000年)
 
 これらの文章の意味するところは、言ってしまえば自民党の「憲法草案」とは真逆の方向にあり、限りなく個人の「私」性と人権を優先させたものと言える。
 私たちの短い生涯を考えたときに、生まれて物心が付き始めると、私たちは自身の周囲が集団や共同的なもので取り囲まれているものだということを実感する。そしてそれは自分が出生する以前から存在することを知り、そのために、そこでの公共性は個人的、私的なものに優先すると考えてしまう。全体があって個人があるというように。私には公共性優先の考えを支える根拠のひとつは、こんなところにあるような気がする。
 だがこの思いを突き放して人類史の過去の方向に放り込んでしまえば、現在のわたしたちが考える「国家社会」の「公共性」というものは、存外歴史的には新しい、つい最近にあみ出された概念であると理解できる。もっと言えば「民族国家」成立後にできた公共性を指している。少なくとも吉本さんや武田さんが考えている範囲内で言えばそういうことになると思う。さらに言えば、十九世紀から二十世紀にかけての、資本主義や社会主義といった精神秩序、思考の枠組みが、「国家」とか「社会」とかの公共性を優先させる考えを広め、そしてそういう考え方の秩序を仕上げていったと言える。この「公共性」優先の考え方の元に、歴史的にもっとも規模の大きい、また長く激しい「戦争」が世界にもたらされたことは言うを待たない。
 このかつてない「世界大戦」という「戦争期」を経て、その多大なる犠牲、不毛や徒労を前にして「戦争」をなくすことを考えなかったら嘘だと思う。だが現実社会を眺めれば、反戦や非戦を唱えても即座に戦争がなくなるとは考えにくいようだ。現に今日でも各地で紛争やテロが頻繁に起きていて、日本を含めたアジアにおいても北朝鮮などのやや好戦的と思える国家が周辺国を脅かしているという現実は存在する(実際は反対なのかもしれないが)。そんな時に、何が戦争突入と回避の分岐になるかと考えれば、個人の権利を「公共」の上位に置くか、そうではなくて従来のような「公共」優先のままでいるかというところにあろう。
 戦前においては、「国のため」という「公共重視」が戦争の突入と継続、そして総力戦へと進み、結果的に多大な犠牲を招いた。そのために戦後は過剰なほどに徹底して「私」を重視する方向に進んだ。もちろんこれは日本人にとって初めてといってよい経験であるから、戸惑いもあり、極端に走る傾向も見られた。しかし、戦後の思想にとってはどんなに紆余曲折を迎えても、「個人の私性」を最上位のものとして根付かせる以外に「国民」を立ち直らせる方法は考えられなかったのだと思う。吉本さんの先の引用の文章もその文脈の流れで、その私性重視の姿勢は極北に位置すると私は思う。注意すべきは、「公共性、集団性、大秩序」がけして先験的な事項ではないことが明確にされていることだ。
 
 私がこの吉本さんの考えに感心するのは、個人の「自由な意志力」の総和としての場合だけに公共性や集団性や大秩序(公共の秩序)が認められるという考え方で、その他は一切の妥協無く「公共」の概念に当てはまらない、成立しないと定義しているところだ。
 ここで考えられることは2つある。ひとつは国家の指導者たちや太鼓持ちの報道機関によって仮装されたり偽装されたりした「国民世論」とか「総意」とか「民意」といったものは、真の「公共性」にあたらないということだ。それは実質的には一部の者たちの通念として成り立つ「公共性」であって、個人の「自由な意志力」の総和、言いかえれば社会一般の意志や考えの総和とは見なされない。逆な言い方をすれば、「公共性」が成り立つためには、前提として個人の「自由な意志力」とその総和が勘案されなければならない。また公平な意思表示の場が設けられなければならないということにもなる。イメージ的には国民による直接的な投票行動といったものを考えれば、そこにやっと「公共性」の成立が浮かび上がってくる。それ以外に、たとえばある政治家が「これが国民の声だ」と言っても、報道機関が恣意的なアンケートで「国民の声」を仮構しても、それはやはり本当の意味での「公共性」を意味しない「偽の公共性」、「公共性の偽装」ということになる。もちろんこれは私のような思考するところを文字に表し、文章を作成する個人にとっても同じことで、ともすると私たちでさえ思考する中で「公共」を仮装したり偽装したりすることがないわけではない。
 もう一つ考えておきたいことは、ここで吉本さんが『個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべき』と指摘していることは文字通りのそれであって、たとえば戦争をするかしないかの直接投票を想定した時に仮に「する」が過半数を超えたら、戦争に進むこともやむを得ないとする考えが包含されていることだ。つまりこの場合、本当の「公共性」というものにも非常に危険な面が伴うものであって、だからこそ私たちは社会の成熟に責任を持たなければならないのだとも言える。
 まさに、国民ひとりひとりの考えが大事だということ、そしてそれは大切にされなければならないこと。またさらに、そうなってくれば国民ひとりひとりの責任というものも大きくなっていくのであって、同時にその責任から逃げられないし逃げてはいけないのだということにもなっていく。
 吉本さんは個人の「自由な意志力」をほぼ絶対的なものとして措定し、その総和が実現したときのみ「公共性」を認め、同時にはじめてそこに「公共」としての価値が生じるものと見なしているように思える。だが、ここに生じた「公共」の価値も個人の自由を制約したり妨げたり、あるいは「公共」の名の下に何ごとかを個人に強制することは否定的に考えられている。つまりいったん個人の「自由な意志力」の総和として「公共性」が成立しても、その「公共性」には個人の「自由な意志力」に強制的に働きかけてこれを阻止し、「公共性」に従わせるといった権限は無いというように考えられている。徹底して、
個人の「自由な意志力」は何ものにも妨げられないことが前提とされている。
 
 これに反して、二十世紀を跨ぐ前後に、国家意志や民族精神というような言い方で権力者や指導者の考えを「公共」のものと見なし、国民はこれに従うものだという考え方を示したのはドイツ観念論の大家ヘーゲルである。ヘーゲルのそんな考え方もそうであるが、ヘーゲル自身が三角形の頂点に居座って自身の考えを底辺に向かって覆い被せるように拡げ、隅々にまで広めていったと印象される。ヘーゲルの知と論理は並大抵のものではなかったから、そういう考え方は多くの人たちを納得させた。今でも、彼の著作を読めば圧倒的な説得力を覆すことは容易ではないと考える人は多いのではないだろうか。
 吉本さんの考え方は、それに対して真っ向から対立するものだと言える。はたしてヘーゲルを超える説得力があるか無いかといえば、ヘビー級のチャンピオンとフライ級の4回戦ボーイの違いほどの違いがあるのだろうと思える。つまり分は悪い。著作物を通してみたら私にはそうとしか言えない。ただこれは純然とした個人的な違いというよりも、民族や文化や風土や歴史の違いが含まれていると考えるべきものだと思う。
 また、仮に吉本さんの指摘が軽量級の放ったジャブのようなものだとしても、その一打が相手の致命的な弱点や急所を突いたものであれば形勢が逆転する可能性が無ではないと言えよう。
 分は悪いが、吉本さんが唯一「公共性」を認めてもよいと考える関係性のイメージが、吉本さんの戦時中の体験の中から掬いとられて次に引用する文の中に描かれている。勤労奉仕という形で動員されているときのことだ。
 
 わたしたち個人個人は真剣だったが、疲れて作業したくないときも、怠けて遊びたいときも家郷に帰りたい時もある。わたしたちのうちの誰かはいつも作業に精を出さないでいい加減で、ほかのみんなが作業に出かけたときも誰かは遊びに出かけていた。などなど、はじめはいわゆる公共心と個人の都合のはざまで、非難の仕合い、相互不信の諍いが絶えなかった。
 しかし最後に到達したのは、他人でも自分でも、怠けたいとき、体を動かして奉仕する作業をやりたくないとき、遊びたいとき、非難も弁解もせずにそれを許容し、その欠落は黙って他人の分までやってしまうこと。自分が怠けたり、作業を休んで家郷に帰っても他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が、学生同士の間で成立したとき、わたしたちは、公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたと思った。(略)
 
 統率力のある指導者というのは、ファシズムであってもロシア=マルクス主義であっても駄目な人物であるといっていい。そしてわたしたちが学生同士でこの暗黙の相互理解に達したとき、軍国主義の命令に従いながら、たしかにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。「自由な意思力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念は駄目だ。これはかなりな年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目の下に強制された経験と実感のはてに、わたしなどの世代が獲得した結論だった、といっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。
(太字は佐藤)
 
 これだけのエピソードで個人の「自由な意志力(意思力)」を「公共性」の上位におく根拠として認めることは難しい。実際、ヘーゲルもこういう局面を却け、権力者の利己的な野心こそが歴史の進展に寄与すると考えた。もちろんヘーゲルのそうした考えも結果論と言えなくはないし、絶対の根拠が示されているわけではない。こうなると私などのような一般人、凡人にとって、自分というものをどちらの考え方に託すかという問題になってくる。どちらを信じるか、どちらの考えに足場を置くかということになる。
 これがいいかどうか分からない。だが、私は吉本さんの考え方の方に立ち位置を取りたいと思う。ただそれだけである。そこに本当に正義があるのか、真理があるのか、私などには分かりようがない。だが、どうしても個人の「自由な意志力(意思力)」を「公共性」の上位におくほうが、人間社会の未来に向かって有効だという判断しか出てこない。
 
 現時点において、「公私」の問題について私はこれくらいのところまでしか考えることができない。最後に、吉本さんが「本当は利己心に過ぎない」と述べていることと同じ物言いを思想家の内田樹さんがしている文章を引用して、まだまだ考えは中途だがとりあえずこの文章を終わりとする。
 
改憲草案は現行憲法と何が違うのか。
たとえば現行憲法の二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」とされているが、改憲草案には「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との条件が追加されている。
「公益及び公の秩序」なる概念が、公共の福祉、国民の安寧より上位に置かれているわけだが、この「公益・公の秩序」が何であるか、誰がどのような資格で、何を基準に規定するのかについては何も書かれていない。
このような恣意的なものに基本的人権を抑制する全権を付与することの危険性は何度指摘してもし過ぎるということはない。(ブログ「内田樹研究室」7/12『私の憲法論』より|太字の表示は佐藤)
 
日本の政治と経済の状況についての覚書    2013/06/19
 安倍総理は長島さんと松井さんに国民栄誉賞を贈ったり、三浦雄一郎さんの名を冠した冒険家を対象とした賞を創設したりなどと、メディアを上手く使って国民にアピールすることにマメである。次々に何かをやり続け、そのたびにメディアに露出して、自分や党のイメージアップを図っていると言っていいだろう。とても精力的に仕事をこなしているふうな、これは演出でもあるだろう。
 
 当面は夏の参議院選挙に勝利することが安倍さんや自民党にとっての喫緊の課題であるにちがいない。まあ「よそさまの事情」だからどうこう言うつもりもないが、少なくとも僕自身はそうした「事情」に加担する謂われは何もない。勝手にやるがよかろう、そんなふうに傍目で見ているばかりである。
 そんな安倍さんが、「アベノミクス」とかいうことを口走っていてこれも衆目の話題となっている。聞くともなく聞いているとこれがどうも安倍政権による経済政策を言うらしい。日本の総理だから日本語でやってくれないと国民すべてに伝わらないというようなことはさておいて、これも先の「賞」の話題同様、「なんだかなあ」と思わせられる。
 
私は経済の専門家ではありませんが、「アベノミクス」の先行きは暗いと思います。
国民に「景気が良くなった」と思わせて株を買わせ、消費行動に走らせる。
「景気がよくなる」と国民が信じれば景気がよくなるという人間心理に頼った政策です。
実体経済は少しもよくなったわけではありません。賃金も上がらないし、企業は設備投資を手控えたままです。
 
それに「アベノミクス」は国際競争力のあるセクターに資源を集中して、グローバル化した企業が世界市場でトップシェアを獲得することに全国民が貢献すべきだという考え方をしてます。
企業の収益を上げるために国民はどこまで犠牲を払えるのかを問いつめてきている。
しかし、国民は企業の収益増のためにそれほどの負担に耐える必要があるのか。
そもそもグローバル化した企業はもはや「無国籍企業」であって「日本の企業」ではありません。
 
実際には、大飯原発再稼働のときに明らかになったように、グローバル企業は、人件費が高い、電力料金が高い、法人税率が高いと文句をつけて、要求が通らなければ「海外に生産拠点を移す」と脅しました。その理由が「経済戦争に勝つために」です。でも、実際に戦っているのは国同士ではなく、民間企業です。経営者も株主も従業員も日本人ではなく、生産拠点も日本ではなく、納税先も日本ではない企業を国民が支援する理由はありません。その事実を糊塗するためにも、グローバル企業は「日本の企業」という偽りの名乗りを手放さないのです。
グローバル企業が「雇用の創出」と言っているのは、要するに日本人労働者の賃金を東アジアの途上国並みに下げろということです。日本の労働者が貧困化することは、長期的には内需の崩壊を招くわけですけれど、短期的には企業の収益を高める。
多国籍企業と国民国家は今や利益相反の段階に至っています。この論理矛盾を糊塗するためにナショナリズムが道具的に利用されている。
安倍自民党がことさらに中国・韓国との対立感情を煽っているのは、無国籍産業がそれを要請しているからです。国同士の経済戦争で命がけで戦っているのだという「ストーリー」を信じ込ませれば、国民は低賃金に耐え、消費増税に耐え、TPPによる第一次産業の崩壊に耐え、原発のリスクに耐えるからです。
 
 以上は、思想家であり神戸女学院大学名誉教授という内田樹さんのブログ(6/3付)から引用させていただいたものである。政治と経済の状況を読み解く上での参考資料としてここに掲げてみた。これを国内的な思想視線と考えれば、国外からの視線を代替するものとして冷泉彰彦さんのジャーナリスト視線が参考になる。6月6日付の『「国家戦略特区」構想で日米の株が暴落した理由』から引用させていただく。
 
 6月5日に「内外情勢調査会」で行った講演で安倍首相は「成長戦略第3弾」を発表しました。
 
 ロイターのリチャード・ハバード氏のコラムでは「成長目標だけが示されて、実行計画の中身がゼロ」。デジタルメディア「クォーツ」のマックスウェル・ワッツ氏は成長戦略の内容は「ひたすら退屈」。ヤフー金融面のビデオ、ダニエル・アルパート氏(ウェストウッド・キャピタル)も「成長戦略の中身がない。このままでは流動性供給も失敗へ」など、アメリカの金融関係のメディアでは安倍首相の写真とともにアナリストの「酷評」が続出ということになってしまいました。
 
 
安倍首相の言う「国家戦略特区」というのは、東京や大阪などの大都市に、高層のオフィスビルをドンドン建設して、海外の企業を誘致して行くという話のようです。その際に、日本の病院や医師では英語が通じないので海外の医者が診療してもいいとか、インターナショナルスクールも規制緩和でドンドン作っていい、更に職住近接のために高層の居住用のビルもジャンジャン建ててもらいましょうという話です。
 
 
 これが「国家戦略」なのだそうです。こんな意味不明な「政策」というのは見たことがありません。以下、疑問点を列挙してみます。
 
(1)どうして海外の企業を誘致なのか? 日本企業ではないのか?
 
(2)そもそも、医者と学校の「持ち込み可」で、職住近接のビルが沢山あれば海外の企業が日本に来るのか? 日本の市場が魅力的でなければ、日本の税制やビジネス回りの諸規制が簡素になるとか、ズバリ英語で仕事は進むとか、優秀な人材が確保できるといった条件がなければ、誰も来ないだろう。
 
(3)それにしても、どうして「外国人医師の診療許可」なのか? 混合医療や高度医療をさせるためなのか? それとも人口の極端に少ない都心部では、日本人の家庭医などはビジネスとして成立しないので、どうせなら海外から招聘しようというのか? それとも英語力やインフォームドコンセントの問題などで、日本人医師では信用されないからなのか?
 
(4)インターナショナルスクールの規制緩和というのも意味不明。設置の規制緩和だけでなく、小中高の卒業資格を付与するとか、日本の教育の国際化の中に位置づけるのならともかく、どうして外国企業誘致のためというストーリーから出てくるのか?
 
 というわけで全く意味不明です。1つ、私が思ったのは、もしかしたら東京五輪招致に成功した場合に絡めて「とにかくビルを建てたり、東京など大都市のインフラの作り替えでゼネコンに仕事を回す」という、正に官民挙げての「ハコモノ経済」を促進して行こうというアイディアなのか、そんな印象が最初にありました。
 
 もしかしたらそれだけではないのかもしれません。全体的に国内の経済は「改革のできないまま縮小していくのを変えられない」から、グローバルな競争力は「租界」の外国企業に担ってもらうというのかもしれません。都市の経済としては、例えば外食、エンターテインメント、小売、運輸、生活サービスなどでその「オコボレ」にあずかる、そんな構造です。
 
 
 では、どうしてこの「国家戦略特区」構想は、日米の市場から「不信任」を突きつけられたのでしょうか? それは世界がまだ「日本経済という眠れる巨人」の復活に期待しているからです。20年間衰退しっぱなしであって、その原因が「戦略のミス」であるならば、そろそろ復活してもいいだろう、少なくとも円安と株高を踏み台に実体経済を伸ばす戦略を、という期待があったのです。
 
 にも関わらず、日本経済としては変われないし衰退も止められないので、租界を作りますから外国企業に来ていただきたい、という成長戦略でも何でもない「意味不明」な発表があったのです。これでは、失望するなというのがムリというものでしょう。(太字は佐藤)
 
 ちなみにここに出てくる「租界」というのは、岩波の辞典では「もと中国の開港都市で、外国人が警察・行政を管理した一定の地域」というように書かれている。たぶんこの方式は今日の中国のほかの地域でも行われていて、多国籍企業を喜ばせているものだろうと思う。これを日本でもやろうとしているように見える、と冷泉さんは言っているわけだ。国土の切り売り、第2第3の沖縄化、そんなふうに見えなくもない。
 
 内田さんも冷泉さんも、経済の専門家でもないし政治のプロというわけでもないからこれをもってして断じることはできないが、だが専門でない人たちにもあっさりとこのように片付けられるようでは「アベノミクス」もあやしい試みと思うほかない。
 ところで、経済の専門家でないものから見てもこのようなほころびが見える安倍自民党政権の経済政策であるが、ではどうするのが正しいか、どういう政策が好ましいのかについては両者の見解はない。もちろん僕らなどは論外で、ただただこうした論客、アナリストの意見を拾っては組み立て、政府の広報機関と堕したNHK、民法各テレビ局、そして大手の新聞の「まやかし」がやっぱり「まやかし」らしいと疑ったり、確証を捜すのに手一杯でいる。それは騙されたくないというだけのことで、独自の政策を立ててみせるなどということはとても手の届くところではない。正直に言えば、このこと(構想を持てないこと)は僕らの内面を相当な深さで傷つける。どこをつついても批判ばかりを先行させて、ともすれば批判が目的化してしまう疑念に沈むことになるから。だが、たとえそうであっても政府案、政策案、何でもいいからとりあえず経済学者をも含むだろう知的ブレーンたちの、真に国民生活を考えた、世界に納得される経済政策を産みだすよう願うばかりだ。
 
 ごく普通のひとりの生活者、また経済の素人にとって、経済というのはまず「混沌」である。景気の上がり下がりに対しても口も手も出せない。なるがまま、見えるがままをただ眺めている。
 自分たちにとっての最も身近な経済は、給与でありそれが元になった消費活動である。何年も賃金が上がらない。ボーナスの出ない仕事が周りでは主流になった。当然買い物も限定されてきて、お総菜など値下げの赤札が付けられるのを待って買うようになったりする。健康であれば飢える心配もなさそうだが、数日前には母子が飢え死にというニュースが現に流れ、目の前には暗い翳りが漂っている。みんなはどうなんだろう。テレビを見ていると景気よさ気な画面の方が圧倒的に多いが、僕らの周囲はかなり深刻だ。金銭的な問題も大きいが、そればかりではなく社会全体がヘドロの中におかれているような暗く病んだものを感じさせる。政治家はすれすれに生きるこんな生活の現実を知っているのだろうか。やたらに景気よさげなアングルをねらって報道するようになったテレビ局の番組スタッフたちは、毎日どんなことを考えて番組を作っているのだろう。しかし、僕たちにはどうやったら景気がよくなるとか、どうしたら少ない労働時間で高い賃金が得られるようになるとか、周囲の暮らしのレベルを上げるにはどうすればいいのかとか、何一つ考えることができないのだ。いや、考えても埒があかないと言ったほうがいいかもしれない。考えても何も浮かびやしないし、仮に何かが浮かんだとしても、それを取り上げ聞いてくれるものなど誰ひとりいない。。
 経済の専門家たちは低所得者層のあえぎにどう答えてくれるのだろう。国費で研究する経済学者は国民の半数が苦しい生活を続けていることに責任は感じないのだろうか。逆に、富んで浮かれた生活をする半数の人たちの支持を得て自分は責任を果たしていると満足しているということになるのだろうか。
 
 
 とりあえず考えられることは、国内的に自民党安倍政権はグローバル企業、大企業の国際競争に2人3脚のような形で支援の姿勢をとっていて、さかんに繰り出している政策の大半はその戦略上におかれているということだ。最近の内田樹さんの文章によれば、企業は生き残りをかけた競争のために人件費、電気料金、法人税などのコスト低減を求めていて、政府がこれの積極的な後ろ盾になっているという。
 国民にはこれ以外に国際競争に勝つ道はないように思わせられるが、たぶんそんなところにもトリックがありそうだ。例えば人件費ひとつをとってみても、本当は低位の社員をリストラするよりは管理職や専門職を対象とした方がすべての面で合理的なのに、日本的な特性で上位職の結束や抵抗が大きくてなかなかそこの砦が崩せない。そこで低位の労働者に負担を強いるシステムを制度的にこしらえ上げようとする。いかに上位職の利権にしがみつく姿勢が蛇の団子状態みたいになっていて、そこを切り開くことが困難かということに尽きるという気が僕にはする。
 冷泉彰彦さんは別の文章で、やはり安倍政権の「限定正社員構想」にふれ、
 
「管理職や専門職より低位の正社員」の方が「より解雇されやすい」などという制度は欧米にはありません。アメリカには少なくともないし、EUの場合は更に雇用を守る法制になっていると思います。この点で「解雇しやすい限定正社員制度」なるものが「欧米では一般的」などというのは大ウソです。
 
と言い切っている。どういえばいいのだろう。ここまでくれば公平や平等の大切さ、個々人の尊重、総じて人権意識というものが欧米と日本では格段に違っているように見える。これは文化の伝統の違いでもあるのだろうが、日本では「低位」のものに責任を負わせるとか、トカゲの尻尾切りのように解雇するとかに、労使ともに大きな抵抗を持たない。僕らはそこは日本が先進国でありながら非常に遅れているところ、あるいはアジア的な残渣だと思う。これは末節のように思われるだろうが、本当はとても大事なところだ。戦後、憲法改正から始まって民主主義などの西洋からの借り物一色で日本は戦前までの日本から変わろうと必死だった。平和国家の建設ということもそこには含まれる。そしてたしかに「いいところまで」は行ったのである。いや、表面的には、あるいはあるところまではと付け加えるべきかも知れないが。
 明治、それから第二次世界大戦後の2度にわたって日本は貪欲に西洋化に取り組んだと言えばいえる。それは西洋が世界標準、言い換えれば最も文明が進み模範とすべき地域と思われたからだった。先にも言ったように、日本の西洋化、民主化は世界にもまれに見る成功例だったと見てもいい。上手く合致し、あるいは消化して血肉化した部分もたくさんあったと思う。だが、どうしてもそこから先は抗体に邪魔されて西洋化できない部分が残る。その残った部分をどう言ったらよいか分からない。逆に言うと、西欧の騎士精神とでもいうほかないような、理念としての公平や公正や博愛というようなもの。そういう言葉と言葉の概念に執着する姿勢だ。日本では建前(ここでは理想への指向性を含む)と本音という時の、個人でどちらに重きをおくかという態度だといってもいい。建前こそ自分だと考える姿勢だといえばいいだろうか。西洋には建て前こそが本音だというような不可分さがあるが、日本、そして日本人においては建前は建前に過ぎないとして、あっさりと放棄して本音に居直るところがある。
 今日の世界の中にあって、建前に殉じることの苦手な日本といえども、表向きの建前だけでもいいから制度上「弱いものの立場を守る」という国家の最低限の存在意義だけは手放して欲しくないと思う。逆にそこに西欧の精神の最上のものがあり、そこまで行き着かなければ西洋化に向かった初源が完結しないばかりか西洋化の意義もまた半減する。僕はここで西洋化がいいと言っているわけではない。西洋化を進めた以上、最上の部分を自分たちのものにしなければ西洋化を進めた甲斐がないだろうと言いたいのだ。そのために、僕たちは僕たちの故郷を深く傷つけてきたのだから。
 
 最近になって安倍自民党は、「生活保護費」の受給にあたって厳正化を進めようとしている。そこには3兆円を越す膨大な額の費用が必要とされ、財政が圧迫されているという事実がある。だがよく考えるとこれもおかしな話で、いままでは適当に審査していたのかということになる。また、この期にどうして「生活保護費」かということも理解に苦しむ。少し前、これは民主党時代のことになるが、東日本大震災で大量に出た瓦礫の処理の関係で、検討するとした市町村に億という意味のない金がばらまかれた。また毎年のことらしいが原子力機構か何かに4000億あまりの補助が、福島原発事故後も同じように配布され続けていると聞く。ひとの生き死にを左右しかねない「生活保護費」を削るよりはそうしたものの支出を精査することの方がまず大事であろうと思う。しかも景気が低迷し、若者や低位の職にあるものたちの貧困化が進む中での厳正化には、「受給生活者」を文字通り追いつめることで貧困者の不満をも抑え込もうとする意図が隠されていそうな気がしないではない。つまり、自分はまだあんなところまでは落ちきってはいない、と思わせるようにだ。それはもう、社会そのものや大人たちの「いじめ」とそれに付随する「暴力」の心理に端を発していると考えずにはおられない。弱いものいじめの典型、それも財政にかこつけた陰険ないじめの典型と僕には見える。基層には官僚の発想があるのだろうが、こんな陰険でスターリズムまがいのアイデアをを、会議かなにかの場で高級スーツに身を固めた政治家たちがしゃべりあっていると思うと情けない。まさに、『「管理職や専門職より低位の正社員」の方が「より解雇されやすい」』日本的な社会の縮図が、そこにも映し出されているというほかはない。とても第一等の文明国、文化を持った国とは言えないと思う。いつまでもこんなことをしていたら、世界からは危険な国ではないが古代を引きづった変わった国だと見なされるのではなかろうか。
 ここに来て、ふいに、お笑いのバイキングのように「なんてこった!」と声を荒げたいし、同じくハマカーンのように「下衆の極み」と見得を切ってみたいと思う。西洋にはないよさを持った国なのだが、そのよさが今のところ世界に向かって活かされる気配がない。
 
 安倍政権の政策の空虚さは、冷泉彰彦さんがはっきりと指摘している通りであると思う。
 
 にも関わらず、日本経済としては変われないし衰退も止められないので、租界を作りますから外国企業に来ていただきたい、という成長戦略でも何でもない「意味不明」な発表があったのです。これでは、失望するなというのがムリというものでしょう。
 
 このように喝破され、しかも市場の動きがそのことを証明した。安倍式パフォーマンス、あるいは安倍マジックが世界に通用しないことは首相再就任後の動向を追えば明らかだ。就任当初こそ意欲的な言動は国民の期待値を上げた。だがほとんどは見かけだけの空疎なものだということは次第に明らかになってきた。これでは一回目の首相就任の時と同じで、たぶん自滅の道を辿るだろうことが予想される。
 衰退する日本経済のシステムはそのままに、安倍首相がやろうとしていることは、競争に勝つ勝者と負ける弱者とをはっきりと区分けして、勝者だけが生き延びるシステムを構築することだ。沈没しかけた船の中で誰を優先して救命ボートに乗せるかという問題と同様に、沈下した日本経済という船の乗船者の中から誰を優先して救い出すか、逆に言うと誰を放置するか、ということになる。これは冷泉さんが言うように、「日本経済としては変われないし衰退も止められない」ことを前提においた対策といって間違いない。また、放置することで空いた救命ボートを他国に出血覚悟で貸し出しますと言っているようなものだ。こんなに見かけを取り繕うことに巧みで、内実は国民の半数を犠牲に供しようと意図する政策を次々に打ち出す政権をあまり知らない。だが、そんなことが世界に通用しないことは確実だ。現にアメリカのアナリストが酷評するばかりではなく、投資家にさえ策の空虚が見透かされて円や株の乱高下が毎日のようにトップニュースになっている。日銀の政策共々沈没の不安さえ現実的なものとなっている。
 
私にとっての「原発」      2013/06/05
 ネットの知人から教えられた『吉本隆明と現代の超克』という名のホームページを見に行き、書かれた文章を読んだ。まだ完結した文章ではないのでまとまったことは言えないが、一言で読後の印象を言えば、福島第1原子力発電所事故後の、吉本隆明の一連の発言をめぐって批判を意図した文章だと思った。
 私見では、吉本さんはこの事故で即「反原発」「脱原発」というのは間違っているという主旨の発言をしていた。これは政治的な原発推進派、継続派を擁護するととらえられたり、あるいはそういった立場のものたちに利用されることにもなった。だが、私的には吉本さんの立場は推進派でもなく反対派でもなくて、現実のそういう対立の構図とは縁もゆかりもない次元の異なる発言だったと理解している。
 先述の作者は、もともとは吉本さんの著述の愛読者、しかもかなり熱心な愛読者らしく、批判を意図しているとはいえ、礼を失することないような心配りと丁寧さで自説を展開している。私などの中途半端な吉本愛好家も、その論の中に多くのことを学ぶことができた。いわばちょっと高次な発言者には違いない。そして彼のあえて批判的に検討する姿勢の由来といったものも、からきし分からないというわけでもない。曰く言い難いものがあったにも違いない。
 作者の立場は、原発は停止すべきという考えにある。端的に言えば、3.11以後、吉本さんが同様に発言していればこの文は書かれなかった。だが吉本さんは作者の意に反して、反原発、脱原発の主張は人類の進歩を否定するものだと主張した。その言葉は現地の人たちには当然受け入れられないものであったろうし、実際の被爆者、被災者とは遊離し、乖離した発言と受け取られたに違いない。作者もまたそう受け止めたのではないだろうか。そしてもちろん、遊離し、乖離した発言であったことは間違いないだろうと私自身も思う。
 ただ、私は端から吉本さんが被爆者、被災者に寄り添った原発論を語ろうとしたとは思わなかった。目や耳や足腰さえもが不自由になった吉本さんが、状況論のスタンスで語ることには無理があり、私は、訥々と原則論を語ったものと受け止めた。高齢の吉本さんに、以前のミドル級ばりのファイターの姿を望んではならない。逆に不自由さの中に語られた言葉を、かつてならこんなふうに語っただろうというような翻訳家的立場で聞く必要があると私自身は考えていた。
 私の考えでは、震災事故後、著述家として最もかつての吉本さんに近い論理的態度を示していたのは中部大教授の武田邦彦であった。武田さんは左翼嫌いだし、彼の著作から吉本隆明の名を見たこともないからたぶん接点はない。ただ自分の中の本当を、率直に外に表すというところで共通するところはあるように思われる。論理の整合性も認められる。
 武田さんは以前からの原発推進に関わったもののひとりとして、事故直後から責任感を表白するとともに、被爆からの避難や被爆線量の減少に向けての提案などを積極的にブログ等で展開した。長きにわたって書き表されたものの全体的な印象としては、はじめ、武田さんは原発の停止にも継続にもやや慎重な姿勢をとっていた。どちらかというと吉本さんの昔の発言のように、有効な代替エネルギー利用の目途がたつまでは継続して原発を使うほかないだろうという立場だったと思う。その時点で態度が曖昧であったのは、事故原因を含め、政府、東電などの事故対応の全体が見えていなかったからだ。逆にいうとその時点で原発を止めろとか続けろとかの発言は、あまり科学的でないものが多く、また被爆した住民からのものでもなく(そういう余裕さえまだなかった)、どっちみち機に乗じて利用しようと意図した綱引き的発言だったと思う(吉本さんの発言はそこに向かって発しられたものだったと記憶している)。その後、事故対策、事故対応のお粗末さが明らかになるとともに、日本の原発の安全対策や管理体制の未熟さや幼稚さが露出して、とても現時点で日本において原発を運転することは無理だという考えに武田さんはなっていったようである。早めにすべての原発を停止し、根本的な原子力政策の転換ができるまでの間凍結することが望ましい。あるいは有力な代替エネルギーが見つかれば、原発は永久に廃棄されてもかまわない。またそういうことができなければ、万全の安全策を講じて100年後に原発再稼働があってもいいだろう。そういう方向への考え方に移行していったように見える。それは当然で、あまりに利権に走り、全てにおいてずさんで、現状の原子力体制のままで原発の再稼働なんか任せられないと判断したからに違いない。これは一見しただけでは吉本さんの発言そして考えと結びつかないと思われるかも知れないが、私には現実具体の場に吉本さんの考えを具現化したら、こういう武田さんの考え方と同様か差異があってもその差異には大差がないだろうと思う。
 そして、概ね私はそんな武田さんの見解に早くから賛成であった。今回の事故を全体として概観するに、もちろん素人目にではあるが、根源的には人間的かつ初歩的な失策が原因と感じるからだ。発電における原子力統御不能といった問題以前の、初歩的な不備や怠慢や無責任といった問題があまりに大きい。これで原子力発電の撤廃や継続に言及することはせっかちに過ぎる。私はそう思う。ちょっといやな言い方に聞こえるかも知れないが、今回の事故を見て、私は日本人には原発稼働は百年早い、というような印象を持った。重大な事故が生じたときに隠し事をしたり、まともに住民を避難させることができなかったりと、まるで子どもの対応と変わりない面ばかりが目についた。独断と偏見だがこれはアジアや日本の弱点と映り、この克服なしにアジアや日本が歴史の表舞台に突出することはまずあり得ないと思う。単純に考えても、ヨーロッパやアメリカで似たような事故があったとしても、その後の対応の仕方には雲泥の差が出ていただろうという気がする。
 『吉本隆明と現代の超克』の著者は、原子力の利用そのものは人間の統御能力をはみ出すもので肯定できないという立場に立っているように思われる。だから全てにおいて撤退すべきだという主張が基底にある。だが、吉本さんは基本的には「統御できない」という判断には立っていなかったと思う。今回の事故も、統御できる、できない、のそれ以前の問題だと考えていたと思う。簡単に言えばそういう判断を下す時期でも事態でもないということだ。
 そこでブログの著者と吉本さんとの見解にズレが生じ、そのズレを確認するかのように著者はこれまでの吉本さんの考えを根底から見直すみたいな作業を行った。そして、晩年にいたって吉本さんはこの世界の認識、把握を見誤ったと帰結したいようなのだ。だが、私に言わせれば著者の周到な準備と目配りのもとに展開された論の中には、はじめから排除の要因が含まれ、それをなぞるためにこの文章が書かれたというようにさえ見える。別に、その初源はどうであってもよいのだが、結局のところ著者は吉本さんの論理を追認する過程の中で吉本さんのいう「大衆の原像」と実存の大衆とを混同し、一度は否定し得た幻想の大衆への倫理的な接近を、自らもまた演じようとするに過ぎないという気がした。上から目線をとるわけではないが、少なくとも私にはそう感じられた。そして本当は、その混同は始めから著者自身に気づかれていたか、あるいはそうまでは言えないとしても批判を躊躇させる惑いを抱え込んでいたであろうと私には思える。
 
 あとがき
 さて、以上が読後の私の感想だが、あくまでも「印象」を綴ったものに過ぎないということと、個人的な「お勉強」の域を出ない文章であるということとを言っておく。ただ、ここではもうひとつ、「お前は原発をどう考えているか」の自問への回答と立場とをはっきりさせてみたいという思いもあった。
 この時点で『吉本隆明と現代の超克』の作者が誰か、またどういう人かは知らない。公開されてあるだけの文を読み、純粋にそこに感じた自分の印象を言葉にしてみるだけの意図でこれは書かれている。もちろん作者を貶めようとか、曲解して批判しようと意図したわけでもない。逆に吉本さんの多くの著作の理解を深くしてもらうことができて、大変ありがたかった。最後にそのことの感謝を記しておきたい。
 
日本の現在・国民国家解体の危機      2013/05/10
 このところ思想家の内田樹さんは自民党安倍政権に対して批判的である。内田さんのブログの最新記事は、朝日新聞に寄稿した「日本の現在地」という題の転載ということであった。原稿用紙にして10枚ちょっとと思うが、過不足なく言いたいところを言い得ていると思う。
 結論的なところから述べれば、国民国家の解体をこそ推進する働きを秘めたグローバル企業を儲けさせるために、安倍政権は積極的に役割を果たし、国民国家の解体をいっそう推進しているというものである。
 ここでそれほど耳慣れていない「国民国家」という言葉が使われているが、これは内田さんによれば、
 
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
 
ということになる。内実は単なる「国家」と呼びならわすものと変わりはないのだが、グローバル化がボーダレスを象徴するに対して、きっちりと境界を意識した枠組みとしての国家を表すものになっている。言い換えると、そのことを強く印象づけるために「国民国家」という言い方をしていると思われる。
 この「国民国家」の政府が、世界の中で日本の企業が競争に勝つためという口実で、多国籍であり無国籍であるグローバル企業化を遂げた「日本企業」の利害を優先しはじめた。そういうように内田さんは見ているのである。
 さてグローバル企業であるが、日本のそれはもともとが国内で起業し、創業者も従業員も日本人であったが、今日では株主も経営者も従業員も多国籍となり生産拠点も世界に散らばっているものをいう。会社、企業の最終発展形態と言ってよく、その動機は究極の利益追求を目指すもので、いろいろな意味での境界を片っ端から破壊する衝動を内包している。徹底した利潤追求が目標であり、利潤追求に特化した企業形態と言ってよい。また、これを、古典的な資本主義から超資本主義というものへとステップアップしたことの象徴と捉えることもできよう。
 このグローバル企業の経営論理を、内田さんはトヨタ自動車を例にとって以下のように解析している。
 
トヨタ自動車は先般国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないというコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである。
外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国の)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
 
 だが、どうしてこういう振舞いの日本のグローバル企業を、政府は破格の待遇で優遇しようとするのだろうか。
 内田さんによれば、政府はグローバル企業に対する後方支援策を講じ、それは例えば環境の浄化、原発再稼働、新幹線や高速道路の新規の開通、それから教育全般を通してのグローバル人材育成など、国民から集めた「税金」の投入によって行ってきているし、これからもこれを加速しようとしていると言う。 旧来の「国民国家」型企業であれば経営努力によって自ら引き受けたものが、それでは国際競争に勝てないとして、グローバル企業は国民国家の資源を食いつぶしつつ自らを肥沃化させる戦略をあみ出した。要するに、国民、国家を挙げてリスクを分担してくれなければ、われわれグローバル企業は他所に行っちまうぞと脅しをかけ、メディアも政府もなぜかその主張に肯定的で支持しているように見える。もちろん私ならば簡単に、お仲間だから、のひと言ですませるが内田さんの指摘は丁寧である。このグローバル企業と政府とメディアの三者は、グローバル企業の収益増が国益の増大なのだという幻想を社会全体にまき散らし、協同で国民を洗脳しているといっても過言ではない。しかも、その虚偽性をカモフラージュするかのように一緒にナショナリズムの台頭が演出されはじめた。そこのところを指摘する内田さんの文面は、なかなかの強力を秘めている。
 
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。
そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民に飲み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。
 
 最近やたらとメディアでは「世界的な競争」の話題が多いという印象だったが、内田さんの文章を読んでいたく合点する思いだった。
 つまりこうして国民の財産は税金などの形になって国に吸い上げられ、それがグローバル企業のために活用されるようになっていくという流れができる。さらに企業の収益となって株主や経営者にそれは回り、回ったそれがまたどこへ回っていくことになるかも想像がつく。
 一体、現在日本に起きている政治・経済そして情報媒体などに湧き起こっている情勢はどういうことになっていて、ここからどこへ行こうとしているのだろうか。
 結びで内田さんは、揶揄的に、
 
よいニュースを伝えるのを忘れていた。
この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
 
と言うに留めているが、読者が本当にこの一言で「心が晴れる」と思っているわけではあるまい。あるまいが、文章全体は絶望的な日本の現在の情況について言及しながら、最後に来ての短い文章の中で、実は絶望感にかられる必要はないんだという言外の声が、ダビンチコードのように潜ませられている気がしないではない。どう考えてもこの結末は不自然というほかはない。
 冒頭で、私は内田さんの記事が安倍政権を批判したものだと述べたが、確かに表向きはそういう体裁の元に書かれている。しかし、それだけではない。国民国家の命運についても思考の触手は届いている。言い方を変えれば、内田さんはここで歴史を記述しているのかもしれないと私は幾分思うところがある。 つまり、安倍政権に批判的だが、国民国家を死守せよと内田さんはここで演説しているわけではない。また国民国家こそが大事なのだと言っているのでもない。文脈では、国民国家の解体過程は必然であるかのように低めのトーンで語られている。私はそう感じる。国家の解体と言えば、かつては共産主義の文脈で語られることであった。共産主義圏の国家の解体と資本主義との併合の末、国家の解体が話題に上ることはほとんどなくなったと言っていい。(ギリシャなどの経済的な国家の破綻が取り上げられることは最近にあったが)しかし、ここで内田さんが述べていることは紛れもないそのことである。そしてそれは修正マルクス主義の再生などとは無関係なばかりか、逆に資本主義の超がつくほどの異常とも言える発展の加速性の果てに浮上してきた点であることが新しい。「同じことは全世界で今起こりつつある」と内田さんは言う。これではまるで世界同時革命の前夜でもあるかのようではないか。私はすこし興奮してそんなことを考えた。もちろん内田さんはこの文章で微塵もそんなことには触れてはいないのだが。少なくとも私にとってはますます内田さんのブログから目が離せないことになる。それを告げて今日は終わりとする。
 
安倍政権についての個人的見解       2013/05/08
 民主政権もとんだ食わせ物で、私たちの期待は何一つ叶えられなかったと言っていいと思う。結果、自民党が返り咲いて安倍政権が誕生した。
 マスコミを中心に日本全体がほんの少しご祝儀相場に賑わっているように見えるが、安倍さんが矢継ぎ早に政策論議を打ち出す度に私などには不安や懸念が湧いてくる。
 安倍さんは一国の首相になるくらいだから頭の回転や記憶などはとてもよさそうだ。それだけではなく、政治哲学も信念も、さらには政治的な行動力もありそうに見える。まあ、テレビやメディアを通しての感想にすぎないのだけれど。ついでに、視野も広そうだとひと言褒め言葉を付け加えておく。
 ところで、安倍政権をひと言でいうなら、グローバル主義的民族主義者、あるいは反対に民族主義的グローバリストと呼んでいいのではないかと思う。要するに日本国の独立性、自立性ということをよく考えているようだし、逆にまた拡大したグローバル世界に対応した「国家」の創造ということも視野に置いていそうである。でも、民主党の鳩山元総理がやや左よりの理想主義者であったとすれば、阿部総理は逆に右よりの理想主義者と見えなくはない。もちろんどちらもそういわれるのは心外に違いなく、言下に現実主義者だと述べるのだろうが、私などには何となくだが、安倍さんが理想とするところを実現しよう頑張っても、例えば「改憲論議」の挫折や破綻は目に見えていると思える。とりあえず結果が出ないうちに予測だけはしておく。
 それはしかし何故そう予測できるかというと、一国の総理としての立ち位置を、国民の中に置くというよりも「安倍晋三」個人を軸にしているからではないかと思う。自分の考え、指向性、あるいは信念や哲学的な部分も含めて、この国をその色合いに染めたいと考えるからだと思う。だがこれは順序が逆向きだというべきで、ほんとうは社会の大多数の人々の内面を含めての「願望」を中心にして、いろいろな政策、及び政策順位を考えるべきである。安倍さんの改憲に関する考えを部分的にだが聞いていても、まず個人的な改憲への思い入れがあり、次に指導者としての考えを大衆に認知させる手順を取り、その先に指導者のリーダーシップの元に改憲を実現させるんだという並々ならぬ意気込みが見られる。
 自分たちの主張や考えが正しく、しかも進歩的でグローバルな視野も持つから、これでもって国民大衆を教え導くのだというエリートたちの悪しき誤解だが、彼らの考えが国民大衆よりも先進的な(と思い込んでいる)分どこかで強引な手法、強制的な手法、それこそ政治的な手法を国民に対しても使うことになる。骨の髄まで噛み砕くように「国民主権」を理解し、「主権在民」の理念を徹底しようとするならば、自分の考えや信条はさておき、国民の大多数の声がどこにあるかを探るべきである。
 こういうことに関して、「中学生の教科書」(2000年発行|四谷ラウンド)に執筆した吉本隆明の文章を思い出して、本棚の奥から引っ張り出してみた。13年も前のものだが再読すると興味深いものがあった。「社会」を担当したその文の中で、次のような表現があるので引用してみる。
 
 人間は自分がたずさわっている職業やその生活のしかたをもとにして「社会」全体を考えやすい。個人としてはそれが当然という側面をもっている。だがそれは個々の「社会」人にとっては大切なことだが、「社会」全体をみるときにはそうすべきではない。いちばんたくさんの人がたずさわっている仕事をもとにして「社会」全体を考えなくては見当をはずし、また重要さを間違えてしまう。こういう間違いのうちいちばん重大なのは「国家」の首脳や政治家などが、自分を中心にして「国家」や「社会」を考えてしまうことだ。それは言うまでもなく「国家」や「社会」の全体を間違った方向に導いてしまう。
 
 私などがここで言いたいのは「無私」であるべきだ、などということではない。一国の総理大臣といえども公僕であり、またその長であるからには範を正し、国民の多数の意に沿った政策を第一に実行すべきだろうということだ。もちろんここで言う多数の意に沿うということは、都合のよい見解をかき集めた数字を全く意味しない。それは想像力の問題で、多数の社会人の居場所が分かり、その声を根こそぎ拾える能力を持つということが第一条件だ。そして、もちろんその声は二重にも三重にも本質的な意味を遡って検討されなければならない。そうしてはじめて思い描く政策の立案へと歩を進めていくことになる。その意味では吉本さんの見解は極めて当たり前のことであって、だからこそ傾聴に値すると思うのだが、その声は現実にはこれまで社会の隅に追いやられてきたと思える。
 そして、マスコミやそこに出入りしているインテリ知識人の多くも安倍さんのような指導者と同類で、都合のよい「公」を持ちだしては実際のところは「私」(個人の利益)の実現に躍起である。そこにはストレートに金の問題もあるが、自分の主義主張を通すとか実現化するとか、権力の側に回るとか中枢に入りこむとかの諸々の問題が憶測される。ふざけた話である。ここには、本当のところ、「公」を「私」のために利用する意図しか見られない。怒りを通り越して情けなくなる。もうひとつ付け加えれば、グローバル企業も安倍ちゃんや、前の民主党の野田ちゃんと仲良しで、自分たちを評価してくれる政治家だからそれなりの待遇は見えないところで行われているには違いない。まあそれもいいが、グローバル企業が少しも国民のことやこの国のことを考えていないということだけは一国の総理としては理解しておかなければなるまい。なるまいが、たぶん、この国の政治家たちは「国民とは何か」さえまともに自分で考えたことのないのがほとんどだから、グローバル企業の「非国民性」についても理解していないだろう。
 さらに言えば、安倍さんはメディア的には「右より(保守系)」、「タカ派」と目されているが、グローバル企業とお友達関係にあることを鑑みれば実は幻想としての日本びいきにすぎないのかもしれず、実際には日本の具体的なひとりひとりの国民や若者はどうなったっていいと思っているのかもしれないのだ。グローバル企業が求めるのは能力のある若者だけなのであって、しかも会社批判や上司批判などしない仕事に忠実で第一義とする若者たちだけだ。そんな一部の社会人や若者たちだけがビジネスで、世界で活躍するようになって日本がどうにかなるか。世界で活躍し成功して、強い日本の象徴となった企業戦士をはじめとするいろんなジャンルの立身出世組の多くは、やがては外国に大邸宅を造って住み、日本の将来などどうなってもかまわないとうそぶくに違いないさ。
 高名な政治家たちの二世がどのように成長してきたか、ほんの少しだがメディアなどが取り上げてあらましを知ることもあった。そこから推測すれば、現在や以後の政治家の子どもたちがどういう方向に人生の設計図を描いて進むのかも想像できよう。外国語学校を卒業し、欧米などの大学に留学、そしてグローバル世界に通用するグローバル人間を目指して成長することを第一に考えていくに違いない。「日本」を連呼する保守派の親だって、「日本の原型が今も多く眠っているような、東北の農村地帯の学校にでも行って修行して来い」等とは努々子どもに言うまい。
 つまり、現在では日本国の総理といえども、家庭的には日本国や日本国民のことなどこれっぽっちも気にかけない家族生活をしているはずだし、現にしているのだろうと思う。精神的生活的には、本質的に少しも国粋的でもなければ、保守的、右翼的でもない暮らしを営んでいるといえよう。
 俗に言う「優秀な日本民族」や「万世一系」や「伝統のある国」等々の自国に対する自画自賛の言葉は、現在という時代の精神が一部分で標準的に思いなしているにすぎないのであって、過大評価も過小評価もすべきではない。知識人や学者や研究者が便宜的に総称したにすぎないそうした言葉の数々はあくまでも「知」からのもので、「非知」をも含めた日本全体を覆うものでなく、ましてやそれぞれの時代と空間に日本を形成した住民の声を反映していないばかりか、その総合とも言えないものだ。つまり、過去から現在に至る住民のひとりひとりとは何の関わりも持たない言葉である。西欧にかぶれた二十世紀以後の日本の「知」が、「知」にとって気分がよいからそう言っているだけだ。たとえば、「日本の伝統美」「伝統的美意識」などの言葉もあるが、私にはそれだけで諸外国への優位や優越性を考えることなどできそうにもない。また誇れと言われても誇れそうにない。第一に私たち一般庶民にとって、日本が誇りとする「美」は庶民の日常生活から遠いものばかりで、「日本」のものは「自分」たちのものではないという変なことになっていることが多い。一部の身分の高い者たちの間に流布したかもしれないが、庶民には縁の薄いものであった。それが、時代が下って私たちに、祖先はこういう素晴らしい工芸品を作っていたなどと教育されても「ああそうですか」と応えるしかない。これは外国においても内実は同様であろうと思われる。
 一足飛びに、西欧の18世紀から20世紀にかけての精神世界が産みだした精神秩序、そこから来る悪しき序列化だと言ってみたいところだが、これはまだ単なる見当にすぎず、それほど確信されているわけではない。
 ちょっと脇道にそれてきたが、ここで何が言いたかったのかと言えば、この国の「首脳」および「政治家」たちが時折口にするナショナリズムの主張には、本当のところでは中身がないということだ。たとえ安倍さんが「美しい日本を取り戻す」なんて、かっこいいキャッチフレーズを口にしても、中身は何もないし、私たちが生きている間の「いつ」「どこに」そんな美しい日本があったの、と思えるばかりだ。ノスタルジアを誘われるが、自分の過去を掛け値なしに思い起こせば、言われるほど美しい日本を体験してきたわけではないことがすぐに理解される。すべては彼の(幻想の)周辺にあったか、彼の家系に伝わる神話的雰囲気から空想されたことで、私たち庶民の生活実感からはかけ離れていると言っていい。そういう私的且つ個人的なもので「国家」や「社会」の未来に関わる政策を決められては、たまったものではないということだ。
 だがこんなことを何万遍言っても仕方のないことは確かで、現実は残酷なもので私利私欲の強烈な臭いに向かってなぜか加担する。そして、強烈な欲望の臭いを発する連中、日本なんてどうなってもいい、国民なんかどうだっていいと思っている連中しか指導者層に連ねられないし、社会的上昇を遂げられないようにできている。
 これから先も彼らのような見かけ倒しの政治家がこの国の舵を取り、企業に媚び諂いながらいくつもの政策を決定していく。見えてくるものは「美しい日本」や「強い日本」ではない。「虚飾の日本」であり「富裕者天国の日本」であり、今回の原発事故の被害にあった福島のように大部分は「荒廃」してしまった「日本」ということになろうかと思う。いや、そうならないことを切に願わざるを得ない、とここでは言うに留めておく。
 
非知論(仮題)      2013/03/24
 たんなる思い込みの類に属するが、ロシアや欧米の小説、それからやはりヨーロッパの哲学や心理学などの著作を読むと、ひとつはその長さ、ひとつはその詳細さにうんざりすることがある。こんなに緻密に詰めていかないと論文として認められないのか、小説としての資格に欠けることになるのか、などと考えてしまう。
 読者のぼくはまずは圧倒されると言ってよい。またこれでもかこれでもかと話が続き、あるいはふんだんなデータがちりばめられることに、正直、内心は辟易しないでもない。
 その情熱の出所がぼくには分からない。
 長い間不可解に思っていたが、これって、言葉で相手(普通には読み手、読者)を殴り倒す、屈服させる、ぐうの音も言わせない、そういうことなんじゃないだろうか。今日、何となくそう思って、今そのことを書き始めている。
 『相手を言い負かす』。そういうことが、歴史的に必要とされた地域、民族だったからそんなことが極端に発達したのではなかったろうか。そう考えると、科学的合理的な精神(西欧知)というのもその延長上に考えられて、なるほどと合点できる気がする。観念上の格闘技、戦争、植民地主義、そういうもろもろの実は心情に属する部分が、発達した西欧「知」の根底にはありそうなのだ。
 映画を見たり、またうわさ話めいたものを見聞きするかぎりにおいて、向こうの人々は自己主張が強かったり、身振り手振りを交えたりでとにかく自分の考えをはっきりうち出すことに懸命である。マナーとしてもちろん、自分が言いつのるだけではなく、相手の主張を受け止めようとすることにも努力し、フィフティーフィフティーの立場に固執する部分がないわけではないが、それもどちらかと言えば同種、同類に対する礼儀という側面が強いと思う。
 そういう歴史を持つ国柄、人柄であれば、詭弁もまた発達しようというものだ。それらの「知」は何も自分を棄ててまで他に奉仕しようとするものではない。民族の中にそういう歴史を持たない日本人のぼくらは、ただただ圧倒されて、その辺の見極めができるものだろうか、はなはだ心許ない。
 
 ぼくら日本人はどうかというと、まずは残された和歌や俗謡の類から考えて明らかなように、西欧風の戦闘的な精神、精神的な戦闘とはかなりの距離をおいた発達をしたように思う。まあ誰でも知っていそうな「願わくば花の下にて春死なんこの如月の望月のころ」と言う西行の歌も、言葉の意味だけを辿ればどうと言うこともないことを歌っている。これが、心に思っていることの氷山の一角で、その水面下には膨大な観念が眠っていることを理解して日本人はこの歌を聞き、また読む。日本人にとってはこれが芸であり芸術であるとしてそのように発達、発展した。それが欧米を中心とした地域では逆で、水面下を全て言葉に還元し尽くすみたいな衝動が、精神の奥底の方には感じられる。
 まず、どちらが優れているかいないかという問題ではないだろうと思う。心にあるものをどのように表出するかというところで(心にあるもの自体その形成のされ方に民族の特徴は反映するのであろうが)、西欧は言葉と概念を駆使して、心にあるものを隈無く言葉でもって表現すべく努力を積み重ねてきたように想像されるが、わが日本は例えば「さくら」のひとことで、分かち合う、お互いを了解しあおうとする、そんな心を育ててきた民族だと言えそうな気がする。つまり極限の省エネで、「さくら」のひとことで言い尽くす方法と民族性とを作り上げてきたと言えるのではなかろうか。ぼくらもまたその民族の精神の延長上にあり、グローバル化して世界精神の標準になったとも言える西欧発の「知」に染まりながら、なおその「知」の下辺には「さくら」的心情が息づいていると感じる。
言い方を変えれば、どんなに頑張ってみても今日の段階では西欧「知」を自家薬籠中のものとするのは、不可能であるとさえ感じる。
 さてそこで、さらに「知」について言えば、というよりも遡って表現される前の「知」、もっと遡って脳内の信号というところまで辿って遡れば、そこでは西欧「知」の優位性というのは問題にならないのではないだろうか。あるいはまたこの西欧発の「知」は、物質文明の発達や発展には欠かせないかもしれないが、精神文化の側面では必ずしもその発達や発展に一義的に寄与するものかどうかは分からない。また、もともとが「相手を言い負かす」式の発展、拡大した「知」であると考えれば、これがどこまでも世界標準(みんなが「右ならへ」するという意味での)であらねばならない理由もないという気がする。
 だいたいが、論理というものを主張するとしても、その前提に「言い負かす」式の心情が隠れているとしたら、そのベクトルに沿って論理は組み立てられ展開するに決まっている。勘ぐれば、ソフトな植民地政策は今も継続しているのだろうと思う。
 もうひとつ付け加えていえば、そもそもが「知」や「知」の体系と呼びならわすものは砂上の楼閣で実体というものがない。概念が概念でしかないように、そして固有名詞が本来は対象と無関係であるように、言葉は人間の勝手な創造で、その勝手な言葉で織りあげた「知」は、誇張して言えば人間的な幻覚や妄想の産物に過ぎないと言えるだろう。論理で織りあげた正しさも人間社会にとっての意味はあるかもしれが、それは世界を赤色に染め上げて見せたと同じで、自然の中では孤児でしかない人間の、言葉はよくないが悪ふざけだと言えないこともない。
 
 ここまで述べてきたことを簡略に要点化して言えば、頭の発達の仕方についてであり、地域や民族に違いがありそうだということである。頭の使われ方には大きくいって2種類の傾向があり、ひとつは西欧「知」的なものであり、もうひとつは反西欧「知」的な省略化方式と、ここでは捉えておく。
 ぼくの考えでは、西欧「知」の基底あるいはその発達の原動力は攻撃性、戦闘性にあって、これは現在、世界標準的な万人に認められる知性の最高峰である。わが日本人もまた明治以来、物質文明の虜となって、基底のその知性に追いつけ追い越せで切磋琢磨してきた。そうしてあろうことか、仲間内で「自分が上だ下だ」のとドングリの背比べをして、競争に勝つことで、あたかも白人レベルになったかのような(そのように骨の髄まで西欧「知」を身に付けたかのような)錯覚をして悦に入っている。井の中の蛙とはこのことで、国内の競争ばかりに目が向いて大局を見ようとしない。愚かである。自分の中の「さくら」的心情が根こそぎ超克できたと思っている。
 そんな日本国内の状況はこの際どうでもいいが、戦闘的な西欧「知」の世界標準化が、実は行き詰まりを起こしている、と思う。それを詳細に述べていくつもりはないが(もちろんその能力もないが)、世界の至るところで格差や紛争が拡大したり継続している現状を考えれば、そのことは言葉にしなくても明らかであると思う。問題は観念上でも勝ち負け至上主義の考え方で、これで決着を図るところに本質的に平和が訪れるはずがない。ただ、負かされて渋々同意する、前近代的な支配と従属の関係が再生産されるだけだ。もちろん、西欧「知」の限界が見えてきたからと言って、それに変わるものが今日の世界に順番待ちのように存在するわけではない。反西欧「知」、非西欧「知」的な精神形成はいくらでもあるだろうが、日本のそれがそうであるように世界標準に届くにはそれこそ世界が一変しなければならない。逆にまた世界が一変するためには、「知」の世界標準が変わっていなければ不可能であろう。すると、少なくとも世界のおよそ半分では、未来の明るさはいつまでも見えてこないということになる。
 
 ぼくが言っていることは不可解だろうか。そういう疑問がいつも脳裏をよぎる。ぼくはただ、アメリカをも含む欧米の「知」の体系が世界を席巻し、これ以外に「知」の在り方はあり得ないように思われているが、これは真だろうかという疑問を語っている。そしてもしも真であるとして、この先にヘーゲルが豪語したような世界の平和や幸福が訪れるとは思えない不安を語っている。まだある。完成に近く、しかもまだ進化発展を遂げるこの「知」の体系に不足なものがないかという根底的な懐疑と、西欧「知」と呼んでいるものに対しての「反」や「非」の部分にあたる何かを組み込むことによって、西欧「知」が真の世界「知」に化けるという「奇跡」は起こりえないだろうかという希望を述べようとしている。
 西欧「知」をベースにした現在の世界「知」は、仮に目指すところが「自由・平等・博愛」だとしても、基底に「相手を言い負かす」という心情を抱える限り、目的に到達することは不可能だと思える。言いかえればどこまで行っても「詭弁」の体系をでることがない。これに依存する限り、いつまでたっても本当の「自由・平等・博愛」の社会が来ないことはその出発点に遡って理解することが出来るのではないだろうか。その時、古い日本的な短詩型に象徴的な、言語芸術に包み込まれた言語「知」の存在意義というものは、さしあたってどうであるかというのが最大の関心事である。そしてもしもこれを読み解けない世界「知」だとすれば、その存在意義はいずれ局地的なものにすぎず、早晩その位置を追われて然るべきだというところまで言ってみたいと思っているのである。
 
非論理的対応への怒り       2013/03/05
 武田邦彦先生のブログは相変わらず精力的に更新されている。原発のこと。地球温暖化のこと。中国の問題。経済のこと。リサイクルのこと。男と女の問題。幸福論。などなど、多岐にわたって展開され、その精力と冗舌、そして持続と継続には舌を巻く。
 いろいろなことを悪く言えばべちゃくちゃしゃべっているだけのような印象があって、中には「あやしいな」とか「危ないな」という発言もないことはないのだが、大きくは思考にとって面倒な状況下で、孤軍、「食らいつき」「しがみつき」してよく対峙してきているものと感心させられる。その労力は完全に無償だとは言えないだろうが、たとえ有償だとしても対価を遥かに凌ぐ営為のようにこちらには見える。
 武田さんのブログの文体は沈思黙考型ではなく、その逆で冗舌だが、それは表面的な見方で実際の思考のタイプとしては沈思黙考を秘めていると思う。ただそれでは発言が途切れることになりやすいので、そうならないようにあえてスタイルとして「冗舌」の体裁をとっているのだろう。言いたいこと、言わなければならないことが、山ほどあるということではないかと思う。また、多少語彙や文章に乱れや誤記が含まれていても、内容の上で論理に破綻がなければそれで良しとする考え方もかすかに感じとられる。
 さて、最近のブログの記事で気になるところをひとつ取り上げておきたい。2月28日付で、「野蛮と文明(2) 日本人の野蛮性(原発事故の現象)」と題した記事から、すこし長くなるが引用してみる。
 
原発事故に関しては、次のような風評がはびこった。
1)原発は危険なのに安全という風評を立てた、
2)日本人を被曝から守る法令があるのに「無い」と言って風評を立てた、
3)法令で被曝限度が一年一ミリと決まっているのに「決まっていない」と言って風評を立てた、
4)一年一ミリは「外部被曝+内部被曝」なのに、内部被曝をもたらす食品の安全基準を一年一ミリとした、
5)販売してはいけない汚染された食材を販売し、それに反対する人に「風評をまき散らすな」という風評を立てた、
6)法令で退避させなければならない危険地帯にいる人に「大丈夫」と言った、
7)「法令を守れ」という人を排除し、あるいはバッシングした、
8)法令があるのに、その20倍の被曝でも良いという外国の任意団体を持ち出して日本の子どもに被曝させた、
などである。
 
まさに、野蛮な行為そのものである。なぜ、日本人がこのように突如として野蛮な行為に走り、理性を持って呼び掛ける人をバッシングしたのは、それにはいくつかのトリックが使われた。
 
1)自然放射線が一年一ミリより高いというトリック(被曝による健康障害は「足し算」だから比較することはできない)、
2)世界には自然放射線の高いところがあり、健康だというトリック(中国、インド、ブラジルなどの自然放射線の高い地域の発ガン率は明らかでは無い(寿命が短い、統計データがないなど)、
3)広島原爆でも大したことはなかったというトリック(福島の爆発によってでた放射性物質が77京ベクレル(広島原爆の186倍)という政府発表をしながら、口コミで指導層を抑えた、
4)スピーディーの計算値を隠したり、ベント前の漏洩を隠したり、放射線量を少なめに発表したり、ストロンチウムなどの測定値を公表しなかったり、さまざまなデータ隠しをした、
5)食材の多くの測定をせず、また汚染された食材の行く先を公表しなかった、
6)気象学会が「福島の風向きなどを発表するな」と学者に制限した。
 
現実に、法令に反する被曝、食材、土壌汚染があるにも関わらず、「みんなで風評を立てれば、それで押し通せる」という魔女狩りと全く同じ手法を採ったのである。
 
このことについて今後も解析を進めていくが、ナチスがアウシュビッツでユダヤ人の大量虐殺をしたときの社会現象とまったく同一である。それは、1)権威(政府)が認めたこと、2)大勢が参加すること、によって残虐な行為や野蛮なことが、「自分の責任では無い。みんながやっているから」という言い訳ができるということによる人間の野蛮性、残虐性の発現である。
 
やや楽天的で、それほど丁寧ではない私でも、この2年、日本で生活する精神的苦痛は大きかった。
 
 毒ガスによる虐殺で有名なナチスの「アウシュビッツ」を持ち出すくらいだから、武田さんが日本の政府や指導層、そしてそれらに迎合した学者やジャーナリズムなどに対する怒りがいかほどのものか推測できる。だが、風評を立てたり(世論の操作・誘導)、トリックを使ったり(情報の恣意的な歪曲など)したことを、残虐で野蛮な行為だと断定するところでは理解がそれほど容易ではない。そんなに鼻息荒く主張しなければならないことか、とまずは思う。武田さんが番号を付けてあげたことどもは、そのひとつひとつをとれば確かに取るに足りないことのようにも見える。しかしこれを日本という国の、民族精神や理性、理念、あるいは知とか認識とか科学とか、要するに文化的な内容が最高度に発展した今日的な結果、あるいはその総体、いや、もっと簡単に、ひとことで言えば「英知の結集」としてこれらを眺めれば、「無惨」としか言いようのないことが理解できる。
 それなりに知的な修練や訓練を経て、自分たちでもまた未来へとつながる理想を口にしながら、いざ危機的状況に陥ると、果敢に真実や事実に立ち向かうどころか、当事者たちの取り得た最善の方策がこのザマである。その対応にガッカリしたり、愕然としたり、落ち込んだりしないことの方がおかしい。武田さんもきっとそんな思いで、精神的苦痛を味わったに違いない。文化度が高く、先進的な国だと思っていたのに、危機的状況で露出したのはヨーロッパ中世を思わせるような古くさい手法で、大衆の目をそらし、大衆の怒りをそらし、真実を隠し、風評をこしらえて意図的に操作する。こんなことは前近代的な無責任の体系と考えられても仕方あるまい。そしてそれが今日の日本の現実なのだ。
 政府を含めたそうした指導層の対応は、論理的に矛盾し、あるいは破綻している。論理のかけらもなく、何を基準にそうした対応をするのかさえ見えては来ない。たぶん基準も何もないのだ。場当たり的で、利害の共有できるもの同士に都合がよければそれで良しとする風潮が今日にも生きて動いている。武田さんを苛立たせるのは、こうした支配層の非論理性だと思う。曖昧さと無責任の体系が、戦後六十年を経てもゾンビのように繰り返し甦ってくる。これは、「西洋知」を完璧にコピーしたところで分析しきれない問題で、もちろん武田さんのように「残虐だ」、「野蛮だ」と言ってすむ問題でもない。皮肉っぽく言えば糠に釘と同じで、日本という土壌に欧米知が根付かなかったことが、この原発事故対応ははっきりとさせた。これが知識人にとってどれだけ衝撃であるか否かは個々の知識人の以後の発言姿勢を左右し、そのひとりである武田さんは引用したように繰り返しこの問題を掘り起こし、受けた衝撃の大きさを暗示させる。もちろんそんな問題意識のかけらもない知識人は遥かに多く、そのこともまた私には二重の衝撃ではあったのだが。
 さらに、武田さんは口にしていないかもしれないが、私には国民大衆のある種無力な絶望的な姿が忘れられない。指導層やジャーナリズム、メディアのいい加減さを目に焼き付け認識していながら、黙々と、時に唯々諾々と追従するかのように見えて、この国の大衆の「無思想」や「無の自在さ」を思い知った。もちろん私もそのひとりに過ぎないから、そこから自由であることは出来ないに違いない。ただそれを意識して、批判的に意思していくことは出来そうな気がする。またそれが出来なければ「何をか況や」だ。
 今日のところはここまで書けたことをよしとして、これで終わることとする。
 
尖閣問題に関連して        2013/02/02
 尖閣諸島の領有権問題は、人間の叡智が人間によって讃えられることの多い今日においても、その叡智によって解決される見通しは立てられないように思える。言い方は悪いが、現在という時代における人間の叡智とは未だこの程度のものだということになる。
 二つの国が「これは俺んとこのもんだ」と主張している。それぞれに根拠を示したりするが、互いに納得させるまでには至っていない。そうなると第三者となりそうだが、片方が同意しても、もう一方が承諾しなければそういう場の設定すら容易なことではない。
 一時「棚上げ」されたこの問題が再燃したのは、これもまた双方にいろいろな形での言い分があるのだろうが、理由を探したり特定したところで何も変わらないし始まらない。原因や理由がどうであれ、今またこの問題が日本と中国にとって、極度の緊張状態を強いてくるものとなってきたことに間違いはない。想定される最悪の事態はもちろん武力衝突であるが、その可能性はどんなものだろうか。戦争体験のない世代のひとりとして願望を込めていえば、おそらくそんな事態には至らないだろうと思える。
 
 「極東ブログ」の著者は、この問題に関連してNHKの報道を引用しながら、その表現が微妙に日本側の非を印象として与えると述べている。
 
 国内報道だが、NHKでは27日付け「米有力紙 尖閣問題は棚上げすべき」(参照)があった。報道検証なのであえて全文引用する。
 
 
 アメリカの有力紙、ワシントン・ポストは26日付けの社説で、沖縄県の尖閣諸島を巡る日本と中国の対立について取り上げ、不測の事態から日中間の軍事衝突に発展する可能性に懸念を示したうえで、「当面はこの問題を棚上げすべきだ」として、鎮静化に向けてアメリカも支援すべきだという考えを示しました。
 ワシントン・ポストの社説は、尖閣諸島を巡る問題について「日本と中国の間でこれまで棚上げされてきたものの、去年9月に日本政府が島を国有化したことで中国側に激しい反発の口実を与え、中国による挑発行為がエスカレートしてきた」と指摘しました。
そして、不測の事態から日中間の軍事衝突に発展し、日本の同盟国であるアメリカが介入を余儀なくされ、衝突に巻き込まれる可能性が以前より増していると懸念を示しました。
 その一方で、社説は公明党の山口代表が25日、安倍政権の幹部としては初めて、中国の習近平総書記と会談したことについて「事態の鎮静化の兆しだ」と歓迎しました。
そして、来月訪米する予定の安倍総理大臣に対し「中国側の挑発に応じるのではなく、緊張緩和の道を探るべきだ」とするとともに、「当面はこの問題を以前のように棚上げすべきだ」と訴え、鎮静化に向けてアメリカも支援すべきだという考えを示しました。
 
 
 概ね間違いはないと言ってよいのだが、NHKによる「日本と中国の間でこれまで棚上げされてきたものの、去年9月に日本政府が島を国有化したことで中国側に激しい反発の口実を与え、中国による挑発行為がエスカレートしてきた」という表現からは、日本側に非がある印象を与える。
 
 さらに、「極東ブログ」の著者はワシントンポスト社説の以後の原文とその訳文を示し、実際の社説の言うところは日本の国有化がNHK報道のような「反発の口実」ではなく、「中国軍部と共産党指導者に大衆扇動の口実を与えることになった」ものとして記述されているとし、その表現の差異に注目している。
 さらに社説原文と著者自身の訳を続けて、
 
この数週間、中国政府の挑発は、諸島への監視船の派遣から、日本の対応に呼応した戦闘機の緊急発進にまでエスカレートした。中国の国家管理下にあるメディアは、戦争にかられた熱病のような状況をかき立ててきている。その一紙は、軍事衝突は「可能性が高い」とし、「最悪の事態に備える必要がある」とうたいあげた。不穏なことに、この挑発的かつ危険なキャンペーンは、習近平指導下の新しい共産党指導者によって、国内問題から関心をそらすという十分な動機をもって、監督されているのである。
 
 
 細かく見ると、ワシントンポストの「in response to Japan,s」という表現だと、日本が先行してスクランブルをしたかようだが、その理解でよいものか疑問には思う。
 いずれにせよ、ワシントンポスト社説の論点は明確で、尖閣問題で戦争騒ぎをかき立てている張本人は、習近平指導下の共産党の新指導部であり、目的は中国大衆の関心を国外にそらすためである、としていることだ。つまり、ワシントンポスト社説はけっこう、この事態の本質、つまり中国の危険性を突いている。だが、NHKや時事など日本の報道からはこの認識は欠落したようだ。
(太字 佐藤)
 
 結論からいうと、「極東ブログ」の著者は「NHKや時事など日本の報道」よりもワシントンポスト社説の考えに近く、これを肯定しているということになると思う。これは概ね妥当な見方だというべきではないだろうか。もちろんぼくなどは、これらの事情を判断すべき材料などは何も持ち合わせてはいないので、ただ著者の考えを学ぶ姿勢で終始するほかはない。ひとまず、衝突を煽っているのは中国共産党指導部で、その目的が中国大衆の関心を国外にそらすためという視点を手に入れておくことにしたいと思う。但し、これを中国側の視点から眺めれば逆になる可能性も保存しながら、ということになる。
 さて、ブログ記事はもう少し続いていて、アメリカの姿勢、態度に言及している。まず社説の訳の続きがあり、それは次のようなものである。
 
オバマ政権は、言い争いを沈静させようと、国務省高官を日本政府に派遣し「頭を冷やす」ことを求めた。しかし国務長官ヒラリー・ロダム・クリントンのほうは、オバマ政権が二年前に初めて採った立場を繰り返した。攻撃から日本を防御することを米国に義務づけている安全保障条約は、この島々にも適用されるというのだ。この公的な立場表明は、中国が危機を引き起こすのを思いとどまらせる意図だったかもしれないが、同時に米国政府の賭け金を吊り上げたかもしれない。中国が万一、この領域の支配を試みるなら、オバマ氏は、日本を支援するための軍事対決か、あるいは、その政権が外交の中心的方針とした「アジアへの軸足」を蝕むことになる軍事譲歩のいずれを選ぶことになりかねない。
 
 これはワシントンポスト社説の訳であるが、訳者である著者はこれを次のようにまとめている。
 
 この部分は一番理解が難しいところだ。
 まず、ワシントンポスト社説は、日米安保の根幹を理解していない可能性がある。同社説は、オバマ政権の沈静化策とクリントン国務長官による言明を対立したものと理解しているが、これは端的に間違いである。正しくは、現状は沈静化を望むが、原則では日本の施政権下の領域は日米安保に含まれるということである。(太字 佐藤)
 
 最後の太字の部分が著者の、この問題に関してのアメリカ(オバマ政権)理解である。
 
 よく考えれば、「極東ブログ」の記事は、尖閣問題そのものよりも、「米有力紙」であるワシントン・ポストの社説とNHK報道とを絡み合わせた一種の「メディア論」、「報道論」と言えなくはない。
 特にNHK報道において、あたかもワシントン・ポストの社説のそのままの要約のように記事を作りながら、実際には微妙なニュアンスで意味合いが変更されているあたりは二重の意味で恐いものがある。二重のうちのひとつは、読者にその記事が本当にワシントンポストの社説と思わせることであり、仮に差異に気付いて指摘するものがあっても誤訳なり何なりで片付けられるということである。同時に、そこには自分たちの意見ではないことを装いながらこっそり自分たちの意見を忍ばせていて、あたかもワシントンポストがそう考えているかのようカモフラージュが成り立っている。これらはどう考えても報道として邪道であろう。だが今日の日本のメジャーな報道やメディアの手口にはこれが多い。ブログの作成者は直接言及してはいないが、暗にこのことを仄めかすためにこの記事を書いたのか、とも感じる。
 
 話が少し尖閣からそれたが、尖閣問題に対するアメリカの姿勢や態度に関連して、ここから内田樹さんのブログ記事を見ていきたい。(参照)内田さんの記事は、実は直接に尖閣について書かれたものではない。安倍政権で予想される「改憲」についてのものだ。
 結論から先に言えば、アメリカは日本の集団的自衛権の行使については黙認するが「改憲」となると黙って見過ごすはずがない。最終的に「改憲論議」はアメリカからの圧力によって頓挫する。内田さんはそう考えているようだ。
 そこでである。
 これまでを総合して予測すれと、もしも尖閣問題が現在以上にこじれるようなことになれば、日米安保の原則に則ってアメリカが前線に軍を配備することになると思う。その時日本側はどうかといえば、集団自衛権の名の下に自衛隊が米軍との連携を密にするということになる。つまり日米が共同して敵に対する体制が取られることは間違いないと思える。日本にとっては戦後初の本格的な戦闘態勢に入るということになるが、おそらく最悪の場合ここまでの流れは現行憲法の下でも可能とされるに違いない。当然、全体指揮はアメリカ主導になることは避けられない。つまりそういう形までなら、世界各国が何と言おうと日米は強引につじつまを合わせ、口裏を合わせていくのだろうと思える。
 だがもちろんこれは架空のおとぎ話にすぎず、日本もアメリカも中国も、いざとなれば戦争回避を第一義としてあの手この手を尽くすのは自明だ。そして、それは功を奏すという形に最終的には落ち着くはずである。だいたい日本もアメリカも中国も、尖閣ごときで戦争できるほど、国内事情に余裕があったり安定したりしているわけではないと思える。また指導部が考えるほど、ひとつひとつの駒は言いなりになるわけもない。そのためにはひとりひとりの兵士の心を捉える大義が必要だし、信仰に近い愛国心やら自己犠牲の精神やらも必要になる。各国とも、上層部の利権の貪りや自己保身の醜い姿など、とうに国民には見抜かれていて、そうした連中からの叱咤激励を真に受けて戦闘に進んで参加するものもそう多くはいるはずがない。つまり、職業軍人たちしだいの展開で、せいぜいが最悪の事態になったとしても小競り合いで幕が閉じられることは間違いない。
 だいたいが、日米中とも背後に控える国民大衆の目は覚めていて冷ややかなものに違いないさ。またそうでなければ第二次大戦後の数十年は無に帰してしまう。
 
 現段階において、われわれ一般国民が「尖閣問題」をどう把握しておくべきかについて、自分なりに探ろうとすればこんなところになる。ぼんくら政治家たちのように「核」を持てばとか、相も変わらず、集団的自衛権やそれを担保するための九条の改正が必要などという論議の不毛さに付き合ってなどいられない。こういえばバッシングされるのかもしれないが、すでにそんな意味合いでの憲法論議には信仰上の偶像崇拝じみた滑稽さしか感じ得ない。改憲も護憲も近視眼的な見方の中では大きな意味をなさない時代に入りこんでしまっている。さらに言えばそんなこと、もうどっちだっていいし、時代を運んで行くのはただ「不可避」だけだと言いたいくらいのところにさしかかっているのが現在で、そうした「現在」を把握すること、把握するという営為を持続すること、それだけが未来に通じる道の発見につながるのだろうと思う。
 ま、われわれ一般国民大衆は派手な報道に惑わされずに、ただ今のこの一日を懸命に生きるのが何よりであって、それでさえ高を括って力を抜けば思わぬ形で足元をさらわれる、そんな綱渡りの渦中にあることを忘れない方がいいと思う。つまり、生活はいつだって必死なものだ。それで一応の国民としての義務を果たし、権利を行使できているということで、あとは悠然と構えていいのではないか。
 
河北新報の社説にみた「堕落」       2012/11/15
 政治資金規制法違反の罪で強制起訴された小沢一郎の控訴審判決で、東京高裁は無罪を言い渡した。このことを社説に取り上げた河北新報と東京新聞の記事を目にしたが、論旨は大きく異なっていた。冒頭を比較するだけでその差異は明確であると思う。
 
東京新聞
 「国民の生活が第一」代表の小沢一郎被告は、二審も「無罪」だった。問題は検察が市民の強制起訴を意図的に導いた疑いが晴れぬことだ。生ぬるい内部検証では足りず、国会が徹底調査すべきだ。
 
河北新報
 二審判決もやはり、国民の視点からは納得しがたい内容になった。秘書に任せっきりにしていれば当の政治家の責任が問われないというのは、法律の欠陥以外の何物でもない
 
 
 東京新聞は、検察の捜査報告書づくりの過程に対して疑問を呈し、検察の捜査手法の恣意性に警告を発している。これは政治資金規正法違反(収支報告書虚偽記載)に問う過程での、捜査のあり方に目を向けての見解だ。私にはせいぜいこんなところがこの件に関する妥当で良識ある主張であると思える。
 いっぽう河北新報は収支報告書虚偽記載に限定した捉え方ではなくて、4億という出所が不透明な政治資金に関心をもち、それが明らかにならなかったのは法の不備によると結論づけているように思われる。強制起訴は秘書との共謀について政治家の責任を問うたもので、その結果が無罪となった。河北新報の社説のように、裁判官が無罪としたから法律に欠陥があるとするのは、あまりにも乱暴で偏見に満ちた主張ではないだろうか。。
 法律上の問題として考えれば、収支報告書の記載を意図的に虚偽記載したか、あるいは違法性を意識せずに日時を変更して記載してしまったのかという問題だ。またそれを共謀したかしなかったかということだ。慣習的には、記載に不備があれば正しい記載に変更しそれですんできた問題だ。だが、小沢一郎という政治家、4億円という巨額の資金、ということで当初から多くの憶測が飛び交い、事件を複雑にしてきた。つまり、背景に古い政治体質としての「政治とカネ」の問題があり、多くの報道はそれを呼び込んで「虚偽記載」を報じたために、誰もが違法献金を前提に事件を眺めてきたということがある。
 大手の新聞やテレビをはじめ、マスコミははじめからそうした先入観を挿入して事件を報じていたと思う。つまり視聴者や読者にそう見えるようにだ。それは世論操作といってもよい手法だ。
 今日の日本においてこういった世論の操作や扇動は日常茶飯のことである。
 私たちはもう正しい報道とか真実の報道とかは無いに等しいと思っている。
 政治家もあてにしていないし、報道もあてにしていない。だが、政治家も報道も必死である。一般大衆をだませると思い込んだり、世論を左右できると思い込んで必死の形相で発言し、記事を書いている。幻想を抱いているのは彼らの方で、一般大衆はすっかり冷めていながら、ときおり信じたふりをして見せているだけなのだ。
 
 本当のことをいうと、こうした事件に興味はない。違法献金を捜査して、違法である証拠が出てこなかった。収支報告書の記載のズレを発見し、別件逮捕した上で違法献金の立証も可能になるかもしれない。警察や検察がそう考えてもまあそれはそれでよい。威信をかけたはずの検察の必死の捜査にもかかわらず、有力な証拠は見つからなかった。検察は小沢一郎を不起訴にした。
 仮に小沢サイドに怪しげなことがあったとして、今日の法治国家としての日本において捜査の手は尽くされたうえで不起訴となった事案である。最高の捜査機関が捜査して証拠を挙げられなかったのは、小沢サイドと検察に癒着があったからか。そういう疑念があれば検察審査会が出て当然だろう。だが、検察審査会は検察の捜査が不当に手ぬるいと考えたわけではなく、印象としてはただ4億ものカネを政治資金として左右できる力を持った小沢を失脚させたかっただけだ。私にはそう見えた。そうして二審判決が出て無罪が言い渡された。
 灰色は灰色で黒ではなかったということである。灰色が灰色か黒かは専門機関である警察や検察の捜査でもって決定される。もちろん最終的には裁判によって決定される。そして一定の法的な決定が為された以上、その問題はそのように決着されたとみなすほかはない。
 そういう視点から考えると河北新報の社説は悪意を含んでいると感じる。この期に及んでなお、小沢一郎を悪徳政治家の権化に引きずり下ろしたい意図を含んでいるように思える。この突出した執拗さは何なのか。
 
 この事件では当初、政治資金管理団体による不動産取得や、4億円の「原資」が何だったのかに疑問が呈された。まだ遅くはないから、国会はその解明にも取り組むべきだ。
 
 4億円の「原資」が何だったのか、執拗に食い下がるこの姿勢を河北新報はいつまでとり続けるのだろうか。この執拗さは限定つきで肯定してもよい。というのは、疑問があればとことん追求し、事件の真相を追い続けるというのは新聞などのひとつの使命でもあると思うからだ。もちろんこれが肯定されるためには、新聞記者の地道な取材や真相の掘り起こしのための努力を必須とする。自らはその努力をせずに、司法の最善の結果としての判決が下された後にも、なお「あやしい、あやしい」と呟き、その呟きを広め続けるとすれば、明らかにそれは不当なバッシングであり、人権侵害に触れる行為とみなされても仕方がない。
 すでに、4億の資金を絡めて、検察はヤミ献金疑惑を想定して小沢一郎の身辺を洗い出し、確たる証拠を見いだせずに捜査は打ち切られたと承知している。
 私たちは、突然隣家がリフォームして豪邸になったからといってその家の懐事情を詮索するだろうか。内心で『何かあったに違いない』などと思っても、公に問題にしようなどとは思わない。当然、あやしげなことがあったら公的機関のチェック機能が働くだろうことを信じているからだ。警察や税務署は、そんなに無能ではないことを知っている。
 内心の疑惑を抑えきれずに隣近所に言いふらす人はいる。けれども公共的な性格を持つ新聞が、同じように明確な根拠も持たずに、特定の個人についての疑惑を長きにわたって言いふらし続けるというのは、明らかにペンによる暴力行為以外の何物でもないと私は思う。悪意なしにはこうしたバッシングが続くはずはない。
 隣近所のうわさ話を聞き込んだとして、リフォームした家の主人は弁解のために金の工面をみんなに説明して回るだろうか。そしてそれをしないからといって、うわさ話をまき散らした当人が「やっぱり」と疑惑を確信することは正当だと言えるだろうか。
 河北新報の社説の言いぐさは、単純化すればその程度のことではないのかと私には思える。もうひとつついでに言えば、先の引用部分は問題のすり替えであり、収支報告虚偽記載とは別種の問題だ。それを意図的に関連させているところもおかしいと言えばおかしいところである。さらにまた、何度も言うが4億の原資が何かなど小沢サイドがわざわざ明らかにすることは決してないことだろうし、「まだ遅くはないから、国会はその解明にも取り組むべきだ」と言ったところで、この問題が国会で取り上げられたり、その場で小沢一郎が明らかにすることなど到底あり得ないことだ。つまり、社説は進展するはずのないことを繰り返しているに過ぎず、逆に端から解明しようがないことを知っていて、ただ小沢一郎をくさすだけの目的で記事を書いていると見られても仕方がない。河北のこの記事を丁寧に読めば、このことがよく理解される。何度でも何度でも繰り返しに耐える言辞を弄している。この手の、でっち上げまがいの個人を陥れるための手法はスターリニズムとして伝統的なものだ。私たちは今初志を忘れた地方紙の堕落した言論を悲しく見つめている。良識の砦と思われたものは空想に過ぎなかった。さらに、類推するにこの地方の「知」はこの程度のものだったのだ。河北新報は私たちの宮城県民の「知」をその程度に貶めたいのだろうか。あるいはその程度に貶めることが可能だと思っているのだろうか。
 
政治家の不勉強と官僚支配      2012/11/03
 自民党政権というのは、後期にはほとんど官僚政治という気がするほどだった。政策から予算編成まで、官僚のシナリオ通りに動くのが政治家であると言っていいほどに思えていた。さすがに小沢一郎や小泉純一郎などの一部の政治家は官僚政治の弊害に気付いていて、自民党から離れたり内側で改革しようとしたが、その結果は政権交代をもたらして民主党が政権の座に着くという事態に収束した。 肥大し続ける官僚の力はどうなったかというと、どうもならず今も健在である、と思う。 政治主導の元に民主党は数々の公約を掲げて官僚政治に挑んだかに見えたが、結果を見れば明瞭で、ほとんどの政策は頓挫したかほんの形式的にだけ実施されたかに見える。具体的には識者たちの分析、整理を参考にしてもらえばよいのだが、ここで考えていることはそういうことではない。
 現在の民主党政権が自民党政権の末期と寸分違わぬように見えるのはなぜか。つまり、政治の実効支配が官僚に握られたままこれを打破できないのはなぜかという問題意識に尽きる。その答えは簡単で、ひとことで言えば政治家の勉強不足、努力不足、である。
 
 分かりやすくするために少しばかり昔の家庭に例えると、官僚は代々姑に仕える嫁の立場で、政治家はバカ旦那の役割がいい。先ずは家庭の中がどうなっているかがバカ旦那には飲み込めていない。嫁が寝込んだりストライキをして動かなければ、旦那は家のどこに何があるか分かっていないからデクノボウのように呆然とたたずむほかはない。すぐに白旗を揚げるだろう。ふだん偉そうにふんぞり返っていても、実態はそんなところだ。もちろんその家の家系図的な流れも姑からレクチャーされて、嫁はその家の目に見えるもの見えないものすべてを頭にしまい込んでいる。何もかもが実質的には女系によって左右されてきたといってよいから、代を経るほどにますます嫁の力は絶大になっていく。
 嫁にコントロールされてそれで家庭円満ならば旦那にとってはそれでいいかもしれない。 だが嫁の実権が余りに強くなってしまうと、嫁の方針ひとつで隣近所や親戚との関係がころっと変わる可能性も生じてくる。旦那を指図するようになるわけだ。そこでもまたまんべんなく全てによい関係が築けるならまだしも、旦那をないがしろにして自己保身、自己増殖、身贔屓などに走るようになったらこれはもう大変である。大奥をはじめとする、女を主人公にした奸計、画策の物語が始まってしまうに違いない。
 昔、関根弘という詩人の詩に、「女の自尊心にこう勝つ」みたいな題の詩があって読んだ記憶がある。題名と一緒に詩の内容もおぼろだが、女と別れた男が未練を断ち切るために全力で掃除、洗濯、料理といった、俗に考えられているところの「女性専用の仕事」をやってしまうというものだった。そして、女がいなくたって「オレはやっていけるんだぜ」みたいなメッセージがこもっていたというか、込めなければいけないと言っていたというか、そんな詩だったように思う。当時、ぼくは失恋する度にその詩を思い出しては、掃除、洗濯を思いっきりして身辺をさっぱりすることで心の立て直しを図っていたような気がする。「お前なんかいらないんだよ」と言いたい、男のわずかな矜持である。
 
 もう一度ひとことで言えば、民主党議員はほとんどが官僚というものを見くびりはしても理解していなかったと思える。そして見くびりの度合いがバカ旦那の度合いなのだ。もちろんそれ以前に、もともとがバカだったという事態もあり得る。いろんな知識を収集し、社会人としてのありうべき言動も身に付け、威厳ありげな風貌をこしらえても、バカはバカなりでしかなく、ふとした形でバカは露出するものだ。民主党政権の三人の総理大臣を見ていると、勉強不足とバカの度合いがよく分かる。勉強が嫌いだったら政治家など辞めてしまえばよいものを、勉強もしなければ止めもしない。最悪である。唯一小沢一郎だけが官僚の力量を正当に把握していたと思える。だから代表時代の一時、自公との大連合に傾いた。与党経験のない民主党議員の力不足を見抜いていたからだ。だが、いかんせん、小沢に教えを請おうとする旧社会党系、民社党系の議員はそんなにいなかったのだろう。小沢の官僚打破の長い戦いの経緯と経験を見くびっていた。民主党議員は総じて未熟だったことを露呈するほかはなかった。
 勉強の成果は、事の本質を見抜く力によって表れる。何が核心なのか、そしてそれがどう動けばどういう影響が表れるか、一瞬で見抜く力が高い精度を持つようになるのだ。
 見識や奉仕の意識において官僚を凌駕し、高い理念を掲げる政治家の出現が無ければ、幾たび政権が交代しようが何も本格的に変わりようがないのだろうと思える。そのためには政治家も、たまには引きこもって政治の現状を見つめ直し、それとともに世界認識の研鑽に努めるがよい、と、ぼくならば言いたい。もちろんぼくにできることではないことを承知の上で。
 
「現在への言葉」のあとさき      2012/10/30
 子どもというものは、放任すれば礼儀作法も身に付かず、教養もなく粗野で下品で迷妄なまま成長する。だから、小さいうちから徹底的に指導しなければならないものだ。自由などはもってのほか。
 こういう趣旨の文章がヘーゲルの著作の中にあるということを、どこかで聞いた記憶がある。ヘーゲルのように抜群の頭脳を持ち、知識、教養を持ち合わせる大人が、その自分の目の高さから子どもを眺めれば、そうした感想を持つだろうことは容易に想像できる。 ヘーゲルは同様に世界史に対しても、その時代のヨーロッパが獲得した文明の高度に発達した視点を基準とし、歴史の子ども期とも見えるアフリカなどの文明の後進地域を眺め、それを未明や未開や原始として問題にしなかった(『歴史哲学講義』)。もっと言えばそういう地域の人々の暮らしを動物生と同じと見なし、概ね、野蛮で残虐だと解している。そして、世界はいずれにしても、文明の発達という大きなベクトルに即して推移し、後戻りできないものとした。
 
 ヘーゲルの子どもの見方、それから文明が劣位にある地域やその住民に対する侮蔑にはある種の普遍性がある。たとえば古代日本における大和朝廷の蝦夷に対する見方は、自分たちの生活様式を基準として蝦夷のそれと比較するから、やはり野蛮だとか粗暴だとか残虐だとかという評価に繋がっている。
 こういう他部族、他人種、他国民に対する一元的な見方は自分の側を基準として見るから仕方のないことで、今日まで世界中に拡散し延々と継続してきている。
 またこれは個人の問題にも還元でき、現代においても、政治家や学者や医師やジャーナリストや企業経営者などは、国民や学生や患者や生活者や労働者を馬鹿にして軽んずるところを持っている。政治や学問や医療に関し、あるいは付随して得た地位や名声など、自分が到達した地点を基準にして下位を見ればそういうことになると思う。
 
 ヘーゲルの歴史哲学は、世界的規模でそうした優位や劣位を制定し序列付けした最初で最後の哲学ではないかと思う。
 現在の私たちは、ヘーゲルをはじめとしてそういうものの見方をするそれ自体に、ある種の異和を感じている。ひとことで言えば、あまりにも「個」の「内面」の考察が皮相で、到底納得できそうもない。あるいは優位や上位にある者の、狭く一方的な軽侮や侮蔑といった心持ちの持ち方は、少しも尊敬できるものではない。しかしながら、このように考えることができるようになったことも、歴史の文明史的発展によるという事実は複雑な感慨をもたらす。
 ところで、こうした問題意識に関連するところで、先に私は島尾敏雄の「九年目の島の春」と題した文章と、内田樹のブログの文章とを手がかりに「現在への言葉」という文章を書いて自身のホームページに掲載した。島尾さんの文章は、文明から取り残されがちな離島の「沈黙の生活史」に流れる、人間的な豊かな活力に刮目して書かれている。それに対し、内田さんの文章は物質文明的に豊かな日本現代社会の、個々人の内面や生活様式に流れる空虚さに触れるものであった。いわばある意味対極にある二つの文章から、私としてのこれからの考え方の参考にしたいという思いがあった。正直に言えば半分は納得し、半分は突き詰めきれないところで終わってしまったという感がある。
 これにはもう少し前段があって、日本(日本だけではないかもしれないが)の現在の社会は、社会構成的に言って上層にあるものが得するようなシステムが出来上がっていて、これはなかなかにひどい文明の産物だと考えたところに出発点がある。これは特に原発事故を含む東日本大震災後に感じたことだ。
 一般的な労働者やアルバイト、パート労働者などはちょっとした失敗で職を追われたりリストラされたりがごく普通であるのに対して、権力や権威や資本力を有したりそこに近しいだけで隠蔽やごまかしが容易にでき、不死鳥のように同じ地位、立場に居続けられる。こういう不条理や不合理が罷り通る高度文明社会の何が高度かという問題意識だ。また、増税法案の成立についても、世の中の景気が悪くて多くの庶民の懐事情がよくないときに、言ってしまえば政府や行政などの経営的な失策の尻ぬぐいをこうした形で庶民に負わせるシステムが、簡単に稼働することについても同様に不信感が募った。しかも国家的規模の投資詐欺まがいのことが(増税で福祉が向上する)、大新聞社の支持を得ながら罷り通ったことに驚きを禁じ得なかった。
 日本全体が不況にあえぎ、また震災や原発事故による被害に壊滅的な危機感にさらされているというのに、日本の国家的な上層部、指導層の連中は自分たちの保身だけに都合のよい方策を連発して、しかもそれを国民のための施策とカモフラージュする。あるいはまたそのことに無自覚である。
 これを批判するに皮相であっては通用しない。できるかぎり本質的で核心を衝くものでなくてはならない。
 
 そう考えてきたところで、三木茂夫の「頭と心」の論も思い浮かべていた。
 人間の持つ精神性には、心情とか情感とかで呼ぶ面と理性と呼ぶ二つの面があるということをだ。三木は前者を「心のはたらき」と考え、後者を「頭のはたらき」として区別している。人類の黎明期には「心のはたらき」が優位で、時代が下るとともに「頭のはたらき」が優るようになり「心のはたらき」を凌駕するようになったという。
 結論から言えば、文明の進展、発展こそが歴史の主要なテーマと言いたげなヘーゲルの歴史観は、以後、時代の上層に存在する者たちの共通の視座となった感がある。すでに、心と頭のはたらきとが調和のとれていた桃源郷やエデンの園の時代をはるかに超えて、利欲に走る世相が幅をきかせはじめ、彼の文明史観はその利欲の暴走に根拠を与えたと見ることもできる。それは文明に資するという意味合いでであり、言い換えると、支配層の巧妙なロジックが、ヘーゲルの歴史哲学には含まれていたと言えるのかもしれない。
 ヘーゲルの歴史哲学は高度化した文明を上位におき、さらに高度に上りつめていくことが高潔で高邁な精神を形成するかのように暗示しているように思える。だが、実際のその後の世界は人間の内面を萎縮させ、利欲に走る頭のはたらきだけが強調されて、万物に共感する心の作用は顧みられることさえなくなってしまった。誇張して言えば、誰もが自覚すると否とに関わらず、ボロボロに成り下がった精神を抱えて異常と紙一重の境界をさ迷っているように見える。危機は、支配層か非支配層かに関わらずに訪れている。
 自然過程としての文明の高度化と、高度化を支持していっそう加速させる社会が相俟って、もはや人間の精神のキャパシティーの限度を超えて文明が暴走しはじめている。そう考えてしまうほど、社会が操縦不能に陥っているとは誇張しすぎだろうか。
 
 いずれにしても、以上のように交錯し混乱する思考に脈絡を付けたいというのが私の思いで、その後、たしか吉本隆明の『アフリカ的段階』の書は、このあたりの問題意識に関連する書であると思い当たった。
 で、実際に読み進めながら、その時共感とある種の物足りなさを感じた。このことについては、もう少しまとまりがつくようになっら別の形で書き記してみたいと思っている。
 
 
どうかしてるぜ       2012/10/12
 大阪市長橋下徹率いる(といっていいのだろうと思うが)「日本維新の会」が9月28日に発足したらしい。思想家内田樹さんのブログを読んでいたらそう書いてあった。
 内田さんは前身の「大阪維新の会」についても、また橋下徹本人に対しても批判的な立場で、これまでにもけっこうな発言をしていた。橋下人気をそのまま否定も出来ないし、さりとて支持も出来ないというところで、そこそこの数のコメントを発する理由があったと思う。今回の「日本維新の会」の発足に対しても、事の成り行きでコメントしているわけだが、15人そこそこの当選議員数が「落としどころ」としてこれからの候補者選定が進むと予測している。
 橋下徹という人は島田紳助をメイン司会者とするテレビ番組で知り、丸山某などと同系の面白いタレント弁護士の1人と認識していた。また、丸山某が政治家に転身した後を追って、大阪府知事選に立候補し、絶大な人気を博して当選したと認識している。テレビ時代から歯に衣着せぬという感じがあり、大衆的な正義感も醸し出していたから圧倒的な支持を得るだろうことは予測できた。まあ、新しい時代の「浪速のヒーロー」だなくらいには面白がって見ていたとは言える。だが、それだけだ。大阪の知事という、身辺生活に縁遠いところの出来事などどうでもよい。またこちらは東日本大震災、福島原発事故に遭遇し、橋下旋風は対岸の出来事に過ぎない。これは別段、橋本市長の政治的行政的手腕を過小評価していることを意味していない。また過大評価しているのでもない。ただこれまで橋下がやってきたことを見れば、どうしてもタレントの大衆迎合や「受け」ねらいが強く印象され、一種の「空気読みの達人」というくくりで把握してすませている。もちろん他のタレント議員などに比べると政治手腕には抜群のものがあると思うが、それだけのものだと今のところは考えているということだ。だから内田樹さんが何をむきになって批判するのか、あるいは今回のように「日本維新の会」がどう進展していくかを予測する手間暇をなぜ惜しまないのか、腑に落ちない気がしている。
 
 
実感の薄い放射線被害、が、しかし         2012/10/02
 福島の隣県で放射線量も少ない地域にいるせいか、時間とともに放射線の怖さは薄れ、
また怖さ自体がピンと来ないこともあって深く考えることをしていない。また高齢者への影響は小さいと聞いてきたので、普段の食生活にも気を使わないで来ている。総じて傍観者的に状況を眺めてきた。
 よく引用もさせてもらっている武田邦彦さんのブログに、緊急呼びかけD福島市の「まるごと博」の自重を求む(9月28日付)と題した文章が掲載された。
 
2012年9月27日の読売新聞に福島市が行う「まるごと博」の記事が大きく出ていました。「福島原発事故の風評被害を吹き飛ばすため」とありましたが、読売新聞には記事の訂正を、福島市には中止を、福島市民には不参加を呼び掛けます。
 
 これは冒頭の書き出し部分だが、これだけで福島市が何を行おうとして、それに対して武田さんがこれをどう受け止めているかが理解される。
 福島市は願いとしての地域再生、復興を急ぎ、それに対して武田さんは放射線被害を広げるだけだから止めろといっているのだ。ブログの1読者としては、読後の率直な感想として、中止するのが無難だろうと考えた。考えたが、この種の住民の希求、願望としてのイベントは、繰り返し繰り返しあちこちで断続的に催されている。武田さんはモグラ叩きのように頑張っているが、武田さんに寄り添って考えれば、安易にイベントを行うことは主催者にも参加者にも長い目で見て害あって益無しだということになる。そしていくらかはそのことを承知で目先の利に目が眩み、無責任な世論の「煽り」をあてにして主催者が見切り発車をするその状況認識の甘さが、武田さんには理解できないのではないかと思う。
 さて、これをきっかけとして、いろいろな考えが浮かんでは消え浮かんでは消えた。その中で、なかなか消えずに残るものもいくつかあった。
 その一つは、ぼくたち日本人の半分かもう少し多いくらいは、今回の原発事故による放射線被害の怖さを実感していないのではないかということだ。これは自分を考えて思うことだが、自身には被害が薄いと考えるために、どうも認識が甘く、武田さんと同程度の危機感を共有しにくいと感じる。福島市のイベントに限らず、地域の復興・再生を優先する大人たちは、自分たちの考えが若者や子どもたちの放射線被害を広げるとは思っておらず、仮に被害にあってもそれほど重度の障害に苛まれるとは想像できていないのだという気がする。そこが武田さんなどとの考えと大きく隔たるところで、いわば被害をリアルに想像できるか否かというところだと思う。やはり万一のことを考え、政府や専門家や報道などが中心になってぼくたち国民、住民に被害の怖さを広く知らしめてくれなければ困る。
 戦争での原爆被害には皮膚がケロイド状に残るとか、要するに外観上の被害も顕著だった。それに比べると今回の原発事故には一般の市民の、外形に現れる被害はほとんど見られないから怖さがピンと来ない。またガンの発症にしても早くて4,5年先ということだから、これもまたピンと来ないことに加担していよう。そのために一般のぼくたちは、現在の放射線の被害というものをリアルに想像できず、本来なら武田さんなどが紹介する法的な被爆限度の基準値を死守すべきところ、逆に、たいしたことがないという気分が蔓延してそうすることを妨げているのではないかと思う。心配される赤ん坊や子どものことも、自分が親の立場でなければそれほど切実には思えないものかもしれない。武田さんはそのことを日本人の変節のように捉えているが、ぼくは元来日本人はいい加減なところがある民族という気もしているので近代、現代になって急変したとは思わない。これはやはり政府や官庁や自治体などの理念や姿勢の影響が大きいので、これらがもっと放射線被害を少しでも少なくするという気概を持っていたら報道等を含め、広く世間の空気を変えることになっていたと思う。逆にいえば世間的な空気の醸成は政治家や学者や報道関係に依存するので、彼らがそれを広く知らしめるどころか、逆に国民のパニックを恐れ、抑制することに加担したと考えることができよう。
 放射線の問題に関して、その考えるところや主張は、全体を俯瞰したときに武田さんのそれが妥当なものだと思う。日本という国の総力を挙げて放射線を減少させる手立てを講じるべきで、また少しでも放射線を浴びる人を少なくし、最悪でも回数も量も少なくすることを至上命令とすることが後代に禍根を残さない方法でもある。どうしてぼくたち生活者が、自前でそういう考えに至らなかったのかは不思議である。一般人といえども、日本人なら基礎的な学力を身に付け、ある程度の理解力は誰にも備わっていると考えられるからだ。考えられるのはぼくら日本人の精神には、科学的論理性が馴染まず、定着していないからではないかということである。一言でいえば日本人の考えること、やることには一貫性がない。その場その場で変節する。その動機となるところも、たとえば「金もうけ主義」などと一括りに言い切ってしまうことはできず、さまざまで、それ自体が森羅万象の様相を呈す。言い換えれば全てを無に帰す性情を日本人は持っている。
 ぼくは思うのだが、この福島原発事故による放射能問題について、ぼくの周囲で切実に危機感を抱いたり、福島の子どもたちや子を持つ親たちに心を寄せて、心配したり不安に感じたりしている人は少ない。「絆」という言葉などを口にしたり目にしたりするわりには、現実の生活の場では問題への切実さ親身さに欠けると思うが、これがぼくらの目に映る実際である。自分をも含めた近傍の住民のこのような反応を凝視したとき、なし崩し的に時間の経過を待ち続けるだけの国民性なのだなと思わずにおられない。価値観から見ても、何の価値も見いだせないところに価値観をおく特異な国民性なのだ。放射能汚染から次世代の赤ん坊や子どもたちを守る、それだけの意思疎通が国民相互に大きなうねりを形成して社会を導くということもない。
 このことは、タバコの害の喧伝とさまざまにヒステリックな規制や、社会的な封じ込めと比較すると「異様さ」がはっきりする。
 いったいタバコの害と放射線の害とで、日本の国民はどちらの害が恐くて大きいと考えているのであろうか。タバコは、医師や学者や研究者と一部の政治家そして報道が大きく健康被害があると訴え、はじめに国会や官公庁をはじめとする公的機関から締め出され、しだいに地方でも真似られるようになり、役場、公園、教育施設に順次広がっていき、町ぐるみで禁煙を条例化するところまで出た。はっきり言って、健康のためといえば何でも通用するかのようにさえ思われるほどだった。
 ならば、放射線の健康被害についてはタバコの比ではなく、それこそ健康のためということで、もっと恐れ、もっと嫌悪し、もっと排除的姿勢の空気感を醸し出して然るべきことのように思える。タバコについてはあれだけ徹底的に排除してきた「健康志向」の厚労省、環境省、それから地方の教育委員会、教育長、一部の自治体の首長の面々、地方行政、各種公共施設等々が、下手をすると放射性物質に関しては「全国にばらまけ」、「全国民で平等に被爆し合おう」と言い出しかねない雰囲気があやしい。汚染区域に人を集めるとか、汚染した瓦礫の広域処理とか、汚染した地域の生産物の購買運動とかは結果的にそういうことになると思う。
 喫煙愛好者で、この事態に『えっ!』と絶句せずに居られるものはいないはずだ。なぜなら、日本の国そして社会の排除と許容の実際を見る限り、タバコの方がはるかに「悪者扱い」され、家族・隣人にも許されず、徹底的に排除されてきているからだ。それはとりもなおさず、この国と社会は、放射線に比してタバコの害が大きくて恐いと言っているようなもので、ぼくたち喫煙者は放射線以上に恐い煙を吸い続けているということになってしまう。だってそうでしょう。タバコについてはあんなに共同戦線を張って排除に努めてきた社会が、放射線問題ではそれをやっていない。タバコの害をあんなにも熱心に説いた人たちが、放射線については口ごもるか、異口同音に「この程度ではたいしたことがない」と言い続けてきた。
 言うまでもなく、本当は逆であるべきである。タバコのような個人的な趣味、嗜好について、本当は公に属するところのものは全て口にすべきではないし、とやかく言うべきでない。個人の自由と責任の問題である。ひるがえって、原発事故による放射線問題については、東電という企業が業務上の怠慢と過失によって引き起こしたもので、政府の政策共々責任の所在ははっきりしている。そのことはきちんと法的に認識され、糾弾されなければならないことだ。また放射性物質は自然界にとっても異質なものであるから、基本、この国の総力を挙げて徹底的に排除すべく口にもだし、行動も起こすべきと思える。ぼくとすればそれは自然な論理で、世界はそれを標準に動いているだろうし、動いていくだろうと推測できる。それが、この国では実際にはたいした問題にもならないタバコの害が実際以上の何倍にも膨らまされて問題にされ、
本当は厳密にそして緻密に、慎重に考えられなければならない放射線被曝の問題がいい加減なレベルで論じられ、曖昧にされ、あるいは不問に付されようとしている。この国の指導者層のやることは矛盾に満ち、何をやっているのかが分からない。また国民も指導者層のうやむや化に加担するかのようにして、知らん顔を決め込む。「いったいどうなっているんだ、この国は」と、たまには石原慎太郎の口調で言ってみたい。また「絆」だなんて、酔いどれなければ口に出来ないような言葉をはやとちりで全国に広めたマスコミなど、政権との絆を深く強いものにして、国民との絆は擦り切れる寸前だ。権力とそれを取り巻く連中は、この国と社会を操作して、どういう方向にでも持っていく力を持っている。今回の放射線と被爆の問題はそのことをぼくたちに教えている。タバコには総力を挙げ、放射能には蓋をする。権力側がそうしたかったから、その意図通りに現実はそうなっている。
こんなに分かりやすい構図はない。もちろんタバコには煙があり匂いがあるし、放射線は目にも見えず嗅覚も味覚も刺激しないという違いがあり、ごくふつうの一般の人々にはタバコ問題のほうがわかりやすいのかもしれない。だがもはや、見えないものを見、見えたものを理解し、そしてけして忘れない力が国民に備わらなければ、どうにもその国の明るい未来は当分やってきそうにはないと言える気がする。
 
 
領有権問題         2012/09/25
 尖閣諸島、竹島をめぐって中国、韓国から攻勢をかけられている。
 ここ数日間は、日本が尖閣を購入して国有化したために、中国本土での反日デモがすごい。テレビ画面を見る限りでは大暴動に発展しかねない勢いである。日本の学生たちが反米デモを繰り広げた70年代前後は、逆にアメリカの人々によってこんなふうに眺められていたのかなどと考えた。
 たぶん、反日デモは激しい様相を呈していても、参加したり共感している人々はほんの一握りで、多くの民衆はどの国でもそうであるように自分たちの生活を営むことに精一杯であろう。在日の韓国の人の発言にもあったが、他国間との軋轢をもたらすのは決まって政府とか役人とかその他の指導者層であって、一般人は仲良くしながら互いの生活の向上に協力し合うものだ。わずかに扇動された一般人が大きな行動を起こしてしまうこともあるが、普通に考えたら接点のない他国の人々を憎み嫌う理由がない。嫌うとすれば主にその国が行う行動で、それは国家、狭めて言えば時の政府の言動によることが多い。
 日本の領土問題というのは、太平洋戦争の敗北後のはっきりしない決着のせいによるのだろうと思う。千島列島は旧ソ連に実効支配され、ソ連分裂後もロシアによって統治されている。日本は返還を要求し続けてきたが、いいところまで交渉が進んでは決裂することを繰り返した。尖閣も竹島もそうだが、古文書等によれば日本に帰属するのが本筋と思える。が、いずれも戦争に負けて戦後に戦争放棄を宣言した以上、他国につけ込まれる弱みを永久に持ち続けるだろうことは否定できない。日本の弱腰外交はそこに端を発していると思うが、逆に強腰であればいいという問題でもない。
 そもそも領有権の問題は、資源などを通して国益を左右する問題であるから、どの国もそう簡単には引き下がらない。だから解決はその利益に見合った交渉によるか、力比べで解決するしか手がない。少ない選択肢と、相変わらずの野蛮さから抜けきれない歴史的現在を思うと、人間の叡智もあまりたいしたものではないなと思う。
 そもそも、尖閣の国有化は日本政府(日本国民がではない)が勝手に決めたことである。その時点ではたぶんこれほど中国側が過剰に反応するとは考えなかったに違いない。政府が決める前は東京都がこれもまた勝手に、億単位の寄付を集めて地権者と交渉していた。政府が途中から介入したのは、東京都が購入してしまったら石原都知事が何をしでかすかを心配したからだろう。騒ぎを大きくして広げた原因は、だから石原都知事にもあるのだろう。まあ、石原都知事は尖閣周囲の海に埋蔵されている石油等の資源争奪で、日本が後手を踏んでいることに業を煮やしての決断だったかもしれない。しかし、いざこのような大騒ぎになると、報道のほうが遠慮して取材に行かないということか、石原都知事の発言は一気に減少した感じだ。日本政府は石原慎太郎ひとりに踊らされたとは言えないのだろうか。してやったりか否かは分からない。
 視聴者からみると、石原は中国の覇権主義に茶々を入れ、大騒ぎになった途端に報道的には雲隠れしているような印象を持つ。あるいはそれは自分だけかもしれないが、ガラガラかき回して後は知らん顔ではあまりに無責任ではなかろうか。ついでなんだから、『オレは戦争も辞さないくらいは思っていた』程度は当然石原の口から出ておかしくはない。そして本当にやるんなら国民を巻き込まずに石原ひとりでやるさ。普段はあんなに偉そうにしてるんだし、三島由起夫に笑われないように、三島を超えていると思われるくらいのことをやったらいいさ。
 石原のやや好戦的で対抗的な態度に比べて、意外にも大阪市長の橋本徹はこれに関しては穏健な主張をしている。尖閣に関して日中での「共同管理」が妥当ではないかという言い方をしていた。もちろん口にすることは簡単な面があるが、こういうところを平和的に打開して先に進む糸口が見つけられなければ、またもや武力衝突、地域紛争を繰り返す愚をこの世界は防げないということになる。それでは希望ある未来なんて永久にやってこない。橋下の考えは取り立てて新しいものではないだろうが、話題の新党の党首となるべき人の発言だけに今後大きな意味をもつようになるかもしれない。もちろん私たちはこういう方向に賛成なので、アジアが自らの内部で消耗し合うのはナンセンスだ。今流行の「ピンチをチャンスに」ではないけれど、尖閣や竹島や千島を核に、それぞれに互恵的な関係を知恵を出し合って築けたらこの世界も棄てたものではないということになる。なによりも、どの国の「非知的」な一般人も他の国の一般人との交流にあっては、少しも好戦的ではないはずである。政治はそれを具体的に反映させる政策を考案しなくてはなるまい。
 報道などでは、中国は威嚇的だとか反日だとかというが、その時の「中国」とは何を指し、「反日」の「日」は具体的に何を指しているかは明確ではない。私はそれらを分かりやすくお互いの「政府」に抽象させて考えることにしているが、それらそれぞれの「政府」を頭の中で消してしまえば、両国の危機も緊張もたちどころに消えていってしまう。言い換えると危機や緊張はいつも両国の「政府」によってもたらされるものであり、どちらの「政府」もなくなれば、生活者としての両国の国民同士の関係は一気に交流を加速させこそすれ、危機にも緊張にも無縁でいられるように思える。そして、危機や緊張をもたらすのは「政府」を核に群がる関係者の、権益を広げたり守るためを動機としてもたらされることがほとんどだと思える。危機や緊張がさらに悪化すれば、ということは、「政府」と「政府」につるんだ一群が極端に利益に反応することだが、必然的に国民を巻き込んだ敵対関係に突入していく。本当はそれぞれの国の多くの国民にとって、「政府」が言うところの国益に与れるのはほんの一部に過ぎないので、敵対に巻き込まれることは非常に馬鹿らしいことだ。愛国なんてものは、実際にはほとんどの国民にとって毎日の生活の中で発揮されているものの中にあって、非常時に発揮されなければならないという考えは日常に発揮していない者たちが考える道理に過ぎないだろう。
 いずれの国の政府、政権担当者たちも、非知の国民の声なき声に耳を傾け、これを政策に生かしているようには思えない。せいぜいが自分の像に見合った幻想の国民を想定し、身勝手に自分の決めた政策が国民のためのものだと錯覚している。特に日本においてはもはや上層と下層の乖離は決定的といえるほどかけ離れていて、上層部の盲目と豹変と自己保身に特化した姿勢は目を覆うばかりのものがある。自国の国民をないがしろにする者たちが外交といっても、自国での嘘とごまかしと隠蔽と約束を破って厚顔なのだから他国に通じるわけがない。これはどの国も似たかよったかで、領土問題などはかえって互いに政治家などは出て行かず、利害に該当しない非知の生活者同士を代表にして決めてもらい、はい、それで手打ち、くらいがよっぽどいいように思える。政治家や有識者が介入して、互いの国民同士に有益になることは実はそれほど多くない。本当の生活者は、自分だけに利となることをそれほど望むわけではない。それよりも、自分もかれも分かち合うように利に浴する場合を何より願っているものだと思える。
 
 
日本人の精神風土       2012/09/03
 大袈裟なタイトルを付けてみたが中身的には大したことはない。今までに学び考えてきたことから、ざっと日本人の精神の変遷について述べてみたいと考えただけだ。
 現代社会から近いところでみれば、戦後がひとつのターニングポイントとして数えられる。要するに完全なる欧米化で、さらに狭めればアメリカ風を装った。少なくとも精神の表層部分ではそうなったと考えていい。これには前段があって、まずはじめに戦国時代にヨーロッパからの鉄砲や宗教の伝来があり、鎖国を経て明治期のアメリカとの開国から日本は本格的に西洋化を取り入れてきた。はじめは物質的な西洋が大量に輸入され、さらに文化、精神と欧米の後を追い、あるいは真似をしていって少しずつ浸透した。その頃には、だが、すぐ傍に古くからの日本人、あるいは日本的な精神というものは肩を並べるようにして存在していた。それ以降はもちろんそうした旧日本的なものは西洋化に浸食されて、徐々に形を失っていったことは言うまでもない。
 そこまでの日本人の精神は原日本人的であったかと言えば、そうではなかったろうとぼくは思っている。仏教や儒教など総じて言うと中国の影響が大きかったろうと思う。明治期以降から今日までの西洋化と同じように、かつて古墳時代、飛鳥時代、奈良時代を通して中国化があった。漢字を使って記録を残すようになった頃には、今の西洋化どころではない勢いで中国化が浸透したといってよい。だから今日までには、一般常識的に考えられるだけでも、大きくこれらの二、三の転換点が日本人の精神風土の上にはあったのである。
 
 さて、そうした中で日本人の精神的な到達点として、世間一般的には「武士道」ないしは「武士の精神」みたいなことがあげられるであろう。だがそれももちろん元々の日本人の精神の結晶として考えるわけにはいかない。どうしても仏教や儒教などの影響を抜きには考えられないのである。中国化の影響があって、それ以後のひとつの到達点なのである。
 日本人の精神を遡行して、西洋化から中国化へと逆向きに考えてきたわけだが、さらに遡っていけば日本人の精神の初源に立ち至るかというと、そう考えていい面とだめな面とがあると思う。
 西洋化と中国化を剥ぎ取ってそこに日本的なものを見ようとするのは、分かりやすいが安易でもあるということができよう。中国との交流の波が一気に押し寄せて来る以前にも、朝鮮半島はもちろんのこと、他の東南アジアの地域や南西諸島、環太平洋に浮かぶ島々などとの交流も数知れずあった訳なのである。それらの交流の影響が全くなかったとは考えられない。にもかかわらず、それらの影響は西洋化や中国化に比較すれば取るに足りない影響と見ることもできる。このあたりになるともう素人の限界である。日本人の原精神とでもいうべきものを、どこまで遡って考えればいいのか。
 思いつくのは、祖日本語の成立時期ということになろうか。これがまたいつの頃のことかというと霧の中なのだが、比較的時代の波の影響を受けなくても済んだかも知れぬ沖縄や奄美の島々に残った日本語の姿、そこに古の痕跡が留められていると考えるならば、それらが日本列島全体に波及していた時期であろうとだけは考えてみることができる。つまり遡って共通の祖語に辿りつけばよいのだし、実証は無理だから科学的に見当を付けるところ辺りまでは考えておきたいと思うわけだ。
 だんだん怪しくなってきた。
 ここらあたりまで来ると、一足飛びに文化文明の影響を全て剥ぎ取って、要するに日本の気候、自然、地形に、年がら年中影響を受けるほかなかった比較的安定した時期を想定してみたくなる。日本人の精神を、日本の気候、自然、地形などから育まれたと結論づけるのがいちばん無難だという気がするからだ。また祖日本語というべきものもまた、日本人の精神形成の後先に成立したと想定すると、まあ、それらしく思われる。
 
 日本語や日本人の精神が、幾世代もこの日本列島に居残った人々によって、しかも日本的な自然風土の環境の中で育まれ形成されていったことに間違いはないだろうと思える。ただ彼らが日本列島に最初に居住した人々であったか否かは分からない。どこからか島伝いに渡ってきた人々かも知れないし、そうでないかもしれない。大陸から東に進んだ人たちだったかも知れない。もちろん、いずれ多くの血の入り交じった混血に違いはないだろうが。
 作家島尾敏雄は奄美に住んで以後、しばしば南島に関わるいくつもの文章を書き残した。彼は南の島々が、孤島ゆえに旧いものが原型に近い形で保存された、考古学的に見ての宝庫ではないかと考えた。そこには古い日本、古い日本語、古い日本人といったものが埋もれている。そして現在に生きる奄美の人たちから歴史的時間を剥ぎ取り、さらに日本人からも同様に時間と歴史的な事件性とを差し引いて、そこに近親的な、あるいは共通の祖先、まあ原日本民族と呼んでいいのか、が浮かび上がる風に思い描いた。しかも、彼の描いた祖型に近い日本人の精神性は、固く凝った大陸的な影響を受けたものではなく、大らかで柔らかな南の島々の影響を受けるものであった。少なくとも奄美や沖縄を視野の中央に置いたときに、島の人々の表情や仕種、挙措振舞いの中には南島の要素のほうが大きいと島尾敏雄は結論づけていた。もちろんこんな荒っぽい言い方はしていない。
 島尾さんは島の人々が開放的になった刹那をとらえて、ということは、人々の「地」の露出と想定してのことだが、そこに南島独特の匂いを嗅いだ。
 結局のところ、島尾さんの考えを延長していくと、日本の原住民には南洋土着人の血が濃厚だということになりそうなのだ。こういう考えは、日本人が素質としてはもともと「おおらかな」民族であったということになり、何かしら目が開かれる思いがした。
 還暦を過ぎたばかりのぼくでさえ、子どもの頃には、バスの中でも母親がおっぱいを出して幼児の口に含ませる光景を見ていたし、近所のおばさんたちが大っぴらに道で立ちション(?)する姿も普段に目にしていた。極端な田舎だったせいもあるが、運動会や祭りのようなおおぜい人が集まる時などもそうなので、いま思うとあのような「おおらかさ」は、現代社会よりも古代のほうに感覚的な時間としては近い気がする。
 
 何と言えばいいのだろう。西洋化、中国化、もっと言うと大和朝廷化みたいなものも含めて剥ぎ取ってしまえば、自給自足のこの国の、自由で大らかな親族、氏族単位の生活が思い浮かんでくる。あくまでも想像でしかないが、人々は穏和で優しく争いごとを好まなかった。たぶん警戒心もそれほど強くない性質で、見知らぬ人をもニコニコ笑顔で迎える人たちだったのだろう。山の幸にも海の幸にも恵まれ、当時としては豪華とは言えないが充足した生活が送れたのではないだろうか。
 今日の日本や日本人を見ていると、こうした想像とは隔絶の感がある。とはいえ、意識的に個々人から西洋化、中国化、大和朝廷化の表皮を剥ぎ取ると、そこには「地」としての原日本人の精神が脈打っているに違いないと思われるのである。その「地」も、その上に降り積もった幾層もの影響も、付加されながら代々に受け継がれてきているに違いない。知の考古学に比すれば、心情の考古学といったところか。こういうことをなぜ考えるかといえば、ぼくらの現在とこれから進む方向について流れに任せて流れて行ってよいかという問題意識に尽きる。日本人の精神は健在であるといえるかどうかということ。そこにもしも不安があるとするならば、これからどこに向かうべきかということ。それらを考えるためには一度我々の精神の原点を探って、来し方をよくよく考えて、向かうべき方向に向けてのヒントをそこから汲んでこなければならない。そう思うのである。
 幾度も考えてきたことではあるが、ここでも結論は、はじめに活動の主流にあった原日本的な心情の部分が他国などからの「知の輸入」により、影響を受けてしだいに「知」が優位の活動へと変転を遂げてきたということになる(ちょっと強引で、フライング気味ではあるが)。そして、全体的にそうした「知」の活動や作用は、結果として「利欲」に奉仕する道具に利用されてきた。
 日本人は知の体系を創造しなかったが、知には対応できた。そういう能力は持っていたのである。侵略的な要素を持たなかったから体系化の必要もなかった。そういう民族的な歴史を長いこと積み重ねたとも言える。
 しかしながら、もともと純潔無垢ではなかったし、知られるとおり民族成立後も純潔ではいられなかった。波をかぶるように世界の先進的な文明の影響は繰り返し受けざるを得なかったのだろうと想像できる。
 
 こういう風な考え方をしてみると、人間としての幸せというものは現在よりも過去のほうに存在していたのではないかという思いにとらわれる。また、エデンの園とか、地上の楽園とかが思い浮かぶ。
 何とかして昔に戻ることが出来ないだろうかと考える人はいると思う。昔の人間の暮らしのほうが理想に近い、そう考える瞬間もしばしばあるに違いない。しかしそう考えたら地球の生命の源が、自分たちが地球という大きなお餅からひねり出されるように切り離されずに、地球と一体のままにいたかったと考えることに同じになる。同じになってもいいのだが、元に戻ることは出来ないのだから意味がない。ただいつまでもそうやって過去を恨みがましく思い続けるほかない。
 ぼくら日本人の存在の根っこに、優しく誠実で思いやりに富むという極めて豊かな人間性が保存されていると考えることは、ぼくたちのひとつの誇りとなる。その上でたくさんの外国の文化、文明に影響を受けて、それらの性質が撓んだり歪んだり、鎧のように知の装いで抑制がかかって深層に埋もれかかってきた現実も忘れてはならない。日本及び日本人としてのぼくらは数々の影響を引き受けて、そうして埋もれかかった心情に問いかけながら自分自身を、自分たちの国を、良かれと思われる方向へと形成してきた。力学的に見ればそれはひとつの成長過程に他ならない。変形は成長であり、成長とはまた変形することである。
 こう考えると、原形を留めぬくらいに変遷を重ねたぼくら日本人も現代に生きるぼくたち個々人も、この変形や成長を是として考えたり行動すべきことがありそうだと思える。 それはどういうことか。島尾さんも明確に言及してはいなかったけれども、唐突ながらあえてここで言ってしまえば、「もっと自由に!」「もっと平等に!」「もっと助け合うことを!」というように集約できよう。ちゃちな知で干渉したり監視したりするなということであり、日本人の心情の本源的な特性を生かした社会が造られなければならないということになろうかと思う。吉本隆明さんが、「親鸞論」の中で提唱した「〈非知〉を取り込む〈知〉」とは、この文脈の流れでいえば原日本人の心情の取り込みと読解できる。それが今日のぼくたちに課せられた課題なのだろう。億劫がらずに「行きつ戻りつ」を継続しなければならない。
 
 
この貧困の先に何が     2012/08/20
 生活者の位置から、これまでも日本の経済動向をながめ、折に触れて考えたりまた考えたことを文字に表してきた。そこから大きく二つの方向に、考えは収斂しようとしてきている。その場合にひとつには「国民」という言葉がキーワードになり、もうひとつは「労働者」という言葉をキーワードとして考えをまとめ上げられるように思っている。うまく行くかどうかは分からないが、ここではそれを試みてみたい。
 
 消費税増税法案が成立したが、経済活動が停滞し冷え込んでいる状況での増税は、簡単に言ってしまえば国民からの直接的な収奪と、税金を納められない国民のリストラを意味する以外の何ものでもないとぼくは思う。国家の運営上の失敗から生じた穴を、税金によって埋めて、後は何食わぬ顔で国家の顔付きを維持していこうとする腹だ。
 目的税化し、社会福祉税とするとしているが、表向きはどうであっても結局のところは国民に負担を強いるお金は官僚機構の維持、もしくは拡大に役立つことは間違いない。ひいき目にみても国民に直接役立つこと(サービス)に使われるお金は税収入の半分以下で、ほとんどが関係機関、機構、組織に分配されていくと考えられる。
 最近、マスメディアでさかんに言われるようになった節約とか無駄を無くすという言葉を受け、武田邦彦さんがブログに書いていることはここでぼくが考えていることと交錯する。少し紹介してみる。
 
そして20年。ついに赤字国債が1000兆円に近づいたので「財政健全化」のために消費税の増税を行います。つまり、国民が節約したお金は国に渡り、政治家やお役人本人や、彼らと親しい人のところにいきましたが、なにしろ効率の悪い仕事に使われるので、半分ぐらいはムダに消えていったのです。
節約して150万円預金した人はどうなったでしょうか? 国が150万円を借りて、半分は役人の天下りなどに使い、半分は預金した人も利用した箱物(公民館など)を作り、そこに働く人の給料を払い、冷暖房費で消えていったのです。簡単に言うと、150万円のうち、100万円を捨て、50万円ぐらいを公共サービスとして受け取ったということになります。
かくして国民が節約したお金は政府が使ったので、環境という面ではなにも変化はありませんでした。つまりこの場合も「節約」は「環境を改善する」事にはなりません。
さらに、国の借金が増えたので、「財政再建」のために消費税を増税することになり、その人は税金で150万円を取られます。国民はますます不安になり、銀行に預けてある150万円は引き出さず、税金は150万円取られるので、使うのを150万円減らさなければなりません。ますます不景気になり、政府に親しい一部の人を別にして、国民総貧乏化が進行中ということになりました。
でもお役人は裕福になります。なにしろバブルが崩壊してから20年。国民に節約さえ呼び掛ければ赤字国債を出してお金が入ってきますし、赤字国債が貯まりますから、それを補填するためにさらに消費税を上げればまたお金が入ってくるからです。奇妙なことですが、善意で節約をしてきた人はずいぶん日本国民を苦しめましたとも言えるのです。
「環境のために節約を呼び掛ける」というのは「お役人がお金をもらう」ということでもあったようです。
(武田邦彦さんのブログ『人生講座(2)節約したお金を狙う人たち』平成24年8月11日より)
 
 ここまでについて、より分かりやすく詳しく述べることはここではしない。ただ、現在の日本における公共サービス等はたいへん非効率なもので、サービスそのものよりも役人を中心とした組織の維持と肥大のために使われることは間違いない。そのことを抑えておけば充分であろう。つまり国民の血税はそのように使われる他ないということなのだ。国民は貧乏になっていくが、公務員と公務員の仲間たちの生活はいよいよ安泰になっていくという武田さんの説は、おおむね妥当だという気がする。
 少し付け加えれば、貧しくなった国民について、セーフティーネットという形での救済策の論議があるとされているが、それは建前で話し合っているだけで期待できないことは明白だ。ネットではなく目の粗いザルに過ぎないから、いくらでもそこからこぼれ落ちる国民は増えていくだろう。そして、なんとか理由を付けながら、救済できないのも仕方がないという方向に持って行くに違いない。そういう形で、少しずつ役に立たない国民は人減らしされていく。そのやり方は巧妙だから国民にはそれと感知されないように進行する。
何しろこの国の指導者の層にある、政界、財界、有識者、文化人、マスコミが真実を発信しないものだから国民は気付きようがないのである。そして国民の目をそらし、目を眩ませている間に事は進行しているというわけだ。たとえばこの国の一年間の自殺者が毎年3万人を超えているということだが、この問題は実質的にほとんど放置されている。放置されているから毎年3万人が自殺しているわけで、言うまでもなく、「弱いものは死んで結構」というのが彼ら指導層にあるものの内心のアナウンスに他ならないということが出来る。
 さてここでもう一つのことにも触れておこう。「労働者」をキーワードとした状況についてである。
 これまでにも何度も書いてきたが、日本経済が停滞し縮退傾向にさしかかってから今日まで、日本における労働条件は悪化の道をたどってきた。具体的には終身雇用が解体され、効率化、能力主義、派遣労働を経て、リストラの促進、労働賃金の低水準維持などが間断なく行われてきている。この間、世界的にも交通交易の拡大により経済のグローバル化が進展し、世界的な競争が激化していった。各企業はスリム化し、フットワークよく動き回れなければ生き残れないと盛んに言われるようになった。
 一つ言っておけば、リストラというのは必ずしも末端の社員の首切りを意味するのではなく、ある場合は無能で多額の報酬を得る経営者のすげ替えをも意味するはずだ。だが日本の企業、会社はよほどのことがないかぎり肥沃になった経営者側のすげ替えは行わない。弱い労働者から叩く。これには労働組合の沈滞化も強く影響している。
 さて、今日の日本において「労働者」をキーワードとして見たときに全体の労働環境はどういうことになっているのか。それを俯瞰的に見て抑えておくために、内田樹(ネットの知人によれば有数の思想家)さんのブログの記事を次に引用してみる。もともとは大阪維新の会及び橋下大阪市長の政策等の批判を内包した文章で、少し長い引用になるがお付き合いをお願いしたい。
 
市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。
この政策に市民のほとんどは喝采を送った。
労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働史上でおそらくはじめてのことである。
労働者というのは労働条件の向上のために「連帯する」ものだと思っていたが、それはもう違ってしまったのである。
現に市長の組合攻撃はすさまじい。組合員というのは「非組織労働者」には与えられていない特権を享受している「ワルモノ」であるという物語に有権者もメディアも同意署名を与えた。
それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。
市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。
このルールに大阪の有権者たちが同意した以上、これから後、彼らはすべての賃金交渉において、「同じ労働をもっと低い賃金で引き受けるものがいる」事例を雇用者側が示し得た場合には、最低賃金を呑む他ないのである。
だって、自分で「それがフェアネスというものだ」と言ったわけだから。
このルールの導入によって最も喜んでいるのはビジネスマンたちである。
すでに、「日本の労働者は人件費が高すぎる」という理由で生産拠点を海外に移し、国内の雇用を空洞化してきたグローバル企業のふるまいを日本人の過半は「それももっとも」と同意してきた(現に、大飯原発の再稼働を決断したとき、野田首相は「電力コストが高ければ、日本を捨てて国外に出て行くのは、企業家としては当然のふるまいである」として、グローバル企業の利益の擁護は原発の安全性に不安を抱く国民感情に優先するという「常識的な」決断を下した)。
それは、国内の雇用においても、「同一の能力であれば、いちばん人件費の安いものを雇う」というルールが一般則として適用されるということである。
ご存じの通り、現在、どの組織でも、非正規雇用労働者が溢れかえっている。正社員の他に、嘱託社員、派遣社員、アルバイトと雇用形態は識別しがたいほどに複雑に複線化した。
そのときに何が起きたか。
仕事ぶりを外から見ていると、それが正社員かアルバイトか区別できないということが起きてきたのである。
場合によっては、正社員よりアルバイトの方が業務内容を熟知しており、適切な判断を下すというようなことさえ起き始めた。
そのときに何が起きたか。
正社員と同じくらいに働くなら、「アルバイトの雇用条件を正社員並にせよ」という要求がなされたのではない。
逆である。
アルバイトと同じくらいの働きしかないなら「正社員なんか要らないじゃないか」という台詞が出てきたのである
出てきて当然である。
雇用形態の複線化は論理の必然として、「同一労働の場合、それを最低の賃金で達成するものを標準とする」という「同一労働・最低賃金の法則」を導くということに私は導入時点では気づかなかった。
でも、今はわかる。
職場に業務内容が似ており、雇用条件の違う労働者を「ばらけた」かたちに配備しておくと、最終的に雇用条件は最低限まで引き下げることができる。
だから、経営者たちは非正規雇用の拡大に固執したのである。
彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。
日本の労働者の絶対的な貧困化はグローバル企業にとって「好ましいこと」なのである。
もちろん、貧しい労働者は消費活動がきわめて消極的なので、日本国民のほとんどが下層に固定化された段階で内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。
先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるから、それでよいのである。
前に国民戦略会議の「大学統廃合」について書いたときも述べたが、日本の財界人が国際競争に勝つために採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。
低学歴低学力労働者を大量に作り出せば、場合によっては中国の労働者程度の時給まで国内の賃金を下げられるかもしれない。
人件費問題さえクリアーされるなら、国内で操業する方がずっと利益が大きい。
労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もないし、中国の労働者の賃金が上がって、「もっと賃金のやすい国」めざしてプラントごと引っ越しをする移動コストも考えなくてよい。
実際に、「焼き畑農業的」に生産拠点を移してみたが、このやり方が予測したほどに安定的な利益をもたらさず、むしろコストとリスクを増やすことに資本家たちも気づいてきたのである。
できることなら、日本にいたい。
そこで、日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向けに」アナウンスすることにした。
これは別に「そのうち移転しますので、みなさん心の準備をしていてくださいね」と事前に親切に告知しているわけではない。
そうではなくて、「国内にいてほしければ、人件費を下げろ」と言っているのである。
政治家も官僚もビジネスマンも大学人も、みんなそれを聴いて「わかりました」と頷いて、「どうやったら人件費が安くなるか?」という問いへの最適解を求めて知恵を絞り始めた。
とりあえずやってみて効果があったのは:
(1)学力が低い若者を大量に作り出し、「自分のような能力の人間には高い賃金は要求できない」という自己評価を植え込む。
(2)同一労働に雇用条件の違う労働者を配備して、「こんな安い給料で同じ仕事をしている人間がいる」という既成事実を作り出し、「同一労働なら最低賃金」のルールを受け入れさせる
(3)製造コストや人件費コストが上がりそうになると、「では国内の製造拠点を海外に移します。それで雇用が失われ、地域が『シャッター商店街』化し、法人税収入が失われても、それはコスト負担を企業におしつけたあなたたち日本国民の責任です」というロジックで脅しにかかる
やってみたら、全部成功した。
大阪維新の会はまさにこのグローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線そのものを政治綱領の前面に掲げたという点で「前代未聞の政治運動」なのである。
 
 大阪維新の会の政策、政治綱領、政治運動はさしあたって問題にしない。
 グローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線、そう内田さんはまとめているのだが、その内容はここまでの文章を読めば理解されると思う。そしてまさしく、そのことは現在も国策的に押し進められているということが出来る。
内田さんがそう言うからというばかりではなく、そう考えると、いろいろなことのつじつまが合う気がするのだ。
 ところで、引用ばかりでは気が引けるので、少しばかりコメントを付け足しておきたい。
 引用の始めのほうで、大阪の橋本市長が、
「大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということ」をしたことが言われていた。結果として大阪市民は拍手喝采を送ったのだが、これはもちろん内田さんの言うように途方もないことなのだ。つまり低賃金競争の幕開けを象徴するようなものだが、これでは労働者が自らの首を自ら絞めることになっていくことは明白だ。
 内田さんの認識、そこに伺われる考え方というのはかつて吉本隆明さんからも聞いたことがあるもので、どう言えばいいのだろう、弱者の足の引っ張り合いのように、結果的に互いに損して終わることを教えている。だから、そこのところは出来れば市民や労働者は「大阪市営バスの運転手の賃金」の高いことを肯定的にとらえ、逆に民間が早くそれに追いつくべき事を主張すべきだったと思う。それが叶わないまでも、低いところでの足の引っ張り合いは為政者などにうまく利用されることになるので、それはひとつの考えどころでもあった。
 自分よりも「いい思い」をしている人があると、誰でも羨ましく感じたり「こんちくしょう」という気持になったりすることは自然なことだ。だが、それではダメだ。そういう自然に従っていると、いつまでも足の引っ張り合いで国民全体が沈下していくことになる。同じ労働者同士、同じ国民同士であれば多少よい思いをしている人があるとして、それには「よかったな」「ついてるな」と言うくらいが多少痩せ我慢が入っていてもいいと思う。一緒に喜んでやる、それが必要ではないか。「こんちくしょう」の思いはもっと別に向けて然るべきところがある。そうでなければ地獄の池の亡者たちのように、ぼくらはいつまでも苦しいところに浮き沈みを繰り返すことだろう。
 内田さんの話を聞くまでもなく、日本の大企業、グローバル企業といわれるものは世界との競争の過程で何をしてきたかというと、自国の労働者の賃金を引き下げ、リストラを繰り返し、そういう中でなんとか企業の存続を計ってきたといっていい。ぼくなりの言い方をすれば、人食い、つまり自国民や自国の労働者を食うことによって企業として生き続けられる道を見つけたのだということになる。とにかく、表向きの収益を上げ、企業としての面目を保つための最も有効な手段として、コスト削減の主流を人件費削減に求め始めた。やってみたら、大きなストライキというようなかつての労働者階級の抵抗はほとんどなく、経営側の主張がストレートに通った。もはや労働者に連帯はなく、なすがままの労働市場になっていたのである。
 日本経済が好調を保ち、日本人が総中流意識を持ち始めたあたりに、日本国民は初めて自分の生き甲斐とか行き方というものに目を向け始めた。馬車馬のように働くことを休止したのである。これは国民のほぼ全体にわたったといっていい。仕事よりも自分や家庭の
生活の充実ということに視線を転じると、当然仕事上のアイデアなどは停滞することになる。それまでの勢いは相殺され、並の国の経済活動に収まっていったと考えてよい。その転換期を日本の政治や経済はうまく乗り切ることができなかった。いや、経営のスリム化をはじめ、様々な対応策を行使して努力はしたのであるが結果として座礁した。
 そのことの代償のように、今日では各企業が人件費をターゲットにしてコストカットに邁進するようになった。官民挙げて人件費の引き下げ競争の趣を呈し、先の大阪市の例を待つまでもなく、国民や労働者同士が低いレベルに落としあいをすることを通して、いよいよ貧困下のレールはどこまでも下方に伸びて行きつつある。
 もはや今日的な日本の一般的な労働状況は、低水準の報酬のもとでどれだけ企業に奉仕できるかを競う、労働力の投げ売りの観を呈したところに転換してきた。報酬が低い業種や業態の世界であればあるほど、身を粉にして働く人たちが見受けられるようになってきた。そうしなければ、簡単に企業から切り捨てられる、そういう状況が底辺では蔓延している。また、それだけの努力や苦労を払わずに生活保護に救済を求めようとすれば、即バッシングを受けるような流れも形成され始めようとしている。下方へ下方へと、悪循環は繰り返されようとしている。
 
 さて、国民の中の高齢者、社会的弱者、子どもなどの生産性に与しない部分の切り捨て、労働者の貧困化、窮乏化路線、こういうものがいったい何を意味しているかを問わなければならない。政府をはじめとする日本国のリーダー層の横暴と位置づけることはたやすい。「富裕村」が、生き残りをかけて必死に、そしてなりふりかまわず貧困層を犠牲にして体制の立て直しを図っていると見ることもできる。その圧倒的な力、組織力や協力体制の前に、果たしてぼくたちに何ができるのか。
 確か内田さんは自身のブログの中でひとつのヒント、ひとつの示唆、ひとつの光明を投げかけていたような気がする。いま、印象の中にあるそれを思い起こせば、労働者や国民の、市場からの撤退という言葉に集約されてよみがえってくる。その先にはまた「相互扶助」というような経済体制の在り方が引き寄せられるのだが、はたしてそれがどれだけの長さのスパンで考えられていることなのかさえ、ぼくにはまだ明確ではないのだが。
 ぼくはそれを、何となくだが、国民運動の呼びかけのようにきいた。もちろんその声は小さく、ささやきかけるようなのだが、「もう政府とか国家と称するものに頼るのはやめましょう」というようにも、「金に頼らない、それでいて自立した生活を目指しましょう」というようにも聞いた。はたしてそういうところに可能性があるかというのもいまのぼくには分からない。だが、もはやあの「富裕村」と訣別することなしに、日本、言いかえればぼくたちの生活を取り返すことは不可能だということだけは承知している。そしてそれは今日の政治、経済、文化、全ての領域に渡る全面的で徹底的な「第二の敗北」を期に、それを梃子として考えられなければならないものだと思える。
 
 吉本隆明さんが言わんとしたこと、そして内田さんが言わんとしていることは、本当は「戦後が無に帰した」ということが言いたいのではなかったのか。
 そしてもう少し言えば、戦後に積み残したこと、積み残した課題を処理することなしに前に進んでも、結局のところそこに回帰してしまうことを言っていると思われる。それは単に戦争責任の問題ではない。それは吉本さんたちを中心として問題提起の形でえぐっており、素描はなされている。そうではなくて、戦後の出発にあたってなし崩しに消された諸問題。敗北の総括と出発にあたっての問題の所在とが、もっと徹底して行われなければならなかった。
 象徴的に言えば、教科書に墨を塗って通り過ぎる通り方ではだめだったのだと言うことができる。それは現在の政治、経済ほかの全ての分野、領域にも露出してきて、懲りずにまた同じ事を繰り返そうとしているから問題なのだと言える。
 
 疲れた。もうやめる。続きはないがたぶんいつか違った形でぶり返すことになろう。
 
 
無駄と節約の先に見えてくるもの                   2012/07/30
 このごろ節約や無駄を無くすということの声をよく聞く。原発の稼働停止で、電力量が足りなくなりそうだというところから出てきたように思う。もちろん以前からよく言われていて、それは主に企業がコストカットして見かけの収益を上げはじめたことが発端と思う。おかげで官民問わずけちけち作戦が横行した。紙は再生紙を使う。あるいは使用済みの用紙の裏を使う。鉛筆もできるかぎり配給せず、自前で用意させそれを使わせる。官公庁や民間会社のオフィスでは、エアコンの冷房・暖房の設定温度を外気に近いところに抑える。室内の蛍光灯のスイッチをこまめに消したりする。あるいは蛍光管を間引きするところさえあった。
 末端まで浸透したかと思っていたが、まだまだ節約は出来たのだ。最近では、スーパーやホームセンター、パチンコ店、その他の遊技や遊興の施設でも露骨に節電するようになった。まあ国中が末期を迎えていると思わずにはいられない。
 ところで、これ(節約や無駄の排除)を国家=政府で行おうとすればどういうことになるのか。単純に考えれば各施策のための予算を削減するということになろう。その他にも種々の人件費の抑制や削減がある。もちろん冒頭に述べた諸々の節約法はすでに行われてきているであろう。
 
 政府=国家の節約、無駄を省くということを単純化して、その一つの方策を大胆な「行政改革」によって行うと考えてみる。だが現実の民主党政府はこれをやろうとはしない。やろうとしたが出来なかった。政権交代時に出来なかったということは、これからもたぶん出来ないことを暗示していると私は考える。ではどうするのかと考えたときに、ひとつひらめいた。
 政官が結託して無駄を省くとしているのは、もしかすると「無駄な国民を省く」ということを意味しているのではないか、というように。「無駄な国民を省く」、これは国家的な国民のリストラを意味している。国民が本当に主権者となっている国であれば、とうにリストラされてしかるべきなのは政府・官僚であるべきである。ところが、わが国の政官は、自分たちがリストラされる前に国民をリストラしにかかっているのではないかという疑念が湧く。もちろん自分たちの保身と延命のためにである。
 そう考えると、最近の官民が、漠然とだが、ある方向性をもって連携をとっているように見えていたものが、いっそう理解できるもののように思われてくる。
 生産性の低い無能な社員はリストラする。こういった最近の企業のあからさまな方針を、政府はほぼ黙認してきている。グローバルな競争社会の中で、企業が優先的にコスト削減するのは不可避だと追認している。その中でも人件費削減はもっとも手っ取り早い方法だ。しかしつい最近まではこの方法は国内にあっては禁じ手のひとつだった。だがこの禁じ手はいとも簡単に破られ、一度破られると次から次へと追随するものが現れた。その揚げ句が低賃金路線への移行であり、私が人喰いシステムと呼ぶところの日本的な派遣労働、契約労働、パート・アルバイト労働の横行である。つまり無能な経営陣はそのままにして、低い賃金水準での労働者の多極的な競争を導入したのである。その結果、労働者は、低い報酬の中でどれだけの仕事をこなすかを競い合い、報酬が低ければ低いほど企業などから必要とされる転倒が起きたのである。労働者は低いレベルの戦いを日夜行わなければならなくなった。そしてそこに参加することを拒否したり、躊躇するものは、全く顧みられずに捨て置かれる社会になったのである。
 そのことを国家内、国家的政策レベルに置き換えれば、生産性の低い国民、無能な国民、保護や介護が必要な国民は削減したいということなのだと思う。税金という形で国家に寄与できないものは不要な人材となる。そうした政官の思惑は、自民党時代の後期高齢者制度に象徴されるものだった。
 
 国家経営は大変厳しい状況を迎えました。ついては無能な経営者側の体制はそのままに、税を納めずサービスを要求する人々の削減を目指します。そうすれば支出が抑えられます。また働くことが出来るのに、低賃金やきつい仕事を嫌がってやらない人は国家的に有用な国民とは言えず、少しずつ排除することにします。とにかく無駄な人間が余りすぎているので、ふるいにかけられて落ちた人には手を差し延べる気は一切ないことを明確にしておきます。
 
 というようなことで、一般の国民がどうなろうが知ったことではないし、日本国国家が安泰であれば国民の犠牲には目をつぶるというのがこの国の幻の伝統でもある。
 政権が変わっても官僚は変わらず、官僚の考えを変えるどころか変えられてしまった民主党政治家は、自民党同様に官僚政治を踏襲するほかない。官僚国家である。官僚国家が口にする国益とは、国家の利益であってそこに国民は含まれていない。国家の内実は官僚機構なので、最終的には官僚の利益になるように全てが案配される。
 官僚はエリートである。エリートは一般大衆を毛嫌いする。馬鹿にする。国民は無能で無駄な厄介者だ、と思っている。出来れば一掃したいくらいは思っているのかも知れない。国民の公僕だが、公僕という意識はない。少なくとも、底辺に生きる「無能」と「無駄」に仮装した国民の公僕だとは考えていまい。考えていれば、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイレズニ ミキキシワカリ」、役人としての仕事に励んでいるはずだ。
 
 無能で無駄な国民の排除。これが政府の節約の内実になったとしたら恐ろしいことだが、今回の消費税増税法案の成立はこのことの実現化の一歩だと言えなくはない。納税が、無能や無駄を識別するための試金石である。たくさん税金を納めてくれるものだけが有能で有用な人材になる。消費税を納める力のないものはひとりでに落ちていくのである。貧困は無能で無力で無駄に生きているものが落ちる場所だ、という論理が幅をきかせ出す。あとは餓死するのも首をくくるのも自由で、関知するところではないとこの社会は無言で告げている。一方で、テレビ新聞などのマスメディアを通して、さかんに「絆」を連呼しているくせに、である。
 政府の節約が「惰民」の排除を目的としているとしたら、とりあえず私たちは「堕民」ではないという振りをしなければならない。しかも、そうしながら「政府の目的は誤っているから止めろ」と口にだして言わなければならない。国民不在の国家主義、それは実質、憲法違反である。国家は全ての国民の生命や財産を守るものであって、一部の有用と判断される組織や人材等に奉仕するためのものではない。だが、政界、財界、企業や報道機関を中核に、この国にも「富裕村」が存在する。利権に群がって出来た村で金と権力を握って離さない両腕を持っている。どう考えても、国家はこの富裕村と二重底で出来ているように見える。この村に巣くう連中は、自分たちの都合のためには平気で憲法も法令もねじ曲げて解釈したり運用したりする。そして近々の事例でいえば、原発事故を契機に、いよいよその本性が露出してきている。放射線量の暫定基準値の設置などはその一例だが、それまでの公的に認められていた基準値をあからさまに放棄し、根拠がなくただそのほうが都合がいいというだけの数値を代わりに設定した。いったん権力を握ると、誰でも豹変するという教訓を残した。
 人間としてはどうしても下らないと思える部類に入るこういう連中に、「堕民」扱いされることはもちろん、国民誰ひとりといえども無能で無駄呼ばわりされることは承伏できない。もちろん政治の中枢に座するものたちはあからさまにそういうことを公言したり態度に示したりはしないだろうし、あるいは政策においても、それこそ策を弄して実質のない救済法を示したりするのだろうが、私たちはそんなものに騙されてはならないのだろうと思える。
 とりあえず今日のところは問題提起ということで、ここまでで終わることにする。
 
 
愚劣なものたち 2012/07/05
 6月30日の河北新報を読んでいたらトヨタ自動車関連の記事があり、特集の自動車産業の記事には、産学官一体となって東北を集積地に、という威勢の良い話が盛り込まれていた。
 一読して、「愚劣」だと思った。何をもってそう思ったか。
 ひとつは、産と官とと一緒になって喜んでいる大学教授の有頂天ぶりに呆れた。研究費が増え、成果が上がれば地位も向上し、生活全般にもモノやカネが寄ってくるのが嬉しいのだろう。だがこんなのは学問の堕落を意味するだけだと言っていい。専門に車の研究をしたければ企業に入社すればいいし、東北に活気を取り戻したいと言うのであれば政治家にでもなればいいのだ。産・学・官が一体になって何がしたいのかといえば、いずれ利害に絡んだ話で、ともに金を漁りたいというだけのことなのだ。
 産と官に引っ張り込まれ、操られて研究することに学者としてのどんな意味があるのか。つくづく情けないと思う。思うが、有頂天のそいつらには通じない。ゆくゆくは国民のために役立つ研究になる、きっとそう思い込んでいるに違いないからだ。だが学問が富と結びついたときに、学問は自立性を保持できずに必ず曲がる。このことは断言してもよいと思う。曲がる学問など学問の名に価しない。
 「愚劣」はもう一つ、官にもある。ここでは主に宮城県知事の村井某を考えているのだが、結局県知事として彼は県の行政を経済優先で勧め、トヨタなどの企業誘致に力を注いできた。これを悪いと言うつもりはない。悪いと言うつもりはない、が、村井を含め、日本の地方自治体とその首長の全ては金太郎飴のようにみなが同じ方向を向いて、それ以外のオリジナルな手法をもって事に当たる自治体や首長は皆無である。
 宮城県知事の村井は、それらの中でもトヨタという世界的な大企業の誘致に成功して得意満面であるけれども、この宮城県が二番煎じの自動車製造業を中心とする二次産業県になっていくことを住民は誰もが諸手で喜んでいるとは言えない。企業が業績を伸ばせば、確かに県の財政は潤い、公共のサービスも充実していく。県民にとっても益は浸透していくのだろう。だが、本当にこんな旧態依然の県づくり、経済中心の県づくり、街づくりでこれからも進んでいくべきなのかは疑問だ。これではいつまでも日本の地方都市は、中央の物まね、他県の物まねで都市作り、街づくりをする以外にないということになる。
 地方行政はこれからも大企業様々で、癒着やご機嫌取り、気に入られることを最優先にするあまり、道路や橋から始まって多くのことを「曲げ」て施工していくことだろう。住民個々の要求、要望などは二の次三の次でかまっていられるか、てなものだし、また、つつましく声にせず、インフラなどの不備にじっと我慢をし続ける生活者の無言を拾い上げ、そこに力を入れる役人や市町村長もまた皆無だ。
 なんだかんだ言っても産業界もまた自社の利益のためなら何だってやる。トヨタだって宮城を生産拠点のひとつと位置づけるならば、これまでの拠点地にあった相当のものを引っ越さなければならない。当然、これまでの拠点地はいろいろな意味から相当の穴が空く。それをすっかり補修はせずに鞍替えすることになるのだろう。この宮城もまたいつかはそういう危険にさらされることは間違いない。
 さて、最後にこんな愚劣な「産・学・官」の一体化を推奨し、またこんな記事を書いて持ち上げる「河北新報」の「愚劣」についても一言いっておかなければならない。
 ここのところ、河北の紙面を見ると復興関係の、それも「経済」、「経済」、「経済」の話題でいっぱいだという印象がある。別に悪くはないが、一般の読者は新聞社が肩入れするほど商売の再開や立ち直りに関心があるわけではない。また、善意を装った応援口調の記事が読みたいわけでもない。新聞社はそれが「善」でもあるかのように紹介記事を書き上げるが、もう少し立ち入って記事を書き上げるべき事象や社会問題はあり、それに対する取材を丁寧にやるところにこそ本質的な使命は埋もれているのだという気がする。大手新聞も、地方の河北のような新聞も、そういう紙面が減り、どうでもよいような情報で満ちあふれている。もはや情報誌のレベルに堕している。そしてそれらの情報は、いちように表層だけを取り上げて紹介したり、社会の空気感に迎合したものであることが多い。
 鋭い批評がどの紙面からも脱落している。
 その象徴を、じつはその日の「社説」に感じとることが出来た。
 
 社説のタイトルは『どうする小沢氏/権力闘争より「大義」を語れ』となっている。タイトルだけで小沢一郎民主党元代表の批判を主眼とした文章であることが分かる。そして冒頭ではこんなふうに述べられている。
 
 拳を振り上げたまではよかった。同調者もそれなりに集まった。だが、拳を下ろす先が見通せない。頼みの世論もそっぽを向いている。小沢一郎民主党元代表が置かれている境遇だ。
 この20年、与党にあっても野党に身を置いても、常に大舞台の中心にいた政界の実力者が呻吟(しんぎん)している。
 なぜか。繰り返される小沢流の権力闘争劇に皆、閉口しているのだ。だから、いずれ新党結成に動くであろう小沢氏に求められるのは「大義」を語ること以外にない。
 もう一つ、被災地選出の衆院議員としての自覚が問われている。東北には小沢シンパが大勢いて、政治的影響力も大きい。40年以上に及ぶ政治キャリアを、同志とともに今こそ復興に生かす時ではないのか。
 
 こんな「愚劣」な悪意を含む文章が、河北新報の「社説」として掲載されている。「社説を書いたこいつらの頭はどうかしている」と思わなかったら嘘だ。
 冒頭、2年後からの増税反対を唱えて、消費税増税法案に反対票を投じた小沢一郎を戯画化して描いて見せている。長い景気低迷や不況、それに東日本大震災をはじめとする自然災害や、福島原発事故による被ばく不安など様々な要因から疲弊する国民を前に、増税が時期尚早であることをまがりなりにも体を張って訴える政治家を、どうしてこんなにもおちょくって「滑稽」呼ばわりするのか意図が分からない。国民の多くは「増税」を心配し、内心で不安を覚えているのは確実だ。河北の「社説」を担当した主筆がどういう人物か知らないが、国民、県民の多数の不安や心配に一言も言及せずに、仮に小沢一郎の言動が政局をにらんだところに本質をおいたものだとしても、小沢がこの人物に虚仮にされる理由は全くといっていいほど無いと言える。
 この社説の担当者の頭の中には何があるのか。少なくとも、何の前触れもなくということは民主党の公約には全くなかった「増税」の話題が、「ダメ管」や「バカな野田」から、待ったなしだと提案されて当惑する「国民」の憤怒や諦念その他の一切の感情が、その頭で何一つすくい取られていないことは確実だ。つまり、読者や国民感情などはお構いなしに、ただただ政治家小沢一郎をこき下ろし、彼の政治行動を矮小化し、政治的ダメージを読者に植えつけようと意図する「社説」の文章そのものが極めて政局的な動きだという他はない。
 問題は、この時期の消費税増税論議に反対し、2年後からの消費税増税実施に反対する議員がいて、彼らの反対にはどんな意味があるかではないのか。
 河北はまるで消費税増税が正論で、これに反対することはとんでもないことだとでも言いたげだ。もちろん多くの人たちは国民を含めて、民主党政府は公約違反、約束違反だと考えている。増税も必要になるかもしれないが、その前に歳出削減を徹底して行うことや、天下りの根絶や利権構造の撤廃、デフレ脱却などが政権奪取前の民主党の主張していたことだったはずだ。
 こういう民主党の国民への裏切り行為ともとれる消費税増税法案の成立について、それは無効であると徹底して論を張り、国民を愚弄した民主党の姿勢を正すところにこそ新聞の役割はあってしかるべきだ。
 それが現政権に迎合するかのように、増税論議の是非は不問に付し、単に一政治家の問題にすぎない法案反対や離党するかしないかの問題に論議をすり替えている。こういう小癪な、下種な、世論操作や洗脳の意図丸出しの「社説」をだして、政界の実力者とは言え一政治家を貶めて平気でいるというのは到底許し難い。これが公器といってもいい新聞人のなす事だろうか。全くこいつらには、「繰り返される新聞社の世論操作記事に国民が皆、閉口している」ことが理解できていない。その意味では、個人をあれこれ言う前に、己が姿を正した方がいいのだと言わなければならない。
 
 小沢氏は民主党政権樹立の立役者だったにもかかわらず、特に菅政権以降は「反執行部」の姿勢を強めてきた。今回も離党した上で、グループの生き残りを「反消費税」と「反原発」に懸けようとしている。
 アンチ(反)に身を置くことで存在感を高める。それが小沢氏の政治手法に見える。
 だが与党である以上、「反消費税」を主張するなら、それに代わる財源を提示すべきだし、「反原発」を唱えるなら、その行程をつまびらかにしなくてはなるまい。
 
 河北新報はいつから管政権を擁護する立場をとるようになったのか。あんな滅茶苦茶な総理を前に、反執行部の姿勢をとらなかったらそれは権力者の腰巾着としか呼べない政治家に過ぎず、野田政権下で「反消費税増税法案」「反原発再稼働」を主張しなかったら自前の考えなど無い、ただに利権に群がる志の低い政治家に過ぎないだろう。言い換えれば、理不尽な政権には「反」を貫くことが正当なのだ。これを、いけしゃあしゃあと「アンチ(反)に身を置くことで存在感を高める。それが小沢氏の政治手法に見える」と述べるところに、実は「社説」を書いた当人の人格が透けて見えている。
 この人物は、「社主」の意向に反することは「書く」ことをしないだろうし、逆に「書く」ことはみな「社主」の意向に沿ってどんな作文も出来るに違いない。そして権力に「反」することはひとつの「手法」としてしか考えることができない人間であり、理念や思想や信条や信念などによって権威あるもの、あるいは権力あるものに刃向かうことなど、生涯にいっぺんも体験したことがないに違いない。また、そうでないとしても、社会的な風評を真に受けて、それを元にしてどんな作文も書ける人間に違いないと思える。
 
「反消費税」を主張するなら、それに代わる財源を提示すべきだし、「反原発」を唱えるなら、その行程をつまびらかにしなくてはなるまい。
 
 これもあまりに幼稚な、世上に使い古された論理を使って平気でいるのが情けない。
小沢一郎から「反消費税」とか「反原発」の声を聞いたことがない。現在の時点で消費税増税の論議は時期尚早だといっているのであり、原発の再稼働ももう少しの検討期間が必要だということなら語っていたと思う。もちろん、遠からず消費税増税を論議しなければならないことには理解を示していた。
 今回の消費税増税の政府案には、目的税として社会保障費に使う話はなされていた。だが、社会保障をどう改革していくかについては明確な指標も展望も出されていなかった。いわば金だけを先に集める話であって、改革案の中身はこれから与野党の協議をはさみながら詰めていくということであった。
 
 これって、少し前の「投資詐欺」の手口に似てはいないだろうか。そう考えたときに、増税はへたをすれば国家的「投資詐欺」まがいの行いだという気がした。増税によって財政危機も社会保障の向上も、その他いろいろなことが国民生活のために良くなりますよ、というふれこみを本当に信じていいのだろうか。
 河北新報はもちろんのこと、大手の新聞そしてテレビなどでも、そんなことにメスを入れてこの増税論議の深層を切り開き、真実の形を読者、視聴者の目にはっきりと見えるように剔りだした記事・発言は皆無だったように思う。そしていずれも本質からずれた河北同様な報道に終始している。
 河北新報の今回の「社説」は、増税論議の本質、根本を剔り、本当のところは何が問題になるのかを「国民の立場」から言及すべきところなのに、一政治家の法案への賛成や反対、離党や新党立ち上げの話題を持ってお茶を濁している。そんなことは「報道する立場」にとっては記事のネタとして恰好のものだろうが、国民生活の問題にとっては第一義の問題にはなり得ない。いわば本当はどうでもいいことだ。
 
 こんなことを考えていたら、翌日の武田邦彦中部大教授のブログでは、「時事寸評 「編集」が「経営」に完敗」のタイトルで以下の文章が掲載されていた。長くはないので全文を掲載させていただくことにるす。
 
【事実1】  2011年夏 財務省と日本新聞協会が「仮に消費税を増税しても新聞の税率は軽減する」との密約を結び、新聞は「増税賛成」のキャンペーンを始めた。
 
これまでも大手新聞が増税に賛成する記事を出すことが多かったが、2012年7月1日の朝日新聞には1面トップと2面ほとんどで「物欲を税で抑える幸せの国」、「税こそが市場を支える」という刺激的な見出しで「増税は幸福をもたらし、経済を活発にする」というかなり強引な記事を作っている。
 
【事実2】  日本の大新聞の経営が、編集に圧力をかけて事実を報道しなくなったのは、1930年前後で軍部の圧力、不買運動などで「戦争賛成」、「国際連盟脱退支持」のキャンペーンを行い、その先頭にたった朝日新聞が急増した時期である。
 
【寸評】  国民は中立的報道によって正しい判断をしたいと希望している。またある新聞が右翼系で親政府、ある新聞が左翼系・反政府であるのは良いが、「新聞協会」のような集合団体が政府と密約を結び、「増税は正しい」などの報道を続けることは社会正義からいって好ましくない。
 
新聞経営と編集(記事を作り編集する)とはお互いに尊重しつつ独立していなければならない。経営者は「この編集ならビジネスになる」ということで経営をするのであり、編集に口を出すことは新聞という社会的公器からいって望ましくない。
 
とくに今回の場合、「法案が国会を通過してから、税の軽減の交渉を行う」ならまだ許されるが、法案がこれから国会にかかる1年前に密約を結ぶのは公平性からいって著しく不適切である。
 
また、増税は「民主党の第一公約」に反するのだから、「選挙に行こう」と呼び掛けた新聞としては到底、認めることはできないはずだ。新聞が増税反対に投票した議員に辛い評価をしているのも、この密約によると考えられる。
 
読者も日本を愛するなら、完全な情報統制社会、強いものだけが政府と交渉して有利な条件を得るという不公正な社会になってしまうまでに、何とかして具体的な行動に出るべき時だろう。
 
(平成24年7月1日)
 
 こういうものだった。
 財務省と新聞協会の密約。本当なのかと思いながらしばしインターネットであちこち覗き見していくと、あるわあるわ、この話が。最終的に密約の証拠というものには辿り着けなかったから、この話の真偽は保留しておく。だが、武田教授は根拠のないことをむやみに書いたりはしていないから、確証は得ているものと推測でき、ここではこれが事実であろうと判断しておきたい。そしてこの密約の存在を事実として考えると、先の河北新報の「社説」をはじめとする関連記事の、表面だけを撫でるような書きぶりが何となく合点がいくような気がした。要するに、報道機関と政権とが結託し、政府の政策擁護のシナリオが出来ているという構図がうかがわれる。最悪の状況であり、逆に言えば史上最強のタッグが出来上がっているということだ。
 こんなことが何度繰り返されればいいのか。強いもの、富んだものが時の権力と結びつき、常に有利な条件下に身を置くことが常態的に可能になっていく。貧しいものがこれに参加しようとすると、それこそ刻苦勉励し、公務員試験をパスし官僚にでもなって存在感を誇示できるまでに能力を酷使しなければならないのだろう。辛いものだ。
 武田さんは最後に「何とかして具体的な行動に出るべき時だろう。」と読者に鞭を入れるが、果たして我々に何が出来るのか。せいぜいがこうやって「犬の遠吠え」程度のことでお茶を濁しているに過ぎないのかもしれない。デモに参加するか?抗議隊を結成するか?いつでも、やるときが来たならやりたいとだけは考えているが、何をやるかは定かになってはいない。まだ耐えられる、その思いがあるうちは社会システムの中枢の、そのまたコアの部分を探らねばならない。そして事あるときに、的確にそのコアめがけて攻撃を開始し息の根を止めなければならない。そういう準備が、残されている。
 
 もう一度言っておこう。河北新報は「愚劣」である。他の大手新聞同様、「オウム真理教」の洗脳、あるいはそれ以上の力と組織と姑息な手段とで読者をマインドコントロールするように意図している。その指示は社の経営陣からだされ、彼らはまた日本新聞協会のようなものから、さらにまた新聞協会は財務省などの政府の下部機関から密約、または阿吽の呼吸、または空気感というようなもので意をくんで、政府に有利になるような世論の形成に一役買っている。仮に、密約など何ものにも制約されない紙面作りをしているというならば、編集者や「社説」の執筆者の見識が疑われても仕方がない。党派に縛られて何も言わない、何も言えないというのは最悪の状況だということは、かつてのソ連共産党をもち出すまでもなくわかりきったことだ。党議拘束に縛られて、トップの乱心を許しておくことがいいとするなら、わかりやすい例で言えば北朝鮮の統制を模範にすべきとでも記事にしたらよい。
 
 武田さんが言うように、「ある新聞が右翼系で親政府、ある新聞が左翼系・反政府」ということ自体はかまわないことだ。だが河北新報は親政府でも反政府でもない、中立の立場から客観的な報道を心がけてきているように宣言していたはずだ。しかし、震災後は特に県民や国民目線に立って紙面を作るよりも、為政者に沿って、為政者の目線から、為政者的見地からの発言や提案などを積極的に行ってきているように感じられる。それは権力側にすり寄っていこうとしているのか、あるいは指導的立場に固執するせいなのか、この県の知の集約集団たることを誇りたいのかは分からないが、それだけに明らかに住民、県民の生活(観念上のことも含めた)からは一歩も二歩も後退したところで論調を張っているような気がしてならない。「消費税増税に反対するなら、それに代わる財源を提示しろ」とは、明らかに「増税ありき」の発想から出てくることばであり、もちろん読んで理解できるように「社説」の執筆者にとってもはや増税は推進されるものとして理解されているのだ。
 震災に疲弊したこの県の住民ひとりひとりの物心両面での困苦の現状を考えたら、決して出てくるはずのないことばである。少なくとも記事を記載するに当たって、県民の顔が思い浮かぶことはなかったであろう。だが、国民や県民は、今日の生活が精一杯であり、明日の社会保障の充実などを待っていられないほど心的には苦しい生活を強いられている。その上また税金を搾り取られる立場からすれば、国も報道も、ただただ頭上を覆う雲のように抑圧するものとして感じられてくる。つまり、「これらのものは無い方がましだ」、というように。
 
 
増税法案成立 2012/06/27
 今日(6月26日)、消費税増税法案が衆議院を通過した。これでいよいよ消費税アップが現実のものとなる。
 この法案に民主党からも57人の反対票を投じた造反者がでた。主として小沢グループと呼ばれる若手議員が多く、それは小沢一郎の政治理念に魅力を感じ、支持して集まったものたちと見える。
 裁決後、法案に反対の立場の代表として小沢一郎が、そして推進した側の代表として野田総理が、それぞれに記者会見を行い心境を述べていた。先に小沢が、後に野田がそれぞれ別会場で会見に臨んでいたが、全く対照的な二人だった。
 身も蓋もない言い方になるが、小沢一郎のしゃべりは鈍くさくて、もう少しどうにかならないものかと感じた。木訥ながら一生懸命しゃべっているという雰囲気は伝わってくるが、表現は極めて拙劣である。見ていて聞いていて、こちらがイライラしてくるような話しぶりの上に、具体的な中身の話に言及しないから本当に自分なりの考えを持っているのかとさえ疑いたくなる。しゃべりが下手なら文章を書き、文章でもって国民に訴えかければよい。とにかく、カメラの前でしゃべることは彼自身にとって、かえってマイナスのイメージを助長するだけのように思える。
 一方、野田首相の場合は弁舌巧みだという印象を持つ。これは、先の菅直人、鳩山由起夫以上であって、これまで見た中のどんな民主党議員よりもうまいしゃべりをする人だと思う。今日の会見でも、財政再建待ったなしだとか、社会保障の財源確保とかの言葉がぽんぽん出て、緊張感や臨場感を醸し出しながら聞くもの見るものを引きつける力のある話し方をしていた。もちろん記者の質問にも、そつなく、無難に、立場やどこまで言及すべきかをわきまえて受け答えして、一見見事な話し方をする人だと思わせた。恥ずかしながら、これまで批判的な見方をしていた僕自身も発言の中頃になると、「もしかすると、この人の発言のほうに多くの理があるのではないか」と思わせられた。それほどに説得力のある話し方ができていたように思う。
 けれどもである、よくよく考えてみれば「財政再建」の問題などは自民党政権時代から急務の問題として言われ続けていたことであり、現在になって浮上した話ではない。当時野党であった民主党はそれを知りながら、この問題を大きな行政改革でもって、つまりは歳出削減から解決を目指そうとしてきたはずなのだ。ラジカルな言い方をすれば小さな政府を目指す方向にあった。野田総理などは急先鋒となって自民党からの増税論議を批判し、攻撃していたはずだ。
 社会保障だって、その実施に当たって、いくつもの中間の組織や煩雑な手順を経なければ実施できないようでは、費用ばかりが膨大に膨らんで非効率になる。今日の日本の行政は、中央も地方も同じくサービスの実施に当たって、かえって組織が肥大化し煩雑になって、そこに多くの税金も投入されてしまっている。ここを是正しないと幾ら税金を徴収しても、国民のために使われるよりも、役人、官僚、またその組織を養ったり太らせることにより多くを使わなければならなくなる。こういう悪循環を立ちきるために、大ナタをふるった改革が必要だったはずなのだ。これを、政権発足当時の民主党政権は「行政仕分け」などのちゃちなパフォーマンスで小ナタの改革で済ましてしまった。その後はマニフェストからの後退劇を突っ走ってしまうことになった。時々のトップの力量の無さなのか、あるいはブレーンやスタッフの認識や経験が浅かったためかどうかは分からない。だが、僕たち国民にとって、政権交代は、一縷の望みを託すものであったことも確かなことではあった。
 
 野田総理はその他の諸々の緊急課題を解決していくはじめの一歩として増税を選択した。変節、剽窃と罵倒されても仕方のないところだ。一体増税反対から賛成に回ったこの間、何があったのか。ひとつは野党から政権党に変わったことである。もう一つは総理大臣の椅子に座ったことである。
 民主党における増税の言い出しっぺは、あの管直人元首相である。これもまた当時は変節として党の内外、そしてまたマスコミや国民からもそっぽを向かれ、参議院選挙で大敗を喫したことは記憶に新しい。野田首相はそれを追認、継承したわけである。
 首相の座ともなれば、全方位に目配り気配りしなければならないのかもしれない。またその座にいると見通しよく、世界的な視野から自国の現状を見晴らすことが出来、対外的な戦略の上からも政策決定の必要を自覚することになるのかもしれない。だが、仮に百歩譲って国民目線からは見えない大局観に立って判断をし増税を促進して課題に備えるとしても、国民生活を切り捨てて国家安泰の体裁を整えたところでそれを是認することは僕には出来ない。守るべきは公としての国家ではなく、私としてのひとりひとりの国民の筈で、しかも富裕層とか指導層のではなく、弱者とか貧困者とかの救済をこそ第一に考えなければならないはずなのだ。
 野田佳彦のスタンスはこれとは違っている。東日本大震災以後の被災者と被災地の現状はどうなっているか。福島原発事故による被爆者と被爆地の現状はどうなっているか。野田は増税法案にかけた「政治生命」を、果たして復興・復旧にもかけてきたと言えるだろうか。会見や国会での発言では、常に「きめ細かく」とか「最大限に努力して」とか綺麗事を並べ立ててきたが、結果については検証しようともしてこなかったし、責任を持とうとする意思表示も見えなかったという気がする。そして、どういうわけか最近の言動からは野田政権の使命が「増税法案の成立」にあるというような空気感を醸し出していた。
 辛辣な見方をすれば、ある識者のように官僚の傀儡政権と見えないこともない。
 何度も言ってきたが、増税によって財政再建を果たし、社会保障の将来に本当に希望を託すことが出来るとはとうてい信じられない。かつて消費税を導入した時、結局のところその税金はどういう使われ方をしたのか。そしてその後の日本社会は繁栄や調和や安定を生み出したといえるのだろうか。金の使い道を牛耳る立場にあった官僚や一部の政治家の無責任により、その行き先は偏り、国民を潤すようには使われなかったのではないか。それは国家ぐるみの自国民に対する「投資詐欺」と言ってよく、今日に至っては貧困層を増大させ、一次産業を瓦解寸前にまで追い込み、就職難、過酷労働をもたらしてきたといっていい。
 そういう構造、システムを内包させたところに、何の改変、改革もなしに川の水のように税金を投入したところですぐに枯渇し、またも増税が取り沙汰されるに過ぎないように思える。民主党や野田政権を信じろといっても、そう簡単に信じられるわけがない。ぼくらは特に下層に漂着して長い期間を経てきた。これ以上の収入減、支出増は「まったなし」でぼくたちをどん底に突き落とす。もちろん今どん底を味わっている人々もいるわけだ。これは芥川の作品「蜘蛛の糸」の地獄池で浮き沈みを繰り返す姿に重なって感じられる。だが、現実のこの世界では「蜘蛛の糸」を垂らす仏の存在はない。そしてもちろん野田首相にそれを期待するわけではさらさらないが、この現実を直視すべきだとだけは言っておきたい。さらに、政治家の使命としてこれ以外に優先すべき事項など、今日においてはあり得ない筈だということも。東日本大震災で心身ともに疲弊した東北の民を中心として、増税はさらなる暗雲となって明日に立ちはだかる思いがする。
 
 
増税は国家規模の「投資詐欺」ではないか   2012/05/31
 野田政権が、財政再建や社会保障対策の名の下に消費税増税法案を成立させようと進めている。
 結論からいえばぼくはこれに反対だ。理由は簡単で、これまで税金、年金、その他各種保険等で国民が払ったお金を国や政府への投資だという観点でとらえ直してみると、明らかに、国をはじめとする行政等の関係機関は「投資詐欺」を行って来たに等しいと思えてしまうからだ。
 集めた金の使い方や運用の仕方の失敗。また官営や半官半民の形で行った経営や事業の失敗等は歴然である。これらの失敗を国民に転嫁し、負担を要求するのが今日の増税論議であると見る。これらを「投資詐欺」と言わずに何と言えようか。国民は、「生活がよりよくなる」という謳い文句に従い、場合によってはなけなしの小金をかき集めて納めてきたお金を無駄に使われ続けているのである。
 
 社会というものに関心を向けるようになって数十年。振り返って考えると、国民の金を非効率に使い尽くし、総じて社会の貧困化を招きながら自らを肥大化させてきたものは、天下り団体などの組織を拡大化させてきた官僚機構ではなかったかとぼくは思う。政府・与党の要職を占める各議員等は、単に広告塔の役割を担う政治家に過ぎないように見える。何にせよ、官僚機構や組織の肥大化を結果としてもたらしてきているからだ。逆にいえば並みの政治家などは、官僚たちが築き上げてきた巨大権益、巨大利権に群がるハエくらいの存在に見えてしまう。
 「投資詐欺」の主犯などは、破綻が明確になると海外に逃亡するのがおきまりだが、この国家的な「投資詐欺」においては、主犯である役人連中は国内の天下り先にでも流れていけばそれで済む。しかも顧問的な扱いだから仕事は簡単な上に、官僚時代よりも短期間に多額の報酬を得たりする。
 これを立法も司法も指をくわえて見送っている。国民が義務的に強いられて投資した金の損失を、誰も補償してくれはしない。
 
 消費税が導入される頃、ぼくは公平性等において他の徴税に比べて肯定できるという考えを持った。そして、最終的には15%くらいのところまでは上昇やむを得ずという判断を当時からしてきた。けれども、東日本大震災後であり、しかも福島原発事故後1年のこの時期にあたって、なぜこのように早急に増税が叫ばれるようになったのかについてはいろいろな疑惑が浮かんだ。そして、論議が国の財政再建と社会保障へと集約されるにつれて、これもまた「消費税増税でこんなことが可能となり、明日の展望がひらける」という、甘い誘惑で国民を誑かそうとする一連の「投資詐欺」の手口だと考えないわけにはいかなくなった。しかも、野田首相が「政治生命をかける」などと大仰なパフォーマンスを加速させるほど、それは詐欺師の手法そのままだろうと感じた。野田首相はこれで本当に財政再建や社会保障が可能になると信じているのだろうか。増税が可能になったらこんなよいことがありますよというが、うまくいかなかった場合に「逃げ」たりせず、きちんとした責任のとり方が出来るのか。残念ながら、ぼくには原発事故の際の菅直人のように、無様で延命だけに執着しながら、自分の対応が最善だったと言う馬鹿と同じ穴の狢と見えて仕方がない。もしかすると頭のてっぺんからつま先まで、財務官僚に洗脳されて片棒を担ぐ手先の一人に過ぎないのかもしれない。そして今回の増税論議の行き着く先も、最終的には官僚を益するだけに終わってしまわないことを誰が保証できるだろうか。
 
 後先が逆で、ぼくならばこれまでの官僚の不正や腐敗や失敗にしっかりと責任を取らせないかぎりは増税したってムダだと考える。現状のままでは何をしたって結局そいつらが食い散らかすに決まっているからだ。ほとんど事務屋程度の人材を残し、各省庁とも大幅整理、削減すればするだけいいので、当然小さな政府に向かってまっしぐらに進むべきだと思う。そうすると、そこで賄いに使われていた分が不要になる。要するに余分な経費を出来るだけ削減することによって、そこではじめて本当に必要な政策に集中して予算を配分できる。うまくいくかどうかは何度かやってみないと分からないが、その上でやはり不足だと計算できたところではじめて増税の論議が納得できるものとなる。ぼくはそう思う。
 こういう、官僚発想の「投資詐欺」まがいの論議に騙され続けてきた国民目線から見れば、いかにも野田首相などは手先として使い易い、まじめな「田舎もの風」然として、その愚直なまでの姿勢は国民を誑かす。そういって悪ければ、つい信用してみようかという気を誘い出す。だが、あの自民党が何年もかかって為しえなかった財政再建や社会保障の問題である。まだまだおむつが必要な民主党の政権運営で、字義通りに事がスムーズに進むとはどうしても考えられない。
 野田政権が税と社会保障の一体改革と言いながら、その全体像がまだ明らかになっていないうちに増税が決まっていちばん喜ぶのは財務省などの省庁であり、たっぷりと財源が集まったら事業仕分けなどは後回しであちこちに予算をばらまけば済んでしまう。つまり改革しなくても従来通りに業務を遂行していけばいいだけのことだから、またそのことによって当然これまで通りの「おいしい」思いを享受し続けられるのだから、関係者にとってはめでたし、めでたしだろう。
 目に見えるのは、重くなった税負担で生活にあえぎ、疲弊する国民の姿である。少なくともぼくらの周辺にいて言葉を交わしたりする1人1人の国民は貯蓄などとは縁がなく、その月その月のぎりぎりの給与で何とか食いつないでいる人たちがほとんどだ。それが、直接の責任があるわけでもない財政赤字などを受けて、財政再建と社会保障のためにさらなる課税に耐えなければならないのはどう考えても理不尽ではないか。どうしてもというなら、官公庁の不動産物件をはじめ金に換えられるものを全て売り払って、それもまた財政再建や社会保障費として活用せよといいたい。役人なんか、今後一切余計な仕事なんかしなくていい。震災後や原発事故後を見ても、本当に役に立つ仕事は一握りで、後は組織や機構維持に金も力も吸い取られている。
 国家存亡の危機が、もしも官僚存亡の危機と同義であれば、喜んで危機に突入して憚らないとぼくは考える。何となればそれは必ずしも国民存亡の危機と同義とは言えないからだ。国家イコール政府や官僚は、主権者としての国民のために存在している。けして国家は国家機構や官僚機構のための自己撞着的な存在意義を有しているわけではない。
 
 被災地周辺では、マイナス循環がいつ果てるともなく続いている。非正規雇用の低賃金と重労働から、求職者もそういう仕事に就くことを敬遠する。「貧乏なくせに仕事を選ぶな」とは、優位にあるものの冷酷な心情以外の何ものでもない。それに近い条件のところで働くものにとっては、失業者、求職者の心情がよく分かる。被災した中小の企業や商店では設備や施設の補修などにも費用がかかり、被雇用者への待遇改善までは手が回らない。すると今度は面接に人が集まらないということになる。雇用の側も雇用される側も、一種の悪循環の中にあって収入も売り上げもなかなか好転の兆しが見えない状況だ。そしてこの先1年や2年でこうした状況が一変して、それぞれの業績や生活が良くなっていくだろうとは誰も予測することができない。こんな状況で増税の話を切り出されても、もう血を搾り取られるだけだという諦めと反感を剥き出しにするほかすべがない。野田首相は「不退転の覚悟」、「まったなし」だのなんだのと意気込みを綺麗事でいい連ねてみせるが、所詮は官僚と大企業の小間使いに過ぎず任が終われば放り出されて、後には国家の実体的な機構・組織としての官僚組織・機構が無傷に生き残り、具体的な人格というのではなくイメージとしての官僚がほくそ笑んで終わるだけだ。そんなものを無傷に残して、あげくに主権者としての国民の生活をずたずたに切り刻んでしまってどうする。人間のいない国家、生活者が生きない国家が大事とは倒錯した思考という以外ない。また、少数であるかもしれない貧しいもの、弱いものを切り捨てて、豊かなもの、優位なものの延命に資するような真似をして、本当にそんなことでいいか。野田たちはそれでいいのかもしれないが、ぼくらの生活はそれこそ「まったなし」の崖っぷちにある。派遣や契約社員、パート、アルバイト、日雇い等々には大企業のような組合組織は無縁だ。銀行や町が無担保で個人生活者に融資をしてくれるわけでもない。自分の力一本だけを頼りに厳しい現実に相渉っていく以外にないのだ。「不退転の覚悟」はぼくたちの強いられた日々の現実である。
 
 こういう社会の理不尽や組織的な利権の綱引きの狭間で、ぼくらに出来ることはせいぜいが考えることである。真実に向かって思考することである。ぼくらは同じ形態で対抗することを拒んできた。何となれば、そうなると必ず利権の引っ張り合いに吸収され、少なからず虚偽の泥沼に足を踏みいれることを必然とするからだ。それを拒否するには下降して、「家族」あるいは「個人」を最終単位として選択し、これ以上は引いたり譲歩したり出来ない状況の中で思考するほかない。これは精神のバトンリレーと言ってもよいひとつの永久運動であり、不連続の連続といってよい。未来の生活者にとって真実がより身近になるように、また現在にあっては思考のゲリラとして、真実が遮蔽された状況に対しいつまでも異をとなえるものだ。少なくともぼくらはそういう覚悟でいる。そう簡単に、いつまでも言いなりになったり、「投資詐欺」的な手法に誑かされてたまるか、と思う。
 
科学的真理について     2012/04/26
 科学的真理とか真実は、私たちの意識や思考に対してある拘束力を発揮する。真理や真実それ自体も当然そうした機能を持ち合わせてはいるが、そこに「科学的」が付け加えられると力は絶大になる。
 学者や研究者や知識人の言葉、マスコミが発信する言葉、俗に言う「お上」の言葉、等々が私たち一般の大衆、生活者の頭上に下りてくるときは、このような機能と作用とを含んで下りてくることが多い。
 この「拘束力」として発揮される力は、ある意味絶大で絶対的なこともあるが、いったいなぜ、どんな理由でそういう力を持つことになるのだろうか。ここ最近、こんな疑問を強く感じるようになった。現代の合理的な社会は科学的真理ばやりで、だれもがそのような装いで話し、論争においてはどちらに真実があるかを競争するようになっている。しかし、科学的な真理といえども、もともとは全てが絶対といいきれるものではなく、またより真理に近いか遠いかの差があるだけのことが多く、なぜこれが社会において権力や権威に結びつくと支配的な力を発揮するようになるかはよく分からないところである。
 真理や真実の競争をしたところで、はっきり証明される場合もあればそうでない場合もある。だから本当は、仮象が真理と強制力とを持つというように、二重に仮象されて現れると言っても言いすぎではないという気がする。そしてなぜ私たちがこんなにも真理とか真実とかの言辞に吸い寄せられたり、それを「信じる」「信じない」が大きな意味をもってしまうことになるかついて、人間の歴史全体の中ではっきりと把握できていないことも確かなことだと思える。
 二つのことがある。ひとつは私たちの観念や意識に対して真理とか真実とかというものが持っている影響力、そしてそれが強度であるときの拘束力についてである。これはたぶん、哲学的な命題として先人達によって考えられてきている問題であろう。これについては彼らの著作を読んで理解すればよいだけのことで、また別のところで考えてみたい。
 もう一つは「科学的」「論理的」といったスタイルで語られることについてである。このスタイルであたかも真実や真理が約束されているような言説に出会うと、私たちの思考、判断は停止したり、その力を奪われる。その大きな理由は反論が難しい、あるいは不可能に近い、というところにある。目の前に出された結果を私たちが見ることができるとしても、その結果が出る過程の一切は一般生活者にとって不可視の領域にある。単純に言えば、皿に載った料理を出されて、「どうです。毒は入っていないでしょう?」と言われているようなものだ。分かりっこないに決まっている。また、はじめから私たちは受身的で、反証できる機会を持たされていない。そこには一方的な告知があるだけである。
 たとえばわかりやすい例を言うとタバコ問題などがある。タバコは健康を害する。タバコは肺がんを誘発する。喫煙による肺がんの確率は非喫煙者に比べ1・6(?)倍になる、などなど。このタバコ問題では、科学的なデータと称して肺の内部の映像や臨床医の調査等が示され、これでもかというくらいに行政をはじめマスコミなどからも喧伝された。ある意味実証的に、データなどからも証明されされたことにより説得力は強く、非喫煙者が激増し、逆に喫煙者は激減した。家庭内、職場内で禁煙を勧められ、また喫煙場所の撤廃などでまさしく追い払われるように喫煙者は散り散りになった。
 さてここで問題だが、このことは真理や正義、もう一つ付け加えて科学的真理や正義の「勝利」と呼んでさしつかえないことなのだろうか。なるほど、社会的な正義や真理の達成、そのように見えなくはない。それだけならばめでたしめでたしだ。しかしここにも、ひとつの疑問がある。はたして、そこで提出された「科学的」と考えられるさまざまなデータ収集と「論理的」な解析は、その種類や量や質において満足すべきものなのだろうか。また、扱われたデータの選択が恣意的ではなかったことを何が証明するのであろうか。それらのデータの結果だけからはたして「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」と断言していいのだろうか。またはその断言を信じていいのだろうか。あるいはまた行政的に喫煙禁止を命じることは妥当なのだろうか。
 戦前の「ぜいたくは敵だ」の道徳的スタイルに変わって、「科学」的様式が「タバコは敵だ」と主張したために、個人的な嗜好が社会から袋叩きに遭うという極めて日本的な現象が罷り通ってしまう。
 社会において個人は社会的によい行いをしなければならない、そう考える人々は率先して禁煙をした。喫煙は健康を害する。健康を害するものは悪である。特にまた、社会的地位というものにおいて上を目指そうとする人々においては非喫煙志向は顕著だった。WHO(世界保健機構)の勧告。それを信じ、広めようとした人々。さまざまな経過をたどり、今日のように、県の条例として公共の中での禁煙を義務づける自治体まで現れた。
 詳細にわたってデータを吟味したものはいるか。その科学的、論理的解析の手段や手法が適切なものであることを保証するものはいったい何か。それは、「正しいに違いない」「信じられるにちがいない」、そんな思い込みに支配されていないと言い切れるのだろうか。また、そこには学者、研究者への全幅の信頼がなければならない。だが、自分の経験、体験などから考えてみても、到底彼らが全幅の信頼を寄せられる人たちとは思えない。それは、彼らが実験と結果を偽証するといいたいのではない。専門外については、結局のところは主観的な個人の意見になってしまうということなのだ。もちろんその意見に賛否は可能だ。ただ、その意見が科学的真理に基づいていると無意識に偽装されていた場合には、私見を公にすること、それ自体が逸脱行為であり、越権と言うべきである。そういうことについて、あまり考えをいたさない専門者が多すぎる。データの集積の結果「肺がんの原因はタバコ」と言えたとしても、ここから「タバコを吸うと肺がんになる」と言う発言までには明らかに誇張や飛び越しが混じる。データとしては、タバコを吸う人が3000人とすると5人が肺がんになる確率を示すものがある。パーセントで言えば1%以下である。この確率ではどんなに甘く見積もっても「タバコを吸うと肺がんになる」というべきではないことが分かるだろう。
 確かにタバコを吸うと呼吸器系の臓器を傷めやすいと思える。そのため、禁煙ありきを主張したい人々は、種々のデータの中から都合のよいデータをパッチワークのようにつないで、「タバコを吸うと・・・」の主張をこしらえてしまっても、それは通りやすい状況にあると言えるのだろう。だからといって、強引に喫煙を封じることは中世ヨーロッパの「魔女狩り」に等しい。
 一般の生活人である私はもちろん、そのデータを詳細に見たり検討したりしたこともなければ、そうしてみようという気さえ起こさない。医者や学者もそう言っているのだからそうなんだろう。それくらいにしか考えない。少しばかり性格的に懐疑的なので、「ホントにそうか」くらいの疑問は持つ。だが自分で真実を見極めようとまでは考えない。
 データなどの数値を取りそろえることによって、ある場合にはその数値を解説する言辞によって、論理的且つ科学的な真理、真実らしきものは私たちの前に提出される。だがこれがねつ造されていたり、はじめから提出する側に有利なデータが選択されていたり、あるいは任意に解釈がなされていたりしたらどうであるのか。私たち一般生活者の中では真偽を見分ける力もなく、容易に信じ、洗脳状態に陥ってしまうこともあるだろう。
 
 私が懸念していることは、真理や真実のもつある種の「影響力」「拘束力」が効力を発揮するあまり、もしもこれを戦略的に行使されたらどうなのかということだ。つまり、隠蔽や虚偽を内在させながら、科学的真理のように提出されたら私たちはこれに抗することができるだろうか。
 現にこの一年、東日本大震災そして福島原発事故後の政府の発表、マスコミの報道、原子力保安院や安全委員会の報告、御用学者や医師、専門家等による解説などで、さまざまな虚偽や隠蔽があたかも科学的、論理的また人道的に、「正しい」ことのように私たちの前に示されてきた。私はそう思っている。
 瓦礫処理問題では、量的に20%足らずに過ぎない広域処理の遅れが連日のように大きく新聞、テレビに取り上げられてきたが、現地処理の遅れをカモフラージュするかのようだった。どうして話題が現地処理の方法や処理施設の設置問題に振り向けられないのか、真相は全くもって分からない。なぜ報道は全社「一色」になってしまうのかも、疑問として恐ろしい。朝日も読売もさらにはNHKさえもがみな同じ報道姿勢だった。
 社会全体が生活者の思考する力を、ある特定の方向へと「拘束」するように働きかけてくる。うかうかしていると思考力は停滞し、社会が醸し出す空気、雰囲気にすっかり浸かりきってしまうことになる。そしてそれが真実であり、正しい選択であり、判断であると信じて疑わなくなる。
 問題はまた、私たちのこうした指摘が一切効力を持たないという点だ。一個人の疑問は一瞬でも社会を振り返らせることもできない。政府もマスコミも原発関連の関係者も、何一つ態度を変えることなく現在に至っている。私たち生活者には科学を仮構する力さえないので、私たちの言葉は「拘束力」の欠片さえ持たないのだ。
 権威、権力がこうした科学的な真理の「拘束力」と結びつくとき、ある場合一方的な押しつけ、強制力となって私たちを無力にさせる。私たちは抗うこともできなければ、内在的な真実を口にしたときに周囲の人々を借りたバッシングを受けたり、昔風の「村八分」や「魔女狩り」といった事態も決して過去のこととばかりは言えなくなったりする。
 いったいこういう世の中は、「正しい」と言えるのだろうか。
 ある放射線の専門家が、一年に二十ミリシーベルトの放射線を浴びても問題がないとか、百ミリでも大丈夫とか言っていた。この「大丈夫」はしかし、私見に属していて、決して実証研究の結果からそのままを述べたものではない。これに疑問を呈した人に向かって、専門的なことは話しても理解が難しいでしょうといった口調でさらりとかわしていて、聞くものにはざっくりと「大丈夫だ」の印象しか残らないことになった。もちろん一方的に、科学的真理であるかのような錯覚を強いるものであり、「これは私の恣意的で根拠のない思い込みに過ぎないのですが」などと専門家の誠意をみせることもしない。本当の誠意というのは、「私自身の考えとしては健康に影響する数値とは思いませんが、法律においては幾らということで規制されていますからそれを基準に対処を考えるのがよいと思います」ぐらいのことを言うべきだろうと思う。そうでないと、東電から研究費をもらっているとか、政府の意向を汲んで見返りを期待していると勘ぐられても仕方がない。
 仮想科学的真理がこのように行使され、そのために生活者の真理や真実、正しいことへのイメージが貧困化していくことを、私は現代における最大といっていい問題だと考えている。それは科学的真理として振る舞うばかりではなく、一種の科学的な予言としての振舞いもみせる。さらに言ってみれば、受け手側に対して支配的であり、暴力的であり、強権的なものとしても現れるものである。
 
 「科学的真理」と「権力」「権威」とが結びつくとき、いや、権力や権威が自在に「科学的真理」を操るようになってしまったら、これはもっとも大きな脅威になる。そのために学問の自由、自立はあり、科学もまた「権力」や「権威」から独立していなければならない。だが、現実には「科学」が「権力」や「権威」に従属している場合が少なくない。私たちはこういう世紀に生きて生活している。だが、ここで、人間とはかくあるべきではないと倫理、道徳にのっとって主張すれば、それは前世紀の主張になる。また、人間は私利私欲に生きる生き物だと断定することもまた同様だと思える。
 ここでひとつだけ光明を探せば、一握りの「権威」や「権力」から自由な「科学的真理」の探求者の存在である。今日では絶滅危惧種のように希少で貴重なのだが、現在でも徒党を組まないがゆえにあちこちに点在し、出没し、あたかもゲリラ戦のように圧倒的に不利な情況の中で活路を見出そうと戦っている。たぶん、その明かりの点滅は人類史の終わりまで絶えることはないに違いない。私はそう思っている。
 
後出し記事に潜む嘘と卑劣(河北新報)                 2012/04/21
 今日、2012年4月21日。河北新報は連載で一面に掲載している原発事故の検証記事の中で、以下のような内容を書き起こしている。以下はその要約のつもりである。
 
 昨年3月末の国による甲状腺被爆の簡易調査は、福島県に住む一部の児童、子どもたちを対象として実施された。しかし、使われた測定器にはヨウ素の量を特定する機能はなかった。原子力安全委員会が甲状腺モニターを使った追跡調査を提案したが、これも機器が重いとか地域住民に不安を与えるとかの理由で実行されなかった。
 福島県は昨年10月、ようやく18才以下の全県民を対象に甲状腺検査を始めた。これまで異常のある人はいなかったという。
 ヨウ素の寿命は短く、放射線量が最も高かった事故当時にどの程度のヨウ素を体内に取り込んだかは今となっては推測するしかない。
 こうした国や県の対応に、津島地区で避難中に被ばくした人たちの怒りは収まらないという。「国や県はわざと検査を遅らせたとしか思えない」とは、浪江町の役場職員の声だ。
 
 弘前大被ばく医療総合研究所の床次教授は、昨年4月中旬に津島地区の住民のヨウ素による被ばく量を測定した。測定器の重さは2キロに過ぎないものだった。それによると、仮定の試算だが甲状腺に与えた放射能の影響は成人で最大87ミリシーベルト、一歳児に単純換算すると700ミリシーベルトを越えるという。教授の調査は5日間だけだった。福島県から調査を辞めるよう求められたためのようだ。
 線量がピークだった昨年3月中旬のヨウ素の濃度を知るデータは、ほとんど残っていない。
 
 国や県が、どんなにおざなりな調査を行い、また必要な調査を封じることに懸命であったかがよく分かる記事だ。もちろんだれがどう弁明しようとも、「わざと検査を遅らせたりした」事実は明白なことだと思う。地域住民に不安を与えるから調査をためらったというが、担当者はそのことで糾弾されたら潔く職を辞すればよいだけのことだ。事態や物事を曖昧にすれば、被ばくした子どもにも住民にも健康被害が飛躍的に増すことは考えなくても分かる。それをしないのは被害者の切り捨て以外の何ものでもない。職は辞しても本人がその気になれば別天地でなんとでもできる。だが、被ばくで傷つけば、そういった比ではない。それを考えたときに、どうして被害者を見捨てて保身を先行させるのか、その神経がよく分からない。自分たちはたとえ職を失うとしても、それを補ってあまりある健康を少しも損なった身ではないではないか。
 調査すれば、このようにいい加減で住民のことを考えない事故対応は幾らでもあげられるだろう。実際、一部の報道やインターネット上の記事や研究者、ジャーナリストたちの発言などからそのことは知られる。彼らがそうした現状に心の底から激怒していたことは、その記事や発言などから直に伝わってきていた。そのことでまた、日本政府や自治体首脳などの隠蔽体質、そして自己の利害を第一とする体質が露呈した。一個の人間として、彼らには何かが欠落していると考えないではいられなかった。
 
 だが、ここでは、河北新報と一緒になって国や県や町などの対応を批判するとか、文句を付けるとかしたいわけではない。もう何度も批判的なことは述べたたつもりだし、河北の記事以上にこれらのことでは怒り、呆れ、世も末だと落胆せずにはいられなかった。がっかりし、この国は全部がダメになったと腹の底から感じ、虚脱する思いでさえあった。冗談交じりにいえば、この先、こんな国家や社会に幻滅を感じながら、どう生きるべきかと苦渋の思案も人知れずしたのである。それについてはまた別のところで書いてみたいが、ここで瞬間湯沸かし器みたいにカッと頭に来たことは、まったくそんなことではない。結論を先にいえば、「河北新報」による社会正義の体面を画策した記事の裏に潜む、陰険で卑劣な意図が透けて見えたところから、いい知れない怒りを感じたのである。そのことをはっきりとさせておきたかった。
 
 さて、この記事の大きなタイトルは「神話の果てに」とあり、その下に「東北から問う原子力」とある。さらに「第2部『迷走』」とあって、「B怠慢」の文字も見える。そして今日の記事のタイトルとして、大見出しで「ヨウ素被ばくを看過」とある。国や県のごまかしの対応や、意図された対策を指弾する体裁をこしらえあげているのだ。
 だが、今日のこの日の記事を読めば、「ヨウ素被ばくを看過」したのは国や福島県ばかりではないことがすぐに理解できる。
 口にするのも躊躇されるが、記事に書かれた内容は昨年の3月から4月、いちばん遅くても10月にあった出来事で、報道関係者や新聞記者であったらすぐにでも耳に入った情報だったに違いない。実際に、国の簡易調査やヨウ素の寿命や甲状腺に蓄積するという情報は早くから公表されていたことだ。記事にでている弘前大床次真司教授の調査とその試算、また調査が中断した理由も、関連の担当記者たちにとっては4月に分かっていたことだと思う。仮に調査ががひっそり行われていたとしても、震災報道で何とか賞という賞を貰った河北新報のことである、記者がコツコツ取材して事実を突き止めていたに違いない。要するに河北はこんな程度の事実は当時から分かっていて、それでいて今日まで何の指弾も糾弾も行ってこなかったということなのだ。それを一年も過ぎてから、社会正義の遂行でもあるかのように、「被ばくしたかもしれない」人々を代弁するような形で、河北は国や県の対応を非難しはじめた。この時期まで引き延ばしたのはなぜなのか。知識を持つものとして、最低といえる卑劣な行いだと思う。なぜなら、今となってはどんなに批判的であっても被ばく者にとっては「手遅れ」感が否めないし、国や県にとってもヨウ素の寿命が過ぎるなどで安心領域(責任を回避することが可能になった)の時期に入っているからだ。
 取材で判明していたことを、どうしてその時点で明らかにし、そして国や県の対応を批判し、その時点で必死に変えさせることに努めなかったのか。考えられることは、当時なら関係機関等からの圧力も相当程度に予想されるところであったが、この時期になってしまえば圧力を受けずに伝えられるようになったと考えられたからだと思う。これでは「河北新報はわざと報道することを遅らせたとしか思えない」し、「ヨウ素被ばくを看過したのは河北などの報道」も、国や県に同罪だとしか思えない。それならそれで、愚劣なまま黙っていればよいものを、時期が過ぎて「空気」の流れの変わり目に敏感に反応し、「正義のペン」を振りかざすとは何ということだと思う。もちろん、河北はこの「空気」の流れを変えることに何の力も発揮してはいない。状況に迎合し、空疎な記事を書き連ねてきただけだ。本当のことは他の個人、ジャーナリスト、原子力関係者や学者とかが究明してしまい、彼らによって抑圧の大半ははね返されて力を失ったのである。その時宜に便乗してこんな記事を掲載し、河北は報道の体面を取り繕っているに過ぎない。
 忘れもしないが、少しずつ原発事故関連の情報が開示されていく中で、宮城県内の福島県に近い南部とそして栗原、登米などの北部に放射性物質が多く流れ込んだことが露呈しはじめた時があった。だが、宮城県知事の村井は姑息にも貝のように口を閉じて後に糾弾されることがないよう、綿密な計算の元にだんまり戦術を貫き通した。そのことには、実は内心驚嘆した。さすが自衛隊出身者だけあって、情報の秘匿に巧みであるとともに、沈黙の効果や有効性に長けていると感じた。もちろんそれだけに、一般大衆としての「県民」のことなど金輪際念頭にない許し難い為政者の一人だと感じた。もっとも、津波の被害が三県の中で最も多い宮城だけあって、手が回らないとか考える余裕を持てないとかの事情はあったかもしれない。だが、少なくとも事実やデータの収集だけは積極的であるべきだったし、それを公開、公表することにも積極的であるべきだったと思う。今も県内の被ばくの全体像やそのための被ばく調査などは、あまり表沙汰にならない形で、しかも何やら半透明の幕の内側で進んでいるような印象があることは否めない。一貫して、この問題には消極的で目立った言動を封印しているというのが村井の姿勢であり、それは賢い選択であると同時にもっとも卑劣な姿勢であることは間違いない。
 河北新報は、この村井の姿勢に同調してかどうか、あるいは知事としての村井に遠慮してなのか、あるいはまた元々両者は「つるんだ」関係にあるからなのかどうか、全く村井と同様の戦術を使って県内の線量調査や被ばく調査の遅れをずっと黙認し続けた。本当なら南部や北部の線量の高さに驚き、独自に線量調査をしたり、事態を深く掘り下げる取材をもっと本格的に実施してもよかった筈だ。不覚ながら、読者の一人として公共的な報道機関の誠意を河北に期待するときもあった。だが、沈黙と看過と怠慢が河北の取ったスタンスであった。河北は二重の意味で愚劣であると思う。ひとつは時の行政と歩調を合わせるかのようにして、行政の対応に無批判であったこと。もうひとつは、危ないデータや取材情報はお蔵入りさせて、住民の知る権利に端から応える意志を持とうとしなかったことだ。こんなインチキ新聞社が東北第一とは笑わせる。読者や住民を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいし、「フザケンナ」とも言いたい。怠慢なのは、河北、お前もだよ。
 万が一にも、十数年たって被ばくの被害が顕著に出てきはじめたとき、村井も河北も知らぬ顔を決め込むに違いないのだが、あまりにも無責任ではないか。その上害にも薬にもならないこの時期とこの記事内容で、おそらくこの記事を社会派としてのアリバイ証明として使おうとする意図は明白だ。何という卑劣な計算だろうと思う。時折討論会などを企画して紙面に顔を出す社主の、その臆面のない顔付きが思い浮かぶ。これが一時は吉本隆明を寄稿者として選出した同じ新聞社とは思えない。戦後思想界の巨人といわれた吉本を起用した当時の気概や誇りは、いったいどこへ行ったのだろうか。これが豹変であるならば、あまりの豹変さに空いた口がふさがらない。河北新報よ、いったいどこへ行こうとしているのか。お前は、名もないごく普通の県民の思いや願いに乖離してしまい、世論操作や世論形成にあまりに過剰に踏み込んでしまったように見える。だれがそう言わなくても、そして名もない虫けらに近い存在に過ぎないとしても、ぼくだけは見たまま感じたままをここに刻印しておきたい。
 そう思って、批判にすら価しないと感じながらもあえて批判の文章を書いた次第だ。本当はもう少し丁寧に記述して論を展開すべきだったと思うが力及ばない。覚書、メモ程度の文章になったが、趣旨をくみ取って読んでいただけたら書き記した甲斐もある。
 
亡き吉本隆明さんへの好悪の立場                   2012/04/12
 ジャーナリストの冷泉彰彦が、インターネットのブログで吉本隆明さんへの追悼文を掲載していた。3月16日の日付だったからずいぶんと早い対応だった。
 ざっと目に、分かりやすく好意的な書き方がされていて、簡潔に業績をまとめているように思い印象に残った。主なところを抜粋し、以下に引用させてもらう。なお、先の著者の名前で検索すればすぐにヒットするので、関心があればそちらで全文を読んでいただきたい。
 
吉本さんの思想は一言で言えば、近代という概念を戦前の日本が獲得に失敗したことを前提に、改めて近代という考え方を紹介しようとした、この一点に尽きると思います。
 
吉本さんの宗教理解というのは、「信じてしまう」という「一線を越えるか越えないかの境界が大事」という話でしたし、文学に関しては「社会主義の普及のためにまず価値観ありき」である「プロレタリア文学」は「美」ということでは劣るんだという明快な主張でした。これも非常にクリアーな考え方で、宗教論の方は近代の側から前近代に潜む本質を再評価しようという試みですし、文学論は近代主義そのものだったように思います。
 
主著と言われる「共同幻想論」は難解だと言われていますが、徒党を組むと徒党から外される人間ができる、そこに様々な問題が発生するという考えは一言で言えば「近代の個人主義」を裏返して言っていただけです。個人主義というと「ブルジョワ的な西欧の概念」だとムード的に反発する若者の多い時代に、「共同性」がダメだから「自立せよ」というメッセージに置き換えていたのです。
 
こうした普遍的な仕事の他に、吉本さんの真骨頂とも言える他の誰にも真似のできない領域が2つあります。1つは人の生き方の核にあるのは核家族という思想、突き詰めればカップルという関係だという思想です。漱石論もそうですし、「共同幻想論」「心的現象論」にも一貫していた思想ですが、今、人々の孤立が問題になっている時代に、改めて読み返す価値があるように思います。
 
 もう1つは、思想的な「転向」への批判です。周囲の状況が変化したり、自分が成熟することで人間は考え方を変えることはあります。ですが、そのように変化した事情を自他に説明できない形で突然に保守派が左翼になったり、国際主義者が排外主義者になったりするのはダメであり、「思想の一貫性」を全うしなくてはならないというのです。一方で、実社会と隔絶したまま思想だけ維持してもダメという批判も含めているところが吉本さんらしいと思います。
(追悼、吉本隆明氏を送る より)
 
 
 「共同幻想論」が「近代個人主義」の裏返しの意味を秘めており、国家や共同性に依拠したり従属せずに「自立」を模索すべきというメッセージに置き換えながら、実は西欧近代の「個の確立」をテーマとしているというジャーナリスト冷泉の見方は、それなりに成る程と思わせられた。この見方を広げれば、日本近代の失敗や挫折を西欧近代の初源に立ち返って、わが国のあるべき道、また個々人の進むべき道を模索したという吉本思想のイメージが形づくられる気がする。これは共産主義国家及びマルクス主義思想に批判を加えながら、マルクスそのものは蘇生させようとさまざまに試みた吉本さんの思想形成の方法、スタイルにも通じている。つまり厳密な意味での近代主義の継承を根幹に持っていたと、考えられるように思う。
 冷泉にとって吉本さんの思想は古びてはいないし、読み返す価値があり、さらに再評価される必要があると考えられている。
 
 昨今、社会的には時代遅れのように遇され、無視されがちな吉本さんの思想をこのように受け止めている人たちがいる一方で、反対の立場に立つ識者もいる。社会学者の宮台真司はそのうちの一人だ。
 宮台はインターネット内のある番組の中で、吉本隆明の訃報に触れ、吉本さんの業績の全体像を概観する中で、70年代末期から吉本の思想や主張のピントがずれはじめていたと切り捨てている。
 宮台ははじめに吉本さんの思想との出会いについて語り、かつて吉本さんが主張した自立思想、その中での「大衆の現像」という概念や党派性の否定に共感した前歴を述べている。しかし、現実には吉本さんの思想は何かを変える力を発揮せず、つまり、宮台はそこで落胆したことを暗にほのめかしている。また、フーコーやボートリヤールといったフランス現代思想家、ポストモダン、構造主義の旗手といわれる人たちとの吉本さんの対談について、全くとんちんかんな受け答えをしていて、吉本は何も分かっちゃいねぇと思ったと言っている。ご丁寧に、吉本は外国語ができなかったためにフーコー達の著作を理解できなかったとまで解説していた。宮台は、吉本はその当時から資本主義擁護のスタンスを取り始めたが資本主義そのものの理解も単純で、資本主義社会が欲望の構造に依存し、また自身で新たな欲望の構造をつくりだすシステムであることに、あまりに無頓着であったと批判している。つまり、時代の思想は、資本主義社会システム内であたかも細胞分裂するように変化し増殖するかのような「欲望」、その「構造」を解析し変えるべきことが緊急の課題となっているのに、その課題とは全く無縁の道をたどったということで現代思想の構図から脱落したとみなしたのだ。
 さらにはまた福島原発事故後に吉本さんが、反原発、脱原発はあり得ないとするコメントを発したことについても、原子核利用の技術的克服発言はあまりにも陳腐で世相の論点を全く読み誤ったものだとボケ老人扱いしていた。
 
 冷泉は再評価の必要を語っても、自分の手でそれを行えないだろうし、する気もないだろう。宮台は悪態をつき遺物扱いしているが、では宮台が資本主義システムのつくりだす欲望の構造を変える力を持つかといえばそんな力はないだろうし、構造主義にかぶれながら現実には構造主義の理念の失敗という実践的結果しか、宮台は演じきることができないだろうと思える。
 両者の言い分にはどちらにも妥当な点と、そうでない部分とがあるのだろうと思える。単純にいえば、吉本さんの業績は過去のものとして、ほとんどの文学者や知識人達には忘れ去られていくだろうし、逆に一部の理解者達は繰り返し著作を読み返し、再評価の試みに挑むだろう。だが、いずれにしても吉本さんの思想は現実の変革に速効で根拠を与えたり、有効性を発揮する思想でないことははっきりしていると思う。そういう思想のあり方、言葉の使い方を吉本さんは安保闘争後に放棄している。別の言い方をすると、現実を変えられなかったのではなく、思想家の言葉で現実を変えられるほど現実が甘いものではないことを認識していたし、今は理念によって動くべき時ではない、自分の出番ではないということを知っていたというだけだ。
 思想にとっての暗黒の季節、氷河の時代は何度でもやってくる。そのたびにまた理想主義の熱い炎は地表のどこかに忽然と表れ、しばし山野を山火事のように燃やして行くもののように思われる。
 
武田邦彦教授のブログから2(大変動論)               2012/04/11
 4月8日付のブログで武田さんは『夫婦論』『家庭論』というべき文章を書いている。題名は『生活の鱗002 日本は家庭、フランスは男女・・・夫婦事情』となっている。その中で、最近こういう記事を時々書いているのは、日本の女性方が「夫婦問題」「家庭問題」などの日常的なことに苦しんでいるからだと、動機を語っている。
 たぶんブログを読んでいる大勢の方からメールやファンレターめいたものが届き、その中には相談事や悩み事なども書かれていたりするのだろう。そして、先の問題に悩んだり苦しんだりしている人が予想以上に多いという事情があったのだろうと想像される。
 さて、結論めいたことを先にいえば、日本人が女性に限らずそういう問題で悩みを持つようになったのは、欧米を模範として真似てきたからだという趣旨のことを武田さんは言っている。それは、遠くは明治以降の日本近代の夜明けにあって西欧近代を模範としたこと。また直近には第二次世界大戦における敗戦後、欧米化の波にどっぷりと浸かるほか無かったわが国の宿命によってもたらされたものだ。これは武田さんの文章をもってそのまま伝えれば、
 
私の感想では、それは「ヨーロッパのやり方を、日本と違うのにあまり議論せずに輸入し、そのシステムの中で苦しんでいる」というように見えます。これは「年金問題」や「原発の爆発」とも類似していまして、日本の「地形、風土、文化」などを考えずに、議論せずに直輸入してくることに問題があると思うからです。
 
というようになる。
 ところで、冒頭で武田さんは昨今の女性の苦しみに関係する、興味ある国際的な調査結果を提示している。
 
2005年に「家庭や夫婦」に関する国際的な調査が行われています。質問は「夫婦生活の中でなにがもっとも大切ですか?」というものです。これに対して、国と第一位、第二位、第三位と並べると次の通りになります。
 
日本    1.誠実、2.収入、  3.子供の健康と成長
フランス  1.誠実、2.性的魅力、3.共通の趣味
 
 日本の殊に若い世代は、現実には調査結果を実態的に生活していると思われるが、ペアーの生活の理想や模範としてはフランス(欧米)型を思考するむきも多いような気がする。実際には現実的な与件に引き戻され、過渡的に、調査結果に表れた形態の中で日本型に留まっていると見えなくはない。そうでなければ、日本型に充足していてそこに苦しむ人が多くなったりはしない気がする。若い人たちほどそういう傾向は強くまた顕著で、ある期間を経れば武田さんの言うように「家庭を一緒に営む連れ合い」という場所に収まりそうだが、これもそれでベストだとは思えない。
 家族、夫婦、恋愛などは、日本文学でもたくさん扱われてきたテーマでこれを得意としてきたと言っても過言ではない。そこから眺めれば家族の崩壊、家庭の解体は過渡的な現象として避けられないと考えられてきた。もっともっと加速するし、都市から農村へと広範囲に広がってきたこともぼくらは見ている。結局個人個人がそういう事態に直面し、考え悩み、個人個人がその考えた結果で対処する以外に方途はない。
 武田さんは、「ヨーロッパのやり方を、日本と違うのにあまり議論せずに輸入し、そのシステムの中で苦しんでいる」と言い、「日本の「地形、風土、文化」などを考えずに、議論せずに直輸入してくることに問題がある」と指摘するが、どう言おうと巻き戻しは効かない。ぼくらとしては結局、日常的に対処の仕方を考える、個々人が具体的に考えることの経験を積み重ねる、その先にしか何も見えてこない問題なのだという気がする。そういう苦労を経なければ、家庭も国も再生しないのは自明で、百年、二百年の単位で考えなければならない問題なのだろうと思う。
 
 これまでのところを単純化すれば、元々は文明開化に遡る。そこで欧米の文明、文化に驚愕し、わが先祖達は追いつけ追い越せで奮闘してきた。欧米を範として真似してきたことも多くあった。戦後はさらに欧米化が加速し、日本全土が欧米化の波にさらわれたといってよい。一時期の、そして最盛期のといっていい国民の9割が中流意識を持つに到っては、生活の隅々にまで欧米化の意識が行き渡ったと考えてもよいだろう。個人主義的な考え方や生活スタイル、持ち物一切が欧米中心のものとなり、日本の伝統、文化はずたずたになった。「日本人の心の核」までとは言わないまでも、外堀は埋められたと言っても過言ではない。そしてそれは欧米の戦略によってとばかりは言えなくて、わが日本国民は喜んでそちらの方向へ舵を切ることを肯定していたはずだ。
 武田さんはしきりに旧い日本人の美徳などを言葉にするが、ぼくらは簡単に共感するわけにはいかない。
 明治以降のこの大きな日本人の心性の核に関わる変動は、おそらく仏教伝来以来のこととぼくには思える。仏教が今日、慣習とか風習とかのような無意識の底流のところにまで骨肉化するには、1500年の時間を要したのである。これも元はインドに発祥し、中国を経由して日本に定着した。その後キリスト教なども伝来されたが、今日の「民主主義」ほどに国民大衆に受け入れられたわけではない。つまり欧米の象徴としての「民主主義」は、新たな仏教に匹敵する信奉の対象としてぼくらの目の前に置かれている、とぼくには印象される。
 そして仏教が、日本的な風土や地形、文化などによって日本仏教とならざるを得なかったように、「民主主義」もまた日本型「民主主義」へと成熟する過程に現在があり、武田さんが言う夫婦問題や家庭の問題もそこから必然的に派生した問題の一部なのだと思える。だから、これもまた日本人の心を形成するものとして公認されるためには数百年から千年の単位で考えなければならない問題ではないかと思う。臓器移植等で起きる抗体反応のような反応が、あちこちで頻発することは避けられないことのような気がする。そして「民主主義」に象徴される「欧米」が日本に定着するかどうか、あるいは日本的な抗体が発生して勢いを強め、「欧米」を追い払うように作用することになるのかどうか、この先は容易に予言できることではない。
 かつて仏教が輸入され、後に日本国内の隅々にまで浸透してゆく過程において、どれほどの国内的な地殻変動を引き起こしたか、またどれほどの民衆がその変動に翻弄されたか、逆に現在の日本に起きている国の根幹を揺るがすような変動の中から類推されるような気がする。
 
武田邦彦教授のブログから  2012/03/29
 武田邦彦中部大教授のブログは毎日のように加筆更新されている。それはこちらには言葉の洪水とか、乱打されたボールが飛び交ってくる勢いに感じられ、ときに消化しきれないまま頭脳に淀んで胃のようにもたれた気になってしまう。そうならないように、これまでも何度か反射的な反発力でもって解析を試みてきてぼくのいくつかの文章は成り立ってきた。
 おそらく、武田さんの文章は頭脳にわき出る言葉を速記のような勢いで表したものだと思う。もちろん考えながら書いているには違いないが、考えること、考えるときに出てくることばの「出」の早さがぼくらのような凡人とは比較にならない早さなのだろう。そこには考えることの習慣や集中の強度の違いもあり、簡単にいえば「慣れ」、かっこつけていえば「修練」の違い、繰り返しの量と質の違いがある。また、やや品のない言い方をすれば、思いついたことをそのまま書いていて、しかもその思いつきが大筋で正統であるというところがすごい。武田さんの文章表現は、詩的でも文学的でもなく、その意味では文体のこだわりや言葉の選択にはあまり囚われる必要はないのだ。
 武田さんの最近のブログに載ったタイトルを以下にちょっと並べてみる。便宜的に番号はこちらで付加しておく。
 
@日本だけ・・・石油は無くなるという錯覚
 
A奇っ怪な結果?? タバコを吸うと肺がんが減る?!
 
B議員定数削減は何をもたらすか?・・・税金を減らすには
 
C正しく認識した方が解決が早くなる・・・なぜ1年1ミリを隠したか?
 
D独占的営業に「公職選挙法」のような即効性のある法律が必要
 
E瓦礫?その根本を問う・・・善良な人が非難されてはいけない
 
F電気自動車の補助金と節電の呼びかけ
 
G考える練習(5) 節水は良いことか?・・・環境を題材に
 
H瓦礫問題を再び整理する・・・明らかにして欲しいこと
 
I福島4号機の問題・・・合意できる科学的発信を
 
J考える練習(4) 節電は良いことか?
 
K南京事件(1)・・・国民同士の信頼関係はどうしたらできるのか?
 
L専門家が立ち上がって欲しい(4) ビジネスマンも「社会的責任」を
 
 ざっと13ばかりのタイトルだが、ぼくのようなブログの読者には、次にどんなタイトルでまたどんな内容の文章が掲載されるか予測がつかないことが理解されると思う。実際に話題は多岐にわたり、石油資源の問題の前にはたばこの問題が論じられているということで、頭の整理という点ではほとほと悩まされる。もちろん武田さんはいくつかのカテゴリーを念頭に、明瞭に書き分けていて、ただその時その日に、何を書くかは出たとこ勝負でランダムな印象を与えるのだと思う。
 武田さんの思考は何本か立てで同時進行に進んで行く。そんな形でなおテーマは繰り返され、少しずつ内容的には深まっていき、さらに問題の核心に迫っていこうとする印象がある。あるいはひとつの同じテーマでも角度を変えて論じる場合もある。ときに冗舌な繰り返しのように感じないでもない時もある。
 こういう書き方を繰り返していって、あるテーマが煮詰まったときにはこのブログの文章を元に一冊の本が刊行されていくことになる。確証はないが、そういう本の作り方、書き方をしているように思える。その過程で推敲や文章の練り直しの作業などが補足的に行われる気がするが、原則的には元の記述が大きく変わることはないと思える。
 
 一応できる範囲で各番号ごとの要約、あるいは概要を示す。
 @は石油の埋蔵量に関する問題提起で、武田さんは当分無くならないよという考えだ。一番の根拠としているのは、アメリカがその問題であまり目立った動きをしていないことだ。もちろん中東にちょっかいを出す原動力は石油への関心という面も大きいには違いないが、第一位の消費国が本当に石油不足に当面したら躊躇なく脱石油へと切り替えるか、
油田発見と採掘の動きを加速させているに違いない。
 ここで武田さんの指摘は、石油が無くなったら一番困る国はどこかに焦点を合わせ、その国のエネルギー対策の動向を見定めることで予測するもので、成る程と納得できる指摘であるように思う。アメリカほどの国である。残念ながら、何ごとにおいてもわが国の数倍、あるいはそれ以上の敏感さで、各分野にアンテナを張り巡らしているのは間違いない。
 Aの問題も面白いのですが短い文章です。厚労省やがんセンターから公表されているデータを使って調べたところ、武田さんのデータ処理の仕方では「タバコを吸った方が肺がんが減る」という結果が出たことを述べている。ただ、あまりに眞逆の結果なのでこれについては保留扱いとなっている。
 吉本隆明さんも、タバコについては考えていたが、難しい問題であるとし、とりあえずは行政などが介入して禁じたりするべきではないことは明言していた。武田邦彦さんもこの問題はよく論じていて、しかもその度に結論めいたことは先送りにしてきた。安易に適当な結論に妥協しない点は、かえって武田さんが周囲の空気とか社会情勢とかに流されずに、本当に真実の科学的な根拠を求めて真剣に考察していることを物語ってもいよう。そういう点はとても評価できるように思う。
 武田さんはやや喘息気味の人らしいが、その点では自衛の人で難を逃れる形で対処し、時節に便乗してタバコ廃止論者でないところもすごい。逆に世の中の、禁煙運動の背景に蠢く利害や、洗脳や、策略等の動きを白日の下にさらそうとする。もちろん、副流煙等に本当に苦しむ人たちへの配慮も忘れていないので、中立的であるところもよい。
 Bの考え方もぼくには分かりやすかった。たとえば次のような箇所がある。
 
議員定数の削減は金額的には無視できるものであり、議員が減って喜ぶのは税金を増やそうとしている官僚であることを考えると、またダマされかかっている。
・・・・・・・・・
税金のムダ使いの筆頭は「官僚が経営の力がないのに、補助金をばらまいて損ばかりしている」ということだ。軍事・福祉や教育という分野はもともと収益を生まないから損ばかりしていても良いが、年金の運用、意味のない温暖化排出権購入、太陽電池補助金、大型工業団地、レジャーランドなどおよそ中央官庁が音頭をとったビジネスで成功したものはほとんどない。
つまり、税金をドブに捨ててきたことを止めなければならない。そうすれば最大で税金(赤字国債を含む。赤字国債は将来の子供たちが税金で払うものだから)は半分になるのは確実だ。
(中略)
減税の第一段階は補助金などの国の「ビジネス」を止めて国債をゼロにすること、第二に軍事、教育などのように国でなくてはできないことだけを国がして、役人の数を2割程度削減することである。
 
 大手新聞を初め、野党の議員などもこぞって「議員定数削減」等の言葉でごまかそうとするが、事の本質に言及する識者などは本当に少ない。同様に「公務員給与削減」などもごまかしのひとつで、国民の怒り、不信などを別な方向に向けさせ、もって難題を後回しにする手のひとつだと言える。武田がいうように金額的には無視できる程度のものであり、本当のムダ使いは官僚、政治家が結託しての国家ビジネスにあることはいうを待たない。それをカモフラージュするために子羊を生け贄にするが、卑劣極まる。それらの手口のどこにも清廉の士の面影がない。腐乱の極みだ。
 公務員給与の削減も、ある意味では頷ける点もあるが、逆に今日的には仕事に対する意欲の低減や喪失をもたらす気がする。彼らが今日の給与で、文化的生活を享受できているとするならば、民間に働く人たちの水準がその上に行くように政策的な努力を第一になすべきなのだ。労働者も貧困でなおかつ地方の公務員もすり減るように疲弊したのでは、国民一般の生活は目も当てられなくなる。ひところ非正規雇用の最低賃金の引き上げなどが話題になったが、結局のところ完全に実現し得たものなどひとつもない。みな尻すぼみで、知らない間に立ち消えになってしまう。
 武田が後段で言っていることは、単純に言い切ってしまえば「国家の縮小」のことだと思う。武田は役人を2割削減せよと言っているが、2割といわず、削減可能な限りは削減した方がよい。「国でなくてはできないこと」以外は、先のビジネスを含めてしない、させないことだ。そうでないとどこまでも国家は膨れ上がり、事業も膨大になり、それを維持する税金の額もまた膨れ上がる一途になる。
一方で、国家ビジネス、国家プロジェクトの到るところに利権の温床、利権構造が出来上がり、甘い汁を狙って巣穴にもぐり込んでいく連中がいる。一般大衆や小役人にそんなことができるわけがないから、どういう奴らかは一目瞭然である。そういった組織や団体の運営や事業の責任者達などに名を連ねる連中は真っ先にそうだと考えていいと思う。そんなもの、すべてとっぱらったほうが「ためになる」というのが、今回の震災の教訓だとぼくは思っている。
 Cはタバコの問題だが、先のタバコ問題を取り上げた文章の前に書かれている。つまり先にあげたタイトルの一覧は、最も新しいものが@になり、最も旧いものがLとなるように並べている。最新のものを取り上げたのだから、それより以前のものはスルーしてよさそうだが、タバコ問題に切り込みながら別の観点からの社会批評にもなっている部分があるので、そこを引用してみる。
 喫煙率と肺がんの発生数を示したグラフを掲示しながら、
 
むしろ、「タバコを吸って肺がんになる可能性は少ないけれど、人に迷惑をかけるから自重したら」というぐらいが誠意ある言い方のように私は思います。ところで、グラフが示すこと={喫煙率が下がると肺がん死が増える}と、「副流煙は喫煙の危険性の40分の1だから、副流煙を吸って肺がん死になろうとしても、1200人に1人になり、ほぼ関係がない」ということについてまたジックリと考えてみたいと思います。
ところで、私が「損」を承知でタバコのことを取り上げたのは、最近、深く考えることがあるからです。それは「事実→解析→意見→感情」と進むのがまともで誠意ある道筋ですが、識者と言われる人の言動をみると「周囲→損得→意見→事実」となっていて、それを一般の人に言うと、一般の人が「周囲→感情→意見」になっているので受け入れやすいという識者の作戦のように見えます。
「私がタバコを吸うかどうか」という「喫煙が是か非か」とはまったく関係のないことが問題になるということは、現在の社会が「損得で発言が変わる」ことを前提にしているように思えます。
特に評論家の方は「現場」と少し離れているので、事実に対する重みが少なく、自分が接している相手が「受け入れやすい」ほうに流れるような気がします。つまり、「タバコを吸っても肺がん死が増えるのは30人に1人か!」と判っても、社会が「タバコを吸うと肺がんになる」と決まっていたら、データを言わないとか、データがウソだということ(自分の損得のためにデータを取捨選択する)の方に舵を切るのです。
これもどはっきりしたデータがあっても、「タバコを吸うと肺がんになる」と言われたのですから、この日本社会では「みんなで言えば」なんでも通るのです。誠意をもってデータを提供しても罵倒されるだけの社会、それはまさに「村八分」、「魔女狩り」の社会のように私には見えます。それとも「庶民はバカだからデータではなく、結論だけを教えればよい」という日本の知事によく見られる現象です。
福島原発で、子供が被曝しても心が痛まなかったり、法律で1年1ミリと決まっていてもそれを口に出さなかったりする原因がわかったような気がします。(誤変換など原文のまま 太字は佐藤)
 
 後半部で顕著なように、要するに日本社会の特殊性に言及している部分である。武田さんが日々の煩雑さに抗しながらもブログを更新し続けているのは、こういう箇所によく象徴されるように思う。つまり、日本という国家・社会の近代化の失敗、戦後の問題として言い換えると共同性としての民主主義社会化の失敗、国民性としては個人主義化の失敗、そういう大きな問題をはらんでいるように思われる。この文章の奥にはそういう問題意識が潜んでいて、そこで武田さんは自立的でない社会、個人として自立できない国民性を見据えているのだという気がする。また特に最後の一文には、『もう法治国家とは言えないや』、『なんだ、相変わらず国民は個人を確立できていないじゃないか』、そんな嘆きが潜んでいる。ここは大きな思想的問題だと思うが、この点で戦後の半世紀はいったい何だったんだと、挫折感や敗北感を感じるものすらいないのである。武田さんは、福島原発事故後に少しずつその部分に接近してきた。あるいは、前からあった問題意識が前面に出てきたということなのかもしれないが、そんな気がする。そして武田さんがどこまでその問題に踏み込んでいくのか、ぼくは今しばらく期待を込めて武田ウォッチングを続けたいと思っている。
 Dは大震災の被災地の瓦礫広域処理問題に関連して論じている。新聞、テレビ等の論調は一方的でどれも「助け合い」精神を基調とし、一部反対する住民を追いつめる形のものが多い。日本の識者、著名人の多くもそうである。これを見るとNHKをはじめとするマスメディアは、戦時中の報道手法と何ら変わらず、経営体の幹部首脳陣の考えを文字によって具現化し、読者に選択の余地無い「刷り込み」を行っているように思える。要するにある方向へと共同の幻想を導き、構築してみせ、あたかもそれが正しい方向だと錯覚させ、それを自分の意見のように個人に植えつけていくのだ。しかも奇妙なことに今回の瓦礫処理のような問題ではどの局も、どの新聞社も同じ方向に向いているのが不気味である。武田さんをはじめ、瓦礫の移動に疑問や不安を持ち、異議申し立てをする人々の声に耳傾け、本当に危なくないのかと問う一般的なテレビ局、新聞社が無いのはなぜだろうかと思う。
10社に1社くらい、断固として弱者、少数者側に立って多数に挑む社があっていい。
 武田さんが広域瓦礫処理に反対する理由の中でぼくが一番納得させられたのは、半減期が長い放射性物質は下手をするといつまでも日本国内で循環し、巡回するというイメージだ。最終的な貯蔵所にしっかり閉じこめ、隔離しておくのでなければ、いつまでも被爆の危険性は地表を去らない。また、繰り返し繰り返し被爆する危険が生じる。だから、拡散するよりは集中的に処理した方が合理的だと武田さんは説明する。
 もう一つ広域処理で疑問なのは、どうして被災地の中に処理能力が高く、容量も大きな処理施設を作らなかったのかということだ。
だいたいの瓦礫は被災地において処理することになっているのだから、何よりもそれを急ぐべきなのに、「急げ」という声は「他地域の受け入れが進まないためだ」という声にすり替えられてしまう。それが多くのメディアにおいて行われているのだから、この国の不気味さは幾重にもフィルターがかけられているように感じられる。
 ただ、結果として広域処理のために全体の処理がスムーズに進み、二次的被害はなかったという事態もあり得ることである。そのあたりはぼくらにはよく分からないところであり、武田さんの文章とともに今後の推移を見守っていくほか無いと思っている。
 Eの文章は短く、引用に留める。もしかしてその後に少しコメントを付け加えるかもしれない。
 
民主党政権が「言動不一致」であることはハッキリしています。多くの国民はすでに政治的には無力感を感じていて、「どうせ、国はいい加減な政治家と官僚がやっている」ということで諦めているようです。
その中でも、極端な「言動不一致」、「ダブルスタンダード」があります。その一つが「国民に節電を呼びかけ、電気自動車に補助金を出す」という不思議な現象です。しかも、戦後の電力制限令などを使って15%の節電を強制したりしたのに一方では電気自動車に補助金を出すという始末です。
もちろん、自動車会社からお金を個人的にもらっているから、国民の税金を使って補助金でお礼する一方、電気会社からも個人的にお金をもらっているので、これまでの経営責任を問わずに国民に節電を呼びかけるという点では「お金をもらえれば良い。払うのは税金。税金が足りなくなったら増税」ということでは首尾一貫しています。
おとなしい国民、取り放題の税金、言いなりになるマスコミ・・・ということで、それを国民が支持しているのですから奇妙なことですが「正当」とも言えるでしょう。「絆」、「人の心を傷つける」という言葉がこのようなダブルスタンダードを生んだのでしょう。
このほかにも昨年の夏に14歳の子供を「放射性物質を取り扱った」という罪で書類送検しながら、その1億倍以上の放射性物質をまき散らした東電、それを取り扱っている自治体を黙認したり、政府が支援したりしているのですから、これもダブルスタンダードの典型です。
 
 武田さんの感覚はまともだし、その主張もまともだと思います。別に批判して得することは何もないと思いますが、批判しないではいられない。そういうところに共感を覚えます。ここはこの通りでしょうということでいいと思います。
 Fも、ちょっと引用からはじめます。
 
 この1年。私がもっとも衝撃を受けたのは、私が人生を送ってきたこの日本、それは「自分の力に応じて一所懸命に生き、それで満足する」という人たちの世界ではなく、「ウソをついても、人を犠牲にしても、自分だけが得することだけで頭がいっぱいの人たち」の中にいることが判ったことです。
その中でももっとも衝撃的だったのが、福島の子供たちの外部被曝限度1年20ミリと、給食のセシウムだけで1年5ミリを大人や教育関係者が受け入れたことでした。
 
 前段は「何を今さら武田君」という気がしないでもないです。元々が坊ちゃま君とはいえ、気づくのが遅すぎる。
 問題なのはぼくが太字に変えた後段で、ここを読んで戦時中の学徒動員をはじめとする戦争参加、戦争協力に突き進んだ教育関係者の姿をダブらせて想像しなかったら嘘だと思う。
 ここから引き出せるのは、多くの教育者が自分の考えや自分の信念で動くことをしないという事実だ。あるいは自分の考えや自分の信念というものを持っていないという衝撃だ。そうはいいながら、個人的には昔からそういう疑いは抱いていた。ぼくは小学校の教員だったけれども、多くの同僚は全体に、周囲の空気に流される脆弱性を持っていた。これは思考の脆弱性といってもいい。では、自分自身はどうだったかといえば、武田さんほどに明確に批判的、否定的であることはできなかったように思う。自分にも弱さがあった。弱さや欠陥はあったけれども、反り身の絶体絶命の中で俵を割るよりも辞職するという「うっちゃり」にも似た「自己」を手放さぬ姿勢は貫けた。これは少しもいいことでもなんでもない。だが一線を越えてはならないという内心の声は、ぼくには守らなければならないものだった。そしてそれを守ろうとしたのは、ぼくがぼくだからだ。ぼくがぼくを守り通さなかったら、この世に「ぼく」は存在し得ない。つまり、「個人」という考え方が存在し得ないと、その時はやや大げさに考えてみたのだった。
 教育関係者、特に現場の校長や教頭に接して、彼らが上からのお達しに極めて弱いことも知っていた。もっと露骨にいうと、この人達には「自分」というものも、教育上の信念などというものも、飾り程度のもの以外何一つ無いと思えた。逆にいうと、この日本という社会の風土は、「個人」を形成するのがとても困難なのだと感じていた。ぼくはただ、自分を実験台として験してみたに過ぎない。そしてそれには意味も価値もないことは自分自身がよく知っていた。
 武田さんが言う教育関係者は、もちろん主として大学の教授連や原子力に関係する場所に身を置く学者連を指しているだろう。そちらの方が損得も影響も大きい。でも、損得に一番だらしなさそうだということもぼくには予測がつく。またそうでなきゃ頑張った甲斐がないと思うことも当たり前のことだ。昔の儒教学者のようにはいかない。
 ひとつ次のことを付け加えておきたい。それは、
 
つまり、いまの日本人は「事実をありのまま受け入れ、意見はその後」というのではなく、「利害が先にあって、事実を自分に有利なように選択する」と言うのが「常識」なのです
 
という武田さんの考えに対してである。これも今さらに始まったことではなく、だいぶ以前からあったことで、過日亡くなった吉本隆明さんがよく他の文化人相手に論争したときに語っていたことに通じる。また、自分を有利にしようとする言動は小学校の子どもなどもよく使う手だ。子どもがそのまま大きくなった。そして指導的地位について偉そうにしてみせているだけなのである。中身はさっぱり変わっていない。子ども時代をよく思い起こしてみれば、ああ、あの同級生の論法と同じだと分かるに違いない。そんなこと、ある程度年取ったものには本当は理解できている。ただ言わないだけだ。なぜかと言えば、小規模ながら自分にも身に覚えがあるからに違いない。だから吉本さんは知識人の問題として論じ、武田さんは教育関係者のこととして語っている。どちらも、知識人や教育者の内心の倫理に訴えかけたかったのだ。
 Gでは引用だけにしておきます。
 
淡水の内訳は、農業・漁業に600億m3、工業用水に150m3、そして民間の水が150m3でおよそ900億m3が有効に使用されています。つまり、淡水の利用率はわずか22%程度ということです。かつて、川は主要な交通手段でしたから「淡水の利用」ということばかりではなく、「流れる水としての用途」がありましたが、今ではむしろ洪水などの原因になっても流れる水として生活に役立つことは少なくなってきました。
このことを「日本の資源」ということで考えてみましょう。「日本には資源がない」と言いますが、それは「石油、石炭、鉄鉱石」のような工業資源の一部だけを取り上げているであって、「太陽、海流、空気、水、石灰石、砂利、森林」などの資源を加えれば日本は決して資源が無い国ではありません。
ただし、文科省が作っている教科書は資源について狭い見方(みんなが口にしていることをそのまま)で書かれているので、「日本には資源がない」とされていて、多くの子供たちもそのように錯覚しています。
この錯覚は何をもたらしているかというと、たとえば水ですと「節水」ということになります。日本ではせっかく利用できる水の4分の1ほどしか利用していないのですから、「節水」とは「水をムダに海に流すこと」を意味しています。
つまり、(奇妙な結論ですが)日本では「せっかく山に降った淡水の多くを利用せずに、ムダに海に流して塩水と混ぜている」と言っても良いですし、淡水を作るには太陽のエネルギーを使っていますので、「水を作り出した太陽のエネルギーをムダにしている」ということもできます。
100%利用することは無理にしても、50%ぐらいは利用したいものです。そのためには「官がやっている水道事業を民に移して効率よくして、水の使用料金を2分の1にする」というところから始めるのが良いでしょう。
日本の電気料金がアメリカの2倍であることで判るように、官・独占がやると民が行う場合の2倍は経費がかかります。「民がやると衛生が心配だ」という人もいるでしょうが、食品でもなんでも民がやっても規制がしっかりしていれば衛生的な問題はありません。むしろすでにペットボトルなどすべて民がやっているのですから、水道も同じです。今ではむしろ「水道の水は危険だから、ペットボトルの水を飲む」という時代でもあります。
 
 Hは瓦礫処理問題の以前の主張で、大事な箇所もあるがここではスルーする。IからLは、福島原発4号機の問題、節電のこと、名古屋市長川村たかしの南京事件発言、そして産業界に対する社会的責任を求める発言と続くが、特に取り上げなくてもよいと思うので、
これらもスルーすることにする。気になる人はブログで原文や音声による発言を聞いてほしい。前にも書いておいたが、武田邦彦の名で検索すると一発でヒットするはずだ。
 
もう一つの被災体験 2012/03/18
 東日本大震災から一年になる。日本各地では追悼式が行われ、世界でも追悼の行事を行った国々があると聞いた。
 これは、私などのように孤立に近い生き方をしているものにとってどこかよそ事である。親兄弟や子供を亡くしたり、家屋が全壊したり、自分の身に分かちがたく存在した地域のコミュニティーが消滅したりした人たちには大切な儀式に違いない。私たちにはそうではない。それほど切実には感じられない。かといって無関心なのだということでもない。
 職場の同僚はだいたい私と同じようなもので、一周年のその日も相変わらずの仕事を普段と同じようにこなし、また普段と同じように過ぎた。昨日と同じように暗鬱で、昨日と同じよう憂さ晴らしをしたいと考え、思いを叶えることもなく昨日と同じように退屈な一日を送ったのである。
 もう少しさばさばといえば、時給750円の仕事に8時間従事し、つまりはそのように自分の時間を切り売りして一日を過ぎたのである。とりあえずそうしておかないと私たちには明日がないのだ。
 この一年そういう日々の繰り返しである。その日暮らしを毎日続けていて、これに飽きて仕事を放り出したらそれで終わりだ、心的にはそういう崖っぷちを毎日歩いている。それは私だけでなく、身近にある人々の大半はそういう状態と見える。決して震災の被害が直接に大きなものではないが、周囲から押し寄せる仕事とか生活とかに関わる環境の悪化は、兵糧責めのように私たちにものしかかっている。
 
 一周年を期して、この大震災を考える人は考えている。もちろんずっと考え続けた人もいるだろう。
 その人たちは、被害者のこと、避難所生活のこと、瓦礫処理のこと、復興整備や集団移転や町づくり、コミュニティーづくりのこと等々、たくさんの問題について考えてきただろう。もちろん原発事故問題に関して、被爆や汚染区域がどうなっているだろうとか、除染、田畑をどう回復させるかを研究している人たちもいるだろう。
 私たちはそうではない。
 私たちはテレビや新聞等の報道を見て、わずかにそれらの片鱗に触れ、かすかな匂いを感じとってきただけだ。そうして契約社員とかパートとかアルバイトとかいう現実に引き戻され、それに埋没することで得られる平穏さを享受してきた。私たちは被害者と呼べる被害者の列には入らない。私たちは被害者を救済したり支援したりするサイドに立っているのでもない。ぼんやりと、あたかもこの喧噪の中では意味がないかのように、己ひとり、また自分の家族のためにだけ、しかもそれができることの全てであるかのように、やっとこ存在してきたのだといっていい。
 失うものが多かった人たちがいて、その人たちを救済しようと働きかける人たちがいる。世間は被害と支援で一色となり、狭間の私たちは取り残された感じがする。
 私たちには支援も復興も絆も無縁な気がし、またそれを分け与えるような力も持たない。私たちはこの社会のエキストラでもあるかのように、「現在」が演出するドラマの中でも無名を演じている。不服があるわけではない。一人一人の被害者がどんなに過酷な目にあったかや、救助された人、生き残った人の心痛はいかがか、想像することはできる。寒さや暗がりの中での行方不明者の捜索。言えないほどの惨状を目の当たりにしたときの一瞬凍りつくような感覚。どれもこれも体と心を傷つけないではいられない出来事の中に、被害と救済との当事者たちは存在した。そのことを思えば、私たちはほんの少し、あるいは限りなく幸福と呼ばれる場所近くに存在したのである。文句や不服があろう筈がない。ただ、「復興」や「絆」の言葉が喧しく飛び交う中にあって、もしかすると私たちには無縁だということや、さらにもしかすると渦中にあって私たちのようにくぐもりがちな人々の間では、同じように、やはり、心を苛つかせる以外の何ものでもないと受け止められている気が、しないではない。誤解を恐れずにいえば、これでもか、これでもかというな「善意」の「大津波」が被災地に襲いかかっているような幻影を、私たちは遠い目で見つめている。そして、以前流行した『同情するなら金をくれ!』の言葉が象徴するように、そんなものよりももっと実質的な『必要』を充足する施策、迅速で適切な対処が求められている気がする。被災者たちはそれを叫んでいるのに、それに気づくこの国や町村の、トップダウンのトップは不在なのだ。そしてそのことこそが大きく世間に取り上げられなければならないはずなのに、「善意」のひけらかし程度のところでお茶が濁されている。それは震災に遭遇したそのことよりも、私たちにとってはもっと不幸なことではないのかと思われる。
 
何を今さら武田君 2012/03/08
 武田邦彦中部大教授が怒っている。政府に、東電に、自治体首長に、省庁に、官僚に、医師に、学校の先生に、栄養士に、学者や有識者に。武田さんの発言を見聞きする度に、同感だとぼくは思ってきた。
 先日のブログでは、公約を何一つ実現できていない民主党に対し有識者が批判しない点を憤慨していました。つまりその有識者はかつて「選挙に行きましょう」と呼びかけていたはずで、大衆を巻き込んで自民党政権が終演したにもかかわらず、変わった民主党政権がこんな体たらくなのだからもっと腹の底から怒って当然だ、という主旨のようでした。
 ぼくらのような、「あばずれ」で「すれっからし」の貧困生活者からすれば、もともと「選挙に行きましょう」なんて呼びかけなど気にもとめず、ほとんど棄権ばかりしてきているから特段どうということはないのですが、期待や希望をかけて投票した有権者、支持者及び扇動役の人たちは落胆して当然なのでしょう。分けても政権交代に一役買った有識者たちには責任があるはずで、悲憤慷慨して当然だというのが武田先生の主張のようです。
でも、だれも真正面から憤慨してみせる者がいないばかりか、現状に妥協したり許容したりしていると見えてがっかりしているのでしょう。
 日本の有識者のほとんどがそんなもんだという事は、ぼくらはとっくにお見通しでしたから、「何を今さら武田先生」と思うわけです。かつて原発推進の大義を信じ、一役も二役も買った先生が、今回の大地震と大津波との事故で過去の自分を大いに反省したと同じで、以前は有識者たちの存在意義を大いに買いかぶっていたと今になって反省しているということなのでしょう。相当に感性が鈍いなとぼくなどは思うわけですが、でも、そういう感受に縁のない有識者も相当いる訳なので、そこまで見聞きできるようになった武田先生をぼくは立派だと思ってもいます。
 
 ついでにいえば、長く自民党と官僚との両輪で日本国を引っ張ってきたのですから、その歯車が狂い、時代に合わないとか変になっちゃったとかということは相当にまずい出来事ではあったわけです。一言でいえば両方とも(自民党も官僚も)成熟から組織的に腐っていく過程を辿ってきていました。そのあたりは国民はみんなちゃんと分かっていて、政権を交代させるほかないと感じ民主党を選びました。民主党への期待もあったでしょうが、自民党や官僚への懲らしめの気分も強かったと思います。
 さて政権交代して民主党になったからといって、そう簡単に根幹からこの国の仕組みを変えることはできるはずもありません。「だれがやっても同じ」こともまた、ぼくらには周知のことだったように思います。一応、民主党の議員たちも当初はそういう心意気で政権担当に当たったはずですが、想定以上に困難が伴ってさらに大地震と津波、原発事故が重なってこんな体たらくになったと思います。これも試練といえば試練で、右往左往を繰り返して、どの政党も成長したり衰退したりしていくのだと楽観視する以外にありません。
 問題は、個々の官僚や政治家をつついてもダメだと思います。官庁や省庁を批判してもダメですね。歴史の積み重ねから現在に至った今現在で、最新の日本というシステム、組織、関係性、そういうものが成熟過程を経て腐乱し、腐臭を出し始めているのだと思います。全ての体質が腐っているか腐り始めているので、体全体に転移した癌のように手の施しようがない、そんなふうにさえ思えるのです。これはたかが議員や官僚などの浅い考えや発想によって、どうにかできる規模の問題ではないと思います。共産党も組合も、右翼団体も保守も進歩派も、この日本にある組織は官民を問わず全てが腐っているか腐りかけだというのがぼくらの認識です。では、組織に属さないのがいいのかというと、そうとも言い切れないと思います。ぼくのような風来坊は全く力がありませんし、考えや意見はどこにも通じないのです。ただ腐りたくないという思いだけで単独を通していますが、現実的には一人さ迷っている感じです。
 
 あまり偉そうなことをいってはいけないのですが、武田先生を見ていて何に好意を持つかというと、言葉に力がこもっているというか力があるというか、あるいは言葉を大事にしているというか、言葉を信じているというか、その信心の強さというか、そしてその言葉を駆使しながら論理を紡ぎ出している、そういう姿勢に共感するといっていいかもしれません。また知識の量といいますか、博学に思えますし、勉強してきているなあということが分かってそれに対する敬意も持ちます。論理の飛び越しで頭の回転のよさを自慢げにするところや、偉そうな手振り口ぶりをみせるところ、時に人を小馬鹿にしたような言い回しが見え隠れするところなどは愛嬌で、養老孟司さんなどにも共通する一種の職業病とぼくには見えます。そういうところは病気なので仕方がないです。大学で勉強や研究をしてきて、できることがよいことだという思いが何処かにあるのです。ぼくらはまるで逆で、巷をさ迷う時間が多かったから世間にごく普通に生活している人々が一番立派に見えます。またそういう生き方に価値を見いだせなければ、全体としての人間社会はよくならないんだと考えてきました。そしてこういう考え方を血肉化するためにそれなりの労力を費やしたとも言えるし、逆にいうと一生を棒に振ってきたとも言える気がします。いずれにしてもそういう人々の生活レベルの向上、知性や感性の押し上げというものが未来の人間社会の形成に関わってくるものだと思います。そこをしっかり抑えておいたら、人間社会が大きく道を外すことはないんだとぼくたちは考えてきました。目標でもあり原点でもある、そういうものだと考え、指標に値すると思っています。そういうところが優秀な学者、知識人たちとの違いかもしれません。彼らはやはりリーダーサイドに軸足を置いた人たちですから、リーダー的位置に固執するところや、よいリーダーの条件について考えたりすることが多いと思います。つまりそういう周辺に多くの思考的労力をつぎ込んでしまっていますから、致し方ないことなのでしょう。それに、やはり啓蒙的にもなりますね。職業がら、教える姿勢が身に付いてしまっています。でも、それはそれで頑張ってほしいものだと思います。
 今日はこんなところにします。
 
知の後進性@ 2012/03/02
 二、三日前ニュースで、自民党が憲法改正案の草稿を公表(?)したと伝えていた。それにはまた天皇を元首とする旨の条項が明記されていると伝えられていて、それを聞き何となくぎょっとしたことを覚えている。
 事の真偽を確認したわけではないが、あり得ないことではない。
 覚書とかメモとか独白程度にここでは書いておきたいが、つまり、よく考えた上での意見発表ではないが、自民党はふざけた雑魚の政党に成り下がったと思う。右翼団体ならいざ知らず、また仮に日本の天皇制に内面的に好感を寄せたり敬愛や敬虔の情を抱いていたとしても、いまどき天皇を元首として復活させようなどということはあり得ない話だ。
 すぐに思ったのは、第二次世界大戦の時の敗北の責任を元首から退くことで回避し、しばらくしてほとぼりが冷めたら元首に返り咲くみたいな真似が出来るわけがないだろうということだった。別にぼくが考えることでもないし、考えなければならない理由もないのだからどうでもいいことだが、それにしても自民党の考えることはちょっとおかしい。馬鹿じゃないの、とも思う。そうすることで何がしたいのか。隣の国とまるで異母兄弟のようなそんな発想がやりきれない。
 時の権力、その時代の文化が行き詰まったときには、この国は神頼みならぬ天皇頼みになる。それは異なる意味で「知の放棄」を意味し、また手っ取り早い秩序の回復の願望が込められている。
 いくらでもいろんな事を言うことはできる。
 たとえば現在の憲法では「主権在民」をうたっている。国を統治する権力を国民に持たせている。国民ひとりひとりが国家統治の最高権力を建前上は保持しているわけだ。実際にはその権限は国会議員に負託されるが、理念として国民ひとりひとりが主権者である。だが、日本の政治家も国民も、この主権が国民ひとりひとりにあるとする理念を本当には、あるいは正確には把握できていない気がして仕方がない。これは、実際の現実的な場や生活の場で一人の国民が権力を振りかざすことができるということを意味するものではない。だから、建前上のお飾りに過ぎず、実質的な意味合いからは内容のない空疎な概念と感じられるかもしれない。だが、ぼくはそうではないと思う。主権が国民にあるとするこの言葉、この概念に力を吹き込み、実体あるものとみなすためには観念の力によってするほかはない。言い換えると、国家の根本をなす憲法というものによって、すでに国民に主権があることは約束されているものであり、それは絶対の観念として遵守されなければならないのであるとともに、それ自体が観念であるために個々人がこれも観念の力によって自分のものとしなければならない。言葉を変えれば、それを空疎な観念に陥れるのも、現実に対するに効力あるものとするのもそれぞれの知的な努力と腕力とにかかっている。
 自民党が天皇を元首にというのはもしも冗談でなければ、逆に憲法に込められた理念に理解が届かずに、その理念から敗退したことを意味するような気がする。もちろん核や軍備の論争を含めて考えて、そう思わざるを得ない。理想的な先進性を具体化する策がどうしても見いだせなかったためだ。その意味ではわが国の理念や精神性は「ものづくり」における技術の先端性に比べ、はるかに努力と根気と工夫とが欠けているのだ。
 
 明治初頭から西洋文明、文化とともに西洋知にも追いつけ追い越せで努力し、多分に西洋を凌駕するまでに発展した分野はあった。特に科学的な技術といえばよいのか、その精密性、先進性などは世界から高く評価されてきた。だが、一躍世界のトップに躍り出て、未知の開拓に向かわなければならない時点で、世界を牽引するような独創性、発展性についてはその道を示すことはどの領域においてもできていないといっていい。その結果は技術のガラパゴス化と同様で、逆に世界からの孤立化を顕著にしている。
 日本人の精神構造、またそれによる知の構築はどうなっているのか。西洋に対等で、なおかつアジア的な特長を生かして世界に貢献できる先見性を発揮できたことはあるのか。どうもそこまで行き着いていない気がする。それどころか、どこかに空恐ろしいほどの後進性を保持していて、何かというときにそれが露出してくる、そういう面を持ち続けているのではないだろうかと疑われて仕方がない。うまく進めることができるかどうかは別にして、そういうところをこれからも探ってみたいと思っている。
 
「高齢者問題」は存在しないか?
               2012/02/29
 武田邦彦のブログでこんな記述を見つけた。
武田式コペルニクス的発想と呼べばよいのか、将来を不安視する「高齢化社会の到来」に一石を投じる考えだと思われたのでここに紹介しておく。
 
人間は集団性の動物ですから、平均寿命が43歳(今から90年前の1920年の日本)の場合も、現在も、そして平均寿命が100歳になるころも、「教育専業年限」も「引退後期間」も一定で、その比率は若干の議論があるでしょうが、教育専業比率が20%、引退後期間が20%、働く期間が60%というのが常識的でしょう
平均寿命が70歳の時には、15歳で働きにでて、55歳ぐらいで定年を迎えるという感じですし、寿命が100歳になったら、20歳まで勉強、80歳で引退するということで合意が得られると思います。健康状態によっては25歳まで勉強し、85歳まで働くということになる可能性もありますが、5歳ぐらいの差をあまり過度にいわずに、おおよその概念を決めておく方が大切でしょう。
今後は女性のほとんどが仕事に参加するでしょうし、電子化も進みますので、60%の就労率なら、「年金問題での増税」はまったく不必要なことがまず判ります。そして、80歳で引退ですから、「高齢者問題」などは存在しません。
繰り返しますが、「ある年齢を区切って「高齢者」と決める」のではなく、「平均寿命に合わせて仕事を引退しても良い年齢を決める」ということで「どんなに平均年齢が伸びても高齢化社会は来ない」ということになります。従って、「増税」も「高齢者」の問題も存在しません。
(太字は佐藤)
 
 おそらく大筋ではこれくらいのところを読み解く識者は他にもたくさんいるだろう。ただ武田が、人間の寿命を100%としてその時代の平均寿命が何歳であってもそのうちの60%を働く期間と考え、「教育専業年限」、「引退後期間」を20%ずつとしたところで、成る程と納得するところがあった。武田のいうところを敷衍すれば働く期間というのは社会人として活発に活動する期間であり、「教育専業年限」とはその準備の段階、「引退後期間」とは文字通り一定の役割とか責任を果たして後方に退く期間ということになる。こういう見方が妥当なものかどうかは、もう少し詳細に検討すべき点もあるような気がするが、まあどういった時代に持っていってもひとつの物差しとして通用するのではないかと思う。
 平均寿命が50歳だと、10歳までに働けるだけの体力と知恵とを身につける期間となり、それ以降だいたい30年間を労働主体の生活期間と見なし、40歳からは言ってみれば長老とかおじいさん扱いされる期間ということになる。平均寿命が短いほど人間的成熟は早く、衰えもまた早いと考えられる。これは現在ぼくらが少し前の世代を考えるときにも、年齢的にはそうでもなかったのに当時のお年寄りはぼくらよりずっと威厳があったとか、子供時代でも考え方がずっとしっかりしていたとかの感想と結びつく。
 ぼくたちは、昔の人たちに比べてずっと幼いまんまのような気がしていたし、ややもすればいたずらに長く世の中に在り続けるだけで、人生の中身、内容は薄っぺらく感じられる。これは平均寿命が短い昔の人が、結果的に早い成熟を促されたのだというように考えれば少し合点がいく。
 他の動物に広げて考えてみると、一年で一人前になることを要求される動物は、本格的な活動としての食と性の活動期間が3年で、残り1年でゆっくり衰えていくと考えることができる。植物もまた成長の期間があり、繁茂の期間があり、衰え枯れていく期間がある。
全てに同じことが言えるわけでもなく、年限の比率も一様ではないだろうが、しかしながらこのように考えてみると分かりやすくなるところも多くなると感じられる。
 仮に人間の平均寿命が120歳になると、社会人としての基礎を学び定着させるまでの「教育専業年限」は20%だから24歳となり、これは就職までにほとんどが大卒程度の期間を要するということになる。裏を返せば人間の成長速度はどんどん遅くなるということだ。ゆっくり成長するといってもいいし、見方を変えると、その間に現在以上のたくさんの経験や知識を積まないと社会に出て一人前になりにくい、そんな時代を迎えるからと想像できなくもない。あるいは社会に余裕ができることをそのことは示すものかもしれないし、反対に人間の働く場がかなり限定されてくることを伝えるものかもしれない。いずれにしてもいまの時代がそうであるからといって、未来に向かっても同じ物差しが通用すると考えては誤ってしまうと思える。今日、精神の未熟さとか幼稚さと映じるものが、この寿命の長期化と無関係とは言えないので、そういうところは心理学者なり教育専門家なりに大局的に論じてもらいたいし研究して貰いたいものだ。
 これは武田が「引退後期間」と呼ぶところのものとも関連することで、「引退後期間」も平均寿命が長くなれば期間が長引き、現在の年齢数値から後ろ方向に伸びていく。先と同じ120歳寿命では96歳に始まり、120歳までとなる。何と95歳までが現役世代ということになる。あり得ないかもしれないし、あり得ることかもしれない。ぼく自身はあり得ることだろうと思っている。なぜなら現在を平安時代に置き換えて考えると1000年後の世界は平安時代から見た現在と同様で、そこには想像を絶するほどの進歩した世界が実現されているに違いないからだ。ちなみに平安時代だと平均寿命は40くらいだろうから、平成の現在は80前後としておよそ2倍に伸びているといってよい。これを1000年後にあてはめて考えた時に、2倍といえば170歳前後となる。現在から見れば夢物語だが、夢物語が現実となるのが未来である。仮に寿命が200歳になった世界を考えると、40歳までが「教育年限期間」である。これはこれで恐ろしい世界だと思える。
 
政治的、国家的敗北の象徴 2012/02/25
 一昨日の新聞だったと思う。福島第一原発事故に際して、米国は日本に滞在する自国民の身の安全確保のために徹底した情報収集に努め、事故の当事国の日本政府などより、適確な状況認識ができていたことを伝えている。またどれくらいの範囲に放射性物質が飛散するかについても、日本政府が日本国民に示したよりも正確な予測ができていたように読み取れる記事であった。ぼくは内心『ああ、これは世界大戦の時の日米の優劣をそのまま繰り返した、国家的、政治的な敗戦を象徴するものだな』と即時考えた。
 国内においては東電から政府に正確な情報が迅速に伝わらないとか、原子力安全委員会とか保安院とかとの連携が上手く機能しないなど、全てにお粗末なわが国の現状が暴露された今回の事故であった。これはもう恥ずかしさを通り越して情けないと感じる。
 さらに米国が日本に滞在する自国民への避難勧告を、八〇キロより外へとしたことには、本当に被爆を最小限に留めるという強い思想性が感じられる。『被爆させない』ためのあらゆる可能性を模索したと考えてよい。日本政府の、初動における『多少の被爆は仕方がない』とか、『被爆させてもよい』とかの姿勢とは雲泥の違いがある。何よりも、できる範囲で被爆を防ぐことをぎりぎりまで模索するその「国家的意識」が、日本の比ではないと思った。国民の負託に応える。それは当然といえばあまりに当然なのだが、米国にはこれまでそういう意志や意識や思想を育んできた当事者としての実力とプライドが備わっている。これに比べると、日本社会に蔓延する二枚舌はいかにもいい加減であることが露呈した。こんな政治家や政府など、時折見下げるように批評してみせるアジアの辺境国よりもさらに偏狭な国家かもしれないと疑念を持たないではいられない。なるほど、「神の国」日本とはこのことをさしているのかもしれないのだ。骨の髄が空洞である。この国の政治的リーダーたちは、いや、報道や学問や官僚その他のリーダーたちも、徹底して自国民を守るという気概さえない。全ていい加減に、逃げて逃げて、逃げまくりであった。いや、逃げずに真正面から震災、原発事故に向き合ってきたと民主党や東電の幹部連は言うかもしれない。が、もちろん、ここで「逃げた」と表現しているところは、目に見える対応の仕方を指して言っているものではない。
 以前、養老孟司が日本は無思想の国だから穏和で争いごとがない趣旨の文章を書いていたが、そんな彼が誇りとする無思想の欠陥は、想像を絶する災害や事故が起きた、こういう際に出てくるものなのだと改めて思った。
 国民のためという政治の理念は、本気で研鑽された試しがないから、いざという危機の時に効力を発揮しない。明治以降の西洋かぶれ、真似事、あるいは翻訳したものを自分の理念のように取り繕うそんな歴史が、そんな精神風土が、こういう危機的局面で「知」に働くことなく、「情」的決着をもたらしてしまう。ほんとうに「なんじゃこりゃー!」である。
 情に流れ、知に働くことができなかった。科学的認識も無思想の風土にあっては、自分たちの外にあるものなのである。だからいざというときにはそんなものはほっぽり出して、自分たちに都合のよい対策の仕方をし、またそれに対して都合のよい解釈の仕方をしてしまっているに違いない。
 あまりの想定外の事態に泡を食ったのか、日本では対応の中枢にある機関の話し合いの議事録さえ取っていなかったということである。アメリカにはしっかりと残されていて、当時の緊迫した事態での、知の働きとしての意見交換が伝えられているそうだ。あまりの危機意識の質の違いである。
 そこまで行くと全然お話にならないわけで、アメリカの対応が大人の対応だとすると、日本政府などのそれはまるで子供の対応といえるほどにお粗末極まる事になる。対岸である米国がその程度までできるのであれば、日本は自国のことなのだからもっとすみやかに、迅速に、放射能物質の飛び散る方向を予測し、その範囲を想定し、住民に避難勧告を出すとともにその移動のための手段を最大限に手配すべきだった。政府も東電も、その対応はてんで話にならない。嘘つき、ごまかし、魂も誇りも失った報道とぐるになって、国民に被爆を強いるまことに愚弄すべきものだった。
 武田邦彦は最近のブログで、政治家も学者も報道陣も信じられないし、その言説を信じない方がよいと読者に訴えている。そして事実や調査やデータ等を通して、自分で考える、自力で考える、言い換えると思考の自立をめざすほかないだろうと述べている。自分で考え、判断し、その責任は自分が持つ。そういう考えで現在を乗り切るほか仕方がないのではないかと言っている。それはぼくもそう思う。任せておけないし、任せておいてはいけないのだ。
 
 あるひとつの状況下において、ひとつの国は初めに自国民を「被爆させない」方法を模索し、もう一方の国は「命に別状がない程度なら被爆をさせてもよい」が、「国家的な恥を世界に知られたくない」という思いを行動基準とする。どちらが開かれた民主的国家であるかは明白で、理念の敗戦国がどちらであるかも明白なのだ。ぼくたちは国家的な焼け野原、政治的な焼け野原に立ち尽くして、また一からの理念を立ち直さなければならない局面に立たされているといってよい。
 
「政治劣化[考]」考パート2
              2012/02/20
 最近何度か『内田樹』の文章を読んで感想めいたことを述べた。その時も書いたが、彼について最近まで何者かよく分からないでいた。
 二月十七日の河北新報の「政治劣化考」の二回目として、彼の発言が載っている。一回目は先に取り上げたように養老孟司のものだ。これから言えば内田もけっこうな著名人ということになる。彼の紹介文が短く掲載されているので、ここでそのまま引用させていただく。
 
 うちだ・たつる 1950年東京都生まれ。東大文学部卒。専門はフランス現代思想。現在は合気道道場主。著書に「日本辺境論」など。
 
と、こうある。河北は彼を「思想家」としている。あらためて、けっこう世間に知られている人だったんだなあと思う。
 ところで、彼がこの「政治劣化考」のなかで記者の質問に答えながら述べているところを紹介しつつ、その発言についてまた考えることをしてみたい。
 はじめにこのインタビューのテーマだが、既成政党の機能不全と、期待が集まる橋下新党といった図式の分析ということである。そしてまず、政治劣化の要因を尋ねられて内田は次のように応えている。
 
外交、内政を問わず、メディアと国民から過度の透明性や分かりやすさを求められ、政治過程が単純化し、深みを失った。選挙や世論調査で、人間的見識や厚みに信頼を託すということがなくなり、個別政策への賛否が問われるようになった。結果的に、政治家はフリーハンドを失い、マニフェスト(政権公約)にしばられるようになった
 
 これは日本的な政治動向として考えれば、自民党政治的な旧来の手法が没落する過程を含んでおり、また新しく政権党となった民主党の、政治手法の薄っぺらさも指摘されているように思われる。政治状況としての内田のこの認識は生活者的な実感からいっても、戦後政治のここまでの流れとして妥当な理解だと思える。ただ、この流れを政治劣化とみるか、別の視点から見直さなければならないと考えるかは今のところさまざまでありうる。
 一方、既成政党のジレンマを尻目に、人気を集めている橋下大阪市長及び維新の会については、
 
大阪維新の会も、劣化への倦厭(けんえん)が生み出した。選挙に勝って、『直近の民意』を盾にとって完全なフリーハンドを要求する。しかし、『直近の民意』を掲げたせいで、頻繁に選挙を行い、その度に有権者にアピールする新奇な政策を打ち出さなければならない
 
というように見ている。つまり現在という時代が求める分かりやすさ、透明性が必然的に橋下(維新の会)の政治手法を生み落とし、グループの台頭に結びついたと考えているようだ。
 もちろん、内田は橋下や橋下の率いる維新の会などに、政治の立て直しが期待できるなどと言ってはいない。政治はややこしく、交渉技術とか密約の必要とか、言ってしまえばプロフェッショナル性が不可欠と考える内田は、本来なら人間的度量を武器に国民的信望を得たプロの政治家こそが政治家なのだと言いたいらしいようでさえある。橋下(維新の会)には、体制や政権に対してのアンチの勢いがあるが、いったん統治者サイドに立ったときに全体を統合する統治者としての度量が期待できるのかどうか。たぶん内田は、国民的統合が果たせないだろうと考えているに違いない。
 結局のところ、政治の「劣化プロセスはまだ止まらない」と内田は考えている。
 政治に限らず、文学やその他の世界においても「素人」が席巻するようになって久しい。批評的に言えば、劣化であり、低下であり、堕落であるとしばしば批判の対象になる。サブカルチャーの台頭もこれと時を同じくする。
 いま比喩としての仏教の盛衰を例に取れば、自力信心して修行を積む本来の仏教に対して、念仏を一度でも称えたら浄土に往生できると教える浄土教への流れに喩えられよう。後世に振り返れば、その流れは必然のようにさえ感じられる。浄土教の始祖たちには、時代が問うてくる課題が突きつけられ、何としてもこれに答えなければならなかったのであり、その答えが浄土教の立ち上げにほかならなかった。旧来の仏教の高祖たちはこぞってそれに異議をとなへ、批判を展開した。それこそ劣化であり、僧侶の堕落でありというように。これに対し、浄土教の始祖たちはあからさまに反批判はしていないが、堕落や劣化は旧仏教にこそあったから浄土教の誕生があり、大衆の支持があったのだと言いたかったに違いない。
 親鸞に到っては、妻帯し、魚も肉も食い、
難しい修行なんかするなと言った。その点から言えば、坊さんらしくない坊さん、すなわち政治家らしくない政治家こそが時代に求められているのだと考えれば考えられる。
 内田はそうは言っていないように見える。いや、そもそも、そういう視点からこれを見ていない。だから、政治の劣化の要因を「メディアと国民から過度の透明性や分かりやすさを求められ」、というように解析している。これは「行くところまで行って底を打って反転する」まで解決がつかないと内田は言う。
 結局のところ、政治、経済に限らず、今という時代が日本という国の大きな転換期の只中にあり、司法、立法、行政、そのほか教育や家族、地域等、全ての分野において旧き体制やシステムを解体し新たな構築が期待される時期にあたっていることは間違いない。そしてそれが内田の言うように、「行くところまで行って底を打って反転する」ところで、いったいどんな形となって表れるのか予測がつかないと言うべきだ。
 もちろん、内田が言うように「底を打つのはまだ先」だ。だが、何とかなる。日本の歴史は繰り返しそんな日本の底力を後世に示してきた。底を打って滅ぶべきは滅んでもよい。だが、日本という土地に生きる人々が全て絶えるということは少しも考えることができない。そうである以上、この国土に生活する人々は必ず、コメ作りの歴史に象徴されるように個々の力量によって事態を改善し、克服の道を辿ることは間違いない。ひとりの傑出した政治家を待望することは時代錯誤である。それはモグラ叩きのように、歴史から何度も何度も叩かれて消えては表れ、現れては消える幻影に過ぎない。全てが滅んでさて、幻影から解放されたときに人間社会の新しい歴史が始まるのだ。そんな長い射程を考えて、政治もまた論じられるときが来なければならない。
 
武田邦彦小論(二) 2012/02/19
 武田邦彦は右翼なのか左翼なのか、あるいは進歩派なのか保守派なのか区別しにくい。そういう区分自体が無効だと言えばそうだが、武田の物言いは率直大胆でそういう分類を気にせず思うがままを述べていると言えば言えそうだ。ただ少なくとも流言飛語、謀略的な宣伝等で発言する人ではなさそうであることと、自分の中での問答を経て本当だと思うところを述べている人だという気がする。
 この人のそうした発言の姿勢は、ぼくの信頼する思想家、吉本隆明のそれに近いものがあると思う。
 吉本は正真正銘、左翼と呼べる唯一の人であるとぼくは思っている。
 ほんとは武田も吉本も、右翼的、保守的と捉えられかねない言説をしばしばやることがある。それは逆にこの二人が、古くさい概念に縛られていないことを意味する。言い換えればスターリニズムなどから自由だと言うことだ。そういう思念の自由を保持している。この二人の決定的な差異は何かと考えれば、国家というものを、あるいは現実の社会、国家社会というものを、どう考えているかと言うところにある。
 武田は、現実の時間、空間を絶対のものとして国家や、その下に構成された社会を、いつも発言や思考の前提として置いている。吉本は、現在の民族国家、及びその国家の下に展開されている社会を揺るがないものと絶対視する視点を持ってはない。過去において、あるいはもしかすると未来においても、必ずしも国家が存在しなければ人間の社会が成立しないとはみなさない。
 どこを基点に事象、現象を捉えて考えるか。そこが両者では違っている。ぼくは吉本の方がより根源的であろうと思っている。逆に言うと武田はそこが物足りない。国家の起源と、今後の国家のあり方、行く末はどうあれば理想的であるかについて、思考の触手が届いていない。現今の国家、体制というものを抜きにして考えたときに、武田の発言や考えるところのものは、未知に向かって伸びていくことができない。発展しない。射程距離が短い。
そんな気がする。言い換えると未知からの視線が欠けているのだ。それは死からの視線といってもよい。だがそれは少しも武田の欠点でもないし、こちらにそれを咎める気もない。
逆にそれが科学者らしいとも言えるからだ。現実の目に見え、信じられるところから出発する。それは武田の真骨頂だろう。そうでない言説があまりに多いから、武田の徹底した現実主義的、事実主義的な考え方は余計に際だって光彩を放つ。
 
身の丈にあった与太話 2012/01/31
 大小を問わず、グループとか組織とかの責任者のひとつの仕事として、予算を勝ち取るということがある。その組織を円滑に動かすために、必要経費という考えから、それは多ければ多いほどよいということになっている。
 これは家庭の場合を考えても同じことが言える。一家の大黒柱が、仕事や世間的付き合いを通して自分の家に金が集まるように算段する。うまくいけば絵に描いたような「幸福な家庭」に近づく、気がする。何をするにしても経済的基盤が弱いと不自由である。
 そういう意味で、昔から集団の長、責任者となればそういう金の工面に一生懸命になっていた。
 私自身も生涯のところどころで、集団の中の当番長みたいな形で責任を持つ立場にあったことがあるが、多少だがそういうことのまね事みたいなことをしたことがある。
 いちばん基本的なのは予算を水増しして計上する方法だ。金を出す方は建前上は渋る。それでまあ交渉らしき真似事の後で、たいていは例年並みの予算執行となる。多少の増額減額に責任者たちの手腕がある、といえば言えるかもしれない。
 こういうことはたぶん相当古くから行われていて、馬鹿まじめに本当の必要経費をそのまま記帳して伝えるなどは皆無といっていいくらいだと思う。
 予算を余らしてはいけないというのも世の中の鉄則で、必ず何かに使って消化しておかなければならない。そうせずに余らすと、次回に予算を減らされるからだ。だから余計な金は、裏貯金になったり、無駄な物を買うことに使われる。
 こういうサイクルが世の中には蔓延していた。まあ肯定的にいえば、その無駄は世の中の潤滑油になるという一面を持ってもいた。
 ただ、こういう体制を放置すれば、組織も経費もどこまでも膨れていくことは間違いない。その揚げ句、階層、領域、分野等で、逆に冷や飯を食わされたり、ツケが回されるところが出てくることになる。
 家庭や会社や社会の一員、また何らかの組織の一員としては、そういうこともごく当たり前のこととして認識していくことになるが、
実際にはどこか変だ。みんなそのことを知っていて、いつまでも止まぬ慣習としてあり続け、日本中の誰もがそれに手を染めているといっていい。変だからそろそろそんなことは止めにしようなどと提案するものもいない。万一提案して承認された場合、おそらく実際に困ることも出てくる。そこははっきりしていないが、要求を満たすものが出せるならそれを引き出して使おうというのが、ま、暗黙の了解点といったところだろう。
 水増し予算やその予算の消化で、日本社会全体では実際には驚くほどの無駄が横行、跋扈していることになる。そのひずみとして割を食わねばならないものが出てくる。その理由も、事の成り行きも分かるのに、手をこまねいてきた。
 そういう慣習、風土の中でも、ということは嘘偽りが横行してもということだが、そのごまかしの駄賃はまあまあみんなに分配が行き渡っていたから声を挙げて指弾するものは少なかった。まあまあしょうがないや、と。
そのおかげでこっちにもいいことがあるし、と。民と官のもたれ合いもそういうところからでている。持ちつ持たれつ、大同小異である。この点日本人はそれほど正義や真実といった「言葉」に、忠実な僕であるとは言い難い。別の言い方をすれば、「本音と建て前」のダブルスタンダードにごくごく馴染んだ民族であると言えるだろう。
 地方自治体のそのまた下部組織や関係団体等の枝葉末節に到るまでの団体に交付される補助金、助成金、研究開発費を考えると、その中にどのくらいの無駄が眠っているものか見当もつかない。それが県全体として、いや国全体としてどうかというと私などの想像を絶する。
 経済とか金融とかの一種の行き詰まり現象みたいなものが加担して、不況や景気の停滞が長引いている。日本で顕著なのは公共投資が効果を持たなくなったことで、最近の歴代の政権は打つ手が無く、あるいはあってもやはり効果がでなくて、国民の支持を得られずに短命に終わることが多くなっている。
 民主党は何とかしなくちゃということで大胆な予算の組み替え、事業仕分けを標榜し、期待されたがここまで何一つ大きな事はやりきれないできた感がある。必要なのは党首、リーダーとなるものの見識と胆力だと思うが、どうもそれに見合う人材があるようには思えない。
 いま、消費社会が冷え込んで長い氷河時代を迎えるかどうかの瀬戸際にあると考えるが、必要なのは敗戦後の農地改革のような革命的な改革の実施以外にはない。私の考えは単純で、富裕層に偏った「富」を拠出させて低所得層や貧困層に廻し、消費を活発化させること、内需を拡大させること以外にない。富を再分配することだが、政府は税金という形でそれを穏やかに実施しようと企てているようにうかがわれるが、要するに、批判が恐くて大胆なことができないわけだ。格差社会がこれ以上広がったら必ず暴動が起きる。国民性がどんなに穏やかな日本であろうとも、忍耐にかぎりがあろう。
 予算の組み替えや仕分けに対し、農業個別所得保障や子供手当などには再分配の考えが多少あったと思う。天下り法人を無くす考えとともに、それは余剰的な金を官僚のためだけのような方向に流さず、国民個々の方向に流す仕組みへとつなごうとしたと言えばいえる。だが、実際にはこれまでの改革と同様に、官僚が阻止に回ったものかどうか分からないが、中途半端に適当なところで改革の手は緩んでいる。歴代の政権の改革は、どれも大同小異、一番やらないほうがよかったくらいの中途半端さで終わってしまうのが常であった。だから、本当なら、やったら袋叩きになるとか、暗殺の手が伸びるくらいの、核心的本質的な体制の変換を含んだ改革の内容をもっていなければ効果も出ないはずなのだ。
 明治の地租改正や第二次世界大戦後の農地改革は、日本人の考えを日本人の手によって実施したというようなものではなく、外国人の力を借りて行った改革であった。国家的規模の改革で日本人が行ったことといえば、維新そのものだが、これは一面からみれば長州や薩摩や土佐の下級武士などが中心になって、要するに日本の中枢に自分たちの座、椅子、働き場所を求めて獲得したものにすぎなかった。もっと露骨にいえば自分たちの利を求めて主張した結果である。これに比べれば、大正か昭和の初め頃、軍の青年将校たちが起こしたクーデターなどはもっと純粋に、時代状況の危機に農本主義的に反応した結果だったといえる。せいぜいそうしたものが日本人の手になる改革の内実で、主義主張の点で世界のさきがけと言えるものは何もない。
 大阪維新の会はそういうものの亜種のひとつである。閉塞や危機的な状況に風穴を当てたいとする情熱は同じだが、経済の競争原理を原理主義的にどの分野、領域にも応用している点が不安だ。これを世論の支持を背景に、強力に推し進めようとしている所に評価と批判との分岐点がある。そして少なくとも彼らの主張するところは、けして本質的、核心的で状況の要所を穿つ、そんな改革にならないだろう事ははっきり予測できる。多少世の中に動揺を走らす効果はみせるかもしれないが、後世に一目置かれるような歴史的改革にまでは進展も発展もしないだろう。ただ、それ以上の改革の嵐を引き起こす可能性を持つ動きが、現在の日本の政治的情況の中では他にないこともまた確かなことだ。
 
「政治劣化[考]」考2012/01/20
 本日付の河北新報に、「政治劣化[考]」と題した記事が掲載されていた。初回は解剖学者で知られる養老孟司という大物を起用し、政治の現状について意見を聞いている。ここ数年、河北はお金のかからない小物ばかりを起用してきたから、今回養老さんを起用したのはどうしたのかと不思議に思った。記事の最後に括弧書きで、随時掲載とあったから、しばらくは不定期に各界の有識者に取材し、続くものかと思う。
 ところで、ここで養老孟司さんは政治の混迷や劣化の要因について、政治の役割や機能が不明確になっていると指摘している。政治の現在までの機能の中心は分配だが、これがどうも怪しくなっている、と。で、これからは日本の人口減少と世界的なエネルギー問題が政策課題になるだろうという。
 また、政治の役割や機能を明確化する具体策としては、参院のあり方を、たとえば50年先の議論をする所と規定するように変えたらよい、と提案している。それで利益誘導が減るとともに、政治や政治家の質が変わると述べている。
 参院というのは目の付け所が面白いなと思うが、どうせならもう少し踏み込んで、職業政治家も官僚組織もなくなった方がいい、位のことを言ってほしかった。ま、養老さんにはそこまで期待するのは無理だろうが。
 50年先を見越して議論する政治家なんて数えるほどもいないでしょう。それより、それは学者、有識者の本分ではないだろうかと私は思う。いずれにしても、それでも日本社会における利益誘導、経済がらみの議論は断ち切れない気がする。昨今の学者、知識人たちの住んでいる世界を覗き見ると、そう思われる。自分の職、地位、名誉等を死守することにおいても、彼らに勝るものは政治家や天下り官僚等を除いてそうはいない。
 そういえば養老さんは以前、日本人には思想がない、日本は無思想の国だみたいなことを述べていた気がする。『無思想の発見』という題の新書を読んだが、そういうことが語られていたと思う。最近では原発問題で奮闘中の武田邦彦さんも、ブログの中で、この国のリーダーから国民に至るまで、思想、哲学が欠如していることを指摘していた。
 面白いことに、明治期に衆議院議員にもなったことのある中江兆民が、日本という国に哲学がないことを西洋に比較し、だから世界に軽視されかねない旨の文章を書き残しているらしい。どうも、このあたりが事の本質である気が、今私にはしているところである。
 思想がない。哲学がない。神道も仏教もキリスト教も同居して違和を感じない。本音と建て前のダブルスタンダード。前回述べたところの「絆」の文字は、人の結びつきのことで、悪くいえばそこでは個人の主義、主張から思想、哲学に到るまでが不問に付され、ともかく肩寄せ合いもたれ合う関係が重視されることになりかねない。養老さんならそれで何が悪いと居直りそうだが(もちろんそれなりに深い考えから)、私としては功罪があり、長短があるのだろうなと思う。人間の力よりも圧倒的に強大な自然優位の日本というちっぽけな島国にあって、古代の日本人はいつも自然にへこまされ、そして四季折々の自然の恵みの豊かさと美しさとに驚嘆し、自然に屈服せざるを得なかったのであろう。その意味では神も仏も自然と同位であったに違いない。そこに、意識の構築としての思想や哲学が介在できる余地はなかった。四季の移り変わりに伴って移り変わる意識の変転を、黙って認めるほか無かったのである。
 日本では確かに、考えることに生涯を費やしたという人材は少なく、感性的に姿形の美は追求しても、理性的に事象の仕組みを解析することをやや苦手としてきたふうがある。そして、日本の知は中国、インドを代表とする東洋知、そして維新以後の西洋知に大きく影響されながら育ってきたのだといっていい。
 つまり、ここまでの問題は全て、風土、地勢、気候等から形づくられた日本人の特質の問題なのかもしれないのだ。そして現在の日本社会の構成は、江戸期になって形成された
独自の文化スタイル、システム的なものから大きく欧米に影響されたものに変わってきている。さらに意識や精神の特質もこれに影響されながら、しかしながら根源の所ではその日本的なるものを克服できないと言うべきか、死してなお日本は日本であるというべきか、四方の海からの波風に翻弄されながら独立して島国を保っている。中身などはどうでもよい。日本人のDNAは、その継承と継続を目的としている。
 大きな誤解、勘違いは、このDNAをもってこの極東の一小国を、世界に冠たる大国として世界に認めさせようとしたところにあったのではないか。それ以来、常につま先立ち、背伸びし続けて今日に至っているのである。確かにこの国の国民は我慢強い。また優しくもある。この国のリーダーは、この日本人の特質に乗じてリーダーの振舞いを許されているだけで、そのまま世界に通用したり通じたりするものではないといえる。そして、いまだかって日本が他国との関係の中でリーダーとしての資質を発揮した経験は歴史的にないのである。
 現在の日本、日本社会はとても平均的で、日本の特質に照らし合わせてこれが日本だと言えるかもしれない。被災時に、スーパーの店先に整然と並んで順番を待つ住民の列があるかと思えば、原子力発電所の爆発時に「ただちに被害がない」と連呼するだけの無策な政府関係者たちが共存している。
 河北新報は政治劣化と呼ぶが、何をしてそう呼ぶのだろうか。過去の政治が、そんなに優れていたとは私には思えない。ただ日本の社会状況と国際的な交流がある種の発展と成熟を遂げ、情報等のグローバル化とともに、日本社会はあらゆる既成のものが解体を余儀なくされ、時代にあった変化が求められていると言えばいえる気がする。凡庸などんな政党、どんな政治家を持ってしても、この激しい解体と新たな構築が求められる状況を乗り越えることができないことは誰もが予想できることであった。今さらカマトトぶって知らなかった振りはできまい。マスコミがこんな相も変わらぬ無知を装った論調を示すから、有識者もこんな具にもつかぬ事でお茶を濁すことができる。政治の劣化とは片腹痛い。ついでにマスコミの劣化と題した記事をぶち上げたらどうなんだ、河北新報よ。腐れ切った報道姿勢はとっくにお見通しなんだよ。ただその声がお前たちの所まで届かないだけなんだ。政治の劣化は報道の劣化に通じ、東電のような企業や御用学者の劣化に底流で通じているに過ぎない。
 少なくともこんな日本の社会状況の中で、私たち生活者は、政治も報道も経済も学問も
劣化するだけ劣化して見ろと思っている。私たちは何も困らない。私たちはこれ以上に落ちても、その程度はたかが知れているのだ。つまり落ち幅が小さい。私たちの生き方に、あるいは私たちの生涯に、それらのものは、少なくとも経済的には、存外役に立たなかった。何も助けてくれなかった。これからもそうだろう。そういうものと意図的に仲良くしなかったからだ。端からあてに出来るはずもなかった。だが、報道も政治も経済も学問も自分たちの利害の村の住人ばかりのためではなく、かえって無縁の生活者のためにその存在意義があるのだということを忘れるべきではあるまい。そうでなければそれぞれの生活者が住む小さな地域社会で、全てのことが済んでいるか、済んでいるべき筈だからだ。だが、そのことを忘れた彼らに明日はないというべきである。今後何十年の単位で日本の経済成長は望むべくもないという悲観論が広がりつつある気がするが、そうであれば同じように政治にも報道や企業や学問世界にも、一般生活者の信頼や支持がおかれるようになることは当分あり得ないというべきだ。困るのはそうした社会のリーダー層なので、困った果てに劣化はさらに加速していき、終いに消滅していくことは自利を貪るものたちの陥る歴史的運命であり、教訓であることは明らかだ。自由と法の名目の下に、寄らば大樹の陰を決め込んだ姑息さを誰が知らなくても歴史が裁断するに決まっている。それは何故か。人間だからだよ。真実を見くびってはいけない。
 かつて真実を知っていながら、警察全体の威信をかけ、ということは警察全体で真実に蓋を被せてもみ消すことだが、実際にあったことだという。しかし、たった一人の刑事が威信をかけた警察全体と渡り合って真を貫いた。えん罪を裁判で証言した彼は、逆に警察とグルの裁判官によって偽証罪に問われ、精神異常者と診断されるまでに到った。被告もまたえん罪のままに死刑を判決され確定した。被告の無念もともかく、刑事と彼の家族とのその後の生活の不如意やさまざまな妨害等は推して知るべしである。そういうことを権力はしばしばやるものであり、そういうことが社会から無くなることは理想である。だが、自身や家族の将来や未来を不安に思いながらも、嘘は嘘であり、真実は真実であると、ホントのことを貫く人は確かに存在するのだ。もう一度言おう。嘘は嘘であり、真実は真実なのだ。それが通らない腐った組織など、他に腐敗を伝染させるばかりだし、百害あって一の利もない。そして一度腐ったものは消滅するまで綺麗になどなりっこないに決まっている。
 だから劣化は徹底的であればいいし、消滅するまでまっしぐらに進めばいいと私は思う。
 腐敗した組織としての警察全体の中で、たった一人の刑事が真を貫く。これをどう捉えたらよいのか。ひとりの人間の死刑判決について組織内人間を貫く大勢と、真実に準ずるたった一人の人間。もちろん私は後者の人間でありたい。と同時に、社会は前者に組み込まれる人間の生存の条件を、放置してはならないのだと強く思う。
 真実を貫いたひとりの刑事には思想哲学が存し、他の人々にはそれがなかったのだろうか。そうかもしれないし、そうでなかったかもしれない。自分をひとりの刑事とみなして考えれば、自分には高尚な精神も何もないが、
やはり真実は真実であり、嘘は嘘であることを覆すことはできないし、そうであれば、心の真実に殉ずるほか自分にはすべがないように思われる。それは最早、理性とも言えぬ存在の奥処からの意志決定とも言えようか。私たちは彼のような存在から勇気をいただいた方がよいと思う。そして、思想とも哲学とも呼べないが、それに匹敵する精神の所在を、かつての日本の人々の心の中に空想して私は疑わない。
 
 
「絆」考 2012/01/19
 東日本大震災後、「復興」や「復旧」の言葉とともに「絆(きずな)」という言葉がもてはやされているようである。年末か年始かの恒例となった、その年を表す漢字一文字に、それは選ばれたものだったか、あるいは流行語大賞に選出された言葉なのかもよく分からないが、ともかくテレビのCMをはじめとして巷にあふれている。
 どこからともなくわき出て、しだいにこの社会に広がり浸透をはじめ、社会全体が認めているかのように大きな顔でのさばりはじめた印象のこの言葉(「絆」)を、しかし、私はあまり好きではない。それは、にわかに脚光を浴びてのさばりだしたことに対する個人的好悪から来るものか、あるいはもともと「絆」という言葉に私が胡散臭さを感じていたせいなのかもよく分からない。ただ、こういうイメージの言葉を使えばすんなりと衆生に受け入れられるというような下心がこの言葉の背景に浮かんできて、また世間的には批判の矛先を交わす意味合いが持たせられているような気もして、なにかしらいやらしい、不気味な感じがしてしまうのである。
 辞書的に言えば、断とうにも断ち切れない
人の結びつきを言い、震災後の復旧、復興をこの強く深い「絆」でもって果たそうというスローガンではあろう。もっと単純に、家族の絆、地域の絆、その他、人間関係におけるいろんな結びつきが大事だよということを言っているだけかも知れない。これにはけちの付けようもあるまい。けちの付けようはないが、これが連呼され強調されるようになると、沿岸部の瓦礫処理も、放射能の除染も、いわゆる復興や復旧の全般が「絆」の一文字に括られ、これが問題解決の成否を握るかのように言っているのかと思われてくる。もっと言うと、ボランティア的な「善意」が問題処理、問題解決の不可欠な要素だと言っているようにも聞こえてくる。
 
 ついでだからもう少し考えを広げてみる。「絆」とは人の結びつきと言った。人の結びつきには、私と私、個と個、私と公、個と公というバリエーションがあろう。いずれにしても「絆」とは、それぞれの間に介在する関係であり間柄であるから、これに焦点を合わせたときに「私・個・公」は背景に沈む。私から見ればそれらが消えて、「曖昧」さだけが残ることになる。
 何が「曖昧」になるのか。第一に責任の所在が曖昧になる。瓦礫処理が進まないのは、行政の責任か日本国民の「絆」が脆弱なためなのかといったように曖昧になり、そのあげく、何についても「絆」しだいというようにシフト化されて行くような気がする。
 放射能汚染なども、生産者などが困窮しないようにみんなで助け合い、多少の放射線は我慢したり負担しあったりしようみたいな考えになる。これなどは逆さまな考えで、そんな形での「絆」など、百害あって一利なしであると思う。
 
 ここまできて考えることがアホらしくなってきたのでやめる。言っておきますが、多少でも日本の文学世界に浸ったことがあれば、そこでは嫌になるほど日本的「絆」が取り沙汰されていて、それに対してバラ色の空想を持ったり妄想したりなど到底できない代物だと分かります。まあ、時間がないのでとりあえずそれだけ。
 
 
終焉の時節と庶民の表現 2012/01/09
 新年が明けて、仕事が二日から六日まで続いた。別にどうということもなく仕事をこなし、適当に遊んで暮らしていたのだが、巷では消費税増税の話題と論議がさかんなようであった。それに隠れるようにしながら、文科省公表の環境測定で大量のセシウムが福島、北関東に降下したことが武田邦彦のブログを読んで知られた。武田は、昨年の八月以降の測定では順次ゼロに近い数値へと減衰して来ていたので、なにが起きたのかと驚いたとブログで述べていた。また結論からいって、住民が避難しなければならない緊急性はない数値だが、持続的であれば注意を要するといった上で、外出時にマスクをするとか家で過ごす時間を多くするとかの対処を呼びかけていた。そして、新聞、テレビなどのマスコミが、大量のセシウムの降下に何の反応も示さず無関心であることに戸惑いを感じているようであった。まあ、昨年の暮れから新年にかけての「大震災」「原発事故」の特集で、マスコミも力尽き疲れているということなのか、あるいは放射能の話題にも麻痺してきたということかもしれないと私などは思っている。
 原発事故以後、必死に状況の把握と、放射能の汚染のあった地域の生活者の対処法を提言し続けてきた武田邦彦自身も、最近のブログの内容から疲労感がにじみ出て感じられるようになってきている。しかし、社会の出来事の中には相変わらず彼を怒らせる出来事に事欠かなくて、彼自身は気を緩める暇もなく、また激しい闘志が健在であることも読む側に伝わってくる。これらについては、また別の機会にふれたいと思う。ここではもっと別のことを考えてみたい。
 
 昨夜、車中でラジオを聞いていたら素人のカラオケ大会のようなものをやっていて、演歌の色恋を題材にした曲を中年の女の人が歌うのが聞こえた。運転しながら、一種複雑な思いを私は抱いた。
 第一には、侘びしいもんだなという思いが湧いた。
 震災があり、大勢の被害者をだし、また日本中を不安に陥れた原発事故があったばかりだ。それなのに、それらを見聞きして自分もまた何とも言えない気持を味わった人が「表現」というと、そんな「手段」や「方法」や、またそんな「内容」でしか表現できないということ、それが侘びしく感じられた。この国の民衆の自己表現というと、こういうところに象徴的に表れているのかもしれないし、これが準公的な表現だとすると、ああ、という思いを禁じ得ない。
 悪戯的批判的に言えば、そんなところに自分の思いを投入すべき一年ではなかっただろうと言いたいところだ。
 東北の太平洋側の沿岸の復旧、復興は思うようにはかどらないし、放射能汚染による農畜産物、海産物の被害は広がり続けている。そんな時に、中高年がカラオケで「惚れた男にどこまでもついていきます」などと歌っているときか。
 が、いやいや、色恋の歌に自分の思いを託して歌うというのは、閉塞する時代の情況の中で自分を開放する手段として貴重なものだ。また、どんなに悲惨で過酷な情況の中であっても、ひとりの人間にとって色恋の問題の方が何よりも優先するという場合があるのかもしれない。そして色恋の歌に仮託するのはほんとは自分の情況の中の孤独感で、実際の色恋の恋情とは関係なく、ただ手近なところで表現をするというときにそれが選択されたに過ぎないという場合がありうる。それは非難されたり責められたりするべきものではない。
 一方で悲惨な現状があるときに、また一方で見かけの上での平安な状況を享受する人々がいるということは、これはこの世の実際ということであろう。その意味ではその平安をできるかぎりの精一杯さで受容しまた表現して貰いたいものだ。ただ、本人には何の落ち度もなにもないものだが、現在の演歌をはじめとした歌謡が、本当に個人の孤独な心情を託すものとして最適なものかどうかは疑問に思う。彼女の生涯を追跡すれば、それは必然の形を取るに違いないが、ある意味ではひどく日本というものの真実の骨格がそこに見え隠れしているような気が、私にはする。経済大国の外装を剥ぎ取れば、日本国の実態は変形したわびさびの姿形でしか自己を表現できないような貧相さが露出する。いや、それ以前に、心情は豊かだが精神は貧弱な日本人の、地勢、気候、風土から作られた特質が、けして過去のものではない形で顔を覗かせる。私はそう考える。今ではびっしりと手垢の付いた言葉ではあるが、個人の確立とか自我の確立とか、本当は表面をなぞっただけでその特質を越えてDNAの情報に書き加えるところまでは届かなかったに違いない。
 特に解剖学者三木茂夫が「あたま」と「こころ」の働きを区別した「あたま」の部分で、少なくとも日本の生活者のそれは戦後も変わらず貧弱なままなのでは無かろうか。情報という形で知識は確かに蓄えられた。がそれをどう活用するかにおいて、うまくできてはいないように思える。心情と知が個人の内部でアンバランスに収まっているような気がする。また、三木は日本もまた「あたま」を優先させてきて繁栄と一緒に社会的なひずみを生じさせたと言ったが、それは欲望と「あたま」が結びついてのもので、西洋知の根底にある哲学は、ついに私たちの風土には根付かなかったことをそれは意味するに過ぎないとおもえる。
 個人に蓄えられる知は、およそ経済に結びつけて考えられることが多い。生活をよりよくするという時の主に経済的な基盤の整備のことだが、これはほんとうは、経済よりも「真」に結びついていなければならない。その典型は学問だと思うが、どうもこの学問が生活に結びつけて語られることがあまりに少ない気が私にはする。それ以上に、生活と学問は遊離するもののように考えられてはいないだろうか。私はそれに多少の危惧を感じる。つづめて言えば、生活と真は無縁であると捉えられているきらいがあるように思う。
 
 個人の人格の形成を考える時に、義務教育やその上の教育機関の中でそれが果たされると考えるのは早計である。簡単に言うと、人格形成のための教育には三つの段階がある。ひとつは家族や地域の中での教育である。次に義務教育等の教育機関における教育があり、その先に実社会の中で形成されていく教育機会がある。たぶん人格というものは、ある段階で決定的に個人に刻印されるというような時期を誰でも持つのであろうが、これは完成型を持つものではなく、多少の変化、微妙な差異をくわえて変化していくものであると思われる。生涯勉強であるという言葉はそのことを意味している。
 自立した個人。自分の考えで考えて決断できる個人。真なるものを希求し、生活の中において真なるものを実現しようとする個人。理想を言えば、人間は自分がそういう人間になろうと追求することが大事なことであるし、それは正しいと私は思う。もちろん容易なことではないだろうが、そうした志向性を持つことは大事なことである。この時に最も困難な課題と考えられるものは、専門化した学問(知)の「真」の頂きが実は完結したものではないということだ。つまりそれはいったん生活の中に相対化されなければならないという課題を持つ。生活の中に実現するとはそういうことだ。人々はこれを純粋な学問の範疇にはないことだと考えるに違いない。だが私はそうは思わない。逆に生活の中に生かしてこその学問であると思う。それは、たとえば生物学者が生物学の神髄を生活の中に広めることを意味するのではない。生物学の頂きを極めたものが、あるいは生物学に学んだものが、そこに発見した「真」を生活の中にどう具体化していけるかが問題となる世界なのである。そうできたときに、それは真であったということが出来る。または学問上で獲得した「真」が本物であるかどうかを生活の中に試される、生活の中で験す、そういう問題なのだ。個別の真を訪ね歩いた後で今度は「生活の真」を訪ねて歩かねばならないのである。言い換えれば「全体の真」を訪ね歩き、しかも具現化する唯一の道がこれであるからだ。
 そのためには気の遠くなるような長い日程を要し、繰り返し繰り返しいくつもの世代を超えて真に近づく営為を必要とするだろう。その過程で何が起こるかと言えば、ごく普通の生活者の意識が変わっていくのである。ひとりでに真に近づいていくと言いかえてもよい。個々に探求された真が総合され、生活者の中に具現化して全体の真が形成されていく。
 
 庶民の表現は、相も変わらず貧弱に過ぎるのではないか。それがラジオを聞いたときの私の率直な感想であることは述べた。それは二百年、百年前からそんなには変わっていないような気がした。いや、貧弱ではない、という見方はありうる。私に、自信があるわけではない。
 何か体内から湧き起こる表現への欲求。かつて大衆芸術という言葉があったように、一部の選ばれた人々の表現から裾野が広がり、昨今は一般の素人までもが表現者になりうる時代が到来したとまで言われるようになった。確かに表現者は倍増し、表現の手段も形態もそして内容も高度化してきたと感じられていた。だが、はたして本当にそうだったのだろうか。
 この国の本当の生粋の庶民というものは、今も表現とは無縁に近いところに生活するものたちのことを言うのではないか。そしてそれはなかなか堅固に、表現の世界に取り込まれない人たちのことを言うのでは無かろうか。
 
 世界各国で、経済政策の失敗から財政危機や不況が広がり、雇用不安や増税に反対する人々のデモや暴動が相次いで見られる。日本も同じように低賃金、リストラ、過酷な労働環境などがずっと問題にされ続けたが大きなデモや暴動などには発展していない。
 日本ではさらにまた3・11の東日本大震災がおき、津波によって多くの死傷者を出すとともに、福島原発事故で放射能が飛散した。災害や事故後の対応、特に全体の指揮権を持つ政府の対応はあまりにもお粗末すぎて、素人目にも力こぶの入れどころを理解していないように見えた。
 
 今日において、私には、日本において生活する人々にはこの国の政治、経済をはじめとする諸々の組織や機関の中枢に巣喰うものたちに対して、怒号を浴びせ、デモをかけ、場合によっては暴動を起こしてもしかるべき事態だと思えている。この国の民は、そういう表現法を知らない。
 庶民は憤懣を抑えて、カラオケであまり縁もありそうにない恋歌を歌う。
 私はしがない徒労の文章を書いては、吐息のようにホームページで掲載してみせる。
 なにが違うか。なにも違わないのであろう。私が言葉を駆使する表現法に不慣れであったら、生活水準から見てやはりカラオケに興じるのがせいぜいに違いない。一切の表現を封じるつもりなら、黙ってパチンコに興じて、そしてどこまでも寡黙を貫くのかもしれない。偶然から言葉を弄ぶ趣味を得て、私の場合はただ、未来の庶民のあり得べき表現の、その中のひとつに過ぎない、その形を模索しているつもりでいるだけだ。
 
 
スローガンの裏の話11.12.28
 テレビのCMで、「自然を大切に」というメッセージやスローガン、CO² 削減、地球温暖化、エコ、などに関する視聴者向けの、啓蒙的といえる文言が繰り返し流されている。その量は半端ではなく、スポンサーであるどの企業も競うようにそれに触れているから、もはや垂れ流しで心に響かないばかりか、かえって麻痺されてしまうかのように思われてくる。
 もちろんその過程では洗脳効果のようなものも生じ、抵抗もなく、自分の頭でしっかり考えるということもなく、それが当たり前なのだというように人々に受け入れられていくということもあり得るのだろう。
 あるいは、そうした自動的に機械や装置から流される伝言が、私たちにある種脅迫めいた心理的圧迫をもたらすとも考えられる。送り手にそういう意図はないのだと思われるが、結果、そういう働きかけとして実現してしまうことはあり得ることに違いない。
 私としては、こういう問題は学者などが集まって議論した上で政策提言などを行い、それを政治家がうまく政策としてまとめ上げて実行すればいいだけのことと思う。それがうまくかみ合わないのは、学者にしろ政治家にしろ利害を背景において、自分を利する立場に立った主張や提案に終始するからだ。そして全ての問題を利害の綱引きに還元してしまい、それに同調する者たちとともに村社会を形成することに問題がすり替わってしまうからだ。そんなことを繰り返している学者も政治家も馬鹿としかいいようがない。いずれ誰からも相手にされないときが来るし、現にその道のりの途次にあるというほかない気がする。
 ところで、冒頭の問題について特に興味ある主張を述べているのは中部大の武田邦彦教授だ。彼の説によると地球温暖化の問題もエネルギーの節約や環境、生態系の問題も、企業や国家やその他の国際的組織から為される戦略に帰着して考えられるということだ。要するに、理由があってそうしたキャンペーンが全世界に広げられているということらしい。
 風力発電や太陽光発電について武田邦彦は、どちらのエネルギーも発電に利用することで無風状態や影を作ってしまうことになり、長期的には生態系に大きな変化をつくることになると述べている。なるほど、平原に太陽光発電の蓄電装置を広大に敷き詰めれば、その下に太陽光は届きにくくなる。また風車のような風力発電装置を林立させれば、風の力は羽根を回す力に変えられ吸収されてしまう。長期にわたると草も虫も細菌も生きない不毛の地になったり、地域の風の流れを変えたり堰き止めたりして、植物の生育に変化をきたすことも考えられる。推進の時期にはよいことずくめばかりが大きく取り上げられ、ふたを開けてみたら欠陥が露呈してくるということもあながち無いことではない。
 地球温暖化により南極の氷が融けるという話は、世界的組織の環境団体か学界かの発表論文を、日本の環境省かどこかの役人が故意に誤訳した疑いもあるとしながら、実際には「融けない」と書かれてあると指摘している。私はこうした主張を受け取るときの自身の感受を信ずるほか無いのだが、武田説の方が信憑性があるように思っている。説となる根拠を、武田の方がやや丁寧にそして詳細に示していると思うからだ。考えてみればマイナス何十度かの気温が数度上がっても、氷点下に違いはないので、その状態で氷が融けるはずがない。南極の端の方、周辺ではどうかという問題もあるが、たぶん今いわれるほどの温度差では変化といっても微々たるものでしかあり得ないだろう。
 こういう問題を私たち一般の生活者に、一方的にシャワーのように浴びせかけるのはやめて欲しいものだと思う。今の私たちにはこういう問題を考えるだけの準備性がない。まして一部の立場からの、真実の一面でしかないものを全てであるかのように装われて目の前に置かれると、私たち一般生活者の立場では抵抗することさえ難しい。そして、終いにはただただこういう問題からは遠ざかっていたいと、そう願うようになって実際に遠ざかってしまうことだろう。ゴミ問題も省エネや節電節約も、心ある専門家や学者がもう少し本気で本当のことを、利権などに引きずられずに勇気を持って主張して欲しい。今回の原発事故に関し、武田教授がブログでさかんに、原理原則から年「一ミリ」の被爆量を限界値とすべきことを主張し続けて、政府、マスコミの当初の主張を覆させてきたように、戦い方によっては「本当」を広げることはできるはずだ。武田さんのブログはそれを証明した。武田さんの生涯に一度あるか無いかの大事なこの時に、武田さんたちは逃げ隠れせず「世間の論調」に真っ向から対立する声を挙げ続けた。これは専門家として学者として立派なものだった。子供の被爆を防ぐ、その一点を土俵の俵として踏ん張り、世の人々を説得し、理解してもらえるようにと多忙な毎日の中でブログの文章を更新し続けていた。けして読みやすく理解しやすい文章とは言えなかったが、ごまかしも我田引水もなく、愚直なまでの真摯さを貫いた。それは福島の母親を動かし、福島以外の母親をも動かし、行政を動かし、政府を動かす原動力になった。今私にとって最も旬だと思えるのは、やはりこの武田邦彦さん以外にいないと思う。ここぞというときに声を挙げ、その声が大きく影響して世論を変え、世間に影響を与えたところからもそれは言えることのように思われる。
 
 
自然災害と人間の死11.12.21
 今年の地震と津波により多くの人が死に、また心身に大きな傷を負った。
 これを受けて漁港や集落をもつ浜に以前にも増して大きな防波堤、防潮堤を作ろうとする動きが見られる。だがこれには、生命の安全か景観か、住民の間でも見解の相違があるらしく地域ごとに紆余曲折が見られる。
 実際にどういった計画が立てられ実施されていくものか、私などの関知するところではないが、これとは別にある感慨が脳裏を掠める。今日はこれに言葉を与えておきたいと思う。
 要は私たちの生命の安全と自然との関係なのだが、防災対策にしろ避難・安全の対策にしろ、どこまで考えたらいいのだろうかということだ。もちろん、これを私が考えるとか考えたとかということではない。
 
 たくさんの人が死んで、私たちはこれはえらいことだと考える。当然、この悲惨さが二度と起こらないように、防ぐ手立てを考えようとする。そうしてこれまでにも繰り返し対策を講じてきて、しかも今回のように防ぎきれなくて大きな犠牲が出た。譬えはよくないが、ちょうど追いかけごっこに似ている。
 これから類推すると、私は自然相手の完全な防護は不可能だという気がする。というか、個別の事案によっては不可能だと言いきれないとしても、全体的且つ完全な防護ということを考えると、今度は逆に住民の生活そのものから人間らしさ、それは自然性ということも含めて、失われていくような気がする。
 つんのめった言い方をすると、自然災害との関係において私たちは死というものをもう少し容認するほかはないのではないか、という思いが私の中で頭を擡げていて、この考えを詰めておきたいと思うのだ。
 
 私たちは今回の災害の死を重く受け止めている。重く受け止めているが、いざ災害が起きると、重く受け止める気持とは裏腹に、災害の中で死は容易に私たちの眼前に置かれる。それはあっけないほど軽々と訪れると言ってもいいほどだ。死を前にして私たちは無力を知る。自然の災害とはそういうものだ。大きな自然災害を前にしたとき、私たちは死の側へと運ばれていく。生きるとはそういうことだし、自然とはそういう側面を持つものだと言える。自然は人間の予知、予測を超える部分がある。
 ならば、社会として、社会の覚悟として、大きな自然の災害が起きた時には人間は犠牲になるものだということを、ある程度認めた
地域づくり、街づくり、社会づくりを考えるべきではないのか。
 だが、こう言ってしまうと大きな反論が予想される。極論は「なんだ、他人が死んでもかまわないということか!」というお叱りだが、そうではない。人間が犠牲になることは避けたいが、そのことだけのためにガチガチの防災対策を講じたのでは大局的に見て、かえって生きることにおいて窮屈さを強いられることになるのではないか、ということなのだ。
 通学途中の子供の安全に配慮して、ロボットのような着ぐるみを着て通わせることは現実的ではないだろう。第一重くて歩けない。そのように街づくり、地域づくりにおいても過度の防御策はあまり現実的ではない。実際、毎年通学路でも子供たちを襲う自動車事故は後を絶たないが、それでも子供たちは軽装で通学し続けている。事故は、どうしても起きてしまうものだ。生きている以上、生きるか死ぬかの危険は至るところに潜んでいる。過度の防御をしているから絶対に安心で、なにも防御を考えなかったから必ず災害に遭うとか事故にあうとかということにはならない。
 私たち日本人は多くの経験からこれを「運がいい」とか「運が悪い」とかという言い方で表現してきた。そしてある程度の対策を講じたら、想定した以上の事が起きた場合に、「仕方がない」という言葉でこれもまた表現してきたのである。そこに、絶対の安心や安全などは考えようがなかったと思われる。
 
 一部、絶対人間を死なせてはならないという思想、風潮が、昨今の災害対策の改定にまつわる言辞の中に聞こえてくるが、私にはやや違和感が残る。
 かつて団地内の小学校、中学校の通学路に、立派で堅牢な防護柵が設置された。その時私は、やがてこの団地が衰退し、子供数が減り、学校が廃校になってもその防護柵だけは残り続けるのだろうなと思った。そしてその情景を想像し、人間がいない中でなお屹立する防護柵の滑稽に、何とも言えない思いを禁じ得なかった。これが人間のなす事だといえばよいのか、明らかに反自然のシンボルが、ピラミッドや万里の長城のような遺跡のように後世に残っていくことを想像した。それらの遺跡にはそれ相当の価値があるには違いないが、その労力や苦労といったものを別なものに振り向けていたら、それはまたそれで別の歴史を刻んだに違いないと思える。
 
 大地震後、たくさんの余震があり、時には三・一一の震度に近い時もあり、また日本全国に波及しているかのように各地に頻繁に地震が起き、私は日本沈没かと想像したこともあったのである。日本沈没ならば一貫の終わりである。現在行われようとしている防災対策など、児戯に等しい。けして絶対にあり得ない話ではない。それを考えると、防災、防禦のあり方に完璧はないのだろうと思える。完璧がないのだから、ほどほどのところで手を打つのが人間であろう。私自身は、いずれ人類が消滅しようが生き残ろうが、あまり地上に異物を残さない方がよいような気がしている。これはあくまでも勝手な個人の思いで、
どうということもないが、もちろんひとつの願望に過ぎない。
 私たち生命体は生き続けるべきもので、そのためには最善を尽くすべきものでもあるが、かといってそれを目的に生きるものでもあり得ない。要はバランスの問題だが、そこそこに生き延びる道を模索しながら、そこそこに適当で、そこそこに自由気ままな面をもち、そこそこに生きる楽しみも持つものでなければならない。そして生命というものの本質から考えて、いついかなる時も死は横にあって、私たちは死に出会うものであることも一応了解しておかねばならないと思える。そして、現在の思潮の流れよりはもう少し死の訪れに寛容でなければならないのではないかと思う。今回の大津波の犠牲者を軽んじているから言うのではけしてないのだが、私はたまたま死を免れただけで、もしも死者の数に入っていたとするならば、今生にどんな刹那の思いも残さなかったであろうし、誰かに思いを代弁してもらいたいとも考えはしなかっただろう。ただ一切はなるようにしかならなかったのであり、なるようにしてなったことが全てであると割り切るほかに仕方なかったに違いないと思える。
 復旧、復興を目に見える形にすることも大事だが、それ以前にもっともっとひとりひとりの被災者に目を配った施策を考えて、迅速に実行していくことが大事なことではないかと私には思われてならない。曰く、「明日より、今を大事と思いたい」。今この時においても、津波によってではないが個の生涯をさらわれ、流されそうな人はいるのであろう。
千年、二千年に一度の災害から守るための防波堤や防潮堤に大きな予算を付けることを悪く言うつもりはないが、今日的な社会の波にさらわれる、個々人の救済に関わる防波堤や防潮堤も、同様に問題にされなければならないことだろうと私には思われる。いや、私にとってはこちらこそ「運が悪い」「仕方がない」ですまされないことなのではないかと考えられる。そしてこれは人間社会の内側の問題なのだから、自然を相手にした対策よりも効果のはっきりした対策が講じられやすいと思う。こういう緊急で、対策を講じれば効果のはっきりするそれを抜きにすれば、それこそ千年を経ればどれだけの人が犠牲になることか。あるいはこれまで犠牲になってきたことかと想像すれば、やるせない気持になる。私の感受や考え方はおかしいだろうか。たぶん、こちらの側に対しては、私たちの社会は暗黙のうちに仕方のないこととしてきたのである。それは逆ではないのか、と私はここで言いたかった。
 
 
「弱さ」そして太宰 11.12.19
 今年初めての雪が朝から降り出している。寒くて、淋しく、孤独感を募らせる。ふと、太宰治を思う。また島尾敏雄を思う。私が愛した作家たちだ。
 太宰治の「弱さ」、変な言い方になるが、私はそれにずいぶん慰められてきた。自分の中にある「弱さ」が、太宰が表現した作品の中に掬い上げられ、あたかも救済されるかのように思われた。乾いた「共通」の感覚を触知できた。
 弱さから派生する悩みについても、私は太宰の表現の中に自分のそれを探し求めてきた。「弱さ」との戦い、とそれをテーマに一個の文章を書き上げることができるかもしれないと思う。弱さとの戦いにおいて、つまりそれは「苦悩」に通ずるけれども、太宰は生涯をその戦いに費やしたという感が強い。
 精神的な弱さの自覚。軟弱さ。それに流れ、翻弄され、克服しようとし、あるいはなだめ、すかし、またそれは裏を返してみると優しさに通じて正の価値があると言ってみせたりもしている。けれども生涯をかけて戦い抜きながら、強さへと転換することはできなかった。
転換できなかったけれども、自分の弱さについては考え抜いた。その考え抜き、考え通したことにより、弱さは弱さのままで強さへと一変する。太宰ほど精神的な弱者の位相から逃げずに、正面からその弱さを見つめ続けた作家は数少ない。その徹底ぶりは、強靱な精神力と言ってみせるほか無く、同時にまたその強靱さは彼の他者に対する愛から生じるもので、その愛を彼は弱さと同質に考えていたということが出来る。
 太宰にとって人類愛とか人間に対する愛とかはどうしようもないものだった。考えるものではなく、学んだものでもなく、それは存在そのものから突き上げる衝動である。じぶん自身という存在それ自体が、愛し、愛されることを望む根源であるとさえ考えていたと思える。
 
 
再び『内田樹』さんのブログを読んで                11.12.3
 内田樹さんのブログ(「平松さんの支援集会で話したこと」)を読んだ。どうも大阪市長選に絡んで、内田さんは立候補者の平松氏を応援する立場にあったらしい。その流れで橋下氏側の主張するところに異を唱えたいらしいのだが、特に「維新の会」から出された教育基本条例が時代錯誤である旨、選挙戦只中の平松市長を励ます会でおしゃべりをしたものということだ。
 その内容はあとで『橋下主義を許すな!』という本に採録された(香山リカ、山口二郎、薬師院仁志との共著、ビジネス社)ということだが、いかにも選挙応援のための「煽り」の入った本らしく、私はそうした票の獲得や主義主張を数に変換する作為が好きではない。当然、このブログの文章は講演でおしゃべりした内容とほぼ同じであろうから、その仕掛けには用心しなければならないと思いながら読んだ。
 
 大きく二つのことが心に残った。ひとつは内田さんの教育論は共感できる部分が多いと感じたことだ。もう一つは、内田さんに共感できるとは言っても、これを選挙戦術の中に置いて考えたときに、はたして橋下派としての「維新の会」が提案する「教育基本条例」の考え方を凌駕できるかというと、そこに疑問が残った。派手さと勢いだけの「教育基本条例」の内容に比して確かにそれを上回る認識の深さと高さを示してはいるが、では具体的にこれからの教育をどうするかという点では明確な策を示していないと思う。もちろんそれは承知の上での原則論だとは思うが、こと選挙戦のための主張としては弱い。私はそう思った。有権者の意識を教育問題に絡めて沈思させることはあるかもしれないが、票を動かすまでの効果はない。もっと言えば、選挙戦術の過程、戦略としては稚拙なあり方だという気がした。最もそれは内田さんのせいではない。
 
 教育現場に急激な変化は馴染まない。教育行政に政治や市場が関与してはいけない。学校教育の目的は、主体者である当の共同体を維持運営する成熟した公民を育成することにある。現在の学校教育の現状は、教育に競争原理と市場原理を持ち込んだ結果として、お互いに足を引っ張り合い、お互いの学力を下げることに懸命な子供たちを大量生産した。
 前段における内田さんの主張はざっと見てこんなところだ。
 そして内田さんはさらにこう主張する。
 
教育というのは自己利益のために受けるものじゃない。君たちは次世代の集団を支えるフルメンバーにならなければならない。私利の追求と同様に、それ以上に「公共の福利」に配慮できる公民にならなければならない。僕たちは子供たちにそう言わなければならないんです。でも、今の子供たちは、「公共の福利」なんて言葉を聞いたら、たぶん鼻で笑います。われわれは30年かけて、「公共の福利」とか「社会的フェアネス」とか「市民的な成熟」と言った言葉を鼻で笑うような子供たちを作りあげてきたんです。いい加減、もうそういうのは止めなきゃいけない。
 
 引用ついでにもう少し内田さんの言うところを聞いてもらうことにする。
 
ここまでの話で、維新の会の教育基本条例のことはもう言わなくてもおわかりと思います。あの教育基本条例を起草した人は骨の髄まで市場原理と競争原理に毒されている。教育は商品である。子供や保護者はクライアントである。最も少ない代価で最も上質な商品を提供する教育機関が淘汰に耐える。生き延びた教育機関が良い教育機関で、ダメな教育機関はマーケットから退場しなければならない。そういう考えです。通常の営利企業なら確かにそうでしょう。でも、学校は営利企業じゃない。学校は金儲けのために作られた組織じゃない。そのことがわかっていない。
(中略)
同じことを何度も言いますけど、学校教育は次世代の公民を育てるためのものです。われわれの社会が存続するためには、まっとうな公民が不可欠である。から学校教育がある。教育の受益者は子供自身じゃない。社会そのものが受益者なんです。一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、それで得をするのは社会全体なんです。社会全体がそれで救われる。僕らが助かり、子孫が助かり、共同体が助かる。だから、子供たちに向かっては「学校に通って、きちんと勉強して、市民的成熟を遂げてください」と強く、強く要請しなければならない。
子供たちが学校の教育の主人公であるのではありません。よくそういう言い方がされますけれど、それは違います。子供たちが自分のハートや直感を信じて、進むべき道を自己決定をしていくということについてはもちろん子供たちが教育の主人公です。でも、彼らがそのハートや直感を信じて、自分の潜在可能性を開花しなければならないのは、そうすると彼らに個人的に「いいこと」があるからではありません。子供たちが生きる知恵を高め、生きる力を強めてくれると、社会全体にとって「いいこと」があるからなんです。
子供たちが教育を受けるのはもともとは公的な要請です。だから教育は義務なんです。「まっとうな大人」が一定数いないと世の中はもたない。だから、教育を受けさせる。
(中略)
この維新の会の基本条例にも、「学び」とか「成熟」とか「公共の福利」といった言葉は一度も出てきません。一万五千字もある条文の中に一度も出てこない。「市民」も「公共性」も出てこない。出てくるのは「競争」とか「人材」とか「グローバル」とかいう言葉ばかりです。
前文の終わりのところには、こう書いてあります。
「大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取り残されるのは自明である。」
教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。そういう人間を企業が欲しがっているというのはほんとうでしょう。できるだけ安い労賃で、できるだけ高い収益をもたらすような「グローバル人材」が欲しいというのは間違いなくマーケットの本音です。だから、ここにあるのは基本的に「恫喝」です。能力の高いものだけが生き延び、能力のないものは罰を受ける。国際社会は現にそういうルールで競争をしている。だから、国内でも同じルールでやるぞ、と言っている。能力の高い子供には報償を、能力の低い子供には罰を。能力の高い学校には報償を、能力の低い学校には罰を。そうやって「人参と鞭」で脅せば、人間は必死になると思っている。人参で釣り、鞭で脅せば、学校の教育能力が上がり、子供たちの学力がぐいぐい高まるとたぶん本気で信じている。そんなわけないじゃないですか。それはロバを殴ってしつけるときのやり方です。子供はロバじゃない。子供は人間です。
 
 こうしてしだいに内田さんの批判は「維新の会」にとどまらず、文科省、政府、総理大臣、日本社会全体へと矛先が向けられていく。
 
日本の総理大臣のステートメントに誰も耳を貸さないのは、中身がないからです。どうやったら儲かるのか、どうやったら「バスに乗り遅れずに済むか」というようなことだけ考えている人間の話を誰がまじめに聞きますか。
日本が国際社会で「負けて」いるのは、金儲けが下手だからじゃありません。国際社会を導いてゆくという気概がないからです。「バスに乗り遅れちゃいけない」というような言葉を政治家が口走るということは、自分でバスを設計して、路線を決め、運転し、乗る人を集めるという発想が彼らにはまったくないということを暴露している。すでに他人がルールを決めたゲームの中でどうやってうまく立ち回るかだけ考えている。そんな国の人間の話を誰が聞くものですか。誰がその指南力に服しようとするものですか。
 
 こうして、最後にはまた「維新の会」や橋下知事の提案や発言にみえる歴史感覚や思想性の「古さ」というものに言及して、ブログは締めくくられている。
 
 もう一度言えば、私は「維新の会」や橋下知事などが提唱しているような「教育基本条例」や「大阪都構想」などに感心したことも共感したこともないといっていい。どちらかというと大地震の被害や原発事故の収束問題の方が関心事であるし、それからいえばどこか遠いところで遠い問題について賑わいがあると思う程度だった。もちろん橋下個人の人間的馬力のようなものは私自身には最も欠けているところだから、多少の羨望と驚嘆とがなかったわけではない。そしてさらにいえば、「破壊的な情熱」の匂いみたいなもの、それには何かしらの共鳴を覚えた。だが、ただそれだけで、彼の考えや発言や行動の意味を思考の対象にしてみようとは少しも考えたことはない。橋下よりも少しばかり、見識の上でも、人間の度量から言っても上位にあると思われる石原慎太郎都知事も、私とすれば毒にも薬にもならないただ偉そうにしているのがお似合いの人物と考える程度だから、どんなに橋下が頑張っても石原を超えるようなことにはならないというのは私にとって自明の事柄で、当然縁無き衆生のひとりに過ぎない、そう思ってきたし今も思っている。
 内田さんはしかし、もう少し切実に橋下構想とそれが巻き起こす橋下旋風に危機を感じているらしい。だが、
 
維新の会のような「古い」政治装置ごときしみ始めているんです。
申し訳ないけれど、この教育基本条例を特徴づけているのは、「時代錯誤」です。なんとも古めかしい、二〇年位前のスキームのまま教育を語っている。維新の会代表の橋下さんは自分が時代のトップランナーだと思っているでしょうから、こういうことは言われたくないでしょうけれど、教育基本条例については、彼の最大の問題点は「感覚が古過ぎた」ということです。
 
というような主張で平松市長の選挙応援をしてみても、実際の票の獲得には寄与しないだろうし、また橋下陣営に対してどんな打撃も加えることにはならなかったのではないかと思える。
 ひとつには内田さんの主張からは教育現場の活性化の道筋も、閉塞感を打破するシナリオも見えない。端的に言うと、実効性の薄い、「役に立たない」論だとみなされたに違いないと思える。また橋下陣営の主張するところの裏や欠陥についてどんなに暴いて見せたところで、それを知らないのは無知だとでも言われているようで、反対派から中間層に至るまで逆に票が逃げていくといった悪循環の形成を助長したかもしれない。いずれにしても選挙戦略上は、この場合の内田さんの教育原則論はマイナスに働いたのではないかと私は思っている。
 
 さりながら、冒頭でも述べたように、私はこの内田さんの教育論に大部分においては共感し、感心し、支持を表明したい気持が強い。選挙応援の具としてみなければ、おおむね首肯することが出来る。もちろん応援の具であっても、内田さんは自分の考える原則をねじ曲げたり、虚飾を施してはいないだろう。ひとつの教育論として、私は感心できる。またほとんど同感できるといってもよい。少し謙虚にいうと、教わるところが多いとも感じた。その上で、あえて「どうかな」と疑問に思うところを表明すれば、先の引用の中にあった次のような件についてである。
 
同じことを何度も言いますけど、学校教育は次世代の公民を育てるためのものです。われわれの社会が存続するためには、まっとうな公民が不可欠である。から学校教育がある。教育の受益者は子供自身じゃない。社会そのものが受益者なんです。一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、それで得をするのは社会全体なんです。社会全体がそれで救われる。僕らが助かり、子孫が助かり、共同体が助かる。だから、子供たちに向かっては「学校に通って、きちんと勉強して、市民的成熟を遂げてください」と強く、強く要請しなければならない。
 
 ここを読むと私は内田さんが「大人な人だな」と思う。そしてこういうことは確か養老孟司さんも言っていたんじゃないかなと考えたり、真っ当な人生を送ってきた人の真っ当な意見ではないかと考えたりした。
 ここには内田さんが「維新の会」に向けて発言したと同じに、根拠に触れることなく当然のように前提としているいくつかの概念がある。ひとつは、現在的な制度的社会についてだが、これは何の躊躇もなく存続すべきものだと内田さんは言っていると思える。もう一つは現行の学校教育制度そのものについてで、こちらについても、その必要性について何の説明もない。それはこのブログ全体の文章においてもそうである。
 今日の日本の国家体制と学校教育。内田さんの論はこの範囲の中に終始している。「社会が存続するため」に、まっとうな「公民」が不可欠で、そのために「学校教育」が企画された。学校教育が始まった当時に遡れば、確かにそうなのであろう。そしてそれは現在にも引き継がれなければならないと言われれば、それもまたそうなのであろう。
 学校教育は社会の体制と混みである。古代にあってはどちらも現行の体制とは別物であった。おそらく西欧発の近代的学校教育制度の始まりは、数百年をでない。だとすれば未来において社会体制も教育も全く変貌するものであるかもしれない。ここまで来ると私の浅はかな思考は前に進まない。
 私は真っ当な人生を送ってきたわけではない。傷だらけであったり、後ろ指を指される人生かと言えばそうともいえないのだが、心の中ではいつも「真っ当なこと」に抵抗し続けてきた。自分のそうした立ち位置から言えば、「真っ当な」内田さんの、「真っ当な」論理でもって私たちは学校生活を送り、私はしかし教育によい思い出がない。学校にも先生たちにも、私にはよい思い出がない。内田さんは、以前は高校の教員だったような気がするが、私は高校時代にひとりだけ好きというか、よいと思える先生がいて、それ以外は変に威張り散らしているばかりのふざけた連中だという印象しか持っていない。
 先の引用箇所だけを読むと、たとえばそれは北朝鮮の教育原則論であっても違和感が生じないような気がする。その文脈の流れで考えると、学校教育には洗脳の働きがあるということになる。
 私には内田さんの結論めいたその考えがよく分からない。至極真っ当な考えのようにも思うし、しかし、内田さんがあえてそこを問わずに前提としている共同体や学校教育の現状がもしもいびつなものであったとしたら、それはただ子供たちを服従させる強制にしかならないのではないかという疑問が生じる。 内田さんのように、最終的にそして分かりやすい簡単な言葉で教育の目的を言えば「大人を育てる」的なことになるが、そのことは内田さんだけでなく、たとえば養老孟司さんや大前研一さんや、最近人気の武田邦彦さんたちの以前の発言や文章でも、多少表現の違いはあるが同じ主旨のことが言われていたような気がする。そしてその時々に、私はその通りだなと半分納得してきた。それは一様に、社会に出て働いて自前で飯を食い、その働きが社会の役に立つ、そういうように子供を育てることが学校教育の本質的な大目標だということになる。とてもシンプルで、目から鱗のような発想のそれは、深刻に眉間にしわ寄せながら考えがちの私の迷いを一時的に打ち消すものだった。でもそれって、どうしても現状の学校教育制度に担わせなければならないものかと考えると、この制度が社会にとっても子供たちにとっても必要不可欠で普遍的だとは私には思えないところがある。百歩譲って内田さんの言うように国家や社会に不可欠だとしよう。しかし、視点を変えてひとりひとりの子供たちからすれば、別に現状の学校制度でなくてもかまわないという考えはあり得ると思う。さらに、「公民に育ってくれ」と言われたって子供の立場から「いやなこった」と思い込む自由は無限にあるし、拒否する自由だってあった方がよいと私は思う。
 内田さんをはじめ、上に名をあげた人たちは、どちらかというとやや軸足を「公」に置いて発言しているような気がする。私にはそれがちょうど現在の彼らが公的な場所で成功を収めている分、「公」よりの発言になっているように考えられて仕方がない。それは私の「すがめ」に過ぎないだろうか。
 
 能力主義的な改革が教育現場に課されることに私は反対だし、先生や子供たちに競争が今以上に課されることにも反対である。国歌斉唱や国旗掲揚などのちゃちな論争にも興味がない。学校がそんなものに振り回されることにも反対である。
 では、現状の制度まま、シンプルな教育目的に集約して学校教育が続いていくのがいいかというとそうともいいきれない。先生も子供たちも、個人で抱えなければならないものがあまりに多岐でしかも複雑だから、もはや教育目的のシンプル化に収まりきれるはずもない。教育研究に携わる専門家の認識をはるかに超えて閉塞感は現場に蔓延しているはずだと思う。また、逆説的に言えば、そうでなければかえっておかしいとさえいえる状況なのではないだろうか。
 それで私などはやけくそで「ぶっつぶせ」とか「なくなったほうがまし」とか言うことになってしまうが、別に無責任な独り言に過ぎないから何の影響もない。
 おそらく本当は誰も楽天的になることを免れない建設的な意見など、言いようがない状況に違いない。それをあえて言っているのは勇気がある人だと言えるのだろう。「維新の会」も内田さんも、勇気を持って自分なりの意見を述べている。それにならって現実的に教育を考えるとすれば、現状の教育制度や教育環境の中で唯一閉塞感を打ち破っていくあり方としては、先生たちひとりひとりが個人としての本音の自己に向き合い、出来るだけ本音を飾らずにあり続けることかなと思う。別の言い方をすれば、現場を自分にとって居心地のよいものとする努力を不断に行う、それだけでよいのかもしれない。また別の言い方をすれば、子供たちに勉強を教える以外には、やはり居心地のよい環境としてのクラスづくりを心がけるだけでよいのではないかということになる。その余のものはいったん全てをふるい落として、現場の時間と空間以外の場所に押し込めて考えた方がよい。そしてこれが精一杯の私の現実的で建設的な考えということになる。腐った組織から自由であれ。政治や経済の関与から自由であれ。もちろん政治や経済の関与を秘めた学者の教育観からも自由であれ。現状の教育制度や教育環境は個人の先生ではどうにもならない。それは先生たちの任ではない。それを望むなら「維新の会」のように議会に打って出るか文科省の役人や大臣になるしかない。
 
 蛇足であるが、少し前にフランス映画で「アメリ」という10年ばかり前の作品を見た。医者である父親の心配から、教員であった母親から家庭で勉強を教わり学校に行かなかった女の子の物語である。15歳になると、こういうところがよく分からないが、少女は家を出てアパートの一室を借りてアルバイト生活をはじめる。それがフランスの習俗、慣習から来るものか、親の教育の一環なのか、あるいは少女の反乱によるものかよく分からなかったが、何となく自然な過程のように、波風無くすうっとアルバイト生活に入っていく印象があった。少女は世間のいろいろな人に出会い、またいろいろな出来事にぶつかりながら成長していくのだが、そしてその過程もフランスを感じさせる面白さがあるのだが、最終的には同じように内気な青年に恋をしてハッピーに結ばれるそういう映画だった。
 私はこの映画を「ひきこもり」がテーマの映画であると解釈してみた。少女は自ら引きこもったわけではないが、画面で見る限り、日本での小学、中学時に同学年の子供たちとほとんど接触せず、家庭の中にあって世間との交通もその期間遮断された状態のようにみなされたからだ。もともと少女は妄想癖があり、内向的でそのくせいたずら好きでもあった。そして15歳までほとんど家の中で暮らしたが、ひとり暮らしもアルバイトも大過なく、いたってスムーズに行えるのだった。
 この映画では結局、少年少女時代の、特に同年との遊びやつきあいは必ずしも決定的なものにはならないと言っているように思えた。また、仮になにがしかの影響が含まれていても、それは後に修復可能なものにすぎないと告げるようにも感じとられた。そしてそういう生い立ちが、もう一つの生い立ちとの出会いを生じさせるので、たとえば学校に行かなかったり、性格が内気であったり、人との付き合いが下手だったりとかはそう大した問題にはならないんだよと教えているように思えた。
 ここからは私の妄想だが、フランスは先進国としては日本の先輩筋に当たり、個人主義とか、精神や心の問題の研究でも歴史的な積み重ねを経ている。当然子供たちの世界における不登校とか引きこもりとかの社会的問題も経験済みなのだろう。だとすれば、この映画の中にもその経験済みのことがらを、フランスがどう思想的に総括してきたか、その一端が滲んでいると見ても大きく狂わないだろうと私は思う。
 もちろんこの映画は、少なくともメインのテーマを日本的な「ひきこもり」としたものでないことは明らかなのだが、こちらの都合でそういうふうに解釈して解釈しきれない硬直したものではない。映画の終わり近く、私は好奇心を解放して、もしかしたら「ひきこもり」をテーマとしているのではと強引に捉え返して全体を振り返ってみると、この映画を抜群に面白いものだったと思うようになったのだった。特に感心できると思ったのは、「ひきこもり」的な、いってみればマイナーと受け取られやすいものを逆に前向きに、ひとつの輝く個性のように受け取って、もう一つのマイナーな個性との羨ましいほどの純真な恋物語に仕立てているあたりだ。無知な私が、思わず「これはフランスだ」と心に感じるくらいだった。噴飯ものだが、まあ笑っていただいてよい。ただ、それくらい「しゃれた作品」だと思えたのだ。
 この映画はもちろん娯楽であり、エンターテイメント作品である。思想や哲学の直接の表現ではない。それでもひとりの個人の個性を剔る剔り方、その深さ、さらにその個性の可能性を無防備といっていいほどに確信し、伸びやかに社会の中に開花させる楽天的なまでの人間賛歌は、うちに思想や哲学を秘め、同時に私たちの風土には欠けているものだという気がした。あるいは映画として考えれば、わが風土においてはもっとえげつない形でしか描写できないのでは無かろうかと思われる。
 
 いずれにしても、私がこの映画を通して本当にいいたかったことは、圧倒的な閉塞感や停滞感や喪失感からそれに混濁して破壊や自滅の道を辿るというのではなしに、ある種の捉えなおし、組み替えによる新しい発想の発見、それこそが必要なのかもしれないということなのだ。その発見の方程式が見出されたら、と私は思う。
 この拙論の文脈の流れでいえば、妄想の世界を内面にもつこと、他者との交わりの経験が少ないこと、内向的であること、もっと言うと「ひきこもる」ことでさえ少しもマイナーな経験ではないことを、しっかり発想できるまでに考え抜くことが大事だということになる。引きこもり的であったからこそ、純真な恋を手にするチャンスがあったのだと映画はいう。そういう形で乗り切ろうとしている。
 つまり、そこの道筋をしっかり把握して理解すれば、たいがいの閉塞感や停滞感などはそれこそ「平気」なものとなってしまい、閉塞や停滞という受け取り方自体が消滅するだろう。それは個人の尊厳の問題でもあり、自立の問題だということもできる。余計なお節介、優位なものの憐憫、それ自体が間違っているということだ。
 
 ここまで考えてきて、さすがに頭はぼうっとしてくるし眠気もさしてくる。考えることに飽きても来ている。たかが子供の教育問題じゃないか。
 私は子供たちが公民として成長し、老いた私たちを援助してくれなくてもかまわない。この社会が継続できても出来なくても、本音を言えばそんなことはどうでもいい。学校にいじめがある。当たり前のことである。不登校の子供がいる。別にいやなら学校に行かなくてもいいし、行きたくなれば行けばいいと言う問題だ。仮にずっと行かなくても、必ずしもその後の生活が不如意になると決定しているわけでもない。映画にあったように、周囲の地域や市民や住民やらの環境が個人に開かれていれば何の問題もないし、個人もまた自分を開いていくことが出来ればそこから先は誰もが通る道を通るだけだ。
 学力の低下。私とすれば別に下がり続けたっていい。世界の中でランク付けでずっと下にある国の中にも、国民の幸福度が圧倒的に高い国だってある。必ずしも学力との相関はないさ。
 勉強嫌い。これも全然問題ない。先生たちの精神不調。心身に不調をきたすほど思い詰める必要はないし、そうなったら仕事をやめるのがいちばんいい。極論すれば、兵役や特攻逃れは現代からすれば当たり前の考え方になると思える。教職だって是が非でもやり遂げなければならないものでもない。職業には尊卑の差なんて無いし、聖職なんて屎尿処理や死体処理に関わる仕事くらいだろう。先生は全く聖職ではありません。中層生活者としてそれらしく振る舞っていればいいので、心配いりません。また学校教育における先生たちの責任の取り得る範囲は限定的で、全てを背負おうとする必要はない。可能な範囲で分かりやすく勉強を教え、自分の人格で裏表無く子供たちに接していれば子供たちは勝手に大人や人間というものを学ぶことができるものだと思う。
 私はかつても今も、こんな社会に公民として子供を送り出すことを不服に思い続けてきた。どうしたっていやな大人になるに決まっている。そう感じたからだった。だがそれはもしかすると私のお節介である。どんな環界であってもそれがそうである以上、試練を乗り越えて前に進むほかはない。
 
 
考えたくないが、教育について考える
               11.11.17
 能力主義的教育観が再び幅をきかせはじめようとしている。内田樹はそう考えているようだ。橋下徹府知事が大阪府の教育を激しく罵倒し、それをメディアが大きく取り上げたりするなかで、私たち視聴者もまた教育再生の夢を橋下政治の徹底性にゆだねようとしていると映るのかもしれない。
 内田がそうした危惧を抱きながら、大阪発「維新の会」の教育基本条例を論じていることは間違いない。
 とりあえず十一月一日付のブログ、『内田樹研究室』の「教育基本条例再論」冒頭部分を引用してみる。
 
マスメディアと保護者のほぼ全部と、教員の相当部分は「学校教育の目的は、子供たちの労働主体としての付加価値を高め、労働市場で『高値』がつくように支援すること」だと思っている。
私はそのような教育観「そのもの」に反対している。
 
 丸呑みしなければ、この冒頭部分だけでも相当考えさせられる。大ざっぱには公教育は、その国の標準的な国民生活が出来るように子供を世話し、育てることだと思う。だが、こんな取り澄ました言い方をせずに一挙に本音を吐き出せば、ほぼ内田の表現に一致すると私は思う。
 小学校の教員時代に、自分は教員として実際のところ何をしているのだろうと自問したときに、一つの反省として、結局のところ子供たちが社会で優位に(もしもそういう事があるとすれば)たてるように願って仕事をしているのではないかと考えたことがある。教員の仕事を突き詰めて考えていくと、そういう変な結論になってしまったことを覚えている。でも、周りから見ていろいろな意味で優れていると評価されるような、そういう人間に育って欲しいと願ったことは嘘ではない。これは結果として、上下があることを肯定することになる。優位が出来れば必然的に劣位が生ずる。私はあまり頭がよくないので、長い間相当深刻に考えたような気がする。
 そうした経験や、また親としての実体験からいっても、内田が言っていることは相当程度に当てはまることだと思える。そして内田は当然のようにそうした教育観に反対なのだ。 私もまた、先に述べた自分の現実は本意ではなかった。いわば建前では優劣や高低を否定しながら、具体的な仕事の中では市場で高値が付くことを願っていた。そう、思う。そういうダブルスタンダードがいやだった。
 実際には、躊躇するだけの半端者の私などとは比較にならぬほど、熱心に付加価値を高める努力をする先生方もたくさんいた。そしてその先生の教室では、私には子供たちが輝いて見えたことが少なからずあったことも事実である。彼らはやがて、ちょうど野球のドラフト会議で指名を受ける選手のように、労働市場で買い手に望まれる、そういう商品に育っていくことだろう。
 
能力のない子供、努力をしない子供は、それにふさわしい「罰」を受けて当然だ、というのが能力主義的教育観である。
「罰」は数値的格付けに基づいて、権力、財貨、文化資本すべての社会的資源の配分において「不利を蒙る」というかたちで与えられる。
罰の峻厳さが(報償の豪奢と対比されることで)社会的フェアネスを担保する。
能力主義者はそう考える。
          (先の引用の少し後)
 
 能力主義者でない私は、そうした現状が肯定できない。が、それを凌ぐ見識を手にすることが出来ていなかった。ただ単純に、不利を蒙ることがありうる社会に、知らぬ顔をして子供を送り出すだけの職業を肯定できるかという思いだけが心にわだかまった。
 実際には能力主義というような概念を持ち出すまでもなく、教育の世界にはそれに近い実態が古くからあった。そしてそういう教育の影の力、機能の面についての研究も以前から無いこともなかった。が、内田がこの「教育基本条例再論」で述べていることは、あくまで「維新の会」の教育基本条例についてであり、その中に展開される能力主義的傾向とそれに対する危惧である。
 
維新の会の教育基本条例は「教育の能力主義的=グローバリスト的再編の政治的マニフェスト」である。
 
 ところで、橋本らの掲げる能力主義の日本的な展開は歴史的に破綻した過去を持つと内田は言っている。
 
このとき小泉が呼号した社会の能力主義的再編(「既得権益を独占する抵抗勢力を叩き潰せ」)に、劣悪な雇用環境にいる若者たちがもろ手を挙げて賛同したことを私はまだよく覚えている。
「橋下政治」に期待する層もこれと重なる。
現に階層下位に位置づけられ、資源配分で不利を味わっている人々がなぜか「もっと手触りの暖かい、きめこまかな行政」ではなく、「もっと峻厳で、非情な政治」を求めているのである。
それは「強欲で無能な老人たちが既得権益を独占している」せいで、彼ら「能力のある若者たち」の社会的上昇が妨げられているという社会理解がいまでも支配的だからである。
彼らは社会的平等や、階層の解消ではなく、「社会のより徹底的な能力主義的再編」を求めている。
それによって、「無能な老人たち」は社会下層に叩き落とされ、「有能な若者たち」が社会の上層に上昇するというかたちで社会的流動性が高まるに違いないと期待しているからである。
このイデオロギーをもっとも熱心に宣布したのは朝日新聞である。
「ロスト・ジェネレーション」論という驚くほどチープな社会理論を掲げて、2007年朝日新聞は全社的規模のキャンペーンを長期展開し、小泉=竹中の構造改革・規制緩和に続いて、社会全体のグローバリズム的再編を強いモラルサポートを与えた。
2005年の郵政選挙から6年、「ロスト・ジェネレーション」論から4年。
日本社会はどうなったのか。
たしかに能力主義的再編は進んだ。
たしかに社会的流動化は加速した。
でも、それは下層から上層への向上でも、上層から下層への転落でもなく、「一億総中流」と呼ばれたヴォリューム・ゾーンが痩せ細り、かつて中産階級を形成していた人々が次々と「貧困層」に転落するというかたちで実現したのである。
 
 おそらく派遣労働も能力主義という考え方も、上から目線の、上から目線による、上から目線のための制度であり、理論である。言い換えると企業家目線、金融機関目線で考えられたもので、本当は、いずれも労働者及び予備軍以下の層に過酷な競争を課し、結果として、安価で良質な労働力を自分たちの繁栄と延命のために享受しようとする、そういう者達にとって都合のよい考え方、制度、社会理論に過ぎない。
 結局、能力主義的な社会の再編はうまくいかなかったという過去の歴史的現実、そして歴史的な教訓を「維新の会」の教育基本条例は何一つ学ばず、間違っているかもという危惧すら抱いていない。それは何故なのか。ここからは内田の文章を引用し、その言うところに耳を傾けてもらえばよい。
 
たぶんこの条例案を起草した人は文科省や中教審の出したペーパーの類は読んだのだろうが、「社会の能力主義的再編」戦略そのものの破綻という歴史的現実についてはそれを読み解くだけのリテラシーを所有していなかったのだと私は思う。
たぶん彼(ら)はいまでも「強欲で無能な既得権益の受益者」を叩き潰して、「能力のある若者」たちが浮かび上がれるように社会的流動性を高めようという命題が有効であると信じている。
驚くべきことに、この命題はまだ有効なのである。
まだ社会の能力主義的再編が「間違った選択だった」ということを誰もカミングアウトしていないからである。
政治家は言わない。自民党の一部は小泉政治の間違いに気づいているが、野党が過去の失政を懺悔しても次の選挙に何のプラスにもならない。民主党の主流はグローバリストであり、「成長戦略なき財政再建はありえない」というような空語を弄んでいる。もちろん「成長戦略」などどこにも存在しない。でも、それらしきものならある。それはTPPのような「国際競争力のある産業セクターへの国民資源の一点集中」戦略である(それが「賭場で負けが込んだやつが残ったコマを張るときの最後の選択肢」と酷似していることは誰も指摘しないが)。
財界人も言わない。言うはずがない。
彼らは「多くの能力のある若者が社会下層に停滞してそこから脱出できない」という現実から「能力があり、賃金が安く、いくらでも替えの効く労働力」を現に享受しているからである。それがいずれ「内需の崩壊」を導くことがわかっていても、ビジネスマンたちは「今期の人件費削減」を優先する。
メディアも言わない。朝日新聞が自紙が主導した社会改革提言の失敗について陳謝するということはありえない。
そもそもメディアで発言している人々のほとんど全部は自分のことを「社会的成功者」だと思っている。
彼らは「成功者とみなされている人々は偶然の僥倖によってたまたまその地位にいるにすぎない」という解釈よりも、「際だった才能をもっている人間は選択的に成功を収める」という解釈を採用する傾向にある。
そのような自己理解からは「われわれの社会は能力主義的に構造化されており、それは端的に『よいこと』である。じゃんじゃんやればよろし」という社会理解が導出されるに決まっている。
つまり、私たちの国では、能力主義的な社会の再編が失敗し、その破局的影響があらゆる分野に拡大しているにもかかわらず、そのことを指摘する人間が「どこにもいない」という痛ましい事態が現出しているのである。
 
 おそらく、大筋のところでは内田の言うとおりでいいのだろうと思う。
 
 教育の現場、学校が、市場主義的な側面を有していたことは述べた。能力主義的な教育観は一層その側面を拡大し、労働市場で高値の付く子供の生産に加担することは内田の言うとおりだろう。そこで内田は能力主義的教育観に反対し、100人委員会のメンバーとして会合で、あるいは別種の講演会で、さらにはブログでもそれに反対する旨の主張を貫いているらしい。私は大筋で彼の主張に賛意を表明してもよいが、だからといって、これが大きな思考の潮流となって能力主義的教育観が下火になって消滅していくとは思えない。また、内田の主張ではせいぜいが「維新の会」のそれも能力主義的教育観の広がりと勢力拡大を阻止できるばかりで、おそらくは教育問題を中心的に考えるならば、今日の教育の混迷の核心に迫ることさえ出来ないのではないかと私には思われる。内田の思考の文脈的な流れから言えば、どうも過去の教育、過去の学校のほうがよかったという主張と捉えられかねないところがあって、いやそこから派生した問題があって旧来の聖域が崩れ、教育や学校についてのさまざまな考え方が立ち起こってきたのではないか。私はそう思い、過去の教育、学校に戻れという選択肢を棄却すれば、依然として他に進むべき方向性は見えない場所に私たちはたたずんでいると思える。言葉をつなげば、当然、能力主義的教育観など百害あって一利なしと私は考えている。だが、橋本が現今の府教委、府教育の現場から感じとったであろう数々の疑問にも、ある種の正当性はあるのではないかと予測できる。はっきり言えば公教育の世界は必然的に矛盾だらけで、また大いなる妥協の産物に過ぎないのだから誰でもいかようにも批判できるところがある。百の家庭には百の教育の可能性があり、その子供たちを一つに集めて一つの教育理念で収まるはずがない。また、いずれにしても教育という名の下に子供の世界に土足で踏み込んで、ああでもないこうでもないとひっくり返し、引っかき回して子供の世界をぐちゃぐちゃにしてきたのは、私たち「大人の考え」であり、「大人の事情」であり、「大人の勝手」であった。
 そして、それでいていざ今回の福島原発事故で放射線が飛び散ると、校長も一般教員も、栄養士も養護教諭も、教育委員会も役場職員も、さらに国、県、市、町の長たちも誰も自己責任で子供を考え子供を守ろうとする者は皆無だったのだ。こんな腐った組織なんか全部ぶっつぶした方がよい。私はそう思うし、そこは内田とはちがうところであろう。
 ちなみに、最近の武田邦彦のブログを読んでいたら、彼の講演会でひとりの栄養士が食材の放射線量を測定できないのだが給食は作らなければならない、どうしたらいいだろうと質問したという記事があった。この栄養士は、放射線量を気にしながらも、実際には日々給食を出して子供たちに食べさせているものだろうと想像される。たいへん日本人的な行動だと私は解するが、たぶん武田教授は言及していないが腸は煮えくり返っていたに違いない。
 給食に毒物が混入されているおそれがある。致死量かどうかも分からないし、混入も確定できない。だがそんな状況で給食を子供たちに食べさせる馬鹿がいるだろうか。武田の心中を代弁すればそんなことになるのではなかろうか。カロリー計算などは緻密にやりながら、その栄養士さんは、肝心なところではブラックボックスの給食を子供たちに提供している。当然、倫理的には、安心安全が保証できない給食を子供たちに提供できませんと突っぱねるのが栄養士としての存在意義でもあろう。だがこの栄養士さんは、教育委員会や校長が許可するものを作らないわけにはいかないと判断した。全ての物事はこんなふうに進む。反対したり拒否したら、悪くすれば職を失いかねない。そこまで行かないにしても、問題職員としてのレッテルを貼られるかもしれない。そういうこもごもが確かにあるのだろう。
 こういう現実があまりに多いことはその通りだという気がする。けれども、考えればあまりに酷くはないか。この栄養士さんがではない。こういう具体の積み重ねがだ。こういう積み重ねが、蟻塚のようにこの社会の構造を堅牢なものに固めてきた。学校も然り。
 私が思うに、この栄養士さんには栄養士としてのプライドがないように思える。それから物事を自分で考え、というのは自力でとか自問自答してと同義だが、その上で判断し、自分で決断する、そういう力が足りないように思う。言うまでもなく、そのことはこの学校にはこの栄養士と同等の校長や教頭がいることを意味している。そして、学校や自分たちの職業が、本当に子供のことを考えて、子供たちのことを基準にして成り立っているかどうかが疑われる。
 大地震の時、先生たちは何も考えずに咄嗟に子供に声をかけながら危険から一緒に逃れようとしたはずだ。津波から逃げる際も同じように無心に近い状態で、ただただ子供たちを守ろうと行動したに違いない。毒物混入も放射能物質の混入も同様に考えればよいので、子供たちを危険から遠ざける、それがごく普通の対処だと気づけばよかった。本当に自分の対処の指針とすべきは、そのようにあまりにも当然の、そしてごく単純なことだったと思う。雇い主の方ばかり向いてする仕事など、子供を犠牲にしてまで続ける意義が私には見当たらない。そうさせるのは雇い主が愚かだからなのだが、私は同じ愚かさを踏襲したいとは願わない。
 給食を停止して騒ぎになったとして、それが何だろう。職務怠慢の叱責を受けるとしてそれが何だろう。そんなことなら腐った雇い主や組織を逆リストラして、自分を腐らせない方がどれほど精神衛生的によいか。自分が学校教育をけたぐったから言うわけではないが、どんなに困難でも、自分の信念を貫く仕方はこんな社会の中でも不可能なわけではない。
 ただ、あなたが本当のところはどう生きたいのか、それを心に問うて自分の答えを答えてみる、それ以外に信念を貫く方法はない。もちろんあなたの心の中の答えを誰も知るすべはないから、どう答えようとあなたの自由は揺るがない。でも、そこであなたは自分を知るはずだ。目の前のレールは本当の自分とは無縁で、道のない道を歩んだ後ろに本当の自分の道が表れてくるものであることを、理解するはずだ。あったように見えたレールは幻として消える。それは必ずしも動かしがたい現実ではない。そしてあなたの一歩がなければ、歴史は前に進まない。
 
 子供たちにとって、敗戦後ののっぱらに机を出しただけの学校の方が、よほど今よりは心的な環境として優れていたに違いないと思う。いっそ、そこからはじめた方が近道ではないか。
 ほぼ実現不可能なことなので、気楽に、考えるところを口にして、つまり言ってみるだけを言ってみて、これを終える。
 
 
グローバリズム、ガラパゴス化ということ11.11.14
 内田樹のホームページ、ブログに面白い文章があった。一つはグローバル化とガラパゴス化について論じながら、その延長上にTPP問題を考えた文章だ。何でも、中学生に向けての講演の内容がこういうことだったということで書かれた文章だったと記憶している。
 もう一つは教育基本法だったか教育基本条例と題した文章だったか忘れたが、大阪市長選挙戦に触れながら、橋本府知事の教育発言等でうかがわれる「能力主義的」発想に批判、あるいは疑問を呈したような内容の文章だったと記憶する。
 『内田樹』についてはインターネットを介した知人のメールで教わり、時折訪問してちらりと覗き見る程度だったが、今回の文章を読んで大変親しみを覚えた。彼のプロフィールは丁寧に読んでいないので、彼については全く先入観がないと一緒だ。ただ、先のように中学生を前に講演したり、他方、出版物もかなりの量があるようでいずれ知る人ぞ知るという、名のある知識人なのであろうと思う。まあ、それは今のところどうでもよくて、彼の文章にクロスした自分の考えというものをここで少し言ってみたい気がしている。
 
 第一の点だが、最近よく聞かれるのは日本企業、特に製造業で日本は独自の進化発展を遂げ、逆に世界の中ではガラパゴスの動植物のように広がりに欠ける点が指摘されている。技術はよいのだが世界市場の中では取り残されるということらしい。つまり、グローバルな視点、戦略が欠けているということで、世界市場で立ち行かなくなる危惧が言われているわけだ。
 TPP参加の問題もこのことに関連して、グローバリズムに主体的に賛同しなければ国益が失われると考えて、関税の撤廃や自国内における諸々の規制の緩和や撤廃を視野に、貿易の完全自由化を目指す動きと私などは捉えている。で、言うまでもなくこのグローバリズムはアメリカが主導する形になっていて、現在のところこれに乗ることはアメリカの国益に有利に働くものであることは否めないと思われる。だが、これがアジア、環太平洋諸国とアメリカによって成立してしまってからでは、後手後手に回って国益を損なうよ、というのが参加に積極的な人たちの主張らしい。これに反対を表明している人々の発言の主調音は、無原則にアメリカのグローバリズムを受け入れることになったら日本社会のシステムが根底から破壊されてしまうよということらしい。
 TPPの詳細について、私たち国民はまだ知る立場にはない。情報が正確に分かりやすく伝わってきてはいないからだ。
 私の理解は、単純に、いずれ経済戦争の一つの形なのだろうと考えてきた。そして主導権は日本にはないだろうことは自明と思った。日米構造協議の延長で、今回もアメリカの要請を呑み込ませられるに違いないと考えるほかなかったからだ。要するにこういう問題で、他国の内情を把握したり分析したりして問題点をぐうの音も出ないような形で指摘したり、解決策を提案できるほど日本の国家機構、簡単に言えば政府が優れていようとは思わない。つまり、頭一つでいいから世界情勢から経済動向その他諸々まで、他国に比して優れた洞察が可能であるならばどんな協議に参加しても期待できるが、わが国の政府、そして御用学者、諮問会議のメンバーなどといったものがそのようなものであった試しはない。
 
 私などは端から、TPPに参加しても負け、参加しなくても負けということは、考えるまでもないと思っていたから、どちらでもどうぞというスタンスであった。まして現在の自分が低所得層で貧困層でもあるのだから、どっちに転がったって差し当たって、生活改善の見通しなど立たない。いわば他岸の火事でしかない。日本の農業、製造業の将来を考える余裕などはないのだ。
 
 ブログ『内田樹研究室』、十一月三日付の「ガラパゴス化の症状としてのグローバリズムについて」と題する記事をコピーしたので、以下、ここに引用してみる。
 
世界情勢の変化を見ると、日本は相対的に社会システムが最も安定している国に数えてよい。
これだけの国内的危機を抱えながら、いまだ内戦も、テロも、ゼネストも、流血のデモも、商店の略奪も、人種間抗争も、少数民族の独立運動も、辺境の離脱も、国軍のクーデタも「心配しなくていい国」は世界に例を見ない。
だからこそ、「安全な国の通貨」が買われているのである。
輸出振興のための円安がそんなにご希望なら、政府がこっそりと今あげたうちのどれかを仕掛ければいい、すぐに円は暴落するだろう。だが、それは貿易黒字とトレードオフできるような事態ではない。
繰り返し言うが、日本は世界で群を抜いて社会システムの復元力が強い国である。
この特殊日本的な「メリット」を無化して、他国と同じ「劣悪な条件で」競争させようとするのが、「グローバル化」である。私はそう理解している(同意してくれる人はほとんどいないが)。
 
 (中略)
 
日本はこれでもまだ先進国中では相対的に安定した社会システムを維持できている。
これを「他の国並み」にしようというのが「グローバル化」である。
条件をいっしょに揃えれば、自由な競争ができる、と。
それだけ聞くと話のつじつまが合っているようにも聞こえる。
だが、「ゲームへの参加」は先祖伝来の国民的な宝であるところの「社会的安定」(それを他のアジア諸国は有していないのである)を供物に差し出さなければならないほど緊急なことなのか。
内戦もテロもなく、国民皆保険制度で医療が受けられ、年金も僅かなりとはいえ支給され、街頭でホールドアップされるリスクもなく、落とした荷物が交番に届けられる国は一朝一夕でできたわけではない。
先祖たちの営々たる努力の成果である。
この社会的なセキュリティーを市民たちが自己責任、自己負担でカバーしようとしたら、どれほどの代償を支払わなければならないのか、グローバリストたちは考えたことがあるのだろうか。
彼らの特徴はこのような「見えざる資産」をゼロ査定することにある。
それはこの「例外的な安全と豊かさ」のうちで66年間うつらうつらと眠っていた日本人の「平和ぼけ」の症状そのものなのである。
重ねて言うが、私たちが「ぬるい」のは、それでも生きていけるほど豊かで安全な社会に私たちが住んできたことの「コスト」である。
一瞬の油断もできぬ、ヒリヒリした環境に身を置きたいという気持ちは私にもわからぬではない。
でも、そのハードボイルドな気分の代償に「ぬるくても生きられる」この安全と豊かさを放棄してもいい、とグローバリストたちは本気で思っているのだろうか。
そこで自分が生き残れると本気で思っているのだろうか。
私は無理だと思う。
というような感じで、延々と70分間グローバル人材育成教育の悪口を言い続けたのでした。
「グローバル人材」とか「キャリア教育」とか「教育投資」とか「自分の付加価値を高めろ」とかいう人間を信じるな。
そいつらは君たちを「英語がしゃべれて、ネットが使えて、コミュニケーション能力があって、一日15時間働ける体力があって、そして十分に規格化されているのでいくらでも換えが効く人材(つまり、最低の労働条件で雇用できる人材)」に仕立てることで、最低の人件費コストで最大の収益を上げることを求めてそう言っているわけであって、君たちの知性的・感性的成熟には何の関心もないのだ。
そういうやつらの言うことを信じるな。
 
 最後の方は、これが中学生向けの講演の内容であったことから啓蒙的な発言になったものだと思われる。
 要するに内田は、TPPや教育論にも波及して浸透・再燃しはじめている米国発のグローバリズムは危ないものであり、安易に受け入れるべきではないことを語っている。日本の社会システムは現在のアメリカ主導のグローバリズムに馴染まないばかりか、真っ向から対立するものだと言いたいらしい。そしてこれを受け入れたら震災や原発事故により一層ぐちゃぐちゃになった日本が根っこから枯れてしまい、これはもう全滅だよ、そう警告しようとしている気がする。
 内田の日本社会の独自のシステムという考察は、考えたことがないわけでもなかったが今日こうして言われると、つい感心してしまった。でも、本当のオリジナルは別の思想家の言にあった。それはまあいいとして、内田の発言のうち最後に言われていることは、グローバリズムが日本に上陸し、日本を席巻した時どういうことになるかということを分かりやすい言葉に変換したもので、私はそのイメージ化象徴化に同感できる。グローバリズムを発想し、提案し、主導してきたものたちは、究極的には自分たちの利の目的のために発想し、提案し、それを敷衍してきたものであって、それは世界や個人の発展を目的にすることとは似て非であり、根源的・本質的に自己の利、益を念頭においてのものであることを理解しておかねばならない。
 私は全体的に言って内田の考えは妥当なものだという気がした。にもかかわらず、日本の既存の社会システムを錦の御旗とし、仮に大文字のグローバリズムに反対し、抵抗し、容易に妥協しない立場を貫き通せたとしても、孤軍奮闘日本叩きをはね返す力があるか疑問に感じる。その結果、強烈なパンチで社会システムそのものも瓦解したり、大きな痛手を被らないとは誰も保証は出来ないであろう。要するにハードに変更を強いられるかソフトに変化への舵を切るか、日本社会システムは純潔ではいられない岐路に立たされているといっていいのでは無かろうか。アメリカ発のグローバリズムを論破し、世界に向けて逆提案できるだけの実力を兼ね備えたならば、そう易々と呑み込まれはしないし、はね返すことも出来るに違いない。だが状況は太平洋戦争勃発前夜と同じで、実力の差は依然として解消されていないと思う。アメリカの経済そして失敗続きの対世界軍事戦略などが、露骨に苦しみ悶えている今日においてもである。
 私は内田の言う日本社会システムの独自性に共感するが、個人的にはそれは戦後延々と瓦解の道筋を辿って今日に至ったと理解しており、状況判断としては今後もなし崩し的に瓦解していく他はないものと認識してきた。また内田は「ぬるくても生きられる」安全で豊かな社会とこの日本社会システムを称するが、少なくとも私自身にはそれほどよい目を見させてくれるばかりの社会では無かった、という感想を持つことも、ここで言っておかなければならないと思う。
 だから差し当たって傍観するしか自分には手がない。
 だが、内田のように、国家運営、企業経営といった指導層の視点から発せられた理念を疑えという声だけは、これからも小さくそして断続的であってもあげ続けたいと考えている。なぜならそこには、人間を、労働者を、収益獲得の道具とみなしながら、(我々の存在基盤の安定のために)有能な人材たれと、さらなる競争を強いるようなレトリックが行使されているからだ。私はそういう人食いを黙って許すのがいやなのだ。
 
そいつらは君たちを「英語がしゃべれて、ネットが使えて、コミュニケーション能力があって、一日15時間働ける体力があって、そして十分に規格化されているのでいくらでも換えが効く人材(つまり、最低の労働条件で雇用できる人材)」に仕立てることで、最低の人件費コストで最大の収益を上げることを求めてそう言っているわけであって、君たちの知性的・感性的成熟には何の関心もないのだ。
 
 いやいや、私もこのように言い切れたらどんなにすかっとすることかと思う。同時に、その道を拒絶して、さて、どのみちその先もまた険しい道のりが待っているのだろうと私は思う。
 
 
東日本大震災以後11.11.12
 東日本の大地震とその後の福島原発事故から約八ヶ月。避難所生活。行方不明者の捜索。瓦礫処理。地域の復旧と復興。原発事故では水素爆発、水蒸気爆発、外部被爆、内部被爆。それから放射線量の測定。各地の放射能汚染。米、野菜、肉、魚等の食料汚染。風評被害。脱原発・反原発運動。ホットスポット。除染活動。それからさまざまな形での支援活動、ボランティア活動等々、話題には事欠かなかった。
 個人的にも電気、水道、ガスの供給が数日切断され、また食料品の確保やガソリンの補給のために店頭に並ぶなど、いろんな意味で不自由を甘受しなければならなかった。さらに、それまでの勤務先が施設、設備的に地震で破壊されて、数ヶ月給料が入ってこない状態が続いたことも明日に向かっての生活に不安をかき立てた。まるで突如として第二次世界大戦の敗戦後の焼け野原に投げ出されたような、気持ち的にはそんな状態だった。
 
 ここで私はこの間、どんなふうに生きたのかをいいたいのだが、それはつまりは植物のようにあるいは動物のように、非知的に、非精神的に生きた気がすることを言ってみたいわけだ。
 はじめに、話題に事欠かなかったさまざまな種の事柄を上げてみたのであるが、私にとってそれらすべては、それこそ右から左へと流れ過ぎていくものではなかったろうか。外界のざわめきは何一つ私の中に定着していない。被災地という渦中にありながら、それでも私は私の体験を、事欠かない話題のそしてそこに表象される言葉のどれにも、すり寄せることができないできた。もっと言うと、あの長く大きな揺れは端から理解など出来ようが無く、私の中の理解という機能はあの時を境に固まったまんま今日に至っているという気がする。
 まるでそれは樹木や草木の感受のようであり、あるいは鳥や獣や虫たちのように怯えを本能に深く刻み、全身を自衛の鎧で固めて恐怖をやり過ごそうとしてきたのではないかと思える。
 私は決定的な被災から免れたが、植物のように身動きもせず、ただ天空に祈りともつかない祈りを捧げ続けるほか無かったのではないか。また動物たちのように、硬直した神経や感覚をおそるおそる解き放ち、巣に帰るか巣を放棄するかの選択に従ってその後を歩んできたに過ぎない。
 小賢しい「人間的」な思考、言葉、そして発言など、経験の非知性に向かってどんな爪痕も残せはしないといっていい。
 多くの犠牲者が出て、たくさんの老若男女が死んだ。紙一重で助かったものも、寒さに震えた。被災地から遠く離れた人々は、被災者を気遣った。だが、本当は無数の植物たちと動物たちもまた静かに命を絶っていったはずだ。植物も動物も人間以外の生き物はすべて黙って死んでいった。そして生き残った生き物たちは、同じように黙って生き延びてきた。生命の営みの本流は、非知によって構成されていると言わなければならない。
 
 生き延びた動物や植物には人間界のざわめきが信じられない。自力で栄養を摂取し、休養し、また自力でたち起きるしか方途がない。本当はいま私たちは非知を生きているのだし、非知を生きたいと望んでいるのだと考えられて仕方がない。その初源の入口に植物や動物はいて、私たちはそれらを介して明日への誘いの声を聞くことが出来るのではないか。いや、現に聞いているのではないか。
 多くのざわめきはこのことに気づきもせず、あるいは知らぬ振りをする。何ごとか人間的な言辞、愛とか優しさとか義とかを口に出来なければとうろたえる。だが本当はそうではない。誰もが根底に、そして平等に、非知の生き物の姿を生きている。そしてその非知に耐えきれないがためにざわめいているだけなのかもしれないのだ。
 
 昨日までの慣習と経験に従って生きているに過ぎないのに、相変わらず私たちは植物や動物から見れば傲慢で偉そうに闊歩していると映るに違いない。もっと謙虚に、生き物としての先輩筋に当たる我々植物、動物たちに教えを請い、尊敬のまなざし、敬意を表すべきだと言いたいかもしれない。文明といい文化といい、瓦礫の下に埋まる時がこないとも限らないそれは、植物や動物のなれの果てである地中深くの石炭や石油のように、けっして他の類に恩恵をもたらすものとはなり得ないであろう。あるいは瓦礫と違わない。
 私たちは誤解している。生き物として、人間が植物や動物より高級で高度なのだと錯覚している。だが、知能とは身体的条件の後にやってくる何かであって、いわば生命の中心から無限遠点に向かって切り離されていく過程における、ある種の、突然変異種といってもいい、疑似触手に過ぎないのではないか。そんなもので天変地異を理解できると思い込むことが、愚かしくもありおこがましいことでもあろう。すでに丸ごとの存在としては植物や動物の感受で事態を受容していながら、それと隔絶した理解にこだわり、躊躇したりあるいは自ら喜んで深い幻想の森に安住しようとしてきた。
 しかし私たち個々の人間、個人という丸ごとの存在は、幻想のみによって生きる代物ではない。内に植物と動物とを抱える存在なのだ。その内面の構造に無知である幻想をいくら弄んでも、人間の本質に届くことができないばかりか、人間の洞察、人間社会の洞察を曲解する方向に導いてしまうことになりかねない。被災者も、準被災者と考えられる私たちも、人間の世界への入り口のところで、植物や動物の世界へ引き返すか前へ進むかの選択を個々に強いられているといっていい。そしてこれを表面的に見れば、進んで言葉にしようとするか、深い沈黙に沈もうとするかで識別できよう。もちろんそのあたりでの右往左往が実態に近いところなのであり、その右往左往を尊重する視点が内外の人々にとっても大切なのだろう、とここでは言っておきたい気がする。         11.11.12